柳生氏(やぎゅうし)
柳生の里は、仁和元年(885)、関白藤原基経がこの地を荘園として、楊生四箇郷にまとめたことから始る。その後、長暦二年(1038)に関白藤原頼通が四箇郷を藤原氏の氏神春日社に寄進。社領はいつしか管理者四人が領することとなり、地方豪族の領地となった。豪族化したそのうちの一人で小柳生庄を管理した大膳長永が柳生家の始祖となったと柳生家の旧記『玉英拾遺』にあるが、定かではない。公然と柳生姓を名乗るのはそれから三百年後の播磨守永珍で、永珍は笠置山の僧となっていた異母弟の中ン坊源専(成就坊、のち伊予守)とともに後醍醐天皇に味方し、笠置が落城するとともに所領を没収されるが、建武の中興で復活した。
柳生 家厳(やぎゅう いえよし)
美作守。石舟斎の父。
家厳父子は管領細川晴元の臣、木津左京亮長政の武将木沢右近を助けて筒井順昭らと戦う。順昭が天文十三年、一万余の軍勢をもって柳生を攻め落とし、柳生一族は恥を忍んで筒井順昭の軍門に下り、その傘下に入った。以降、柳生家は時に筒井氏に属し、またある時には三好氏の配下に身を置など「応変の奇道」で戦国の世を生き延びる。
柳生 伊予守長厳(やぎゅう いよのかみながよし)
柳生 石舟斎(やぎゅう せきしゅうさい)(1529〜1606) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生非情剣、柳生刺客状
宗巌。幼名新介。父柳生家厳。
新蔭流始祖上泉伊勢守信綱より新陰流の印可を受け、信綱が達し得なかった「無刀取り」の極意を完成させ、柳生新蔭流の祖となる。
大和柳生の庄の土豪の子として生まれた宗巌は、父に従い戦国期を戦いの中で生きていたが、大和の豪族筒井順慶と戦い敗れ順慶の麾下に入る。のち松永久秀に仕えるも時流には乗れず、信長が足利義昭を追放したのを機に、一切の係累を断って柳生谷に身を隠した。さらには羽柴秀長に所領を没収され、一族は柳生の庄で剣術指南などを行って細々と暮すこととなる。
永禄六年(1563)、刀槍術では幾内隋一と称された宗厳は、新陰流の祖上泉秀綱(信綱)と試合を行ない敗れて門人となった。永禄八年、信綱より託された無刀取を見事に仕上げ、新陰流二世の正統を継いだ。文禄二年(1593)、六十五歳で剃髪し但馬入道石舟斎を名乗った。
柳生宗厳は晩年或る事の為に人に怨まれ、その者は如何にもして宗厳を討ち果そうとしたが名にし負う名人のことであり、家臣も多いので手のつけようがなかった。宗厳或る時病気にかかり、門弟二三人を連れて摂津の有馬の湯に行った。某はひそかにその後をつけて行き、日夜宗厳の動静を窺っていたが或時宗厳ただ一人小刀を携えたままで宿屋の南の日当りのよい処に坐って、愛養の隼鷹を拳の上に置いて余念なく可愛がっている。某はこれを見て、ここぞと思って刀の鞘を払って宗厳の頭上を目がけて斬りつけたが、その時早く宗厳は抜く手も見せず腰なる小刀を抜いて敵の急所に突き込んだので某はあえなくその場に繁れたが、その時宗厳の拳の上の隼鷹はもとのまま身動きもしなかったそうである。(中里介山『日本武術神妙記』)
柳生 久斎(やぎゅう きゅうさい) 影武者徳川家康
柳生石舟斎の二男。僧侶。
柳生 久三郎(やぎゅう きゅうざぶろう) 柳生非情剣
新次郎の長男。
柳生 権右衛門(やぎゅう ごんえもん) 影武者徳川家康
新次郎の次男。
柳生 権之助(やぎゅう ごんのすけ) 柳生非情剣
未資料
柳生 左門(やぎゅう さもん)
柳生 主馬(やぎゅう しゅめ) 柳生非情剣
兵庫の妹が惣左衛門と離別後、再婚した相手。
柳生 新左衛門清厳(やぎゅう しんざえもんきよよし) 柳生非情剣
柳生兵庫助利厳の長男。
柳生 新次郎巌勝(やぎゅう しんじろうよしかつ) かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、柳生刺客状
柳生宗厳の嫡男。宗矩の兄。
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)(1571〜1646) 吉原御免状、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生非情剣、死ぬことと見つけたり、かぶいて候、柳生刺客状
