それぞれの隆慶一郎
このコーナーは、脚本家池田一朗のシナリオ教室池田ゼミの最後の生徒で、小説家隆慶一郎の最初で最後の門下生となった「池田会」メンバーが、没後15周年に書き綴った小文を紹介するコーナーです。
幸福な時間
『幸福な時間』
H. Tanaka 著
先生、その後いかがお過ごしでしょうか。今頃は空の上で、自作に登場させた戦国の武将達と、銘酒を酌み交わしながら楽しく語り合っておられるのでしょうか。
先生が天に召されてから、すでに十四年が過ぎようとしています。先生と過ごした日々がいったい何だったのか。今、私は少しずつ記憶の糸を手繰り寄せています。
1 出会い
昭和59(1984)年、『吉原御免状』で鮮烈にデビューし、平成元(1989)年に没するまでのわずか六年ほどの間に、数々の作品を世に送り出し、時代小説の世界を疾駆した作家、隆慶一郎。そのデビュー前の姿が、名作『にあんちゃん』をはじめ数多くのシナリオを残したシナリオライター池田一朗であったことはあまりにも有名な話である。
私が最初に会ったのも、作家隆慶一郎ではなく、シナリオライター池田一朗だった。
昭和57(1982)年春、私は日本放送作家組合(現日本脚本家連盟)が主催するシナリオ教室に入学した。大学卒業後、サラリーマン生活を送っていたものの、以前から倉本聡。山田太一、早坂暁といったシナリオライターが書くドラマの熱心な視聴者だった私は、自らもシナリオの道に進む夢を描き、この教室に入ったのだ。
とはいえ、別に綿密なリサーチをしたわけではない。雑誌の広告を見て行き当たりばったりに志望しただけだ。授業内容はおろか、どんな講師陣がいるのかさえよくわかっていなかった。
教室には昼間部と夜間部があったが、昼間仕事を持つ私は夜間部を選んだ。授業は毎週月曜と木曜の二回、東京・六本木にある放送作家組合の教室で行われた。近年は六本木ヒルズのオープンでますます賑わう六本木だが、当時も繁華街として異常な賑わいを見せており、そんな街に足を踏み入れただけで、何だかウキウキした気分になったのをよく覚えている。
一回約二時間の授業は、現役のシナリオライターを中心に様々な講師陣による講義に加え、ゼミ形式の中間制作、卒業制作なども用意されていた。こうして卒業までの半年間、本科と呼ばれる課程でシナリオの基礎を学んだ後、希望すればさらに研修科と呼ばれるゼミ形式の課程に進み、より実践的な勉強を行うこともできた。
生徒には特に年齢制限もなかったため、学生、社会人、主婦など幅広い年齢層の雑多な生徒が集まった。いわゆるカルチャーセンター・ブームの真っ只中だったこともあり、特に主婦層の受講が多かったことを記憶している。当時としては、かなり高額な受講料だったにも関わらず、私のように本気でシナリオライターになろうと考えていた者だけでなく、興味本位の受講者も多かった。現在のような不況とは無縁の良い時代だったのだろう。
池田一朗先生は、この教室の主要な講師の一人だった。私が学んでいる半年の間にも、何度か講義をされている。だが、なぜかその鮮明な記憶がない。わずかに記憶に残っているのは、やや取っ付き難い印象を持ったことだけ。どこか無頼を思わせる風貌のせいだろうか。少し突き放したような感じの独特の語り口のせいだろうか。いずれにしても、好印象を持ったとは言い難い。その内面の奥深さに気づくのはもう少し後になってからのことである。
ちなみに、手元に残る当時のテキスト(日本放送作家組合教育事業委員会編『放送脚本作法�』)には、「映画シナリオとテレビドラマの相違について」という先生の一文が掲載されている。実際の講義を活字にしたものだと思われるが、そこでは勝新太郎と論争をしたエピソードなどを交えつつ、映画とテレビの違いについて、セリフ、フレームの大きさ、日常性、観客など、様々な面から語られている。映画、テレビドラマ双方のシナリオを手がけた先生ならではの内容であり、なかなかに興味深いものである。
さて、本科での講義を通じて、生徒はシナリオの基礎を学び、同時に自らシナリオを執筆する。その指導はゼミ形式で、一人の講師が数人の生徒を指導するスタイルが取られた。講師の選択は生徒自らの意思ではなく、事務局がランダムに行ったものだと記憶している。
そこで、私が指導を受けることになったのは、西島大先生である。テレビドラマなども手掛けられてはいたが、もともとは劇団青年座に所属し、戯曲を中心に執筆されていた。何とも言えない飄々とした雰囲気を持ち、お顔のヒゲが特徴的な先生だった。
この西島先生が懇意にしていたのが池田先生である。教室の講師陣にも色々な人間関係があるようで、なかには険悪な関係の講師同士もいたようだが、西島先生と池田先生は大変気の合う間柄だった。指導を受けた後に、何度か西島先生に連れられて飲みに行く機会があったのだが、その際には池田先生一行と同道することが多かった。そうした場での先生は、教室での最初の印象とは異なり、快活で親しみやすく、懐の深さを感じさせる人物だった。とはいうものの、まだそのときには、自分がこの先生に師事することになるなどとは夢にも思わなかったのだが……。
2 研修科
毎週二回きちんと教室に通えば、それでシナリオライターになれるというものでもない。それでも私は休むことなく教室通いを続け、ついには皆勤賞まで獲得してしまった。いよいよ本科修了である。
修了後、研修科に進む者は、研修科でどの講師に指導を仰ぎたいか希望を出さなければならなかった。本科の卒業制作で指導を受けた先生に、そのまま師事する生徒も多かった。だが、私たちが本科で指導を受けた西島先生は、残念ながら研修科の指導は行っていない。さて、誰についたらいいものだろうか。
「池田がいいんじゃないか?」
西島先生は、仲の良い池田先生の名を挙げられた。その助言に従って、私は、書類の第一志望の欄に「池田一朗」の名を記した……。
となれば、順当な展開なのだが、実のところ私は、第一志望の欄に別の先生の名を書いてしまったのだ。
なぜそうしたのか。明確な理由は記憶していない。池田先生ともう一人の先生を最終候補に絞って検討したのは覚えているが、どうして第一志望に池田先生の名を挙げなかったのか今もよくわからない。人生の分岐点とは、案外そんなものかもしれない。それでも、さすがに第二志望の欄には池田先生の名を記したのだが。
やがて本科修了を前にして、研修科で指導を受ける講師が発表された。はたして私の先生は?
これがなんとまあ、第一志望に挙げた講師ではなく、第二志望の池田先生だったのである。これこそが運命の悪戯というやつかもしれない。第一志望のクラスが定員オーバーで外されたのかもしれないが、いずれにしても、あのときに事務局の担当者が私を第一志望のクラスに編入していれば、その後の池田先生との思い出深い日々は存在しなかった。今となっては、担当者に感謝するのみだ。
こうして私は研修科の池田クラスの生徒となった。
池田先生の研修科の授業はほぼ月二回のペースで、土曜日の午後と夕方の二クラスに分けて行われた。場所は六本木の放送作家組合の二階。狭いスペースに、先生を囲むように十人前後の生徒が座り、約二時間に渡って指導を受ける。
私は夕方のクラスに入った。そこには、本科での私の先輩に当たる生徒がたくさんいた。また、以前、先生が指導していた講談社フェーマススクール時代の生徒も、こちらに編入されていた。
集ったのは、実にユニークな面々ばかり。公務員を辞して文筆修業をする者、東大を中退して今で言うフリーターのようなことをしている者、高名な作曲家の夫人、広告代理店の社員、編集者、俳優……。年齢、性別、職業など皆まちまちで、それぞれひとクセもふたクセもありそうな超個性派集団だった。
そうした面々が先生を囲んで授業が始まる。ただし、研修科の授業は本科と違い、生徒の自主性に負うところが大きい。より実践的な授業であり、生徒が作品を持ってくるところから全てが始まる。池田クラスの授業は、いつも「誰か何か持ってきた者は?」の先生のひと言で始められた。作品を持ってきた生徒は、先生や他の生徒の前でそれを読み上げ批評を受ける。
だが、池田クラスにおいては、最初からいきなりシナリオを持ってくることは原則として許されなかった。まずは全体のストーリーを書く。それに対して先生のOKが出れば、続いてはハコ書きとなる。ハコ書きとは、シーンごとにト書きやセリフの概要などを記した、いわばシナリオを書く際の設計図のようなものだ。この設計図が認められれば、いよいよ建築開始、シナリオの執筆となる。
別に自慢をするつもりはないが、私はクラスの優等生だった。といっても、傑作を次々に生み出したわけではない。「ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる」とばかりに、ひたすら書きまくったのだ。
私は、毎回のようにストーリーを持参し、先生や他の生徒の前で読み上げた。読み終わると、先生は何人かの生徒を指名し感想を聞く。その多くはかなりシビアなもので、完膚なきまでに叩きのめされることもしばしばだった。その後の先生の批評も、さらに厳しいものだった。少しでも見込みがありそうなものについては、修正すべき点についてのアドバイスがあったが、そうでないものについては「それはダメだな。別のものを書いてこい」と言われて、それでおしまいということも珍しくなかった。そのため、シナリオはおろかハコ書きの段階まで進むのでさえ容易ではなかった。
だが、それでも私はほぼ毎回ストーリーを書いてきた。せっかく授業料を払っているのだから、無駄にしたくないという気持が大きかったせいもあるが、そればかりではない。たぶん一瞬の静寂が恐かったのだ。
何かを書いてきた者が皆無だったり少数だった場合、必然的に授業時間が余ることになる。そんな場合でも、正式に決められた授業時間である限り、教室を去るわけにはいかなかった。そうなると、先生と我々は雑談を交わすことになる。テレビや映画の話、文学の話、身の回りの出来事など、先生の話はどれも面白く、教室には笑いが絶えなかった。だが、話題が途切れた瞬間、なんとも言いがたい静寂が訪れた。その瞬間の先生の表情に一抹の寂しさが漂うように思えたのは気のせいだろうか。せっかくの貴重な時間を無駄にする弟子どもに対する落胆や、叱咤激励の気持ちがそこに込められてはいなかっただろうか。
「お前たち、ちゃんと書け!」
静寂の瞬間、私は先生からそう言われているような気がした。私が、毎回のように何かを書いてきたのは、その瞬間が恐かったからかもしれない。
後になって、先生が「教える」という行為に思い悩み、何度か生徒の指導を中止した過去があることを知った。一見、和気藹々としたムードに包まれていた池田クラスの授業だが、その裏には先生の複雑な思いがあったのではないだろうか。そう思うと、あのときの静寂には、とてつもなく重たいものがあったような気がしてならない。
当時の先生は、バリバリ第一線のシナリオライターであり、二時間ドラマを中心に様々なドラマの脚本を書いていた。私は、先生がシナリオを担当した番組を必ずチェックし、タイトルロールの「池田一朗」の名を見て、この人物に指導を仰ぐことができる幸せを実感しつつも、なかなか進歩することのない己の未熟さを痛感したものだった。
先生のシナリオはエンターティメントの枠を守りつつも、人物の心理描写などに他には見られない奥行きを感じさせるものだった。特に少年少女の瑞々しい描写が印象に残っている。日本テレビの火曜サスペンス劇場で放送された『少年は見ていた』というドラマの台本が、今も私の手元に残っているが、ここに登場する少年の描写は実に生き生きとしており、後年の時代小説の中に登場する少年少女の描写に通じるものがあるように感じられる。
そうしたシナリオを読みながら、私は「いつかは自分も」と心に誓ったものだった。
売れっ子であるが故に、先生が私達の目前でシナリオを執筆されることもたびたびあった。特にお気に入りだったのは、放送作家組合近くに当時あった「サンズ」という喫茶店。ここのテーブルに向かい、ガッシリとした体躯を小さく折り曲げて、万年筆を手に紀伊国屋製の二〇〇字詰め原稿用に文字を綴る先生の姿は、今もはっきりとまぶたに焼きついている。そこに綴られた文字は、豪放磊落な印象の外見には似合わず升目よりも小さなもので、意外な思いがしたものだった。
そんなときでも、生徒たちが顔を出すと先生はうれしそうな笑顔を見せた。しばし執筆を中断して、たわいもない話に付き合ってくださった。
「いやぁ、明日までにあと八十枚書かなきゃならないんだよ」
そんなことを平然と言い放つ先生に仰天して、そのプロ根性に感服したものだった。
3 酒とシナリオの日々?
池田先生が、多忙な日々の中で私達の指導にあたってくださったことに対して、今も強い感謝の念を抱いているのではあるが、同時に私達との交流は、先生にとってもただ重荷だったわけではなく、それなりに楽しいものだったのではないだろうか。私達は先生に誘われるままに食事や酒の席にお供し、また夏ともなれば海への旅行に出かけた。シナリオの指導で見せる厳しい態度とは違い、そうした場での先生はひたすら明るく楽しかった。
研修科の授業の日も、昼のクラスと夜のクラスとの間に、しばしば生徒と連れ立って食事に出かけられた。それもときにはタクシーを飛ばしたり、電車に乗ったりして、人形町だの、麻布だの、新橋だののご贔屓の店へと出かけるのである。
ただし、そうした店はけっして高級店ばかりではなかった。有名無名や料金に関わりなく、いずれも「うまいものを食わせてくれる」店ばかりだった。先生自身は「俺はグルメではなくグルマン(大食漢)」を自称していた。確かにかなりの健啖家ではあったが、それはむしろ、グルメなどという気取ったものを嫌悪した言葉ではなかったのだろうか。
「俺はお前たちより早く死ぬんだから、残された食事の回数もその分少ないんだよ。だから、うまいものを食いたいと思うんだ」
冗談めかしてそんなことを言われたこともある。
いずれにしても、先生の食へのこだわりは半端なものではなかった。
今でもたまに先生と出かけた店の前を通りかかり、懐かしく思うことがある。なかには、すでに消えてしまった店もあり、時の流れを痛感させられる。
食について書いたなら、やはり酒のことを書かないわけにはいかない。先生と私達との交流においては、どうしても酒の席が外せない。実は、池田クラスには、シナリオの指導を仰ぐのではなく、先生と一緒に酒を飲むことを目的に顔を出すのではないかと思われる生徒もいた。研修科の趣旨からすればどうかとも思うが、単にシナリオの師と弟子という関係を越えて、人間的なつながりを求めて集まってきたのだろう。先生にはそう思わせるだけの十分な魅力があった(逆に、そうした濃密なつながりに溶け込めず、一、二度顔を出しただけで去っていく生徒がいたのも事実だが……)。
そうした「めったに作品を書かない」弟子の存在を先生はどう思っていたのか。私にはよくわからない。内心は複雑な思いがあったのかもしれないが、少なくとも表面的には、そうした生徒を拒否することはなかった。おかげで毎回の授業は盛況だった。
研修科の授業が終わると、よほどのことがない限り飲み会となる。
「飲みに行くか?」
先生にそう言われて、そのまま帰る者はほとんどいない。先生のなじみの店に席が空いているかどうか連絡を入れ、我々は連れ立って飲みに出かけた。
飯倉の「ユニベール」、赤坂の「フォギー」、六本木の「ダンダン」。足を運ぶ店は変わっても、授業の後の飲み会が絶えることはなかった。「先生の寿命を縮めたのは自分だ」と自嘲する関係者は多いらしいが、我々もまたその仲間かもしれない。
そうした店の多くは、当時の私のような若輩者がめったに顔を出せる店ではなかった。芸能人やスポーツ選手が顔を出す高級店も多かった。そんな店に通えたのは、当然ながら先生の顔によるものだ。店側に「学割料金」なるものを設定してもらったおかげで、どうにか先生のお供をすることができたのである。
先生は、ビール以外のたいていの酒を好んだ。我々と飲み歩いていた頃は、量こそあまり飲まれなかったものの、それでも焼酎、ウォッカ、紹興酒など様々な酒をたしなまれた。
なかでも好きだったのが日本酒である。まだ若く酒など何でも同じだと感じていた私が、酒の世界の奥深さを知ることができたのも池田クラスのおかげだ。当時、我々の先輩に当たるKという人物が全国の蔵元を回っては、銘酒を先生に届けていた。その酒を研修科の後の飲み会で、味見させてもらうこともあった。「雪中梅」「越の寒梅」「八海山」「鬼ごろし」などなど、全国の銘酒の名を覚えたのもそのときだ。
そういえば、こんなことがあった。あるとき、研修科の後の飲み会で行った店に、「ロンリコ」という酒が置いてあった。ラム酒ではあるが、そのアルコール度数はなんと七十五・五度。マッチを近づければ青白く燃え上がった。先生はそれを我々のうちの酒に強そうな何人かに勧め飲ませたのだ。
私も飲んだのだが、さすがに強烈な酒だった。「ノドに溜めずにクイッといくんだ」と先生は言うのだが、なかなかそんな器用なことはできない。ノドが焼けるように熱くなり、やがて意識が途切れてしまった。他にも突然店の外を走り回る者など、何人かが異変を起こしたが、先生は「大丈夫か?」と心配しつつも、どこかでそれを面白がって見ているような感じだった。子供の悪戯に近い感覚だったのかもしれない。そういう無邪気なところも先生にはあったのだと思う。
先生との酒宴には、歌もつきものだった。先生はカラオケが好きで、「風雪流れ旅」など十八番の歌を、味のある歌声で披露されていた。弟子の歌を聴くのも好きで、特に当時俳優をしていたHという弟子の歌がお気に入りだった。ご指名で歌わせることもたびたびあった。
私もときには指名を受けることがあった。上田正樹の『悲しい色やねん』という歌だ。この歌は、H氏もレパートリーにしていたのだが、どういうわけか先生は「この歌はお前の方がいい」と言われ、それから私は事あるごとにこの歌を歌うようになったのである。今でもこの歌を歌うと、在りし日の先生の姿が思い出され、自然に胸が熱くなる。
それにしても、飲んで歌って遊んでばかりではないか。
いやいや、そんなことはない。酒の席で、肝心のシナリオの話が出なかったわけではない。だが、殊更に熱くシナリオ論を論じ合うなどということはあまりなかった。むしろ、お互いの身近な出来事から新聞の三面記事に載るような話題まで、実に雑多な話をしたものである。先生の学生時代の話や戦争中の話、かつて大学で教鞭をとっていた話やシナリオライターになってからの話なども興味深く聞かせて頂いた。高尚な哲学に関する話題からバカな芸能ネタまで、とにかくありとあらゆる話題が飛び出し、あっという間に時間が過ぎ去った。今になってみれば、あの時間は私にとって貴重な人生の学校だったような気がする。池田一朗という稀代の“かぶき者”の身近にいて、その話を直接聞くことができたのだから。
4 最初で最後のチャンス
今も忘れられない先生の言葉がある。
酒の席である生徒がこう訊ねた。
「先生は、本当は私達の素質を見抜いていて、シナリオライターとしてものになるかどうか、全部お見通しなんじゃありませんか?」
「そんなことはないよ」
先生は苦笑しつつ答えられたが、私はその言葉とは裏腹に、先生は私達のことを見通しているに違いないと直感した。
先生の指導方針は、生徒をコンクールに入選させることを最大の目標に置いていた。いくら自分の弟子とはいえ、全く何の実績もない者を業界の関係者に推薦するのは、潔しとしないのが先生の考え方だった。だが、コンクールで入選すれば、それは立派な実績であり、関係者にも推薦しやすくなる。だから、まずは何が何でもコンクールで入選しろと言うのだ。
私もコンクールへの応募を目指して、授業には毎回のようにストーリーを持ってきた。だが、なかなか先生のOKは出なかった。コンクールが近づいて見切り発車のような形でOKが出ても、その後書き上げたシナリオはことごとく落選してしまった。自分には才能がないのではないか。いくら努力してもダメなのではないか。先生はすでにそのことを知っているのではないか。そんな考えが頭を離れなかった。
後年になって、先生の『教える罪』というエッセイを読む機会があった。そこで先生は、何人かの生徒が自分の指導によってコンクールに入選し、その結果、人生を大きく狂わせてしまったことについて後悔の念を込めて述べられている。
私のように才能のない者でも、何かの間違いで賞を取ってしまい、いわゆるプロのシナリオライターにならないとも限らない。だが、そこで才能のなさが露呈したらどうなるのか。もしも、賞など取らなければ、平穏な日々を送れたかもしれないのに、なまじ自分が指導したばかりに道を誤ったとしたら……。
私を指導する先生の頭には、そんな思いがあったのではないか。そう考えるのは思い過ごしだろうか。
そんな私にもやがて転機が訪れた。
数あるコンクールの中でも、池田クラスの生徒達が特に目標にしていたのが、毎年六月に放送作家協会がNHKの後援を受けて行う「新人シナリオコンクール」である。入選作はNHKでオンエアされる可能性もあり、今までにも何人ものプロのライターを輩出していた。
応募の締め切りは、毎年六月末。この日を目指して、生徒達の意欲は最高潮に高まる。授業も熱気を帯び、ふだんに比べて多くの作品が発表された。「飲み会のためのクラス」などと揶揄されるようなこともあった池田クラスだが、けっして遊んでばかりいたわけではない。なかには、ふだんの授業で作品をほとんど発表しない生徒までもが、内緒で作品を書き上げて応募することもあった。
ちなみに、当時池田先生はこのコンクールの責任者のような役目を負い、最終選考にも携わられていた。だが、けっして自分のクラスの生徒を優遇するというようなことはなかった。せいぜい生徒の作品がどの段階で落選したのか。選考終了後に内緒で教えてくださる程度だった。いや、実のところ、私をはじめ最終選考までたどり着く生徒がほとんどおらず、先生が後押ししようにもできなかったといった方が正解かもしれない。まったく出来の悪い生徒で恐縮するばかりである。
そういえばこんなエピソードもある。どのコンクールもそうだが、応募は郵送で行うのが普通だ。だが、池田クラスには奇妙な習慣があった。郵送でも充分に間に合うというのに、わざわざ事務局に持参してくる者がけっこういたのだ。
別に郵便局を信用しなかったわけではない。早く先生に報告したかったのだ。当時、池田先生は研修科の授業のない日でも、協会やその周辺の喫茶店などに顔を出すことが多かった。協会に作品を持参した際に運良く先生に出会えて、提出の報告ができればこれほど嬉しいことはない。作品を書き上げた喜びも倍増しようというものだ。
私も、何度か締め切りの日に作品を持参した経験がある。運良く先生に会って、報告できたこともある。
「今、出してきました」と言うと、先生は何とも言えないにこやかな笑顔で「そうか」と答えてくれたものである。その瞬間が何よりも嬉しかった。
こうして、私は何度かコンクールに挑戦してみたものの、入選はおろか最終選考に残ることもできなかった。
そんな中、新たにフジテレビが「ヤングシナリオ大賞」と称する新人シナリオコンクールをスタートすることを発表した。私は、何とはなしにそれにチャレンジしてみたいと考え、先生にその旨を告げた。
「おお、いいんじゃないか」
その言葉に後押しされて書き上げたストーリーは、アイドル歌手とその親衛隊の男の子達との交流を描いた青春物語である。それまでの私は、どこにでも転がっているような話ばかり持ってきては、先生を落胆させてきた。今度の話は、それに比べればユニークだという自信はあったが、はたしてどれほどの評価をもらえるものやら。疑心暗鬼で私はそのストーリーを読み上げた。
読み進むうちに、多少はあった自信らしきものも消失して、私はすっかり意気消沈。厳しい評を覚悟した。だが、意外にも次の瞬間、先生は笑いながらこう言った。
