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近江国
近江国(おうみのくに) 現・滋賀県
東山道の出発地。はじめ淡海と書き、近淡海 (ちかつおうみ) 国とも呼んだ。当時の琵琶湖の呼称をそのまま国の名にしたものという。大化改新以前は、豪族が割拠し分有していた。大化二年(646)、一国と定められ国司・郡司が置かれるが近江ではほぼ旧来の豪族が任命されたとされる。667年、当時の大和政権の大王天智(天皇)は百済救援のため軍を朝鮮半島に送るが、白村江で敗れ、人心を一新するため拠点を大津に移した。これが大津京と呼ばれる都だが、671年天智大王が没すると弟大海人御子(皇子)と皇太子大友御子の間で争いが起り(壬申の乱)、勝利した大海人王子が天武大王となり、飛鳥浄御原に拠点を移したため、僅か五年で大津京は廃された。江州と呼ばれる。
細浪(さざなみ)の国 淡海(あふみ)の国は淡海を以ちて国の号となす。故、一名を細浪の国といふ。目の前に、湖の上の漣なみを向ひ観るがゆゑなり。(陀山石初篇)
[国府]国府は栗太郡勢多におかれる。現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。
平安期になると律令制下の班田制が寺社領などの私有地の増加で崩れると、近江国のほとんどは荘園化される。その後、武家政権(鎌倉幕府)により守護職が置かれ、蒲生郡佐々木荘の荘官佐々木秀義・定綱父子(近江源氏)が頼朝挙兵に加わった功績から、近江国守護職に任ぜられる。この佐々木氏の一族はやがて六角・京極・朽木などの諸家に分かれ、六角氏は湖東観音寺城に居を構え、京極氏は江北伊吹山麓、朽木氏は湖西朽木谷にあって一族で近江国を支配した。
[守護所] 近江国蒲生郡石寺
室町期になると、江北の佐々木京極氏と江南の佐々木六角氏が守護大名として近江を支配。やがて戦国期を迎え、佐々木京極氏が衰え代って浅井氏が戦国大名となり、佐々木六角氏は守護大名から戦国大名となる。
[幕藩体制確立後]
井伊家の彦根藩(二十万石)を筆頭に、膳所藩(六万石)、水口藩(二万五千石)、大溝藩(二万石)、仁正寺藩(一万七千石)、山上藩、宮川藩(各一万三千石)、三上藩(一万二千石)、朝日山藩(明治三年、廃藩置県の直前に水野忠弘が出羽山形より転封してできた藩)の九藩が置かれた。
近江国
近江国之風俗は賢佞之間を兼たる風儀なり雖然賢智之人を聞く事なし。佞人多かるべきなり。身持上手に而人に非を可被討事を言葉に不顕、而隠非而善を説く、然る故に心を不付、而是を見るときは一段この国の人は惣而きはだち、余国にすぐれたりと見ゆるなり。是をたとへて以論ずるにかねにをなじ。かねには金有銀有銅有鉄有錫有鉛有。みなかねに而みな格別也。さればこの国風、かねといへば結構のやうなれども、金にあらず、銀にあらず、たゝ銅鉄鉛錫のうち也。是を以是を見れば、この国は半佞人と可知。佞人は必利根利発利口に而言舌は賢人にも劣ることなし。吾愚に而賢佞をしるべきやうなし。唯善悪言行を案而可知也。 口伝 (人国記)
近江国地名解説
近江国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
芦浦(あしうら)
琵琶湖東岸の湊。
現在の芦浦は草津市の北部に位置し、守山市に隣接する一つの地区名にすぎないが、中世においては比叡山に許可された琵琶湖の湖上権益の総元締として、観音寺別当が置かれていた。秀吉の時代になると観音寺住職は琵琶湖の船奉行に任ぜられている。こうしたことから、この芦浦は湖上交通が盛んな江戸期まで奉行管理下の用船が舫われる港として賑わった。
『風の呪殺陣』
この観音寺別当の屋敷に、叡山焼き打ちで逃れてきた昇運と知一郎の姿があった。湖岸から眺める叡山は全て焼き払われたとはいえ、二人の目に美しく映じる。
海津(かいづ)
琵琶湖北部の湊町。
近江国高島郡貝津荘(滋賀県高島郡マキノ町海津)。琵琶湖の北岸にあり、北国往来の津として早くから開ける。海津から愛発山を越えて敦賀に至る峠道を七里半越と云い、敦賀からの荷はこのルートで海津に送られ、船で大津に運ばれた。
甲賀(こうが)
近江国甲賀郡。滋賀県甲賀郡。
琵琶湖の南東、鈴鹿山の東に位置し、野洲川流域の甲賀谷と、信楽川流域の信楽谷との二谷に分れる。信楽谷は大和と近江を結ぶ道沿いにあり、紫香楽宮が設けられるなど、平城京と深い関連を持つ。平安遷都後は伊勢に通づる東海道沿いの甲賀谷が重んぜられ、甲賀駅や垂水頓宮が設けられた。中世には甲賀者とよばれた甲賀武士が顕われ、彼等は自治権の強い共同体を組織していた。
坂本(さかもと)
比叡山の門前町。
近江国志賀郡志賀荘(大津市坂本本町・下阪本町)。比叡山の東麓で琵琶湖に臨み、延暦寺の権勢の拡大とともに、坂本七ヶ関などにみられるように、山門の経済活動の拠点として繁栄した。数々の兵乱に山門自らが係わり、坂本は戦場となることも多かった。
坂本は延暦寺の門前町として栄え、比叡山の守護神である山王総本宮日吉大社をはじめ、天海大僧正造営になる日吉東照宮、天台真盛宗総本山西教寺、歴代天台座主の住居であった滋賀院門跡、江戸期の名庭園をもつ数多くの延暦寺里坊など豊富な史跡と自然が息づく静かなたたずまいの町として知られる。今も「穴太衆積み」と呼ばれる石垣が町の随所に残っている。また、信長が近江平定の功として明智光秀に坂本一帯を与え、光秀が坂本城を築いた場所でもある。
交通/JR湖西線比叡山坂本駅下車、京阪石山坂本線坂本駅下車
佐和山(さわやま)
佐和山城地。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」といわれた佐和山城は、1190年に近江守護職佐々木定綱(近江源氏の祖)の六男佐保六郎時綱が、初めて砦を築いたのが始まりという。その頃、佐和山は佐保山と呼ばれていたが、やがて佐保が佐和に転訛したらしい。その後、佐々木六角家と佐々木京極家、浅井家の領地争いが、愛知川と佐和山辺りを境界線として争われ、また佐和山城は要衝の地にあり、幾度となく争奪戦が行われてきたため、めまぐるしく城主が変わることになる。この辺りは鈴鹿山系が大きく張り出し、琵琶湖との間がわずか2kmほどで、いわゆる陰道の要所だった。この地を押さえることは、江北、江南のみならず、中山道や北国街道をも押さえることになった。現在も2kmほどの間に新幹線、名神高速、国道8号線、JR琵琶湖線と交通の要となるもの全てが並行して走っている。1590年、秀吉から石田三成に与えられる。しかし、三成が関ヶ原で破れると、直後の東軍の佐和山攻めで城は落城した。
この近江佐和山十八万石の地は、井伊直政が関ヶ原の戦いの功績で加増されてこの地に入った。しかし直政は関ヶ原の戦いで受けた傷の経過がはかばかしく無く、2年後の慶長七年(1602)に没した。その後を受けた長男直勝は、領地の彦根に新たに城を築き佐和山は廃城となる。 しかし、破壊されたとはいえ遺構は現在も佐和山城全体に残っている。
塩津(しおつ)
近江国浅井郡塩津郷。滋賀県伊香郡西浅井町。
琵琶湖北部の湊町。
琵琶湖の北部、塩津湾に面した地。北陸の海塩を大津に運ぶ港だったことから付いた名。万葉の頃から、湖北の水駅として海津と並び称され、和歌・物語等に多く現れる。
賎ヶ岳(しずがたけ)
山名。
長浜から琵琶湖東岸を秋月、木之本と北上すると秀吉と勝家が天下人を賭けた合戦の地、賎ヶ岳がある。賎ヶ岳は小高い丘で、この賎ヶ岳の北、琵琶湖とは反対側に小さな湖「余呉湖」がある。その湖を挟んで両軍が対峙したという。
[賎ヶ岳古戦場](しずがたけこせんじょう)
現在、賎ヶ岳の山頂広場(木之本町大音)には、この合戦(賎ヶ岳の合戦)で活躍した秀吉側の勇者「賎ヶ岳七本槍」の武者像や、戦跡碑が立てられており、尾根続きの大岩山頂には秀吉側の武将中川清秀の墓がある。
交通/JR北陸本線「木ノ本」駅からタクシーで4分(約1,000円) 、湖国バス菅浦線か深坂線「大音」下車
比叡山(ひえいざん)
延暦寺の山名。
山の名。
叡山とも称され近江国と山城国の国境にある山。京都市北東部、大津市との境にまたがり、南は滋賀山に接し北は比良山に連なる。大岳と四明岳から成り、延暦寺・日吉大社などがあり、古来信仰の山とされてきた。天台山ともいう。
