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自由民
律令制に組み入れられていない人々の称。
公界(くがい)
公の場。領主や主人など支配者の私権の及ばない場所。収奪の基になる生産物を生まない河原、荒れ地、薮地などや深山は非生産地として領主などの支配から免れ公界となっていたが、こうした地はまた支配者の意思通りにならない自然の力が支配する地でもあり、聖なる場所であった。こうしたことから公界は神仏が支配する聖なる地という観念が生まれる。このことから神仏に仕える社寺の領内も公界とされ、公界=聖なる場所となり、領主権力の及ばない地となった。やがて公界寺などは主従関係などの縁を断ち切り自由になる「縁切り」の場として機能するが、領主などの支配層にとってはこうした公界は邪魔なものであり、当然さまざまな干渉を受け、やがて支配構造の中に取り込まれていく事になる。
1、おおやけの場所。晴れの場所。醒睡笑「今までは公界のむきよし」2、世間。人なか。鶉衣「腰にたたまれて公界に諂ふねぢけ心もなし」3、交際。つきあい。「公界上手」4、課役のこと。(『広辞苑』第二版)
室町時代から江戸時代前期にかけて、全国各地広い範囲で使われた「公界」という言葉には、「無縁」「楽」と重なる意味を持っていた。この「公界」という言葉は、もともと禅宗寺院で用いられ、「内々」「内証」「私」などの反対語として、世間・公衆・公共を意味する語であり、たとえば「公界の大道」などといわれるように道路は「公界」の場であり、「公界の活計」といえば、一人の来客への内々の御馳走ではなく、「世間づきあいの宴会」、パーティを意味している。
しかし、「公界寺」「公界所」は大名の私的な氏寺とは異質な寺で、ときに「敵味方ノキライナキ公界寺」などといわれたように、俗世間の戦争の敵・味方と関わりのない「平和領域」であり、無縁所、楽市場と本質を同じくする性格を持っていた。
また、戦国大名大内氏の掟書には、当主の怒りにふれ、家人としての縁を切られたものは「公界往来人」と同様なのだから、たとえその人が殺害・刃傷されようと、恥辱を加えられようと、その加害者については何の罪も問わないと定めている。このように「公界」を往来する人々は大名や諸侍などとの私的な縁ー主従関係の切れた自由な人々でもあった。大名などの保護の得られないこうした人々が「公界」に生きるためには、なんらかの「芸能」を身につけていなくてはならなかった。それゆへ、「公界寺」に住持する「公界僧」にふさわしい「能」ー学識・能力を持つ必要があったので、「公界者」「公界衆」といわれた人々は、能役者、連歌師、鞠師、算置や陰陽師、遊女など、遍歴の芸能民だった。
しかし、狂言『居杭』に現れる算置が、昂然と胸を張り、自ら「公界者」と称して諸侍の横暴に立ち向かうように、戦国時代の「公界」に生きた人々は、自らの立場に対する誇りを決して失っていない。『十楽』の津、桑名と同じく、当時の自治都市として知られた伊勢の大湊、山田などを代表する自治機関の「老若」ー評議会が、自らを「公界」と号し、打ち続く大名たちの戦争の中で、和泉の堺のように、その自由と平和を保ちえたという事実の根底には、こうした「公界」に生きるものの力と誇りがあったと考えられている。(網野善彦「公界に生きる人びと」より)
公界往来人
→ 「七道往来人」と同じ。『道々の輩』の項参照。
「公」(おおやけ)= 古代の共同体の代表者である首長のイエを大宅といった。堀や垣に囲まれた区画に家屋・倉が複数存在する施設を「宅」(やけ)といい、「宅」の大きなものを「大宅」(おおやけ)という。首長は共同体の共同性を代表する立場にあり、首長のイエである「大宅」は、同時に共同体全体の経営拠点でもあった。天皇・国家を意味する「公」の語源も「大宅」に求めることができる。
アジール
聖域・平和領域を意味するドイツ語。ギリシア語の〈不可侵〉という語asylonに由来する。いかなる権力の手も及ばないような状態、またはその場所をいう。本来は宗教的色彩の強いものであったが、外交官特権や政治ボウメイを支える原理として、今日もなお生き続けている。1549年(天文十八)に尾張熱田大神宮に掲げられた織田信長制札では、下にある条文からもわかるように、宮中の、場としてのアジール権だけでなく、そこに出入りする者の安全通行権、つまり場に関わる人間の、場外でのアジール権も保障されていた。
