歴史地理・地名便覧[山陽道]

播磨国

播磨国(はりまのくに) 現・兵庫県南部

七世紀に成立した。

[国府]
飾磨郡にあった。現在の姫路市本町にある本町遺跡が、その跡と推定されている。

[守護所]
赤松氏と山名氏が守護職を争い、交代で勤めていた。

[幕藩体制確立後]
姫路藩(十五万石)を筆頭に、明石藩(八万石)、龍野藩(五万一千石)、赤穂藩(二万石)、三日月藩(一万五千石)、福本藩(一万五百石)、山崎藩、安志藩、三草藩、林田藩、小野藩それぞれ一万石が置かれた。

播磨国 
播磨の風俗智恵有て義理を不知、親は子をたばかり、子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ、悉皆盗賊の振舞也。侍は中々不好不及是非也。若き侍の風上にも可置国風にあらず、偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし。(『人国記』)

播磨国地名解説

播磨国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

高砂(たかさご)

播磨国加古郡高砂村。兵庫県高砂市。
加古川左岸に位置する海岸一帯。中世初期から泊として存していたが、秀吉・池田輝政らの加古川改修・港湾整備により発展。室津・江口と並んで遊女も存在していた。謡曲「高砂」以来松の名所として著名となり住吉と並び称された。

室の泊(むろのとまり)

津泊。播磨国揖保郡(兵庫県揖保郡御津町)にある湊。
波静かな入江で室の中にいるような港であることからこの名がついたとされる。瀬戸内海の停泊地として古くから名があり、奈良時代に播磨五泊の一つに数えられる。近世には「西国一の船がかり」と称され、また遊女の発祥の地としても知られる。

室津(むろのつ)ともいい、中世以来の要港で、遊郭を小野町と称し、平安の昔、「空海に詞をかはしたる女遊女なり」という伝説があって、この港は「日本遊女の根元なりといふ」(『色道大鏡』十三)。(『好色一代男全注釈』)

美作国

美作国(みまさかのくに) 現・兵庫県中部

和銅六年(713)四月三日に、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分けて設けられた。
美作の国云々、旧記に曰はく、和銅六年甲寅四月、備前の守百済南曲、介上毛野堅身(かみつけののかたみ)等が解によりて、備前の六郡を割きて、始めて美作も国を置きき云々。但し、風土記には、上毛野堅身を以ちてすなはち国の守と為すといふ。(伊呂波字類抄)

[国府]
苫田郡にあった。現在の津山市総社で、1970年に遺跡が発見されてから発掘調査が続いている。

[守護所]
平安末期には平氏が守護を勤めるが、鎌倉期には赤松氏が守護となる。

[幕藩体制確立後]
津山藩十万石、鶴田藩六万一千石、勝山藩二万三千石が置かれた。

美作国
美作国之風俗は百人が九十人は万事之作法卑劣に而欲心深く譬ば借物を而夫を返納せず、而手柄之様に覚る風儀に而片意地強く我は人にまさらん事を思ひ過ち有ても夫に教訓を加る人あれば、却而夫を邪智を以て過ち無が如くに云なし、似たる事なれば我が過ちを人の過ちのやうに仕なして、我が意地を可立とする事上下皆是風俗也。然ども侍十人の内三四人は心掛如形の人も有奥意には変じ安き所もあるなれば頼もしからざる所ありといへども石州にはまされり。(『人国記』)

美作国地名解説

美作国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

勝間田の池(かつまだのいけ)

美作風土記に曰はく、日本武の尊、櫛を池に落し入れ給ひき。因りて勝間田の池といふ云々。(詞林采葉抄一)

備前国

備前国(びぜんのくに) 現・岡山県南部

吉備国が7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割されて成立された。分割後の一時期、吉備道に属す一国だったと推定する説もある。この時の備前国は、後の美作国の領域と、小豆島、直島諸島を含んでいた。

[国府]
上道郡にあった。現在の岡山市と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]
当初は平氏が守護を勤めたが、鎌倉期に入ると赤松氏、山名氏が守護を勤めた。

[幕藩体制確立後]
岡山藩三十一万五千二百石が置かれた。

備前国
備前国の風俗上下ともに利根之故に利根を先と而万事執行ふに仍て、言行之相違する事十に而五つ六つ如此別、而諂ふ心強く而上に翫ふ所之儀をは善悪邪正を不撰而ぬき好むが如くにもてなし、内心は侫を含みて誹謗する事主は被官を滅を以是ををさゑんとし、被官は主に従ふ如くなれども、嘗て内心不快而善と見ゆるといへども其善不積而名刹の為になす所多し。譬ば芸術を執行ふに十人が九人善悪に不構其事を成就せしめて、是を朋友の於前には我一人之様にふけらかして、而もその奥意之至公成処は夢にも不知而如斯にもてなし、或は武の用る兵器兵書をかざり立てば心掛之深き侍と人に用をれん事を好む風儀都而皆如此に而、寔に名刹につながれ実を失ひ、虚をふるまい、不及是非雖然不智不学不志之人にたくらへて、是を見る則は事里ともにはる/\上也。若し能き人有て、是気質を離るゝ工夫をなさしめば、百人に而一二人も其処に可随が多くは諂ひ有て智有国風なれば、五十年にも及びなば其風儀直に成べきか不好風儀なり。(『人国記』)

