歴史地理・地名便覧[山陰道]

丹波国

丹波国(たんばのくに) 現・京都府中部

丹波国之風俗は人の気惰弱面々格々にして十人は十様に而、我が身を自満し、人を誹り、人之誉とはせず、而余之人之夫より誉れ多きにたくらへて、是を誹るの類にて、悉皆女人の風俗に不異下劣を従て、己が日夜勤る処の耕作の道は、第二に而商売を本とする事偏に身之栄花をせん事を常にたくみ、
都而勇寡ふ而滔(正しくは言偏)強く昨日味方に有し、人も今日は敵となり、而前になり替り渡世する類之風俗最哀れ成形儀不及、是非事とも也。雖然自然に能き人出生せば、気の柔なる意地より成立風儀なれば、雙ふ方も出来べし。天下乱れて是国をおさめば、五日之内に可従なり。(『人国記』)
はじめ「たには」と呼び、古くは旦波とも書いた。7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部、兵庫県中部の東辺(氷上郡と多紀郡)に及んでいた。和銅6 (713) 年4月3日に北部を丹後国として分離。丹南と呼ばれる。また、丹後、但馬を加えて「三旦(さんたん)地方」と云った。
丹波は、古くは旦波・但波・丹婆などと書かれた。由来は、山間の国という意味の谿羽(たにわ)・谷端(たには)からともいい、豊受大神がはじめにこの国に鎮座し、神饌米を供したため「田庭」と称したことによるとも云われている。これら「たにわ」「たには」が「たんば」に転訛した。丹波は、平安遷都後は王城附傭の地として重視され、山城にちかい南部を口丹波、北部を中丹波という。(山川出版社刊『京都府の歴史』参考)

[国府]
桑田郡にあり、現在の亀岡市千代川遺跡にあてる説があるが、未だ確定していない。
桑田郡にあったが、その地は、船井郡八木町屋賀説、亀岡市三宅神社説、同案察使説などがあり確定していない。(山川出版社刊『京都府の歴史』参考)

[守護所]
南北朝期は仁木・山名・細川氏が守護職を争い、室町期には概ね細川氏が守護職となった。

[幕藩体制確立後]
兵庫県域には篠山藩(六万石)、福知山藩(三万二千石)、柏原藩(二万石)が置かれ、京都府域には亀山藩(五万石)、綾部藩(一万九千百石)、岡部藩(一万六千七百石)、山家藩(一万石)が置かれた。 

丹波国
丹波国之風俗は人の気惰弱面々格々にして十人は十様に而、我が身を自満し、人を誹り、人之誉とはせず、而余之人之夫より誉れ多きにたくらへて、是を誹るの類にて、悉皆女人の風俗に不異下劣を従て、己が日夜勤る処の耕作の道は、第二に而商売を本とする事偏に身之栄花をせん事を常にたくみ、 都而勇寡ふ而滔(正しくは言偏)強く昨日味方に有し、人も今日は敵となり、而前になり替り渡世する類之風俗最哀れ成形儀不及、是非事とも也。雖然自然に能き人出生せば、気の柔なる意地より成立風儀なれば、雙ふ方も出来べし。天下乱れて是国をおさめば、五日之内に可従なり。(『人国記』)

丹波国地名解説

丹波国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

かやの里(かやのさと)

俗称の里名。
かやの里のあった亀岡は、江戸期までは亀山といい伊勢の亀山と区別するため丹波亀山と呼ばれていた。天正五年、明智光秀が丹波攻略の拠点として近江坂本から入封し、それまで八木城の内藤氏の砦規模の支城を大修築して亀山城としたのが始まりといわれている。天正十年、光秀は信長より中国出陣を命じられ亀山城を出陣したが、老の坂を下り桂川から京の本能寺に軍勢を転じて主君織田信長を討った。山崎の合戦で光秀が敗走後、丹波少将豊臣秀勝、小早川秀秋が城主となっている。慶長十四年、岡部長盛が三万二千石で城主となり、丹波亀山藩の誕生となる。
丹波亀山は京都の背後の要地ということもあり、頻繁に譜代大名の交替が行われる。寛延元年、形原松平信岑が丹波篠山より五万石で入封し、以後明治まで八代に渡って形原松平氏の居城となった。
この亀山藩領に、旗本前田半右衛門の知行地(二百八十石)があった。ここではカヤの木から採れる油「カヤ油」を主に産出していたため、「かやの里」と呼ばれていた。

『鬼麿斬人剣』
ひょんなことでこの地に滞在することとなった清麿の後を追って、鬼麿たちがやってきた。そして、伊賀同心との最終決戦となる。

丹後国

丹後国(たんごのくに) 現・京都府北部

和銅6年 (713年) 4月3日に、丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡(後の中郡)、竹野郡、熊野郡の五郡を割いて、丹後国を置いた。北丹と呼ばれる。
丹後は、丹波の背後の意。(山川出版社刊『京都府の歴史』参考)

