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伊賀国
伊賀国(いがのくに) 下国 現・三重県中西部
天武天皇9年 (680)に、伊勢国から分かれて成立。当初は二郡だったが、後に阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の四郡になった。
○伊賀国 国名、地名、其形勢によりて名付ける事は、今更云べきにも及ばず。中にも甲州は亀甲のごとく、隣国より高し。伊賀国は、伊勢、大和、山城の堺々は連山めぐり、自国には高山なく、いはゞ栗のえがのごとし。えが、いが、通へる故の名にや。(『即事考』)
伊賀国風土記に曰はく、伊賀の国は、往古、伊勢の国に属きき。大日本根子彦太瓊の天皇の御宇、癸酉の年、分けて伊賀の国と為しき。本この号は、伊賀津姫の領れる郡なり、依りて郡の名と為し、亦国の名と為しき。(總国風土記)
[国府]阿拝郡(現上野市坂之下国町)にあった。
[守護所]現在の上野市の東条・西条あたりが「府中(こふ)」と呼ばれていた事から、その当たりだと想定されている。
[幕藩体制確立後]
伊勢とともに藤堂(津)藩領となる。
伊賀国
伊賀之国の風俗、一圓実を失ひ、欲心深し。さるに因て地頭は百姓をたぶらかし、犯し掠めんとする事、日々夜々也。百姓は地頭を掠めん事を日夜思ひ、夢にだに義理と云事を不知が故に、武士之風俗猶以不被用也。(『人国記』)
伊賀国地名解説
伊賀国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
伊賀上野(いがうえの)
上野城の城下町。
この地には、慶長十三年(1608)に伊勢・伊賀二十二万石を与えられた藤堂高虎が、徳川家康の命により大阪方との決戦に備えて修築した上野城や忍者博物館、芭蕉翁記念館など観光スポットが数多くある。また、松尾芭蕉の生地でもあり、生家が現存する。
また、家康の「伊賀越えの御大難」(天正十年)から時を経ること52年、寛永十一年には『かくれさと苦界行』にも書かれている「鍵屋の辻の仇討」事件があり、その舞台ともなった鍵屋の辻はここ伊賀上野にある。
鍵屋の辻(かぎやのつじ)
現「鍵屋の辻史跡公園」
上野市北西部、伊勢街道と奈良街道の分岐点にある。
日本三大仇討ちのひとつ伊賀越仇討のあった場所として知られている県史跡。園内には荒木又右衛門自筆の起請文、助太刀の事情を書いた記録、仇討ち当時の遺品や文学となった資料のほか、豊国作の伊賀越え仇討ちの錦絵などを展示する伊賀越資料館や数馬茶屋などがある。
隠れているのによくて敵の逃道の無いそして味方に足がかりのいい所を選ばなくてはならぬ。探(たず)ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処には数馬の知人もいる。三ツ辻、俗に鍵屋の辻ともいうが突当りが石垣で、右角の茶店が万屋(よろずや)喜右衛門、右へ曲ると塔世坂(とうせざか)という坂があって町へ入る。左角が鍵屋三右衛門、角を折れると北谷口から城の裏へ出る事が出来る。
「此処がいい。左右に分れて隠れる事が出来るし、先が曲ってしまえば、後の出来事は判らない。ここで逃路を切取って二人が前から懸れぱ袋の鼠に出来る。武右衛門と孫右衛門は鍵屋の角で隠れて敵の逃げるを斬るがいい。もし先立って甚左か半兵衛が来たなら二人でかかれ。私は最後の奴を斬捨てて下人共を追散そう。数馬はただ又五郎一人にかかって余人に振向くな、余人は又右衛門が必ず一人で食止めるから。それからくれぐれも云っておくが、もし半兵衛が先に来たら武右衛門、決して槍をとらすな。半兵衛を斬るか槍持を斬るかとにかく槍を執らさぬ手段をするがいい。斬込む合図は私が後の奴を斬ると同時だ。三人一度に目指す者にかかれ」
こういう指図であったらしい。十一月七日の早朝だから寒空である。又五郎の一行を待つ為めに四人は万屋へ入った。(直木三十五『鍵屋の辻』より)
交通/近鉄「西大手」駅下車徒歩7分
伊勢国
伊勢国(いせのくに) 中国 現・三重県北部
7世紀の孝徳天皇の時代に、後の志摩国、伊賀国の範囲を含んだ一国として成立した。勢州(せいしゅう)と呼ばれる。
伊勢国風土記に云はく、それ伊勢の国は、天の御中主の尊の十二世の孫、天の日別の命の平治けし所なり。天の日別の命は、神倭磐余彦の天皇、かの西の宮よりこの東の州を征ち給ひし時、天皇に随ひて紀伊の国の熊野の村に到りき。時に、金の鳥の導きのまにま、中州に入りて莵田の下縣に到りき。天皇、大部日臣の命に勅り給ひしく、「逆党膽駒(あたいこま)の長髓を早く征ち罰めよ」と勅り給ひき。すなはち亦、天の日別の命に勅り給ひしく、「天つ方に国あり、その国を平けよ」と勅り給ひて、すなはち標の劒を賜ひき。その邑に神あり、名を伊勢津彦といひき。天の日別の命問ひけらく、「汝の国を天孫に献りなむか」といひき。答へて云ひしく、「吾はこの国を筧ぎて居住ること日久し。命をばえ聞かじ」と云しき。天の日別の命、兵を発してその神を戮さむとしき。時に畏みて伏して啓しけらく、「吾が国はこと/\〃に天孫に献らむ。吾は敢へて居らじ」と申しき。天の日別の命、問はしけらく、「汝が去らむ時、何を以ちてか験と為さむ」といひき。啓曰しけらく、「吾は今夜、八風を起して海の水を吹き、波浪に乗りて東に入らむ。これすなはち、吾が却る由なり」とまをしき。天の日別の命、兵を整へて窺ひしに、中夜に及る比、大風四に起りて波瀾を扇挙げ、日の如光り耀きて陸国も海も共に朗に、遂に波に乗りて東にさりき。古語に、神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりといへるは、蓋しこの謂なり。(伊勢津彦の神は近く信濃の国に住ましめき。)天の日別の命、この国を懷け築きて、天皇に復命しき。天皇、大く歓びて詔り給ひしく、「国は国つ神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給ひて、やがて天の日別の命の村をこの国に為り、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき。(或る本に云はく、天の日別の命、詔を奉りて熊野の村より直ちに伊勢の国に入り、荒ぶる神を殺戮して、まつろはぬものをつみなひ、山川を堺し地邑を定め、さて後に橿原の宮にかへりごと申しき。)(釋日本紀二十三)
伊勢国風土記に云はく、伊勢と云ふは、伊賀の事志の社に坐す神、出雲の神の子出雲の建子の命、又の名は伊勢都彦の命、又の名は櫛玉の命、この神、昔、石もて城を造りてここに坐しき。ここに、阿倍志彦の神、来り集ひ、勝たずして還り却きき。因りて名と為しき云々。(日本書紀私見聞)
[国府]鈴鹿郡広瀬(現鈴鹿市広瀬町長者屋敷)にあった。
[守護所]「吾妻鏡」の1429年10月28日の条が初見であるが、場所は不明
[幕藩体制確立後]
伊勢神宮を管轄する天領が置かれ山田奉行が支配。
津藩(三十二万三千九百石)を筆頭に、桑名藩(十一万石)、亀山藩(六万石)、久居藩(五万三千石)、長島藩(二万石)、神戸藩(一万五千石)、菰野藩(一万一千石)が置かれた。
伊勢国
伊勢国之風俗は、南伊勢、北伊勢とて有之。同じ国之中にても南伊勢之作法は諸人の心入土にて作りたる器を漆を以て能くぬり、其上を金銀を以て色どりたるに不異。誠に毎物詞之体はしおらしく、柳の枝に雪折なんと云心にて、山城之人同前なれ共、心底は飽まで慾深く、親は子をたばかり、子は親を謀事を以て本とす。実少もなし。心万事に付てきたなき意地に而侍も、入きたたく下々を情なくつかひ、愛する心は微塵も無之。亦下々は主を当座之光陰送る為に頼みにするとのみ思ひて、主下之法之弁も無きは、偏意地きたなきより発りたる事也。諸事頼無之也。偖亦北伊勢之風俗は南伊勢とは替りて、人の心能き所も多し。
是も譬を以て是を云に、雑木を以て万器を作り、其上を漆を以荘ひらるに、不異。然者土を以て作りたる器を漆を以て荘ひたるよりは、はる/\違たるものなり。是に因て侍の風儀もしをらしき処有て、義理も知りたれども、根性之処は雑木を以作りたる器之如なれば、根のとくる人鮮し。都而上方之内別而京。伊勢の風儀女人之形荘最善し。男は心不定、而頼すくなし。乱世之時は昨日味方たりし人も今日は敵となり、主は被官に被見放、子は親を捨て敵と成の類は南伊勢之風俗也。北伊勢は約而違ふ事あれば、赤面をなす。意地あれば義を以是を可看。南伊勢は違乱、威厳を以是をしめさば、即時に可傾也。熨斗海蘿は天下に名高し但し。 口伝 (『人国記』)
伊勢国地名解説
伊勢国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
朝熊(あさま)
松平忠輝の流刑地。
伊勢朝熊の地は、現在の伊勢市朝熊(あさま)町で、国宝「伊勢朝熊山経ヶ峯経塚出土品」のある朝熊山金剛證寺や標高555mの朝熊山からの眺望など風光明媚な地として知られている。忠輝が配流の身となってこの地に来た時(元和二年)、この地方は隣の鳥羽市にある鳥羽城主九鬼守隆が五万五千石を持って領してした。
忠輝はこの守隆の元で二年ばかり暮すこととなる。その後、元和四(1618)年、飛騨高山城主金森出雲守重鎮に預け替えとなった。その高山の地も八年ほどで、三たび預け替えとなり寛永三(1626)年、諏訪城主諏訪因幡守頼水の地に移った。この諏訪の地が終焉の地となり、忠輝は天和三(1683)年、九十二歳で没した。
鈴鹿峠(すずかとうげ)
東海道に有る峠。三大難所の一つとされる。
鈴鹿峠は、一所懸命頑張ってもせいぜいそんなところという意味で使われる「関の山」の語源とされる「関」宿の隣宿「坂之下」宿から近江「土山」宿の間にある峠道。往時には数十軒の旅籠や本陣が軒を連ね賑わいを見せていた「坂之下」宿だが、昔日の面影は無く「本陣跡」や「脇本陣跡」などの石柱が立っているだけの小集落となっている。ここから半里ほどで鈴鹿八丁二十七曲と云われる鈴鹿越えの山道に入る。峠は海抜357mで、土山の方に傾斜はゆるく、関の方が嶮しく急な道だ。
現在、旧東海道は東海自然歩道として整備されている。この鈴鹿越えの道もハイキングコースとして訪れる人が絶えないとはいえ、往時の賑わいとまではゆかず、この道を歩く時はちゃんと山歩きの準備が必要のようだ。少なくとも食べ物や飲み物は持参しないと、数時間飲まず食わずとなる。
『かくれ里苦界行』
この山道を、かくれ色里の実態を調べるために松永誠一郎、幻斎、そして吉原首代一行は大坂新町に向うべく道を急いでいた。しかしこの山道で吉原衆の行く手を阻もうと待ち伏せする者がいた。その刺客は「お館さま」こと荒木又右衛門。誠一郎たちに先行して歩いていた野村玄意らがまっ先に又右衛門と遭遇し、吉原守護の要となっていた玄意はこの地で又右衛門の剣に倒れる。
長島(ながしま)
寺内。門前町。
長島町は三重県の東北端に位置し、東は木曽川を境に愛知県及び木曽岬町に、北は長良川を境に岐阜県に、西は長良・揖斐両川を境に桑名市及び多度町に接する。海抜0m以下の土地が多く、デルタ地域の沖積地に一輪中を形成している。
