芦名氏

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芦名氏(あしなし)

芦名氏は、桓武平氏村岡五郎平良文の子忠通から出て関東一円に勢威を張った三浦氏の一族で、いわゆる三浦党と称される豪族の一つ。

始祖は佐原盛連の子光盛。平氏。
桓武平氏の流れを汲む相模国三浦の豪族三浦義明の子佐原十郎義連の時、源頼朝の奥州藤原氏征討に従い恩賞として会津の地を分与された。この地を二代佐原盛連が六人の子供に分け与えた。猪苗代・北田・藤倉・加納・新宮氏らで、四男光盛が三代総領家を継ぎ芦名を名乗った。七代直盛の康暦元年(1379)に漸く会津に下り、至徳元年(1384)、門田荘黒川(福島県会津若松市)の地に東黒川館を築く。これが会津鶴ケ城の前身となる。その後、九代盛政の頃から内紛で勢力を失うが、十六代盛氏の時に芦名氏は大飛躍をとげる。盛氏は戦乱で焼失した東黒川館を改修し黒川城とすると、全会津の支配に取りかかり、ついで三春の田村氏を攻め破り、安積の諸城を攻略、政略的には白河の結城氏、米沢の伊達氏らと姻戚関係を結びその勢力を拡大した。盛氏没後、養子の盛隆が十八代を継ぐと、不運も重なり芦名氏は衰運に向かう。二十代義広の天正十七年(1589)、政宗率いる伊達氏と摺上原で戦い破れて芦名氏は滅亡した。

芦名 盛隆(あしな もりたか)(1550〜1584) 一夢庵風流記 

二階堂盛義の嫡男として生まれる。母は伊達晴宗の長女。
幼少の頃、葦名氏のもとに人質として預けられる。天正四年(1576)彦姫(伊達晴宗の娘)と結婚し、葦名氏を継ぐ。天正十二年(1584)、家臣の大庭三左衛門に斬殺されたといわれる。

芦名 義広(あしな よしひろ)(1572〜1631) 一夢庵風流記 

盛重、義勝。父は佐竹義重。母は伊達晴宗の娘。
盛隆の嫡男亀王丸が没した後、葦名氏重臣間に伊達正宗の弟と義広、いずれを後継ぎにするかで争うが、義広が継ぐこととなる。葦名家の当主となった義広は佐竹氏と同盟し、伊達氏と対立し戦う。 天正十七年(1589)、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達軍に敗北し、父の実家である常陸の佐竹家へ逃れた。 その後、豊臣秀吉により江戸崎(茨城)に四万五千石を与えられ、慶長七年(1602)、佐竹氏の国替えにともなって 秋田に移り、角館に一万五千石を分け与えられた。