源氏

家別人名一覧

《源姓》(みなもとせい)

一般には、源氏(げんじ)と呼ぶことが多い。源を姓(かばね)とする氏族の総称で、天皇が、臣下に下った子や孫、曾孫に賜った姓。
従来、臣籍降下は律令制の「継嗣令」では六世以降と定められていたが、その後、子孫の数が多くなったためか、六世以前にも臣籍降下がなされるようになり、慣例として三世以降でも行なわれた。その慣例を破ったのが嵯峨天皇だった。
その原因は度重なる遷都による財政難であり、わけても嵯峨帝の父桓武帝による平安遷都で、朝廷の財政は逼迫の度を高めたのが主な理由とされている。
嵯峨帝は自らの子(二世)五十人の内三十八人を降下させ、その皇子皇女らに与えた姓が『源』で、源氏の誕生となった。それまでの賜姓には「橘」「岡」「清原」「春原」「弓削」「在原」「伏原」「長谷」「文屋」「広根」「大江」「夜須」「長岡」があり、父帝桓武天皇の「平」姓があったが、あえて「源」姓にしたのだった。
その時、嵯峨帝は臣下に下る皇子達に「汝等は皇系なり、訳あって臣籍に下すも、のちのち大河のように発展すべし」という願いを込めて『源』姓を賜与したという
こうして「源」姓が生まれたが、その後、複数の天皇の子や孫が源姓を賜っていることから、天皇の諡によって、それぞれ清和源氏、宇多源氏などと区別して呼ぶようになった。

『源』姓は嵯峨天皇(814)より始まり、近世正親町天皇(1664)まで二十一流に及んでいる

[嵯峨源氏](さがげんじ)
第五十二代嵯峨天皇を祖とする源氏。信(まこと)を第一源氏とし四皇子、四皇女をまず臣籍に下した。その後、次々と降下させ、都合三十二人の皇子、皇女に「源」姓を与え朝臣の列に加えた。
全て源姓で紛らわしいため、苗字の使用が盛んになり、信が「北辺」、第二源氏の弘が広幡、さらに東三条、横川、四条、賀陽院、白雲、田中、秋篠、河原院、西七条、竹田を名乗っている。
[仁明源氏](にんみょうげんじ)
第五十四代仁明天皇の子と孫王に与えられた源姓。「多(まさる)」を第一源氏とし、子5人、孫7人が源氏となった。
[文徳源氏](ぶんとくげんじ)
第五十五代文徳天皇を祖とする源氏。
[清和源氏](せいわげんじ)
第五十六代清和天皇(850〜880)の孫経基王(つねもとおう)が源氏の姓を賜り、臣下に下ったのに始る。清和天皇が源氏の姓を与えた皇子は何人かいるが、経基王の系統だけが栄えたことから、清和源氏の始祖は経基王となった。
清和源氏は源満仲の代に藤原氏との関係が強まり、藤原良房の子孫(藤原北家)が天皇の外戚となることに協力し、摂関家の地位を確立するのに一役かったとされる。
[陽成源氏](ようぜいげんじ)
第五十七代陽成天皇を祖とする源氏。
[光孝源氏](こうこうげんじ)
第五十八代光孝天皇を祖とする源氏。
[宇多源氏](うたげんじ)
第五十九代宇多天皇第九皇子敦実親王を祖とする源氏。親王の王子雅信・重信・寛信の三人が源氏の姓を賜った。雅信の三男扶義の末裔が近江に土着し、武家佐々木氏になった。
[醍醐源氏](だいごげんじ)
第六十代醍醐天皇を祖とする源氏。
[村上源氏](むらかみげんじ)
第六十二代村上天皇を祖とする源氏。
[冷泉源氏](れいぜいげんじ)
第六十三代冷泉天皇を祖とする源氏。
[花山源氏](はなやまげんじ)
第六十五代花山天皇を祖とする源氏。
[三条源氏](さんじょうげんじ)
第六十六代三条天皇を祖とする源氏。
[後三条源氏](ごさんじょうげんじ]
第七十一代後三条天皇を祖とする源氏。
[後白河源氏](ごしらかわげんじ)
第七十七代後白河天皇を祖とする源氏。
[順徳源氏](じゅんとくげんじ)
第八十四代順徳天皇を祖とする源氏。
[後嵯峨源氏](ごさがげんじ)
第八十八代後嵯峨天皇を祖とする源氏。
[後深草源氏](ごふかくさげんじ)
第八十九代後深草天皇を祖とする源氏。
[亀山源氏](かめやまげんじ)
第九十代亀山天皇を祖とする源氏。
[後二条源氏](ごにじょうげんじ)
第九十四代後二条天皇を祖とする源氏。
[後醍醐源氏](ごだいごげんじ)
第九十六代後醍醐天皇を祖とする源氏。
[正親町源氏](おおぎまちげんじ)
第百六代正親町天皇を祖とする源氏。

