こぼれ話(一)

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歴史のこぼれ話

参考文献余滴(二)

何となく知っているつもりで、良く考えたら知らなかった言葉の意味や、歴史の中のエピソードが、歴史を改めて見つめ直すことでより正確に、あるいはより深く理解できた。そんな小話の数々を集めたページです。


お江戸日本橋

子供の頃、意味も判らず聞いていた歌の文句で、ずいぶん年を経て得心したものが有る。三橋美智也さん(たぶん)の唄っていた歌に「バハンセン」という言葉のある歌があった。歌の題名も歌詞も覚えていないが、その「バハンセン」という言葉だけが記憶に有り、何となく音が南蛮船に通じていたことから、南蛮船の類いを言っているのだろうと子供心に思いこんでいた。ある時、倭冦の船が「バハン船」と呼ばれている事を知り、あああの歌は「八幡船」を唄っていたのかと大人になって理解した。
童謡として馴染んでいた「お江戸日本橋」もそんな歌の一つといえる。

お江戸日本橋七つ立ち 初のぼり
行列そろえて あれわいさのさ 
コチャ 高輪夜明けて 提灯消す コチャエ コチャエ

覚えているのはこの一番の歌詞だけだが、誰もが一度は口ずさんだり、耳にしたことが有ると思う。
だが、私は歌の意味を全く知らず、ただ丸覚えで唄っていたように思う。その後、年を取るにつれそんな歌があったと思う事があっても、それを意識して口に出す事は無く、歌詞の意味を考えることもなかった。昔の「時」の数え方を知ってからも、この歌の歌詞を意識にのぼせることもなく過ごして来たが、ある日、「お江戸日本橋七つ立ち」という歌詞が浮かび、「七つは四時」となんとは無しに思いいたっている自分がいた。それからこの歌詞を思い出し、「お江戸日本橋七つ立ち」は「江戸日本橋をまだ暗い午前四時頃に出発」したという意味で、「高輪夜明けて 提灯消す」は「高輪あたりで夜が明けて、提灯の火を消した」って事だったんだと納得した。



しかし、「初のぼり」は「初めて都に上る」という意味だと判るが、「行列そろえて あれわいさのさ」の意味が判らない。何の行列?誰の行列?「コチャ」や「コチャエ コチャエ」は間の手だと判るが、「あれわいさのさ」って何?かけ声?というレベルの得心だ。
さらに、二番、三番があるのだろうとネットで探したら、

登る箱根のお関所で ちょっと待った
若衆のものでは受取らぬ 
コチャ 新造じゃないかと ちょっと三島 コチャエ コチャエ

お前は浜のお庄さま 潮風に
吹かれてお顔は まっ黒け 
コチャ 吹かれてお顔が まっ黒け コチャエ コチャエ

とあったが、これまたどういう意味かさっぱり分らず、ますます己の無知を思い知った。二番に至っては、お手上げ状態で「箱根の山に登れば、関所で待たされる」のはいいが、「若衆のものでは受け取らぬ」とはどういう意味だろうか。「新造ではないかと、ちょっと三島」って何だろうと思う始末。箱根と若衆と新造の関係が分らない。まあ、三番は、お前は浜のお庄さま、潮風に吹かれた顔は真黒に潮焼けしている、というほどの内容だと分る。でも「浜のお庄さま」というのは誰かという疑問は残った。
ちなみにこの「お江戸日本橋」と称されているこの童謡は、江戸時代に流行った「はねだ節」という俗謡が元歌で、明治時代には、一節が終るごとにコチャエといったことから「コチャエ節」と云われた民謡だと「江戸東京博物館」のHPで知った。現在知られている「お江戸日本橋」という歌は昭和になって古老から聞き取ってまとめられたもので、十八節からなっているという。これは江戸から京都までの道中を唄ったもののようで、『民謡のふるさと 明治の唄をたずねて』(服部龍太郎著、朝日新聞社刊、昭和42年発行)にこの京までの登り唄十八節が記述されているという。また、下りの歌詞もあったようで、それは『東京の風俗』(木村荘八著、毎日新聞社刊、昭和24年発行)に合わせて掲載されていると「江戸東京博物館」のHPに書かれている。

(2006.9.2吉尾記)

