隆慶作品に登場する人名一覧
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隆慶作品に現れる人物名(平安末期武士の台頭以降〜南北朝)
天皇・朝廷人
後白河法皇(ごしらかわほうおう) (1127〜1192) 影武者徳川家康、かくれさと苦界行、死ぬことと見つけたり
後白河天皇。後白河上皇。『梁塵秘抄』を著す。
第77代天皇。雅仁(まさひと)。近衛天皇の異母兄で鳥羽法皇の第四皇子、崇徳上皇の同母弟。同母兄の崇徳上皇は五歳で、弟の近衛天皇は三歳で即位したが、その近衛天皇の後をうけて即位した時、天皇は既に二十七歳になっていた。周囲の評価は「即位の御器量にあらず」というもので、即位した翌年、鳥羽法皇の崩御を機に、実子重仁親王の即位を画策する崇徳上皇らによる保元の乱が発生したが、これを難なく鎮定し、以降、源平両氏の台頭する時代を上皇、法皇となって実権を握った。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう) (1288~1339) 花と火の帝
第96代天皇。尊治(たかはる)。後宇多天皇の第二皇子。
大覚寺統の後宇多上皇は第一皇子後二条天皇の子邦良親王の即位を望み、その中継ぎとして後醍醐天皇を徳治三(1308)年、持妙院統の花園天皇の皇太子とした。文保二(1318)年即位。はじめは後宇多上皇の院政であったが、元亨元(1321)年、親政となると専制的な政治を展開。正中の変・元弘の乱と二度の倒幕計画に失敗し、元弘二(1332)年、隠岐島に配流されたが、すぐに皇子護良親王や楠木正成が再び決起すると翌年、隠岐を脱出。倒幕命令を各地に発し、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼすと帰京し建武親政を開始した。やがて尊氏の離反を招き、延元元(1336)年、吉野へ逃れて南朝を樹立。延元四(1339)年、義良親王(後村上天皇)に譲位して崩御。
後小松天皇(ごこまつてんのう) (1377~1433) 影武者徳川家康
第100代天皇。幹仁(もとひと)。後円融天皇の第一皇子。
弘和二年(1382)、父帝が譲位したとき崇光上皇の皇子栄仁親王と皇位を争い、父帝の従兄弟である足利義満の強力な推挙によって即位。元中九年(1392)、南北朝合一により南朝の後亀山天皇から神器を譲られる。応永十九年(1412)、実仁親王(称光天皇)に譲位し院政を敷く。称光天皇が没すると皇位が南朝系に移るのを恐れた幕府の意向により、栄仁親王の孫彦仁を猶子に迎え、後花園天皇として践祚させた。
中世の武士
木曽 義仲(きそ よしなか) (1154~1184) 駆込寺蔭始末
源義仲。寿永二年八月左馬頭、源為義の二男義賢の二男として久寿元年(1154)武蔵国大蔵館で生まれる。
翌年父義賢が甥の源義平と争い殺されると母小枝御前に伴われて木曽に逃れ、木曽中三権守中原兼遠に養育された。
愛妾に中原兼遠の女巴御前と、山吹の名が知られる。
木曽冠者義仲と名のり、木曾氏の祖となった。治承四年(1180)以仁王の令旨を受け挙兵、寿永二年(1183)北陸に進撃し、越中栃波の倶利加羅峠で平家の大軍を破って平氏を西海に追い入京、正五位下左馬頭兼伊予守となり、朝日将軍と称された。しかしこの後、以仁王の皇子北陸宮の即位を主張し朝廷の反感を買い、後白河法皇の法住寺殿を襲い法皇を幽閉し、院の厩別当となり、翌元暦元年(1184)正月征夷大将軍となるが、頼朝の弟範頼・義経に攻められ、同月二十日近江粟津野に討死。享年31才。(『伽婢子』2人名索引、『舞の本」解説)
墓は木曽宮ノ越の徳音寺に有る。
北畠 具教(きたばたけ とものり) 時代小説の愉しみ
伊勢国守護。
楠木 正成(くすのき まさしげ) (1294〜1336)
斎藤 実景(さいとう さねかげ) 死ぬことと見つけたり
実盛十二代の孫。九州探題に従って西下。
斎藤 別当実盛(さいとう べっとうさねもり) 死ぬことと見つけたり
未資料
佐々木 道誉(ささき どうよ) (1295~1373)
新田 義貞(にった よしさだ) (1301~1338) 吉原御免状
南北朝期の武将。父新田朝氏。幼名を小太郎といった。子に義顕、義興、義宗らがいる。