長島が初めて歴史文献に現われてくるのは平安末期からで、その後「吾妻鏡」や「海道記」などに長島の地名が見られる。 寛元3年(1245年)前摂政藤原道家が長島の地に流され、西外面に八幡社を勧請し、館を構えて三年間居住。文明14年(1482年)、伊藤重晴がこの館跡に城砦を再営し長島を領有した。この頃長島は、七つの島から形成されていたという。 15世紀後半、蓮如は勢・濃・尾の浄土真宗教化拡充の拠点として、この要害の地長島に着目し、石山本願寺の勢力下にあった願證寺にその子蓮淳を置き長島御坊とした。その後、願證寺門徒らにより伊藤一族は滅ぼされ、長島は願證寺の領する所となる。しかし、天下人を目指す織田信長と門徒衆は対立し、三河、加賀、近江それぞれの地で信長と戦うこととなる(長島攻め)。当然門徒衆の拠点ともいえる長島も例外ではなかった。この長島一向一揆では、信長の軍勢を二度までは敗走させるも、天正二年、ついに三度目の戦いで九鬼水軍を動員して包囲を固めた信長の軍勢に敗れるのだった。
この三回目の戦いでは、長い対峙の末篠橋城が降伏し長島城も開城したが、中江城と屋長島城は頑なに抵抗を続ける。それに激怒した信長は、やがて降伏を申し入れに来た一揆衆を「許す」といいつつ、城の周りに幾重にも柵を設け、稲束や麦わらを山のように積み上げ火を放った。この業火の中で「南無阿弥陀仏」を唱えつつ焼け死んだ門徒の数、約2万人。こうして、長島一向一揆は悲惨な結末を迎えた。この時の戦いの様子は『影武者徳川家康』にも詳しい。
志摩国
志摩国(しまのくに) 下国 現・三重県志摩半島
伊勢国から分かれて成立。当初の領域は後代より南に伸び、海岸沿いに現在の紀伊長島町の辺りまで含んでいた。後に南端は紀伊国、その他の沿岸は伊勢国に編入され、志摩国には志摩半島だけが残された。
[国府]答志郡(現志摩郡阿児町国府)にあった。
[守護所]伊勢守護が兼ねていて、守護代が置かれた。
[幕藩体制確立後]
鳥羽藩(三万石)が置かれた。
志摩国
志摩国之風俗、凡そ伊賀伊勢に替る事なく、侍は兵器を身体よりは結構に而我館にならへ置き、諸朋友に見せて、己も驕の気を内に含み、人もさげしみ、我をあなどる事上下ともに皆如斯。下々は夫に応じて意地きたなし。不及書記之也。(『人国記」)
志摩国地名解説
志摩国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
尾張国
尾張国(おわりのくに) 現・愛知県西部
北隣の美濃国とは木曽川を国境としていて、当時の木曽川は今より北を流れていたため、尾張国は現在の愛知県よりは北に広かったという。尾州と呼ばれる。
風土記に云はく、日本武の尊、東の夷を征ちて当国に還り到り給ひ、帯ばせる剣を熱田の宮に蔵め給ひき。その剣は、もと八岐の巨蛇の尾より出でき。仍りて尾張の国といふ。(倭漢三才図会七十一)
[国府]
地名を手がかりに2ヵ所が候補にあがっているが、現在では稲沢市松下で発掘された国衙跡に設けられたとしている。ただ市内下津町にも国府という地名があることから、ここ一ケ所にあった訳では無く、移転したと推定されている。
国衙跡の近くには国分寺跡もある。
国司に藤原元命、平頼盛の名が資料に表れる。
[守護所]
鎌倉時代の守護所の位置は不詳。室町時代には下津(現稲沢市)にあった。
鎌倉期には、小野氏・中条氏が守護となり、末期には北条一門の名越氏が守護となった。
室町期に守護となったのは足利一門の斯波氏で、室町期を通じて斯波氏がずっと守護職を勤めた。
[幕藩体制確立後]
尾張(名古屋)藩六十一万五千五百石と犬山藩三万五千石が置かれた。
尾張国
尾張国之風俗は、進走之気強く、而善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそみ、我が親き者之善き事少しあれば、大分に能き様に云成。悪き事あれども夫を異見を加へ後来之過ちなき様にと有志なくて、共に推し隠して人之非を揚て、夫が悪よりは軽きなどゝ談ずるのみにて、邪智我慢第一。強く人を足下に見なし人の善をけし、我悪を隠すの類にて、万事根のとくる事無、唯大風洪水之出るが如くにて、根にしまる意地すくなし。雖然形儀勇気のきひしき処あれば、伊賀伊勢志摩三ヶ国合たるより上成所有古より秀る者も有。下劣之心底猶以かたくなし。然る故に善に進む事寡ふ、而悪に従ふ事強し。去るに因て謀反一揆之類発する事ども古今多し。飾気すくなき故に、実儀之人も多くして、悪を見て悪と知て改る人も有。中の風俗之国也。男之言葉好し。是国を治るには処々に党多、而地下人も党を結び我慢のさむることを不尽、而傾く事比を可経乎。其党類を懐け正道を以是を教へ、邪義を不誹して恩を加へ、是に談ずるに礼をあつく、而威をはげまし与之、節を考へ是を示に、節を以して、后に善を全く知て合一すべし。無左して、一応の威光厳を以て是をとりひしぐとも、亦本に可帰視、其機気察、其未発、而后に是をぬくは良将之法也。此国には別而 口伝 (『人国記』)
尾張国地名解説
尾張国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
愛知(あいち)
『日本書紀』に吾湯市村(あゆちのむら)と記された地。
その後、年魚市郡(あゆちのこおり)、阿育知郡などと記され、和銅年間には愛知郡の表記が現れ、和名抄で「あいち」と読まれた。
清洲(きよす)
清洲城の城下町。尾張国春日井郡清洲村。愛知県西春日井郡清洲町。
美濃平野の中心に位置し、文明年間(1469〜1486)に尾張国の守護所が置かれ、以来尾張の中心地として栄える。弘治元年(1555)斯波義統の死後、織田信長が清洲城に入城、斯波氏に代り諸郡を治めた。
三河国
三河国(みかわのくに) 現・愛知県東部
7世紀に、穂国造と三河国造の領域を合わせて成立した。三(参)州(さんしゅう) と呼ばれる。
[国府]
二つの説があり、時代による移動という説もある。一つは、豊川市白鳥町上郷中・下郷中付近説で、総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定された。総社周辺の発掘調査が行われ、建物跡が確認された。政庁の可能性が高い。もう一つは、豊川市国府町中道付近説で、守公神社付近が政庁跡とする説がある。
[守護所]
鎌倉初期は国府周辺にあったと思われ、承久の乱以後は現在の岡崎市明大寺付近か同市八帖町付近にあったと考えられている。
承久の乱後、足利義氏が守護となっていて、室町期には細川氏が守護となった。
[幕藩体制確立後]
三河天領が有り、代官所が置かれた。
また、この三河国は松平一族や譜代の大名が小藩を治めていた。
吉田藩七万石、西尾藩六万石、岡崎藩五万石、重原藩二万八千石、刈谷藩二万三千石、半原藩二万二百石、挙母藩二万石、田原藩一万二千石、西端藩一万五百石、西大平藩一万石が置かれ、奥殿藩(大給松平氏)は文久三年に信濃に転封となっている。
三河国
三河之国風俗、気勝て人之長け十人に七八人のびず。其言葉いやしけれども実義也。人と物を談ずるに其事とげぬと云事なし。若し違却する事あれば、其子細を理る。風俗に而子は親をはぢ、親は子を恥て虚談する事を禁ずるといへども、偏屈に而我言を先とし、人之述る処を不侍、而是を談し、命うぃ終之族多し。亦自然と気質之邪僻すくなき人も有。我心を知て吾に勝、人あれば諸人是を崇敬する形儀也。別而北三州之人尖なり。尾州に隣るといへども、その気質亦勝たり。武士之風儀善多して悪すくなし。女もけなげにして恥を知れり。(『人国記』)
三河国地名解説
三河国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
赤坂(あかさか)
東海道の宿場町(赤坂宿)。愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂。
東海道五十三次の三十六番目の宿駅。「赤坂の宿に入りければ、宿ごとに遊女あり。立ち並びて旅人をとゞむ。泊らせられい/\、座敷もきれいな、相宿もござらぬ。なふ/\と云ふ声、わや/\として、物音も聞えず。男あちこと見れば、大坂新町のはし傾城ども、幾人もあり。道中宿々の女どもを、入れ替へ/\置くと見えたり。身過ぎとは云ひながら、あはれなる事かなとぞおぼゆる。ある家に立入りて宿を借る。遊女ども一二人見ゆ。さま/\〃もてなしぬ」と『東海道名所記』四にある。またケンベルの『日本誌』五の十にも「赤坂の町筋は、大部分家並がよく揃っていて、多くの最上級の宿屋が並んでいた。相変らず厚化粧をした娼婦が少なからず、殊にお客相手をしなければならない宿屋に大勢いた。そんなわけでこの土地には「女郎宿場」という異名がある。」さらに十二では「赤坂(略)ここでも到る所に、御油に負けず劣らず醜い各種の女連が見受けられた。最大級の家が二百五十軒、江戸や江戸から西、ここまでの間で見た大きな家に比肩すべく、その中には階を重ねた高い建物も少なくなかった」と書いている。
御油(ごゆ)
東海道五十三次の三十五番目の宿駅(御油宿)。
ここ御油宿は、次宿の赤坂宿との間が、問屋場から問屋場間で十六丁、宿間の松並木は六丁の距離で、五十三次中一番短かった事から、客引きのため飯盛女郎が両宿には多かったといわれている。赤坂宿同様、『道中記』『東海道名所記』『日本誌』などにも等しく「遊女おほし」の文字が目につく。
池鯉鮒(ちりう)
東海道五十三次の39番目の宿駅(池鯉鮒宿)。
池鯉鮒(現知立)が東海道の宿駅として設置されたのは、関ヶ原合戦の翌慶長六年(1601)のこと。古代から知立神社を氏神として城砦を構え、馬市場の開かれる農村だった池鯉鮒は、こうして東海道の通交を支える宿場町として発展することとなった。
『東海道風景図絵』には「当所鎮守明神の池に鯉鮒多くあるゆえに、宿の名となす。祭礼毎年四月三日なり。同月より五月節句まで馬市あり。」と記され、宿名の由来となった知立神社は池鯉鮒大明神と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社で、社伝では第十二代景行天皇(412)創建といわれる。境内に建てられている「多宝塔」は国の重要文化財に指定され、古額、舞楽面、能面等は県指定、獅子頭面他9点は市指定の文化財となっている。
『かぶいて候』
家光を暗殺しようとした刺客を撃退した水野成貞は、「三代たたられたか」と謎の言葉を残し舌を噛み切って死んだ刺客のことが気になっていた。やがて一人の青年から「三代たたった」という意味を聞く事になる。その一つの事件がここ池鯉鮒で起っていたのである。
遠江国
遠江国(とおとうみのくに) 現・静岡県西部
古くは遠淡海(とおつおうみ)と書き、浜名湖の古称であった。これに対し、近淡海(ちかつおうみ)は琵琶湖の古称で、近江国の語源である。7世紀に遠淡海国造、九努国造、素賀国造の領域をあわせて設けられた。遠州と呼ばれる。
[国府]
初期の国府は、御殿・二之宮遺跡と推定されるが、決定的証拠は出ていない。中世には、見附、つまり現在の見付に国府があったが、ここもまた未発見という。どちらも現磐田市内にある。
[守護所]
見付の国府の近隣に有り、中世後期には要塞化して見付城、府中城と呼ばれた。
[幕藩体制確立後]
譜代の中小藩と旗本領などが置かれた。
浜松藩六万石、掛川藩五万石、横須賀藩三万五千石、相良藩一万石が置かれた。なお、明治元年に大沢氏の陣屋(五千石)が堀江藩一万石として成立した。
遠江国
