歴史用語の基礎知識2色里の部




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色里に関する一般・全般・関連用語の解説と史料による記述をまとめてあります。

色里全般

色里一般

悪所(あくしょ)

主に江戸の俗で使われ、官許、非官許(岡場所)を問わず色里全般を云う。

色売る町を悪所といふ事。(中略)富家に生れ家督ある者の家を失ひ、老て貧苦にせまり、飢寒に窮する事、誰かこれを願ひ望んや。然共此里に通ふ人の遊女に実なく一向勤のみにて相手せんは又楽しみとするに足らず。故に真実ならざれば楽しみとし難く、真実ある時は継て悲しみ至るべし。是を思ふ時は此郭に至りて楽しむ者は終に真の楽しみを得る人なし。故に是を名付けて悪所といふ。(『享和雑記』) 

遊蕩をなす場所。いろざと。いろざとに行くを、悪所落。いろざとに入りびたりて、放蕩するを、悪所狂と云う。(『廣辭林 新訂版』) 

下の『むかしむかし物語』に云う悪所は吉原を指しているようだ。吉原へ行くには、まず色男でなければならず、大金を持ち、それなりの準備をして出かける場所だったと書かれている。

昔は若き衆悪所通ひするに、今とは大に違ひ、先男の器量あしき人は行事稀也、生付綺麗成男、器量自慢に行、扨又物騒成道、殊に夜道無僕一僕にて通る、専らとおもひ立時、支度大分六箇敷、悪所功者成懇意の人に、諸事のいきかたを習ひ、支度第一は先金子を拵て、脇差のもの好き結構に拵へ、小袖羽織袴迄右功者に談合して拵へ、伽羅の能木を求め身を嗜み、此等の支度五箇月も半年も懸り、扨やがて趣んとおもふ三四箇月も前より茶屋々々へ行茶屋女を会釈ひ、はつみを手練し、額のぬきよう髪の結様月代なり迄、功者の差図にまかせ、身の取廻しありき姿、行跡いきはり悪所風に成て、功者と同道して行く、去によって悪所かよひする人は、時宜合公儀ぶり各別に利発なり、然故に悪所へかよふ者は、一風伊達成ゆへに、そんじやうそれはたゞ者に非らず、悪所へかよふそうなと人の目に立、(『むかしむかし物語』)

○元禄、宝永の頃の悪所の繁栄は、昼は極楽の如く、夜は竜宮界の如しといへり、諸国の珍味、先此地を最上とはこび、異香匂ひ、家々に満つ、数の遊妓伽陵の袖をひるがへす、遊客は、他人百金をついやせば我は千金をついやしたりと、多くついやすを此里のきぼとす、享保よりは、他人十金をついやせば我は五金をついやして帰たりと、世智弁を元と心得たり、元禄の人は、悪所は金銀を捨る所也、不レ捨心ならば、此地へ足を入るのは何ごとぞや、と笑へり、又、今の心は、悪所などへ足を入るゝは、還て人にわらはるゝ種と思ふ、人に笑はれて見る程の処にてもなし、是を見るには不レ見には不レ如、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)

また、「我衣」の著者曳尾庵は、悪所通い、傾城買いについて、儒教精神の強い当時の道徳感から下のようにも述べている。
○傾城、売女に近付ものゝ七損、
○主人の機嫌をそこなふ、○身上をそこなふ、○命をそこなふ、○邪智を増し、正智をそこなふ、○正じきをそこなふ、○孝をそこなふ、○人をそこなふ、
右の内、命をそこなふ事、品々あり、
夜深にかへり、夜に入行とき、酔狂人にために、又は物取、追落しなどに逢て、死するものあり、
心中して死するものあり、是れは暫く其座を去れば留るものなり、御公儀の(吉宗公御時代)御慈悲にて、御法度になりて、近年少し、心中と唱ふる事は、芝居より出たり、相対死と云、
酒食を過し、或は瘡毒、或は腎虚などにて死する、
往来駕篭にて夜深にかへる、夜駕篭かき、多くは悪者なり、是が為に死するものあり、
船にて往来するは、慥なるようなれども、早緒切て船くつがへる事も間々あり、逆風にて船くつがへり、死たるものあり、如レ此あまたの品々あれば、よく/\慎べき事なり、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著) 

色里(いろさと)

遊女町、傾城町など娼家が集まった町のこと。遊里、花街、柳巷、悪所などさまざまな呼名が有る。

遊女・芸者などの集まり住居する遊興の場所。花柳の巷。いうり。くるわ。(『廣辭林 新訂版』)

三ケの津色里の始 八文字屋自笑序文
世に傾国けいせいなどゝにくてい口のやうにいひなせとも、源ふかく理義ハあまねく知る所、天竺震旦我朝とてもさら也、殊更吾国ハ天神地祇より神風の道にみちたる国の風情、大に和く日の本の風俗とかや、されバ京江戸三ケ津を此道の上品と定るも故ある事ぞかし、第一京都島原ハ天正のそのかみ原三郎左衛門林又市郎といふ浪人に許命せられて、則柳の馬場二条の北に傾城町を開し、後に六条西の洞院の東に移され、それよりはるか後寛永年中に今の朱雀野に所を易られしが、昔のちなみをもつて今も西新屋敷柳町といひ伝ふる也、そのときの原氏ハ今の島原上の町西南角桔梗屋八右衛門が祖也、又林氏は今の下の町西南角藤屋八郎左衛門屋敷その跡也、林氏は寛文年中に大坂に引越し、今の大坂新町扇屋是也、江戸はそのかみ太田氏、彼地をひらかれし砌に、御赦免にて何某多かりしが、わけて山下氏など此道の祖也、難波津新町ハ昔より繁花の大港にして、諸方に色町多かりしが、寛永の末、正保のはじめっかたひとつ所にあつめられて四筋の町となりぬ、則木村や又次郎町(瓢箪町これなり)佐渡島の勘右衛門町、四郎兵衛町、金右衛門町、吉原町これなり、其外六十六国に色里数多ありといへども、およそけいせい町と称する所のものは、あらまし泉州の乳守ならびに高州、和州の奈良に木辻鳴川、伏見の幢木泥町、大津にしばやまち、越前に三国敦賀の両町、西国筋においては播磨の室、同国鶉野の姫路や又左衛門町、備後の鞆、同じくたゝのうミ、備中の宮中、安芸の宮島の新町、下の関いなり町、長崎の丸山町、此外国/\所々に遊女は多しといへども、皆色里などゝこばして、さまざまの品位あまたなれども土地のかはりめ、風俗いろ/\あればしばらく爰に略す(『青楼年略考』)

色町(いろまち)

遊里、傾城町など遊興の地を指す。類語に花街という語が有り、主に京阪で使われていた。

いろまちと訓ず。遊里を云ふ俗言なり。(『守貞謾稿』)

色町 いろざと。遊廓。(『廣辭林 新訂版』)

かくれ里(かくれさと)

御免色里に対して非官許の色里をいう。かくれ色里。岡場所の事。
また、「隠れ里」という語は一般には四方と隔絶した別世界をいい、昔語りなどの「桃源郷」という意味で用いられ、椀貸し伝説などの話に多く現れる。

傾城(けいせい)

室町後期から江戸前期に作られた「お伽草紙」にも美女をさして傾城という言葉が用いられているように、元は美人を表す言葉だったようだが、現在は専ら遊女を云う。傾城屋は遊女屋と同義。

傾城と云ふは、李延年の歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一たびこれを顧みれば、城を傾け国を傾くと謡ひ、己が妹の李夫人を進むより傾城を美人の惣名とす。いつとなく遊女のみの名となる。(『守貞謾稿』)

「草の塵」に云ふ。傾城傾国は美女を誉めたる辞なり、自笑は契情と書たり、前漢書に李夫人の事を、北方有2佳人1、絶レ世而独立、一顧傾2人城1、再顧傾2人国1と作りたり、是よりして傾城といふなり。(『俗事百工起源』)

(一)美人。美婦。(二)遊女。女郎。(『廣辭林 新訂版』)

傾城町 いろざと。くるわ。

傾城屋 ぢょらうや。(『廣辭林 新訂版』)

傾城 傾国ともいふ、仏経に、淫婦、淫女とあるも、是傾城の事なり、即、傾城、傾国といふ出所は、猶漢史に見えたり、李延年が歌に、北方有2佳人1、絶世而独立、一顧傾2人城1、再顧傾2人国1、是、傾城、傾国といふ名目のおこりなり、夏の桀王の妹喜(ばつき)・殷の紂王の妲己(だつき)、皆是傾城なり、其外、西施、虞氏、王昭君、楊貴妃など、同じく傾城なり、我朝にては、鳥羽院の御時、島の千歳、若の前といひし者、是日本遊女の根源也。其後、祇王、祇女、仏御前、亀菊、磯の禅師、静等、皆是白拍子なり、遊女、白拍子、名目はかはれども、心はひとしきなり、今の世にくらべ見れば、是をぞ上古の傾城とはいふべき、抑、当時の遊女を傾城といふ事、過分の称号なれども、用ひ来ればちからなき事也、(『色道大鏡』巻第一)

