影武者・主な登場人物




隆慶一郎の全てと池田一郎の世界、そして歴史の世界へ

影武者徳川家康


主人公

世良田 二郎三郎(せらた じろうさぶろう)(1543~1616)

隆慶一郎の創作人物。村岡素一郎氏の『史疑徳川家康』からヒントを得た。
徳川家康の影武者。関ヶ原で家康が死に、その身代わりとなって戦を闘い、見事東軍に勝利を齎した。

もの心つく頃には両親はなく、祖母に育てられるが、七歳の時、いじめっ子を刺し無縁寺智源院に入る。以後おばばとも別れ天涯孤独となる。それでも二年間は智源院の和尚に育てられ学問も教えられていたが、殺生禁断の寺で小鳥を獲った国松は、その智源院をも追われ人買い又右衛門により願人坊主酒井常光坊に売られる。それから十年、常光坊の下働きとしてこき使われることとなった。やがて常光坊も元を離れた国松は、二郎三郎と名乗り各地の紛争に傭兵として糧を得る野武士となる。三河一向一揆に雇われた時に、同じ一揆衆として戦っていた本多弥八郎と遇い、共に戦うこととなった。このことが二郎三郎の運命を決めたと言っても良いだろう。二郎三郎は弥八郎の主家康と瓜二つだったのだ。

正信は天海を通じ二郎三郎を家康に会わせた。こうして家康の影武者となった二郎三郎は、家康とともにいること十年。二郎三郎が影武者の役目を終える時は、家康の身替わりとなって死ぬ時か、家康が天下を治めた時だった。その家康に、ようやく天下を取る好機が巡ってきた。「この戦に勝てば、オレの役目も終る」二郎三郎は家康が陣した桃配山で、己の生きざまと懸離れた影武者暮しにようやく別れをつげられると内心喜ぶ。だが皮肉にも関ヶ原で刺客の手によって殺されたのは家康本人だった。

この世良田二郎三郎元信は、徳川家康の影武者として隆慶一郎が創出した人物だが、そのモデルは家康自身である。生い立ちなどは村岡素一郎の『史疑徳川家康事蹟』で家康の幼少の頃の逸話として書かれている説を二郎三郎のものとして取り入れ、名は今川家の人質となった竹千代(家康)が、今川家で元服し松平二郎(次郎)三郎元信と名乗ったものを使用した。また、姓の世良田は、家康が源氏姓を新田氏の系図から取って徳川と名乗った事からきており、その新田氏が徳川(得川)と同時に世良田をも名乗っている事からきている。言い替えれば、徳川家康も世良田二郎三郎元信も同一人物の名と言える。

二郎三郎の仲間たち

島 左近(しま さこん) (生没年不詳)

部下の「甲斐の六郎」とともに、二郎三郎を手助けする。

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甲斐の六郎(かいのろくろう) (1567〜?) 影武者徳川家康

隆慶一郎の創作人物。武田忍び。妻は風魔一族の長の娘おふう。おふうとの間に長男七郎がいる。
武田の忍びだった六郎は、武田氏が滅びると甲斐を後にした。山野をさすらい獣や川の魚を捕って暮らしていた。ある日、川で鯉を素手で捕っている時だった。偶然通りかかった島左近に目撃され、その見事な漁の腕が左近の興味を引き、六郎は左近に召し抱えられることとなる。とはいえ、六郎は何をするわけでもなく左近の家で時を過ごしていた。初めて六郎が呼ばれたのは関ヶ原の合戦でだった。「また獲物を捕ってきてくれ」左近がいう。その獲物とは内府家康公の首だった。
見事六郎は家康の暗殺に成功するが、影武者二郎三郎の働きで左近の西軍は敗走する。自ら傷を負いながらも重傷を負った左近を背負って逃げ延びた六郎は、左近とともに豊臣家を守るために残りの命を賭ける。それは影武者二郎三郎を守ることだった。(『影武者徳川家康』より

風斎(ふうさい) 影武者徳川家康

隆慶一郎の創作人物。風魔小太郎の父。
箱根山を本拠とする忍び集団風魔一族の長老風斎は、おふうの祖父でもある。晴れて夫婦になるため一族に会わせようとおふうは六郎を箱根山に案内する。その六郎を試すため風斎は六郎にさまざまな術で挑む。六郎はその攻撃を難無く交わし風斎は六郎を認めた。