遠江国の風俗、三河に不異、而人之気何事に付てもひるむ気なし。さるに仍て可死処と見る。則はたとへ節にあたらずしても死をする人多し。雖然三州に替りて物を頼にする気有。因茲諂ふ気質あらはれて見ゆる儀事々に付て如斯。されども昨日味方になり、今日敵に成如く之儀はいかゝ頼む程の儀有とても有間敷き国也。唯己々が智を以、下より上をはかつて我を不知、而上下ともに主之善悪を下として誹謗して、而も夫を諌る事なく、党を立て他を求ん事を好む族の風俗也。智慧あって気尖成故、善に近し。何事に付にも、明日とのぶる事の不成風俗也。嫌ふ処も多し。一国之内にても東よりて、一入かくのごとくなり。(『人国記』)
遠江国地名解説
遠江国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
今切(いまきり)
浜名湖の渡し。
山鹿素行の旅日記『海道日記』に「今切入海也。舟渡し。今切は遠州新居の浜より奥の山五里ばかり、海となりて大船出入す。昔は山に続きたりしが、ほらの貝出でて海となれるゆゑに今切と号す」と書かれている。また貝原益軒の『吾妻路之記』には「舞坂より新居へ廿三町、船渡しなり。近年大潮にて渡し一里半ありと云ふ。此渡り昔は陸地にてありしに、後土御門院明応八年六月十日、大地震して湖と海との間切れて、海と一つに成り、入海と成る。今切これなり。一説には、後柏原院永正七年八月廿七日、洞の貝といふもの出でて、山崩れ川埋もれ、舞坂の原を破り流るれば、それより今切と云ふとなり。新居、又荒堰・新江とも書けり。御番所、右の方志土呂と云ふ所にあり」とある。
二俣(ふたまた)
二俣城の城下町。
天竜市の南部に位置する二俣は、現在、天竜市の商業の中心地で、律令時代には「壬生(みぶ)」と呼ばれ、古くから拓かれていたという。遠州平野の扇の要に位置するため、戦国時代には、今川氏、武田氏、徳川氏の抗争の舞台にもなっている。天龍川が遠江・三河・信濃国境の山地を抜け、平野部に出ようとして大きく蛇行するあたりの河岸段丘上に二俣城があった。この二俣城は家康の嫡男松平(岡崎)信康が自刃した場所であり、この地の清瀧寺は信康や大久保忠世の菩提寺となっている。また、江戸時代の国学者の内山真龍資料館や平成10年にオープンした秋野不矩美術館など、小さな町としては歴史的な遺構や見所が多い。
『影武者徳川家康』
この二俣の地に風魔衆はひそかに女、子供を移住させていた。そして、島左近の隠れ処として選ばれたのだった。
駿河国
駿河国(するがのくに) 上国 現・静岡県中部
はじめ珠流河と書き、珠流河国造がいた。7世紀に廬原(いおはら)国造、伊豆国造の領域とあわせて駿河国を建てた。このときの領域は、現在の静岡県の中部と東部、伊豆半島、伊豆諸島を含んでいた。しかし、伊豆地方を含めた国域では統治に不都合だったことから、天武天皇九年(680)に田方・賀茂郡を新たに伊豆国として分離し駿河国域が確定する。駿州と呼ばれる。
この駿河の地は室町幕府守護今川氏が治めていた。戦国期になると戦国大名として力をつけた今川義元は、三河の松平氏を勢力下に入れ尾張の織田氏と対峙する。しかし、桶狭間の戦で義元が死ぬと領国の三河、遠江、駿河の地はまたたくまに奪われ今川氏は滅亡した。
三河は織田信長と組んだ松平氏が支配し、駿河はかねて南下を狙っていた武田信玄が支配する。間の遠江は武田と松平の間でまさに国取り合戦が繰り返され、一時は高天神城を落とした武田勝頼が駿・遠の地を支配する。
[国府]
安倍郡(現静岡市内)にあったと推定されるが、正確な位置は不明。
[守護所]
国府周辺にあったと考えられるが、確認はされていない。
[幕藩体制確立後]
駿府を中心とした幕府直轄領に、駿河城代が置かれる。
その他は譜代と旗本領が置かれた。
沼津藩五万石、田中藩四万石、小島藩一万石が置かれた。
駿河国
駿河国之風俗遠州に替り人の気狭く、而も実寡し。然ども気狭きが故に伸る心すくなく、気之屈する時は取なをす。而命を終るもの時々成故に、思ひ詰たる時は気一和する故に、片たへなき所有。雖然常に諂ふ事なく、而毎物に気を付、思慮深くしてぬきんずる者すくなく、人に従ふ心大分有て、義を思ひ詰て立る人は小分也。都而いけん多く、而吾は人を誹り、人は吾をいやしむ風儀更にしまりなき国也。去るに因て一国一和するといへども一郡一庄一郷に気質之公成人希に、而慾深し。是国を静めん事旧悪を不数、而其悔る処之事を不糺。唯其勢を高く振ふ時は、心気とろけて旗を巻くこと日を不可期也。(『人国記』)
駿河国地名解説
駿河国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
清水湊(しみずみなと)
港町。東海道の宿駅江尻宿。
清水湊は戦国時代になると戦略の拠点として着目される。今川氏が水軍をおいたのを皮切りに、甲斐の武田信玄が水軍基地として清水湊を重要視するようになった。信玄は湊の警護と物資の中継地として湊に隣接する地江尻に江尻城を築城し、実質的にここ清水を駿河支配の本拠地としたのだった。しかし、信玄が没し、子の勝頼が継いだ武田氏が長篠の戦いで信長に敗れると、急速にその力を失いついには天目山の戦いで自害し滅びる。替わってこの地を支配した徳川家康は海上交通の拠点として巴川を中心に湊を大改築し、江戸時代には江戸・大阪の物資輸送の中継基地として多くの廻船でにぎわい、文字通り海上の物流基地として飛躍的に発展した。
江戸期に入るとここ清水は、東海道五十三次の十八番目の宿駅、江尻宿として栄え、長く突き出た砂州に生える松原(三保の松原)越しに見る富士の姿が美しい風光明媚な地として知られた。
現在、清水港は、まぐろの水揚げ日本一を誇る漁港として知られている。当然、武田水軍が置かれた当時の面影は残っていない。現在ある日の出埠頭から入船町、松原町あたりまでは港町を含めてまだ海中で、浜清水と呼ばれた地域が清水湊であったという。
交通/JR東海道本線「清水」駅下車バス15分
三保の松原(みほのまつばら)
東海道の景勝地。駿河国(静岡県中部)。
風土記を案ずるに、古老伝へて言はく、昔、神女あり。天より降り来りて、羽衣を松が枝に曝しき。漁人、拾ひ得て見るに、その軽く軟きこと言ふべからず。いはゆる六銖の衣か、織女が機中の物か。神女乞ひしかども漁人與へざりき。神女、天に上らむとすれども羽衣なし。こゝに、遂に漁人と夫婦となりき。蓋し巳むを得ざるなり。その後、一旦、女羽衣を取り、雲に乗りて去り、その漁人も亦登仙したりといふ。(本朝神社考五)
清水の町には向井正綱が見たであろう景色は最早どこにもないが、ここ三保の松原には、まだ当時の面影が有るかも知れない。
羽衣伝説で有名な三保の松原は、平安の昔から景勝の地とされ、白砂青松にそそりたつ富士を眺めに多くの人が訪れる。浜ひは天女が舞いおりたとされる羽衣の松と呼ばれる樹齢約650年の古松があり、近くの御穂神社には、羽衣の切れ端が保存されている。
交通/JR東海道本線「清水」駅からバス三保線20分「松原入口」下車徒歩10分.
駿府(すんぷ)
駿河国安倍郡駿府。国府(こう)・府中・府内・駿河府。静岡市。城下町。宿場町(府中宿)
室町中期からこの駿府の呼名が見え、戦国期に多出する。鎌倉期以来、東海道の宿駅として発展、室町期には今川氏の守護所も設置され繁栄するが、永禄十一年(1568)十二月、武田信玄に攻められ、今川氏の居館をはじめ多くの寺社・民家ことごとく焼失。その後、慶長十二年(1607)徳川家康によって新しく町割りがなされ、江戸期には駿府城の城下町として再び繁栄した。
駿府とは、駿河の国の府中(今でいう県庁所在地)の事である。駿河の国は、足利尊氏に遠江・駿河の国の守護職に任じられた今川家が代々領国とし、室町期から戦国期まで支配していた。今川義元の子氏真が武田信玄に攻められ駿府の館を去ると、今川館は武田の軍勢に焼かれた。その後、武田家は天正三年(1575)長篠の戦いで壊滅的な打撃を受け、最後は天正十年(1582)甲斐の天目山で滅亡する。この戦功で、家康は織田信長から「三河、駿河、遠江、甲斐」の四カ国の支配権を与えられ、天正十三年(1585)浜松城から駿府に移った。当時の駿府は相次ぐ戦乱でかなり荒れ果てていたと思われるが家康は精力的に城下の復興と築城に努めたという。しかし家康は、天正十八年(1590)二月、豊臣秀吉の小田原征伐に先鋒として出陣し、そのまま駿府城には戻らなかった。論功行賞として関八州を与えられたため、小田原から江戸に向かったのだった。
『影武者徳川家康』
慶長十年(1605)家康は、征夷大将軍職を秀忠に譲り隠居した。隠居地に選んだのがこの駿府の地であった。しかし大御所となった家康は、天正期に築城した駿府城とは別の地に城を築こうとしたと言われる。なぜ新たに築城を考えたのかさまざまな理由が述べられているが、大御所となって戻ってきた家康は世良田二郎三郎という影武者なのだから自分の城を作ろうとして当然だろう。家康が作った駿府城と世良田二郎三郎が作ろうとした幻の川辺城を、当地を訪ねて比較・検討してみるのも面白い。
沼津(ぬまづ)
沼津城の城下町。港町。宿場町(沼津宿)。
沼津という地名が文献に初めて記されるのは1218年という。(吾妻鏡)
駿河の国の東端にある沼津郷は、曾我氏が今川氏から独立して支配を続けていた。曾我氏は、伊豆・駿河一帯に勢力をもった狩野氏の一族という。文明八年(1476)、今川義忠が死ぬと、跡継ぎをめぐって今川氏の内部で対立がおこった。このとき、対立をうまくおさめたのが伊勢新九郎長氏で、長氏はこの功績により、富士下方十二郷を与えられ、興国寺城の城主となつた。こうして、伊勢長氏と沼津郷付近を支配する曾我氏は境を接することになったが、彼には、曾我氏を攻めるだけの力はまだなかったようである。延徳三年(1491)、伊豆韮山の堀越公方足利政知(八代将軍足利義政の弟)の死後、跡継ぎをめぐる混乱がおこると、長氏は、これに乗じて一気に堀越公方を攻め滅ぼした。以後、伊豆国は長氏のもとに従うことになり、彼は、興国寺城から韮山城へと移り、北条の姓を名のるようになり戦国大名北条早雲(後北条氏)が誕生する。このころから、戦国大名が、領地をめぐって戦乱に明け暮れる本格的な戦国時代となっていく。沼津付近も今川・北条・武田という三つの強大な戦国大名の勢力がぶつかり合う地点となり、いくたびか戦いの舞台となった。
浮島が原(うきしまがはら)
沼津市から富士市にかけて東西に帯状に広がった湿原。現在は農地に変わり、あるいは工場が建ち、車の行交う道路などの開発が進み沼地はほとんど姿を消した。この辺りから見る富士の雄大な姿は素晴らしい。江戸時代、街道一と謳われたその眺めは今も変わりなく、旅の疲れを癒してくれる。
交通/JR東海道本線「東田子の浦」駅下車徒歩
千本松原(せんぼんまつばら)
奥駿河湾に沿って松林が連なる自然公園。全国松原100景にも選ばれ、東海道随一の景勝地として、古くから知られている。千本松原は、戦国時代の武田・北条の戦いで切り払われたとき、千本山乗運寺の開祖・増誉上人が植えたものが今に至っていると伝えられている。またここは多くの文人とのかかわりも深く、千本浜公園には若山牧水・井上靖・池谷観海・角田竹冷・明石海人の歌碑や文学碑が建てられている。
この松林に陣した武田の軍勢は、海からの北条水軍の砲撃に苦しめられた。
交通/JR東海道本線「沼津」駅下車徒歩20分
持舟(もちふね)
水軍城下。駿河の府中を守る要害の地として、今川時代に持舟城が置かれた。
この持舟の地は用宗(もちむね)と名を変え現在は静岡市の一部となっている。当時はJR「用宗」駅の辺まで海で、駅の背後にある裏山に持舟城があった。この城趾に立つと駿河湾を目の当りにするとともに駿府の町が一望でき、要害の地であったことが伺われる。