歴史のこぼれ話

『参考文献余滴』として掲載した小文。筆者の素朴な疑問から発した私説です。

吉原以前

『吉原御免状』には吉原以前の江戸の遊里として、「江戸にある三つの色里、すなわち麹町、鎌倉河岸、そしてこの柳町」と三つの名が上げられている。また柳町の色里について、「この色町はもともと京橋柳町にあったのだが、慶長十年江戸城修復にともない、ここが御用地になったために、現在の日本橋室町あたりと思われるこの元誓願寺前に転居を命じられたものである。」(335p)と記されている。また『守貞謾稿』にも「城西麹町に十五戸、鎌倉川岸に十四、五戸、大橋内柳町に二十余戸等なり。けだし大橋と云ふは、今云ふ常磐橋なり。柳町は今云ふ道三川岸なり。この柳町の遊女屋を慶長中、元誓願寺に移す。この遊女屋は京師万里小路柳原の者多く、鎌倉川岸の者は駿府弥勒町および城州伏見夷町の者多く」と有る。麹町は現千代田区麹町あたり、鎌倉河岸は現千代田区内神田あたり、京橋柳町(道三河岸)は現千代田区大手町一丁目あたりで、町外れにできたであろう傾城町が全て千代田区内に有り、慶長当時の江戸の町の規模がおよそ現在の千代田区の大きさだったことが分る。
その後、まず京橋柳町(江戸城地に組み入れられた後、柳町の名は無くなり、千代田区の旧町名一覧には、江戸末期は武家地として記され町名は無い)の遊里が江戸城地の拡大で転居を命じられ、元誓願寺前に移り、さらにこの三ヶ所の傾城町は、当時まだ潮入りの葭原だった日本橋葺屋町辺に移転し、御免色里吉原町が誕生した。この時、吉原開設の中心となった人物が庄司甚右衛門である事は周知の事で、これは甚右衛門が吉原町の惣名主となっている事からも知れる。また、『神代余波』に「むかしは、京橋住町、柳町の辺にありしよし」と吉原の前身を柳町の傾城町としていることから、柳町の傾城町に庄司甚右衛門が関係していたことが推測できる。
しかし、柳町の傾城町が移転したという元誓願寺前がどこだったのか確かな事は不明。『吉原御免状』では、日本橋室町あたりとされているが、『そらをぼえ』には「江戸町壱丁目 大橋(今の常盤橋也)の内、柳町に有りしが、城地御用に付、神田元誓願寺前へ移り、又吉原の地へ移りて、江戸町といふ」と有って、神田となっている。それを確認しようと中央区のホームページにあたるが、元誓願寺あるいは誓願寺という文字は全く見つからない。誓願寺で検索しても日本橋室町の地と誓願寺が関係する記述は見つからない。しかし、『浅草下谷散歩』というHPに、神田須田町に有った誓願寺が、明暦の大火で焼けて浅草田町に門前町ごと移転したという記述が有った。『むさしあぶみ』にも「次に堂社にハ。神田明神。山王権現。天神の社。神明の本宮。誓願寺。知足院。云々」と誓願寺の文字が見え、神田に誓願寺の元地が有ったことが確認された。では元誓願寺前とは神田須田町あたりをいうのだろうか。だがこの誓願寺の元地は明暦の大火後のことで、すでに傾城町は元誓願寺前から移転して吉原を開いていたのであるから、神田の元誓願寺前であるはずはなく、『そらをぼえ』の筆者は元誓願寺の地が神田にあったことから間違えたものと思われる。

思うに、誓願寺は浄土宗の寺である事から、天正十八年(1590)、家康が駿府から江戸に入府した際、一緒に駿府から移って来た寺で、その頃誓願寺は日本橋室町辺(まだ日本橋および室町という地名は無い)に建てられたが、その後、慶長九年(1604)以前に神田須田町へ移転し、明暦大火で焼失すると浅草の地へ移ったと考えるのが妥当と思われる。

『歴史用語の基礎知識』【江戸の遊里】参照。

(2006.9.1吉尾記)

歌舞伎十八番『助六』の事

私は生憎、歌舞伎を一度も観劇した事が無い無学・無趣味な人間で、当然この『助六』という歌舞伎を見た事が無い。歌舞伎座の近くで仕事をしていた時もあり、毎日歌舞伎座の前を通っていたり、知人に歌舞伎界の人間もいたが、興味を持った事も無かった。ただ何となく話に聞いたり、TVや雑誌、本などで、その名と登場する人物の風体を知る程度で、ストーリーも知らない。近年、師に触発され、『一夢庵風流記』の前田慶次郎や『かぶいて候』の水野貞成、『吉原御免状』の水野十郎左衛門などの傾奇者を通じて、傾奇なるものを調べている内に、歌舞伎が傾奇からきているなどで、少しずつ歌舞伎に関する資料にも目を通すようになった。そんなレベルの人間の話で、すでに御存知の方のほうが多いと思われるが、歌舞伎十八番『助六』に関わる小文を試みた。

この歌舞伎十八番『助六』は、伊勢屋宗三郎の『三升屋二三治戯場書留』によれば、元は『花屋形愛護桜』という狂言で、後に曾我物語をモチーフにした狂言と合わされて『助六所縁江戸桜』となり、今日に至ったようだ。
この『助六』の主人公「助六」は男伊達(傾奇者)花川戸助六として登場し、吉原三浦屋抱えの花魁揚巻と馴染みになる。そこへもう一人の男伊達髭の意休が現れ、揚巻に横恋慕し、助六と花魁揚巻を巡って争うのだが、この花川戸助六、実は曾我兄弟の末曾我五郎時致という侍で、その昔曾我五郎が持っていた名刀友切丸を捜していた。その刀が吉原通いの男伊達が持っていると聞き、男伊達の大尽花川戸助六を騙って吉原に通っていたのだった。そして、その刀を持つ男伊達が髭の意休で、助六は意休に喧嘩を売って首尾よく刀を取り戻す。というのが『助六』の筋書となっている。
ここで私が面白いと思ったのは、「傾奇」由来の歌舞伎者が、傾奇者(男伊達)を演じている事だった。片や「カブキ」という音が、歌舞妓という文字に変り、その人の目を曳く派手な衣装や見栄が芸能として受け継がれ、片やその生き様、反骨心が男伊達(男達、男立)という風俗として受け継がれ、表現する者と表現される者に分かれてある事に、歴史の面白さを感じた。
ほとんど喰わず嫌いだった歌舞伎だが、こうした視点を持つと、何となく見たくなった。そのうち、機会を見つけて『助六』を観に行こうと思う。
ところで、この「助六」や「髭の意休」にはモデルがいる事は『人物・人名辞典』の「助六」「髭の意休」の項に記したが、「髭の意休」に関しての愚考を少し述べてみたいと思う。

