歴史用語の基礎知識3風俗・風流・文化の部

文化・風流・風俗の部

傾奇

傾奇(かぶき)

動詞の「傾く」からきた詞。
傾く ふざける。放縦なことをする。好色である。(『広辞苑第二版』)
本来持っていたであろう反骨の心根みたいな意味合いは、現在では無くなっている。

傾奇者(かぶきもの) 

傾き者、かぶき者。歌舞妓者。「ばさら(者)」あるいは「男伊達(男達)」とも云う。後年、「歌舞妓者」と云って異様な風体をして大道を横行する者や、軽佻浮薄な遊侠者、伊達者を指したと「広辞苑第二版」にある。隆慶作品においても「異様な風体をして大道を横行する者や、軽佻浮薄な遊侠者」としてのかぶき者(猪熊教利『花と火の帝』、深草重太夫『一夢庵風流記』)は登場するが、それらはろくでもない人間としてしか描かれていない。しかし、本来「傾く」という行為の中にある、権力に媚びず、既成の価値観に反撥し自由に己を表現するという行為や、あるいは因習にとらわれず、権威に怯えることがない行為は若者の特権として、むしろ積極的に肯定している。

『傾奇者』はいつの世にもいる。室町時代『ばさら』と呼ばれた佐々木道誉、戦国期の織田信長、慶長の大鳥逸兵衛、明暦の水野十郎左衛門、数えあげればきりがない。彼らは一様にきらびやかに生き、一抹の悲しさと涼やかさを残して、速やかに死んでいった。ほとんどの男が終りを全うしていない。『傾奇者』にとっては、その悲惨さが栄光のあかしだったのではあるまいか。
彼らはまた一様に、高度の文化的素養の持主だった。時に野蛮とも思われる乱暴狼藉の蔭に隠れてはいるが、大方が時代の文化の先端をゆく男たちなのである。田夫野人とは程遠い生きものであり、秘かに繊細な美意識を育てていたように見える。それがまた一様に『滅びの美学』だったのではあるまいか。
そして最後に、彼等は一様に世人から不当な評価を受けているように思われる。或は我から望んでそうした評価を受けようとした節さえ見られる。なんとも奇妙な心情であるが、彼等はそこに世の常とは違って、一種の栄光を見ていたような気がする。これこそ滅びの美意識の最たるものではないか。私は彼等の中に正しく『日本書紀』に書かれた素戔鳴尊の後裔を見る。
『故れ天上に住む可からず。亦葦原中国に居る可からず。宣しく急に底根国に適ねといひて、乃ち共に逐降去りき』これが神々の素戔鳴尊に下した宣告である。
『時に霖ふる。素戔鳴尊青草を結ひ束ねて、蓑笠と為し、宿を衆神に乞ふ。衆神曰さく。汝は此れ躬の行濁悪しくして遂謫めらるる者なり。如何にぞ宿を我に乞ふぞといひて。遂に同に距ぐ。是を以て風雨甚しと雖も、留り休むことを得ず。辛苦みつつ降りき』
私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔鳴尊を知ると知らざるとに拘らず、揃って一言半句の苦情を云うことなく、霖の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う。(『一夢庵風流記』)

勝成のいうかぶき者と彦左衛門のいうかぶき者は違う。勝成は戦国末期を派手派手しく、それだけに華やかに生きた一人武者のことを指しているのに対して、彦左衛門は当節はやりの暴れ者の集団を指している。但し、この頃のかぶき者はまだ戦国の遺風を残し、後代に見られるような押し借り・ゆすりのたぐいは一切しなかったし、義に厚く、人が困っているのを見過ごしに出来ぬ侠気を備えていた。彼等に共通した態度は反権力であり、些々たる喧嘩に生命を賭けて悔いることがないという思い切りのよさだった。(『かぶいて候』)

魅力的な「傾奇者」として、隆慶一郎が描いた人物は前田慶次郎に尽きる。この前田慶次郎については『一夢庵風流記』および『花の慶次』を読んだ方々は先刻ご存じなので、ここでは改めて紹介しないが、ここに織田信長の傾いたエピソードがあるのでちょっと紹介してみよう。

信長が斎藤道三の娘濃姫を嫁に迎えた時、道三は信長の「大たわけ」という風評を確認するために会見を申し入れた。会見場所は尾張の西にある正徳寺。道三さんは信長と正式に会う前に、その「たわけ」振りを見ようと、町中の小屋からこっそりと信長が乗り込んで来る様子を伺った。
その時の信長は、世評にたがわず、奇妙な格好だった。行列は七、八百人の家来を引き連れ、三間半の朱槍五百本、弓鉄砲五百挺を担がせて、堂々たるものであり、その中の、信長の姿たるや、奇怪奇妙なものだった。
まず、甲冑姿でもなく直垂姿でもない。無造作に茶筅髪にくくっているが、派手な萌黄と紅の手打の紐で巻き立て、まとっているのは広袖の湯帷子で、肩までまくりあげ、朱鞘の大小は金ののしつけで、柄がまた異様だ。普通よりも長い上にミゴ縄で巻き、柄頭に芋縄の腕ぬきをつけてある。袴も尋常ではない。けものの皮を用いた四布の半袴で、素脚が剥きだし、さらに、その腰の廻りには、火打袋や瓢箪などをずらりとぶら下げている。
(なるほど、こりゃァ大うつけじゃ)
と、そのときは道三は呆れたり北叟笑んだりした。ところが、いざ、時刻になって、正徳寺とう寺で会見ということになったときは、なんと信長は別人のように、ちゃんと大名らしい正式な服装で乗りこんで来たのだ。この意表をついたやり方で道三は完全に度胆を抜かれた。「無念なことではあるが、あの大たわけ殿の門前に、わしが子供らは馬をつなぐことにるであろう」と、嘆じたという。(「歴史と旅」昭和55年5月号所収、早乙女貢「織田信長」より)

このエピソードは、『信長公記』にある。
「かぶき」という名称が「歌舞伎踊り」や「歌舞伎芝居」という芸能の方面に使われるようになると、いわゆる「かぶき者」は、「男伊達」「男達」(おとこだて)などと呼ばれ、さらに後には侠客と云われるようになる。

