こぼれ話(二)

歴史のこぼれ話

(参考文献余滴三)

芸能と忍者


猿楽の祖を秦川勝とすることは、金春太夫を調べていて分かったが、作家藤巻一保氏によれば伊賀忍びの宗家ともいえる服部氏も秦川勝を祖としているという。これら大陸・半島経由で列島に移住してきた人々によって、我国の文明・文化は飛躍的に発展し、やがて日本という統一国家となったことを考えれば、その後の多くの技術・文化的源流は、皆秦氏のような帰化した人々に結びつくのかもしれない。
まだ統一政権が無く、各地の有力首長が分立していた五世紀半ばに、半島の加羅(伽那)国から多くの文物が列島にもたらせれている。これらの情報を齎す人々や技術を有する職能民を優遇し、定住させたのが大和地方を根拠としていた倭国の首長たちで、彼等は大王(オオキミ:現在の天皇)の下、ゆるい首長連合を組織し、大陸・半島の文化をいち早く吸収していった。
秦氏はこれら職能民の一族とみられ、伴造(とものみやつこ)として姓(かばね)を名乗るほどの有力者として迎えられたものと思われる。これら職能集団は、倭国が大和政権へと発展していく過程で、大陸の制度を取り入れた律令制度の中に早くから取り入れられ、彼等の多くが大和周辺に居住していたことは知られている。なかでも、大和国東部や隣国伊賀国、近江国の山間部を根拠とした職能集団に散楽(雑技・芸能)を得意とした人々が多くおり、それらの長として秦川勝がいたのではなかろうか。






散楽はやがて猿楽として、その芸能的要素を強くするが、雑技芸の中には軽業のような特異な体術を持つ者も多く有り、これらの体術が忍びの技と共通する事は容易に想像されよう。また、彼等は大和政権からその技術を提供するかわりに、傭調の税を免除され優遇されていたことも知られている。そして、各地の国造や豪族の要請でその技術・文化を伝えるために諸国往来の自由を保障された(道々の輩・七道往来人)。これらも情報収集力とつながり、こうした能力も忍びとして欠かせぬ要素といえる。こうして見ると、隆慶一郎が忍者は道々の輩と心情的に似通っていると云う所以であり、忍者は道々の輩から出てきたといっても過言ではないように思える。

(2005.3.19吉尾記)

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遅れてきた若者


江戸初期の「かぶき者」を表してよく使われる言葉が「遅れてきた若者」だろう。『吉原御免状』で、水野十郎左衛門を紹介するくだりにも使われている。彼等の親の代までは、「槍一筋で一国一城を掠め取ることの出来た戦国時代。その夢を絶たれ、徒らに秩序安寧を説教される今の世に、何が面白くて生きながらえようか」という心持ちが、彼等の共通意識だった。
そして隆氏は、そうした心情を証するように、『豊国大明神臨時祭礼図屏風』に描かれたかぶき者の太刀の朱鞘に書かれている「生きすぎたりや、廿三 八幡、ひけはとるまい」という言葉を紹介している。それとほとんど同じ言葉が、慶長期の「かぶき者」大鳥逸兵衛(逸平)の刀の刀心にも彫られている。


そこに彫られた言葉は「生キスギタリ二十五」だったという。大鳥逸兵衛の話は、野村玄意の佩刀「はちまき」のエピソードで『吉原御免状』にも表れるが、ここに登場する大鳥逸兵衛は、市橋如軒斎に捕えられる悪党で、「かぶき者」として紹介している訳ではない。とはいえ『一夢庵風流記』では、大鳥逸兵衛を「かぶき者」の代表の一人として挙げているのだから、この「生キスギタリ二十五」の事にも触れておいても良かったのではないかと思う。
「生きすぎたりや、廿三」、あるいは「生キスギタリ二十五」という言葉が、私には一番当時の「遅れてきた若者」の心情を顕しているように思えるし、理解もできる。この「生きすぎたり」という気持が、私の心のどこかにいつもある。もちろん「遅れてきた若者」としての心情では無いが。

(2005.2.6吉尾記)

