歴史用語の基礎知識1自由民・道々の輩




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道々の輩(みちみちのともがら)

平安時代後期から室町時代にいたり「道々の輩」あるいは「道々の細工」という言葉がもっぱら使われている。「道々」というのは、職人と呼ばれる職能種の人々に、それぞれの道があったからで、たとえば手工業者の場合、木工には木工道、漆工には漆工道、螺鈿をつくる人々には螺鈿道があり、博奕打の場合に博奕道があった。「兵(つわもの)の道」も同じことで、これらの人々はそれぞれの「道」に即して自分の職能を働かせている。そこから「道々の者」という言葉が出てきた。(網野善彦著『日本中世の民衆像』)

室町時代末期に成立されたとされる『七十一番職人歌合』は、様々な「歌合」の中でも後期に作られていることから、そこに現れる職人の種類が尤も多い。そのため中世の職人像をイメージしやすい資料とされている。そこで、そこに記された職種を『中世職能民職種一覧』としてまとめましたので参照ください。

道々の輩(みちみちのともがら)

七道往来人(しちどうおうらいにん) 

「諸国往来人」ともいう。「七道」とは五畿七道の七道で全国という意味。「道々の輩」と呼ばれた各種職能民達は、その職能、技術を持って朝廷に奉仕する供御人であったり、社寺の神人(寄人)で、朝廷や社寺の庇護を受け、諸国に設けられていた関所を自由に往来する権利を得ていた。

供御人(くごにん) 

内蔵寮や掃部寮、造酒司、主殿寮などの天皇直属の内廷に属し、その技術を持って奉仕していたため、一般の農民や町民が負う年貢や公事が免除されていた。

神人(じにん) 

石清水八幡宮、春日社、日吉社などの神社に奉仕し、供御人と同様に年貢や公事から免除されていた。また清水寺や興福寺などの大寺院に奉仕している場合も同様で、「寄人」(よりうど)と呼ばれる。

【犬神人】(いぬじにん)

比叡山延暦寺(山門)の末社、京都祇園社に隷属していた犬神人が特に有名。赤色の布衣に白覆面姿で、八角棒を携行し、境内地の汚穢の清掃、祭礼の警備、社家や山門による犯罪者の取締りやその住居の破却処分の執行などに従事するかたわら、弓弦の製造・販売でも生計を立て、「つるめそ」(弦召)とも呼ばれる。身分的には賤民視されたが、祇園社の神輿を甲冑姿で先導したのも犬神人たちであった。近世には、その住居は弓矢町に限定され、弓矢・弦・弓懸を製作・販売するとともに懸想文(辻占)売りもした。正月二日に洛東の愛宕寺で彼らが行った牛玉加持を「天狗酒盛」と呼んだ。

願人坊主(がんにんぼうず)

人に代って願かけの修行・水垢離などをした乞食僧。(『広辞苑』第二版)
江戸時代、上野の東叡山寛永寺に属した修行僧。広義では、こじき僧、また、髪の毛ののびた僧を指す。(『新明解国語辞典』)
また、「願人は妻帯肉食の修験者なり」ともある。『人物・人名事典』「酒井常光坊」の項参照。
願人坊主 東叡山御配下にて、橋本町に頭あり、何某院と云ひて、立派の者なり、此むれ皆無頼者多し、さむき朝といへども赤裸にて、とう/\と云て、門々に立ちて銭を乞ふ、また考物など持ち来るもあり、亦、子供は一文人形をならべて、是れはこれでも王子の稲荷大明神、色は白くも九郎助いなりの大明神、などゝいひて、さま/\〃の名を付、二三十ばかりもならべて銭を乞ふ、天保の頃、風体の悪き故、禁ぜられて、袈裟などかけて来れり、(『わすれのこり』)
願人坊主。一種の乞食坊主。代参・代垢離、あるいは芸を演じながらお札を売ったりした。鞍馬寺大蔵院の支配を受け、神田橋本町が集住地として知られていた。(『耳袋』巻之三解説)

傀儡子(くぐつ)

広義には散楽芸能者一般の総称で、狭義には、人形使い(繰人形)をいう。
平安時代、一種の賤民が歌をうたい、あやつり人形を歌に会わせて舞わせた遊芸。また、その人形。また、その遊芸人。でく。でくぐつ。かいらい。(『広辞苑』第二版)

一、からくりの装置ある人形。又、其人形を歌に合はせて舞はする藝。二、まひひめ。舞姫。(『廣辭林』新訂版)

広辞苑にある「平安時代、一種の賤民」とあるのは、明らかに江戸期以降につくられた差別観から来るもので、遊芸を業とする傀儡子は賤民でなく、神人あるいは供御人として遊女同様、尊せられていた。彼等は自由を愛する誇り高き「道々の輩」でもある。 

平安時代のころから、この人形を舞わして童幼婦女を相手に、諸國を巡演して歩く大道藝人があつた。それは平安時代の中期、大江匡房によつて書かれた「傀儡子記(くぐつまわしのき)」によつて証明される。傀儡子(かいらいし)というのは漢語で、傀儡即ち人形を舞わすことを職業としているもののことである。日本では後には、人形舞わしとも、首掛芝居などとも呼ばれた。古図によつて想像してみるに、首から二本の紐をさげ、その紐に箱の両端を結び付けて胸の前に保ち、その箱の上で人形を舞わせるのである。箱の上面が即ち舞台になるわけで、まことに簡単なものだつた。傀儡子は祭文や謡曲をうたい、それにあわせて人形をあやつるという仕組で、まず今日の紙芝居程度のものと考えて差支えない。この傀儡子の有力な一団が、摂津の國の西の宮へんに住まつていたらしい。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』より)

