歴史地理・地名便覧[西海道]

豊前国

豊前国(ぶぜんのくに) 現・福岡県東部、大分県北部

豊国(とよのくに、とよくに)を分割して、豊後国とともに設けられた。豊前は、平安時代まで和名で「とよくにのみちのくち」と読んだ。

[国府]
仲津郡にあった。現在の福岡県京都郡豊津町の国作で遺跡が発見され、豊前国府跡公園として整備されている。

[守護所]

[幕藩体制確立後]
(福岡県内)
小倉藩十五万石、中津藩十万石、小倉新田藩一万石が置かれた。

豊前国
豊前国之風俗譬ば如馬々に名馬有、曲馬有、色々之毛品有、長け高く様子うるはしく品能き馬の如し。然ども曲有之時難用者也。然は馬に比而是を見れば如曲馬と可知。亦曲馬に走る有、止る有、喰有、踏有、其曲無く中気なる有ざれば、是国之風儀何れの曲せ有と考るに、唯中気の如馬にて真実定りたる意地なく、死生を論ずる場に至る時、人と而死は重きと云事不知と云事なし。然ども不得止時は、為忠一命を捨、為孝死を致し、為義命を失ふ事常の習ひ也に、是国之風俗忠孝義理を忘れて命を遁るゝもの千人に七八百人如是也。されば是理を不知かと思に、左には非ず。能く知て能く失道者也。誠に一旦之忿の為に命をくじく者、雖有之義に因て命を捨る所之者鮮し。蓋是理に本く人無く而唯気質之儘に執行する所のものなれば、不義不理なり。曲馬国とも可謂乎。亦自然に勤る処之人有は其気質之汚れを能く創る人は其志之厚き事挙而可仰所なり。(『人国記』)

豊前国地名解説

豊前国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

青龍窟(せいりゅうくつ)

京都郡苅田町の平尾台の北東端にある洞窟。上・中・下の三段の洞穴からなり、それぞれ別の入口から入ることができる。石灰岩の棚がテラス状に張り出す処もあって、洞内は複雑に穿かれ、普智山等覚寺の奥の院として、山伏の修験場になっていた。

景行天皇の九州平定の際、この岩屋に棲んでいた土蜘蛛を退治したという伝説が有る。この伝説は『日本書紀』「巻第七景行天皇」の部の十二年冬十月の条に「仍與2群臣1議之曰、今多動2兵衆1、以討2土蜘蛛1。若其畏2我兵勢1、将隠2山野1、必為2後愁1。則採2海石榴樹1、作レ椎為レ兵。因簡2猛卒1、授2兵椎1、以穿レ山排レ草、襲2石室之土蜘蛛1、而破2于稲葉川上1、悉殺2其黨1。血流至レ踝。故時人其作2海石榴椎1之処、曰2海石榴市1。亦血流之処曰2血田1也。」(そうして、群臣と協議されて、「いま多くの兵を動員して、土蜘蛛を討伐したい。もしも、わが兵の勢いに恐れて、土蜘蛛が山野に隠れていまったら、かならず後の憂いとなろう」と仰せられた。そこで、海石榴(つばき)の木を採って、椎(つち)を作り兵器とした。そうして勇ましい兵卒を選んで、兵器の椎を授けて、山を穿ち、草を切りはらって、石室の土蜘蛛を襲って、稲葉の川上で打ち破り、ことごとくその徒党を殺した。血が流れて踝に達した。そこで、時の人は、その海石榴の椎を作ったところを、海石榴市(つばきち)といい、また血の流れたところを、血田といった。)によるものと思われるが、この条の出だしは「到?硯田国?」とあり、硯田国は「おおきたのくに」と読み、現在の大分市辺とされ、青龍窟のある地とは異なっている。しかしこの頃、穴居生活を営んでいた列島の先住民(土蜘蛛)がこの地方に多く住していたことは『書紀』の記述から明らかで、青龍窟にもそうした先住の民が住んでいたことは想像に難くなく、『書紀』のこれらの記述と相まって先述した伝説が生まれたものと思われる。
現在、洞窟全体が国の天然記念物とされているが、列島の先住民が造ったものとも考えられる。
因に海石榴市という地名は、『万葉集』にも現れ、それは大和国にある「海石榴市観音」(桜井市金屋)をそれに措定している。

