歴史用語の基礎知識3風俗・風流・文化の部

文化・風流・風俗の部《風流》

茶の湯

茶の湯(ちゃのゆ)

客を招いて抹茶を立て、会席の饗応などをすること。茶会。茶の会。茶道。(『広辞苑』第二版)

茶の湯の起源

茶の湯のはじめ
茶は奈良時代初期、聖武天皇の天平元年に、宮中で李の御読経の第二日に引茶と称して僧侶に茶を賜わったとされることから、少なくともその頃、遣唐僧などによって茶種が伝えられていたと思われる。また、近江坂本の茶圓がわが国最古のものとされるが、これは最澄が唐から帰朝した際に持ち帰った茶種を植えたものとされる。
喫茶としての茶が文献に表れるのは、弘仁六年四月、嵯峨天皇が近江の唐崎に行幸した際、梵釈寺の僧永忠が茶を煎じて天皇に奉ったとある事が最初とされる。永忠は奈良時代末期に入唐し、平安初期に帰朝したが、この時喫茶の法を学んできたものと思われている。この永忠の喫茶法を理解した嵯峨天皇は、畿内および近江・丹波・播磨の諸国に令して茶種の栽培を奨励した。こうして唐風の喫茶法が公家社会に広まった。しかし、この時代の茶は、煎ずるといっても江戸初期に明から渡来した煎茶(葉茶)とは違い、淹茶(だしちゃ)と言われる法で、茶の葉を乾燥させ臼で挽き粉にし、その粉をねり固めさらに乾燥させ団茶の形で貯え、必要に応じてほぐし、これを煮淹して甘葛や生薑などの甘味や香味を加えて喫するものであったとされる。この唐風の喫茶法はもともと漢詩文に伴う文人趣味として愛好されたため、その後、遣唐使が廃され漢文学が下火になるとほとんど行われなくなった。
再び茶が日本社会に入るのは時代が下った鎌倉初期で、宋から帰朝し臨済宗を伝えた僧栄西によって、宋風の抹茶(碾茶)がもたらされた事による。栄西はその茶種を肥前の霊仙寺に茶園を造り、さらに博多の聖福寺に植えた。栄西は宋の禅僧から学んだ抹茶の法を『喫茶養生記』にまとめ、喫茶の功徳を説き、茶の栽培法や抹茶の製造法を紹介する。この時、栄西は人間の五臓五味の養生法(漢方)を説いた。それによれば肺臓は辛味を好み、肝臓は酸味、脾臓は甘味、腎臓は鹹味、心臓は苦味を好むが、日本人は辛・酸・甘・鹹の四味は好むが心臓の欲する苦味を嫌う。それで心臓を患い短命で終る人が多いとして、茶の苦味を摂取することを勧めている。こうして茶は延命長寿の妙薬として次第に広まり、庶民の間にも茶を飲む機会が生じ、地方の庄屋・名主などが村人を招いて茶寄合が催されるなど社会に受け入れられるようになる。これが茶会の原型とされるが、鎌倉末期には連歌会とともにこの茶寄合は村落共同体の結合(一味同心)を強める役目を果たし、農民の自治意識を高める機会ともなっていた。こうした事情から室町幕府になると、建武式目で懸茶(賭博)行為の禁止という名目で茶寄合は取締の対象となる。
一方、茶寄合のような集団的で感情的な楽しみ方ではなく、個人的で知性的な楽しみ方として、足利将軍や大名の間に流行するのが禅院での喫茶法で、その規式から支配層としての武家階級に好まれるようになる。ここから茶数寄と称される楽しみ方が現れ、これが東山殿足利義政の「御茶の湯」につながる流れとなる。この茶数寄は、唐物と呼ばれる舶来の茶器を中核として催された事から、各大名はきそって名器と呼ばれる茶器を手に入れ、それを茶会で披露して自慢するようになった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』及び『茶道辞典』参考)

茶の湯

茶を飲むことを中心とした遊芸。江戸末期の文化七年に稲垣休叟が編した「茶道筌蹄」によれば、仏家で奠茶(てんちゃ)、奠湯(てんとう)というにを略して、茶湯(ちゃとう)と称したのを、俗世間で茶湯(ちゃのゆ)と訓んだとある。しかし、茶湯の称呼の起源を紹鴎・利休時代と説明しているには誤りである。既に『大乗院寺社雑事記』の文明元年五月二十三日の条に「於風呂ハ茶湯在之」と見え、連歌師宗長の『宗長手記』の大永六年八月の条にも「下京茶湯とて云々」と記しているから、室町中期の東山時代に遡り得る。利休時代になると、『山上宗二記』には、「夫レ茶湯ノ起ハ」といった具合に、冒頭から茶湯の語を用いている。茶湯は、一名、数寄とも称した。しかし、茶道という語は、利休時代には求められず、同義の言葉として、茶湯の道、数寄道などと記している。(『茶道辞典』)

○茶の湯 茶礼の式は、東山義政公にはじまる、南都称名寺の珠光飲礼の事を説語す、御側の能阿弥相阿弥、近臣志野三郎左衛門尉宗信、此道にふかし、此礼は貴賤の隔なく、武士も刀を帯せず、膝をまじへて信を語り、ゆるやかなるは誠の和なり、武野紹鴎その子方寸斎宗瓦利休、その子道安、有楽三斎、織部遠州、宗和宗旦、瀬田掃部、宗拙宗佐、いづれも和尚なり
茶礼は、禅家隠遁の体を模し、質素閑静を学びたるもの也、よつて宗匠たる人を、和尚といふなり
有楽流 織田源五郎信益は信長公の弟なり、薙髪の後東山に住し、有楽と云 此流織田定置に伝る、定置は信長公の孫信定の子也、今以茶の家とす、定置の弟子は、江都粟谷爐休なり 註:有楽は大抵大阪城中に在り、その東山に住て風流を楽しめるは幾日もなからん、江戸に有楽原ありといふも附会の説なり
金森流 出雲守、後に宗和と称す
石州流 片桐石見守、後に宗関と云、宗和の弟子也
遠州流 小堀政一、薙髪して宗甫と称す、寛永の頃の御師範なり、宗甫は古田織部正重勝の弟子也、
利休流 今千家といふ、千利休は泉州堺の人也、父は千阿弥と云、名ある士の流なり、本性をかくして千の一字を名字とす、中興茶道の祖なり
袋棚 茶人紹鴎始て作る 武野大黒庵紹鴎 一関と云 我名をは大黒庵といふなれば袋棚には秘事をこめける(『近代世事談』巻之一)

ちゃのゆ【茶の湯】 イ、茶をたてるためにわかす湯。「石鼎に茶の湯を立て置きたり」(太平記三九・諸大名讒道朝)〈文明本節用集〉ロ、客を招いて抹茶をたて、会席の振舞などをすること。茶会。「新薬師堂衆方料理並びに茶の湯」〈多聞院日記文明一六・三・一〉 ちゃのゆしゃ【茶の湯者】茶道に達し、その宗匠となって生活する人。「目利きにて茶道も上手、数奇(茶道)の師匠をして世を渡るは、茶の湯者と云ふ」〈山上宗二記〉(『岩波古語辞典』)

ちゃのゆ 茶湯 〔茶の会の訛、或は茶湯(ちゃとう)と別て云ふと〕(一)蒸し作れる茶を煎じたる湯。麦湯と云ふが如し。仏に供するに、音読して、ちゃたうと云ふ。喫茶養生記(建保、栄西)「茶湯不レ飲、則生2種々病1」(二)茶の湯を飲むにつきての一種の技。異本洞房語園(享保、庄司勝富)「茶の湯、茶の会、末茶を点ずる一種の作法」 伊勢守貞忠亭御成記、大永三年八月五日「貞忠亭へ御成、云々、御ちゃの湯」 俳諧錦繍鍛(其角)「利休が茶湯道具、新古の目利」 呑海味(天文)「或は大名、或は御家門などの御茶の湯にもてなし、結構に木具、土器、金銀の亀足、云々」 茶話指月集(元禄、藤村庸軒)「雑用かけて、遠き所より、狐戸求めて、中垣の釣戸にせしを、利休さみして、かやうの事にて、其人の茶の湯見え侍る」 雅筵酔狂集、柱隠「千尋ある、陰の柱と、かくれてや、浮世に侘の、茶湯する宿」 東国紀行(天文、谷宗牧)「数寄の御茶湯、名物数を尽され」 茶湯の心得歌「見渡せば、花も紅葉も、なかりけり、浦の苫屋の、秋の夕暮」(武野紹鴎)「花をのみ、待つらむ人に、山里の、雲間の草の、春を見せばや」(千利休)(『大言海』) 

