板倉氏

氏姓別人名一覧

板倉氏(いたくらし)

板倉 勝重(いたくら かつしげ) (1545~1624) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

伊賀守。板倉好重の次男。天文十四年(1545)、三河国額田郡小美村に生まれる。

幼時に出家し香誉宗哲と称し、中島村の永安寺の住僧となる。永禄四年(1561)四月、父好重が討死したため、家督は弟の定重が相続したが、定重も天正九年(1581)三月、家康の高天神城攻めに従軍した際、討死したため、勝重は家康より還俗を命ぜられ板倉家を相続した。

天正十四年(1586)九月、家康が駿府に居城を移したのに伴い、駿府町奉行を務める。同十八年(1590)の家康関東移封後、武蔵国新座群・豊島群内に所領千石を与えられ、関東代官・小田原地奉行・江戸町奉行を兼務する。関ヶ原の戦いで徳川家が天下を取ると、京都も支配に入れ京都町奉行となる。

慶長六年(1601)九月、三河国碧海・幡豆・額田郡内に六千六百十石を加増され、米津清勝・加藤正次とともに京都町奉行に就任した。さらに同月二十八日、加藤正次の跡を継いで京都所司代に補任された。勝重を京都所司代に推挙したのは、本多正信であるとも伝えられている。同八年(1603)二月、与力三十名・同心百名が付され、さらに、従五位下伊賀守に叙任された。京都所司代はそれまで京都の支配だけだったが、この時代になると朝廷や公家の監察、畿内の天領の訴訟処理、さらには豊臣家や西国大名の監視という非常に重要な職となった。そのため、重職に見合う石高が必要となり、千石だった勝重は一挙に七千石の加増を受ける。就任した勝重は何事にも公平な性格で難しい裁判を双方納得する形で決着をつけたり、僧の時に学んだ先例故実を生かして朝廷などの交渉をこなしている。
勝重の所司代在職は二十年の長期にわたり、就任当初の京都は依然として豊臣氏の勢力下にあったものの、勝重はよく治績をあげ、その功績により同十四年(1609)九月、山城国内において九千八百六十石余を加増され、一万六千六百十石余を領した。同十九年(1614)の京都方広寺大仏鐘銘事件から、元和元年(1615)、大坂夏の陣に至るまで、京都所司代として対豊臣家対策に活躍。同六年、所司代を辞して、京都堀川に蟄居。同九年(1623)十二月、従四位侍従に叙された。寛永元年(1624)四月、同地において没した。享年80歳。

幼名四郎左衛門、神君に奉仕し、天正十六年、御家人の内より撰出され、駿府の町司に補せられ、関東御入国の後は、江府の町司と成、慶長六年、京職に成、同八年、伊賀守に任ぜられ、大坂御陣両度共、京都に在て帝都を守衛す、(『江戸古絵図考附録』)

[逸話](『想古録』)
板倉伊賀守、京都所司代にてありし時、目病の地蔵堂前にて木綿数十反を盗まれたるよし訴へ出でたる者あり、喚出して問糾しけるに、荷物を卸して一寸用達せし間に何しか盗まれけるよし申し立てければ、先づ取敢ず其近辺の町人どもを召喚して一応取調べけるに、素より棄置きたる荷物のことなれば、是ぞと云ふほどの手掛りも有らず、賀州頗ぶる当惑しけるが、不図一策を案じ出だし、喚出したる町人どもに向ひ、汝等が知らずと云ふは尤もなれば、此上は其地蔵より外に疑ふべきものもなし、汝等今より地蔵の張番を為し、昼夜とも気を附けて怠ることなかれと命じたり、町人等は先づ無事に帰宅したれども、歳も既に暮に逼り、煤払ひ餅搗き等の忙しき時節に安閑として地蔵の番すること、如何にも馬鹿げたることなればとて、一同打寄りて相談しけるに、詰り失せたる木綿の戻りさへすれば宜かるべければ、寧ろ銘々に其品を持出し、早く此面倒を片附くるが得策ならんとの議に一決し、此旨を賀州に歎願せり、賀州満足の様子にて、其は勝手なり、但し其の弁ふべき木綿には各々寄附者の姓名を附し差出すべしとて帰されけるが、完納の後彼の木綿商を喚出し、其内に汝が盗られたる心覚えの品やある、と問はれしに、御座候といふ、然らばとて其を出さしめ、其れを詮議の手掛りとして遂に窃盗者を捕縛せしに、盗は果して其の近傍の町人にてありしとぞ(逸見省吾)

