隆慶作品に登場する人名一覧
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武家人名(ア〜オ)
青木 一重(あおき かずしげ) (1551〜1628) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
民部少輔。豊臣秀吉に仕えた美濃の豪族青木重直の嫡子。
初め今川家に仕えたが、今川氏滅亡後は徳川家康に仕え、姉川の合戦などで軍功をあげる。その後、豊臣秀吉に一万石で仕えることとなり、やがて豊臣秀頼の家臣となった。大坂城で七手組(七組番頭、七組頭衆)の一手頭を任ぜられる豊臣家の重臣となったが、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると剃髪して仏門に入るが、家康のたっての願いで召し出され、摂津麻田に一万二千石を与えられる。
青柳 竜之進(あおやぎ たつのしん) 捨て童子松平忠輝
九鬼守隆の小姓。主君を裏切り藤堂高虎配下の伊賀者に通じる。
青山 権之助(あおやま ごんのすけ) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝
成国。大久保長安の三男。青山図書助成重の養子。
図書助成重の養子なり、実父大久保石見守に連座して、慶長十八年に罪せらる、右五軒の屋敷、今の二の丸、三の丸の辺也、(『慶長年間江戸図考』)
青山 忠俊(あおやま ただとし) かぶいて候
明石 志摩(あかし しま) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。
明石 全登(あかし たけのり) (生没年不詳)
「てるずみ」、「ぜんとう」ともいう。掃部頭、守重。備前・備中・美作の領主、宇喜多家の重臣。宇喜多秀家の姉を室とした。三万五千石を領す。関ヶ原合戦では宇喜多秀家隊の先鋒隊となって活躍する。その後、キリシタン浪人衆の一人として大坂城に拠る。キリシタンを率いて大坂夏の陣に活躍。東軍大将徳川家康本陣の背後を衝く奇襲作戦を行うが失敗し敗れる。討死したとも逃走したとも言われ、生死不明で「明石狩り」と言われる全登探しを幕府は行うが、消息は確認できなかった。
レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』には、「彼(宇喜多秀家)に代って領内を治めてゐた従兄弟のヨハネ明石掃部殿は、熱心なキリシタンであった。」とある。
浅井 家次(あさい いえつぐ) 影武者徳川家康
徳川方武将。大坂夏の陣で河内口二番隊を務める。
浅井 左内(あさい さない) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。
浅岡 平兵衛(あさおか へいべえ) 捨て童子松平忠輝
忠吉の家臣。三十三間堂の通し矢で慶長十一(1606)年、51本を射通す。
朝倉 義景(あさくら よしかげ) (1533〜1573) 影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
越前一乗谷城主。小字を孫二郎といい、初名は延景。朝倉孝景の長男として天文二年(1533)九月二十四日生れる。
天文二十一年(1552)、家督を継ぎ、将軍足利義輝から一字を与えられて義景と改め、従四位下左衛門尉に任ぜられる。
元亀元年(1570)織田信長が敦賀を攻略しようとしたとき、義景は浅井長政と連合して戦い信長軍を追い払う。以後しばしば兵を交えるが、同年六月、信長・家康の軍と近江姉川に戦って(姉川の合戦)大敗を喫し和睦。しかし同三年(1572)、和議が破れ翌天正元年(1573)八月二十日、信長に攻められて六坊賢松寺にて自刃(朝倉攻め)。享年四十一。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
浅野 長矩(あさの ながのり) (1667〜1701 )
朝山 将監(あさやま しょうげん) 死ぬことと見つけたり
龍造寺高房の弟。
足利 尊氏(あしかが たかうじ) (1305~1358) 花と火の帝
足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる) (~1491) 時代小説の愉しみ
掘越公方。権威に驕って悪逆非道な振る舞いが多く、興国寺城にあった北条早雲によって滅ぼされる。
室町幕府の東国支配の象徴として伊豆韮山にあった茶々丸だったが、傲慢で酒癖が悪く、酔えばわけもなく家臣を斬り、民百姓を殺したという。
こうした公方の非道な行いに苦しんでいた庶民は、近隣の興国寺城にあった北条早雲に訴え、文明八年(1476)、ついに早雲は彼等を救うために立ち、寡兵を持って韮山の館を急襲し、茶々丸を打ち取り堀越公方家を滅ぼした。
この事件は一介の牢人上がりの小領主が、足利将軍家一族で関東支配を司る公方家を襲い滅ぼした事から、そのうわさは瞬く間に全国に拡がり、下克上のきっかけを作ったとされている。
足利 晴氏(あしかが はるうじ) 時代小説の愉しみ
古河公方。
足利 義昭(あしかが よしあき) (1537〜1597)
足利 義輝(あしかが よしてる) (1536〜1565)
足利 義晴(あしかが よしはる) (1511~1550) 花と火の帝
十二代将軍。父は十一代将軍足利義澄。幼名亀王丸。大永元(1521)年、管領細川高国に擁立され上洛。元服し義晴と改名。この年、十二代征夷大将軍に就任。しかし、義晴を擁する細川高国と弟義維を擁する細川晴元、三好元長らと対立。享禄元(1528)年、弟義維との和平に失敗し近江へ逃亡する。天文三(1534)年、ふたたび入京。天文十(1541)年、今度は木沢長政らに攻められ近江へ逃亡した。しかし、翌十一(1542)年に木沢長政が死去したことで入京を果す。天文十五(1546)年、子の足利義輝に征夷大将軍を譲る。
芦名 盛隆(あしな もりたか)(1550~1584) 一夢庵風流記
二階堂盛義の嫡男として生まれる。母は伊達晴宗の長女。