森島中良(万象亭)の『反古籠』によれば、揚六さんと渾名された鳥暁(助六のモデル)の太鼓持ち(牽頭持)髭の無休が髭の意休のモデルである事が知れる。そして『武江年表』元禄年間記事に「○幇簡髭の無休といひしも此の頃なり」という記事と合わせて、この無休という人物はどうやら吉原通いの大尽に付き従う幇間であったと思われる。この幇間無休が、なぜ助六の仇役になったのだろうと考えると、その答えのヒントも『反古籠』にある。「湯島の浪人田中三右衛門といふ者も、揚巻が客にて、其事につき、度々喧嘩ありし」と書かれている事がそれで、助六が前述の鳥暁と大坂の万屋助六、花川戸の男伊達戸沢某あるいは夢の市兵衛とを合わせた人物であるのと同様、「髭の意休」も伊勢屋宗三郎がその著『三升屋二三治戯場書留』「助六始」の中で「其頃のえた久米八といふあり、よし原に通ふを意休とするなり、いづれも三人合せし書物なり」と書いているように何人かの人間を合わせた人物である事が窺える。
おそらく『助六』の作者津打治兵衛(『反古籠』では津打半右衛門)は、助六の仇役を鳥暁の恋敵田中三右衛門になぞらえ、それを男伊達の遊客に設定、名前を髭の無休から借り意休としたのでは無いかと推察できる。それでも幇間の名を男伊達の仇役に用いた意図が分らなかった。そんな事は、作者でないかぎり分りっこないと言われればそれまでだが、その狂言芝居が民衆の評判を得るには、作者は重要な登場人物に、市民が感情移入しやすい人物の名、あるいはそういう人物を想起させる名を用いるはずで、特に世話物と呼ばれるものは、世間で話題となった出来事や人物をモチーフとしている事から、登場人物の設定はその名も含めて重要視する。何も幇間の名を借りる必要も無く、もっと仇役に相応しい人物を措定してもよかったのではないかと思っていたら、その疑問を喜多村信節の『嬉遊笑覧』にある文が解決してくれた。
『嬉遊笑覧』巻之一下に、「此男髭を生じたる故、髭の十と異名をとれり」と有って、『仁侠伝』からの引用として「髭の達人は唐土に関羽、日本に朝比奈・宗祇、女郎買に無休あり。十あり云々」と記されていた。この「髭の十」とは、同書によれば傾奇者深見十左衛門の事で、この深見十左衛門については『武江年表』にも「○この頃、男伊達六方組等あり。深見十左衛門など其魁首なりしとぞ」(寛文年間記事)、「侠客深見十左衛門遠流。其の後十八年を歴て、宝永中帰郷を許さる」(天和年間記事)に見え、当時、男伊達で名を馳せていた事が窺える。こうした事から、「髭の何某」とすれば十分「髭の十」こと深見十左衛門を連想できたのだと推測できる。そして「髭の意休」とする事で、助六を鳥暁(『三升屋二三治戯場書留』では暁雨)にも重ね合わされ、江戸の市民はより身近な物語として芝居を楽しむこととなったように思われる。

(2006.8.13吉尾記)

日本人の曖昧さ

『日本書紀』を久々に開いてみた。日本海に浮かぶ小さな島「竹島」をめぐり日韓がまたまた対立した。それは、竹島を実効支配している韓国側が、さらに既成事実を積み重ねようとする行為にでようとしたため、お人好しな我国もさすがに反発し、海上保安庁の調査船を竹島海域に派遣しようとして、一触即発の事態になったからだ。以前、掲示板に書き込んだ『想古録』にある「竹島」に関する記述の中に、竹島が日本の領土であるという記述が『日本書紀』にも記されていると書かれていたので、それを確認しようと『書紀』を手にした次第。

竹島問題がこじれている理由

江戸時代から、漁民の間でこの島をめぐっての争いが繰り返されていたことは、前述の『想古録』で知ったのだが、領海や経済水域等の概念が国際的に合意され、領海法などの国際法が整備された以降も、争いを続けている一番の要因は、戦後の日本の政府がより大きな問題(日韓国交正常化)をクリアするために、小さな問題(竹島の領有権)を棚上げしたまま、何十年も先送りしてきた結果に他ならない。この間、我が政府は口では領有権を主張するが、実際に漁民が困っていることなど眼中にないのか、具体的な行動は一切とらないできた。一方、韓国は警備隊を常駐させるなど、実質支配を進めている。こうした事態にいたっても、我が政府は曖昧な態度に終始。自ら火中の栗を拾おうとする政治家や役人がいなかったことに現状の竹島問題がある。

曖昧さは、日本社会の和を尊ぶ心持ち

この曖昧な態度は、竹島に限った事では無い。曖昧な戦後処理で、問題を先送りしてきた結果が、アジア外交の行き詰まりだろう。占領軍を駐留軍と名前を変えただけで、それを認めて来た曖昧さが、各地の基地問題となっている。
こうした曖昧さは、何も我が政府だけの問題だろうか。憲法の解釈も曖昧なまま、実質的な軍隊を軍隊で無いといってきた詭弁を何の抵抗も無く受け入れてきた国民でもある。こうした国民性は、私も含め、日本人全体が持つ国民性であるように思える。これは、重大な問題の先送りは困るが、大きな目的のためには周辺の小さな問題は先送りし、時間が解決するのを待つ、間(ま)を重視した和(わ)の文化で、無理矢理白黒をその場でつけず、自然に収まるべき所に収まるのを待つ柔軟な態度といえ、お互いに傷つく事を最小限にとどめる知恵だ。これは恥ずべき事ではなく、一つの文化の優れた在り方といっても良い。我が国のあうんの呼吸とか、間を大切にする文化は、細大もらさず全て明文化し、契約書を取り交わさなければ何事も事が運ばない社会とは全く異質なものだからだ。我が国のこうした文化的基盤が、過去には神仏習合を産み、明治の文明開化をもたらし、戦後の復興に大きく作用している。
しかし、こうした曖昧さを内包した間や和を大切にする柔軟な文化には、抜け目ない者につけ入られる隙を与えたり、無責任という負の側面を合わせ持っている。あうんの呼吸は良い意味合いだが、文化的規範が無くなると、それはなあなあな関係、馴れ合い、凭れ合いとなる。文化が衰頽すると、正の部分が失われ、特に負の部分だけが大きくなる。そして、この曖昧さは、日本語の持つ曖昧さから来ているもので、避けられない。だとすれば、常にそのことを念頭に置いた自律的な規範を合わせ持った文化の再構築を行なわなければ、早晩、日本と云う国は滅びるだけだろう。