○傾城 遊女をさして傾城といふは、寛文のころよりいひはじむといへり、遊女は江口神崎等の船着にありて、船にのりて毎船に来るゆへにながれの女、浮女などゝいふ也或人の云平家西海にて亡し時、官女宮女おほく下の関、門司、赤間の湊にさまよひ、世わたる業をしらざれば、人の遊びものになりて、遂に遊女となれり、よつて此湊々には今に遊女特に多し、又大磯の虎、黄瀬川の亀鶴池田の湯谷などは、今の出女の類也、傾城は遊女にかぎらず、すべての女を云り、瞻功篇に「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾け、婦の長舌有るは、惟乱れの階」是は女の発才なるをいましめたり、又漢の李延年が、武帝の前にして起て舞ける歌に云、北方に佳人あり、絶世にして独立、一たび顧ば、人の城を傾け、再び顧ば、人の国を傾く、下略、かやうの語をとりて、巨杓なる者が、ふと名付ていひならはせしもの也(『近代世事談』巻之五)

御免色里(ごめんいろさと)

時の政権・権力者の許可を受け各地に散在する娼家を一ケ所に集めた色里で、秀吉の許可を受けた京の「柳馬場」、大坂「新町」に始り、江戸幕府の許可を受けた「吉原」などの色里をいう。一般に「御免色里」を「いろ里」と云い、岡場所など私娼のいる場所を「かくれ里」と云った。

御免色里とは時の政府機関が公に許可した遊廓のことだが、これがいつ頃から始まったかについては諸説があって定かでない。
だが傾城屋が町の一角に集中し、遊女が軒を並べた傾城屋に住み込んで競って色を売るようになったのは、京都万里小路の柳の馬場に出来た廓をもって嚆矢とする。(『一夢庵風流記』210)

京の町に公許の遊里、いわゆる『御免色里』が秀吉によって許され、柳の馬場に開設されたのは、天正十七年のことだ。これが『御免色里』のはじまりだが、この翌年天正十八年に北条氏は滅んでいる。考えようでは『風魔』らしい。先をよく読んだ転進策とは云えないか。その後、元和四年には江戸に吉原が、そして同じ頃大坂に新町が『御免色里』として許されている。請願人はそれぞれ異なるが、いずれも『風魔』と関わりのある者ではないのか。(『花と火の帝』下86) 

以下に喜田川守貞の著した近世風俗志(守貞謾稿)から江戸期の御免色里(官許遊女町)を掲出する。

今世、官許の遊女町(『洞房語園』に所載なり)

武陽浅草の吉原(新吉原)、京都島原(三筋町)、伏見夷町(橦木町)、同所柳町、大坂瓢箪恰(新町)、奈良鳴川(木辻)、江州大津馬場町(柴屋町)、駿州府中弥勒町(二丁町)、越前敦賀六軒町、同国三国の松下、同国今庄新町、泉州堺北高洲町、同国同所津守(乳守)、摂州兵庫磯の町、石見塩泉津稲町、播州室小野町、備後鞆(蟻)鼠町、芸州多太の海、同国宮島新町、長門下関稲荷町、筑前博多柳町、肥前長崎丸山町(寄合町)、薩州樺島田町、同国山鹿野。都合二十五ケ所、云々。()内は通称、俗称。

「異本洞房語園」参照。

柳巷(りゅうこう)

色里、傾城町などの遊里の事。

唐・宋の遊里は、いずれも柳の樹に囲まれていたという。柳の並木が色里の象徴だったのである。そのため遊里をまた『柳巷』といった。(『吉原御免状』128)

色里全般

三大遊廓(さんだいゆうかく)

我が国の御免色里(官許)は、全国に二十五ケ所あった。(上記「御免色里」の項参照)その中の「京島原」「大坂新町」「江戸吉原」を称して三大遊廓(色里)という。それぞれの都市の歴史や成立ちの違いから、遊廓にもそれぞれ特徴があった。

三田村鳶魚の『江戸の女気質』に、
「諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原」ということも、云い慣らされて居りますが、吉原に張りの強い女がいたということも、よく売れるということから来ている。遊女がよく売れるということは、女の少い土地柄として如何にもありそうに考えられますが、それを直ぐ鵜呑みにするわけにも参りますまい。吉原にはコロリという名のついた、百文の女もいたのです。
とあり、何時からか「諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原」というような、その色里独自の個性・特徴が醸し出されるようになっていた。さらに三田村氏は、
京都は如何にも売ろう売ろうとしている、江戸は買おう買おうとする風がある、大坂はその中間に居る、といった有様が見えます。京都の遊女はなまめいた様子で、自分の方へ招き寄せようとする風があり、江戸の方を見ると、何か高く矜恃しているといった様子で、力み返っている風がある。これが即ち「張り」ということを提起して来ているのですが、同時に遊女に対する心持も、江戸に於ては男がこれを屈服させて、愉快であると感ずる風が出来て来た。延宝の頃までは吉原は武士の世界でありまして、元禄以後はじめて町人の世界になり、資力次第ということになりました。資力次第ということは、資力の多い者が世の中の勢威を占め、世の中の栄誉を占めるということになるので、これは江戸に限った話ではありませんが、江戸の民間の事柄は元禄以降がめっきり目立って来るようになったのです。(『江戸の女気質』)
と書いている。

この三大遊廓に長崎丸山を加えた譬えが、大坂新町細見の書『澪標』や西鶴の『好色一代男』にあり、
京島原の女郎に、江戸吉原の張りを持たせ、長崎丸山の衣装を着せ、大坂新町の揚屋にて遊びたし
と云うような文句で表現された。(『かくれさと苦界行』240p)

天明の頃の江戸遊所(てんめいのころのえどゆうしょ)

天明の頃は、けころ、比丘尼、出合茶屋抔とて、遊女町所々にあらざるなし、併も何れも繁昌して、御番士など明ケ番には、大手外に到れば、槍、挟箱等は束ねて手拭に絞り、供の者に任せて家に帰らしめ、主人は何れも遊女屋へ通しことにて、其頃吉原へ行は、敢て包み隠す事にてもあらず、途中同役などに逢ひても、今日は何の処へ参るなどゝ、互に公然と話合ひたるよし、寛政の御改革に至り、劃然と切り替り、武家の行跡正敷なりて、已前とは天地雲泥の事なりしといふ、(『五月雨草紙』)

色里関連

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編笠(あみがさ)

予が幼年の比は、猪牙船に乗る女郎買は、皆其船宿の家名を書たる編笠をかぶる、去に依て、宿々の店にはづらりと懸てあり、是は近き比迄ありしが、此ごろは見かけず、吉原も、大門前に編笠茶屋ありて、遊客、是を着て里へ這入る事なりしといふ、(『反古籠』)

色里用語の由来(いろさとようごのゆらい)

○今亡八屋が許に有て、遊女の事を取賄ふ者をキウといゝ、老婆をヤリテといふは金山詞なりといへるはさも有べし。金を掘けるさひの左をのみ手といゝ、右を槌手といふとなん。むかし遊女町の出来たる時分、金の出盛りたるにより都てかしこの詞多く遣ふ。よこはんなどみな金山詞なりとぞ。(小栗百万著『屠龍工随筆』)

この『屠龍工随筆』は、安永期(1770年代)の俳人小栗百万の著した随筆だが、考証された事実ではなく、当時言われていた俗論を述べたものと思われる。

浮世(うきよ)

広義には今様、当世の意味であるが、それから転じて好色の意ともなり、狭義には特に遊女を相手とする好色に用いられる。「浮世狂い」「浮世茶屋」「浮世駕篭」などは何れも狭義に用いられた例。(『好色五人女』補注)

おしげり

男女の交わり。性交を行う事。

『俚諺集覧』に、「男女のしめやかに物語するを、外よりおシゲリぢやといふ。しとやかにぬるると云意なるべし」とあるように、男女が寝床を共にしてしっぽり濡れるのを「おしげり」といった。芝居言葉ではこの語を避けて「ちぎる」という。舞台の上で「ちぎりやんせ」というのは吉原で「おしげりなんし」というのと同義である。このシゲルは「繁る」ではなく「陰雨(シケ)ル」であり、たっぷり時をかけ、着衣も蒲団も悉く霑うような男女の交わりを「おしげり」といった。(『吉原御免状』213)

後朝(きぬぎぬ)

元は「衣々」と云う意で、男女が翌朝それぞれの衣(きぬ)を着て別れることを云った。
『きぬぎぬ』という言葉は、奈良時代からあったといわれる。この場合の『きぬ』は『絹』ではなく『衣』である。
 しののめのほがらほがらとあげゆけば おのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集巻十三)
とあるように、『己がきぬぐぬ』を略してただ『きぬぎぬ』と呼んだ。奈良・平安時代の男女は、同衾する時、お互いの着物をぬいでそれを下に敷き、或は上に掛けた。二人分の衣(着物9を敷いて寝た男女は、朝起きるとそれぞれ自分の着物を着なければならない。それが『己がきぬぐぬ』であり、同時に男女の別れを意味するわけである。当時、男は女の体温と体臭の残った着物を着て、朝早く帰るわけだが、歩くうちにそのぬくもりも冷え、体臭もかすかになってゆくのを、はかなしと感じ嘆いたのであろう。それが本来の『きぬぎぬ』なる言葉の語感である。これに『後朝』という漢字をあてたのは、平安時代だといわれている。後朝の『後』は『アト』又は『オクレル』と訓ずる。従って『後朝』とは、男女が同衾したアトの朝か、そのためにオクレテ起きた朝か、どちらかの意であろうと思われる。

江戸時代になると、この言葉は、もっぱら遊女と朝帰りの客との別れに用いられることになった。男が女のもとに通う『通い婚』の形式が全くなくなり『嫁入り婚』が普遍化されたためである。こうして『後朝』という言葉は廓言葉の一つと見られるようになり、それにつれて、語感も変った。廓における『後朝』は、まさに傾城の正念場である。ここで確実に客の心をとらえておかなければ、客は二度と現れることはないだろう。だから遊女は、この『後朝』に、それこそ腕によりをかけて、客の心をとらえる手練手管を発揮した。(『吉原御免状』225‾226) 