幼少の頃、葦名氏のもとに人質として預けられる。天正四年(1576)彦姫(伊達晴宗の娘)と結婚し、葦名氏を継ぐ。天正十二年(1584)、家臣の大庭三左衛門に斬殺されたといわれる。
芦名 義広(あしな よしひろ)(1572~1631) 一夢庵風流記
盛重、義勝。父は佐竹義重。母は伊達晴宗の娘。
盛隆の嫡男亀王丸が没した後、葦名氏重臣間に伊達正宗の弟と義広、いずれを後継ぎにするかで争うが、義広が継ぐこととなる。葦名家の当主となった義広は佐竹氏と同盟し、伊達氏と対立し戦う。 天正十七年(1589)、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達軍に敗北し、父の実家である常陸の佐竹家へ逃れた。 その後、豊臣秀吉により江戸崎(茨城)に四万五千石を与えられ、慶長七年(1602)、佐竹氏の国替えにともなって 秋田に移り、角館に一万五千石を分け与えられた。
安宅 冬康(あたき ふゆやす) (?〜1564)
跡部 九郎右衛門昌忠(あとべ くろうえもんまさただ) (1544〜1606) 影武者徳川家康
甲斐二十五万石の奉行。武田家の侍大将跡部勝忠の子。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、徳川家四奉行にまでなる。
跡部 山城守(あとべ やましろのかみ) 銚子湊慕情
天保七年、大坂西町奉行に就任。浜松藩主水野忠邦の弟。
[逸話](『想古録』)
三州吉田侯(松平伊豆守信順)は人を見るの明ありしなり、跡部大膳(良弼)が大坂町奉行と為りて赴任しけるとき、侯は大坂城代にて在りければ、跡部は到着匆々侯の役邸に訪問しけるに、侯は跡部と初面会なりしが、一見其性質を看破せられ、足下は江戸仕込にて、物事立派に遣り切る気象と見受けらるれども、上方は江戸と事変りて、人気全く反対なれば、施政の方鍼を切換へて務められなば、必定見事なる成績を挙げらるべしと忠告せられたり、跡部は町奉行奉職中伊豆侯の注意を意とせず、其の親切を無にして万事を思ふままに取捌きければ、果して今度の乱(大塩平八郎の救民事件)を引起したり、跡部は水越閣老の実弟なれば、水越侯は一方ならぬ心配に打沈み居らるると云へり(羽倉蓬翁)
跡見 重敬(あとみ しげたか) 異説猿ケ辻の変
姉小路公知卿の家臣。跡見重威の父。
跡見 重威(あとみ しげたけ) 異説猿ケ辻の変
父子二代にわたる姉小路公知卿の家臣。
穴山 信君(あなやま のぶきみ) (1541〜1582)
油川 信恵(あぶらかわ のぶえ) 時代小説の愉しみ
武田信虎の叔父。
十四歳で甲斐守護職武田家の家督を継いだ信虎により、その翌年、攻め滅ぼされる。
阿閉 政家(あべ まさいえ) 花と火の帝
浅井長政の家臣。
一時藤堂高虎を召し抱えていた。
阿部 正勝(あべ まさかつ) (?~1600) 見知らぬ海へ
三河譜代。
家康の人質時代、つねに傍にあって苦労を共にして成長。家康が関東に入封すると鳩ヶ谷五千石を領し上級旗本となる。子に阿部正次・忠吉。
天野 雄光(あまの ゆうこう) 影武者徳川家康
周防守。伏見城在番御家人。
後藤庄三郎、茶屋四郎次郎両家の家人(女)たちに乱暴狼藉を働く。
雨宮 次郎右衛門(あめみや じろうえもん)
荒木 権内(あらき ごんない) 死ぬことと見つけたり
深堀鍋島藩士。長崎喧嘩で深堀三右衛門らに加勢。
荒木 村重(あらき むらしげ) (1536~1586?) 時代小説の愉しみ
摂津国茨木城主。
摂津国守護池田勝正の側近だったが、信長が上洛すると率先して信長に忠誠を誓った。しかし、信長が石山本願寺と対立した時、部下が石山本願寺に兵糧を売るという事件が起り、村重が謀叛をしたという知らせが信長の元に届き、信長が激怒。天正七年(1579)九月、村重の軍勢一万が籠る有岡城は信長に包囲される。村重は妻子一族郎党を置き去りにして側近六、七名とともに城を脱出した。主を失った城はすぐに落ち、妻子ら城にいた者すべてが皆殺しにされたという。
本能寺で信長が没した翌天正十一年頃、村重は「道薫」と号し茶を持って秀吉に仕える。やがて、信長と対立した時に自分を裏切った高山右近を悪く言ったために秀吉の怒りを買い、追放された。没年は天正十四年説、文禄四年説などがあるが、詳細は不明。
粟生 美濃守(あわお みののかみ) 一夢庵風流記
蒲生浪人。上杉家の助っ人。
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい) (?~1600)
安西 右馬允正重(あんざい うまのじょうまさしげ) 捨て童子松平忠輝
高田藩士。
三百石取の目付役だったが、花井主水正により守山宿での旗本斬殺事件の咎めを受けると邪推し脱藩、目安箱に秀忠宛の訴状を提出し、自分の罪を逃れようと花井主水正の非行をでっち上げ訴えた。このことにより忠輝の改易に一役かったことから、後に直参旗本に取り上げられ、八百五十石を得た。
安藤 重信(あんどう しげのぶ) (1557~1621) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
安藤 四郎右衛門(あんどう しろうえもん) かくれさと苦界行
安藤右京進重長の実弟。旗本四百石。
河合又五郎を匿い備前池田侯と衝突、旗本対大名の大喧嘩の元をつくる。その責任を取らされ阿部四郎五郎、久世三四郎らとともに百日の寺入りを命ぜられる。
安藤 喜八郎光乗(あんどう きはちろうみつのり) 死出の雪
大和郡山藩士。大島流槍術の槍術師範遠城治郎左衛門の二男として生まれ、安藤家の養子となる。
安藤 九左衛門(あんどう きゅうざえもん) 異説猿ケ辻の変
京都守護職足軽組物頭。
安藤 直次(あんどう なおつぐ) (1554~1635)
安藤 正次(あんどう まさつぐ) 影武者徳川家康
関ヶ原では秀忠付き使番。
大坂冬の陣後の豊臣方との協議で大坂城の総構えの堀を埋めることを条件にようやく成立した和議で、秀忠に奉行に任命され、大坂城の外堀だけでなく、内堀も埋めてしまった。続く大坂夏の陣では秀忠軍の軍目付として鴫野に赴く。
井伊 直勝(いい なおかつ)
飯田 覚兵衛(いいだ かくべえ) (?〜1632)影武者徳川家
加藤清正の家臣。