ちゃのゑ【茶の会】 客を招いて、抹茶をたてること。室町初期は、茶の種類を判定して賭物を取る享楽的なものであったが、東山時代頃から、静粛な気分を味わうものとなり、終って会席の料理が出るように変っていった。「茶の会・酒宴に若干(そくばく)の費(ついえ)を入れ」〈太平記二四・天龍寺建立〉(『岩波古語辞典』)

北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) 

天正十五年十月朔日、豊臣秀吉が京都の北野社で催した大茶会。初め十日間行う予定だったが、佐々成政の新しい領国肥後で一揆が蜂起した報を受け、途中で取り止めとなった。この茶会は、その年九月初旬、秀吉と利休、津田宗及の三人が北野社に参籠し茶湯成就の祈願を行い、数寄屋の建設を始めたことから、法楽茶湯とされている。この茶会を催すにあたって、秀吉は事前に高札で沙汰書を掲げている。それは七箇条からなり、

第一条は北野の森で向こう十日間、天気次第で大茶湯を催し、御名物ども残らず取り揃え、数寄執心の者に見せる。
第二条には、茶湯執心とあらば、若党・町人・百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶水指一つ、呑み物一つでよい。茶のない者はこがしでも苦しくない。持参すべし。
第三条には、、茶湯の座敷は北野の松原だから、畳二帖敷で事がすむ。但し、侘び者は稲掃き筵でも、ただの筵でも苦しくない。着座の順序は自由でよい。
第四条には、日本の事はいうに及ばず、苟も数寄の心がけある者は、唐国の者までも罷出でよ。
第五条には、遠国の者にまで見物させるために十月朔日まで日延べした。
第六条には、このように仰せ出されたのは侘び者を不愍に思召されてのことで、この度罷出ない者は、今後こがしを点てることも無用である。こんど罷出ない者のところへは参会することも無用と心得よ。
第七条には、特に侘び者とあらば、誰々遠国の者に拘らず、秀吉公の御点前でお茶を下される筈である、と記した。

こうして北野社の拝殿に十二畳の座敷の他、四席を設け、それぞれ秀吉秘蔵の名物茶器を飾り、四席には秀吉、利休、宗及、宗久がそれぞれ茶頭の役を務め、公家武士庶民併せて八百三人に点茶した。境内から松原にかけては千五、六百軒の数寄屋や茶屋を建てさせ、それぞれ数寄者に侘びをこらして来客を饗応させた。『多聞院日記』天正十五年十月八日の条にも「一、銀屋与太郎来、京ノ茶湯ノ様語了。茶屋千五六百ト云々」と記されている。秀吉自身も、点茶をすませて、町人・百姓たちの数寄屋や茶屋に遊び、庶民的な茶味を満喫したという。この時、美濃の一化(いっけ)、山科の丿貫(へちかん)などという侘び茶人が認められている。(『茶道辞典』)

利休七哲(りきゅうしちてつ)

千利休から茶道の直伝をいけたという七人の代表的門人。もちろん利休歿後の江戸初期に定められたもので、その標準について確証は得られない。諸書によって人名に異同がある。表千家四世江岑斎宗左の『江岑筆記』には、蒲生飛騨、細川三斎、瀬田掃部、芝山監物、高山右近、牧村兵部、古田織部の七人を挙げているが、他書には織部を除き、その代りに荒木道薫を加えたもの、織田有楽を入れたりしており、一様ではない。織部を除いたのは千家の作為とも考えられなくもない。利休には珠光相伝の秘事を授けた確証の得られる山上宗二や古田織部などがいるわけだが、これらを差し置いて、この七人を七哲と定めたのは武家本位な選び方とも見なされる。ただ、注意すべきは、この七人が台子七人衆と大略相似している点である。台子七人衆には牧村兵部と古田織部を除き、代りに羽柴秀次と木村常陸介とを加えている。秀次とその臣木村常陸介とは文禄四年謀叛の一件で高野山で死罪に処せられた。その後、この二人の代りに兵部と織部を入れて台子七人衆を補ったのが、そのまま利休七哲という名称で後世に伝えられたものかも知れない。ただ、これは推量にすぎない。(『茶道辞典』)

【台子七人衆】(だいすしちにんしゅう) 利休直伝の台子の茶法を秀吉から授けられた七人。羽柴秀次、蒲生氏郷、細川越中、木村常陸介、高山右近、瀬田掃部、芝山監物の七人をいう。『織田有楽斎直書抜書』及び『細川三斎茶書』によると、武野紹鴎から承けた台子の古法を利休が略式に改良したのを秀吉が見て賞賛に、誓詞を利休に書かせ、許可なくして他にこれを伝授することを禁じたが、秀吉自らこれを相伝するとともに、以上の七人にだけこれを伝授した。それを台子七人衆と称したとある。秀吉として有りそうなことだが、確かなことはわからない。ただ、後世、利休七哲というのも、この台子七人衆に基くらしい。(『茶道辞典』)

茶道(ちゃどう)

茶湯の道、また数寄道のこと。さどうとも訓むが、茶頭と混同しないために、殊更ちゃどうと訓むのがよい。茶湯の道のことを茶道という語で表わした例は、江戸中期以前にはまれである。唐代の文人封演の著わした『封氏見聞記』に「於是茶道大行」とあるのを初めとするが、わが国の文献では、『南坊録』巻七に「茶道ノ守神トナルベシ」と記しているのが、比較的古い例であろう。『南坊録』は利休の弟子南坊宗啓の著といわれているが、巻七は江戸中期ごろの追加と考えられる。茶道という語が茶湯の道という意味で大いに用いられたのは、むしろ明治以降のことと思われる。(『茶道辞典』)

茶の湯によって精神を修養し、これを他人と行なって交際礼法を究める道。室町時代、村田珠光を祖とし、武野紹鴎を経、千利休に至ってこれを大成、禅の精神を取り入れ、簡素清寂を本体とする侘茶をひろめた。利休の子孫は、表千家・裏千家・武者小路千家の三家に分れて今に伝わり、その他門流多く、三斎流・織部流・遠州流・薮内流・石州流・宗偏流・庸軒流などの分派を生じた。(『広辞苑』第二版)

さだう【茶道】1、茶の湯。「〔近年は〕国主、或いは一郡一城の武士も茶道に心を入れて」〈江源武鑑八〉2、茶の湯にすぐれている者。茶の湯者。「その本を知らずして、茶の手前、器を本とのみすること、茶立て坊主とは言ふべく、茶の湯者とも茶道とも言ふまじき也」〈一時随筆二〉3、《「茶堂」「茶頭」とも書く》茶の湯のことをつかさどる者。特に、近世、殿中で茶の湯をつかさどった剃髪僧衣の役。茶坊主。「夏中手習ひ茶道泰経法印勤仕了んぬ」〈大乗院雑事記康正三・四・一七〉「茶道、円明院也」〈久好茶会記慶長二・四・一四〉(『岩波古語辞典』)

茶会(ちゃのゑ)