日本中世史の脇田晴子氏は、大江匡房の『傀儡子記』『遊女記』や後白河院の『梁塵秘抄』などの文を引用して、摂津の江口・神崎・蟹島等の津泊にいる芸能婦女を遊女といい、青墓などその他の宿駅にいた芸能婦女を一括して傀儡子と称したようだと述べている。そして「男は狩猟、人形つかい、幻術などを行ない、女は歌舞の芸と売春を行なった。美濃・三河・遠江が最高で、播磨・但馬が次、西海が下と匡房はランクをつけている。美濃青墓宿の傀儡子が有名であったように、傀儡子集団は宿駅に集まり、旅人を客としたものであろう。農耕を行なわず、養蚕もいとなまず、したがって何らの支配関係ももたないで、「課役なきをもって、一生の楽となせり」と記されている。」と「傀儡子・白拍子・遊女」(『日本女性史』所収)の中で述べている。これは散楽芸能集団を傀儡子と総称していたという事に外ならず、大山寺縁起に「爰に当山御願の猿楽の中に白拍子と云ふ遊女有り」とみえるように、当時(平安末期〜鎌倉初期)は猿楽も白拍子も遊女も巫女も同じようなものとして、把握されていたと脇田氏は述べている。

傀儡女(くぐつめ)

古代の遊女の称。水辺の遊女を「浮かれ女」と称したように、陸の遊女をいう。「青墓」などの宿場を本拠とし、旅人などの求めに応じて芸能や舞などを披露。もちろん枕辺にも添うことから、後には「女郎」「淫売婦」と同義語として使われるようになった。

傀儡師(くぐつし) 人形遣いの事。

○人形遣 芝居の人形は、はじめは西宮傀儡師を招きて舞せし也、江戸小平太といふもの名人也、羅山文集に云、鼓吹蛮琴あつて、木偶の動に応じて曲節あり、且是を操これを引、板を踏て呼者と、木偶と相得たる事、殆生がごとし、今日の為所の者、江戸第一の傀師小平太と号、近世の傀儡子、これ巧手たりと云々

  • 野郎間 
  • 江戸和泉太夫が芝居に、野郎松勘兵衛といふもの、頭ひらたく色青黒き、いやしげなる人形をつかふ、これをのろま人形と云、野郎松の略語也、又謙斎左兵衛は、かしこき人形をつかひ、相共に賢愚の体を狂言せし也、それより鈍をいやしめてのろまといひ、癡漢(あほう)に比したり、此後そろまむきまなどいふもの出来たり
  • おやま 
  • 小山次郎三郎といふもの、女の人形をよくつかふ、遊女傾城の類を、おやまといふにより、是をおやま人形と云、
  • 出つかひ 
  • 辰松八郎兵衛これをはじむ、惣体人形をつかふものは、黒き帳の影にて、黒き頭巾など被りて、己がかたちを見せざるは常也、かくする事は、人形の動に、従、をのれが身をもそのさまにうつすものゆへ、見ぐるしきを恥てなり、辰松は人形に手練し、上下を着し、手摺をはなれて、無量の手づまをつかふに、全身少もみたるゝ事なし、古今人形の妙手といへり、辰松幸助これに亞、各現在、大坂藤井小三郎、近本九八、中村彦三郎、皆出づかひをなす(『近代世事談』巻之三)

○傀儡師を、江戸の方言に山猫といふ、人形まはし也、一人して、小袖櫃のやうの箱に人形を入、背負て、手に腰鼓をたゝきながら歩行也、小童其音を聞て呼入、人形を歌舞せしめ、遊観す、浄瑠璃は義太夫節にして、三弦はなく、蘆屋道満の葛の葉の段、時頼記の雪の段の類を語りながら、人形を舞し、段々好みも終り、是切といふ所に至りて、山猫といふ鼬の如き物を出して、チゝクワイ/\とわめきて仕廻也、我等十四五歳頃迄は、一ケ月に七八度ヅゝも来りしが、今は絶てなし、(小川顕道『塵塚談』)
山猫まわし 
本名傀儡師 宝暦斎の句に、春雨や楽屋をかふるくわいらいし、その出立は能人の知れる者、英一蝶の画に見へて、寸分違はぬもの也、明和の末の頃迄は、折節に町々を修行せしを見受けし、多くは、山猫廻しと唱へ、呼び入れて舞すれば、古へより摂津国西の宮に伝へし伊吹山おろし抔云唱歌に、時のはやり事をまじへ、麁末なるおやま奴などの人形を廻し、果には、いつとても、ちゃん/\坊主とて、手袋の如きものに人形の頭を付け、ちゃんぎりてふもの持たるを、おのが左右の手に一ツづゝはめ、中指に頭、大指と小指に右のちゃんぎりを付て、こつちの子、向ふの子、隣の子もござれ、中よしこよし中よく遊べ、といへるを癖にして、人形二ツおもしろくつかひ、扨、例の山猫てふものは、いたちやらん、むじなやらん、毛皮にてこしらへたる小猫程の異物を箱の底より出し、ヤンマンネッコにカンマンショ、と子供を追ひあるき、興ずる事にぞ有ける、
蜀山云、予が稚き時まで傀儡師あり、小金の野辺の一本薄といふ歌をうたへり、又五郎といへる棒つかひをもつかひし也、(『只今御笑草』)

[『塵袋』にある傀儡の記述]

一、傀儡とかきてくゞつとよむ。二字心如何。
傀儡の二字をば、術芸也と釈せり。儡の字をば子の戯也と云へり。くゞつと云ふは、昔はさま/\〃のあそび・術どもをして、人に愛せられけり。今の世に其の義なし。女は遊君のごとし。男は殺生を業とす。又傀の字をばあやしとよむ。奇術を施す義か。又敗壊なりと釈せり。一旦目をよろこばしめて現ずる所の事無2始終1心か。(『塵袋』五)

