歴史用語の基礎知識3風俗・風流・文化の部

文化・風流・風俗の部《文化》

歌舞伎

歌舞伎(かぶき) 

歌舞伎と書くのは後世のあて字で、はじめは「かぶき」と仮名で書いていた。この「かぶき」という言葉は、本来はかぶかん、かぶき、かぶく、かぶけという四段活用の動詞で、古くから「傾く」という意味の言葉だった。そうして、この當時は、すべて人の目にたつ、變つた身なりをするものとか、悪事をはたらくものとか、すべてなみはずれた装身(みなり)、行為、行動をするものを「かぶき者」とよんだのであった。お國のおどりも、人の目に立つ扮装をして、扇情的な踊りをおどつて、大いに世人の注目をひいたので、かぶき踊りと呼ばれたのである。それが漢学者によって歌舞妓と書かれ、明治以後に歌舞伎と書かれるようになつたのである。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』)

歌舞伎は、出雲大社の巫女であったという阿国が諸国をまわり、慶長五年(1600)ごろ京都へ出て、五条橋のほとり、あるいは北野に仮小屋をつくり「念仏踊」を興行したことにはじまるという。阿国は男装したり、好色的媚態で人々の心を誘い、たちまち大評判となり、いつしかこれを「かぶき踊」と呼ぶようになった。
この女歌舞伎は慶長(1596〜1615)末には全国的に広がったが、これをまねた「遊女かぶき」は興行以外に売色を行なったので、幕府は寛永六年(1629)、全国の女歌舞伎、女踊、女浄瑠璃などをすべて禁止した。この禁令は明治維新にいたるまで解除されなかったので、日本には三〇〇年近く女優が存在せず、このため女性の役は女形(おやま)と呼ばれる男優が演ずる伝統が生じた。
女歌舞伎が禁止されたのちは、美少年たちにより「若衆かぶき」が生まれたが、これが男色趣味の対象となったため、承応元年(1652)にこれも禁止された。以後、「野郎かぶき」の“物真似狂言づくし”時代を経て「元禄かぶき」の全盛期を迎える。
狂言作者としては富永平兵衛がもっとも古いが、元禄期(1688〜1704)には近松門左衛門(1653〜1724)のような名狂言作家があらわれ、『国姓爺合戦』『曾根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』などの名作が演出され、坂田藤十郎、初世中村七三郎、初世市川団十郎、女形の芳沢あやめなどの名優が続出した。
享保期(1716〜36)には“所作事”全盛期を迎え、女形の中村富十郎や瀬川菊之丞らがその中心となった。つづいて天明期(1781〜89)には初世中村仲蔵があらわれ名声を博した。
当初、歌舞伎は京阪地方が隆盛であったが、寛政期(1789〜1801)以降は江戸の勢力が強くなり、文化・文政時代(1804〜30)には鶴屋南北があらわれ、庶民の生活を活写した“生世話物(きぜわもの)”を大成させた。
幕末には河竹黙阿弥(1816〜93)が代表作者として、四世市川小団次のため多くの“白浪物”を書いた。
明治維新を迎え、九世市川団十郎が“活歴物”と呼ばれた歴史劇を生み、明治二〇年(1887)にはじめて展覧劇が成功した。
大正期には「新歌舞伎」という新鮮な形式を生み出し、昭和六年には、河原崎長十郎、中村翫右衛門を中心に、歌舞伎界の封建制打破と新大衆劇の樹立を目標とした「前進座」の独立旗揚げがあった。
「歌舞伎」は後世のあて字で、「かぶく=傾く」という動詞が原義である。この「かぶく」とは、新しい傾向をもつとか、平衡を失うとかいう意味があるが、これを敷衍すれば、「放埒にながれる」「奇抜である」ということになる。阿国歌舞伎でみられるように、歌舞伎発生のころは、大衆の心を奪うようなその放埒さ、奇抜さによって基礎を築いたところから、漢学者のだれかが名づけたもののようである。(『日本なんでもはじめ』)

女歌舞妓を禁ぜられ、男歌舞妓となる(女かぶきといふは遊女なり。勝れたるを称して和尚とよべり。男かぶきになりては、美少年を選びて舞はしむ)。
均庭云ふ、女歌舞妓やみて若衆歌舞妓となる。男かぶきと云ふ名目見えず。(『武江年表』元和年間記事)

寛永元年(1624)甲子 二月晦日改元 ○二月十五日より中橋に於て、中村勘三郎歌舞妓芝居始めて興行す(此の時櫓は上げしかど、仮建てにてありしとぞ)。
寛永九年(1632)壬申 ○中村勘三郎が芝居、中橋より禰宜町へ移る(今の人形町なり)。(『武江年表』) 

[狂言・歌舞妓]

○昔の狂言今はものまねといふ。歌舞妓は慶長元和の比出雲の神子に恭仁(くに)と云ふ女上京して、女のをどりをなすよりこれを歌舞妓と云ふ。寛永の比は京にすみて嶋田万吉と云ふ。切幕して浄瑠璃あやつりをなす。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

○歌舞妓 羅山子曰、慶長十九年にはじまる、元は僧衣を着し、鉦をたゝき仏号にふしをつけて、念仏躍といひし也、慶長十九に、佐渡島お国といふ女、あまたの舞女をあつめ、四条河原に芝居を立る此お国は出雲大社の巫女也、名古屋山三郎と云ものと密通し、京へのぼる、かぶきの歌に、比田の横田の若苗とうたふ、これ出雲の里の名也、巫なれば神楽を変じて舞うたふ、妓女のなす所なれば歌舞妓といへり、そのころみだりがはしき事多かりければ、寛永年中に、女歌舞妓を禁制ありて、若衆歌舞妓になりぬ、是また同やうなれば、とかくに歌舞妓を御停止ありし也、そのゝちさま/\願を立、若衆の向飾を取、長年のごとくにして、芝居を立べしと御免許あり、額髪を僅剃て、紫のほうしを被りて、長年のかたちを隠す、これを野郎といふ、野郎とは元薩摩の国言葉也
中村勘三郎芝居 寛永元年、中橋におゐて、始て芝居を立る、猿若勘三郎と云、慶安年中に堺町へうつる也、二代目明石勘三郎と云、当勘三郎まで六代なり
市村竹之丞芝居 寛永十年、ふきや町におゐて、始て芝居を立る、元祖は村山又三郎と云、承応の頃、市村宇左衛門座本とす、其子市村竹之丞より代々竹之丞と云、当竹之丞までは八代なり、両芝居の来歴、江戸砂子にくわし、よつて略之
森田勘弥芝居 万治三年に、太郎兵衛と云者取立し也、(『近代世事談』巻之三)、

歌舞伎十八番

市川家に伝わる当り狂言十八種の称。「十八番」と書いて「おはこ」とも読む。これは市川家が十八種の狂言台本を、秘蔵芸として「箱」に入れ門外不出としたことからいわれる。 

○一 歌舞妓拾八番
暫 鳴神 毛抜 助六 牢破 矢之根 草摺 外良 相撲 対面 無間 帯引 五人男 清玄 草履打 男達 髪洗 不破名古屋
右拾八番といふ事、昔より歌舞妓狂言のいゝならはしにて、木戸前にて人呼に、助六じゃ/\とよぶを、拾八番の内、呼ものといふ事の始也、故に今も、浄るりじゃ/\、又は二番目じゃ/\といふ、是より出しこと、江戸市川家代々より、八代目に至るまで、狂言組拾八番有、
関羽(道行) 押戻 暫 七ツ面 象引 蛇柳 鳴神 矢之根 助六 嫐 鎌髭(六部) 外良 不動 鑷 不破 解脱 勧進帳 景清
市川歴代続寿興行に出レ之 

○二 助六始
二代目市川団十郎柏莚は、元祖段十郎才牛の子にして、始め九歳、後団十郎、又海老蔵と改、正徳三巳年四月五日より、山村座にて、狂言名題は花屋形愛護桜、第二番目に、助六本名大道寺田端之助団十郎、意休山中平九郎、白酒売本名荒木左衛門生島新五郎、三浦の揚巻玉沢林弥、また揚巻は神崎政之助ともいふ事、二代目桜田治助のはなしに聞しが、立川焉馬老人年代記には、林弥とあり、柏莚此時二十六歳にて、助六を勤し元祖也、助六の出は、揚まくの内にて、けんくわしといふて、尺八を振りて出る、二度目の助六は、正徳六申年正月二日より、中村座にて式例和曾我といふ名題にて、曾我物語へ書入し狂言、助六本名曾我五郎時致にて団十郎、揚巻中村竹三郎、白酒売三升屋助十郎にて、此年三月七日、吉原仲之町はじめて桜を植しゆへ、堺町にても、町内料理茶屋の軒口へ青すだれを懸て、造花の桜を植し心にて、仲之町に飾付、舞台、花道まで、同じく造花一面に桜の盛り、作者藤本斗文の趣向にて、桜を花の雨と見立て、助六の出に、蛇の目傘をさして、江戸紫の鉢巻を〆、黒羽二重、杏葉牡丹の五ツ所紋、一ツまへ、一ツ印籠、二重廻りの帯は、浄瑠璃の文句にして、江戸吉太夫始て勤る、これ河東節の元祖也、尤助六の拵は、男達に仕立たることゆへ、其頃の流行、御蔵前、小田原町、しんば、神田抔、何某といふ人、さめざやの脇差、黒羽二重の小袖にて着流し、下駄はいてよし原へ通ふ事、此見立によつていでたつなり、河東節浄瑠璃は、助六廓の家桜といふ、今七代目団十郎、助六にもこれを用ゆる、いにしへのまゝにて、古風は残れり、二代目柏莚、助六の役に、杏葉牡丹のゆうぜん紅裏を付しは、御女中江島様より拝領(憚る事あり)故に、女中の姿有て、狂言により、揚巻に通ふ時致を色気を付たり、作者の了簡中々訳て及ぶ所にあらず、三度目の助六は、寛延二巳年三月より、中村座にて男文字曾我物語、助六本名京の次郎祐俊、団十郎は六十二歳の時、揚巻瀬川仙魚、やはり河東節浄瑠璃にて相勤、名題は家桜にて、此時分、河東節流行ゆへ、今豊後節の通りにて、助六たれ/\〃が勤るとて、いづれも新ものなり、(助六の始より天保八丁酉年まで凡百二十五年になる)
俗二代目団十郎法名
法誉柏莚隋性居士 元祖海老蔵
宝暦八戊寅年五月廿四日
芝増上寺地中常照院