但馬守。新左衛門。又右衛門。石舟斎の五男。将軍家剣法指南役。初名は宗頼。柳生宗厳の五男として大和国添上郡柳生で誕生。正夫人は松下石見守重綱の女おりんで、子に長男十兵衛三厳、三男宗冬がいる。二男友矩の母は烏丸光広の女順子という説もあるが定かで無い。末子義仙の母はお藤で、宗矩六十六歳の時の子。
柳生家は父石舟斎の時に、足利将軍義昭に与し義昭が信長に敗れると、その知行地二千石は没収され以来無禄のまま柳生谷に逼塞していた。天正十三年(1583)隠し田発覚のため、豊臣秀長により所領没収の説も有る。
それでも柳生家は、上泉伊勢守信綱が興した新蔭流を石舟斎が受継ぎ完成させていたこともあり、剣術指南を業として細々と生活出来ていた。しかし、そんな柳生家に飽き足らない五男宗矩は、秀吉没後の権力争いで家康と三成が対立し再び戦乱が起ることを知り、家康側につき戦功を立てれば再び知行地を回復できると父石舟斎に決起を促す。だが石舟斎は西軍に攻められれば柳生の庄などひとたまりも無いと兵を挙げることに難色を示した。合戦の時期は刻々とせまり、最早父を説得している暇は無いと宗矩は単身関ヶ原へと赴いた。
秀忠の知遇を得て、その家臣となった宗矩。上泉伊勢守から受継いだ新蔭流の道統と、伊賀忍びの流れを汲む柳生家は秀忠にとって利用できる数少ない手持ちの駒だった。秀忠は自らが将軍になるため利用した影武者二郎三郎にコケにされ続け、かといって表立って二郎三郎=家康に楯突くこともできず、裏で二郎三郎と対決せざるを得ない。その裏仕事を秀忠は宗矩を使って行った。柳生家の存続と興隆が悲願の宗矩は、秀忠に気に入ってもらおうと、様々な嫌がらせや攻撃を二郎三郎に仕掛けるのだった。(『影武者徳川家康』より)
又左衛門。但馬守宗厳が子なり、慶長五年、上杉御征伐、神君奥へ御下向の時、野州小山に於て、上方に軍起りたりと聞ゆ、其時宗矩未だ浪人にて、国人を催し、上方にて兵を越すべき旨命あり、関ヶ原の軍終て、知行を賜はり、御家人に列す、父宗厳は兵法の達者、宗矩も其業に達す、(『江戸古絵図考附録』)
『兵法家伝書』(1、2)を著す。
[逸話]『耳袋』
柳生但馬守門前へ托鉢の僧来て剣術稽古の音を聞、「大概には相聞ゆれど、御師範などゝは事おかし」とあざけりけるを、門番のもの咎め侍れば聊不取合ゆへ、但馬守へかくと告けるに、「早々其僧呼入よ」とて、坐敷へ通し対面致し、「御身出家なるが剣術の業心掛しと見へたり。何流を学び給ひしや」と尋ければ、彼僧答へて、「御身は天下の御師範たるよしながら剣術は下手也。流儀といふは剣術の極意に非らず。剣を遣ふに何の流儀かあらん」と笑ひし。柳生もさるものと思ひて、「然らば立会みられよ」とありければ、「心得し」由にて稽古場に至り、但馬守は木刀を持て、「お僧は何をか持給ふ」と尋ければ、「某出家なれば何をか持べき。速かに何を以成共打すへ給へ」と、稽古場の真中に立居たり。但馬守も「不埒成事を申もの哉」と思ひながら、「いざ」といひて打掛んとおもひしが、右僧が有様、打懸らば如何様にか手ごめにも可成程に思はれければ、流石に但馬守にて木刀を下に置拝謁し、「誠に御身は智識道徳の人也。心法の修行をこそ教へ給へかし」とひたすら望みければ、彼僧も「剣術に於ては普く御身に続くものなし」と称し、互ひに極意を契りけるとや。右僧は後に但馬守より申上、大樹家光公え昵近せし東海寺開山沢庵和尚なり。(巻之一)
『撃剣叢談』
ある日、庭の桜を鑑賞する柳生但馬守の背後に控えた小姓が(いかに天下の名人とて、後ろから斬ったらどうだろう)と思った。宗矩は瞬間、四方を見回し、座敷に戻って不審の面持ちで物も言わなかった。用人が「どうされましたか」と聞くと宗矩は、先ほど、桜を眺めていてふと殺気を感じたが犬一匹おらず、そばには小姓ばかり。いぶかしさに不快を感じている、と言った。それを聞いて小姓は驚いて自分の妄念を告白した。宗矩はやっと気色も和らぎ、何も咎めなかった。(小島永煕『剣豪伝説』)
[名言名句]
「われ人に勝つ道を知らず、われに勝つ道を知る」(『名言名句活用事典』)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「柳生宗矩」の項があるので参照ください。また、『続日本武術神妙記』にも「即日印可」として宗矩関連のエピソードがある。
《瓢水の「一話一言」》
[左脚を斬られて砕かれ、右脚を撃たれた柳生宗矩(その1)]