「なかなか面白いんじゃないか」
それを聞いて私は飛び上がらんばかりに喜んだ。
先生はふだんから巧みなストーリーよりも、ネタの斬新さを重視した。それはそうだろう。私のような駆け出しのライター志望者にとって、技術の巧拙ならキャリアの豊富なベテランにかなうわけがない。ベテランにも伍して数あるシナリオの中で光り輝くには、ユニークで面白いネタが必要不可欠なのだ。
その中でも、先生は自分が興味をそそられるネタには、こちらが恐縮するほど細かな指導をされた。どんなものにも平等に指導を行うのが名指導者だとすれば、先生はけっして名指導者とは呼べないかもしれない。だが、自分の感性の琴線に触れた作品については、とことんつきあってくれた。そうした好奇心旺盛な姿勢こそが、後に隆慶一郎として時代小説史に残るユニークな作品群を生み出す源泉になったのではないか。私はそう思うのである。
私は、先生に命じられ、何度もストーリーを修正し、ハコ書きに取り掛かった。それらはけっして先生を満足させる出来ではなかったが、コンクールには締め切りというものがある。いつまでも引き伸ばすわけにはいかない。やがて先生は私に、シナリオの執筆を命じられた。
当時の私は、まさにこれが最初で最後の大チャンスとばかりに、シナリオの執筆に集中した。一応会社員らしきことをまだ続けていたのだが、睡眠時間を削り、仕事をサボり、ヘロヘロになりながら原稿用紙に向かい続けた。
こうして書き上げた第一稿は、自分なりに自信があったものの、先生によって厳しく批判された。先生の指摘はいちいちもっともなものであり、反論の余地もなかった。私は先生の指摘に従って第二稿を書き上げた。だが、それもまた先生の指摘を受け、書き直すハメになった。そんなことが何度か続き、コンクールの締め切りも徐々に近づいてきた。
そんなある日、私のシナリオを見た先生はこう言った。「お前、書くのは早いよな」
確かに私は、仲間うちでは原稿を書き上げるのが早いことで知られていた。その後、フリーライターになってからも、「原稿を書くのが早い」ことだけをアピールポイントとして生きてきたような男である。
「だったら、このシナリオを俺に預けろ」
先生はそう言い渡した。持ち帰って、じっくりと添削してくれるというのである。
断る理由などあろうはずがない。そこまで私のシナリオに入れ込んでくれるなんて、これ以上の幸せがあるだろうか。私は、喜んでシナリオを預けた。
ところが、いつまでたっても私のシナリオは返ってこなかった。依然として忙しい先生だけに、なかなか目を通す時間がないのであろう。「もう少し待っていろ」という先生の言葉に従って私は待ち続けた。
締め切りは少しずつ近づいてくる。
「まさかこのまま時間切れになったりしないだろうな……」
そんな不安を抱くようになった頃、ようやく先生からシナリオが返却された。それを見て我が目を疑った。そこには赤インクでびっしりと、修正すべき点や注意点が事細かに書き込まれていたのだ。それはもう弟子のシナリオを指導したなどというものではない。まるで自分の作品を修正するかのように、セリフの細かなニュアンスまでいちいちチェックしてあった。
私は感激で言葉も出なかった。だが、締め切りは目前である。先生の指導を無駄にしないためにも、とにかく早く完成しなければならない。昼夜を問わず原稿用紙に向かい、先生の赤字を生かして必死でシナリオを修正し、どうにか締め切り前に完成させることができた。シナリオのタイトルは『まわれ!メリーゴーランド』。
先生がそこまで私のシナリオに入れ込んだのは、私の実力や努力を評価してのことではなかったと思う。すでに述べたように、取り上げた素材が先生の感性の琴線に触れたからに違いない。そうでなければ、まるで自分のシナリオを扱うように、あそこまで熱心な添削を行ったりはしなかっただろう。
そういえば、ちょうどその頃、先生と喫茶店でお茶を飲んでいたことがあった。そこに、ある映画会社のプロデューサーが先生との仕事の打ち合わせに訪れた。そのとき先生はプロデューサーに向かって私のことをこう紹介した。
「コイツはねぇ。面白いシナリオを書くんだよ。アイドル歌手と親衛隊の話でねえ。これがなかなかいいんだ」
そう言って目を細めて、うれしそうに笑われたのだ。
当時の池田先生は指導者である前に、やはり第一線の現役のライターだったのだと思う。シナリオに限らず、文芸の世界の指導者には自らは一線から引いて、弟子の育成に専念する作家も多い。効果的な指導法を駆使して、多数の作家を輩出しているケースもしばしば耳にする。池田先生も、そうした有能な指導者の一人だったかといえばそれは違うと思う。何をさておいても弟子を一人前にしてやろうするタイプの教師ではなかった。
だが、池田先生にはそれをしのぐ大きな魅力があった。それはシナリオライターとして第一線の現役であり、その姿をそのまま私達に示してくれていたということである。しかも、同時に先生は人生においても第一線の現役であった。だから、シナリオの技巧だけでなく、物の見方や考え方、ひいては生き方まで私たちは学ぶことができた。それこそが、先生の最大の魅力であり、そこに惹かれて大勢の生徒が集まってきたのだと思う。
さて、私のシナリオはどうなったのか。先生の指導のおかげで見事にコンクールで一位となり、華々しくシナリオライターとしてデビュー……となれば、実に劇的な展開である。だが、人生はそれほど甘くはない。結果は数百編の応募作の中から最後の十作に残り、最終選考にかけられたものの、そこであえなく落選となった。
「優秀賞」ということでわずかばかりの賞金をもらった私に、「そうか。それは残念だったな」と声をかけられた先生。あのときは自分の力不足を痛感すると同時に、せっかくあそこまで熱心に指導してくれた先生に対する申し訳なさで言葉もなかった。
かくして私の実力のなさから落選となったものの、あのシナリオはまさしく私と先生との共同脚本のようなものであった。特に登場する少年たちの生き生きとした生態は、私一人ではとても描けなかった。こうしてテレビや映画の世界に名を残すシナリオライターであり、後に数々の時代小説の傑作を生み出した作家隆慶一郎となった池田一朗と、共同作品ともいえるシナリオを書き上げられたことが、今も私にとっての大きな誇りなのである。
5 自主講座
研修科の授業はその後も続いた。もちろん授業後の飲み会も。
だが、シナリオライター池田一朗は終りのときを迎えようとしていた。すでに先生の関心はかねてより構想を抱いて時代小説の世界に向かい、デビュー作『吉原御免状』の「週刊新潮」誌上での連載も開始されていた。作家、隆慶一郎の誕生である。
私はふだん読むことなどめったにない「週刊新潮」を購入し、食い入るように先生の小説を読み耽った。それは私が持っていた時代小説のイメージを覆す斬新なものだった。シナリオライター時代と同様に、人物の生き生きとした描写が秀逸で、次号が出るのが待ち遠しくて仕方がなかった。
こうして小説家デビューを果たしてからも、先生は私達の指導を続けてくれた。
ところが、やがて転機が訪れる。先生が研修科の講師を辞められることになったのだ。その理由については、噂も含めて様々な話があり、真相はよくわからない。ただ、先生自身は前述したエッセイ『教える罪』の中で、こう述べている。
「理由はいろいろあるが、なまじ賞を取ったために、人生が狂う、ということが基調にある」(隆慶一郎全集第六巻/新潮社)
要するに、エッセイのタイトル通り、教えることの罪深さに思い悩み、自らその役目を降りたというのだ。実際、これまでも先生は人生を狂わせた生徒を目にし、それをきっかけに教師の仕事を辞した経験が何度かあった。その後、様々な経緯から再び教師となり、私達の指導に当たってくれたわけだが、それももう終わりだというのである。
それを聞いた私達は動転した。大好きな先生にシナリオの指導を受けられなくなるというだけではない。すでに私達にとって池田クラスの存在は生活の一部になっていた。月に二度集まり、各自のシナリオ作品について議論し、その後の飲み会で楽しいときを過ごす。それがなくなってしまったら、これからどうすればいいのだろう。
だが、先生は私達を前にあっさりとこう宣言した。
「お前達の指導はこれからも今まで通り続ける」
それは弟子どもを悲しませたくないという配慮だったのだろうか。途中で責任を放棄したくないという自身の生き方の問題だったのだろうか。あるいは、先生自身、私達と触れ合う機会を楽しんでおり、それが消えることを恐れたのだろうか。今となってはその心中を察することはできないが、ともかく生徒達は安堵した。
とはいうものの、これまでの「研修科」という場はもう使えない。放送作家組合の外に、新たな場を設けなければならない。いわゆる自主講座というわけだ。そして、あろうことか、先生はその責任者に私を指名されたのである。
「田中、お前がやれ!」
この指名の背景にはある事件が関わっている。これまでの研修科時代には、先輩格にあたるO氏が様々な仕切り役を任されていた。授業以外の飲み会や毎年夏に出かける海への旅行など、池田クラスについてのあらゆることを彼が仕切っていた。先生が隅田川近くのマンションに引っ越してからは、恒例の隅田川花火大会の日に、先生の部屋に弟子の有志が集まり花火を鑑賞する催しが行われたが、その仕切り役もO氏だった。
だが、ある年の花火大会の日、彼はメンバーへ集合の連絡をしなかった。実は、先生は新しい部屋に移られたばかりであり、しかも、そのときすでに隆慶一郎として活躍していた先生の部屋には、多数の編集者が集まるという噂があった。それに配慮して遠慮した方がいいと考えたようなのだ。
ところが、それは余計な配慮だった。後で聞いてみると、先生は「弟子どもが来るから」というので、編集者に断りを入れていたというではないか。おかげで、花火大会当日、例年たくさんの来客で賑わう先生の部屋は閑散とし、先生は激怒のあまり用意していた寿司を窓から放り投げたというのだ。
その件があってから、先生は「Oは、仕切り役は失格だ!」と断じた。O氏の弁明も効果はなかった。一度こうと決めたら、絶対にそれを曲げない頑固さも、先生の特徴だった。
新たにスタートする自主講座の世話役にO氏でなく、私が指名されたのはそうした事件が背景にあったのだ。
それにしても、私はそれほど几帳面な人間に見られたのだろうか。だとすれば先生の人間分析能力も怪しいように思えてしまう。私は先生の指名を受けるほどの資質を持った人間ではない。おそらく、ほぼ毎回授業に出席していたことに加え、当時はサラリーマンをしていたこともあって、いわゆる社会的な常識はそれなりに有していたことが先生に評価されたのかもしれない。いずれにしても、私は自主講座の仕切り役となった。
新たな授業のペースは従来通り月二回、場所は先生が来やすいところ、しかも安く借りられるところというので銀座周辺の公共施設を利用することにした。最も多く使用したのは、東銀座の歌舞伎座横にある中央区区民館である。その一室を借りて、従来の研修科とほぼ同様の授業を行った。先生の指導を受けたい者は、自らの作品を持参し、皆の前で読み上げる。そして、他の生徒の批評を受けた上で、先生の批評を受ける。
約二時間の授業の後は、これまで通り飲み会となる。東銀座の居酒屋に我々は大挙して繰り出した。研修科の枠こそなくなったものの、表面的にはそれまでと何も変わらない毎日が続いた。
だが、その頃、すでに先生は何本もの連載を抱える売れっ子作家となっていた。執筆される原稿の量は半端なものではなく、よくぞこれだけ同時並行で作品が書けるものだと驚嘆するしかなかった。長い間胸に秘めてきた小説への熱い思いを、怒涛のように吐き出しているように思えた。
そのため、さすがに以前のように夜遅くまで痛飲する機会は減っていた。我々との飲み会も比較的早い時間にお開きとなることが多くなった。私が出会った頃とは、明らかに違う生活を送られるようになっていた。
また、私達生徒の側にも変化が訪れていた。時間が経つにつれ、シナリオへの情熱を失う者も増え、ある者は小説を書き始め、ある者は何かを書くこと自体を中止した。東京を離れる者も何人かいた。そのため、せっかくの授業の際にも、作品を持参する生徒は少しずつ減り、決められた授業時間を世間話に費やして終わってしまうことさえあった。
そんな中、私はといえば依然としてシナリオを書き続けていた。かつてほどではないものの、授業に作品を持参する頻度は相変わらずナンバー・ワンだったと思う。ただ、それはもはや純粋に先生の指導を受けたいという思いからだけではなかった。すでにシナリオライターから作家へと転進し、多忙な毎日を送る先生。放送作家教室の講師も辞し、何の義務もないというのに、わざわざ時間を割いて駆けつけてくださる先生。そんな先生に対する申し訳ない気持から、私はひたすら作品を書き続けたのだと思う。
誰も作品を持って来ず、世間話に終始する機会に先生がチラッと見せる硬い表情。
「俺はこんなことのために忙しい時間を割いているんじゃない」
そう語っているように思えた。だから、とにかく作品を書き続けたのだ。
自主講座における責任者としての私の役割は、それほど大きなものではない。月に一度会場を訪れて予約を入れること、それをメンバーに知らせること、そして先生に確認の電話をすることだった。
先生への確認の電話は、授業がある土曜日の前日、金曜日の午前中に差し上げた。
「先生ですか。田中ですが、明日の授業の件、よろしくお願いします」
それに対して先生は短く「はい。わかった。」とだけ答えられる。だがそのニュアンスは微妙に変化していった。
自主講座が始まった当初は、どことなく優しい雰囲気が感じられ、私も電話をかけるのを苦にすることはなかった。だが、そのうちに同じ「はい。わかった」という言葉の裏に、なんとも苦しそうな雰囲気が感じられるようになったのだ。
「先生はもはや我々の指導を重荷に感じられている」
私はそう確信した。
寸暇を惜しんで多数の連載小説を書き続ける先生にしてみれば、当然のことである。まさかその当時、自らに残された時間が少ないことを自覚していたとは思わないが、貴重な時間を弟子どものために割くよりも、自分の執筆に充てたいと考えるのは自然なことだ。しかも、肝心の弟子どもが以前に比べて、シナリオへの情熱をなくしているのは明らかだったのだから。
その頃から、私は先生へ確認の電話を入れるのを苦痛に感じるようになった。
「自分はこうして稀代の作家、隆慶一郎の創作活動を妨害しているのではないか」
そんなふうにまで思うようになった。私は、何とかしてその苦痛から逃れたいと考えた。
だが、作品を持参する生徒こそ少ないものの、授業を開けば依然としてたくさんの弟子どもが会場を訪れていた。そんな中で、授業の中止など言い出す勇気は私にはなかった。私は義務感だけで責任者役を続けた。
やがて事態は意外なところから急転した。ある日、私のもとにある人物を介して先生の意向が伝えられた。
「忙しくてもうどうにもならない。授業を中止させてくれ。その代わり、作品を見てもらいたいときは各自いつでも見てやるから」
私は正直ホッとした。先生の指導を受けることができなくなるのは寂しかったが、今はそれよりもこれ以上執筆の邪魔をしなくて済むことに安堵した。しかも、弟子達がその気にさえなれば、いつでも個人的に作品を見てくださるというありがたい言葉まで頂けたのだ。
先生の意向を受けて、授業は中止されることになった。弟子達の反応は様々だった。先生の多忙さを理解して「仕方がない」と言う者も多かったが、「先生は私達を見捨てたんだ」などと大仰なことを言う者もいた。
だが、これ以上先生を我々の前に縛り付けて何の得があるというのか。先生の意志を尊重するのが本当の弟子ではないか。私は、池田クラスの卒業生となることを素直に喜びたいと思った。
6 別れ
こうして授業が中止されてからも、先生と我々との交流が途絶えることはなかった。先生のなじみの店である神保町の「と志松」での忘年会など、さまざまなイベントの際には多忙な時間を割いて駆けつけてくださった。そうした席では、私達が出会った頃と少しも変わらない底抜けの笑顔を見せてくださった。
先生と直接接する機会は減ったが、何より私は先生の作品を読むことで、常に先生と接することができた。『捨て童子・松平忠輝』『一夢庵風流記』『影武者徳川家康』『花と火の帝』。新聞、雑誌、単行本を問わず私は先生の作品を読み耽った。その時間は間近で先生と会話をしているように思えた。直接教えを乞うのと少しも変わらず、貴重な教えを受けていたようなものだった。
先生の体調の異変を知ったのは、最初の入院のときだった。それまでも、酒の席などで不調を訴えられることはあったが、少しも深刻ぶらない口調のせいもあって、それほどのことでもないとばかり思っていた。
入院の報せを聞いた時も、あまりの多忙が招いた体調不良程度にしか思わず、すぐに快復されるものと信じていた。
平成元年(一九八九年)の五月頃、私たちは弟子の何人かで連れ立って、入院先の東京医科大学病院にお見舞いに出かけた。ロビーに出てきた先生は、ちょうど風呂上りということもあって、たいそう血色が良く、とても病人には見えなかった。いつもの笑顔を浮かべながら、病院生活のあれこれなどをユーモラスに語ってくださった。入院したとはいえ、病院でも相変わらず精力的に執筆活動を続けていて、とても深刻な状態には見えなかった。
それからしばらくの間、私は先生の退院の報せを今か今かと待ち続けた。だが、朗報はなかなか届かなかった。むしろ風の便りで、思った以上に病状が深刻であることが伝わってきた。それでも、雑誌の連載小説等は継続されており、時間はかかってもいずれは完全復帰されるのだろうと信じていた。
先生の退院の報せは、入院から四か月ほど経った九月になってようやく届いた。だが、私の心は晴れなかった。『小説新潮』誌上に掲載された縄田一男氏との対談における写真の先生は、私達が見舞いに行った頃と比べて明らかに痩せられていて、疲れたような雰囲気に満ちていた。
「何とかこのまま快復して、再び私達にあの笑顔を見せて欲しい」
私はひたすらそう祈るしかなかった。他の弟子達も同じ思いだったに違いない。
だが、その願いは届かなかった。間もなく再入院された先生は、十一月四日に息を引き取られた。関係者から先生のご逝去を電話で知らされた私は、不思議な感覚に襲われた。悲しい、辛い、空虚、どんな言葉でも表現できない感覚だった。大きな、とてつもなく大きなものが、突然目の前から蒸発するように消えてしまった……。
実は、亡くなる少し前に、我々弟子達は病院にお見舞いに出かけていた。その際には、事前にもう先が長くはないことを知らされていた。最後の対面である。
けっして暗い顔を見せまいと心に決めて、私は仲間とともに先生の病室に足を踏み入れた。先生はベッドに半身を起こされて、私達を迎えてくださった。その顔はもうこれ以上痩せようがないほど痩せており、深い皺が刻まれていた。起きているどころか、息をするのも辛そうな様子だった。その顔をまともに正視できず、ハンカチを取り出す者もいた。
それでも私達を見た先生は、弱々しくはあるもののはっきりと笑みを浮かべられた。自身の苦しい病状に関係なく、数か月ぶりの弟子達との再開を素直に喜んでいられるようだった。
暗く沈みがちな雰囲気の中、私達は努めて明るく振舞い、先生もその時間だけは、元気に私達と過ごした頃に戻ったかのように見えた。
突然、ベッドの周りを囲んだ弟子のひとりが、不注意からテープルの上のものを床にぶちまけてしまった。
「しょうがない奴だなぁ」
先生はそう言って、こぼれるような笑いを見せた。その瞬間、時間が止まったような気がした。先生が見せた笑顔は、かつて授業で私達を指導したときの、酒場で楽しく談笑したときの、あの笑顔と少しも変わらない笑顔だった。あの瞬間、先生と私達は、紛れもなくあの日々に戻ったのだと思う。幸せだったあの時間に……。
先生が亡くなって、すでに十数年が経過してしまった。当時サラリーマンだった私は、今も念願のシナリオライターになることはかなわずにいる。様々な経緯から、現在ではフリーライターなるものを生業にしているとはいえ、ただ駄文を書き連ねているだけである。自分が書きたいものを書くなどというのは夢のまた夢。生活のためだけに文章を書く毎日だ。
それでも、私はたとえ駄文でも、これからも何かを書き続けていこうと思う。生前、先生が私のことを「最初はどうしようもないと思っていたけれど、人間書き続けていれば上手くなるものだ」と評していたことを後になって知った。その言葉を胸に刻みつけて、ひたすら書き続けていく。それが今となっては、先生と私とを結ぶ唯一の絆なのである。
先生。
先生との八年間の日々が、私の人生においてどんな意味があったのか。今の私には明確に語る言葉がありません。先生が私にとってふさわしい師匠だったのか、私はその教えに応えることができたのか。今もよくわかりません。
でも、私が自信を持って言えることがひとつだけあります。先生との八年間の日々は、私にとって間違いなく幸福な時間でした。先生と出会えたことを心から感謝しています。ありがとう、先生。
(終)
死人
『死人(しびと)』
K. Kainaga 著
隆慶一郎こと池田先生のお墓は、熱海から車で二十分ほどの日金山霊園にある。晴れた日には眼下に駿河湾が見渡せ、少し歩くと目の前に大きな富士山が現れる。
2002年秋の墓参には、二十歳になった私の息子が加わっていた。ここ三週間ばかりの間に、隆慶一郎が残していった小説のたぐいは全て読み終えていた。
何かの雑誌で“面白すぎる時代小説”といった書評を読み、家の書棚にある『吉原御免状』を手にした途端、止まらなくなったらしい。そして、それは花火みたいに残像を残して、あっと終ってしまう。ひどく新鮮で甘美な世界にいきなり引きずり込まれ、わくわくする胸の高鳴りを感じ始めて間もなく、あとは自分の好きにしろ、みたいな先生特有のつきはなしに会ったような不満が残ったみたいだった。
墓参に訪れる若い人もそういった気持ちをかかえている人が多いと聞く。
その日も関東池田会の連中と墓前で酒をくみかわし、小一時間ほど先生の思い出話をして、どこか満足気な様子の息子と帰路についた。
先生は、子供が好きだったように思う。自分のお子さんの話もよく耳にした。息子がまだ三つになるかならないかの頃だったか、築地の店で忘年会につれていったことがあった。私と息子と二人分の会費を払って、席についた時、いきなり先生の怒鳴り声が響いた。
「おい、大嶋(池田会の幹事さん)こんな年端もいかない子供から、一人分の会費を取るとは、どういう了見なんだっ」
「お刺身食べさせるために連れてきたんで。一人前じゃ済みませんから、いいんですよ、先生」私は、慌てて言った。
ほどなく、お刺身の船盛りがくると、息子は待ってましたと言わんばかりに、船盛りの正面に立ち、左手にお醤油の小皿を持つと値の張りそうな中とろあたりから、まるでおかきでも口に放り込むみたいに、パクパクと食べだした。それを見るなり先生は相好を崩され
「お刺身、旨いか」
「うん」と息子。
「こっちが、終ったらまだ向こうのもあるぞ」「うん」
「こっちのはダメ。おじちゃん達の会費分だから」とは幹事さんは言わなかったとか。
「鍋もあるぞ、たんと食えよ」
そして、先生はいそいそと鍋の支度にとりかかられた。鍋には先生特有の作法があった。まず、火を入れると同時にハマグリを入れ、鍋が煮立つと、あれを入れろ、これを入れろと指図された。火加減を整え、こまめにあくを取られた。実に手際がよかった。
先生と囲んだ食卓はどれも楽しかった。浅草に転居されてからは、隅田川の花火大会に呼んで下さった。うかがうと、お寿司やビール、心づくし手料理が所狭しと並んでいたのを思い出す。隅田川の花火大会は、その規模、美しさにおいて際立っていた。マンションの非情階段からは、真正面に巨大な花火が見えた。そのあまりの迫力と優美な閃光は、胸に迫るものがあった。