助六の狂言に作りし万屋助六といふは、義太夫にあり、上がたのものなり、又、花川戸の男達助六といふは、戸沢何某のことなり、西入浄心信士、承応二年巳二月十一日、と浅草三谷新鳥越易行院に石塔あり、江戸狂言に書入しは、明和、安永の頃に、御蔵前礼差大口屋治兵衛暁雨といふ、是を助六に見立たるゆへ、其頃のえた久米八といふあり、よし原に通ふを意休とするなり、いづれも三人合せし書物なり、
(中央公論社刊『燕石十種』第三巻所収 伊勢屋宗三郎著「三升屋二三治戯場書留」より) 

女形

歌舞伎界では、現在でも男の俳優だけで演じ、女の役も男の俳優によって行なわれているが、これを女形あるいは女方と書き、「おんながた」あるいは「おやま」という。
寛永六年(1629)に女歌舞伎が禁止されて以後、男性が女に扮するようになった。京都では糸縷(いとより)権三郎、江戸では村山左近、右近源左衛門がその始祖とされている。
寛永十七年、徳川幕府は男女混合の歌舞伎も禁止し、さらに十九年には男子が女子に扮することも禁止した。この禁止令は興行者にとっては死活問題であり、幕府に懇願して、かろうじて男子に扮するものと女子に扮するものとの区別を明らかにすることを条件に女形が許可された。
この「おやま」ということばは、女方の人形遣いの名人・小山次郎三郎の使う人形から出たもので、美女や遊女を「小山の人形のようだ」と評したことから生まれたという。(『日本なんでもはじめ』)

歌舞伎劇場

初期の歌舞伎は、河川敷に小屋をつくったり、また、芝居の延長として盛り場の掛小屋で興行された。歌舞伎劇場としての建築様式がほぼ完成したのは享保時代(1716〜36)のころといわれる。
劇場の官許制をとった幕府は、京都に七カ所(のち三カ所)、大阪では道頓堀に三座、堀江に一座の四カ所、江戸には大劇場として四座だけを認めた。江戸でもっとも古い劇場は、寛永元年(1624)にできた猿若座で、のち中村座となって幕末まで残った。(『日本なんでもはじめ』)
歌舞伎狂言(かぶききょうげん) 
歌舞伎劇の演目。また劇そのもの。本来は初期の歌舞伎踊に対して劇的な演目をさしたことば。(『広辞苑』第二版)

狂言回(きょうげんまわし) 

歌舞伎狂言で、主人公ではないがその狂言の進行に終始必要な役柄。(『広辞苑』第二版)

狂言浄瑠璃(きょうげんじょうるり) 

歌舞伎狂言中の或る場面に常磐津・清元などの浄瑠璃を伴うもの。
狂言謡 
狂言に用いる謡。能の一節を借用してそのまま謡うもの、能の謡を模した節付けのもの、狂言独自の節付けのものなどがある。(『広辞苑』第二版)

芝居

芝居(しばい) 

興行物、特に演劇の称。

芝居始 大昔の事にやありけん、南都南円堂の前に大きなる穴出来て、其中より烟夥しく起り、天下に覆ひ、其気にあたるもの、こと/\〃く病癘におかされける依レ之南都の芝(江戸にて原といふ処を京都にては芝といふ芝生のことにはあらず)の上にて翁三番を舞せ、其邪気を払ひ退しより、芝居といふ名は始りたり、今に至りて、南都薪の能は故実に任せて、芝の上にて行ふ、名古屋三左衛門お国歌舞妓の始りは、北野の芝原にて興行し、又出雲のお国織田信長公の免許を蒙りて、則北野にありし人升(人升とは陣立稽古の場所なりといへり)を拝領して興行せしより、芝居といふ也、甲陽軍艦に曰仕場居は勝軍ならでは踏留られぬものなりと、高坂弾正申されたり、いづれも芝に居るの心也、其後祇園の南林にて執行ひ、また其後五條河原橋の南にて興行しけるに、秀吉公伏見より上洛の時、必此橋を通り玉ふに、見物群集し妨に成しにより、四条へ移されしと也、男女打交りの狂言、猥りがはしく相聞へしゆゑ御停止と也、それより京都にて、村山又兵衛といふ役者、数度御願奉2申上1、承応二癸巳年三月かぶき物まねづくし、若衆交り之儀御高免被2成下1、明応二丙申年、四条河原中橋にて興行、今文化の年迄百五十余年に及ぶ、さすれば上方芝居役者たるべきもの、此村山氏の丹精を尊むべき事なるべし、又大阪の芝居は、寛永の始より若衆歌舞妓とてあり来りしに、道頓堀九郎右衛門町の裡下難波領に、其頃は傾城町ありけるが、此所の傾城どもを多く集め、舞台へ出し踊らせ抔して、是をお国かぶきと申たる事也、
按ずるに、大坂の芝居、今二の替り狂言の大名題、いつにても傾城と字を名題の上に置事、江戸の春狂言に曽我と下に置が如し、是は本文のごとく、寛永のむかし、傾城に狂言させたる古風の残りたるなるべし、大坂の二の替りといふは、江戸の春狂言也、顔見世も当年子の年なれば丑の年顔見せといふ、顔見せは役者坐付口上斗りにて、手打連中の手うちあり、大手組笹瀬組藤石さくら迚、四組の手打連中、替り/\に手打あり、衣装など至極立派なる事也、顔見せ十日の間、夜五つ過より始め、坐付口上済て、思ひ付の狂言二幕か三まくもする、其内夜明になる故打出し也、夫れより霜月廿日過比間の替りとて狂言を出す也、夫ゆゑ春狂言を二のかはりと申習したり、
扨此芝居は、則鹽屋九郎右衛門芝居なりしが、女かぶきの事、長く御停止となりける故、其後度々御願申上、前々の通若衆かぶきの芝居再興相叶ひ、今に興行いたす也、今の角の芝居は、大坂太右衛門といひしが、福永屋新十郎是也又大和屋甚兵衛といふ名題ありしが、元は鹽屋名題故、元へかへる、今の中の芝居也、斯の如く京大坂の芝居は有来る芝居名題をかり請、いづれの役者にても、金主方よろしき輩座元を勤る事也、依て名題は誰座元誰と記す也、江戸三芝居は又別格の違ひにて、三座とも元祖より太夫元一名にして、惣役者迄も主人と称す、江戸三芝居の事は、末にくわしくしるす(『劇場新話』上巻) 

浄瑠璃

浄瑠璃(じょうるり) 

平曲・謡曲などを源流にした音曲語り物。主として琵琶や扇拍子を用いて、ひろく民衆に迎えられた新音曲の中、「浄瑠璃姫物語」が好評だったので、浄瑠璃がこの種一連の語り物の名となった。後、輸入新楽器三味線及び人形まわしと結合して民衆劇として発展。初期には金平・播磨・加賀・説教節などの古浄瑠璃が江戸・京阪に盛行。元禄時代、竹本義太夫が諸音曲のよさを集大成し、義太夫節が完成。また、近松門左衛門と組み人形浄瑠璃を確立完成。ここに浄瑠璃は義太夫節の異名となった。(『広辞苑』第二版)
浄瑠璃の起源
浄瑠璃のはじめ
「浄瑠璃の始 一、浄瑠璃の始りは、後水尾院の皇后東福門院の仰を以て、小野のおつうと云女是を作る、浄瑠璃御前と云事を十二段の文に仕立る、則其名を浄瑠璃と呼ぶ、其十二段の切あるを以て、是を十二段と名付く、其章節は、京都におゐて、沢角検校ふしを付、謡初たり、」(『望海毎談』)

「○十寸見要集の序 浄瑠理の濫觴を尋るに、織田家の侍女、小野お通といへる秀才能筆の女有、君命によつて、矢なぎの長が娘浄瑠理姫、牛若の御事を十二段に作る、筆勢伊勢物語に似たりとかんじたまひ、岩舟検校に命じ給ひて、曲節を附させ給ひ、是より浄瑠理を一名世に晋く、宮、商、角、徴、羽の五音、変宮、変徴の二声、是を合せて七声とす、みなその土地の風俗に隋ふ、今繁栄なる三ツの律、月雪花の御江戸風俗に隋ふは、十寸見河東の一流にとゞまる、文章は誹亀をかり、自和歌三神の慮にも叶わんや、節は利休の茶杓よりもしほらしく、形体は寂然として萌さずといへども、花美は好まず、又、詫たるをも望まず、只心の直きを好み、人耳を歓しめ、我心の鬱をも散ず、尤好人によるべし、 松寿庵蛙兄」(『紙屑籠』)

「本朝に浄瑠璃と云ふ雑劇あり。昔太田道灌が召し遣へる女に浄瑠璃と云ふものあり、かたり始むと云ふ。今にその女のおれる跡を浄瑠璃坂と云ふ所江戸にありと云ふ。又一説に織田信長公の時に小野小通(豊臣秀頼の母堂淀殿の祐筆とも云ふ)といふ。牛若丸鞍馬をしのび出て吉次信高に伴ひ奥州へ下り給ひし比、三河州矢矯の宿の長が娘浄瑠璃姫に通じ玉へる事を十二段と云ふ草紙につくりけるを、熊野検校といひし者音曲に達しける間それにふしをつけて語りけり。其後薩摩浄雲といふもの彼の検校より一ふしを習ひ得て西の宮の人形舞しをかたらひ、人形に仕形をさせ十二段をかたりけるよりはじまると云ふ。狂言づくしと云ふも、永禄年中名護屋三左衛門といひし者歌をうたひ、舞をまふこと上手なりければ、自然と拍子にかなひ身のかろき事猿のごとし。これに因りて異名を猿若と呼ぶ。狂言師をさるわかと呼ぶ事これより始れり。」(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之一)

◎浄瑠璃の起源
其蜩庵翁草に云ふ、浄瑠璃の始は信長公の侍妾小野の於通と云ふもの、源の牛若と浄瑠璃姫との事を十二段に作り、節を付て諷、その題号を附ると云ふ事もなく、直に是を十二段と号し、其節の風を伝へて、総名を浄瑠璃と称す、一説には浄瑠璃は太閤秀吉の時分、文禄年中に始ると云へり、按ずるに小野のお通が作り初めし時は未だ世に流布せず、次第に世に広まりて、文禄の頃より専ら行はれしと見えたり、是を語るもの監物次郎兵衛とて両人あり、西の宮より傀儡師を呼びのぼせ、浄瑠璃に合せて人形を遣はせし、是操芝居の濫觴なり、監物は後に河内と号す、次郎兵衛は上総と号す、浄瑠璃太夫受領の始なり、それより、左内宮内などと云ふ太夫出る、其後何節と分れて其流々々に名あるもの追々出来て今の世に専ら行はるゝと云々、(『俗事百工起源』)

