酒井氏(さかいし)
酒井氏は代々松平(徳川)家の家老として仕えた家柄。
酒井 雅楽頭(さかい うたのかみ)
酒井 重忠(さかい しげただ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
河内守。始与四郎、天正年中より奉仕し、屡軍功を励し、慶長五年、関ヶ原乱、翌年上州厩橋城を賜り、大坂の乱には江戸に止り、再乱に供奉、(『江戸古絵図考附録』)
酒井 忠勝(さかい ただかつ) (1587〜1662) 吉原御免状、かくれさと苦界行、鬼麿斬人剣、死ぬことと見つけたり
讃岐守。三代家光時代の幕府大老。父・酒井忠利、母・鈴木重直の女。幼名は鍋之助、与七郎。
元和八(1622)年、武蔵国深谷城城主(一万石)を皮切りに、寛永四(1627)年、武蔵国河越城城主を経て若狭小浜城主となる。家光の側近より累進、老中・大老として幕政運営の中心となる。
酒井 忠清(さかい ただきよ) (1624〜1681) 吉原御免状、かくれさと苦界行、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり
雅楽頭。幕府老中首座。父は酒井忠行。母は徳川家康の義弟久松定勝の女。
何らかの事情で『神君御免状』なるものの存在を知り、それを手に入れ自らの地位を磐石のものにしようと裏柳生義仙の弱味につけこみ吉原を狙わせる。
酒井忠世の孫に当たる忠清は、4代家綱期の老中首座。寛永十三(1636)年に父忠行の死に伴い家督相続、遺領のうち十万石の相続が許された。2年後には従五位下河内守に叙任される。酒井家は徳川家譜代の重臣として扱われる家であるため、忠清も若年ではあるものの幕政の枢要に参画していった。慶安四(1651)年に酒井家が代々名乗る雅楽頭を通称とし、家光死後の家綱を重臣として補佐、承応二(1653)年には、30歳という若さで老中首座となる。家光・家綱政権を支えてきた酒井忠勝や松平信綱が没した後は、名実ともに幕閣の中心となる。寛文三(1663)年には三万石、延宝八(1680)年には二万石を加増され十五万石を領した。
忠清が「殉死の禁止」や「証人制の廃止」に関わったことから、「平時体制に即応した幕藩秩序を作りあげ、あおれを巧みに動かして、『寛文・延宝の治』ともいわれる安定した一時期を作った中心人物といえる」と評価されている。しかし、名門に生まれて若くして幕閣の中心に座るとともに、家綱が病弱であったことから政治の実権を握ったことで奢りに走り、大名や旗本はその寵を得ようと盛んな運動を展開した。「下馬将軍」と呼び習わされたことからも、その権勢の凄まじさが想像出来る。
失政としては、伊達騒動・越後騒動の処理と、家綱没時に企図された宮将軍擁立の問題が指摘されているが、これらは5代綱吉の初政に関わるものであることから、前代の権臣としての忠清が失脚したことに伴う悪評という側面も考えられている。
忠清は綱吉の将軍就任後間もなく免職となり、翌天和元(1681)年二月に隠居、五月十九日に没した。58歳。法名は長得源成大昌院。厩橋の竜海院(前橋市紅雲町)に葬られた。(『国史大辞典 第6巻』参照)《瓢》
忠清について、これらに関連する記述が戸田茂睡の『御当代記』にあるので参照ください。
酒井 忠次(さかい ただつぐ) (1528〜1596) 見知らぬ海へ
徳川家家老の家に生まれた忠次は、三河松平家嫡子元信(後の家康)の寵を得、死ぬまで随伴。永禄七(1564)年、吉田城主となり、東三河一帯を治める。戦歴は、越前手山、姉川、三方原など枚挙に暇がない。長篠合戦では鳶巣山を奪取して武田勝頼の本陣を圧迫。小牧の戦でも老年に拘らず奮戦した。のち従五位下に叙し、左衛門督を称す。家康四天王の随一で、石川数正と並ぶ一方の大将。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
酒井 忠利(さかい ただとし) 捨て童子松平忠輝
無資料。
酒井 忠尚(さかい ただなお) 影武者徳川家康
上野城主。三河一向一揆に参加。
酒井 忠音(さかい ただね) 駆込寺蔭始末
讃岐守。老中筆頭。
酒井 忠行(さかい ただゆき) (1599〜1636) 吉原御免状
従四位下阿波守。酒井忠世の長男。寛永二(1625)年、上野坂鼻にて二万石を賜る。寛永十三(1636)年、父の遺領を継ぎ、前橋城主(十五万二千五百石)となるが、同年没。
酒井 忠世(さかい ただよ) (1572〜1636) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
雅楽頭。与四郎。父・酒井重忠、母・山田重辰の女。幼名は万千代、秀忠・家光に老中として仕えた。
元和三(1617)年、上野国厩橋城城主となる。元和六(1620)年の和子入内に際して土井利勝とともに供奉し、寛永三(1626)年の秀忠上洛にも随行して従四位下に叙せられ、後水尾天皇の二条城行幸に際しては所持万端を取り仕切り、その功で利勝とともに勅命によって侍従に任ぜられた。忠世・利勝の連携による幕政運営は、慶長期から寛永初期まで続いた。その後は家光側近の吏僚グループに幕政の実権が移っていった。忠世は、寛永十三(1636)年三月十九日没、65歳。法名は発向源真隆興院。厩橋の竜海院(前橋市紅雲町)に葬られた。(『国史大辞典 第6巻』参照)《瓢》
右兵衛大夫忠世、慶長十二年七月三日、雅楽と改む、(慶長十四年七月十四日御奉書には、雅楽頭と有り)屋敷御勘定所の辺なり、(『慶長年間江戸図考』)
河内守重忠が子也、天正十八年、関東御入国の時、別に五千石の地を賜り、台徳公に仕奉る、慶長五年、関ヶ原乱後、上州那須郡一万石を給ふ、同年、江州の内にて加増五千石、同十四年、加増五千石、大坂の役供奉、後年従四位侍従に叙任す、(『江戸古絵図考附録』)
酒井 正親(さかい まさちか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
三河西尾城主。
酒井雅楽助正親は家長の職にありて。年ごろ夙夜の忠勤なみ/\ならず。天正四年六月病にかゝり。既に危篤のよし聞しめし。御みづからその家にならせられ。御手づから御薬たまひ。心に思ひ置事あらばつゝまず申せと仰ありしかば。正親仰のかしこさを謝し。嫡子與四郎(後河内守重忠)次男與七郎(後備後守忠利)両人を御前へよび出し。正親申は。某世に望なし。この二人の者ども行末ながく御恵を蒙りて忠勤を励み。そが材器によりて。さるべくめしつかはれん事のみ。願ひたてまつるといふ。君もその誠忠を感じ給ひ。平岩七之助親吉もて病床に付置れ撫保せしめ。又近臣もて度々病躰を御懇問ありしかば。正親死に至るまでも御恩遇の厚きをかしこみたてまつりけるとなん。(家譜)(『東照宮御実紀附録』巻十七)

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斎藤氏