日本人の曖昧さは、今に始まったことではない

『日本書紀』の話が、日本人の曖昧性に及んだのには、井上光貞氏の「『日本書紀』の成立と解釈の歴史」(中央公論社刊『日本書紀』所収)に、『日本書紀』という書名が曖昧な名称としてつけられたとあったからに他ならない。井上氏は、『日本書紀』という書名は『日本紀』と『日本書』という二つの性格が異なる書の名称が付された曖昧なものという。『日本書紀』の本来の名称は『日本紀』で、この「紀」とは、中国の編年体の歴史書『漢紀』『後漢紀』を意識したものとされる。これは、後に続く歴史書が『続日本紀』と有ることから、当初は『日本紀』とされていたのだろうという。しかし、『日本書紀』の記述は純粋な編年体ではなく、編年で記述されてはいるが、帝ごとの紀伝体の要素を持ち、皇帝ごとにまとめた紀伝体の『漢書』『後漢書』の「書」という文字が書き加えられ、『日本書紀』という曖昧な名になったという。

追記

『日本書紀』にあるという「竹島」の記述は、一ケ所目についたが、
「到2于吾田笠狭之御碕1。遂登2長屋之竹嶋1。」(神代下第九段)と有り、明らかに今問題になっている島の事ではない。この他、全体に目を通してみたが、残念ながら、『日本書紀』に「竹島」が日本領だとする証拠となる記述を見つける事ができなかった。
ざっと斜読みしただけなので見落としているかもしれません。もし御存知の方がおられましたら、御教示賜れればと思います。
ちなみに『想古録』の件の下りを下記に再録しておきます。

「儒者不学にして、竹島を朝鮮に取らる
常憲公(五代将軍綱吉)のとき、日本の漁船、竹島に渡り、同島近海にて漁猟しけるに、朝鮮人と争闘を開き、数名を殺傷せられたり、此事葛藤の種となりて、終に竹島所属の争ひとなりけるに、我よりは彼方にて、貴国の竹島は我蔚繚島なりと云ひしを廉に取り、貴国の竹島と云ふ以上は、其島の日本の属地たること分明なりと云募りしに、彼方にて、其れは言辞の誤りなれば取消すと為し、何なりとも確実なる証拠を示すべしと云ひ来れり、然るに当時の掛り儒官は林鳳岡にて、其調査充分ならざりければ、「日本書紀」に竹島のこと出で、又「三国志倭国伝」にも、又「梁書」にも竹島の事出で居るを気附かず、別に証拠は無しと答へしかば、彼よりは「輿地勝覧」を引きて、其の朝鮮所属なるを証し、竟に我が曲と為るに至れり、寔に惜むべく、憾むべきことと謂ふべし」 

(2006.4.25吉尾記)

白拍子考

白拍子とは

白拍子は『喜遊笑覧』に「白拍子とは、もと拍子の名なるが、やがて歌舞の名となりたる也」と有り、これは『平家物語』佐藤謙三氏の注にも「中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女。」と有るように、元来は歌舞の拍子の名とされる。では一体どんな拍子を白拍子と云ったのか。さまざま調べてみるが、はっきりとはしない。『喜遊笑覧』は「白拍子はかぞふるものにや。『長門本平家物語』にも、[白拍子かぞへて]と有(今も春日若宮の神楽、翁の歌に[シラ拍子、ラン拍子]といふこと有とぞ)」と有って、「ラン拍子」が「乱拍子」ならば、「シラ拍子」は「平(ヒラ)拍子」の転訛で、平らかな拍子の意ともとれる。
こうした語から推察すると「乱拍子」とは音の高低、強弱のある御囃子のような、いわばリズムの有る拍子を云い、「平拍子」とは高低、強弱の無い単音、いってみれば御詠歌を詠む時の振り鈴が刻む音のような拍子ではないかと思われる。さらには「乱拍子」は鈔、笛、鼓などのアンサンブルで、祭囃子のように歌を伴わない器楽曲としても成立つが、「平拍子」は、歌の歌い出し、所作のきっかけを刻む拍子を云ったもので、そこには必ず舞や謡いが伴っていたのではなかろうか。
また、「シラ拍子」は「素(しろ)拍子」の事で、「素」が同音同義の「白」に転じただけと考えるほうが自然かもしれない。この場合でも、歌の歌い出し、所作のきっかけを刻む拍子という概念はそれほど外れていないように思う。「白」「素」という字には「まじりけがない」「あきらかにする」という意があり、鉦あるいは鼓だけで拍子を取る事を云ったと考えられる。
つまりは、「白拍子」という語は、現代で「手拍子」「足拍子」という場合と同じような意味合いであったのではないか。また、『庭訓往来』に「職掌の神楽男は、調拍子を合はせて、拝殿に祗候す」や菅江真澄の『かすむこまかた』に「十四日 けふは空晴て長閑なれば、雪ふみならし、わらまきちらし、莚しきて童あまた群れ集りて、笛吹、太鼓、銭太鼓、調拍子(テビラカネ)にはやして鹿舞の真似をし、また田植踊のまねして遊び、また箱の蓋を頭に戴て念仏舞のさまをし、また剱舞てふ事せり云々」とある「調拍子」(どびょうし、てびらかね)は、その注として『庭訓往来抄』に「土、調に作る。神楽同時に始て之を作る。▲昔、調拍子に土をかく、今は調、よき也。(舞に合わせて用いる振り鈴か。) 」とあり、楽器の名称として拍子の文字が用いられている。さらに『廣辞林』には「銅拍子」(どびょうし)として、「一種の楽器、真鍮にて作り、形鐃鉢(にょうはち)に似て小、二個を以て一対となし、各其外側の中央に紐を通し、其紐を指に挟み拍ら合はせて鳴らすもの」と有ることから、「白拍子」も何等かの楽器をいうか、拍子をとる楽器が一つだけで、それを現わす意味で素拍子(白拍子)となった事も否定できない。
「白拍子」が「素拍子」から来たことは、『七十一番職人歌合』の注で「白拍子とは、雅楽の拍子の名で、声明道で延年舞の時、童僧が「素(しら)声」で謡うことからきている」と書かれていて、あながち的外れではないと思う。