○むかしの侠客(ヲトコダテ)どもは、ことさらに異様なる姿にて、つよきを挫き、よわきを助け、金銀を惜まず、腰に白木の印籠だつ物をさげて、金百両づゝ入置て、道路にて物買ふに、一両にたらざる価は一両あたへ、一両にあまれるには二両あたへて、釣銭をとらぬを、伊達風流とせり、今の侠客は、高貴にへつらひて威光をかり、富裕におもねりて金銀をもらひて、男をたて、顔をしらるゝを自慢とす、むかしとはうらうへ(表裏)のたがひなり、(『神代余波』)

と江戸後期の国学者斎藤彦麿は、その著で「侠客(かぶき者)」の堕落を書いている。

男達(おとこだて) 

男伊達とも書く。元来は強きをくじき、弱きを助け、命を捨てても人を救うことに任ずること、またその者のことで、すなわち侠客をいったが、後年になると「町中男だて仕る若者これ有り、方々にて理不尽成る儀申し掛け、あばれ候由、聞こし召され候。(略)左様の徒者これ有り候はゞ、御番所え申し上ぐ可く候」(『正宝事録』延宝元年十二月十八日)と御触が出ているように、放埒で無法な乱暴者の称となった。

喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「だて風」の記述あり、参照ください。

かぶき者集団 

世にかぶき者といわれる者たちは、異様ないでたちで徒党を組み町中を闊歩したが、そのほとんどは「傾奇者」といわれた名立たる人物の姿形を模倣した、現代でいえば「族」と変わりの無い不平不満が鬱積した若者たちだった。後年になると、ならず者集団となって忌み嫌われる人々も現れたといわれている。

【荊組】(いばらぐみ) 
慶長期、京を闊歩していた「かぶき者」集団。人を傷つけること荊の如し、というのがこの名前の由来。(『花と火の帝』)
【皮袴組】(かわばかまぐみ) 
荊に刺されても痛くない、の意。皮の着物、袴という異風で都大路を闊歩した。(『花と火の帝』)
【棕櫚柄組】(しゅろつかぐみ) 
水野成貞が旗本奴を組織して作った。(『かぶいて候』)返り血や自らの血で刀を握る手が滑らぬように、刀の柄に棕櫚の縄を巻き付けていたため「棕櫚柄組」と名乗った。
【神祇組】(じんぎぐみ)
明暦期、水野十郎左衛門ら旗本奴のかぶき者集団。大小の神祇組と云った。(『吉原御免状』)しかし、『守貞謾稿』の記述によれば、「『伊勢貞丈随筆』に云ふ、今歌舞伎狂言にする丹前立髪六方は、丹後守殿前の風呂へかよう若衆どもの、病気分にして引き籠り居たるが、長髪にて通ひたるがかへって伊達に見へけけば、月代そりて、よき人も皆長髪にて通ひしより起る。下谷御徒町に仁木治太夫と云う者、大小を白柄巻きにして男立の張本たり。白柄組と云ひ、また大小の仁木組と云ふ。世俗神祇組と云ふは誤りなり。それらが大小を閂差しにして、大道狭しと振りかけて歩行ける故、立髪丹前と云ふ六方は、かの長き大小と両腕と六方へ振り出ると云ふ心なるべしとあり。」とあり、仁木組が正しいという。しかし、喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、
大小の神祇組とは或説に、仁木某といふ人、其魁たるによりて仁木組といふと有は誤り也。これは誓詞の言に日本大小神祇とあるを取て其徒を結ぶ誓こと也。
と、神祇組が正しいとしている。

『燕石十種』の『江戸真砂六十帖広本』には、水野十郎左衛門等旗本衆を「白柄組」といい、下谷御徒町に「大小の神祇組」があったとしていて、旗本奴の組は二つ別々のもののように記している。
また、『柳営婦女伝系』には花井主水正の弟義賢の次男の項に「大小神祇組に入り、大六方組と称える也」と有り、大小神祇組を称して大六方組とも言ったようだ。

貞享三年(1686)丙寅 三月閏 ○九月、大小神祇組と号したる悪党を罪科に処せらる(神祇組とは党を結ぶ誓言也。「安斎漫筆」に仁木組とするは付会なり)。(『武江年表』)

【六法組】(ろっぽうぐみ)
『守貞謾稿』に「六法組とて、武士にもあらぬ壮士ら、大小を帯し立髪にて、異風の扮にて徘徊しけるを、丹前姿とて歌舞伎に学びしものなり。」とあり、これは大小の神祇組を歌舞伎が真似、それをまた若者が真似たと書いている。
しかし、六法とは六方の事で、上の「神祇組」にもあるように、こうした歌舞伎者(男伊達・旗本奴)集団を喩えて「六方組」といい、それが「六法組」と書かれたか。あるいは、その音から後代の者で「六法組」と称したものがいたのか、不祥。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』にも、
『屠竜工随筆』に、「六方は長き大小と両の腕と六方へふり分る心なるべし」といへり。
とあり、反りの少ない大小刀を差し、大手を振って傍若無人に往来を闊歩していた者達の総称だったと思われる。
寛文年間記事 ○此時代、男伊達六方組等あり。深見十左衛門など其魁首なりしとぞ。
○この頃、侠客の額を抜上ぐる事行はれしなり。浪花の宗因江戸に来りし時、深見十左衛門が額を見て、「名月や来て見よかしの額ぎは」、是れ広く抜上げたるゆへなり。唐犬びたひは唐犬権兵衛が額づきより出でたり。但し権兵衛は承応のころにて少し古し(小仏小兵衛といへるも此のころの男達なり)。
均庭云ふ、此の句「洞房語園」に見えたり。其の文の書きやう深見十左衛門が発句と思はる。
天和年間記事 ○侠客深見十左衛門遠流。其の後十八年を歴て、宝永中帰郷を許さる。(『武江年表』)