【風魔一族】
風魔一族は大陸から渡来してきた一族だといわれ、一族の結束は固く容易に他所者を受け入れなかった。やがて箱根山に本拠を置き北条氏に仕えていたが、北条氏が滅びるとどこにも就かず山中での暮らしを続けていた。

『兵法・武術用語事典』「忍び」の項参照。

風魔 小太郎(ふうま こたろう) 生没年不詳 影武者徳川家康、一夢庵風流記、時代小説の愉しみ

風魔衆頭領。風斎の嫡男。

おふうの父風魔小太郎は一族の長として、左近、そして二郎三郎に協力して、秀忠、宗矩が放つ柳生忍軍に対抗する。

風魔小太郎は、北条家に仕えた三浦浄心の作といわれる『北条五代記』に「風摩は二百人の中にありてかくれなき大将。長七尺二寸、手足の筋骨あら/\敷、こゝかしこに村こぶ有て、眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。かしらは福禄寿に似て、鼻たかし」と記されている。
 
風魔忍術・北条忍術の頭目。
北条氏に仕え、足柄下郡風祭村に近い風間村を本拠とした一族で、頭目の小太郎については、一切謎となっている。
五代目小太郎について記している『北条五代記』によれば、体躯は七尺(約2m)を超える大男で、手足の筋骨荒々しくそこかしこにむら瘤がり、眼は極端に吊り上がり、黒髭の口は両脇へ広く裂け、牙が四本出ていたという。さらに頭は福禄寿に似て鼻が高く、声を出せば五十町(約5キロ以上)四方に届き、低く出せば乾いた声が波のように響き渡り不気味だったとある。
隆慶作品では、この小太郎は柔和な小男と描かれ、原哲夫氏の劇画でも人好きのする好人物に描かれている。(清水昇著『戦国忍者列伝』)

弥助(やすけ) 影武者徳川家康

風魔衆。変化の弥助と呼ばれる変装の達人。

おふう 影武者徳川家康

隆慶一郎の創作人物。女忍び。風魔小太郎の娘。甲斐の六郎の妻。

家康の側妾お梶の方に仕える女忍びおふうは、二郎三郎を見張っている時に同じ陰で働く六郎に会う。二人の役目は陰ながら二郎三郎を守ることで、同じ目的を持った二人はやがて惚れあうようになった。おふうは六郎の背後を守って二人の息はまさにぴたりと合っていたが、妊娠で現場を離脱。その後、六郎が敵の攻撃で片腕を落とすことになり、おふうは自分の離脱を悔やむのだった。

お咲(おさき) 影武者徳川家康

創作人物。風魔女忍び。おふうに替わって大御所(二郎三郎)の警護をする。

お仙(おせん) 影武者徳川家康

おふう配下の女忍び。

青蛙の藤左(あおがえるのとうざ) 影武者徳川家康

創作人物。モデルとなった人物の描写が『台徳院御実紀』にある。
武田忍びの裔。フランシスコ会宣教師ルイス・ソテーロの下で、情報収集や工作など手足となって働く。麻袋に入れた青蛙を常に持ち、それを常食とする事からこの名がついた。ある時、秀吉を暗殺しようとして捕まり、四肢の指を全て切り落された上追放され、しぶとく生残るも雇ってくれる者もなく、自殺しようとした所をソテーロに諭されキリシタンとなる。特技は縄抜け。