伊豆国
伊豆国(いずのくに)下国 現・静岡県伊豆半島/東京都伊豆諸島
駿河国から二郡を割いて設けられた。後に田方郡、賀茂郡、仲郡(後の那賀郡)の三郡となり、江戸時代に君沢郡が分けられ、四郡となる。豆州(ずしゅう)と呼ばれる。
[国府]
現在の三島市の三島神社の近くにあったらしいが、国府跡は発掘されていない。
[守護所]
国府に重なるか近隣にあったと推定されるが未詳。
[幕藩体制確立後]
全て天領とされ、韮山代官所が置かれた。
伊豆国
伊豆国之風俗強し。中之強にして其気に乗る時は強し。其気に不乗時も強し。是は国風とは云ながら、気質之禀る所都而清成所を自然と得たるもの也。雖然一花気に而今日はたがひに命を投うたんと約する所の人にても少しも違、有時は数日之約を一時に忘れて、俄に亦遺恨甚た強く而大敵と成てあだを施さん事を常にたくみにする風俗也。然故に人皆気一流にして亦各別也。是国をひきゆるには耳目より而是を覆せしむべし。気は皆天気にして陽也。陽は升る也。されば忿り、深きものは名刹を好むもの也。いかにも随て是を可服也。 口伝 (『人国記』)
伊豆国地名解説
伊豆国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
重須(おもす)
湊の名。
伊豆半島の付け根、西側の大きくくびれて駿河湾から入り込んだ内浦湾の最奥にある。外海の影響を受けない天然の良港の条件を備え、北条氏がここに水軍の本拠を置いた。
今川氏の滅亡後、駿河は武田氏のものとなった。これにより直接的に影響をこうむったのが北条氏の領国伊豆だった。それまでは駿河湾は比較的平穏であったのが、急遽軍事的対応を迫られることになったのである。北条氏政は、伊豆西岸部の防備を厳重にするため、天正七年十一月、この地に船掛庭を築かせる。これが重須の湊であった。重須の湊を守るための軍事施設として設けられたのが長浜城で、『北条五代記』によれば、重須湊・長浜城には北条水軍の将梶原備前守をはじめ、清水越前守・富永左衛門尉・山本信濃守らが置かれていたという。
天正八年三月十五日、北条水軍と武田水軍が重須沖で衝突。戦いは、北条氏が武田側との同盟を破り三河の徳川方と通じ駿河の地を徳川側に攻めさせたことに怒った武田勝頼が、浮島ケ原に出陣したことに始まる。北条氏政は子の氏直に出陣を命じ、氏直は重須湊から兵船を繰り出し、梶原備前守ら北条水軍の錚々たる将が押し出していった。それに対し、勝頼も向井氏ら武田水軍の将に命じて船を出させ、ここにおいて重須沖で海戦が繰り広げられることになった。駿河湾の海戦としては後々にまで語り継がれるほどの激戦であったが、結局、勝負はつかず、日没になって双方が船を引いたことによって戦は終結した。
『見知らぬ海へ』
この重須沖海戦の直前に、向井正綱は黒く塗った帆船で重須に停泊する北条水軍の舟に夜襲をかけたのだった。
下田(しもだ)
下田城下。港町。
下田村の成立は南北朝・室町初期の14世紀頃と考えられている。伊豆の国は、足利政知の領地だったが、延徳三年(1491)、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は、伊豆の国を支配するために、深根城を攻め落とした。城を守っていたのは、足利氏に与する関戸播磨守信吉だったが、城の中にいた人は一人残らず殺されたといわれている。こうして、伊豆の国は、北条氏の領地になる。天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一のために、北条氏と争い小田原城を攻める。この時北条側は、清水康英を下田城の城主にして、豊臣水軍が小田原に攻めこむのを防がせた。清水氏は城を守りつづけるが、ついには戦いに敗れ、城は豊臣方(長曾我部元親)の手に落ちた。北条氏が滅びると、下田は徳川家康の家臣戸田忠次によって治められることになったが数年で転封となり、下田の地は天領として幕府が支配するところとなった。
田子(たご)
湊。
室西伊豆は現在でも東伊豆に比べ交通の便が悪く、ちょいと立ち寄るには不向きな所だ。なかでもここ田子は、下田からも修善寺からも遠く、一日数便のバスか車で行くしか無い。しかし、その分豊かな自然が訪れる者を迎えてくれる。海の水も綺麗で、現在では有数のダイビングスポットであり、磯釣りが楽しめる地となっている。
『見知らぬ海へ』
豊臣水軍の先鋒を担った向井正綱は、自ら先頭をきってこの田子湾に向井水軍を乗り入れ、砦に篭城する北条水軍を破った。
八丈が嶋(はちじょうがしま)
島の名。伊豆国八丈島。東京都八丈町。
沼伊豆諸島の火山島の一つで、八郎島・女御之島・女護島・八嶽島などと呼ばれ、女護が島に擬せられた。八丈が嶋の名の由来は、鎮西八郎源為朝の八郎が転訛したとも、この島で産出した絹布と八丈絹を混同したからともいわれている。保元の乱で敗れて流された為朝が八丈・三宅など五島を領有したこともあったが、我国で最遠の島と意識されていた。慶長五年(1600)、関ヶ原で敗れた西軍の将宇喜多秀家は、落ち延びて島津氏の庇護を受けていたが、幕府によって嫡子らとともにこの八丈島へ流罪となっている。
三嶋(みしま)
伊豆国の国府。東海道の宿場町(三島宿)。三島大社の門前町。静岡県三島市。
根へ三里二十八町の道のり。官許の遊郭があったが禁止された。「三嶋女郎衆の化粧水と唄ひしは昔にて、この里の女の風俗、手織木綿吉岡にしなし、鹿に紅葉の大ちらし、あかね染の裏凩に吹きそらし、晒木綿の二布の蕎麦切色なを、びら/\見せかけらるゝは、この世の人共思はれず。京でさへ古くさい染色尽し鼻声にほのめかし、土佐にはあらぬなまり章、値の安いのをとりゑ」(『和気の裏』甲四の八)
甲斐国
甲斐国(かいのくに) 現・山梨県
甲州と呼ばれる。
[国府]
現在の春日居町の「国府」地区か、国分寺があった一宮町の国分付近に置かれたと推定される。
[守護所]
未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。
後三年の役(1086〜88)の功で新羅三郎義光の子義清が甲斐の荘官として入り、武田氏・逸見氏・加賀美氏などの強力な氏族を生む。やがて土着した源氏一族は、甲斐源氏として力を蓄え頼朝の挙兵に呼応し木曽義仲の討伐、平家追討などで頼朝の信を得て鎌倉御家人となり、総領家の武田氏が甲斐国の守護に任ぜられ、以後代々武田氏が甲斐の守護を勤めた。
戦国末期、武田氏が織田信長に滅ぼされると織田氏の領有となり、信長の武将河尻鎮吉が当地を支配。しかし、ほどなく信長が本能寺で倒れ、甲斐国の人心を掴めなかった鎮吉は甲斐の国人等に襲われ殺された。その後を受け甲斐国を領した徳川家康は、武田の旧臣等を重用するなど甲斐国人の人心を掴む。家康の関東入封により甲斐は豊臣秀吉配下の羽柴秀勝・加藤光泰・浅野長政父子と領主が変わった。
[幕藩体制確立後]
秀吉没後、家康が江戸に幕府を開くと甲斐国は江戸幕府の防衛線として重視され、徳川家が領することとなり二代将軍秀忠は二男忠長(駿河大納言)に甲斐国を領有させる。しかし、兄家光との確執から乱行が目立ち、やがて将軍になった家光の怒りを買い幽閉、直後忠長は自刃して駿河大納言家は断絶。甲斐国は幕府直轄となり、一時柳沢吉保が領したが、吉保が大和郡山に転ずると再び幕府直轄となり明治に至る。
甲府城には甲府勤番が置かれた。
甲斐国
甲斐国之風俗は人之気質尖にかたくへ也。意地、余国を五カ国合せたる程不好国に而死する事を不厭、而傍若無人之事多し。因茲上は下を苦め、下は上を不敬、而下臈に少しの過ちあれば主則是を罰し、主と而下へ非道あれば大身は忠信を専と而諌をなして本意と云二字を忘却、而怨を含み、小身下々は則ち憤を発、而害を近く設け、都而道理を不弁して無道なれども、其勇気甚巧にして死を事とせず、而けなく成事譬ば於軍陣親眼前に討れぬれば、子是死骸を踏越て、共に討死をとげ、子亦討れぬれば親亦如斯。去は人之本は勇を以て初とし■を以て後とす。然は其機に当る人を遣、而厳に威を正く、而其正改を教るものならば、自然と道理に帰服する事も有べきが、其善一に其悪十也。此国生沢之鮎題目石名高し。
(『人国記』)
甲斐国地名解説
甲斐国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
甲府(こうふ)
甲斐国府中の意。甲斐国山梨郡府中。山梨県甲府市。
永正十六年(1519)、甲斐国統一をめざす武田信虎が躑躅ケ崎館に移転したのち、その子信玄の時代に城下町として形成された。商工業の発達、甲府五山の創設などにより大きく発展し、治水や道路整備などによって都市機能も充実していた。
相模国
相模国(さがみのくに) 現・神奈川県西部
相武 (さがむ) 国造の領域と師長 (しなが) 国造の領域を合したとされる。相州(そうしゅう)と呼ばれる。
[国府]
和名類聚抄など平安時代の文献が記す大住郡の国府は、現在の平塚市で関連の遺跡が発掘された。中世にあった余綾郡の国府は、現在の大磯町と推定される。この二箇所のほかに、国分寺があった海老名市付近に初期の国府があったとする説、現在の小田原市にある千代廃寺を初期の国分寺とみなしその付近に初期の国府があったとする説もある。
[守護所]
平安期、相模守に任ぜられた源頼信以来、この相模の地は源家の故地となり、平家を倒した頼朝は鎌倉の地に幕府を置いた。
足利尊氏が京・室町に幕府を開くと、鎌倉には関東地方以北を治める鎌倉府が置かれ、鎌倉公方の地となる。
[幕藩体制確立後]
武蔵国と接する地区および鎌倉・三浦半島は幕府直轄地となり、武蔵国と接する津久井郡などの地区および鎌倉は神奈川奉行の管轄となり、三浦半島には浦賀奉行が置かれた。
小田原藩七万五千石、荻野山中藩一万三千石が置かれた。
相模国
相模之国は風俗豆州ににるといへども人の気、転変仕安き所也。栄る人には縁を以てしたしみ、今日までなれし人にも不得。時而蟄居すると見る則は遠り、無科人にも科を付てそしりなし、非有る人にも時めく人をば馳走して是をほうひし、常に栄花を好み、好味を求て酒色を翫ぶ風儀、十人に八九人如斯也。因茲主は被官に被、放被官は主を捨て、今日まで傍輩と成し人をも、明日は主君と仰ぎ、主が被官になり、被官が主に成風俗也。而も智あつて智に迷ひ、義に迷ふ。誠に悪を備る風俗也。(『人国記』)
相模国地名解説
相模国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
足軽山(あしからやま)
箱根足柄山の旧称。
相模国風土記に云、足軽山は、此山の杉の木をとりて舟につくるに、あしの軽きこと他の材にて作れる舟にことなり。よりて足からの山と付たりと云々。(續歌林良材集上)
小田原(おだわら)
小田原城の城下町。東海道の宿場町(小田原宿)。
明応四年(1495)、伊豆出身の武士である伊勢新九郎(北條早雲)がこの地に城を構えていた大森一族を倒して城主となり、相模国の支配を固めた。こうして小田原は後北條氏の支配する戦国期有数の大名の本拠地として有名になった。以来、約100年間小田原北條家が五代にわたってこの地を治める。天正十八年(1590)、豊臣秀吉は20万の大軍を送り小田原を攻めた。100日間を超える包囲と何度かの戦いの末に小田原北條家は降伏する。
鎌倉(かまくら)
相模国鎌倉郡。神奈川県鎌倉市。源頼朝がこの地に幕府を開いて以来、戦国期まで、関東における政治・文化の中心地。
