最上氏(もがみし)
足利一門斯波氏の子孫斯波(大崎)家兼を祖とする。源氏。
最上氏の始祖は、大崎家兼の次男家頼で、奥州探題職を任ぜられた家兼が最上郡に入部させた。家頼は最上に入るとすぐに山形城を築城する。二代直家は周辺各地に庶子を分封し、惣領制を取る。戦国期に入るとその惣領制も崩れ、支族間で対立、十代義定の時には隣国の伊達氏にも侵攻され、長谷堂城を落され山形城に肉薄され窮地に陥るが、伊達氏とどうにか姻戚関係を結んで和睦。十二代義光になって庄内の武藤義氏を倒し最上川流域の領地化がなった。小田原の役には参陣せず問責を受けるが、家康の取りなしで所領は安堵された。その後、会津に入った上杉氏と対峙。関ヶ原の前哨戦となる形で上杉軍と戦う。役後、上杉氏は米沢に減封となり、最上氏は新たに由利郡などを与えられ五十二万石の大大名になるが、慶長十九年(1614)、義光が没すると、最上氏は急速に没落への道をたどった。十三代義親が三十六歳で急死。僅か十一歳の義俊が十四代を継ぐが、我が儘な性格から家臣に嫌われ、叔父義忠を押す一派と内紛となり、幕府の介入を受けて所領は没収となった。
最上 義光(もがみ よしみつ) 捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記
出羽守。出羽藩主。
山形出羽守 最上出羽守吉光也、慶長十九年卒す、(『慶長年間江戸図考』)
天正十九年、九戸追討として、神君、奥州信夫郡大森に御陣を居へらる、此時、義光、神祖の御陣営に来り、拝謁し、二男四郎二郎(十歳)を召具して御家人とす、大名の子、御家人に列せし始也、后駿河守家親と云、伏見御在陣の砌も、義光志を通じ、関ヶ原乱にも己が在所に止りて、上杉と戦ひ、慶長十九年、義光卒して、家親家を継ぐ、又曰、最上氏、山形居城なる故、時の人、山形出羽守と記せしものなる歟、(『江戸古絵図考附録』)
[逸話](『想古録』)
昔し大和の高間に百二十余歳の老翁ありけり、最上義光これを召して、前代興亡の事ども聞かんとせられしに、翁はさる世の中の事は一向存ぜず、ただ人は風雨寒暑を避け、大衆群集の処を離れ、思ひを苦めず、心に適はざることをば強て為さざるやう心掛くれば、老て益々壮健なるべし、との伝hrを循ひたる迄なりと述べけるに、義光大いに不興せられ、汝の長寿法は世の志士に不奉公を勧むる方法にして、且つ今日に何の益なきものなれば、我聞くことを欲せざるなりとて、やがて其老翁を逐返さしめたり(隠明寺善蔵)
最上 家親(もがみ いえちか) 捨て童子松平忠輝
出羽山形城主。

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