[棕櫚柄組や神祇組に入る方法とは?]
 水野成貞が率いた棕櫚柄組や、その子十郎左衛門が率いた神祇組に入るには、どのような手続きが必要だったのだろうか。白柳秀湖『親分子分 侠客編』(千倉書房)に、旗本奴の風俗を記して有名な加藤曳尾庵『我衣』からの引用があるので紹介してみよう。
 「仲間入スルトキハ、ツテヲ求メテ金銀ヲ出シ仲間ニ入(リ)、若シ親兄弟ノ以(テ)ノ外ナル事トテ、勘当ナドスル時ハ、仲間ニテ、ラクラクト養(ツ)テ少シモ不自由ヲサセズ。是(レ)則(チ)、歴々頭分ニテサハイ(差配)ヲスル故ナリ」(84‐85頁)。
 まずは知り合いの紹介が必要で、入会金を支払って加入するという順序だったようだ。たとえ勘当の身となっても、「歴々頭分」が後援者に控えているから、食うには困らなかったらしい。そして「歴々頭分」とは、河合又五郎を支援した阿部四郎五郎や久世三四郎などの大旗本ではなかったかと、白柳氏は書いている(58頁)。確かに、あれだけ派手に遊んで金が続くのは不思議な話である。経済的な視点からのユニークな示唆であろう。(2004年4月10日瓢水記)

[水野十郎左衛門切腹後の大小神祇組(その1)]
 『吉原御免状』で松永誠一郎の友人となった水野十郎左衛門は、旗本奴大小神祇組の頭領であったと云われている。寛文4年(1664)3月27日に十郎左衛門が切腹させられたため、この時点で大小神祇組も解散したように思っていたのだが、22年後の貞享3年に「大小神祇組」を追捕した記録があった。今回はこの事件について紹介してみよう。
 大小神祇組の追捕が行なわれたのは、貞享3年(1686)9月27日である。「この頃大小神祇組と号し。党を結び遊侠を名とし。睚眦の讐(瓢水注:ガイサイのシュウ。ちょっと睨まれたほどの怨みの意)を報じ。府下を横行するものあり。無頼の少年これを習ひ。頗る政教を害するにいたれば。二百余人を追捕して魁首十一人市に斬らしむ」(『徳川実紀』)。
 十郎左衛門も徒党を組んで市中を闊歩したと伝えられるが、それは加賀爪甲斐守や坂部三十郎などの上流旗本であり、「党を結び遊侠を名とし」たかもしれないが、「睚眦の讐を報じ」るような幼稚な真似をしたとは思えない。十郎左衛門の率いた大小神祇組と、貞享3年に追捕された大小神祇組の間に、何か繋がりはあったのだろうか。(2004年8月14日瓢水記) 

[水野十郎左衛門切腹後の大小神祇組(その2・完結)]
 結論から言えば、両者は全く別物だったようだ。江戸時代研究者として高名な進士慶幹氏は、貞享3年に追捕された大小神祇組について興味深い史料を紹介している。
 「常憲公(綱吉)御代、厳有公(家綱)末より男立てとて、頻りにつよみをいふて、吉原、其外町中を、喧嘩を好みありく奴原の中に、下谷組の御徒の二男・三男、或は与力等のものゝ子、先は刀さしの武士格をもちたるものゝうちより、彼男立の党をなして、公方尻持、大小の神祇とのゝしり、あばれありき、ばくちを専らとして、町中を騒動さす奴を、常憲公代始に、彼中山勘解由に被仰付候て、悉くとらしめられたり」(『別冊歴史読本 徳川旗本八万騎総覧』、49頁。『古老茶話』よりの引用)。
 この記事を紹介した進士氏は、十郎左衛門は江戸の治安維持対策の一環として旗本奴への見せしめのために処刑されたが、それでもなお、下級旗本や御家人の内には、不品行に傾く連中が多かった。彼等は最早、男伊達という張りのある意気地を持つ者ではなく、「市民生活からただきらわれるだけの無法者であった」と結論付けている(前掲書、49頁)。(2004年8月14日瓢水記)

【追記】旗本奴には「大小神祇組」の他に、十郎左衛門の父成貞が結成したとされる「棕櫚柄組」、「吉屋組」などがあったとされるが、俗説や伝説の類が専ら伝わるのみであり、その実際についてはよく判っていないのが実状である。史資料の捜索・検討・整理が必要な研究分野ではないだろうか。 
[大小神祇組に入っていた花井主水正の甥]
 貞享年間の大小神祇組は、「市民生活からただきらわれるだけの無法者」の集まりだったとされるが、実はこの集まりの中に、『捨て童子・松平忠輝』に登場する花井主水正の甥が入っていたのだ。『柳営婦女伝系』の記述に拠りながら、その概要を紹介してみよう。
 松平忠輝の改易に際して、家老であった花井主水正は笠間藩主戸田康長に預けられた。主水正には義賢という弟がいて、忠輝改易後は土井利勝に預けられ、松下と姓を改めて利勝に仕えた。この義賢の庶子、作右衛門が大小神祇組に入っていたのである。
 作右衛門は若年の頃から不行跡を重ね、大小神祇組に入って「大六方者」と称したらしい。当然のことながら一族からは勘当され、貞享3年(1686)9月の一斉取締りを受けて浪人となった。綱吉の母桂昌院が庇護を加えていた護国寺で数年厄介になった後、姉の子で綱吉の母桂昌院の閨閥に連なる六角越前守広治を頼り、鳥取藩主池田綱清に仕えて三百石を頂戴し、大名分に列したと云う(『徳川諸家系譜 第一』、164‐165頁)。
 本来ならば、身を持ち崩した浪人として一生を終えてもおかしくなかったが、閨閥のお蔭で鳥取藩士として厚遇されることになったのである。(2004年8月14日瓢水記)

歌舞伎踊り

歌舞伎踊り(かぶきおどり) 