○浄瑠璃
信長公の侍女小野お通は秀才の女也、後に秀吉公の簾中につかふ、参州矢作浄瑠璃女が事を作、薬師の瑠璃光の縁十二神を象り十二段とし、浄瑠璃物語といふ、平家物語は、信濃前司行長が作にて、生仏といふ琵琶法師節を付たり是は岩船検校節をつくべしと也、即岩船ふしを付て、浄瑠璃といへり、其後瀧野沢角の両検校、三線に合せて曲節をかたる、又六字南無右衛門と云女太夫、四条河原に芝居を立る、慶長のころ、人形に合せて度々叡覧におよびしより、浄瑠璃太夫の受領をいたゝく事になれり、京大坂江戸に浄瑠璃太夫多くなりて、伊勢島山本角太夫岡本文弥、江戸油屋茂兵衛、四郎與吉鳥屋次郎吉、大さつま小さつま、おのがさま/\色々の流儀あり(『近代世事談』巻之三)

○「事跡合考」に、浄るり語り、説教語り、人形廻し等、悉く寛永元年以後、追々京大坂より下りたりしもの也といへり。○飛騨踊り、ひんだ節、ほそり、片撥などいへる小唄行はる(岡崎女郎衆といへる小唄も、この時代より行はれたり)。(『武江年表』寛永年中記事)

「小野お通」の関連記述は『麓の花』巻下、『参考文献余滴』にもあります。

豊後節(ぶんごぶし)

浄瑠璃の一派。宮古路豊後掾の語り出でしもの。これより分派したる常盤津・富本・清元・新内等の總称にもいふ。(『廣辞林』新訂版)

京都に宮小路国太夫節、芝居にて所作によく合し節にて、今に捨らずはやりしなり、弟子に文吾といふものあり、元文年中東都へ下り、宮小路豊後太夫と名乗、三絃相方は鳥羽屋三右衛門、弟子佐々木市蔵、三絃手附は三右衛門也、国太夫節の三絃は甚だせわしく、東都にむき兼し故、子供にも能弾るよふに、手を附替せしなり、其後、加賀太夫、数馬太夫抔とて同門あり、ワキを語り、至てはやしが、所々にて、色事、心中、欠落もの等数多有レ之ゆゑ、豊後節御停止御触被�仰出�、御法度に相成止みけり、(『江戸節根元由来記』)

常盤津(ときわず) 

常盤津節の略。浄瑠璃節の一派。常盤津文字太夫の創始。曲風は義太夫に近く、半ば語り半ば唄い、江戸の生活に適合して広く庶民階級に行きわたった。舞踊の地にも適し、歌舞伎にも密接に結びついた。(『広辞苑』第二版)
【常盤津文字太夫】(ときわずもじたゆう) 
常盤津節の創始者。初代は、京都の人。初代宮古路豊後掾の門弟。江戸に下り豊後節禁止後、常盤津と改姓。(『広辞苑』第二版)

豊後節、常盤津文字太夫、先祖は時美濃守といふ武家なり、其後、時文右衛門、かつしか小松川に住、文字太夫元祖門弟に福田伴次といふ人、別家して富本豊前掾、始小文字太夫、富本の先祖なり、此小松川文字太夫、浄瑠璃に、鐘入妹背山俤、嵐和歌野が道成寺狂言ありて、あげまくより、その袖焼給ふなと声かけて、文字太夫長袴にて出来て、上の方の対立へかゝる、でんがくにて文字太夫を隠すと和歌野になるなり、これより太夫は出語にて、文字太夫、ワキ吾妻太夫出語りして、ワキ造酒太夫、後に二代目小松川文字太夫となる、むかしの狂言古風にて、太夫を狂言中場へ長袴にて出せしは、作者の趣向也、此上るり評判よくして、大当りなりと云、(『三升屋二三治戯場書留』)

富本(とみもと) 

富本節。浄瑠璃節の一派。流祖は富本豊前掾。常盤津の分派で曲は常盤津の節まわしに技巧を加えたもの。安永・天明の頃全盛を極めた。(『広辞苑』第二版)
【富本豊前掾】(とみもとぶぜんのじょう) 
浄瑠璃太夫。初代は、初め宮古路品太夫。師文字太夫に従って常盤津小文字太夫と改めたが、一七四八年独立して富本節を樹立。受領して豊前掾、さらに筑前掾と改めた。(『広辞苑』第二版)

元祖豊前掾、常盤津の分家にして、豊後節の一流二代目豊前太夫、初め午之助、近年稀もの妙音にして、天明、寛政の頃、江戸中流行して、桜草の紋の名取数多ありて、古今の銘人なり、後に至りて豊後掾と改、いま豊前太夫は三代目の養子なり、はじめ午之助といふ、(『三升屋二三治戯場書留』)
清元(きよもと) 
清元節。浄瑠璃節の一派。延寿太夫を祖とし、文化(1804〜18)頃に始まる。曲節は富本節よりもさらに大衆的で清婉。(『広辞苑』第二版)

【清元延寿太夫】(きよもとえんじゅたゆう) 

清元節の家元。富本節から出て清元節を創始。凶漢に刺されて没。(『広辞苑』第二版)

清元の祖は、元祖豊前掾の高弟にして、始神田川新シ橋の米屋清水権次といふ、富本斎宮太夫より、後延寿斎とて剃髪す、二代目斎宮太夫、延寿斎の養子にして、始斎宮吉と云、中頃より富本を分家して、清元の流儀発して、不和となる、都古路清海太夫と改、それより後、文化十二年の顔見せ、市村座に嵐三五郎下りし年の浄瑠璃に、清元延寿太夫と改名して、これより世に清元の流儀弘り、後剃髪して延寿斎となり、文政八酉年五月廿五日横死す、倅巳三次郎、三代目延寿太夫と改名して、石町より新シ橋実家へ引越、母方の家名記して、岡村屋藤兵衛と名乗る、今世の中に流行せしは、此三代目の手がらにて、近代の稀ものなり、諸屋敷へ召れて、歌舞妓へ出勤断せしは、如何之訳やら爰にしるさず、清水より出たる清元なり、(頭書:丈朝云、延寿斎は、杉の森通り和国橋辺にて突殺されしよし、何人の所為といふ事未不レ知、此人、古今無双の美音にて、脇語りなく、一人にて語りし由、上調子三弦は、清元斎兵衛、若女形坂東秀佳が妻の親也、(『三升屋二三治戯場書留』)

新内(しんない) 

新内節の略。浄瑠璃節の一派。富士松薩摩掾の門人鶴賀新内(岡田五郎次郎)の名に拠るが、創始者は鶴賀若狭掾である。最盛期は安永(1772〜81)前後で心中道行物を主とし、泣き語りといわれる哀婉な曲節を特徴とする。(『広辞苑』第二版)
義太夫節(ぎだゆうぶし) 
上方浄瑠璃の一派。井上播磨掾の播磨節の荘重と、宇治加賀掾の嘉太夫節の艶麗とをあわせ、なお当時流行の各種音曲の長所を摂取、元禄頃、竹本義太夫が節付けにたもの、門人豊竹若太夫が別に一派を起し、竹本・豊竹の二派に分かれた。(『広辞苑』第二版)

元祖竹本義太夫は、摂州天王寺傍村之産にして、名は転教、俗五郎兵衛と云、道喜といふ人と、浄瑠璃の音曲を、井上播磨掾、清水の徳屋利兵衛、京の宇治加賀に受、其後、一個の工夫を以て、はじめて一家の音曲をひらく、世にまたこれを義太夫節と号す。二代目義太夫は、始め政太夫といふ、播州司馬喜教、後に文正翁といふ、竹本播磨掾、千日法善寺に墓あり、寛延三年庚午九月没す、石碑に、浜千鳥あとを残すやふし墨譜  竹田千前(『三升屋二三治戯場書留』)

大坂儀太夫節 天王寺辺の民にて、始は天王寺五郎兵衛といふもの、京加太夫がワキをかたれり、天性此道に妙を得て、近世の名人と云り、後に大坂にて竹本儀太夫とあらため芝居す、受領して、竹本筑後掾藤原博教といへり、今以此節を翫ふ也(『近代世事談』巻之三)

その他の浄瑠璃節

江戸節(えどぶし) 

半太夫節の異称。また、肥前節・半太夫節・河東節の総称。(『広辞苑』第二版)

浄雲節(じょううんぶし) 
江戸浄雲節 正保のころ、薩摩太夫治郎右衛門と云、江戸浄瑠璃の祖なり法体して浄雲と云、子を又さつま太夫治郎右衛門と云、浄雲弟子丹後太夫長門太夫丹波太夫の四人あり、これそのころの四天王の太夫と云、今の浄るり太夫、浄雲が血脈ならざるはなし、其むかしは端浄るり斗にて、段浄るりは浄雲に始、(『近代世事談』巻之三)

○薩摩小平太(泉州堺の産、或ひは紀州産と云ふ)、江戸に下り、中橋に於て操芝居を興行す(羅山先生、向陽・読耕の二子を誘引して、見物せられし事、先生文集にあり。さつま太夫が事、予が「声曲類簒」にしるせり)。(『武江年表』寛永年間記事)

永閑節(えいかんぶし) 

江戸永閑節 源太夫が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

河東節(かとうぶし) 

江戸浄瑠璃の一派。十寸見河東(ますみかとう)が享保年間(1716〜1736)に創始。五十年ほど隆盛。後、旦那芸としてのみ存続。優美で渋く、生粋の江戸風。代表曲「松の内」「水調子」「助六」。(『広辞苑』第二版)

○河東節 江戸半太夫十寸見河東は、江戸半太夫が家より別れ出て、一流の浄瑠理を語り伝へて、河東節といふ、品川丁天満屋市十郎が子息なり、河内屋藤兵衛といふ、川といふ心にて、文字を定紋に附る、十寸見と名乗るは、十寸見の鏡の心曇りなく、いさゝかもたがはず語り伝ふといふ心を用ゆ、初加藤藤十郎といふ、後に藤兵衛と改る、河東の元祖なり、(『紙屑籠』)江戸河東節 小田原町にして、肴をひさぎてよしあるものなり、半太夫が弟子と成一流をかたる(『近代世事談』巻之三)

外記節(げきぶし) 

江戸外記節 下りさつまと云、二代目さつま治郎右衛門が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

語斎節(ごさいぶし) 

江戸語斎節 近江太夫といふ、丹後が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

土佐節(とさぶし) 

江戸土佐節 虎之助と云、二代目さつまが弟子なり(『近代世事談』巻之三) 天和年間記事 ○この頃、土佐節浄るり流行す。(『武江年表』)

半太夫節(はんだゆうぶし) 