比叡山(標高848m)は京の北東に位置する。これは中国易経の方位学で山を意味する艮の方向にあたり、まさに平安京はうってつけの場所であった。また、北東は鬼門として忌みされてもいる。延暦寺はその鬼門封じのために建立されたといわれる。平安京は延暦十三年(794)、長岡京より遷都されるが、それに先立つ延暦四年(785)、東大寺戒壇院で授戒した最澄が比叡山に登り草庵を結んだのが始まりといわれ、延暦七年(788)には自ら彫った薬師像を安置し三つの法灯を祀っている。 その後入唐(804)した最澄は、天台山にて道邃、行満から天台の法を学び帰国(805)。最澄の死後、823年に朝廷から延暦寺という寺号を受け、ここに天台宗総本山延暦寺が誕生することとなる。やがて、朝廷の庇護を受けた延暦寺は、円仁・円珍の時代に大きく発展する。993年、派閥争いのため、山門(延暦寺=円仁派)と寺門(園城寺=三井寺円珍派)に分かれるが、広い荘園と多くの僧兵を持ち、 政治的にも大きな力を持つこととなる。
時は戦国時代、足利幕府の衰退とともに全国の守護大名の権威も弱まり、それにとって変ろうとする豪族たちが戦国大名となり群雄割拠した。こうした戦乱の世を平定しようと越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、そして尾張の織田信長が天下人を目指す。なかでも信長の行動は他に抜きん出ていた。周辺の中小大名を配下に従え、松永弾正により弑いされた将軍足利義輝に代わって将軍職に付いた義昭を上洛させ、畿内を平定するとともに、将軍義昭に圧力を加え天下統一を進める。しかしそんな信長を心良く思わない領主たちもいた。越前の朝倉義景もそうした大名だった。義景の敵意を見た信長は、北近江の浅井長政と姻戚関係を結び越前を攻めた。だが朝倉に恩義のあった浅井は朝倉に与し信長の激怒するところとなる。こうして信長の敵となった浅井は朝倉軍と同盟を結び信長と戦うこととなった。浅井・朝倉軍は近江一向一揆衆、叡山の僧兵らとも組み、ことごとく反抗する。覇権を確立しようとする信長にとって、浅井・朝倉軍はまさに目の上のたん瘤。しかも敵はゲリラ的に信長軍を襲い叡山に逃げ込む。信長の美意識にとって許されざる攻撃を仕掛けるのだった。
ついに業を煮やした信長は、浅井・朝倉軍を姉川で撃破し、浅井・朝倉軍に協力した比叡山全山の焼き打ちを決意する。元亀二年(1571)、浅井軍を牽制した信長は、一向一揆の拠点である金森城を攻撃し落城させると石山に陣を張る。誰もがそのまま京に行くと思った。しかし信長は急転し延暦寺の門前町坂本を襲う。その勢いで一挙に比叡山を焼き払ったのだった。
無道寺谷(むどうじだに)
比叡山延暦寺三塔十六谷の一つ。比叡山の南端に位置する無動寺谷へは、比叡山坂本ケーブルの延暦寺駅から根本中堂とは逆の方向におよそ1kmほど参道を行く。参道は急坂で、回峰行者が登ってくる道でもある。ここは、貞観7年(865年)に相応和尚が「無動寺」を建立したことに始まる。本堂明王堂は、千日回峰行の根本道場として知られ、本尊の「不動明王像」は重要文化財に指定されている。本堂明王堂の他に法曼院、建立院、宝珠院、大乗院、千手院、玉照院、松林院、善住院、弁天堂などの堂宇が点在。法曼院は無動寺谷の総本坊で、千日回峰を満行した大阿闍梨が輪番で住持し、相応和尚を祀り、不動明王に仕え、弟子の行者を育て、信徒のために加持祈祷をしている。
東塔(とうどう)
比叡山三塔十六谷の中心で、延暦寺総本堂の根本中堂をはじめ、大講堂、法華総持院東塔、戒壇院などの重要な堂塔や、延暦寺会館、書院など宿泊接客施設が集まっている。
西塔(さいとう)
比叡山を代表する壮大なたたずまいの東塔に対し、西塔は美しい杉木立の間から小鳥のさえずりが聞かれる静寂境。釈迦堂を中心に、にない堂、椿堂、恵亮堂、瑠璃堂、黒谷青龍寺などの堂塔のほか、一般の人が修行できる居士研林修道場がある。
横川(よかわ)
近江国志賀郡の比叡山延暦寺の三塔の一つ。横川は東塔の根本中堂の北方にある横川谷一帯をいい、近江に属するが、京の北東麓、大原の東に当り、一連の景勝地としても知られた。
西塔からさらに奥へ4km、延暦寺三塔の中で一番北のエリア。慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元など、後に名僧といわれる人々が修行に入った地で、横川中堂を中心に最も宗教的な雰囲気を残している。
野洲の郡(やすのこおり)
近江国野洲郡(滋賀県野洲郡・守山市・近江八幡市)
野洲川・日野川が貫流し、西・北二面が琵琶湖に面する沖積平野。室町期には守護六角氏の支配下にあったが、琵琶湖の対岸堅田とともに、近江一向一揆の中心地となった。
美濃国
美濃国(みののくに) 現・岐阜県
古くは三野、御野とも書いた。隣の尾張国との境は木曽川であったが、当時の流路は現在より北で、現在の境川下流を通っていたという。濃州と呼ばれる。
[国府]現在の岐阜県垂井町府中にあり、遺跡が発掘されている。
清和天皇の孫源経基が国司として美濃守に任ぜられて以来、代々源氏がその職を次ぎ、源氏の勢力の強い地となる。また、美濃は朝廷の御料地も多く「院の御分国」とも称された。
[守護所]
鎌倉期に守護職となった土岐氏が北朝方につき、南北朝〜室町期を通じて代々土岐氏が美濃の守護職として支配する。
[幕藩体制確立後]
美濃天領。郡代が置かれる。
大垣藩(十万石)を筆頭に、郡上(八幡)藩(四万八千石)、加納藩(三万二千石)、高須藩(三万石)、岩村藩(三万石)、大垣新田藩、高富藩、苗木藩(各一万石)が置かれ、明治元年に今尾藩(三万石)が藩列した。
美濃国
美濃国之風俗、其意地きれいに而、たとへば水精のことしざれば、水精も不磨は光り出る事あたはず。然ども根性をよく生付きたる風俗は、必垢をけづること早し、而能く道理にしたがふ。雖然西美濃は人之風儀柔に見えて徹する処之物鮮く言舌風流に見ゆるなり。東美濃は生得のまゝに而木地なり。日本の内之風俗四五ヶ国の内なり。されどもところから気しつになれたる風なれば、いやしきことも多く有之也。直成が能きとて人の手足の曲るは亦其理之上の直也。如斯の節にあたると云事を知りたる人は百人に七八十人は無之而、たま/\一人にてもこの理に達する人あらば、名高成べし。され共勢強ふ而国風之手本ともなるべきほどの人は稀なるべきなり。(人国記)
美濃国地名解説
美濃国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
青墓(あおはか)
東山道の宿村。
平安末期には、傀儡や遊女が多く住していたとされる地。
赤坂(あかさか)
岐阜県大垣市赤坂町。中山道第五十六宿「赤坂宿」。
中山道の宿場町。
江戸時代には、揖斐川の支流杭瀬川を利用した水運基地「赤坂港」が有り、多くの川船で賑わった。
大垣(おおがき)
大垣城の城下町。
奈良東大寺領であった「大井荘」の推移の中で、牛屋砦・東大寺城などの名とともに荘官大垣氏の名があらわれ、「大垣・大柿」という地名が登場する。大垣城の創建は、明応九年(1500)に竹腰尚綱によるものと、天文四年(1535)豪族の大垣氏が構えていた砦を土岐氏の一族宮川安定がこれを奪い城を築いたとするもの、天文十七年(1548)竹腰氏再入城のときなど諸説がある。
岐阜(ぎふ)
現岐阜市。
岐阜城の城下町。
美濃国厚見郡にある金華山一帯をいう。この地にあった城は稲葉山城と称していたが、中国周の武王が岐山を本拠地として天下を平定した故事にならい、沢彦宗恩が考案し織田信長がこの地を岐阜と命名したとされ、城も岐阜城と改められた。金華山山頂の岐阜城は、信長の安土移府まで政治の中心舞台となる。
関ヶ原(せきがはら)
中山道の宿場町。
古来から東山道と、北近江、伊勢方面の道が交わる交通の要衝として知られ、「不破の関」が設けられるなどの要地だった。
また、関ヶ原は、我が国の古戦場で最も有名な場所。672年に起った大友皇子(後の弘文天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)の後継争い「壬申の乱」の舞台となってから938年後の1600年、再び天下分けめの合戦の舞台となった関ヶ原には、夥しいいくさ人の思いが今も残っている。
江戸期には中山道の宿駅「関ヶ原宿」として賑わった。
[関ヶ原古戦場]
交通/JR東海道本線「関ヶ原」駅下車 駅前で自転車を借り巡るのが良い。
奥平貞治の戦死の地と墓
徳川家康はかねて反応を約束している小早川秀秋の態度を監視するために奥平貞治を松尾山に遣していた。眼前で激しい戦いが繰り広げられているにもかかわらず秀秋は傍観していて意を決しない。遂に家康(二郎三郎)から決心を促され友軍の大谷吉継を攻撃する。奥平はその先陣に立ち戦うが山中村南の高地で戦死。