備前国地名解説

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小豆島(あずきじま)

小豆島(しょうどしま)の古称。
元は「あずきじま」と呼ばれていたが、音読されて「しょうずしま」となり、「しょうどしま」と転訛し、それが一般的な呼び名となった。島のほとんどは山地で、海岸はおおむね岩石海岸で島の北側・東側は単調な海岸だが、南側にはいくつかの湾が形成されていた事から、瀬戸内海の交通の要衝として古くから開発された。天正年間(1573〜92)には豊臣家領となり、江戸時代は幕府の直轄地となっている。また江戸時代には、島内二十八寺院と庵、行場などが四国八十八ヶ所霊場を模した小豆島八十八ヶ所霊場巡りとして人気となり、現在に至っている。壷井栄の小説『二十四の瞳」は、ここの小学校を舞台とした作品で、映画やTVドラマにもなり広く知られている。備前国に含まれていたが、現在は香川県に含まれる。

[大坂城築城残石]

小豆島の北部海岸小海地区の防波堤上にある御影石の石塊。大坂冬の陣直後、幕府側が計略を持って毀損した大坂城の堀や石垣を修築するために、大坂城落城後、徳川秀忠・家光によって、各地から石材が集められた。ここ小豆島の石は良質な御影石だったことから、多くの石が切り出され大坂に送られたが、そのうちの幾つかが切り出されたまま海岸に残されたという。

備中国

備中国(びっちゅうのくに) 現・岡山県南西部

7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。

[国府]
賀夜郡にあった。現在の総社市と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]
平氏が守護となるが、平家没落後は、高氏が守護となる。
小早川氏が守護を任ぜられる。

[幕藩体制確立後]
倉敷地方は天領となる。
岡山新田(浅口)藩二万五千石、足守藩二万五千石、松山藩二万石、庭瀬藩二万石、新見藩一万八千石、岡山新田(窪屋)藩一万五千石、成羽藩一万二千七百石、岡田藩一万三百石、浅尾藩一万石が置かれた。

備中国
備中国之風儀都而意地強く侍を初と而百姓男女までも勇気の義理をはげます心常に有、雖然不敵成意地有故に道理を不弁事多ふ而、譬ば兄弟口論をなして兄は弟を哀ます。弟亦兄を敬と云心を不弁一気勢に随て兄弟と而切結、終に討果すの類儘有と見へたり。然れども此国の内備前堺より半国は風儀不正繕ひの風流なる所有故に真実は西郡程には中々無之。(『人国記』)

備中国地名解説

備中国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

宮内(みやうち)

吉備津神社の門前町。岡山市高松町宮内。
岡山から二里六町隔った備中一の宮の吉備津神社の門前町として栄えた。岡山藩は、城下での遊里・芝居を禁止し、代りにこの地に遊廓を置き、芝居を興行させた。「祭礼は毎年四月上旬、連日市を立て、近國の甲乙人多く集り、歌舞妓・操りの芝居並びに瀬戸内の遊女集ること、厳島の祭の如し」と『陸西遊行嚢抄』七にある。

備後国

備後国(びんごのくに) 現・広島県東部

7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしい。平安時代の『和名類聚抄』は、備後国を「きびのみちのしりのくに」と読む。

[国府]
葦田郡にあった。現在の広島県府中市府川の近くと推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
平安末期には平氏が国司に任じられている。

[守護所]
小早川氏が守護を任ぜられる。

[幕藩体制確立後]
安芸に隣接する地域は広島藩領。福山藩(備中領含め十万石)が置かれた。

備後国
備後国の風俗は人之気実儀に而一度約をしたる事は変かへをする事鮮し。然れども愚痴成事多き故不実成事をも不弁而うけ合、終に悪名を取る事多かるべきなり。大体は西備中之風俗也。武士之風儀もかくのごとく也。(『人国記』)

備後国地名解説

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鞆(とも)

津泊。備後国沼隈郡鞆村。広島県福山市鞆町
備後灘に面した港町で、神功皇后西征の伝承による船尾の臚・武具の鞆から名づけられた地名。上古より潮待ち港として瀬戸内海航路の一地点をなし、室町時代に入ると瀬戸内の水運を掌握するための軍事上の重要地となる。応仁の乱後は大内氏の支配をうけ、陶晴賢の謀叛の後、毛利氏の支配下におかれた。また当地にも遊女が住していた事が知られる。