ビール片手に、手すりにもたれ、ジッと見入っておられた先生の後姿、巨大な火の塊に吸い込まれそうに見えたそのシルエットが網膜に焼きついている。
そして、今でも特に真紅の花火を見ると、必ずといっていいほど思い出す情景がある。『吉原御免状』に登場する勝山という女忍者が、主人公誠一郎への思いがかなわず、自らの仲間が仕掛けた爆弾で、誠一郎の身が砕け散り、その空から降ってきた血の雨をどっぷりと全身にあびることを夢想して陶然となる箇所がある。いつだったか、先生に
「あそこ、すごいですね。鳥肌が立って次に読み進むのに、少し時間がかかりました」みたいなことを言った。そしたら、先生は、一瞬、意外そうな顔をされ、こっちを覗き込むような感じで、
「ほォー、お前にああいう女の気持ちがわかるのか?」と言われた。
「いえ、まぁー、わかるかって聞かれたら、わかるとはいえませんけど…でも、赤い花火みたいに好きな男の血の雨が降ってきたら、顔を上に向け、両手を広げて全身で受け止めるしかないでしょう」そんなふうなことを言ったように思う。
先生は、ニャ−ッと笑われ、側にあるピースの缶から一本を取り出し火をつけられた。繰り返しこっちを見ては、どこかおかしそうに笑われるもで、私も笑い返したら、先生は声をあげて笑われ、そのうち煙草の煙にむせて、ゲーッと言いながら胸を叩かれた。
こういう言い方は適当でないかもしれないが、私は池田会のメンバーで唯一誘われない女だったのではないか。誤解の無いように断っておくが、先生は、女性と認めれば“誘う”ことが礼儀だと思っておられたふしがあった。
ずっと前のことになるが、コンクールに出すシナリオの原稿を見てもらった後、六本木の協会へ戻る途中だったか、先生は突然ウーッと背伸びをされ「眠いなァ−」といわれた。何か唐突だったので、私は一瞬足をとめて先生の横顔を見やり
「徹夜ですか」といったが、
「今時、女子高生でもそんなことは言わないだろう」
「じゃ、ゆっくりお休み下さい。どうもありがとうございました」そういうなり階段を駆け降りてそのまま帰ってしまった。十年位たって、やっと気がついた。もしかして、そうだったのかな、と…。
先生がいらしたら聞いてみたいけど、きっと
「やぼなこと言うんじゃないよ」と言われるであろう。
そんな私だったから、夫婦の機微、男女の愛憎に至っては書けるはずもなく、先生はよく
「お前の原稿には、感情の穴がいっぱいありすぎて、つながっていかないんだよ」と言われた。そして、赤い丸っこい字で、丁寧に添削してくださった。
先生が小説を書かれるようになってからはとても忙しく、そういうことに時間をさくこともなくなられた。
先生は、時代小説のネタを探しに、よく神田の古本屋へ行かれたらしいが、一度だけ、ご一緒したことがあった。
「お茶の水の山の上ホテルわかるか?」突然の電話で呼び出され、小一時間ほど二人して神田まで歩いた。あとにも先にも、あれが先生と過ごした二人っきりの唯一の時間だった。
目当ての本屋は、本当に小さな古本屋だった。ガラガラと建付けの悪いガラス戸を開けると、カビ臭い独特の匂いがした。狭い通路を挟んで、天井から床まで、ぎっしりと本が並べてあった。
先生は古い書物を手にとっては、パラパラとページをめくられ、また次の本をとるというように、本の間をゆっくり歩かれた。ふっとそこだけ違う時間が流れているような気がして、私は先生の側を離れた。
人間の営みには、すべてにわたって長い長い歴史がある。その長い歴史の中で淘汰されて、いくつかの珠玉のような真実がさまざまな形で遺され伝えられてゆく。形は古くなり理解されなくなっても、その心にある真実はふるくなることはない。(『影武者徳川家康』の中にある一節である)
先生の小説を読むと、確かに主人公と一緒に息をし、感じておられるのが伝わってくる。しばらく本を捜された後、
「今日は、あんまり、いいのが見つからなかったな」と言われ、二人でまた少し歩いたように思う。
「先生はどうして過去の人を書くんですか?」
「死人」
先生はしにんではなくしびとと言われた。
先生が死人になられてから十数年、先生が言われたことの意味が、やっとわかるようになった。
了
心優しき伯父貴
『心優しき伯父貴』
S.Ebisawa 著
池田先生は、私にとってはシナリオ教室の先生というより“心優しき伯父貴”と言った方がむしろ適当です。
今から30年以上も前のことで、どのような動機でシナリオ教室に通うようになったのかすら定かでありませんが、私の兄が早稲田大学のフランス文学部を卒業し、一旦は東京の大手出版社に就職していたのに、家庭の事情で田舎の電気屋に引き戻されたことを不満と思い、仕事の合間に小説を書いていたのを見ていたことに多少影響を受けたのかも知れません。
私自身も高校生時代に「芥川賞」に応募したことがあります。その折、文藝春秋社からハガキが届き、それに“精神的に幼稚で固まっていないので、25歳を過ぎてから本格的に勉強しなさい”とありました。その後、実家の電気屋で働いたり病気をして入院したり、予備校に通ったり、どうにか大学に入学したりと慌ただしい年月を送った後、大学を卒業し農林省(水産庁)に入省し、歳も30近くなり、何かやってみたいと考えてシナリオ教室に通い始めたのが動機だったのかなとも考えております。
シナリオ教室は、地下鉄六本木駅近くにある放送作家協会に夜間、週1回通いました。普通科と専攻科があり、普通科が半年から1年であったように記憶しています。
普通科を無事修了し専攻科に進む段になり、どのクラスを選ぶか迷いましたが、私は酒を飲むことが好きであったので、どのクラスが酒飲む機会が多いかと事務局の人に訊ねたとところ、即座に池田先生のクラスを推薦してくれました。
従って、私が池田クラスに加入した動機はシナリオ主体ではなく、酒を通じて色々な人と知り合いになりたいという付随的なものでした。池田クラスは長い歴史があり、既に錚々たる諸兄弟及び諸姉妹がメンバーとなっておりましたので、新参者の私はなかなか人の輪に入って行けず、一種の戸惑いを感じながら隅の方で小さくなっていました。
そんな具合で、池田先生からシナリオについて指導を受けた記憶がほとんどありません。今でも憶えていることの一つは、NHKが毎年行っているシナリオコンクールに私が、とある開発途上国に商社マンが派遣されたところ、その国に内乱が勃発し危険が迫る中で本社の意向と現地の人達の願いとのギャップに悩む姿をテーマとしたシナリオで応募しました。
池田先生がその審査委員をされていた関係で、池田クラスが築地魚市場内にある料理屋で忘年会を開催した折、「君の作品のテーマが良かったので2次審査まで残ったが、文章が練れていなくて入賞しなかったよ、内田百間(門構えに月)の文章を勉強したらよい」と言われました。それから百間の「阿房列車」等を読んでみましたが、若すぎたせいか良さが分かりませんでした。 もう一つは、それから数年が経ち、池田先生が隆慶一郎の名前で小説家として大成された後のことです。衝撃的デビュー(先生の処女作『吉原御免状』を読んだときの衝撃は今も記憶しています)と瞬く間に流行作家にお成りになり、柴田練三郎賞を受賞され(受賞記念会に出席させて戴きました)新作、話題作を次々と執筆され、正に時の人という感じでした。
私自身は、本来の役人稼業が忙しくなり、とてもペンを取る状況でなくなっていましたが、先生の著作は出来る限り読むようにしておりました。それから数年後、先生が病魔に冒され東京医科大学病院にご入院されていたので、池田クラスの仲間に誘われて数人が連れだってお見舞いに伺いました。
その折は、まだお元気でベッドの上に起きあがってお話しをされたので、先生の創作の秘密を知りたいと思い「創作意欲とアイデアの源泉が枯れないために、いかなる工夫をされているのですか」とお聞きしました。すると先生は「古文書を読むことだよ」とお答えになりました。「古文書を読んでいると、次から次とアイデアが浮かんできて、枯れる心配などしたことはないよ」と付け加えられました。私は、古文書を読むことはとても出来ないので、創作活動は無理だなあと妙に納得しました。
実際は、池田クラスに在籍中にもいくつかシナリオを見て戴いているはずなのですが、上に述べた2つのお言葉以外に、そうさくについて先生にご教示戴いたことが全く思い出せないので先生に申し訳なく思っています。
遊びの方は、楽しい思い出ばかりが残っています。
池田クラスは、先生が海が好きだったせいか、毎年有志が連れ立って主に伊豆半島に海水浴に出かけました。下田市からバスで20分位乗った弓が浜に公共の宿「南伊豆休暇村」があり、そこに何度か出かけました。施設は湾奥に立地しており、参加者はなだらかな浜辺に三々五々寝そべって、ビールや酒を飲み、夜になると部屋に戻ってまた飲み直すといった具合でした。
しかし、その施設は人気があり、何名かが手分けして申し込んでも抽選に外れてしまう事もありました。その折には、爪木崎近くのペンションに宿泊しました。いつも、老若男女、クラスの生徒やその連れ合い、友人等10名前後の人が参加し、特に夜になると大いに盛り上がりました。
その場でどんな事を話し合ったのか、全く憶えておりませんが、ただ、本当に泳ぎが好きな人の数は少なく、私が1〜2キロ沖合いまで泳いでいくと同様に泳いで来られた池田先生と何度かばったり出会ったのを憶えています。
海水浴に参加すると、先生が日本酒の好きなことを生徒達が知っているためか、誰かが珍しい地酒をさげてこられたのでご相伴に預かることが出来ました。私は日本酒の良さが判るほど、口が肥えておりませんが銀座三原橋交番近くの「庄内浜」という10人も入ると一杯になる居酒屋で山形産の“初孫”を先生を囲んで飲んだことや、新宿ゴールデン街で酔っぱらってしまった等、先生は、酒の場面や50本入りの缶入りピースを吸っておられた姿と一緒に浮かんできます。
創作活動の方は、少しも物になっていませんが、シナリオ教室に通ったことで、ドラマと事件との違い、ドラマとは発見であること、一人では生まれず、対立関係の中からドラマが生れるなど“ドラマツゥルギー”とはいかなる物であり、シナリオに限らず、小説、詩等いずれにおいても基本にこれが横たわっており、これがないと創作に厚みが生じないことが理解できました。
また、池田クラスの方々とは現在もおつき合いさせて戴いており忘年会や池田先生の墓参等で酒を酌み交わし、旧交を温めておりますが、創作活動に携わろうと志した方々ですので皆さんそれぞれ個性が豊かであり、長い人生の内でも得難い仲間が得られて良かったと思っています。
私も、既に老年と言われる歳になってしまい、とても実現するとは考えられませんが、もし、今取り組んでいることが一段落した後に、創作意欲とエネルギーとが残っていたなら、私が生れ育った栃木県栃木市が生んだ郷土の英雄「皆川広照」のことを、小説に書きたいと思っています。
皆川広照は、栃木市に出城を築き戦国末期から徳川初期まで生きた、皆川城というちっぽけな山城「法螺貝城」の城主です。
私の親戚が皆川氏の家老をしていた関係で、広い屋敷を有し(親戚の家は近所の人から栃木言葉で、“おでいじん”[お大尽の方言]と呼ばれていました)、中学生の頃ちゃちな自転車で親戚の家まで8キロの道のりを法螺貝城の上に一本だけ立っている杉の大木(後年雷が落ちて木が無くなってしまいました。)を目印にして田舎道を漕いでいくと、城をぐるりと回った所あたりから親戚の真っ白い土塀が見えてきてほっとするのが常でした。
その親戚には、法螺貝城を一杯に描いた大きな衝立や、錆びかけた刀剣類が大きな長持の中に残っており、庭に持ち出して遊んだ記憶があります。
皆川広照は、元々、小田原城主の北条家に仕えていましたが、豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、徳川家康の誘いに乗って、北条を寝返り家康の陣に駆け込みました。(小田原城址公園に残っている城攻めの絵図面には、家康の陣に加わっている様子が描かれています)家康が天下平定後、広照は鳥居元忠の側近として仕えることになったようですが、第九子の松平忠輝の育ての親として名前が残っています。そして、家康が生れて直ぐの忠輝を一目見て、あまりの醜怪さに、捨ててこいと言ったのを広照が貰い受けて育てました。
忠輝は成長につれて出世し、最盛期には越後高田城主(六十万石)の大大名となり、広照も四万石を領する家老職になったものの、忠輝の狂気が高じるにおよび、その原因は忠輝が寵愛している花井主水(もんど)にありと、あと二人の家老と計らって、駿府城の家康に直訴しました。ところが、かえって二人の家老は切腹、広照のみが流罪となりかろうじて命を取り留めました。
その後、大阪の陣では子供二人を、一方は西方、一方は東方に付けて延命を図り、合戦で手柄を立てたため、江戸城への登城の折は終生下馬をせずに城内に入ることを許され、天寿を全うしています。
忠輝が、生まれながら顔つきが可愛くないため、家康に嫌われ人間不信感が高じていき悲劇を生んでいく様は、松本清張が『面貌』という短編小説に描いております。
池田先生も『捨て童子松平忠輝』(新潮社)を、お書きになっています。
私が先生の小説を読んだのは、十数年も昔のことで定かでありませんが、先生は、忠輝を道々の人に愛された美丈夫として描かれ、キリシタンバテレン(忠輝の正妻は伊達政宗の娘のいろは姫であり、彼女はキリシタンであったと言われております)と新しい国を作りたいと野望に燃えるが、それを恐れた徳川幕府が必死び弾圧したため、大望が果たせないまま朽ち果てた悲劇の主人公として描いておられたと記憶しています。
私は、皆川広照を脇役でなく、草深い田舎にありながら大望を持ち懸命に生きた一人の男として書きたいと思い、郷土の図書館等で集められる資料を集めています。
池田先生がお亡くなりになった後、形見分けとして「隆慶一郎」と印刷された400字詰め原稿用紙を数百枚戴いていますので、皆川広照のことを小説にまで結実させることが池田先生のご恩に報いることと思っていますが、残された時間は余りに少なく夢のまま終わることになりそうです。
池田先生のご冥福をお祈り致します。
了
先生とボクシング
『先生とボクシング』
K. Maruyama 著
私は池田先生に 2年半ほど私事しながら、結局、1本の習作脚本を書いただけの不肖の弟子でありました。ただ、酒の方は、結構、まめにお付き合いした思い出があります。言葉を換えれば、恥ずかしながら、先生にとって私は単なる酒の相手、というだけの関係だった次第です。これから書くのは、その酒をしたたか飲んだ帰りの出来事です。
先生はその頃、向島のマンションに越されていて、千葉県の市川市に住んでいた私は何度か帰りのタクシーに便乗させて戴きました。ある時、六本木から我々を乗せたタクシーが、浅草の近くを通りかかった時のことでした。中年の男が、タイかフィリピンだか、はっきりとはしませんでしたが、外国人女性の髪を左手で掴み、右手で女の頬を叩いていたのです。
その光景を目にした先生は運転手に「ちょっと止めてくれ」と言うと、私にこう言いました。「お前、確かボクシングやっていただろう」。私が「ええ」と答えると、「じゃあ、俺も行くから、あの男、ひっぱたいてこい」と命じたのです。そのやり取りを聞いていた運転手は「よくあるいざこざですよ。男は女を束ねているヤクザかもしれないし、関わり合いにならない方がいいですよ」と今にも発車したい風情です。運転手にとっては、しばしば見かける光景でしょうし、それより、この客達を早く目的地に届けて別の客を拾いたい、と当然ながら考えていたに違いありません。
その場から早く立ち去りたい、という思いは私も同じでした。ボクシングをやっていたといっても、大学の同好会で2年ほど親しんだだけで、公式戦では社会人大会の都予選に2度参加して、合計2勝2敗、しかもその2勝のうちひとつは不戦勝という、とても口に出せない戦績なのです。しかし、先生は「お前が行かないのなら、俺が止めてくる」と言うと、さっさと車から降りていってしまいました。私よりふた回り年上の先生が敢然と、狼藉を働いている男に向かっていくのに私が手をこまねいて見ているわけには行きません。「すぐ帰ってくるから待っていて下さい」と運転手に言い残して、私も先生の後を追いました。
ただ、自分達に近づいて来る、我々の姿を見たその男は「お前が言うことを聞かないからだ」とか何とか女に言うなり、さっさとその場を去って行ってしまいました。女がさっきまで頬を叩いていた男の左腕に、もたれるようにしてついていく様を見た先生は「ちぇ、バカ野郎」。そう舌打ちした後「だけどな、俺はああいうヤツ見ると無性に腹が立つんだよ」と、自分に語りかけるように呟いていたのが印象的でした。
「逃げられちまった」。誰にともなくそう言った後、先生は私の方を向いて言いました。「なぜ、さっと行って殴ってこなかったんだ」。私が口ごもっていると、既に還暦を過ぎていた先生は、呟くようにこう言ったのです。「今から俺もボクシング習うか」
それから2,3カ月が経った後、私は先生の元に通わなくなりました。私はかつて今は潰れてしまった新聞社の運動部に在籍していたのですが、以前から親しかった共同通信社の友人から「ボクシングの読み物を書かないか」という依頼を受けたのです。聞けば、ボクシング評論の大御所だった石川輝さんが病に倒れて執筆が不可能になったので、その代わりにどうか、との話です。当時、亡くなった父がやっていた商売を継いでいたのですが、新聞原稿を書くことにまだ未練があった私はすぐ承諾しました。
それを期に、デイリースポーツ紙やボクシング・マガジン誌からも依頼が来るようになり、先生との酒の席にも疎遠になってしまったのです。先生が亡くなったことを新聞紙上で知ったのはその4年後だったと思います。
池田先生とも親交のあった、日本人初の世界王者の白井義男さんがアートネーチャー社をスポンサーに、具志堅用高と共に「白井・具志堅ジム」を代々木にオープンしたのは池田先生が亡くなってから4,5年後のことでした。ボクシング・ライターとして生業を立てていた私は、しばしばそのジムに取材に訪れ、何かのきっかけで白井さんに池田先生のことを窺ったことがありました。今は記憶力がすっっかり減退されてしまった白井さんですが、その頃は、まだかくしゃくとしていて「ああ、池田さんね。よく飯倉の店でお会いしましたね。私は池田さんとは同じ大正12年生まれでね。とても気があったものですよ」。懐かしそうに先生のことを思い出してくれました。
その白井さんが、ある日「そう言えば」とこんなことを口にしたのです。「池田さん、私に突然、ボクシング教えてくれないか、と言い出したんですよ」。「本当ですか」。びっくりしている私に白井さんが言いました。「なぜ、ボクシングを、と尋ねましたらね、時々、殴りたくなるヤツがいる。でも僕が殴っても、殴り返されるのは御免だ。だからボクシングの殴り方と避け方を教えてくれ、と言うんですよ」。白井さんは、池田先生が時代小説を書き始めていたことを思い出し、こう諭したのだそうです。「ボクシングも剣と同じで殺人拳もあれば、活人拳もある。でも活人拳にしても、池田さんのお年で身につくものじゃありません。だからおよしなさい」
結果的に白井さんは、ある知り合いが監督をしている大学のボクシング道場に池田先生を招いて「型」としての、ワンツー・ストレートを教えたのだそうです。「池田さんはお忙しい体だし、一度だけしか、お教え出来なかったけど、でもとても満足した様子でしたよ」。さて先生がたった一度、元世界チャンピオンに教えてもらったボクシングを試したことが果たして、あったのかどうか。先生が亡くなられた今、それは永遠の謎です。ただ、あの日、私達が目にした光景が先生を、ボクシングに駆り立てたのは間違いないでしょう。それにしても、還暦を過ぎながら女を虐めている人間を見ると反射的に懲らしめたくなる。その心意気に池田先生の男としての真骨頂を見た気がします。その男気とともに池田先生を思い出しています。
(了)
優しいしぐさ
『優しいしぐさ』
K.Matsumura 著
池田一朗先生について何か書くように言われて改めて考えてみると、私は池田先生のことは何も解ってなかったような気がする。ただあの時はやたらに楽しかった。あと数カ月で五十才の誕生日を迎えようとしていた時だったというのに青春が舞い戻ったような感じで充実した気分で楽しくはりきっていた。授業の終った後は毎回クラスの若者達と一緒に、教室のあった六本木界隈を飲んで廻った。お互いの書いてきたシナリオ(テレビ用台本)について激論を闘わせた後だけに酒は咽ごしを心地よく流れて、時には先生と一緒にカラオケを唄うのも楽しかった。
先生はとても優しかった。一緒に酒場に入り、店が混雑していてつきだしが皆に廻らなかったりすると、先生は自分の前に出されたつきだしを、そっと隣にいた私の前にずらす。順番からすると私のつきだしは最後に来る勘定になっており、それがなかなか来ないのだ。酒が来ると注ごうとする私の徳利をさっと取って、先ず私に注いで下さる。その後恐縮して注ぎ返す私の酒をいともうまそうに飲み、おもむろに皆と喋り始められる。家に帰り主人に、
「ああ、あんたに先生の優しさの百分の一でもあったらねえ…」
と云うと、
「へーえ。俺なんかもっと深いところで優しいんだよう」
と云う。
「だって、優しさは表現してくれなきゃ値打ないじゃん…。それがセンスと云うものよ」
とぶつぶつ云いながら、先生の恋人はきっとあんな風な優しいしぐさを一日中頂いているんだろうなあ…などと羨ましく思っていた。
教室で私達の書いていったシナリオを読まれる時、先生はものすごいスピードで頁をめくられる。幾夜も徹夜して書いていった私達のシナリオを、下手とは云え、あんなスピードで読んでちゃんと頭に入っているのかなあと思い、詳細な内部についてわざと質問をしたところ、答はきちんと返ってきた。
「へーえ、あのスピードでちゃんと読んでんだ」
と凡友に云ったら、
「そうだよ。ちゃーんと読んでんだよ。東大仏文出は本を斜めに読めるから普通の人の十倍も博学なんだってさ」
と云われた。
夏になると二、三泊の予定で海に行った。昼間は泳いだりシナリオ教室を開いたりしたが、夜になると皆で車座に座り、酒を飲みながら歌を歌ったりトランプに興じたりした。先生も私も泳ぎは得意であった。先生は足ひれをつけ、仰向けになってどんどん沖へ行かれるので私も必死でついてゆき、疲れてくると先生のように仰向いて空を仰いだ。岸に帰ってくると悪童どもが、
「ヤーイ。トドだトドだ。トドの夫婦だ」と囃したてた。先生も私も決していいスタイルとは云えなかったし、二人が仰向けになるとお腹がぽっくりと波間に浮かぶわけである。以来クラスでの私の渾名はトド公爵夫人ということになってしまった。トドは嫌だったが公爵とついているので許すことにした。公爵夫人は先生の還暦のパーティで、出席者を代表して先生に花束を捧げた。先生はいともスマートに花束を受け取った後、夫人の首筋に一寸キスをした。
先生が向島に引越されて隅田川の花火が目前に見えるので皆で見に行かないかと大嶋君に誘われた。大体男の子達は先生に馴れ馴れしくて厚かましすぎる。一年に一度のそんな大切な夜にはきっと大事な御客様の御接待があるだろうから、生徒などが図々しく押しかけるなんて礼儀知らずにも程がある。私は憤然として、
「行くわけないじゃん!」
と答えた。後で聞くところによると先生は当然生徒達が来るものと思い、皆のためにとった十数人分の寿司を前にして、奥様と二人黙然として花火見物をされたそうである。先生の誘い方が口足らずだったのか、幹事の大嶋が「馬鹿もん!」(先生の口ぐせ)だったのか…やっぱり年長者の私が大馬鹿だったのか…一生に一度の思い出になるはずだった豪勢な花火見物がふいになってしまった。誠に誠に残念の極みであった。