隆慶作品の敵役・柳生宗矩は忙しい。秀忠の下知で、“暗殺集団”としての柳生衆を繰り返し差し向けるが悉く返り討ちにされ、柳生谷で人員補充をしなくてはならない。その宗矩は、不思議なことに“脚”を繰り返し傷つけられているのだ。
まず、慶長12年(1607)2月に結城秀康の命を狙った際、偶々来合わせた柳生兵介(兵庫助)に左脚を脛から斬り落とされた(「柳生刺客状」)。同じ事件が『影武者徳川家康』でも描かれ、こちらでは甲斐の六郎が舟上から放った鉄砲で右脚を撃たれている。
次に、元和元年(1615)11月末、家康の命で柳生者が京に向けて出発する当日、岩介の呪法を受けて、江戸城中で左膝を砕かれてしまった(『花と火の帝』)。
宗矩の受難歴を見ると、執拗に“脚”を狙われたことと言える。実在の人物であるから殺すわけにはいかないが、何かしらヒントがあったのではないだろうか。(2004年2月18日瓢水記)
[左脚を斬られて砕かれ、右脚を撃たれた柳生宗矩(その2・完結)]
実は、宗矩が“脚”を斬られたのはこれが初めてではない。隆先生が「影響を受けた」と語っている五味康祐『柳生武芸帳』(『かぶいて候』集英社文庫、192頁)で、宿敵・山田浮月斎と京の観月橋で対決した宗矩は、左脚を斬り落とされているのである。
「柳生宗矩は同じく右腋に深さ二分の刀疵を受け、左脛から下を薙ぎ落された。寛永十三年三月の此の日以降、だから宗矩は本当は跛である」(『柳生武芸帳 下巻』新潮文庫、261頁)。
興味深い符合であるが、これは後知恵に過ぎないかもしれない。実在の人物が負傷した後も活動するためには、“脚”を傷つけるのは極めて好都合だからだ。ただ、「隆慶作品における柳生一門受難史」という視点から読むと、その無惨さに暗澹たる気持ちになることもしばしばである。せめて今夜は、無名の柳生戦士たちに鎮魂の盃を傾けたい。(2004年2月19日瓢水記)
[江戸柳生と朝鮮の意外な繋がり]
柳生家の家譜である『玉栄拾遺』より、柳生家と朝鮮の関連記事をひとつ。柳生兵庫助の妹が不縁になったのを宗矩が柳生主馬に嫁がせたが、主馬は朝鮮人だったため兵庫助が激怒し、以後お互いの交わりが絶えたという話。
「厳勝公三男二女アリ(中略)三女 初伊賀国山崎惣左衛門ニ嫁ス。不縁ニヨリ宗矩公柳生江引取玉ヒ、老職柳生主馬某ニ賜。嫡八郎左衛門某仕テ山崎甲斐守、後仕テ有馬氏筑後久留米ニ在。無子。山形氏ヲ養テ子トス。後終ニ山形ト改。伝曰、主馬者朝鮮国ノ種也。故ニ兵庫(注:柳生兵庫助利厳)某妹ヲ嫁シ玉フヲ怒テ宗矩公ト永ク絶交し、今以不通ト云云(ママ)。主馬二女竹田与兵衛某ニ嫁。主馬室、万治ニ己亥五月十六日卒、号仙岳宗寿禅定尼」(今村嘉雄『改訂 史料柳生新陰流 上巻』新人物往来社、64‐65頁)。
宗矩は朝鮮人の門番も雇っていたようだ(根岸鎮衛著/鈴木棠三編注『耳袋1』東洋文庫、31頁)。ちなみに、柳生と朝鮮の繋がりを描いた伝奇小説に荒山徹『十兵衛両断』(新潮社)がある。荒山氏は、「ソウル在住の考証史家黄算哲氏」(前掲書、47‐48頁)が唱えた“柳生十兵衛二人説”に拠りながら、“朝鮮柳生衆”なる剣術集団を創作している。正に、虚実定かならず。
【追記】「ソウル在住の考証史家黄算哲氏」についてネットで調べたところ、どうやら荒山氏の創作だったようだ。荒山氏は別の箇所で、「鶏林大学校の黄算哲教授の研究にも教示を得た。黄教授は『中国史としての高句麗、日本史としての百済』〈同大学校紀要八十七号〉と題する論文」(前掲書、167頁)云々とも書いているが、これも同様に創作だった模様。2chの「高句麗語合戦2〜あれは韓国これは日本〜」の「145」「147」「149」を参照。(2004年10月4日瓢水記)
[試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也]
真田増誉『明良洪範』より柳生宗矩の有名な逸話をひとつ。息子の宗冬に兵法の厳しさを知らしめた内容であるが、同時に将軍家兵法師範としての処世の難しさが滲み出ている逸話でもある。読み方によっては、宗矩の悲鳴が聞こえるような気さえする。