舞楽の呼び名としての白拍子

こうして元来、「白拍子」は拍子あるいは楽器・謡声を現わす語だったが、その拍子の音や謡と共に舞を伴っていたことから、やがてその舞を指す語となる。『喜遊笑覧』にも「白拍子を歌舞するさま、『続古事談』に、[妙音院相国云、白拍子といふ舞あり、其曲を聞ば五音の中には商の音なり。此音は亡国の音也。舞のすがたをみれば、立周り空をあふぎて立り。白拍子、後世にもみゆれど、其余流なりや否をしらず。声容は絶て、たゞその名ばかりなるべし]云々」と有り、白拍子舞の事が現れる。
この白拍子舞は、当初、男女ともに舞手として現れ、『廣辞林』に「歌はもと神佛の縁起などを謡ひし」と有るように、主に神楽舞や延年舞などと共に寿ぐ意味で、寺社に奉納されたものと考えられる。やがて、男の舞手は同時期に起ったと思われる曲舞に吸収されたか、陶冶され、「白拍子」は女の舞手ばかりとなったようだ。これも臆測にすぎないが、この曲舞は、前述の「ラン拍子」に発する舞楽ではないかと推察してみたい。
このようして「白拍子」は女性が舞う舞楽としての名称となる。この時の舞手はおそらく神社に仕える神人や巫女が主な担い手で、始めは神仏に捧げる舞だったが、神社の勧進などで諸国を巡るようになると、観客を引き付ける興行的な要素を取り入れた舞に発展する。「水干(旱)を着け立烏帽子を戴き白鞘巻をさし今様を謡ひつつ舞ひしかば、男舞とも稱せしが、後には水干・袴ばかり着ても舞へり」(『廣辞林』)と有るように、その舞曲の内容も神仏の縁起から今様へと変化した。今様とは、今日でいえば流行歌という意味で、白拍子舞は宗教性を薄め、平安末期にはより世俗的で享楽的な舞楽となっていたと思われる。
また舞手の衣裳は、水旱と称される質素な着衣で、後に見られるような華美な舞衣は着ていなかった。そもそも水旱とは、水張にして干した絹の意で、当時においては官人が普段私服として着す染めていない簡素な狩衣の一種をいう。しかし後世になると、染めた衣裳が一般的となり白無垢の衣裳は「常住の衣裳に非ず、天下旱水を祈らんが為に此の服を着る也」(『庭訓往来抄』)ということになる。こうして「白き水旱に立烏帽子、白き鞘巻を差す、人皆、男舞と云ふ、中比より烏帽子、刀を除て、白き水旱計着けたり。故に白拍子と云ふ也」(『庭訓往来抄』)とする書が後に現れるようになった。

遊女・舞女としての白拍子

平安時代末期に白拍子舞を得意とする妓女が現れる。やがてその妓女を「白拍子」と称することになり、「白拍子」=「遊女」という概念が生れた。その始めが『平家物語』『源平盛衰記』に現れる「島の千歳」「和歌の前」の二人の妓女とされ、「白拍子」の祖と言い習わすことが通説となった。また吉田兼好の『徒然草』に磯の禅師の女「静」が白拍子の始りと有ることから、一説では「白拍子」の祖を義経の愛妾「静御前」としている。

この時代、朝廷や公家たちの宴に華を添える遊女、舞女の存在が諸書の史料に現れる。こうした遊女たちは、その容貌の美しさばかりでは無く、支配層の貴族等と対等に付き合えるだけの教養の高さ、機智に富み技芸に秀でた才を持っていたことが窺え、「白拍子」と呼ばれた彼女らはその舞のトップクラスの遊女だったのだろうと想像できる。
こうした流れが生まれると共に、依然、神社等の勧進を目的とした神子たちの活動が絶えた訳ではなく、白拍子舞を持って諸国を巡っていた女性たちがいたと思われる。白拍子舞の原型を留めた彼女らの舞は、発展した「白拍子舞」と区別され、「念仏おどり」などと称されるようになる。この「念仏おどり」をもって戦国期に出雲の社から勧進のため諸国を巡っていた女性が、後に「歌舞伎」の祖と云われる「出雲於国」であることは良く知られている。このことから、「出雲のお国」を白拍子とする書もある。