作曲家である私の主人がサントリー音楽財団の委嘱で遠藤周作の「沈黙」をオペラ化する事になった。いろいろの方に台本を書いて頂いたのだが今一つ主人の作曲意欲を掻きたてる事が出来なかった。或る日主人は、
「俺は我が儘だから、結局自分で台本を書くしかないんだ!」
と言い出した。作曲力はともかく、歌舞伎調の科白廻しにいたく感動したりする主人の文才を当時私は全然信じていなかったから、放っておくとこれは大変なことになると思った。この難局に当り、妻たる私は一念発起して池田先生のお力を借り、私が台本を書くしかないと決意した。
「何で遠藤周作なんだよう…。他にいろいろ素材はあるだろうに…。俺はあいつが大嫌いなんだよ」
先生はブツブツ云い乍らも私の書いていった台本を見て下さった。〜〜〜〜(この部分一考)という赤いラインが殆ど全稿に亘って引かれていた。
「お前は下手だなあ。もう一寸何とかならんのかねえ…」
下手な台本のオペラ「沈黙」は主人の手によって十三年かけて作曲され、日生劇場創立五十周年記念公演として初演され数々の賞を頂いた。先生はオペラ「沈黙」を観ずに逝ってしまわれた。
一つだけ先生に糺したい事がある。先生はよく「葉隠れ」の思想について話をして下さって、
「俺は何時溝の中に顔を突っ込んで死んでもいいと思ってる」
と云っておられた。先生の未完の名作『死ぬことと見つけたり』の中でも、既に死んでいると自ら思って日々を生きている葉隠れ武士の話が実に魅力的に描かれている。あの葉隠れの思想は先生の憧れだったのだろうか…。聞くところによると先生は死の間際に洗礼を受けられたそうである。『死ぬことと見つけたり』の著者と洗礼は、どうもそぐわない。私も最近になって随分悩んで考え抜いた末に、夫一緒に洗礼を受けたのであるが、今になって私に受洗する資格があったかどうかと悩みつづけている。先生と私とを一緒にしては申し訳ないが、あの世に行ったらお互いの洗礼について先生の意見が聞きたい。先生は弱虫だったのではなかろうか…。死にたくなくて、まだまだもっと生きたくて、作品を一杯書き、女性にもっともっと優しくしたかったのではあるまいか。そう思うと先生が懐かしくて涙が溢れてくる。
了
食べ物のこと
『食べ物のこと』
Y.kurata 著
飯時になると先生はよく、
「○○が急に食べたくなったな」
と言って、居合わせた生徒をいろいろな店につれていって下さいました。僕も私生活において、たまに接待役について誰かを食事に案内することがありましたが、これは難事業でほとんど成功した記憶がありません。そのころ大橋純子の「定めという〜」というのが流行っていて、うまくいかないことはなんでも定めということにしていたので、自分の案内下手にさじを投げていた僕にとって、先生のさりげない店の選択は驚異の的でした。誰も安心して満足していました。
あれはたしかNHKの脚本コンテストの締切りの日だったと思いますが、前日から徹夜をして原稿を清書した生徒たちが協会に集って無事作品を提出したとき、先生の一声で近所にランチを食べに行くことになりました。『元』とかいう店で、八百円位で旨い和定食を出していました。しじみ汁が特に良かった。これはいい店を教えてもらったと思って、後日、いまのかみさんを連れていったことがあります。
この日、彼女はいつになく機嫌が悪く、というのは「和定食が急に食べたくなったな」といって夕食に誘い出されたものの、白金から延々と歩かされそれもつっかけばきだったので、いい加減足が痛くなっていたようでした。このへんの配慮のなさが案内下手たる所以ですが、なに、店に入れば大丈夫だと高を括っていました。『元』に入ってみると昼間とは様子が違っていました。和定食はメニューになく、しかも彼女に渡されたメニューには料理の品名だけがのっていて金額はなく、こちらのメニューにはそれがありました。
「そっちのメニューにだけ金額が出てるでしょ!」
といって青ざめたかみさんの顔を今でも覚えています。このときは店の人が上手に僕たちを追い出してくれたので助かりましたが、あまりの恥ずかしさにかみさんの不機嫌はふっとび、まあ、けがの功名でしたが…。
食べ物について先生が言われたことを思い出そうとしてみても、意外に出てきません。こちらから聞くか、またはその話題にでもならないと先生はなにも言われませんでした。それでも変なもの、例えば豚の耳の中華料理などをみんなに勧めるときは自ら率先して食べて、例外的に蘊蓄を傾けておられました。協会近くの『羽衣』はまだあるのでしょうか。
いつだったか、パスタを食べてるときフォークをどちらの手に持つかが生徒間で論争になったときがありました。それは、Oさんの作品のト書きが原因だったと記憶しておりますが、その論争にあっさりと先生が決着をつけてくれました。
「左だよ」と。
先生によればスプーンを使うのは食べるのが下手なアメリカ人あたりの発明で、本場では左手一本で食べるのだそうです。何て博識なんだろうと僕は感心しきりだったのですが、「先生は左手のフォークだけで食べるんですか?」と突っ込む生徒がいて、それに答えて先生は「右手だ。が、マナーはマナーということだな」と言っておられました。
こうして若いOさんのト書き
と、○○は、げだるそうに右手のフォークでパスタを巻く。は、無事通過となりました。
そんなふうに先生はマナーを他人に強いることはありませんでしたが、一度だけ生徒の無作法をたしなめられたことがありました。浅草の『やぶ蕎麦』で一人の生徒、実は僕、がそばつゆの中でそばを泳がせるようにしていたら、「そんな食べ方があるか」といって、箸でつまんだそばの先だけをつゆにつける江戸前の食べ方を実演されました。
「やせ我慢みたいじゃないですか」
と生徒が言うと、先生はわははと笑ってそれでおしまいでした。生徒は先生の範にならってほとんどつゆにつけずに食べました。あのときのそばの味は、忘れられません。
了
池田先生回顧録
『池田先生回顧録』
K.Nakayama 著
三十年近く前の二十代前半の頃、旅が好きだった。国内の一人旅。年にニ三度1〜3週間単位で気ままにそして気障な気分で“さすらい”の旅に出た。ヒッチハイクが好きで、テントや食料など詰め込んだフレームザックを背負って“歩く旅”とカッコつけるのだが、疲れて歩くのにウンザリした時には、通る車に手を上げて精一杯の愛想を振りまいては同乗を懇願した。実際はなかなか止まってはくれず一時間以上もそれをくりかえすことが度々だった。泊まる所は気分次第で野宿したり安宿を探した。
そんな“俺の旅”には老若男女いろんな出逢いがあった。この出逢いは利害関係など全くない赤の他人同士が“素”をさらけ出した接触だから、その中に人情を感じるとジーンと身にしみた。今思うと、それを求めて旅していたのかな、とも思う。
前置きが長くなったが、私が“シナリオ”をやろうと思ったのは、そんな旅の中で出逢った人達や感じたものを映像で表現できたらいいな、そんな思いが芽生えたことが動機だった。
それと、“倉本聡シナリオ作品”に触れたことで、“言葉の奥に隠れた裏腹な思い”に惹かれたことにも影響された。
そして、縁あって短い期間ながらも池田教室で学ぶことができた。
“世間体や枠に捕らわれず心ある素直な姿で生きている”そんな人達を描きたくてそんな人達が好きだから素直にそれをテーマとしたシナリオを創作した。
それまで文章など書き慣れていない私だったが、先生から「シナリオは文の上手い下手じゃなくて材料(題材)と切り口なんだ、要は“目”だよ」そんな言葉が耳に残り、私なりにその意味を理解することでシナリオの“おもしろさ”を感じる事が出来た。
ある日のシナリオ研修会で、先生は私の処女作を読み終わった後、「・・・(私を一瞥した後、誰に言うとはなく)こいつのはハートがあるんだよ、(やや間をおいて苦笑交じりで)文は下手くそだけど(笑)」その高笑いで終わった短い批評だったが、嬉しかった。
それまで人を射抜くような鋭い眼差しが印象的で“冷徹”というイメージを抱いていたが、その言葉を聞いた時「この人はわかってくれる」そう思えた瞬間だった。
それから、さまざまな機会を得て池田一朗という個人的な人間味にも触れることで、多くの研修生と同様に惹かれていった。
しかし、私的事情から郷里に帰ることとなり、それと共にシナリオ研修会への出席率は減っていき、研修生仲間との交流が少なくなることで創作意欲を触発される機会は減っていったが、不思議なもので環境が変わると東京では生まれなかった新鮮な題材が浮かんだり、普段の何気ない生活の一コマにもシナリオ的な“目”で捕らえるようにもなった。
ひさしぶりの研修会に“我が自信作?”を持って出掛けた。「読んで下さい」と差し出す原稿を先生は「オウッ」と言って目を通し始めてくれた。私はその原稿をめくり読んでいく先生の目を凝視していた。何分かが過ぎた時、それまでの鋭い眼つきが急に緩んだかのように変わったと思うと、次にはつまらなそうな表情で一言「逃げたな・・・」と言って原稿をテーブルに置いた。
「やっぱり、わかるんだ、この人」そんな思いがした。確かに、その作品の書き出しはスムーズで映像を浮かべながら気持ちも乗りペンも進んでいったが、後半の“結”になった所で話のもっていき方に詰まってしまいペンも進まず気分も乗らず、何とか“まとめた”ものだった。
「逃げたな・・・」の一言が私には充分な批評だった。
自分はプロにはなれないと思った。“シナリオ”が嫌になったということではない。才能というか“文が下手くそ”で書くことが“好き”ではないことと、題材のテリトリーとキャパシティが狭く“自分のジャンル”しか書けないし、又、他のジャンルの吸収力も乏しく興味も持てない、「無理だ」と痛感した。
あれから20余年が経過し、先生もお亡くなりになり、今では“逃げた”ままでの“シナリオ”は遠い昔のお話となっていたが、ある日“同期研修生”で『池田会』幹事の大嶋氏から池田先生の回顧録を出版するから「お前も“弟子”として何か思い出を書いてくれ」旨の連絡が入る。
「俺なんかそんな仲間に入っていいのかな?」というのが“エセ弟子”としての思いだったが、『池田会』の名目だけのメンバーにも等しい私にも何かにつけ連絡をくれる大嶋氏からの依頼でもあり、駄文を寄せることとした。
もっと回顧して先生との思い出を拾い集め列記すべきかもしれないが、心にインパクトのない事柄を列記しても駄文が長くなるだけと思い簡略を許していただいた。
今、池田先生から学んだことを反駁し思い起こして自分なりに昇華している事は、創作シナリオとなる題材はどこにでもあり、何も特別な出来事を書かなくても身近でありふれた日々の中にキラッと光る一瞬を切り口として捕らえられる“目”を持てているか、それが大切だという事。
今、自分の生き様を見てみると、家庭を守り生活を保持するという“大義”の中で社会生活を送っている。無能と非力さに何度も落ち込みながら「まだまだ」の思いとの相克の中にある。ある時は作為性を秘めて攻め込み、ある時は作為ある攻撃に打ち負かされ、期待と落胆との狭間に揺れ迷い、前向きであろうとする気持ちとは裏腹に現実は行きつ戻りつを繰返しているだけの日々なのかもしれない。ただ、そんな社会の仕組みに埋没していながらも、作為のない“ありのままの行為”の中に輝くものを見る“目”と感動する“心”はいまだ失せてはいないと思っている。
シナリオを“書く”ことからは逃避したままでいるが、先生から学んだ“目”と“切り口”の意味は今でも心に刻まれていて、人生という旅の節々で“見て感じて”いる。
それは短編ながらも文章のないシナリオとして心の棚にいくつか積まれている。人それぞれに生き様がある。名を求めたり富を求めたりもする。何かになろうとして、あるいは、何かを得ようとして頑張る。そんな人と人とが関わり合ってドラマが生まれている。
ただ、自分が表現したいと思うものは、作為に溢れた人間同士の絡み合いや絵模様を描くことよりも、“世の中には不器用だけれど、ひとつの仕事に真剣に打ち込みただ夢中である”そんな生き様のある創作シナリオを一度は作ってみたい、と稀に思ったりもする。その姿を85才過ぎてもまだ現役で鉄工業を“楽しむ”地元のエジソンと呼ばれ田舎の発明家である職人気質の父親に見ることがある。
私達は何かにつけ評価やランク付けをしたがる。まして人の生き様までも・・・、
確かに敬意を抱く人そうでない人はいる。ただ、見た目の富とか力とか華やかさとかそんな肩書きや権威ではない本質を捉えた“目”を養い大事にしたいと思う。
他人からの評価を求めず何かを得ようとせず、まして、生活の糧などと思わないのであれば、いつまでも“目”は持ち続けていられる。そうであれば、いつでも脳裏のスクリーンに想い描いたような創作シナリオは書けるさ。そんな屁理屈な“ツッパリ”だけはある。やはり、志した初心は、自分の“目”が好きだったからだと素直に思う。
“出逢い”は心の栄養源である。若い時の旅での体験が“シナリオ”への誘いではあったが、池田先生を介在し同じ方向を目指し“純”な思いを共有した研修生仲間との貴重な出逢い、これも人生という旅半ばでの一コマだったのかなと思う。
「“逃げてない”作品を」との思いを胸にキュッと起こさせる機会を提供してくれた大嶋氏に感謝したい。まだ“これから” の研修生として・・・。
了
わが師、隆慶一郎
『人として。わが師、隆慶一郎』
Aoshima 著
本が好きだ。漫画も小説も研究書も区別無く、気になる本は読んでいる。原体験は手塚治虫のブラックジャックだと思う。ニヒルな正義感に溺れた。それから、図書館へ通ってはアルセーヌ・ルパンを読んだ。子供だった私は遠い異国の景色が浮かばず、字面だけをおっていた。自らが本を読む姿に酔っていたのかもしれない。それでも、確実に物語は私の心を捉え、いつしか、景色が見えるようになり、登場人物の心までも想像できるようになっていた。
衝撃を受けた本は多い。「罪と罰」「老人と海」「アルジャーノンに花束を」「リトル・トリー」どれも和訳本だ。本を読むにしたがい、和訳のまずさが理解できるようになる。作者とは無関係なのに、面白い本、そうでない本ができてしまう。
もちろん、日本人の文豪と呼ばれる作家の本も読んだ。奇妙な物語や朴訥とした物語は、作者の人柄を偲ばせるがそれだけのことだった。どれもとても凄い。真似できるものではない。しかし、私をただの本好きから遠ざけ、作者への傾倒を引き出すことはなかった。
日本人の作家といえば時代小説を避けては通れない。有名どころの大御所作家の作品を読んで、ただのねぎの味噌汁をなんともうまそうに書くことに感嘆した。長編物のあまりの長さに、書くことの苦労を思い、途方に暮れた。しかし私はただの読者であり続けた。
前置きが長くなったが、やっと隆慶一郎の出番である。時代小説に求めている何かを見出せずにいたとき、漫画の原作ということで手に取ったのが「一夢庵風流記」だった。隆慶一郎の名前も知らなければ、故人だということも知らなかった。漫画が面白かったから、連載という楽しみを捨てて、原作を買いに走った。
しかし、原作の読み方は、漫画の連載を追い越さぬよう少しずつ読み、また、連載を読みその箇所の原作を読む、そんな風だった。いつしか我慢できず、原作を全て読んでしまったのだか、楽しみを先延ばしするように読んでいたのを覚えている。
原作を手に取った私は、まず冒頭のディレクターの話でやられた。こんな書き出しの時代小説があっていいのか。そう思った。きっと私の勉強不足のせいだ。こんな書き出しは他の作家にもいたのかもしれない。まったく現代の作家そのものの体験から始まる。きっと他の作家の本にもあるのだろう。
それでも、「傾奇者」を読者に捉えさせるこの手法に驚いた。だが、手法と思うこと、それも間違っていたようだ。小説の手法としてそういう書き出しを選んだとしても、余りある情感がそこには連なっている。冒頭の内容はこういうものだった。
隆氏がシナリオライター時代に関西テレビのディレクターとの仕事で、どうにも彼のことがしっくりこず、正直嫌いだった。そこで、隆氏は、個人的にディレクターの彼にデイトを申し込んだ。そして相手よりも先に待ち合わせ場所のホテルのラウンジへ行き、彼が来るのを待った。隆氏はその理由を〈こういう場所に入ってくる様子で、男の人となりが或る程度判るからだ〉と述べている。
はたして、そのディレクターは仕事場でのつなぎ姿やデニムの上下と違い、鮮やかなワインレッドの天鵞絨(ビロード)の三つ揃いに身を包んで現れた。その彼を見た隆氏はこう思った。
〈その姿は確実に美しかった。そして明らかに『傾い』ていた。私は一瞬にこの男を理解したように思う。そして、なんと、羨しさに身の,慄(ふる)える思いがした〉
そして心底から彼にこう言うのである。
「素晴らしいね」
そこに隆氏は一個の「傾奇者」を見たのである。その窮極の美意識を、そのディレクターが仕事場で作り出す画面の意味を、理解した。
隆氏は自分のことを〈私は人間関係が巧くゆかないと仕事を続けられない我儘な気質(たち)だった〉と言っている。だからこそ、ディレクターの理解に努めたのであろうが、こうもあっさり嫌いだった相手を認められてしまうものだろうか。私はこう理解している。隆氏は我儘という言葉で、自身の窮極の美意識を世の中の尺度に合わせ表現したに過ぎない。この隆氏のいうデイトはまさに「傾奇者」同士の対決の場面だった。そして穿った見方をすれば、隆氏の圧勝である。先に相手の素晴らしさを受け入れ、言葉にし、後に作品として名前こそ出していないが世の中に発表してしまう。もっとも、本人同士は勝ち負けなど意識していないだろうが、私には、なんとも無邪気な方法で、彼はやり込められてしまったような気がする。
そして隆氏は本編でもその無邪気さを発揮する。まるで冒険活劇のシナリオを小説にしたようなストーリー展開の中、馬と話せる男、前田慶次郎が、縦横無尽に駆け巡るのである。学識溢れる風流人でありながら剛毅ないくさ人の、後に関白秀吉から自由に意地を立て通すことを許される、まさに無双無比なこんな男にこんな台詞をいわせてしまう。
「虎や狼が日々練磨などするかね」
滅法強い男が日々刀槍の練磨などせず、軽がると相手をなぎ倒すのである。まるで、日活映画の決め台詞だ。還暦を過ぎた作家がこんな照れくさい台詞を書いてしまう。だが、そこがいい。理屈で考えれば、日々練磨しない男などいざという時に何の役にも立たない。それでも、男は少年の日から今日に至るまで、今、目の前に敵が現れたのなら、ヒーローのように颯爽と敵をなぎ倒し、今、目の前に溺れる人がいれば、ろくに泳げもしないのに飛び込んで助けられる自分を夢見ている。だから、こんな台詞に痺れてしまう。俺もこうなりたいと願う。
誰でも三年寝太郎になりたいのである。今の自分は潜伏しているのだと思う気持ちが、自分を支えているのだ。理屈などどうでもいい。理屈では人は夢を見られないのである。そしてそんな憧れを、隆氏はさらりと嫉妬もせず実在した人物に見出し、物語にしてしまう。
物語が進むとやがて、完全無欠のヒーロー前田慶次郎が悩み苦しむ。隆氏はそのことをこう表現している。
〈一見悩みそうもない生き物こそ、深く悩むのだと慶次郎は思う。そうとも。熊や猪こそ悩むのである。そして彼等の悩みを思うだけで、慶次郎はぞっとする。どんなにか耐えがたい、凄まじい辛さかと思う。〉そしてこう続く。
〈いかにも繊細そうな、柔らかくほっそりとした躰の持主ほど、決して悩みをもつことがない。心が残忍酷薄だからだ。血が冷たい。悩むのは血が熱い者に限る。〉
暴論である。まるで痩せた力なきものは悩まず、熊のような躰の持主だけが悩むように言う。それでも、私はこの一節に隆慶一郎の人を思う心をみるのである。
自由に生きるということはのたれ死する自由と背中合わせだと隆氏は言う。己の意地を立て通せば、誰からの援助も受けることなく、理解もされず、一人屍を野にさらすことになる。強がることと強いことは別だということは誰にでも分かるが、強さゆえに孤独に苛まれ、群れることを知らぬ動物たちの思いは、意地を立て通す男の心と重なる。そんな男の心情を隆氏は切なく表現する。
小説家は自身の小説のなかで、独自の見解を自由に述べる権利を有しているが、それと共に、読者から嫌われ小説家としての命を絶たれる危険を伴う。それでも尚、己の美意識を、意地を、立て通す。読者の機嫌を伺って、書きたくない文章を書くぐらいなら書かないほうがいい。誰も読まなくてもかまわない。強がりではない。強さである。強さは美意識を生み、美意識は更なる強さを生む。冒頭のディレクターの話は、まさに意地を立て通す男の出会いであり、理解の場面であり、そして、その生きる悲しみへの賛美である。隆氏はそのディレクターをこう評している。
〈このディレクターはその笑顔とは裏腹に、決して倖せな男ではなかったと思う。〉
そしてこの作品の後書にて前田慶次郎をこう評す。
〈したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間であるためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を、よく承知している男だった。確かにさすらいの悲しさは仄かに匂うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが主調低音のように鳴っているばかりである。〉
人は泣きながら生まれてくるという。この世に生を受けたその瞬間から死への階段を降りていくからだ。これは詩人の戯言かもしれない。学者諸兄に言わせれば、泣くのは呼吸のためであり、産まれたばかりの赤ん坊が死を意識するはずがない。それでも、私はこう思う。全ての生命はこの世に生を受けたその時から、死へ向かい疾駆するのである。幾多の痛みと悲しみの末、死が待つばかりの生を謳歌するため、人は生きるのである。そこには悲しみの主調低音が鳴り続けている。死に意味を見出せぬ者は、死を恐れ、悲しみ、忘れ去ることによって生きながらえる。己の死に意味を見出す者は、死にゆくその時まで生を駆け抜けていく。
苛烈な戦国の世に、過酷な身分社会の世に、己の意地を立て通すことだけが生きる意味である前田慶次郎に、惜しみない愛情を注ぎ、登場する全ての人物の志または事情を理解し、隆慶一郎の作品はできている。
「死人の方が、生きている人間より確かだからでしょうね。」
隆氏は、時代小説ばかり書く理由をそう述べている。己の志に殉じた過去の人々を、志の大小や歴史の表舞台に立つことのない人物、そんな事には関わらず、底なしの敬意と愛情とをもって己のロマンの構築に参加してもらい、そしてその志を、生き様を散りばめてゆく。
私は隆慶一郎の作品をたて続けに読んだ。そして確信した。全ては隆氏の心にある。他人の心情を想像し、感じ、理解し得ぬ者にこんな作品が書けるわけがない。己の心の内を見つめぬ者に壮大なロマンは無縁である。
隆慶一郎に会いたい。強烈な思いだった。
「俺の師匠になってくれ」そんな気持ちだった。
小説家になりたいのかと問われればなんと答えるつもりだったのか。自分でも分からない。いずれにしろ答えを用意する必要はなかった。私が隆慶一郎に惚れたとき、すでに確かな死人だったのである。
あんなに強烈な感情はかつて味わったことがなかった。会いたいという衝動とその人物がすでにこの世にはいないという落胆、なぜ、もっと早く出会わなかったのだろうと歯噛みするほどの悔しさ、どれも言い表せぬほどの衝撃だった。心から人生の師となる人を求め、その人に巡り会えた確信を得たと同時に、一度も師と仰ぐ人に会えない事を知ったのである。
諦めきれぬ思いは今でも、目は、その姿を見られるのではと凝らし、耳は、語りかけられるのを待って澄ましている。私は霊など信じていないが、こんな霊なら大歓迎でいる。
私は卑小な人間だ。現代を生きる人々はもちろん、歴史上の偉人でさえ嫉妬の念を禁じえない。