文禄元年(1592)、名護屋に城を築く(飯田覚兵衛陣城)。慶長・文禄の役に従軍、晋州城の外壁破壊に亀甲車を考案し、それを用いて名を轟かせたと伝えられる。清正とは幼馴染みで、清正が秀吉に召し抱えられたとき、最初の家臣になったという。
飯田 播磨(いいだ はりま) 一夢庵風流記
最上家家臣。
庵原 安房守(いおばら あわのかみ) 時代小説の愉しみ
今川家重臣。
義元が戦死した後、駿府で食客していた武田信虎が、今川家の内部崩壊を企んでいる事を知り、信虎を駿河から追い出したとされる。
生田 江平(いくた こうへい) 死出の雪
恵平。惣兵衛。大和郡山藩士。知行二百石の物頭役。
生田 伝八郎(いくた でんぱちろう) 死出の雪
経好。播州明石藩松の家臣庄林八左衛門の二男。剣術者生田江平の養子となる。
池 六右衛門(いけ ろくえもん) 見知らぬ海へ
未資料
池田 長吉(いけだ ながよし) (1570〜1614)影武者徳川家康
池田恒興の三男。
小牧・長久手の戦いで功を立て、近江に三万石を賜る。その後も九州征伐や小田原の陣などに参陣。関ヶ原の戦いでは東軍に加担し、岐阜城攻めに参加する。さらには本戦とは別に水口城攻めを行い、長束正家を降している。この功により鳥取城主となった。 長吉は鳥取城を大改造して現在見られる縄張りを作り上げ、城下町を整備したと伝えられる。
池田 信輝(いけだ のぶてる) (1536〜1584)
生駒 一正(いこま かずまさ) (1555~1610) 影武者徳川家康
織田信長に仕えた生駒親正の子。美濃可児郡生れ。名は正俊ともいう。文禄・慶長の役に活躍し、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。のち西軍に加担した父に替わり、讃岐高松藩主となる。
讃岐守。始秀吉公に仕、慶長五年、関ヶ原の役、御味方と成て忠功を励す、軍畢て後、其功を賞せられ、讃州を賜ふ、元和六年六月五日卒す、(『江戸古絵図考附録』)
生駒 親正(いこま ちかまさ) (1526~1603) 花と火の帝
大永六年(1526)、美濃の土田に生まれ、慶長八年(1603)二月十三日、讃岐高松城にて没。年69歳。
生駒氏は大和生駒荘の住人で、戦国時代に尾張に移った。親正は政勝、近正、正成、近世、近親、近規と名を変えている。織田信長に致仕し、斎藤攻め、長篠合戦、本願寺攻め等に従った。天正六年(1578)秀吉から近江北郡山田で二百六十石を下賜されたのを機に、賎ヶ岳・柳ヶ瀬の合戦などで武功を上げ、北伊勢神戸城主を経て天正十四年(1586)、播磨赤穂六万石の城主となる。さらに、天正十五年(1587)には、讃岐一国十七万三千石を領し、讃岐高松城を築いた。小田原の陣、朝鮮の役にも参加。秀吉死後は堀尾吉晴、中村一氏と並んで小年寄として秀頼を補佐したが、関ヶ原合戦では西軍に与したが、子の一正を東軍に属せしめた。関ヶ原後は、家督を一正に譲り、剃髪して弘憲と号し高野山に隠棲。慶長八年(1603)、七十八歳で没した。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
石井 松之進(いしい まつのしん) 死ぬことと見つけたり
未資料
石井 主水(いしい もんど) 死ぬことと見つけたり
龍造寺高房の家臣。
石谷 十蔵(いしがい じゅうぞう) 死ぬことと見つけたり、柳生非情剣
未資料
石谷 将監(いしがい しょうげん) 吉原御免状、影武者徳川家康
名は貞清。親は今川氏旧臣で秀忠に使えた旗本。
北町奉行となり日本橋葺屋町にあった吉原に所替えを命じた。
石川 貞清(いしかわ さだきよ) 捨て童子松平忠輝
備前守。犬山城主。
西軍に属し、木曽代官として守護。
石川 貞政(いしかわ さだまさ) (1575~1657) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
石川光政の子。
秀吉の馬廻を勤める。会津攻めに従軍し、関が原でも奮戦。戦後、豊臣秀頼に近侍し五千石を賜る。慶長十九年(1614)、片桐且元とともに大阪城を離れ、高野山に入り剃髪。大阪の陣開戦とともに家康軍に与す。以後、幕府につかえる。
石川 主馬吉信(いしかわ しゅめよしのぶ) (1581~1607)
石川 忠義(いしかわ ただよし) 影武者徳川家康
石川康通の子。
石川忠義の娘は大久保忠隣の養女となり、山口重政の長男重信との縁組話で、縁組を勝手にしたことを幕府に咎められ重信は改易され、武蔵の龍穏寺に蟄居させられた。
石川 康勝(いしかわ やすかつ) 捨て童子松平忠輝
石川康長の長子。長安事件に連座し所領没収。
石川 康次(いしかわ やすつぐ) 捨て童子松平忠輝
石川康長の二男。長安事件に連座し所領没収。
石川 康長(いしかわ やすなが) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記
会津征伐の前軍を勤める。
長安事件に連座し、所領没収の上豊後佐伯に配流。
石川 康通(いしかわ やすみち) (1554~1607)
石原 昌明(いしはら まさあき) 影武者徳川家康
四郎右衛門。武田の旧臣。
甲斐二十五万石の奉行。四奉行の一人といわれる。
伊丹 大隈守(いたみ おおすみのかみ) 見知らぬ海へ
元今川水軍。摂津伊丹城主伊丹大和守雅興の子。
伊丹城落城の時、家臣に抱えられ逃れ、今川義元の同朋衆となり、後北条氏真に仕え海賊奉行となった。(『見知らぬ海へ』118p)
伊丹 雅興(いたみ まさおき) 見知らぬ海へ
大和守。元摂津伊丹城主。伊丹大隈守の父。
伊丹 弥蔵(いたみ やぞう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
直参旗本。
夏の陣で松平忠輝の行列に長坂六兵衛信時と馬を乗りかけ制止されるも聞き入れず、逆に刀を抜いたため同家臣団に切り殺される。
一色 秀勝(いっしき ひでかつ) 影武者徳川家康、花と火の帝
無資料。
伊東 祐慶(いとう すけよし) (1589〜1636)影武者徳川家康
飫肥藩主。伊東祐兵の息。通称熊太郎。右京亮・修理大夫、従五位下。初名祐典。