後朝 (一)一夜共寝したる男女が、其翌朝各自に己のきぬを著て別るゝこと。(二)男女相會ひたる夜の翌朝。かへるあした。「―の使」。(『廣辭林』新訂版)

孔雀長屋(くじゃくながや) 

『吉原御免状』等に登場する幻斎(庄司甚右衛門)が住む場所に設定されている長屋。吉原の隣り田町にあったとされる。『浅草志』などでは、九尺長屋の訛ったものと云う。

孔雀長屋 日本堤より田町へ下る所、土手にそふたる長屋をいふ、これは本名にはあらず、田町の内なり、寛文の頃、此長屋の尻に、美麗なるむすめありしゆへ、孔雀の尻に玉あるに比して、孔雀長屋と呼来りしより、今は本名のごとくになりぬ、(『墨水消夏録』)

猪牙(ちょき)

猪牙舟。吉原への交通手段にこれを使う。多くは吉原に通うのに当初は馬にて通う客(馬道という名の起り)が多かったが、後になると四つ手駕篭という駕篭に替った。やがて船宿という今でいうとラブホテルが現れ、それへの通いに使った小舟が猪牙だったようだ。その小舟で大川を遡り吉原へも行くようになったと思われる。
猪牙の名は、ほっそりした形が猪の牙に似ているからだともいい、櫓をこぐ音がチョキチョキといったからだともいう。長吉という男が、房総から江戸に鮮魚を送るのに使う押送舟(おしょくりぶね)を真似て作り、長吉舟と呼んだ、それがなまったもの、という説もある。別名を山谷舟。本来銚子附近で漁師の使う快速船で、沖でとれた魚を料亭に運んだものだという。

猪牙舟は吃水が浅いため安定が悪く、乗り方が甚だ難しい。(『吉原御免状』85‾86) 

天保前、当世風の客は深川を良とするなり。特に吉原は江戸中央より道遠く、深川は近し。これに加へて、日本橋辺堀江町その他、諸町々の船宿へこれを招きて、酒宴も房事にも及ぶ。故に商家奉公の輩など書を投じてこれを召すに、深川遊女、芸者ともに、猪牙と云ふ小舟にて得意の船宿に来る故、客柳巷に行かずして自由す。吉原は外出能はざる故にこの行なし。(『守貞謾稿』) 

『好色一代男』に「浅草川の二挺立」と吉原通いの猪牙舟を表現する言葉がある。(『日本の古典17』注釈)

二挺立 

吉原通いの二挺櫓の猪牙船。吃水が浅く船足が早い小船で、定員二名。三挺櫓もあった。「立」は「だて」とも「だち」とも訓んだ例が見える。西鶴は「浅草川に近年かの里へかよひぶねをこしらへ、大かた櫓を二挺たてける也。此ちん弐匁五分、極めて目ふるうちにおしつけ侍る」(『新吉原つね/\〃草』上)と記すが、『吉原恋の道引』には、金竜山を終点として二挺立てでは、小石川水道橋・牛込吉祥寺あたり、浅草橋、新橋、京橋・木挽町崩れ橋/霊巌橋、両国橋から、それぞれ三匁五分、二匁、三匁五分、二匁五分、百文の船賃、両国橋から駒形まで一匁と記す。なお、同書には「よし吉原はそなたぞと、こがれよるべのなみに船、いとゞ心はうきにうき、此所(金竜山)に着きしかば、びんをなで襟を直し、塵はつかねども裾を払ひ、勇みて上る所ぞかし」と説く。(『好色一代男全注釈』)  

明暦年間(1655〜1657)記事 浅草見附前玉屋勘五兵衛、笹屋利兵衛といふ船宿にて、始めて猪牙船を製す。山谷通ひの輩これに乗る。又所々より白き馬に乗りて通ひしもありしなり。

均庭云ふ、猪牙船、こゝにいへるは「江戸砂子」の説なり。又一説もあれど、いづれもひが事なり。ちょき船悪所通ひに用ひそめし頃は、二挺立といへり。三挺立もあり。これら御停止にて、今は艫一挺なれども三挺の名は残れり。二挺も三挺も皆ちょき船にて、もと漁猟の船なり。正徳四年八月、深川猟師共願書を出す。そは此の度ちょき船御停止に就いてなり。元来ちょき船と申すは、猟船に御座候処、悪所通ひの船に借し候もの所々に出来申し候に付き、悪所船の名に罷り成り、猟師共家業之障に相成る可き旨、迷惑に存じ奉り候間、御訴訟申し上げ候云々と見えたり。(『武江年表』)

猪牙舟 吉原へ通ふ二挺立早舟、五郎兵衛といふ舟大工、はじめて此早舟を造、二挺ろの船頭は、此五郎兵衛が舟ならでは、用ひざりしとぞ、宝永中に、この二挺ろ停止となる、ちよき舟といふは、長吉舟の略語なり、押送舟の長吉といふもの、舟の形薬研のごとくにして、至て早し、此舟のつくりを考、浅草見附の勘五兵衛、両国橋のさおゝや利兵衛などいふもの、初て此舟を作る、今これを猪牙舟を作る、今これを猪牙舟といふ、(『墨水消夏録』)

猪牙舟に乗る人、昔は編笠をかぶりし也、今はなし、然れ共、今に船宿に編笠つるし有也、屋根船は世上に少し計り有しが、近年は多く出来る、昔より有来の屋形舟は、少くなりたる也、(『飛鳥川』)

○今江戸に猪牙舟とて早船あり。江陽屋形年譜に、天文十三甲辰年二月十日、江州ニ初テ早船ト云船ヲ造ラセラル、是軍ノ為ト也、舟ノナリ、剣頭ナリ、あるものは、此猪牙船の類ならんといへり。(『橘窓自語』)

○初編に江戸の猪牙舟のことをいひしが、此頃門人中野熊充の物語にいふやうは、猪牙とは好事の人、形をもて名を負せしにて、まことは長吉といふもの作りはじめたる故に、長吉舟といふべきを、猪牙とせしよしいへり。(『橘窓自語』)

○猪牙船 明暦のころ、両国橋笹屋利兵衛、見付の玉屋勘五兵衛といふものこれを作る、押送りの長吉といふもの、船を薬研のかたちに作り、魚荷を積て押に至てはやし、これを考へて作るもの也、長吉船といふべかりけるを、ちよき舟といへり近年猪牙の二字を用ゆ、猪牙に状似たるゆへか(『近代世事談』巻之二)

蟋蟀舟(きりぎりすふね) 

是は、二丁立の舟に、ちいさきおほひしたる舟をいふ、吉原通ひの舟なり、きり/\〃すと名づくるは、こぎ行とき、きり/\となる声あるを以、きり/\〃すと云、蟋蟀の別名をさせといふ、後拾遺集に、秋の虫のさせるふしなりと、古今の歌にも、つゞりさせてふとあるも、きり/\〃すにつゞりさせ、とよませたる也、きり/\〃すと名づけたるは、させといふ縁にてはなし、舟にさせといふ詞は、此舟の覆ひ小さく、乗にも出るにも、四つばひになりて出入す、ぐらり/\とふれ動きて、今水に入なりと思へば、あぶなき斗りにて、面白き事も遊山も、なにもかもなくなるゆへ、吉原がよひをふつゝと思ひきり/\〃す、といふこゝろなるべしと、然れども、下のすの字きこえず、又或人のいふ歌に、
きり/\〃す夜寒に秋のなるまゝに よはるゝ声の遠ざかり行
といふあり、そのごとく、夏の涼しき時は、此舟も繁昌すれど、秋風にはだ寒になれば、波もあらく、風まけもするゆへ、舟のかよひも遠ざかり行、といふこゝろなるべし、といへり、(『墨水消夏録』)

喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、猪牙舟、きりぎりす舟の記述あり、参照ください。

土手の道哲(どてのどうてつ)

土手の道哲。西方寺の別名。(台東区浅草6−36)

西方寺は関東大震災までこの地に有った(猿若町の北側)。吉原通いで通る山谷堀の吉野橋手前の土手下に有り、道行く遊客は土手下の西方寺を見下ろしながら通って行った。この西方寺の境内に庵を結び、処刑者や遊女の菩提を弔うために毎日念仏を唱える道心者がいて、その者の名が道哲であったことからこう呼ばれた。現在、山谷堀は埋め立てられて、山谷堀公園と名を変えているが、川の位置がそっくり緑道風の公園になっている。

浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4−8)に、道哲、高尾太夫の墓が有る。

道徹
菱川師宣が恋の道引に云、堤のかたわらに、いとかすかなる庵あり、これをいかにと問に、さりし明暦の頃より、道徹といひし道心者、世をむづかしとや思ひけん、所も多きに、爰に庵をなん結びてすみしが、二六時中にかねの声たへせず、ねぶつかすかに聞ゆと云々、紫のひともとに、土手のきわに道徹が寺あり、或本に、淋しきものは道徹がかねのこゑ、とあり、今はやる与作ぶしの小唄に、そつちでうて道徹、とうたふも此寺なりと云々、按るに、此時、門前刑罪場也、彼罪人仏果得達のために、昼夜の念仏したりしが、又其後、刑罪場小塚原に移さる、今に其寺を西方寺とはよばずして、衆人皆道徹といふ、かの道てつが墓は、開山念誉の墓とならびたり、塔の上に、かねをたゝく石像あり、今寺僧に尋るに、没年詳ならず、此寺に高尾が遺物あり、
高尾襟掛地蔵 銅仏立像、一寸八分、高尾守袋へ入し仏也、
同位牌 法号転誉妙身信女