又、ちゃのゆ。特に客を会して饗応し、濃茶、薄茶を点てて供すること。特に其作法ありて、技芸の一とす。これ茶式なり。其条、及、前条を見よ。 老人雑話(享保、江村専斎)木綿踏皮「茶の会出でられむ時、足冷えむとてなり」 武野燭談、廿七「其時、秀吉公は伏見にて利休と茶の会あり」 茶の会を行ふに、朝会、昼会、夜会の三種あり。其他、不時会と云ふもあり。此会には、客人を一時、待合に控へさせ、茶室(四畳半、四畳、三畳、二畳などの種類あり)の広狭によりて、客人を分ちて初座、後座となし、室内整頓なさば、客を初座のものより招き入れ、点茶の式、終りて室外に退く。次ぎて後座のものを招き入るなり、これを後座入と云ふ。其室内の装飾なる床の間の掛物、挿花は初座、後座と相互に変遷するものとす。下の出典を見よ。 南方録、二、不時之会「後座掛物巻て、客へ花所望すべし、又は初座花ならば取入て、秘蔵物抔外題をかざりてもよし、か様の事、時宜に寄るべし」 同、同、独客之会「客腰掛に来らば、早く迎入れ、或は懐石をも挨拶の上相伴し、或は中立の跡仕廻を急て、腰掛へ出て挨拶する類、色々主客共に心づかひ有也、後座入の事、右の如く腰掛に一所に居る故、漸湯相能成申べし、御入あれと云て先に帰るべし」 貞要集、二、一客一亭之事、附、花所望次第之事「客、座入着座を聞合、茶道口より出(主人の)、此時は客、巧者なれば、炭所望可レ申」又「客本座へ直る時に、亭主、床前へ寄、一覧申、花台を取入、勝手次第、会席を出す、後座の時は、其儘、水覆を取出、茶を立る也、花を若客生不レ申候はば、亭主花を生申候、かならず後座に炭所望可レ有レ之なり」(『大言海』)

ちゃしき 茶式 茶の湯の式。室町時代、足利義政が同朋の相阿弥、真阿弥、芸阿弥、珠光、堺浦の僧武野紹鴎、千利休などを召して茶式を定む。天正に至りて、千利休、茶式を大成すと。これ、もと禅僧より起りたれば、(俗説贅弁に、筑前国崇福寺の開山南浦紹明、正元の頃入宋し、徑山寺虚堂に嗣法し、文永四年に帰朝す。その頃、台子一かざり徑山寺より将来し、崇福寺の什物とす。是れ茶式の始めなるにや。後、台子を京都紫野大竜寺の開山夢窓へ渡り、夢窓この台子にて茶の湯を始め、茶式を定むと)禅味を尚び、和敬清寂を旨とすと云ふ。この流に千家、有楽流、遠州流、石州流、三斎流、山田宗遍流、鎮信流、不自流、金森流などあり。 木芽説「このころ(後醍醐)より茶礼と云ふ事、いひそめたれば、そのまとゐにては、いふもさらなり、さらぬ時、人の前にすすむるにも、やうやう其手わざ、ゆゑよしあることとは成にけむ、応永の比、大勝金剛院の僧正、閼伽井の顯弁上人に、茶たつるやう学びつたへて、しるしおかれたり。かく世世につたはるうちに、慈照院のおとど(足利義政)とりわきてもてはやさせ給へりしかば、そのころ奈良の称名寺に、世の中うちわびてこもりゐたる珠光と云ふもの、いみじくこのみて、これをもてあつかふこころしらひ、はた至りふかき聞えありしを、いとけうある事に聞しめして、ちかく召し給ひつつ、それに仰せて、こをもて遊ぶ種々の定めども、さたしおきてさせ給へるより、世に茶の式は定まれりとなむ、云々、さて珠光がとりなしつるおきてを、宗悟、紹鴎など云ふもの学びつぎつつ、紹鴎より千の宗易に伝えて、つひに今の世の式の如くには移り来しなりけり」 茶人大系譜「按2旧記1、晋広院義教公雖レ令3真能掌2茶事1、其道未レ盛2於当時1、至2義政将軍時1、令3珠光定2真台子之規矩1、而茶礼大備焉、従レ是真能、珠光之流分為レ二、真能之流、伝2于空海1、(右近と称す)、空海伝2之荒木道陳1、道陳伝2之宗易1、珠光之流伝2于宗陳、宗悟1、宗陳、宗悟伝2之紹鴎1、紹鴎伝2之宗易1、然則宗易伝2真能、珠光之二流1、而大2成於其道1者也」

ちゃくゎい 茶会 茶の湯の会。茶会(ちゃのゑ)。喫茶往来(僧、玄意)「昨日茶会、無2光臨1之條」
(以上『大言海』)

茶数寄(ちゃすき) 

ただ数寄ともいい、数奇とも書く。好きの宛字。茶を好くこと。初めは茶湯と限らず、和歌や連歌に用い、歌の好きなことを歌数寄といい、茶の好きなのを茶数寄といったが、茶湯が盛んになってからは、数寄といえば茶数寄を意味するようになった。古書には多く数奇の字を用いているが、漢語の数奇が不倖を意味するので、数寄の字に変えたという説もあるが、確証はない。永禄七年に真松斎春渓の著わした『分類草人木』には「近代茶ノ湯ノ道ヲ数寄ト云ハ、数ヲ寄スルナレバ、茶ノ湯ニハ物数ヲ集ムル也」と見え、また「諸芸ノ中ニ茶ノ湯ホド道具ヲ多ク集ムル者無之」とあるのも、一面の理屈であろう。初め特に数奇の字を選んだのは、奇数の美を表わしたのだという説もある。単に数奇と書いて茶のことを意味するようになったのは、室町中期以後のことで、文安年間の編にかかる『下学集』に「数奇」と見え、『宗長手記』にも「下京茶湯とて、此ごろ数奇などいひて」とある。なお、数寄の道を数寄道(すきどう)といい、数寄道に専念精進する人のことを数寄者(すきしゃ)と称した。(『茶道辞典』)

数寄屋(すきや) 

茶室を称して数寄屋ともいわれている。そもそも茶室という語が現在のように普及したのは新しいことで、利休時代から多く数寄屋・囲い・小座敷・茶湯座敷また単に座敷などと呼ばれていた。後には、別棟をなして独立的にある茶室を数寄屋、これに対し座敷続きに作られた茶室を囲いと称すべきだとしたり、数寄屋の語に風流な遊びの茶といった意味を感じて、正統の茶室と区別しようとする考え方も行われるようになった。併し、今日それらの語は、相互に明確な定義の区別があって使い分けている訳ではなく、一般に草庵風の建築手法で造られた建物を指して用いられている。(『茶道辞典』)

茶寄合(ちゃよりあい) 

農村の寄合に茶を用いたもの。喫茶を中心とした寄合をいう。中世末期の郷村において行われた。また、武士の間で行われた闘茶をも茶寄合と称したらしい。雲脚と呼ぶ粗茶を用いたので、雲脚茶会ともいわれた。茶の本非を飲みくらべる闘茶とは異なり、群飲佚遊を主とし、寄合って村の自治について相談したともいう。『建武年間記』にある「二条河原落書」に「或ハ茶寄合ト号シ、或ハ連歌会ト称シテ、莫大ノ賭ニ及ブ、其費勝ゲテ計ヘ難キ者乎」とある。(『茶道辞典』)

茶器(ちゃき) 

広義には茶の湯道具一般の総称。普通には、薄茶用の容器のこと。(『広辞苑』第二版)

茶坊主(ちゃぼうず) 

イ(剃髪の姿であるからいう)室町・江戸時代の武家の職名。茶の給仕、茶道の事をつかさどったもの。茶職。茶道坊主。数寄屋坊主。茶屋坊主。ロ(茶坊主が政治に口をはさんだことから)権力者におもねる者を罵っていう語。ハ遊戯の一。数人で輪を造った中に一人が目隠しをして入り、鬼となって、或る一人の前に「誰さん、お茶を召し上がれ」と茶台を出しながら、その人の名をいう。もし当れば、当てられた人が代って鬼となる。お茶坊主。(『広辞苑』第二版)

ちゃぼうず【茶坊主】「茶道(さだう)」3、に同じ。「だいすの間へ御座候て、茶坊主どもに枕を御取り寄せなされ、御休み候て」〈川角太閤記二〉(『岩波古語辞典』)

ちゃばうず 茶坊主 武家にて、茶道の事を掌る者の称。剃髪なるが故に云ふ。茶道。おさだう。坊主。茶禿。(『大言海』)

茶碗(ちゃわん) 

