浅井氏

氏姓別人名一覧

浅井氏(あさいし)

近江浅井郡丁野に起る。嘉吉の頃、この地に流された三条大納言公綱の末とも伝えられるが、古族浅井直の末とも云われる。

浅井 亮政(あさい すけまさ)

小谷城主。浅井久政の父。浅井直政の娘婿となり浅井宗家を継ぐ。
亮政はもと京極氏の被官であったが、大永三年(1523)に起きた主家の継嗣問題に介入して実権を握り、天文三年(1534)頃には事実上江北の地を抑えた。江南六角氏と戦い、しばしば敗北を喫したが、越前の朝倉氏や本願寺勢力との友好関係で勢力を伸ばしたとされる。

亮政については『浅井三代記』[1][2][3][4]を参照ください。

浅井 久政(あさい ひさまさ) (?〜1573) 影武者徳川家康 

浅井長政の父。浅井亮政の子として生れる。初名を新九郎といい、左兵衛尉と称す。
天文十一年(1542)、家督を相続し下野守となる。父同様、京極、六角氏の勢力に圧迫されて苦境にあったのを越前の朝倉氏に再三助けられた。永禄三年(1560)家臣の人望を失い子の長政に家督を譲り隠退するも、信長の朝倉攻めには信長との姻戚関係を無視し朝倉側に味方するよう長政に助言し、滅亡へと舵を切った。天正元年(1573)八月、小谷城落城の際自刃した。

浅井 長政(あさい ながまさ) (1545〜1573) 影武者徳川家康、花と火の帝、風の呪殺陣、かぶいて候、時代小説の愉しみ 

天文十四年(1545)、浅井久政の子として生れる。幼名は猿夜叉(さるやしゃ)。十二歳で元服し新九郎賢政(よしたか)を名乗り、父久政隠退の後を受け近江小谷城主となった。後、改名して長政となる。備前守。

永禄二年(1559)十八歳で六角義賢と戦いこれを破り、永禄六年(1563)、信長と和を結び、信長の妹お市の方を妻に迎える。その後、信長とともに江南に勢力を保っていた六角氏を滅ぼし、次いで湖西の朽木氏を下して、近江国をほぼ制した。しかし、元亀元年(1570)六月、信長が越前の朝倉義景を攻めるに当って、長政は父久政の要望で義景に応じ、信長と敵対する。同年、信長・家康連合軍と近江姉川に戦って大敗を喫っした(姉川の合戦)。天正元年(1573)八月、近江平定に乗り出した信長軍に小谷城も包囲され、信長の和議を断った長政は死を選び、夫人と三人の娘を信長に送って自刃した(小谷城攻め)。享年二十九。浅井三姉妹の父。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)

天正十三年正月の比。織田信長より使をもて。江州の浅井長政はわが近姻といへども。異心を挟むの日久しければ。其事いまだあらはれざるにさきだつて。これを誅せむと思ふなり。さらむには援兵の事頼みまいらするよし申をくらる。こなたよりも酒井左衛門尉忠次。本多百助信俊両人もて御答ありしは。長政さしあたり陰謀の聞えあるにもあらず。又改心あらんもはかりがたし。まづそのまゝになし置れんこそ。平穏の御計らひとこそ存ずれ。万一異心あらはれ。叛状の明白ならんには。速に御勢を向られ誅伐し給ふべし。某もそのときは御使蒙るまでもなし。手勢引具し急ぎ馳上るべしとあれば。信長も御答の寛宥にして理あるに服し両使を返し。出軍の事をばまづ思ひとゞめしとなり。(東武談叢)(『東照宮御実紀附録』巻十七)

浅井 家次(あさい いえつぐ) 影武者徳川家康 

徳川方武将。大坂夏の陣で河内口二番隊を務める。

浅井 左内(あさい さない) 捨て童子松平忠輝 

忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。