執権北条時代はもちろん、室町時代の鎌倉公方の時代までは関東の中心であったが、永享の乱(1439)以後鎌倉公方が追放され関東管領上杉氏が上野に赴いてからは、北条氏の小田原が関東の中心となった。
鎌倉と源氏の関係は、源頼信、頼義、義家、為義四代にわたって相模守に任ぜられたことから始まる。治承四 年(1180 )、富士川の戦いで平家を破った頼朝は、その足で鎌倉幕府の置かれる大蔵(雪ノ下)の屋敷に入った。こうして鎌倉は、日本で初めて誕生した武家政権の政治の中心地として歩みはじめることになった。 頼朝は手始めに頼義が京都・石清水八幡宮を勧請して造った元八幡を、現在の鶴岡八幡宮の地に移して町づくりの中心にした。そして、御家人を監督する侍所、行政を担当する政所、裁判所の役割をはたす門注所をもうけ、政治体制を整えていく。しかし、源氏の世は長くはつづかなかった。頼朝の死後は御家人の権力闘争がくりひろげられ、鎌倉は不安定な状態になる。やがて頼朝の正妻政子の実家、北条氏が実権をにぎり、北条氏のもとで鎌倉は繁栄し、最盛期には3万人以上の人々で賑わったといわれる。
元弘三年(1333 )、幕府は新田義貞により滅ぼされ、足利尊氏が京都に室町幕府を開くこととなる。この時、鎌倉には東国10か国を支配する鎌倉府が置かれ、それなりの賑わいは保たれた。ところが、幕府と鎌倉府が対立。康正元年(1455 )、戦いに敗れた鎌倉府の長、足利成氏は下総国古河に逃げ、鎌倉は急速に活気をなくし、農業と漁業の寂れた村になってゆく。それでも、 江戸時代に入ると主だった社寺が復興する。松ヶ岡・東慶寺もそんな古刹の一つ。この東慶寺の門前に、せんべい屋を営む八兵衛夫婦と用心棒の居候「麿」が住んでいた、
また、17 世紀後半、徳川光圀が編んだ「新編鎌倉誌」の影響で、江の島など景勝地を見物するかたわら、史跡めぐりを楽しむ江戸の町人が訪れるようになる。江戸時代の後半には鎌倉図絵なども多く出回るようになり、現在のような観光地・鎌倉が生まれつつあったようだ。
鎌倉切通し(かまくらのきりどおし)
『新編相模風土記稿』巻六十九には鎌倉の切通しを四か所記しるしている。極楽寺切通し(極楽寺村の属)、大仏切通し(長谷村の属)、朝比奈切通し(峠村の属)、名越切通し(大町村の属)の四か所。また、「切通し」とは山や丘などを切り開いて造られた道の事をいう。
御殿場(ごてんば)
元和元年(1615)、家康の駿府〜江戸間の移動に際し、その御休息所を設けたことから起った地名。当時、杉の中、上田中、餅交などと呼ばれていた集落地で、休息所の御殿を造り、その東側に街区を造る予定だった。しかし、翌元和二年、家康が没したため、その御殿は使われる事は無かったが、この地域は御殿場新町と呼ばれる。やがて、一帯が御殿場村となり、御殿場の地名が定着した。
箱根(はこね)
峠の名。山の名。東海道の宿場(箱根宿)。
箱根山。箱根は、首都圏有数の行楽地で、日帰りも可能な距離に富士を背景にした深い森や湖というロケーション、そして温泉やグルメなどを楽しめる施設が充実しているため、週末ともなれば、多くの家族連れやグループで終日賑わっている。こんな箱根山だが、家康が江戸に幕府を開いた頃は、鬱蒼とした森に包まれた嶮しい山で、まさに天然の城塞だった。戦国時代、関東に覇を称えた小田原の北条氏が容易に西の大名からの攻撃を受けなかったのも、この箱根山が有ったおかげともいわれる。この天然の要塞を根城としていたのが風魔一族で、彼らは北条氏に仕えていたとされている。
『影武者徳川家康』
北条氏が秀吉に滅ぼされた後、この風魔一族を影武者世良田二郎三郎は味方につけ、秀忠に対抗すべく駿府に城を構えるのだった。
元和五年(1619)、東海道を下って江戸へ入る最後の関門として「箱根関所」が設けられた。
箱根八里
箱根路が約八里あることからいう。蜀山人は狂歌で「この茶屋は箱根八里の中なれば登にもより(四里)降にもより(四里)」と詠んだ。古の官道はもっぱら足柄路だったが、後に湯本から鷹巣山を通って箱根に達する道が開かれ、さらに江戸時代になって、須雲川の渓谷を遡って箱根へ出る道が開かれた。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の唄は、『俚諺集覧』に、馬士雲介のうたう道中唄であると出ている。類似の歌は近松の『加増曽我』に「箱根八里は歌でも越すが越すに越されぬ死出の旅」とあり、菅江真澄の『ひなの一ふし』の科野の国舂唄のなかに「箱根八里は歌でもこすが越すにこされぬおもひ川」とある。(『東海道中膝栗毛』上補注)
三浦(みうら)
相模国の半島名。郷名。
平安末期から鎌倉時代にかけて三浦半島を領していた武士が三浦一族といわれている。三浦一族は桓武天皇の流れをくみ、その子孫の村岡為通は源頼義にしたがって前九年の役に参加し、その功により三浦半島が与えられ三浦氏を名乗った。為通の子義継はその子の義明と共に源頼朝に従い鎌倉幕府の成立に与し、三浦氏は北条氏と肩を並べる有力氏族であったが、やがて幕府の実権を握った北条氏に一族のほとんどが滅ぼされる。しかし、一族のなかで佐原義連の孫である光盛や盛時らが北条氏に味方したため滅ぼされずに三浦介をつぎ三浦を領していた。その後、室町時代の三浦義同(道寸)の時、小田原の北条早雲(後北条氏)に滅ぼされた。三浦一族終焉の地となった油壺、新井城での北条早雲との壮絶な攻防は三年にもおよび三浦道寸、荒次郎親子の豪勇ぶりや、落城の際、道寸と将兵のほとんどが油壺湾に身を投じたとされる悲話は、今も波静かな入江の佇まいの中にその面影を忍ばせている。
三崎(みさき)
三崎は相模国を領した小田原北条氏の水軍基地となっていたが、天正18年の秀吉による小田原攻めで北条氏が滅びると、氏規家老の山中氏が在番していた三崎城は降伏開城した。徳川家康の関東入封後は向井水軍の将、向井正綱の屋敷となった。その後、江戸幕府の下では三崎一帯は天領となる。
武蔵国
武蔵国(むさしのくに) 現・神奈川県東部/東京都/埼玉県
常陸国風土記は、現在の関東地方以東を指す我姫国 (あづまのくに) を孝徳天皇のときに分割して武蔵などの八か国が生まれたと記す。はじめ東山道に属したが、宝亀二年(771)10月27日に東海道に移された。武州と呼ばれる。
[国府]
現在の東京都府中市にあり、関連施設が発掘されている。
公地公民制が崩れる平安時代には、荘園化(私有化)が進み、各地に荘園を基盤とした豪族が兵力を蓄え、武装集団が現れ党(武蔵七党など)と称する武士団が形成される。→東国武士団の成立。
[守護所]
鎌倉時代には幕府執権北条氏嫡流の山内上杉氏が守護を勤めた。
[幕藩体制確立後]
江戸城に幕府が置かれ、江戸は日本の首府となる。
江戸市中は、南北町奉行所が管轄。
現東京都のほとんどは田安家領を除き天領となり、代官が置かれた。神奈川県地域は神奈川奉行の管轄となり奉行所が置かれた。
埼玉県内を中心に、忍藩十万石、川越藩八万四百石、岩槻藩二万二千石、岡部藩が置かれ、神奈川県に金沢藩一万二千石が置かれた。
武蔵国
武蔵国の風俗くわったつに而気広し。譬ば秘蔵之道具を過ちに因て損る時は、其者之哀むは最成に、其主且而後悔の気色なくて、結句夫に恩を与て情を深ふする類之心也。子細は秘蔵之器をたくみて可割様なし。吾も人もあやまちするは無念也といへども、とかむるは亦此方之過り也と思案、而名人之風俗也。因茲軍に合ふて敗軍するといへども、敢て其気を不屈、而能く気を改めて敗軍之士を厚めて出陣するの類也。凡そ気に乗と気に後るゝとは雲泥万里也といへども、乗も後るゝも亦しいて可也としがたし。只道理に因る時は気に乗じ、不可成時は己が非を知て承、而制するを上とす。然ども是国風尤いさぎよき風俗也。次に気広きを以て驕る気強し。(『人国記』)
武蔵国の地名解説
武蔵国の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
江戸(えど)
上古、江戸(東京)湾は麹町台地の下まで潮がきていて、この台地の先端、ちょうど江戸城(現皇居)のある辺を「入江の戸」といっていたらしく、それが江戸となったという説が有力。この江戸の地に、十二世紀の初めに秩父平氏の秩父重継が住み、その地の名を姓にして江戸四郎重継と名乗った。これが城下町としての江戸の最初とされ、江戸氏はその後二百年ほどこの地にあったが、やがて多摩郡の喜多見(現世田谷区)に移り姓を喜多見に変えた。その後、太田道灌が城を築くまでのおよそ百年間は、江戸の地は無住の地であったとされる。
太田道灌が江戸城を築いたのは康正二年(1456)、翌長禄元年四月八日に完成したといわれる。場所は昔江戸氏が居館を構えたところが選ばれた。のちの江戸城本丸と二の丸あたりであったとされる。
慶長八年(1603)、徳川家康がこの地に城を築き幕府を開いて以来、日本の首府となる。明治に京都から禁裏が移り名を東京と変え、名実共に日本の首都となる。
江戸に幕府が置かれるようになり、武蔵国の一寒村に過ぎなかった江戸は、今日の東京へと繋がる大都市へと発展するが、徳川家康がはじめて江戸へ入った頃は、「江戸は遠山居城にて、いかにも麁想、町屋なども茅ぶきの家百ばかり有かなしの体、城もかたちばかりにて、城の様にもこれなり」(『見聞集』)というような荒れ果てた状態であった。
これが幕府開設にともなう町割りによって神田・日本橋・京橋方面に市街地が建設され、しだいに城下町としての体制が整備されていった。
江戸の建設には、半ば役人のような特権町人たちが町割り・地割りに参加し、これが草分け名主となったケースが多くみられる。これら名主たちは、かって徳川氏の領国(三河・遠江・駿河など)支配の末端にあって活躍した者たちで、彼らを改めて城下町建設推進者として投入していったのであった。
しかし、江戸が天下の大江戸としての形態が整えられるのは、寛永十三・十四年(1636〜7)の江戸城拡張工事を経て、明暦三年(1657)の“明暦の大火(振袖火事)”以後のことである。この火事は『吉原御免状』などの隆慶作品にもあるように、正月十八日に本郷丸山の本妙寺から出火、折からの風にあおられて北西から南東に向かって燃え広がり、市街の六割以上、大名の邸宅五百余、神社仏閣三百あまりを焼き、死者十万七千人におよんだ未曾有の大災害となった。
このため初期の江戸の様相は全く失われてしまったが、幕府はこれを機会に大規模な市区改正を行ない、市街の装いを新たにし、大江戸の再建を行なった。
江戸の人口は、享保六年(1721))には、町方人口五十万一千三百九十四人(『江戸人口小記』)、これに武家の推定人口約五十万を加えれば、ゆうに百万を超えることになり、当時、ロンドンの七十万、パリの五十万をはるかに凌ぐことになった。この江戸の町を、一般に“江戸八百八町”とよんでいる。これは江戸は町数がきわめて多いことを表現したもので、とくに“大江戸八百八町”ともよぶことがある。古い諺に“江戸は八百八町、大坂は八百八橋”というのがある。これは江戸の町数と大坂の川筋と掘割の多いことを対照していったもので、勿論実数をいっているのではない。実数といえば江戸の町は、寛永年間(1624〜44)で三百町、正徳三年(1713)には代官支配地の町編入で九百三十三町、延享二年(1745)には実に千六百六十八町に達したという(東京都『江戸の発達』)。したがって、正徳年間には、俗に八百八という数を突破していたことになる。(参考:「歴史読本」特集江戸八百八町)