同所持羽子板
右羽子板、表背ともに総金地模様、上下に鶴あり、中に松あり、墨蒔絵なり、右のかたに紅葉の紋、朱なり、裏に欒の実あたりたる跡あり、中の金具は後につけて、垂撥にしたるものなり、裏に春の字あるを以見れば、高尾の所持にあらざるに似たり、蓋春日野といひし名妓の所持なるべし、
又、此寺に高尾の墓あり、碑面に地蔵をほる、上に紅葉の紋あり、右に、転誉妙身信女、万治三庚子年十二月二十五日、左に、寒風にもろくもくづる紅葉哉、とあり、墓のうしろに紅葉の木あり、是は後世に立たる墓にて、高尾を葬し所にあらず、故に年月も相違せり、委春慶院の処にしるす、

[頭書]如道人いふ、世に伝ふる、仙台侯、三またの船中にて、高尾を手打にし給ふといふは、いつはりなり、仙台侯、薄雲といへる太夫がもとに通ひ給ひしこと一両度也、そのことを張皇して、放蕩の浮名をたゝせ、将軍家の首尾をあしざまになさんと、侯家の逆臣ども、土佐座の狂言にとりくませしとぞ、その狂言を三世二河白道といふ、足利頼兼の人形、竹に雀の紋所付たる衣裳をきせ、傾城を船にてさげ切にする所をせしとぞ、近来、高尾が首ながれよりしといふて、永代橋舟見番所のあき地に、小さきほこらをたて、紅葉の木などうへ、願をきくとて、無知の男女参詣す、わらふべき事也、と嵩斎ぬしのかたられき、(『墨水消夏録』)

比翼塚(ひよくづか)

情死あるいは後追い心中した男女をともに葬った塚。(『広辞苑』第二版)

翼を並べて飛ぶ鳥の様子を比翼といい、この言葉から二つ並んだ塚の形を形容するとともに、男女の睦まじい仲を譬える「比翼の鳥」という言葉から名付けられた。

吉原の遊女小紫は、馴染みの客となった平井権八と深い契りを結ぶが、権八は盗賊であったため捕えられ刑死する。やがて小紫は身請けされ出廓するが、里を出たその夜、宿を抜け出し権八の墓に行きそこで後追い心中した。委細を知った住民が、そのことを不憫に思い権八とともに葬り、その塚は目黒の比翼塚として、後々まで菩提を弔う人が絶えなかったという。

比翼の鳥(ひよくのとり) 

中国の伝説上の鳥で、雌雄各一目、一翼で常に一体となって飛ぶ鳥。(『広辞苑』第二版)と有るように、想像上の鳥で、『好色訓蒙図彙』上の「爾雅注」に「比翼鳥、鳧(かも)に似たり。目ひとつ、はがひ一つの鳥なり。夫婦身を合せて飛行なり。されば、刹那も離れず、ぎやうに深い中也。羽の色一鳥は蒼く、一鳥は赤しと」と説明されている。
また、白楽天の長恨歌に「天ニ在ラバ願ハクハ比翼ノ鳥ト作ラン、地ニ在ラバ願ハクハ連理ノ枝ト為ラン」と詠われている。因に「連理ノ枝」も、男女の契りが深い喩えで、「連理枝 もと一本にして、左右の枝中にてあひ、皮肉通りて連なれり。」と前掲書に有る。(『好色一代男全注釈』)

比翼連理

夫婦の深い契りのたとえ。ここから紫式部は『源氏物語』で「朝夕の言ぐさに、「羽をならべ、枝をかはさむ」と、契らせ給ひしに、かなはざりける、命の程ぞ、尽きせず恨めしき」(桐壺)と書いている。

色里の文化

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色里の三朝(いろさとのしょうがつ)

名残おしきは朱雀の細道と、夜あけがたより声おかしう唄ひつれて、きぬぎぬの酒、こゝなればこそ下戸を見ず、涙を置みやげにまたの首尾、さても命とかねとはあるものをや。そも/\傾城といふ事、ゆらいをかたるはまたふるし、いはねば聞へず、延年がなげぶしの唱歌に、「北方に佳人あり、一たび顧れば人の城をかたぶけ、ふたゝび買て見れば、人の家の五間や七間は」とうたひしより、此名はじまりけらし。もろこしには日本の熱田大明神のそれしやに生れ出給ひて、玄宗の腰をぬかし、我朝には白目大磯の虎・けはい坂の少将をはじめて、国々津々に恋の海山しげき人めは忍びて、美女に事を闕ずなりてより、恋こがれて人死なく、かのたぐひなき柳の枝に腰をさかせ、さかりの桜に顔の色つやをふくみ、榾くべたる梅が空焼に、肌の雪をなぞらへ、見るより消るばかりなるかたちに、紙尽の筆もとらず、気づくしの歌もよまず、機嫌とる媒をも頼まず、上は十を七つといふにひとつあまし、下は十九に二つたらぬ価に首尾なりて、錦京六の夜の物薫じわたる花を、ふら/\三筋二十五絃の糸竹に肝魂もちゞみあがり、すは安楽の浄刹におぼへずいたるかと有頂天に飛あがり、心は奈落にしづみはてゝ、そゞろ思ひのやるせなく、あさきながれに首たけはまり、飛鳥川とはよそにのみみて、我ばかり水底にをよぎわたりぬ。さありしより、人の親の心はくらきにあらねども、行末のあさまる道をはからず、世に憚の関もなく、羽束師(うづかし)の森の下露にそぼち、雨にぬれてはほとゝぎす、同じ枕にきかんたよりをねがひ、なれし我つまも等閑(なおざり)になり行、かぎりなき贅につゐに人をかたり、身をなげうちて筋めをよごし、あらぬ不祥をたくむ根なるをなげくも、いつくしみの垂乳根(たらちね)の心おしはかりていたまし。かきつゞればみな親仁の口まねするに似たれど、さにあらず、まづ初買のさだめ、過し年の事はじめより、それぞれかたがたの手組して、また初春の恋の咲所、松は千年の太夫、梅は時しる気色、なを此世あらんかぎりは/\。(『正月揃』)

この文を読むに、京島原の色里を現しているのだろうと思うのだが、何故にこれを「色里の正月」というのか私にはさっぱり分りませんでした。どなたかのご教授をいただければ有り難い。

花魁道中(おいらんどうちゅう)

江戸吉原の風物で、花魁が遊女屋から揚屋までの往復を供の者を引き連れて行列する様をいう。花魁道中というのは後世の言葉で、当時は「ぬめり道中」と云ったらしい。
遊女は江戸町の遊女屋から京町の揚屋へ、あるいは京町の遊女屋から江戸町の揚屋へと往来した。この往来を、江戸、京都間の旅になぞらえて、道中と呼んだのである。
道中は当然、遊女が自らの全盛を誇示するものであり、宣伝でもあった。従って花魁たちは、衣裳髪飾りなどの華かさは勿論、褄のとり方、足のふみ出し方など微細な点まで、独自の型を作ろうと努めたものである。

道中も時代によって異る。元吉原の頃は地味なものだった。新吉原に移ってもこの明暦頃にはまだ高下駄もなく草履である。最初に下駄を用いたのは享保年間、角町菱屋の芙蓉という遊女だという。道中が最も華美を尽した文化年間の模様を書いておこう。行列の先頭は遊女の定紋をつけた箱提灯を持つ若者。次に禿が二人。三枚がさね広袖の振袖。持物は一定しないが、例えば一人は人形、一人は守り刀。煙草盆と煙管。禿の次が太夫。四枚がさねの衣裳の裾を右手で握り、黒塗畳付三枚歯、高さ五、六寸の下駄。うしろから若い者が長柄(九尺以上)の定紋入り傘をさしかける。その後を新造二人。三枚がさねの衣裳。更に瀟洒な扮装のやりて。皮羽織を着た若い者と続く。こんな行列が幾組も仲の町をゆきかっていたのである。(『吉原御免状』102) 

ありんす国のシンボルは花魁道中である。花魁が全盛を誇示すると同時に、よい客を誘致する宣伝手段でもあった。花魁の本拠たる遊女屋から、仲之町の引手茶屋(太夫当時は揚屋)まで往復するのが普通である。時には茶屋へ立寄らず、仲之町をぐるりと一巡することもあった。
髪飾りや打掛の満艦飾もさることながら、特色はスローモーな歩きぶりである。道中には内八文字と外八文字があり、内八文字は半円をえがいて足を廻しこみ、外八文字は裾を外側へ蹴ると同時に、足を外輪から内側へ廻して一歩を踏む。内八文字が公卿の練足の転化なのに対して、外八文字は武家の闊達を模したもの。副産物として裾を蹴った拍子に、緋縮緬の内衣(やぐ)からまっ白な足首や、時にはふくらはぎまでチラリと見せ、卑猥な男どもを悩殺した。(稲垣史生『ありんす国深秘考』) 

「ぬめり道中」 内八文字で揚屋への往復をすること。道中の際、外八文字に踏み出すのを江戸風といい、内八文字に踏み出すのを島原風という。(『日本の古典17』注) 