豊後国

豊後国(ぶんごのくに) 現・大分県南部

七世紀末に、豊国(とよのくに、とよくに)を分割して、豊前国とともに設けられた。豊後は、平安時代まで和名で「とよくにのみちのしり」と読んだ。
郡八所(郷四十、里一百十) 駅九所(並びに小路) 烽五所(並びに下国) 寺二所(僧寺、尼寺)
豊後(とよのみちのしり)の国は、本、豊前(とよのみちのくち)の国と合せて一国たりき。昔者、纏向の日代の宮に天の下知らしめしし大足彦の天皇(景行天皇)、豊国直等が祖菟名手に詔り給ひて、豊の国を治めしめ給ひしに、豊前の国仲津の郡中臣の村に往き到りき。時に日晩れて僑宿りき。明くる日の昧爽に、忽ちに白鳥あり、北より飛び来て、この村に翔り集りき。片時が間に、更、芋草数千株と化り、株と葉と、冬ながら栄えき。菟名手見て異しと為ひ、歓喜び云ひしく、「化り生れる芋は、いまだ曾て見しこともあらず。実に至徳の感、乾坤の瑞なり」と云ひて、やがて朝廷に参ゐ上りて、状を挙げて奏聞えき。天皇、ここに歓喜びいましき。すなはち菟名手に勅り給ひしく、「天の瑞物、地の豊草、汝が治むる国は豊の国といふべし」と詔り給ひて、重ねて姓を賜ひて、豊国直といひき。因りて豊の国といふ。後に、両つの国に分ち、豊後の国を名と為せり。(『豊後国風土記』)

[国府]
大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]

[幕藩体制確立後]

豊後国
豊後国の風俗、其気質之禀る処偏塞なる事百人に九十人如斯と可知也。残る十人善といへども気質之偏屈成内より出生するなれば、如形之風儀也。譬ば子をまびくこと聖徳太子之宣ふこと出家せさせて、子孫を断絶する時は、其苗減ずる所以成に是理を翻却而、其生ずる処之子を殺害するの類に心得たる者、今も儘有之と見へたり。末世に至るとも此風儀成べし。如此の人之気質故に其死を不厭事如鵞毛也。別而武士の風俗如右なれども、自然に国風をまぬがれんと思ふ人あれども、正智邪智を不弁而、其弁ずるところに従て国風を削らんとするといへども、正道に至事不克而或は不覚を取り或は邪智に迷て臆病をなす人も可有。多は勇勝而理闇き形儀多し。自然と気質之すなをなる人もあるべけれども稀なりとしるべきなり。(『人国記』)

豊後国地名解説

豊後国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

臼杵(うすき)

「臼杵」の地名の由来は、臼杵市稲田にある臼塚古墳の入口に立っている石像が、「臼(うす)」と「杵(きね)」の形に似ていることから「臼杵」の地名が起こったといわれる。

戦国時代、九州の六カ国を領したキリシタン大名・大友宗麟が、永禄五年(1562)、四方を海に囲まれた天然の要塞であった丹生島に丹生島城(臼杵城)を築く。ここから、城下町「臼杵」の歴史が始まり、明やポルトガルの商人が行き交う国際商業都市として栄えた。慶長五年(1600)春、一隻のオランダ船「リーフデ号」が、臼杵の佐志生沖黒島に漂着。この船の航海長がイギリス人「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)」、水先案内人がオランダ人の「ヤン・ヨーステン」であったことは隆慶作品にも紹介されている。二人はその後、大砲などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を買われ、徳川家康、秀忠の外交顧問として活躍。リーフデ号の漂着は、日本の大きな転機を担ったことは間違い無い。大友氏の除封後、福原氏、太田氏を経て、慶長五年、稲葉貞通が美濃から入封し、明治維新の廃藩置県を迎えるまで稲葉氏が統治する。
現在の臼杵の町並みの大部分は、この稲葉氏の時代に形成される。当時は、城を中心に商家が建ち並び、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲むように町が整えられていた。曲がりくねった迷路のような町並みは現在も臼杵に遺されている。