あの時代、あの立場、そしてあの場所にもしも私がいたのなら、自分ならこうする、ああできると思ってしまう。反面、自分に降りかかりもせずにいる機会(チャンス)を恨む。そう思う心の全てが間違っていることも分かりつつ、臆病な私はそれすらも変えることができずにいた。まるで子供である。現代の白馬の王子様を待つ女性にも似た怠慢か、はたまた、「実は私がお前の父親だよ」などとある日突然、大金持ちが迎えに来ることを期待している大馬鹿だ。それでも私にも意地はあった。たった一片の、他人から見れば取るに足らぬ意地だとしても、私を私たらしめる意地があった。しかし、それすらも折れそうになった時、隆慶一郎の数々の言葉は私を支えてくれた。
だが読めばまた、会いたくなる。そのジレンマにどうにもならなくなった時、池田会なるものを知った。隆慶一郎がシナリオライター池田一朗だった時代の最後の弟子という方々の会だ。本人に会えぬのならと、私は行動にうつした。かくして、池田会の新年会に参加させていただき、人々は私を快く迎え入れてくれた。
今、池田門下生の末席に加えていただき、少々反則ながら弟子になれたような気がしている。晴れて先生と呼べる時が来た思いだ。
そしてこの池田会との出会いもまた、隆先生の贈り物の気がしている。
きっと、隆先生を好きで、こんな思いでいるのは私だけではないだろう。広く全国を訪ねれば大勢の人がそう思っているかもしれない。東京に生まれた幸運に感謝している。自己満足でも弟子になれたのだ。
そして、隆先生に心から感謝している。
「先生、新しい素敵な出会いをありがとう。いつか、お会いしましょう」
先生の思い出
『池田一朗先生の思い出』
S.Takahashi 著
先日、先生のお墓参りに皆で行って
来ました。お墓は十国峠の富士山と
熱海の海を見晴らす位置にあり、墓
碑には「隆 慶一郎」、墓誌に「池
田一朗」とありました。お墓にお酒
をかけ、缶ピースを供えて、皆と盃
を交わして、池田先生を偲びました。
隆慶一郎先生(本名池田一朗)が亡くなられて翌々年の十二月、池田会のメンバーのひとりから札幌の私の許に届いた文面である。
十国峠の寒風に曝されながら墓前を去り難く、酒盛りをしている池田会の仲間たち一人一人の顔が瞼に浮かぶ。シナリオ教室で池田クラスの生徒として出逢って二十数年、師亡きあとも、その絆は固く結ばれている。
池田一朗先生の暖かな包容力とその人間味に生徒たちは惹かれ、惚れ、憧れた。
私が池田先生にはじめて会ったのは、先生が小説家隆慶一郎に転身(昭和五九年)される数年前で、本名池田一朗でシナリオライターとしてご活躍されていた頃である。
日本放送作家協会シナリオ作家教室四十二期生生徒募集に応募した私は、その日、面接を受けるため協会を訪れたが、事務局の入口が見つからず、間違えて隣の教室のドアを開けてしまった。そのとき、ガランとした室内の正面奥に、黒板を背にテーブルに向かって座っている中年の男性と一瞬目が合った。あわてて「あのう、事務局…」と言いかけると、男性は黙ってテーブルに目を落としたまま親指を立て、自分が座っているすぐ右手を指した。言葉が少ないので、なんとなく張り詰めた空気を感じ、自分の靴音に神経をつかいながらゆっくりと歩を進めた。男性の横を通り過ぎるとき、テーブルの上に広げられているトランプが目に入った。男性はトランプ占いをしていた。太り肉の、浅黒い顔、少しクセのある半白の髪を片耳にかけて、トランプ占いに没頭している(ように見えた)その堂々とした風貌と、トランプ占いがなんとなくちぐはぐに感じた。
隆慶一郎第一エッセイ集「時代小説の愉しみ」のなかで、トランプ占いについて書いておられる「トランプの独り遊戯なんて寂しさに満ち満ちたゲームである。大の男が寂しくトランプ占いをしている図なんてものは、自分で考えてもやり切れなく、おぞましいものである―」と。先生と初対面の日から七年余り経ってこのエッセイ集は刊行されているが、先生はあの時もこんな思いでトランプ占いをしておられたのだろうか。
少し横道にそれたが、そのトランプ占いの男性がシナリオライター池田一朗先生と知ったのは、シナリオ教室本科の講習が始まった時である。日本放送作家協会所属の先生方が順次講座を受け持つのだが、池田先生の講議は、他の先生方のように噛んで含めるような教え方ではなく、一見大雑把にみえるが、適確に要点だけを「これだけは忘れるな」と生徒の胸に叩き込む。池田先生のお顔をはじめての講議で拝見したとき、〈あの、トランプ占いの…〉と思ったが、講議の印象は強烈であった。「シナリオの素材の見つけ方」についての講議で、新聞をテーブルの上に広げると「素材はどこにでも転がっている。たとえば新聞の三面記事だ。これはと思ったらば」と言うや否や、いつ、どこから取り出したのかジャックナイフで「こうやってッ、切りッ、取ってッ、おくのだッ」と、新聞紙を切り抜いて見せた。いや、切り抜くというより、そこに闘魂を燃やす気迫を感じた。テーブルに付く傷が気になったが、〈傷がなんだッ〉と一喝されそうな迫力であった。恐いのではない。小気味よいのだ。〈この先生、只者ではない〉と、そのとき既に感じた。
半年間の本科が修了すると研修科へ進み、各先生の許で修行する。一応希望する先生を選べるが最終的には事務局の方で振り分けられるので、どの先生に当たるか分からない。
私は池田クラスと決まった。本科で学んだ池田流講議でこの先生に拾われるか、捨てられるか二つに一つと、創作への意欲を駆り立てられた。
池田ゼミの基本は、まず賞をとること。賞をとらないとプロとしてスタート出来ない。スタートしてもストーリイが巧くないとプロとして持続できない。この二つであった。
各人が書いてきたストーリイを全員の前で本人が朗読し、箇々の意見を聴く。そして最後に先生の意見を聴き、書き直すといった講議の進め方であるが、本題に入る前の先生の雑談(これで私たちは多くのものを学んだ)が多岐にわたり、そこに池田一朗先生の男の美学を垣間見るといったわくわくするような話を毎回心踊らせて聴いたものである。このころ先生が話されていたことが、「時代小説の愉しみ」のなかにいくつも出てくる。
こんなこともあった。いつものように生徒の一人が自分の書いてきたストーリイを朗読しているとき、ふと見ると、いつ、どこから取り出したのか、先生がジャックナイフを手にし、指先で刃を愛おしむように撫でておられる。私が見る二度目(一度は新聞切り抜き)のジャックナイフと先生である。朗読されているストーリイがよほどつまらなかったのか、それとも突如として矢も盾もたまらずナイフの刃に触れたくなったのか。私の目には、そのときの先生はご自分の世界に完全に入っておられるように映ったのだが。
講議が終わって先生に尋ねた。「先生はいつもジャックナイフを持っていらっしゃるのですか」「うん。護身用だよ」と急に目を細められ「きょうな、ここへ来るときウインドウにコレが飾ってあったんだよ。どうしても欲しくなって買ったんだ」と、ナイフの刃を矯めつ眇めつしながら「いいだろう」と、欲しいものを手に入れて得意満面としている子供のような表情をされた。そしてその護身用のナイフはブーツの内側にしのばせていると先生ご自身から聴かされたときは、不遜にも「ええ格好しい」なんて思ったものだが、隆慶一郎の小説を読んで、なんとなく納得できた。
先生が小説家に転身して間もないころ、テレビで文芸評論家の故尾崎秀樹先生との対談が放映されたが、そのなかで先生が「剣は鑑賞するためにあるのではなく、人を殺すためのものです」と言い切っておられたのを思い出す。
池田ゼミの魅力は、池田先生ご自身の魅力にあったと、ゼミの生徒なら誰しも口を揃えて言うだろう。
講議が終わると、先生を囲んでの美酒佳肴の時間が待っている。それがまた楽しみだった。食通の先生は、どこかでご自分が気に入った美味に出逢うと、その感激をご自分だけにしまっておけず、宝物でも見つけたように生徒たちに知らせ、そのその美味を味わせてやろうと生徒たちを引き連れてその店へ繰り出したものである。生徒たちが「うまい!」と声を上げると、「だろう?」と、忽ち先生の顔は恵比須さまになるのだった。また、先生は唄うことがお好きで特に歌詞に思い入れがあるようで、人への愛しさや、日本人の郷愁が感じられるものを好んで唄っておられたような気がする。私は池田先生が唄う「風雪流れ旅」が好きだった。津軽三味線の、あの烈しく叩きつけるような撥の音にのって池田一朗先生があの低音の独特の声でさすらい人を唄うとき、その哀感が胸を打ち心に滲みた。いまでも「風雪流れ旅」を聴くと、あのころの池田先生を想い出し胸が熱くなる。そういえば「夢芝居」もよく唄っておられた。「夢芝居」といえば、こんな思い出がある。
或る日、生徒のHさんが「先生、いま浅草の木馬座にかかっている旅役者の一座に、面白い役者が居るんですよ。芸も達者だが女形姿が惚れぼれするほど色っぽいんですよ」と、興奮気味に言うので、先生も「行くか」ということになり、先生と生徒三、四人でHさんについて浅草木馬座へ繰り出した。小屋の前の出店で、カップ酒とおでんを買い、木戸銭一人六百円を払って芝居見物と相成った。目当ては勿論その女形。芝居では赤ら顔の親分役で笑いをとっていた。Hさんの間合いを心得た掛け声にも驚いたが、その赤ら顔が舞踊ショーで一転、水の滴るような女形姿に変身。踊った曲が「夢芝居」。残念ながらそのとき、先生がどんな表情をなさったかは、先生の席が私の前だったので見ることができなかったが、それとは別に先生の右隣に座っている年のころ十七、八才の少年の様子がなんとなく気になり、私は舞台よりも少年に気を取られていた。襟足の白い、どことなくなよっとした感じで、左頬に当てている男にしてはしなやかな指が、すぐ横の先生に何かサインでも送っているような武妙な動き方をするのである。先生は気づいていられるのだろうか。舞台では「夢芝居」の曲がボリュームいっぱいに流れていた。
芝居小屋を出てから先生に言った。「先生の右隣に座っていた少年、なんかおかしくありませんでした?」「そうなんだよ。ありゃちょっとおかしい。よく分かったな」と、声を上げて笑われたので、自分が笑われたような気がして恥ずかしい思いをしたのを覚えている。その「夢芝居」を先生はHさんと組んで、高音の部分はHさんの助けを借りながら唄っておられたが、それを聴くたびにあの日の先生の笑い声を思い出すのである。
ちなみに、あの妖艶な女形は、現在はテレビなどでも活躍している梅沢富美男である。
とにかく池田ゼミは講議のあと、よく食べ、飲み、歌い、喋り、桜が咲けば花に酔い、隅田川の花火に興じた。傍目には遊びの群れと映っていたかも知れない。しかし私たちは、そうした時間のなかで、池田先生から聞こえぬものを聴く耳、見えぬものを見る目を養われていたのである。それは自分たちの生き方にまで通じる何物にも代え難い財産となっている。
昭和五九年、先生の第一作目の小説「吉原御免状」が「週刊新潮」に連載。先生は池田一朗改め隆慶一郎になられた。
ペンネームの由来については、「時代小説の愉しみ」のなかで先生ご自身もお書きになっておられるが、名付け親の故久我歌子さん(浅草田原町の串揚げ屋十兵衛のママ)とは、先生にはじめてお店へ連れて行っていただいた時、京都好きの久我さんが、京都出身の私になにかと話しかけて下さり、私もそのお人柄に引かれ次第に親しくお話しさせていただくようになり、お電話なども時折かけて下さるようになった。池田先生の人間味に魅かれ、その男っぷりに誰しも憧れたが、久我さんが先生に寄せる敬慕の念は殊の外強かったように思う。先生のことを「大将」と呼び、「大将」を語る時の久我さんは活々として素敵だった。久我さんは姓名判断もやっておられて、池田先生が活字の世界へ転身される少し前、こんな電話がかかってきた。「大将のペンネームをかんがえなきゃなんないのよ。慶応の慶をどこかに入れて、名前は三文字がいいっておっしゃるの」大役を引き受けて久我さんの声はいつになく弾んでいた。それから数日経って叉電話があった。「大将のペンネームだけど、ケイ・リュウイチロウってどう?隆盛の隆っていう字使いたいのよ。イチロウは池田一朗のほがらかでない方の郎。どうかなあ」とおっしゃるので「隆一郎っていうのは、とってもいいわね」と言うと「姓の慶がねえ…」と、ちょっと思案気味であった。そのあとぷっつり電話がこなくなった。
「週刊新潮」に「吉原御免状」の連載が始まった。ペンネームは、慶と隆が入れ替わり、隆慶一郎となっていた。そのころだったと思う。久我さんが体調をくずされて入院されているらしいと、人伝に聞いたのは。昭和六〇年「吉原御免状」が刊行されると、文芸評論家は、不世出の伝奇時代小説家、異能の作家隆慶一郎と絶讃した。久我さんもどんなにか嬉しかったことだろう。その久我さんから或る日突然、電話があった。「大将、やったね」それだけ言うとペンネームのことにはふれず「わたし、ガンなの。入院中だけど、いま外泊で自宅にいるの。毎日賛美歌歌ってるの…」ショックで言葉を失っている私の耳に、久我さんがうたう賛美歌が聴こえてきた。その細く透る声を受話器の向こうに聴きながら、いま私が久我さんにして上げられることは、久我さんがうたう賛美歌を黙って聴かせていただくことだと思い耳を傾けていると、不思議に自分の心までが浄化してゆくのだった。そうして久我さんの賛美歌を受話器の向こうに何度か聴いた。
或る日、前進座のチケット二枚あるから観に行きませんかと、久我さんからお誘いをうけた。お躰は大丈夫なのかと心配したが、ここ二、三日気分がいいという。吉祥寺の駅で待ち合わせる約束をした。季節はいつだったか、とにかく日射しが強かったのだけは覚えている。先に行って待っていると、深めの帽子をすっぽり被り、サングラスをかけ、白い手袋をし、日傘をさして現れた久我さんを見たとき、ガンと闘っている壮絶な日々が思われ胸詰る重いがした。
芝居の演目は忘れてしまったが、やっぱり躰が辛いということで途中で出て近くの喫茶店へ入った。「きょうは、病人のわたしに付き合ってくれてありがとう。実はあなたにお願いがあるの」と、紙袋から包みを取り出して「これ、大将に渡して欲しいの。わたしが病院で作ったの」と、見せてくれたのは藍染の布をパッチワークした男性でも持てるような小物袋だった。そしてそのとき、私は気付いたのである。久我さんが私を誘い、辛い躰を押してわざわざ吉祥寺まで出て来られたのは(当時、私は中野に住んでいた)、闘病生活のなかで死を予感しながら、池田先生に使ってもらいたい一心で、ひと針ひと針精魂こめて作り上げたこの小物袋を池田先生に届けるための、私との芝居見物だったのだと。伺えば池田先生は病院へ一度もお顔を見せておられないという。後日、池田先生にお会いした折「これ、久我さんから先生にと預かりました。病院で作られたそうです」と、例の小物袋をお見せすると「お、そう」と受け取られ、久我さんの容態などについてはひと言もふれられないので「先生、久我さんを見舞って上げて下さい。喜ぶと思います」とつい言ってしまったが、心のうちで〈それでは冷たいではありませんか。先生のペンネーム、隆慶一郎の産みの親ですよ〉と、吉祥寺での彼女の痛々しい姿が思い出され、詰め寄りたい衝動を必至に抑えて先生の返事を待った。すると、先生から思いもかけない言葉が返ってきた。「やだよ。行かないよ」私は一瞬、言葉を失った。久我さんを気の毒に思った。だが私はあとで気付くのである。それが先生のやさしさであったことに。エッセイ集「時代小説の愉しみ」の「ペンネームの由来」のなかで、故久我歌子さんの名前を出し、そのお店串揚げ屋は田原町の十兵衛。と書き記されている。これが池田先生なのである。久我さんのことで一瞬でも先生を冷たいと思った自分を恥ずかしく思った。
昭和六一年六月八日、「吉原御免状」につづき「鬼麿斬人剣」「かくれさと苦界行」の刊行と前後して、久我歌子さんは旅立たれた。そして、颯爽たる快男児、愛すべき自由人と、隆慶一郎の声価はますます高まっていった。
先生が映像の世界から活字の世界へ身を投じられてからも、池田ゼミは「関東池田組」(注:一時、冗談で名乗っていた。現池田会)とその名を改め、今まで通り師と生徒の関係は変わりはなかった。
先生との思い出は枚挙に遑がないが、特に強烈に残っている思い出がある。
先生は海が好きで、泳ぐことが大好きだった。毎年梅雨が明けるのを待ち構えて生徒たちと海へ出かけた。締め切り間際の原稿があるときは、投宿先の宿で皆が眠っている間に書き上げ翌朝早々ファックスで出版社へ送るという早業に、先生がどれほど海を愛されていたかが分かる。
私はたまたま最後の海行き(南伊豆)に参加したが、その日は台風の余波で海が荒れ、泳ぐことは断念せねばならなかった。
海も空も鉛色におおわれ、海に突き出た岩塊に唸りをあげて打ちつける怒濤が白い飛沫を上げて砕け散っていた。私たちは砂浜で海の鎮まるのを待った。しかし海は白い牙をむいて吠えつづけた。先生の顔が次第に嶮しさを増していく。海に拒絶されている自分に我慢ならなかったのか、先生は片手で缶ピース(愛用の両切りの缶ピースを常に持ち歩いておられた)をむんずと鷲掴みにすると、むっくと立ち上がり、波打ち際へ進んだ。荒れ狂う海に向かって仁王立ちになり、終始無言で不動の姿勢をとっておられた。海から吹きつける風がめっきり白くなった先生の髪を逆立て巻きあげていた。先生の海水パンツの鮮やかなブルーが、何故か私の目に哀しく映ったのを覚えている。
―西へ行く海へ…待ってくれ、どうする気だ…西へ行くのさ…だけど海…海が何だ、オレは泳げる…必ず仏に会う。行ってくるよ―それが最後、抜手を切って進んでゆき、やがて見えなくなった…西方浄土目指して泳いでゆく姿が見えた―。[注・欄外に「仏を求めて西に向かった者を罰する何の法もありはしない。家族は安泰であろう」と補記](小説新潮編集部記)
隆慶一郎未完の連載「死ぬことと見つけたり」の十六話シノプシスである。平成元年七月、先生が入院されていた東京医科大学病院で担当編集者に手渡されたという。
そのシノプシスと、あの南伊豆での先生の姿が私のなかでオーバラップする。荒れ狂う海を凝視しながら、あのとき先生は「死ぬことと見つけたり」の死の方途を探りながら、ご自身の命のそう長くないことをすでに予感されていたのではなかろうかと。
平成元年十月三日、先生の小説「一夢庵風流記」が柴田錬三郎賞を受賞したというニュースを、たまたま札幌から上京していた私は新聞記事で知った。(その年の五月、家人の転勤で私は東京から札幌へ移り住んでいた)
ご入院の先生のお見舞いと受賞のお祝も申し上げたいと、先生のお傍に付き添ってあられた生徒のHさんに連絡をとったところ、病状が悪化しているので面会は無理という。そして「高橋さんは、きっと泣くから…」とつけ加えた。泣くから駄目と言うのなら、面会謝絶ではないのだろうとほっとしたが、数日後には札幌へ戻らねばならず、いまを逃せばもう二度と先生にお目にかかれないような気がした。ところが、いよいよ札幌へ発つ前日になって「先生が会うとおっしゃってるので、きょうの午後三時頃に来て下さい」とHさんから電話があった。先生に取り次いで下さったHさんに心から感謝した。
その日、ぜひご一緒させて欲しいという生徒のOさん、Kさんと三人でお見舞いに行くことになった。私は先生をお見舞いするのは二度目で、一度目は札幌へ引っ越す少し前で、病棟のロビーまで先生が出て来られて二〇分ばかりお話したが、そのときはお顔色も良く、相変わらず缶ピースを片手に煙草をふかしながら、小説の話などしておられたので、それから半年ちょっとでの病状の悪化が信じられなかった。
病室を訪れた私たちを、いつものさざ波をたたえたような優しい笑みで迎えて下さった先生のお顔がすっかり面変わりされていて、思わず涙が溢れそうになるのをぐっと抑えた。その場にHさんが居られたかどうか忘れたが、先生は頭をもたげて「その辺に椅子があるだろう」と、そんな状態のなかでも私たちに気配りなさり、「あした、札幌に帰るのか」と弱い息の下で尋ねて下さった。「はい」と答えると黙って頷かれ「ジャガイモ、旨かったよ。ありがとう」と突然おっしゃるので、お躰がどんなにかお辛いだろうに、わざわざお礼なんて…と、先生の優しさ温かさに思わず熱いものが込み上げてきた。先生はOさんにも「ご主人の腰痛はどうだい?」とお声をかけられ、お元気だったころもそうであったように、生徒ひとりひとりにお心をかけて下さるのだった。
私が北海道からジャガイモを送らせていただいたのはその年の八月末だったろうか。
それよりずうっと以前、先生がまだお元気だったころ(しかし慢性肝炎であった)、或るとき、どうして先生と二人で六本木のそのバーへ行くことになったか、今は忘れてしまったが、先生の馴染みのバーへ連れて行ってもらったことがある。店はまだ開店前だったが、バーテンさんらしき人が居て迎えてくれた。カウンターのなかで開店前の準備に立ち働いているその男性以外は誰も居ないガランとしたバーのソファに先生と並んで座り、バーボンを飲みながら、先生はいつになくご自分のプライベートな話をされた。それは先生の少年期の話で、後に「時代小説の愉しみ」のなかでも書いておられるので、ここでは省かせてもらうが、そのとき先生は、いつか自分の少年期を小説に書きたいと思っている。そしてそれが自分の一番書きたい小説だともおっしゃっていた。そんな話のなかでジャガイモの話がでてきた。先生は幼い頃函館のおばあさん(祖母に当たる方か、それとも御親戚か?)の所へよく行かれていたらしく「函館でおばあさんが、いろりの灰の中に埋めて焼いてくれた熱あつのジャガイモの皮を自分でむいてフウフウいいながら食べたが、あの味はわすれられんよ。ありゃあ旨かった!」と遠い目をしてなつかしむようにおっしゃったときの先生のお顔が忘れられず、平成元年五月に札幌に移り住んだとき、新ジャガイモが出るのを待って、北海道ニセコのジャガイモを送らせていただいた。そのころ先生は入退院を繰り返されておられたので、ジャガイモなどお口にされるかどうか、分からなかったのだが。それが病院で突然「旨かったよ」とおっしゃって下さったときは〈ああ、召し上がって下さったのだ〉と、感慨一入であった。
その日、先生はご気分が良かったのか、途中でベッドの背を少し上げてお躰を起されたが、あの堂々とした体躯が半身をゴソッと削られたように小さくなってしまわれているのを見て、胸が詰まり三人とも言葉を失っていると、先生がサイドテーブルを指差された。見るとテーブルの上に「北海道ミルクビスケット」と書かれた細長い箱が置いてあった。「あれな、旨いんだよ。それがな、この病院の地下でしか売ってないんだ」と、声をひそめ、宝物を見つけて喜んでいる子供のような表情をされた。あの食通の先生が、上海ガニに出逢ったときの感動を、その美味を生徒たちに伝えるときの表情そのままに、いま、このビスケットがいかに旨いか、そしてこのビスケットは東京のどこにもなくて、ご自分が入院しているこの病院にしかないのだと、目を輝かせていらっしゃる先生に、お元気だったころの先生が思い出されて、胸が痛んだ。
「先生、また参りますからお元気になっていて下さい」と病室を出たとき、なんとなく後ろ髪を引かれる思いで、ドアの向こうの先生をもう一度窺った。先生はベッドにお躰を凭せ掛けてぐったりと目を閉じておられた。そのお姿を見て、先生はご無理をして、私たちに会って下さったのだと、涙が噴き上げてきた。そして、これが先生との最後の訣れになるやも知れないと、私は心のなかで呟いた。〈先生、ありがとうございました〉と。
それから僅か一ヶ月後、平成元年十一月四日、隆慶一郎先生は旅立たれた。
その惜しまれる死から十五年、異才隆慶一郎の世界に酔う読者の声価は未だに衰えることはないときいている。
先生、十国峠から見はるかす熱海の海は、きょうも凪いでますか。
合掌
断片をとらえて
『シナリオライター池田一朗の断片をとらえて』
T.Fukano 著