関ケ原では東軍に属し、病に倒れた父に代わって日向に帰国し、高橋元種の宮崎城、島津氏の佐土原城を攻めた。ところが高橋元種は東軍に寝返っていたため問題となり、やむなく攻将稲津掃部を処分。宮崎城攻めは黒田如水の指示であったといわれる。検地後五万七千石の領有を認められた。
伊東 長次(いとう ながつぐ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
丹後守。豊臣家家臣
七組頭衆の一人。
伊藤 勝右衛門(いとう かつえもん) 死出の雪
安藤喜八郎光乗の騙り名。
伊藤 三丞(いとう さんじょう) 風の呪殺陣
未資料
伊藤 光兼(いとう みつかね) 影武者徳川家康、柳生刺客状
長門守。加藤清正家臣。
柳生兵庫介に斬られる。
伊藤 武蔵守(いとう むさしのかみ) 影武者徳川家康
豊臣家家臣。
大阪城と運命を共にする。
稲垣 忠政(いながき ただまさ) 影武者徳川家康
将監。忠吉家臣。
忠吉の死に殉死。
稲富 宮内(いなとめ くない) 影武者徳川家康
未資料
稲葉 重通(いなば しげみち) (1543~1598) 影武者徳川家康
甲斐守。おふく(春日局)の養父。父は「西美濃三人衆」の一人稲葉良通。
稲葉 正勝(いなば まさかつ) (1597~1634) 影武者徳川家康
おふく(春日局)の長男。三代将軍家光の時の老中、小田原八万石城主。
墓所は小田原市長興山紹太寺(稲葉一族の墓、箱根登山線入生田駅下車)と養源寺(文京区千駄木5丁目)にある。
稲葉 正定(いなば まささだ) 影武者徳川家康
おふく(春日局)の二男。
稲葉 正休(いなば まさやす) (1640~1684)
稲葉 通重(いなば みちしげ) 影武者徳川家康
甲斐守。伏見城在番御家人。
後藤庄三郎、茶屋四郎次郎両家の家人(女)たちに乱暴狼藉を働く。
井上 隼人正(いのうえ はやとのしょう) 一夢庵風流記
『上杉将士書上』を著す。
井上 正就(いのうえ まさなり) (1577〜1628)吉原御免状、花と火の帝
半九郎正就。従五位下主計頭、五万二千五百石雁間城主。父は井上清秀。
清秀の長男として生れ、幼少から秀忠に仕えた。元和元年(1615)、加増され一万石小姓組番頭となり、翌年奉行人に進んだ。さらに同八年には五万二千五百石に加増され、遠江横須賀を領し老職となる。
寛永五年(1628)、江戸城西の丸殿中にて目付豊島明重の刃傷により絶命、51歳。
今泉 山城清信(いまいずみ やましろきよのぶ) 捨て童子松平忠輝
伊達家家臣。
今川 氏真(いまがわ うじざね) (1538~1614)
今川 氏親(いまがわ うじちか) 時代小説の愉しみ
幼名は辰王丸。駿河今川家第七代当主。今川義元の父。
今川義忠の嫡子で、母は伊勢新九郎の妹北川殿。
今川 義忠(いまがわ よしただ) (~1476) 時代小説の愉しみ
駿河今川家第六代当主。
文明六年(1476)、駿河に起った土一揆に襲われ戦死。
今川 義元(いまがわ よしもと)(1519~1560)
今木 源右衛門(いまき げんえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
秀頼近習。
今倉 孫三郎(いまくら まござぶろう) 影武者徳川家康
大野治房の放った刺客。
色部 光長(いろべ みつなが) 一夢庵風流記
最上の戦い上杉軍第一軍。
岩倉 波右衛門(いわくら なみえもん) 鬼麿斬人剣
下諏訪在住。
二本目の数打の刀を所持。
岩崎 甚左衛門(いわさき じんざえもん) 異説猿ケ辻の変
那須真吾の槍の師匠。
岩渕 秀信(いわぶち ひでのぶ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
近江守。
陸中東磐井郡藤沢城主。
岩松 八弥(いわまつ はちや) (?〜1549)影武者徳川家康
松平広忠家臣。
天文十八年(1549)三月六日、主君松平広忠(家康の父)に斬りつけて殺す。
岩本 孫右衛門(いわもと まごえもん) かくれさと苦界行
荒木家家僕。
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) (1573〜1655)
上杉 忠勝(うえすぎ ただかつ) 一夢庵風流記
米沢藩主。
上杉 朝定(うえすぎ ともさだ) (1525~1546) 時代小説の愉しみ
関東管領職扇谷上杉家当主。父は上杉朝興。
天文十五年(1546)、北条綱成の依る川越城を包囲していたが、北条氏康率いる二千の軍勢に夜襲をかけられ包囲軍は敗走した。その戦で、朝定は戦死し、扇谷上杉家は滅亡した。
上杉 憲顕(うえすぎ のりあき) 捨て童子松平忠輝
越後守護職。
御館に館を設け、後に春日山城に拠る。
上杉 斉憲(うえすぎ なりのり) 異説猿ケ辻の変
京都守護職。
上杉 憲政(うえすぎ のりまさ) 時代小説の愉しみ
関東管領。山内上杉。
関東に勢力を拡大した北条氏康に追われ、長尾景虎を頼って越後に逃れ、管領職と姓を景虎に譲った。
上田 主水(うえだ もんど) 影武者徳川家康
浅野家家臣
上田 角左衛門(うえだ かくざえもん) 捨て童子松平忠輝
忠吉の家臣。
三十三間堂の通し矢で慶長十二(1607)年、百二十六本を射通す。
上田 作之丞(うえだ さくのじょう) 鬼麿斬人剣
私塾拠遊館の主宰者。
宇佐美 弥五左衛門(うさみ やござえもん) 一夢庵風流記
浪人のいくさ人。上杉の助っ人。
氏家 卜全(うじいえ ぼくぜん) 影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
信長家臣。美濃三人衆の一人。
長島一向一揆との戦いで戦死。
氏家 行広(うじいえ ゆきひろ) 影武者徳川家康
内膳正。豊臣家臣。
大阪城と運命を共にする。
内田 仲之助(うちだ なかのすけ) 異説猿ケ辻の変
薩摩藩士。
宇津宮 五左衛門(うつみや ござえもん) 死ぬことと見つけたり
未資料
宇津宮 只之助(うつみや ただのすけ) 死ぬことと見つけたり
未資料
鵜殿 兵庫助(うどの ひょうごのすけ) 影武者徳川家康
直参旗本。
長安事件に連座。
江口 道連(えぐち みちつら) 一夢庵風流記