黒島(くろしま)

臼杵湾に浮かぶ周囲約3km、標高27mの小さな島。慶長五年(1600)、徳川家康の外交顧問としてオランダとの貿易に大きな影響を与えたイギリス人のウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)が乗船したオランダ船リーフデ号が漂着した。日本に上陸したイギリス人はアダムスが初めてであり、日本で最初に英語が話されたのはここ黒島ということになる。毎年海開きが5月末から6月上旬にかけて行われ、夏は多くの家族連れなどで賑う。島へは漁港から小型船で渡ることができ、見晴らしの良い景色が一望できる。島には民宿や、キャンプ場もある。

交通/佐志生、尾本漁港から渡船「島丸」で黒島まで5分。6時〜20時、随時運行。片道大人300円、小人150円。

筑前国

筑前国(ちくぜんのくに) 現・福岡県北西部

筑紫国(つくしのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。

[国府]
御笠郡にあった。現在の太宰府市、大宰府に近い所に置かれたと推定されるが、遺跡はまだみつかっていない。
また、奈良朝期に律令制が布かれると九州各国・隠岐・壱岐国の内政を統轄する政庁太宰府を設置し、合わせて外敵に備えるとともに外交機関とした。平安末期には平清盛が太宰権師として勢威を振るい、西国での平家の支配が浸透した。

[守護所]
鎌倉時代には、平氏にかわり源氏が中央政権を確立した事から、西国での平家の勢力は一掃され、幕府の地方機関九州探題が置かれる。
室町期には太宰大弐となった長門国の大内氏が北九州に進出し、筑前・筑後・豊前の守護を兼ねた。

[幕藩体制確立後]
福岡藩五十二万石、秋月藩五万石が置かれた。

筑前国
筑前国の風俗、大体飾り多し。人之心十人は十人みな思々に違り、勇気も一応はつとめとぐるといふとも、かざり有風俗故に終には何事も成就す間敷国風也。西国に珍敷き花奢のくに也。酒色を好む事千人に七八百人如此。惣じて此国は万事の風俗わが為に徳つくことなれば、我が親み中絶する人をも親み寄り、親を捨てゝも其人にしたしむの風儀甚不可然なり。(『人国記』)

筑前国地名解説

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岡水門(おかのみなと)

『日本書紀』に現れる地名。
『書紀』(神武記)に「天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ」と記された地。『古事記』には岡田宮とある地。現在の福岡県遠賀郡蘆屋町の遠賀川河口付近とされている。

資珂の嶋(しかのしま)

志賀島。(福岡市東区志賀島)
筑前国風土記に曰はく、糟屋の郡、昔時、気長足姫の尊、新羅に幸でましし時、御船夜時来てこの嶋に泊てき。倍従に名を大濱、小濱といふ者ありき。すなはち、小濱に勅して、この嶋にやりて火を筧ぎしめ給ひしに、得て早く来りき。大濱問ひしく、「近く家ありや」といひき。小濱答へけらく、「この嶋は、打昇の濱と近く相連接けり。殆同じ地と謂ひつべし」といひき。因、近の嶋といひしを、今訛りて資珂の嶋といへり。(釋日本紀六)

博多湾を画する海の中道の先端にあたり、元は独立した島であったが、砂嘴の発達により陸続きの島となっている。「漢委奴国王」と刻まれた金印出土地(現在「金印公園」として整備されている)として名高く、島内には志賀海神社や蒙古塚などもある。

博多(はかた)