「大猷院様(注:徳川家光)品川御殿へ御成有り柳生但馬守御供にて剣術上覧有り御側の面々何れも試合有て御機嫌斜ならず(中略)此時但馬守が子飛騨守(注:宗冬)も御供にて父但馬守と試合せしが一度も勝事能はずして飛騨守寸の延たる太刀ならば勝べしと申されければさらば大太刀にて試合仕れと仰せられ飛騨守寸延びの大太刀を持て父子立合けるに伜推参也と云ながら唯一打に打居たり飛騨守暫時気絶したり畢竟寸の延びたる太刀ならば勝べしなど云事柳生家に生れし者の本意に有ずとて強く打たる也とぞ剣術の試合は譬御慰みなり共試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也」(『明良洪範』国書刊行会、66‐67頁)。
この逸話を換骨奪胎したのが、隆先生の「ぼうふらの剣」(『柳生非情剣』所収)である。宗冬の上達振りに慄然とした宗矩は、ここで負けては天下随一の剣の伝説が崩れてしまうため、秘伝中の秘伝ともいうべき『西江水』の剣を使って宗冬を昏倒させた。柳生家を出奔した宗冬は、柳生の里に近い金春重勝の稽古場に通ううち、『西江水』の由来について知ることになる。そこには、能楽と剣法の意外な接点が秘められていた……。(2004年10月1日瓢水記)
柳生 十兵衛(やぎゅう じゅうべえ)(1607〜1650) 吉原御免状、かくれさと苦界行、柳生非情剣、死ぬことと見つけたり
柳生宗矩の嫡男。幼名七郎。三厳。
大坂夏の陣が終わった翌年の元和二年(1616)将軍秀忠の小姓として出仕。しかし、二十歳の頃、何故か出仕を止められ江戸城を去る。秀忠と意見が合わなかったとも、彼自身の非行のためとも言うが真相は不明。その約十年後、寛永十五年に書院番および家光の剣術指南役として出仕するも、父宗矩死後再び幕府を去り柳生の里に籠って剣術を教える。
『月之抄』を著す。
父宗矩死後の柳生家に対する幕府の処置に不満を持った十兵衛は、柳生の里に引き蘢った。そんなある時、柳生の里に隣接する笠置山山中で義仙は傀儡子の一団と遭遇する。義仙からその話を聞いた十兵衛は、その一団を率いているのが死んだはずの庄司甚右衛門ではないかと単身笠置山へと向う。翌朝、義仙は笠置山の麓で倒れている十兵衛を発見するのだった。(『かくれさと苦界行』より)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「柳生三厳」の項があるので参照ください。また、『続日本武術神妙記』にも十兵衛関連記述あり。
《瓢水の「一話一言」》
[柳生十兵衛の幼名が“七郎”だった理由とは?]
隆慶作品において、一時は表柳生と裏柳生双方の統帥を務めた柳生十兵衛三厳。しかし、彼の幼名が「七郎」だったことは、あまり気に掛けられていないようだ。今回は、十兵衛の幼名が「七郎」に決まった理由について考えてみたい。
十兵衛は慶長12年(1607)、柳生宗矩の嫡男として柳生の里で誕生した。そしてこの当時、剣術修行のため柳生の里に通う能役者がいた。金春七郎氏勝である。
隆先生が「柳枝の剣」で発見し、未完の傑作「夜叉神の翁」の主人公に据えた七郎氏勝は、能楽に優れていただけでなく、石舟斎に師事して剣術にも天才的な腕前を発揮した。その天才は、石舟斎から『新陰流兵法目録』『新陰流兵法目録事』など、現在伝わっているだけでも5点の伝書を授けられる程であったと云う(『別冊歴史読本 柳生一族』、115頁)。
石舟斎は「七郎」誕生の前年に死去しているから、命名したのは宗矩である。石舟斎の愛弟子であった七郎氏勝にあやかり、道統の将来を担う人物に育つようにという願いを籠めて「七郎」と名付けたのであろう。(2004年8月13日)
柳生 義仙(やぎゅう ぎせん)(1635〜1702) 吉原御免状、かくれさと苦界行、柳生非情剣、対談日本史逆転再逆転
別名、義春、右門、六郎、六丸。義詮、烈堂と号し、晩年に柳生の里を後にする。
柳生但馬守宗矩の六男(宗冬の長男という説もある)。義仙も又、妾腹の子である。柳生菩提寺である芳徳寺の初代住職。遺されている史実は少ないが、兄宗冬との関係は劣悪で、宗冬の遺書には「大変な穀潰し、押し込めにしてしまえ」と云うような内容のことが書かれている。
義仙は一時、京都大徳寺の座主をつとめたことがあるという(『別冊歴史読本 柳生一族』新人物往来社、97頁)。また、『近畿の名族興亡史』には、「大徳寺の天祐和尚に学び、78歳で没す」とある。《瓢》
老中首座酒井忠清の命を受け『神君御免状』を吉原から奪還しようと執拗に吉原攻撃をしかけ、誠一郎の命を狙う。(『吉原御免状』より)
《瓢水の「一話一言」》
[柳生義仙の“実像”やいかに?]
