綜合
縁起
縁起(えんぎ)
[仏教]因縁生起の意。多くの因縁がより集って現象が生起すること。また、事物の起原・沿革・由来をいう。(『広辞苑第二版』)
さらには、社寺などの由来または霊験などの伝説(信貴山縁起)や、縁起がいいなどと、吉凶の前兆、きざしなどをいう。
古来から白い事が珍しい鳥獣などは、神の使いとして崇敬された。白虎、白蛇、白狐、白烏など。科学的には色素の染色体に異常をきたした突然変異種だが、まれな現象であるために畏怖され、縁起を齎すものとされた。
○白蛇の霊異
過し頃、参州奥殿侯(松平縫殿頭)麻布竜土の邸内に、白蛇顕出けるを、奴卒どもこれを打殺しぬ。其祟にや、部屋の者二三十人ばかり疫死す。此程にいたりて、侯も亦病死ありける。侯の御身に係りたる事にはあらずといへども、世人往々それならんかと風評す。されば故なき殺生はすまじき事ぞかし。(『道聴塗説』)
関連語
縁起物(えんぎもの) 縁起を祝うための品物。正月の門松や酉の市の熊手などの類。
縁起をかつぐ(えんぎをかつぐ) ちょっとしたことにも縁起がいいとか悪いとか気にすること。
隆先生も、生前、浅草の鳳神社で開かれる酉の市には良く出掛けていた。もっとも、この市で弟子の一人が熊手を売っていたことや、酉の市に限らず情緒のあるお祭り好きだったことが理由で、先生自身は縁起物を買うわけではなかったが。
神
神(かみ)
人間を超越した万能の力を有する存在。
[神話]日本神話では、国土を創造生育し、支配する神聖な存在。
[宗教]God.キリスト教において、全知全能で宇宙を創造し支配する唯一絶対の主宰者。またわが国においては、神社に奉祀された霊をいう。
[一般]人智を以て図ることのできない、畏れかしこむべきモノの例え。
軍神(ぐんしん)
戦の神。代表的なものとして毘沙門天、摩利支天が知られる。戦国時代、「弓矢はみなまほうにて候」(『甲陽軍鑑』)といわれるように、人智で計れない力が戦の勝敗を左右するとされ、多くの武将たちは神仏に願をかけ戦いに挑んだ。我国の軍神の数は、別格とされる上記の二神を除いて九千八百神といわれ、上杉謙信の願文には、阿弥陀如来、千手観音、大日如来、弁財天、愛宕勝軍地蔵、十一面観音、不動明王、愛染明王などの神仏名が記されているという。
神道(しんとう)
日本神話を元に創られた我国独自の信仰形態。「天照大神」への尊崇を中心とした古来の民間信仰が、仏教・儒教の影響を受け大系化され理論化されたといわれる。平安時代には神仏習合・本地垂迹が現れ、両部神道・山王一実神道が成立、中世になると伊勢神道・吉田神道などが起った。
こま犬(こまいぬ)
○神社のこま犬、高麗犬と書く。神秘鈔に神宮皇后三韓征伐の時高麗に到り玉へば、犬一匹来りて先手をせしよりして、軍旅すゝみ功をとげさせ玉ふ。その形を作りて高麗犬となづけ、神社の守護となせり。王室に今尚銅犬あり。それに諸社に獅子をおくは非なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
神話(しんわ)
神について語られた話。
一般には伝説や民話と区別し、種々の自然現象・文化現象(社会制度)を未開な心意により組み立てた物語で、信仰や宗教儀礼と深く関連し、歴史的・宗教的・科学的・文化的諸要素を未分化の状態で包含しているとされる。
[日本神話]『古事記』の「上つ巻」、『日本書紀』の「神代紀」に記された物語が、日本神話の代表的なものとされる。
[その他の神話]代表的なものに「ギリシア神話」「ローマ神話」「北欧神話」などがある。
原始宗教
原始宗教(げんししゅうきょう)
体系化される前の信仰・宗教・思想。アニミズム・シャーマニズムなど。
アニミズム(animism)
神霊・死霊・祖霊・妖精などのさまざまな霊的存在がこの世には存在し、それらが互いに干渉し合って諸現象が起きるのだとする信仰。日本の神道や民間信仰はこのアニミズム的な性格が強いとされる。
シャーマニズム(shamanism)
未開宗教の一。まだ体系化されていない宗教とされ、シャーマン(shaman)のまじないによって政を含む諸事の判断を行う。奴国の卑弥呼もこのシャーマン的な存在だったのではないかという説も有る。
トーテミズム(totemism)
未文明人の社会組織及び宗教形態の一。トーテムによって或る種族の含む幾つかの氏族及び氏族的集団が区別され、この集団の成員がトーテム崇拝を中心にして固く結合しているもの。
【トーテム】(totem)
北アメリカのオジブア・インディアンの語(ototeman)から出た詞。「兄弟・姉妹たる血縁」という意。未文明な社会で、部族・氏族または氏族的集団の成員と特別な血縁関係(親縁関係)をもつと見られる或る種の動物、稀にには植物・無生物。またはそれを造形化した表徴記号。部族・氏族・個人の成立・生誕の淵源として神聖視される。(『広辞苑』第二版)
仏教・僧侶
如来・菩薩
如来(にょらい)
梵語、多陀阿伽陀。真如の理を証徳し迷界に来て衆生を救うものの意。
仏の十号の一。仏十号とは、仏の徳をたたえた十種の呼名。
密教で、金剛界、胎蔵界の両界(曼荼羅)で、中央と東西南北に位置する仏陀の名。
大日如来(だいにちにょらい)
梵語で摩訶盧遮那の意。宇宙と一体と考えられている汎神論的な密教の本尊。
五仏の一つ。金剛界、胎蔵界の両界(曼荼羅)で、中央に位置している。
阿閦如来(あしゅくにょらい)
五仏の一つ。密教における金剛界の東方に位し、大円鏡智を表している。
阿弥陀如来(あみだにょらい)
梵語で、漢語では無量寿、無量光と訳されている。
五仏の一つ。極楽世界(金剛界)の西方を主宰する仏陀の名。信者は死後、その世界に生まれ変わるとされる。
東アジアの浄土教諸宗(我国では浄土宗、真宗)の本尊で、弥陀仏、阿弥陀さまなどと呼ばれ広く信仰されている仏。
不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)
五仏の一つ。密教の金剛界の北方に位している。
宝生如来(ほうしょうにょらい)
五仏の一つ。極楽世界(金剛界)の南方に位し、大日如来の平等性智の徳を司る如来
。
胎蔵界に位する仏(如来)
開敷華王如来(かいしきかこうにょらい)
胎蔵界の南方。
天鼓雷音如来(てんこらいおんにょらい)
胎蔵界の北方。
宝憧如来(ほうどうにょらい)
胎蔵界の東方。
無量寿如来(むりょうじゅにょらい)
胎蔵界の西方。
金剛界(こんごうかい)
密教で説く、両部法門の一つ。大日如来を智徳の方面から開示した部門。
胎蔵界(たいぞうかい)
密教で説く、両部法門の一つ。大日如来を慈悲の方面から説いた部門。その表象は蓮華とされている。
薬師如来(やくしにょらい)
薬師瑠璃光如来の略。東方浄瑠璃光世界の教主で、十二の大誓願を発して衆生の病苦を救い、無明の痼疾を癒すという如来。通常、薬壷を持つが、古くは施無摂・与願の印を結ぶ。
七仏薬師=七仏功徳経に見える東方浄瑠璃国土の七仏。台密ではこの七仏薬師を本尊とし、息災・安産などを祈る修法(七仏薬師法)がある。
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)
万物を照らす宇宙的存在としての仏陀の名。密教においての大日如来と同じ。盧遮那仏(るしゃなぶつ)と略されるが、別の仏身ともされている。遮那。舎那。遍照。
菩薩(ぼさつ)
菩提薩埵の略。成道以前の釈迦牟尼仏及び前世の釈迦牟尼。また、仏陀の候補者・代行者をいい、大乗仏教での信仰の対象になっている。
観世音菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩など。
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
菩薩の一で、観音さまの名で広く崇拝される仏。
大慈大悲で衆生を教度するを本願とし、勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇に侍る仏。
六観音・三十三観音などの種類、また千手観音・如意輪観音・馬頭観音など多くの形像があるが、その本は正観音(聖観音)で、その住居は南海の補陀洛山、日本では那智山という。
法華経の普及とともに広く崇拝され、観音。光世音。大悲観音。観自在。観世自在。などの異称がある。
観音の由来
観世音菩薩という名の起りは、インドの梵語(サンスクリット古語)のアヴァローキテシュヴァラ(Avalokitesvara)から来ているという。
スシュバラは「音声」、アヴァローキクにはローカ(世間)という意味が隠された「観」という意味から、「観世音」と訳されたという。また、中国の玄奘は、イーシュバラに「自在者」という意味がある事から、これを観自在と訳している。
観音仏が生まれた背景
一説には、ヒンズー教のシヴァ神が、イーシュバラという異名を以ていることから、シヴァ神信仰が盛んになった頃、仏教に取り入れられて成立したとされている。シヴァ神は、「あらゆる方向に顔を向けた神」という性質を持っていて、観音像の特徴の一つとされる宝冠は、クシャナ朝やペルシャ・ササーン朝などに認められる造形で、宝冠の中に化仏を認め、仏神を象徴する手法が用いられている。
六観音(ろくかんのん)
六道の衆生を済度する観世音菩薩の称。
台密では、聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・不空羂索(ふくうけんさく)観音・如意輪観音の諸菩薩。
東密では不空羂索観音の変わりに、准提(じゅんてい)観音を挙げる。
三十三観音(さんじゅうさんかんのん)
三十三体の異形の観音菩薩。
楊柳・竜頭・持経・円光・遊戯・白衣・蓮臥・滝見・施薬・魚藍・徳王・水月・一葉・青頸・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静・阿耨・阿磨提・葉衣・瑠璃・多羅尊・蛤利(虫偏)・六時・普悲・馬郎婦・合掌・一如・不二・持蓮・麗(サンズイ)水。
法華経普門品に説く観音の三十三身によるという。
聖観音(しょうかんのん)
六観音・三十三観音の一つで、観世音菩薩の本地。普通にいう観音菩薩。
宝冠中に阿弥陀の化仏をつけ、手に蓮華を持っている。
正観音ともいう。
十一面観音(じゅういちめんかんのん)
十一面を有する観音。前三面は慈悲の相、左三面は白牙上出相、後の一面は暴悪大笑の相で、頂上の仏面は仏果を、他の十面は十地を意味し、十一品の無明を断ずるという。ただし、十一面の表現は種々の変化がある。いずれもその冠の中に弥陀の化身がある。
十一面観音法=密教で十一面観音を本尊とし、除病・滅罪・求福を祈る修法。
准詆観音(じゅんでいかんのん)
六観音・七観音の一つ。三眼で十八臂を有する。
密教では七倶詆仏母という。
千手観音(せんじゅかんのん)
大観音の一つ。正しくは千手千眼観音といい、普通は四十手、掌中に各一づつ眼を持ち、一手ごとに二十五有を救うとされ、頭上に九面または十一面がある。六道のうち餓鬼道を摂化する。
千手千眼観世音菩薩・千眼千臂観世音菩薩ともいう。
如意輪観音(にょいりんかんのん)