一介の主婦でしかない私が、何故、シナリオライターの重鎮池田一朗を師とする教室の末席を得て数年もの間御指導を受けるようになったのか…
そもそもの発端は、シナリオ作家協会(日本放送作家連盟ではありません)の第一期生募集の広告をふと目にした事から始まります。
早速、受講を決め半年間シナリオの何たるかのイロハを学び、一応卒業させて頂きました。そのまま続けて研究生として残る方が多い中、私は敢えて異なる方向を目指そうとしました。
というのも、何かといえば本ペン第一主義で映画のシナリオこそが本筋で、テレビ等は付け足しのような雰囲気に疑問を感じていたからです。
素人の我々がひねくり出した脚本などで、どう考えても上映される筈はない、高名なライターがひしめいて居て、しかも映画界は斜陽、なかなか制作出来ない時代だというのに…。
その点、テレビ、ラジオの世界なら、何とかコンクールにでも応募して、陽のめをみるチャンス無きにしもあらずと計算したのです。担当の講師に、他のシナリオの学校を紹介して下さいと申し出ました。
何処の何という先生に師事したら良いかという私の相談に、その講師は、間髪を入れず「池田一朗」と答えたのです。で、私は直ちに、日本放送作家連盟のある六本木に向った訳です。
二、三の曲折はありましたが、首尾よく池田教室にもぐり込む事が出来ました。「池田教室は、今、満員なんだけどなあ」と渋る事務方を拝み倒して…。
教室のメンバーは、これがまた、多種?多才、ユニークな方々の集りで、私のようなごく平凡な一主婦が、とけ込めるかどうか不安でした。そんな心配も一ヶ月で霧散、すぐに、何年も籍を置いている古参者の顔になりました。その後は新入りが無く、一番最後の生徒だったと思います。
さて、当時の池田先生は、火曜サスペンス、土曜ワイドといったサスペンス番組のシナリオで大変お忙しかったにも拘らず、教室には殆ど毎回顔を出されて、シナリオの講議以外に、多方面の興味深いお話を次から次へとくりひろげて下さいました。
あの頃、教室へ向う足取りの何と楽しく軽やかなこと、今、思い出しても、ゾクゾクするようです。
もっとも、宿題のシナリオの「シノプシス」がなかなか手につかず、いつも「今日はまだ書けてません」と言い訳ばかり。教室のしめくくりは飲み会、我々怠け者の生徒一同をひきつれて、先生はあちこちのおいしいものを食べさせる飲み屋、居酒屋へと案内して下さるのです。そうした席でのくだけたお話しも、又、実に面白くて…。
肝心の勉強の方はそっちのけで、先生の大きな魅力にとりつかれました。「ああ、あー、楽しかったなあ」
しかしながら、目指すシナリオの方は、一向に進捗せず、常に足踏み状態のまま、またぞろ一介の専業主婦にもどってしまったという次第です。
その当時の先生のエピソードをひとつふたつ。
東銀座での教室の日、少し早めにそのビルに向って歩いていた私の目が、いつもの見なれた先生の太いジーンズの後ろ姿をキャッチ。「先生!」と声をかけた私、先生は「一寸、買物があるから」とおっしゃってスタスタと右奥の地下の店に降りて行かれたのです。御遠慮しようかどうしようか戸惑いながらも「ついておいで」という眼差しにつられて一緒にその店に入りました。
そこは可成り大きな「刃物屋」で日本刀からナイフまで、さまざまな刃物が陳列されていました。先生はある一画に直行し足を止めました。大小のナイフを並べた棚の前です。
そして、あれこれ手に取って吟味し、そのうちの一本の刃を開き、きれ味を親指でためしてみたりしておられました。少し離れて眺めている私の目に、その姿は、まるで無邪気な少年そのものに写りました。見方によっては禁じられた遊びに夢中になっている悪戯っ子のようです。ああ先生にはこういう面もあったのかと思う反面、太い親指を微妙にナイフの刃にあて、きれ味をためしておられる横顔には、ある怖さを感じたものです。
と、突然、私に向って刃先をつき出し、びっくりして一歩ひいた私を見て、先生はニッコリ。あの人なつっこい笑顔い戻り「これにきめた」とさっさとレジに向われました。そして、何事もなかったかのように、私には目もくれず目的のビルに向って歩き出しました。その、ほとんどセリフの無い一シーンが脳裏に刻み込まれ、その後、くり返しくり返し回想シーンとして、懐かしく登場してくるのです。
― ▽ ― ▽ ― ▽ ― ▽ ― ▽ ―
夫の転勤の為、新幹線で、東京―新倉敷間を往復していた頃の思い出です。
単身赴任先の家事を終え、東京に帰る車輌の座席でぼんやり外の景色を眺めていた私は、ふと目の前のネットに常備してある雑誌をみて、退屈しのぎにパラパラとめくりました。とその時、ガッと目に飛込んで来た見覚えのあるブッとい指、「あっ、先生」。座り直し、眼鏡をかけて改めて記事を読み始めました。
それは、格式も由緒もある銀座のバーの常連客の紹介記事と写真でした。
「へえー、こんなお金のうんとかかりそうな所へも出没していたのか、先生って、結構有名人なんだな、いや、遊び人ってとこかな」
帰宅するなり、一方的に感想をしたためたハガキを送りました。当然、返信なし。
先生にとっては、誠に教え甲斐のない生徒で、心底、申し訳なく思いますが、私にとって人生の一時期、大変貴重な、又、楽しいひとときを過ごさせて頂いた先生に感謝、感謝です。
泉下で「ワハッハッ」とあの豪傑笑いをして優しい目つきで、私たちを見守っておられる先生。
心から、御冥福を念じ上げます。 完
思い出
『池田先生の思い出』
C.Okawa 著
銃声が一発。明り一つない漆黒の闇夜を切り裂いた。銃声は唯一度だけ鳴り響いた。しかし、その唯一の銃声が全てを解決したのだ。
終戦後間もない或る夜、警察隊のジープは一台の闇屋の車を追っていた。僅かな光の中に、闇屋が銃を構えたのがちらと見えた。次の瞬間、銃声が轟いた。それは、こめかみの横すれすれに、髪一本ほどのところをまるで頬を撫でるようにして飛んで行ったのだ。
その余りに鮮やかな射撃の腕前に恐れをなしたのか、警察隊のジープはそこに立ち竦んだ。そこに急停車したまま、闇屋の車を見送っていた。警察隊は、それ以上追って行こうとはしなかった。
夜の中を赤いテールランプが飛ぶように遠ざかって行き、闇に吸い込まれるようにふいに見えなくなった。
闇屋の車は、まんまと逃げのびたのだ。
たった一発の銃声がものを言ったのである。
その腕の良い狙撃手こそ、我らが池田一朗その人であった。そして必死の形相でハンドルを握っていたのは先生の御親友。女と逃げるためにどうしても纏まった金が欲しかったのだ。そこで相談を持ちかけられた先生は…。
つまり、闇屋の片棒を担いだのである。
当時警察隊は、占領軍の指揮下にあり、銃は持っていなかった。が、闇屋の方は武装していたのだ。
「警察官だって命は惜しい。これ以上追って来るなと威したのさ。次は外さないぞ、と。それが判ったから追って来なかったんだよ」と、池田先生は上機嫌でした。
若かりし頃の武勇伝を話す時のお酒は、また格別においしいものであるようでした。
池田先生のお好きなものを二つ挙げろと言われると、海と酒です。海に関してならば、伊豆下田の南、弓が浜が一番のお気に入りでした。足ヒレをご愛用で、体力の続く限り、陽の落ちる迄泳いでいらっしゃいました。マドロス帽を被り、子供のようにトランプに興じ勝負にこだわったり。生徒の方も手加減はしませんから、負けた先生は、拗ねて急に用事を思い出したりと色々な手を使います。池田会の旅行は、海しか行かないのでした。
若かった生徒たちの期待感と、海が大好きだった先生をイメージして、
海近し 江ノ電急に 早くなる ちぐさ
池田先生は今、大好きだった熱海に眠っておられます。お好きな海を心ゆく迄眺めながら、風の歌を聞いていらっしゃいます。
さてさて、次は酒についてですが、その前に池田会について触れておきましょう。この池田会は、池田先生を中心にシナリオを書きたいと願う連中が、いつの間にか集って出来た勉強会のことを言います。
私は、池田会に入ることは入ったものの、書く上でのアドバイスを戴く事は少なかったように思います。いや、ほとんど無かったと言って良いでしょう。
「ケツのところが気に食わん。何とかして来い」とよく言われました。何とかなる位なら来やしないと言ったところで教えてくれる先生ではない。一人で書いて一人で悩んで一人で苦しむしかないのだ。
月一回開かれる勉強会は、休んだりさぼったりは出来ないのです。勉強会の方はさぼっても、終了後さぁ飲み屋へ行くぞとなると、人数が足らない。誰それがいない、あいつは何さぼっていやがるとなるのだ。確かに飲み屋に行くには人数が多い方が盛り上がる。また楽しい。そこで幹事が電話を掛けて人を集めなければならない。私も休んだ生徒の会社にまで電話をして、残業中の彼に早く酒席に来るようにと言っては顰蹙をかったことがあった。
池田先生は、改まって面と向かうといつも「何も教える事はない」と仰る。事実何も教えようとはなさらない。がひとたび机を離れると、先生は、全身全霊で私たちに何かを伝えようとしているように思えるのでした。
生徒たちに様々な酒の味を教え、酒の由来、名前、その酒にまつわる逸話を物語るのである。しかも勉強会の時の先生とは打って変った雄弁さで。
酒の飲めない下戸の私でさえ、アルマニャック、ズブロッカ、越の寒梅など名前だけは今も覚えています。そして店も色々あり、赤坂はGパン姿のお姉さん方の店だったり、新宿ゴールデン街もこ汚い店だったり、六本木の少々危ない店だったりする。気力体力の続く人は更に明け方迄先生に付き合って、呑んで話して叉飲んでを続けるのである。そして、始発の電車が動く頃、自然解散となるのです。
先生は仮眠後、朝八時半になると朝風呂に入って酒気を抜く。そして午前中執筆となる。
一度私は、今日の会は休むと先生宅に電話をした事があった。電話口に、折り目正しい老婦人が出られたので奥様かと思ったら、奥様のお母様で、武家の出で明治生まれの方だそうです。どうりで「朝風呂に…」と言葉を濁されたものでした。先生はこのお母様に頭が上がらなかったそうであります。
私は意外でした。恐いものなんか何も無いような先生にも「これだけは」というものがおありになる。そう言えば、師の小林秀雄氏にも遠慮なさったままで、「小林先生がいらっしゃる内は小説は書かない。シナリオを書いている」と仰っていました。
小林秀雄氏は、亡くなった時キリスト教に入信なさったので僕もそうすると言ってらっしゃいました。事実その通りになさいました。
男が男に惚れ込むという「一筋の純情」を私は先生に感じました。師小林秀雄氏は、余程恐い先生であったのだと想像しています。
生徒に囲まれて嬉しそうにお酒を楽しんでいらっしゃる池田先生をイメージして、
父帰る 豆腐をちょっと 上げて見せ ちぐさ
私が初めて池田先生にお会いした時、先生は
「音楽やっているのか。なんでシナリオ書きたいのか俺には判らん。酒が飲めないとプロにはなれないぞ。悪いことは言わない。音楽にしとけ」と仰っいました。後年音楽の教職につき、荒れた学校に行き詰まった時、かって先生が大学で、授業中うるさい学生に黒板拭きを投げつけそれで静かになった。だから「お前もやれ」と言われた。思わず「私が投げても当らない」と返すと「日頃から腕っぷしを鍛えておかないといけない。これだから女はダメだ」と先生。ワッハッハと笑っている内にスランプは吹き飛んでいました。
先生の黒板拭き投げの命中率はさぞ高く、恐れられていたことでしょう。終戦後警察隊に銃を撃ったあの名射撃手なのですから。
まるで映画のシーンを観ているようではありませんか。そこに池田先生の笑顔が重なればもう上出来のラストシーンです。ご親友の吹く口笛が加われば尚の事です。音楽が高まりエンドマーク。場内からは歓声と拍手が沸き起こる。やがて鎮まる。空っぽの客席。くしゃくしゃのプログラムが落ちている。映画館で観る映画の楽しみは独特です。
名画座の 角より続く 冬木立 ちぐさ
池田先生の一番お好きなものは何か。それは小説を書くことではないかと思います。
小説を書く時間が、たった五年間しか許されなかったなんて、余りに短いではありませんか。池田先生には、もっと長生きをして小説をたくさん書いて貰いたかったと残念でなりません。先生本人もさぞ無念であったと思います。まだ旅の途中だったのですから。
書きたいものが沢山あるのに書けない悔しさ。それはかの松尾芭蕉の辞世の句そのものではないかと感じました。
旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る 芭蕉
なんと言う事でしょう。そうだったのです。私にとって池田先生はシナリオの先生であって、シナリオの書き方を私は習っているのだと思っていました。が、今先生の思い出を書いてきてそれは少し違うのではないかと感じ始めたのです。よく勉強会で言われた事は、
「この作品には、ドラマチックのチックがないじゃないか」という言葉でした。
ドラマチックのチックとは一体なんでしょう。私はシナリオを書く技術を教えて貰うつもりで、先生の勉強会に通っていました。が今思うと、シナリオを教わったというよりも、人生を教わったのだとつくづく感じます。
書く事は理屈の外だよと仰る先生の声が聞こえてくるようです。少なくとも、池田先生は、そこを伝えたかったのではなかったかと思うのであります。先生が命を賭けて伝えたかったものは何か。それは今も課題です。
先生が亡くなって長い月日が経ちますが、私は今もあの夜の闇に遠ざかる車の尾灯を見ているのです。闇こそ何かを生み出す源ではないかと小さく信じているばかりです。どんなかたちでもいいから書き続けることが、私と池田先生との約束です。
風鈴の わすれものあり 店仕舞 ちぐさ
池田先生の眠りが安らかであることと、池田会が末永く続くことをお祈りしつつ、拙い私の文を終りたいと思います。
有難うございました。
終り
先生のこと
『池田先生のこと』
N.Yura 著
僕は、池田先生と出会う前、実は、あまり先生のことをよく知りませんでした。テレビでエド・マクベインの87分署シリーズや時代劇スペシャルを書いている職人的なシナリオライターという風に捉えていただけのように思います。
当時、脚本家では山田太一さんと倉本聰さんがちょうど売り出し中の時で、シナリオ業界は「オリジナルが書ける人」つまり、職人ではなく作家を求めていた時期でした。僕自身、出来れば、彼らのように売り出し中の作家に教えて欲しいと思っていましたが、そういう人たちは忙しくて、新人の面倒を見ている暇など無く、作家教室で僕らの面倒を見るのは職人的なシナリオライターと呼ばれている人たちだったのです。
池田先生に師事した人たちは数十人はいると思いますが、その中には、先生が目をかけていた人たちが何人かいました。逆に、どうでも良い、あいつはものにならないと思われていた人たちもいました。そして、僕は後者の方でした。だから、先生から声をかけられるというようなことは一度もありませんでした。お荷物だったのです。
しかし、先生に一番多く原稿を読んでもらった人間となると、もしかしたら、それは僕かも知れません。つまり、先生からは全然期待されていないにもかかわらず、ひたすら原稿を書いて持ち込んでいたのです。
先生の字は小さく、赤ペンで直しが入った箇所など米粒のようでした。
僕の原稿は、当然出来の悪いものでした。しかし、先生は、十のうち一でも良いところがあると、そこを伸ばすようにアドバイスをしてくれました。十のうちの悪い九の部分にはあまり触れないのです。もちろん、決定的にダメなところは直されましたが。
僕は、自分の書いた原稿を、みんなの前でよく読まされました。それは恥ずかしいものでした。先生は日活で仕事をしていたので、そういう大勢の前で原稿を読むのは日活方式のようでした。
先生は僕に対して、必要最小限の言葉しか発しませんでした。僕がカバンから原稿を出すと、ただひと言「読め」とだけ命ずるのです。まわりには、先生に師事する仲間が大勢います。
それから一時間近く、僕にとって恥ずかしく辛い時間が続きます。自分が書いたせりふを声を出して読むのですから。
僕が原稿を読んでいる間、先生は目をつぶっています。寝ているのかと思うのですが、あとで批評を聞くと、凄く細かいところまでちゃんと聞いていてダメを出すのです。あれは凄いなと思いました。眠っているようで、実は、一言一句聞き漏らさない。一種の才能だと思いました。
僕は、日本テレビの「青春とは何だ」から始まった青春ものが好きでシナリオライターを目指したので、そんなものばかり書いていました。すると、先生は、僕に「お前はテレビより劇画のほうが向いているかもしれない」と言いました。そして、集英社の劇画の原作賞に応募するように勧めてくれました。そして、翌年、僕はその賞で佳作に入選することができました。
そのことを先生に報告しようと、六本木の作家協会に出かけていくと、先生は狭い壁際の席でトランプ占いをしていました。僕が「佳作を取りました」と言うと、先生は「そうか、良かった、良かった」と言って、父親のように喜んでくれました。
先生としては、それをきっかけにして、劇画の世界で仕事が出来るようになって欲しいと思ってくれていたようなのですが、僕には劇画が合わなかったし、劇画の主役は絵ですから、原作者として本当に生活できていたのは、梶原一騎さんや小池一夫さんくらいのもので、あとは、絵を描く人がメインで仕事をしていたのです。
結局、僕は集英社の編集部に担当者を付けてもらいましたが、ものにはなりませんでした。
僕が小説というものを意識し始めたのはこのころかも知れません。(初めて推理小説を書いたのは小学校の五年生の時でしたが……)そして、先生も徐々に小説の方へと仕事がシフトしていきました。
先生は白金のマンションに住んでいましたが、自宅で原稿を書くことはほとんどありませんでした。今はもうありませんが、六本木の東日ビルの一階に「サンズ」という喫茶店があり、僕がその前を通りかかると、先生が窓際の席で仕事をしている光景によく出くわしたものです。先生は、寂しがり屋でしたので、一人で部屋で原稿用紙に向かうというのが耐えられなかったのではないでしょうか。だから、知っている人がいなくても、喫茶店のような人の出入りのあるところに身を置いて仕事をしていたのだと思います。
ある時、僕が「サンズ」で仕事をしている先生の席の前まで行くと、前のシートを指さして「座れ」と言いました。僕が言われたとおりにすると、テーブルの上の原稿用紙を片づけて「飯を食うから、お前も何か注文しろ」と言いました。最初は「ドライカレー」などと言っていたのですが、先生は「そんなもの食ってるからヒョロヒョロして太れないんだ」と、ステーキのような特製のランチをおごってくれました。そんなとき、先生は、無言で自分のにんじんを僕の皿に移すのです。「何ですか?」と聞くと、先生は、いつものように、簡潔に「食え」とだけ言いました。先生は野菜がダメだったのです。
先生とは池田会で一度だけ伊豆の海に行きましたが、あの太った身体からは想像が付かないくらいスムーズに足ひれを付けて泳ぐのです。僕が浮き輪を付けて遊んでいると「バカ野郎」などと言って、軽く追い抜いていくのでした。
話は飛びますが、先生が火曜サスペンスの最後の仕事をしているときだったと思います。僕が百枚の短編を書いて「サンズ」の先生のところに持っていくと、先生は「これは、物語の始まりの部分に過ぎない。起承転結の起でしかないじゃないか。もっと書き足せ。そして乱歩賞を狙え」と言いました。僕は、いきなり乱歩賞と言われて面食らいました。だって、それまで五百枚を越す小説なんか書いたことがなかったんですから。
その日、先生は気分が良かったのかどうか、「サンズ」で長い時間僕の相手をしてくれました。かれこれ、一時間半は話したでしょうか。といっても、しゃべっているのはほとんど先生で、僕は単なる聞き役に過ぎません。先生の話は、今書いている「吉原御免状」の展開と、その後に予定している「影武者徳川家康」の話に終始しました。つまり、そのネタのどこが優れているのかということを力説するのです。ここまでは既成の作家が書いている。しかし、ここからが俺のネタだ、と言うわけです。
しかし、僕は先生がその時に何をしゃべっていたのかよく覚えていないんです。というより、時代小説の基本的なことをまだよく知らなかった僕には、先生の「これが俺のオリジナルのネタだ」という話が理解できなかったのでしょう。ただ「傀儡」という言葉が何度も出てきたことだけは覚えています。今から思えば、残念なことをしたなあと思います。これから世に出ようとしている「吉原御免状」と「影武者徳川家康」の本質的な作者の意図を聞くチャンスに恵まれたというのに、何というバカな弟子だったのでしょうか。自分でも情けなくなります。
その後、先生は小説の仕事が忙しくなり、弟子の前に姿を現すことが少なくなりました。僕も、原稿は書いていましたが、読んでくださいと電話をしても「暇がない」と断られるようになってしまいました。
そうしているうちに、先生の体調が思わしくなくなり、まさか命に関わる重病とは思ってもみないうちに亡くなってしまったのです。
僕は、先生に「乱歩賞を狙え」と言われてそれを果たせなかったことが悔しくてたまりませんでした。先生が亡くなったのが十一月四日。そして、その翌日から、僕は乱歩賞に応募するための原稿書きを始めたのです。そして、最終候補まで残ったのが「ツール・ド・みちのくが狙われる」です。始めて五百枚を越す原稿を書いて乱歩賞の候補になれたのは奇跡に近いことでした。
しかし、結果は落選。そして、その後の僕の人生は、文学賞への応募の繰り返しということになるのです。僕は池田先生の弟子、しかも、一番多くつたない原稿を読んでもらった弟子として、なんとしても世に出なくてはならないのです。そういう使命感のようなものはあります。もちろん、書くことが好きなのは当然の事ですが……。ジャンルはミステリーと時代物。この二本立てで、今も小説家をあきらめずに原稿を書き続けています。
さて、僕は小説家隆慶一郎のファンかと聞かれると、どうもそうでないような気がします。やはり、僕にとっての先生は、火曜サスペンスで「心身症の犬」などを書いていた池田一郎なのです。今でも、古い映画のポスターなどを見ると、脚本池田一朗と書かれているものによく出くわします。そして、そういう時、ぼくは書店に先生の本が並んでいるのとは違い「これが先生の本当の姿なんだよな」と思ってしまうのです。世間では隆慶一郎の評価は大変なものですが、僕の中では、「火曜サスペンスでユーモアものを書けるのは俺だけだ」と豪語していたあのおじさんこそ、池田先生なのです。(火サスの企画者の小坂敬氏はユーモアものが嫌いでしたが、池田先生だけは見せる力があるので企画が通ったと言われています)
池田先生は西郷隆盛みたいな人だったのかも知れません。何をしてもらうというのではなしに、ただ、そこにいてくれるだけで良いというか、心が豊かになる人といった感じでした。先生亡き後、何人かの作家の方に原稿を見てもらおうとしましたが、新人を学生のように可愛がる人は皆無で、そういう意味では、池田先生は旧制中学や高校の良いところを残して、僕らに接してくれた最後の先生だったのかも知れません。辰野隆先生の影響もあるのでしょう。
とにかく、もう、今後あんなに魅力的な男に出会うことは無いでしょう。こう言っても、先生を知らない人にはわからないかも知れませんが、池田一朗という人は、敵も多かったが、一度惚れ込むと離れられないという意味で、やはり西郷隆盛だったのではないでしょうか。そして、そういう人物に身近に接することが出来た僕たちは幸せなのだと思います。
(終)
追悼
『追悼 池田先生へ』
J.Miyashita 著
「貴様! 賞を取れ!」いきなり 頭をゴツンとやられた。
あれはいつごろだったろう? 先生が中心となって開かれていた四ツ谷の講談社の教室から、六本木に移ってかなりたった頃でなないだろうか?