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長谷川平蔵異聞


「鼠小僧」のところで鬼平こと長谷川平蔵の事を述べた文を紹介したが、新たに平蔵の事を記した資料が目についたのでついでに紹介。これは宝暦期から寛政期にかけての世上の変遷を記した幕府抱えの奥医師、あるいは御坊主衆とみられる喜田有順なる人物の著した『親子草』にあるもので、少々長いが抄録してみた。
「四、無宿島の事 寛政二戌年、火附盗賊改加役長谷川平蔵殿掛にて、世上に徘徊いたし候無宿、或は居候など召捕、佃島の脇に一ツの洲有レ之候を、無宿共へ被2仰付1、戌年五月、一島成就いたし候、役所并長屋等出来、無宿共には、夫々の職業被2仰付1、或は紙漉、屋根や、たどんこしらひ、大工、豆腐屋、其外種々の職々有レ之候、一向に不職の者には縄をなわせ、おの/\出精に於ては、元手に取付、実意に相成候者は、御仁恵を以、其家業の道具を被レ下、出生の所江店を為レ持、真人間となし被レ下、御丹誠の難レ有事言計なし、依て、此節世上に、菰かぶり、無宿者一人も無レ之に付、火事沙汰も薄く罷成候、其節被2仰渡1候御書付、左に記す、
越中守殿、戌三月八日御渡候御書付、
申渡
一、其方共儀、罪無レ之者に付、左州表江可レ被2差遣1の処、此度、厚御仁恵を以、加役人足に致し、揚所へ遣し候、銘々仕覚候手業申付候、旧来の志を改、実意に立帰り、職業出精致し、元手にも有付候様可レ致候、身元見届候て、年月の多少に不レ拘、地所被レ下、江戸出生の者は、其場所江店を為レ持、家業為レ致候、尤従2公儀1も職業道具被レ下候、又其始末により、相応の御手当可レ有レ之候、若又御仁恵をも不レ弁、申付に背き、職業不精候歟、或は悪事等於レ有レ之は、重き御仕置に可2申付1者也、
一、博奕致候者、悪巧等致候者有レ之段申聞候者江は、其始末により御褒美、
一、盗賊いたし候者、死罪、
一、徒党ケ間敷事致し候者、同断、
一、寄せ場逃去候者、同断、
一、於2寄場1博奕いたし候者、同断、
  但、手合掛り候者も、其始末にて、軽罪、
一、申付不2相用1、職業不精いたし候者、遠島、
  但、軽きは、左州、又は豆州之島へ可2差遣1候、



右の通被2仰渡1候、無宿共には、檜木の鼻切抔を諸向より請取、是にて、小だらひ、小桶等拵候由にて、大茶舟に、島人足共、花色地に白上りに水玉の惣模様を着せ、是は世話役の由にて、柿色に白上りに致し、水玉を惣模様に染、車壱輛持参いたし、役人二三人付添、諸向より、鼻切等、道三橋より舟に積申候を見請申候、此舟と申も、杉の赤身にて拵候茶舟にて、艫には御用と申幟を立申候、右役所と長屋と申も、深川油堀にて御代官大草太郎左衛門殿と申せし仁、御料の事有レ之、其身遠島被2仰付1、右の屋敷不レ残彼島へ引取、役所になし、追々に建継有レ之候由、職業数も多く相成候哉、諸向にて不2御用立1反古を受取、鼠半切に為レ漉、并摺繩などをこしらへ、諸役所江も相渡し、売捌候由、平蔵殿儀も、寛政四年拝領物被2仰付1掛御免、折々は見廻候様被2仰渡1候由、右平蔵殿跡役は、御徒目付より、村田鉄太郎殿被?仰付?候、此仁、寄場奉行と申候初にて、平蔵殿も、其後御先手五ケ年勤役、病死被レ致候、平蔵殿御免已後は、又々、無宿も菰かぶりも、相見え候様に被レ存候也、」

これを見ると、江戸の治安維持に腐心した事が伺える。その為に平蔵は、無職、無宿の輩を無くすべく彼等を一所に集め、自立の為の職業訓練を行うばかりか、事業資金までも与え支援してる。勿論、現代の社会とは単純に比べられないが、この平蔵の心持は、フリーターやホームレスの問題を抱えた現代にも通ずるのではないだろうか。

(2004.11.26吉尾記)