六観音・七観音の一つ。一切衆生の願望を満たし苦を救うという。
形状は頂髫に宝荘厳があり、如意宝珠と宝輪などを持ち、多くは六臂。
如意菩薩ともいう。
馬頭観音(ばとうかんのん)
頭上に馬頭をいただいて忿怒の相をなした観世音菩薩。
普通は三面で、二臂
不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)
六観音、七観音の一つ。大慈大悲の羂索を以て生死の苦界に浮沈する人・天を済度・摂取し、菩提涅槃の彼岸に至らしめることを誓願とする。
形像は一面四臂・一面八臂・三面四臂・三面八臂などがあり、多くは手に錫杖・払子・蓮華・羂索などを持つ。鹿皮観音ともいう。
勢至菩薩(せいしぼさつ)
梵語の訳語大勢至から来た名。
阿弥陀仏(如来)の脇侍二菩薩の右脇士で、智慧を表す菩薩。
智慧光を以てあまねく一切を照らし、三途(三悪道)を離れ、無上力を得させるという。
宝冠中に宝瓶をのせ、左手には開合蓮華を執る。
大勢至菩薩、得大勢ともいう。
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
釈尊の付託を受け、その入滅後、弥勒仏の出世するまでの磨、無仏の世界に住して六道の衆生を化導するとされる菩薩。
像形は尼丘形で、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ形が一般的。
中国では唐、日本では平安時代より盛んに尊信される。
子安地蔵・六地蔵・延命地蔵・勝軍地蔵などの変体が後に現れた。
普賢菩薩(ふげんぼさつ)
仏の理・定・行の徳を司り、文殊菩薩とともに釈迦の脇に侍り、白象に乗って仏の右側にいる菩薩。
一切菩薩の上首として常に仏の教化・済度を助けるとされている。
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
梵語の文殊師利の略。妙徳・妙吉祥などと訳される。
大乗般若の教説と深い関係があり、一般には普賢菩薩とともに釈尊の左に侍して智慧を司る菩薩。
獅子に乗るを常とし、中国の五台山がその浄土として尊信されている。日本では民間に子供に知恵を与えると信じられている菩薩。法王子、吉祥金剛とも呼ばれる。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)
梵語で慈氏と訳される仏。
現在、兜率天に住し、釈尊入滅後五十六億七千万年の後この世に下降し、釈尊の救いに洩れた衆生のために竜華三会の説法をするという未来仏。
慈氏菩薩、弥勒慈尊、弥勒仏とも呼ばれる。
月光菩薩(がっこうぼさつ)
薬師如来の右脇に侍する菩薩。
日光菩薩とともに、薬師如来の補処(ふしょ)の地位にある菩薩。
月浄、月光遍照、月光王などとも呼ばれる。
日光菩薩(にっこうぼさつ)
薬師如来の左脇に侍する菩薩。
月光菩薩とともに、薬師如来の補処(ふしょ)の地位にある菩薩。
その他の仏身
明王(みょうおう)
大日如来の命を奉じ、忿怒の相を現し、諸悪魔を降伏する諸尊。
不動明王・愛染明王・降三世明王など。
五大明王(ごだいみょうおう)
五方、中・東南西北に配されている。
愛染明王(あいぜんみょうおう)
大日如来を本地とし、如来に愛染して如来に護られ、衆生に愛染して解脱させる明王。
全身赤色、三目六臂で、弓箭などを持つ。
愛染法(愛染明王法)の本尊。後に恋愛の祈誓、染物業者や水商売の女性の信仰の対象になった。
軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
密教の五大明王の一。南方を護る。多くは一面八臂で、忿怒の相をなし、第七識の煩悩を断じ、衆生に平等性智の法水をそそいで万徳を生ぜしめる。
宝生如来・虚空蔵菩薩・観自在菩薩・金剛手菩薩の化身といわれている。
軍荼利夜叉、大咲明王とも呼ばれる。
降三世明王(こうざんぜみょうおう)
密教の五大明王の一。東方を護り、青色、四面八臂で、忿怒の相を現し、三世の貪・瞋・癡を、或は三界の主を降伏するからいう。
左足に大自在天、右足に烏摩妃を踏み、煩悩・所知の二障を断ずるとされている。
勝三明王。忿怒月魘尊とも呼ばれる。
金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
密教の五大明王の一。北方を守護し、悪魔を降伏する。
一面四臂または三面六臂で、五鈷杵・箭・剣・鈴・弓・輪などを持つ。
金剛夜叉法=密教で金剛夜叉を本尊として幸福を祈る修法。
大威徳明王(だいいとくみょうおう)
密教の五大明王の一。阿弥陀如来の所変で、西方を護り、衆生を害する一切の毒蛇悪龍を摧伏するといわれる。
その像は六面六臂六足で忿怒の相を表し、剱・槍・鉾・輪を持ち、印を結び、大白牛に乗る。
閻曼徳迦、大威徳、六足尊とも呼ばれる。
不動明王(ふどうみょうおう)
密教の五大明王、また八大明王の一つ。大日如来が一切の悪魔を降伏するために忿怒の相を現している。
色黒く、眼を怒らし、両牙を咬み、右手に降魔の剣を持ち、左手に縛の索を持つ。常に火生三昧に住して、大火焔の中にあって石上に坐し、八大童子などの使者を有する。
不動尊、無動尊とも呼ばれる。
天王(てんのう)
欲界第六天の最下天の天主。
午頭天王(ごずてんのう)
インド祇園精舎の守護神。
除疫神として京都祇園社に祀られている。
四天王(してんのう)
四方鎮護の四神。須弥山の中腹にある四王天の主。
持国天(東方)・増長天(南方)・広目天(西方)・多聞天(北方)の名がある。
持国天(じこくてん)
須弥山の中腹東方に住して東方の世界を守護するという神。
青色身で、甲冑をつけた武神形。その武器は、普通には刀。また宝珠を持つものもある。
持国天王ともいう。
増長天(ぞうじょうてん)
須弥山の中腹南方に住して南方の世界を守護するという神。
赤色身の武神で、その武器は普通、鉢。また刀を持つものもある。
増長天王ともいう。
広目天(こうもくてん)
須弥山の中腹西方に住して西方の世界を守護するという神。
赤色身の武将形で、普通には叉戟。また筆を持つものもある。
広目天王ともいう。
多聞天(たもんてん)
須弥山の中腹北方に住して北方の世界を守護するという神。
常に仏の説法の道場を守護し、法を聞くことからいう。毘沙門天の別称。
多聞天王ともいう。
毘沙門天(びしゃもんてん)
多聞天のこと。黄色身で忿怒の相の甲冑姿の武将形。片手に宝塔を提げ、片手に鉾、または宝棒を持つ。一名を倶毘羅という。
摩利支天(まりしてん)
梵語で、陽焔と訳されている。常にその形を隠し、障難を除き、利益を与える天部。
時に菩薩と称され、日光を神格化し、また風神でもあり、日本では武士の守り本尊とされている。
護身、隠身、遠行、得財、勝利などを祈る。二臂、三面四臂、猪に乗るものなどの天女像もある。
その他の仏神
弁財天(べんざいてん)
音楽・弁才・福智・延寿・除災・得勝を司る天女。
二臂或は八臂で、左手に弓・刀・斧・羂索を持ち、右手に箭・三鈷戟・独鈷杵・輪を持つものもあり、琵琶を弾ずる。もとは河川を神格化したものという。吉祥天とともに、インドで最も尊崇された女神。後世、吉祥天と混同され、福徳賦与の神として弁財天と称され、七福神の一として信仰された。
古来、安芸の宮島・大和の天の川・近江の竹生島・相模の江ノ島・陸前の金華山を五弁天と称した。
妙音天、美音天、大弁才功徳天とも称し、一般には弁天さまと親しまれている。
吉祥天(きちじょうてん)
女神で、父は徳叉迦、母は鬼子母。毘沙門天の妃。衆生に福徳を与える。
その像は、容貌端麗、天衣・宝冠を着け、手に如意珠を捧げる。
功徳天、吉祥天女とも呼ばれる。
伎芸天(ぎげいてん)
摩醢首羅(まけいしゅら)天の頭上から化生した天女。容貌端正で福徳・伎芸を守するという。
帝釈天(たいしゃくてん)
梵王とともに仏法を護る神。
また十二天の一つで、東方の守護神。須弥山の叨(正しくはりっしん偏)利天(とうりてん)に住み、喜見城の主。インド神話のインドラ神が仏教に取り入れられたものという。
天帝釈とも呼ばれる。
大黒天(だいこくてん)
密教では自在天の化身で、仏教の守護神。
戦闘神あるいは忿怒神、後に厨房神とされる。
また、七福神の一で、姿は頭巾被り、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。我国の大国主神と習合して、民間信仰に浸透したという。
大黒さまとして親しまれている。
大梵天王(だいぼんてんおう)
梵天とは色界の初禅天、即ち欲界の淫欲を離れた寂静清浄の天で、その主が大梵天王とされ、娑婆世界を主宰する神。
普通には梵天よ呼ばれ、また梵王、婆羅門天などと称されている。
鬼子母神(きしぼじん)
梵語の詞梨帝をいう。王叉城の夜叉神の娘。
千人の子を産んだが、他人の子を奪って食したので、仏は彼女の最愛の末子愛奴を隠し、これを戒めた。
求児・安産・育児などの祈願を叶えるとされている。
端麗で宝衣・瓔珞をつけ、一児を懐にし、吉祥果(ざくろ)を持つ。
歓喜母、訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれる。
夜叉神(やしゃじん)
梵語で夜叉をいう。
八部衆の一。形貌醜怪で人を害し食うなど猛悪なインドの鬼神。
天夜叉・地夜叉・虚空夜叉などに別けている。
仏像
大仏(だいぶつ)
丈六以上の仏像をいう。
多くは座像。奈良東大寺の毘盧遮那仏、安居院の釈迦如来(飛鳥大仏)、鎌倉の阿弥陀如来などが有名。
丈六は一丈六尺(約4.8m)のことで、釈迦の身長がそれほどであったとされていたための大きさ。普通は結跏扶座像に作られ、座高は八尺ないし九尺が標準。
涅槃仏(ねはんぶつ)
釈迦入滅時の姿を現した仏(像)。多くは涅槃図として描かれている。
タイ・バンコクで最古の歴史を持つ寺院ワット・ポーの涅槃仏が有名。安置されている黄金の涅槃仏は長さ46m、高さ15mと見る者を圧巻する大きさ。
磨崖仏(まがいぶつ)
自然の丘陵の岸壁に彫刻された仏像。
インド・中国に多いが、日本では臼杵や大村のものが有名。
僧侶
僧侶(そうりょ)
出家して仏道を修行する人。(『新明解国語辞典』)
僧官位(そうかんい)
欽明天皇の時代、仏法がはじめて渡来したのち、歴代の天皇や公家の尊崇を得て仏教があたかも国教のようになると、僧侶の数が増え、その統轄上、僧正などの僧官の必要が生じた。さらに、朝廷の尊崇があつかったことからその品位も上昇し、位階が与えられて、僧官位が作られた。
【僧綱】(そうごう)
衆僧を綱領する意で、僧官僧位とももっとも高いものの総称。僧官では僧正・僧都・律師の三官、僧位では法印・法眼・法橋の三階をいう。
【有識】(うしき)
僧綱の次にあたる職分ともいわれる。已講・内供・阿闍梨の三官の総称。
これら僧綱・有識などを三綱ともいい、それ以外の僧侶を凡僧と称した。
【凡僧】(ぼんそう)
ここでの凡僧というのは無官の者のことではなく、六位同等以上の待遇を得ている僧侶のこと。摂家以外の大臣を「ただひと」といったのと同じ意味合い。
僧位(そうい)
僧の位階。