一、宮中任先例、他国・当国敵味方并奉公人・足弱・同預ケ物等不可改之事、付宮中へ出入之者江於路次非儀申懸事、
(一、宮中は先例に任せ、他国・当国敵味方并びに奉公人・足弱(あしよわ)、同じく預け物等改むべからざるの事。付、宮中へ出入の者へ路次において非儀を申しかくる事)
薮入り(やぶいり)
(都から草深い田舎に帰る意)1、奉公人が正月及び盆の十六日前後に暇を許されて一日ほど親もとなどに帰ること。また、その日、その頃。宿入。一代女四「されども薮入りの春秋をたのしみ」2、特に正月十六日前後の休みの称。盆の休みは「後の薮入り」といった。(『広辞苑』第二版)
「薮入り」という言葉は、現在ではあまり使われなくなったが、正月と盆の十六日、奉公人が主人から暇をもらう年二回の休日をいう。
江戸時代、薮入りは、はじめ正月十六日だけで、先祖の墓参りの日などとされていたが、やがて閻魔信仰の浸透とともに、地獄の蓋があくと考えられた正月十六日・七月十六日の閻魔参りの日となったといわれる。その基層部には、主人のもとに従属していた奉公人、さらには夫のもとにその行動を縛られていた妻などの解放の日、何をしても許される自由な日という意識が強く流れていた。こうした解放の日・自由な日がなぜ薮入りといわれるのか従来不明とされていたが、安野真幸氏が、『さんせう太夫』の正月十六日の「初山の日」を媒介にして、薮入りの語の源が中世の「山入り」にあることを明らかにされ、その源流が中世社会の広い裾野をもつ民俗慣習にあることがわかった。
初山の日は、山の神を祀る日で、新年になって初めて山に入って予祝行事を行う日、また山仕事を休む日であった。『さんせう太夫』で安寿がこの初山の日を逃亡決行の日と早くから定め、正月十六日という日を繰り返し強調しているのは、当時の人々が、この日の「山入り」が主人の束縛から解放状態におかれると考えていたことをしめしている。この正月十六日は山の神の祭日として特別な時間的意味をもっていたのであるが、中世においては、祭礼の日一般が、日常的時間とことなる秩序を現出させる日として存在していた。
山入り
中世において、日常的時間において「山に入る」という言葉は、特別な空間に入る意味にも使用された。
逃亡下人や犯罪人が保護を求めて寺院などに駆け込むことを、当時、「山林に走入る」「山林する」などといった。また百姓が領主の追及をのがれ、山野に逃げ込む逃散(ちょうさん)を「山野に交わる」「山入り」「山あがり」などと称した。これは「山」といふ空間が山の神が支配する場として、俗権力の秩序とは別の秩序が存在する空間と考えられ、ここに入ることにより俗界の諸関係が消滅してしまうという社会観念の存在にもとづく行為であった。
この「山入り」は、「薮山に入る」「薮山に籠る」などともいわれた。また当時の百姓は、逃散の際、山入りするだけでなく、みずからの家や田畑を領主の没収から守るため、「篠を引く」「柴を引く」といって、家や田畑を篠や柴で囲って、薮林・山林のようにし、ここは「山林不入地」であると称し、領主に対抗した慣習を生みだしていたことが知られ、「山入り」と「薮入り」は本来同意の語であったことが確認される。(勝俣鎮夫)
抜け参り(ぬけまいり)
江戸時代以降の薮入りは、いわば社会的に認められ、上から与えられる定まった休日としてその命脈を保ったが、同様に神仏との関係に依拠して、奉公人たちがその束縛から解放されるため、みずからを「聖なる者」に変身させて、一時的にせよ自由を享受したのが「抜け参り」であった。
「抜け参り」は、薮入りと同じく、商家に奉公する丁稚・小僧・下男下女、農家に隷属する名子・被官、さらには当時家にしばられていた妻女などが、伊勢参宮を目的に、その主人や家長に無断で家出することであった。抜け参りは江戸時代に旅行するさいに必要な往来手形を持たず出国する非合法なものであったから、主人のみならず各藩の取締りも厳しかった。だが、時代が下がるに従ってますます盛んになっていった。