青地 新左衛門(あおち しんざえもん) 影武者徳川家康 

創作人物。御所忍び頭領。

※木曽忍びの流れをくむ御所忍びは、帝の身辺警護を担った。

甲斐の飛助(かいのとびすけ) 影武者徳川家康 

創作人物。武田忍び。
甲斐の六郎の遠戚(大伯父)にあたる老忍び。お梶の方配下の忍びで、大御所(二郎三郎)の警備を担当する。

原田 市郎兵衛(はらだ いちろべえ) 影武者徳川家康

創作人物。「肥前」と名乗る牢人で、島左近の替玉として左近たちに見初められる。肥前の切支丹武士。
諸国を遍歴していた事から地理に詳しく、左近らの仲間として働く。

いたちの平吉(いたちのへいきち) 影武者徳川家康

創作人物。
盗人。本多正純子飼の情報屋。

変化の弥七(へんげのやしち) 影武者徳川家康

風魔忍び

武蔵屋 伊兵衛(むさしや いへい) 影武者徳川家康

京都の呉服屋武蔵屋当主。本名加藤数馬。元仙台伊達藩士で、島左近の遠戚。後に浄与と名乗る。

弥平次(やへいじ) 影武者徳川家康

風魔の草。

徳川家康・秀忠および徳川家の側近たち

徳川 家康(とくがわ いえやす) (1542〜1616)

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『日本武術神妙記』の記述参照。

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ) (1579〜1632)

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徳川 義直(とくがわ よしなお)

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徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)

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徳川 頼房(とくがわ よりふさ) 吉原御免状、影武者徳川家康、花と火の帝、柳生刺客状

家康の十一男(二郎三郎の子)。水戸中納言。

井伊 直政(いい なおまさ) (1561〜1602)

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大久保 忠隣(おおくぼ ただちか) (1553〜1628)

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大久保 長安(おおくぼ ながやす) (1545〜1613)

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榊原 康政(さかきばら やすまさ) (1548〜1606)

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結城 秀康(ゆうき ひでやす) (1574~1607) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、鬼麿斬人剣、一夢庵風流記、柳生刺客状

幼名、於義丸。家康の次男。羽柴三河守秀康。越前宰相。母はお万の方(小督局)。正室結城晴朝養女(江戸対馬守女)。上杉景勝の押えで関ヶ原の戦いに参加せず。

3歳の時に初めて父との対面を果たす。小牧・長久手の合戦後、家康と羽柴秀吉が講和を結んだ際に、人質として秀吉の元に養子に出された。秀吉に属して諸戦に参陣したが、秀吉の甥・秀次が後継者に決まると、下総の結城家へと送られ結城家の家督を継いだ。関ヶ原の戦いでは会津上杉勢への押えとして下総宇都宮に陣し、戦後に功を認められて越前一国を領する大名となった。

鞍馬の九十九折参道で慶次郎たちと遭遇する。恐いもの知らずの秀康の行く手を遮る慶次郎一行に腹を立てたが、見事に躱され身分の高下にかかわらず気持ちよく人と接する慶次郎に惚れる。以後、しばしば慶次郎宅を訪れ慕うようになった。 

三河守秀康結城の家継れしとき。治国の要道を御指諭ありしとて伝へしは。まづ結城の家は旧家の事なれば。よく其家法を守られ。万事旧臣と相議し。上は下を疑はず。下は上へ忠誠を尽し。かたみに一躰の思ひをなすべし。大臣にあはるゝ時はよく禮容を正しうせらるべし。己が行儀正しければ下々をのづから正しくなる道理なり。朔望には臣下をよび立て国務を議し。いつも家康に対せらるゝ如く心を持るべし。目付の者はたゞ家中の善悪を糺察するのみたらず。自身より士民までの目付とおもはれよ。又国の機事を家長目付の徒と議するに。人をはらひて深密にすべきは勿論なり。さるを奸臣の習にて。主人を誘き。家長目付の密議を聞出し下々にもらすは。いづれ近臣の中に内通する者ありとしるべし。すべて主の過誤又は家政の不正を諌るものは忠臣なり。たゞ主の心にのみかなはん事を希ふは。不忠の者としるべし。下より上にむかひては。ものごと云にくきものなるを。いささかはゞからずいひ出るは。その者局量なくては出来ぬ事なり。これ等につきて臣下の賢否邪正を弁別せらるべし。こたび彼方へ召連らるゝ近臣も。かの家従来の者とわけ隔てなく。同じ様にめしつかはれよ。さて又仁道もて賞罰を沙汰せられん事肝要なり。有功を賞し有罪罰して善道に赴かしめてこそ仁道の本意なれ。されども人を賞するにしな/\″あり。忠勤の者。又は軍功ある者。又は才能ある者と。その品々をかね/\″よく監察して。濫賞なからむ様にするは真の賞典なり。人を罰するにも親族又は寵臣たり共。公法を犯さば見のがさずして。かならずそれぞれ罰を加ふべし。賞罰は国を治る釘くさびの様なるものなり。とにかく人言を納れ私見を捨る事。家門長久の基なれとくりかへし仰られし後。又卿の輔佐の臣をめし出し。かく仰諭されしからは。其方どもいづれも心を合せ和合して。一家の表鑑ともならん様に心懸よとさとされしとなん。(明良洪範)(『東照宮御実紀附録』巻二十一)