最上家畑谷城主。
江戸 朝忠(えど ともただ) 見知らぬ海へ
未資料
江馬 輝盛(えま てるもり) 時代小説の愉しみ
飛騨の国人豪族。
遠城 治左衛門重広(えんじょう じざえもんしげひろ) 死出の雪
大和郡山藩士。大島流槍術の藩槍術指南役遠城治郎左衛門の長男。
遠城 治郎左衛門(えんじょう じろうざえもん) 死出の雪
大和郡山藩士。
大島流槍術の達者で藩槍術指南役として禄八十石で召し抱えられる。
遠城 宗左衛門重次(えんじょう そうざえもんしげつぐ) 死出の雪
大和郡山藩士。大島流槍術の藩槍術指南役遠城治郎左衛門の三男。
大石 甚助(おおいし じんすけ) 花と火の帝
八条宮家老。大西ともいう。(『細川家記』)
慶長五(1600)年七月二十七日、八条宮の御書状を持って田辺城に入り、細川幽斎に会い正式の和睦を勧めた。
大石 団蔵(おおいし だんぞう) 異説猿ケ辻の変
土佐藩士。
土佐勤王党に加盟し、安岡嘉助、那須真吾と共に土佐藩参政吉田東洋を暗殺し脱藩。
大石 主税(おおいし ちから) (~1703) 時代小説の愉しみ
浅野家家臣。大石内蔵助の嗣子。吉良邸に打ち入った四十七士の一人で、最年少者。
[逸話](『想古録』)
赤穂の義士原惣右衛門は、細川家へ御預けと為りける内の一人なり、或るとき警護の士に討入りの夜のことを話し、我々四十六人のものは、初めより一命を亡君に捧げたる覚悟にて企たることなれば、死地に入る事を彼是れ躊躇すること無るべき筈なれども、現場に臨んで一の不覚を取りたることあれば、甚だ恥かしき次第ながら、死出の旅路の置土産に其話を残し置くべし、事も事とて吉良様へ討入りの夜のことにてありけるが、五六人にて土蔵の中に入りけるに、其蔵の隅に深くして闇き一箇の穴あり、互ひに顔見合せ、誰入れ、彼れ行き見よ、と評議区々にて、誰一人思切て飛込むものも有らざりけるに、大石主税会ま其場に来りけるが、衆評の一決せぬを懊かしく思ひ、躍て穴中に飛込み、残る隈なく捜り廻りて、何も別条なしとて悠然として穴中より出で来れり、穴外に在て評定せし面々は何れも主税の胆力を感称し、彼の父ありて初めて斯の子あるなり、我等老壮のもの図らずも此の年少の寧馨児に魁けせられたるこそ面目なけれとて、赤面して只管賛めたることありしと、懺悔談の一談を話しけるとぞ(池辺松陵、中島子玉)
大石 直久(おおいし なおひさ) 見知らぬ海へ
未資料
大石 良雄(おおいし よしお) (~1703) 時代小説の愉しみ
大川 丑之助(おおかわ うしのすけ) 駆込寺蔭始末
小田原藩士。
大木 前兵部(おおき さきのひょうぶ) 死ぬことと見つけたり
未資料
大草 長栄(おおくさ ながさね) 影武者徳川家康
久右衛門。三百石。
大久保 猪之助(おおくぼ いのすけ) 影武者徳川家康、柳生非情剣
黒田長政の家臣。
関ヶ原において小早川秀秋の陣に配された軍目付。家康から送り込まれた奥平貞治とともに小早川勢の監視役となる。
大久保 右京(おおくぼ うきょう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
長安の六男。妻は忠輝家老花井三九郎吉成の娘。
長安事件で斬首。
大久保 運十郎(おおくぼ うんじゅうろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
長安の四男。
長安事件で斬首。
大久保 仙丸忠職(おおくぼ せんまるただもと) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
忠隣の嫡男大久保忠常の子。
蟄居。
大久保 忠興(おおくぼ ただおき) 駆込寺蔭始末
小田原藩主。
大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ) (1537〜1613)
大久保 藤五郎内膳(おおくぼ とうごろうないぜん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
長安の五男。
長安事件で斬首。
大久保 藤七郎(おおくぼ とうしちろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
長安の七男。僧籍に入り安寿と称す。
長安事件で斬首。
大久保 藤十郎(おおくぼ とうじゅうろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
長安の嫡子。妻は信州松本八万石石川康長の娘。
長安事件で斬首。
大久保 幸信(おおくぼ ゆきのぶ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
主膳正。忠隣の子。
配流。
大蔵大夫(おおくらだゆう) かぶいて候、捨て童子松平忠輝
大久保長安の一族が猿楽師時代に名乗っていた名。
大河内 久綱(おおごうち ひさつな) 死ぬことと見つけたり
未資料
大沢 基宿(おおさわ もといえ) 影武者徳川家康
大御所家臣。
大沢 基宥(おおさわ もとひろ) 影武者徳川家康
※参考資料「大沢基宥と公家社会」大嶌聖子著 (戦国史研究 第43号 戦国史研究会編集 吉川弘文館 A5判 並製 48頁 本体667円 4-642-08920-9)
大塩 平八郎(おおしお へいはちろう) 銚子湊慕情
太田 左近(おおた さこん) (?~1585) 吉原御免状
名は宗正。太田党首領。太田城主。秀吉の太田攻めで自刃。
紀北の名で呼ばれている紀伊国(和歌山・三重県)の北部、紀北四郡(伊都・那賀・名草・海部)には根来寺領(七十二万石)を始め高野山・粉河寺という三大寺院勢力と太田党・雑賀党という二大在地勢力があり、戦国期にはこの五つの勢力が互いに牽制し合いながら共存し、他からの勢力の進入を排除していた。
太田 三楽(おおた さんらく) 時代小説の愉しみ
資正。三楽斎と号した。
太田道灌の曾孫にあたり、武州岩槻城主として関東に進出した北条氏康と戦う。
太田 重政(おおた しげまさ) 影武者徳川家康
豊後臼杵城主。太田康資の子でお梶の方の兄。
太田 重正(おおた しげまさ) 見知らぬ海へ