【傀儡人形】(くぐつにんぎょう) 傀儡子が操るからくり人形。
【杖頭傀儡】(じょうとうくぐつ) お舞人形。足の一本を持って操る。
【懸糸傀儡】(けいしくぐつ) 糸で操る人形。
【水傀儡】(みずくぐつ) 水力を利用して動く人形。
【人形振り】(にんぎょうぶり) 舞い踊る傀儡人形に合わせて、あるいは操り人形の舞いの様に踊りを踊る事。『吉原御免状』では幻斎が、高尾の人形舞いにつられ踊るシーンが描写されている。

傀儡子族(くぐつぞく)

宿場や市を流れ歩き、主に芸能を生業とした。大江匡房の『傀儡子記』によれば、「傀儡子者無2定居1。無2當家1」とあり、元来狩猟民であって男はすべて弓馬に便で、双剣を跳らせ、人形を操り、幻術をよくし「変2砂石1為2金銭1、化2草木1為2鳥獣1」とある。女は媚術と歌唱にすぐれ、化粧に巧みで夫ある身でも「雖レ逢2行人旅客1、不レ嫌2一宵之佳会1」という。また、総じて「不レ耕2一畝田1、不レ採2一枝葉1、故不レ属2県官1、皆非2土民1、自限2浪人1、上不レ知2王公1、傍不レ怕2牧宰1、以レ無2課役1為2一生之楽1」とある。傀儡子族はその発生のはじめから女性上位の種族で、母系家族だったといわれる。(『吉原御免状』263)

  • 白丁(はくちょう) 
  • 李朝時代に「白丁」と呼ばれた朝鮮の漂泊民族がいた。元々は兵役を忌避して山中に逃げた人々の集団といわれるが、真偽不明。この「白丁」には「禾尺白丁」と「才人白丁」の二種があり、「禾尺白丁」は柳器を作り狩猟に従い、馬を役することに長じ、屠獣を業とし皮革類をもって生活に資する習俗を持っていた。「才人白丁」も柳器を作り狩猟に従事するが、屠獣を業とせず、歌舞・遊芸を事とし、その女子には卜筮、祈祷を業とし売淫する者が多かったという。この「白丁」族が日本に来て住みついたのが傀儡子族だというのが、朝鮮外来説となっている。この説の根拠とするのは、傀儡子一族の芸能の種類が、殆ど中国・朝鮮の芸能と同一で、彼等の信仰が道教に発した「百太夫信仰」だという点にある。(『吉原御免状』265)
  • 傀儡子族ジプシー説 
  • ジプシーの発祥地は印度あたりとされ、その種族が西に流れてジプシーとなり、ユーラシア大陸を東へながれた一族が傀儡子族になったという説。確かに、その根っからの陽気さと、音楽と踊りへの天性の嗜好という点で、ジプシーと傀儡子族は似ている。(『吉原御免状』266)

[芸能民の系譜]参照ください。

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曲舞(くせまい)

南北朝期から室町期にかけて行なわれた舞芸能。かなり長い叙事的な詞章を、鼓の調子に合わせて歌い、かつ舞うもの。男は直垂(ひたたれ)、女は水干・立烏帽子で舞う。のちの幸若舞もこの一派。猿楽の能では観阿弥がこれを採り入れて能の曲節を改革した。能の「クセ」に見られる舞姿にその影響が見られるとされる。

『七十一番職人歌合』(『中世職能民職種一覧』)には、曲舞々として白拍子と対に描かれている。

幸若舞(こうわかまい) 

中世までは曲舞(くせまい)と称した舞芸能。この曲舞の称が記録に表れるのは南北朝期観応元年(1350)の『祇園社社家記録』の「掃部曲舞」とされるが、この舞芸そのものはもっと以前からあった。室町中期頃から呼称が様々現れ、曲舞の外に、二人舞、越前舞、大頭舞、幸若舞、笠屋舞などと記されるようになる。これは、世阿弥が『五音』の中で「今は皆々曲舞の舞手絶えて」と述べているように、本来の曲舞が衰退し、新しい芽生えがあり、上演内容の変化に合わせて種々の呼称が生じたものとされる。
室町中期頃の曲舞は、寺社縁起、慶祝、無常を詠んだ短い謡い物に近いものと推測され、現存の幸若舞の曲目の多くにみられる源平物・義経物・曾我物等の軍記物を中心とした叙事詩的な語り物と質を異にしていた。

醍醐寺座主満済の日記応永三十四年(1427)の条に、「於2妙法院1久世舞見物。此間山上山務法印弘然坊に召置云々。自レ其妙法院へ吹挙、摂州野瀬郷声聞云々。児如法堪能者也。去々年於2清水寺六角堂1勧進久世舞沙汰云々。雨中間以2別儀1召上中門了。児は水干大口立烏帽子にて舞レ之。男は直垂大口也。如法歴々体也。」とあり、醍醐寺の高僧たちが曲舞に興じている様子が書かれていて、摂州野瀬郷の声聞師がそれらを演じていた。(声聞師は、もと陰陽寮に属した下級陰陽師の系譜をひき、本業の卜占の外、災厄祓除の祈祷、盆彼岸の読経、年初の千秋万歳の祝福、曲舞などを演ずる雑芸を業とした。興福寺の五か所十座の声聞師などは、猿楽、あるき白拍子、あるき巫子、鉢たたきなど七道物と言われる雑芸能者の支配権を持っていた。)
また、『管見記』嘉吉二年(1442)五月八日の条に「当時諸人令2弄翫1くせ舞あり。号2之二人舞1。依2家僕等勧進1今日於2南庭1舞レ之。音曲舞尤有2感激1。勝宝院僧正、右馬頭父子入来。持明院羽林以下家僕等在席。舞了及2酒宴1。召3彼舞手等於2予前1畢。其興不レ少者也。」とあり、ここでは二人舞と称されている。さらに五月二十四日条に「幸若大夫称2先日礼1来」とあり、幸若大夫という芸能者が来訪した事が記されている。この『管見記』の記述が、幸若という名の初出とされる。
また、『康富記』宝徳二年(1450)二月十八日の条に、「越前田中香若大夫参2室町殿1、久世舞々之云々」とあり、幸若大夫は越前田中の出身で、室町邸はじめ貴顕の邸宅で曲舞を演じていたことが伺える。これは雑芸の一つとして声聞師などの芸能者集団によって演じられていた曲舞が、幸若大夫という専業者が現れることにより、曲舞はより洗練された舞大夫が演じる舞芸となることでその質を変じていった。こうして、戦国期から江戸初期にかけて、舞大夫による曲舞を、幸若舞と称するようになったと麻原美子氏は述べておられる。(『舞の本』解説)