茶碗という言葉は古くは焼物全般の代名詞であったが、桃山時代ごろから今日いう茶碗をさすようになった。茶の湯に用いる茶碗は中国、朝鮮、日本の三系統に大別でき、中国には天目(曜変、油滴、玳玻盞、灰被、建盞)、青磁(砧、人形手、珠光)、染付(雲堂、呉須、祥瑞)があり、朝鮮(古くから茶人は高麗茶碗と称しているが、それは高麗時代の作品ではなく、高麗は朝鮮の代名詞として使われ、その大半は李朝時代の作品である)には雲鶴、狂言袴井戸、三島、熊川、刷毛目、玉子手、堅手、雨漏、粉引、楚白、魚屋、柿蔕、伊羅保、呉器、金海、御所丸、割高台、御本、蕎麦などがある。日本物は最も種類が多く代表的なものを挙げれば、楽(長次郎、のんこう、光悦)、瀬戸系(天目、白天目、瀬戸黒、志野、織部、黄瀬戸)、国焼(唐津、萩、信楽、伊賀、薩摩、朝日)など、他に伯庵、仁清、元贇、紅安南などが著名である。古来、一井戸、二楽、三唐津、または一楽、二萩、三唐津と呼ばれるようにこれらは特に珍重された。その形には一般的な碗形の他に、筒、半筒、端反、馬盥、編笠などがある。口作り、高台、見込にはよく作家や産地の特色が表われるため観賞上の見所とされ、また名碗と呼ばれるものには品と侘びと寂の三趣と量感、力感、浄感の三感を具備した作品が多く、そのいずれかが抜きん出ている場合にその茶碗のもつ個性として一つの美的価値をもつわけであるが、茶碗の良さは使用美において最大の効果を発揮するのであり、機能性を失った茶碗は名碗とはいえない。(『茶道辞典』)

関連用語

茶(ちゃ) 

イ、ツバキ科の常緑潅木。東南アジアの温・熱帯原産。高さ一メートル内外、葉は長楕円形で、厚く表面平滑で光沢がある。十月頃葉腋に白花を開き、観賞用には紅花種もある。果実は扁円鈍三角形で、開花の翌秋に成熟し、通常三個の種子を入れる。木の芽。ロ、茶の嫩葉(わかば)を採取して製造した飲料品。茶の嫩葉を蒸しこれを冷却してさらに炒って製する。嫩葉採取の時期は五月頃に始まるが、その遅速によって一番茶・二番茶・三番茶の別がある。湯を注いで用いるのを煎茶といい、粉にして湯にまぜて用いるのを抹茶または碾(ひき)茶という。茗。ハ、抹茶を立てること。点茶。茶の湯。(『広辞苑』第二版)

◎茶のはじまり 或書に云、昔茶の濫觴は仁安三年四月栄西禅師入唐、其後帰朝の節、茶の実を持参。筑前の国脊振山に植ゆ、是我朝茶の始也、其種を山城国栂の尾に植、又喜撰法師、宇治山に植る、挽茶煎茶を製し、最上の名茶と成る、故に茶を名付て喜せんと唱へ、其の色の黄なる故、山吹と唱へ、又江州信楽一森村などにも名茶を出す、一森といふ、濃茶初昔は、春は八十八夜より廿一日目に摘を名付て初昔といふ、八十八夜より廿二日目に摘を後むかしと云ふ、(『俗事百工起源』)

○茶 日本記に云、弘仁六年に、五十二代嵯峨帝、江州滋賀へ御幸ありし時、崇福寺の大僧都永忠みづから茶を煎じて奉るとあり、此時代は唐茶にて、日本に茶を植さるなり、八十三代土御門院の御宇、建仁寺の開祖千光国師栄西、宋に入り茶の種を得て帰朝す、明恵上人此種を栂尾を茶山と称す、その種たる所を深瀬と云て今に存す、その作る所の茶を、また宋へ渡す、宋人の詩に幸得2梅山信1、嘗2日本茶1と作りてほうびの詩を越したり、(梅山は栂山の事也、梅と栂、字義同じ)其後宇治にうつす、又仁和寺醍醐葉室、大和の室生、伊賀の服部、伊勢の河上駿河の清光、武蔵河越など、栂尾宇治にならびて上品とあり、是みなせんじ茶なり、凡日本に茶種そめて、今享保に至る事五百有余年也、東鑑に葉上の僧正茶一盞を実朝公へ献じ、茶の徳を記せる書をさゝげし事あり(『近代世事談』巻之一)

また、柳田国男氏は著書のなかで、「茶は鎌倉時代の始めごろに、えらい禅宗の僧が支那から持ってかえり、九州では肥前の背振山、それから都近くの栂尾や宇治に栽えたということになっているが、この説の半分はまちがっている。輸入をしなくとも我邦の中央山脈には、東は東京のまわりの山々から、西は九州の南のはしまで、いたるところに自然と生えていて、焼畑を止めるとまっさきに芽を吹くのは茶の木であった。ただ隣邦のようにこの葉を煎じて飲むということを、もとは知らなかっただけである」と述べている。(柳田国男「三度の食事」)

紅茶(こうちゃ) 

茶の樹の若葉をつみとり、発酵させると紅褐色となり芳香をはなつ。これを乾燥したもの。その前汁は澄んだ紅色を帯びる。主として中国・日本・インド・セイロンに産する。(『広辞苑』第二版)

インドを植民地としたイギリスを経由し、主にヨーロッパで好まれた製茶法。また、その飲料。
わが国の紅茶のはじめ
紅茶も緑茶も原料となる葉は同じだが、製法によって紅茶となり緑茶にもなる。1841年、中国種の紅茶がセイロン島へ伝えられてセイロン茶として有名になり、1873年にはじめてロンドン市場にあらわれた。
茶は、わが国へも奈良朝時代から伝えられていたが、その製品は、製造の第一段階で加熱して茶葉中の発酵作用をとめてしまう緑茶であった。紅茶は明治七年(1874)五月二十七日の『江湖叢談』に、東京銀座尾張町の甲子屋池谷権兵衛店が広告を出し、売り出したのがはじめである。明治八年、政府は勧業寮に紅茶掛を設け『紅茶製法書』を刊行して各府県に配り、紅茶づくりを奨励した。これに応じて、熊本、高知などの各県で紅茶づくりを行なってみるが、いずれも成功とはいえなかった。
こうしたなかで、台湾に進出した三井が、茶園の経営をはじめ、これが成功して日本紅茶がはじめて国際競争の場に進出するようになった。この三井紅茶がのちの「日東紅茶」である。(『日本なんでもはじめ』)

中国茶(ちゅうごくちゃ) 

紅茶の一種。主に中国で好まれた製茶法。また、その飲料。紅茶より発酵を抑えたものも有る。烏龍茶・普耳茶・ジャスミン茶などその種類は多い。

緑茶(りょくちゃ) 

製茶の一種。茶の若葉を焙炉の上で揉みやわらげ、緑色を保有させたもの。煎茶・碾茶など。主に日本で好まれる製茶法。また、その飲料。

煎茶(せんちゃ) 

葉茶を湯で煎じ出すこと。また、その飲料。また、その葉茶。特に上級のものを玉露といい、下級のものを番茶と称するのに対して、中級のものを煎茶と呼ぶ場合もある。

煎茶は当初、赤黒色(番茶色)をしていた。それを宇治田原の永谷宗七郎が十数年の苦心の末、元文三年(1738)、新茶のよい芽を摘み、湯で蒸して手でもみ、ほいろで乾かす方法を考案し、緑の煎茶を発明したとされる。これを江戸日本橋の豪商山本嘉兵衛(四代嘉道)と契約、こうして宇治の煎茶は江戸で大好評となった。四年後、売茶翁が風流道から緑茶を広めたが、全国的にひろまったのはそれから八十年後(十九世紀初頭)といわれる。
抹茶(まっちゃ) 
茶の新芽を採り、臼で碾いて粉末にしたもの。熱湯を注ぎ掻きまぜて飲む。主として茶の湯に用いる。ひきちゃ。散茶。(『広辞苑』第二版)

薄茶(うすちゃ) 