おそらく大方の方が懐旧の想いで語っているだろう夜の飲み歩きが楽しくて、私自身、三次選考あたりで振り落とされる毎度の落選に気落ちして、惰性で教室にでていた頃のことだと思う。多分先生もなまけ者の多いダラダラした雰囲気にたまりかねられたのだと思う。
そもそもテレビドラマなぞあまり見る暇もなく、社会福祉の現場のケースワーカーと子育てに追われる家庭を曲がりなりにも維持して、毎日忙しく過ごしていた私がシナリオの勉強を始めた契機は、次のような想いからだった。
その少し前、勤務していた児童相談所で階段の下に待ち伏せたクライエントの継父に、刃物で刺されるという傷害事件に遭遇し九死一生を得た私は、その療養期間中悩にぬいた。『もし私が担当者でなかったら、あの事故はおこらなかったのではないか?』あるいは『私のケースワーク技術の未熟が、継父の誤解を増幅させたのだとしたら、私は一人の人を犯罪者においこんだのでないか?』『私は再びこの仕事を続けられるだろうか?』などなど、信州の山深い温泉宿で一人自問自答していた。そして職場復帰する前に私はそれまでの十九年間の仕事ふり返り、一冊の本を出版した。
『福祉に生きる── 体当たりケースワーカーの記録───福祉関係書を多く手がけている
「ミネルヴァ書房」から出されたその本は、たいそう好評であった。しかし、仲間内はそうはいかなかった。やっかみ半分のいろいろな中傷に傷ついた私は、つくづく現役のままで物を言う困難を知った。「よし、それなら手法を変えてやろう。」
そこでシナリオと相成った次第・・・。ちょうど向田邦子さんが亡くなり橋田寿賀子さんが話題になる少し前だった。
まさか、ポスト向田邦子を目指した覚えはないが、初めてからの数年は、NHKのドラマとラジオに応募することを自らの課題として、どんなに忙しくても、腱鞘炎で指が使うえなくなって頑張った。それが冒頭のようなていたらくとなったのは、やはり「難しい」の一語につきるだろう。
二十年以上も「福祉事務所・児童相談所」など福祉の最前線で、さまざまな人達と出会い、人々の生き様に関わりを持ち、それぞれの人たちの悲しみ・怒り・嘆き・ときには喜びを共にしてきた私。それこそ素材の宝庫にいるようなものだった。
だが書けない・・・。その頃からずっと定期購読をしている月刊誌「ドラマ」を読んでいると、公務員・教員と言った安定した生活を捨て上京し、自らを飢餓状態に追い込んで頑張った頑張った人たちの『需要の言葉』などが目に付く。今年の第3回「テレ朝新人シナリオ大賞」の受賞者は、三人ともこういった類の転職組である。それぞれ生活のため映像関係の周辺で働きながら頑張った人たちだった。それだけに久々に達者な筆の立つ人たちだと感心させられた。実にうまくまとめている。教室でもそれに近い仲間はいたが、必ずしも報われたとは思えない。自分に欠けていたのは「飢餓感がなかったからだ」などという言い訳をするするつもりもない。要は努力不足と言うほかない。あるいは才能不足もあったと素直に兜を脱ぐ次第である。だだ、先生には申し訳なかったと言う気持ちで一杯である。あえて言い訳をするとしたら、今のように深刻な老人・障害者をテーマにしたものは、テレビドラマではタブー視されていたことが言えるだろう。高度経済成長真っ最中の茶の間には、重い主題は馴染まなかったとも言えるだろう。
本業の役人生活が次第に責任のある立場に進むにつれ、私のシナリオへの思いも薄れてきた。先生が小説に転身されお忙しく成られたこともある。隅田川の花火見物にお招きいただいた頃から、先生のご生活もすっかり変わられたようだった。時代小説に取り組まれてからの先生は、ものすごい勢いで驀進されていた。「小林秀雄先生がご存命中は自分は小説は書かない。」などと考えないで、もっと早い時期から小説を書かれていたら、どれほどの感激を世の人々に与えたことだろう。先生の小説はほとんど手元に集めたが、繰り返し読んでも退屈しない。まだまだ書きたいものをたくさん持っていらっしゃたのに、どんなにか無念だったろうと思う。なにしろ作品を生み出すという作業はその人だけにしか出来ないことなのだから・・・。先生が体を壊されるまで書き急がれたのも分かるような気がする。医者・弁護士と同じく作家も本人が死んだらそれで終わりの世界である。
作品ごとに、扉に「家族○○に贈る」と書いてあるのも気になっていたことだが、そこに先生の優しさを見いだす。
大きな躰で両切りピースの缶だけを片手に持って、街を闊歩されていた先生、一見豪放磊落に見せかけながら、その実、内面に繊細な感性を秘められていた先生。ナイーブさが恩師小林秀雄先生への敬慕となって、遅すぎた小説家への道を選ばせたのだろう。家族に対する優しさと愛人への優しさの二面を行動に表した先生・・・。躰に似合わない小さな繊細な文字・・・。(下手な作品に先生は細々と添削してくださったものだ。)
どれをとってみても、歳月の流れは私の心に残る「池田一朗」の姿をかき消すものではない。
不肖の弟子どもの集まり、(そんなことを言ったら、これから立派な作品を目指している人に叱られるかな?)恒例の墓参と時たまの飲み会、私の老後人生の楽しみの一つを奪わないように、幹事さんよろしくお願いしますよ。
了
カニの殻
『カニの殻』
S.Fujimori 著
八十七年七月、隅田川花火大会当日、アメ横に寄ってタラバガニを思い切って購入し、深川の池田先生のマンションに向かう。
「先生、カニです」
書斎に入り込むなり、タラバの袋を差し出す。先生の目の前に、お代官様への貢ぎ物のようにタラバを抱えて正座する。蒸し暑いせいだろう、甚平からもろ肌をさらけ出し、ペンを走らせている。夏の海水浴でも、宿で原稿を書いているときには上半身裸。小麦色の肌は歳の割に張りがあり、これが関取の背中なら平手でパシッと叩いてみたいところである。
ゆで汁が袋からもれるのではないかと気遣い、畳の上に置くことは避ける。書斎が硫黄温泉と漁港の入り混じったにおいに充満していく。カニ好きにはたまらまいにおい。先生にとってはなおさらである。
坦々と執筆中の先生を前に、貢ぎ物を抱いたまますることもなく、本棚を一覧する。茶褐色の歴史書に混じって、「マラソンマン」のつやのある背表紙が不釣り合いに目立つ。著者のW・ゴールドマンといえば、脚本家であり、小説家でもある米国の人気作家。なんで時代小説の資料で埋まる本の列に紛れ込んでいるのか、あとでカニを食べるときにでも尋ねてみよう。
放送作家教室の研修科のころ、アリんコを主人公にした冒険ファンタジー風のシノプシスを発表した。
「『重力の使命』、読んだことあるか?」
さっそく、SF小説に詳しい友人に尋ねたところ、H・クレメント作のハードSFの代表作であることを教わった。
「池田先生って、そこまで読んでいるんだ」おどろく友人であった。
カニのにおいの中、「マラソンマン」のどこに興味を示されたのか、思いを巡らす。二つのストーリーが事件をきっかけに結びつく展開の妙か、ナチ逃亡犯の顛末か。いや、映画で話題になった歯医者が行う拷問シーンかもしれない、先生って、案外こういうの好きだからなぁ…。
「おい、向こうに行ってろ」
創作中、用のない人間に真正面に居座られたら、誰だってうっとうしいに決まっている。しかも、カニの濃厚な香りを放っている。
袋の底にゆで汁がたまり始めたカニをキッチンの奥さんに手渡し、リビングに移動。一人、缶ビールをちびちびやりながら、早く仲間が来ないかと待ちわびる。
「このカニはこのままでよろしいのかしら」キッチンから奥さんの声。
「ボイルしてあるので、そのまま適当に切るだけで結構です」
まもなく、仲間たちが順次やってくる。打ち上げまでにはまだ時間があるので、リビングで思い思いの飲み物を口にしながら、オードブルをつまむ。
玄関から「お待ちどうさま」の声。ちらりと視線を移すと、四、五段重なった寿司桶がキッチンに運ばれていく。
翌年の花火大会、寿司が桶ごと床にぶちまかれたらしい。準備万端の先生のお宅へ、私たち池田会の仲間が誰も伺わなかったからだ。
花火事件と称している一大事が勃発した二ヶ月後、浅草ビューホテル内の喫茶店に謝罪しに行った。原稿用紙に向かう先生のテーブルにはすでに仲間の一人が来ており、私もそろりと腰掛けた。二人は、先生を待った。花火事件以前、幹事ではなかったので、どうしてこんなことになってしまったのか、私はわからなかった。連絡ミスだとは思うが、私が連絡を頼まれた訳でもないし、ましてや幹事でもなかったのだ。じゃ、なぜ私が誤りに来なくてはならないのか、誤るなら主犯の幹事が出向けばいいじゃないか。
「なんで、連絡しなかったんだ」
原稿用紙に目を伏せたまま、先生が突然おっしゃった。
「はぁ…」
尋ねられても返事ができなかったが、花火事件についての会話はあとにもさきにもこれだけだった。
仲間は揃い、あとは花火の打ち上げを待つばかり。大皿にうずかたく積まれたタラバのぶつ切りが、車座の中心に置かれる。先生はいつ仕事を終えるのか、花火を見ながら食べるのではどっちつかずになってしまうし、花火が終ってからでは食べ頃を失ってしまう。さっそく、誰よりも先に手を伸ばす。
「先生は?」仲間の一人が当然いう。
「先生の分だけ、取っとけばいいよ」殻から身をほじくり出す。
それでも仲間はカニに手を出さない。先生のカニ好きは周知のことばから、師に先んじて手を出そうなどもってのほか。
「買ってきたのはおれだから」
みんなカニを食べ出す。いくらてんこ盛りだといっても、十数人で食べれば、あっという間である。殻の山が築かれていく。
「二つ三つ取っておけばいいよ」
もう一つぐらい食べてもいいかな。残りの三切れのうちの一つに手を伸ばす。中身がない。残りの二つもからっぽ。殻の山を三つ四つ調べても、明らかに食べかす。片付ける間もなく、一仕事終えた先生がリビングに威風堂々と押し寄せる。
「どうぞ、先生」と、車座の間に先生を迎える仲間たち。
先生に飲み物を渡し終えた奥さんは、崩れ落ちそうなカニの殻をささっと片付ける。
カニの残り香の中、会話が消える。
数秒後、再びおしゃべりが始まる。一発目の花火の音が聞こえるやいなや、関取りしてあった非常階段(ここが花火のいちばんよく見える場所だそうだ)に移動するため、飲みかけの缶ビールを片手に玄関へ向かう。
「おい」
カニか、まずいなぁ…。
「これ、持っていけ」と、先生に寿司桶を手渡される。
五年前、放送作家教室でのシナリオ提出期限の日、仲間が次々と先生に作品を提出する中、結末まで達していないシナリオを先生の前に差し出した。
「あのお、先生、清書してないんです」
「昔、おれが使った手だ」
お見通しで、余計な説明はなし。アリんコのシノプシス発表のときもそうだった。
でも、カニなのだ。さっき先生の眼前に掲げたカニなのだ。
「はぁ…」寿司桶を受け取り、足早に非常階段へ向かう。
タラバのあとの花火、寿司、酒と、カニの件はどうでもよくなっていく。見物席に遅れてやってきた先生は、寿司桶を抱えている。花火見物というよりは、見物客が楽しんでいる姿を見物している風である。さっそく、先生出前の寿司をつまむ。光と音に歓声を上げている中、先生は部屋に戻ったらしい。
放送作家教室・第四十一期生の懇親会が行われたのは、「おれが使った手だ」の数カ月前であった。教室をパーティー会場に、講師の先生方も含め、みんなで軽く飲み食いしながら歓談した。私はとくに親しく話す相手もいなかったので、適当にお茶を濁していると、「夜の大捜査線」のロッド・スタイガーのような先生が隣の席に座った。
「どこから来ているんだ」
「荒川区の町屋です」
「昔、千住に女が居てな。ばハハハ」
「はぁ…」と返しただけの私をそのままに、紙コップを片手に女性がたまっている席へ移動してしまった。
これが池田先生との最初の会話だった。
あの日、花火が終了した後に、先生と一緒にカニを食べたとしたら―
〈先生、干からびちゃいましたよ〉
〈先に食べんからだ、ばハハハ〉
だから、私たちは先に先に食べてしまったんです。殻を残して。
了
思い出
「池田先生の思い出」
M.Ogata 著
「戦争はいいぞ。今でも無性に戦争に行きたくなる時がある。あの緊張感がたまらんのだな。」
六本木の喫茶店。サンルームのように全面ガラス張りの窓から、初夏の西日が差し込みはじめた頃で、ドアに背を向けた私の斜め向かいの席に、先生は斜に構えた姿勢で座っていた。他にもう一人いたが、誰だったかは定かでない。この会話の前にどんな話をしていたかも、全く覚えてはいない。
「おまえらはかわいそうだな。あんなにおもしろいものを、知らんのだからな。」
彼はそう言うと、また何本目かの煙草に火を点けた。
「だけど、私だって私なりに闘ってるもん。」
池田クラスの中で一番年が若く、当時、まだ学生だった私は怖いものなしで、口の利き方もよく知らず、先生とは「ため口」で話していたように思う。だが、回りは気にしていたようだが、先生から直接それを咎められたことは、ただの一度もなかった。
先生は私の方に向き直り、
「ほう、で、おまえは一体何と闘っているんだ」とからかうような視線を私に投げかけた。
「だからあ、親とか、好きな奴とか、社会とかだって、ちゃんと闘ってる。」
「でも、命かけてないだろ。」
先生はそう言うと、うれしそうに大きくそして大げさに笑った。
私の記憶はそこで途切れている。なぜだろう、もう二十年以上前の話だが、これだけは一枚の写真のように、喫茶店の配置図が書けるほど、鮮明に覚えているのだ。そして、一時間以上そこに居座っていたはずなのに、残っているのはこの会話だけなのだ。
先生は戦争の話をよくしてくれた。戦場は回りのすべてがモノクロームの世界だったのに、次に自分が行く爆撃を避けられる場所だけが、まるでスポットライトがあたっているかのごとく、一か所だけ色がついていて、そこに逃げると今度は次に行くべき場所に色がついて見えたこと。また、戦争中頭の中でダ、ダダダダというボレロの音楽が鳴っていて、帰還してから実際にボレロを聴いた時、涙があふれて止まらなかったことなど、戦争の話だけはなぜか印象深く、たくさん残っている。
今の時代「豪快」という形容が似合う人物に出会うことは滅多にないが、池田先生はまさしく豪快そのもので「去るものは追わず、来るものは拒まず」の人だった。どんなに緊張が張り詰めた場面でも、いつも最後は笑いを見せた。これにいつも私たちは救われ、包み込むような先生の暖かさを感じていた。
私たちの授業のあと間もなく、協会で講義をしなくなったため、池田クラスの仲間は増えなかったので、私の最年少の座は不動のものとなってしまった。時々、私は先生に対し妙に親近感を覚えることがあった。豪放磊落でありながら純粋でわがままなさみしがりやで花火好き。なんでも照れ笑いでごまかす、少年のような心も持った人だった。そして、彼がこの一面を垣間見せる時、その世界にいちばん近かったのは、池田組ではおまけのような存在の問題児、私だったのかもしれないと、今になって思うのだ。
当時のわたしは、若さという名に甘えた厚顔無恥な図々しさと、口の悪さと他人の心を弄ぶような残酷さを持ち合わせていたように思う。シナリオなど全く書かないくせに、いつも先生にまとわりついて、周囲のご婦人方の顰蹙をかいながら、伊豆の合宿での「みかん泥棒」事件など問題ばかり起こしていた。それでもいつも先生は優しく、決して怒ったり、見放すことなど一切しないばかりか、いつもさりげなく私に居場所与えてくれる細かい気配りもする人だった。
「吉原御免状」が出版されてまもなくの宴会の席で、先生に署名を所望したとき少し照れたような表情で私の名前を入れて、きちんとサインをして下さった。私はとてもうれしかったのだが、
「これで古本屋に売れなくなった」などと、ついいつもの軽口を叩いてしまった
当然いつものように周囲の大顰蹙を買ったのだが、先生は
「なんだ、おまえは」とか言いながら、うれしそうに大笑いしていたのだった。
まさかこの時はこの本が私にとっての形見の宝物となるなど、もちろん知る由もない。
一九八八年十一月四日、私はみんなの見送りを受け、二年の予定でニューヨークへ旅立った。何の因果か十五年たった今、この地に根を下ろしてしまっているばかりか、朝日新聞ニューヨーク支局雑用勤務を経て、今は中学、高校教師として日本の子供たちに国語を教えている。先生が知れば「とんでもない」と、また笑われてしまったことだろう。
当初はいろいろあって、知人もいない異国の地に英語も話せず、たった一人放り出されてしまったのだが、せっかくみんなが会社を立ち上げたときだったので「今帰れば池田クラスの奴らは、みんな大笑いするだろうなあ」と思い、それも悔しいので、歯を食いしばって必死に生きた。
半年を過ぎた頃だろうか、妙に池田先生に手紙を書きたいという思いにとらわれ始めたのだ。それが、そのうち書かなくてはいけないという思いにかわっていった。6thアベニューの三十丁目あたりを南に歩きながら、取り壊されたビルの跡地に生えた草を見つめ、その風景の中で思った日を、鮮明に覚えている。ニューヨークでは自分のアンテナが、日本にいた時の数倍も高く鋭くなった。一人の人間のことが妙に気にかかると、たいていその人の身にいい意味でも、悪い意味でも変化が起きていた。ある時、妙にその人のことを考えてしまったことがあり、あとでわかったことだが、彼はその時間にわたしにあてて手紙を書いていたということもあった。逆にわたしが送ったメッセージを感じ取っていた友人もいた。
だが、先生へのメッセージは間に合わなかったのだ。
その日はマンハッタンのウエストサイドにある、ジェイビスセンターの写真展か何かに出かけていた。滅多にそんなことをしたことはなかったのだが、その日にかぎって外から留守番電話のメッセージを聞くために電話をすると、田中くんか大嶋さんからだったかの先生の訃報が入っていたのだ。あわててロックフェラーセンターにある日系の紀伊国屋書店へ行き、端から新聞を買い求め、その記事をむさぼるように読んだのだった。人目があったにもかかわらず、涙をおさえることはできなかった。俯いたままそこを出ると、アパートに戻り、たったひとりでどうにもならない悲しみに耐えるしかなかった。異国では、こういった感情を共有できる仲間などいるはずもなく私がそれまで考えないようにしていた孤独感それもどん底にいきなり突き落とされてしまったのだった。一九八九年十一月四日、奇しくも私がニューヨークに渡り、ちょうど一年目にあたる日だった。そしてこの日からさらに六年後の、一九九五年十一月四日(米国時間、三日)、私はひとりの女の子を授かった。どうやらこの十一月四日という日は、私の人生にとって大きな運命の転換の日にあたるようだ。
今、先生がいたら聞きたい事が山ほどある。私が実際に体験したあの忌まわしい悪夢、同時多発テロ事件のこと、アメリカの戦争のこと、北朝鮮のことなど、「戦争好き」な先生なら何と解説してくれたのだろうか。今の私には答えが出ないことが、まだまだたくさんありすぎるのだ。
数年前、夏に帰国した際、池田組の仲間や先生の次男の二郎さん夫妻と一緒に伊豆の海に行った。前を歩く二郎さんの背中が、肩のなだらかなカーブ、うしろ髪の癖など先生と全く生き写しであることに気づいた時、突然私はデジャヴに陥った。私はいつもこの背中を見て歩いていたのだ。そして恐れ多くも、いつかこの背中に追いつき、追い越してみせるなどと、とんでもない夢を抱いていたのだ。それを思い出した瞬間、もうその背がこの世にはないことを、なぜかはじめて実感させられた。お墓参りにも行ったはずなのに、離れた地にいたせいか日本に帰ればまた会えるような、そんな錯覚がいつも心の片隅にあったのが見事に拭い去られ、言いようのないやりきれない気持ちが、私の身体中から溢れ出て、胸が熱くなっていた。
「ずるいよ、先生。まだ追いつかせてもくれなかったのに・・・。」
どのくらい立ち止まっていたのだろう、
気がつくと、二郎さんの背中はもう遠く遠く小さくなり、青い海に吸い込まれていくように見えたのだった。
了
在りし日の
『在りし日の隆慶一郎』
K.Yoshio著
出会い
私が池田先生(後に作家隆慶一郎としてデビューしますが、以下本文ではお会いした時の呼称であった本名池田一朗で通します)と出会ったのは、六本木の放作協(放送作家組合および同協会の略。以下協会あるいは組合と記す場合も同じ)が主催するシナリオ教室でだった。
教室本科では、当時組合の理事を勤めていた先生も授業を受け持っていた。だから、教室に入った時点で先生と出会うことは他の生徒と同様、必然なのだが。
初めて私が池田先生に会ったのは、そうした背景での事で、教室に通い始めてまだ間もない講議の場でだった。第一印象はぶっきらぼうな口調や体型から恐そうな親方と言った感じだ。しかし、講議の合間に見せる開放的な笑い声や笑顔がまず恐いという印象をぬぐい去り、徐々に話に引き込まれていったように思う。そんな印象を抱いた事は覚えているのだが、その時の講議の内容や、先生が何を話されたのかその断片すら今では全く覚えていない。
その後、実習講議のためのグループ分けが行われ、偶然、池田先生のグループになった。それが池田先生と出会う本当の意味でのきっかけとなる。しかしまだ、私は先生を師としようと思った訳ではなかった。その頃、私の周りにはシナリオに詳しい人や特にアドバイスをしてくれるような人はいなかったため、どうしても当時売れっ子の脚本家の方に意識が行き、「研修科では他の先生のゼミに入る」などと知り合ったばかりの教室の同志らと話していたように思う。
ただ、私の場合は特に師事したい脚本家がいたわけでは無かったので池田先生にも親しみを持ちはじめていた。ある時、先生が講議の後に「原稿の清書をしてくれる者はいないか。明日の朝までに仕上げてくれれば五千円出す」と生徒らに声を掛けた時があり、私はまっ先に手を上げた。
それは、たぶんに「五千円の報酬」という言葉につられたためだが、文章を学ぶには、手本となるテキストを手書きで模写するのが一番だとどこかで読んだ記憶があり、学びながらお金がもらえるチャンスなんて滅多にないと思ったからだった。
先生も同じようなことを『一夢庵風流記』の中で書いていた。慶次郎が直江兼続に惚れ彼の部屋を訪れた時、慶次郎は兼続の持っていた写本の山に驚く。その場面で、兼続の「写すだけで、仲々読み返す暇が有りません。難しいものです。」という言葉に答えて「手ずから筆写するにまさる読み方は、今日でさえないのである。」と。
この時のこともあり、研修科で再び先生と顔を会わせる事になった時には、すでに薹の立った生徒にもかかわらず、目をかけて頂くこととなったのだろう。
研修科
私の第一志望は布施先生で、池田先生は第三志望だった。しかし、授業でのぶっきらぼうな印象としばらく教室から遠ざかっていて、この年がゼミを再開した最初の年だったこともあり、第一志望で先生のゼミは埋まることがなく、教室で池田グループだった生徒がほとんどそのまま池田ゼミに振り分けられた。とりあえず第三志望だった私は良いとして、中には第三位にも名を入れていない人もいる。当然、不満を持ってゼミに通ってきていた。
いわば本科卒業の池田ゼミの生徒全員が、第一志望とは違う先生の下についたのだった。
その頃には、池田先生が過去にどう云う仕事をされてきたのか、当時どんな仕事をしていたのかが分かりかけていた。加えて、他の先生方も池田先生に一目置いている空気を感じ始めたのも研修科に入ってからだ。
さらに教室に復帰される直前まで教えていた講談社フェイマススクールの門弟たちと合流し、彼らからも先生の評判や情報も得られ、志望と違う先生の下につくことになったという不満が皆の頭から解消したばかりか、そのへんにいるシナリオライターよりも断然キャリアが違うんだという意識に変っていた。
こうして、先生との付き合いが本格的に始まったといっていい。
やがて、われら池田ゼミの面々は、当初の思いとは正反対に、「再開第一号の池田組組員なんだゾッ」といった意識で放送作家組合に出入りするようになる。今から思い起こせば、あたかも神祇組を名乗る旗本奴のような具合だった。
研修科を始めて一年ばかり経つと、生徒に女性が多くなり我々男性は先生の近くに座れない状況が続いていた。特にゼミ終了後の飲み会では、女性が取り巻くこととなる。そして先生は、その一人ひとりに細やかな神経を使うのだから、ますます好かれる。
隆作品に登場する主人公はなべて女性に優しい。それはダンディズムを標榜する先生の、弱き者を慈しむ心の有り様からきていたのだろう。それゆえ現実においても、先生は女性に大変優しかった。その優しさが誤解を生み、一方的に惚れられ辟易していたことも多々あった。
日活映画と先生と
小中学生の頃、私は映画が好きで、というより吉永小百合さんの大ファンでよく一人で映画館にもぐりこんでいた。お金が有る時はちゃんとチケットを買って入るが、無い時のほうが多い。それでも毎週映画を観に行った。それが出来たのは、ある時、お金が無くて映画館の前でうろうろしていた私に、もぎりのお姉さんが、「どうしたの?観ないの?」と声を掛けてくれたのがきっかけだったと思う。
「あんた、良く来るでしょ」
「うん」
「もうすぐ始まるわよ」
その頃、いや今でも高学年とはいえ小学生が一人で映画を観に来ることはまれである。そのせいで覚えられたのだろう。
「分かってる」
「ふ〜ん。今日は観ないんだ」
「観たいんだけど…」
「分かった。お金が無いんでしょ」私が頷くと、お姉さんは周りを見回して人が居ないのを確認し、身振りで入るように促してくれた。それからは、そのお姉さんが居る時は只でその映画館に入れるようになっていたのだった。
その映画館が日活映画の専門館であることは云うまでもなく、池田先生が日活でバリバリ脚本を書いていた時期でもあったのだ。
このようにリアルタイムで先生の脚本の映画を何本も観ていたにもかかわらず、そして必ずタイトルバックで脚本池田一朗というクレジットが流れていたのに、私の記憶に脚本家の名前はなかった。決してタイトルバックを観ていなかったわけではない。特に吉永さんの映画は食い入るように観ていたはずで、その証拠に監督森永健次郎とか、原作石坂洋次郎という名前は覚えている。
だから、先生が日活で脚本を書いていたと聞いた時も、私が熱中していた吉永さんや浜田光夫さん、芦川いずみさん、和泉雅子さんなどが出演していた青春ものの方では無く、石原裕次郎さんや宍戸錠さん、小林旭さんたちの男っぽい路線の映画の脚本を手掛けていたのかなと思ったくらいだ。
ところがどっこい、先生は石坂洋次郎原作の青春ものも結構書いていたことを知った。
ある時、石坂洋次郎さんの脚本が多いですね。と聞いたことが有る。先生曰く、
「洋次郎先生のご指名だったんだよ」と口許をほころばせながら、ちょっと得意げにおっしゃっていた。
無言のおしゃべり
六本木の喫茶店で、一人、もくもくとシナリオ原稿を書いている先生にしばしば遭遇した。当時、仕事を辞めてプータロウ状態だった私は、研修科の無い日にも先生が協会に居られる日を把握して、六本木通いをしていたこともあり、他の生徒より頻繁に先生に会っていたように思う。
その頃、協会近くの東日ビルの一階には「サンズ」という食事のできる店と「カルチェ六本木」という喫茶店の二つの店があり、食事のできる「サンズ」に先生がおられることが多かった。といって、必ず「サンズ」というわけでもない。そのどちらかにおられた。仕事をする時は「サンズ」、人と会ったり談笑する時は「カルチェ六本木」と使い分けていたようにも思う。
二つの店のどちらもガラス張りで外から中が良く見える。だから、地下鉄の出口を出て、まず出口のすぐ横にある「カルチェ六本木」を覗き、その足で今度は隣の「サンズ」を覗く。先生が協会に来られる日には、大抵、そのどちらかで姿を見かけることができたのだ。そのどちらにも居なければ協会にいるのだから、余程の事がないかぎり先生を捉まえることができた。
特に用事が有って会いに行っていたわけではない。ただ単にそばにいる事が自分にとって大事に思えていた。だから先生がお仕事をされている席に座らせてもらうが、最初に二言三言の言葉が交わされるだけで、ほとんどの時間、会話はない。先生はひたすら原稿を書き、私はそれを見つめているか、先生が所持していた本を借りて読んでいるかだ。