[芸能民の系譜]参照ください。

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散楽(さんがく)

中国古代の芸能の称で、古くから雅楽(宮廷の音楽)以外の民間の舞楽の総称として用いた。唐代には、軽業・奇術・滑稽物真似に音楽を伴奏したものをいうようになる。奈良時代に我が国にもたらされ、田楽その他に影響を与え、発展、伝承されたとされる。
奈良時代に舞楽とともに唐からもたらされた雑楽芸で、その内容も奇術・曲芸に属し、その母国唐においては胡人(西域人)の幻術として伝えられたものとされ、「神娃登縄弄玉」(二人の男の顎に支えた二本の柱に縄をはり、舞女が高足駄を履いてこれに登り、玉を弄しつつ渡る芸)「飲刀子舞」(仰向いて刀剣を呑む芸)「臥剣上舞」(剣上に仰向いて臥す芸)「入馬腹舞」(馬の口から侏儒を出す芸)などがあった。これらの雑伎は、後に編される『新猿楽記』に唐術・品玉・輪鼓・八ッ玉などといわれる雑伎がそれに当る。
当初は雅楽寮の中に散楽戸を設け特別に練習させていた。しかし、この散楽戸は延暦元年(782)に廃止される。これは、貴族趣味の朝廷の正楽となった舞楽に対し、散楽が民衆の興味を引き一般的に普及して、自発的な修学者の増加にともない、官学として教授する必要が無くなったためと、律令制の衰退とともに多くの官戸を保護する力が無くなったためで、廃止された散楽戸の楽戸民はその技芸によって社寺に属したり、剃髪して散楽法師となった。一部は漂泊の雑芸者として各地に散り、散楽は俗楽として人々の間に広まった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)

奈良時代に伝来した、中国の俗楽・芸能の流れ。「正楽」「雅楽」に対する。平安時代以後、寺社の祭礼や神楽・相撲節会・淵酔(ゑんずい)などにしばしば演じられた、滑稽卑俗な物真似や、舞踊・曲芸・奇術・傀儡・舌耕芸(ぜつこうげい)などをいう。「雑色長上五十四人を解却し、餅戸・散楽戸を廃す」〈続紀延暦一・七・二〉「近侍の児童と良家の稚子を以て舞人とす。大唐・高麗更に出て舞ふ。雑伎散楽競ひて其の能を尽す」〈三代実録貞観五・五・二〇〉(『岩波古語辞典』)

散楽〔散位、散官の散〕(一)支那、古へにては、雅楽、官楽にあらざる楽の称。俗間の舞楽。 周礼、春官篇、宗伯、下「旅人掌レ教下舞2散楽1、舞中夷楽上」注「散楽、野人為レ楽之善者」疏「以2其不レ1在2官之員内1、謂レ之為レ散」(二)唐の代に至りては、転じて、百戯の弄丸、弄刀、綱渡の類。 唐会要、三十三「散楽、歴代有レ之、其名不レ一、非2部伍之声1、俳優、歌舞、雑奏、総謂2之百戯1、跳鈴、擲剣、透梯、戯縄、縁竿、弄枕、云々」(三)散楽は、我が邦にも伝はれり、即ち、雑芸なり。 職員令、集解、四、雅楽寮「高麗舞師一人、散楽師人一人」三代実録、五、貞観三年六月廿八日「天皇御2前殿1、観2童相撲1、云々、左右五奏2音楽1、種種雑伎、散楽、透撞、呪擲、弄丸、等之戯、皆如2相撲節儀1」(四)散楽の字は、猿楽の事に充て用ゐらる。 三代実録、三十八、元慶四年七月廿九日「右近衛、内蔵富継、長尾末継、伎善2散楽1、令2人大咲1、所レ烏滸人近レ之矣」 雲州消息(出雲守藤原明衝)上、本、四月「稲荷祭、云々、有2散楽之態1、仮成2夫婦之体1、云々、始発2艶言1、後及2交接1、都人士女之見者、莫レ不2解頤断レ1腸」(是れ等は、全く戯謔の猿楽なり、尚、猿楽の条を見よ、或は、さんを、さると発音するにて、駿河、するが。敦賀、つるが、の例ならむと云ふは、鑿なるべし) 字類抄「散楽、さるがく、さんがく」(『大言海』)

猿楽(さるがく)

散楽の転訛した称で、申楽とも書く。古くは田楽・呪師などを含めた民間の舞楽の称だったが、平安時代には、滑稽な物真似や言葉芸などを中心とした舞楽をいい、相撲会の時、あるいは内侍所御神楽の夜などに演じたという。後には一時の座興の滑稽な動作をも猿楽と呼んだ。鎌倉時代に入り演劇化し、能・狂言に発展する。
やがて、猿楽師たちの団体である座が形成され、それらの多くは寺社に属した寄人・神人となる。