出雲の阿国が創始したとされ、現在の歌舞伎の元となったといわれる。元来、出雲大社の巫女が諸国を巡り、念仏踊りを踊って勧進したことから始っている。当初は念仏を勧める唄をうたって踊るだけだったが、評判になった阿国は、大衆の求めに応じはやり唄(今様)に合せて唄うようになり、やがてその衣装もより派手にきらびやかになってゆく。まさに「かぶいた衣装」で踊る事から、阿国の踊りは「かぶき踊り」としてもてはやされ、その後、遊女たちの歌舞伎踊りへと発展する。
出雲のお国については昔から各説あるが、足利末期から慶長年間にかけて数人あって、皆出雲大社の巫女として、大社の建造費用を集めるために京に上って来て念仏踊りを興行したというのが、普通に行われている説である。このお国はその最後のお国だ。彼女は当時有名な女性であった。結城宰相秀康がお国を伏見の自邸に招いて、その踊りを見て、さんぜんとして泣いて、
「お国はまだ年若な女でありながら、その名が天下に聞こえている。おれは堂々たる男子でありながら、未だ天下の人をおどろかすほどの功業を立てていない。お国に遠く及ばないのだ」と、なげき、お国に盃をあたえ、
「そなたの肩にかけている水晶の数珠ははなやかな踊りにふさわしくない。これをやろう」といって、珊瑚の数珠をあたえたという話が伝わっているほどの女であった。(海音寺潮五郎『戦国風流武士』)

と海音寺氏は書き、そのお国の踊りが名古屋山三の一座への加入により大きく変り、かぶき踊りへと進化していったとその書に書いている。また、この秀康とお国のエピソードは『常山紀談』にもある。

このお国と名古屋山三の話は承応(1652~54)以降の創作で、服部幸雄氏は『歌舞伎成立の研究』の中で、お国が四条河原で「歌舞伎踊り」を興行したのは慶長八年五月が初見とし、名古屋山三郎はその年の四月に同僚との刃傷事件で殺されたとされ、海音寺氏の書かれたように一座に加わることはもなく、その他の話に有るようなお国と山三の直接的な関係は認められないとしている。服部氏はその論文の中で、この名古屋山三惨殺の話しが速報として伝わり、歌舞伎踊りの題材にホットニュースとして取り入れ、お国自身が伊達男と評判だった名古屋山三に扮した。それが大当りとなり、お国と山三の伝承が生まれ、各種の歌舞伎草紙類に記述されて、以後時代が下がるにつれて雪だるま式にふくらんだのだろうと推論していると、前田金五郎氏は『好色一代男全注釈』の解説の中で述べられている。

歌舞伎(踊り)は、念仏踊りに發した。これは室町時代の風流(ふりゅう)と呼ばれた民俗舞踊の一種で、今ならば、流行歌謡曲をうたいながら踊りまわるというものだったらしい。きわめて現代的で、享楽的で、好色的(エロチック)なレビューめいたもの、ハダカショー的のものであったらしい。そうした舞踊劇團や、曲藝をみせる蓮飛(れんとび)だの、放下師、孔雀や熊の見世物などの興行、といつた娯楽施設が、京都鴨川のほとりにかたまつていた。わけても四条河原はアミューズメントセンターで、その中に出雲のお國と呼ばれる女優の劇團も現われて、満都の民衆から熱狂的に迎えられたのは、慶長の初年(八年以後)のことだった。四条河原にも出演したが、北野神社の境内でも興行したと傳えられる。
記録によるとお國は、黒い絹の僧衣(ころも)をつけ、真紅の唐織の細長い紐で鉦を襟にかけるという、人の目に立つ服装で、その鉦を打ちながら「念佛衆生摂取不捨、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」というような文句を唄いながら、踊りまわつたという。
もつともお國は一座の長で、ほかに今でいうバレーとかレビューの踊り子のような、若い女優郡があつて、ひらひらと裾を蹴出して、大いにエロを發散して踊りまわつたのであつた。こういう民俗的な舞踊だけでは、變化が乏しいので、間もなく、能狂言師のくずれが、これに参加して、滑稽な写実的な寸劇を、レビューの間に挿入するようになつた。この滑稽寸劇を猿若(さるわか)と呼んだ。そうして「念佛踊り」から「歌舞伎おどり」という名前にかわつていつた。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』)

遊女歌舞伎(ゆうじょかぶき) 

四条河原の遊女歌舞伎は慶長十三年二月に、『四条女歌舞伎見物せしむ、数万人群集す、目を驚かす者也』と『孝亮宿禰日次記』にあるのが、史料上の初見だという。出雲の阿国に発したかぶき踊りは、阿国の衰退と共に、六条三筋町の遊女たちによって引き継がれた。(『花と火の帝』下80)

この遊女歌舞伎は、女歌舞伎とも云われ様々な一座が輩出し隆盛を極めたが、風紀を乱すと云う事で禁止され、女性に代わって若衆が演じる様になり、現在の歌舞伎へと発展する。こうして生まれたのが、男が女性の役を演じる「女形」で、永井荷風はそうした事情にふれた文を作品の中に書いている。

一糸は瀬川の家に養われた役者として今でも女形を勤めてゐるのであるが、一時女形は女のすべき筈のもので、これを男がするのは女歌舞伎御禁止の為めに止むを得ず生じた江戸時代の野蛮な遺風であると云ったやうな議論が盛に新聞や雑誌に出た頃には、只訳もなく女形がいやで、昔気質の養父とは度々衝突して、いつそ役者なんぞは止してしまうかと考えた。(永井荷風『腕くらべ』)

お國を模倣し、これに追随する女優劇團がぞくぞくとできた。佐渡島正吉、岡本織部、北野小太夫、出来島長門守、杉山主殿、幾島丹後守などがそれである。
これらの追随者の中には、遊女屋が容色展覧のために歌舞伎おどりを興行するものもあったので、期せずして女歌舞伎と呼ばれ、遊女歌舞伎とよばれたのであった。そうして、京都から諸國にも下り、また諸國の遊女や舞踊手も歌舞伎おどり劇團を組織したので、わずか十年とたたない間に、日本全国津々浦々にまで、ひろく行われるようになつたという。
かく女歌舞伎がさかんに行われるようになると、一方にその弊害もまたはなはだしくなつた。あまりに社会の風紀、秩序をみだすので、徳川幕府はついにこの女歌舞伎にたいして禁止命令を発した。寛永六年十月のことだつた。これは単に女歌舞伎だけではなく、女舞・女浄瑠璃等、すべて女の芸能人が公衆の前に立つこと一切を禁止したのであつた。
翌年の寛永七年に、桐大蔵という女舞が幸若與太夫と合併して、江戸の中橋で男女混交の興行をしたがこれも直ちに禁止された。これはお國歌舞伎の発生以来約三十年たつたときに当る。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』)