武家源氏の本流となった清和源氏満仲流
満仲の本流は、頼信、頼義、義家、義親、為義、義朝と続き、義朝の二男頼朝が鎌倉幕府を創る。
為義の二男義賢の子が義仲(木曽義仲)。
満仲より三代後の義家の次子義国が、新田氏の祖となる義重、足利氏の祖となる義康の父親。

《嵯峨源氏》

源 信(みなもとのまこと) (868没)

嵯峨第一源氏。左大臣。

《仁明源氏》

源 綱(みなもとのつな)

鬼退治で名高い頼光四天王の一人渡辺綱。仁明源氏源光の曾孫。
綱は嵯峨源氏融(とおる)の曾孫宛(あつる)の養子となり、渡辺を名乗る。
養親の宛は晩年、母方の故郷摂津渡辺に移り住み、武士団「渡辺党」を組織したことから、綱はその渡辺党に加わった
渡辺党は以仁王を擁して戦った「宇治川合戦」で有名な武士団。

綱の子久は、肥前松浦郡に本拠を移し、水軍松浦党を組織、その後裔に戦国大名松浦氏がいる。

《清和源氏》

清和天皇の親王、孫王を祖とする源氏だが、一般には六男貞純親王の嫡男経基王を祖とする源氏の称となった。
しかし、経基王の親は陽成天皇の次男元平親王で、正確には陽成源氏が正しい。陽成天皇が狂気の帝であったことから、子孫が父王の名でなく祖父清和天皇を名乗ったことから陽成源氏は清和源氏になった。

源 満仲(みなもとのみつなか) (912〜997) 吉原御免状

清和源氏、経基王の嫡男。武家清和源氏の祖。
六孫王と称した経基の子。摂津多田に住し、多田満仲と称した。関東諸国の介となり、摂津・武蔵・美濃・信濃・陸奥等の守を務め、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍職に就いた。
武力に加え、摂津多田銅山から生じる財力を背景に摂関家との結びつきを強め、武家の棟梁の地位を築いた。子の源賢(みなもとのかしこ)は横川の恵心僧都源信の弟子だったが、『清和源氏系図』等によれは「山中無双の悪僧」と呼ばれていたが、後に浄土宗の高僧となったといわれる。(『舞の本』解説)

戸隠山中で鬼を刀で斬ったという伝説の持主。その刀が「鬼切の太刀」と呼ばれ伝えられた。

源 頼光(みなもとのよりみつ)

満仲の長子。
大江山の酒呑童子を退治したと言われる逸話の主人公。

源 頼信(みなもとのよりのぶ)

満仲の三男。
武家清和源氏嫡流の祖。

源 義家(みなもとのよしいえ) (1039?〜1106?) 花と火の帝、見知らぬ海へ

源頼信の嫡子源頼義の長子。幼名源太丸。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と称した。
康平五年(1062)、父に従い安倍貞任を厨川柵で討ち(前九年の役)、その功により従五位下出羽守に任ぜられ、紛争の鎮圧に活躍した。永保三年(1083)、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、清原家衡・武衡を出羽金沢柵に討ち(後三年の役)、東国奥州に勢力を浸透させた。晩年には弟義綱と争い入京禁止、荘園停止処分を受けたが、承徳二年(1098)に昇殿を許された。(『舞の本』解説)

中里介山の『続日本武術神妙記』に「八幡太郎」の項あり参照ください。

[八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎]○天喜五年(後冷泉院年号)源頼義安部頼時と戦ふ。義家もしたがへり。敵義家をおそれてたゞ人ならず、八幡太郎と申すべしと云へり。これより義家を八幡太郎と称すと。按ずるにしからず。頼義男子を皆神前にて元服せしめ、その神を烏帽子親とたてゝ神の名をつけたり。長子陸奥守義家八幡神前にて元服せしめたるゆへ、八幡太郎と名づけ、次男美濃守義綱賀茂明神の前にて元服せしめたるゆへ賀茂次郎と名づけ、三男常陸介義光(武田小笠原の祖なり)新羅三郎と名づく、しかれば頼時が方より名づけたるにはあらず。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
○源義家朝臣を八幡太郎と号けるよしは。源平盛衰記二十九の巻。木曾義仲が願文に。就レ中曾祖父前陸奥守義家朝臣。寄2附身於宗廟氏族1。自レ号2八幡太郎1以降。為2其門葉1者。無レ不2帰敬1矣と見え。十訓抄六の巻には。義家防戦すでに神のごとく。若少の齢にて。大なる矢を射るに。その矢にあたりたるもの。必たふれふさずといふ事なし。四重にかこめる軍をかけやぶりて。囲の中を出ぬ中へ入事度々也。稲光のごとくして。目をあはするものなし貞任これを感じて八幡太郎と名づく。とありて其伝不レ同。十訓抄の説実ならんには。日本武尊の前蹤に似たりといふべし。陸奥話記にも。夷人立レ号曰2八幡太郎1と書たり。(小山田與清『松屋叢書』)