一般に散楽が猿楽に転訛したとされているが、日本中世史の林屋辰三郎氏はその著『歌舞伎以前』の中で、散楽の中の一つ「猿楽通金輪」(二人の男のかつぐ金輪を猿が伴奏につれくぐり抜ける演技)という雑伎の猿楽(さるごう)に由来し、その名称が拡大して散楽を猿楽と称するようになったと書かれ、それに田楽などを加えて新しい猿楽となったのではなかろうかとしている。

『新猿楽記』には、咒師・侏儒舞・田楽・傀儡子・唐術・品玉・輪鼓・八ッ玉・独相撲・独双六・無骨有骨延動・大領之腰支・蝦漉舎人之足仕・氷上専当之取袴・山背大御之指扇・琵琶法師之物語・千秋万歳之酒祷・蟷螂舞之頭筋・飽腹鼓之胸骨等々、二十九種の演目が挙げられてる。
やがて、座が形成されると、演舞を中心とした集団や手品や曲芸を得意とする集団(放下師)、傀儡子、琵琶法師などそれぞれの芸能に分化してゆく。すると、猿楽は舞や演劇を元にした能芸の名称となり、大寺院や神社を拠り所とした座には楽頭などの特権的な層が現れ、中世社会の芸能・文化の中心的な集団を形成するようになる。春日大社や日吉大社などの庇護を受けた座が、大和の外山・結崎・坂戸・圓満井の四座や近江の山階・下坂・比叡の三座などとされる。ちなみに、大和の猿楽座である外山座は宝生流となり、結崎座は観世流、坂戸座は金剛流、圓満井座は金春流となってゆく。

さるがく 散楽・猿楽・申楽《サンガク(散楽)の転という。また、大嘗祭・鎮魂祭の神楽の舞などに奉仕した猿女(さるめ)の故事と混交したものか》即興的な滑稽なしぐさ。また、それを演ずる人。「さるごう」とも。散楽より発達。平安時代には、近衛の官人が相撲・競馬の節会や神楽の余興などに演じ、民間では寺社の祭礼に興行され、職業的芸能人を生んだ。「ただ笑はかさんとあるは、猿楽をし給ふか。それは物語にもまさる事にてこそあらめ」〈今昔二四ー二二〉「その坊は一二町ばかりよりひしめきて、田楽・猿楽などひしぬき」〈宇治拾遺七八〉(『岩波古語辞典』)

田楽(でんがく)

平安時代から行なわれ、もと、田植等の農耕儀礼に、笛・鼓を鳴らし唄い舞ったものだが、やがて、専門の田楽法師が生まれた。腰鼓・笛・銅拍子・ささらなどを用いる群舞と、高足に乗り品玉を使い刀剣を投げるなどの曲技を伴った舞芸が現れるが、鎌倉期から南北朝にかけて、猿楽と同様の歌舞劇である能をも演ずるようになる。後に田楽能は衰え、寺社の行事などに伝えられるだけとなった。

もと田植のときの楽なればいふといひ、又神楽を申楽と書けるが更に変じて田楽となれるなりともいふ。

古昔、農夫が耕作の労を慰むるために奏したる一種の舞楽、後、一種の芸となりて専ら法師の業となる。囃子に「つづみ」「ささら」・銅拍子などを用ふ。歌ひ舞ひ又は手玉をとり、高足(タカアシ)に乗りて軽業などす。鎌倉時代より足利時代の頃盛んに行はれ、遂に本座・新座などの流派に分かれたり。(『廣辞林』新訂版)

豆腐を串にさしてあぶった物を、なぜ田楽というのだ。されば、田楽法師が白袴を下にはき、上に色のついた物を着て、鷺足(竹馬)に乗って踊る姿と、白い豆腐に味噌をぬりたてた格好とが、よく似ているから、それで田楽というのだろう。夢庵(牡丹花肖柏)の歌に、こういうのがあるから、ついでに紹介する。
たかあしを踏みそこなえる面目を 灰にまぶせる冬の田楽
(『醒睡笑』巻の一)

田楽は五穀豊穣を祈願する宗教的な祭事に由来し、種まきや耕作に関する素朴な擬態が舞踊化したもので、やがて農民の慰安ともなる。平安時代に、散楽の影響を受け新しい広義の猿楽に含まれ京都およびその近郊の流行となり、当時の貴族生活にも深く関わるようになっていった。長徳四年(998)四月の松尾祭に、恒例として山崎津の住人が田楽をなし、雑人等と合戦におよんだと『日本紀略』に表れるように、田楽の芸団化も進み、長承二年(1133)の宇治神社の祭日の様子を述べた『中右記』の中に「田楽法師原、其興極みなく、笛は定曲なく口に任せて吹き、鼓は定声なく手に任せ打ち、鼓笛喧嘩、人耳目を驚かす」とあり、この頃には田楽法師原という集団が登場してくる。やがてこうした集団は、宮座との関わりの中、田楽座を形成してゆく。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)