『吉原御免状』や『かくれさと苦界行』に登場する凶悪無惨な柳生義仙は、もちろん隆先生の創作である。そこで、史実として伝わっている義仙の生涯を追ってみよう。
寛永13年(1636)、柳生宗矩の4男として生まれる。母はお藤。3男宗冬より22歳年下である。幼名六丸(むつまる)。宗矩死去に際して11歳で出家し、大徳寺の天祐紹果に入門。義仙と称した。印可を受けて列堂義仙和尚と号し、後に大徳寺第239世となった程の禅知識であった。柳生家の菩提寺芳徳寺の開祖でもある。元禄15年(1702)、67歳で死去(『別冊歴史読本 柳生一族』新人物往来社、156頁)。
但し、兄宗冬との仲は険悪であったと云われている(前掲書、96頁)から、『吉原御免状』や『かくれさと苦界行』で描かれた兄弟の相克は、十分に考えられるものであった。
ついでながら、芳徳寺には宗矩、沢庵和尚と並んで、義仙の木像も安置されている。(2004年1月8日瓢水記)
柳生 友矩(やぎゅう とものり) 柳生非情剣、死ぬことと見つけたり、かぶいて候、対談日本史逆転再逆転
左門。宗矩の次男。母お藤。将軍家光の小姓。
家光の寵愛を受けるが、それを疎んじた宗矩の命により兄十兵衛三巌に大河原村で斬られる。寛永十六年没。
柳生 利厳(やぎゅう としよし)(1579〜1650) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、柳生刺客状
兵介。伊予守長厳。のち兵庫助利厳。柳生新次郎巌勝の次子。尾張藩剣術指南。
慶長八年(1603)加藤清正に請われ五百石で仕える。この時、祖父石舟斎は兵法極意の目録三巻と「極意口伝」に二首の兵法秘歌を与えた。その一つに「切り結ぶ刀の下ぞ地獄なれ ただ切り込めよ神妙の剣」がある。肥後一揆の制圧で農民を大量に殺したことから、加藤家を致仕。慶長十一年(1606)祖父石舟斎宗厳より柳生新陰流正統第三世の印可を承ける。元和元年(1615)尾張初代徳川義直に仕え、五百石。剣術指南役となる。元和六年(1620)義直に印可を与える。慶安元年(1648)隠居を許され、如雲斎と号し、隠居料三百石を賜る。享年72歳。
祖父石舟斎から一子相伝の新蔭流道統を継いだ兵庫介は、叔父宗矩の再三の誘いにも拘らず、徳川家、いや秀忠に仕えることを拒んでいた。どこにも仕官せず諸国を巡り歩く兵庫介が、京に足を踏み入れ、旧知の武蔵屋伊兵衛を尋ねたのはこれといって用事があった訳ではなかった。島左近の遠縁でもある武蔵屋伊兵衛を訪ねれば、左近の消息でも聞けるかも知れぬという漠たる思いから、なんとなく足を向けただけだった。そこに「電撃の恋」が待っていようとは兵庫介自身も思ってはいない。
その武蔵屋には左近の娘お珠がいた。兵庫介とお珠はお互い一目会うなり恋に落ちる。兵庫介には国許で老いた父新次郎厳勝の面倒を看ている妻がいた。その妻を離縁し珠を正妻に迎えられれば話は簡単なのだが、兵庫介の性格からそれもできず、かといって珠との仲を断ち切れるわけでもない。側室として迎えるしかないのだった。そんな兵庫介の元に左近から呼び出しの手紙が届く。珠とのことで呼び出されたと思った兵庫介は、いさぎよく首を斬られようと覚悟し、左近の前に座る。ところが左近の呼び出しは、娘のことではなかった。宗矩が駿府に放った柳生忍軍を一人残らず斬ってくれという依頼だったのだ。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「柳生利厳」の項があるので参照ください。
《瓢水の「一話一言」》
[一村を“根切り”にした柳生兵助]
柳生兵介(兵庫助利厳)は、『影武者徳川家康』に登場する前に、「柳生刺客状」でラフ・スケッチが描かれた。そこでは、慶長8年(1603)夏の百姓一揆殲滅が兵介の心の有り様に大きな影響を及ぼし、無刀取りへと繋がったという解釈がなされていた。ところで、兵介の一生に大きな陰を落としたとされるこの事件は、尾張柳生家では秘事だったらしい。隆先生が参照したと思しき柳生厳長『正傳新陰流』(島津書房)から紹介してみよう。