『玉輿記』に関連記述有、参照ください。

家康の側室

阿茶の局(あちゃのつぼね) (1555~1637) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

お須和。飯田久(左)衛門直政女。一位局。

旧武田家家臣の娘で、神尾孫兵衛(左衛門)忠重に嫁いでいたが、夫の死後に徳川家康の側室となる。神尾孫左衛門との間の子で神尾五兵衛守世(猪之助)がいる。

西郷局が死去した後には、秀忠・忠吉の義母として二人の養育に務めるとともに、『幕府祚胤伝』には「御隠密之御用向、従奥執政江伝達蒙」と記され、政治面でも信頼されていた。

元和六年(1620)、秀忠の五女和子が後水尾天皇の女御として入内する時には、生母の代理として上洛し、宮中の格式張った面倒な儀式を滞りなくすませ、その功をもって臣下の女性としては最高の従一位に叙せられている。

人をほっとさせる円く豊満な女性。敵をつくらぬ性格ながら聡明で家康からもっとも信頼され、且つ愛された。また、すべての側妾に慕われ、何かと相談をもちかけられる。(『影武者徳川家康』)

慶長十六年(1611)、竜徳山雲光院、阿茶局建立(馬喰町の続きなり)。(『武江年表』)

墓所は江東区三芳2丁目雲光院にある。

『玉輿記』「神尾一位の局の伝」参照。

お梶の方(おかじのかた) (1578~1642) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生刺客状

お勝の方、お八の方。安房国湊(千葉県)に生れる。父は太田道灌の後裔、太田新六郎康資、母は遠山綱景女(北条氏康養女)とされる。英勝院。

また、水戸城主江戸但馬守の娘で、家康の命で太田新六郎康資の養女となったともいわれる。 

天正十八年(1590)、家康の関東入国の際に召し出された時、お梶はまだ十三才で、家康は三十八だった。家康との間になかなか子ができなかったため、家臣松平(大河内)右衛門大夫正綱に下げ渡されたが、お梶が拒否し再び召し抱えらる。慶長十二年(1607)、ようやく懐妊し市姫をもうけるが四歳で早世。代わりに結城秀康の二男忠昌、家康十一男頼房、家康外孫振姫(池田輝政女)らを養育。

駿府城ではお奈津の方とともの奥向きの財政を管理し、金蔵の鍵を家康より預かっていた。また、大坂冬・夏の陣には男装の騎馬武者として家康に従った。家康の没後は落飾して英勝院と号し、江戸田安の比丘尼屋敷に住んだ。寛永十一年(1634)には鎌倉扇ヶ谷(太田氏の旧邸のあった地)に英勝寺を建立して、頼房の娘を養女とし、これを住持とした。以後、水戸家はこの寺を大切にし、代々の住持に姫を入れた。養子(甥)に太田備中守資宗がいる。

太田新六郎重正は道灌入道が末裔たるをもてめし出され采地をたまひ。その姉のわづか十三歳になるも同じく御側ちかくめしつかはれ。名を梶とめさる。関原の役より茶臼山の御陣営の地を勝山と改め給ひしとき。汝が名も勝と称すべしと仰られ改めしなり。この女後々御かへりみふかく。姫君一所まうけしが。早世まし/\ければ。水戸頼房卿の御母代となされ。後に英勝院尼と聞えしは是なり。(『東照宮御実紀附録』巻六)