『中世職能民職種一覧』に「田楽」「猿楽」の項が有るので参照ください。

関連用語
雅楽(ががく)
雅正の楽という意で、中国古代には主として祭式楽。日本では、狭義には奈良時代前後に中国・朝鮮などのアジア大陸から輸入した楽舞とそれを模した日本製の曲(唐楽・高麗楽)、広義には日本の古楽(神楽・久米歌・東遊など)や唐楽・高麗楽の影響下に作られた新声楽(催馬楽・朗詠)も含めた宮廷音楽全般で、寺社でも演奏。(『広辞苑』第二版)
東遊(あずまあそび)
平安時代から行われた歌舞の一種。初めは東国地方の神事芸能であったが、宮廷や公家の間に採用、神社の祭礼にも奏する。舞人四人または六人で、狛笛・篳篥(ひちりき)・和琴を用い、笏拍子を打つ。現在は宮中の皇霊祭や日光東照宮祭・賀茂祭・氷川神社祭に行う。東舞(あずままい)ともいう。
神楽(かぐら) 
「かむくら(神座)」の転訛した詞。神遊ともいう。宮廷で神を祭るに奏する舞楽。楽は和琴・大和笛・笏拍子の三つを用いたが、後、篳篥をも加え、歌は神楽歌を用い舞を伴う。民間の神社などで演じられる神楽と区別し、「御神楽(みかぐら)」ともいう。(『広辞苑』第二版)

御神楽の夜になりぬれば、事のさま、内侍所の御神楽にたがふことなし。これは、今すこしいまめかしく見ゆる。みな人たち、小忌(おみ)の姿にて、赤紐かけ、日かげの糸など、なまめかしく見ゆるに、かざしの花のありさま見る、臨時の祭見る心地する。
みな座につきて、おのおのすべき事ども、とりどりにせらるるに、殿も本末の拍子とりたまふぞうるはしき。日の装束なる殿は、今すこし、人たちの座よりはあがりて、御座しきなれば、それにゐさせたまひたり。使のかざしの花挿させたまひたる見るに、さまかはりてめでたき。本の拍子、按察使の中納言、笛、その子の中将信通、琴、その弟の備中守伊通、篳篥、安芸の前司経忠。あまたゐたりしを、こと長ければ書かず。
かくて御神楽はじまりぬれば、本末の拍子の音、さばかり大きに、高き所に響きあひたり。声聞き知らぬ耳にもめでたし。御神楽やうやう果てがたになるときこゆ。「千歳、千歳、万歳、万歳」と謡ふこそ、天照神の岩戸にこもらせたまはざりけんも、ことわりときこゆ。わが君のかくいはけなき御齢に、世を保たせたまふ、伊勢の御神も護りはぐくみたてまつらせたまふらんと、位保たせたまはん年の数そひ、末は長井の浦のはるばると、浜の真砂の数も尽きぬべく、御裳すそ川の流いよいよ久しく、位の山の年経させたまはん。まことに白玉椿、八千代に千代をそふる春秋まで、四方の海の浪の音静かに見えたり。
かくて御遊、果てがたになりぬれば、殿、御琴、治部卿基綱、琵琶、拍子、もとのごとく宗忠の中納言、笙の笛、内大臣の御子の少将雅定、笛・篳篥、もとの人々御つがひにて、殿の御声にて、「万歳楽いだせ」とて、われうち添へさせたまひ、二返りばかりにて、「安名尊」、「伊勢の海」など、乱れ遊ばせたまふ。宗忠の中納言、拍子とりていだす。(『讃岐典侍日記』)

上の記事は『讃岐典侍日記』にある御神楽の記述。内侍所の御神楽は十二月の吉日を選んで行なった。「小忌の姿」とは、神事にたずさわる官人が装束の上に小忌衣をつけた姿をいい、白の麻布に花や蝶や鳥を青摺りにしてある衣姿。それに赤紐を掛け、「日かげのかずら」という白や青の糸を組んだ「日かげの糸」を冠の左右にかけて垂らした姿は艶かしく見えるが、冠を飾っている造花の「かざしの花」を見ると、石清水や賀茂の「臨時の祭」を見ているようだと、その情景を述べている。
また、「『千歳、千歳、万歳、万歳』と謡ふ」というのは、本方が「千歳、千歳、千歳や、千歳や…」と謡うと、末方が「万歳、万歳、万歳や、万歳…」と謡う神楽の謡いをいう。「御遊」というのは音楽の事をいい、神楽が終った後の音楽。「万歳楽」は、舞楽の名で、「安名尊」と「伊勢の海」は、催馬楽の曲の名。
久米歌(くめうた)
古代歌謡の一。久米部(くめべ)が久米舞にうたう歌。記紀によれば神武天皇が久米部をひきいて兄猾(えうかし)・八十梟師(やそたける)・兄磯城(えしき)・長髄彦(ながすねひこ)を討伐した時、軍士を慰撫・鼓舞した歌および道臣命(みちのおみのみこと)が忍坂(おさか)で八十梟師の余党を討った時に歌った歌の総称。現在は宮内庁楽師が雅楽歌曲として演奏。
久米舞(くめまい) 
古代、久米部の行なった歌舞。久米歌をうたい、笏拍子・和琴・竜笛・篳篥・を使用。舞人四人・歌人四人。歴代天皇の遊宴などに用いたが、平安以後は大嘗会・豊明節会にだけ行い、室町時代に廃絶。明治以後は大嘗会と紀元節とに用いられてきた。
催馬楽(さいばら)
雅楽歌曲の一種。馬子歌の意、或いは前張(さいばり)の転ともいうが、定説がない。奈良時代の民謡を、平安時代に至って雅楽の管弦の影響によって歌曲としたもの。句頭(主唱者)だけが笏拍子を打ち、和琴・笛・篳篥・笙・箏・琵琶などの楽器を伴奏とした。近世には和琴を用いない。
前張(さいばり)
雅楽歌曲の一種。神楽の採物の歌の次、雑歌の前に歌われる歌。大前張・小前張十六曲の称。また大前張七曲中の一曲の名。榛(さいばり)ともいい、割榛(さきはり)の音便ともいわれ、皮をはいだときに出る樹液を染料にしたものをいったもので、神楽歌に歌われた。
唐代に渡来し、唐文化を積極的に摂取した奈良朝の宮廷や寺院によって、その式楽という意味合いから歓迎された舞楽。左楽と右楽があり、左楽は唐楽の意で、これには林邑楽(安南シャム地方の楽)およびインド楽を含む。右楽は高麗楽の意で、靺鞨楽(渤海国・沿海州の楽)を含んでいる。これらは朝廷の雅楽寮、社寺に専属する楽師、楽生によって演奏・上演された。この芸能は古い物語中の興味ある一断面を演出しているが、一見しては何を意味するか判らないまでに抽象化され、当時においても内容を理解して観賞することは困難であったのでは無いかといわれ、国家の正楽として保護を受けないかぎり、それ自体が多くの人々の興味を引くまでにはいたらず、律令国家の衰退とともに衰微し、大衆芸能には発展しなかった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)
伎楽(ぎがく) 
日本に最初に伝えられた楽舞。612年(推古二十年)、百済から帰化した味摩之(みまし)が伝えたとされる。味摩之は、中国南朝の呉国から学んだ伎楽舞(くれのうたまい)に長じていたことから、朝廷はこれを大和桜井里で少年に伝習させ、その後、諸寺院の仏会に荘厳として盛んに演じられた。その演技は科白を伴わない黙劇で、たぶんに滑稽味をおびたものであったことから、国家の正楽にはならなかったとされる。その後に伝えられた舞楽によって、奈良朝末期には衰退し、「教訓抄」に、そのころわずかに南都の四月八日の仏生会と七月十五日の伎楽会とに残存していたと書かれている。法隆寺正倉院に残る伎楽面から、インド・ギリシアの影響を受けた中央アジア起源の楽舞曲であったようだといわれている。