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浅井三姉妹と大野三兄弟

三姉妹の父浅井長政と三兄弟の父大野修理亮は君臣の関係にあり、修理亮の妻は三姉妹の一人茶々姫(淀君)の乳母となっている。そして、信長の小谷城攻めで長政と修理亮は共に落城の際に死んだ。その小谷城攻めで先陣を勤めたのが羽柴秀吉(豊臣秀吉)という。それから十数年後、茶々は秀吉の側室となり、大野三兄弟は秀吉の家臣となった。やがて茶々は秀吉の嫡子秀頼を生み、すでに老齢の域にあった秀吉は、幼い我が子を残し他界。秀吉の遺児の庇護者となった茶々と大野三兄弟は、その遺児とともに大坂城で死んだ。
どうやら長政と修理亮は、子の代まで秀吉に祟られたようだ。なぜなら、茶々(淀君)が秀頼を生んでいなければ、この四人は全く違った人生を歩んでいたことが充分に予想でき、すでに老年の秀吉が執念で淀君に種を植えつけたようにも思える。さらに言えば、大野修理亮の妻(大蔵卿局)こそ因縁の元だったのかもしれない。淀君と大野三兄弟は乳姉兄弟で、同じ三姉妹でも二女お初と三女お江与は乳母が違うと思われるからだ。
とまあこんな因縁話はさておき、『人物・人名事典』に書き込もうと、古雑誌で見つけた大蔵卿局の情報を整理、確認のためサイトで調べていたら、幾つかのサイトの情報に、大蔵卿局は大野道犬の妻と記載されていた。これで私の頭は混乱。『捨て童子松平忠輝』には道犬は大野三兄弟の末っ子とある。しかも先の雑誌には「大野修理亮の死後、二人の子供を連れて故郷に帰る云々」とあり、「三兄弟」という師の記述と、「二人の子供」という記述の違いが気になった。
既知の知識として大野治長、治房が兄弟であり、共に母は大蔵卿局という事だけは知っていたので、道犬は果して何者なのかという疑問が生じた。そこで今度は道犬を検索。すると「大野城は、戦国時代の天正17年(1589)、豊臣秀吉が、家臣の大野道犬(どうけん)と淀君の乳母であった妻、大蔵局(おおくらのつぼね)にこの地を一万石与え、道犬により建てられた居城といわれています。」と京都府のHPの「府民だより」にあった。私の頭はますます混乱する。
大野道犬が秀吉の家臣という事は分るが、その妻はやはり大蔵卿局(大蔵局とあるが淀君の乳母とあるので大蔵卿局のことだろう)となっている。
そもそも書き込もうとした大蔵卿局の情報は、大野治長兄弟の母である彼女は浅井長政の家臣大野修理亮の妻で、小谷城陥落で夫修理亮が亡くなったため、二人の子供を連れて故郷の丹波大野村に帰ったというもの。京都府のHPに紹介された「大野城」は丹波大宮町にある。すると、故郷の大野村に帰った大蔵卿局は秀吉の家臣大野道犬と再婚したのか?こうした疑問に答えてくれたサイトがあった。それは「茶々御寮」というサイトで、淀君やそれを取り巻く女房衆をかなり細かく紹介していた。淀君(茶々)ファンにとっては必見のサイトといえる。
混乱の原因は、大野修理亮の名が道犬ということにあった。道犬という名は親子二代で使われている。修理亮も親子二代で使っているが、この場合、父を大野修理亮と通称する事が多く、子は大野治長と書かれることが多い。しかも修理亮は官名であるため同名になる場合が多く、諱を調べて区別しようとする。しかし、三男治胤に限って道犬と書かれる。大野道犬と書かれると、父親の名も道犬という事を知らなければ、父子を同一人と混乱する。先の京都府のHPの記述は明らかに間違いであると思われるが、これも父子の混同からきているようだ。

(吉尾記)

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好色一代男

著者:井原西鶴

 西鶴の『好色一代男』は、以前現代語訳で読んだだけで、主人公世之介がどうしたこうしたという印象しか頭に無く、どんな物語だったのかも憶えていない。今回、『かくれさと苦界行』に書かれている部分を確認しようと、以前読んだ『日本の古典17井原西鶴』(河出書房新社/現代語訳)を引っ張り出してみた。
 改めて目を通すと、隆慶わーるどに関連する語彙が結構ちりばめられていて、それらの語彙がやたら目に飛び込んでくる。以前はストーリーを追おうとして、どうにも主人公世之介に感情移入できず、面白くもなんともない物語だと思ったものだったが、今回は江戸前期の風俗資料として読んだ。
 そんな読み方をすると、これが結構面白い。世之介の行く先々の色里、遊女のことはもちろん、それ以外の風俗、世相も存分に散りばめられているのだ。何しろ出だしに名古屋山佐の名があり、そこから前田慶次郎を連想した。この名古屋山佐は別名名古屋山三郎とも云い、当時、関白秀次の小姓不破万作とともに美少年の双璧と称されていた。出雲のお国に早歌を授けたとも云われている。(池田弥三郎注釈)この名から慶次郎を連想したのは、海音寺潮五郎氏の『戦国風流武士 前田慶次郎』からの連想だ。
 また同じ巻之一に、
 元来「丹前風」というのは、江戸の松平丹後守の屋敷前に、まだ湯女風呂の盛っていたころ、情合もこまやかだし、髪形から起居振舞まで、ひときわ群をぬいていた勝山というのが、袖口の広い衣装でつまを高くとるとか、そのほか何かにつけて、いっぷう変ったことをしてみせ、これが流行のもととなって、一般にもてはやされたのだそうだ。この女は、後に吉原の太夫にまで出世して、高貴なお方の枕席にもはべり、前代未聞とうたわれたが、ひと口に湯女といっても、いちじはそれほど豪勢なのがいたと聞くのに。
と『吉原御免状』でお馴染みの勝山の名が有る。巻之二には、
 男達の吉岡憲房を元祖として、そのころにはやたらと捕手、居合というような武芸がはやった。それにつれて風俗まで、頭髪は糸鬢にそりさげ、緒に縒った髻の二巻懸、口髭を残し、袖下九寸にたりない着付、染分の組帯に鮫革束の長脇差、猫も杓子も、これに染まることあきれかえるなかり、とても王城の地に住む人とは思えないようなかわり方だった。おまけに、北野天満宮へ行けば、道真公と切っても切れぬ梅の花を打ち散らすし、大谷の本願寺では御定紋の藤をへし折るし、鳥辺山の火葬場から立ちのぼる煙も五服つぎの長煙管とばかり、後生気などはみじんもなく、ひき従える小者にしても、持ち物はお定まりの瓢箪と毛巾着いやもう見られたざまではなかった。
 今や世之介もそういった伊達衆仲間で、ある日、東山の山つづきなる岡崎に、妙寿という比丘尼が草庵を結んでいると聞き、同勢でくり出したものだ。
と京の傾奇者らの風態、振舞いなどが書かれている。『一夢庵風流記』で慶次郎が京の町や四条河原で出合った傾奇者たちもこのような格好をしていたのだろうと想像できた。巻之三には、
 明けて二十六という男盛りの春、生まれて初めての、羽前酒田にたどり着いた。この浜の景色、おりから満開の桜が波の面に映って、まこと西行法師の「象潟の桜は波にうづもれて、花のうへ漕ぐ蜑の釣舟」とはよく詠んだものと、うっとりながめたたずんでいたある寺の門前に、声をそろえて御詠歌をうたいながら、勧進比丘尼のひと群が通りかかった。(おやおや…?)と近寄って見るに、褐染の木綿着に黒綸子の半幅帯を前結びにして、頭は、いずこも同じで、くるると丸めたままのや、それへ頭巾をかぶせたのやら。
 この勧進比丘尼なるもの、もともと仏門修行の旅路であることぐらいはわかりきった話で、そんなことのできよう身ではないのだけれど、いつの時分からか、仲間うちの頭株で、「御寮」と呼ばれるのからして風儀をみだし始め、今ではもう売女同然、相手選ばず、百文で二人とは、あきれてものが言えない、その群れのなかに、ふと世之介の目にとまった者があった。
(はてな、たしかにあいつは、江戸にいたころ、神田の滅多町でこっそり手に入れた清林という尼のつれていた米噛比丘尼にちがいない。あの時はまだほんの子どもで、菅笠が歩いてるようだったけど、いつのまにかちゃんともう一人前になってやがる。早いもんだ)。
 で、その比丘尼を呼び止め、立ち話で古い以前を語りあった。
と、この頃の比丘尼の姿が描かれている。昔読んだ時には、まったく気にも止めなかった記述だが、こうして隆慶作品を読んだ後になると、このような記述がポンポン眼に飛び込んで来た。これも正に隆慶効果ということかもしれない。もっとも比丘尼に関しては、当サイトの「ぱ」さまのご教授に負う所が多い。