此道中といへる事は、往古よりある事にて、太夫揚屋へ行に、大勢花やかに仕度してつきそひ行は、旅よそおひのこゝろにて、出立といふより道中といふ、門出にたつまといふ事あり、古来の事か、京町の遊女江戸町へかよひ、江戸町の遊女京町へ花やかに通ひ、出立ばへなぞといふ心よりいふ(『久夢日記』)

大寄(おおよせ)

座敷踊りともいい、大尽客の望みで揚屋の大座敷で行う遊女たちの総踊り。

「大寄といふ事あり。八朔まで諸方賑々しけれど、二日より秋のあはれを知る所を、花やかなる大臣ありて、揚屋座敷におゐて、廓中の隙なる女郎を残らず揚切りて集め、座敷踊有り。この花やかなる事筆にも及びがたし(『みをつくし』)。「往昔大よせ踊といふは、八月朔日より同十五日まで、客の尊卑により三五十人乃至七八十人、末に至りて五六人程づゝ日を約して、揚屋の座敷にて打込みに踊りを催し、二十人程づゝ入替り踊りをなす。出立ち地踊には、野郎帽子・さらし帷子、黒羅の羽織の裾を腰に巻付け、印籠・巾着、かいらぎなど指して踊り侍る。仕組踊は、十四五人廿人ほどづゝ、思ひ/\の物好奇の明衣なり。佐渡島伝八・金沢五平次等、その替へ手の風流を付け、今宵は何屋の大寄せ、翌日の夜は何屋と、毎夜毎夜の大寄せにて一夜も闕如なし」(『浪花青楼志』三)。(『好色一代男全注釈』)

廓詞(くるわことば)

吉原詞、新町詞など。

昔時、遊里にて遊女の使用せし特殊語、田舎出の遊女に田舎詞をつかはしめざるために定めしものといふ。(『廣辭林 新訂版』) 

新町詞 昔は江戸新吉原町の遊女語のごとく、諸国より抱へたる娼妓の生国の鄙言を隠すがために、一種の詞を造り、常言にこれを用ふなるべし。その言は江戸吉原詞と同じく、云ひますを「いゝなます」、「なされませ」を「なまし」、あるひは「なませ」と云ひしなり。余は吉原詞に准じてこれを略す。その証は、古き小唄に、上略、はやうとゞけてくんなませ、と新町詞で云ひなます、云々。この言を用ひず、市民と同言のみ。(『守貞謾稿』) 

【ありんす詞】(ありんすことば)

吉原の遊女達が使っていた言葉。

吉原詞 ある人曰く、当廓の娼妓、多くは北越の産なり。また江戸生れもあれども、所詮諸国より身を売り来たること故に、常の江戸詞にては、その移りがたきもあるなり。この故に一種の言語を製して、諸国の訛言より移りやすからしむと云へり。それ、「左様でござります」を「そうざます」、「いやでございます」を「いやざます」、「左やう御座りますか」を「そうざますか」、「云ひなされます」を「いゝなます」、「参りました」を「まいりんした」、「やりました」を「やりいんした」、「ありましやう」を「ありいんしやう」あるひは「ありいんす」。(『守貞謾稿』)

吉原の里ことばは「ありんす語」である。娑婆語とはだいぶ違う上に、通言雅語がまじるのでいよいよややこしい。「太鼓持ありんす国の通詞なり」は、里ことばのむつかしさを言っている。
ありんすの体言は「んす」で、「します」は「しんす」、「なさいます」は「なんす」、「です」は「ざんす」となる。また過去・未来・打消しは、「ありんした」、「ありんしょう」、「ありんせん」そして「行きんした」、「行きんしょう」、「行きんせん」などと変化する。文法上からは動詞の連用形について、謙遜ないし丁寧の意をあらわしている。ところが、必ずしもその原則どおりにはいかない。吉原の中の遊女屋毎に、さらに「しったか玉屋」「ざんす丁字屋」「おす松葉屋」など独特のことばがある。(稲垣史生『ありんす国深秘考』歴史読本1969年11月特大号)

諸分(しょわけ)

廓(さと)の諸分。色の諸分。 

廓(さと)の諸分では、床いそぎは最も軽蔑される行為の一つといわれる。(『花と火の帝』下119) 
「諸分」遊里や遊興に関しての種々の振舞い、しきたり、作法などをいう。(『日本の古典17』注釈) 

【色の諸分】(いろのしょわけ)

男女の道(『かくれさと苦界行』64)
『色の諸訳』とは掟でも定めでもない。そう志すことだけだというのだった。そういう眼で、男と女を見れば『色の諸訳』は自然に分って来るものである。ただそれには素質がいる。天性の素質がなくては色道を極めることは出来ない。(『かくれさと苦界行』66)

菅垣(すががき)

清掻とも書く。遊女屋の営業を告げる三味線の連弾。間断無く続く「すががき」の音色は吉原の街の音といっても良い。清掻という文字から本来は唄を唄わないものを云うのだが、吉原の「みせすががき」には唄を付けたものもあったようだ。

三味線は、所謂『みせすががき』であり、吉原の夜の世界の開幕を告げるものだった。
清掻の清は、素謡の素で、掻は、古くは琵琶を掻き鳴らすことだったが、後には唄を唱わずに、弦楽器のみを奏するのを、すべて、すががき、という。夕刻、遊女たちの身支度が終ると、店の者が神棚に柏手をうち、縁起棚の鈴をならす。それをきっかけに、新造が、三味線をもって神前に並び、弾きはじめる。この三味線の中を、遊女は二階から降りて来て、見世に並ぶ。これが張り見世である。後世、吉原芸者が現れると、彼女たちが、この清掻を弾くことになる。清掻は、営業が終るまで、つまり引け四つ(夜十二時)まで、間断なく弾かれていた。(『吉原御免状』15)

吉原は『すががき』の三味線の音に満ちていた。この寛永十七年という年から、吉原は夜の商いを禁止されている。昼遊びだけに限られたのである。それは吉原の繁盛ぶりを示すものだった。いかに『御免色里』とはいえ、いや、それだからこそ尚更、世に悪所と呼ばれる場所があんまり栄っては、公儀としては不都合だったのであろう。その結果、これまでは日の落ちる頃から弾きはじめ、日暮の象徴のような匂いを持っていた『すががき』を、日がな一日、弾きづめに弾くようになったのである。うわべは騒々しいようで、底にそこはかとない淋しさを漂わせたこの曲は、八月の残暑を吹き払うような効果を持っていた。(『死ぬことと見つけたり』上326) 

菅垣 吉原町見世女郎ども黄昏に至り、夜見世を張る時、内芸者ある家にては内芸者の役とし、これなき家には新造の役として三絃を、見世の敷居際にて繁絃するを、今世の「すがゞき」と云ふ。故に夜見世をしらす菅垣など云ひて、これを弾くを合図に見世女郎ども上妓より次第に出で来たり、見世に列坐するなり。正面を上妓とし、左右を下妓・新造の坐とす。この時、内証と云ひて、主人の棲む席の隔てに簾を下し鈴を鳴らすなり。簾を下して障子を開くなり。その次すがゞき。
『声曲類纂』に曰く、清撹と書きてすがゞきと訓ず。和琴に云ふ所なり。あるひは菅垣とも書す。『源氏物語』に、吾妻をすがゞきてなど見へたり。すがゞきは清掻にて、唱歌なく曲を掻きならす手事を云ふか。昔の盲人、和琴の清掻を転じて三味線の手ごとに移したるを、また略して弾きたるが、吉原にのみ残れるにやあらん、と醒々翁は云へり。寛文梓行の『糸竹初心集』、また元禄印行の『大ぬさ』に、すがゞきの引きやうあり。繁ければ戴せず。同書に、二上りすがゞき、江戸すがゞき、三谷すがゞきとてありと記せり。按ずるに、尺八の笛にもすがゞきの曲あり。『宗固随筆』尺八の条下に、すがゞきは、近世、乱曲を号けて然云ふとあり。
今も吉原の菅垣は、家ごとにその曲大同小異ありといへども、皆各繁絃にて唄はなく、同じことをくり返し引くなり。(『守貞謾稿』) 

昔時、江戸吉原にて、遊女の見世に出づる時、其合図に弾きし曲。みせすががき。(『廣辭林 新訂版』)

[すがゝき]清掻と書てすがゝきと訓ず、和琴に所レ言、源氏物語にあづまをすがゝきて、など見えたり、すがゝきは清掻にて、唱歌なく曲を掻鳴す手事を云歟、昔の盲法師等、和琴の清掻を転じて三絃の手事に写したるを、又略して弾たるが、吉原に残れるならん、吉原大全に、元吉原の頃の小歌「道のほとりの二もと柳」、又「白き馬にめしたるとのご」などいふを、新吉原に移りし頃も専ら唄ひて、合の手にすがゝきのみひきし由を記す、京島原のなげぶし、大坂新町のまがきぶし、江戸吉原のつぎぶし、是を音曲の三名物とせし由、みをつくしに見えたり、(『大尽舞考証』)

三味線(しゃみせん)