【法印大和尚位】(ほういんだいおしょうい)
僧侶の最高位。大和尚位を略してただ法印と称される。法印とは『法印経』という仏経のなかから出た詞で、「法華一乗の法をもって衆生を利することが月光の江水に印するがごとき」という意。和尚とは、梵語で「仏法修行の功を積み徳を修め法財を出して智恵を養い成仏することの功力を生ずる」という意であるとされる。
【法眼和尚位】(ほうげんおしょうい)
ただ法眼ともいう。法眼とは『問仏決疑経』という仏経のなかからとったもので、「如来相伝の正法眼をもって法位をつぎ、法の善悪を択ぶ」意とされる。
【法橋上人位】(ほっきょうしょうにんい)
ただ法橋ともいう。法橋とは『地蔵十輪経』という経文に「我、仏を求めんがために、普く舟筏と為りて有海を超越す。我、法を求めんがために、また橋梁と為りて衆生を利済す」とあることによっている。また上人というのは『釈氏要覧』に、「内に智徳あり、外に勝行あり、人の上にあるを上人と名づく」とあることからきている。
【伝燈大法師位】(でんとうだいほつしい)
伝燈とは『禅林亀鏡』に「法燈を挑げ展伝して絶えず、これを伝燈と謂う」とあり、法師とは、『裟婆論』に「まさに四法を行わんとするを法師と名づく」とあることによる。
この下に、『伝燈法師位』がある。
【伝燈満位】(でんとうまんい)
満位とは五夏満(ごげまん)の意で、五夏満というのは夏冬九十日ずつ精舎に入って禁足勤行すること五ヵ度に満するものといわれる。
この下に、『伝燈住位』『伝燈入位』があり、「住位」とは僧位に居る意で、「入位」とは僧位の列に入るという意とされる。
以上八階が僧位とされ、『法印』『法眼』『法橋』が僧綱と呼ばれた。この上位三位は清和天皇の時代に加えられたもので、それより以前は「伝燈大法師位」以下五階だった。また『和名称』によれば、「法印位」を「僧正位」、「法眼位」を「僧都位」、「法橋位」を「律師位」とし、「大法師位」を三位に、「法師位」「満位」「住位」を五位に、「入位」を七位に准じている。このほか平安初期には『修行法師位』『修行満位』『修行住位』があったことが『日本後記』『類聚国史』などに見える。
僧官(そうかん)
僧侶の官名。
【僧正】(そうじょう)
僧侶の濫行不正を正す職。『釈氏要覧』に「比丘に法なきは馬に轡なきがごとし。故に徳望ある者を撰び、法を以てこれを縄し正さしむ。故に僧正と云う」とある。
初め僧正は一人だったが、やがて大僧正、僧正、権僧正の三人となり、のちには『愚管抄』に「僧正は、故院の御時までも、五人にはすぎざりき、当時、正僧正一度に五人いできて、十三人まであるにや」と書かれているように、だんだんその数を増したという。しかし、大僧正は一人に限られていた。
また、一階僧正というものが有ったことが、『平家物語』などに見え、この一階僧正とは、『海人藻飼芥』に、次第を経ず加階するものをいったとある。
【僧都】(そうず)
都は統の意で、僧正についで僧侶を統べる役とされる。初め大僧都と少僧都各一人づつだったが、やがて大僧都・権大僧都・僧都・少僧都・権少僧都の五等に分れ五人となり、十二人となる。鳥羽天皇の時には、大僧都だけで八人あったとされる。
【律師】(りつし)
この律師とは、律の一字をよく解して十方具足し、法制を解して衆僧に戒律を示すものとされる。『続日本記」に大律師・中律師のあったことが見え、のちに権官ができた。当初、人員も四人だったが、白河天皇の時には十五人と定められ、その後も増員が繰り返され『愚管抄』には「僧綱には、正員の律師百五、六十人になりぬるにや」と見えている。
以上の僧正・僧都・律師を僧綱といった。
【法務】(ほうむ)
法義を務める意で、もっとも重要な職とされ、諸宗の長で僧綱以外に置かれ、僧正などが兼ねたが、東寺一の長者がなる例とされていた。『神皇正統記』に「正の法務は、いつも東寺の一の長者なり。諸寺になるは皆権法務なり」とある。
のち六条天皇の時代に、仁和寺覚性法親王を総法務として、法務大僧正の上に置いた。以後、仁和寺の御室が代々総法務を兼帯した。
【威儀師】(いぎし)
定員は六人とされる。法会の時、衆僧の先に進んで威儀をつくろう役。『今昔物語』に「山階寺に、寿連威儀師といふものありけり」と見える。威儀とは、経文の中に、行住坐臥を四威儀といい、衆僧の進退作法を整えるものとされる。
この威儀師には、大威儀師、小威儀師、権威儀師があり、全体、威儀師は伝燈大法師位であるが、大威儀師は必ず法橋に叙せられた。
【従儀師】(じゅうぎし)
定員は八人とされる。法会の時、威儀師に従って威儀を正す役。
この法務、威儀師、従儀師が僧侶の職分とされる。
【已講】(いこう)
元来は南都の三会(興福寺の維摩会・薬師寺の最勝会・宮中の御斎会)の講師を勤めたものをいったが、後には天台の三会(法勝寺の大乗会・円宗寺の法華会および最勝会)の講師を勤めたものをもいうようになった。講師を命ぜられてもまだその勤めが済まない間は擬講といったと『釈家官班記』にある。
【内供】(ないぐ)
内供奉の略で、供奉(ぐぶ)ともいう。内供奉僧とは、宮中の内道場(禁中で僧侶のお祈りするところ)に供奉し、毎年大極殿で御斎会を行なう時に読師となり、また夜居といって夜分宮中に伺候する職。
また光仁天皇の時代に、名徳の僧十人を選んで補した十禅師というものが、内供奉とともに置かれた。後には、内供奉十禅師と一つのもののようになり、諸書には内供奉とばかり見え、十禅師はあまり聞かれないようになったという。
【阿闍梨】(あじゃり)
阿闍梨とは、規範という義で、能く子弟を糾正する意。阿闍梨には、一身阿闍梨、伝法阿闍梨、七高山阿闍梨の三種がある。
七高山阿闍梨とは、近江の比叡山・比良山・美濃の伊吹山・山城の愛宕山・大和の金峰山・葛木山・摂津の神峰寺の七寺で、春秋二季に薬師悔過(やくしけか)という祈の法を行って五穀豊熟を祈るに際し、その御祈の勅命を受けた高僧をいった。この阿闍梨はこれら七高山の僧に限らず、別に指定された寺々に置かれた。これら阿闍梨は宣旨をもって補せられるが、師僧たちより解文といわれる推選する申文を上奏したものが多い。『栄華物語』には藤原道長が推挙して阿闍梨を補した例が記されている。
伝法阿闍梨とは、天台・真言の大法を伝える僧をいう。そのうちの主たる師僧を大阿闍梨といった。道家公の子法助が伝法潅頂だった時、道深法親王が大阿闍梨だったことが『増鏡』に見える。
一身阿闍梨というのは、貴種名徳の人を特別に推選して称したもので、後白河法皇も一身阿闍梨になられていたことが『百練抄』に書かれている。
以上の已講・内供・阿闍梨を有識といった。
その他の僧官
【得業】(とくご)
南都で用いられた称。『釈家官班記』に「三会(維摩・最勝・法華)遂業、これを以て得業と称す」とあり、徳行がすぐれ才学のあるものがなった。
【探題】(たんだい)
法会などで経典の論議があるときに題を出し、論議がすむとその可否を判定する役。『釈家官班記』には「およそ当職は、法道の淵源、学道の険難なり。朝儀さらに聊爾に処せられざる者なり。その闕ある時、楚忽の沙汰あるべからざるか」とあり、学徳ともにすぐれた高僧を選んだ。
【竪者】(りっしゃ)
『釈家官班記』には二十臈(臈とは夏臈のことで、『釈氏要覧』に法歳といって仏道の功を積んだ年のことをいう)をへたものを竪者と号すとあり、また、比叡山東塔の三十講、西塔の二十八講(法華経を講ずること)を遂業したものを竪者と称したと書かれている。
また、園城寺の竪者は高位の僧で、探題僧の次ともいわれる。しかし、日吉御輿振(神輿を舁いて宮城内にすえ置くこと)のとき、摂津竪者豪雲が大将となって御所に濫入したり、以仁王が兵を起した時、平等院因幡竪者荒大夫が味方をした事が『源平盛衰記』に書かれているのを見ると、後には高位の僧や臈を積んだ者ばかりではなかったものと考えられている。
【護持僧】(ごじそう)
御持僧とも書き、夜居の僧ともいう。夜居とは夜中こもりいる意で、つねに清涼殿の二の間(天皇の御寝所の東で、本尊を祀ってある所)に伺候して、天皇の聖体を護持する僧。もとは三人であったが、のちには八、九人になった。そのなかでは、東寺長者は必ず参候し、延暦寺・三井寺の僧も参ることがあった。
【導師】(どうし)
法会の時の主僧をいう。『釈氏要覧』に「十住断結経に云く、導師と号するは、衆生をしてその正道に類示せしむる故なり」とあるによっている。この導師や御祈のときの阿闍梨を除いたほかの僧は、いずれも伴僧という。
【講師・読師】(こうし・どくし)
講師は法会の時などに高座にのぼって講説するもの、読師は経名および経文などをよみあげるものとされる。
このほか咒願師(じゅがんし)、三礼師(さんらいし)、唄師(ばいし)、散花師(さんげし)、堂達(どうたつ)という役があり、咒願文を読んだり、馨を打ったりして法会を行った。この講師から堂達までを七僧という。
【証義】(しょうぎ)
最勝講(五月、禁中で最勝王経を講ずる儀)などに、論議といって聴衆が講師経文の義を論じあった時、その可否を判断する役。証義と同じことをする証誠というものもある。聴衆はチョウジュと読み、法会のとき、講師の講説を聴聞して経文の義を論議するもの。
【堂童子】(どうどうじ)
法会の時、花筥(籠)を配布する役。発心求道の俗人が花筥賦などを勤めるのは、堂の傍にあって便宜相応することから、堂童子といったとされる。
[『塵袋』にある堂童子の記述]
一、堂童子とはわらはにてあるべきか。
客帰伝の文に天竺の寺のことを云へるには、凡諸白衣詣2必蒭所1若専誦2仏典1、情希2落髪1、畢願2緇衣1号為2童子1。或は、求2外典1、無レ心2出離1、名曰2学生1(就2必蒭1習2外典1)と云へり。此の二類の中に発心求道のおとこなどの、僧の所に至て仏法をねがふを童子となづくるは、花ばこくばりなどする役をつとめむこと尤も相応する故に、童子とは云ふか。今は泌ず発心求道の義なけれども、なぞらへてすること也。南京の諸寺には堂童子と云ふ下部あるにや。(『塵袋』五)
【定者】(ぢょうざ)
法会で行道という儀があったとき、香炉をとって前行する役。『枕草子』に「あやしうおどりてありくものどもの、さうぞきたてつれば、いみじくちゃうざといふ法師などのやうに、ねりさまよふこそをかしけれ」と書かれている。
【検校】(けんぎょう)
熊野三山、八幡、金剛峰寺、金峰山などの上首をいう。また、惣検校というものもあった。
【別当】(べっとう)
東大寺・興福寺・大安寺・法隆寺・仁和寺などの上首をいう。『延喜式』にも「およそ諸寺、別当を以て長官となし、三綱を以て任用となす」とある。また、興福寺には権別当があり、東大寺には小別当がある。
仁和寺では、代々親王が上首であったことから、御室(おむろ)といった。
【座主】(ざす)
一座の主という意で、学識の高い僧をいったが、それから移って僧官名となった。延暦寺・醍醐寺・法性寺などの首座をいう。
延暦寺の座主は、山の座主ともいい貫主(かんず)ともいう。また、延暦寺は天台宗の本山で、延暦寺座主が一宗の長であることから天台座主ともいった。
【長者】(ちょうじゃ)