「白拍子」の祖の通説に反して

以上の事柄が、これまで目を通した僅かな史資料等から、私が現在知り得る「白拍子」についての知識と概念だが、『庭訓往来抄』にあった「白拍子」の注釈に触発され、これまでの通説を否定する妄説を立ててみた。
この注釈文には「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也」と有り、「島千歳という者が、和歌の舞を舞ったのが始り」と有るのを、注釈者が「和歌の前」を「和歌の舞」と取り違えて説明していると『歴史用語事典』では書いた。しかし、本当に間違いなのかという疑問も生じた。
遊女白拍子の祖とされる「島の千歳」「和歌の前」の典拠は、前述したように『平家物語』『源平盛衰記』で、どちらも口承文学として伝えられたもの。伝承者の語るものが文字化された事から、後年何々本『平家物語』と称される幾つかの写本が現れる。やがて江戸期に読物文学が一般に流布すると、それぞれ口承者あるいは名家が持っていた写本の幾つかが板本となり、それらが現在に伝えられたため、一番流布した板本が元となりそれがスタンダードとなった。
しかし、現在でも伝わる写本の中の異本間では、骨格となるストーリーは変らないものの、細かい部分で異同がある。近代に入り、それらは文学者・歴史学者によってそれぞれ研究され、現在では一つの正しいと思われる事実に収斂しているのだが、ある部分では、多くの資料が同じ記述であるという理由から、事実と認定しただけのものもあるのではないかという疑念が生まれた。
その一つが、「島の千歳」「和歌の前」の記述である可能性も否定できなかった。ひょっとすると、江戸初期の『平家物語』の写本の中に、『庭訓往来抄』の注釈を記した人物が「和歌の舞を始舞」とする根拠の写本があったと考えられる。それでも、その写本が間違えていたのだと言えるが、「和歌の舞」を「和歌の前」と写し間違えたという逆の解釈も否定できないように思う。

現在の印刷本『平家物語』では「昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳(せんざい)・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり」とされ、これがスタンダードとなっていることから、これが『平家物語』の本来の記述だと信じ、誰も疑わずに「島の千歳」「和歌の前」の二人を「白拍子」の祖としているに過ぎないのではないか。
「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也」が本来の記述であるならば、「白拍子」の祖は「島の千歳」一人で、彼女は「和歌の舞」という舞を踊ったという事になる。そこで「和歌の舞」なる舞など史実に現れないのだから、「和歌の前」の誤りだとされているならば、語り手はただ単純に、和歌を題材とした舞を舞ったとしただけで、とりたてて「和歌の舞」という名の舞楽を言ったわけではないのではないかと言いたい。また、「和歌の舞」は「若の舞」だとすれば、別の解釈も生まれると思われる。
それでもこの論は妄説に過ぎない。「白拍子」の祖が「島の千歳」一人だったなら、「彼等二人が舞ひ出したりけるなり」という記述と矛盾するからだ。しかし、語り伝える中で、「ワカの舞」が「ワカの前」となり、二つの人名が生じたことから、後に「彼等二人」と付け足したとは考えられないだろうか。いづれにしても、「島の千歳」だけは「白拍子」の祖と今のところ言えるのだろう。

(2005.11.20吉尾記)

好戦的な日本人

民族の好戦性について通俗的な論しか持ち合わせていない筆者は、菜食文化の民族より肉食文化の民族のほうがより好戦的であるとの俗説を受け入れていて、アジア人よりアングロ・サクソン人のほうがより好戦的で、この地球上で最も好戦的で暴力的な国民は、世界一牛肉を食しているアメリカ人であると思っている。
ところが、ヴァリニャーノの『東インド巡察記』の中に日本人を評して、「世界中のあらゆる人種の中で、日本人は最も好戦的で戦争に没頭している」との記述があり、なんだこりゃと思った。戦国期に来日したのだから、彼がそう見るのも仕方のない事かとも思ったが、どうやら戦国時代だからという理由だけで片付けられない精神構造が日本人にあるのかもしれないと、その後の記述を読んで思う。
「日本人は、人を殺すことを、動物を殺すことよりも重大には考えていない。そのため取るに足りない理由からだけではなく、自分の刀の切れ味を試すためであれば人を殺してしまうのである。各自は自分の屋敷でも人を殺すことがあり得るし、戦争が実に絶え間ないので、大部分の人々が刀で命を奪われているものと思われる。日本人は次のような非常に残酷な行為に及ぶ。すなわち、母親自らが子供を産むや否や「この子は養えない」とだけ言って、ごく当たり前のように首を踏みつけて殺してしまうのである。それに自らの脇差を使って切腹し、自害する者も大勢いる」
しかし、このヴァリニャーノの見解について、多くの日本人は、苦笑し「そんな時代があったかもしれないが、今は違う」というだろう。それは当時においては生産性が乏しく糊口を凌ぐ上のやむを得ない行為であったり、なによりも「恥」を忌避し「誉」を重んじる武士道の精神の発露から自ら切腹する事で、潔く「死」する道のほうが生き恥をさらすよりも尊いと思っていた時代のことで、ましてや「無礼打ち」などは封建時代の遺物であって現在ではありえないと答えると思う。また、「子殺し」や「親殺し」などの行為は何等かの精神異常者の行為で、普通の人は行なわないものだと断ずるはずだ。

