今川氏(いまがわし)
足利義氏の長男長氏の次男国氏を始祖とする。源氏。
足利義氏の長子長氏は、庶子であったため正室北条義時の女との間に生まれた次男泰氏が惣領家を継ぎ、長氏は義氏の隠居領吉良荘を継いで吉良氏の祖となった。その長氏の長男満氏が吉良氏を継ぎ、弟の国氏は長氏の隠居地三河国今川荘(現愛知県西尾市今川町)を継ぎ、今川氏を名乗った。
国氏には四人の男子があり、長男基氏が今川の家督を継ぎ、次男常氏は三河国関口郷(現愛知県宝飯郡音羽町)を与えられ関口氏を、三男俊氏は相模国入野郷(横須賀市太田和)を与えられ入野氏を、四男政氏は三河国木田郷(愛知県幡豆郡吉良町木田)を与えられ木田氏を名乗った。
国氏から九代目が、桶狭間で信長に敗れた義元である。
今川 氏真(いまがわ うじざね) (1538~1614) 影武者徳川家康、見知らぬ海へ
今川義元(梅岳承芳)の子、母は武田信虎の女。天文二十三年(1554)七月、小田原北条氏康の女(早川殿)と結婚。
永禄元年(1558)には駿河の国務を委ねられていた。同三年父義元の討死後家督を継いだが、衰勢を回復できなかった。同五年(1562)独立をはかった松平元康(徳川家康)を攻めたが振るわず、同九年(1566)までに三河を喪失。また老臣三浦義政(義鎮)の専横を許して家臣に離反された。同十年、武田信玄との同盟関係が破棄され、家康と提携した信玄のために同十一年末に駿河を失う。氏真は遠江掛川城に拠ったが家康に攻められ降伏、城を明け渡して小田原北条氏康の下に逃げる。しかし元亀二年(1571)に没し氏政の代になると小田原にいられなくなり、家康を頼って三河に行く。以後、家康・織田に寄寓、家康は氏真に五百石の捨て扶持を与えた。天正十八年(1590)、家康が江戸に入封すると、京に上り四条に住んで出家し宗ギン(門構えに言)と号し、公卿との歌会や蹴鞠に興じたという。最晩年は家康に養われ、江戸品川に住む次男高久の屋敷に寓した。政略結婚したとはいえ、これまでずっと氏真を支えて来た妻早川殿を慶長十八年に亡くすと、後を追うかのように翌慶長十九年(1614)十二月二十八日死去。享年77歳。
戦国末期に生れながら武辺に馴染まず、文の人であった氏真は、千七百を超える歌を残した。その中に「なかなかに世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科として」という歌が残されている。
今川 義元(いまがわ よしもと)(1519~1560) 吉原御免状、影武者徳川家康、見知らぬ海へ
駿河・遠江国守、治部大輔。今川氏は累代駿河・遠江を領する守護大名で、義元は氏親の三男として生まれる。
初め僧となったが、長兄が死に次男と家督を争い兄を討って還俗し、家督を継いだ。甲斐の武田信玄の女を娶り、北條氏の侵入を退け、内政を整えた。特に軍略に秀でた僧雪斎の補佐を受け、東海道の一大勢力に成長。三河の松平廣忠を助け織田勢を駆逐して全三河を制圧した。しかし、雪斎が没するとその兵威も振るわなくなり、永禄三年(1560)、天下を望んで大挙京へ登る途上、桶狭間で織田信長の軍勢と戦い討死した。享年42歳。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
今川 氏親(いまがわ うじちか) 時代小説の愉しみ
幼名は辰王丸。駿河今川家第七代当主。今川義元の父。今川義忠の嫡子で、母は伊勢新九郎の妹北川殿。
今川 義忠(いまがわ よしただ) (~1476) 時代小説の愉しみ
駿河今川家第六代当主。
文明六年(1476)、駿河に起った土一揆に襲われ戦死。

HOME
稲葉氏