 さて最後になったが、『かくれさと苦界行』で記されている部分は、
 京の太夫に江戸の張をもたせて、大阪の揚屋で遊んだなら、おそらくこれがけっこうのどんづまりというものだろう。
と、巻之六「匂いはかずけ物」という項の書き出しにあった。
(本文中の『好色一代男』訳文は『日本の古典17井原西鶴』[河出書房新社刊]所収、里見淳訳を底本としました。)(吉尾記)

向坂甚内

隆慶ワールドの主要人物庄司甚内に絡んで作品中にしばしば登場する向(高、勾)坂甚内は、江戸初期の盗賊として名を残している。そのためか、彼にまつわるエピソードも様々に伝えられている。そのほとんどは、後世になって面白おかしく脚色、あるいは創作されたものと思われるが、そんな話の一つが『皿屋敷辧疑録』という書にもあるという。御存知怪談「番町皿屋敷」について書かれた書物だと思われるが、浅学なるゆへ小生は始めて知った書名で確かなことは分らない。
明治期の随筆家中根香亭の『塵塚』に、その『皿屋敷辧疑録』の話として、
「三代将軍の時、五番町にて小姓組五人の宅地二千五百坪を上地せしめたるに、その番頭を吉田大膳亮といひしかば、人是を吉田屋敷きとも、又空地(さらち)なるゆゑ、さら屋敷きともいひたり。頓て此の地をもて、曩に豊臣秀頼の室となられ、大坂落城後、再本多家へ嫁せられたる天樹院(千姫)へ進らせられ、天樹院薨去の後、盗賊改役青山主膳に賜りたり。然るに此の頃青山辺に、向坂甚内といへる無頼の浪人あり。種々の悪事を行ひたるをもて、其の身は厳刑に処せられ、娘の菊といへるは奴婢に下されたるを、青山方にて召し仕ひ居たり。承応二年正月菊誤りて主膳が珍蔵せる南京の絵皿十枚の中一枚を損ぜしに、主膳性来残忍のものなりしかば、之を憤り其の罪の贖ひなりとて、菊が手の指一本を切り落したり。菊は生まれもつかざる支離となりたるを歎き、をりふし主膳が妻の懐胎し居るを以て、怨みを其の子に報いんと罵りしかば、其の月十五日、主膳夫婦、菊を縛めて一間の中に押し込め置きしに、菊免らざるを計りしか、其の夜後園の井の中に投じて死したり。是より毎夜妖怪ありて世の噂に上りし中、主膳平生の悪行露顕し、禄高を召し上げられ、遂に狂ひ死にしてけり。其の後も猶右の屋敷き跡に怪異絶えざりしが、伝通院の了誉上人、菊の怨霊を解脱得道せしましより、後に全く其の跡を絶ちたり。」
と『皿屋敷辧疑録』の話を紹介し、さらに続けて、
「右は其の大略なるが、本書は察する所、浄土宗僧侶の、己わが宗旨の功徳を知らせんが為めに作り設けたるものなるべし。天樹院は寛文六年(1666)二月六日薨じ、承応二年(1653)は是より十四年前なるを知らざるなど、其の破綻の最大いなるものなり。辧疑の文字に眩惑せられて俄に信ずることなかれ。」と香亭は書いている。ともあれ向坂甚内の娘が「番町皿屋敷」の主人公だったとする話もあったようだ。