江戸浄瑠璃の一派。江戸半太夫を祖とし、元禄頃から明和・安永年間まで流行したが、河東節が起るに及び衰微した。(『広辞苑』第二版)江戸半太夫節 幼名は半之丞といふ、修験者何院とかやの子也、はじめは肥前太夫が門に入、後一流をかたり出せり、又塚原市左衛門と云もの、半太夫座上るりを作る、半太夫剃髪して坂本梁雲と云、東武近世の名人、今以此流儀すたらず 補注:半太夫節は嘉永二年に至りて絶たる由なり(『近代世事談』巻之三)

肥前節(ひぜんぶし) 

長門太夫が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

井上節(いのうえぶし) 

大坂井上節、井上市郎兵衛といふもの也、道に達し、京大坂にて鳴たるもの也、受領して井上播磨少掾藤原要栄と名乗り、後に京にて死、(『近代世事談』巻之三)

嘉太夫節(かだゆうぶし) 

宇治嘉太夫の語った浄瑠璃節。

京加太夫節 紀州和歌山宇治といふ所の者也、伊勢島宮内に習ひ、宇治加太夫と云、此道名誉のもの也、受領をいたゝき、加賀掾宇治好澄といへり、諷もよく名人の部に入たり、(『近代世事談』巻之三)

角太夫節(すみだゆうぶし) 

山本角太夫の語った浄瑠璃節。

その他の謡

古今節(こきんぶし) 

元禄の比、古今新左衛門といふ芝居者、諷ひ始るなり、(『江戸節根元由来記』)○古今節 元禄のころ、古今新左衛門と云芝居者うたひ始し也(『近代世事談』巻之三)
小室節(こむろぶし) 
常陸国小室の遊女町から起った馬方節。万治・寛文の頃より流行し、吉原通ひにも歌はれた。宿入の時に歌ふ。

「常州小室といへる所にも遊女あり。上は金壱歩、下は五百文より五十文まで繁昌の所なり。今馬奴のうたふ小室ぶしと言へるも、この里より出でしとかや。捨てられぬ所なり」(『好色由来揃』)

また、『日本の古典』17「井原西鶴」の池田弥三郎氏の注では「馬子唄の一種。その起りについては信州小諸、常州小室、武州小室などまちまちである。江戸では、吉原へ馬で通う時に馬子が歌ったものとして名高い」とある。

柴垣節(しばがきぶし) 

もとは北国あたりの下部の米搗歌。1655年頃江戸に行われた小唄。二人立ち並んで手を打ち、胸を打って踊り、その肱で畳を叩いて拍子を取って唄ったが、後には比丘尼が拍板(びんざさら)をすって唄うものとなったという。(『広辞苑』第二版)

北国辺の下部の米搗歌。胸を叩いて身悶えして歌ふ。後江戸に入って、明暦の頃諸国に流行した。

「明暦の比、盛に行なはれし、柴垣といふ小唄あり。これは唄ふのみにあらず、二人立ち並んで、手を拍ち胸を打つて踊る故に、柴垣を打つとも云ひし。『或古記』明暦三年の条に「此頃北国下部の米搗唄とやらんに、柴垣といふこと流布して、河原者の業となる。(略)歴々の会合にも強ひて翫ぶ。酒宴遊興の座の見物のうへは、柴垣といふ唄をうたふ拍子をとり、形はむくつけき田舎夷が、薇縄をもつて口を綴ぢられたる如くに作り髭し、座敷へまかり出でて、蓬膚を脱ぎ敲き、えも云はれぬ頬付きして、肩を打ち胸をたゝき、癲癇やむ人の狂ぜる形勢にて、右ざま左ざまに覆り、息も継ぎ敢へずあがき、俯仰に音を助け手をならして興ず云々」(柳亭種彦『還魂紙料』下)

「やつこ柴垣とて、大刀さし、作り髭をして、五人か三人にて中なるもの、音頭を取りて、色々の顔曲・手曲・足摺をして座して歌ふ。手足肱膝にて拍子をうち、小歌もあり、言葉もあり、論議問対もあり、声にきおひおくれ有りて、白眼がちにて、ゑい/\さあ/\のかけ声しげく、いさみたる躍にて、興がる見物なり。装束は裄も裾も短かめで、今織金襴にて袖なしの長羽織に、馬乗を明け、胸紐は真紅に、金紗をまぜて、釣瓶縄の太さにうたせ、大小は金銀の拵に、かいらぎ鞘に角頭巾をかぶりて、舞台に出て芸を尽くす。鼓・太鼓・さはり・三味線・小弓などにて、はやし立てたり。しぐみの面白さに、桟敷どよみ渡り、貴賤ともにぼんのくぼの髪たち、曠(正しくは月篇)胱のあたりを毛虫のはふやうにおもひて、前後左右躁ぎ立ち、我を忘るゝ風情なり。これは近比迄歌舞伎繁昌成りしが、余りに奢りて侍衆へ大坂にて推参なる事有りて、歌舞伎踊子共額髪をもぎ取られ、御停止有りければ、田楽どもすべき所作なくして、賢きより賢からんは色にかへよとて、狂言尽くしといふ事をあみたて、海道くだり・山崎下り・柴垣おどりなど、様子面白き事を巧にして、芝居をうつ。大方女がたを専らにする也。子共、額頭巾をかぶる。世人これを野郎と云ふなり。柴垣の章歌には、目出度の若松様や、枝も栄ゆる葉もしげる。柴垣ゆひたてられて、もはや此町にや住まれ申すまい。外は記すに暇あらず。この歌心にて読みし落書なるべし。されば天に口なし人をして云はしむとなれば、此度の大火事にて、江戸中武士も町人も昔の有様引替へて、柴垣を結立てられん前表かやと沙汰せり。(略)然れども又、めでた若松様とうたふは、当君の御事成るべきか。枝も栄ゆる葉も茂ると続けたるは、千代万世を治めさせ給ふべき仰せ事なりと云ひあへり」(『尾張徳川藩士津田藤兵衛房勝雑録『正事記』二)

明暦年間記事 ○柴垣といふ小唄并びに踊はやる(「還魂紙料」にくはし。此の頃狂歌「芝居をうつの山へのうつけ者夢にも一ツあはぬ手ひやうし」)。(『武江年表』)

説教節(せっきょうぶし) 

仏教の説教から発し、声明(しょうみょう)から出た和讃・講式または平曲などをとりいれ、近世初頭から盛行した民衆芸能。始めは鉦をたたきながら語る程度だったが、次第に簓・胡弓・三味線をもとりいれ、操人形劇とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文の頃で、宝永・正徳頃から義太夫節に圧倒されて衰微。説教浄瑠璃。説教。(『広辞苑』第二版)

近世前期、仏教の因果を説いた哀切な節廻しの語り物。始めは、ささら・胡弓を使って路傍で語り、のちには三味線を伴奏に使うようになった。その後、門付をする門説教も生まれた。(『好色一代男全注釈』)

道念節(どうねんぶし) 

京都に道念山三郎といふ木遣り音頭有り、貞享の比、盆の踊りに口説といふを諷ひ出したり、此節、踊りの拍子に能合たるなれば、今以是をよしとす、(『江戸節根元由来記』)○道念節 京に道念山三郎と云輿樗の音頭あり、貞享の頃、盆の躍口説といふをうたひ出したり、此節躍の拍子に、よく合たる間なれば、今以これをよしとす(『近代世事談』巻之三)

隆達節(りゅうたつぶし) 

隆達節は日蓮宗の僧なりしが、泉州堺の顕本寺の院内に住しける、故あつて還俗し、大阪薬種屋高山氏の家に入て商人となり、常に音曲を好み、小唄の一流を唄ひ出す、其唱歌やさしく、人の心を和らげ、教訓にもなりたり、世に隆達節と称す、(『江戸節根元由来記』)

寛文年間記事 ○隆達節(隆達は泉州堺の僧なり。世に在りしは元和寛永の頃なるべし。程過ぎて其曲節江戸に行はれし成るべし)、弄斎節、土手節、加賀節等の小唄流行。(『武江年表』)○隆達節 隆達は日蓮宗の僧也、泉州堺願本寺の院内に住せしがゆへあつて還俗し、大坂薬種屋高三氏の家に入て、終に商人となれり、常に音曲を好み、小歌の一流をうたひ出す、その唱雅やさしく、人の心をやはらげ、教訓にもなりたるよし、世に隆達節と称す(『近代世事談』巻之三)

囲碁

囲碁(いご)

現代では趣味娯楽の部類に入れられているが、当初は学問教養の一つとして当時の知識人僧侶などにもてはやされた。初代本因坊は信長、秀吉、家康に以後を教えていたといわれているほど、囲碁は当時の戦国武将たちの戦略的な思考に影響を与えていた。

碁はインドから中国を経て日本に伝わったという説と、約三〇〇〇年以前に中国で考案され発達したという説がある。中国では、傑(けつ・正しくは人便がない)王の家臣烏曹が創案した説、あるいは舜王が考案し、その子の商均に伝えたという説があり、さらには堯王が編み出し、その子の旦朱が受けついだともいわれている。
わが国の文献では、大宝年間(701〜4)に僧弁正が唐に渡った際に碁を打ったことが、『懐風藻』に記されている。
霊亀三年(717)、阿倍仲麻呂といっしょに唐に渡来した吉備真備が、かの地で囲碁を習得し、天平七年(735)に帰国してこれを伝えたのが、わが国での囲碁のはじまりとされる。
わが国で碁をはっきりと体系づけたのは、京都寂光寺の塔頭本因坊の住職日海上人で、後に初世本因坊算砂名人と呼ばれるようになる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はその算砂に師事し、いずれも五子を置いたと伝えられている。とくに家康は算砂を軍師として仰ぎ、天下統一ののちに碁所(ごどころ)を設け、碁道の普及をはかった。
江戸時代には徳川幕府の庇護のもと、碁道はますます盛んになり、本因坊家、安井家(初代算哲)、井上家(初代中村道碩)、林家(初世門入斎)の四つの家元が誕生、天保・弘化年間(1830〜48)は囲碁隆盛の絶頂期といわれる。
碁所が廃絶した明治維新以後は種々の団体が誕生して離合集散がくり返されたが、大正十三年(1924)大同団結がなり、本因坊秀哉名人を頭に日本棋院が設立される。その後、昭和十六年に本因坊二十一世秀哉が本因坊の世襲制を廃止し、実力選手権としたことから本因坊戦の行事が活発になり、戦後の囲碁ブームを創出せしめた。(「日本なんでもはじめ」)
『懐風藻』(かいふうそう)現存する最古の漢詩集。淡海三船(おうみのみふね)の撰と伝えられるが不詳。