従来、抜け参りは、薮入り同様、江戸時代の特有の社会現象とされてきたが、これも、すくなくとも中世後期までさかのぼる広いひろがりを持つ習俗であったことを瀬田勝哉氏が明らかにしている。瀬田氏は、まず十六世紀末に書かれた『天正狂言本』や寛永十九年(1642)成立の『大蔵狂言本』などの狂言台本にみられる「不奉公もの」と呼ばれるジャンルの多くが、奉公人たちが主人に無断で遠隔地の大社寺参詣にでかけ、再び主家に戻って主人に厳しくしかられはするが、結局は許されるという筋立てからなることに着目した。そして、その参詣の対象となる社寺も、これら狂言本にあらわれるだけでも、富士山・竹生島・善光寺・西の宮、さらには清水寺・四条道場などの「京内参り」と多様性をもっていること、また、富士参詣の途中の参詣人たちが、彼らの主人によって、その主人権を主張することが認められない存在であり、また彼らが負っている債務も、参詣の往来時には債権者の追及をまぬがれることなどを明らかにしている。
また、岸田裕之氏は、戦国大名毛利輝元が軍事的緊張下にもかかわらず、家臣が中央社寺への参詣を理由に休暇を申請したのに対し、これに難色をしめしながらも結局三十日間の休暇を与えた例を紹介している。これは中世における「物詣で」のもつ力が示されている例で、この力が抜け参りをも許容せざるをえなかった社会的観念を作り出していたのだろうという。
ところで、これら物詣でにでかける人々は、いずれも日常の生活の姿とは異なる巡礼姿となって社寺参詣人であることを表示して往来したが、何故このような姿になった従者・奉公人などに対して、主人が主人権などを行使できないものと考えられたのか。それは、このような姿になることが、その人を俗界から聖の界へ移行させてしまうのであり、その聖の秩序を乱す行為は神仏の怒りをかうと恐れられたためである。狂言の『鞍馬参り』で、太郎冠者が主人から、主人より先に出ておがむのはけしからんと咎められた際、太郎冠者が「神仏の前では主人と下人の隔てはない」と主張するのは、聖なる界では主従の縁が切れるという考え方を示している。
無縁(むえん)
中世において、主人のもとから逃亡した下人等が、主人の手の届かない場に駆け込み、その関係性(縁)から逃れる行為を縁切りという。
今日、縁切りといえば、もっぱら男女の縁を切ることを指すが、人間と人間とを結びつけている縁には、親子・夫婦・主従・貸借などさまざまなものがあり、所有・被所有といった物と人間との関係もまた縁である。縁切りとはそれらの一部あるいは全部を断つことで、その結果生まれる状況を「無縁」といった。
こうした場として、山野・海上・都市などにあるさまざまな聖なる空間があげられる。その聖なる空間としての典型的な形態をしめしているのは、いうまでもなく社寺の境内ある。これらの寺社は「無縁寺」「無縁所」といわれ、さまざまな事情から世俗の縁を切らなければ生きていけない人々の駆け込み空間となっていた。
高野山は、「この山に入る者は、国許にて、鵜の綱・鷹の網・家焼き、人を殺し、主の勘当・親の不興を蒙りたる輩也」(説教『苅萱』)とあるように、いかなる罪科人もここに逃げ込むことによって、その科を遁れることのできたアジールとして有名であるが、このような寺社の境内のもつアジール性は、高野山のような有力寺社に限定されるものではない。地方の中小寺社、とくに「無縁所」と称された寺には、このような聖地としてのアジール性を認められたものが多く存在する。例えば、若狭の万徳寺は、殺害人・山賊・海賊などいかなる重科を犯したものでも、走り入って助命を頼むならば、寺がその旨を大名に申し届け、大名がその犯罪人の身柄を保全することを、大名武田氏に保障されていたという。しかし、こうしたアジール性は、その後の戦国大名権力による聖秩序の組み込みにより、徐々に限定せられていった。
しかし「無縁」はその内部に、しがらみからの解放(自由)と同時に、人間社会からの排除(差別)という側面を抱えていたことも忘れてはならない。無縁となるということは、自由になる反面、これまで所属していた共同体社会からの保護も無くなるということで、おのれ一人の力で生きて行かなければならない過酷な状況に身を置く事でもあった。