長者は姓貴、大富、威猛、智深などの十徳を具えたものをいうと『法華文句』などにあるが、それから移って僧官としたもので、東寺の上首をいう。もとは一人であったが、後には四人となり、一の長者、二の長者、三の長者、四の長者といっている。一の長者を一の阿闍梨ともいった。
【長吏】(ちょうり)
三井寺、勧修寺などの首座をいう。
以上、検校以下長吏までは、名目は変るがいずれも長官の事をいう。
その他の名称
【和尚】(おしょう)
法印大和尚位のところで記したように、修行の功を積み徳を修めて成仏する功力を生ずる意。これも僧位であるが、位階はなくとも高僧をいい、孝謙天皇の時、鑑真に大和上の号を授けている。
天台宗では「かしょう」といい、法相宗では「わじょう」ととなえ、そのほかはみな「おしょう」といい、和上とも書いた。
その後、ただの僧をも和尚というようになった。
梵語の俗語khosaの音を写した語で、師を表す。師僧・高僧・和上。法眼。転じて僧侶、坊主。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある和尚の記述]
一、和上と和尚と真偽如何。
諡号たまはりたる先徳をばかしづきて、大師とも和尚とも云ふ、是は漢音也。和上とは師の名に云ひ習はせり、是は呉音也。されどもかよはして用ふ。源は一也。和上は梵語、翻じて知有罪・無知罪と云ふ。是はつみならずとよくはからひさだむ、明律の心なるべし。天竺に博士をば烏(正しくは邑)婆那(うばな)と云ふ、又略しては烏社とよぶ。烏社をいひゆがめて和社と云ふ。是は義浄三蔵の説也。常には師をば烏婆陀那と云ふ、翻じて親教と云ふ、又依学とも力生とも云へり。烏婆陀那をも烏婆遮迦とも、優婆陀訶とも云ふ。梵も漢も一種ならず。義広れば翻訳もさま/\〃也。難レ尽ければ省略す。(『塵袋』五)
【学匠】(がくしょう)
学生とも書く。『古事談』や『古今著聞集』には学侶とも学徒ともある。仏道を学習しているものをいう。
仏道を修めて師匠たる資格あるもの。(『広辞苑』第二版)
【供僧】(ぐそう)
本尊に供奉する僧の事で、供奉僧の略。
供奉僧。中世、社寺の僧侶の身分。(『広辞苑』第二版)
【愚僧】(ぐそう)
僧が自分をへりくだっていう言葉。(『広辞苑』第二版)
【国師】(こくし)
国師とは、『僧史略』に「西域に昔、尼健士あり。三蔵を学び、兼ねて五明に達す。挙国帰依、すなわちこの号を彰す」とあることによったもので、後宇多上皇が紹明に円通大応国師の諡号を賜ったのが始め。僧疎石が生前に国師号を賜って夢窓国師と称したことが『太平記』などに見える。
奈良時代の僧官。諸国に分置し、その国の僧尼を監督し、これに経を講じたもの。後、講師と改称。(『広辞苑』第二版)
【三昧僧】(ざんまいそう)
三昧僧とは、念仏三昧、法華三昧など、専心に念仏したり法華経を読誦する僧をいう。
専心に念仏などをする僧。法華三昧堂に常住して法華三昧を修する僧。(『広辞苑』第二版)
【寺主】(じしゅ)
延暦寺では「じしゅ」といい、仁和寺では「てらしゅ」と読むという。寺主とは、鎮寺法主の意で、説法知法僧を法主とする義であると『釈氏要覧』にある。
鎮寺法主の義。諸大寺・定額寺などの三綱の一。一寺を知事する職位。てらし。(『広辞苑』第二版)
【沙弥】(しゃみ)
梵語。『元亨釈書』に「国俗、髪を剃り梵儀を全うせず、妻子ある者、在家、沙弥と称す」とあり、出家しても俗家にいて妻帯しているものをいった。
梵語で、息慈・勤策男または求寂の意。出家して十戒を受けた少年僧。年齢によって三種類に分ける。五衆・七衆の一。さみ。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある沙弥の記述]
一、沙弥は何なる義ぞ。
沙弥は梵語、翻じて求寂と云ふ。勤策。とも息悪とも云ふ。道宣律師の釈には、初入仏法多存2俗情1須息レ悪行レ慈云へり。(『塵袋』五)
【沙門】(しゃもん)
沙門とは、凡語で僧の惣名とされる。桑門(そうもん)も同じ意味。
梵語で、勤息即ち善を勤め悪を息むる人の意。出家して仏門に入り道を修める人。僧侶。桑門。出家。さもん。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある沙門・桑門の記述]
一、桑門と云ふはよすて人の栖に桑のかどを立つる心か。
世の人なべて此の心をしれり。但し此れは実義には違へり。沙門は天竺の詞ば、桑門も沙門も音通ずる也。またの梵語を訓によむべきいはれなし。沙門と云へばとて、いさごを門にする謂なし。桑門もくはの門と云ふ義に非ず。原憲がとぼそをくわの木にてしたると云ふは、まことの木か。原憲は僧にあらねば義たがひぬ。別の事也。沙門の梵語は一に非ず。或は、沙迦懣嚢とも、舍羅摩拏とも、室摩那拏とも、沙門とも、桑門とも云ふ、同事也。唐には、是は翻じて、功労とも乏道とも貧道とも云へり。打任ては、仏弟子に限て沙門の名はあれども、羅什三蔵は、仏法及外道凡出家者皆名2沙門1云へり。外道は随分に家業を忘て苦行するを、出家とも、天上に生ずるを出離とおもへり。かれが意に順じて、暫く沙門とも云へるにや。日本のぼろ/\など云ふもの、外道の部類なるべし。唐には乱常のとがとて、徳いたらぬものゝ、異相を現ずるをば、とがめらるゝとかや。(『塵袋』五)
注:ぼろ/\ 有髪の乞食僧。文字は梵論(ぼろ)とする。
【住持】(じゅうじ)
仏法をとどめたもって護持すること。寺の主長である僧。住持僧。住職。(『広辞苑』第二版)
【住職】(じゅうしょく)
住持職の略。住持の職分。寺の主長である僧。住持。(『広辞苑』第二版)
【出家】(しゅっけ)
世の塵をさけて家を出る義。
家を出て仏門に入ること。僧。(『広辞苑』第二版)
【出家得度】(しゅっけとくど)
仏門に入り度牒を受けて僧・尼となること。現今は、寺に入って剃髪の式をあげること。僧籍に入ること。(『広辞苑』第二版)
【上座】(じょうざ)
衆徒の上に座する意で、年臈高才の人を任じた。法事以下の事を掌る役で、下に権上座があった。
法臈十年以上の者。比丘の敬称。三綱の一。年長・有徳の者で、寺内の僧侶を統監し、寺務をつかさどる役僧。禅宗で師家を呼ぶ第二人称。曹洞宗の僧階の一。長老。(『広辞苑』第二版)
【上人】(しょうにん)
法橋上人位のところに記したように、徳行智恵がすぐれて人の上に在る意で、僧位であるが、位階のない僧でも、徳行のすぐれたものを上人といっている。とはいえ、形式上、朝廷に願って勅許を得たものとされる。
智徳を具備し道俗の導師・範となる僧侶の敬称。僧位の名。法橋上人位の略。(『広辞苑』第二版)
【聖人】(しょうにん)
『大蔵法数』に「聖は正なり。凡性を捨て正性に入る。故に名づけて聖と為す」とあり、『大般若経』に「仏菩薩を聖人となす」とあることから、高僧のことを聖人といった。
ただ上人と同訓であることから、混用した例が多い。また、聖人を略して聖といい、それを訓読みにて「ひじり」ともいう。
仏・菩薩をさす。聖法・七聖財・七聖覚を有するからいう。見道以上の位にあるもの。惑を断じ理を証しているからいう。上人に同じ。また、上人に対して、それより重い意味に用いる。例えば、真宗では法然・親鸞は聖人、烈祖は上人。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある聖の記述]
一、ひじりをば聖人と書き又上人と書く、何れをか正説とする。
聖をばひじりとよむ。ひじりなれば聖人といはむ、さしあたりては、不レ可レ背レ理。俗典には、権者めかしき人をば聖人と云へり。但し内典には、上人をもて正説とすべきか。翻訳名義に律文をひきて、瓶沙王称2仏弟子1為2上人1云へり。瓶沙王とは頻婆羅王の名也。翻じて影坐と云ふ。入宋の僧の中には瓶沙をばびんしやとぞよむ。大品経に、若一心行2阿辱多羅三獏三菩提1心不2散乱1、是名2上人1と云へり。聖の字をば或は外書に聖と云ふは声也。言聞レ声知レ情、故曰レ聖と云へり。(『塵袋』五)
【禅師】(ぜんじ)
禅定を修する師という意。これを諡号としたのは、後宇多天皇の時代、道隆に大覚禅師の諡を賜ったのが始めとされる。
禅定とは治心の法のことで、仏門に入ったものをも禅定とも禅定門ともいった。藤原兼良を一条禅閤(禅定太閤の略)、平清盛を大相国禅定門といった例。
禅定に通達した師僧。中国・日本で、智徳の高い禅僧に朝廷から賜る称号。一般に法師の称。(『広辞苑』第二版)
【大師】(だいし)
大師とは、仏を三界の大師と称することからいう。『瑜珈論』に「邪穢外道を摧滅し、世間に出現す。故に大師と号す」とあり、衆生を救済して善に導くものであることから、高僧の諡号とした。最澄・円仁・空海に伝教大師・慈覚大師・弘法大師の諡を賜ってからのち、この諡号をうけた高僧は多い。栄西は生前に大師号勅許の請願を出したが、生前にはその例が無いと退けられている。
大導師の意。仏の尊称。中国・日本で朝廷から高僧に賜わる号。多くは諡として賜わる。わが国では、天台宗の伝教(最澄)・慈覚(円仁)・智証(円珍)・慈慧(良源)(元三大師)・慈摂(真盛)・慈眼(天海)、真言宗の弘法(空海)・道興(実慧)・法光(真雅)・本覚(益信)・理源(聖法)・興教(覚鑁)・月輪(俊仍)、真宗の見真(親鸞)・慧燈(蓮如)、曹洞宗の承陽(道元)・常済(瑩山)、臨済宗の無相(関山)、浄土宗の円光(源空)、融通念仏の聖応(良忍)、時宗の円照(一遍)、黄檗宗の真空(隠元)、日蓮宗の立正(日蓮)の二三人に勅賜。高僧の敬称。特に弘法大師(空海)をさす。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある大師号の記述]
一、高僧名徳の中に、大師号かうぶると申すは、さるつかさのあるべきか。
別に大師号と云ふことばなし。諡号也。李周翰が云く、諡は名也。又諡法に云、諡は行之迹也云々。行徳ある僧などのうせて後、其の跡を忍て徳を表するために名を授らるゝ也。大師の二字は、遺弟の祖師をかしづく詞也。大師の二字の上に諡号よびつゞけて、弘法大師とも伝教大師とも申す也。大師号といふ事はあるべからず。(『塵袋』七)
と『塵袋』にはあるが、後には『愚管抄』六に「大師号なんど云さまあしき事さたありけるは」と書かれているように、大師号というものが設けられた。
【大徳】(だいとこ)
『釈氏要覧』に「行満徳高を大徳という」とあるが、貴賎にかかわらず僧侶の通称にも用いられる。
だいとく。仏のこと。徳高く行いの清い僧。高僧。転じて、単に僧侶。だいとこ。(『広辞苑』第二版)
【都維那】(ついな)
維那は説衆の意で、衆僧に法義を説き示すことや、そのほか寺院内のこといっさいを掌る役。
維那(ゆいな・いな)に同じ。三綱の一。寺中の寺務を司る役。綱維。知事。都維名。禅家ではイノ・イノウと読む。(『広辞苑』第二版)
入道(にゅうどう)
仏道に入る義。出家した者を入道と称した。また大入道というのは、別に意味があったわけではなく、北政所に対して大政所という類のもので、道長を入道というのに対して、その父兼家を大入道といった。
仏道に入って修行すること。また、その人。在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。仏道に入った三位以上の人の称。坊主頭のものをあざけっていう称。坊主頭の妖怪。(『広辞苑』第二版)