しかし、この「番町皿屋敷」の話というのは、以前掲示板(過去ログ4)にも書き込んだように、『久夢日記』には、水野十郎左の神祇組旗本奴大久保彦六とその下女お藤の話として書かれていた。さらに幾つかのモデルもあるようなので、調べてみるのも面白い。
また、『燕石十種』第二巻所収の「伝衛事記そらをぼえ」に「吉原は、慶長年中、庄司甚右衛門官府へ願済に開基せしが、此頃、高名の甚内三人有りし也、庄司甚内(後甚右衛門と云)吉原を始る、富沢甚内、富沢町にて、古手市、往来にて立ながらの売買を、願済にて始る、(富沢氏、代々富沢町の名主なりし也)、横須賀甚内、剣術の名人にて浪人の悪党也、(近年うさぎや出板実事ばなしに、横須賀甚内は番丁のさら屋敷にて、井戸の中へ斬捨られしお菊の父なりといふ)右を其ころ三甚内と申せしとぞ」とあり、ここに書かれた横須賀甚内とは前述の文と合わせると向坂甚内のことかと考えられるが、後考を要する。
ちなみに、富沢甚内とは鳶沢甚内の事で、上の記述から『影武者徳川家康』に現れる江戸のスリの頭目鳶沢某と同一人物と思われる。鳶沢某は、捕えられた際、盗賊の取締りと引替に罪を免除され、同時に家屋敷と古着売買の特権を得ている。(吉尾記)

[追記]
『皿屋敷辧疑録』に表れる向坂甚内とは何者か。天樹院薨去(寛文三年)の後とあるから、時代は寛文年間の後半の話という事になる。よしんば、菊が絵皿を割ったとされる承応二年(1653)頃の話としても、三甚内でお馴染みの盗賊勾坂甚内は、これより四十年も前、慶長十八年(1613)に刑せられているから、別人である事は間違い無い。やはりこの『皿屋敷辧疑録』なる書は、中根香亭が書いているように、どこかの坊主が仏の功徳を宣伝するために書いた説話本なのだろう。(2006.8.13吉尾記)

向坂甚内その二

『大尽舞考証』の過誤を記した「大尽舞考余」に、
「[西田屋又左衛門]天明の頃、家絶たりとなん、此又左衛門が一子何がし甲冑職となり、予が家などにも雇はれ来りし者にて、其母は又左衛門の下女にて、後愛妾となり、一子を産り、寛政年中、松平伊豆守殿へ訴訟す、御詮議の上、家名亦々再興して、西田屋又左衛門といふ、祖母ひとり有て、孝心深かりしとぞ、其何某を相続させしかば、急に食物を食ひ、美食して終に早世す、是にて西田屋の名跡失たり、近代、吉原名主某に聞しが、今その家なきよし語りぬ、元祖庄司甚内は、盗賊下総の向坂村甚内と同じ名故、甚右衛門と改む、吉原日記(医師某撰)上様御意には、其甚右衛門といふ者は、かの庄司甚内といひし君がてゝか、と御尋のとき、其甚内が義にて候、と仰上らるゝよし云々、或書に、勘右衛門とあるはいかゞ」とある。
向(高)坂甚内は師の作品では武田家の武将向坂弾正の息となっているが、ここでは下総の向坂村甚内となっていて、弾正の息とはなっていない。向坂甚内とは何者か。これまで向坂甚内について書かれた資料を幾つか見てきたが、「無頼の浪人」とあるものの、武田家武将向坂弾正の子としたものは、今の所未見であることに気づいた。はたして弾正の息とする資料は何か。それを見つける楽しみがまた増えた。

(吉尾記)