衆道

衆道(しゅどう)

若衆道の略。男色の道。かげま。(『広辞苑』第二版)

我国で同性愛が罪悪視されるようになったのは、明治以降の西洋的道徳観が移植されてからのことだろう。それまでは、異性愛よりも少なく異なる道ではあっても、罪悪では無かった。そのため、男女の愛憎からくるさまざまな人間臭い事件同様、男色のもつれで引き起こされた事件も又、少なからずあった。隆慶作品においてもそこから来る事件がちらちらと現れている。その代表的な事例が荒木又右衛門の仇討で、この仇討のきっかけは衆道のもつれだった。

主道 衆道。但し『男色二倫書』(承応二年序、寛文五年刊『よだれかけ』巻五・六に所収)に「むかしは若道(にゃくどう)といひ、中ごろは主童と書といへり。男色はみちを主とするによりて、主道と書といふなり」。(『心友記』注)とあることから、『広辞苑』でいう若衆道の略で衆道となったのか、主道が衆道となったのか後考を要する。

西鶴の『好色一代男』では、「若道」と書かれ「じゃくどう」「にゃくどう」と読まれている。
にゃくどう(若道) ジャクドウとも。男色の道。男色。「自然若道などの縁を以て譲らるる様なる儀、仏法破滅の基に候」(高野山文書三、文禄二・一・一六)(『岩波古語辞典』)
『衆道物語』(心友記改題本)下に「衆道といふは、少人十二歳より二十歳まで九年の間也」とあり、『よだれかけ』五には「十六歳を若衆の春といふなり。(略)十一より二十までを蒼める花になずらへ、十五より八を盛りの花と極め、十九より二十までを散る花となん定まりし。此の理りは羅山のとはの言種とて、或る人は語りき。(略)また白玉の草子には、七歳より二十五までを若衆の一期とせり。此の道を好む者は、三十までをも用ひきにけりとあり」と記す。(『好色一代男全注釈』)

○男色をてらふものをかげこといひ、又かげまと称呼せり。ある人の物語に、鎌倉権五郎景政美小童なりし故に、八幡太郎義家寵愛し給ひ、景政をかげまと呼給ふに起れりといへり。かげのまと称すは訛なり。(『橘窓自語』)

慶安元年(1648)戊子正月閏 二月十五日改元
○五月、男色をむたひに申掛け、若衆狂ひする事を禁ぜらる。此の時何某鹿蔵といへる美少年の事に付き、騒動に及びし事「昔/\物語」にいへり。男色の事、此の時より止み、寛文の頃にいたり又行はれしが、ことありて止みたるよし同書にいへり(昔の方言に、男色を若道、衆道、野道と云ふ。若道、衆道とは若衆の道、野道とは野郎の道と云ふ縮語にして、尤も俗言なり)。(『武江年表』)

念友(ねんゆう) 

念人・念者ともいい、男色において、少人の兄貴分として交際する男子をいった。少人とは、稚児・若衆の事。(『心友記』注)『かぶいて候』には「男の愛人を云う」とある。
牛耳の交はり(ぎゅうじのまじわり) 
血を啜りあって誓った仲。(『心友記』注)

風呂屋・湯屋

風呂屋・湯屋(ふろや・ゆや)

「風呂屋」と「湯屋」は、現在で言えば「サウナ」と「銭湯」といった所か。現在の辞書では、風呂屋も湯屋も同意語のように書かれているが、この二つには厳然とした違いがあった。江戸時代になると、この二つは同じような店となって区別がなくなってくる。『守貞謾稿』には、「京坂にて風呂屋と云ひ、江戸にて銭湯あるひは湯屋と云ふ」とあり、江戸後期になると、同じようなものを地方で呼び方が違うという差でしかなくなった。 
慶長のころから京都、大坂では、風呂と湯屋を、はっきり分けてある。起源を言えば風呂のほうが古く、光明皇后の遺事もあるし、歴史のある禅寺には浴室が残っている。風呂は蒸気を立てた部屋に入る、いわゆる蒸風呂で、湯屋は浴槽の湯に身体をひたして温まる、という違いがある。
江戸のころ丹前風呂といわれたのは、戸棚の中が蒸風呂になっていて、客は下帯をつけて入る。中は簀の子が敷いてあり、その下に熱くした石を置き、水をかけて湯気を出す。充分に温った客が流し場へ出ると、着物の袖と裾をからげた湯女が、指先で客の垢を掻き落す。だから湯女は、吉原の遊女から猿と悪口を言われたが、この湯女の中にも、のち吉原へ移って名妓といわれた勝山のような女もいる。丹前風呂とは、神田雉子町の堀丹後守屋敷の前に、こういう種類の湯屋が出来たからで、丹後風呂と言い、丹前風という侍の派手な装束も生まれた。
嘉永四年五月に、江戸の湯屋仲間が出した三十八丁の『洗湯手引草』という書物がある。湯屋の由来、湯屋の心得、市中の湯屋仲間の番組などが記してある。これを読むと、文化三年三月四日の江戸大火で、市中が焼野原になったとき、湯屋も焼けてしまったので、諸方で据風呂を焚き、銭をとって薬湯と称し、客を入湯させた、というのがわかる。これでは湯屋を商売にしている者たちがたまらないので、文化五年、北町奉行小田切土佐守へ願い出て、湯屋番組という、一種の株をこしらえた。ご府内を十組に分け、株はすべて五百二十株になる。これは、江戸市中の一町内に一軒ずつ、湯屋がある勘定で、素人が薬湯などと称えて商売をするのは、役人から取払いの沙汰を受けた。
江戸の銭湯は、男女混浴だったが、老中松平定信の風俗改革で、寛政三年正月から男女入込ご停止となる、と『洗湯手引草』にも出ている。もっと古く慶安のころは、男女ともに銭湯へ行くときは、べつに褌(女は湯具)を持って行って、しめかえて入る。古いものをしめて入るのではない。男女とも、素裸ではなかった。湯からあがると、底の浅い下盥で、湯に濡れた褌や湯具を洗い、きれいにそそいで持ち帰った。慶安から時代が下って、手拭が一般に出はじめ、男女とも手拭で前を隠して湯へ入り、身体を洗うという習慣が普通になり、下盥というものも銭湯では見られなくなった。