未資料
太田 庄太夫有忠(おおた しょうだゆうありただ) 鬼麿斬人剣
改革派の松本藩年寄。
太田 資宗(おおた すけむね) 花と火の帝
秀忠の家臣。
大谷 吉継(おおたに よしつぐ) (1559〜1600)
大槻 右衛門(おおつき うえもん) 捨て童子松平忠輝
田村清顕の側室の子。
大友 義統(おおとも よしむね) 捨て童子松平忠輝
大友宗麟の嗣子。
大野 道犬(おおの どうけん)(?~1615) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝
大野治長の弟。道犬斎治胤。
大野三兄弟の末っ子として、小谷城内で産まれる。父は浅井家家臣大野修理亮道犬。母は大蔵卿局。父道犬の名を取って道犬斎と号し、通称大野道犬と言われる。大坂夏の陣で堺の町を放火したため、戦後捕えられて堺の町衆に引き渡され火炙りの刑に処せられた。
大野 治長(おおの はるなが) (?〜1615)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記
豊臣家家臣。大坂城家老。弥十郎。大野三兄弟の長男。父は浅井家家臣大野修理亮道犬。従五位下修理亮に叙任。
父の官位修理亮を継いだため、修理亮、あるいは修理と呼ばれる。一般に大野修理亮というとこの息子の方を指す。母は治長を産んだ時に浅井家に召され、茶々姫(後の淀君)の乳母となった。その母が淀君付きの女房として秀吉に召されたときに、兄弟ともども秀吉の家臣として召し抱えられた。
大野 治徳(おおの はるのり) (?〜1615)影武者徳川家康
治長の子。
大阪城と運命を共にする。
大野 治房(おおの はるふさ) (?〜1615)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
大野治長の弟。主馬首。大野三兄弟の二男。父は浅井家家臣大野修理亮道犬。母は大蔵卿局。
母が淀君付きの女房として秀吉に召されたときに、兄治長とともに秀吉の家臣として召し抱えられた。
大野木 源右衛門(おおのぎ げんえもん) 鬼麿斬人剣
松本藩上士組。
大野木 源太郎(おおのぎ げんたろう) 鬼麿斬人剣
大野木源右衛門の長子。
大橋 掃部(おおはし かもん) (?〜1600)影武者徳川家康
関ヶ原の合戦で、黒糸の鎧に十文字の槍を提げ、赤毛黒尾の馬に乗って奮戦したという。しかし、黒田長政の家臣後藤又兵衛に行きあい、名乗りをあげて切り結んだが敗れて討死した。(『関原軍記大成』)
大美 五三郎(おおみ ごさぶろう) 駆込寺蔭始末
小田原藩士。
大村 純忠(おおむら すみただ) (1533〜1587)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、死ぬことと見つけたり
有馬晴純の二男として生れる。
天文二年(1533)、肥前国大村城十七代当主の大村純前の養子となり大村家の家督を継ぐ。純忠は受洗しキリシタン大名となる。永禄五年(1562)横瀬浦を平戸港に代わる港とし、同八年(1565)イエズス会の支持で福田港を、さらに元亀二年(1571)港湾条件の良好な長崎を開いた。天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐に参加、その子嘉前を出陣させ旧領安堵を得たが、長崎は秀吉直轄となり、鍋島直茂が代官となった。天正十年(1582)、大友宗麟・有馬晴信らと4人の少年使節団(天正遣欧使節)をローマ法王のもとに遣わしたことは有名である。
大村 喜前(おおむら よしさき) 捨て童子松平忠輝
大村純忠の嗣子。
小笠原 忠真(おがさわら ただざね) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
小笠原秀政の弟。
小笠原 忠重(おがさわら ただしげ) 影武者徳川家康
監物。小笠原吉次の子。
忠吉の死に殉死。
小笠原 忠脩(おがさわら ただなか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
小笠原秀政嫡男。
夏の陣で戦死。
小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
家康の長男信康の娘聟。信濃松本城主
夏の陣天王寺口二番隊で出陣し、戦死。
小笠原 政親(おがさわら まさちか) 捨て童子松平忠輝
未資料
小笠原 吉次(おがさわら よしつぐ) 影武者徳川家康
松平忠吉の家臣。
岡島 惣兵衛(おかじま そうべえ) 鬼麿斬人剣
長連弘の与力。
岡田 以蔵(おかだ いぞう) 異説猿ケ辻の変
人斬り以蔵の名で知られる土佐勤王党志士。
岡田 善同(おかだ よしあつ) 柳生刺客状
関ヶ原合戦の前に、家康が助力を求めたという浪人。
岡部 忠兵衛(おかべ ちゅうべえ) 見知らぬ海へ
今川水軍の船大将だったが、武田信玄に占領された後、礼を尽して武田方に迎えられ海賊奉行となる。やがて信玄に甲斐の名族土屋氏の姓を賜り土屋豊前守貞綱を名乗る。
岡部 長盛(おかべ ながもり) 死ぬことと見つけたり
未資料
岡本 大八(おかもと だいはち) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
洗礼名パウロ。本多正純の与力。
岡本 平右衛門尉時仲(おかもと へいえもんのじょうときなか) 見知らぬ海へ
未資料
岡本 平左衛門(おかもと へいざえもん) 影武者徳川家康
岡本大八の父。
岡山 久右衛門(おかやま きゅうえもん) 影武者徳川家康
大野治長の従者。
小川 新兵衛(おがわ しんべえ) 死ぬことと見つけたり
求馬の妻の兄。江戸屋敷算用方だったが公金を使い込み自害。
小川 祐忠(おがわ すけただ) 影武者徳川家康
石田三成の居城佐和山城攻めの先鋒を務める。佐平次あるいは孫一郎といい、土佐守となる。室は一柳直高女で子に小川祐滋がいる。