小野のお通

この「小野のお通」は、隆慶作品には登場しないが、千姫の付人となって大坂城に入り高台院(北政所)や淀君にも好かれ、大坂落城後は、秀忠女和子の付人として後水尾院の後宮にも仕えた才色兼備の女性として、また浄瑠璃の名の産みの親として知られている。
師の作品の参考資料を渉猟していると、頻繁に現れる名で、その人柄や美しさを讃えられている女性を師が放っておく訳はないのだが、不思議に「お通」の名が出て来なかった。あんなに女性好きの師匠にしては珍しいという思いで、この「お通」の名が資料に現れると気になる。そんな一編を少々長くなるが以下に紹介。
「一、小野のおつうと云女は、常陸水戸の城主武田常陸介信吉卿の家臣小野和泉と云ふ者の女なり、其始、関白秀次公の御家人塩川志摩と云者の妻と成しが、死別の後、天樹院様大坂城へ御入輿の時、御介添に成て御供す、尤秀才にして、万に器用なり、然るを、陽光院の女御、新上門院御入内の時、御貰ひにあづかり、参て供奉す、其後御暇取しかば、直に東福門院様へ招かれ、相勤む、後年江戸へ召され、百人扶持二百両の御合力を賜る、かかりし女なれば、大御所様の御前へも、以前より度々罷出しより、尊影を書写したきよし申上、調たり、渠が男子、父と共に播州網干に有しが、池田輝政姫路在城の時、召出され、禄を賜ふ、塩川喜太郎と云へり、外に女子一人あり、おつう内裏に仕へし時、相伴て、是をも在仕せしむ、将軍家上洛の時、真田内記供奉し、逗留の内、此女子と密に通じ、夫より御暇取、京都に置れたり、男子一人産たり、おつう、江戸にては春日の局と懇にして、執成し多きを以て、稲葉美濃守の吹挙にて、真田内記の胤の男子、公儀へ召出されて、三千石賜はり、真田勘解由と名乗たり、此勘解由の男子、後年本家の家督を相続す、
新上東門院入内の節、勤仕は非なり、新上東門院は、後陽成帝の国母なり、此帝即位、天正十四丙戌七月より、秀頼簾中千姫入輿、慶長八年癸卯七月廿八日なれど、十八年目なり、又奥に著はす所、新上東門院侍女なりしが、崩御以後、秀頼簾中入輿、介添と見えたり、此文段にては、後光明院の女御ならでは、年代不都合か、
偖、内記の妾たる女には、後年、江戸へ参らるゝに付、春日の局へ頼み入、尾州御簾中御琴の師と成る、尤琴の上手なり、後、尾州にて尼と成り、浄閑と号す、おつう、小野の姓を残置度に付、才芸ある人にと志すより、神子上典膳、是を幸に所望故、稲垣三左衛門と号す、おつう学才あるを以て、世に玩ぶ琴の組、十二組の歌の文句を付る、当時の琴の事にて、十三絃也、唐土にて、上古、神農のはじめて桐の木を削り、糸を縄にして絃とせり、と古書にも記せり、是に黄帝の五音を調べて、二十五絃の法立たり、我朝にては、神代、天の香弓を立たらべ、絃を鳴らして、木々の合を打て、安楽の声を備ふ、と神書に見えたり、其二十五絃の半なる十三絃の半琴を、箏といふ、宇多天皇の時、石川色子と云ふ命婦、筑紫の彦山にて唐人に逢、琴の弾やうを習ひ得て、天皇に伝へ奉る、是今の十三絃の琴なり、故に、之を筑紫琴と云て、其曲に用る所、上古とは違ひ、手曲甚精といへども、淫声に便り有て、後年、其箏にのせて諷ふ章歌も、次第に淫声に溺れたり、百年程以前、琴の上手の公家衆、西国へ貶せられし所にて、半琴を求出し、是にて覚居給ふ本伝の琴の譜を弾じ慰めるを、善導寺に住せる法水といへる僧、弟子となり、学べり、法水、後江戸に来り、諸家に往来して箏を弾ず、斯して還俗すと云、夫より、おつうが作りし十二組、表裏と分て、蕗、梅枝、心尽、天下太平、薄雪に朝雪、上の七組、薄衣、桐壺の裏二組となし、此後、四季の曲、扇子の曲、雲井の曲の四組、是を極楽として習はす、夫より、八橋検校此箏の半琴に手を引出し、弥世に玩ぶ、此瞽者、始は寺尾検校城可が下にて、前の名を城談と云、後、山住勾当に任ぜしが、上永検校が下に属して、後、八橋検校と名のりし也、此盲人、半琴に達せし故、多くの琴の秘曲を述作したり、おつう又、東福門院の仰を蒙り、十二段の文句を述作す、是、浄瑠璃御前といふ女のことよりあみ立しゆゑ、之を浄瑠璃と呼たる初なり、戸田左門殿の抱座頭沢住検校、京にて章節を付たり、小関勾当是を伝へて、半琴に合す、近江掾浄雲是を嗜て、浄瑠璃太夫と成る、彼れ始は鍛冶の弟子仁蔵と申者なり、是を好て名人と成る、筑紫と云は其子なり、肥前と申は其弟子なり」(『望海毎談』)