江戸時代の遊郭に欠かせぬ音色といえば三味線の音色だろう。この三味線について、詳しくは古典音楽の項を設けた時に詳述したいが、ここではその由来などを簡単に紹介してみよう。
三味線は、もともと西域に起こり、日本へは中国から琉球を経て渡来したものと考えられている。わが国へ伝来してからは、様々な改良が加えられ、今日日本を代表する民族楽器の一つになった。
この渡来説には異説が多いが、永禄五年(1562)、琉球から渡来したといわれるのが有力な説となっている。これは蛇の皮を張った二絃だったが、和泉国堺の中小路という琵琶法師がこれを三絃とした。さらに撥も琵琶用の大きなもので胴面を強く押さえて弾く琵琶方式だったことから、蛇の皮では破れやすく、またそれに張るような大きな蛇がいないことなどから、犬や猫の皮に変えたという。
当初は三絃ということから、中国の楽器「三絃」(さんげん)と同音で呼ばれるが、それが三線であることから、「さんせん」「しゃむせん」「さみせん」などと呼ばれることで「しゃみせん」という言葉になり、日本独特の楽器となった。子どもの言葉の「ぺんぺん」も俗語として通用している。
大きさ、皮の厚さと張り方、撥の大きさ、重さなどで用途も分化され、また、太棹・中棹・細棹と大別され、おのおのその演じられるものによって使い分けられる。
一説に、文禄年間(1592〜6)に琵琶法師の石村検校が琉球に渡り、小弓(胡弓)を習得し、帰国してこれを改良して三味線を作ったとも言われている。(『日本なんでもはじめ』)

◯三味線始めて本邦に渡りしは、永禄の頃にして、泉州堺の津へ渡り、瞽者中小路といふもの弾き弘めたりといふ。世上にて一般に弄べるは、元和寛永の頃なるべし。
均庭云ふ、三味線行はれしは慶長頃は一斑と見えたり。然らばやゝ広まりたらんは、猶文禄前と知るべし。

俄狂言(にわかきょうげん)

○吉原、毎秋八月に俄狂言の事、茶屋桐屋伊兵衛と云者あり、今現世せり、此者、歌舞伎役者の真似を好り、安永、天明の頃にや、角町遊女屋中万字やといふ同気相求め、二三人寄合けるが、或時風と思ひ付て、俄に狂言をこしらへ、中の町を往返しけるに、遊客共見物して、是は風流也、面白し、と評判しけるにより、彼等も乗が来て、夫より引続て二三日も、狂言の趣向を、取替、引替して中の町を往返し、楽けり、これ俄狂言の始にて、段々増長し、毎秋の定例に成しと也、(小川顕道『塵塚談』)

張り(はり)

主に吉原の太夫が矜持とし、誇りとしたが、時代が下がるにつれ太夫が居なくなると共に、そうした気風も無くなったという。

『太夫は情けに生きる』というのは、この意味であり、吉原の太夫の『張り』とは、この情けの世界、人を人として認め合う精神の世界に入って来ない者は、断固として拒絶するという姿勢を云う。己れの美貌や技芸を誇り、いたずらに傲り高ぶるのを『張り』と思い込んでいるお小夜の間違いはそこにあった。(『かくれさと苦界行』) 

意気張と云ふこと 江戸の遊女は強ひて金銭に泥まず、見識を専らとするを良とす。古き俚言にも、京の女郎に長崎の衣裳を着せ、江戸の張りを持たせ、大坂の揚屋に遊びたしと云ふことあり。女は京を良とし、衣は長さき、青楼家作は大坂美観とし、江戸はいきばりを専らとすること、他に勝れたるより云へることなり。仙台侯、三浦の高尾を見受ありしかど、金に動かず有約の男に貞を建つるにより、卒に三派にて下げ斬りとなること、世人の知る所なり。おほよそ江戸娼女の意、かくのごとくなりしが、やうやくその風も衰へ、天保前は深川の娼妓意気ばりを専らとせり。これも天保に絶えて、今は江戸に張りある遊女はなはだ稀なり。(『守貞謾稿』)

因みに云ふ、三都ともに遊女の心に応ぜざる客あれば、あるひは断りて見へず、あるひは同床すれども病気などに矯けて房事を聴さず。これを「ふる」あるいは「ふりつける」と云ふなり。京阪には稀なり。昔は吉原遊女、張り強く心に応ぜず、または気障と云ひて何か心に脇はざるふるまひ等あれば、しば/\ふりしなり。近年は張り弱く、ふること稀なり。深川等の遊女、近世も張り強く、いささかのことにも心に応ぜざれば、ふりしなり。(『守貞謾稿』) 

遊女「瀬川」にみる『張り』

当時、常磐津文字太夫という浄瑠璃語りがあった。瀬川に前から思いを懸けていたが、中々に逢うことが出来ず。よって、揚屋町の男に頼んで、一夜の逢瀬をはからって貰った。揚屋町の男から、懇々と頼まれた瀬川は、それ程に思っていて下さるなら、芸人浄瑠璃語りなどには勤める身にても枕をかわさぬのが、里の習いではあるけれども、お逢い致しましょうと答えた。
早速、夜になると、彼の文字太夫、一世の綺羅をかざり、茶屋船、宿たいこを引きつれて、松葉屋の客となった。やがて、瀬川は座について、盃の応酬みだれた頃、瀬川は文字太夫に浄瑠璃を望んだ。文字太夫は、嬉しくなって声はり上げて、瀬川に気に入られたいばかりに、精を出して語った。瀬川は、禿に云って、目録金子千疋台にのせ、文字太夫の前に置き「今宵は御大儀でした。これは些かの御礼心です、御酒などおあがり下さいます様」と云い捨て二階から下へ静かに下りたという。一片の遊女の意気は、浄瑠璃語りの浮気心を冷殺してしまったのだ。(『江戸時代の猥談』)

○京の女臈に長崎の衣装を着せ、江戸の張を持せ、大坂の揚屋にて遊びたひと、古き俚言也、仙台侯、三浦屋の高尾を身請し、召連給ふに、申しかわせし男へ操を立て、侯に従はざりしかば、浅草川三派に於て、船中よりさげ截にし給ふ、あまねく人の知れる事也、又七十年程已前、豊後節語り文字太夫といふ有、手跡なども俗筆にあらず、名筆にて有けり、三芝居にて専ら用ひられ、贔屓の人も多し、或時、吉原へ人々を具して、上通りの女臈を買て、我知り顔にて居たり、女臈暫く有て、文字太夫なるを知り、座席をはづし、金子千疋台にすへ、少しながら御肴にあげ候、ゆる/\御遊なされ、と禿に為レ持出し、其身は出ず、馳走しけるとかや、流石の浄瑠璃語りなれど、赤面し立帰しと也、其頃専らの沙汰にて有し、都て上通りの遊女屋は、歌舞伎河原者には女臈を決てうらぬ定法也、又何節によらず、芝居へ出る浄瑠璃語りを呼てかたらするには、金弐両弐分定りし価也、かく吉原の女郎は意地強かりしが、今世は、金銀をつかふものを上客とし、御鬚の塵をとる由也、(小川顕道『塵塚談』)

【意気】(いき) 

いき路ともいふ、路はいきの道すぢの心也、又助語なり、いきのよしあしは、尋常にもいふべけれど、先当道を本とす、心いきのよしあし也、心のいさぎよきを、いきよしといひ、心のむさきを、いきのわるき抔いふ、又、心のたけたると、初心なるをいふにも、かよふ也、(『色道大鏡』巻第一)

奉納踊り(ほうのうおどり)

長崎丸山で、禿が一人前の遊女になるときに行われた行事。

諏訪神社の祭礼に能を舞うとは、禿が一人前の傾城になることだった。祭礼は九月七日、九日の両日だが、丸山・寄合町の両傾城町では六月中に早くも踊りの準備に入る。町をあげての踊り奉納があるからだ。但しこれは謡曲能の曲舞ではない。この能は撰ばれた者だけがつとめる。寛永十一年、高尾と音羽という傾城が諏訪社の広前で舞ったのを嚆矢とするという。
傾城町では各町ごとに小屋掛けの稽古場を急設し、ここに踊りの師匠を招き、あんにょう、禿などを稽古に通わせた。これを『小屋入り』と云う。小屋入りは六月から八月一杯続くのである。丁度暑いさかりに御苦労なことだが、奉納踊りは各町ごとに組になって行われるので、当然、芸と衣裳を競うことになる。負けられぬ勝負だった。女たちも気を入れたし、傾城町は俄かに活気づき、おのずと客も集るという仕組だった。(『死ぬことと見つけたり』下47)

色里の風習

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新吉原の衣服(しんよしわらのいふく)

○新吉原遊女衣服の事、延享、寛延の頃迄は、紗綾、縮緬、羽二重を着し、中の町へ出る、これを道中といふ、衣服も品々ありて、毎日取替着し、同じ衣類は決して着ざりしと也、扨、多葉粉を少しヅゝ紙につゝみ、禿に数多く持せ、茶屋にて一服のみ、残りは其儘茶屋に指置て立也、立寄茶屋毎に左の如し、故に中の町茶屋共、右多葉粉にて、一年中、多葉粉求る事なしと也、然るに、遊女共、三四十年以来、羽二重、紗綾等は更に用ひず、錦繍の如き美服を着る事に成ぬれど、たゞ一ツにして、中の町へ出るに、毎日同じ物を着し、着替は一ツも持ざる由也、たばこなども高価の物を用ゆれど、少しも人にのまする事なし、時勢の然らしむる人情、斯いやしくなれり、(小川顕道『塵塚談』)

接客・給仕(せっきゃく・きゅうじ)

江戸幕府設立当初、江戸はまだ男たちの町で、教養・才知があり気の利いた美しい女性は庄司甚右衛門の作った御免色里吉原にしかいなかった。そのため幕府は、評定の席などでそれらの女性に接客・給仕をさせるため、吉原に遊女の提供を求めた。