かつて戸坂潤氏がその著『思想と風俗』の中で「日大生殺し」を取り上げ「社会では両親はいつも息子や娘を可愛がるものであり(従って子供は親孝行をする義務があるというところへ行くのだが)、妹は女で年下なのだからいつも兄を大切にするものだと決めてかかっている。つまり家庭は少なくとも相愛し合った親子関係が中心で出来ていると仮定している。」と述べておられるように、現在でも多くの日本人は、多かれ少なかれ、こうした家族愛や親子の愛を信じているはずだ。戸坂氏が言及した時代(昭和初期)は、現在よりもそうした社会的通念は強く、保険金殺人の第一号とも称される「日大生殺し」事件がセンセーショナルに報じられたのだが、現代では保険金殺人や「子殺し」や「親殺し」などの家庭内事件など日常茶飯事のように起こっている。
こうした事を考えると、ヨーロッパの人々は、ヴァリニャーノが日本を訪れた十六世紀から現代に至るまで、「人を殺すこと」について、その意識はあまり変化していないように思われる。少なくとも家族や自国民・同朋に対する愛は日本人よりも強く、その価値観は一貫している。
その点我が国は、中世的な死生観のまま、近世をある意味平穏に過し、その間に儒教的倫理観を強めはしたが中世からそれほど離れずに来ていたと思われ、より止揚した近代西欧的な死生観を持つキリスト教的倫理観が明治以後に流入し従来の日本的道徳観と融合したため、「人を殺すこと」に対する意識は揺れている。確かに日本人の価値観は近代に入って百八十度転換し、欧州に比べると一貫性は無く、さらには現在でも独特の死生観を持っていると思われるが、だからといって、私はヴァリニャーノが断ずるように日本人が好戦的だとは思わない。
なぜなら死生観と好戦性・暴力性とは別物と思われ、自死・自刃する事を罪と思わず、むしろ名誉とする価値観と、自殺を禁じ、むしろ殉死することを名誉とする価値観の違いが死生観の違いであって、そこには好戦性・暴力性は入ってこない。
人が好戦的・暴力的になるのは、その社会になんの規範も無く、人に先んじて自我の欲望を満たす事だけを重要と考える社会に現れるように思われる。ヴァリニャーノが日本を訪れた戦国期はまさに中世の規範が崩壊し、それぞれの領主が己の欲望を満たそうとした時代だった。中世的規範は、一部の荘園領主や中央の支配層たちがそれぞれの支配に都合のよいように形成されてきたもので、そこにはおのずから限界があり、貨幣経済の浸透とともに中世的規範・秩序の埒外にあった人々が力をつけてきたことにより崩壊をきたすのだが、こうした歴史の発展は、ヨーロッパ中世においても同じだった。しかし、ヨーロッパにおいては封建領主の誕生とともに、それ以外の人々の間には市民としての意識も生まれ、支配層から生まれた市民としての権利や価値観が断絶することなく一般の人々の共通の価値観となって裾野を広げた。それを可能にしたのがキリスト教という共通の倫理観があったためだろうと推測する。そのために、王や廷臣、地方領主、民衆すべてを律する倫理的価値観が生まれ、国の秩序もそれに沿った形で現れる。
それに反し、我が国では宗教は救済であり学問ではあったが、行動規範とはならず、貴族は神道・王道、武士は武士道、坊主は仏道、修験道などなど、それぞれの職能階層に別れた行動規範が生まれていたことから、その「道」ごとに「徳」を積むことが良しとされ明治には「道徳」という言葉さえ生じしめた。この道徳観が日本人の行動規範で、「日本人は、ヨーロッパでは極めて重大な罪を徳として考えており、坊主も神官も、罪は徳なり、と人々に説いて教え込んでいる。」とヴァリニャーノが述べているように、我が国では国民全体を包括した宗教的倫理観の発達をみる事は無かった。そのため、我が国が国としての秩序を保つのは、時の支配者の「道」であることから、その支配が揺らげば国としての規範も弱まり、無政府状態となる。
さらに言えば、我が国においても、中世的規範・秩序の崩壊とともに、ヨーロッパ同様「一揆」や「堺の町」などに見られるように、市民による自治意識も芽生えたが、「市民=civil」という言葉のような人間社会全体で通用する概念は生まれず、それら自治の担い手は一方では「門徒衆」であり、また「会合衆」であって、「衆」という言葉で表現され「民主」あるいは「市民権」というような概念が生まれなかったことと通じるかもしれない。
ともあれ、ヴァリニャーノが訪れた時期の日本は、奇しくもヨーロッパと時を同じくして王の権威に基づいた中世的支配が揺らぎ、新興勢力が台頭する時期であった事から、先述したように新たな支配者が現れるまでは、国としての規範も定まらず無政府状態化していた。このような状態では武力を持つ者は好戦的となり、すこしでも領地を拡大して自分の欲を満たそうとするのは、ある意味自然な成行きだろう。これは日本人に限ったことでは無い。国あるいは社会の規範が揺らげば、欲望だけで行動する人間が必ず現れる。これらは、個人的な攻撃性、暴力性であって好戦的な行動につながるものだが、これを持って特に日本人を好戦的とするヴァリニャーノの主張には同意できない。むしろ、この時期に圧倒的な武力を持ってアジアやアフリカ、アメリカ大陸を植民地化したヨーロッパの国々のほうがより好戦的な国だったのではないだろうか。
だからといって、日本人が平和的な人種とも思わない。ヴァリニャーノが目撃した時期の日本には確かに好戦的で、暴力的な勢力が溢れていたし、信長がそうした状況を平定したのもより暴力的な手段でなし得たにすぎなかった。また、新たな規範を国にもたらした秀吉は、朝鮮半島へ侵略を行なっている。唯一、徳川政権時代だけは善かれ悪しかれ三百年近くの間、平和的な国家であったといえよう。