蹴鞠

蹴鞠(けまり)

鹿革で作った鞠を蹴る遊戯。昔時の貴人の遊戯で、庭上で、数人が革沓をはき鞠を懸(かけい)の木の下枝より高く蹴上げることを続け、それを受けながら地面に落とさないようにする。その場所を鞠壷あるいは鞠庭といい、七間半四方が本式とされ、東北隅には桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を植える。平安末期以後盛んに行われ、飛鳥井・難波両家が師範家となる。

一、蹴鞠はいかなる心ぞ。
まりは、黄帝のつくり給へるもの也。武芸をならはすあそびなり。後漢書の梁冀伝に見たり。鞠と毬と字ことなりといへども心ろおなじ。指毬とかきてはまりうちちとよむ。手にてなぐるなり。足にて蹴を榻(正しくは足篇)鞠(たうきく)ともいふ。もとは、草をもてつくれり。毬とかくはその心か。今はかはにてくゝるを鞠とかく。鞠の字をば、きはまりとよむ。きはを略して只まりとばかり云ふか。此の事は慥の説をきかず。一の愚推也。毛詩に、叔々(正しくは足篇)たる周道、鞠為2茂草1と云へり。又鞠の字をば養なりと釈せり。をとさじははげむは、やしなふ心にもあらむ。又高なりとも釈す。まりはたかくあぐるものにて、入雲といふことありとかや。成通卿譜にも、そらへあげてくもにいり、又ふたゝびかへらぬよしいへる事あり。まりの至極か。(『塵袋』六)
蹴鞠(けまり) 
「まりけ」と同じ。「柳に蹴鞠(の模様)」〈黄・金々先生造花夢中〉▽古くは「まり」「まりけ」「しうさく」などといった。
まり(鞠)《マロ(丸)・マロビ(転)・マリ(鋺)などと同根。球形のものの意》�蹴鞠の遊戯。「まりけ」とも。庭の四方に植えてある桜・柳・松・楓などの中で、四人・六人・八人で行なう。皇極天皇の時、中大兄皇子と中臣鎌足が法典寺の庭で行なった例が古い。平安時代、貴族の間で盛んに行なわれ、末期には難波・飛鳥井などの師範の家もできて、方式がやかましくなった。「毬に身を投ぐる若君たちの花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見るとて」〈源氏若菜上〉
まりけ(鞠蹴) まり(毬)�「花の盛りには人々参り給ひてまりけなど遊ばせ給ひし所なり」〈栄花根合〉
(以上『岩波古語辞典』)

けまり(蹴鞠) クヱマリ。まりけ。略してまりとのみも云ひ、又、蹴鞠(しうきく)とも云ふ。貴人の遊戯。庭上にて、数人、革沓を穿きて、鞠を、且蹴上げ、且承けて、地に落ちしめぬ戯れなり。鞠は、鹿の革皮にて、二枚を、中にて綴りて、円く作る、径、七八寸、内に空気を満たし、軽く空にあがる。これを行ふ式、種々なれど、普通なるは、庭上に場を設く、鞠壷、又、懸りと云ふ、方、数間、四方を囲ひ、東北の隅に桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を植う、(此樹々を、切立と云ふ)四木懸と云ふ、四人、又は、六人、八人、此場内に立ちて、鞠を蹴合ふなり。此技、支那より伝はりて、古代よりありしが、崇徳天皇の比の人、大納言藤原成通、練達して、妙技を称せられ、其子孫、公家衆に、難波家、飛鳥井家と称して、数十世、此技の師範家たりき。近代世事談の三に、京都の西洞院の陳外郎杏林と云ふ者、鞠に手練して、種々の曲を蹴たり。是より、地下の者も、これを学べり、外郎派と云ふ、とあり。皇極紀、三年正月、中臣鎌子「預下中大兄於2法興寺槻樹之下1、打毬之侶上、而候2皮鞋随レ毬脱落1、取2置掌中1、前脆恭奉」 字鏡集「毬、けまり」 和妙抄、四十七蹴鞠「伝玄弾棊賦序云、漢成帝好2蹴鞠1、末利古由」 下学集、下、態芸門「蹴レ鞠」 蓋嚢抄、一、鞠「或譜には、用明天皇御宇に、唐より渡れり」 本朝月令、五月「国史云、大宝元年五月五日、奏2蹴鞠会1」 西宮記、臨時、八、蹴鞠「延喜五年三月二十日、御2仁寿殿1、召2殿上人、云々1、令2蹴鞠1」 栄花物語、三十一、殿上花見「一品宮、云々、殿上人、朝夕に参り、罷出、まりけに、小弓射など、おかしく遊べり」 同、三十六、根合「花の盛りには、人々参りて、まりけなどあそばせたまひし所なり」 享徳二年晴之御鞠之記「御鞠は、弥生の下の七日の事なりけり、云々、式部卿の皇子、今日の御まりに参らせたまふ」 吾妻鏡、四十三、建長五年三月一日「於2御所鞠御壷1、覧2童舞1」 尺素往来「近日於2禁中1、可レ有2蹴鞠御会1候、随而、懸之庭被2荘厳1候、艮桜、巽柳、坤楓、乾松、各擇2奇木怪株1、被2移栽1候」(『大言海』)

○蹴鞠(しゅうきく) 用明天皇の朝にはじまる、埃嚢抄 皇極天皇の朝、中大兄中臣鎌子など、法興寺の槻の木の下にて、鞠を打と云事、日本紀に見えたり、七十七代後白河院、みづから庭におりたち給ふ時に、大納言成道卿妙術ありて、ありおふの二神、常につかへ給ひしと也、そのゝち難波頼助輔朝臣、飛鳥井雅経卿両流をはじめられたり、今に至て鞠の御家と称、八十二代後鳥羽院、此道に長じ玉ひ、鞠の明神を崇む、後嵯峨院後深草院亀山院、つゞゐてはなはだ玩び玉ひしより世に流布し、公家武家の道を得たる人多し、そのころよりして、地下にくだりて于今専玩ぶ
外郎流 洛陽西洞院陣外郎二位杏林、鞠に手練して種々の曲を蹴たり、その子右親衛政光、父の伝へを得るそのころの地下人、専これを倣ふ、外郎派の始これなり、当時御家の流儀を学ぶ輩は、転業なりとて此流を用ひざる也、頃年地下にて上手といひしは、京菱屋市右衛門、はりま屋長右衛門後に友助、籠屋清兵衛、鞠師竹の屋藤次、同大坂の甚左衛門後に甚入、江戸綿屋五郎右衛門、服部休甫、三木可真、栗本光寿等也、其外是にかぎるべからず、国々所諸に上手多かるべけれども、聞覚へたるを記すのみ
○賀茂沓 今用鞠沓なり、洛北賀茂より始るゆへに此名あり、鴨の嘴に似たるゆへに云とは非也、上古は沓なし、裸足或は韈を用ひたり、革沓出来て後、御家にもよろしきにして用ひ給ふにより、下々専これを用也、賀茂の社家松下兵部は、鞠の誉ありて世に鳴りし人也、此兵部のはじめたる事にや
○神田沓 栗本光寿は、鞠の空といふ沓味を丹練したり、又沓の形も異なるか、光寿は神田に居す、よつて此名あり、此人近世の妙足なり、総じて此道を学ぶ人は、皆御家の門弟なれば、師とも弟子ともいはず、相談と云也、当世江戸にて玩ぶの輩、三木可真をはじめ、人皆此老人の相談に至らぬはなし、今光寿の蹴方を専とす、享保十七子冬卒齡八十歳(以上『近代世事談』巻之三)

講談

講談(こうだん)

講談という名称は明治以後のもので、江戸時代には講釈といい、講義読釈といって書籍、軍談、物語、記録類を平易に解釈して話すことを意味した。

講談の起源

平安時代の末(12世紀末)、吉岡鬼一法眼憲海にはじまるという伝承があるが根拠はない。
また、江戸時代初期に赤松法師が徳川家康の前で『源平盛衰記』『太平記』などの軍書を講じたのが講釈のはじまりともいう。
当時、こうした講釈の多くが『太平記』を読んだことから「太平記読み」とも呼ばれた。

講釈師の確立

元禄十三年(1700)、播州三木の郷士赤松青竜軒が堺で“よしず張り”を構えて軍談を講じた。また、同年名和長年の子孫を名乗る名和清左衛門が京都から江戸に出、町奉行の許可を得て浅草見附御門わきに小屋をつくり、『太平記』を講じたという。
一説に、青竜軒と清左衛門は兄弟で、青竜軒は名和の名をはばかって赤松を名乗ったのだともいわれている。
清左衛門の席は“太平記場”と呼ばれ、明治以後まで残っていた。現在の講談界では、この清左衛門を講談の祖としている。
清左衛門のあとを承けた1700年代には江戸では深井志道軒が世話講釈、神田伯竜子が軍談物、成田寿仙が“お家騒動もの”で世間を楽しませた。一方、滋野瑞竜軒は二本の扇を巧みに使い修羅場(戦場もの)の名人といわれた。
宝暦七年(1757)、馬場文耕が講釈場をつくり、今日の寄席講談の興行形式を定め、天明(1781〜9)ころから各流派を名乗る講釈専門の者が出て、今日の講談界の基礎が築かれた。
明治以降
維新後、明治政府は講釈師に新政府令を語らせ、その周知に利用する。
明治五年(1872)ころから外国物の翻案講談、政治講談などが起こり、明治三十年代までに名人上手が続出し、講談の黄金時代を築いた。

双六

双六(すごろく)

室内遊戯の一種。元は盤双六の事で、インドに起こり中国を経て奈良時代以前に日本に伝わり、古くから賭が行われた。二人が対座し、二個の采を木または竹の筒に入れて振り出し、出た目の数だけ盤に並べた棋子(駒石)を進め、早く相手の陣に入ったものを勝とする。盤は、厚さ四寸、横八寸、縦一尺二寸が標準で、中間に横に一条の間地を設け、縦に左右十二の線を設けたものが用いられる。この遊びから、江戸時代初期に現代でも遊ばれる絵双六と呼ばれるものが生まれた。