江戸八百八町の管理
武家地や寺社地を除いた大江戸八百八町は、南北に分れた江戸町奉行の支配をうけ、町年寄や町名主によって管理されていた。
各町は家主によって五人組などの自治組織があり、町人は町を維持していくための負担(町人用)が課せられていた。江戸町人は大体において地主・家持・家守・地借・店借・奉公人の身分階層に分れている。町内は家持と家守を中心とした上層市民が一割を占め、あとは地借・店借とよばれた九尺二間の裏店住いの細民が大部分であった。
荻生徂徠の『政談』に「江戸は諸国の掃溜」とあるように、これら町人を含めて江戸の町は、種々雑多な階級・職人・気質の者が住んでいた。これは“江戸中の白壁は皆旦那”の諺のとおり、江戸には至るところに奉公人の働き場所があり、火事の後には仕事が山のようにあったからでもある。そのため出稼ぎ、行商、浮浪者が江戸に集まった。そのため江戸潜入は、お尋ね者にとっても、絶好の隠れ場所ともなった。
文化年間(1804〜18)の江戸の町家の下男の給料は、年三両ほどであったという。この金額は関東や東北地方の小作人では、到底貰うことのない収入であった。そのため、幕府が寛政・天保の両改革において、盛んに帰村を命じた人返しの法を強制しても、実際には農民の江戸流入を押さえることは難しかった。
江戸で一番多いのは“伊勢屋、稲荷に犬の糞”といわれている。何しろ生国を屋号として“伊勢屋”を名のる商店は、町内の半分を占めていたという。また、江戸の町に稲荷が多くあったのは、一番簡単に祀ることができ、しかも正一位であったことが江戸っ子を嬉しがらせたからだといわれる。(参考:「歴史読本」特集江戸八百八町)
江戸市内の地名
青山(あおやま)
東京都湊区青山。
天正十九年(1591)に青山常陸介忠成が家康より宅地として賜った土地に由来する。『御府内備考』に、「家康がこの地に御成の折、忠成に命じて、老馬をもって一円を乗りまわされしを賜るの地」とあり、そののち、忠成の子、忠俊が家光の勘気をこうむり武州岩槻の所領とともに没収されたが弟の幸成が改めて拝領した。(『影武者徳川家康』本文353pにも同様の記述あり)
神田八丁堀(かんだはっちょうぼり)
『むさしあぶみ』に明暦火災後のことを述べて「白銀町より柳原まで町屋一通りのけられ、高さ二丈四尺に、石を以て東西十町あまりに土手を築せらる」とあり、『武江年表』には「元禄四年四月、今川橋通り小川始て堀割る」とある。これが神田八丁堀である。このように土堤を築き、堀を作ったが、猛火には効を奏さなかったので、安政四年堀を埋めて町家にした。
猿楽町(さるがくちょう)
猿楽町といふは観世太夫の屋敷ありしを、後外へ移されしよし「紳書」にあり(『武江年表』慶長八年)
竜の口(たつのくち)
江戸市内。江戸城から船を利用して、日本橋川から大川(隅田川)へ出て行くときの乗船場所。城の内濠の水が、道三堀に落ちる所で、そこから堀が外濠と日本橋川に通じていた。
伝馬町(てんまちょう)
江戸には大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町と三つの伝馬町がある。これら三伝馬町は江戸幕府の道中伝馬役を勤めたことから伝馬町と名付けられた。これは、天正十八年(1590)、家康が江戸入府をした際に宝田村、千代田村両村(現在の皇居前広場辺りにあった)の住民が馬を牽いて出迎えた功績から、両村に道中伝馬役を命じたことから始まり、慶長十一年(1606)江戸城の拡張工事に伴い両村は日本橋・京橋辺に移転した。そして引き続き幕府の伝馬役を勤めたことから、宝田村の住民は大伝馬町、南伝馬町を起こし主に道中筋御用を、千代田村の住民が小伝馬町を起こし江戸府内の伝馬御用を国役として勤めた。この道中伝馬役の代償として、伊勢・三河の木綿の依託販売が許されたことから、大伝馬町・南伝馬町は、江戸市中でも有力商人の居住する地区となった。これら三町の伝馬役に命じられた者は自宅を伝馬役所として多くの雇人を抱え、名主役を兼帯し、苗字帯刀を許されていた。
大・南両伝馬町の道中筋伝馬役は、江戸四宿へ公用の伝馬を逓送することであるが、江戸四宿から三伝馬町へは付け送りせず、両伝馬町の出す人馬には定数がなく、助郷も存在しないことが街道における宿場と相違した。また、公用の伝馬とは、将軍等の御上洛、日光御社参、諸国へ宿継御状箱、御茶壷道中、諸国巡見使、城受取引渡、禁中様御用、公卿衆様御発駕、日光御普請、日光御法事など種類が多く、幕末にはさらに増加した。将軍・公家・門跡などの御用は朱印状、老中・京都所司代・大坂城代などの御用には証文が出され、伝馬町の勤める人馬は無賃だけでなく駄賃で公務を補った。
並木の茶屋(なみきのちゃや)
浅草寺の雷門から南へ駒形に至る道の両側が並木町で、料理茶屋や食物の店が並んでいた。
日本堤(にほんつつみ)
○日本堤を築かせらる(水除の為に築かせらるゝ所なり。日本六十余州の諸侯御手伝ひにて出来候故に、しか名づくる共、或ひは日数六十数日にて出来候故とも云ひて、詳ならず。
日本橋(にほんばし)
日本橋川に架かる橋で、五街道や水戸佐倉道、岩槻道などの里程の起点となった。初めて架けられたのは慶長八年(1603)で、橋の長さ二十七間四尺五寸、幅四間三尺五寸、橋脚八本、欄干には擬宝珠が施された反りの有る木橋だった。この時、付近を埋め立てて町割りを行ない、翌年二月にこの橋を起点に五街道が整備され、一里塚が築かれる。以後、江戸期を通じ十九回の架け替えが有ったとされる。
日本橋川は江戸城大手門口と隅田川を結ぶ運河として重要な役割を果たし、河岸には諸問屋・魚市場が立ち並び、荷船・客船の往来が激しい江戸市中随一の人出のある盛り場であった。そのため、橋の南詰西側に高札場、東側には罪人(心中未遂者、女犯僧、主人殺しなど)のみせしめのための刑場さらし場が有った。
こうして日本橋は、日本の道路元標となったばかりでなく、江戸の経済の中心地として発展した。ちなみに、江戸時代の刑罰の一つに「追放」があり、それに「江戸十里四方追放」という刑があるが、その十里四方の基準も日本橋で、日本橋から半径五里圏内に立ち入ったり住することを禁ずる刑だった。
◯この時、日本橋をはじめて掛けらる。「見聞集」云ふ、大川なれば、川中へ両方より石垣を築出し掛け給ふ。敷板の上三十七魔四尺五寸、広さ四魔弐尺五寸なり。又云ふ、この橋御普請の時分、日本国の人あつまりて掛けたる橋なり。此の橋の名を人間はかつて以て名付けず、天よりや降りけん地よりや出けん、諸人一同に日本橋とよびぬる事、希代不思儀と沙汰せりと云々。(『武江年表』慶長八年)
番町(ばんちょう)
東京都千代田区番町。
家康は江戸城を守る任務を負った大番六組を、江戸城の西北部に宅地を与えて住まわせた。これにより麹町・市ヶ谷辺を番町というようになった。
日比谷(ひびや)
この辺をひゞや町といふ事、むかしは潮入の地にして、漁人海中に枝付の竹を並べ立て、魚の入るのを待ちて取る。これをひゞといふ。正字なし。今も海苔をとるに此のひゞを用ふ。ひゞかせぎをなすもの住居の地なれば、ひゞや丁といへり。(『武江年表』慶長三年)
待乳山(まつちやま)
金竜山。真土山とも書く。浅草観音の東北五町、今戸橋詰めの丘陵。
「昔この山より金竜を堀出しける故に、即ち金竜山と名づくといへり。聖天宮の社あり。大なる松山なり。古へはここを真土山といひし。これ武蔵の国の名所なり」(『江戸名所記』二)
一、待乳山(頭書 亦打山共)は名所にして古歌多し、前は日光奥州への街道にて千住への往還也、東は浅草川、山の腰を廻り三まぐり、牛の御前、眼下に見下し、霞はるかに本所深川見ゆ、都て此辺りには是程高き山なし、故に見晴しよく絶景の地也、名物米饅頭を売る、宝暦の頃迄は入口の角に鶴屋といふありて本家也といへり、其外にも多く餅屋ありしが今は皆絶て、わづかに西側に幽なる餅屋一軒残れり、夫も買人少きにや米饅頭多くは拵る事なし、是もまた名物の一種なれば時ありて昔に帰るべきか、(『享和雑記』巻四の五十)
三河町(みかわちょう)
三河町は江戸御打入の砌、三河の国より御小人を召され、此の所に旅宿の地を開かれ、こゝに居らしめ給ふ。尤も時節を定め、かはる/\本国より此の所に交代せしが、後に町屋に改まりしかど、古名を其の儘に三河町と号すると云々。(『武江年表』慶長八年)
吉原(よしわら)
廓町。
庄司甚右衛門が「神君御免状」をもって開いた吉原は、当初日本橋葺屋町の東側(現日本橋人形町二丁目付近)だった。その四十年後、幕府の命により浅草の外れ日本堤に移転した(現台東区千束四丁目付近)。最初の地を「元吉原」といい、浅草は「新吉原」と呼ばれた。
元吉原(もとよしわら)
庄司甚右衛門が江戸に開いた色町。江戸初期に開かれ、後に江戸の町が大きくなると浅草千束の田地に移転したため、現在ではこの「元吉原」を伝える遺構は残っていない。かろうじて「大門通り」という名が残っているだけで、近年まで残っていた「おやじ橋」「思案橋」の名も今は無い。
この吉原を知るには、最早文献に頼るしか無く、ここでは吉原の由来を記した『墨水銷夏録』からの文を紹介するだけになる。
「北条家の浪人庄司甚右衛門といふもの、慶長の初め、駿河国旅店のあるじ廿五人打より相談の上、江戸御城下朝日の如く繁昌のよし、各抱置く旅人の足あらい女召連下り、遊女宿となりなば抜群豊穣の身となるべしと、皆々一同して女どもを召連江戸に下り、御城下に入ては御とがめもあろうと恐て、今の荒井宿の浜辺の出町の地をかりて、表に紺の三尺幅に仕立たる長暖簾の端に鈴付置、客来りて暖簾を動かすと鈴のなるを合図に女ども出でたるを見たて、其宿に思い思いに客上りし故、此の處を『鈴が森』と名付けたる也。森とは此町の入口に大井社の森あればなぞらへいふ也。
神君、品川御鷹野御成の節、此處の浜辺に床几を置それに座し給いひ、彼遊女どもに茶をはこばせて召上候事あり。其後右廿五人のものども御願申、今の京橋具足町の東、葦沼の汐入を拝領し、築立その地どり丸く、一方口に南の片側を角町、北の片側を柳町と名づけ、中一筋の通りを中の町と名づく。此一筋に表に釜をいだし茶釜を懸置き、入来る客に茶をうる、此を茶屋という。両町の内、又南北の道をつけけりその町十文字をなし、丸き内に十字の町あるゆえあだ名を轡町といひ、雅人は是を十字街といふ。そのぐるりも通りにして下品の女を置く、これを河岸傾城といふ。扨其町の中に揚屋とて客女郎を招き遊ぶ宿あり、是はもはや繁花になりてのことなり。その頃より遥後迄も町人の類中は、此處に至る事決してなし。悉く諸家の武士、諸家の陪臣也。とかく武士たる者ならでは通はざりし事なりし其揚屋の勝手のかたに馬屋を立置、馬五六匹宛飼置暁には客の帰るとき其馬に鞍置き率せて乗せ送りし也。按ずるに此事は至りて古風の事なり。(中略)然るに日を追ひ年を重ねて遊女宿こゝかしこに出来、糀町などにもあり、彼の庄司甚右衛門分別の上、今の堺町の東に於て葦沼谷地拝領し、江戸中に散在したる遊女宿一所にありたき由願候處、其通谷地被下置。かの京橋柳町角町の本店をはじめ處々より集りたるものどもをよせて其町五丁にとりたて、その名を吉原町といふ。其中の通を中の町といふ。されば今に大門通りの古名のこれり。其始駿河国より下れる廿五人のもの各廿五歳三十歳を過ぬものども也。その内庄司甚右衛門四十五六歳ばかりにて下りける故、一列の中にて甚右衛門をつねづねおやぢと呼びける。然るに五丁に作りし町の一二丁西の方、殊の外葭沼の汐入にて路次あしく客人通ひ兼るゆえ甚右衛門世話をやきて水をはき、橋をかけて往来せしむ。親父が世話をやき懸たる橋故その名を『おやぢ橋』とよび遂に橋の名となり今に古名残れり。右五丁に取立し吉原町に至って公儀より厳重に被仰御書付二通被下置、共文医院両道の輩の外のりものにて出入可致儀一通、何方にても遊女抱置もの有之候はゞ其女召取候、其名主年寄家主急度曲事可致被仰付旨一通被下置候」