抹茶の一種。濃茶に対していう。製法は濃茶と変らないが、古木でない茶樹から採取する。点て方は濃茶と違って、一碗に茶杓で二杯すくって入れ、湯をそそぎ、茶筅でかきまわし、泡をたてる。『津田宗及茶湯日記』を見ると、利休時代にその名が現われ、濃茶は御茶、薄茶は薄茶と区別して書いてある。『茶道筌蹄』には、極詰、別儀、極揃、別儀揃の四銘を挙げている。近来、各宗匠の好みにより種々の銘ができた。(『茶道辞典』)

濃茶(こいちゃ)

抹茶の一種。薄茶に対していう。茶の老樹に簀屋根を懸けて日光を避け、その若芽を採取する。点て方は薄茶と異なり、一碗に茶杓で三杯すくい、あとは振り出して、湯を注ぎ、茶筅で練りこなし、数名の客に進める。利休時代には単に御茶といって、薄茶と区別した。古くは別儀、無上、極無上などの区別があったが、近来は極上、初昔、後昔、祖母昔、好みの白、祝の白などの他、各流家元によってさまざまな銘がつけられた。(『茶道辞典』)

「お茶」と「おやつ」

我々は朝食、昼食、夕食の三度の食事以外にも、「お茶」と称して、朝と昼の間、昼と夕の間などに軽い食べ物を口にしている。こうした農作業や普請など一日仕事の合間に、体力の復活のために休憩を兼ねて軽い食を取ることは、喫茶が一般に広まる以前から「小昼」「小ジュウハン」などと呼んで我国の農村などでこの習慣が行なわれていた。そこに茶が供されるようになり、これらの間食を「お茶」と呼ぶ習慣になったという。現在でも、野良仕事や大工仕事の合間に「お茶にしましょう」と声を掛けて、職人たちに間食を給与し休憩をとらせるのがそれだ。
こうした間食を、午前中に供されるものを「前茶」「朝お茶」「四つ茶」などといい、午後に供されるものを「八つ茶」「七つ茶」「二番茶」などと呼んだと柳田国男氏は述べている。ここにある「四つ「八つ」「七つ」は、言うまでもなく昔の時の数え方で、「四つ」は今の午前十時、「八つ」は午後二時、「七つ」は午後四時のこととなる。
現代でも、「お茶にしよう」とか「お茶でも」という時には、本当に「お茶」を飲まなくても、コーヒーやジュースなどの飲み物を飲むばかりでなく、お菓子やケーキなどを食べたり、軽い食事をすることを「お茶」と言っている。
また、「おやつ」は「お八つ」で、前述の「八つ茶」のことをいい、「おやつ」を「お三時」という家があるように、午後二時〜三時頃の間食を指していたが、現在では子供にお菓子を供することを、時間に関係なく「おやつ」と言うようになった。さらには子供のお菓子そのものを「おやつ」ともいっている。

こうした間食の習慣は我国だけに限ったことではなく、諸外国にもあって、しかも我国と同じようにそれらを「茶」や「珈琲」を代名詞に用いて呼んでいる。英語で「ティー・タイム」「コーヒー・ブレイク」などというのがそれで、イギリスなどでは特に午後のティー・タイムをアフタヌーン・ティと呼び、紅茶にケーキやスコーン、サンドウィッチなど昼食以上のボリュームのある間食を摂る習慣さえある。

お茶の子

お茶受けの菓子の意。はじめはお茶受けの食べ物(生菓子)をいったが、のちには朝食前の一仕事を行なう時に食べる食べ物をいうようになった。朝食前と同義。
日常の会話で、簡単な仕事をこなすときにいう「お茶の子さいさい」の「お茶の子」で、「こんなのお茶の子さ」というのは「こんなの朝飯前さ」というのと同じ意味である。

「今いう生菓子をなんといったかというと、百年前までの日本語はお茶の子であった。お茶の茶受けは塩出も梅干でもよかったが、何かことのある日には念入りに、こういうものをこしらえて出したので、今でも年とった人にはまだこの言葉を知っている者が少しはある。腹にたまるまでの分量は出さぬので、どうしても味をおいしくする必要があり、甘味なども少しずつこの方面から加わってきたのだが、それでもまだ田舎には、ちっとも甘くはないお茶の子、どちらかというと少しまずいお茶の子がのこっている。・・・農家の若い男女は床をはなれるとすぐに、鎌を持ち馬をひいて山へ草を刈りに行くが、その時には囲炉裏の灰の中から、昨晩入れて焼いて置いた大きな団子を掘り出して、ふうふうと灰をはたき、路々かじりながら出かけるのが、多くの農村のふつうの例であった。そうして一仕事してきてから、かえって本ものの朝飯を食べるのであった。この団子の大きさはメロンほどもあって、材料は蕎麦・稗の粉、たまに土穂といって米の調製のときに、一番あとにのこった屑籾を粉に挽いたものもある。塩も入れないのが多いから決してうまい物でないが、若い者はよろこんでこれで空腹をみたしたのであった。この団子の名はどこへ行って聴いても、大ていはお茶の子であった。すなわちもとはお茶の相手に食べたものを、後にはお茶なしに、「子」だけ食べていたのである。(略)
前には江戸といった大きな都会でも、草こそは刈りに行かなかったけれども、やはり早朝にこのお茶の子を食っていたのである。その証拠としては何によらず、それくらいな仕事はいと容易だ、またはちっともこまらないというような場合に、朝飯前だともいえばまたお茶の子だともいっていた。すなわち二つの言葉は同じで、もと朝飯を食わぬうちに、お茶の子だけで、一仕事をしていた名残である。『宝暦現来集』という書物を見ると、今から百六、七十年前の安永年間までは、朝々江戸の町を「お茶の子お茶の子」といって売りあるく商人があった。そのお茶の子は今いう鶯餅のように、餡をつつんだ餅に黄粉をまぶしたものであった。手のない家ではこれを買い取って朝茶を飲み、それで朝飯をぬきにした人が多かったということである。農家のように昧いうちから起きるのでなければ、この茶の子のあとで朝飯を食べ、それからまた昼のしたくをするというのは、なるほど必要もないことであろう。』(柳田国男「三度の食事」)

囲碁

囲碁(いご)

現代では趣味娯楽の部類に入れられているが、当初は学問教養の一つとして当時の知識人僧侶などにもてはやされた。初代本因坊は信長、秀吉、家康に以後を教えていたといわれているほど、囲碁は当時の戦国武将たちの戦略的な思考に影響を与えていた。

碁はインドから中国を経て日本に伝わったという説と、約三〇〇〇年以前に中国で考案され発達したという説がある。中国では、傑(けつ・正しくは人便がない)王の家臣烏曹が創案した説、あるいは舜王が考案し、その子の商均に伝えたという説があり、さらには堯王が編み出し、その子の旦朱が受けついだともいわれている。
わが国の文献では、大宝年間(701〜4)に僧弁正が唐に渡った際に碁を打ったことが、『懐風藻』に記されている。
霊亀三年(717)、阿倍仲麻呂といっしょに唐に渡来した吉備真備が、かの地で囲碁を習得し、天平七年(735)に帰国してこれを伝えたのが、わが国での囲碁のはじまりとされる。
わが国で碁をはっきりと体系づけたのは、京都寂光寺の塔頭本因坊の住職日海上人で、後に初世本因坊算砂名人と呼ばれるようになる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はその算砂に師事し、いずれも五子を置いたと伝えられている。とくに家康は算砂を軍師として仰ぎ、天下統一ののちに碁所(ごどころ)を設け、碁道の普及をはかった。
江戸時代には徳川幕府の庇護のもと、碁道はますます盛んになり、本因坊家、安井家(初代算哲)、井上家(初代中村道碩)、林家(初世門入斎)の四つの家元が誕生、天保・弘化年間(1830〜48)は囲碁隆盛の絶頂期といわれる。
碁所が廃絶した明治維新以後は種々の団体が誕生して離合集散がくり返されたが、大正十三年(1924)大同団結がなり、本因坊秀哉名人を頭に日本棋院が設立される。その後、昭和十六年に本因坊二十一世秀哉が本因坊の世襲制を廃止し、実力選手権としたことから本因坊戦の行事が活発になり、戦後の囲碁ブームを創出せしめた。(「日本なんでもはじめ」)
『懐風藻』(かいふうそう)現存する最古の漢詩集。淡海三船(おうみのみふね)の撰と伝えられるが不詳。