永禄十一(1568)年生〜寛永八(1631)年没。

小野政秀の娘。お通の神通力で、後水尾院の難病が治ったという話も伝わるが、院の寵愛がお通にあつまり、幕府と朝廷の板ばさみとなったお通は、家郷へ身を退き、波乱に富んだ華麗な一生を閉じたと言われている。(『歴史読本』1980年臨時増刊号「物語女たちの戦国史」)

(吉尾記)

大坂新町の成立ち

以前、掲示板にて「りん」さまよりご教示を受けた小野武雄氏の著作『吉原と島原』に、白拍子の起源として「和歌の前」の名が「和歌の浦」となっていた事を掲示板に書いたが、その『吉原と島原』にある大坂新町の成立ちについての記述を受け、りんさま同様、いささか混乱をきたした。そこで、まず、手許にある二三の資料のそれぞれの記述を年代順に並べてみよう。
天正十三年(1585) 遊廓が官許される。(原島) 新地が大坂島の内に出来る。(原島)
慶長年間(1596〜1614) 木村又次郎の瓢箪町が出来る。(原島) 道頓湟辺に瓢箪町と云ふあり(守貞)
元和元年(1615) 瓢箪町が遊女町となる。(小野)
元和年間(1615〜1623) 新地開発(守貞)
元和三年(1617) 新しい町割り。新町が出来る。(原島) 新町遊廓のはじまりは江戸吉原の開基と同じ年。(小野) この年、庄司甚右衛門吉原を開く。
元和、寛永頃 阿波座堀から傾城屋が移り新京橋町、新堀町が出来る。(小野)
寛永年間(1624〜1643) 寛永年中に今の土地を下しおかれ(みをつくし)
寛永四年(1627) 上博労町の傾城屋佐渡島勘右衛門が新しい区画に移転。佐渡島町が出来る。(隆)
寛永十二、三年頃 佐渡島勘右衛門が上博労町の傾城屋を移し佐渡島町を作る。(小野)
正保・慶安年間(1644〜1651) 吉原町や九軒町も出来た。(原島)

さらに町の出来た順番も、隆氏は「佐渡島町を皮切りに、瓢箪町、越後町、四郎兵衛町(後の新京橋町)、新堀からの金右衛門町(後の新堀町)、天満葭原からの吉原町(後の裏新町)」としているが、小野氏が引用した原島氏は、「瓢箪町が、続いて新京橋町、新堀町、佐渡島町が出来、正保、慶安年間には吉原町や九軒町も出来た」としている。
これを見ると、年代も順番もバラバラで、混乱するが、他の記述と推論を加え整理すると少し見えてくる。
まず、天正十三年に、官許の遊女町として島の内の新地(道頓湟辺)が豊臣政権から割り与えられる。この地に伏見から木村又次郎が移って瓢箪町を形成。これが慶長年間。やがて、その周囲(上博労町など)に非官許の遊女屋が軒を連ねた。その間には、秀吉が没し、関ヶ原を経て政権が徳川家康の手に移るも、大坂の町はまだ大阪城に秀頼がいたため江戸幕府の影響はそれほど反映されなかった。しかし、夏の陣で豊臣家が滅びると、大坂は幕府直轄地となり幕府の意向が及んでくる。同時に平和が訪れた事から人口も増え、新たな土地造成が積極的に行われ(元和年間)、町割なども再検討されたと思われる。この時に瓢箪町を中心とする島の内界隈の遊女屋や他の傾城町の統合も検討され、新しく開発された地(新町)に遊女屋の移転が命ぜられた。移転はおそらく一挙になされたのではなく、まず区画割が行われ、そこへ順次各遊女町が移転していったのだろう。これが寛永年間から正保・慶安年間にかけて行われた。この場合、町を構えた順番は、あまり意味が無いように思われる。それぞれの町名主が予め話し合って区画を決め、準備が整い次第移転を行ったのではないかと思うからだ。この時の名主は五曲輪という例から、五人だったのだろう。ここで問題となるのが吉原町で、この吉原町は六番目の町だが五曲輪の一つだったのか、あるいはその後に加わった町なのか。隆氏が書いている越後町は、佐渡島勘右衛門の実弟越後屋太兵衛が開いたのだが、後に火事で焼失した時に佐渡島町に吸収されて越後町は無くなっている。このことから、佐渡島と越後屋を一つと数えれば、吉原町までが五曲輪となる。手持ちの僅かな資料だけでは、判断できず、後考を要するようだ。(吉尾記)