『死ぬことと見つけたり』
この吉原で、杢之助、求馬、萬右衛門たちは甚右衛門、甚之丞らの知己を得て、西田屋に屡々足を運んだ。
歴史用語の基礎知識『色里用語の部』「元吉原」の項参照。
新吉原(しんよしわら)
現在、吉原という地名は無く、辛うじて交差点やバス停に「吉原大門」の名を残すだけとなっている。町並なども全く変り、最早往時を偲ぶ面影はなく、この地を訪れても何の意味もないのかもしれないが、近年になって設置された旧町名のプレートを頼りに、想像力を駆使した時空の旅をしてみるのも良いかもしれない。ただし、昼間でもソープの客引きが声を掛けて来る。
『歴史用語の基礎知識』「色里用語の部」【吉原】項を参照ください。
その他の武蔵国地名解説
板橋(いたばし)
中山道の宿場町。江戸四宿の一つ。現東京都板橋区板橋。
徳川幕府が整備した五街道の一つ中山道にある第一の宿場「板橋宿」。日本橋から二里の行程で、宿場町に許されていた飯盛女(宿場女郎)を目当てに、「吉原」に通えぬ人達が、それを目当てに出掛け賑わった。
神奈川(かながわ)
東海道の宿場町(神奈川宿)。横浜市神奈川区。
東海道の宿駅の一。日本橋より七里。現在の横浜市神奈川区内で、東海道線「東神奈川」駅近辺。
品川(しながわ)
東海道の宿駅(品川宿)。江戸四宿の一つ。
日本橋より二里。現在の品川区内で、品川駅の南の八ツ山橋を渡った辺り。品川宿には食盛(飯盛)の名目で当時(江戸中期)五百人の女を抱えることが許されていたという。
千駄ヶ谷/千駄木
江戸近郊の地名。
千駄ヶ谷は千駄萱が転じたもの。千駄は馬千頭分の荷という意味で、それぞれ千駄(馬千頭分)の萱、千駄(馬千頭分)の木という意味になる。この千駄の萱や雑木を焚いて雨乞いをしたことから、「千駄焚き」という言葉が生まれ、それが地名となったのであろうと柳田国男氏は述べている。
「東京のもとのまわりには西南のはしに千駄ヶ谷、北に片よって千駄木というまちがあって、ともに聞きなれぬ地名だから人が注意している。千駄ヶ谷はもと郊外の農村だった。古い地誌にはここは広い野で、萱が千駄も刈れるところから、千駄萱といったのが村の名のおこりであろうと書いてある。一駄というのは駄馬一頭に背負わせるほどの荷物のことだから、萱はかるいといっても二十貫いじょうはある。それが千駄も刈れたとすれば、大へんな広い野にちがいないが、武蔵・相模の高原にかけて、それくらいの野は今でもまだ残っている。べつに地名にするほどの珍らしい事実ではなかった。千駄木のほうもその通りで、もとは一軒の家ですら、年に三駄五駄の木を焚いていたのだから、薪山としてはむしろちっぽけなものであった。
何かこういう地名の生まれるような原因が、ほかにあったのではないかと考えて見ると、日本全国を通じて、いちどに千駄の萱または木を、焚かねばならぬ場合がたった一つだけあった。それは夏の初め、農作にもっとも水の必要なころに、雨がちっとも降らぬと百姓がよわってしまって、いろいろ雨乞いの祈祷をする。その最後のものが千駄焚きだったのである。通例はこの火は山の頂上のいちばん天に近いところに行って焚くので、それで雲焼きとも雲焙りともいう地方もあるのだが、東京の近くはたれも知る通り、一日あるいて行っても尖った山がない。それゆえに何処かやや広々とした野を見つけて、人がそこに寄って来てこの大きな火を焚いたものとおもわれる。」(柳田国男『母の手鞠歌』)
千駄焚き
(雨乞いの風習で)名称のほうからいうと、これは千駄焚き、またはセンダキというところが、もっとも多い。しかし名まえだけではなく、じっさいにも木なり萱なりを千把は焚くので、労力だけとしても容易なことではない。それだから、七日や十日の雨無しには、もっとかんたんな別の方法で雨乞いをするが、それがどうしても効果なく、いわゆる百計つきたという時になって、思い切ってこの手段に出るのである。田植や夏物の栽培にたいして、雨がどのくらい大事なものであったかは、こういう雨乞いの方法の何十種というほどもあるのを見てもわかる。(略)
千駄焚きは、いよいよそういういろいろの手段がみな無効におわり、もはやしんぼうができないというときになって、村が大きな決意をもって取りかかる方法となっていたが、燃料がまだゆたかで、また人の手にもあまりがあった時代には、あるいはもっと手がるに、そういうくわだてをしたかも知れない。近いころまで、それがまだ残っていたのは、東北では岩手県の遠野地方などは千駄木、西のほうでは長崎県の下五島久賀島、佐賀県では厳木の山村、大分県でも玖珠郡の村々などにこの雨乞いがあり、それをセンダキというのもあるが、これらは千駄木ではなく「千焚き」であったかもしれない。数は千というほど多くても、もう束がずっと小さく、したがってまたこれを千把焚き、もしくは千ばえ焚きというところが多いのである。(柳田国男『母の手鞠歌』)
高幡(たかはた)
「たかはた」とは、高所に開墾された耕作地や白っぽい田畑などを意味し、高畑あるいは高畠と書かれるのが一般的で、これらの地名は全国に20ヶ所以上ある。
しかし「高幡」となると、全国的にも珍しい地名という。この「高幡」という名を江戸時代後期の文人・墨客らが、紀行文などに「高畑」「高畠」などと書いているものも有り、「高畑」「高畠」が転じたように思われるが、高幡という地名の元となった「丈六不動三尊」は、平安後期から一貫して「高幡不動尊」と呼ばれ、記録に記され「高畑」「高畠」では無かったことが分かる。このことは、鎌倉時代初期まで五代に亘って不動尊護持に尽した武蔵七党西党の高幡氏の存在でも確認される。
武蔵七党の西党高幡氏は、甑島小川氏系図によれば、西党日奉(ひまつり)氏の有力な一族で、初代宗貞の時代、得恒郷(現日野市南平・高幡・三沢地区)はじめ平山、由木、中野、河口郷を勢力下におき、平山氏、小川氏、平井氏、二宮氏などを従える貫首(かんじゅ)の地位にあったという。高幡氏は五代弘忠の代で絶えるが、この弘忠は、頼朝上洛の供奉者として『東鑑』「建久六年の項」に見える高幡太郎と同定される人物。
「高幡」という地名が生まれ由縁は、高所の耕作地を意味する「たかはた」という呼び名の地に、僧堂を建立した僧たちが、法ののぼり旗を高く掲げる意味あいで、「幡」の文字を使用したのであろうと、高幡山金剛寺館貫主川澄祐勝氏は述べている。(「山報高幡不動尊」第69号より)
八王子(はちおうじ)
宿場町(横山宿)。
室在、東京の西の中核都市となっている八王子だが、その名が歴史に登場するのはそれほど古くはない。また現在の市街地が形成されたのは江戸期からであり、それまでは小田原北条氏の領国の東北辺に隣接するこの地に、甲斐武田氏への押えとして山城(滝山城)を築いただけの邑だった。やがて、北条氏康の次男氏照が天正元年(1573)頃、滝山城の近く深沢山に新たに城を築き、「素戔嗚尊の五男三女を祀る」といわれる八王子権現を城の鎮守神として、八王子城と名づけた。このことから八王子という名がこの地の名称となったといわれている。当時八王子といわれた地は、現在の元八王子辺でまだ都市というほどのものでは無かった。
天正十八 年(1590 )、小田原の役で北条氏が滅び家康が関東を領するようになった時、大久保長安が地方巧者としての手腕を買われて、いわゆる関東十八代官を統括する代官頭の地位を与えられ、武蔵を中心とする関東周辺の領地支配にあたっていた。この時長安は、同じ武田家の旧臣で組織された同心の住む、武蔵国多摩郡柚井領横山村小門(現八王子市)に陣屋を置く。この同心とは後に八王子千人同心と呼ばれる元武田家の家臣250 名で、家康は彼等をこの八王子周辺に住まわせ、甲斐・武蔵国境の警備にあたらせていた。後に千人頭と呼ばれる旗本十人が任命され、それぞれ百人づつの同心を統率し、小仏峠など江戸の西の警備にあたった。関ヶ原、大坂の陣にも参戦。慶安五年(1652)以後は、日光の「火の番」を任務とし、東照宮の警護にあたった。同心町に住む同心以外は、通常本百姓の生活を続けながら公務についていたという。
家康が天下を取り、慶長六年(1601)、江戸に幕府を開くと街道の整備が行われる。その時、甲斐方面への交通路として、小仏峠越えの道を整備し関所を設けるなど、やがて五街道の一つともなる甲州街道を開通させるのだが、この街道整備の任に命ぜられたのも長安だった。長安は、一里塚を設けるなど五街道の整備にも力を注いだようだ。こうして、当時何も無い野原だったところに、同心町ができ陣屋が置かれ、そこに甲州街道を通した長安は、街道沿いに横山・八日市・八幡の三宿を開き、八王子城の城下から民家を移転させ、現在の八王子の町を造りあげた。この時、長安の下で八王子の町の建設に力を注いだ人物に長田作左衛門がいる。作左衛門はもと八王子城主北条氏照の家臣で、のち武士を捨て総名主となって現在の八王子の基礎を築いた。
桑の都西行歌の事
八王子を桑の都と古俗申習はしけるが、玉川を越してあざ川といふ小さき川ある辺なる由。絶景の土地也。富士も能くみゆる土地也。土老の西行の歌也と申伝へしは、
字(あざ)川をわたれば富士の雪しろく 桑の都に青嵐たつ
「如何にも気性ある歌なれど、いづれの集にも見えず」と、是雲といへる法師のかたりぬ。(『耳袋』巻之八)
深谷(ふかや)
深谷城の城下町。
東京都心から80km圏に位置する深谷市は、埼玉県北部に位置し、利根川をはさんで群馬県と隣接している。また、全国ブランドともいえる「深谷ねぎ」の産地として知られ、近代日本の実業界随一の指導者として活躍した、渋沢栄一が生まれた町でもある。
この深谷は、南北朝時代の後半に、上杉憲英(のりふさ)が現在同市にある国済寺に庁鼻和(こばなわ)城を築き、その後200年以上にわたって深谷とその周辺は、憲英を祖とする深谷上杉氏が支配した。その後、康正二年(1456)、上杉房憲(ふさのり)によって深谷城が築かれる。深谷上杉家は山内上杉家に従い、北条家の北武蔵進出にも抗していたが、憲賢の代に北条氏に降った。そのため天正二年(1574)には上杉謙信に攻められ、深谷城下は戦火に見舞われている。秀吉の北条攻めのときは、当主氏憲は小田原城に詰めることとなり、深谷城は重臣秋元氏らが守るも、落城間際に城下の戦火を避けるため城を開いた。
徳川家康の関東入国で、その臣松平(長沢)康直が深谷城に入城、深谷一万石を領した。しかしその康直は文禄二年(1593)、二五歳の若さで亡くなる。康直には嗣子が無く、三河譜代の名家が絶えるのを惜しんだ家康は、翌年、生まれたばかりの第七子松千代(忠輝の弟)を長沢松平家の養子にし、その名跡を継がせるのだった。その松千代も六歳で早世し、皆川広照の元で育っていた辰千代(松平忠輝)をその後に入れる。辰千代は八歳になったばかりだった。城主になったとはいえ、それは名ばかりの事で、実際にはこの当時、辰千代は母お茶阿の方のいる江戸城に住む事と成る。後に大坂夏の陣直前の家臣による直参旗本斬殺事件や怠戦が疑われて家康に勘当を言い渡され、自ら蟄居の地に深谷を選んだ。
安房国