【入道親王】(にゅうどうしんのう)
親王宣下を受けて後に仏門に入った皇族。(『広辞苑』第二版)
【入道の宮】(にゅうどうのみや)
入道した親王・内親王・女院の称。(『広辞苑』第二版)
比丘・比丘尼(びく・びくに)
釈迦の弟子を四種に分け、出家の男女を比丘・比丘尼といい、在家の男女を優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)と称した。
びく。梵語。仏門に帰依して具足戒を受けた男子、即ち僧。乞子。→比丘尼。誤って比丘尼の称。女子をいやしめていう語。(『広辞苑』第二版)
びくに。梵語。出家して具足戒を受けた女子。必芻尼。尼僧。あま。→比丘。鎌倉・室町時代、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。絵解比丘尼・小歌比丘尼など。江戸時代に尼の姿で売色した下級の私娼。科負比丘尼の略。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある比丘・比丘尼の記述]
一、比丘尼をあまと云ふは和語か。
根本は皆な梵語也。比丘は僧の名、翻じて怖魔とも乞士とも破悪とも殺賊とも不生とも除饉とも云へり。尼の字は女とよむ。善見律には阿摩と云ふものと云ふ。老母也。重レ尼故称レ之と云へり。比丘をば必蒭とも云ふ。新古の不同也。(『塵袋』五)
【比丘尼御所】(びくにごしょ)
江戸時代の寺格の一。皇女・王女または公卿の息女などで出家した人が住職となった尼寺。女王御所。(『広辞苑』第二版)
【坊官】(ぼうかん)
房官とも書き、延暦寺では座主などに奉公する輩で、別に任官叙位もせず、坊号や公名をつけて、つねに歯を染め妻帯しているもの。
門跡家の家司。妻帯し、法衣を着し帯刀する。房官。(『広辞苑』第二版)
法師(ほうし)
伝燈大法師位のところで記したように、四法を行うものをいう僧位であるが、昔から僧侶の通称となってきた。
仏法によく通じてその教法の師となる者。僧。出家。ほっし。(昔、男児は頭髪を剃ったことから)男の子供。或る語に添えて「人」の意を表す。瘠法師。影法師など。(『広辞苑』第二版)
【法師武者】(ほうしむしゃ)
僧形の武者。僧兵。(『広辞苑』第二版)
坊主(ぼうず)
一坊の主僧。住職。僧。武家時代に幕府・諸大名に仕え、僧体で茶の湯や給仕などの雑役を勤めたもの。同朋。童坊。髪を剃っている頭。また、その人。(『広辞苑』第二版)
門跡(もんぜき)
門跡とは一門一跡という義で、それから宮様のいる寺院の尊称となったとされる。宇多法皇が仁和寺にいたことから、御門のいた跡という意で仁和寺御室のことをいい、それから移って他の寺にも門跡という称号をつけるようになったといわれるが、それは誤りとされる。
この門跡には、脇門跡・准門跡があって、それらを区別するために宮門跡・摂家門跡・清華門跡という名称が生まれた。宮門跡とは親王が入室した寺院で、摂家門跡・清華門跡はそれぞれ摂家・清華の者が入室したことから呼ばれる。またそこに住職したものを門主といった。これら門跡は、勅許でなければ称することはできない。
一門の法跡の意。祖師の法統を継承し、一門を統領する寺。また、その僧。皇子・貴族などの住する特定の寺の称。宇多天皇が出家して仁和寺に入ったのに始まり、江戸幕府は宮門跡・摂家門跡・准門跡に区分して制度化した。本願寺管長の俗称。(『広辞苑』第二版)
【門跡奉行】(もんぜきぶぎょう)
室町幕府の奉行の一。門跡に関する政務を掌ったもの。(『広辞苑』第二版)
(この項、()で資料名を付したもの以外は和田英松『官職要解』による)
修験道
修験道(しゅげんどう)
修験道は山岳修行によって超自然的な力を獲得し、その力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを目的とした日本独自の宗教で、修験道の実践者を修験者あるいは山伏と称した。
【日本仏教の概説】「修験道」の項参照。
山伏(やまぶし)
修験者。役行者を祖とする我国古来の山岳宗教と仏教の融合した修験道の行者で、人里離れた深山に籠り修行を行い、ある種の霊能力を会得したとし、それを持って加持祈祷を業とする。そのため、諸国往来人(道々の輩)と同様、移動の自由が認められ情報収集や流言などを広める役割を担うこともあったとされる。また、修行により身に付けた体術にも優れていたため、忍び働きにも重宝された。室町期、狩野探幽が天狗を山伏姿に模したのも、当時山伏の行動が天狗のように神出鬼没と映っていたためだろうと想像できる。
熊野山伏(くまのやまぶし)
熊野三社(熊野三山)に奉仕する修験者。
室町期に、白河上皇の熊野行幸で先達を務めた園城寺の増誉が熊野三社検校に補任され、以後、熊野三山は園城寺およびその末寺聖護院が支配し、本山派と呼ばれる聖護院派の修験道場とされ、本拠となった。
羽黒山伏(はぐろやまぶし)
最上の山伏(『好色一代男』)。出羽国羽黒山の羽黒大権現を本拠とする修験者。
比丘尼
比丘尼(びくに)
1、(梵語bhiksuni除女・薫女と訳す)出家して具足戒を受けた女子。必芻尼、尼僧、あま。2、鎌倉・室町時代、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。絵解比丘尼・小歌比丘尼など。3、江戸時代に尼の姿で売色した下級の私娼。(『広辞苑』第二版)
○牛王売の比丘尼宝印を売に出す、比丘尼に文庫の内へ入てもたせ、又腰に勧進ひさくをさゝせ、米を貰はせたる修行なり、寛文の頃、「びんざゝら」をもたせ、歌をうたはせしより、風俗大に下る、尤唱歌もやひなり、此時より、売女のきざしをあらはせり、天和の頃より、世上遊女はつかうするにより、かやうの族も売女とはなりたり、然れども、元来僧形なれば、衣服は木綿を著したり、
○天和、貞享頃は、浅黄木綿頭巾、白き布子、浅黄も有、素足、わら草履、菅笠、手覆かけ、ひしやく腰にさし、文庫を持せたり、腰帯をする、
○元禄頃より、黒桟留頭巾を著す、是より外の色の布子を著す、されども無地也、すげ笠、手覆、文庫を持、
○宝永より、小比丘尼に柄杓をさゝせ、文庫を持せたり、元禄より、中宿ありて是へ行、朝五ツ過或は四ツを限りに出、夕七ツ限りに宿へ帰る、昼の間彼中宿にありて、他へ修行に出る事なし、和泉町北側裏ごとに有り、新道へ抜て大方中宿なり、玄冶法印とて公儀御医者の屋敷也、是を玄冶店といふ、又、八官町御堀通り町屋に中宿有り、後京橋畳町に有、正徳頃は茅場町組屋敷に出す、享保九年、小浜民部殿屋敷脇へ引、往来は木綿服なれども、中宿にては、サアヤ、縮緬嶋、八丈の紅裏模様を著す、夏冬黒ちりめんの投頭巾を著す、尤長し、櫛笄さゝぬ遊女にひとしく、けしからぬ有様也、其頃、浅草門跡の脇、法恩寺前にも中宿有り、是は劣れり、宿は神田多町より出る、又、深川新大橋向より出る、安宅丸の跡の町家なり、是をあたけ比丘尼と云、下品なり、四ツ谷の早稲田と云在よりも出る、下々なり、小身屋敷の門番或は寄合辻番を頼み、宿とす、享保十年、茅場町組屋敷白コシ長屋より、八丁堀松平越中守屋敷北の方、鳥居丹波守殿上り屋敷の跡へ引こす、寛保二年、八官町に心中出来る、公辺になり、つゐに売女に落て、それより中宿堅く御停止にてやみたり、延享二年まで、神田の宿にて客を留ると云、此ごろは又々何方へ行やらん、往来するなり、
○延享のころより、御停止を破り、元のごとくに成しなり、
○頭巾、古来は浅黄のつねていの頭巾也、老比丘尼は冬しころなどもつけたり、元禄のころより長くする、
(中略)
○宝永よりむな高帯にする、幅はあまり広からず、享保より少し幅広くなる、腰帯、はゞ広き平ぐけなり、但、結び下げにはせず、
○比丘尼雪駄とて、尻の皮そらし、きびすかくるゝやうにしたり、平人は不レ用、元文末よりはやる、
(中略)風俗をこしらへ往来するゆへ、はなはだ歩行遅し、寛保御停止の節は、中以下の比丘尼、古来のごとく勧進に出る、漸一年の間なり、
○夫比丘尼、容形は、眉をおき、歯白く磨き、紅をつけ、白粉を化粧、月代を中がりにして、忌中の男の月代の如し、異体なる者なり、正徳年中、中村源太郎と云女形の役者有、これに面よく似たる比丘尼あり、源太郎比丘尼と云名高き比丘尼也、
○又、宝永の頃、鶴と云名高き比丘尼あり、同宿より、小鶴とて又一人出す、然るに、宿は神田にて、同店の裏より出火ありけり、勿論、宝永の頃は、附火の御吟味つよき折節なれば、自火、附火の御吟味ありけるに、出処怪敷ゆへ、自火とも申がたく、六ケ敷なりける、同店者共不レ残召出され、御吟味有けるに、一人、彼鶴と申比丘尼、朝くわへぎせるして厠へ行たる由申上る、彼鶴を召して、右くわへぎせる致せしと申者と対決に及ぶ、鶴申ひらき成がたくして、火附の科にをち、火罪になりたり、聊の事にても、法度を不レ守時は、もし凶事出来たる時、法度を不レ守咎にて大罪に行れたり、前々より往還并門外くわへぎせる御停止にてありける、可レ慎々々、(『我衣』曳尾庵著)(中央公論社刊『燕石十種』第一巻より)
歌比丘尼(うたびくに)
歌念仏をして勧進をする尼。後には色を売るようになった。(『広辞苑』第二版)
五十 今はむかしの事 (前略) 一、唄比丘尼といふ者ありて勧進す、宝暦の頃迄所々繁華の宮社へ来り、参詣の人の休息する茶屋へ入、びんざさらを鳴し、唄諷ふて米銭を貰ひて世を渡る者也、いつか此類絶て今は見る事なし、むかし此比丘尼の中に容色あるを好色の者密に奸淫して大幸を得しより、色を商ふ比丘尼といふ者も出来りといふ、然るに其色比丘尼の始りしも古き事と見へたり、正保三年丙戌八月廿三日(頭書 正保三年丙戌より享和三年癸亥迄百五十八年)評定所へ阿部豊後守出座の時、御旗本の士渡辺源蔵といふ者、神田田町の比丘尼の親方弟子比丘尼を源蔵隠し置たる由、願い出たるを豊後守取計宣敷、源蔵三四十金出して内済せし由を記置たる書を見れば、もはや其頃より以前色比丘尼有し事明らか也、(後略)(三田村鴛魚編『未刊随筆百種』第二巻「享和雑記」より)
歌比丘尼([朱書]今は絶てなし) 往古、紫の一本などにも見へし、いづみ町、八官町びくになぞの余流にて、天明の比まで、新大橋の東詰、浅草みしま門前などに、葭簀立よせし花売、江口の宿にてありしが、勧進にていづるは春のころ、飛鳥山、日ぐらしの辺、目黒の不動、雑司ヶ谷なんど、人群集の所へ、十六七、廿計の比丘尼、薄化粧して、無紋に浅黄ねづみ、紬よふの小袖うち着て、幅ひろき帯前にむすび、つむりは、納豆ゑぼしとかいへるものゝ如く、黒木綿にて折たるぼうしをかむり、牛王箱にやあらん、だい箱とはいへる黒ぬりの文庫様のもの小わきにかいこみ、小唄うたふてもの乞ふ事にありける、これにも小比丘尼二人り三人りつれたり、また小比丘尼は、そまつなる木めん布子にて、きやはんはき、手おひかけて、うしろへ垂れのある常の角頭巾、黒もめんにてつくりたるをかむり、五合程も入るべき柄杓の柄のみじかきを持たるが、年のころ六ツばかりなるより十一二比迄の小びくに三人り四人りうちつれ、これには、御寮比丘尼とて、四十有余にていとにくさげなるが、同じ出たちにて、牛王箱かゝへてつきそひ、町々門々へ来てうたひける、唱歌よくも覚へぬど、