[逸話](『見聞談叢』)
[板倉勝重近習松平太郎作の諌言を用ふ]
○板倉伊賀侯勝重は、京都の諸司代なり。近習に松平太郎作とてよくいさめるものあり。一年まかなひの人、ふち方升をほそくしたる刻、伊賀侯なにぞかわりたる事はなきかと問ひ玉へる時、太郎作この比狂歌ありと申す。侯汝が作じやなど問ひ玉へば、臣は文盲なり。何としてよみ可レ申や

  • ほそきもの恋の心に琴のいと 三郎がすね扶持方のます

この刻京に三郎とて足やせてほそき男あり。勝重公これをさとりて、其升をあらためさせ玉ふ。太郎作が諌大略この達なり。

板倉 重昌(いたくら しげまさ) (1588~1638) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、死ぬことと見つけたり

板倉勝重の三男(次男とも)。駿府近習筆頭人。

慶長八年(1603)から徳川家康の近習となる。慶長十年(1605)に内膳正に任ぜられる。慶長十四年(1609)に千石を賜わり、松平正綱、秋元泰朝とともに駿府の大御所近習出頭人となり、主に城中のことをつかさどり、豊臣方との交渉にあたった。慶長十九年(1614)には千二百石を加増される。島原の乱では、幕府討伐軍の上使に任命されている。

板倉 重宗(いたくら しげむね) (1586~1656) 吉原御免状、かくれさと苦界行、花と火の帝

名は重統のち十三郎・五郎八、通称は二代又左衛門・周防守(すおうのかみ)。駿府生れ。板倉勝重(かつしげ)の長子、板倉重昌(しげまさ)の兄。母は粟生筑前守永勝の娘。

幼少の頃から徳川家康に仕え、永井尚政・井上元就と共に家康近侍の三臣と言われた。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に従軍。のち徳川秀忠に仕える。慶長十四年(1609)、従五位下・周防守に叙任。大坂冬の陣では摂津茨木に使者として赴き、夏の陣では御書院番頭を務めた。元和五年(1619)に父の跡を継いで京都所司代となる。元和九年(1623)、従四位下に叙せられ、のち従四位上。承応三年(1654)所司代職を辞す。明暦二年(1656)、下総四ヶ国五万石と関宿城を賜る。同年十二月一日卒。

「板倉周防守重宗は、徳川幕府創業の名臣で、父勝重の推挙により、その後ちを承けて京都所司代となり、父は子を知り子は父を辱しめざるの令名を博した人である。 重宗或時近臣の者に「予の捌きようについて世上の取沙汰は如何である」と尋ねたところが、その人ありのままに「威光に圧されて言葉を悉しにくいと申します」と答えた。重宗これを聴いて、われ過てりと言ったが、その後ちの法廷はその面目を一新した。」(『法窓夜話』穂積陳重著 岩波文庫)

父勝重の後を受け京都所司代職に付き、朝廷の親政(反幕)派を排除するため、なにかと朝廷に干渉する。

元和六年(1620)六月、徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内した時、大理職となった重宗は入内行列の中を前後の間を開け、ただ一騎で進んだという。この入内時に幕府は女御殿の警備と称して多数の兵を送り込み、これを重宗に統括させ朝廷・公家を管理させた。