笹尾山・石田三成陣跡
石田三成は北国街道を守備するため兵8千を笹尾山の正面に配した。竹矢来を二重に田の中に囲い、その前面に島左近勝猛を配し、中間に蒲生郷舎を置き、三成自身はこの山頂で指揮をした。この山の前面が最大の激戦地となった。
決戦地の碑
西軍絶対有利の陣形で望んだ合戦であったが、小早川勢の裏切りにより、大谷、平塚隊の奮闘もむなしく敗れ、その形勢が逆転する。これを機に小西隊が敗走を始め、宇喜多隊も正面から福島隊、側面から小早川隊の攻撃をうけ敗走。残った石田、島津隊は新手の東軍とも奮戦したが、石田隊が江州方面へ敗走。最後まで戦場に残った島津隊も、兵を集め一丸となり家康本陣前を敵中突破して、伊勢街道方面へと脱出した。
島津義弘陣跡
北国街道を守備するため、島津は約一千の兵をつれてこの地に布陣。三隊に分けた銃手を正面に配し、第1隊から順次第2、第3隊と交代、更に弾をこめ終えた第1隊が前に出るという連射を可能にした隊形で、鉄砲を巧みに使ったといわれている。
小西行長陣跡
小西行長は北天満山に約六千の兵をもって陣し、この頂においてのろしをあげ、味方に戦闘開始の合図をしたという。午後になって小早川秀秋の反撃、次に大谷隊の敗報を聞くや、戦意を失い、島津隊のうしろを廻り、相川山を越え春日方面に逃れた。
徳川家康最後の陣跡(床几場)
合戦の最中、東軍の動きを確認するため桃配山より軍を進めて、この陣場野に陣を敷いた。二郎三郎は最後まで味方の指揮にあたり、戦いが終ると部下が取って来た敵の首実験をした場所。周囲の上囲や中央の土壇は天保十二年に幕府の命令により、竹中家が作ったもの。
開戦地の碑
慶長五年(1600)九月十五日朝、霧が晴れたのを機に、井伊、松平の騎馬隊数十騎が、先鋒の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲する。先陣の功を取られた福島隊も直ちに宇喜多隊に対して一斉射撃を行い、ここに関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされる。しかし、その直前に、甲斐の六郎の手によって家康は暗殺されていた。この地を開戦地と定め、史蹟に指定した。
宇喜多秀家陣跡
午前8時頃東軍の先鋒、福島正則の挑戦によって戦端は開かれ、この宇喜多陣の正面が最も烈しい激戦地となった。山麓天満神社境内に宇喜多秀家陣跡の標石がある。
大谷吉継の墓
吉継は親友石田三成の懇請により宮の上に出陣して中山道を防備。さらに去就不明な小早川秀秋にも備えた。正午を過ぎ、東軍からの一斉射撃で小早川が裏切り、大谷隊は背後より攻撃を受ける。吉継は3度小早川隊を退けるが、脇坂らの寝返りもあり、三面攻撃を受け遂に自刃したという。
福島正則陣跡
東軍の先鋒、福島正則は関ヶ原へ移動中の西軍を追って15日未明、松尾の春日神社に到着、戦機熟するを待ち、午前8時宇喜多隊に戦を挑む。これより合戦の火蓋が切っておとされる。
藤堂高虎・京極高知陣跡
福島正則に続いて東軍の第二陣として、藤堂高虎・京極高知は現在の関ヶ原中学校付近に陣を敷いた。福島隊が宇喜多隊に対して挑戦するや藤堂・京極隊は、その背後を廻り不破関附近に出て西軍の平塚為広隊と交戦し、進んで大谷吉継の本体を破った。
本多忠勝陣跡
大垣を経て赤坂に一旦陣を敷いた本多忠勝は、すぐに関ヶ原に入り十九女池西に陣を敷いた。戦機熟するをみて、家康の元に駆けつけるが、そこで待っていたのは影武者一人。その二郎三郎から家康の死を知らされ愕然となる。
桃配山・徳川家康最初陣跡
桃配山は壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)は、野上の行宮からこの地に陣し、兵を励ます目的で桃を配られたという伝説地である。徳川家康も関ヶ原合戦の時この丘陵地を最初の陣地と定め九月十五日夜明けに赤坂から陣を進める。まだ朝霧が立ち込めていた。その霧が晴れようとする間際、いざ陣を進めようと馬に跨がる家康に馬を寄せてきた者がいた。
丸山烽火場
関ヶ原合戦の際、この山には東軍の黒田長政・竹中重門が陣どり、福島隊の突撃するを見て開戦ののろしを挙げた。ここは町全体を見わたすことができる場所で、開戦の際も戦場が一望できるところからのろし場として選んだのである。
島津豊久の墓
総くずれとなった西軍の中で、勢力を温存していた島津勢は敵中突破をしてここまで来たが、東軍の松平忠吉・井伊直政・本多忠勝等のはげしい追撃にあう。それを島津義弘の甥豊久がここでくい止める。その間に島津勢は、多良を経て鹿児島へ帰ることができた。
脇坂安治陣跡
脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直歩の各隊4千人余りは、大谷隊と共に中山道、松尾山の小早川隊の前面に陣を敷き大谷吉継の指揮下にあった。秀秋の反応に各武将は、変心して大谷隊へ攻撃を始める。しかし、合戦後、小川、赤座家は改易された。
小早川秀秋陣跡
脇小早川秀秋は、一万三千人の兵を山麓に配した。午前中は戦闘に参加せず傍観していたが、午後になり東軍の威嚇射撃にあい、遂に反旗を翻して西軍大谷吉継を攻める。これを境に戦局は東軍有利の方に傾いて来る。
飛騨国
飛騨国(ひだのくに) 現・岐阜県北部
古くは斐太、斐陀と書いた。
風土記に云はく、この国は本美濃の内なり。往昔、江州大津に王宮を造りき。時にこの郡より良き材多く出でて、馬駄に負ひて来り、その速きこと飛ぶが如くなりき。因りて改めて飛駄の国といふ。(倭漢山才図会七十)
[国府]不明。
姉小路氏が飛騨守として代々国司を勤める。
[守護所]
室町期には京極氏が守護職に任ぜられた。
[幕藩体制確立後]
加賀藩領と、幕府直轄領になり、高山代官、郡代が置かれた。
飛騨国
飛騨国之風俗は律義に而愚也。其愚とは日本は広といへども此国に越たるはなきと覚る人百人に九十人如斯、因茲我国より他邦へ出る事も嫌て、唯、井中之坐より天を如窺なる形儀なり。武士之風俗も唯我領する処之所知を十分に覚て、是に上こす事あらじと思ふの類にて、かいきう不可然也。誠に山中之人等最かく有可也。但生得は石鉄之性とも可謂也。
飛騨国地名解説
信濃国
信濃国(しなののくに) 現・長野県
はじめ科野と書いた。当初は木曽地方を除く長野県地域を領域としていた。
養老5 (721) 年6月26日に南部を諏方(すわ)国として分置したが、天平3 (731) 年3月7日に合併して元に復した。その後、平安時代末期から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入したが、その正確な時期はわかっていない。信州と呼ばれる。
[国府]信濃国の国分寺が現在の上田市にあり、当初はその辺りにあったようだが、『和名類聚抄』に「筑摩郡に国府がある」と記されていることから、奈良時代から平安時代にかけてのいずれかの時点に、筑摩郡へ移転したと推測される。
[守護所]
鎌倉期には北条一族が守護職を握る。
南北朝期には北朝方の守護として小笠原氏が任ぜられるが、南朝方の諏訪氏との対立があって、多くの国衆が諏訪氏に従い大文字一揆(北信の武士)と諏訪神社党らが守護小笠原長秀を襲い、長秀は都へ敗走する。その結果、信濃には守護領国支配が及ばず、小領主分立の形をとることとなった。
[幕藩体制確立後]
松代藩十万石を筆頭に、松本藩六万石、上田藩五万三千石、高遠藩三万三千石、高島藩三万石、飯山藩二万石、野田口藩一万六千石、小諸藩一万五千石、岩村田藩一万五千石、飯田藩一万五千石、須坂藩一万石が置かれた。
また伊那地方には信濃天領も有る。
信濃国
信濃国之風俗は武士之風俗天下一也。最百姓町人之風儀も其律儀なる事伊賀伊勢志摩之風俗に五畿内を添たるよりは猶も上也。所以者義理強く而臆する事なく、百人に九十人は律義也。たま/\臆病成者有といへども夫も他国之如形之人と云程には有らずして、たま/\の物語にも弱みの比興の事は無之、若し比興の事を述べ亦なす。則は、人皆是を悪て不交。故柔弱之人も後には義理を知りて国風と成なり。都而智恵も余国よりは勝れたり。然ども偏鄙之国成故に、かたくへなきことも多しといへども善十にして悪一二之風俗也。(人国記)
信濃国地名解説
信濃国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
追分(おいわけ)
長野県北佐久郡軽井沢町追分。
中山道の宿場町。