鳥羽のみなとに船がつく、今朝のおゐてにたからの舟が、大こくとおゑびすとにつこりと、チトくわんおやんなん、
とて、愛々敷こわねにて物こひける、(『只今御笑草』)
天和年間記事 ○此の頃はやりし唄比丘尼の内、神田めつた町(多町なり)より出づる、永玄、お姫、おまつ、長伝といふが名とりにてありしとぞ。しゆすか羽二重の投頭巾をかぶるによつて、これを繻子鬢と名づけたり。又宝永の頃までありし、綿摘といひしも土妓にてありし。(『武江年表』)
『艶道通鑑』にある歌比丘尼についての記述。
勧進比丘尼(かんじんびくに)
「歌比丘尼」の別称。
勧進比丘尼 歌念仏を唱え、地獄極楽の絵解きをして米銭を乞い歩いた比丘尼。歌比丘尼ともいう。一方熊野権現から出て、熊野の牛王の宝印を売り、熊野権現を勧進してまわった比丘尼があり、これを熊野比丘尼といったが、これらはかたわら売色もしたので、同義語として用いられるようになった。(『日本の古典17』池田弥三郎注)
○勧進比丘尼、売女比丘尼の事、我等若年の頃は、年頃なる比丘尼、びんざゝらを鳴し、歌をうたひ、小女比丘尼を召連、みだれ箱様なる箱を抱へ、小尼に柄杓をもたせ、門々に立、米銭をもらひ行かふ事也、売女比丘尼は、芝八官町、神田横大工町にて、美服を着し売ける由、是につゞきて、下直の比丘尼は、浅草田原町、同三島門前、新大橋河端などにて、家毎に二三人ヅゝ出居たり、右両様の比丘尼共、今は絶てこれなし、(小川顕道『塵塚談』)
熊野比丘尼(くまのびくに)
近世、熊野三所権現を諸国に勧進した尼僧。後には歌をうたい、また色を売る者ともなった。(『広辞苑』第二版)
熊野比丘尼勤に出る事、如何の謂れや、勧進して牛王を売しよし、何れとなく売女となる、先づ神田より出るを上として、わせ田、下谷竹町、本所、あたけ下として、宿は新和泉町上とし、八官町を中とし、其外浅草門跡前、京橋太田屋敷、同心町所々へ出ぬ、下も船へ出る、元頭巾は、黒ちりめん、加賀笠なり、正徳二年、俄に、頭巾、浅黄木綿に成る、当座殊の外見苦しく、後は上比丘尼は子比丘尼二人連れる、但、吉原の太夫のまねにして、衣類を着飾る、大鶴、小鶴などとてはやり、歴々の遊びにして、全盛目を驚かしける、元文六年、八官町にて、桜田辺の武士と心中して、其跡より、一切比丘尼町屋へ出間敷旨御停止なり、此頃比丘尼の商ひ夥し、衣類、頭巾の仕立各別違ひ、着たる姿よきやうにして遣しける、去によつて、姿よろしき也、(『江戸真砂六十帖』巻の四)
日本中世史の脇田晴子氏は、これら歌比丘尼、勧進比丘尼、熊野比丘尼は、歩き巫女と同類とし、神仏習合により仏教化したものとしている。そして、出雲のお国が勧進舞を舞って出雲大社の造営資金を集めたのと同様、熊野比丘尼から伊勢神宮の造替のために勧進して諸国を遍歴した慶光院伊勢上人らが現れたと書かれている。これら熊野比丘尼は、お国らの歩き巫女と同じく散所や声聞師集団に属していた。
科負比丘尼(とがおいびくに)
古来、人の穢れは人形類が身替わりとなって吸い取るといわれていたため、貴人の中には身近に人形を置く習慣があったが、その人形の役目を比丘尼が勤め付添っていた。そうした比丘尼の称。代参、身替わり信仰の類とされる。(『日本の古典17』池田弥三郎注)
『色里の部』「色比丘尼」参照。
『人物・人名事典』「八百比丘尼」参照。
『中世職能民職種一覧』参照。
教義・仏書
山家学生式(さんげがくしょうしき)
最澄の書。
『天台法華宗年分学生式』(「六条式」弘仁九年五月十三日)、『勧奨天台宗年分学生式』(「八条式」同年八月二十七日)、『天台法華年分度者回小向大式』(「四条式」同十年三月十五日)の三首からなる。比叡山天台で学生を養成するために法式を制定し、勅許を乞うたもの。当時、叡山で得度しても正式な僧となるためには、南都(奈良)に設けられた戒壇で、小乗戒による受戒が必要とされていた。そこで最澄は、叡山に独立戒壇を設ける事を決意、しかも小乗戒ではなく大乗戒による事を企図した。まず手始めとして、叡山の学生を大乗戒によって教育する規定を六ヶ条にわたって立案(六条式)し朝廷に奏上、八月には細則をとり決めた「八条式」を、翌年三月には、寺院・戒律などに大乗・小乗の別があることを述べ、大乗戒による一向大乗寺の建立を明示した「四条式」を上呈した。しかし、この「四条式」には南都の僧等から反対の声が上がり、朝廷も許可するに至らなかった。最澄は改めて『顕戒論』を著わして再考を促すが、最澄の生前には大乗戒壇の建立は許されなかった。ようやく勅許が下ったのは最澄の死後七日目のこととなる。
歎異抄(たんにしょう)
親鸞の語録。
異安心に対し真宗の安心の正義を述べた書。親鸞没後まもなく成立。唯円の撰と言われる。
「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人をや」という有名な語句はこの書にある。
教行心証(きょうぎょうしんしょう)
親鸞の書。
関連用語
修法
護摩(ごま)
護摩は梵語ホーマ(homa)の音写で、焼きつくすこと(梵焼)を意味する。
古く印度バラモン教の火神アグニを供養して魔を除き福を希う火祭りの修法が仏教に取り入れられ、「火の自性(じしょう)とは、即ち是如来の一切智光なり」という仏の教えに基づいて純化され、密教の主要な祈祷法になっている。
護摩修法とは、本尊、護摩炉、行者が揃うことがその要件となる。すなわち、私達衆生の煩悩を象徴する薪(護摩木)を、護摩の炉に積み上げ、本尊不動明王の大慈大悲の智慧の火を以て、すべての煩悩を焼きつくし、行者が衆生に代わって諸願成就、心身の清浄、息災を祈念する修法。
【日本仏教と宗派】を参照ください。
神道
巫女(みこ)
巫子、神子、御子。神に仕えて神楽・祈祷を行ない、または神意をうかがって神託を告げる者。未婚の少女が多い。かんなぎ。(『広辞苑』第二版)
一般には神社に所属し、そこの神子として奉仕するが、勧進を求めて諸国を廻る者も現れた。歌舞妓の創始者とされる「出雲のお国」も出雲大社の巫女といわれる。やがて、どこにも所属せず諸国を廻り求めに応じ、占や祓いをする巫も現れる。これらは「あるき巫女」と呼ばれ、十座の支配下の七道者として諸国を往来した。
『中世職能民職種一覧』にも「巫」の項あり。
【ノロ】(のろ)
琉球国で巫女をいう。ノロは琉球王府によって任命され、公儀の祭祀をつかさどるために村々におかれていた神職。明治十二年(1879)の琉球処分の頃、王府から任命されていたノロの数は、沖縄本島だけで212人いたという。ノロの最高位は聞得大君(きこえおおきみ)で、国王の姉妹、王妃から選ばれ、王と王国を守護する琉球王国最高の巫女として、大きな宗教的権力を持っていたことから、王と並ぶ権力を有したが、1667年、大君の位を王位の下に位置づけ、職掌も縮小され、大君になる資格を王母のみとした。大君の下には大阿母(おおあも)が置かれ、その下にノロが組織される。ノロの司る祭祀には、麦と稲の穂祭、収穫祭、海神祭、シヌグなどがあった。
あるき巫女(あるきみこ)
特定の神社に属さず、諸国津々浦々を遍歴し、客に求めに応じて神おろしなどを行い、舞を舞って浄財を集めていた。散所や声聞師集団に属していた彼女らは、遍歴したとはいえただあてもなくさまよった訳では無く、諸国にあった彼ら雑芸能集団の集まる公界(国境・河原など)の舞場で舞っていた。
外法(げぼう)
巫女などが用いる妖術。また、それに用いる猫の頭骨、髑髏などを云う。外法仏。司馬遼太郎氏の『城を取る話』に、村巫女のおううと関連して、この外法の話が有る。
キリスト教
カトリック(カソリック)(Katholicos)
正統教義を奉ずるキリスト教。ローマ教皇を首長に仰ぐローマ・カトリックとその支配に属さないギリシャ・カトリックがあり、一般には前者を指す。後者は一般にはギリシア正教と称される。
イエズス会
イエズス会(Compania de Jessus)。
1537年、イグナティウス・デ・ロヨラと彼の仲間たち(ピエール・ファーブル、フランシスコ・ザビエル、ディエゴ・ライネスら)は、イエズス・キリストに奉仕する有志のグループを組織し、仲間の一致団結とキリストへの奉仕に全生涯を捧げるという意味を込めて自らの会の名を「イエズス会」と名付けた。そしてその冒頭に「本会において十字架の旗印のもとに神の兵士として奉仕しようと望む者は…」という戦闘を思わせる言辞の『イエズス会会憲』と『基本精神綱要』を定めた。このことから「イエズス会」は「戦闘的布教集団」「戦う宣教師集団」などと呼ばれるようになる。1538年、彼らは教皇パウルス三世のところへ赴き、世界中のどこであろうと教皇が望むならばどこへでも行くことを申し出て、教皇はこの度量の大きい申し出を喜んで受け入れた。会の創立者の一人ピエール・ファーブルはこれを「イエズス会」の準創立としている。翌年イグナティウスは『基本精神綱要』を正式に教皇の元へ提出したが、この頃、ローマ法皇庁では修道会の評判が悪く、修道会を縮小しようという動きもあって、なかなか認可が下りなかった。ようやく下りたのは提出後一年と九週を経た1540年9月で、教皇パウルス三世によって公開勅書『レギミニ・ミリタンティス・エクレシエ(Regimini militantis ecclesiae)』をもって正式に修道会としての認可が与えられた。
[ポルトガル及イエズス会関連用語]
フランシスコ会
フランチェスコ修道会(Francescas)。
アッシジのフランチェスコが創立した托鉢修道会。キリスト愛の実践を旨とし、貧者・病者をいたわり、灰色の会服を着す。修士(第一会)、修女(第二会)、平信徒(第三会)の三部があり、総会長によって統率された。第二会は聖女クララによって開創された。わが国には1582年、初めて渡来した。
ドミニコ会
ドミニコ修道会(Dominicans)。説教者修道会。
1215年、ドミニクスが設立した托鉢修道会。正統信仰の擁護・学問・清廉を重んじ、説教で異端者を改修させることを目的とした。わが国には、1602年に渡来した。
プロテスタント
十六世紀に興った宗教改革で、ローマ・カトリック教会から独立したキリスト教徒らの総称。カトリックの旧教に対して新教ともいい、彼らを称して新教徒という。プロテスタントとはプロテスト(抗議する)からきている言葉で、これらの運動をプロテスタンティズムという。
1517年、教皇による矚宥状(免罪符)の販売などカトリック教会の堕落・弊害に対して、ルター(ルーテル)が九十五ヶ条の意見書を教皇に提出し、人は信仰によってのみ神の国に生まれるのであり、聖書がその神の道を示すものとしてカトリック教会などの持つ教権を否認した。ルターは二十七歳の若き修道司祭の時に、ローマを訪れローマ教皇庁の頗廃ぶりをつぶさに見聞し、人々が教会と教皇を批難してやまないことを知り、教会への叛逆の第一歩を踏み出したという。この事が導火線となり、ツウィングリ、カルバンらが各地で教会批判を展開し、全ヨーロッパを揺るがす運動へと発展した。1555年のドイツ・アウグスブルグでの宗教和議を機に、動乱は収束に向いヨーロッパはドイツ・北欧諸国のルター主義、フランス・オランダ・スイス・アメリカなどのカルバン主義、イギリスの英国国教主義の新教国と、神聖ローマ帝国下のスペイン・ポルトガル・イタリアなどの旧教国に分かれる事となった。