一、双六は下臈のしわざにて、かみつかたにはせぬことのやうにおもへるは、ゆへありや。
させるゆへなきか。たゞみちにたちたる博奕打の中にこのむやうに思ひならはして、それにつきて、つぢゝかの事にしなしたるにや。今の様うたふ事も、今はめくら・つじ冠者原などのこのみすることなるゆへに、かみつ方にはもてなさぬ体の事か。昔は聖武天皇曲水の宴せさせ給けるに、詩つくらぬものには五位已上に双六局をたびて、かけ物には人別に銭に三千貫をくだされけりと見えたる事あり。
又御堂の関白の町尻殿と双六うち給ひけるとき、まちじりどのゝあしのうらに道長とかきたまひけるをみつけて、われをのろひたまふとはしりたまひにけるといふこと、よつぎの大かゞみのまきにあるにや。これらを思ふには、さしもげすしきゆへあるべしともおぼえず。兼名苑には、波羅、一名六采六字也。天竺の阿育王のおとゞのつくるなり。天監年中にはじめてわたるよし見えたり。梵網経に波羅塞戯と云へるはこれか。可勘之。(『塵袋』六)

すごろく(双六)「すぐろく」の転。「百年の久しき世上の事も、わづかに碁・双六一番打つ程の事ぞ」〈錦繍段鈔五〉

すぐろく(双六)《スゴロクの古形。スグは「双」の古い字音sungを写したもの》室内遊戯の一。二人が木製の盤を隔てて対座し、黒白の駒石各十二個を自陣に並べ、別に二個の賽を交互に振り出して、その出た目の数だけ駒石を送り、早く敵陣に入ったものを勝ちとする。盤上の遊びでは碁とともに最古のもの。中国伝来。「一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六の釆」〈万三八二七〉「すぐろく打つ時の言葉にも」〈源氏若菜下〉(以上『岩波古語辞典』)

スゴロク 雙六、双六、雙陸 〔古言、スグロクの転、字の唐音ならむ、此戯れ、天竺に出で、波羅塞戯と名づく、支那に入り、初、六箸を投じ、白棊、黒棊、各、六を行る、故に、名とす、又、二つの賽に、六の目の雙び出でたるを勝とするより、名ありとも云ふ〕古く、すぐろく。二人、相、行ふ戯れ、木盤あり、(局)雙方、各、十二の格あり、各、馬、十二を並べ、黒白を以て分つ、二個の賽を竹筒に入れて、代わる代わる振り出し、其出でたる数ほど、格を数えて、馬を送り、早く、敵の格中に送り了りたる方を勝とす。道中双六と云ふは、江戸に始り、東海道五十三駅を、渦などの状に図し、中央を京都とし、数人、順に一つの賽を振り、其出でたる数ほど己が馬を送り、早く、京に到れるを勝とす、小児の玩なり。五雑組(明、謝肇制)人部、二篇「雙陸、本胡戯也、云、胡王有2弟一人1、得レ罪将レ殺レ之、其弟於2獄中1作2此戯1、以上、其意、言2孤則為レ人レ1撃、以諷レ王也」 同「曰2雙六1者、子随レ骰行、若得2雙六1、則無レ不レ勝也」 梁書、侯景伝「嘗與レ王雙陸」 唐律鑠文(元、王元亮)「雙陸、今名2選采1也」 全析兵制録「雙六、呼2新五六古1」 持統記、三年十二月「禁2断雙六1」(博奕の具としたればなり) 著聞集、十二、博奕「小野宮は、昔、惟高の皇子の、双六の質に取給へる所也」 倭名抄、四十八雑芸類「雙六、一名、六采、博奕是也、須久呂久」 万葉集、十六廿「吾妹子が、額に生ひたる、雙六の、牡牛の、鞍の上の瘡」 同、同巻十七詠2雙六頭1歌「一二之、目耳不レ有、五六、三四佐倍有、雙六乃佐叡」 枕草子、六、六十五段、つれづれなるもの「馬下りぬ双六、又、敵の賽を乞ひて、頓にも入れねば、筒を盤の上に立て」 拾遺集、十九、雑恋「すぐろくの、市ばに立てる、人妻の、逢はで巳みなむ、物にやはあらぬ」 蜻蛉日記、上、下六「すぐろく打たむと云へば、良かなり、物見づくのひにとて、女、打ちぬ」「絵雙六」官職雙六」(位階昇進)名目雙六(天台の名目)源氏雙六」(『大言海』)

○雙六 梁武帝天監年中日本へわたす、本朝二十六代武烈帝に当る、万葉一二の目のみにもあらず、四三六五さへありけりすごろくのさい、つれ/\草に云、双六の上手といひし人に、その行をとひ侍りしかは、かたんと打へからす、まけじとうつへき也、いづれの手かとくまけぬへきと案じて、其手をつかはずして一めなりとも遅くまくへき手につくへし、下略(『近代世事談』巻之三)

骰子(さいころ)

骰。さいころの起源は、紀元前3200年以降の古代エジプト王朝時代にさかのぼるという。当時のさいころは、象牙や骨で作られた小さな六面の立方体で、現在と同じように表裏の和は七となっていた。
わが国では、天平七年(735)、吉備真備が唐から囲碁とともにもたらしたといわれ、天平十八年に長忌寸意吉麿(ながのいみ おきのまろ)が双六にさいころを使用した歌を詠んでいる。以来、文献には正月に子どもたちが絵双六にさいころを用いた記録はあるが、そのほかの用途に使用された記述はみつからない。ただ、江戸時代になり、一部の遊び人たちが博奕として「丁半」という遊びに使用していたことは知られている。(『日本なんでもはじめ』)

相撲

相撲(すもう)

角力。動詞「すまふ」からきた詞。土俵内で、二人が組み合い、力を闘わせて、相手を倒すかもしくは土俵外に出すことによって勝負を争う技。上代から行われ、国技と称される。(『広辞苑』第二版)

わが国での相撲の古い形を示すものとして『古事記』に建御雷神(たけみかずちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の力競べの説話があり、この勝負によって「国譲り」が行われたとされる。また、『日本書紀』には垂仁天皇七年(638)七月七日に、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の決闘が行われ、宿禰が蹶速を蹴り倒して、踏み殺したという記述がある。
本来、わが国の相撲は、農作物の豊凶を占う神事との結びつきからはじまったもので、現在でも全国各地で行われている「奉納相撲」などにその名残りを見ることができる。また、土俵、神明造りの屋根、塩、力士が前に下げる「さがり」、横綱の注連に飾る御幣など、いずれも神事と深いかかわりがあることがわかる。
わが国の相撲は、皇極天皇の元年(642)に百済の使者をもてなすため、宮廷の兵士を集めて相撲をとらせたと『日本書紀』にあるのが歴史上の初見である。弘仁十二年(821)には宮中儀式の重要行事と定められ、相撲節会(すまいのせちえ)として以来、三百年間続いた。
相撲取りが職業化したのは寛永元年(1624)といい、元祖は明石志賀之助。江戸四谷塩町の笹寺の境内で寄相撲と称し、晴天六日、諸国相撲を公開したのがはじめで、有料勧進相撲が許されたのは貞享元年(1684)からである。
本場所は、寛政三年(1791)四月から本所の回向院境内で行われるようになったのがはじまりで、晴天十日間興行した。十五日間六場所制になったのは第二次世界大戦後である。

寛永元年(1624)甲子 二月晦日改元 ○明石志賀之助寄相撲と号し、四ツ谷塩町にて晴天六日興行す(江戸勧進角力の始めなるよおし、「古今相撲大全」に見ゆ)。
均庭云ふ、「相撲大全」誤り多し。取用ひがたし。明石志賀之助がときは、寛永にはあるべからず。其の故は延宝中の一枚摺りの絵に、これが相撲の図あり。又此のものと丸山仁太夫、京都にてすまふ取れる由物語りあり。侠客伝にも見ゆ。彼の仁太夫延宝頃のすまひ取りなり。志賀之助相撲を、江戸勧進相撲の始めといへるは、非なること知るべし。若しこれを寛永のことゝしても、いたくおくれたり。然にはあらじ。勧進すまふ上み方には、永禄以来文禄中盛りなり。四谷塩町は某の寺社の地にか、さもなくば寛文元年にも法度みえたり。猶くはしくは「嬉遊笑覧」四の巻にいへり。(『武江年表』)

横綱(よこづな)

安永二年(1773)に行司・式守五太夫の書いた記録によれば、神社、寺、城、屋敷などを建てるとき、相撲の最手(ほて=最上位の者、大関)を一人か二人招いて地鎮祭の地固め式に「しこ」を踏む儀式が行われたという。式に出る力士には五条家から式作法の奥義と秘伝を伝授した。これを『横綱之伝を免許する」といった。これは、「しこ」を踏む力士が身を清める意味で「しめなわ」を身につけて地固めの法を行うことに由来する。
この作法は寛永元年(1624)、上野寛永寺建立のころはじまったといわれ、この儀式をのちに勧進相撲の土俵の上で演出したのが、もと五条家目代を務めていた吉田追風である。
寛政元年(1789)十一月、谷風梶之助、小野川喜三郎が、はじめて吉田司家(つかさけ)から「横綱土俵入り」の免許を受け、徳川将軍が上覧相撲を催したとき「しめなわ」をしめて「土俵入り」を行った。これが「横綱土俵入り」のはじめである。
「横綱」は、はじめ地鎮祭のとき地面に張った綱をいったが、土俵入りする力士の腰にまとう「しめなわ」のこともさすようになり、やがて最上位の力士である最手の名称となった。
初代横綱は明石志賀之助とされているが、番付面に横綱が登場するのは明治二十三年(1890)五月場所十六代横綱の初代西ノ海(高砂部屋)からである。横綱が地位として成文により確定したのは明治四十二年六月、国技館開館のとき規則改正されてからであり、同時に個人優勝制度が設けられた。

土俵入り

横綱の土俵入りには雲竜型と不知火型の二つがあり、横綱はそのどちらかの型を行う。うしろの結び目が一輪になっているのが雲竜型で、蝶結びになっているのが不知火型である。これは十代横綱雲竜久吉(追手風部屋)と、十一代横綱不知火光右衛門(境川部屋)の土俵入りが評判だったことから、その名前をとったのだといわれる。

大関(おおぜき)

相撲は横綱、大関の段位が最高とされているが、昔は一番高い位の力士を最手(ほて)と呼んだ。これが大関のはじめで、江戸時代のなかごろからの呼び名である。
昔は力士のことを相撲人(すまいびと)とか防人(さきもり)といい、関所の守りに用いられたことから力士のことを「◯◯関」というようになったといわれる。また、力士が相手に勝つことを「関を取る」といった。「関取」というのは、本来大関のことをいうのだが、現在では十両以上の力士の敬称となっている。

仕切り制限時間

現在、相撲の仕切り制限時間は幕内四分、十両三分、幕下二分と決められているが、これは昭和二十五年に定められた。その前の昭和二十年に決められたのは幕内五分、十両四分、幕下三分、さらにその前の昭和三年では幕内十分、十両七分、幕下五分だが、江戸時代には立ち合いの制限時間はなかった。
仕切りに制限時間がなかったころ、ある相撲であまりに仕切りが長いので、外を一回りし食事をして帰ってみたらまだ仕切りがつづいていたという話がある。
相撲史上で最初に「待った」をかけたのは享保(1716〜36)のころ、当時天下無敵の谷風を倒すため「待った」を連発し、谷風を怒らせて勝った八角であるとされている。