信濃国北佐久郡追分宿。木曽路(中山道)と善光寺道(北国往還)との分岐点に当たり、軽井沢の西約二里半に位置する。近世の追分宿の戸数は、寛永年間には五十四戸となり、延宝年間には追分町と称すまでになった。追分宿では寛文五年十月二十一日付の五人組請状に「公儀様より此度遊女所持仕候事かたく御法度に被?仰付?候上者、五人組中間として吟味仕、一切遊女抱置申間敷候」と記されるように遊女は禁止されていた。ここでいう遊女は、いわゆる「めしたき女」と称される宿場女郎をいい、親の貧苦などで身を売られた女性たちで、遊芸などに通ずる余裕のあるものではなく、年季が来ても身代金がなければ解放されることのないものであった。こうした女郎が浅間(軽井沢)三宿(軽井沢・沓掛・追分)には多く、中でもこの追分宿が最も多かったといわれている。
追分とは、街道と街道の分岐点を云い、同名の地は全国各地に有る。
川中島(かわなかじま)
千曲川・犀川の中洲の総称。信濃国更級郡(長野県更級郡)。
犀川により形成された扇状地。善光寺平の中心地で、早くから越後・信濃・上野に通ずる交通の要衝となっていた。
上杉謙信と武田信玄が覇を競い幾度も合戦(川中島の戦い)した古戦場として名高い川中島は、永禄三年に武田信玄が城を築き、武田24将のひとり高坂弾正(昌信)が城将となって守りを固める。当初この城は「海津城」と呼ばれ、北信に進出した武田氏の前線基地となっていた。武田氏が滅亡した後、森・上杉・田丸・森氏と城主が替わる。慶長八年(1603)、森忠政が関ヶ原の戦功により美作津山に移り、その後に松平忠輝が城主となって入封した。ただしこの時代、城があった地はまだ松代と呼ばれず、海津と呼んでいた。
当初川中島藩は、松代・飯山を含んだ北信濃水内郡のほぼ全域だったが、忠輝が入る時に飯山四万石が与力大名となった皆川広照に与えられ、十二万石が忠輝の領地となった。広照に与えられた飯山は飯山藩として立藩する。
慶長十五年(1610)、この川中島の領地はそのままで、忠輝は越後福島六十万石が加増され七十二万石の大藩となり本拠を越後に移す事となった。この川中島時代の藩の経営は、城代家老となった花井三九郎と長沢松平家の重臣らで行う事になるが、当初の実務は附家老となった大久保長安が派遣した代官らの手で、藩の整備が行われている。忠輝はまだこの時期は、江戸屋敷にいた。
諏訪(すわ)
信濃国諏訪郡(長野県諏訪市・諏訪郡)の、諏訪盆地一帯の称。
赤石・立科山脈にはさまれ、諏訪湖より天竜川が流出。古代から中世にかけて諏訪大社の勢力下におかれ、室町中期に諏訪大社の荘官だった諏訪氏が諏訪盆地と諏訪湖を見下ろせる金毘羅山頂に山城上原城を築き、中腹に館を築いて住し城下町を形成、一帯を統治した。その後、諏訪信満・政満・頼満(碧雲斎)と続き、諏訪郡の大きな勢力となり支配地を広げ、享禄四年(1531)には甲斐塩川で武田信虎を破っている。頼満の孫頼重の代には信虎の女(信玄の妹)を妻に迎え、同家の関係は親密に見えたが、信虎が信玄に追われ駿府に居候すると、武田氏との仲は疎遠になった。天文十一年(1542)、信州の制覇を目論む武田晴信(信玄)に攻められ、上原城は落城、頼重は近くの桑原城に拠るが、そこも落城し武田に下った。こうして頼重は甲府に送られ自刃し、諏訪惣領家は滅亡する。武田信玄が諏訪頼重を攻略してからは、勝頼の代まで武田氏の領土となるが、武田氏が滅ぶと秀吉によって諏訪氏の一族諏訪忠恒がこの地に入り、高島城を築いて高島藩の元を作った。江戸期には甲州街道と中山道が会する交通の要衝、宿駅として栄える。
上諏訪(かみすわ)
諏訪湖の南岸、高島藩領。諏訪大社上社の前宮、本宮が有り、諏訪忠恒が文禄二年(1593)、母の菩提寺として創建した迎冬山貞松院月仙寺が有る。この貞松院の境内に、この地で没した松平忠輝の墓がひっそりと立っている。
松平忠輝は大坂の陣での怠戦を咎められ、深谷に謹慎中だったが、元和二年(1616)、家康が没すると秀忠により伊勢朝熊に配流となった。二年後の元和四年、飛騨高山藩主金森重頼に預け替えとなり、寛永三年(1626)には再び預け替えとなり、この上諏訪の高島藩主諏訪頼水に預けられた。こうして忠輝は、天和三年(1683)に九十二歳で没するまでの五十七年間、この地で流謫の生活を送った。
下諏訪(しもすわ)
諏訪大社下社の門前町。宿場町。温泉町。下諏訪町は諏訪湖北岸のほとりにあり、古くから諏訪大社の門前町として栄えてきた。お諏訪さま・諏訪大明神と親しまれる諏訪大社は全国に1万余の分社をもつ諏訪信仰の総本社となっている。鎌倉時代には幕府と深いつながりをもち、日本第一大軍神として武家の守護神とも尊ばれたことから戦国時代には武田氏を始め多くの武将、大名が諏訪大社に祈願した。江戸時代になると下諏訪は、中山道と甲州道中の分岐点として、きわめて重要な役割を果たすこととなる。前後に和田峠、塩尻峠を控え、中山道随一の温泉宿場町(下諏訪宿)だったこともあり、旅の疲れを癒す宿場として繁栄する。現在の下諏訪町
現在も宿場の風情が色濃く残り、散策も愉しめる。
和田の宿で女に誘われ一夜を共にした鬼麿は、その女から下諏訪で清麿が数打ちの刀を造ったことを知る。そして鬼麿は、その刀の持ち主に会った。
戸隠山(とがくしやま)
信濃国水内郡戸隠(長野県上水内郡戸隠村)にある戸隠連峰の主峰。標高1911メートル。
西方に裾花川の源流が発し深い渓谷をなし、東の戸隠村側は急崖が続いている。その峻険で神秘な様相から、平安時代に山岳信仰が生まれ修験者の霊場となった。戸隠山の鬼退治の伝説は、多田満仲の武勇伝、鬼切の宝剣説話として『太平記』に表れる。また平維茂の「紅葉狩」でも知られる。
松代(まつしろ)
松代城の城下町。
真田家十万石の城下町松代は、真田家が入る前までは城地を川中島藩とよんでいた。森蘭丸の末弟、森忠政が十三万石で入封。森家が美作津山へ転封すると、下総佐倉より家康の六男松平忠輝が十二万石で入り、川中島領を領有のまま忠輝は越後高田六十万石に加増された。しかし、忠輝改易を受けて常陸下妻より松平(越前)忠昌が入り、越後高田へ。越後高田から交代で酒井忠勝(宮内大輔)が入る。その後、酒井家が出羽庄内へ転封し、信濃上田より真田信之が十三万五千石で入り、以後真田家の支配で幕末に至るが、二代信政の代に沼田三万五千石を分知し石高十万石となる。
ここ松代は「面割り」の章に挿入された「真田藩荒試し」の舞台となった地だ。
[真田宝物館]
真田家家宝の武具、調度品などを所蔵。重要文化財の「青江の大太刀」、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状など、興味深いものが数多く展示されている。
[城下の街並]
真田家筆頭家老矢沢家の重厚な表門、江戸時代の武士の住まいを今に伝える旧横田家住宅、旧白井家表門など、武士の時代を今に伝える建築物が現在も大切に保存されている。
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上野国
上野国(こうずけのくに) 現・群馬県
古代の毛野国 (けぬのくに) の分割によって、上毛野国 (かみつけぬのくに) として成立した。碓井以下14郡よりなる。律令制により国名を漢字二文字で表記することとなり「上野」と書き「かみつけ」と当初は読んだ。それの音便が変化して「こうづけ」と呼ばれるようになる。上州と呼ばれる。
[国府]群馬郡総社(現前橋市附近)にあったと推定されている。
成立当時、蝦夷との境の国として重要視され、国守には親王が当てられた。このため、親王任国となり、以後親王が国守となるが親王自身は赴任することがなかったことから、実際に国の長として赴任したのは副である国介であった。このため、同様の理由で東海道の上総、常陸も親王任国となり、これら三国には国の長として任官されるのは国介となった。
[守護所]
この地区の有力な武士団は、平安末期に外祖父藤原敦基から新田郡の開発地新田荘を受領した源義家の孫義重が、この地の名を取り新田と称し地盤とした新田氏だったが、源頼朝の挙兵に応じなかったことから、守護に任ぜられることはなく、執権北条氏の嫡流が守護となった。
室町期にも南朝方に加担した新田氏に対して、足利氏の一族上杉憲房が守護となり代々上杉氏が守護を勤めた。
[幕藩体制確立後]
前橋藩十七万石を筆頭に、高崎藩八万三千石、館林藩六万石、沼田藩三万五千石、安中藩三万石、矢田藩二万石、小幡藩二万石、伊勢崎藩二万石、七日市藩一万石が置かれた。
この外、岩鼻は代官支配地の上野天領となっている。
上野国
