水野氏(みずのし)
水野氏は三河の豪族で始め織田家に仕え、のち徳川家譜代として仕えた名門の家柄。
水野 忠重(みずの ただしげ) かぶいて候
和泉守。水野勝成の父。三州刈屋城主。池鯉鮒にて堀尾帯刀可晴とともに石田三成の刺客に殺される。
水野 勝成(みずの かつなり) (1564~1651) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、死ぬことと見つけたり、かぶいて候
日向守。徳川譜代。
戦国時代を槍一筋で生き抜いた一代の傾奇者。年少の頃から武功を重ねるが、父忠重の寵臣を斬り捨てたことから勘当される。京に上り豊臣秀吉に仕えるが、朋輩を斬り捨てたために秀吉の不興を買い、出奔。秀吉が放った刺客から逃れながら、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田如水に仕えるが、いずれも退転。その後は備後・備中を放浪するが、秀吉の死後、家康の仲介で15年振りに父忠重の勘当が解ける。関ヶ原合戦直前に父忠重が不慮の死を遂げたために、刈谷城主を継ぐ。大坂夏の陣では、後藤又兵衛、薄田兼相、大谷吉胤(大谷吉継の子)を討ち取る。
元和5年(1619)には、福島正則の改易に伴って大和郡山6万石から備後福山10万石に封ぜられる。 寛永14年(1637)に勃発した島原の乱には、73歳で隠居の身であるにもかかわらず、息子の勝俊と孫の勝貞を伴い出陣。実戦経験が豊富な古強者の生き残りとして、寄せ手の総大将・松平信綱にその経験談を語る。慶安4年(1651)、88歳で死去。《瓢》
広瀬旭荘(ひろせきょくそう)の著した『九桂草堂随筆』に有る勝成に関する記述参照。
水野 勝俊(みずの かつとし) かぶいて候
水野日向守勝成の長男。
水野 成信(みずの なりのぶ) かぶいて候
水野勝成の二男。
水野 成貞(みずの なりさだ) 死ぬことと見つけたり、かぶいて候
幼名百助。水野勝成の三男。かぶき者、棕櫚柄組の頭領。
《瓢水の「一話一言」》
「水野成貞は棕櫚柄組の頭領だったのか?」
「かぶいて候」の主人公水野成貞は、水野十郎左衛門の父として、また、旗本棕櫚柄組の頭領として知られているが、その実像はどのようなものだったのだろうか。
水野勝成の3男として生まれた成貞は、元和5年(1619)、将軍世子家光に小姓として仕え、寛永元年(1624)に出雲守に叙任。三千石を領した。寛永4年(1627)頃に蜂須賀至鎮の女と結婚し、十郎左衛門を含む二男三女をもうける。後に職を辞して寄合となり、慶安3年(1650)死去。女子はすべて蜂須賀家の家臣に嫁いでいる。
稗史では“棕櫚柄組の頭領”とされるが、『徳川実紀』には、寛永9年(1632)8月に殿上人の給仕を務めたこと、寛永17年4月の日光社参に際して被服の役を務めたことが記されている。旗本棕櫚柄組の頭領が幕府の公式行事で役を勤めるのは、おかしな話ではないだろうか。成貞は本当に棕櫚柄組の頭領だったのか。大いに疑問ではある。(2004年1月11日瓢水記)
水野 萬(みずの まん)
蜂須賀至鎮女。水野成貞の妻。水野十郎左衛門の母。
《瓢水の「一話一言」》
[水野成貞の妻は徳島で死去していた!]