弓取式

弓取式は、江州常楽寺で行われた上覧相撲で、優勝した宮居眼左衛門に織田信長が愛用の弓を与え、眼左衛門がお返しにその弓をもって土俵上で舞ったのがはじまりといわれている。

行司

奈良時代から平安時代にかけて宮廷で行われた相撲節会(すまいのせちえ)に「行事」と呼ぶ役職があり、相撲のことをとりしきった。聖武天皇のころ(724〜49)、行事人であった志賀清林の子孫が越前の吉田家に世話になった事から、その恩返しに先祖から伝わる書式のすべてを吉田家に伝えた。
後鳥羽天皇の文治二年(1186)、相撲節会再興のとき、吉田家の当主善左衛門家長が召し出されて「追風」の名を賜り、從五位、豊後守に任ぜられるとともに「行事」の上役である「相撲司家」に合わせ任ぜられ、今日の「行司」のもととなった。吉田追風家は現在熊本にあって、いまでも行司の任免権と横綱免許の任免権を持っている。
行司は相撲道に関してはあらゆることをよく知っていなければならない。また、行司が下した判定に対して力士は絶対に抗議することはできない。ただし、検査役があって、行司の判定に異議の申し立て(物言い)をし、検査役合議の上、勝敗あるいは取り直しなどの判定を行なう。行司は検査役の判定にしたがわなければならない。木村庄之助、式守伊之助は代々「立行司」として知られている。

土俵

土俵のはじまりは室町時代末期、織田信長が全国的な相撲大会を催したとき、境界線を設けたのが原型で、これがのちの江戸時代に土俵ができるもととなった。それまでは、直径四〜五間(約7.3m〜9.1m)ほどの丸い人輪をつくったなかで勝負が行われた。
元禄時代(1688〜1704)に円土俵に統一され、このときから土俵場をいままでの平面から土を盛った高い壇上に築き、外側の縁にも俵を四方に埋めて土止めとし、見物人に見やすいようにした。江戸時代後期に内径十三尺(約4m)に定められ昭和まで続いたが、昭和六年夏場所から内径十五尺(約4.5m)に広げた。俵も十三尺時代は二重土俵で、十六俵づつ二重と、徳俵四俵の「三十六俵」であったが、十五尺に改めたとき一重とし、現在では十六俵(寸のび)と徳俵四俵の計二〇俵となった。
土俵は米俵を三分にして土と小じゃりを入れた細俵とし土中に六分ぐらい埋める。円の外は一稜十八尺(約5.5m)の正方形で囲み、これをひっくるめて高さ約一〜二尺(約30〜60cm)に盛り上げる。土俵場の上には神明造りの屋根がある。これは江戸時代初期から四本柱によって支えられていたのだが、昭和二十七年秋場所から取り払われ、いまの吊るし屋根となった。四本柱には青、赤、白、黒の各色の布が巻かれていた。現在はその代わりに四色の房が垂らされている。それぞれ青龍・北東隅・春(青房)、朱雀・南東隅・夏(赤房)、白虎・南西隅・秋(白房)、玄武・北西隅・冬(黒房)といい、中国の漢代ごろに、東方、南方、西方、北方を守る四神として四方に配することが行われたことからはじまった。
土俵の北の方を正面、反対側を裏正面または向こう正面といい、正面の客席に向かって右手が東方、左手が西方となっている。

蒙御免(ごめんこうむる)

相撲の番付表の中央の一番上に「蒙御免」と書いてあるが、これは江戸時代の勧進相撲の名残りである。勧進相撲というのは神社、仏閣の建立・修理の資金を集めるために相撲を催して見物人を厚め、寄進をを勧めることで、そのために寺社奉行の許可を受けなければならなかった。「蒙御免」は、寺社奉行に届けて許可を得ているというしるし。

伝統行事

伝統行事(でんとうぎょうじ)

我が国古来に始まり、連綿と受け継がれてきた行事。それらの行事の多くは、先進文明国であった中国(隋・唐などの大陸の大国)から齎され、その文明・文化をいち早く取り入れた朝廷の宮中行事や、仏教・学問などとともに寺社で執り行う宗教行事となり、さらにそれらが民間に広まり稲作を中心とした農耕儀礼と融合した行事として我が国の風土や習慣に合わせて独自に発展し根付き、やがて社会に定着し広まったもの。それらの行事は、社会生活を営む上で重要な季節や時期を知らせ、無事息災を祈り、人々に生活のめりはりをつける年中行事あるいは祭事として現在にも受け継がれてきているが、多くはその意味が失われ、形だけとなっている。

年中行事(ねんじゅうぎょうじ)

「ねんちゅうぎょうじ」ともいう。宮中で、一年の中に一定の時期に慣例として行われる公事。民間の行事・祭事にもいう。(『広辞苑』第二版)

年中行事が年中行事であるためには、毎年決められた時に同じことが繰り返されねばならない。それをいつ行なうかは、暦という時間軸上で定められることになる。年中行事だけではない。国家の運営スケジュールそのものも暦に従う。時間を支配する暦を支配することは、王権にとって重要な要素である。暦に従って、内裏から在地社会まで同じ日に、何らかの行事を行うようになることは、王権の時間に従属することになる。年中行事が年中行事として繰り返されていくことにより、時間の循環と、そのうえに成り立つ王の統治が確認されていく。とくに一年を更新する意味をもつ正月の行事は、天皇の統治と律令国家の支配にとってきわめて重要な役割をはたす。
元日の儀礼は、天皇が大極殿に出御して朝廷に全官人が参列し、国庁では郡司層までを結集した観念的には全国家的な朝賀と、参列者を限定し内裏内で行なわれる節宴の二重構造をとる。朝賀は、その場の構造とあわせ、天皇を唯一の超越した首長とし、夷狄と奴婢を排除した擬制的共同体関係を形成する律令国家の秩序を全国家的規模で表現する儀礼となる。
それに対し正月七日節は、蕃客や夷狄の参列があり、律令国家の小帝国構造を表現する儀礼とされる。正月七日節の基本儀礼は、饗宴のほかに、イ)御弓奏、ロ)白馬の牽き回し、ハ)叙位である。このうち御弓奏は構造的に射礼・賭弓と連関すると考えられる。兵部省が天皇に弓を献上する儀礼であるが、ここに天皇の軍事指揮権と、天皇を首長とする国家成員の軍事的服属が表現される。それをうけて軍事的守衛と礼的秩序を表現するために全官人が射る十七日の射礼へとつながっていく。白馬には、年頭にそれをみると邪気祓になるという観念が根底にある。しかし、国飼馬がそれに奉仕すること、大同元年(806)以前は五位以上も装馬を進上することになっていたことを考えると、八世紀においては、五月節と同様に諸臣諸国が貢馬をすることで、天皇への臣従を年頭にあたって表現し確認するための儀礼として成立したものであったことをうかがわせる。弓と貢馬を中心に、擬制的共同体を形成する諸臣、夷狄、蕃客を従える首長としての天皇の統治と、臣従奉仕を表現しているのである。
正月二節の儀礼に表現された関係は、射礼、五月五日節、駒牽、相撲節、大儺と、行事の性格はそれぞれ異なるものの、それに奉仕する貴族・官人と天皇の関係にも表現されていた。射礼では弓矢をとり、五月五日節では馬を貢じ菖蒲の呪力を用い、相撲節では相撲人とともに相撲司に編成され、儺では桃弓・葦矢をもって疫鬼を追い、擬制的な共同体と首長である天皇に臣従し守衛することを表現している。年中行事としてそれを繰り返し表現し、確認していく、そうした具体的な行為とともに、儀式のなかにおける座が、天皇との位置関係を視覚化する。『内裏式』『儀式』などの儀式書が天皇から各参列者の座の配置、参入・着座の記述にかなりの部分をさいているのはそのためである。(略)
こうした儀式の構造は九世紀半ばころから変容しはじめる。まず天皇が出御する儀式の場からは六位以下が排除される。王卿を中心に侍従・次侍従を加えた範囲の儀式となる。たとえば元日朝賀は十世紀初めには行われなくなり、かわって王卿が清涼殿前で天皇に拝礼する小朝拝が慣例化していく。それと歩調をあわせるかのように、正殿を中心とした規格性をもった国庁域の遺構は、十〜十一世紀には廃絶するという考古学的な知見が示されている。射礼においては、全官人が天皇の前で射をする構造は分解し、天皇と王卿の弓場始、天皇・王卿と衛府官人の賭弓、公卿と衛府官人の射礼という三重構造が成立した。同様に相撲節は、王卿も天皇と同様に観者の立場になり、それに対して近衛府が相撲人を率いて奉仕する構造に転化する。五月五日節は、節会としては十世紀に分解し、近衛府の騎射手結や臨時競馬などの行事に置換されていく、大儺も追儺に変化し、王卿の家など各所でも追儺が行われ重層化していく。
こうした年中行事の各儀式の変容は、官僚機構が確立し分業と重層化が進展した結果、全官人が天皇の前に列立する必要がなくなったことによる。これは近衛による専門化と芸能化が確立したことが背景としてあり、律令国家成立当初の構造が展開し、官僚機構の上に天皇を中心とした貴族層の新たな結合と秩序が成立していったことを示している。(大日方克己『古代国家と年中行事』)

節句(せっく)

大宝元年(701)に施行された「大宝令」で、正月一日、七日、十六日、三月三日、五月五日、七月七日、十一月大嘗を節日とし、朝廷では節日の宴を節会と呼んでいた。のち、平安時代に一月一日の元日節会、七日の白馬節会(あおうまのせちえ)、十六日の踏歌節会(とうかのせちえ)、五月五日の端午節会、十一月の豊明節会(とよあかりのせちえ)の五節会と三月三日、七月七日、九月九日の節会などが行なわれていた。この朝儀の五節会に対し、公家衆以下一般の家庭では、正月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょういし)、五月五日の端午、七月七日の七夕(しちせき)、九月九日の重陽を五節供としてお祝いしていたが、鎌倉時代ころから五節会が衰え、五節供がもっぱら行なわれるようになり、明治六年(1873)に廃止されるまでつづけられていた。(『日本なんでもはじめ』)

端午の節句(子どもの日)