上野国の風俗は碓水、吾妻、利根三郡は人之形儀信州に似たり。亦、勢田、佐位、新田、片岡四郡は風儀信州より上分の風俗也。然ども詰る所之意地少、信濃よりは不足也。其譬を云に、人之気上分成。故に免す所の気有て我と我が非を少き也と小罪を免じてなすが如し。小罪をなす時は、後大罪に及ぶ事眼前也。然れば信濃の風俗上下ともに弓箭を取れば負て気の屈する事なく、亦出て先悔をすゝがんとはげむが如く此国は二三度も如斯なれども、後には理非を談じて不入。剛気なれば人数を損せんよりは戦を可止などゝ半より能分別発て差置く等の風儀に而しまりすくなく而。亦、邑楽、群馬、甘羅、多胡、緑野、那波、山田等之郡の風俗は、一気勢に而一人気をはけませば、諸人気を一に而一同しぬ。一人来を縮め気をくぢかれて退く気は諸人其気に同ずるの類の風儀也。雖然根性は徹したる心あれども気質の変につながるゝ事余にこへたり。(人国記)
上野国地名解説
上野国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
厩橋(うまやばし)
群馬県前橋市。
城下町。
厩橋は「うまやばし」あるいは「まやばし」と言われた。戦国の乱世となった天文二十年(1551)関東管領上杉憲政は小田原の北条氏に追放され、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに走る。上州一帯は北条氏の支配下に入り、厩橋城主長野賢忠も北条氏に城を明け渡し、密かに越後の上杉謙信と通じて厩橋城奪回の機会をうかがっていた。永禄三年(1560)関東管領職を継いだ上杉謙信は大軍を率いて上州に進出、厩橋城を攻め落とし長野賢忠を城代とした。上杉謙信は天正六年(1578)に亡くなるまでの18年間、厩橋城を拠点として関東へ出陣すること十数回に及んだという。上杉謙信が死去すると、甲斐の武田勝頼が厩橋城を攻め落としたが、その武田勝頼も天正十年(1582)織田信長に滅ぼされ、信長の重臣滝川一益が厩橋城主となる。慶次がいたのはこの時で父益氏と共にいた。しかし、同年、信長が本能寺の変で倒れると、滝川一益は上州を去り、厩橋城は再び小田原北条氏の持城となった。
天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡し、徳川家康が関八州を与えられて江戸城に入城すると、平岩親吉が三万三千石で厩橋城主になる。その後、慶長六年(1601)酒井重忠が武蔵川越から入封。酒井氏は三代にわたって城を大改修して近世城郭を築き上げ、厩橋を前橋と改称した。酒井氏の治世は九代、150年間続いたが、寛永二年(1749)播磨姫路へ転封。代わって武蔵川越から松平直克が十七万石で入封、以後、前橋は松平氏二代の所領として明治維新を迎える。
『一夢庵風流記』
この厩橋は慶次が愛馬「松風」と出会った地だ。厩橋あたりは平安中期には上野の国群馬(くるま)の郡あるいは駅家(うまや)の郷と呼ばれていた。馬に縁のある地名には相違ないようだが、群馬という地名は上野の国造車持氏からきたといわれる久留馬という地名に由来するらしい。後に馬が群れると書かれるようになった。日本には本来の意味での野生馬はいなかったが、大陸を原産とする馬が家畜化され半島を経由して日本にもたらされたのはかなり古く、十世紀初頭の延喜式に「馬医寮」の設置が記されている。その後馬は牛と共に荷役に使われたり乗り物として重宝され、全国に広まった。やがて武士の台頭とともに戦に欠かせぬものとなり、各地の豪族によって、より丈夫な馬へと交配改良されていく。代表的な改良種として今日にも知られているのが南部馬、三春馬、木曽馬そして島原、鹿児島産馬だ。木曽以外はいずれも京の都から遠く離れた地で、優良種が開発されている。当時、馬は牧と呼ばれる広大な牧場で半ば放し飼いのように飼われていた。そうした馬の中には、牧から離れ原野で野生化したものも多いといわれている。そんな馬が群れている姿から、「くるま」を群馬という字に当てたとも考えられる。慶次が広い山峡の地で一人寝そべって松風を待ったのは、厩橋から北西の方角にある榛名山の裾野の広大な原野だろう。
残念ながら、この前橋には滝川一族の遺構は残っていない。そればかりか関東管領上杉謙信などの中世所縁の遺構も無い。
高崎(たかさき)
高崎城の城下町。宿場町。
飛鳥時代、大豪族であった上毛野(かみつけぬ)氏の一族が高崎近辺を支配していたといわれる。今もこれら豪族の古墳は残っている。鎌倉時代になると、鎌倉幕府の別当職・和田氏がこの辺りを治めた。家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人、井伊直政は上野箕輪に配置され、和田の地を城地に選んで高崎と名付け、高崎藩が成立する。
以後、何代もの城主が替わった(井伊、酒井、松平戸田、松平藤井)が、安藤重信が入城した1619年(元和5年)ようやく落ち着いた。その後1695年(元禄8年)、松平(大河内)輝貞が高崎城主となり、一時間部詮房が入るが再び松平(大河内)輝貞が入り、以後大河内氏の治世は10代にわたり明治維新まで続く。高崎は城下町として、また中山道、三国街道の宿場町として繁栄することとなる。江戸中期ごろの高崎の繁栄ぶりは、「お江戸見たけりゃ、高崎田町……」と歌われたという。
『鬼麿斬人剣』
師匠清麿の遺言を果たすべく、江戸を立った鬼麿は中山道を北へと下り、この高崎の町に入った。ここで鬼麿は数打ちの贋作一振りを清麿が作ったことを突き止め、その刀の所有者高崎藩勘定家老野末頼母の屋敷へと向かった。
下野国
下野国(しもつけのくに) 現・栃木県
古代の毛野国 (けぬのくに) の分割によって、現在の栃木県西南部にいたる下毛野国 (しもつけぬのくに) として成立した。7世紀に東北部の那須国をあわせ、現在までの領域が確定した。野州と呼ばれる。
[国府]
現在の栃木市田村町にあり、遺跡が発掘されている。
[守護所]
下野の豪族たちはこぞって頼朝の御家人となったことから、地方豪族だった小山氏や宇都宮氏・那須氏が勢力を揮い、宇都宮氏が下野国守護職に任ぜられている。
[幕藩体制確立後]
日光・下野天領が置かれ、日光奉行が支配した。
宇都宮藩七万八百石を筆頭に、烏山藩三万石、壬生藩三万石、黒羽藩一万八千石、佐野藩一万六千石、大田原藩一万千四百石、高徳藩一万千百石、足利藩一万千石、吹上藩一万石、喜連川藩五千石が置かれた。
下野国
下野国之風俗多くは気質に清之内之濁を得たる人多して、其清濁流通する事なく、而邪気甚く傍若無人に而、常に業とする事辻切強盗之類にて、少も耻る事なく、慾心有てつれなく、而も悪を知て直なる事を不用、如形風俗悪し。然ども其気の強き事は上方の国五ヶ国七ヶ国合たるよりは猶も上成べけれども、更に理非を弁る事なきが故に、法外のみ多し。子細は理非くらきが故に、耻を知る事鮮く、亦耻ましき事にも耻るは其闇きが故也。如此人百人に九十人也。取分、芳賀、寒川、塩屋、那須、真壁之人如此也。(人国記)
下野国地名解説
下野国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
足利(あしかが)
下野国足利郡。栃木県足利市。
足利氏発祥の地。この足利の地を開拓し領していたのは、平将門の乱の平定のために関東に下向しそのまま定着した藤原秀郷の末孫だったが、その後地方官として関東に下向した源氏勢力に圧倒され、恭順の証として源義家に寄進された。その後、義家から義国へ伝えられ、義国が足利荘に住したことから、義国は足利式部大夫と呼ばれる。その義国の二男義康が足利荘を継ぎ、足利氏を名乗った。
足利荘(あしかがのしょう)
関東に下向した藤原氏が開発し荘園として領していたが、源氏の勢力が関東に及び、足利荘は源義家に寄進される。その後、義家から義国に伝えられ、義国の二男義康が継いだ。義康は足利を名乗り京都に出て鳥羽上皇に仕え、足利荘は上皇の皇女八条院に寄進された。こうして足利荘は上皇の権勢を得るために本家が八条院となるが、実際に管理していたのは義康の子義兼だった。
足利学校(あしかがのがっこう)
関足利(昌平町)にあった鎌倉・室町時代唯一の学校施設。創設者は小野篁・足利義兼などと云われて定かではない。一時衰えかけるが、関東管領上杉憲実が、書物の寄進・僧(教授)の招聘を行い学校を再興した。室町期になると学校は盛況となり、天文十八年(1549)には、来日したフランシスコ・ザビエルが「坂東に大学あり」とインド・ゴアのポルトガル政庁に報告するまでになった。主に易学・兵学・医学を教え、そこで学んだ者たちは、戦国大名らに盛んに用いられたと云う。しかし、江戸期に入ると学問の主流が宗学に移ったことから、次第に衰えていった。(『伽婢子』地名索引より)
