安藤氏

氏姓別人名一覧

安藤氏(あんどうし)

安倍氏。
「安東」はもともと「安藤」といいい、安倍貞任を祖とする安藤(安倍)頼信を始祖とし、蝦夷管領を任ぜられて津軽十三湊を本拠とした。日本海交易で大いに栄えるが、鎌倉末期の元亨二年(1322)、一族間で管領職を巡って争い、「津軽の大乱」と呼ばれる争乱を起す。又、南北朝期には南朝(宮方)として活躍。その後、安藤氏は津軽十三湊を本拠とする総領家と秋田土崎湊を本拠とする別家が互いに協力し合い、勅命による若狭小浜の羽賀寺建立に尽力した。戦国期に入ると、陸奥三戸の南部氏に侵攻され、総領家は滅びる。一族は秋田で再興、その時、総領家を継いだ愛季は、秋田介を名乗るとともに、安東と名を変え荒廃した羽賀寺の再建に精力を注ぐ。中央の権力争い関ヶ原の合戦においても愛季は動ぜず、寺院の再建に取り組んでいた。戦後、家康より叱責され常陸宍戸に国替え、正保二年(1645)には陸奥三春に転封となり明治に至った。

安藤 重信(あんどう しげのぶ) (1557~1621) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝 

対馬守。安藤基能の次男。

天正十二年(1584)、長久手の戦いで功を上げる。家康の命により秀忠の側近となる。慶長十五年(1610)、五千石の知行を受ける。慶長十七年(1612)、加増され下総小見川一万六千六百石となる。元和元年(1615)、大阪の役の功により、二万石加増。元和五年(1619)、福島正則改易による城の受け取りに行く。同年、さらに、二万石加増され、上野高崎などで五万六千六百石となる。

小田原城没収の役を仰らる。 

安藤 直次(あんどう なおつぐ) (1554~1635) 影武者徳川家康

帯刀。安藤基能の長男。

家康に幼少から近侍し、元亀元年(1570)、姉川の合戦で初陣を飾る。その後、長篠、長久手の戦いで功を上げ、武略にすぐれ、抜群の勇功を賞される。慶長十二年(1607)、五千石加増され、一万三千石となる。家康に属して成瀬正成とともに駿府の老職として活躍。慶長十五年(1610)、紀伊付家老となる。元和三年(1617)、遠江二万石となり、元和五年、紀伊田辺三万八千八百石となる。 

[東照宮と安藤帯刀]
○東照宮に固くめしつかわれ玉ふ臣下、皆一萬石をたまわりたる中に、ふと思食しちがひにて安藤帯刀ばかり横須賀五千石をたまわれり。これは横須賀を一萬石の場所と思召ちがへるなり。十年ほどすぎて成瀬と同じく安藤も御傍にをれり。なんぞの御咄のついでに汝等銘々一萬石を領し、法度はいかゞするぞと御たづねある時、成瀬申あげらるゝは、臣等皆一萬石なり。帯刀は唯五千石なりと申す。源君おどろかせ玉ひ、横須賀を一萬石とおもへり。汝隼人などに別に奉公の相違もなく、一同のつとめに帯刀に斗五千石すくなくやるべき様はなし。十年あまり色にあらわさず、詞にも出さず、不怨不慍して、今日までよくつとめたり。奥ふかく**入りたる志なり。こゝにおひて、五千石加増、あまつさへ十余年の米穀を一度に下したまわりぬ。凡四五萬石におよべり。(『見聞談叢』)

安藤 右京進重長(あんどう うきょうのしんしげなが) かくれさと苦界行 

高崎五万五千石譜代大名。旗本安藤四郎右衛門の実兄。

安藤 喜八郎光乗(あんどう きはちろうみつのり) 死出の雪

大和郡山藩士。大島流槍術の槍術師範遠城治郎左衛門の二男として生まれ、安藤家の養子となる。

安藤 九左衛門(あんどう きゅうざえもん) 異説猿ケ辻の変

京都守護職足軽組物頭。

安藤 四郎右衛門(あんどう しろうえもん) かくれさと苦界行 

安藤右京進重長の実弟。旗本四百石。

河合又五郎を匿い備前池田侯と衝突、旗本対大名の大喧嘩の元をつくる。その責任を取らされ阿部四郎五郎、久世三四郎らとともに百日の寺入りを命ぜられる。

安藤 帯刀(あんどう たてわき) 

→ 安藤 直次(あんどう なおつぐ)

安藤対馬守(あんどうつしまのかみ) 

→ 安藤 重信(あんどう しげのぶ)

安藤 彦兵衛直次(あんどう ひこべえなおつぐ)

→ 安藤 直次(あんどう なおつぐ) 

安藤 正次(あんどう まさつぐ) 影武者徳川家康 

関ヶ原では秀忠付き使番。

大坂冬の陣後の豊臣方との協議で大坂城の総構えの堀を埋めることを条件にようやく成立した和議で、秀忠に奉行に任命され、大坂城の外堀だけでなく、内堀も埋めてしまった。続く大坂夏の陣では秀忠軍の軍目付として鴫野に赴く。