元は近江浅井氏家臣。だが、信長の侵攻を受けると、これに降って直属の旗本武将となった。本能寺の変が発生した後、明智光秀の傘下に入るが光秀が敗れると羽柴秀吉に降る。その後、柴田勝豊に家老として仕えて、賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉方として参加、伊予府中に七万石を得る。小牧・長久手の戦いにも先鋒として参加。関ヶ原の戦いには西軍として参加するが、松尾山のふもとに布陣する西軍右翼の赤座直保、小川祐忠、朽木元網、脇坂安治の諸隊が小早川隊の裏切りに乗じて、東軍へ寝返った。これにより領国は安堵されるも一年後に改易されている。
小川 孫一郎(おがわ まごいちろう) 風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
江北・小川城主。
江北の国人城主として浅井方につき織田信長に抗するが、元亀二年(1571)、信長に滅ぼされた。
荻原 五右衛門(おぎわら ごえもん) 死ぬことと見つけたり
未資料
奥平 家昌(おくだいら いえまさ) (1577〜1614)
詳しくはこちら
奥平 貞久(おくだいら さだひさ) 捨て童子松平忠輝
出羽守。奥山休賀斎の父。
奥平 籐兵衛(おくだいら とうべえ) 影武者徳川家康
家康の旗本。
関ヶ原で戦死。
奥平 信昌(おくだいら のぶまさ) (1555〜1615)
詳しくはこちら
奥平 孫次郎(おくだいら まごじろう) 捨て童子松平忠輝
未資料
小田 政治(おだ まさはる) (1492~1548) 時代小説の愉しみ
左京大夫。足利政知の子。小田氏を継ぎ、小田氏第十七代当主となる。
織田 有楽(おだ うらく) (1547〜1621)
織田 勘十郎信行(おだ かんじゅうろうのぶゆき) 一夢庵風流記
信長の次弟。末森城主。信長に叛き乱を起こす。(尾張稲生の合戦)
織田 左衛門佐長政(おだ さえもんのすけながまさ) 花と火の帝
織田有楽の倅。
織田 信興(おだ のぶおき) (?〜1570) 影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
彦七郎。彦七 。織田信秀の子で信長の弟。小木江城主(愛知県立田村森川)。
居城の小木江城は木曾川下流にある平城で、対岸は伊勢長島。元亀元年(1570)、長島の一向一揆に攻撃され、十一月二十一日、信興は自刃して落城した。
織田 信雄(おだ のぶかつ) (1559〜1630
織田 信兼(おだ のぶかね) 風の呪殺陣
未資料
織田 信成(おだ のぶしげ) (?〜1574)影武者徳川家康
信長の叔父織田孫三郎信光の嫡男。市之介。津田姓も名乗る。
信長の従兄弟で、元亀二年の長島攻め、天正元年の槙島攻め、浅井、朝倉攻め等に参戦。天正二年(1574)七月の長島一向一揆との戦い(長島攻め)で死亡。
織田 信澄(おだ のぶずみ) 花と火の帝、風の呪殺陣
未資料
織田 信孝(おだ のぶたか) (1558~1583) 時代小説の愉しみ
織田信長の三男。母は側室坂氏。後に神戸氏を継ぎ、神戸信孝ともいう。
山崎の合戦では秀吉と共に明智光秀を討つが、清洲会議で秀吉が信長の後継者を甥の三法師とした事から秀吉と対立、宿老柴田勝家、滝川一益らとともに反秀吉の軍を起こすが、天正十一年(1583)、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼした秀吉に、居城の岐阜城を包囲され降伏。信孝は尾張国知多郡野間の大御堂寺に送られ、そこで自害を迫られて自刃した。
小田切 茂富(おだぎり しげとみ) 影武者徳川家康
大隈守。武田の旧臣。甲斐二十五万石の奉行。
小野 喜平太(おの きへいた) 鬼麿斬人剣
松代藩士。
小野 庄蔵(おの しょうぞう) 影武者徳川家康
三河譜代。
キリシタンであったため追放。
小野 宗左衛門(おの そうざえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
近江代官手代。
小野 能登守(おの のとのかみ) 捨て童子松平忠輝
未資料
小野木 縫殿助公郷(おのぎ ぬいのすけきみさと) 花と火の帝
西軍武将。
関ヶ原に先立ち、西軍は近畿周辺の徳川方小城を攻め落としていた。小野木はその一つ細川幽斎が立て籠る田辺城を攻撃。
小浜 景隆(おばま かげたか) 見知らぬ海へ
伊勢水軍。
岡部忠兵衛が戦死した後、武田水軍の海賊奉行となる。やがて、駿河が徳川方に攻められ武田軍が撤退すると、武田水軍は解体し、向井正綱らとともに徳川方に与した。
親平 近清(おやひら ちかきよ) 捨て童子松平忠輝
未資料
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ) 時代小説の愉しみ
武田信玄の武将。
大江 源右衛門(おおえ げんえもん) かくれさと苦界行
浪人。
天草の乱に加担。
太田 左近(おおた さこん) (?〜1585)吉原御免状
名は宗正。太田党首領。太田城主。秀吉の太田攻めで自刃。
紀北の名で呼ばれている紀伊国(和歌山・三重県)の北部、紀北四郡(伊都・那賀・名草・海部)には根来寺領(七十二万石)を始め高野山・粉河寺という三大寺院勢力と太田党・雑賀党という二大在地勢力があり、戦国期にはこの五つの勢力が互いに牽制し合いながら共存し、他からの勢力の進入を排除していた。
奥山 休賀斎(おくやま きゅうがさい) (1515~1602)
小野 忠明(おの ただあき) 柳生非情剣 (?~1628)
小夫 浅右衛門(おぶ あさえもん) 吉原御免状、かくれさと苦界行
狭川新左衛門の息。
父狭川新左衛門より柳生の剣(古陰流)を学び、後に小夫姓を名のり小夫流の祖となる。
小夫 幡左衛門(おぶ ばんざえもん) 吉原御免状
小夫流三代目を継ぐも行跡不謹慎によりお家断絶となる。流派は高弟の西脇勘左衛門が継ぎ「西脇流」を名乗る。
鐘巻 自斎(かねまき じさい) (生没年不詳)
道家。鐘巻流の祖。
鐘捲自斎通家は外他(とだ)姓を持ち、越前朝倉氏の剣術指南で、富田流の名人富田治部左衛門景政の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。その頃、外田(戸田)一刀斎と名乗ったこともあるという。後に自斎の弟子といわれる伊藤(伊東)景久がその一刀斎を譲り受け伊藤一刀斎と名乗り、「一刀流」を興した。また伊藤一刀斎も、外田一刀斎を名乗っており、両者は同一人とする説もある。この説の根拠として、伊藤一刀斎の高弟といわれる古藤田勘解由左衛門俊直が、自流を外他一刀流と名乗っていることと、自斎も一時自流を鐘捲外他流と名乗ったことによる。