キリシタン
吉利支丹。切支丹。Cristao(ポルトガル語)の日本語表記。英語でChristian(クリスチャン)、キリスト教徒の意。わが国では主にカトリック教徒を称した。
スペイン人でローマ・カトリックのイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによって、1549年初めて日本にもたらされ、以後、同会士らの熱心な布教活動により、戦国大名の帰依などでその領国民こぞって受洗するなど西日本を中心に受洗者の数を増やした。中でも天正七年(1579)に来日したイエズス会東アジア管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの活躍は目覚ましく、最盛期には三十万人余の信徒を得たが、ヴァリニャーノが「少年使節」を伴って離日すると、その後を受けた準管区長ガスパル・コエリヨはヴァリニャーノの命を無視して日本人蔑視策を取り、さらには秀吉の朝鮮遠征にポルトガル軍の協力を申し入れるなど軍との繋がりに疑念を抱かせる失態を演じた。また天正十年(1582)フィリピンにいたイスパニアが日本に触手を伸し、それと共に日本にやって来た「フランシスコ会士」との軋轢も布教に影を落す一因となった。こうしたポルトガル=イエズス会とイスパニア=フランシスコ会の貿易及び布教活動の競争による諍いが頻発することで、伴天連の活動に不信感を抱いた豊臣秀吉は、天正十五年(1587)ついに伴天連追放令を発布する。しかし、その後も、イエズス会やフランシスコ会などの宣教師が数多く訪れ、布教に務めたことで十数万人以上の数字は維持していたと思われる。秀吉没後、家康は秀吉の出した禁令をそのまま継続させるが、貿易の利を取って黙認していた。ところが、慶長五年(1600)漂着したオランダ船で日本に上陸したイギリス人ウイリアム・アダムスの登場で家康の関心はアダムスに移り、マカオ事件に発した有馬領でのポルトガル船襲撃事件やそれに続く岡本大八事件[慶長十七年(1612)]で切支丹への警戒感が強まり、吉利支丹禁止令が有馬領と幕府直轄領に発布、翌十八年大久保長安事件が明るみにでるとバテレン追放令が実効的に運用され、高山右近らキリシタン大名を含むカソリック宣教師たちが国外退去となった。さらに幕府は、海外権益の独占と西国諸藩が海外貿易で利益を得て強大化する事を防ぐ目的で、寛永十二年(1635)、海外渡航禁止令を発布し鎖国政策を打ち出した。また、寛永十六年(1639)にはポルトガル船渡航禁止令を出し、宣教師らの入国を絶った。当初、吉利支丹と記された信徒は、禁令が強化されると、鬼理支丹、あるいは鬼利死丹などと記される事もあったが、将軍綱吉の代に、吉の字を用いない切支丹が一般的となった。こうして、邪教の信者とされた熱心な切支丹は拷問などの弾圧にも屈せず殉教するが、多くの一般信徒は過酷な弾圧で改宗、しかし改宗者の一部分は「隠れ切支丹」となって以後の時代を生きることとなる。
これらキリシタンの殉教の様子は、レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』などに詳しいが、近年発行された『イエズス会の歴史』(ウイリアム・バンガード著:2004)に簡潔にまとめられた文があるので、少々長くなるが訳文をそのままここに抄出して紹介。
「17世紀初頭に日本は対外政策を徹底的に変え、このことがカトリック教会に災いした。1638年までに、ヨーロッパ軽視の態度を示し、オランダ商人のための、当初は平戸、後に出島に置かれた小さい入国口を除き、西欧の諸勢力に対して門戸を閉ざして後、この日出ずる国は「鎖国」、すなわち閉ざされた国となった。この政策を補うために、将軍たちはキリスト教会といふかの活発な西欧の遺物の根絶に注意を向けた。強固な決意が徳川秀忠(1579ー1632年)の反カトリック政策を特徴づけていたが、聡明だが残酷なことを好む徳川家光(1604ー51年)の蛮行はその決意さえも凌駕するほどだった。
この二人の人物は日本のカトリック教会という石を打ち、死に至るまでの信仰への忠実といふ美しい白い炎に変わることになる火花を点火した。信用のおける複数の文書は、世紀の半ばまでに4045人の殉教者が出たことを記録している。しかもこれらは有名な島原の乱のことは考慮に入れてない。島原では1637年から1638年に貧しい農民が無慈悲な搾取に対して憤激して蜂起した。この社会問題は、カトリック教徒が信仰を棄てた場合の恩赦を約束された時点で宗教問題になった。三万五千人から三万七千人が斬首によって死に赴き、1612年までにまるごとカトリックの地域共同体になっていた有馬には、一人のカトリック教徒も残らなかった。30万人のカトリック人口のうち13パーセント以上の者が信仰に命を捧げた。これはおそらく教会の歴史の中に並ぶものがない記録であろう。(略)
イエズス会士たちを死に至らしめた手段は、ぞっとするほど残酷なものであった。カルロ・スピノラ(Carlo Spinola 1565-1612年)とレオナルド木村助修士(1575-1619年)と七人の神学生のように、ある者は火あぶりによって亡くなり、ある者はマノエル・ボルヘス(Manoel Borges 1584-1633年)と福永ニコラオ助修士(1569頃-1633年)と二人の修錬者のように、体をきつく縛られて、糞便その他の汚物で満たされた臭気を発する穴の中に逆さ吊りにされ、またある者は頭をやや後ろに引いた姿勢で板に縛りつけられ、狂わんばかりに努力しないと息ができないほどに顔に絶えず水を注がれて、落命した。マルチェッロ・マストリッリは二日間これに耐えて、この水責めの最高記録を立てた。
(略)1643年に、五人の中国人および日本人の要理教育者をともなった、四人をヨーロッパ人、一人を日本人とする五人のイエズス会士が、西洋人に対して張られた非常線を突破しようとした筑前海岸沖で捕縛された。容赦ない拷問に屈して、一〇人全員が信仰が弱くなって、信仰を否定した。幾人かのオランダ人が、「目と頬は奇妙に落ちくぼみ、手は青黒く、全身は拷問によってひどく虐待され衰えている」四人の西洋人のイエズス会士を江戸で目撃し、彼らが、自分たちは耐えがたい苦痛のゆへに棄教したにすぎず、自ら望んでのことではないと、通訳者に向って言っているのを耳にしている。一人は棄教を撤回し、まもなく獄死した。多くの人を落胆させた殉教の挫折は、二三年間宣教に携わっていたベテランで、年老いて病んだ副管区長クリストヴァン・フェレイラ(Cristovao Ferreira 1580-1650年)のそれであった。彼は1633年、六時間穴に吊るされた後屈服した。管区の他の二人の長上も、フェレイラに続いて棄教した。
この時期にイエズス会士とフランシスコ会士が交した通信文の中では、お互いについての激しい批判が続いていた。双方ともが協力の欠如について相手を非難した。敵意が信徒の中に溢れ出し、二つの修道会によって指導される信心会の間の対抗意識を招き、最も必要な時にカトリックの一致を損なった。地下教会を照らす薄明かりの陰に、英雄的な愛と人間的弱さが出会い、それぞれの役割を果していた。」
キリシタン大名(きりしたんだいみょう)
戦国末期、ザビエルらの渡来により貿易上の利益を得るため、率先してキリスト教に帰依した。肥前大村の大村純忠、肥前島原の有馬鎮貴(晴信)、豊後の大友宗麟など。また、キリシタン武士で秀吉に仕え、後に大名となった小西行長、高山右近らが有名。
伴天連(ばてれん)
Padre(ポルトガル語)の日本語表記で、神父の意。ザビエルやビレラ、フロイス、ソテーロなどの神父の地位にいる宣教師のことだが、彼らに随行して来朝した修道士や助修士などをも伴天連と呼んでいた。修道士は正しくはイルマンという。
天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)
天正遣欧少年使節。イエズス会東アジア管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案により、ヴァリニャーノら日本にいるイエズス会士たちによって計画が立てられ実行される。目的は日本人に西欧のキリスト教文化がいかに優れたものであるかを見聞させ、その体験を日本人自らに語らせることにある。これが立案されたのが1582年1月(天正九年末)で、それから約一ケ月後の2月(天正十年正月)、イグナシオ・デ・リマのポルトガル船に乗り、ゴアに戻るヴァリニャーノとともに長崎を出帆した。
使節団のメンバーは、豊後(大分)・肥前(長崎)の片田舎出身の十二三歳になる少年使節四人と随行の少年二人、道中の世話役となる若い日本人の修道士一人、イエズス会の指導者二人で構成。この使節団が日本側からの計画でない証しとして、このことを記した日本側の記録が皆無に近く、イエズス会が記した記録と使節が訪れた国々の公文書などで確認されるだけであるため、使節となった少年たちの正式な日本名は分っていない。残された海外の記録から、その正使として大友宗麟の名代を勤めた伊東マンシオ、大村純忠・有馬鎮貴の名代となる千々石ミゲルがいる。副使に大村出身の原マルチノ、中浦ジュリアン、そして日本名が分らない随員のコンスタンチーノ・ドラードとアグスチーノの二少年、若き日本人修道士のジョルジュ・デ・ロヨラの七人の日本人が、はるばる海を渡りローマを訪れたのだった。
マカオ・マラッカを経て1583年11月ゴアに到着、12月ヴァリニャーノと別れてゴアを発ち、喜望峰を経て1584年8月リスボンに到着。1585年3月ローマに入り教皇グレゴリオ十三世と謁見。滞在中にグレゴリオ十三世が薨去し、4月に入って新教皇となったシスト五世に謁見し、5月ローマを発してイタリア各地およびスペイン・ポルトガル諸都市を歴訪、1586年1月リスボンに戻った。3月末リスボンを立つが逆風のため一旦リスボンに戻り4月改めてリスボンを離れ帰国の途についた。1587年5月、ゴアに到着、ここで約十一ヶ月を過ごし、1588年4月、ヴァリニャーノとともにゴアを発ち、1590年7月長崎に帰着し、八年半におよぶ長い旅程を終えた。
慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)