「三一 評定所に遊女
 評定所は徳川幕府の最高等法院で、老中および寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行らが、最も重大なる訴訟を評議裁判する所であった。
 「棠蔭秘鑑(とういんひかん)」に拠れば、評定寄合(ひょうじょうよりあい)は、寛永八年二月二日、町奉行島田弾正忠の邸宅に、老中が集会して、公事(くじ)の評定をしたに始まったようである。その後ちは、酒井雅楽頭(うたのかみ)、酒井讃岐守、並に老中の邸で会議を開いたのであったが、寛永十二年十一月十日に評定衆の任命があり、同じ年の十二月二日からは評定所で会議を開き、それより毎月二日、十二日、二十二日をもって評議の式日と定めた。
 「甲子夜話(かつしやわ)」に依れば、評定所の起原は、国初の頃、町中に何か訴訟事がある時に、老職以下諸役人の出席を乞うて、裁許を願うたのに始ったのである。この当時は、上述のように私人より願うて評定してもらったから、食物なども皆町中より持運び、また役人たちの給仕には、皆遊女を用いたのであった。しかるに、その後ち官家の制度も漸々(ぜんぜん)と具備するようになり、官から評定所を建築し、飲饌(いんせん)も出し、給仕には御城の坊主を用いるようになったのである。また遊女を評定所へ出す際には、船に乗せて往来させたのであったが、その船には屋根がなくて、夏は甚だ暑いから、その船に屋根を造る事を願い出でて許されたのである。屋根船はこれから始まった。また遊女のことを「サンチャ」と称していたから、屋根船は旧(ふる)くは「サンチャ船」というたそうである。しかし現今では、この名称を知る人は稀になった。また評定所の傍の岸に、船を着ける場所があって、そこを「吉原ガンギ」というたのは、昔遊女の船を繋(つな)いだ処だからだという。(当時の吉原は、現今の数寄屋町にあったそうだ。)
 この話にあるように、神聖なる最高法院の給仕に遊女を出したのは、現今の考えからは殆んど信じ得られない事であるが、当時の遊女に対する考えは現今とは全く異なっておった。
 遊女を評定所の給仕として差出したことについて「異本洞房語園」に次の如く記している。

吉原開基の砌(みぎり)より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ太夫遊女三人宛(ずつ)、御給仕に上りし也。此事由緒故実も有る事にやと、或とき予が老父良鉄に尋ねとひしに、良鉄が申けるは、慥(たしか)に此故とは申難きことなれども、私(ひそか)に是を考へ思ふに、扨(さて)御奉行と申(もうす)は日々に諸方の公事訴訟を御裁判被レ成、御政務の御事繁く、平人と違ひ、年中に私の御暇有る事稀也、然ども遊女などの艶色を御覧の為にはあらざれ共、遊女はもと白拍子(しらびょうし)なり、されば御評定所の御会日の節、白拍子などを御給仕に御召あり、公事御裁許以後、一曲ひとかなでをも被2仰付1、 御慰に備へられん為に、上様より被2仰付1しものか云々。

まさか「天下の政道を取捌(さば)く決断所での琴三味線」「自分のなぐさみ気ばらしをやらるる」重忠様もなかったであろう。(穂積陳重『法窓夜話』)」

八朔の雪(はっさくのゆき)

吉原の太夫が八朔に白無垢を着るようになった由来は、諸説あるが、師の「宮中の上臈を真似たもの」という資料は、今の所未見。詳しい方のご教示を請う。

また遊女は『八朔の雪』と称して、八月一日に裏のついた白無垢を着るならわしだが、これも宮中の上臈を真似たものだ。(『吉原御免状』106) 

八朔 中の町へ出る女郎は、皆々上著白むくを著す、古事也、元禄年中にはじまる、巴や源右衛門方の高橋と云太夫、其比瘧を煩ひ居たりしが、揚屋へ出るとて、白きむくを著たりし姿風情成りとて、高橋が手柄也。(『北里年中行事』) 

洞房語園。巻三曰、吉原の遊女ども、八朔には白小袖を著事、古来は五月五日は染地の袷、八朔には白き袷をきたり、寛文の始に新町宗玉と云者の家に、夕霧と云る太夫嗜能女にて、端午・八朔共に小袖と袷と二通りづつ仕置けり、ひととせの八朔に、けしからず寒きことありしに、他の女郎は袷を著したるに、夕霧は寒き折から相応に白小袖をきたり、夫故に外の女郎より見分よく相見たり、他の女郎是をみて、夕霧にまけじとて、翌年は八朔に残暑といへども、何も綿を入、小袖に仕置たり、其上薄く綿の入し小袖は、袷より取形もよく見ゆる故、今に止ずして、汗を流しながらも小袖をきる事、彼夕霧にならひてなり。
美成云、吉原大全巻四・吉原年中行事巻下等には、八朔白小袖をきるよしは、元禄の比高橋といへる太夫の瘧をやみて居けるに、深き客の、八朔役目のやくそくにて来りしゆへ、うちふし居ける白むくのまゝ、あけや入しける体のよきにならひて、流例となれるよしいへど、あやまりなり。(『民間時令 巻之三』) 

元禄年間記事 ○吉原の遊女八朔に白無垢を着する事、元禄中江戸町壱丁目巴屋源右衛門が抱へ高橋といへる太夫、その頃瘧(おこり)をわづらひ居けるが、馴染の客来りし時、臥せ居ける白むくの儘にして、揚屋入りしける容の艶なりしより、是れを真似て八朔には一般に白むくを着る事になりし由、「花街大全」にいへり(思ふに、昔の遊女に、米島丹後守、出来島長門守抔名のりしもの有り。是れ等のともがら武家の例に事よせ、八朔に白き衣裳を着したるか、尚考ふ可し)。(『武江年表』1)

【八朔】(はっさく) 

陰暦八月一日(朔日)の称、徳川時代に、家康の江戸入国の当日として祝日と定め、農家にては、初めて当年の穀を収むる日にして、田実の節句として祝ひたり。(『廣辭林』新訂版)この日、贈答をして祝う習俗がある。(『広辞苑』第二版)

吾国ノ俗、八月朔日ヲ祝シテ佳節トス。ソノ始サダカナラズ。諸書ニ説トコロ一定シガタシ。サレドモ北条家ノ比ニ起シコトト見ユ。ヨリテオモフニ、後宇多帝ノ弘安中ニ、蒙古襲ヒ来リシヲ、八月朔日ニコレヲ敗リシカバ、コトニ祝セシモノナランカ。又天正十八年北条氏滅ビシ後、将軍家江戸ノ城ヘ移ラセ玉ヒシ故ニ、元日トヒトシク賀スルコトニハナリヌ。又毎月廿八日ヲ朔望ト同ジク祝シテ、俗ニ三日トナヘルコトモ、三河ノ国ニ御坐マセシトキ、諸臣ノ中親鸞宗ノ人多カリシカバ、彼寺ヘ参詣ノオコリヲモツテ、拝謁スル輩アリシ故ニ、ツイニ流例トナリシ由ヲ承ル。スベテモノゝ始リハ、サセルコトナキゾ多カリ。(松本愚山『清夏雑職』)

当日、将軍は白帷子に長袴をつけて白書院、大広間に出で、御三家以下、譜代、外様の諸大名およびそれ以下の旗本、諸役人、御用達町人、それに天領諸都市の由緒ある町人代表の祝賀をうけた。惣出仕で登城する諸大名らも、すべて白帷子に長袴という白ずくめの服装であった。
八朔の祝賀に参加が許されることは、江戸時代の町人には絶大な名誉であり、特権であった。これを取り締り、世話する地位を与えられていたのは、御用達呉服師の豪商茶屋四郎次郎家であった。
江戸城の風習が移ったのであろうか、江戸隋一の歓楽街吉原でも、八朔には白装束の「おいらん道中」がおこなわれ、白小袖をきたきらびやかなおいらんが、廓内の仲ノ町を練り歩いた。(村井益男『江戸城』)

花(はな)

色町では祝儀のことを「花」という。

『色道大鏡』二、寛文格、遊客参会法によれば「郭中にて花出す事、いつ/\と時分ありて定りたる事にあらず。只度は繁くして分量多きには如かず、されども臨時の花の出し様には、さま/\〃子細あり。伝へを受けて知るべし。(略)当道の花を散らすには、いづれの時にても金子を用ゆ。銀壱枚以下の事には、堅く白銀を制す。壱枚遣はすべきにも金三歩を用ゆる心ばへよし。」とある。(『色道小鏡』注)

引け四ツ(ひけよつ)

当時、江戸では寺等の鐘の音と、それに合せて各町々で拍子木を打って廻り、人々に時を告げていた。しかし吉原では四ツ時(午後十時)までの営業しか許されていなかったため、正規の時刻に拍子木を打たず、九ツ時(午前零時)に四ツ時の拍子木を打った。これを引け四ツと云い、吉原だけの時刻となっていた。また、この浅草寺の九ツの鐘を『元禄太平記』によれば「追出しの鐘」と云ったようだ。

真実、拍子木の音が変った。正九ツの拍子木である。
「前のが引け四ツ。今のを鐘四ツ、又は大引けと云う」(『吉原御免状』36) 

「引ケ四ツ、鐘四ツといふ事、外になき事也、
夜四ツ時の鐘は拍子木を打ず、是を鐘四ツと云、九ツ時の時、四ツの拍子木を打、夜みせを引、是を引ケ四ツといふ也(『浅草志』)」

上記『浅草志』の記述と、師が幻斎に言わせている文では鐘四ツの扱いが違っている。これは『浅草志』の記述が正しく、師の文が間違いであると思われる。

『歴史用語の基礎知識』「時」の項参照。

紋日(もんび)