和布苅の泊(めかりのとまり) 

津泊。備後国御調(みつき)郡にある湊。
備後灘から三原瀬戸に入る航道を布刈の瀬戸といい、『大日本地名辞書』の解説に寄れば、現御調郡向島町近辺を指していたらしい。

安芸国

安芸国(あきのくに) 現・広島県西部

安芸は古くは阿岐と書いた。7世紀に阿岐国造の領域に安芸国が設置された。

[国府]
安芸郡にあった。現在の府中町と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
平安末期には平正盛・忠盛・清盛の平氏が三代にわたって国司に任じられた。

[守護所]

[幕藩体制確立後]
広島藩四十二万六千石(備後領含む)、広島新田藩三万石が置かれた。

安芸国
安芸国之風俗は人之気質実多き国風なれども気自然と狭く而、我は人の言葉を待ち人は我を先にせん事を常に風儀に而、人之善を見てもさして褒美せず、悪を見ても誹る儀もなく、唯己々が一分を作廻ふ意地に而抜出たる人千人に十人と無之して、世間之嘲弄をも不厭る風儀也。侍之形儀取分如斯なり。因茲頼みなき様なれども、底意は実儀よりをこりたる事なれば、善き処多し、此気質を離たる人出来は名人とも可謂人出る国風也。別而佐伯沼田加茂郡之人律儀強くて心表裏すくなく形儀よきなり。(『人国記』)

安芸国地名解説

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宮嶋(みやじま)

厳島神社の門前町。安芸国佐伯郡宮嶋。広島県佐伯郡宮島町。
広島藩は、近世初期から城下町の住民が、芝居・遊所に赴くことを禁じ、城下での芝居興行を一切禁止していたので、広島町民は厳島での年に三度の市立てに催された歌舞伎を主とした芝居見物に出掛けた。特に六月十七・十八日の厳島神社の大祭・管弦祭を中心とする大市では、芝居興行と遊里開業を黙認し、息抜きの手段としていた。『諸国色里案内』中には「六月七日より七月まで市あつて諸国より集る。女郎も大坂より多く連れ行き、宮の前の芝に小屋を掛け、売買いたす」とあり、『一目玉鉾』四にも「此の島(略)人家立ち続き、六月の市芝居の色々ここに集る。遊女町有り」と記している。

周防国

周防国(すおうのくに) 上国・遠国 現・山口県南東部

7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。
大島・周防・都怒の各国造の領域をまとめて周芳国が置かれた。国名として最初に現れたのは『日本書紀』の天武天皇十一年(683)で、周芳となっていたが、文武天皇元年(697)からは周防と書かれている。

[国府]
佐波郡にあった。現在の防府市土井八町と推定され、関連遺跡の発掘が進んでいる。

[守護所]
朝廷から周防介に任ぜられていた大内氏が守護となる。

[幕藩体制確立後]
長州(萩・山口)藩領および岩国藩六万石、徳山藩四万石が置かれた。

周防国 
周防国之風俗は律儀第一なれども、吉敷佐波都野三郡之者は義理少く、昨日まで傍輩と肩を雙ぶる人をも今日仕合よければ、主君と仰く風俗にて常之律儀も利慾之為に無になり、法を背く人百人に七八十如此残而、二三十人の人柄は如形嗜む様なれども、終には右の人に従ふ故に、皆其風俗と成べし。大島玖珂熊毛三郡之人は両郡の人より少はまし也。然ども是も堕落の方に付たる風儀也。能き人出来る事希にして悪事もすくなく善事も亦希なり。然ども是国之人は気少き故、つれなくして不敵なる意地は少もこれなし。(『人国記』)

周防国地名解説

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壇ノ浦(だんのうら)

源平合戦最後の戦いの舞台。
1185年三月二十二日、都濃郡大島津を船出した義経の軍勢は、八百五十隻余りに分乗し、壇ノ浦興津のあたりにやってきた。源氏の水軍が接近したことを知った平家方も二十三日の夕方ころから行動を開始。両軍の戦いは、二十四日の早朝から開始され、はじめは平家方が優位にたち、義経の船に殺到した。その攻勢におされて幾度か危機に瀕した義経だったが、全軍に平家の水手(かこ)・かじとりに狙いを定め狙撃を命じたことから、平家方はこぎ手を失って船の方向が定まらなくなる。さらに、午後になり海峡の潮流が外海に向かって西へ変わったため、源氏方はこの潮にのって平家一門の船団に肉薄した。攻守入れ代わった戦いはついに平家を敗走に導き、壇ノ浦に追いつめられ、御裳川の沖合で一族のほとんどの者が入水して最後をとげた。