楽市場(らくいちば)
楽市場は、通常の市とは違い、その市で物を売る権利をもつ特定の商人だけでなく、誰でも差別されることなく市へ来て、自由に、たとえそれが盗品であろうとも売ることができるという特性をもっていた。
これら楽市場は、各地の民衆の手によって作られるが、多くの場合、寺社の門前市として発生し、寺社の聖域としての縁切り・無縁の原理と深くかかわっている。それは、門前が権力者による警察権・徴税権の行使のために、役人が強制的に立入ることを禁じた「不入地」であることが多かったためで、寺社の境内のもつ聖域性が門外まで拡大していたことによる。
楽市場は、領主の年貢を滞納している農民でも、債務を負っているものでも、この場に入ることにより、その人のすべての俗的な諸関係が消滅し、追及されなくなる空間であった。たとえば、楽市場への来住者は、それまで隷属的な家臣または奴隷であっても、楽市場の住人となれば、その主人は自分の所有権を主張して取り戻されないとされていた。また、美濃加納の楽市に出された織田信長の「楽市令」をみると、楽市場が完全な免税地として存在し、楽市場住人の通行安全も保障され、関所・渡場などの通行税も免除されていた。
こうして各地の門前市は貨幣の流通とともに賑わいをみせるが、戦国時代の戦乱により衰退する。しかし、一部の戦国大名や織豊政権は、市場や城下町の繁栄を目的に、戦乱により荒廃したこれら楽市場の機能を保障する「楽市令」を発布し、その経済流通政策とした。
一般に楽市令においては、「楽市」という語で楽市場であることが表示されるが、「楽市・楽座」「楽買・楽売」「無座・楽座」「十楽」などの語がもちいられている例もみられる。また人々は、通常の市が楽市に転化することを「ラクノトキ」などと称していた。この「楽」は、楽市令の内容からみて、諸規制から解放された状態、すなわち今日の「自由」「自然」な状態に近い意味の語であったことがわかる。
このように俗界の諸権力から自由であった楽市場は、門前町に限定されるものではなく、戦国時代には各地方都市の新設市場でも楽市的性質を持つのもが多く姿を現す。当時、十楽(極楽)の津(港)と呼ばれ自由港として発展した桑名、我国の自由都市.自治都市として有名な堺・博多なども、楽市場・楽津と呼ばれるべき存在である。
しかし、本来権力と無縁であった楽市場が、楽市令によってその機能を俗権力により保障されることによって、楽市場は楽市場としての基本的性格を放棄してしまうことになる。なぜならば、楽市場は俗権力と無縁な別の秩序にもとづいて存在するところに、その本質があった。ところが戦国大名権力・織豊政権は、衰退した楽市を再興するための保障型楽市令を出すことにより、楽市場を統制下におくとともに、その城下町や新設市場に、既存の楽市場の機能を適用する目的で、政策型楽市令を出した。この政策型楽市令は、いわば聖の秩序を俗的秩序のなかに吸収し、現実の都市政策として打ち出したものであった。
座
商工業者・芸能民の同業者組織、または地方の市場における販売座席をいう。通常、市座と呼ばれ、楽市場において否定されていたのは後者である。市場には、各商品ごとにひとつ、時には複数の市座が存在し、ひとつの市座はひとつの商人集団によって独占されるのが普通であった。座人は市場の領主から座公事銭を賦課されることが多い。
門前町
寺社の門前に形成された居住域。
中世末期以来社寺の門前に形成された町。善光寺における長野のごとき。(『広辞苑』第二版)