香(こう)

香木の渡来は推古天皇の時、沈木が淡路島に漂着したのを初めとし、奈良時代には遣唐僧侶によって香が伝えられたが、仏事に用いるだけであったという。この風習が、仏前や墓などで燻らせる線香であり、葬儀や法事などの焼香として現在に伝わっている。

平安期に入りその香りを楽しむ風が生まれ、座敷などでそれを焚いて燻らせ、その香りを楽しんだ。その後、茶室などでもてはやされるようになった。また、着物などにその香りを移し、現代の香水のような使い方もされた。最近では、この香の香りが精神をリラックスさせ、癒し効果が有ることから、芳香剤として愛好する人も増えている。 

木単香と練香の二種が有り、茶室などでは木単香を風炉の季節に焚き、練香は炉の季節に使用された。木単香には沈香、伽羅、白檀などが有り、練香には梅ヶ香、荷葉、侍従、黒力など数十種が有る。木単香は、木地、塗物などの香合に入れ、練香は陶磁器の香合に入れて燻らせた。また、木地などの香合に練香を入れたい場合には、椿の葉を細かく切ったものを練香の下に敷く。

香合せ(こうあわせ) 

人を左右に分け、羅国(らこく)、採蘇羅(さそら)、真名盤(まなばん)、真中(まなか)、蘇門答刺(そもたら)、伽羅(きゃら)などの香木を焚いて、その別をかぎわけ、また、その優劣を評し、勝負を定める遊び。合物(あわせもの)遊芸の一つ。
聞香(ききこう)とも云い、平安朝期に熏物合せ(香合せ)として堂上公家の間で流行した遊芸。名香合せや組み香を主とする聞香が盛んとなったのは南北朝の頃とされ、闘茶会の大立者とされる佐々木導誉はまた名香の所持者としても知られている。聞香の開祖は三条西実隆とされ、その高弟志野宗信が志野流香道を確立。その子宗温、その孫省巴にその技は世襲されるが、省巴の門弟建部隆勝が出て、その門から坂内宗拾や蜂屋宗悟などの名を知られる香道の名人が現れる。津田宗及や千宗易なども同門とされ、宗拾の弟子には古田織部や本阿弥光悦がいた。こうして香道は茶人達に学ばれ、聞香は茶湯と並び行われるようになり、その一部が茶香として茶道に取り入れられたが、聞香自体はその後衰退した。

○香道 東山慈昭院殿、始て香道の法を立らる、抑々名香二十種を左右にわかち、優劣をあらそふ、是を名香合と云、其外十主(元字は火偏)香、競馬。花月。源氏。呉越等を始。凡六十三品の法あり、所謂秘伝の香は、連理香蹴鞠香星合香(此三品あり内一品)

十種名香 東大寺 法隆寺 逍遥 三芳野 枯木 法華経 紅塵 八橋 中川 盧橘 等也
此外追加六種の名香あり、又七十種の名香、百八十六種の名香をはじめ、数品の香あり、名香本朝へ渡るは、虎関異制庭訓に云、天平年中百済国より、始て名香を貢献すとあり、又朱雀院朝閑院大臣の黒方、公任卿の承和百歩香、これ皆。合香にして、一木を用る事なし、応永のころ、京極入道道誉、一木を好て軍旅国務のいとまをたのしめり、文亀のころ香道に深き人は相阿弥 宗信 志野三郎右衛門尉行二 二階堂長秀 松田丹後守兼直 肥山左京元種 内藤大蔵祐憲 志野弥三郎盛郷 波々伯部兵庫之助省栢(夢庵)是等の人香道者なり、又法に相阿弥流志野流の二派あり(『近代世事談』巻之三) 
香合(こうごう) 
香を入れる蓋付の器。漆陶磁器、貝などで作り、茶人の愛玩物として珍重された。なかでも陶製の型物香合が賞美されていた。

双六

双六(すごろく)

室内遊戯の一種。元は盤双六の事で、インドに起こり中国を経て奈良時代以前に日本に伝わり、古くから賭が行われた。二人が対座し、二個の采を木または竹の筒に入れて振り出し、出た目の数だけ盤に並べた棋子(駒石)を進め、早く相手の陣に入ったものを勝とする。盤は、厚さ四寸、横八寸、縦一尺二寸が標準で、中間に横に一条の間地を設け、縦に左右十二の線を設けたものが用いられる。この遊びから、江戸時代初期に現代でも遊ばれる絵双六と呼ばれるものが生まれた。

一、双六は下臈のしわざにて、かみつかたにはせぬことのやうにおもへるは、ゆへありや。
させるゆへなきか。たゞみちにたちたる博奕打の中にこのむやうに思ひならはして、それにつきて、つぢゝかの事にしなしたるにや。今の様うたふ事も、今はめくら・つじ冠者原などのこのみすることなるゆへに、かみつ方にはもてなさぬ体の事か。昔は聖武天皇曲水の宴せさせ給けるに、詩つくらぬものには五位已上に双六局をたびて、かけ物には人別に銭に三千貫をくだされけりと見えたる事あり。
又御堂の関白の町尻殿と双六うち給ひけるとき、まちじりどのゝあしのうらに道長とかきたまひけるをみつけて、われをのろひたまふとはしりたまひにけるといふこと、よつぎの大かゞみのまきにあるにや。これらを思ふには、さしもげすしきゆへあるべしともおぼえず。兼名苑には、波羅、一名六采六字也。天竺の阿育王のおとゞのつくるなり。天監年中にはじめてわたるよし見えたり。梵網経に波羅塞戯と云へるはこれか。可勘之。(『塵袋』六)

すごろく(双六)「すぐろく」の転。「百年の久しき世上の事も、わづかに碁・双六一番打つ程の事ぞ」〈錦繍段鈔五〉

すぐろく(双六)《スゴロクの古形。スグは「双」の古い字音sungを写したもの》室内遊戯の一。二人が木製の盤を隔てて対座し、黒白の駒石各十二個を自陣に並べ、別に二個の賽を交互に振り出して、その出た目の数だけ駒石を送り、早く敵陣に入ったものを勝ちとする。盤上の遊びでは碁とともに最古のもの。中国伝来。「一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六の釆」〈万三八二七〉「すぐろく打つ時の言葉にも」〈源氏若菜下〉(以上『岩波古語辞典』)

スゴロク 雙六、双六、雙陸 〔古言、スグロクの転、字の唐音ならむ、此戯れ、天竺に出で、波羅塞戯と名づく、支那に入り、初、六箸を投じ、白棊、黒棊、各、六を行る、故に、名とす、又、二つの賽に、六の目の雙び出でたるを勝とするより、名ありとも云ふ〕古く、すぐろく。二人、相、行ふ戯れ、木盤あり、(局)雙方、各、十二の格あり、各、馬、十二を並べ、黒白を以て分つ、二個の賽を竹筒に入れて、代わる代わる振り出し、其出でたる数ほど、格を数えて、馬を送り、早く、敵の格中に送り了りたる方を勝とす。道中双六と云ふは、江戸に始り、東海道五十三駅を、渦などの状に図し、中央を京都とし、数人、順に一つの賽を振り、其出でたる数ほど己が馬を送り、早く、京に到れるを勝とす、小児の玩なり。五雑組(明、謝肇制)人部、二篇「雙陸、本胡戯也、云、胡王有2弟一人1、得レ罪将レ殺レ之、其弟於2獄中1作2此戯1、以上、其意、言2孤則為レ人レ1撃、以諷レ王也」 同「曰2雙六1者、子随レ骰行、若得2雙六1、則無レ不レ勝也」 梁書、侯景伝「嘗與レ王雙陸」 唐律鑠文(元、王元亮)「雙陸、今名2選采1也」 全析兵制録「雙六、呼2新五六古1」 持統記、三年十二月「禁2断雙六1」(博奕の具としたればなり) 著聞集、十二、博奕「小野宮は、昔、惟高の皇子の、双六の質に取給へる所也」 倭名抄、四十八雑芸類「雙六、一名、六采、博奕是也、須久呂久」 万葉集、十六廿「吾妹子が、額に生ひたる、雙六の、牡牛の、鞍の上の瘡」 同、同巻十七詠2雙六頭1歌「一二之、目耳不レ有、五六、三四佐倍有、雙六乃佐叡」 枕草子、六、六十五段、つれづれなるもの「馬下りぬ双六、又、敵の賽を乞ひて、頓にも入れねば、筒を盤の上に立て」 拾遺集、十九、雑恋「すぐろくの、市ばに立てる、人妻の、逢はで巳みなむ、物にやはあらぬ」 蜻蛉日記、上、下六「すぐろく打たむと云へば、良かなり、物見づくのひにとて、女、打ちぬ」「絵雙六」官職雙六」(位階昇進)名目雙六(天台の名目)源氏雙六」(『大言海』)