尾張柳生家に伝わっているのは、『柳生家譜』を著わした嶋槙右衛門快徳(連也の高弟)の子直章が、父から平生聞いた話を「明話之目録」として遺した中に、「一、利厳公肥後に於て、百姓一揆勢二十数名を斬罪の事」「一、同、一村切払いの事」とあるのが唯一の記録であると云う。そして、「一門の者、わが家代々の者がその行動を口伝するときは、いつも声をひそめて語るという慎重さ」であった(前掲書、123‐124頁)。
「一、同、一村切払いの事」とは“根切り”の意味である。兵介の行動が「血に酔った」ためだったのか、それとも別に理由があったのか……。それを確かめる術はない。(2004年4月30日瓢水記)
柳生 宗章(やぎゅう むねあき) (?〜1603) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、柳生刺客状
五郎右衛門。柳生石舟斎の四男。金吾中納言小早川秀秋の家臣となる。しかし、秀秋が遺子なく没したため牢人となった宗章は、旧知の米子藩中村忠一の家老横田内膳の館飯山城を訪ねる。その滞在中、内膳が主君忠一に謀殺されるという事件が起った。父を殺された内膳の倅主馬助は、飯山城に籠り、討死を覚悟で主君忠一と一戦を交える。宗章は辞去の勧めを断り、主馬助等と共に戦いに参加し、華々しく斬り死した。
『徳川実紀』に関連記述有り、参照。
但馬入道の第四男(即ち宗矩の兄)に五郎右衛門と称する勇士があったが、後伯書の国飯山城に客となっている頃、上州横田内膳を助けて中村伯書守の多勢を引受けて勇戦し武名を響かしたが、慶長八年十一月十五日城陥るに及び五郎右衛門は城より打って出て、新陰流の古勢「逆風の太刀」をもって甲冑武者十八人を斬り伏せて遂に戦死したが、伯州の民五郎右衛門の武勇に感じ社に祀ったということである。(柳生流兵法と道統)
《瓢水の『一話一言』》
[柳生五郎右衛門が用いた詐術の信憑性]
幕臣真田増誉が記した『明良洪範』に、柳生五郎右衛門宗章(宗矩の兄)の逸話が記されている。これは有名な逸話なので、知っている向きも多いだろう。
「三代将軍家光公の剣術の御師範たる柳生但馬守宗矩の弟同姓十左衛門宗章も亦剣術の達人にて御旗本の人々並に諸侯の家士にも指南を受る者多く有けり或日松平出羽守直政方へ招かれしにほかにも剣術の達人三四人居ける此時出羽守剣術の試合を所望さる十左衛門両度迄辞しけれども出羽守強て所望されし故止事を得ず立合しに合手の者木刀を取る所を声を掛ながら抜討に真剣にて切捨かくて出羽守の前に平伏して某は剣術未熟に候へども兄但馬守は将軍家の御師範なれば只今の試合もし某打負けたらんには某家の流儀に疵付き申候さすれば将軍家の御剣法にも疵付く道理にて公私ともに相済ざる儀に候へばかの者意趣遺恨も有ざれど拠無く討果し申候不便な事に候と申上ける一座の面々一言も申者無りしとぞ或人此事を伝へ聞十左衛門が申分一理有る様には聞ゆれど智慮浅き仕方也かれは良士に非ず匹夫の勇に近しと云れしと也」(『明良洪範』国書刊行会、380頁)。
柳生新陰流の面目を保つための詐術としてよく引用される逸話であるが、残念なことに間違いが多い。柳生宗章は宗矩の“弟”ではなくて“兄”であるし、宗章の通称は“十左衛門”ではなくて“五郎右衛門”である。それに宗章は慶長8年(1603)11月、寄寓先の米子藩中村家の騒動に巻き込まれて斬り死しているのだが、松平直政はこの時まだ3歳なのだ。よって、この逸話の信憑性は限りなく低いと言わざるを得ない。「或人」の言は、真田増誉自身が抱いていた柳生新陰流に対する批判を仮託したものではないだろうか。(2004年9月25日瓢水記)
柳生 宗冬(やぎゅう むねふゆ)(1613〜1675) 吉原御免状、かくれさと苦界行、柳生非情剣、死ぬことと見つけたり
柳生宗矩の三男。内膳正。飛騨守。通称・又十郎。