いずれにしろ、「一刀流」は「鐘捲流」から出ている。自斎の弟子で有名なのは、この伊藤一刀斎の外に佐々木小次郎がいる。(『歴史読本』昭和55年3月号所収光瀬龍「漂泊の剣客」参考)
河上 彦斎(かわかみ げんさい) 異説猿ケ辻の変
岡田以蔵とともに人斬りの異名を持つ勤王側の刺客人。
斎藤 弥九郎(さいとう やくろう) 異説猿ケ辻の変
彌九郎。神道無念流。土方楠左衛門が剣を学んでいた道場主。
越中氷見郡の生れ。江戸に出て岡田十松に師事。同門に水戸藩士藤田東湖、江川太郎左衛門、渡辺華山などがいたことから、水戸藩士との親交を深めた。二十七歳の時に独立し、飯田町に道場「練兵館」を開く。文政十二年(1829)、水戸九代藩主決定をめぐって斉昭擁立に動く藤田、会沢正志斎らの活動に助力。
斉藤道場の塾頭には桂小五郎がいて、門弟三千人と言われるほどの人気を博した。この門弟の中には、高杉晋作・品川彌二郎・渡辺昇・井上勝などの勤王の志士たちが多くいた。
白井 亨(しらい とおる) 鬼麿斬人剣
中西道場一刀流三羽烏の一人。
鈴木 孫一(すずき まごいち) 影武者徳川家康
雑賀鉄砲衆の党首。雑賀孫一ともいう。
代々襲名された名で、当代一の鉄砲の名人が襲名し、鉄砲衆を率いた。石山合戦では、織田の軍勢としばしば銃火を交し、つねに雑賀衆の圧勝におわっている。
諏訪 武右衛門(すわ たけえもん) 鬼麿斬人剣
一刀流中西派、小諸藩剣術師範。
相馬 大作(そうま だいさく) 鬼麿斬人剣
平山行蔵の高弟。
高柳 又四郎(たかやなぎ またしろう) 鬼麿斬人剣
中西道場一刀流三羽烏の一人。
中里介山著『日本武術神妙記』に高柳又四郎の項あり、参照ください。
武田 軍太(たけだ ぐんた) 狼の眼
心地流の免許皆伝を得て、直も廻国修行をする剣術家。三国湊で秋山要助に剣術試合を挑み敗れる。
田宮 長勝(たみや ながかつ)
田宮抜刀流居合元祖(田宮流開祖)。
田宮平兵衛重正嫡男。田宮長勝は後に紀州藩主、徳川頼宣に召され800石を得る。 父の剣法を全て受け継いで剣名高く、入門者も多かった。大坂冬の陣で、池田信輝のもとで功を挙げ、家康に気に入られた。家康は長勝を池田家からもらいうけ、御三家の一つである紀州の徳川頼宣の家臣とした。以後常円と号す。その子の平兵衛長家も達人で、三代将軍家光に招かれて抜刀術を演武。以後代々紀州家の師範をつとめた。
田宮 成道(たみや なりみち)
孫次郎左衛門。田宮長勝の玄孫。
戸賀崎 熊太郎(とがさき くまたろう) 狼の眼
麹町二番町にある神道無念流の道場主。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に、
「戸ヶ崎熊太郎は武州清久の人、神道無念流を称えて当時(安永の頃)であったが四谷にその頃有名な剣術の師があって評判が甚だ高かった、江戸第一と称せられた人熊太郎が聞き及んで尋ねて行って勝負を所望した処、彼の師匠は忽ちに仕負けてしまった。
熊太郎が辞して帰ると、彼の師匠は余りのもろい負け方を無念の余り、後より追いかけて斬りかけた、熊太郎ふり返って抜き合わせ斬り結んだが、終に彼の者をむね打ちに打ち倒して帰ったということである。 (撃剣叢談)」とある。
富田 勢源(とだ せいげん) かぶいて候
越前国宇坂荘の一乗浄教寺村で生まれる。弟に「名人越後」と呼ばれた富田重政がいる。
富田家は中条流の名家であったが、眼病を患い、父の遺蹟を弟に譲って髪を剃り勢源と号し隠居した。(『日本武術神妙記』)
作品では「名人越後」と云われ鐘巻流の流祖とされるとあるが、中里介山『日本武術神妙記』では、「名人越後」と云われた人は弟の富田重政で、重政は富田流小太刀を起こしたとある。
中里介山氏の『日本武術神妙記』を参照ください。
中西 忠兵衛(なかにし ちゅうべえ) 鬼麿斬人剣
下谷練塀小路の道場主。
野村 玄意(のむら げんい) (?〜1686) 吉原御免状、かくれさと苦界行
六字流。吉原新町真字(まんじ)屋当主。
一橋如見斎に六字流刀術を学び、その技は達人の域に達する。吉原首代の頭領として警備の責任者であり、誠一郎の警護の責任者でもある。
かくれ里一掃のため大坂新町の傾城屋に向かう途中、鈴鹿越えの道でお館さまこと荒木又右衛門に切り殺される。
「一、新町野村玄意はそのころ隠れなき柔気一流の名人。市橋恕齊の弟子にて、宮本氏とも昵懇なり」と『青楼年暦考』(庄司家家譜)にある。
父は野村喜右衛門。妻は庄司甚之丞の女かね、子に小左衛門がいる。父喜右衛門は江州出身で、庄司甚右衛門の妻の甥に当たるという。
匹田 豊五郎(ひきた ぶんごろう) 死出の雪
タイ捨流の創始者。
日根野 弁治(ひねの べんじ) 異説猿ケ辻の変
那須真吾の剣の師匠。
平山 行蔵(ひらやま ゆきぞう) 鬼麿斬人剣
別名平子龍。
四谷北伊賀町に住し、「常在戦場」を座右の銘とした武芸者。
松山 主水(まつやま もんど) (?~1635) 死ぬことと見つけたり、かぶいて候
大吉。松山主水(初代)の孫。
二階堂平法の正統を継ぐ兵法者。細川家に仕え剣術指南役を勤める。二階堂平法の奥義とされる「心の一方」(居すくみの術)の使い手で、身のこなしも軽く、七尺ほどの土塀や、二十二尺もある濠を助走もせずにその場からいきなり飛び越えたり、垂直の壁をヤモリのようにはりついて這い回り、壁を駆けのぼって天井を逆さまに歩いた等の様々な逸話が残されている。
寛永十二年(1635)十月、高熱を発し病に没したとされる。
松山 主水(初代)(まつやま もんど) 死ぬことと見つけたり
西美濃十八将の一人松山刑部正定の一族とされる。
竹中半兵衛の母方の従弟で、半兵衛の旗本として戦に参加。半兵衛死後、木村常陸介に仕え、次いで加藤家に仕えた。

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