○雙六 梁武帝天監年中日本へわたす、本朝二十六代武烈帝に当る、万葉一二の目のみにもあらず、四三六五さへありけりすごろくのさい、つれ/\草に云、双六の上手といひし人に、その行をとひ侍りしかは、かたんと打へからす、まけじとうつへき也、いづれの手かとくまけぬへきと案じて、其手をつかはずして一めなりとも遅くまくへき手につくへし、下略(『近代世事談』巻之三)

骰子(さいころ)

骰。さいころの起源は、紀元前3200年以降の古代エジプト王朝時代にさかのぼるという。当時のさいころは、象牙や骨で作られた小さな六面の立方体で、現在と同じように表裏の和は七となっていた。
わが国では、天平七年(735)、吉備真備が唐から囲碁とともにもたらしたといわれ、天平十八年に長忌寸意吉麿(ながのいみ おきのまろ)が双六にさいころを使用した歌を詠んでいる。以来、文献には正月に子どもたちが絵双六にさいころを用いた記録はあるが、そのほかの用途に使用された記述はみつからない。ただ、江戸時代になり、一部の遊び人たちが博奕として「丁半」という遊びに使用していたことは知られている。(『日本なんでもはじめ』)

能楽

能楽(のうがく)

日本芸能の一。能と狂言との総称。狭義にはそのうち能のみを指す。平安時代以来の猿楽から鎌倉時代になって歌舞劇が生れ、能と呼ばれた。それに対して猿楽本来の笑いを主とする演技は科白劇の形を整えて、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されて来たが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名と置きかえられた。現在、観世・宝生・金春・金剛・喜多のシテ方五流のほか、ワキ方三流(宝生・福王・高安)、狂言方二流(大蔵・和泉)、囃子方一四流がある。(『広辞苑』第二版)[関連語]能楽師。能楽堂。

『自由民・道々の輩の部』「散楽」の項参照。

能(のう) 

日本芸能の一。外来の舞楽や古来の田楽・猿楽、諸種の舞や節を折衷して、足利義満のころ、観阿彌(結崎清次)・世阿彌(元清)父子が大成した仮面楽劇。能舞台に仕手・脇・連などの役者が登場し、笛・大鼓・小鼓・太鼓の囃子に合わせて謡・舞を演じる。武家の式楽となり、観世・宝生・金剛・金春の大和猿楽の四流を四座(よざ)と称し、近世初期、喜多流が一派を立てた。「此の比の能の稽古、必ず其の物自然と仕出す事に、得たる風体有るべし」(風姿花伝)(『岩波古語辞典』)

能 〔猿楽の能芸と云ひしを、後に略して単に能と云へり〕舞楽の一種。最初は神前の舞踊なりしが、当時の舞容、音楽などを集めて大成し、後には将軍家の式楽となれり。而も猿楽の一種の能芸として立ちたるは、鎌倉時代の末ならむと云ふ。室町時代の初に、諸国の大社には、各、数座の猿楽の家あり、神事能を勤む。春日神社に結崎(後世の観世)、外山(後世の宝生)、坂戸(後世の金剛)、圓満井(後世の金春)、の四座あり。日吉神社に山階、下坂、比叡の三座、伊勢大神宮に和田、勝田、主門の三座、賀茂、住吉にもありたり。応永中、結崎次郎清次、足利義満の童坊となり、此伎を演じて寵せらる、観阿彌と称す。其子元清、世阿彌と称し、父子、新曲を製し、孫元重、音阿彌と称し、観世音の頭字を取りて観世と改称す。盛に武家に用ゐられ、観世、宝生、金剛、金春を四座の猿楽と称し、徳川時代に及べり。徳川綱吉、更に喜多の一座を立つと。能楽。さるがく(猿楽)の条をも参見せよ。 尺素往来(一乗兼良)「新座本座田楽、各可レ播2所能1候」(田楽、猿楽、友に能なり、其猿楽能は歴史上の事を演じ、単に能とも云ふ) 太平記、廿七、田楽事「新座本座の田楽を合せ、老若を分ち、能較をぞせさせける」油糟(寛永版、貞徳)「高砂の、能の面の、煤はきて」(『大言海』)

○能 東山殿の時、諷と同くはじまる、観世観阿彌始てこれをなせり、此観世は秦川勝の末流にして、俳優なれば、渠に命じて此技をなさしむ、能は神楽をやはらげたるものなれば、すゝしめのため、神事の砌執行ひ、これを神事能と云、神事を奉により、大社に属す、太神宮には和屋、勝田、主同の三座、伊勢にあり、日吉には、山階、下坂、比叡の三座近江にあり、賀茂住吉には、本座丹波新座河内法成寺摂津是三座、春日には、外山宝生結崎観世坂戸金剛圓満井今春此春日の四座は就中名誉を得たり、よつて東山殿へもたひ/\めされしと也、今春は秦氏安二十九世也、山州竹田に住居す、因て武田共云、宝生は伊賀国服部の産也、故に服部と称す

喜多は、攝湯群談に云、喜多長能、字は七太夫、泉州堺の産、乳は医師願慶と云家に武勇のほまれあり、当津勘太夫に習ひて踏舞の妙を得たり長能は喜多の始祖也、堺桜町に、長能の旧屋あり

式三番 翁は天照太神、千歳は八幡大神、鈴の太夫三番叟は春日明神と称す、諷ものは多羅尼の神道の言葉を雑へたる也、是仏者の作所と云

脇師 進藤福王春藤高安宝生新之丞等の家あり

申楽 翰林葫蘆集に云、秦川勝にはじまる、推古帝の朝厩戸皇子天神地祇を祭祀し、安国の政をしく、よつて六十六番の曲を作り、川勝に命じ、紫震殿の前にて、大優の技をなさしむ、太子此神楽の神の字をわけて、申楽と名付、説文に申(しん)も又神(しん)也といへり、大歳神申の方にある時は、猿を以これに配す、よつて猿楽と云、神楽をやはらげ、おもしろう戯をなすを、俳優といふ也、宇治拾遺に云、内侍所御神楽の夜職事家綱をめして、今宵めつらしからん申楽つかうまつれとあり、源氏乙女の巻にもさるかうかましくとあり(『近代世事談』巻之三)

勧進能(かんじんのう) 

社寺で勧進のために催す能楽。後には単にそれを名目にして入場料を取る興業をさし、江戸時代には特別の許可を要した。(『広辞苑』第二版より)

○勧進能 後花園院寛正五年甲申四月、京糺河原におゐて勧進能興行あり勧進の聖は、鞍馬青松院善盛法印、干レ時九十八歳なり、猿楽は観世太夫音阿彌、干レ時三十六歳、その子又三郎ともにこれをつとむる、是勧進能のはじめ也、東山慈照院殿御上覧あり、

初日(四月五日) 御一献 還御、管領細川勝元仮亭にて饗レ之、
演目 相生 みるまの長者 八島 かくれがさ 三井寺 さるひき 邯鄲 見ち 源氏供養 くはいちう 丹後物狂 八幡のまへ 鵜飼

二日 御一献 還御、畠山尾張守政長宅饗レ之、
演目 鵜羽 ひけかいたて 敦盛 うさま 山姥 大か小か 春近 鬼のまめ 松風 いものし 自然居士 ししやく 恋のおもに