幼少時は泣き虫だったという。父の死後所領四千石を受ける。四代将軍・徳川家綱のもと忠勤を励み一万石の大名に返り咲く。猿楽を好み晩年は柳陰斎と号した。
宗冬の墓は、柳生家菩提寺芳徳寺(奈良市柳生下町445)と、練馬区桜台6丁目の広徳寺にある。
吉原を狙う柳生の真意を確かめるため誠一郎は柳生家上屋敷を訪ねる。その柳生家当主として登場。弟義仙率いる裏柳生が老中首座酒井忠清の命をうけ暗躍している事実を心良く思わない宗冬は、柳生家のため誠一郎に協力する。(『吉原御免状』より)
中里介山著『日本武術神妙記』に「柳生又十郎」の項あり参照ください。また、同氏の『続日本武術神妙記』に「柳生父子」として、
「柳生但馬守が将軍家光の前で、御馬方諏訪部文九郎が「馬上ならば」といったのを、但馬守が馬の面を一打ち打ってその驚くところを文九郎を打ち据えて御感に与ったということは前にも記したが、その時の事であった、子息の飛騨守もお伴で将軍の面前で試合をしたが、飛騨守は一度も勝つことが出来なかった、そこで飛騨守はテレ隠しかどうか知らないが、「寸の延びた太刀ならば」といった。今までは手に入らない刀を持っていたからだ、もう少し長ければ負けはしないという意味であった。それを聞くと父の但馬守が、「然らば、大太刀にて試合仕れ」と云った。そこで、飛騨守が寸延びの大太刀を持って父に立ち向うことになった、そうすると但馬守が、「伜、推参なり」と云いながら、ただ一打ちに打ち据えて了ったので、飛騨守は暫く気絶をした。
斯うまで手厳しくしなくともよかった筈なのだが、寸の延びた太刀ならば勝てるというようなことを云うのは柳生家に生れたものの本意ではない、そこで強く打ったので、仮令如何なる場合でも試合をなすものは父子兄弟たりともその覚悟がなければならないのである。」とある。
[逸話](『想古録)
柳生飛騨守宗冬、沢庵和尚と常に親しく交はりけるが、兵法武道の話の末、柳生は毎も沢庵に戒しめられ、貴君は争で拙僧に及ぶべきなど嘲られければ、柳生腹立ちて打て掛るに、沢庵巧みに之を弄び、残念なり無念なりとて、飛付く柳生の身躰を側近くへも寄らしめざりし、其後沢庵京師に隠居しけるに、柳生一心不乱に武芸を学び、三年を経て其伎稍々進みけるとき、此度こそ是非沢庵を撃据ゑんとの勢ひにて、勇んで京師に上りけるが、若し又沢庵に負けたる時は、是れ一生の恥辱なれば、今一年稽古して来るべしとて、引返して江戸に下り、更に一年の間錬磨研究の効を積みて、再び京師に上り、沢庵の玄関に立ちて案内を乞ひけるに、沢庵取次の者を以て柳生に伝言し、此度は愚僧も中々及ばざる程に上達せられたる様子なれば、前年の如き悪戯は中止すべし、兎に角久々の面会なれば早速お目に懸り申すべしとて、奥座敷に迎入れ、対面して、其芸術の上達したるに相違なきことを称賛し、想ふに今は愚僧も中々及ばざる伎倆を有するに至りたること必定なりと評監し、其理由は、貴君は前年と違ひ、胸中に我未だ及ばずとの謙遜心出でたるが如く察せらるれば、此の観念より練り上げたる今の貴君は、復た昔日の貴君に非ざること論を待たずと、明鏡に照らして其心胸を看破せしが如き的中の一箭を放ちければ、当初撃据ゑん、刺殺さんとまで決心して尋ね行きたる柳生飛州も、満腕の力瘤端なく挫けて、悟道の談話に一夜を明し、再会を約して江戸に帰りけるとぞ(大岡栗斎)
《瓢水の「一話一言」》
[柳生宗冬と義仙の不仲説を追う!(その1)]
一般に、柳生宗冬と弟義仙(列堂)は不仲であったと云われている。『吉原御免状』や『かくれさと苦界行』でも通説に従った設定であった。この不仲説は何に由来するのだろうか。
延宝3年(1675)9月、死を前にした宗冬(61歳)は「申置書」(遺言状)を認めた。その中に、義仙(39歳)を芳徳寺から追い払うことを指示した下りがある。