足利学校の創建については、奈良時代の国学遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあり不明。歴史に顕われるのは、室町時代の関東管領上杉憲実が、書籍を寄進し、庠主(学長)制度を設けるなどを行うなどの事蹟で、憲実は足利学校を中興した人物とされる。
鎌倉建長寺の住持玉隠永興は、長享元年(1487)の詩文の中で「足利の学校には諸国から学徒が集り学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」と詠っている。
また天文十九年(1550)にはフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介し、「学徒三千」といわれるほどになる。しかし、江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治五年その幕を降ろした。
史跡足利学校参観案内
参観時間/4月〜9月 午前9時〜午後5時:10月〜3月 午前9時〜午後4時30分(受付はそれぞれ閉館時間の30分前まで)
休館日/第3月曜日(祝日、休日のときは翌日):年末年始(12月29日〜1月3日)
参観料/一般400円・高校生210円「足利学校」(史跡足利学校事務所発行パンフレット)より
所在地/栃木県足利市昌平町2338
栃木(とちぎ)
栃木城の城下。
この栃木の地は、下野の国皆川の庄といった。皆川氏は、平安中期、この地に勢力をふるっていた豪族藤原秀郷の裔小山政光の子宗政が新しく長沼氏を興し、寛喜年間その子宗員が皆川庄の地頭となり皆川氏を称する事から始る。
藤原秀郷は、国司に逆らい度々の狼藉におよび、同族の者等と朝廷から配流の処分を受けるなどの乱暴者だったようだ。ところが天慶三年(940)、関東で平将門が乱を起すと、将門追討のため朝廷から遣わされた平貞盛に協力する。その時、秀郷は押領使(おうりょうし)に任ぜられ、将門を下野国と下総国(現茨城県)で破り乱を平定。この功により、彼は同年三月従四位下に叙され、十一月に下野守に任ぜられた。こうしてこの地方に勢力をはった秀郷の子孫は、佐野・足利・小山・結城といった諸氏の祖になった。ちなみに後の越前宰相となる結城秀康(家康の次男)の養親結城晴朝は、この秀郷の裔となる。
こうして小山氏から別れて皆川氏が誕生するが、六代目にあたる皆川宗常(宗経)が時の権力者、鎌倉幕府の執権北条高時にそむき、元亨三年(1323)、その領地を没収され皆川氏は一旦滅びる。その後、この辺り諸説あるが、宗員の甥長沼秀行の子孫にあたる長沼秀光が皆川氏を再興し、皆川城にあって皆川の庄50余郷を領したという。
皆川広照はこの子孫で、祖父成勝の代に山城守に任ぜられている。広照の時代、この地は北上してくる小田原の北条氏、越後より上杉氏、東北方面より宇都宮氏、東方からは佐竹氏とそれぞれの勢力が進出を図り、戦戈が絶えず、その中で生き延びるにはかなりの知恵が必要だったと思われる。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻略の際、広照は北条氏との盟約により小田原城に入り、その留守中豊臣方派遣軍に攻められて皆川城は落城した。しかし徳川家康によしみを通じていた事もあり、真先に降伏し本領を安堵される。こうして生き延びた広照は、天正十九年(1591)から本格的に栃木城を構築。町づくりを行い、現在の栃木の基を築いた。
翌文禄元年(1592)、お茶阿の方が家康の第六子辰千代(忠輝)を産む。辰千代は産まれた時、その色黒く、目が逆さまに裂けていて家康は「鬼ッ子」として嫌い、捨てるように命じた。その「鬼っ子さま」が拾われて行った先は、こうした地方大名の皆川家だった。
『捨て童子松平忠輝』
辰千代六歳の時、領内の川で遊んでいる所を大久保長安の手代雨宮次郎右衛門とその連れ才兵衛に出会った。
奈須野(なすの)
原野の名。那須野。
下野国那須郡那須郷(栃木県那須郡那須村)で、大岳の東南麓にある野。古代より那須の湯と称された鉱泉が湧出し、貴族らの湯治所として知られる。鉱泉が出る山陰に殺生石という毒性の強い石があり、謡曲「殺生石」等で有名な玉藻前伝説を生んだ。金毛白面九尾の妖狐が、天竺・唐にて美妃に化け国王を悩ませたが、素性がばれ、大和に逃れて鳥羽天皇の寵姫となる。しかし陰陽師安倍泰成に看破され、当地に逃れて石となり、玄翁和尚の法力で打ち割られ、それ以後妖力が絶えたと云い伝えられた。
玉藻の前(たまものまえ)
三国伝来の金毛九尾の妖狐渡来し、玉藻の前となり近衛天皇の愛寵を受けたが、安倍泰成に調伏され下野の那須野に逃げ、三浦介義明等に殺された。怨霊は殺生石となり源翁和尚の拄杖により砕け去った。黒羽の川西町篠原神社境内に狐塚がある。
殺生石(せっしょうせき)
栃木県那須郡黒羽町の西北六里湯本にある。
「凡七尺四方高さ四尺余、色赤黒し・・・十間四方に囲て諸人不入」とあり。前出の玉藻の前が死してこの石に化したと伝える。
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂.蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
と『おくのほそ道』にも書かれた。
日光(にっこう)
信仰山の名。
日光山五十三代座主天海が家康の廟を久能山よりここに移し、東照宮を造営。三代将軍家光の時(寛永十三年)改造がなり、今日のようになった。山名の日光山は、元は二荒山といったが、延暦年間、勝道上人がここに開基した時に、山名を「日光山」と改めた。
俗に空海の開基と言い伝えられるが、これは空海が勝道上人の依頼で「普陀洛山記」(遍照発揮性霊集)を書いたことから、後世空海の開基、ならびに日光改称の誤伝が生じたとされる。
『おくのほそ道』「日光」の項で、
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山(ふたらさん)と書しを、空海大師開基の時日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
と書き、
- あらたうと青葉若葉の日の光
と詠んだ。
ちなみに元の山名の「二荒山」は、普陀洛山の音をとった名で、後にこの山を開いた勝道上人が「二荒」を「にこう」と読み、それに「日光」の文字を当て、現在の「日光」の名となった。
男体山(なんたいさん)
黒髪山といった。
『おくのほそ道』に、
黒髪山は霞かゝりて雪いまだ白し。
剃捨て黒髪山に衣更 曾良
とある。
室の八島(むろのやしま)
社の名。
下野国下都賀郡国府村総社にある大神(おおみわ)神社。室八島明神ともいう。
『おくのほそ道』に、
室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一体也。無戸室(うつむろ)に入て焼給ふちかひのみ中に、火〃出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也。」将このしろといふ魚を禁ず縁記の旨世に伝ふ事も侍し。
とある。
出羽国
出羽国(でわのくに) 現・山形県/秋田県
出羽の起源は、和銅元年 (708) 9月28日に、越後国に設置された出羽郡である。和銅五年 (712) 9月23日に出羽国に昇格し、後に陸奥国から置賜郡と最上郡を加えて国としての体制が整う。なお、平安時代まで、出羽は「いでは」と読んでいた。羽州と呼ばれる。
奥羽地方への大和政権の領土拡張は、この地方に目を向けた大王斉明による越の国守阿部比羅夫の奥州遠征(657)から始まった。その侵略は日本海を北上して鰐田(現秋田市付近)、淳代(現能代市付近)に上陸、その軍事的圧力でアイヌの族長を従わせながらに北上し、津軽、渡島(北海道渡島半島)に及んだ。こうして飛地的に淳代、津軽の二郡を設け、従属したアイヌの族長を郡領に任じている。一方、越後国から進出し、和銅元年(708)には庄内平野に出羽郡を設け、蝦夷地との境となる出羽柵を羽越国境から最上河口に移設。その後も出羽国の設置とともに領地拡大のための北上は続けられ、出羽柵もそれに従って北上し、天平五年(733)には秋田村高清水岡に移され、出羽国府も高清水岡に移され柵は秋田城として整備強化され、秋田城介と呼ばれる統治官も置かれた。しかし、大和政権の統治は安定しておらず、依然として先住民族アイヌの人々の生活圏であり、宝亀五年(774)には陸奥国海道(岩手県北上川流域)で起ったアイヌ民族の反乱は秋田地方にも及んだ。このアイヌの反乱で、朝廷は征夷大将軍に坂上田村麻呂を任じ、文屋綿麻呂らを征討に向わせた。この奥州合戦で、軍事的には一段落ついたが、領民の三分の一が奥地に逃亡する。このため、残された住民の租税負担が重くなり、その不満が爆発し、元慶(がんぎょう)二年(878)、突然アイヌ民の蜂起が起り秋田城は壊滅的な打撃を受けた(元慶の乱)。この乱は一年後、鎮守府将軍小野春風によって鎮圧されるが、雄物川以北はほとんどアイヌ民に制圧された。それからおよそ六十年後(939)には天慶(てんぎょう)の乱が起り、アイヌ民の団結が強まった。