一般に、戦国時代、これらの寺社境内のみならずその門前も役人が警察権などの権力を行使するために立入ることを禁じた「不入地」であることが多かった。寺社の境内の聖域性が門外の門前町にまで拡大していた。そのため、門前のもの、さらには寺領に居住する者は武家の主人を持つ事が禁止されており、ここに居住する者は俗界との縁を持ってはならないとされていた。これら門前に住む者は、大名権力が賦課する段銭・棟別銭・陣夫役など種々の課税も免除され、そのかわりに門前に住む鍛冶・番匠などの職人は、寺社のために奉仕することを命ぜられていて、彼らは神仏に奉仕する人と把握されていた。そのため彼らは神仏に仕える者として、その通行の自由・安全が保障され、関所や渡場の通行料をも免除されている例もみられる。さらに注目されるのは、寺社だけでなくこれら門前の者たちにも、徳政令の対象としない徳政免許の特権が与えられている。中世において、寺社が祠堂銭、上分銭というかたちで、低利の金融を広く行っていた。戦国大名のもとでも、低利という理由で、祠堂銭に対する徳政免許が認められている例があり、これは、本来的に祠堂銭・上分銭が神の米銭、仏の米銭と考えられ、神仏の貸したものは、俗界の徳政の対象とならないとされたからといえる。その徳政免許が、門前の者たちの債権にまで拡大されているということは、彼らの所有する物もまた神仏の物であるという考えが存在していたことを示している。
寺内町
戦国時代、摂津尼崎の日蓮宗寺院本興寺およびその門前は、徳政免許また俗界の戦争状態のもとでの敵味方を区別しない場としての特権を認められたアジール的門前町として存在していた。その東西南北には、それぞれ三十軒以上の樽屋・紺屋・油屋・鍛冶屋・木屋・瓦屋などの商工業者が町場を形成していた。本興寺は、尼崎の惣中より、巨額の金で土地を買得するなどで、堀や土居で囲まれた一定区画の聖なる空間に属する門前町を形成しつつあった。
このような聖なる空間は、阿弥陀一仏の支配する強力な聖域というかたちで全国各地に形成していったのが、浄土真宗の寺内町であった。
通常寺内町の創設は、十五世紀中ごろから十六世紀を起源とし、真宗門徒は各地に道場を開設、道場を中心に荒地をきりひらいたり、土地を買得して町場を作りあげた。この寺内町は、奈良今井の寺内町のように、土塁.塀で囲まれた特定の区画をなすものが多く、そこに真宗門徒である非農業民が山から里へ、川の流域から河口へというかたちで定住し、寺内町をつくりあげた。大坂の富田林寺内町には鍛冶・鍋屋・金屋などの金属加工業者、大工・桶屋などの木工業者など多種類の商工業者が住んでいたが、彼らは、今井寺内町が織田政権によって潰されたとき、その土居が破壊され、以後一般土民なみにするとされたように、阿弥陀仏に仕える人々として普通の商工業者ではなかった。寺内町は土居の破壊が象徴するように、他と区別された聖域であり、区画された聖なる空間としての寺内町は、それ自体が楽市場として存在することが多かった。
海民(うみのたみ)
主に漁業・海運など海(海辺)で生活をしている人々の総称。大和朝廷の律令制(公地公民制)の支配から比較的自由な民。
海族(海賊)(かいぞく)
日本の海の民の称。律令制の支配から外れていたため、海賊と呼ばれる。
中世、志摩・瀬戸などの海域で活躍した海上豪族、水軍の異称。(『広辞苑』第二版)
海賊衆(かいぞくしゅう)
中世における水軍の将士。
海賊船(かいぞくせん)
中世の水軍の艦船。
海賊大将(かいぞくだいしょう)
中世における水軍の統率者。(以上『広辞苑』第二版)
水軍(すいぐん)
海賊衆。もともと海民だった人達が、豪族化し半島や大陸などで略奪行為を行う(倭冦)。南北朝時代から、陸の大名と結びつき、村上水軍などのように海の大名と称されるほどの勢力を持つ者も現れる。室町期に海賊取締りが厳しくなると、海上交通権などを掌握して、航行する船から通交料を徴収し、代りに護衛などを行っていた。また水軍という言葉には、村上水軍、九鬼水軍などその海賊大将の名を付した水軍名と、毛利水軍、織田水軍など大名麾下の、後の海軍と同義語的に呼ぶ水軍名がある。さらには、その地方名を付して熊野水軍、和泉水軍などの呼名があった。
中世、瀬戸内海・西九州沿海などで活躍した地方豪族。海賊。(『広辞苑』第二版)
【安宅水軍】(あたきすいぐん) 紀州安宅浦の熊野海賊の将安宅氏の水軍。この水軍の大船を安宅船と称したことから、大型船を代表する名称となったとされるが、異説も有る。[安宅船]の項参照。
【小浜水軍】(おばますいぐん) 伊勢水軍の海賊の将小浜景隆率いる水軍。武田水軍に属していたが、武田氏滅亡後は徳川家に仕える。