奥州の合戦に、八幡太郎義家、安倍貞任、宗任を衣川の城に追つめ給ひし時、きたなくも後を見する哉、物いはん、とて、

  • 衣のたてはほころびにけり

と云ひかけ給ひしに、貞任しころを振むけて、

  • 年をへし糸のみだれのくるしさに

と付けたりければ、八幡殿はげたる箭をさしはづし給ひけるとぞ。かゝる烈しき所にてかくつけける事、いうにやさしき事なるべし。斯て八幡殿上京の後宇治の関白殿に参りて、軍物語ありけるを、中納言匡房卿聞きて、器量はかしこけれども軍の道は知ず、とつぶやきけるを、八幡殿の郎等聞て、にくき事を申され候、と八幡殿に申せしかば、八幡殿、子細有るべし、とて匡房の中納言車に乗れける所へ参りて会釈有て、やがて弟子になりて学問し給ひけり。永保の合戦に八幡殿金沢の城を攻めらるゝ時、一行の雁の苅田の面におりんとしけるが、俄に驚き飛乱れけるを八幡殿御覧じて、馬をひかへて、中納言殿に学問しけるに、兵法に鳥起者伏也といふ事あり。定めて伏兵あるべし、とて野の三方を取巻れしかば、案のごとく三百余の伏兵居たりしを攻破られけり。八幡殿学問に心をよせ給はずば、などかゝる事を知給ふべき。右大将頼朝卿和歌に心をよせ給ひ、近き年信玄、謙信両人とも詩歌を好み給へり、(雨夜燈)

源 義光(みなもとのよしみつ) 花と火の帝

源頼義の三男。新羅三郎。
佐竹・武田・小笠原・南部氏などの源氏の祖。

源 為朝(みなもとのためとも) (1139〜1170) 花と火の帝

源為義の八子。母は江口の遊女。源義朝の異母弟で、頼朝の叔父。通称八郎、肥後国の豪士阿曽忠国の婿となり鎮西八郎を称した。
幼時より剛勇の評高く、保元の乱(1156)で崇徳上皇に与して平清盛・兄義朝と戦い敗れ、捕えられて伊豆に流される。その地で勢力を整え、狩野茂光の追討軍と戦って自害。首は京で獄門になったという。(『伽婢子』2人名索引)

中里介山の『続日本武術神妙記』に「源為朝」の項あり参照ください。

源 頼朝(みなもとのよりとも) (1147〜1199) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、見知らぬ海へ、柳生刺客状

鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男。幼名鬼武者。母は熱田大宮司藤原秀範(季範)の女。上西門院蔵人、内蔵人。「兵衛佐」は、父義朝が平治の乱(1159)で一時政権を握った時、「右兵衛権佐」に任ぜられたことからの称。

父義朝敗死の時、美濃で捕縛されたが、平清盛の義母池禅尼の執り成しで、伊豆に流され、伊東祐親・北条時政等豪族の監視下に置かれるが、北条政子と恋愛の末結婚。治承四年(1180)、以仁王の令旨に応じ、時政らの援助を受けて平家打倒の兵を挙げ、木曾義仲、源範頼、源義経ら兄弟同族を排撃しつつ、建久三年(1192)に征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を置いた。(『伽婢子』2人名索引)

源 頼家(みなもとのよりいえ) (1182〜1204) 見知らぬ海へ

鎌倉二代将軍。源頼朝の長男。母は北条政子。妻比企能貞の女。従二位征夷大将軍。
正治元年(1199)、頼朝の死により家督を継ぐも母政子により政務の直断を禁ぜられ、実権は宿老十三人に奪われた。建仁三年、急病になった際、頼家の嫡子一幡を推す比企氏と、頼家の弟千幡を推す北条の対立が激化し、比企氏は北条氏により一幡ともども滅ぼされ、頼家は落飾し伊豆修善寺に幽閉され、翌元久元年、北条氏の手により暗殺される。(『伽婢子』2人名索引)