その一方、アイヌと共存し交易を行う倭人が現れ、交易で富と力を蓄えた倭人はそれぞれの地に根を下ろし豪族化する。十一世紀には安倍氏、清原氏など中央政権とはかかわりのない大豪族も現れた。大和朝廷はそれらの豪族を臣下に治めようとするが、陸奥の豪族安倍氏はそれに従わず、十一世紀中頃には中央に対して反乱を起こしている。
それの平定に、先に板東で反乱を起こした平忠常の乱(長元の乱)を平定した源頼義を征討に向わせるが苦戦、出羽の豪族清原氏の援軍を得てようやく安倍氏を制圧した(前九年の役)。この役で安倍氏の旧領をも手中に収めた清原氏が、奥羽の支配権を握った。東北地方の広大な地を支配した清原氏は、同族連合の形でこの地方を治めていたが、三代真衡の時、同族間の争いが起る(後三年の役)。これは専制政治を強めようとする真衡に反発した吉彦秀武がまず兵を挙げ、真衡の異母兄弟家衡・清衡を誘って真衡に反抗した。やがて真衡が没し、内乱は家衡と清衡の主導権争いに発展。叔父武衡らと金沢柵(現横手市金沢)に立て籠った家衡に対し、清衡は陸奥守源義家の援軍を得て家衡を滅ぼす。こうして東北の覇者となった清衡は、藤原姓を名乗り平泉に本拠を構え、陸奥・出羽に君臨し独自の平泉文化を築いた奥州藤原氏の祖となった。
明治元年(1868) 12月7日に、現在の山形県にほぼ相当する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に分割された。
[国府]
はじめ出羽郡と同じく庄内平野にあったと考えられているが、所在は不明。天平五年 (733) に秋田高清水岡 (現在の秋田城跡) に移ったが、その後の移転には諸説ある。最終的には庄内平野の城輪柵跡に移ったらしいと云われる。
[守護所]
守護は置かれず、各地の荘に地頭が置かれた。その代表的存在が寒河江長井荘に入った大江氏で、後に足利政権によって出羽按察使として最上に入った斯波(最上)氏と対立、やがて地頭として入った大江氏ら国人領主は最上氏に滅ぼされる。
[幕藩体制確立後]
【旧羽前国域】米沢藩十四万石(当初は三十万石)を筆頭に、鶴岡藩十二万石、新庄藩六万八千二百石、山形藩五万石、上山藩二万七千石、天童藩一万八千石、長瀞藩一万一千石、米沢新田藩一万石が置かれた。
【旧羽後国域】松山藩二万二千五百石が置かれた。(以上山形県内)
久保田藩二十万五千八百石、秋田新田藩二万石、本庄藩二万石、亀田藩一万八千石、矢島藩一万五千二百石が置かれた。(以上秋田県内)
出羽国
出羽国之風俗は奥州に大体不替也。然ども奥州之風儀よりは律儀なる処有て知も亦上也。武士は我主親へ忠孝之志有て、下を使ふ之法を沙汰し、下臈は上をうやまふ心有。百姓は地頭を頼む心入有て、他之村郷之者我頭を誹るを聞ては、則勝負を付るの類にて、寔に頼母敷しほらしく有之所多く有也。蓋し此国之者都而我国は遠国偏土に而かたくなき国風成。故耻け敷き事などゝ云風俗なり。因茲奥出両国之者は四民ともに礼厚きなり。本奥出の両国は一国を割り出したる国と云伝へたり。(人国記)
出羽国地名解説
出羽国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
角館(かくのだて)
角館城の城下町として形成された。
みちのくの小京都と呼ばれる角館町は、元和六年(1620)芦名義勝によってつくられ、秋田藩のなかで最も大きな城下町として発展してきた。武家町と町人町に分けられた町並みは、380余年を経た現在もほとんど変わらず、まさに歴史の息づく町となっている。
仙北、北浦地方は応永年間(1423)頃より戸沢氏が勢いを増し、戸沢盛安の代に秀吉の小田原参陣、その後の奥州仕置によって、角館の地に四万四千石の大名として認められた。仙北北浦郡とも称し、太閤検地の際には豊臣秀吉も「出羽国仙北之内北浦郡」として四万石余りを認知している。後年、山本郡および仙北郡と改称されるが、その名は北浦地方や前北浦・奥北浦などとして今に残っている。角館の名前はこの太閤検地の際に歴史に登場し、関ヶ原後の大名配置により戸沢氏は常陸へ(後に新庄へ)、秋田には佐竹義宣が入り、角館にはかつて会津の雄であった名族芦名義勝(佐竹義宣の弟)が佐竹氏より一万五千石を与えられ居住することになった。
『一夢庵風流記』
上記の太閤検地の実行部隊が上杉景勝率いる上杉勢で、慶次郎は直江兼続とともにこの角館を訪れた。
出羽三山(でわさんざん)
標高1984mの月山と、その南西にある湯殿山、北西の離れた所にある羽黒山の総称。
中世以来山岳信仰の霊山とされ、修験道場として東北・関東各地からの白衣の行者で賑わった。開山は崇峻天皇の第一皇子峰子皇子と伝え、修験道の祖とされる役行者も入峰したと伝えられている。三山がまとまって信仰の対象となったのは中世後期といい、それ以前は湯殿山を奥の院として月山・羽黒山・鳥海山をもって三山としたり、月山・羽黒山.葉山を三山としたこともあった。
米沢(よねざわ)
米沢城の城下町。
この米沢は、天正十九年(1591)、秀吉の命により奥羽鎮護となった蒲生氏郷が、米沢城三万八千石を蒲生郷安に配し支配させていた。氏郷の死により秀行が跡を継ぐが、慶長三年(1598)、秀吉から宇都宮移封を命ぜられる。蒲生氏が米沢地方を支配したのはこの間わずか八年間だけであった。
一方、上杉景勝は秀吉の命を受けて越後領国を転じ奥羽会津若松百二十万石の所領となる。米沢地方は執政直江兼続の知行地となり、兼続の手によって今日の米沢の町づくりの基礎がなされることになったのである。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに、上杉景勝は結果として西軍に味方したということになり、慶長六年(1601)、会津百二十万石から上杉氏の執政直江兼続の知行地だった米沢三十万石に減削移封された。そして兼続は、生涯の友となった慶次郎を京から呼び寄せたのであった。
さすがにこの米沢には、慶次郎ゆかりの史蹟が数多く残っている。
慶次清水(けいじしみず)
米沢市万世町堂森。堂森善光寺の西、八幡原野球場裏にある慶次清水。現在は雑木林の中、わずかに水が湧きでている池があるだけだが、江戸初期に「かぶきもの」として知られる前田慶次がここに庵(無苦庵)を結んだ所から、慶次清水と呼ばれている。
[前田慶次郎関連施設]
宮坂考古館
米沢市東一丁目の宮坂考古館は、上杉家から譲り受けた貴重な甲胄を数多く展示しているが、その中で最も目立つのが前田慶次郎の甲胄だ。正式の名称は 『紫色威赤塗五枚胴具足(むらさきいろおどしあかぬりごまいどうぐそく)』。赤塗りの派手な胴と草摺(くさずり)、兜は笠形、袖は金色の鱗形といった異風で、いかにも慶次郎好みの甲胄。また、籠手や佩楯(はいたて)は鉄の鎖繋ぎで、実践にも適した造りになっている。
陸奥国
陸奥国(むつのくに) 現・福島県/宮城県/岩手県/青森県
始め道奥(みちのおく)といい、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。
道奥国は、7世紀に常陸国から分立して、太平洋側の北辺に設置された。設置時の範囲は、福島県の東南の隅(菊多郡)を欠く部分と、山形県の中部(最上郡)と南部(置賜郡)を含み、北は宮城県中部まで。その先は朝廷の権力の及ばぬ蝦夷地だったが、領土の拡大とともに、陸奥の領域も北に拡大し、最終的には広大な国になった。奥州と呼ばれる。
明治元年 (1868年) 12月7日に、陸奥国、陸中国、陸前国、岩代国、磐城国の五つに分割された。
[『塵袋』にある陸奥の記述]
一、陸奥国をみちのくにと云ふは、むつのおくと云ふべきを、あしくみてみちのくとは云ひなせるか、如何。