はじめは鎌倉幕府軍に属して楠木正成の千早城攻撃に参陣するが、反北条勢力が強まるのを知り、大塔宮護良親王の令旨を得て、病と偽り戦線を離脱する。元弘3年5月、上野・新田荘で到幕のため挙兵し、鎌倉へ進攻して鎌倉幕府を滅ぼした。その後の建武の新政では、足利尊氏が厚遇された事に不満を持ち、中先代の乱以降、鎌倉に居座り続ける尊氏軍追討の命を受け挙兵。箱根・竹の下で足利直義軍に敗れるなど、尊氏・直義の反撃に会い帰京。各地を転戦して尊氏軍と一進一退を繰り返す。建武3年(延元元)越前に恒良親王、尊良親王を奉じて尊氏に対するが、足利軍の追撃に会い、越前・藤島の燈明寺畷で眉間に矢を受け、自害。
新田 義重(にった よししげ) 吉原御免状
世良田二郎三郎の父江田松本坊が祖とした。
新田 義季(にった よしすえ) 影武者徳川家康
上州満徳寺開基。
源 実国(みなもとのさねくに) 見知らぬ海へ
源義家より六代目。仁木氏の祖。
鎌倉二代将軍源頼家より仁木姓と上総の地を賜る。
源 為朝(みなもとのためとも) (1139~1170) 花と火の帝
源為義の八子。母は江口の遊女。源義朝の異母弟で、頼朝の叔父。通称八郎、肥後国の豪士阿曽忠国の婿となり鎮西八郎を称した。
幼時より剛勇の評高く、保元の乱(1156)で崇徳上皇に与して平清盛・兄義朝と戦い敗れ、捕えられて伊豆に流される。その地で勢力を整え、狩野茂光の追討軍と戦って自害。首は京で獄門ちなったという。(『伽婢子』2人名索引)
中里介山の『続日本武術神妙記』に「源為朝」の項あり参照ください。
源 満仲(みなもとのみつなか) (912〜997)
源 義家(みなもとのよしいえ) (1039?~1106?)
中世の教養人・文化人
忍性(にんしょう) (1217~1303) 吉原御免状、影武者徳川家康
律宗の僧。鎌倉極楽寺の開祖。字は良観房。良観上人。父伴貞行、母榎氏女の子として、大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町屏風)に生れる。
母の影響で幼少より文殊信仰と行基崇敬に親しみ、母の逝去を機に16歳で額安寺(がくあんじ)で剃髪、延応元(1239)年以降は西大寺中興開山の興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)上人に師事して額安寺西辺や般若寺・奈良坂近郊の北山宿などで文殊供養と貧窮病者への施行を行い、宝治二(1248)年には同法定舜(じょうしゅん)が宋から将来した律三大部(りつさんだいぶ)を鎮西から西大寺に納置するなど、叡尊とともに文殊信仰宣揚と戒律復興に尽力した。建長四(1252)年、東国布教のため関東に下向し、常陸三村寺(みむらじ)ついで鎌倉極楽寺を拠点に教義を拡めた。とりわけ民衆救済に生涯を捧げ、貧窮民への施物や療病所・浴室の開設、架橋・造路・掘井などの社会福祉活動に多大な業績を残したといわれる。
藤原 為家(ふじわら ためいえ) 花と火の帝
藤原定家の子。東胤行の妻の父。
藤原 定家(ふじわら ていか) (1162~1241) 花と火の帝
平安末・鎌倉時代の歌人。父は藤原俊成、母は藤原親忠の女(美福門院加賀)。初名光孝、または季光。従二位・権中納言。
『新古今和歌集』(元久二年撰進)の撰者として和歌史における地位は不動のものだが、古典の書写・校訂においても大きな功績を残す。『伊勢物語』『源氏物語』『更級日記』等の校訂は広く知られている。(『伽婢子』2人名索引)
「実朝の家臣藤兵衛朝親京都より鎌倉にかへりける土産に、その朝廷にて撰み玉へる新古今一部を持ち来れり。将軍甚喜悦いたして、奏覧をへて間もなく竟宴にもおよばざる書なれども、頼朝の詠歌入りけるにより、将軍早く見玉ひ度き由、定家卿伝聞ゆへ朝親に属しておくられたるなり。其後歌学の為将軍より内藤右馬允知親をして自詠三十首を定家卿へおくりて批判を求む。定家卿感心のあまり家伝の秘記一巻を将軍へおくられしなり。土御門帝建久年中の事なり。新古今編者は源通具、藤原有家、藤原定家、雅経、家隆、僧寂蓮などなり。」(伊藤梅宇『見聞談叢』)
遊行上人(ゆぎょうしょうにん) 影武者徳川家康
一遍上人を遊行一世とし、以下歴代の時宗の上人、遊行寺の住職を云う。
その他の人名
栄燿尼(えいように) 吉原御免状
傀儡子の尼僧で、三代の預所を聟にとり権勢をふるったといわれる。
神谷 寿禎(かみや じゅてい) 一夢庵風流記
神谷家の祖。
武蔵坊 弁慶(むさしぼう べんけい) 捨て童子松平忠輝
延暦寺の僧兵。源義経の従者となる。

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