やがて、授業や理事会などの時間がくると席を立って協会に向う。私も立って協会まで同行し、その間の短い時間に雑談を交わす。この小一時間ほどの二人だけの時間のほとんどは、無言。それで充分おしゃべりをした感じだった。
たまに、
「お前、時間あるのか?」と、声を掛けてくれる。私が頷くと、
「じゃあ、待ってろ」と言って、その後の予定が先生に無い時には、行きつけのお店へ誘ってもらった。多分にそれを期待して会いに行っていたのかもしれない。しかし、無言のおしゃべりの時を過ごしただけで充分私は満足していた。
そんなある時、めずらしく「カルチェ六本木」で一人原稿を書いている先生に出会った時があった。
「いいですか?」と声を掛ける。いつものように「ああ」と答えが帰ってきて、いつものように相席した私は静かに座って先生の作業を見ていた。一度仕上がった原稿にどうやら手を加えているようだった。
やがて、原稿を書き終えた先生と、その日はコーヒーを飲みながら雑談になった。話の流れで、
「先生、小説を書けばいいじゃないですか。なぜ、書かないのですか?」と私は聞いた。
「小林先生がいるからだよ。」
思いもしなかった。だから私はキョトンとしていたのだろう。そんな私にさらに先生は続けた。
「小林先生が生きているうちは書けんなあ。書いたものを小林先生に批評されたら、二度と立ち直れないかもしれん。それが怖いのだろうな」
「でも、シナリオを書いているじゃないですか」シナリオも小説も同じ書く作業で、変わりは無いと思っていた私は、さらにつっこんでいた。
「先生はシナリオは読まない。まったくべつの世界なんだ。映画やテレビの世界は…。だから俺はシナリオライターになったんだ」と、笑いながら話してくれた。
当時の私は、それを聞いて「そうなのか」と妙に納得していた。というのも、私の頭の中にも小林秀雄氏が当代きっての文芸批評家として認識されていたため、むしろ、そんな小林氏を恩師と仰ぐ池田先生は凄いなあとかえって感心したのだった。
また、別のある時、先生に、
「同志社中学から三高にすすんだのに、どうして京大へ行かないで東大へ行ったんですか?東大なんて先生の性格に合わないですよ」と尋ねたことがあった(京大=自由な学問の府、東大=不自由な官学の府というイメージが私にはあった)。すると先生から、
「仕方ないだろ。辰野先生が東大にいたんだから…」という答えが帰ってきた。
私は人の学歴などどうでもいいと思っていて、全く関心が無い。だから、池田先生が東大の仏文を出ていると聞いても、「へえ、そうなの」というくらいの気持だった。その代わり、小林秀雄さんや辰野隆さんという名には、ご本人の著作やさまざまな人々の著作でその人と成りを知り敬意を抱いていたため、東大ということよりも両氏が恩師であるということに羨望の念を抱いた。
先生とナイフ
子供の頃に父親と別れた先生は辰野先生を「おやじ」のように慕っていたという。同じように、小学2年の時に父親と別れ育った私も、いつしか池田先生をおやじのように思っていたのかもしれない。しかし、先生が辰野先生を尊敬していたようには、私は先生に接してはいなかった。父親を知らないためにエディプスコンプレックスの形成が無く、それゆえにそれを克服することもなく育った私は、厳しい父親像ではなく甘えの対象としての父親を投影して先生に接していたように思う。
先生にとって辰野先生が「優しいおやじ」なら、小林先生は「厳しいおやじ」の役割を担っていたのだろう。先生は、辰野先生に師事することで、計らずも小林先生に巡り会い、憧憬する父親と威厳者としての父親、双方に巡り会ったのだ。
こうして代理父を持った先生は、遅ればせながらエディプス・コンプレックスを形成し、それを超克するために悩む。その精神の流れの過程は、東京創元社から立教大学講師を経て中央大学助教授となり、やがて映画の世界に身を置くこととなる変転の過程に象徴されるのではなかろうか。
先生の作品に登場する父と子の描き方には、こうした青年期の心理形成と無縁でないものがあるように思う。また、先生がナイフを好んだというのにも、こうした心理的要因が働いていると思ったりもする。
先生とナイフのエピソードでは、人づてに聞いた話だったか先生本人から聞いた話だったか忘れたが、あるバーで、隣席の酔客のあまりの態度に腹を立てた先生は、持っていたナイフをカウンターに突き立てたという話があった。
その話を聞いて、
「今も持ってます?」と私が尋ねると、先生はどこからかナイフを取り出し、同じようにナイフをカウンターに突き立てて見せてくれた。そして、そのナイフを手にし、子供のように眼を輝かせ、
「綺麗だろ。こいつの刃をみているとたまらんなあ」と笑みをたたえていた。
話は変るが、池田会に競馬の好きな人がいて、毎土曜のゼミにいつも競馬新聞を持ってくる。私も嫌いではなかったので、その彼とよく予想をしたりしていた。そんな場に先生が現れ、遊び好きな先生のことだから競馬もやるのだろうと尋ねたことがあった。その時の答えが、
「競馬はやらん」だった。
その理由は、小林先生とのエピソードだったかどうか忘れてしまったが、創元社時代、人に届けるべき原稿料を競馬に賭け、すっかり無くなってしまったという事があったそうだ。弁償しようにも自分にはそんなお金が無く、正直に使い込んだことを打ち明け、二度と競馬はやりませんと約束して許してもらったという内容で、
「それ以来、俺は競馬をしていないんだよ」と話してくれた。この時の約束の相手は小林先生だったのだと思う。
美味しい地酒を求めて
池田先生のまわりには、我々研修科の生徒以外にも沢山の先輩たちがいた。いわば私たちが一番のヒヨッ子。このヒヨッ子たちが集ったのが現在の池田会で、その前に先生の研修科を受けた先輩たちが名乗っていたのも「池田会」だった。だから、当初、我々は「関東池田会」を名乗る。この名はどことなく極道の集団を連想させ、先生を先頭に六本木や新宿、銀座を年齢も体格もまちまちな集団が闊歩する光景にピッタリなネーミングで、好んで名乗っていた時期もあった。当然、さまざまな連絡のための封書の後ろ書きには「関東池田会誰某」という名が記された。
ある時、「何だい、この関東池田会っていうのは。まるでどこかの組の名前みたいじゃないか。知らない人が見たら誤解されるぞ」というような事を家人に言われてしまったと、主婦でもある仲間の一人が言ってきた。それから、たんに「池田会」と連絡文には記すようになり、やがて私たちは普段でも「池田会」と呼び慣わすこととなる。(この会の名前は、会社や団体の正式な手順に則った名称ではなく、池田先生に教えを受けていた末弟子たちの集りを通称する名前で、未だに「関東池田会」と言う人がいたり、「関東池田組」あるいは「池田組」と言う人もいる。しかし、特に訂正させたりはせず各々池田会と同義語として理解している)
その先輩たちのグループの中に、先生の酒係とも言われていた人物がいた。今日ではどこの居酒屋でも、美味しいと評判の地酒が置かれるようになっているが、まだ地酒ブームが起る前で、当時は「越乃寒梅」や「雪中梅」などの地酒は知る人ぞ知る店にしか置いてなく、花見や忘年会、新年会、その他の宴に、その先輩がどこからかそうした地酒を調達してきていた。
その彼が、酒蔵巡りを企画し、年に一、二回ほど先生を連れ出していた。そんなひとつの旅の計画を、先生を囲んで話し合っている場に私がたまたま同席した。そして、
「お前も行くか?」先生の一声と、その旅が新潟の蔵元を訪ねる計画だったため、私が新潟生れだったこともあり、その旅に加わることになる。
しかし、私が新潟生まれであることの意味はほとんどなかった。もともと酒に弱い体質で、何かで割った蒸留酒(もっぱら焼酎のウーロン割り)を、一杯か二杯飲めばいっぱい一杯になる私は、日本酒のような醸造酒は苦手で、「新潟には旨い酒が沢山あって良いなあ」と言われても「そうですか」と答えるだけ。「そうなんです。どこどこの酒は、淡麗で、冷やして飲むと美味しいです」などと酒好きな先生のガイドになることは出来ない。むしろ、酒係りと異名をとる先輩の方が詳しく、どことどこの蔵元を訪ねるのか、旅のスケジュールは彼が全て決めた。
そんな私のせめてもの役立ちは、新潟市や上越市に親戚がいるため、下越、上越を問わず何となく土地勘があることだろう。『影武者徳川家康』の中で、島左近の同行者になる原田市郎兵衛のような役割といえるが、勿論彼のように間道の全てや様々な路地を知っていたり、希有な方向感覚があるわけではない。町を知っている人間がいたほうが何かと便利だろう程度の同行だ。
その旅は、白鳥飛来地の瓢湖で有名な水原町の近藤酒造を尋ね、新潟市で「越乃寒梅」の蔵元石本酒造を覗き、そして日本海側を巡り、上越市を経由して新井市で「雪中梅」を手に入れて帰るというものだった。
今では、吟醸酒や純米酒などという種類は当たり前のようにどのメーカーも作っているが、まだ特級酒、一級酒、二級酒という種別があった時代で、日本酒も燗をして飲むのが一般的だった。そのためアルコール度を上げるため、一級酒や特級酒には原酒にさらに合成アルコールが加えられて売られることになる。しかし、冷酒で飲む場合にはアルコールがとぶことがなく、原酒に近い二級酒がその酒本来の味を楽しめ、一番おいしく飲める。こうした白ワインのような飲み方が好まれるようになって、さらに口当たりの良い吟醸酒や純米酒が注目されるようになった。という話であるが、先生と酒蔵巡りをしている頃は、まだ日本酒ブームが来る前で、吟醸酒などは特定の店だけに置かれ、まだあまり一般には置かれていなかった。
私が初めて大吟醸なるものを飲んだのもその旅でだった。その頃から冷たく冷やした日本酒を味わっていた先生は、近藤酒造で出された大吟醸や古酒などを満足げに味わっていたのを思い出す。
後に、この酒蔵で作られる地酒「酔星」を気に入られた先生に、たまたまこの地区出身の知人がいた私は、田舎に帰ったら買ってきてくれとその知人に依頼した。そして、その彼は帰郷する度に「酔星」を買ってきてくれた。それを私が、先生が肝障害でお酒を控えられるまで届けるようになる。
この時の旅で、一番記憶に残っているのは、日本海側の小さな港町にあった釣り宿に泊まったときのことだ。そこが二泊目だったと思うが、夕食後、そのまま酒盛りとなり、「カード出せ」という先生の一声から、その夜もカードゲームが始まった。
その頃私は、グループ旅行に必ずカード一組を持参していた。そして、私が初めて先生と宿を共にしたシナリオ教室の夏期合宿で、自分たちの部屋で何人かとカードゲームを楽しんでいた時に、池田先生が入ってきて一緒に遊んだのが始まりだった。その時、先生と私が張り合い、先生は子供のようにゲームを楽しんでいた。以来、カードゲームは先生と何人かのグループで泊まった時の宿での遊びの定番となり、トランプは私の持ち物の必携品となった。
私たちは大いに盛り上がっていた。そこが釣り宿だということも忘れていた。
"ドンドン、ドン"壁を叩く音がする。いつから叩いていたのか、それは断続的に聞こえてくる。
「シーッ」誰かが気付き私たちを制した。壁を叩く音は隣の部屋からだった。
「うるさいッて言ってんじゃないの?」時計を見ると、十時を過ぎたばかり。私たちにとっては、まだ宵の口。だが三時四時に起きる釣り人にとっては、すでに寝ておかなければならない時間だったのだろう。
遠慮するような時間じゃないよと言いながらも、私たちは布団で目張りをすることにした。出入口の開口部と隣室との境の壁を布団で覆う。我々男性陣の部屋の布団だけでは足りず、女性陣が泊まる部屋からも布団を運び、防音措置を施した。
かくして、ゲームは深夜まで続けられる。
「どうだ!」
「うぉーッ、助かった!」
「うっひっひ、上がりッ!」
「ひえ〜」
「わっはっは!」思わず上がる掛け声と、歓声、そして先生の笑い声。中でも一番大きな声は先生の笑い声だった。
翌日、朝食の席には私たちしかおらず、同宿の釣り客はすでに宿を出た後だった。
この旅のもう一つの思い出は、直江津の私の親戚から紹介された家のひと部屋を借りて、路上で売っていた紅ずわいガニを食べたことだろう。
直江津に着いた私たちは、乗り換えで二時間ばかり時間ができたため町を歩くことにした。そこで路上売りの蟹を見つけた先生は、持ち込みで食べさせてくれる所はないかと私に聞く。ならばと駅前で商店を経営している親戚の家を訪ねた。そして、親戚の店の向いで宿を経営していた家を紹介してもらう。その家はすでに旅館を廃業していたが、客間がそのまま残っていて、その一室で私たちは買ってきた浜茹での蟹を食べることができた。しかも部屋だけでなく、大皿や殻入れの器、箸などを用意してもらい、その上、白子の汁まで作ってもらった。
まだ雪の季節には早い晩秋の頃だったが、風が冷たくすっかり凍えていた私たちは、その温かい汁でひと心地つき、仕入れた大量の蟹をたらふく平らげていた。その時の先生の満足げな顔を思い出すと、員数外で同行させてもらった私も少しは役に立ったかと思う。
海での思い出
先生とご一緒した旅は、海が一番多い。大抵は二泊三日で時には三泊の時もあった。シナリオ教室の合宿で同宿して以来、お亡くなりになる前年まで、毎夏、一回か二回、先生と海に出かけている。どんな経緯で毎年海に行くことになったのか今では詳しい事情は忘れてしまったが、先輩たちが佐渡行を計画し、前述した酒蔵巡りで彼らの仲間の一員となった私にも声がかかり、一緒に佐渡の海に行ったのがきっかけだったと思う。
私たちが佐渡から帰ってきてすぐに池田ゼミがあった。先生と私は、揃って真っ赤に日焼けしていた。海へ行ってきたのは一目瞭然。
「海に行ってきたんですか?」
「ああ」とニコニコする先生。
「吉尾さんも一緒に?」
「うん」と私が答える。
「どちらに行ってきたんですか?」
「佐渡だよ。佐渡の海は良かったぞ。ちょっとうねりが大きかったが、それがいい。身体が二三メートル上下するんだ」
講議を始める前の雑談で、先生と私は佐渡の話題で盛り上がる。その時、
「ずるいわよ。何で私たちを誘ってくれなかったの?」一人の生徒が先生に詰め寄る。
「そうよ、私たちだって一緒に行きたかったわ」別の生徒も同調。困った先生は、
「分かった、分かった。今度皆でな」
「今度じゃなくて、この夏に行きましょうよ」というような話になった。そして、
「吉尾、計画してやれ」という事になったように思う。そんな感じで海行きが決まり、それから池田会の行事として夏の海行きは定例化した。
当時、ゼミの仲間の多くは貧乏だった。当の私自身が、職が無く妻に食べさせて貰っている身分(この状況は今も変らない)。だから、宿は安い所にしなければならない。しかも直前まで参加人数が確定しないような状況で、夏真っ盛りのベストシーズンに宿を求めることは不可能に近い。そのため、池田会の海行きは梅雨明け直後の七月初旬か、あるいは盆明けの八月後半に行くことが多かった。それでも宿がとれず九月にづれ込んだ年もある。
とはいえ、先生のスケジュールとそれぞれ個性の固まりのような門弟をまとめるのが一仕事。幸い、FくんやTくんなど私に協力してくれるメンバーがいたおかげで、入院される年の前年まで、一年もかかさず先生を囲んで海で遊ぶことができた。
この池田会の海行きは、ゼミのメンバーだけでなく誰でも参加できる場だった。他のゼミの人でも池田先生と一緒に遊びたいと参加した。ある人は友人と共に参加したり、妻や夫、子供を連れて参加する。先生のご子息二郎さんと初めて会ったのも伊豆の海でだった。
温泉があり海がある。そんなロケーションに恵まれた南伊豆弓ケ浜の国民休暇村が私たちの常宿になった。金曜日から月曜日まで三部屋を確保し、人が多くなる土日にもう一部屋を予約。参加者はその期間、来たい時に来れるような計画を立てる。こうして述べ十四五人が参加していた。いつ誰が来るのか前もって連絡してもらっていたが、ある年、一泊でくる人が何人かいて、総勢二十人ちかくになったことがある。しかも追加の部屋も取れず、八畳の四人部屋に七人が泊まり、廊下でごろ寝したこともあった。
もっとも三部屋のうち一部屋は遊び部屋で、先生を中心に東京から持参した酒を飲みながら、談笑する。そしてカードゲームが始まり、「大貧民(大富豪)」ゲームなどを始めようものなら先生が大富豪になるか、午前一時を回って、
「さて、もう一度風呂にでも入るか」と先生がゲームを止めるまで続いた。人数が多い時には、トランプ二組を使ってやるのだから凄まじい。
午前二時三時に漸く床に就くが、先生と同じ部屋になるとまた眠れない。先生が静かに寝ているうちに寝つかないと、やがて大いびきに見舞われ朝を迎えることになる。
もっとも私を含めた幾人かは、皆が眠りについた後も、残った酒を飲みながら、東の空が明るくなるまで四方山話をしていることが多く、昼間、浜辺で潮風に吹かれながら寝ている。
海に来ているが、大部分のメンバーは泳ぐことを目的にしている訳ではなかった。先生を含め四五人は目一杯泳ぎを楽しんでいたが、釣りを楽しんだり、シュノーケリングを楽しんだり、なかには全く海に入らない人もいる。昼間はそれぞれ勝手に過ごす。そして、再び夜が来て皆が集る。そんな池田会の海行きだった。
締め切り間近の原稿を抱えていても、先生は私たちが計画する海に来てくれた。そんな時、先生は朝食後、宿舎のロビーで独り黙々と原稿を書き、書き上げると休暇村の事務室のファクスを借り、送っていた。
ある夏だった。珍しく先生が原稿に追われどうしてもその日には行けないと前日の夜になって連絡が入った時がある。書き上げて、翌日には行くからという話だった。ところが当日、宿に着くと先生がすでに到着していて、しかもひと泳ぎしているという。やがて海から帰ってきた先生は、ロビーで一心不乱に原稿を書き始めた。いつものようにファクスで送ることにしたのかと思った。
「吉尾、これを某スタジオまで届けてくれるか」書き上げた先生が言った。
「はい。いいですよ」と答えながらも、「えッ!何でファクスで送らない?」と私は頭の中で呟いた。
「でもこれから東京に戻っても、九時過ぎちゃいますよ」
「ああ、十時まで待っていてくれるはずだ。間に合うだろ」
というようなやり取りの後、
「俺が何処にいるか聞かれたら、知らないと言え。海にいるなんて言うなよ」この言葉で察しがついた。原稿の締め切りはとうに過ぎていて、先生は逃げ回っていたのだ。そしてその日中に必ず届けるというようなことで相手が承諾し、海にやってきた。相手は先生がどこかに籠って必死に書いたと思っているはずだった。そんなこんなで、休暇村のファクスから送る訳にはいかなかった。
かくしてその夏は、私だけ日帰り旅行となった。
資料集め
用も無く六本木の放作協に顔を出していた私は、いつしか池田先生の買物にも付き合うようになっていた。そのほとんどは六本木界隈で、時に銀座まで求めている品を買いに行ったりした。そういう時の移動手段はバスだった。
「地下鉄の方が早いですよ」と私が言うと、
「地下鉄はつまらん。街が見えないからな」それが答えだった。そして、暇な時、ふらりと一人でバスに乗り、車窓から街を眺め興味を引いた店などが有るとふらりと降り、その店を覗くのだと言う。
私が付き合わされる買物というのは本や文具類が主で、今でも覚えているのは海外ミステリーの新刊本やその頃好んで使っていた紀伊国屋製の原稿用紙やフェルトペンといった類いだ。原稿用紙は普通のサイズの半分B5サイズの四百字詰、その小さな升目にさらに小さい二文字を書き入れるため、ペンはロットリングタイプの極細(0・3mm)水性フェルトペン。当時、私も先生の真似をして同じ原稿用紙、同じフェルトペンを買い揃えていた。
すでに買うものが決まっていて、それを買うだけならなにも付き合わせる必要はない。しかし先生は私を誘い、本屋に入る。そして本屋の棚であれこれ本を手にして説明してくれた。それは、シナリオのネタになる材料を教えてくれていたのだと後で理解するのだが、その時は、生意気にも「僕はそういうのあまり好きじゃないなあ」などと言っていた。文具屋に付き合わせるのは、自分があれこれ文具を触るのが好きで、私がいた方が商品をいじりまわせたからだろうと思う。私も新しい文具をいじるのが好きだった。
このように金魚の糞のように先生にくっついていたから、原稿を届ける役をも仰せつかったりしたと思う。
また、企画書のシノプシスを書けと言われたのもこの時期だったように思う。ゼミの最初の頃こそせっせとストーリーを書いて提出していたが、そのうち遊ぶばかりで、私はほとんど書かなくなった。そんな私を見かねて、先生は、幾つかのプロダクションやプロデューサーに私を紹介し、企画書を書かせようとした。そして私は、最初の依頼された企画書は書き、幾許かの企画料を手にしたことも有った。こうして先生は私にシナリオライターとしての道筋をつけてくれていたのだが、そんなこととも知らず、その後、自分で書いて持って行くことをしなかった。
先生が小説を書かれるようになると、先生自身の外出も少なくなった。代わりに電話で呼び出され、「誰某の書いた何とかという文がある。それを捜してコピーしてきてくれ」と頼まれるようになった。
そして私は、先生が書いたメモを手にして、国会図書館に通い始めるようになる。こうして、ある事件が起きるまで、先生の資料集めのお手伝いができたのだ。
花火事件
それは先生が亡くなる前の年のことだった。
一九八八年七月二十三日午後、神奈川県・横須賀港沖の海上で、帰港途中の海上自衛隊潜水艦「なだしお」と、釣り客ら四十八人の乗った大型遊漁船「第一富士丸」が衝突した。ちょうどその時、先生と池田会メンバーは恒例の海行きで館山の国民休暇村に来ていた。
それは常宿としていた南伊豆国民休暇村が年々競争が烈しくなり、その二三年、休暇村が取れず妻良の国民宿舎や爪木崎のペンションなどと宿を代え、温泉好きな先生の期待に答えられずにいた。この年、南伊豆とともに館山の休暇村にも選択の幅を広げ、その結果なんとか館山が抽選に当たり、池田会として初めて房総の海に来たのだ。
この年は梅雨明けが遅かったのだろうか、夏休みに入っているというのに天候はぐずつき気味で、この日も朝から小雨が降ったり止んだりしていた。私は来た日にちょっと海に入っただけで、この日は午前中、テニスをしたりして過ごし、午後は釣りをしていた。泳ぎの達者な先生は、この日も遠くまでひと泳ぎした後、部屋で原稿を書いていた。
頭上がにわかに騒がしくなり、何機ものヘリコプターが行き交い始める。私たちは何事かと空を見上げていた。その時はまだ、「なだしお」の事故だとは知る由もない。夕方、ロビーのテレビでそのニュースを知った。
食事のため原稿書きを中断してやってきた先生と三々五々ロビーに集った仲間たちは、一頻りその話題で持ち切りになる。目と鼻の先の海上で、悲劇が起きたのだから興奮するなという方が無理だろう。その夜、先生は部屋で黙々と原稿を書いていた。
いつもと違う夜で、私たち門弟ははしゃぐことを忘れて酒を呑み、取り留めの無い会話で空白を埋めていた。やがて、その週の土曜日に行われる隅田川の花火大会の話になった。
「今年の花火には、出版社の人達が大勢来るみたいよ」
「ふう〜ん。そうなの」
「じゃあ、俺たちが行くと悪いな」
「そうだな。今年は誘いあって行くの止めよう」
部屋の隅でせっせと原稿を書いている先生に聞こえないよう私たちはそんな会話を交わしていた。
そしてその日が来た。
先生が向島に引っ越されてから、
「先生のマンションから隅田川の花火が見えるんじゃありません?」と聞くと、
「ああ、見えるようだ」
「じゃあ、皆で押し掛けても良いですか?」
「うん」というような事で、花火大会の日に私は皆を誘って先生のマンションに三年続けて押し掛けていた。先生から正式に招待されている訳ではなく、一方的に押し掛けていたのだから前述のような話を聞いた私は、その年、行くのを控えた。誘い合って行くのでは無く、行きたい人が行けば良いと思ったのだった。
私は、何人か花火を見に行ったのだろうと、そんな気持で仲間の誰とも接触がないまま時を過ごしていた。それから二週間ほどして、T氏が先生の家に行きたいと云うことで案内がてら一緒に先生のマンションを訪ねることになる。その時、先生の私に対する態度が妙によそよそしく他人行儀だったので「うん?どうしたんだ?」と思った。この時点で私はまだこの『事件」を認識していなかった。
それからしばらくして何人かの仲間と会う機会があり、はじめて事件を知ることとなった。
「先生、怒ってるんだって」誰かが云った。
「何で?何で怒ってるんだ?」私とあと何人かが怪訝な顔をした。聞くと、花火大会の当日、先生は十数人分の寿司を用意して私たちを待っていたのだという。待てど暮らせど弟子どもが一人も顔を見せず、怒った先生は用意していた寿司をマンションのベランダからぶちまけたと云う。
「なんだ、誰も行かなかったのか」私はその程度の認識だった。「それくらいで怒るなんて先生らしくない」とも思った。まさか出版社の人たちの来訪を、弟子どもが来るからと断っていたことなど知る由もなかった。
「もう、あいつらとは付き合わない」とも云っていたという。それを聞いたOさんなどは、
「上等じゃないか。こっちが付き合って上げてたんだい」と軽口を叩いていたのだから、その当時の認識の程度が知れよう。さらに「吉尾は破門だ」などという話まで聞き、私もちょっとカチンときた。出版社の人たちの応対で大変だろうと気を利かせたのだから、「怒られる筋合いは無い」という気持だった。それからしばらくは、仲間たちとは会っても先生の前に姿を現さなかったように思う。
その年の忘年会にも顔を出さなかった。それが最後の忘年会になろうとは夢にも思わずに…。
この時の詳しい状況を知ったのは、先生がお亡くなりになって何年も経ってからのことだ。
「知られざる傑作」そして最後の面会
こうして先生との確執が解消される前に、先生が入院された。私は仲間から病状を聞くことで我慢した。先生との関係を修復する時間はまだ充分あると思っていた。九月、退院されたという話を聞き、私は先生が行きたがっていた法師温泉への雪見の旅でもセッティングしようと考えていたのだ。
「役者をイメージして書いちゃいけませんかね?」
「どんな役者だ」
「ジャック・レモン」
「ああ、ジャック・レモンか。あいつは巧いなあ」
「日本の役者でピンとくる人がいないんです。日本に彼のような役者いないでしょ」
「いないなあ。あんな役者がいたら、もっと面白いものが書けたよ」
こんな会話を交わしたことを思い出しながら、この原稿を書いている。また、
「この間、『パットン大戦車軍団』という映画をテレビで観たんですけど、ジョージ・C・スコットの嵌り役でしたね」というと、
「何を言うか、ジョージ・C・スコットは『ハスラー』での演技が一番いい」などと楽しく映画談義を交わしたこともあった。
プライベートでも私は先生に大変ご迷惑をお掛けしている。わだかまりは私の方に有ったのかも知れないと最近思うようになった。
花火事件の後、三月か四月頃だった(まだ入院されていない時期)と思うが、久し振りに先生に会う機会があった。私はほとんど話をしないでその場にいた。先生も特に私に話し掛けることもなかったのだが、別れ際に先生は、
「吉尾、『知られざる傑作』のようになるな」と言った。
『知られざる傑作』はバルザックの短編だ。若い頃読んだ記憶があり、嘱望されながらついに作品を世に残すことができなかった画家の話だったようにうろ覚えながら思い出した。それが、まだ元気だった先生が私に残した最後の言葉になろうとは思ってもいない。
再び入院されたと聞いた時も、まだ私は亡くなることになるとは夢にも思っていなかった。十月下旬、皆で先生のお見舞いに行くから来ないかと言われ、一度くらい見舞いに行かないと申し訳ないなと、そんな感覚で出かけた。
病室に入り、先生を一目見て私は愕然とした。あんなに豪快な体躯をされていた先生が、今にも消え入りそうに見えたのだ。
〈会わなければ良かった〉咄嗟にそんな考えが浮かんだ。皆の気持も似たようなものだったのだろう。先生を遠巻きにして押し黙ったままだ。
それが辛く、私は先生の傍に進んで愛用の煙草に手を出し、
「一本もらっていいですか?」と剽げて見せた。
「なんだ、お前」先生はそう言って笑い、頷く。その時、私は許されたと思ったのだった。
了

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