つねにはさぞおもひならはしたれど、六と云ふ所のなからんには、それがおくとも云ひにくきにや。其の上へ、日本記には、道奥とかきてみちのくとよめり。陸はくがのみちと云ふ心にて、みち東のおくと云はむとにや。東山道の国なれば、などかくがのみちともいはざらん。(『塵袋』一)
[国府]
当初、現在の名取市にある郡山遺跡にあったと推測される。神亀元 (724)年に多賀城(現多賀城市)が建設されると同時に、国府もここに移り、これ以後10世紀に廃絶するまで動かなかった。
[守護所]
守護は置かれず、各荘に地頭を配し分治した。代表的な例として、白河には結城朝光、行方に相馬師常、伊達に中村(伊達)朝宗、会津に佐原(芦名)義連など、また荘園領主だった岩城氏、田村氏、石川氏は所領を安堵されている。
[幕藩体制確立後]
【旧岩代国(石背)】会津藩(二十三万石+五万石)を中心に、白河藩(十万石)、棚倉藩(六万石)、二本松藩(五万石)、三春藩(五万石)、福島藩(三万石)、守山藩(二万九千三百石)、下手渡藩(一万石)が置かれた。
【旧磐城国(石城)】中村藩(六万石)、磐城平藩(三万石)、泉藩(一万八千石)、湯長谷藩(一万四千石)が置かれた。(以上福島県内)
【旧陸前国】【旧陸中国】
仙台藩二十八万石が置かれた。
陸中の過半には陸奥天領が置かれた。(以上宮城県内)
【旧陸奥国】
陸奥天領が置かれた。
盛岡藩十三万石、一関藩二万七千石が置かれた。(以上岩手県内)
津軽藩十万石、斗藩三万石、八戸藩二万石、盛岡新田藩一万三百石、黒石藩一万石が置かれた。(以上青森県内)
陸奥国
陸奥国の風俗は日本の偏鄙成故に人の気の行詰りて気質のかたより其尖なる事万丈の岩壁を見が如に、而邂逅道理を知るといへども、改て知ると云事すくなく、たとへ知るといへども江の水の流なくて塵芥之積りて清る事なきが如し。さるほどに名人の名を呼ぶ程の人は不得聞を也。末代以て如此成べし。右之如之気質故、頼母敷ところ有て、亦なさけなき風俗也。五十四郡の内いづれも二つ三つに少づゝ風俗分れたれども、大枢に替る事なく如此。
此国の人は日の本の故也。色白くして眼の色青き事多し。人の形儀いやしふ而、物語卑劣なれども、勇気正き事日本に可劣国とも不被思也因茲也。朋友無益討果、主君へ志を忘、父母へ孝を忘などする類不知其数。雖然男子上下ともに勇を以て本とする処なれば、偏鄙偏屈なりといへども潔き意地あって耻を知、故是を善とす。女之風俗色白くまみ長く、而其顔色もうるはしきといへども、其形儀音声更に述に不及して悪き也。此国の上臈と上方の下臈と其甲乙を云ふに上方の下臈女房にも嘗て不及也。然ども心底はやさしく情有て気の正き事も上方の男よりもはる/\上なり。
惣而此国出羽、上総、下総、常陸、上野、下野之類大形は人の音声上は拍子也。然る故に心に佞成事なくて差当る所之儀のみ大形に勤ると可知。然故に毎物至て思案工夫分別する事鮮き事千人に九百人如此也。若又智有て気質之変を去らんと志し勤る人有といへども其理之内之陽を取て以て是を用てなす故に、何事も強身なり。取分て牡鹿郡、栽鹿、角階、上津軽、宇多郡之人は兎角そこつあらましなる風俗なり。(人国記)
陸奥国地名解説
陸奥国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
会津(あいづ)
崇神天皇の十年(88)、この阿倍氏の祖大彦命父子が、それぞれ北陸道、東海道将軍として東征にあたり、この両将が合流した地を「相津」といったことから、相津(会津)の地名が起ったとされる。
会津若松(あいづわかまつ)
会津藩の藩都。福島県会津若松市。
若松城の城下町。
会津の地は戦国期には芦名氏の所領であったが、後に伊達政宗の割拠するところとなり、秀吉の奥州処分で蒲生氏郷の所領となった。氏郷没後、上杉景勝が百二十万石をもって越後春日山より移封。関ヶ原処分の結果、上杉氏は米沢三十万石に減転封、宇都宮から蒲生氏が戻るが嗣子なく断絶、加藤嘉明が伊予松山より入封するがこれも家中騒動で収公される。このように主家が度々変るが、二代将軍秀忠の庶子で、家光の実弟、保科正之が入封するにあたってようやく藩主家の安定を見る。
会津若松は奥羽の外様各藩を押さえる扇の要であり、信頼篤い譜代大名を配置する必要があった。保科正之は、叔父として幼い四代将軍家綱を実直に補佐し幕政でも活躍。この保科正之を藩祖として幕末の容保まで、ご家門親藩の中でも越前松平家に次ぐ家格の大名家として幕府の柱石となる。
わずかな上杉統治時代に、「いくさ人」前田慶次郎は東奔西走することとなる。映画『城取り』で伊達氏の出城を攻めたのもこの時期だろう。伊達氏との和睦中に、出羽の最上氏と戦うことになる上杉勢の先鋒が、直江兼続指揮する精鋭部隊。兼続あるところ慶次郎ありで、この最上氏との戦で存分に本領を発揮する。なかでも、東北の関ヶ原の戦いとも言われる「長谷堂合戦」が有名だ。この長谷堂城包囲中に関ヶ原で西軍が敗北し、徳川勢の反攻を懸念した上杉勢は自領防備のため退却を余儀無くされた。その退却戦のどん尻を務めるのも慶次郎たちだった。
仙台(せんだい)
青葉城の城下町。
この奥州の地は、室町時代に奥州探題が置かれ、文和三年(1354)、足利氏から出た斯波家兼が奥州探題に任じ、ほぼ全奥州の統治権を握っていた。その斯波氏は大崎(現古川市大崎)に居を構え、大崎氏を名乗る。その大崎氏の被官として伊達・葛西・南部・留守・白河・葦名・岩城の諸氏が守護職あるいは守護代として各々の地を治めることとなる。やがて下克上の戦国時代になると、それぞれに覇を競い相争うこととなった。そうした中で、大崎氏は古川から仙台辺りまでを領するだけの一戦国大名となり、東北の雄となった伊達家とも姻戚関係があったことから、伊達の支援を受けながらも生き延びていた。
しかし、大崎・葛西両家は小田原攻めに参陣せず、北条を落した勢いで行った秀吉の奥州仕置で領地を没収される。そうして起きたのが葛西・大崎の一揆だった。政宗自身も参陣の遅れで、奪ったばかりの会津領を没収されていた。秀吉は伊達政宗と会津に入ったばかりの蒲生氏郷に一揆の鎮圧を命じた。この時、政宗は一揆を扇動したと疑われ、領土の一部を没収されるが代わりに一揆を鎮圧すれば葛西・大崎領を与えるという条件で許される。こうして天正十九年(1591)、政宗は一揆を鎮圧し葛西・大崎領を得た。
慶長三年(1598)、蒲生氏に替り上杉景勝が会津に入り、伊達家の旧領だった米沢に上杉家筆頭家老の直江兼続が入って来ると、その強力な上杉軍に脅威を感じた政宗は、居城としていた岩出山城では上杉氏に対抗する上で不利だと考え、より国境に近い地に居城を求めた。当初、候補地は榴ヶ岡、青葉山、日和山(一説には野手口)の三つがあったらしい。慶長五年(1600)、政宗は時の政府機関(この時期はまだ豊臣政権の五大老だった)に許可を求め、青葉山に許可が下りる。この青葉山には文禄元年(1592)まで国分彦九郎盛重が居住していた城が有り千代城と称していたが、伊達政宗は築城とともに「仙台」と改めた。こうして、城下町仙台が形成され現在に至っている。
下愛子(しもあやし)
忠輝と別れた五郎八姫は父政宗の庇護の下、城下から少し離れた下愛子の栗生(くりう)屋敷で晩年を過したという。
現在、そこには何も残ってはいない。ただ、青葉区内の地名として下愛子、栗生という名が残されているだけだ。
平泉(ひらいずみ)
奥州藤原氏の本拠地。
芭蕉の『おくのほそ道』に、
三代の栄燿一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有、秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。康衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の降のこしてや光堂
と書かれている。
松島(まつしま)
風光明媚な景勝地。日本三景の一。
芭蕉は『おくのほそ道』の中で、
日既午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島/\〃の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり。兒孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色窅然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
と書いている。

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