皆川氏(みながわし)
小山政光を祖とする。藤氏。
藤原秀郷の子孫小山政光を祖とした結城氏の同族。小山氏初代の長子朝政が小山氏を継ぎ、その弟二男宗政が長沼氏を名乗り、その孫宗員が下野国都賀郡皆川荘に居館を構え皆川四郎左衛門尉宗員と名乗る。その後、六代宗常の時、鎌倉執権北条高時に背き、元亨三年(1323)、所領を没収され生害して皆川家は断絶した。それから七十数年後、先に奥州に移住していた長沼紀伊守秀光が本家小山家を頼って下野に戻り、栃木に挙を構えるが、その子秀宗が永享元年(1429)頃、皆川に城を築いて皆川家を再興。こうして重興皆川氏の初代となる。
皆川氏は戦国期を合戦に明け暮れる日々をおくるが、五代広照の代に小田原北条氏に拠り秀吉の小田原陣で秀吉の軍に攻められ皆川城は廃墟となった。しかし、広照自身は密かに小田原城を抜け家康を通じて降伏したため、所領の三万五千石は安堵された。いがて家康が天下を取ると、広照は家康の六男忠輝の附庸大名となり信州飯山に四万石加増され、七万五千石の大名となるが、忠輝改易を受けて皆川広照も所領を没収された。
以後、皆川氏は五千石の旗本として存続する。
皆川 広照(みながわ ひろてる) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記
山城守。飯山城主。忠輝の与力大名。
《瓢水の『一話一言』》
[皆川広照が考案した“老甫懸り”]
『捨て童子・松平忠輝』で忠輝を養育した皆川広照は、花井三九郎を訴えて改易されたが、元和9年(1623)に許され、家光(当時竹千代)の話相手として再び出仕した。その頃、役向きの覚書を脇差の下緒に結わえることが流行り、“老甫懸り”と称された。これは記憶力が衰えた広照のアイデアだったようだ。
「老甫年寄故物覚へうすく候を以、今宵御物語可申上と存る事共をは、心覚の書付に致し脇差の下緒に結ひ付、御前へ罷出候前に一通り披見して出る如く被致を人々見習ひ、西の御丸附の面々は不申及、後々は御本丸方の御役人中の義も、品々の御用なと有之節は覚え書に被致、脇ざしの下緒に結ひ付を其節老甫懸りと世上に申ならはし候と也」(荻原龍夫・水江漣子校注『落穂集』人物往来社、85頁)。
広照が“老甫懸り”を考案する前は、江戸城の役人は報告、連絡、相談事項をすべて頭の中に入れていたことになるのだろうか。しかしそれは誰にとっても難しく悩みの種だ。広照のアイデアが広まったのは当然のことだったろう。(2005年1月7日瓢水記)
皆川 隆庸(みながわ たかやす) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
志摩守。皆川山城守広照の子。
皆川 山城守(みながわ やましろのかみ)
→ 皆川 広照(みながわ ひろてる)

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