『洗湯手引草』を見ると、享保のはじめのころまで、客によって銘々の印をつけた大きな桶を湯屋に預け、これに湯を入れて身体を洗っていたという。おそらく町内の大商人であろうが、こういう預り桶の習慣も、嘉永のころにはなくなっている。
この『洗湯手引草』の巻頭に、湯語教というのが出ている。一部を抜いてみる。
湯屋者是一生財 身滅則子株主成
湯屋不磨無光沢 無光常客人不入
石垣不磨糠汁穢 奇麗湯屋常繁昌
「湯屋は、これ一生の財、身を滅しても、すなわち子は株主となる。湯屋は磨かざれば、光なし。光なきは常に客人入らず。石垣磨かざれば糠汁でよごれ、きれいな湯屋は常に繁昌す」この湯語教を読むと、湯屋の心得がいろいろ書いてある。
江戸の銭湯は、それぞれ町の名を頭につけて、麻布市兵衛町の湯とか、小石川小日向町の湯とか呼んだが、組合には、三河屋、上総屋、伊勢屋などと、屋号と共に亭主か女房の名で届け出てある。大坂では、桜湯とか松の湯とか、湯屋に名前がついている。
銭湯のざくろ口が廃止されたのは、明治になってからで、薬湯温泉というのが東京市中で流行した。二階には酒肴を出す座敷があり、酌女がいて、売春行為をしたので、ときどき警察から咎められている。(村上元三「『洗湯手引草』」)

湯殿は通常小庭の一番奥の方にあり、檜造りである。その中に風呂すなわち蒸風呂設備、または水風呂すなわち温浴風呂の設備がある。日本人は、入浴して汗を流すことが四肢の疲れをいやす方法であるとし、旅行中毎日入浴する習慣があり、毎日夕刻、こんなに早くと思う時刻に、もう風呂の用意が調えられている。それに日本人は、雑作なく簡単に衣服が脱げるので、一風呂浴びようと思うと、すぐ風呂場へ急ぎ、帯を解く。帯を解いて体を振れば、もう衣服は後へずり落ち、褌一丁の丸裸になり、風呂の前に立っているのである。(ケンベル著『日本誌』)
風呂屋(ふろや) 
蒸し風呂。まずこの「風呂屋」が先に現れたと思われる。上掲の『守貞謾稿』には「『今物語』に、僧板ぶろと云ふ物に入りしこと見えたり。その文を考ふるに、戸ある物と聞ゆ。文治・承久比の人、信実朝臣の書かれたる物なり。風呂と云ふ名、古きことと見へたり。」とあり、「風呂は風炉の仮字にて、風気を得て火勢を増すものならん。もし、しかる時は、方今の鉄炮風呂または槽、腹上下二口の銅器を備へ、上に薪および炭を納むれば、下口より風気をもって火勢を増すものあり。これらをこそ風呂と云ふなるべし。」とある。

湯屋(ゆや) 

湯水の浴槽に身を沈める。半蒸し風呂。「『難波鶴』『京羽二重』等に湯やとふろやを別に出せり。ある人云ふ、湯屋は今の銭湯、風呂やは今の空ぶろか。」(『守貞謾稿』)とあるように、湯屋は現在の湯舟に浸る形の風呂に近かったと思われる。

○風呂屋(湯屋といひ銭湯共いふ)江戸中に六百軒余有レ之、明ケ六ツ時より夜五ツ時迄、浴湯人有り、皆、湯函一度に廿人宛も入湯する事也、京、大坂、其外賑かなる地に湯屋あれど、湯函小さくして、一度に四五人ならでは入湯ならざる由、然のみならず、昼時頃より湯を焚、暮頃には仕廻由也、江戸の如く成は、余国には絶て無レ之由、(小川顕道『塵塚談』)この頃は江戸末期(文化年間)のことで、銭湯という言葉にみられるように、現代の風呂という形に近くなっている。

○風呂屋の始は、御入国の始つ方、諸見附御門御普請の最中、今の常盤橋見附の外へ(又内の土堤とも云)水茶屋をしつらひたる人あり、勤番の武家方江都遊覧の始なれば、日々に多くつどひ歩行、又は丸の内の事なれば、長屋の住居の鬱を晴さんとて、五人三人打つれて彼茶屋へ来り、終日茶を喫て語り合つ、夫より段々酒となりし頃、或一人の侍の曰、久敷湯あみせずして身体不浄に思ふ儘に湯あみしたきものと云へば、何れも然りと云、こゝにおゐて、彼茶屋工風をして、己が宿所へ風呂を立、諸人を入らせけり、夫より髪をすく女を置きたり、此事一統に流行して、夫より鎌倉河岸辺に多く出来たりと云、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)ここでいう風呂屋は湯屋のこと。