安房国(あわのくに) 現・千葉県房総半島端
養老2 (718) 年5月2日、上総国の平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて安房国が建てられた。天平13 (741) 年12月10日に上総国に合したが、天平宝字元 (757) 年に元に復した。房州と呼ばれる。
[国府]
当時の平群郡、現在の安房郡三芳村の府中と思われるが、正確な位置は不明である。
[守護所]
[幕藩体制確立後]
長尾藩(四万石)、花房藩(三万五千石)、勝山藩(一万二千石)、館山藩(一万石)が置かれた。
安房国地名解説
安房国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
安房国
安房之国の風俗は人之気尖成事、譬ば刃の如く、和すること寡ふして、常の作法もかたくへなり。唯人は男女ともに死する事を手柄とのみ覚て、仮初の付合にもたがいに歯を抜き一同之思案にて大形万事思案工夫分別する事不成也。其内にも気質之稟る事能く生付たる人もまゝ有。此国人は言葉溶、卑俗なれども根源に正き所を生得たる上に道理を分別したる故、一旦は尖に見ゆるといへども、武士は武士之上に備る程之器となり。農工商ともに皆是に準へ、而可知。然ども如斯之人は多く無之、而只気質につながれ、漸く理非を少弁ふる人のみ有。さ有るに付て、かり染に執行ふ事も我が生得之気に任せて、執行ふ故に手強く、而堕落なる事稀なり。学者と云人も今不見は、其風流に随て自然と勤るものなり。(『人国記』)
上総国
上総国(かずさのくに) 現・千葉県中部
7世紀に総国 (ふさのくに) の分割によって建てられた。当時、都から来る道は、相模国から陸路を通らず浦賀水道を経て房総半島に渡り、半島を南から北へ抜けていたため、行程において都に近い南部が上総国、都から遠い北部が下総国と名づけられた。上総は古くは「かみつふさ」であったが、「かずさ」に訛化し、7世紀末には上狭と書かれることもあったという。
[国府]
市原市と推定されており、国分寺跡、国分尼寺跡が発掘されているが、国府の遺構はまだ見つかっていない。中世の国府は能満 (府中) にあったと考えられている。
[守護所]
[幕藩体制確立後]
鶴舞藩(六万石)、菊間藩(五万石)、芝山藩(五万石)、久留里藩(三万石)、大多喜藩(二万七千二百石)、飯野藩(二万石)、佐貫藩(一万六千石)、鶴牧藩(一万五千石)、一宮藩(一万三千石)、大網藩(一万一千石)、貝淵藩、桜井藩、小久保藩(各一万石)が置かれた。
上総国
上総国人之風俗、大体安房に替る事なし。雖然此国の人は別而気質偏屈に而、其勤る所諸民ともに常に山賊夜討を本と覚へて、正道を知る人百人に九十人無之。雖然其けなげ成事関東二番と可尖風儀に非ず。されば勇を内にし、智と和とを外に而是を勤るを以善とす。然に此国の風儀勇を先きに而智を後にするといわんや。最智勇兼備の人有と難云。唯気質に勝て、勇を強く行ふ風俗なり。危き事のみ多し。(『人国記』)
上総国地名解説
上総国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
下総国
下総国(しもうさのくに) 現・千葉県東部
7世紀に総国 (ふさのくに) の分割によって建てられた。下総は、古くは「しもつふさ」と呼んだ。
下總上總の總とは木の枝を謂。昔此国大なる楠を生す。長数百丈に及べり。時に帝之を怪み之を卜占し給ふに、大史奏して云、天下の大凶事也。因レ茲彼木を斬捨。南方に倒れぬ。上の枝を上總と云、下の枝を下總と云。風土記(国花萬葉記十)
[国府]
現在の千葉県市川市の国府台にあったとされ、国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。
[守護所]
[幕藩体制確立後]
佐倉藩(十一万石)、古河藩(八万石)、関宿藩(四万三千石)、結城藩(一万七千石)、多古藩(一万二千石)、高岡藩、小見川藩、生実藩(各一万石)が置かれた。
下総国
下総国の風俗上総に同じ。然れども結城人は律儀に而一国之内にも珍敷きことなり。(『人国記』)
下総国地名解説
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佐倉(さくら)
佐倉城の城下町。
佐倉は文明年間(1469年〜86)に、千葉輔胤によって現在の酒々井(しすい)町本佐倉に本城を構えたことから始る。この頃から佐倉の名が資料に多く見られるようになる。佐倉という名の起りは、この地で生産された麻布を、朝廷に献上するための貯蔵庫があったことから、アサクラが転じサクラになったという説と、清い倉があったことから、すがすがしい語源をもつ「さ」という言葉をつけ、「さくら」と呼ぶようになった説などがあるという(佐倉市HP)。
本佐倉城は酒々井町本佐倉地区と佐倉市大佐倉地区にまたがる丘陵地に築かれ、以後百有余年にわたる戦国時代を通じて下総の中心となり、千葉家の当主九代が城主として下総を治めていた。この頃、千葉氏は下総の覇権をめぐって小弓公方や上杉氏・里見氏との合戦を繰り返していたため、小田原北条氏と姻戚関係を結び同盟する。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏に味方した千葉氏は滅亡し、本佐倉城は明け渡された。徳川家康が関東に入ると、その家臣三浦義次が佐倉、酒井家次が臼井、北条氏勝が弥富に領主として配置された。その後、家康は五男の武田信吉を佐倉に四万石で配置。慶長七年(1602)、信吉が常陸水戸に移ると、六男の松平忠輝が五万石で深谷から転封してくる。
慶長十五年(1610)に五代目領主として佐倉(本佐倉)に入った土井利勝は、新たに鹿島山に佐倉城を築く。この時の城下町が現在の佐倉市となり、佐倉城は江戸城の東方を固める諸大名の城となり、土井氏以後九家二十代にわたり藩主が交代した。
辰千代がこの下総佐倉五万石に加増された時、元服し忠輝となり上総介に任ぜられたのだった。しかし、ここの領主であった期間は一年と短く、実際には領地には赴かず長沢松平家の江戸屋敷に住居していたという。
銚子(ちょうし)
港町。
万治元年(1658年)に紀州(現在の和歌山県)広村出身の碕山治郎右衛門により 戸川(外川)浦が開港される。 築港後、市街地と干鰯場を設計建設し紀州を中心とした漁業者や商工業者の移住で戸数は千戸を越えるまでになっていた。
本来「銚子」は地名ではなく、利根川の河口を指すもので「銚子口」と呼ばれていた。川幅1000メートルを越す所もある利根川下流域が、河口で急に狭まり太平洋に注ぎ出、まるで銚子(酒器)のつぎ口のような形状をした河口のため「銚子口」と呼ばれた。 1600年代初めには「銚子口」「銚子湊(みなと)」の名を文献に見ることが出来る。 これらは地名ではなく利根川の最下流域付近の水域を意味していた。 そして、銚子湊は江戸時代に東北地方と江戸を結ぶ海運の商業港として発展する。 商業港としての機能の多くを銚子湊の右岸側が受け持った。 そして「銚子」は水域名にとどまらず、右岸(下総)側沿岸の陸地名として用いられ始める。 この沿岸地域は固有の村名を持ついくつかの村々だったが、簡単で便利な呼び名「銚子」が江戸を始め多くの地域で使われることになった。
実際に「銚子」が行政区画名として町名に使われたのは、明治22年(1889年)「市制町村制」という法律が施行された時からで、「銚子市」が誕生したのは昭和8年。この時には小説の舞台となる筈だった外川はまだ銚子市に入っていない。町村合併で現在の銚子市に外川が入ったのは昭和12年のことになる。
宝暦期の小納戸兼書物奉行だった幕臣岡村良通が著した随筆『寓意草』に、「銚子のさとは下総の国海上の郡にあり。ひの本の東のはてなりけり。ありそには黒く白きいは山のやうにかさなりて、東は漫々たるあをうなばら也。直下せばそこもなくほとりもなし、犬ぼえ(犬吠崎)、せんが窟などいふ所あり。むかしいぬめといふあまの、をとこの海にしずみてみまかりけるをなげきて、此石のうへになきふしにけるより、犬ぼえといふとなん。畜生道におちたる心ちこそせめ。外川といふ所あり。こゝは紀伊国の人のみ集りをる、男ばかりありてをうなはなし。海人のいをゝとり、めをかり、かひひろうさま、鎌倉の海にて右大臣実朝卿の、常にもがな、とよみしもおもひあはせぬ。とかはの石をわれば、琥珀さはにあり、かんしつもありけり。椰子のあらいそに流れくるをひふもあり。このやしはいづれの国よりながれ来るらん。てうしの川より北はひたちはらといふ、かしまがさきなり。鹿島の浦にはまさごのみありていはゝなし。」と書かれている。
外川(とがわ)
銚子の名が現れる前の地名。戸川、外川浦とも呼ばれた。 碕山治郎右衛門が開いた当時の名で、治郎右衛門の市街地設計は現在の外川の町並みにも反映され生き続けているという。
常陸国
常陸国(ひたちのくに) 現・茨城県
『常陸国風土記』によれば、孝徳天皇の時代に関東地方以東を指す我姫国 (あづまのくに) を分割してできた八国の一つとして成立した。常州とも呼ばれる。
「ひたち」という呼び名は、『常陸国風土記』には、大和の都から「直道」(ひたみち)で辿りついたから「ひたち」というとあるが、「日立つ」からきているという説もある。これは、日本武尊が日の出ずる場所を求めて東征した際に、最終的に辿り着いた土地だった事から名付けられたとされる。いわば大和政権の祖神(日)伝説から、その誕生の地を求めて日本武尊が辿り着いた場処で、大和から東に向う土地の果てとなり、「東海道」の最後の国として「ひたち」の国は宮国とされたとも云われる。(中西進「東海道いま・むかし」)
[国府]
現在の石岡市にあり、遺跡が発掘されている。
平国香が常陸国介となるが、子の貞盛の代に上総介平将門により国府を攻撃され敗走。これがきっかけとなり将門はその勢に乗じて上野国、下野国の国府を攻略。北関東一円を制して中央から独立、新王を称した。
将門が流れ矢に当って没すると、その東国国家はあえなく消滅し、その後、新羅三郎義光が蝦夷征伐の功で常陸国介となる。このことが東国における源氏の基盤となった。
[守護所]
常陸大掾氏、佐竹氏が鎌倉御家人として守護となる。やがて下野国守護小山氏に始る結城氏が台頭し、筑波の八田氏とともに常陸四大豪族として繁栄、守護大名となった。
[幕藩体制確立後]
水戸藩三十五万石を筆頭に、土浦藩九万五千石、笠間藩八万石、松岡藩二万五千石、下館藩、府中藩二万石、谷田部藩一万六千三百石、志筑藩一万百十石、宍戸藩、下妻藩、牛久藩、麻生藩一万石がそれぞれ置かれた。
常陸国
常陸国之風俗、如形不可。然而唯盗賊多して夜討推込辻切等をして、其悪事顕れ罪科に行はるゝといへども、恥辱とも且て不思。結句至其子孫には病死などは不為などゝ一つの系図に而盗賊するを微塵も非義非礼と云事を不知やうの風儀にて、唯肝胆之間逞く生れ付て如此と見へたり。武士之風儀も是に不替、而道理を知る人少し。たとへ知といへども我意にまかせて執行、故に理に似たる。無理義に似たる不義のみ多、而更に善と難云。世之唱ふるにも、常陸国を差、而全き人なき国と呼り。昨日味方にて今日は敵と成の風儀は千人に一人もなし。若し国風之垢をけづる人あらば、天下に名を呼程之者なるべし。(『人国記』)
常陸国地名解説
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