あるとき本多。大久保。平岩などの人々御前にめし。焼火をあそばして。昔今の合戦の物語かたり合せ給ふ序に。凡食物の中にうまきといふは何ならん。をの/\申て見候へと仰らる。をのがじゝたしむものゝ事いひ出て一決せず。おかぢの局もこのとき御側にありて。茶を煎じて人々に進め。諸人のとり/\″いひあらがふを聞て。えも顔して居しを御覧じ。かぢは何を知りて笑ふや。もし思ひよりし事もあらば。いひてみよと宣ふ。人々も上言なり。局が論承らんとそゝのかせば。局さらば申てみ侍らん。凡物のうまきものは鹽にこしたるはらじ。いかほどよき調理なりとも。鹽なくば味とゝのひ難し。又万民一日も鹽なくば口腹を養ふ事あたはずといへば。諸人いづれも手を拍て驚嘆し。いかさまと感じあへり。さらば天下にまづきものは何ならんと宣へば。こたびは人々口をひらくまでもなしとて局にゆずれば。局又申は。まづきものも鹽に当たるは候まじ。いかばかりうまきものも。鹽味過れば食ふに堪ず。本味を失ふなりと申せば。御前をはじめ伺公の人々。いづれも局が聡明に感じ。これ男子ならば一方の大将奉りて。大軍をも駆使すべきに。おしき事かなとさゝやきけり。(故老諸談)(東照宮御実紀附録』巻十八)

おかぢの局。ある折白き御小袖のあかつきしを。侍女どもに命じて洗せつるに。いづれも手指を損じ血など流れいで。いとからき事に思ふ。さばかり多き御衣の事なれば。此後はあらで。新らしきをのみめさせらればいかゞと伺ひしに。汝などの愚なる婦人のしるべき道理ならねど。語りて聞せむ。出てうけたまはれとて。侍女どもあまためしあつめ給ひ。われ常に天道は第一に奢侈を悪むなり。汝等はわが財用は駿河ばかりにあるを見て。多きと思ふやと宣へば。いづれもさむ候と申す。わが宝蔵は当地に限らず。京。大坂。江戸にも金銀布帛の類充満してあれば。日毎に新衣を調したりとて。何の足らはぬ事かあらんなれども。かく多く貯置は。時として天下の人へ施さんか。はた後世子孫の末々まで積置て。国用の不足なからしめんが為に。かく一衣をもあだにせぬぞと宣ひければ。いづれも女ながらも盛諭のかしこさに。神仏など拝礼するごとく合掌して伺ひしとぞ。」又夏の御帷子も汗付ばすゝがせよとの上意にてすゝぎ置たれど。必しも一領ことに着御あるにもあらざりしとなり。(天野逸話、駿河土産)(『東照宮御実紀附録』巻二十)

墓所は瑞松寺(東京都)および英勝寺(鎌倉市扇ガ谷1丁目)にある。

阿茶の局と正反対の錐の鋭さを持つ聡明な女性。家康に成り変わった二郎三郎だったが、家臣は騙せても閨をともにする妻妾たちを騙すことはできない。中でももっとも家康に寵愛されていたお梶の方の出方が懸念された。万一騒がれて徳川家の天下が危うくなるようなら、切り捨てることもやむを得ないと忠勝らに言われて二郎三郎はお梶の方と会う。お梶の方はすぐに家康が偽者と見破るが、二郎三郎の家康にはない誠実さに好感を持つ。

やがて阿茶の局とともに側室をまとめ、二郎三郎に協力する。(『影武者徳川家康』)

『玉輿記』「英勝院殿伝」参照。

お亀の方(おかめのかた) (?-1642) 影武者徳川家康 

九男義直の母。山城国出身で、父清水清家、母田中甲清(石清水八幡宮検校)女とされる。

一説には家康の九州遠征の際見初めた豊後浦城主田原親広の娘ともいわれる。はじめは竹腰定右衛門正時に嫁し(後に石川氏に嫁ぐとも)一子伝次郎(後に左伝次正信と改め、従五位下山城守に叙せられ尾張家家老となる)をもうけるが、夫との死別後石清水八幡宮神職の志水甲斐守宗清(後に還俗して清水八右衛門と改め従五位下加賀守に叙せられ三千石を領した)の養女として家康に召され、伏見で仙千代・五郎太丸(義直)を生む。また浄土宗に深く帰依し、石清水正法寺の復興に尽力。家康の死後は落飾して相応院と号し寛永十九年(1642)閏九月、尾張名古屋で死去。なお、父清水清家は石清水八幡宮の神職(山伏という説も有る)。墓所は妙亀山相応寺(名古屋市)にある。