「かぶいて候」の主人公・水野成貞の妻は、成貞の後を継いだ十郎左衛門が切腹させられた後、十郎左衛門の弟忠丘と共に実家の蜂須賀家に預けられた(『徳川実紀』、寛文4年(1664)3月27日条)。そして、徳島の地でその生涯を終えたようだ。
佃実夫『徳島歴史散歩』(創元社)に、「水野十郎左衛門貞義の母は、蜂須賀至鎮の女萬(正徳院)である(中略)丈六寺には水野十郎左衛門の母お萬の方の墓がある。場所は丈六寺観音堂裏の石段をのぼったところ。『水野十郎左衛門の母お萬の方』という木の標柱が建てられていたが、その標柱もいまは朽ちてしまっている。墓はかなりの大きさの無縫塔である」(138頁)とあるから、「萬」と呼ばれた女性であったことが判る。
ちなみに、丈六寺は徳島市丈六町にある県内最古の名刹で、数多くの文化財が残されていることから、「阿波の法隆寺」「阿波の正倉院」と呼ばれているそうである。(2004年2月27日瓢水記)
水野 十郎左衛門(みずの じゅうろうざえもん) (?~1664) 吉原御免状、かくれさと苦界行、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり
江戸前期の旗本奴の頭目。名は成之。父成貞は備後福山藩主の三男で母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮の娘お萬の方(正徳院)。1650年、父の遺領を継いで小普請となる。水野十郎左衛門の墓は、中野区上高田4-14 万昌院功運寺にある。
病気と称して出仕を怠り、大小神祗組(もしくは白柄組)の首領となって江戸の町を闊歩。1657年に幡随院長兵衛を殺害したがこの時には咎めはなかった。が、後に幕府の風紀取り締まりが厳しくなり、不行跡で評定所に召し出されるが、その時の態度が不作法であったとして切腹に処されその子も殺された。歌舞伎等では幡随院長兵衛の宿敵として悪役となることが多い。
傾き者旗本奴の集団神祇組の頭領。仲間を引き連れて吉原へ出向いた時に、誠一郎とすれ違う。たわむれに馬上から誠一郎に斬り掛け、その切先を五分の見切りでかわす誠一郎をただ者ではないと看破する。しかも平然とする誠一郎に惚れ、以降一方的な友情を誠一郎に抱き続ける。(『吉原御免状』)
[逸話](鼠渓著『寐ものがたり』)
「[別25]水野十郎左衛門悪行募り、阿州へ御預ケになり、切腹の砌申けるは、不思議之御縁ニて永〃御介抱ニ預り、御礼謝難申尽、唯此上之御願ニは、正宗か貞宗の短刀にて切腹仕度候間、御借被下るゝ様ニと、又無餘義も被頼ける阿州の役人承り、早速吟味せし処、正宗はなし、貞宗はあり。則持出し、折角の御頼ニ候得ども、正宗は国許に有之候て間ニ合かね候、御不足には有御坐べけれど、貞宗の短刀御借可申也とて差出す。十郎左衛門大きに悦、辱仕合いざ拝見仕らんとて、手に取て抜放し、打返し/\とつくとながめ、とてもの事に切味も試みたしとて、片ひざまくり上げ、膝の上より股の付ねまで、ひと引にひきければ、鮮血流れて混々たり(御規定を守りて腹へはつきたてず)。色も変ぜず自若として、扨切味と申、残所なき御道具也とて血を拭ひ鞘に納め、三宝の扇子をとり片脇に置、其かわりに右の短刀をのせて頂きければ、介錯人相心得、振上る刀とともに首は前にぞ落にける。阿州侯、その健気なるに感じ、御願ニて微録なれども跡はたちける。」
歴史用語事典『傾く』の項参照。
水野 勝種(みずの かつたね) (1661~1697)
水野勝成から四代目の備後福山藩城主。父は水野勝貞、祖父勝俊。寛文元年福山に生まれ、同三年二月三日遺領を継ぎ、江戸藩邸で養育され、同八年将軍家綱に謁し、延宝三年美作守に叙任、同七年六月十一日はじめて帰国の暇を許され、同二十八日江戸出発、大坂から海路西下、八月朔日福山着、服忌のため二十五日初入城した。この時、勝種十九歳。