最後に、大平洋戦争後、自国民や朝鮮・中国・インドシナの人々、さらには戦った相手国のアメリカやイギリスの人々を含めた多くの犠牲の上、武力を放棄し不戦を誓って六十年間、まがりなりにも平和国家を標榜し、多くの日本人が平和を希求し、その理想を実現させようと様々な努力を行なってきた。言わば戦後の日本の「道」は平和で、それに基づいた道徳や規範で進んで来たように思う。だが今、その拠り所である「憲法九条」が改正されようとしている。
誰もが「憲法九条」を少し変えた位で、この日本がすぐに戦争を起こすなどとは考えないだろう。しかし、本当にそうだろうか。今、この日本には普遍的な倫理観も無ければ、道徳も無いに等しい。あるのは拝金主義的欲望だけで、国のトップでさえ経済効率という名の魔物に取りつかれ、国民の多くも大金を手に入れようと躍起だ。人間の行動を律する規範が薄れている時代に、人は攻撃的となり暴力的となるのは、現在でも同じだと思う。その徴候はすでに様々な家庭内暴力や保険金殺人という形で現れていることは先述した通りだが、「振り込め詐欺」や「ネット詐欺」が横行するのもそうした風潮があるからだろう。特にインターネットの世界は無政府状態で、状況は十六世紀の戦国時代とある種共通している。
こうした状況の時に、我々日本人の多くが好戦的となる事を忘れてはならない。

(2005.10.10吉尾記)

宮本武蔵の子育て

『吉原御免状』『かくれさと苦界行』の主人公松永誠一郎は、生まれたばかりの時に柳生の刃にかかる所を、宮本武蔵によって助けられ肥後山中で育てられた事になっている。もちろんこれは隆先生の創作だが、寛政期の大坂町人の国学者加藤景範の著した『間思随筆』に、武蔵が棄子を拾い育てたという記述を見つけ、武蔵が自分の子でない見ず知らずの子供を育てたという話は全くのフィクションではなかったのだと知った。以下に当該箇所を紹介。
「○宮本武蔵は世に評されたる人也。其子伊織なる人は、なべての世にはしられざりけれど、才かしこくいみじき人にて、君の覚えも父に増りて、家高く成のぼれり。そのかみ武蔵、外にまかる道に棄子の有けるをみて、かれ眼ゐたゞものにあらずとて、ひろひ帰り養し子也。伊織常に評議の座に付て、さかしらに云出る事もなし。かたへの柱によりて衆議を聞れしとぞ。身まかられし後、伊織柱とて其所を改作事にも柱は其まゝのこして、今にさて有となん。」
この伊織と名付けられた子は、賢く素直な子供に育ったらしい。なんとなく誠一郎の面影に似ている。武蔵は養い親として、子育てもしっかりした人だったのだろう。(吉尾記)

前田慶次郎と同時代を生きた傾奇者

様々な資料を読み漁っていると、隆慶作品に登場しないが、慶次郎と同時代を生きた人々で、後世にもその名を知られている人物が大勢いる。
傾奇者というより泥棒、盗賊の名で知られる石川五右衛門もその一人だろう。慶次郎との係わりは史実で明らかにされていないが、海音寺版『戦国風流武士前田慶次郎』には、この石川五右衛門が登場している。五右衛門が京で秀吉の御蔵に忍んで刀剣類を奪ったというような逸話が有り、彼の行動は時の為政者への反発だったのかも知れず、後の歌舞伎などの五右衛門の衣裳は傾奇者そのものの格好だ。だから『一夢庵風流記』に登場してもおかしく無い人物なのだが、先行作品などで既に登場していたりあまりにもイメージが固定しているので、隆先生はあえて登場させなかったのか、などと勝手に想像している。その石川五右衛門についての短い文が『望海毎談』にある。隆慶作品の人物・人名事典には五右衛門の項がないので、それをここに紹介。
「一、石川五右衛門と云者、生国遠州浜松の侍なり、始は真田八郎と云ふ、河内の石川郡の山内古庵と云ふ医者と所縁あるを以て、其家を頼み居り、石川五右衛門と改号し、終に強盗と成る、文禄の末年捕られ、釜炒の刑に行れたり、時に三十七歳なり、一郎と云ふ幼き子も、相共に煮らる、石川や云々と辞世したり」(吉尾記)

仙台高尾考

『燕石十種』の「高尾考」にある一文によれば、俗に「仙台高尾」と呼ばれている太夫は、島田重三郎という客になじみ、仙台侯の誘いを断った由。よって「島田高尾」と云うとあった。
こうして仙台侯の誘いを断ったことから、この高尾は仙台侯に身請されたが操を通し、三股(みつまた)にて逆さ吊りにされて斬り殺されたとか、船から身を投げて自殺したとか、後世にさまざま言い伝えられているが、これらは間違った説で、仙台侯は高尾を諦め、薄雲という太夫と馴染み、薄雲を身請して仙台に住まわせ一子をもうけたとある。
また、高尾が病に臥せった折、仙台侯が出廓させ江戸屋敷で養生させようとしたが、駕篭にて運ぶ途中みまかったという丁(吉原)の老婆の話も取り上げている。
さらに、仙台にある高尾の墓に触れ、高尾がもうけた子は椙原重太夫と云い伊達藩に致仕し、千石の禄を得たとする話も載せている。
こうしてみると、広く世間に知られている「仙台高尾」の話は、この「高尾考」にも書かれているように、浄瑠璃語りなどで劇的に脚色されたものと思われる。とはいえ、初代を仙台高尾とするものや、二代目説、四代目説などがあって定かでない。これは「仙台高尾」に限ったことではないようだ。これらの資料から、初代高尾は戒名を妙身(妙心)と云い、春慶院に葬られたというのが分るが、この「妙身高尾」を「子持高尾」とする説と、「子持高尾」を別の「高尾」とする説などが有り、資料によって異なっている。(吉尾記)