『玉輿記』に「義直卿御母堂相応院殿伝系」の項有り参照ください。

お仙の方(おせんのかた) (?~1619) 影武者徳川家康

家康の側妾。宮崎筑後守泰景女。
宮崎泰景は初め木曽氏に仕え、小笠氏にも奉公していたが、後に武田家の家臣となり、武田家滅亡後、信濃駒場村に住んでいたという。お仙は天正年間に召し出され、奥勤になって、その後枕席に侍るようになったとされる。元和五年(1619)十月、駿府で死亡し、初め藤枝宿の浄念寺に葬られたが、その後、生れ故郷の信州駒場村の浄久寺に改葬された。法名泰栄院。

お竹の方(おたけのかた) (?~1637) 影武者徳川家康 

家康の側妾。穴山氏の一族、市川十郎左衛門尉昌永女。三女振姫の生母。
天正十~十一年(1582~3)頃から家康に仕えたとされるが、『幕府祚胤伝』には天正八年(1580)に振姫を生んだとあり、その時期については定かではない。
寛永十四年(1637)三月十二日卒、法名良雲院。墓所は西福寺(台東区蔵前4丁目)にある。

お竹の方(おたけのかた) (?~1637) 影武者徳川家康 

家康の側妾。穴山氏の一族、市川十郎左衛門尉昌永女。三女振姫の生母。

天正十~十一年(1582~3)頃から家康に仕えたとされるが、『幕府祚胤伝』には天正八年(1580)に振姫を生んだとあり、その時期については定かではない。

寛永十四年(1637)三月十二日卒、法名良雲院。墓所は西福寺(台東区蔵前4丁目)にある。

お茶阿の方(おちゃあのかた) (?-1621) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

茶阿局、お久。家康の側妾。六男忠輝、七男松千代の母。山田八左衛門吉長女とされるが不祥。

もとは遠江国金谷の鋳物師朱六の妻で1女(於八・後の花井遠江守妻)をもうけた後に夫が殺され、鷹狩り中の家康に助けられたといわれる。家康の浜松時代の元亀元年(1570)~天正十四年(1586)の間(岡崎時代とする説もある)に側室となり、文禄元年(1592)に辰千代(忠輝)と松千代の双児を出産。家康の没後は落飾して朝覚院と号し、駿府より江戸に移り住み、元和七年(1621)六月十二日死去。墓所は宗慶寺(文京区小石川4丁目)にある。

『玉輿記』に「於茶阿の方朝光院殿御由緒伝系」の項有り参照ください。

お夏の方(おなつのかた) (1581~1660) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

お(於)奈津の方。清雲院。家康の側妾。元北畠家臣で牢人の三十郎長谷川藤直女。

慶長二年(1597)ごろから家康に仕え、家康晩年まで近侍。駿府城では奥向きの金銭管理を任せられる。家康の没後は落飾して清雲院と号し、駿府から江戸城三の丸脇の屋敷に移り住む。また、一族の広清、藤該を養子とし、それぞれ家を興させた。万治三年(1660)九月二十日、80歳で死去。没後、出身地である伊勢山田に清雲院(別名お夏寺)が建立される。また実兄の長谷川藤直は長崎奉行・堺奉行を歴任した。墓所は伝通院(文京区小石川3丁目)にある。

お初の方(おはつのかた) (1569~1633) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、かぶいて候

常高院。浅井三姉妹の二女。

お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、名門佐々木京極家の嫡男で、当時は秀吉の一部将として台頭しつつあった京極高次(近江高島郡大溝城主)に嫁した。高次が病のため小浜城で没すると、お初の方は直ちに剃髪して常高院と称した。大坂冬の陣・夏の陣において、常高院は姉の淀殿・秀頼母子を救おうと、徳川家に嫁いだ妹・お江の方の義父に当たる家康の命で大坂城へ乗り込み和議の交渉にあたった。寛永十(1633)年八月二十七日、京極家の江戸屋敷にて波乱に富む人生を閉じた。墓所は小浜市の常高寺にある。