慶長十八年(1613)、仙台藩主伊達政宗が、イスパニアとの交易を求めて、大御所家康の了解の下、ルイス・ソテーロなどのフランシスコ会士の協力を得て大平洋からノバ・イスパニア(メキシコ)経由でヨーロッパに支倉六右衛門らを派遣した使節団。この使節団を派遣した政宗の意図は、『捨て童子松平忠輝』におおよそ書かれているが、実際のところは諸説あって定かではない。政宗がイスパニアへ使節を送るきっかけとなったのは、慶長十五年(1610)フィリピン長官ロドリゴ・デ・ビベーロが日本近海で難船し漂着、彼等をメキシコへ送還する際、当時家康に取入っていたフランシスコ会宣教師ルイス・ソテーロの進言でメキシコとの直接交易を行うため田中勝介らを同行させてビベーロを送り返すのだが、翌年、その答礼使節として勝介らとともに日本に来航したセバスチャン・ビスカイーノが、大型船の入港に適した港を選ぶためと称して大平洋沿岸の入江等の水深を調査・測量する。この時、仙台藩領の三陸海岸の調査のため伊達政宗の居住する青葉城を訪問するが、その案内役としてソテーロが付添い政宗と会った。ソテーロはビスカイーノが調査している間青葉城に在って、政宗のさまざまな好奇心による質問に答えたとされる。ここでソテーロは、政宗に領内での布教の自由を与えられるなどの優遇を受け、政宗がキリスト教に寛大なのを知り、政宗の協力を得て自らの日本での地位を確かなものにし、イエズス会主導の長崎を本拠とする日本の一教区制から、奥州を中心としたフランシスコ会主導の教区を作り二教区制として、その教区長になろうと考えていたといわれる。この年、愛娘五郎八姫を家康の六男松平忠輝に嫁がせたばかりの政宗に、ソテーロは家康が望んでいるメキシコとの通商交渉の計画を伝え、それに協力すれば家康を喜ばせることになり、忠輝の外祖父としての立場も強くなると吹聴したものと思われる。この話は、政宗はイスパニアとの同盟が実現できれば、徳川に代って天下人となる可能性を模索したという説も有るように、政宗の関心をそそったことだけは確かなようだ。
一方、田中勝介らをメキシコへ送ったものの何の成果も挙げられなかった家康だったが、それで諦めた訳では無かった。慶長十七年(1612)九月、家康は幕府の建造した「サン・セバスチャン」号でソテーロを使節としてメキシコへ送り出した。しかし、造船技術の不完全と航海術の未熟、さらに暴風雨に遇って船は浦川(浦賀)沖で難破。再び家康の計画は頓挫するが、その計画を受継いだのが政宗だった。さっそく家康の許可を得て船奉行向井将監と相談、与十郎という幕府の船大工の助力を得て慶長十八年(1613)三月頃から造船材料を集め、向井将監やその配下の船大工たちの協力を得てわずか四十五日で船を完成させた(『伊達貞山公治家記録』)。船の名は「サン・ファン・バウチスタ」号と名付けられ、ふたたびソテーロを団長とする遣欧使節団が組織され、九月十五日月の浦港を出帆することとなった。
この船の乗員総数は百八十人余とされ、内訳は支倉六右衛門ら仙台藩の者十六人、向井将監の家人十人余、ソテーロらフランシスコ会の宣教師やビスカイーノおよびその随員約四十人とされ、その他名も知れぬ百十余人の日本人乗員が大平洋を渡ってメキシコへ向った。
キリシタン関連逸話
元亀天正の比は、切支丹盛んに行はれ、貴賤上下を問はず、一般に其宗旨に帰依したり、当時西班牙(イスパニヤ)にては、日本最早奪取るべしとて兵船の用意しけるに、偶ま其国の教師が太閤に目見えのとき、下坐せざりしとて追放せられたることを聞き、手を廻して尚能く日本の内情を探らしめたるに、国人の気質風俗、勇壮活溌にして、迚も懸軍万里の遠征隊の征服し得る国に非ざるを知り、遂に出軍の沙汰を思ひ止りけるとなん(古賀同庵)(『想古録』)
寺院・神殿・教会
寺(てら)
パーリ語のthera(長老)あるいは朝鮮語の礼拝所という言葉からきているという。仏像を安置し、僧・尼が居住し、道を修し教法を説く殿社。中国で「寺」はもと外国の使臣を遇する所の意。伽藍。蘭若。梵刹。(『広辞苑』第二版)六世紀中頃、仏教の受入れに積極的な蘇我氏らが、それに批判的な物部氏を滅ぼして、大陸・半島から本格的に仏教を移入したことから始まり、我国の仏教寺院は、まずヤマトの政権の権威を誇るためと、国の安定を祈願するためにもたらされた。本格的な寺院はその頃造営された飛鳥寺とされ、やがて摂津の四天王寺(摂津国分寺)などが次々と造営され、ヤマト政権の偉容を誇ることとなる。
国分寺(こくぶんじ)
唐の国制である律令制をもって列島の支配をほぼ確立(東北北部以北と南九州を除く)したヤマト政権は、天平十四(742)年、聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺とともに各国ごとに建立された。正式名を金光明四天王護国之寺といい、大和(奈良)の東大寺を総国分寺とした。
国分尼寺(こくぶんにじ)
国分寺とともに国ごとに建立された尼寺。正式名は法華滅罪之寺といい、法華経を講じさせ、大和(奈良)の法華寺を総国分尼寺とした。
南都(なんと)
本来は平安京を北都というのに対して大和(奈良)をいう。そのことから、奈良興福寺を称して「南都」というようになった。
【南都七大寺】(なんとしちだいじ)
奈良の東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の総称。
北嶺(ほくれい)
南山(高野山)に対して比叡山をいう。また、興福寺の「南都」に対して比叡山延暦寺をいう。
五山(ごさん)
元々は釈尊(釈迦)の旧跡、王舎城付近の五つの山をいう。その後、インドの祇園・竹林・大林・誓多林精舎および那爛陀寺の五精舎を差すようになる。それを模して、南宋の時代、中国の杭州・明州地方にある径山寺・育王寺・天童寺・霊隠寺・浄慈寺を中国五山と称した。我国に南宋の禅宗がもたらされた時、その中国五山に倣って、禅宗最高寺格の五つの寺を五山と呼ぶようになる。鎌倉中期にその兆しが現れ、暦応五(1342)年、鎌倉・京合わせ、1建長・南禅、2円覚・天竜、3寿福、4建仁、5東福の五山が定まる。浄智寺は五山に準じ、浄妙寺以下十刹も定められた。やがて、相国寺が造営され、至徳三(1386)年、南禅寺を五山の上とし、京・鎌倉各五寺を定めた。この時、大徳寺は五山に列せず、林下と呼ばれ蔑まれたが、五山の諸寺が権力と結び堕落すると、禅宗の正統は大徳寺に受け継がれたという。
【京都五山】(きょうとごさん)
京都にある臨済宗の五大寺。天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の総称。南禅寺を首格、大徳寺を次とし、五山はその下に位置する。
【鎌倉五山】(かまくらごさん)
足利義満の時に定めた鎌倉の臨済宗の五大寺。建長寺・円覚寺・寿福寺・浄妙寺・浄智寺の総称。関東五山ともいう。
尼寺(あまでら)
尼の住む寺。尼屋。尼家。尼寺(にじ)。比丘尼寺ともいう。また特に寂光院をいう。
【尼寺五山】(あまでらごさん)
京都の景愛寺・護念寺・檀林寺・恵林寺・通玄寺をいう。
【鎌倉尼五山】(かまくらあまごさん)
鎌倉にある太平寺(高松寺)・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺の五つの尼寺の称。
縁切寺(えんきりでら)
夫の不身持や強制結婚に苦しんで駆け込んだ女を助け、前夫は勿論、その他から何等の故障を言わせない特権を有する寺。鎌倉の東慶寺や、群馬県新田郡尾島町の満徳寺など。かけこみ寺ともいう。(『広辞苑』第二版)
普化寺(ふけでら)
虚無僧寺ともいう。江戸時代に隆盛した禅宗の一つ普化宗の寺。普化宗は、唐の普化を祖とする禅宗の一派で、1254年、東福寺の覚心が伝来。下総一月寺・武蔵鈴法寺を本山としたが、1871年廃宗。普化宗の有髪の僧を虚無僧といい、由来は、室町時代、普化宗の僧朗庵が宗祖普化の風を学んで菰(こも)の上に座して尺八を吹いたから菰僧というとも、楠木正成の後胤正勝が僧となり虚無と号したからともいう。深編笠をかぶり、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首に袈裟をかけ、刀を落し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚した。
無縁寺(むえんでら)
女郎や無宿の者など、身内などの引取り手のない無縁の亡者を葬る寺。
と辞書にはあるが、隆慶作品での「無縁寺」の意は、あらゆる世俗の権力から「無縁」の公界に造られた寺という意味で、ここに入ったものは、権力の追求から免れられた。その替り、駆込んだ者も、世俗の縁とは一切無縁となった。
門跡寺院(もんぜきじいん)
祖師の法統を継承し、一門を統領する寺、およびその僧を門跡というが、門跡寺院という場合は皇子・貴族などの住する特定の寺を云う。宇多天皇が出家して仁和寺に入ったのに始まり、室町時代には寺格を表す語となり、江戸幕府は宮門跡・摂家門跡・准門跡に区分して制度化したとされる。
○延喜元年(醍醐)法皇東寺にて潅頂、御室を仁和寺につくる。御室とは今にては仁和寺のことの様に人々覚へ、所の名に似たれども、法皇の菴室をいづかたにても御室と云ふ。たま/\大内山仁和寺に寛平法皇の御菴室をつくられたるゆへ仁和寺を御室といふなり。これ天子御室のはじめ。後世に御門跡と云ふこともこれより起る。宇多法皇のをわします所なれば御門の跡と云義なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
隆慶作品に登場する各地の寺社については、『歴史地理・地名便覧』にある「旧国名」のそれぞれの国名の末尾に「城郭・寺社・その他の建造物一覧」に有るので参照ください。
仏像伝来(ぶつぞうでんらい)
○人王三十代欣明天皇十三年百済王使者を献じ、釈迦の像并はた、天かいを献ず。大臣稲目は拝し玉へとすゝむ。物部尾輿は拝すること甚無用とすゝむ。因つて稲目に賜ふ。稲目よろこんで其家をすてゝ寺となし。向原寺と号し仏像本邦へわたりて伽藍を作りし初めなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
神社(じんじゃ)
わが国の神社のはじまりは、垂仁天皇の二十五年(紀元前5)三月、伊勢の五十鈴川川上に建立された天照大神の祠とされている。
太古は山川草木、岩石など、すべて自然物には神が宿るとされ、これを祀るにも自然の中で行なった。
天神地祇、八百万神、あるいは氏族の祖神、崇敬神、または偉人、義士、烈士、あるいは動物などの霊を祭祀信仰する組織が神社、あるいは神社神道である。
『古事記』『日本書紀』の記述によれば、建国ののち数代の天皇は三種の神器の一つである八咫鏡を神鏡として天照大神を宮中にまつった。崇神天皇にいたって天照大神を大和の笠縫邑にまつる。
社殿を設ける必要のなかった古代は、神霊の降下を仰ぐ仮の神殿が造られ、祭りが終わると取り壊された。永久的な神殿を目的としたものでは、奈良時代の伊勢の大神宮寺や気比の神宮寺などがもっとも古い。
大化の改新のころになると、神祇に関する制度も整い、奈良時代に入り「養老律令」が出て、国家の祭祀と神社行政を、中央に設けた神祇官がとりしきるようになった。このころから次第に新しい神社建築が起り、奈良の春日大社、大分県宇佐町の宇佐神宮、京都の賀茂神社などが神社としての形式を備えるようになる。貞観二年(860)に京都男山の石清水八幡宮、仁和三年(887)には滋賀県大津市坂本の日吉大社などが今日の神社建築の形式を整えてきた。

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