長門国

長門国(ながとのくに) 中国・遠国 現・山口県北部

古くは穴門(あなと)と呼ばれ、穴戸と書くこともあった。穴門国造の領域と、阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国と改称した。
大化六年(650)、穴戸国司が同国麻山でとった白雉を朝廷に献じたところ、大王(天皇)が喜び、年号を白雉(はくち)に改めたという話が『日本書紀』にみえる。

[国府]
豊浦郡にあった。現在の下関市長府宮の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]

[幕藩体制確立後]
長州(萩・山口)藩三十六万九千四百石(周防を含む)、長府(府中)藩五万石、清末藩一万石が置かれた。

長門国
長門国の風俗毎物万事差掛りたる事無之也。されば人之音声も下音に而上拍子成事無而人吾を頼むといへども、軽く請る事すくなく、思慮を而後に是を答或亦人に事を談ずるにも、十之物七つ八つに而差切たる事なき風俗にして、別而武士之風儀善にも非ず、悪にも非ず我は人を頼、人は我を頼にし、たがひにもたれ合て、毎物遠慮過て大事に構るに、人之過ちある時、人是を誹るを以如斯之意地より出る形儀也。さる程に諸芸を学ぶにも一花勤る様なれども、気に引放たる意地無之故怠惰之気頓而発して中途に而差捨る人百人に六七十人如斯也。是皆勤る意地すくなく独を慎之気弱きの故也。因茲武士之風俗善と難云。若し此意地を発明而、是を勤行する人あらば、国風の垢自ら去りて、名を呼ぶ程の人も可成也。無左士は随分利根也ども用て節に当るべきといわん哉。(『人国記』)

長門国地名解説

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下関(しものせき)

港町。長門国豊浦郡下関。山口県下関市。
稲荷町に遊廓があった。「遊郭の内に稲荷明神を勧請せし故に、こゝをいなり町といへり。郭の北に神社を崇め、南門一方口にして是より出入す。挙屋は郭の内にもあり。外には郭の後、西のかた一筋に居を占む。挙屋の数三十二軒あり。公儀前傾城の数七十人とさだむ。天職廿六匁、小天神廿一匁、囲職十六匁、半夜八匁なり。寛文年中までは、傾城の町へ出る事自由にして、問屋方にも宿せり。延宝より已来、是を制し給ひて、門外へ出ず。されども、裏町の挙屋は門外なれば、是迄は昼夜共に往還す。昼がし有り、夜見世あり。格子は酉の半時より亥の上刻まであり。傾城長の屋造り田舎めかず、郭内爽かにして閑潔なり。或人の云ふ、下関の傾城は、大坂よりまさるべきといへり。されども、大坂は名にしおふ大郭なれば、下関を大坂の次とすべし。とかく日本遊郭の内にては、第三第四を超えず。まことに殊勝と云つつべし。家毎に歌舞伎の踊りあり。傾城これを役とす。旅人の所望に依つて、是を興行す。其の催料白銀壱枚也」(『色道大鏡』十三)

壇の浦(だんのうら) 

長門国豊浦郡(山口県下関市壇ノ浦町)にある関門海峡の東口に面する沿岸部の称。
地名は五百壇の石階より起こった(『豊府志略』『古事記伝』)といわれるが、諸説があって一定しない。源平争乱の終息地、平家滅亡の地として有名。安徳天皇・二位尼の入水等、多くの平家人の悲話が伝えられている。

萩(はぎ) 

指月城の城下町。長州藩の藩都。
萩は、三本の矢の教えで有名な中国地方を制覇した長門の戦国武将毛利元就の本拠地。嫡孫毛利輝元は関ヶ原で、西軍の総大将に奉り上げられ、毛利家は関ヶ原敗戦の責で改易、二百万石ともいわれた領地は没収され、周防長門二州三十六万余石が一旦は吉川広家にあたえられる。三本の矢の一本を引き継いだ吉川広家は、毛利家の存続を図ろうと家康に内通し、軍を動かさなかったことによる報酬だったが、毛利家安泰を図ったつもりの広家は狼狽し、その防長二州を返上して毛利家の領地とすることで収拾を図った。ちなみに3本目の矢を継いだのが小早川秀秋である。
吉川広家は毛利家を三十六万余石とはいえ領地を残した功労者だったが、本家からは主家を売った内通者としての烙印を押された。そのため、岩国六万石吉川家は、幕府の公認藩として参勤交替も行っているが、萩藩毛利宗家は独立の藩と認めず、陪臣扱いだったという。

『鬼麿斬人剣』
ここ萩は江戸を出奔した清麿(山浦環)が最後に辿り着いた地だった。



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