三日 御一献 還御 斯波治部少輔義廣宅饗レ之
演目 白楽天 三本柱 誓願寺 こよみ 箱王曾我 あさいな 二人静 はやかき 四位少将 くらつゝみ 砧 なきむこ しき天狗 入間川 杜若 わかめ 放下僧 名とりの老女 御乞能 養老瀧

二日目、山姥の能のなかばに大地震あり、慈照院殿博士をめして御たづねありしに博士の申上るは、時節の巡りにて、さらに猿楽のゆへにあらずと考ふるによつて、次の能ありてつゝがなく、三日の能成就ありけり棧敷割などかやうの例か
細川畠山斯波各一萬疋、猿楽に授く、相伴衆衣服脱被レ下レ之と云々
諸大名より御肩衣下さるゝ事あり、かやうの例か(『近代世事談』巻之三)

【勧進】 

元は庶衆を教化し、勧めて善に向わせることの意で、そこから、社寺・仏像の建立・修繕などのために人に勧めて金品を募集すること。また、その人を言うようになった。勧進聖、勧進僧など。ここから転じて、金儲け、商いを言うようになり、さらには、乞食と同義語のようにも使われる。[関連語]勧進帳。勧進相撲。勧進舞。(『広辞苑』第二版)

狂言(きょうげん) 

能楽の狂言。平安時代に既に発達していた猿楽は、鎌倉時代になって真面目な歌舞劇である能を生んだが、他方本来の笑いの要素が洗練されて、狂言と呼ばれるせりふ劇となり、鎌倉・室町時代の主要な芸能となった。江戸初期に大蔵流・鷺流・和泉流が確立し、幕府の式楽として能とともに一日の番組に組み入れて演ぜられた。能狂言。(『広辞苑』第二版)

○狂言 能と同じうはじまる、高官高家は下へ遠く卑賤の事しろしめさず、よつて俳優にことよせ、下のありさまをしらしめんがためあらぬ事を作りことば狂はしく狂人の言葉のごとくなれば、かく名付たり、鷺派、大蔵派の二派あり、

吼歳(正しくは口偏) 堺鑑に云、大蔵某狂言におゐて名を揚、家を起せり、永徳年中、泉州堺南の庄に、少林寺と云あり、塔頭耕雲庵の住僧を、伯蔵主といへり、鎮守の稲荷の神を信じ、毎日に法施を奉れり、ある時やしろの辺にて、三足の狐を得たり、抱き帰て養育す、此狐すこぶる霊ありて、蔵主に従ひよくつかへ、賊を追難を防ぎ、未前の凶を告る、此狐の子孫、今に寺内に住すといへり、大蔵此事を狂言に作り、吼歳と称し、又釣狐ともいふ彼狐これを感じ、老翁と化して大蔵氏が狂言をつら/\視て、其能を称美し猶野狐の所作はたらきの骨髄を、悉く口伝せしめ、忽然として去、これより大蔵益妙を得て、此狂言を以家の大事とす、道に達しぬれば、かゝる奇特もありけるといへり(『近代世事談』巻之三)
歌舞伎狂言(かぶききょうげん) 
歌舞伎劇の演目。『傾奇』項の「歌舞伎」を参照ください。

立花

立花(りっか)

立華とも書き、「たてばな」とも読む。華(花)道の基本的な法式。

仏前に供える三具の一つの花の法式より発達したものとされ、花のある木を立てるので、「たてばな(立花)」とも称した。これを仏像の安置されていない書院の床飾りの花としてその法式を考案したのは、瓶花の名手としても知られた六角堂の池坊専慶とされる。谷川流立花の秘伝書といわれる『仙伝書』に、「真を仏と用ひ、次に枝を神と用ひ、下草を人間と用るなり」とあるように、花木の中心をなす幹を仏と見なし、これを真と称し、「しんをすぐに立」とあるように、これを真直ぐに立てるのが立花の基本的な方式。立花に用いる花木には、季節に応じて松・桃・竹・柳・紅葉・檜などが選ばれた。池坊立花の秘伝書『華厳秘伝之大事』には、花に序破急があると説き、序の花の性格として「序は道をただしく、円く直成故、真と云ひて序の花とす」と述べ、破の花については「いかようにもなげくるひたる」とし、急の花は「いかにも尋常にいつくしく露の姿に立べし」と説いている。この序破急は、後に真行草と呼ばれ、真を本格とし、行草はこれをくずしたものとされた。序の花は三具足、荘厳の花、破の花は狂った花、急の花は左右の花、常の花瓶の花を指す。以上の三様式が立花の原則であったが、文明の末頃、池坊に当世風の立花と称する様式ができ、春夏秋冬の分別もあらわさずに、初めて目に触れる草木をも嫌わず、ただ趣の深いように花を立てる形が生まれた。しかし、木では山うつ木、ぼけ、あせび、こめ柳、草ではまんぞう花、じゅうやく、しおん、かわほねを禁花としている。これを四華四葉の禁制と称した。これは四が死に通じ、その不吉を嫌ったためであるという。室町末期の天文年間には池坊流立花の法式が大成し、天文十一年の『専応伝書』には、真・副・真隠・みこしの枝・前置などの形式が定められている。立花は、枝条を屈折するのに釘、針金などを用いる。流儀には池坊の他に、大受院、周王などの派があった。江戸中期以後、生花の普及に圧倒され立花は衰微し、現代では、華道といえば生花を指すようになった。(『茶道辞典』)

二代池坊専好は、室町期の書院飾りとして発展した『たてばな』を『立花』(りっか)に昇華させた名人である。その専好の最高の理解者であり、パトロンでもあったのが後水尾院だった。押板の掛物の前景を飾るにすぎなかった『たてばな』を、一瓶の花が自立した観賞の対象となる完結性を備えた『立花』に成長させた最大の功労者は、いわば後水尾天皇だったのである。天皇の異常とも思えるほどの立花好きと場所の提供がなかったなら、いかに二代専好といえどもこれほど見事に立花を大成することは出来なかった筈だ。(『花と火の帝』下巻)

生花(いけばな) 

活花とも書き、「せいか」とも読む。
今日の華道の一般的な形式。立花を略した形式のものが流儀花と名付けられ生まれたが江戸中期までは立花に圧倒されそれほど顧みられていなかったが、江戸末期の文化・文政期になると、大衆の生活に適する簡易な室内装飾として支持され発展した。
永禄九年の池坊専栄の伝書に「生花の事さだめりたる枝葉はなし。先さこ合を嫌ふ也。出生の姿肝要也。生物の口のとをりよりも、枝葉のさかりたるも、一色を幾所も置たるもくるしからず、草木のへだてなく、いく本にもいくる也。座敷により生物によりて心遣あるべし」と説き、草木の出生の姿を尊重することに主眼点を置いている。

生花は、一部の流儀を除き、花留で枝幹を支持し、屈折するのに器物を用いない。その形には真行草、天地人、請(うけ)、留(とめ)、流(ながし)などの称があって、遠州流、石州流、古流、未生流など数十流の流儀があり、秘事口伝と称して、みだりにその法式を伝えないものが多かった。(『茶道辞典』)

生花 平安時代から伝わる伝統芸術
わが国の伝統芸術として発展してきた生(活)花は平安時代からの歴史をもち、今日に受けつがれている。花を花瓶に挿し、あるいは壷に入れ、鉢に生ける生花の技術は、瓶花(へいか)、挿花(そうか)、盛花、投入花などがあるが、「生花」の発生は、観賞的立場(室内装飾)と仏前に供える供華(くげ)としての宗教的立場の二つが考えられる。
室町時代の中葉、八代将軍足利義満のころ、数多くの生花の名手があらわれたが、とくに京都六角堂頂法寺の司僧池坊専慶の名が有名であった。池坊では専慶を元祖としているが、その後十一世専応にいたって技芸の実を結び、十三世専好、池坊不世出の名人といわれる二世専好(十四世)らの輩出によって、池坊は生花の代名詞にまでなった。
江戸時代初期まで池坊の独占であった生花界も、時代とともに一流一流を立てるものがあらわれ、現在、池坊、小原流、草月会などをはじめ、その流派は二千とも三千ともいわれる。(「日本なんでもはじめ」)