隆慶わーるど歴史のこぼれ話
(参考文献余滴)
隆慶作品関連の史資料を渉猟するなかから、直接作品に関係ないが、疑問に感じたり、あるいはなるほどと思った事柄などを紹介しております。浅学ゆへの素朴に感じた事柄ですので、間違った解釈や見解であることが多いと思われます。それらについて、先輩諸氏の方々からのご教示を賜れば幸いです。
名前の読み
日本人の名前は、姓や名に関らず漢字の読みが幾通りもあって正しく読むのが難しい。仕事で出入りしているある放送局の女性スタッフの名前は「真愛」と書いて「まがな」と読むそうだ。「愛弟子」を「まなでし」と読むように、「愛」を「まな」と読むことから「真愛」は「ままな」と読み、それが転訛して「まがな」と読むのかと思ったが、当人から万葉集に「まがなし」とあり、そこから取ったようですという話を聞いた。そこで古語辞典を見ると、「真愛し」(まがなし)とあり、万葉集(十四、三十四)3567東歌として「置きて行かば妹は真愛し、持ちて行く、梓の弓のゆづかにもがも」という歌が挙げられていた。(万葉仮名では「摩可奈之」とあり、これに「真愛し」の文字を充てた用法。)また「愛」には人名で「ちか、なる、やす、よし」などの読みがあると漢和辞典にある。閑院宮愛仁親王は「なるひと」親王と読む。言われなければ読めない。このように人名の読みには、かなり強引な読み方がある。だからといって、イメージだけで元の字にない意味や読みを無原則に行って良いというものでもあるまい。先頃、朝日新聞に「稀星」と書いて「きらら」と読ませる出生届が受理されなかったというような記事があったが、当然だろう。その文字になんの関係もない音や意味の関連しない言葉を当てるのは間違っている。こうした無茶苦茶な漢字の読みは、極力排除されるべきだ。とはいえ歴史的人物名では文句は言えない。古代、日本人の名前はその言葉の音声だけで、「スサノオノミコト」は古事記では「須佐之男命」と書き、日本書紀では「素戔雄尊」と書かれているように、その音に輸入文字の漢字を当てたのだから、音の類似、意味の類似で表記していた。そのために史料により文字が異なるものが多い。これは日本語特有の言葉(音声)と文字の関係からで、名前に限らず同音異字の表記がしばしば史料に現れる。
この記紀の時代、日本人の名前はまだ個人の呼名だけであったが、それに豪族の名称(族名)や大王(天皇)が賜る姓、さらには官名・職名・地域名などの呼称を付けた氏(氏族)が生れ、個人を氏名で記したり名乗るようになる。(但し天皇家は氏姓を持たない)こうして時代が下がるとともに中央の支配層(公家)がその職業や居所の地名を家名として用いるようになり、さらに権力が武士階級に移ると、各地で多くの氏・家名から派生した苗字が生れ、苗字に名(幼名・通称・諱など)を付けるのが一般化した。それでも庶民はまだ呼名だけで、明治になってようやく誰もが苗字を名乗ることができるようになる。それとともに国民を管理(徴税・兵役など)する上での戸籍法が出来て、現代日本人の氏名(家族名と個人名)が確立した。
このように我が国の氏名は、中国や西欧のように氏族名(血族名や職業名・家族名)と個人名(呼名)が比較的判然としていて同族であるかないか分明な民族ではなく、近代までは氏族名・職名・地名などが混在する家名を苗字としたため、同族であっても苗字が違ったり、同音異字を用いたりして無数の名字が生まれたという。渡辺三男氏の『苗字名前家紋の基礎知識』によれば、たとえば加治(かぢ)という苗字は、武蔵国高麗郡加治庄から起った名だが、その分流は可知、賀地、梶、勝などの文字を用いた。また同じ「かぢ」氏でも「加地」という氏があり、この加地氏は越後国加地荘から起った氏で、桓武平氏城氏の分流と近江佐々木氏の分流があり、この加地氏も梶、勝など加治氏の分流と同じ文字を用いる分流があるため、同族であっても異なる苗字を用いたり、同じ文字を用いる苗字であってもその出自は全く違っていたりする。また「勝」氏は「かち」「かつ」などとその読みが異なっている場合がある。さらに同じ「勝」氏でも「すぐり」「すぐろ」と読む「勝」氏がいて、この苗字は「村主」から来た苗字で、前者の「勝」氏とはその出自を異にする。こうして同じ文字でも読みが異なる苗字が多いのも日本人の名前の特徴だ。そこでただ「勝××」とあっても、それを「かつ」と読むのか「すぐり」と読むのか判断できない。このように文字だけではどう読むのか迷う名前が多いのも日本人名で、「吉川」は「きっかわ」「よしかわ」、「立川」は「たてかわ」「たちかわ」、「新居」は「あらい」「にいい」など挙げれば切りがない。「東」も同じで「ひがし」か「あずま」か迷う。迷ったあげく「東常縁」を「あずまつねより」と読んだら、「とうつねより」と読むのだと指摘されたこともある。そして最近、「阿閉」を「あとじ」と読んでいたが、それが間違いだったと分った。「阿閉」は「あへ」あるいは「あべ」と読むのが正しい。この「阿閉」は伊賀国阿拝(あへ)郡から起った氏で、「阿拝」(あへ)が「阿部」「阿閉」「阿辺」などと表記され、さらに「あへ」が「あべ」に転じて発音されるようになったらしい。
こうして見ると、歴史上の日本人の名前は、文字(漢字)より言葉(音声)が優先しているようだ。以前、掲示板でも話題になった「和歌の前」「島の千歳」という白拍子の名前も、「若の前」「島の千載」と記した史料があり、どちらも同じ人物を言うように、昔の人は文字の違いよりも言葉(音声)を大事にしていたように思う。それゆへ、「加治」の同族が「梶」「勝」「賀地」と書いても、「かち」と読んでいる間は別名とは思わなかったのではないか。庶民の呼名もたとえば、「うしまつ」という者はある時は「牛松」と書かれ「丑松」「うし末」などと書いていたように思う。
本来得川であった徳川も、「得」と同じ音である「徳」の字を当て、その漢字の持つ意味合いが「得」よりも「徳」の方が良いからと家康は「徳川」を名乗った。その徳川もまれに「とくせん」家と呼ばれるのだから、日本人名は難しい。さらに右府だの内府だの越前だのと役職名でよんだり、金吾や黄門などの唐名で呼んだり、その人物の年代により晴信を信玄、景虎を謙信などの号名で呼ぶのだから、日本の歴史的人物名はややこしい。
真愛し考
『岩波古語辞典』には「真愛(まがな)し」とあり、『大言海』を引くと「まがなし」は「真悲」とある。どちらも「かなし」という語に接頭語「ま」がついた語とあり、『大言海』には万葉集の字句「摩可奈之」という万葉仮名が記されている。この「摩可奈之」は、「まかなし」と濁らずに読むこともできる。おそらく、当初は「まかなし」と清音だったものが、後に「まがなし」と読むようになったのではないか。また『岩波古語辞典』で「かなし」を引くと「愛し」「悲し」という文字が当てられ、「どうしようもないほど切なく、いとしい」「かわいくてならない」「何ともせつない」「ひどくつらい」などとある、このことから、後に「せつない、つらい」という意味の「かなしい」という用法に「悲しい」という文字を充て、「かわいい、いとおしい」という意味の言葉に「愛おしい」と愛の字を用いるようになったように思えるのだが、先学のご教示を賜りたいと思う。
(2007.9.5吉尾記)
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