八、湯屋の事 町家に前々より男女入込湯有レ之、又、女中湯といつて、女計入候湯も、三丁に壱軒位ヅゝ有レ之候が、女の気性に依て、女中湯は込合候てやかましき抔と云て、男湯へ入込候ものも有レ之、右に付候ては、猥成事も間々有レ之候由の処、寛政三年亥年二月十五日より、男女入込停止被2仰付1、乳呑の外、女一切入申間敷旨被2仰渡1候に付、入湯込合候儀も自然に薄く罷成候、以前入込の節は、若き女など入候へば、風呂の内押合候て、甚困り申候由、然る処、唯今迄男湯計有レ之候湯屋も、女湯願候て拵へ、追々所々江女湯出来致し候へば、女中もこまり候儀も無レ之候、湯銭の儀は、安永二三年の比までは、薪も高直に無レ之哉、町家にて大勢入湯いたし候内にては、壱人前七十二文位にて、一ケ月留湯いたし候由、其比は、壱人前六文、子供四文と申札出し申候、湯札の儀は、百文に二十四枚致し候を覚居申候、又其後、追々に上げ候て、壱人前八文、子供六文と相成、当時は十文と罷成候へ共、兎角に前々より定銭通りは遣し不レ申、無銭の者有レ之候故、引合不レ申候由、安永五六のはやり歌に、
きまつたよふできまらぬは、湯やの張札と直段附、
右の唄をうたひ申候、且又、四十ケ年程以前(宝暦中頃)までは、湯屋の入口の屋根に、木にて拵候矢を看板に出し置申候、是は湯屋を新規に拵候へば、弾左衛門方江罷越相届け、先ヅ一旦は留候へども、強て申人候へば、其節此看板を遣候由、湯屋は弾左衛門手下の渡世、如レ斯到来候由、世上にて風聞いたし候、或時、我等、弾左衛門由緒書と申て為レ見候に付見候処、彼が下の商売数多有レ之、後は矢の再建む不レ致、世上にていかゞに申ふれ候得ば、不レ出も道理かと存候、我等など覚候て、所々に有レ之候を覚居申候、([頭書]慶応元年頃より、湯銭十六文と相成申候、)(『親子草』)
幕末の湯屋(ばくまつのゆや) 
この時代になると、ほとんど現在の銭湯に近い形になり、1791年には、江戸の銭湯では徳川家斉によって男女混浴が禁止されている。しかし、男湯・女湯の区別は湯桶を板で分割した程度のもので、脱衣場や洗い場まできちんと別れたものではなかった。そのような湯屋が一般的だったため、慶応元(1865)年6月に日本を訪れたシュリーマンの目には混浴と映ったようだ。その辺りの江戸の湯屋の情景を描いた彼の文があるので紹介しよう。湯屋に絡めて、日本人をどう見ていたかという興味深い記述もあり、長めに引用する。

 日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも一日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。しかも気候が素晴らしい。いつも春の陽気で、暑さにうだることも、寒さを嘆くこともない。しかし、にもかかわらず日本にはどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を病んでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の原因を探るには実に苦労した。いろいろ見聞したことから推量するに、唯一の原因は、日本人が米と同様に主食にしている生魚(刺身)にあると断言できると思う。(※1)
 公衆浴場は大きな部屋で、側面の壁には衣類を置くくぼみができている。浴室の一隅に湯を満たした大きな風呂桶が置かれ、湯は台所から導管によって引かれている。浴場は、道路に面した側が完全に開放されている。名詞に男性形、女性形、中性形の区別をもたない日本語が、あたかも日常生活において実践されているかのようである。夜明けから日暮れまで、禁断の林檎を齧る前のわれわれの先祖と同じ姿になった老若男女が、いっしょに湯をつかっている。彼らはそれぞれの手桶で湯を汲み、ていねいに体を洗い、また着物を身につけて出て行く。
 「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らは衣服を身につけていないことに何の羞じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!
 オールコック卿(※2)の言うとおり、日本人は礼義に関してヨーロッパ的観念をもっていないが、かといって、それがヨーロッパにおけると同様の結果を引き起こすとは考えられない。なぜなら、人間というものは、自国の習慣に従って生きているかぎり、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。父母、夫婦、兄妹―すべてのものが男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。(石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』)
※1 疥癬(かいせん) 疥癬虫(蛛形類ダニ目の小虫)の寄生によって生ずる伝染性皮膚病。人体の指間・腕及び肘関節の内側、脇の下・下腹部・内股などを犯しひどくかゆい。(『広辞苑第二版』)とあるように当時の人足たちが疥癬にかかっていたとすれば、それは生魚を常食としていることと関係のないことは明らかだ。考えうるに、シュリーマンが訪れた時期がちょうど梅雨時ということで、畳や筵に疥癬虫が発生し流行していたのではないかと思われる。
※2 『大君の都』の著者。

柘榴口(ざくろぐち) 

浴槽の前に天井から板をたらしたもので、板の端と床との距離が短いので、身を屈めて入る。「屈み入る」を「鏡鋳る」と置き換え、昔は鏡をみがくのに柘榴の実の酸を使ったため、柘榴口といったという説がある。

「風呂といえば、どのみち入浴するためのものだが、普通に使われる風呂のほかに、入口に戸のない柘榴風呂というのがある。柘榴風呂とは何故いうのだろうか。それは、「かがみいる」というなぞなのである。」(『醒睡笑』巻の一)

昔の銭湯は柘榴風呂であった。蒸し風呂の効果をたかめるために、浴槽の手前に、天井に取付けた仕切りの板が下がっていて、入浴するには、体をかがめてその板の下をくぐって入る。だから、屈み入るのである。昔の鏡は金属製でくもりやすかったので、鏡とぎという職人が時々廻って来て磨いた。鏡を磨くには水銀を使ったが、さらに古くはザクロの実の酸が使われた。つまり、柘榴は鏡要る、このしゃれ語源説をそのまま採用している辞書もあるが、別の説ではいわゆる柘榴口の形がザクロの実のえみ割れた格好に似ているからだとされている。(『醒睡笑』解説)
丹前風呂(たんぜんぶろ) 
勝山が湯女をしていた事で、その名が有名な風呂屋。「承応・明暦の比、神田四軒町雉子町のつゞきに、何某丹後守様御屋敷ありて、その比この側に湯風呂あり。」(『守貞謾稿』)とあるのが丹前風呂。丹後守様御屋敷前を略して丹前と云った。『色里の部』「色里の風俗」項の「丹前」を参照ください。

戸棚風呂(とだなぶろ) 

