伊東氏(いとうし)
鎌倉期、源頼朝によって日向国地頭職に任ぜられた工藤祐経を祖とし、六代祐持の代に日向に下り日向国都於郡城を本拠とする。やがて、佐土原と宮崎にも居城を構え土豪化し日向国主となる。
伊東 祐兵(いとう すけたけ)
民部大輔。飫肥藩主。
伊東祐慶の父で、伊東マンショの母町上の異母弟。秀吉に仕え、島津征討に従い、伊東家の旧領日向国のうちの一つ飫肥郡を与えられる。
伊東 祐慶(いとう すけよし) (1589〜1636)影武者徳川家康
飫肥藩主。伊東祐兵の息。通称熊太郎。右京亮・修理大夫、従五位下。初名祐典。
関ケ原では東軍に属し、病に倒れた父に代わって日向に帰国し、高橋元種の宮崎城、島津氏の佐土原城を攻めた。ところが高橋元種は東軍に寝返っていたため問題となり、やむなく攻将稲津掃部を処分。宮崎城攻めは黒田如水の指示であったといわれる。検地後五万七千石の領有を認められた。
伊東 長次(いとう ながつぐ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
丹後守。豊臣家家臣
七組頭衆の一人。
伊東 マンショ(いとう まんしょ) (1569頃~1612)
天正遣欧使節正使。日本名不詳。父は伊東修理亮祐青。母は伊東義祐の女町上。
父修理亮が家族の無事息災を祈願して天正三年(1575)に奉納した法華嶽薬師堂(現宮城県東諸県郡八代村)の天井板にある記述から、幼名は虎千代丸と推定される。伊藤鈍満所(イモラ市文書、ヴァチカン文書)洗礼名Mancio(ポルトガル・エーヴォラの古代の殉教者Mancioに由来)「シュリニスケなる父を有し」「同じ日向国のトノクリに生まれ」とローマ元老院関係のラテン語の文書に記されている。また、同じ元老院の別のスペイン文には「ドン・マンショは日向王の孫、すなわち娘の子で、父は日向国の大侯であったシュリノスケである。ドン・マンショはその国のトノクリの出身で、ドン・マンショと豊後国王フランシスとは、マンショの伯父、すなわちマンショの母の兄弟と国王フランシスの姉妹が結婚しているという親族関係」とある。天正四年(1576)頃、島津氏に追われて豊後臼杵に逃れて来た伊東一族の中に虎千代丸もいた。その翌年、外祖父の義祐らが伊予に逃れたが虎千代丸は取り残され、その頃臼杵に赴任していたイエズス会宣教師ペドゥロ・ラモンと出会ったものと思われる。経緯は不明だが虎千代丸はラモンに引き取られて養育され、天正八年(1580)、洗礼を受け「マンショ」という教名を授かる。その前年、日本に上陸したイエズス会東アジア巡察使ヴァリアーノは、日本の布教の現実に触れ、日本人を教化するには日本人の伝道師を養成する必要を実感、島原にその養成のための学校セミナリオを建設し、各地の宣教師らにその生徒を集めるよう指示した。日向国王の孫で豊後国王の縁戚にあり、しかも反対する親の無いマンショは、その生徒として最適任者となった。天正十年(1582)二月、大友宗鱗の名代に奉り上げられ使節団正使となって、千々石ミゲルらと共に長崎から渡欧。それから八年余が経った天正十八年(1590)七月、一行は長崎に帰ってきた。その年の末には、マンショら正副四使節の少年(青年)たちはヴァリアーノと共に上洛、秀吉の謁見の許可が下りるまで室津に滞在、その間年賀のため上洛する諸侯らの訪問を受け、ようやく閏正月に秀吉と聚落第で謁見した。有馬に戻ったマンショらは、天草の修道院で修練、文禄二年(1593)イエズス会修道士としての誓願を立てイエズス会士となる。やがてマンショとジュリアンは、三度日本にやってきたヴァリアーノの推挙で、司祭としての教育を受けるべく慶長五年(1600)、マカオへ留学。三年後の慶長九年(1604)長崎に帰り、慶長十二年(1607)中浦ジュリアン・原マルチノと共に、長崎の被昇天聖母教会で司教ルイス・セルケイラによって司祭(パードレ)に叙せられた。それから五年後の慶長十七年(1612)、マンショは長崎のイエズス会の学院で病歿した。享年四十三歳。
伊東 義祐(いとう よしすけ)
日向国国守。
伊東義祐はその十代目で、嗣子義益の妻に豊後国主大友義鑑の女(大友宗麟の妹)阿喜多を迎え、大友家との同盟を結び南の島津氏に対するが、永禄十二年(1569)、嫡男義益が二十四歳の若さで世を去ると、孫で嗣子のまだ幼い義賢の後見役となる。その義賢が家督を継いだ数カ月後(天正四年頃)、日向国は島津氏の侵攻を受け、都於郡城にいた伊東一族は義益の妻の実家大友家を頼って落ちのびた。宗麟の妹でもある阿喜多とその遺児義賢、祐勝は臼杵城内に迎えられるも、義祐以下縁戚関係にない一族は城下で宿を与えられたが、冷遇され義祐らは伊予に逃れた。

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板倉氏