『福山領分語伝記』には「此殿様は御好色にて、御部屋御女中、余多召仕はれ候。それ故、御多勢御座候得共、御仕合悪敷く、皆々様御早世遊ばされ候」と記され、入部以前や入部のための帰国時、その後の参勤交代での旅や江戸在府の際、吉原の若山相手の遊興や室津での登楼をしたと推定されている。その事が当時、巷間でも知られ、西鶴の『好色一代男』にも「備後の去御方」と勝種を匂わす記述がある。
水野 忠邦(みずの ただくに) 鬼麿斬人剣、銚子湊慕情
越前守。浜松藩主。幕府老中。跡部山城守の兄。
十一代将軍家斉の時代に幕府老中(幕閣)に任ぜられる。その任期中に起った「仙石騒動」を利用し、ときの老中首座松平康任を失脚させ、自ら老中首座の地位についた。
[逸話](『想古録』)
大塩平八郎の一乱大坂に起りけるとき、其飛脚は数日にして江戸に達しけるに、当時大坂町奉行たりし跡部山城守良弼は、浜松閣老の実弟にてありければ、浜松侯は躊躇逡巡し、早打到着の後四五日を経るも、其騒乱を大御所公に申上げざりけり、御側衆は閣老の所為を緩慢とし、閣老の上申を待たず、詳細なる事実を公に申上げけるに、公は殊の外驚かれ、兎に角閣老等が不都合なりとて、直ちに浜松侯を召寄せられ、聞けば大坂にて容易ならざる騒乱起りたる由なれども、汝等何故に其注進を包蔵するや、町奉行の施政の宜しきを得ざりしに由るに非ずや、夫れと申すも奉行は依頼する所ありたれば、不埒至極なり、何れ其内考あるべしとて、厳重なる上意の下に浜松侯を叱責せられ、侯は唯だ恐縮するのみにて、一言の申し開きなく其席を下りけるとぞ、此後矢部が跡部の有効を主張せしも、林家が大塩一族に賊名を負せたるも、是れ皆浜松侯の権威を恐れて、其嫌疑を避けたる者なりと云へり(平井直蔵)
浜松閣老(水野越前守)の愛妾の兄は有名なる強盗の首領にて、手下の小賊の諸国に散在するもの其数甚だ多し、本郷の棒振の士、其賊を執へて之を奉行所に差出しけるに、賊は免されて棒振は其役を転ぜられければ、他の棒振これを不当とし、再び其賊を捕へて奉行所に差出しけるに、是れ亦役換へを命ぜられて、賊は何の処分をも受けず、無事に我家に引取りたり、其ころ小出某と云へる任侠の棒振りありけるが、浜松閣老の専横と筒井町奉行の諂侫とを深く憤ほり、若し奉行が永く彼賊を不問に付し置くときは、天下は闇黒と為りて政事は盗賊の媒介を為す者と変ずべしとて、八方手を配りて之れが捕縛に骨折りけるに、彼れも防禦に抜目なく、多数の手下を諸国より呼集めて、其用心毫も怠りなければ、流石の小出も匙を投げ、今は我手のみにては之を捕ふる能はざれば、一臀の力を義侠なる有力者に謀るに若かずと決心し、黒田侯の隠君に介を求めて詳細なる事情を打明しけるに、隠君大いに慷概して直ちに捕縛の加勢を諾し、数十名の捕吏を貸与へて力を小出に添へられたり、小出は勇気平日に百倍し、我が一身を犠牲に供して奮然賊巣に闖入り、虎穴の虎王を生擒り得て、縛して奉行所に差出しけるに、筒井町奉行(紀伊守政憲)は一応吟味の末是れ何の咎も無き者なりとて、其縛を解かしめて放免しけるを、小出は屈せず、再び捕へて差出しけるに、又も罪なしとて免しければ、我れ何回にても縛すべしとて、三度縛りて差出しけるに、筒井は平気にて其縄を解かしめ、無罪の者を縛め置くの謂れなしとて、又々其賊を赦したり、小出は烈火の如くに憤激し、四回は愚か何百回にても、我が生命の有らん限りは必らず彼賊を見遁し置かずと、奮て第四回目の捕縛に取掛りけるに、図らずも官命下りて棒振の職を免ぜられ、之れと同時に他の割合好き役に転任の命ありければ、小出は事の意表に出でたるを怪しみ、黒田隠君の別墅に駈付けて、事の仔細を残りなく述べけるに、隠君は歯噛みして閣老奉行等の邪曲を憎まれ、小出を励まして廉恥節操の忘る可らざる所以を忠告し、若し足下が禄に離れたらば、余は千石を与へて永く足下を客待すべし、官禄之を失ふも之を得ること難きに非ず、名誉一たび身を離るれば之を復する甚だ難し、足下必らず節操を守りて妄りに其膝を折る勿れと、義気を満面に浮べて懇々たる説論ありければ、小出は此の後援を得て益々感激し、支配役に上書して、転免黜陟の如何なる失錯に原因するやを質問しけるに、支配役は其答弁に困み、足下の言ふ所は尤もなれども、強て此事を言ひ募るときは、我等までも退役さるること必然なれば、是非此の事は怺へて呉れよとて、手を合して拝みけるとぞ、此末如何なる者にや、今にして矢部駿州の欲しきを覚ゆるなり云々(泉本正助)