戸棚のように密閉された浴槽に、戸を閉めて入る。

水風呂(すいふろ) 

西鶴の『好色五人女』に「水風呂に入ても、くび出して睨」という文があり、その註には「据風呂(すえふろ)に同じ。焚口のついている風呂桶に湯をわかして入るもの。蒸気に浴する蒸風呂に対す」とある。

水風呂は元来、茶の湯に用いる銅製の湯沸し器をいい、その構造は一方に火を入れ、他の一方に鉄製の湯沸しを仕組んだ形式で、それに構造が似ている所から、風呂桶を水風呂というようになった。据(居)風呂というのはそれが転じたものという。また、林美一氏の『時代風俗考証事典』には、「なお江戸で家庭風呂として用いられた風呂は据風呂である。なまって水風呂というが、はじめは湯を少し入れて蓋をし、蒸気を立てて蒸風呂の気分を簡易に味わったものだという。のち湯をたたえて入浴する温浴式に変ったが、身分の高下にかかわらず、最も多く愛用された。(中略)関西の家庭では据風呂の代りに、もっぱら五右衛門風呂が愛用された。水面に底板が浮いているので、湯が早く沸く利点があった」とあり、水風呂は据風呂の転訛としている。

当時の旅籠屋では、必ず入口に水風呂を置き、湯を湧かして旅客を誘い込む手段としていて、元禄以前の草子類に屡々それを見る事ができると、木村捨三氏は『西鶴雑考』のなかに記している。こうして当初は門口に風呂が設けられていたが、氏はさらにその著の中で「その後宿駅の制度も改まり、旅宿の構造も変って来たので、漸次門口の風呂桶から風呂場となって、屋内深くしつらえられた事の年代は判然としないが、恐く幕府の諸法令の整備した享保頃ではないかと思ふ」と述べている。

△江戸町に、大谷隼人といふもの、居風呂(すえぶろ)といふものをたくみ出す。
均庭云ふ、「見聞集」予が見し本には、すい風呂とあり。そのかみ湯風呂と云ひしは、蒸し風呂と聞ゆ、それに対して湯を沸かしたるを、すいふろといふなるべし。「遺老物語」の内、永禄已来出来たる物の中、すいふろと有りて、「朝鮮物語」名古屋陣中より出来たり、と見ゆ。(『武江年表』慶長年間記事)

湯具(ゆぐ) 

風呂屋で入浴するようになった江戸初期には、全裸で風呂に入る事はなく、男は風呂褌、女は湯文字と呼ばれる湯具を身に纏って入った。宝永二年(1705)刊の『御前独狂言』に、ある人が酒に酔って風呂褌をせずに風呂に入ったところ、「あるまじきこと」といって笑われた話が記されている。その後、手拭の出現によりこの風習は次第に無くなり、五十年後の明和年間(1764〜71)には男女とも手拭で前を隠すだけとなった。

ちなみに湯文字とは、湯具をいう女房言葉で、恥ずかしいを「はもじ」、寿司を「すもじ」、杓子を「しゃもじ」というのと同じであるという。現代では襦袢を湯文字と称している。(林美一『時代風俗考証事典』)

湯女(ゆな) 

風呂屋女。垢掻き。「湯女と云ひてなまめける女ども、二十人三十人並び居て、垢をかき髪をすゝぐ。さてまた、そのほかに容色たぐいなき、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云ひて持ち来たり戯れ、浮世語りをなす云々とあり。」(『守貞謾稿』)「風呂屋女…昔はあかゝきといひしが、今はしやれて猿とも名づく」(『好色床談義』三)

湯女は背中を爪で傷つけないように客の背の垢をかいた。風呂屋には浴後の休息座敷があり、彼女たちはそこで客にサービスし、酒の酌もすれば、三味線も弾く、果ては売春する者まで現れた。そのため、風気紊乱となり明暦三年(1657)に禁止されたが、その後も江戸では元禄末頃まで湯女の風俗は絶えなかった。(林美一『時代風俗考証事典』)

◯この時世、風呂屋湯女はやり出す。(「見聞集」に、天正の頃の銭湯の事を云ひて後に云ふ、その頃は風呂不たんれんの人あまたありて、あゝあつの湯の雫や、息が詰りて物もいはれず、烟にて目もあかれぬなどゝ云ひて、小風呂の口に立ちふさがり、ぬるき風呂を好みしが、今は町毎に風呂あり。びた十五銭二十銭づゝにて入るなり。湯女といひてなまめける女は、二十人、三十人ならび居て、あかをかき髪をすゝぐ。扨又、其の外にようしよくたぐいなく、心ざまいうにやさしき女房ども、湯よ茶よといひて持ち来り戯れ、浮世がたりをなす云々とあり。「落穂集」に云ふ、風呂屋江戸所々にあり。朝よりわかし晩は七時に仕舞ひ、昼のうち風呂に入る人の垢を流し候湯女も、七つ切りに仕舞ひ、夫よりは身の支度を調へ、暮れ時に至り候へば、風呂の上り場を用ひたる格子の間を座敷にかまへ、金の屏風などを引廻し、火を燈し、件の湯女は衣服をあらため、さみせんをならし小歌やうのものをうたひ、客集めをせしなり。右の風呂や木挽町辺にも一、二軒ありしと云々)。(『武江年表』慶長年間記事)

寛永十四年(1637)丁丑三月閏
○江戸中風呂屋女、三人限りに命じ給ふ(此の掟を破りしものを、吉原大門の外にて刑せらる)。(『武江年表』)

面縛

面縛(めんばく) 

手を背後に縛って、ただ面(顔)のみを前方に差出すこと。(『廣辭林』新訂版)

両手を後手に縛って面を前方にさし出すこと。「古の降者は、其の甲兵を去りて、面縛して命を待ち」(三代実録元慶二・一〇・一三)(『岩波古語辞典』)

但し『吉原御免状』で述べられているものは、この意味では無く、
「唐や朝鮮で、敗軍の将が敵に降服する時の作法で、顔を白い布で覆い、更にその上を同じ白い紐で縛る事」と隆氏はその作品の中で述べている。