【九鬼水軍】(くきすいぐん) 志摩の海賊の将として台頭するが、国司北畠家に属する伊勢水軍の小浜・千賀などの在来水軍からの反発が強く、新興勢力だった織田信長と結び、在来海賊衆が没落する中、東の海賊衆の雄となる。
【来島水軍】(くるしますいぐん) 村上水軍の分流。瀬戸内伊予来島を拠点とした海賊衆来島氏が率いる水軍。
【間宮水軍】(まみやすいぐん) 元伊豆間宮村の土豪衆で、北条水軍の船大将だったが、信玄による伊豆攻撃で降伏し、武田水軍の一員として江尻の地にいた。
【向井水軍】(むかいすいぐん) 元伊勢の海賊衆だったが、武田の海賊奉行岡部忠兵衛により小浜景隆と共に武田水軍に迎えられた。武田氏滅亡後は徳川家に仕え、後には徳川水軍の要となり海賊奉行となる。
【村上水軍】(むらかみすいぐん) 源氏の後裔を自称し、南北朝時代に南朝に属し瀬戸内海の交通を押えた。後に能島、来島、因島の三島に分流し、「海の大名」として島々に城を構え、海関を設けるなど西の水軍の雄として君臨した。戦国時代には毛利氏の麾下に入り、毛利水軍は他の瀬戸内海賊衆をも加え最強の水軍を持った。
軍船(いくさぶね)
海族(海賊)・水軍に欠かせぬ乗物。六世紀、半島の加羅(伽耶)国と深い関係にあった倭国(ヤマト政権)は任那(金海加羅)に半島の拠点を置いたことから、船は重要な海上交通手段として活躍したと思われる。まだこの頃は、軍船としてでは無く、人や物品の運送を目的としたものだったと思われるが、六世紀末に、隋(大陸)と高句麗(半島)の間で戦いが起り、大和政権は先に失った任那の回復を狙って大軍を半島に送っている。このことから、兵員輸送としての軍船がこの頃には登場していたと思われる。
七世紀には、日本の国も統一政権(大和政権)として確立され、海民を組織した水軍が現れる。唐と同盟を結んだ新羅が百済を滅ぼすと、百済の遺臣等は日本に救援を求め、女王斉明はしばしば水軍を組織し半島へ兵を送るが、663年、日本の水軍は白江村で唐・新羅連合軍に大敗を喫し、百済の亡命者たちとともに半島から敗退。そして、これら兵員の輸送を担ったのが、瀬戸内海や北九州・五島列島の地方首長等で、その後、彼等は海賊衆として海の領主となり、半島・大陸を度々侵蝕する倭冦となってゆく。
戦国期には、火筒を備えた大船も現れ軍船として一定の発達が見られ、そのころ漂着したポルトガル船・スペイン船などの影響もあり大航海時代の技術革新の波にのる機会が訪れたが、国内統治を優先する徳川幕府の鎖国政策によって、大船の建造が制限されたために、軍船としての発達は幕末の黒船来航まで停滞した。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「船」の項あり、参照ください。
【安宅船】(あたきふね) 室町末期から江戸初期に用いられた大きな軍船の総称。櫓五十挺或は八十挺以上を用いたとされる。
名称は安宅水軍の軍船からきているとされるが、『広辞苑』第二版によると「あたけぶね」と読み、「あたける」という動詞の連用形「あたけ」とある。「あたける」とは、あばれ騒ぐ、乱暴するという意。
寛永十二年(1635)乙亥 ○安宅丸の御船、伊豆より来る(一説に寛永十一年とも云ふ。柳川町の辺に堀をほり繋ぎ置きしに、一年大風雨の時鎖切れて伊豆へ走る。三崎にて止め、又向両国につなぐ。天和二年に此の御船を解きひらきたまふ)。(『武江年表』)
【小早】(こばや) 小早船。関船の一つ。櫓四十挺立て以下の櫓のない船。船脚早く、物見・飛脚船などに用いられた。(『広辞苑』第二版)
○急行に用ふる小舟。小さきはやぶね。(『廣辭林』新訂版)
○小早 四十挺立て以下で、矢倉のない、半垣または欄干造りの船の称。船足が早いので、物見・使番・飛脚等に用いた。(『和漢船用集』三)
【関船】(せきぶね) 当初、海賊を防ぐために造られた早船。下関で造られたことからこの名が付いた。櫓四十二挺立てから八十挺立てまであったという。
○昔時の兵船、櫓の数四十二挺乃至八十挺あり、もと門司と馬関との渡海用に供せしもの。(『廣辭林』新訂版)
【鉄船】(てつぶね) 九鬼嘉隆が造ったとされる鉄の装甲を施した船。毛利氏麾下の村上水軍が用いた焙烙火矢からの攻撃を防ぐ目的で造られた。
