石川氏(いしかわし)。
石川 主馬吉信(いしかわ しゅめよしのぶ) (1581~1607) 影武者徳川家康
忠吉の死に殉死。遠江守信光の子。信光。
松平周防守の手に属し、三・遠・駿・豆の州内に武名を顕はす。吉信は天正九年を以て沼津城に生まる。文禄三年、松平忠吉、信光の武功を嘉みし、吉信を招く。時に年十四。吉信、資性英敏にして忠吉の旨に協ひ、宿将老吏と共に章程を明にし、軍務を掌る。慶長五年、関ヶ原の役に出征し、嶋津の軍と戦ひ、勇戦して瘡を被る。時に年十九。其年禄千石を賜はる。後小笠原吉光・稲垣将監と共に諸士の長となる。国政・軍事与り聞かざるは無し。甞て将監と与に命を承けて罪人を追補す。二人朝服を脱せずして発向し、急遽之を討つ。忠吉大に之を賞し、禄を増して各、三千石と為す。其旨に忤ふや、君前に伺候するを得ざること五日又は十日。其宥さるや、必ず佩刀又は乗馬を賜はるを例とす。慶長九年忠吉病篤し。吉信、将監と互に約して、君侯百歳の後は必ず殉死すべきを誓ふ。忠吉之を聞いて固く止む。後忠吉又病み、医師高伯投薬して癒ゆるを得たり。此後忠吉、三士の誠忠を感じ、眷遇倍々厚し。慶長十二年、忠吉の江戸に病むや、吉信常に病蓐に侍す。三月五日、忠吉逝去するに及び、翌日柩に侍して増上寺に到り、柩前に自刃す。此時平岩彌五介之を介錯せり。投学善正門と諡す。(名古屋市史)
石川 康通(いしかわ やすみち) (1554~1607) 影武者徳川家康
石川家成の子。
徳川家康の関東入国に伴って上野鳴戸に二万石を与えられる。関ヶ原の戦いでは清洲城を守備し、役後には佐和山城攻めに加わった。関ヶ原後に大垣城主となり五万石を領した。晩年は黒田如水の影響を受けてキリシタンとなる。
長門守康通 慶長五年、関ヶ原の役、尾州清洲の城を守る、翌年二月、美濃大垣城を賜り、同二年(傍注:十四年)父日向守家成に先達て卒す、(『江戸古絵図考附録』)
石川 貞清(いしかわ さだきよ) 捨て童子松平忠輝
備前守。犬山城主。
西軍に属し、木曽代官として守護。
石川 貞政(いしかわ さだまさ) (1575~1657) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
石川光政の子。
秀吉の馬廻を勤める。会津攻めに従軍し、関が原でも奮戦。戦後、豊臣秀頼に近侍し五千石を賜る。慶長十九年(1614)、片桐且元とともに大阪城を離れ、高野山に入り剃髪。大阪の陣開戦とともに家康軍に与す。以後、幕府につかえる。
石川 忠義(いしかわ ただよし) 影武者徳川家康
石川康通の子。
石川忠義の娘は大久保忠隣の養女となり、山口重政の長男重信との縁組話で、縁組を勝手にしたことを幕府に咎められ重信は改易され、武蔵の龍穏寺に蟄居させられた。
石川 康勝(いしかわ やすかつ) 捨て童子松平忠輝
石川康長の長子。長安事件に連座し所領没収。
石川 康次(いしかわ やすつぐ) 捨て童子松平忠輝
石川康長の二男。長安事件に連座し所領没収。
石川 康長(いしかわ やすなが) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記
会津征伐の前軍を勤める。
長安事件に連座し、所領没収の上豊後佐伯に配流。

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池田氏