「将軍頼家の家臣に足立景盛と云ふものあり。其妻はなはだ艶美なる由を将軍聞き給ひ。度々書をよせて通ぜんことをいゝ贈らるれども承引せず。その刻三河州に賊起りて、近郡をなやます事あり。景盛を退治にやられ、其留主の内に近臣中野能成といふ者に命じて景盛が妻をうばひ取りて館にいれられて妾とせり。景盛役より帰りければ鎌倉中にて流言せるは、景盛妻をうばわれて甚だうらみ謀逆のくわだてありと。頼家伝へ聞き玉ひ、近臣ならびに大江広元を召して詮議ありければ、広元申すやうは、昔鳥羽院源仲家が妻を奪ひて内にいれ、祇園の辺におきて平忠盛あづかり居て祇園女御と称し、その後仲宗を隠岐国へ配せられし旧例もあり、景盛先御館より御当家に官仕し、大恩を蒙むり権威甚さかんなり。其大恩をかへりみず、妻の事に因りて君をうらみ奉る事あるまじき事なり。一刻も早く打ちとる事しかるべしと申しければ、頼家小笠原弥太郎に命じて景盛が家をかこましむ。母堂二位尼政子、頼家の仕形甚あしきに広元いさめあるべきを却て悪を勧むるをいかりて景盛が家へかけ入り、それより松波局と云ふ沙汰にきこへたる弁舌なる女中を頼家の館へ使にたてらる。口上には故将身まかり給へる後、末の姫君も早世し給ひ悲歎むねをいたむ。しかるに御館みだりなる行跡、そのうへたしか成るあともなきに故将軍よりの臣下をうちほろぼし玉はん企て、これ乱世のみなもとなり。早く景盛を伐ち玉ふ事さしやめられしからん。左もなくばわれも景盛と一所にうたれんとあれば、やむ事なくてかこめる人家を引き伐つことをやめしむ。景盛後に逐電してゆき方しれずとも云ふ。景盛を景遠にも作れる書あり。」(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之一)

源 義経(みなもとのよしつね) (1159〜1189) 花と火の帝

源九郎判官義経。源義朝の九子。母は常盤御前(九条院雑司女)。頼朝の異母弟。幼名牛若丸、遮那王、通称九郎。判官は「検非違使尉」であったことからの称。

平治の乱(1159)で父が敗死した時に二歳で、将来出家を条件に助けられ鞍馬寺に預けられた。十六歳に成った時に自ら元服し、奥州平泉の藤原秀衡を頼って下った。治承四年(1180)の頼朝挙兵の時には異母兄範頼とともに代官となり奮戦、木曾義仲を討って元暦元年(1184)入京、同年一の谷に平家を敗走させて帰洛。この時、後白河院の策謀にのり頼朝の許可を得ずに検非違使・左衛門少尉に任官して怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)、再び任ぜられて屋島・壇ノ浦に平家を壊滅させ、平宗盛父子を鎌倉に護送するも入部を許されなかった。同年十月頼朝追討の院宣を得るが体勢整わず頼朝の反撃に、主従僅かな数で平泉に落ち、守護者藤原秀衡が没した文治五年閏四月、後を継いだ子の泰衡によって襲撃され、衣川で自害した。(『伽婢子』2人名索引)

源 義仲(みなもとのよしなか)

木曽義仲。木曽氏の祖。頼朝の従兄弟。
頼朝の挙兵に呼応し平家と戦い、いち早く京に上り「朝日将軍」と呼ばれたが、頼朝によって討たれる。

源 実国(みなもとのさねくに) 見知らぬ海へ

源義家より六代目。仁木氏の祖。
鎌倉二代将軍源頼家より仁木姓と上総の地を賜る。

《宇多源氏》

源 扶義(みなもとのすけよし)

宇多天皇の第九子敦実親王の嫡男源雅信の三男。
近江国に土着し近江源氏の祖となる。このときに「佐々木」を名乗った。

《醍醐源氏》

源 高明(みなもとのたかあきら)

醍醐天皇の十七男。左大臣。
摂関政治の中にあって、治世中一度も摂政・関白を置かず天皇親政を貫いた父帝の影響力で、前関白藤原実頼の地位をも脅かすまでに出世。

《その他の源氏》

源 清麿(みなもとのきよまろ) 

→ 山浦 環(やまうら たまき)

源 正行(みなもとのまさゆき) 

→ 山浦 環(やまうら たまき)