「芳徳寺に愈致普請可申候。列堂儀一円心も直り不申、神文を破り、其上気違同前の体、何共絶言語候間、もはや成間敷候。いか様に申候共、寺の為に候間、住持に直し候儀無用に可被致候。若気違に候間申分などいたし候はば、見合せ候而押込候歟、打捨にいたし候而両様の内に相究可申候」
「柳生吉兵衛伜両人之内壱人我に子分にいたし芳徳寺にかへぼう(代坊)に致し、留守居致させ候様に可致候。其段相談次第に候」(今村嘉雄『柳生一族』、261‐262頁)。(2004年2月7日瓢水記)
[柳生宗冬と義仙の不仲説を追う!(その2)]
意訳すると、「柳生家の菩提寺である芳徳寺の修築が始まるが、弟列堂は一向に心を入れ替えて仏道修行に励もうとしない。気違い沙汰である。もはや許し難いから、何と言って来ても取り合ってはいけない。寺のためにならないから、柳生家に戻ったとしても住持にしてやる必要はない。若造のくせに気違いであるから、住持になれないことで抗議でもしたら、しばらく様子を見て、押し込めてしまうか斬り殺してしまうしかないだろう」となる。口を極めて義仙を罵った上に、「斬り殺してしまえ」とまで書いている。
更には、「柳生吉兵衛(注:不明)の男子2人のうち1人を私(宗冬)の養子にした上で、列堂に代えて芳徳寺に差し向け、留守居をさせるようにして欲しい。この件についてはよくよく相談するように」と、義仙を追放した後の人選まで記す念の入れようである。
宗冬がここまで義仙を忌み嫌った理由は何だったのだろうか。
【追記】宗冬の遺言状にある「打捨にいたし候」の解釈で悩みましたが、『広辞苑』に「うち・すて【打捨】斬り捨てにすること。大友興廃記『その他の―はその数を知らず』」とあるのに従いました。言葉の順番を考えても、「様子を見る→押し込めにする→斬り捨てる」と、段々きつくなっていると解釈出来ます。如何なものでしょうか。(2004年2月8日瓢水記)
[柳生宗冬と義仙の不仲説を追う!(その3・完結)]
宗冬と義仙が極めて不仲であった理由については伝わっていない。しかし、宗冬の「申置書」からは、義仙が父宗矩の遺志に背いて芳徳寺を出奔していたことが窺える。この辺りの事情について今村氏は、「(義仙の)若き母お藤と兄宗冬との関係を誤解したためだと憶測する向きもあるが、これまたまったく何等のたしかな資料もない」とした上で、「一度は名刹大徳寺の座主となったほどの人物であるから、奔放不羈な壮気が、諸事温健(ママ)慎重な宗冬と、相容れないものがあったのであろうか」(前掲書、123頁)としている。
つまりは、研究者にもよく判らないのである。そう言えば、義仙の生涯そのものについても不明な点が多い。小池一夫氏が劇画『子連れ狼』で義仙(列堂)を敵役に仕立てて以降、「烈堂」のイメージが一人歩きしている。まずは、義仙が大徳寺に入った時期、そして座主を勤めた時期を特定することから始めなければいけないように思われる。(2004年2月9日瓢水記)
柳生 内膳正(やぎゅう ないぜんのしょう)
柳生 兵庫巌延(やぎゅう ひょうごとしのぶ) 影武者徳川家康
新陰流正統第八世。
柳生 兵助(やぎゅう ひょうすけ)
柳生 兵介(やぎゅう へいすけ)
柳生 又右衛門(やぎゅう またえもん)
柳生 又十郎(やぎゅう またじゅうろう)
柳生 宗厳(やぎゅう むねよし)
柳生 茂左衛門利方(やぎゅう もざえもんとしかた) 柳生非情剣
柳生兵庫助利厳の二男。
柳生 厳長(やぎゅう よしなが) かくれさと苦界行、柳生非情剣
柳生流第十四世。
著書に『正伝 新陰流』が有る。
柳生 烈堂(やぎゅう れつどう)
柳生 連也斎(やぎゅう れんやさい) かくれさと苦界行、柳生非情剣
新六、七郎兵衛、兵助、厳知、厳包。柳生兵庫助利厳の三男。島左近の末娘珠の子。浦連也と名乗った時期もある。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「柳生連也」の項あり参照ください。

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最上氏