お万の方(おまんのかた) (1548~1619) 影武者徳川家康

小督局(こごうのつぼね)。家康の側妾。二男秀康の母。父は知立神社神主で知立城城主永見吉英(志摩守吉見)。

大坂町医者の村田意竹が実父とする巷説もある。母は水野忠政女といわれる。 永禄元(1558)年に知立城に滞在した家康は、お万の父吉英に将来側室としてお万を差し出すよう約束していて、元亀三(1572)年にいたって浜松城に入る。お万は正室築山殿の侍女として仕え、秀康懐妊の際は築山殿の嫉妬で激しい折檻を受ける。丸裸にして折檻したとも言われ、お万の方は逃げ出すしかなく、家康の家臣本多重次が引き取って、天正二年(1574)に浜松城外の有富美村(産美村)で秀康を出産。一説には、家康に咎められ城を逃げ出したとも云われる。ともあれ、お万の方は、浜松城下の家康家臣の縁者の家で双子を出産、一人は出産と同時に死亡し、一人が於義丸(秀康)と名付けられた。また、死亡したとされる一人は永見家の神職を継承した貞愛であると云う説もある。

後に浜松城内に局をもらい小督の局と呼ばれた。慶長十二年(1607)の秀康の没後に落飾して長勝院と号し、元和五年(1619)、越前北ノ庄で死去。墓所は孝顕寺(結城市朝日町4丁目)にある。没年を元和元年(1615)とする資料もある。

『玉輿記』の「小督局の伝」参照。

お万の方(おまんのかた) (1580~1653) 吉原御免状、影武者徳川家康、、捨て童子松平忠輝 柳生刺客状 

家康の側妾。頼宣・頼房の毋。正木邦時女。三浦頼忠女という説もある。養珠院。

母(北条氏堯女)が父邦時の死後、蔭山勘解由氏広(伊豆河津城主/河津郷笹原城主)に再嫁し、弟庄兵衛とともにその養子となった。土地の代官江川長英の案内で伊豆を巡視していた家康が、天城辺りで滞在し鷹狩を行なった時に、お万の評判を聞いた家康にお目通りする。この時、お万は十四才だった。家康の側室となってからは蔭山殿と称され、伏見で十男長福丸(頼宣)十一男鶴千代(頼房)を生む。また、法華宗に深く帰依し、慶長四年(1604)、身延山久遠寺の日遠に師事する。家康の没後は落飾して養珠院と号し、承応二年(1653)八月、74歳で死去。墓所は本門寺(大田区池上1丁目)にある。

なお、墓所については、お万の方(養珠院)は山梨本遠寺に葬られ、池上本門寺のものは供養塔として建立されたものというご指摘を、識者の方からいただいている。(06.6.10付記)

ちなみに、弟庄兵衛も召し出され、任官して蔭山因幡守為春と名乗るが、実父正木邦時が安房里見氏の支族三浦氏と同族である事から、三浦氏を名乗るように命ぜられ、三浦長門守為春と改めた。為春は次第に取り立てられ、ついには三千石を領し、紀州藩の家老となった。

『玉輿記』の「養珠院殿伝」参照。

お六の方(おろくのかた) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

家康最後の側室。お梶の方部屋子。黒田五左衛門直陣女とされる。

お六の父黒田直陣は、お梶の父太田康資と同じ北条氏の家臣だったことから親しく、その関係で、慶長十四年(1609)、お六が十三才の時、お梶の方の部屋子として徳川家に仕えるようになったとされる。いつしか家康の目に止まり、側妾になった。家康の死後、尼となり名を養儼院と改め御門内の田安比丘尼屋敷に起居していたが、その後、喜連川に移り住んだ。この時、お六の方はまだ十九才だったことから、お六の方は髪を伸ばし喜連川家に嫁いだという説もある。ところが寛永二年(1625)三月、日光東照宮へ参拝したとき、社前で急死した。時に二十九才の若さだった。そのため、他の側室のように髪を落とさなかったため、神罰に当ったと噂されたという。遺体は日光山内養儼院に葬られた。

徳川方の人々

金地院 崇伝(こんちいん すうでん) (1569~1633)

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天海(てんかい) (?~1643)

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豊臣方の人々

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより) (1593〜1615)

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石田 三成(いしだ みつなり) (1560~1600)

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真田 幸村(さなだ ゆきむら) (1566〜1615)

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