[『塵袋』にある伎楽の記述]
一、伎楽と云ふ、伎は何の意ぞ。
伎は衆の意也。一種ならず、あまたの心なるべし。伎は岐也と釈せり。岐はまた也。またはわかれてあまたになる義か。伎とかよはして釈す。妓とかくことあり。伎楽と云ふは、楽は八音をあやつりて衆音和合する故に、あまたの心をあらはす。凡そ伎は芸の心也。手にあるをば伎と云ふ、身にあるをば芸と云ふと釈せり。打物・引物・吹き物、皆な手のあやつりをはなれぬ能なれば、伎楽とも云ふか。両方何もたがはず。妓の字は女の義也。かみによりてかよへるか。慎子曰、毛薔(正しくは女篇)・西施則天下之美妓也と云へり。是は美女の心か。(『塵袋』七)
[芸能民の系譜]参照ください。

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その他の芸能民

猿廻し(さるまわし)

猿廻 昔より有りと聞えたり。京に来るは、伏見の辺その外所々に住す。羽織に編笠、腰に餌畚を付けて米を入るる。中国の猿にはさま/\〃芸をさするゆへ、猿牽が腰に道具多く付る也。このゆへに腰に物多く付けたるをば、猿牽といふ也。京は世智成る所なれば、薬には及ばず、辞儀をするのが奥の手也。猿牽声歌の節分けて備りたり。猿を馬の守りとする事は、猿は山の父と称し、馬は山の子と言ふゆへなりと壗襄鈔に見えたり。(『人倫訓蒙図彙』七)

紀州那賀郡栄谷村の貴志甚兵衛が日本猿引の棟梁とされ、諸国に散在したとされる。

(『好色一代男全注釈』上より)

獅子舞(ししまい)

正月や祭礼の芸能として現在も行なわれている獅子舞は、古くは『古事記』に、弘計(おけ)王が室寿(むろほぎ)の宴で、シカの角を捧げて舞ったことが記されているが、今日の獅子舞の起源とされているのは、推古天皇の二十年(612)、百済人味摩之(みまし)が伝えた「伎楽面」と考えられている。
平安時代末期の『信西古楽図』によれば、頭部と尾部にそれぞれ一人づつ入って四つ足の獣体をつくり、一人がこれを引いて、二人の童子が鼓鉦をたたいてはやしたてている。
この「シシ」とはイノシシ、あるいはシカなどの獣類を意味し、岩手県や宮崎県で見られる鹿踊(ししおどり)はシカの相に類している。さらに言えば、愛媛県宇和島市の八鹿踊は雄ジカをかたどったものという。(『日本なんでもはじめ』)

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白拍子(しらびょうし)

中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女。(『平家物語』佐藤謙三注)