清少納言の毛抜き

隆氏は『吉原御免状』(223p)の中で、遊女の身だしなみの一つとして陰毛の手入れを説明している。それは中国から我国に伝えられた房中術として、上流階級の女性達の間に広まった媚術の一つで、上臈や遊女たちは日頃から陰毛の手入れを行っていたという。そして、清少納言が「ありがたきもの」として『枕草子』の中で「ものよくぬくるしろがねのけぬき」を挙げていることを引用し、「けぬき」がそうした目的で使われた事は否定出来ないと書いている。
こうした方面に全く無智であり、また女性との付き合いにおいても月とスッポンほどの差がある私は、師の説に納得した。というより、その方面の知識があまりない私には、「へえそうなんだ」というだけであった。先の清少納言の一文を読んで、何で「毛抜き」がありがたきものなのか理解できなかったのだから、不粋といえば不粋。野暮といえば野暮な男ということになる。しかし、宝暦期の幕臣岡村良通も私以上に不粋な人物だったようだ。彼の著した『寓意草』に、
「まくらのそうしに、心よきもの、しろがねのものよくぬくるけぬき。清少納言のいかなるひげぬきけん、おぼつかなし。ゆきなりのはなげやぬくらんとかたはらいたし。」と冗談っぽく書いているが、その用途を計りかねている。いかにも堅物の幕臣らしい謹厳実直な感想で、色道や媚術とは結び付けられていない。(吉尾記)

常山紀談

著者:湯浅常山 宝永五年(1708)三月十二日生〜天明元年(1781)一月九日没
常山の著作には『雨夜のともし火』『上寺古鎧記』『江田節婦墓表』『岡山故少将芳烈公遺事』『閑散余録書入』『紀石井氏兄弟復讐事』『吉備烈公遺事』『元禎筆記』『君則』『熊沢先生行状』『国朝詩鈔』『左伝解』『参考読史余論』『秋雨夜話編』『常山楼筆余』『常山紀談』『常山先生聞書』『常山先生詩集』『常山夜譚』『常山余談』『常山楼集』『諸君詩集編』『諸将褒貶録』『新太郎様御世被仰出候覚』『大学或門』『談兵雑録』『東行筆記』『湯土問答』『備藩典刑』『文会雑記』『焚余稿』『本朝孝子図絵』『湯浅元禎先生随筆』『湯浅常山自筆書状』『幼学指掌』『大坂軍記』『芳烈公御軍令』などがある。
『影武者徳川家康』(新潮文庫版下巻p382)に『武辺咄聞書』からの引用として、
「米五升、干鯛一枚、ならびに糒樽、其外、味噌、鰹節、香ノ物、右の通相応にもたせ参るべし。此外は少も持参つかまつる間敷」
という記述があるが、同様の記述が『常山紀談』にもある。以下にその部分を紹介。
「○大坂御陣中御ン支度の事 大坂冬の軍に諸軍に兵糧を給ふ。凡三十萬人、一日に千五百石なり。遠国の兵には一倍を増賜りけり。夏の陣に東照宮松下浄慶を召され、大坂のまかなひ支度膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹ぶし、香物、少しばかり用意せよ。其の余に及ばず、とぞ仰られける。されば厨の入用、只長持一棹にて事足ぬといへり。」(岩波文庫版『常山紀談』下巻p45)
また、『一夢庵風流記』(新潮文庫版p491)に『常山紀談』からの引用として、
「先人謙信は軍を用ふるに、未だかって人の危きに乗らず。われまた敢て違はず。かつ公は年若くしてわが敵に非ず。われ公の父内府の返るを待って決戦なさんのみ。食料もし欠くることあらばまさに給すべし。すなはち兵を収めて会津に帰りける」
とあるが、手持ちの岩波文庫版『常山紀談』および研究社学生文庫版『常山紀談(抄)』には、これらの記述が見当たらない。他の版本に有るのか、あるいは見落としているのか、さては師の間違いか、文献に詳しい方のご教授を乞う次第である。(吉尾記)

真田氏の系譜

「海道一の弓取り」家康が、最も苦手とした武将に真田昌幸・幸村親子がいる。寡兵をもって敵を翻弄するその真田親子のゲリラ戦術は、真田氏の伝統的な戦い方だったという。
真田氏は清和源氏を祖とする滋野氏の流れで、平安時代初期、東信地方に進出した滋野氏が海野、禰津、望月の三姓に別れ豪族化した。そのうちの海野小太郎幸氏が源頼朝に仕え武名を上げ、東信地区ばかりか隣接する上州吾妻郡にも進出し勢力を拡大。その小太郎幸氏の孫七郎幸春が、小県郡真田庄に住み、真田氏を称した事から始る。
この滋野氏が勢力をはった上信国境は、古くから榛名山、白根山を根拠とする天台、真言の修験道の中心地で、滋野氏の一統も少なからずその影響を受けた。当時、彼等修験者は、山岳を獣のごとく跋渉し、呪術をもって妖異を現す天狗山伏とも呼ばれ、諜報活動やゲリラとしての役割を担っていたという。また、この上信国境の山岳地帯は、突破(とっぱ)と呼ばれる忍びの者、マタギ、山窩等の巣窟でもあり、滋野氏の支配下にあったとも言われている。こうしたことから滋野氏の一統である真田氏が、これら山岳民の特殊集団を駆使するゲリラ戦術に長けていたのだとされる。
これら非定住民・自由民と深く結びついた真田氏は、まさに隆慶ワールドの住人であると言えるだろう。(宮崎惇「ふしぎなる弓取り」『歴史読本』昭和54年10月号所収参考)(吉尾記)