五節句の祝日を云う。主に遊廓などで使われた。

紋日 『洞房語園』に曰く。紋日、小袖の紋は五所なれば、五節句を小袖の紋に准へて、節句祝の日を紋日と云ふよし。(『守貞謾稿』) 

◎吉原にて紋日といへる訳

同書(「北女閭起源」)に云ふ、紋日とは小袖の紋処は五所なれば、五節句を小袖の紋になぞらへて、節句祝ひ日の日を紋日と云ふ、吉原にて紋日を略してモノ日と云ふ、紋日とは京の言葉なり(『俗事百工起源』)

遊里の祝日。遊女はこの日必ず客を迎えねばならなかった。(『日本の古典17』注釈) 

遊廓などにて、衣服を着替へ盛装する祝日。ものび。(『廣辭林』新訂版)

物日 毎月傾城の売日をいふ、

紋日 同、物日の事なり、家々の紋のやうに定たる事なるに依て、紋日といふ、(『色道大鏡』巻第一)

色里の風俗

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越中褌(えっちゅうふんどし)

大坂新町の遊女越中が馴染みの客に作ったことから、その下着を越中褌と称するようになったといわれる。
しかし、喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、

「『みをつくし』(大坂の遊所細見)、「延宝年中木村や又次郎抱へ越中といへる大夫裕。ある時あげやにて我相方の客風呂へ入らむとせし時、下帯迄はづして入らむとせしかば、姿見苦とて俄に思ひ付、湯具の緋ぢりめんの二布をときはなし、それに紐付て与へしより此風を越中ふんどしと云。越中国より始りしとは大なる俗説なり」といへるも又俗説と聞ゆ。」とあり、『茶事指月集』『歌林雑話』の文を引用して、延宝年中より古くからその体裁はあったと述べている。

勝山結(かつやまゆい)

当時流行した髪型。花魁道中で外八文字を広めたのも勝山で、遊女勝山は今で云うファッションリーダー的存在だったようだ。

同書に(『北女閭起源』)に云ふ。宝永三年より十一月十一日玄猪の紋日に始て勝山出たり、其時の髪の風よければ今も是を襲ふ。今は上々方迄も此の髪の風なれりと云ふ。
政運が云ふ。勝山結の其の初は、勝山は猛きに恐れぬ気性なれば、其頃の男達放駒四郎兵衛、勝山の揚屋いりの心にくさよ、驚かせ肝を冷やさせ呉んと、氷の如き刀を抜、大夫如何にと切つくるに、切先かうべの上に閃き、島田髷の元結を切ければ髷のいちひらけたり、勝山少しも驚きたる風情もなく、仰山な御方とばかり云ひて見向もせねば、流石の放駒も舌をまきて恐ける、是より島田髷のひらけしを勝山風といふと云々。(『俗事百工起源』) 

婦人の髪の結い方、今の丸髷の前形、承応の頃、江戸吉原の妓女勝山の結ひしに始まるといふ。(『廣辭林』新訂版)

勝山髷 勝山仙州はじめて結しより流行、(或説に曰、江戸吉原巴屋勝山と云女郎始むとも云)(『近来見聞噺の苗』)

とあり、一説には勝山仙州という歌舞妓の女形が結ったのが広まったともいう。この『近来見聞噺の笛』は、大坂の戯作者暁鐘成(木村弥四郎)の著で、享和より文化に至る浪華の異事珍説を記したもの。

○勝山結 女の髪に此結やうあり、元禄の頃、吉原巴屋の勝山といふ女、ゆひはじめしなり。又島田といふ風は、東海道島田の宿の女、此風を常にゆひける、それゆへに此名ありといへり、詳ならず 傍注:島田髷は歌舞妓役者島田万吉始むといふ(『近代世事談』巻之五)

島田結(しまだゆい)

島田髷。遊女の髪型の一つ。

◎島田結のはじめ
同書(「北女閭起源」)に云ふ、島田と云ふ髪の風は、寛永年京都四条にて、歌舞妓の者島田甚吉と云ふ者あり、舞子の結び初たる事とぞ(『俗事百工起源』) 
【なげ島田】(なげしまだ) 
島田髷を後へ倒れるように反らした当時(天和ー貞享頃)流行の派手な髪風。(『好色五人女』校注)

丹前(たんぜん)

丹前風呂、丹前勝山。紀伊国屋風呂などの風呂屋が堀丹後守の屋敷前にあったことから、その風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女だった勝山を丹前勝山と云った。

今の神田佐柄木町・雉子町の続きに堀丹後守の邸前に風呂屋多くあり。各々美女を抱へて浴客の垢をすり、また髪を梳くを名として、その実売色を専らとす。丹州邸前を中略して、世人方言して丹前と云ふ。(『守貞謾稿』)

「丹前風」江戸神田松平丹後守の邸前にあった風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女勝山の風をまねておこった風俗。また丹前風呂へ通う「かぶき」者の風俗をもいう。(『日本の古典17』注釈) 

「たんぜん」は江戸時代の道楽者や侠客の間に流行した冬着の一種で、「褞袍(どてら)」ともいう。承応・明暦(1652〜8)のころ、江戸・神田佐柄木町の堀丹後守邸の前に有名な町風呂屋があって多くの美人の湯女を抱え、昼は浴客の身体を流し、日が暮れると上の場び座敷をかまえて客を接待した。この風呂屋を、丹後守の邸の前にあることから「丹後殿前風呂」、略して「丹前風呂」と呼んだ。この丹前風呂の勝山という湯女が、髪を白元結で片まげの伊達風に結び、編笠に裏つきの袴をつけ木太刀の大小を差したいでたちが、丹前の勝山ともてはやされ、その姿を「丹前」といった。丹前風呂の浴客は、綿入れの広袖の衣を着物の上に引っかけ、その上に帯をしめて出入りしたことから、その広袖の着物まで「丹前」と呼ぶようになった。(『日本なんでもはじめ』) 

昔松平丹後守上屋敷前に、町屋風呂屋おびたゞしく有、美麗を尽し、風呂女とて遊女多く有しが、貴賤諸人入込み、度々喧嘩口論有レ之故、御法度に成しとかや、其時よろづ風呂へかよふ歌舞妓どもを、異名に丹前と云、丹後守前と云心なり、今に何にゝも伊達道具を丹前といふ、是よりの事成よし、(『むかしむかし物語』) 

寛永年間(1624〜1643)記事 寛永の頃まで神田佐柄木町、雉子町の続きに、堀丹後守殿御屋敷あり。丹後殿前といふを略して丹前といふ。此の辺風呂屋多く、美麗なる湯女もありて、こゝに遊びける若人等のさまを、歌舞妓に学びて丹前風といひし事、諸書に見えたれば爰に略しつ(堀家の御やしき、寛永の末正保の頃、下谷へ引移りたり。承応の江戸図には、既に戸田侯の御やしきに改りたり)。(『武江年表』)

「抑丹前風と申は、江戸にて丹後殿前に、風呂ありし時、勝山といへるおんな、すぐれて、情もふかく、髪かたち、とりなり、袖口広く、つま高く、万に付て、世の人に替りて、一流是よりはじめて、後はもてはやして、吉原にしゆつせして、不思議の御かたにまでそひぶし、ためしなき女の侍り。」(『好色一代男』)

○丹前風 丹前風呂の湯女勝山の特殊な風俗から起こった、伊達闊達な風俗をいう。「昔は、松平丹後守屋敷前に、町屋風呂有り。美麗を尽し、風呂女とて遊女これ有り。諸人入り込み、喧嘩たび/\故、御法度に成る。その時、風呂屋へ通ふかぶき者ども、異名に丹前へかゝる人といふ。これよりの事のよし」(『八十翁昔かたり』)によれば、この風呂に通う客の風俗をも、丹前といったのである。「見たてまつれば、をのをのも丹前風とやらん云ひて、刀・脇差・月代までも、古へに違ひてせらるゝと見えたり」(『理非鑑』下)、「彼の町や昔は風呂の花たりしが (四)友 小歌に忍ぶ丹前の春 (似)春」(『山の端千句』上)の用例を見れば、その両者を合わせて丹前風と称した。

○丹後守殿前 堀丹後守殿(越後村上城主、禄高十万石)屋敷前の略称で、さらに略して丹前ともいった。その所在地は神田四軒町(現千代田区神田淡路町辺)にあった。(真山氏)(『好色一代男全注釈』)

丹前節(たんぜんぶし) 

系図0.jpg小歌の一つで「丹前」ともいう。丹前風呂の一つ桔梗風呂の湯女吉野が元祖といい、その弟子に紀伊国風呂の市野、勝山などがいる。


土手節(どてぶし)

吉原通いの遊客が口ずさんだ小唄。待乳節ともいった。

投節(なげぶし) 

明暦頃に京島原の柏屋又十郎抱えの遊女「河内」が唄い始めたとされる。唄の終りを投げるように「やん」と歌い捨てるのでこの名称がついたといわれる。

元禄年間記事 ○一蝶が作の朝妻船、しのゝめ一名かやつり草、などいふ小唄流行。投節小うた、上方よりはやり出す。(『武江年表』)

兵庫結(ひょうごゆい)

兵庫髷。遊女の髪型の一つ。

同書(「北女閭起源」)に云ふ、兵庫結、この髪風は摂州兵庫磯の廓風にて、こゝより起たる名なるべしと云々(『俗事百工起源』)


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