[国府]
平安時代の国府は加佐郡にあった。現在の舞鶴市内と思われる。中世には与謝郡にあり、現在の宮津市府中と推定される。はじめから与謝郡に国府があったという説もある
与謝郡府中村(現宮津市)国府におかれ、遺跡も存在する。(山川出版社刊『京都府の歴史』参考)

[守護所]

[幕藩体制確立後]
宮津藩(七万石)、田辺藩(三万五千石)、峯山藩(一万一千百石)が置かれた。

丹後国
丹後国の風俗、上下男女共に千人万人之内に過ても一人も好人稀也。気質不直而気弱く勇気寡ふ、実寡ふ而、我邪智有て聊も取りて可用様なく、唯隼鷹のみよし。人は気質直なれば勇気なく、勇気あれば邪智有、亦愚智也。実あれば気不叶、兎角擧て難用国也。是れ根本、水土の不然所以也。(『人国記』)

丹後国地名解説

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天の橋立(あまのはしだて)

京都府宮津市。
丹後国風土記に曰はく、与謝の郡、郡家の東北の隅の方に速石の里あり。この里の海に長く大きなる前あり。(長さ二千二百廿九丈、高さ或る所は九丈より下、或る所は十丈より上廿丈より下なり。)先を天の橋立と名づけ、後を久志の濱と名づく。しかいへるは、国生みましし大神伊射奈藝の命、天に通行はさむが為に橋を作り立て給ひき。故、天の橋立といひしを、神の御寝坐せる間に仆れ伏しき。仍りてくしびに坐すことを怪しみ給ひき。故、久志備の濱といふ。この中ぼ間を久志といふ。これより東の海を与謝の海といひ、西の海を阿蘇の海といふ。この二面の海に雑の魚貝等住めり。但し、蛤は乏少し。(釋日本紀五)

大江山(おおえやま)

「千丈ケ岳」ともいい丹後国(京都府)加佐郡大江町と同国与謝郡加悦町との境にある山。丹後と丹波の境界にも位置し、丹後山地の最高峰。源頼光の酒呑童子退治の伝説の地として知られるが、これは老ノ坂峠付近に伝わる頼光の山賊退治が過って伝わったものとも云われ、伝説の大江山の所在は二説に分れる。また当山付近には鬼ケ茶屋、金時池(五入道の池)、千丈ケ滝、鬼の岩屋など、大江山伝説にちなむ呼称が多い。

但馬国

但馬国(たじまのくに) 現・兵庫県北部

7世紀に成立。但州と呼ばれる。

[国府]
出石郡出石町の袴狭遺跡にあてる説と、気多郡、現在の城崎郡日高町のどこかにあったとする説とがある。延暦23(804) 年 に気多郡高田郷に国府が遷った。日高町役場の付近で発掘された祢布が森遺跡が、これにあたる。

[守護所]
南北朝期には今川、仁木、長、山名氏が守護となるが、室町期には山名氏が守護職を代々勤めた。

[幕藩体制確立後]
出石藩(三万石)、豊岡藩(一万五千石)、村岡藩(一万石)が置かれた。

但馬国
但馬国の風俗は丹後、丹波よりはまされり。根性に実儀有、取分出石気多、城崎二方の郡は頼母敷意地有。朝来養父郡之者は意地きたなく盗人多し。両丹の風俗之中分にして善にも悪にも従ふ風儀也。(『人国記』)

但馬国地名解説

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因幡国

因幡国(いなばのくに)上国 現・鳥取県東部

古くは伊奈八といい稲葉と書き、稲葉国造の領域とされ、国造には大和朝廷系の彦多津彦命位が任命されている。7世紀に因幡国が成立した。

[国府]
現在の国府町中郷にあった。
国司には大伴家持、在原行平などの名が史料に現れる。

[守護所]
鎌倉期には中国地方七ヶ国を統一した佐々木高綱が任命され、室町期初期には足利尊氏に従って諸国を転戦した山名時氏が因幡・伯耆を始め十一ヶ国の守護となる。

[幕藩体制確立後]
鳥取藩三十二万五千石とその支藩因幡新田藩(喜多郡)三万石、因幡新田藩(八東郡)一万石が置かれた。

因幡国
因幡国の八上地頭邑美之三郡は実に而、しかも勇有て約を不変形儀也。高草気多法美巨濃之郡之風儀は如形侫に而邪智多ふ而丹波の風俗に似たり。武士は名利々欲にかゝはりて、徳之つく方に従ふ風俗也。一国之内に如斯風儀之替る事寔に天性自然の理とは云ながら、気質之禀る所之正不正に因て如斯成事可見也。(『人国記』)

因幡国地名解説

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伯耆国

伯耆国(ほうきのくに)上国 現・鳥取県西部

古くは波々岐といい伯耆国造がいた領域で、出雲系の大八木足尼が支配。7世紀に伯耆国を設置した。
或書に引る風土記には、手摩乳足摩乳娘稲田姫、八頭之蛇欲レ呑之、故遁入2山中1、于レ時母遅来、姫曰母来云々、故号2母来国1、後改為?伯耆国?云々ともあり。(諸国名義考下巻)