近来(天保八九年の比)江戸にては、所々へ張札を為すもの多けれども、中にも可笑きは浜松閣老の上邸の門扉に貼付けたる悪口あり、其落書は「腫物」と大きく書きたる上に膏薬を塗り付け、其下に、「今時の政治は腫物に膏薬を貼りて療治すると同様なり、平生養生せず腫物の出た所ばかりへ膏薬を貼りても、夫れにて躰毒の消去るものに非ず」と記載ありしと云へり、一体落書は何人の手に成る者なるやを知らざれども、世の肯綮に的中せしことを言ふ者なり(坊主衆の手に成るとも云ふ)、浜松侯之を見て、果して如何の顔色せられしにや(上田陸舟)
江戸城中の二の丸は、田沼閣老が浚明公(十代将軍)を毒殺したる処なれば、大奥の人々皆これを忌み畏れ、大御所公の如きは殊に之を嫌はれたり、然るに天保九年三月十日西丸火を失して、大御所公(十一代将軍)の玉殿悉く灰燼に帰しければ、西丸再築の普請中は二の丸に仮居せられざる可らざることと為りけるに、水野越前侯、此の御仮住居が公の最も好ませられざることなるを、夢にも知らず、何の遠慮もなく、至急御引移り然るべしとのことを言上しけるに、公は殊の外御気色を損ぜられ、何の御返辞もあらざりけるとぞ、水越は職務上已むを得ざることとは云ひながら、思はぬ上申に図らざる迷惑を買ひたること、可笑し(内山清蔵)
外国船打払ひの処分は、当局閣老の意見に由て其時々に異同ありたり、楽翁公(松平定信)は開国論者には非ざりしが、難船破船等の漂着したる時は何国の船舶たるに拘はらず救助を与へ、場合に由ては薪水にても食料にても、必要と認めたる物に限り遣はすべしとの主意なりし、其後沼津侯(水野出羽守忠成)の閣老たるや烈しき鎖国論を唱道し、清蘭両国を除くの外は見当り次第に打払ひ、其の難船たり破船たりを問はず、容赦なく船躰船員を打沈むべしとのことを主張せり、然るに目下政柄を握る浜松侯(水野越前守忠邦)は、最初は沼津侯と同論にて、異船打払ひの主張者なりしが、近ごろ福山侯(阿部伊勢守正弘)の勧めに由て、鎖国の説を一変し、今は通商貿易の必要なる所以を主唱する開港論者と為れり、聞く所に拠れば福山侯は松代侯(真田信濃守幸貫)に説かれ、松代侯は其藩臣佐久間修理に説かれたる者なりと云へり、果して然るにや(上田陸舟)
水野 勝茂(みずの かつしげ) 見知らぬ海へ
未資料
水野 監物(みずの けんもつ) 風の呪殺陣
未資料
水野 惣兵衛(みずの そうべえ)
→ 水野 忠重(みずの ただしげ)
水野 忠政(みずの ただまさ) 影武者徳川家康
右衛門太夫。三河苅屋城主。家康の生母於大の方の父。
織田家の家臣で、『玉輿記』には尾張小川城主と有り、大河内左衛門元綱養女(お富の方)を妻として、三男(水野織部忠守・同備前守忠分・同和泉守忠重)一女(家康生母お大の方:伝通院)をもうけたと有る。
水野 藤十郎忠重(みずの とうじゅうろうただしげ) 影武者徳川家康
家康の家臣。蜂屋半之丞貞次と三河一向一揆小豆坂合戦で闘う。
水野 藤兵衛(みずの とうべえ) 一夢庵風流記
浪人のいくさ人。上杉の助っ人。
水野 二左衛門(みずの にざえもん) 影武者徳川家康
三河譜代。キリシタンであったため追放。
水野 信元(みずの のぶもと) 影武者徳川家康、時代小説の愉しみ
下野守。三河苅屋城主。土井利勝の実父。伝通院於大の方の兄。
織田信長に仕える。

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