【亀甲船】(きっこうぶね) 装甲をほどこした船。李舜臣率いる朝鮮水軍の軍船。朝鮮の役(倭乱)の時、大砲を備えたこの亀甲船に日本の水軍は翻弄され、制海権を掌握できなかったとされる。
倭冦(わこう)
水軍の一部の行為が海賊行為となり、倭冦と呼ばれる。南北朝期から、塩飽諸島や五島列島を本拠に半島や中国沿海部との私的交易に関わり、武力で強奪する海賊行為をも行った倭人(日本人)を中心とした海民(水軍)。中国や朝鮮の政府から取り締りを求められた幕府の取締り強化によって、後期には中国人が倭冦と称して半島や沿海部を荒し回ったとされる。
十三~十六世紀、朝鮮・中国の沿岸を日本人が掠奪したことに対する中国・朝鮮側の呼称。瀬戸内海・北九州の海賊が中心で、もともと私貿易を目的とした。明朝ではこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした。豊臣秀吉の禁止で消滅。(『広辞苑』第二版)
また、別名を八幡(ばはん)という。『和漢三才図絵』によれば、倭冦がその船に立てた旗に「八幡」という神号をしるしたのを明人が「バハン」とよんだからという。彼等の船を「八幡船(ばはんせん)」といった。
【八幡船】(ばはんせん) 室町末期から安土・桃山時代にかけて、中国・朝鮮の沿岸を侵略した日本の海賊船を明人などが称した語。江戸時代には密貿易船の称。はちまんぶね。(『広辞苑』第二版)
山民(やまのたみ)
畑や田など耕地にならない山岳部に住み、狩猟・採集などで暮らす民の総称。特に深山の山奥は、我が国では神が住む場所と恐れられ、一般人はなかなか近寄らなかった。
山族(山賊)(さんぞく)
海の民同様、山中を移動して生活するため律令制の支配から外された山の民。『吉原御免状』で「山人」(やまびと)とあるのもこの山の民の事で、山窩、傀儡子、樵夫、マタギ、木地師など山で暮す人々の総称。
隆慶一郎は小田原北条氏に仕えた箱根を本拠とする風魔一族と傀儡子族を同じ系譜の人間とし、彼らは定住せずに漂泊して生活する民族で、大陸からの移動で列島に渡ってきた渡来民と関連づけている。
山窩(さんか)
主に山岳地帯を住処とし、狩猟・採集などで生計を立てていた事から定住せず、一族を治める長(おさ)の元、集団で移動していた。彼等は近代まで中央の権力に与しない誇り高き人々であり、中央政府の支配が及ばない人々であったため山賊・盗賊として扱われ、また恐れられていた。
隆慶一郎は『捨て童子松平忠輝』(上巻183P)で、「山窩は傀儡子と同じ血族であり、傀儡子が町や街道をさすらい、芸能を職とするのに対して、山窩は山間をさすらい、蓑づくりを職とする」と書いている。
諸藩の山廻り同心は、なぜか山窩を目の敵にしている。不幸にしてぶつかれば、十のうち十まで闘争になり、どちらかが死ぬことになる。山窩側は、何故自分たちが目の敵にされるか分からない。何一つ悪いことはしていないのである。自分たちの生きざまそのものが、幕府の法に叛いているなどと考えてもいなかった。山窩には国境がない。山はどこまでもひとつながりの山であり、自由に歩きまわれる自分たちの栖であり、庭である。己の庭を歩いていて、何故咎められねばならないか。年数も数えきれぬほどの太古から、自分たちはこうやって生きて来たのである。領地といい、国境いといい、侍たちが勝手気ままに決めたものを、自分たちに押しつけるのは迷惑だった。そんなものは、決めた侍同士が守ればいい。自分たちは放っておいて貰いたい。第一、国境いなどといっても、侍は本当の奥山まで来たためしがないではないか。まして栖んだことなどあるわけがない。それが山窩のいい分だった。(『鬼麿斬人剣』55p)
野武士(のぶし)
落武者などの具足を剥ぎ取って武装した土民。(『新明解国語辞典』)野伏り(のぶせり)の転訛した詞ともいわれ、山野に住み峠道などに出没する山賊と化し、通行人から通行料など金品を脅し取る者が多かった。
河原者(かわらもの)
公界であった河川の河原を住居としていた人々。

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