[国府]久
米郡にあった。遺跡は現在の倉吉市国府で見つかっている。
国司には山上憶良、淡海三船、清原夏野らの名が史料に現れる。

[守護所]
鎌倉期には因幡守護を兼ねて佐々木高綱が任命されている。
室町初期には足利尊氏に従って功のあった山名氏が因幡と合わせて中国地方十一ヶ国の守護となり、中国地方に大きな勢力を持ったため、三代義満の時代には、細川・畠山・大内氏らに山名氏討伐を行わせ、山名氏の勢も衰えた。

[幕藩体制確立後]
鳥取藩領となる。

伯耆国
伯耆国之風俗都而半実半虚と可知也。三日善を勤めて三日悪を習の風儀也。譬ば尊き人に交る則は、其気忽然と而実に従、亦其人を離れて三日不親則は本性に還、而悪心を発而心之趣く所に従て不道なりと知りながら而も行ひ不義と見ても、是に與し、一生迷闇の地に有て定る心、終に無之風俗也。されば今世下劣の言葉に物之執行に進て怠り安き者を三日そうと云事、是国の風儀より始と也。知て不勤而怠るは大に勇気の不足するところなり。(『人国記』)

伯耆国地名解説

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出雲国

出雲国(いずものくに) 現・島根県東部

出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。
国の大體、震を首とし、坤を尾とす。東と南とは山にして、西と北とは海に屬けり。東西一百三十七里一十九歩。南北一百八十三里一百九十三歩。一百歩。七十三里三十二歩。
得而難可誤。
老、細に枝葉を思ひ、詞源を裁定す。亦、山野濱浦の処、鳥獣の棲、魚貝海采の類、良繁多にして悉に陳べず。然はあれど止むことを獲ずして、粗慷概を挙げて記の趣きを成しぬ。
出雲と号くる所以は、八束水臣津野の命、「八雲立つ」と詔り給ひき。故、八雲立つ出雲といふ。
合せて神社三百九十九所。一百八十四所(神祇官に在り。)二百一十五所(神祇官に在らず。) 九郡、郷六十一(里一百七十九。) 餘戸四、駅家六、神戸七(里一十二。)(『出雲国風土記』)

[国府]
島根郡にあり、現在の松江市大草町で遺跡が発掘されている。

[守護所]
鎌倉期には佐々木高綱が守護となり、三代頼泰は同国塩谷郷に住した事から塩谷氏を名乗り守護を勤めた。
室町期には京極氏が出雲・隠岐の守護となり、京極高秀の第三子高久が近江尼子荘の領主となり尼子氏を名乗ると、その子持久が守護代となって出雲に入り戦国大名となった。

[幕藩体制確立後]
松江藩十八万石を筆頭に、広瀬藩三万石、母里藩一万石が置かれた。

出雲国
出雲国之風俗万事なす所之業実儀に勤る事、百人に而六七十人如此、然ども明闇之詮儀、疎に而其道理を不弁而、善悪邪正ともに仏神に祈願を而祈れば必成就すると思ふの風儀也。愚蒙之意地也。されば謀計雖為眼前之利潤必当、神明罰、正直雖非一旦之依怙終蒙日月之憐とある託宣を不知、又神は不受非礼舎正直首といへば吾心悪意を尽而仏神を祈りたりとも何ぞ加護あらんや。古今神明を重んずる事和朝之例たれども、於此国には中々上下とも如斯にして神明を不知なり。(『人国記』)

出雲国地名解説

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石見国

石見国(いわみのくに) 現・島根県西部

7世紀に設置された。

[国府]
那賀郡にあった。現在の浜田市と推定されている。

[守護所]
室町期には益田氏が守護となっている。

[幕藩体制確立後]
石見天領が置かれ、石見代官所が置かれた。
津和野藩四万三千石、浜田藩石高不明が置かれた。

石見国
石見国之風俗は丹後の国に不異而偽計にて実ある人稀也と可知。是も隼鷹は吉し人の風俗、曾て不可好也。実有人は千人に一人も稀也。智有人は日々夜々に悪心を挟言語道断と可知。(『人国記』)

石見国地名解説

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隠岐国

隠岐国(おきのくに) 現・島根県隠岐島

7世紀に設置された。

[国府]
周吉郡にあった。現在の隠岐郡西郷町と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]
室町期には出雲守護京極氏が隠岐の守護を兼ねた。

[幕藩体制確立後]
全国が天領となる。

隠岐国
隠岐国之風俗柔弱に而放逸成国也。知夫利之郡之者は実儀にして頼布所有海部周吉穏地之郡は風に従草之如く、善にも悪にも否と謂而、相従之風儀也。遠島なれども石州よりははる/\上也。(『人国記』)

隠岐国地名解説

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