寛永六年(1629)十月、将軍・徳川家光の乳母が伊勢神宮に詣でたついでに上洛し天皇に謁見したいと申し出た。普通は無位無官の女性が謁見など出来るわけもなかったが、重宗が強引な朝廷工作でそれを実現させ、天皇から賜杯を受けさせた上に春日局という号まで与えさせたという。 承応三年(1654)に所司代を辞職した後も後任の補佐をした。
父は伊賀守勝重と号す、重宗は台徳公に仕奉り、御小性組番頭、小十人組御歩行頭等を兼て、大坂の役に供奉す、後年従四位少将に任ぜらる、(『江戸古絵図考附録』)

[逸話](『想古録』)
宇都宮釣天井騒動の後、板倉周防、保科肥後(正之)に向ひ、武王の紂を討ちたること、諸儒の説区々なれども、閣下は如何思はるるやと問ひけるに、肥後答へず、武王云々は拙者に用なければ未だ詮議せず、但し足下は何故に然く研究せらるるやと反問しければ、周防語塞がり、赤面して謝せられける(蓮沼直記)

板倉周防守重宗は死刑を重んじ、京都所司代勤役中、其罪死に当る囚徒あれば白洲に喚出して罪状の死を遁るる能はざる所以を明白に説示し、若し服せざるときは之に一夜の猶予を与へ、翌朝再び白洲に喚出して申開きの理由を述べさせたり、此くの如くして三日も五日も処刑を延期し、彼れ其罪に落ちて遺憾なきに至りしとき、始めて其刑に処せられければ、怨望を招くこと稀にして、治蹟遠近に聞えける(大槻恒輔)

板倉周防守重宗、京都所司代を免ぜられて江戸に帰らんとするとき、困難なる公事四五件を残して、後役牧野佐渡守親成に托したり、牧野佐州は如何なる難件なるかと、書類を繙いて一応これを調べけるに、成るほど六かしき事柄には相違なけれど、防州の綿密に書入れしたる意見書これに附帯し居るが故に、之に由て採決すれば、邪正黒白は判然するなり、事務引継の後、佐州は防州の意見に従つて四五件の難訴を一日の内に採決しければ、京都の士民は皆佐州を仰ぎ、周防殿さへ持余したる事件を、当所司代は引継の翌日直ちに明白に裁断したり、世には智恵の上の智恵もある者なりとて、新所司代の力量を称賛しけるとぞ(蓮沼顕蔵)

君の士民を見ること自身の手足の如くなれば、士民も亦君を仰ぐこと日月父母の如くなるべし、然るに古来人君たるもの多くは威権を恃み、好んで臣民と隔りて遂に怨嗟の感を発さしむるは、施政の拙なるものと謂はざる可らず、板倉周防守重宗は臣下に忠告する時などは、事に託して左右の侍士を退け、他人の同席せざる席上にて懇々詼諭せられたり、其の素行此くの如くなれば、一藩の士心、挙つて防州の仁徳に帰服し、競ふて忠節を尽せしと云へり、君臣間の情誼斯くありてこそ、世の治乱に拘はらず、文武の功績を顕はすを得るなり、重宗、小藩の主なれども、其才量の非凡なりしこと想ひ見るべし(蓮沼直記)

[逸話](『見聞談叢』)
[板倉重宗秀忠に自作の草履を献上]
○板倉周防侯重宗は京都の所司代たり。ある時草履一足みづから作りて、台徳公に献ぜられて曰く、是は東照公軍中には、かくのごときがよきと被レ仰たる草履なり。つくり習ひて覚へ居候ゆへ、自身つくりて指し上げ候。御用に御坐候はゞいかほども調進可レ仕くと申されたり。東照宮御小身の時かゝるいやしき事をも御存じにて天下に主とならせ給へば、成るを守るの君もしも/\〃の上までよくしろしめさでは叶はぬ義ぞと、暗に草履によせていさめ奉るの心なるべし。

板倉 伊予守(いたくら いよのかみ) 鬼麿斬人剣

安中城主。

板倉 内膳正(いたくら ないぜんのしょう) 柳生非情剣

未資料