ここでいう遊女とは、上代の遊女(広義の遊女)の意で、白拍子と人をいう時には、今様を謡い舞を舞う(白拍子舞)ことを得意とする遊女を云う。

一、平安朝末に起りし遊女の歌舞、又、其歌舞をなしし遊女、鳥羽院の頃、島の千歳及和歌の前といふ二人の女の舞ひ始めしものといふ。鎌倉時代には多少行はれしが、足利時代に入りて遂に其跡を絶てり。始めは水干を着け立烏帽子を戴き白鞘巻をさし今様を謡ひつつ舞ひしかば、男舞とも稱せしが、後には水干・袴ばかり着ても舞へり。歌はもと神佛の縁起などを謡ひしが、後には戀愛・慶賀のものをも謡へり、囃子は鼓・笛・銅拍子なりき。二、妓。藝妓。(『廣辭林』新訂版)
※銅拍子 鐃鉢(にょうはち)に似て小さい真鍮製の楽器。
白拍子の始祖と云われる「島の千歳」、「和歌(若)の前」の名は『平家物語』『源平盛衰記』に現れる。
 『衆道考』(貝原益軒『大和事始』)「白拍子」の項に、寛永年中、男色の劇しかったこと書いて曰く「盛衰記平家物語などに鳥羽院の御時、島の千歳若前とて二人の遊女舞はじめけるとあり。是白拍子の始也。兼好法師がつれづれ草には、磯の禅師、又其娘静より始るといへり。其ころまでは、猶古にちかゝりしかば、妓女の輩も郢曲をうたひ箏琵琶を弾ぜし由古記に見えたり。され共それは倡家の礼をよみ、屠兒の仏を拝するたぐひなるべし。
 白拍子といへるは、近世の歌舞伎の類なり。歌舞伎の始は僧衣を着て鉦をたゝき仏号を唱て、念仏をどりと云ひしに、其後、名古屋山三郎と云しもの、出雲巫(みこ)くにといふものに密通し、くにに刀をさゝせ頭を包んで早歌ををしへ舞せければ、歌舞伎と云。これ慶長十九年の事也かの歌舞伎の歌に比田の横田の若笛とうたふも、皆出雲國の里の名にて、彼國より事始りける故也。淫侏の舞なれば、寛永年中に之を制禁し給ふ。其後叉小童を女形に仕立させて舞ほどに世の放蕩の子弟達男女にふけり淫風猶甚だし」と。(『江戸時代の猥談』阪田俊夫著)
また、『庭訓往来』の寛永以前の旧注を集した『庭訓往来抄』の「白拍子」の項では「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也。昔は白き水旱に立烏帽子、白き鞘巻を差す、人皆、男舞と云ふ、中比より烏帽子、刀を除て、白き水旱計着けたり。故に白拍子と云ふ也。」と有り、島千歳という妓女が、和歌の舞を舞ったのが始まりとし、通説である「和歌の前」を「和歌の舞」として、人の名としては「島千歳」一人となっている。これは、「和歌の前」を「和歌の舞」と読み違えたものか。

○男舞 
白拍子の事 後鳥羽院の御宇、通憲入道は諸芸堪能の人也、舞楽をやはらげ、磯の前司といふ女に舞をおしへ、白干水立ゑぼしに、太刀を帯て舞しゆへに、男舞といふ、磯の前司は、生国讃岐大内郡小磯と云所の者、静が伝記にあり 女静御前と云も、此所の生れ也、而後娘静につとふ、後に太刀を帯す、これを白拍子と云、それより代々の白拍子につたふと也、今舞子踊子などいふは、これに比す(『近代世事談』巻之三)

喜多村信節(均庭)の『喜遊笑覧』に「白拍子」の記述あり、参照ください。

今様(いまよう) 

神楽・催馬楽・朗詠等に対して、平安時代の新しい歌謡をいう。(『艶道通鑑』注)

今様という言葉の母体となる「今めかし」という語は、平安中期の文献に初出し、源氏物語・栄華物語などの物語にも現れる。当世風という意味で「今様」という語が使われ始めるのもこのすぐ後で、「枕草子」の「歌は」の条に「杉たてる門、神楽歌もをかし、今様はながくてくせづきたる、ふぞく(風俗)よくうたひたる」とある。しかし、当世流行の歌謡そのものを表わすようになるのは、「今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリ也」(『吉野吉水院楽書』)とあるように、もう少し後の院政期に入った頃とされる。
後白河院が編纂した『梁塵秘抄』には、これらの今様が集められている。

今様(いまよう) 

神楽・催馬楽・朗詠等に対して、平安時代の新しい歌謡をいう。(『艶道通鑑』注)

今様という言葉の母体となる「今めかし」という語は、平安中期の文献に初出し、源氏物語・栄華物語などの物語にも現れる。当世風という意味で「今様」という語が使われ始めるのもこのすぐ後で、「枕草子」の「歌は」の条に「杉たてる門、神楽歌もをかし、今様はながくてくせづきたる、ふぞく(風俗)よくうたひたる」とある。しかし、当世流行の歌謡そのものを表わすようになるのは、「今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリ也」(『吉野吉水院楽書』)とあるように、もう少し後の院政期に入った頃とされる。
後白河院が編纂した『梁塵秘抄』には、これらの今様が集められている。

遊女(ゆうじょ) 

遊女概念図.jpg遊女概念図平安時代、帝や公卿・貴人の宴席に招かれ歌舞や歌合せなどに加わったり、酒席に侍るなどして場を華やかに盛り立てた職能民。遊び女、浮かれ女ともいう。江口の君と云われた「妙の前」などが有名。

「亦、もろもろの遊女・傀儡等の歌女(うため)を招きて」(『今昔物語』十三)

○うかれ女 遊女。「その後、いづれの御時にや、たはれめ、うかれめ、ゆうぢよ、ゆうくん、けいせいなどゝ、申しけるとは、うけたまはりて候」(『あづま物語』)

「遊女といふは、室の泊・三嶋江などにありて、船路の旅人に愛せられし故に、しか云ふ。是をたはれめとも、たをやめとも、一夜妻ともいふ。古来和歌に読来れるも、遊女は水辺の事によせて読めり。(略)(六百番)歌合に、兼宗朝臣、波の上にうかれて過ぐるたはれめも頼む人には頼まれぬかは。皆是、遊女の題にて読める歌なり」(『色道大鏡』一)


『燕石十種』にある「遊女考」(前半、後半)参照。

後年の娼婦という意味と同義の「遊女」は『色里の部』「遊女」の項参照

前(まえ) 

前述の「和歌の前」「妙の前」などの前は、婦人に付ける尊称。
九、貴女の名に添えていう敬語。「玉藻の前」(『広辞苑』第二版)
また、この「前」に御の字を付けて「御前」ともいった。「静御前」「虎御前」など。

同・寄稿論文「遊女・白拍子と家父長制の浸透について」参照
『画証録』に「遊女 白拍子」の項有り、参照
『中世職能民職種一覧』参照。

geinokeihu.jpg芸能民の系譜[芸能民の系譜]参照ください。

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