五月五日の端午の節句に「鯉の吹き流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からである。
五月五日の節句は、五と五を重ねるころから「重五」、ショウブを用いることから「菖蒲の節句」などと呼ばれる。古く中国では「五」と「午」が相通ずることから、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書いた。ショウブは薬草で邪気を避け、悪魔を払うと同時に火災を除くという昔からの信仰があり、節句にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴し、あるいは酒にひたして飲んだ。武家時代には「菖蒲」が「尚武」と音が通ずるために喜ばれた。平安朝のころから、子どもらはショウブで飾った紙の兜をつけ、石合戦などの遊びをした。元禄時代(1688〜1704)になって紙や木でつくった菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになるとともに、人形美術も発達して種類もふえた。
室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」を立てた。これが「鯉のぼり」のはじまりで、徳川時代になって町人たちの家々でも紙でつくった鯉を竿につけて高く掲げるようになった。
コイはもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子どもが元気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられている。

ひな祭り

五月五日の男の節句に対し、三月三日は女の節句とされ、「桃の節句」ともいう。この日、モモの花を飾って女児の健やかな成長を願う。
「雛人形」ということばは、江戸時代後期に生まれた。平安時代、貴族の子どもたちが、ふだんの遊びに用いた人形を「雛(ひいな)」と呼び、「ひいな遊び」といった。室町時代にも、公家の間では三月の節句と関係なく、雛と雛道具を若い婦人に贈る習慣があった。
雛の製作がはっきりしないが、はじめは布製で公家の正装の姿をつくったのは元禄(1688〜1704)に近いころで、江戸時代なかごろから内裏雛をはじめ、紙雛以外の人形や調度類をいろいろ飾り、雛壇を設けるようになった。

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能楽

能楽(のうがく)

日本芸能の一。能と狂言との総称。狭義にはそのうち能のみを指す。平安時代以来の猿楽から鎌倉時代になって歌舞劇が生れ、能と呼ばれた。それに対して猿楽本来の笑いを主とする演技は科白劇の形を整えて、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されて来たが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名と置きかえられた。現在、観世・宝生・金春・金剛・喜多のシテ方五流のほか、ワキ方三流(宝生・福王・高安)、狂言方二流(大蔵・和泉)、囃子方一四流がある。(『広辞苑』第二版)[関連語]能楽師。能楽堂。

『自由民・道々の輩の部』「散楽」の項参照。

能(のう) 

日本芸能の一。外来の舞楽や古来の田楽・猿楽、諸種の舞や節を折衷して、足利義満のころ、観阿彌(結崎清次)・世阿彌(元清)父子が大成した仮面楽劇。能舞台に仕手・脇・連などの役者が登場し、笛・大鼓・小鼓・太鼓の囃子に合わせて謡・舞を演じる。武家の式楽となり、観世・宝生・金剛・金春の大和猿楽の四流を四座(よざ)と称し、近世初期、喜多流が一派を立てた。「此の比の能の稽古、必ず其の物自然と仕出す事に、得たる風体有るべし」(風姿花伝)(『岩波古語辞典』)

能 〔猿楽の能芸と云ひしを、後に略して単に能と云へり〕舞楽の一種。最初は神前の舞踊なりしが、当時の舞容、音楽などを集めて大成し、後には将軍家の式楽となれり。而も猿楽の一種の能芸として立ちたるは、鎌倉時代の末ならむと云ふ。室町時代の初に、諸国の大社には、各、数座の猿楽の家あり、神事能を勤む。春日神社に結崎(後世の観世)、外山(後世の宝生)、坂戸(後世の金剛)、圓満井(後世の金春)、の四座あり。日吉神社に山階、下坂、比叡の三座、伊勢大神宮に和田、勝田、主門の三座、賀茂、住吉にもありたり。応永中、結崎次郎清次、足利義満の童坊となり、此伎を演じて寵せらる、観阿彌と称す。其子元清、世阿彌と称し、父子、新曲を製し、孫元重、音阿彌と称し、観世音の頭字を取りて観世と改称す。盛に武家に用ゐられ、観世、宝生、金剛、金春を四座の猿楽と称し、徳川時代に及べり。徳川綱吉、更に喜多の一座を立つと。能楽。さるがく(猿楽)の条をも参見せよ。 尺素往来(一乗兼良)「新座本座田楽、各可レ播2所能1候」(田楽、猿楽、友に能なり、其猿楽能は歴史上の事を演じ、単に能とも云ふ) 太平記、廿七、田楽事「新座本座の田楽を合せ、老若を分ち、能較をぞせさせける」油糟(寛永版、貞徳)「高砂の、能の面の、煤はきて」(『大言海』)

○能 東山殿の時、諷と同くはじまる、観世観阿彌始てこれをなせり、此観世は秦川勝の末流にして、俳優なれば、渠に命じて此技をなさしむ、能は神楽をやはらげたるものなれば、すゝしめのため、神事の砌執行ひ、これを神事能と云、神事を奉により、大社に属す、太神宮には和屋、勝田、主同の三座、伊勢にあり、日吉には、山階、下坂、比叡の三座近江にあり、賀茂住吉には、本座丹波新座河内法成寺摂津是三座、春日には、外山宝生結崎観世坂戸金剛圓満井今春此春日の四座は就中名誉を得たり、よつて東山殿へもたひ/\めされしと也、今春は秦氏安二十九世也、山州竹田に住居す、因て武田共云、宝生は伊賀国服部の産也、故に服部と称す

喜多は、攝湯群談に云、喜多長能、字は七太夫、泉州堺の産、乳は医師願慶と云家に武勇のほまれあり、当津勘太夫に習ひて踏舞の妙を得たり長能は喜多の始祖也、堺桜町に、長能の旧屋あり

式三番 翁は天照太神、千歳は八幡大神、鈴の太夫三番叟は春日明神と称す、諷ものは多羅尼の神道の言葉を雑へたる也、是仏者の作所と云

脇師 進藤福王春藤高安宝生新之丞等の家あり

申楽 翰林葫蘆集に云、秦川勝にはじまる、推古帝の朝厩戸皇子天神地祇を祭祀し、安国の政をしく、よつて六十六番の曲を作り、川勝に命じ、紫震殿の前にて、大優の技をなさしむ、太子此神楽の神の字をわけて、申楽と名付、説文に申(しん)も又神(しん)也といへり、大歳神申の方にある時は、猿を以これに配す、よつて猿楽と云、神楽をやはらげ、おもしろう戯をなすを、俳優といふ也、宇治拾遺に云、内侍所御神楽の夜職事家綱をめして、今宵めつらしからん申楽つかうまつれとあり、源氏乙女の巻にもさるかうかましくとあり(『近代世事談』巻之三)

勧進能(かんじんのう) 

社寺で勧進のために催す能楽。後には単にそれを名目にして入場料を取る興業をさし、江戸時代には特別の許可を要した。(『広辞苑』第二版より)

○勧進能 後花園院寛正五年甲申四月、京糺河原におゐて勧進能興行あり勧進の聖は、鞍馬青松院善盛法印、干レ時九十八歳なり、猿楽は観世太夫音阿彌、干レ時三十六歳、その子又三郎ともにこれをつとむる、是勧進能のはじめ也、東山慈照院殿御上覧あり、

初日(四月五日) 御一献 還御、管領細川勝元仮亭にて饗レ之、
演目 相生 みるまの長者 八島 かくれがさ 三井寺 さるひき 邯鄲 見ち 源氏供養 くはいちう 丹後物狂 八幡のまへ 鵜飼

二日 御一献 還御、畠山尾張守政長宅饗レ之、
演目 鵜羽 ひけかいたて 敦盛 うさま 山姥 大か小か 春近 鬼のまめ 松風 いものし 自然居士 ししやく 恋のおもに

三日 御一献 還御 斯波治部少輔義廣宅饗レ之
演目 白楽天 三本柱 誓願寺 こよみ 箱王曾我 あさいな 二人静 はやかき 四位少将 くらつゝみ 砧 なきむこ しき天狗 入間川 杜若 わかめ 放下僧 名とりの老女 御乞能 養老瀧

二日目、山姥の能のなかばに大地震あり、慈照院殿博士をめして御たづねありしに博士の申上るは、時節の巡りにて、さらに猿楽のゆへにあらずと考ふるによつて、次の能ありてつゝがなく、三日の能成就ありけり棧敷割などかやうの例か
細川畠山斯波各一萬疋、猿楽に授く、相伴衆衣服脱被レ下レ之と云々
諸大名より御肩衣下さるゝ事あり、かやうの例か(『近代世事談』巻之三)

【勧進】 

元は庶衆を教化し、勧めて善に向わせることの意で、そこから、社寺・仏像の建立・修繕などのために人に勧めて金品を募集すること。また、その人を言うようになった。勧進聖、勧進僧など。ここから転じて、金儲け、商いを言うようになり、さらには、乞食と同義語のようにも使われる。[関連語]勧進帳。勧進相撲。勧進舞。(『広辞苑』第二版)

狂言(きょうげん) 

能楽の狂言。平安時代に既に発達していた猿楽は、鎌倉時代になって真面目な歌舞劇である能を生んだが、他方本来の笑いの要素が洗練されて、狂言と呼ばれるせりふ劇となり、鎌倉・室町時代の主要な芸能となった。江戸初期に大蔵流・鷺流・和泉流が確立し、幕府の式楽として能とともに一日の番組に組み入れて演ぜられた。能狂言。(『広辞苑』第二版)

○狂言 能と同じうはじまる、高官高家は下へ遠く卑賤の事しろしめさず、よつて俳優にことよせ、下のありさまをしらしめんがためあらぬ事を作りことば狂はしく狂人の言葉のごとくなれば、かく名付たり、鷺派、大蔵派の二派あり、

吼歳(正しくは口偏) 堺鑑に云、大蔵某狂言におゐて名を揚、家を起せり、永徳年中、泉州堺南の庄に、少林寺と云あり、塔頭耕雲庵の住僧を、伯蔵主といへり、鎮守の稲荷の神を信じ、毎日に法施を奉れり、ある時やしろの辺にて、三足の狐を得たり、抱き帰て養育す、此狐すこぶる霊ありて、蔵主に従ひよくつかへ、賊を追難を防ぎ、未前の凶を告る、此狐の子孫、今に寺内に住すといへり、大蔵此事を狂言に作り、吼歳と称し、又釣狐ともいふ彼狐これを感じ、老翁と化して大蔵氏が狂言をつら/\視て、其能を称美し猶野狐の所作はたらきの骨髄を、悉く口伝せしめ、忽然として去、これより大蔵益妙を得て、此狂言を以家の大事とす、道に達しぬれば、かゝる奇特もありけるといへり(『近代世事談』巻之三)
歌舞伎狂言(かぶききょうげん) 
歌舞伎劇の演目。『傾奇』項の「歌舞伎」を参照ください。