港町。
戦国の世から天下統一へと大きく変貌を遂げようとしていた頃、博多にはアジアを舞台に活躍する多くの豪商が住んでいた。当時の博多は、明・朝鮮などとの交易で大いに栄えていたが、巨万の富が集まる街だったことから、戦国武将たちの争奪の的となり、幾度となく戦乱に巻き込まれる。やがて博多の街は焦土と化し、多くの人々が戦を避け周辺に離散していった。この後、荒廃した博多を復興したのが、豊臣秀吉だった。
この時、秀吉に復興を命じられたのが“博多の豪商”嶋井宗室だ。宗室は神谷宗湛とともに博多の再建に尽力する。そして、博多の港は再び国際貿易港として蘇った。そんな街に、慶次郎と捨丸、そして松風、野風の人馬二組が大坂から船でやってきた。
現在、博多の街は九州最大の都市となった福岡市の一部として発展し、往時の町並はまったく残っていない。また、相次ぐ埋め立てにより当時の港の位置にはビルが立ち並ぶ。

筑後国

筑後国(ちくごのくに) 現・福岡県南部

筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑前国とともに7世紀末までに成立した。

私記に曰はく、問ふ、この号もしくは意あるかと。答ふ、先儒の説に四つの巍あり、一に云はく、この地の形、木兎の體の如し。故に名づくるなり。木兎は鳥の名、これをづくといふ。二に、公望案ずるに、)筑後国風土記に云はく、筑後の国は、本、筑前の国と合せて一つの国なりき。昔、この両の国の間の山に、峻しく狭き坂ありて、往来の人の駕れる鞍韈摩り盡さえき。土の人、鞍韈盡しの坂といひき。(三に云はく、昔、この堺上に麁猛神ありて、往来の人、半ばは生き、半ばは死に、その数極く多かりき。因りて人の命盡しの神といひき。時に筑紫君、肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫を祝と為して祭りき。それよりのち、路行く人、神の害を被らざりき。これを以ちて筑紫の神といふ。四に云はく、その死にたる者を葬る為に、この山の木を伐りて棺輿を造作りき。これによりて、山の木盡きなむとしき。因、筑紫の国といひき。後、両の国に分ちて前後と為しき。(釋日本紀五)

[国府]
御井郡にあった。その政庁は、現在の久留米市内を転々とした。第三期の国府は久留米市朝妻町に営まれ、当時は全国でも最大級の威容を持っていた。

[守護所]
室町期には大内氏が守護となる。

[幕藩体制確立後]
久留米藩二十一万石、柳川藩十一万九千六百石、三池藩一万石が置かれた。

筑後国
筑後国之風俗筑前に替り実儀成者十人に八人如此。常に義理を談じ得失を沙汰し、費を慎て言語を飾る事猶以て鮮し。雖然下劣は一涯に而非を弁る者すくなく、無礼の事のみ多し。譬ば其堅固成事鉄石を以て是を云に鉄に非ず、而如石其練れる事無ふして分れて二度遇ふと云事なきは石なり。武士も大形此風儀に和あるものと可知。(『人国記』)

筑後国地名解説

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに) 現・佐賀県、長崎県

火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。肥後国が『続日本紀』に初めて見える持統天皇十年(696)までに、肥前国と肥後国との分割があったと推定される。

郡一十一所(郷七十、里一百八十七) 駅一十八所(小路) 烽二十所(下国) 城一所 寺二所(僧寺)

肥前(ひのみち)の国は、本、肥後(ひのみちのしり)の国と合せて一つの国たりき。昔者、磯城の瑞籬の宮に天の下知らしめしし御間城の天皇(崇神天皇)の世に、肥後の国の益城の郡朝来名の峰に、土蜘蛛、打猴、頸猴二人ありき。徒の衆、一百八十余人を師ゐて、皇命に拒捍ひて、肯へて降伏はざりき。朝廷、勅し給ひて、肥君等が祖健緒組をして伐たしめ給ひき。こゝに健緒組、勅を奉りて、悉に誅滅ひ、兼ねて国裏を巡りて消息を観察、八代の郡白髪山に到りて日晩れて峯に止りき。その夜、虚空に火あり、自然燎え、稍々に降下りて、この山に就きて燎えき。時に健緒組、見て驚き怪みて、朝廷に参ゐ上りて奏しけらく、「臣辱くも聖命を被り、遠く西の戎を誅ふに、刀の刃を霑さずして、梟賊自ら滅びぬ。威霊に非るよりは、何とかも然あることを得む」と申して、更、挙燎し火の状を奏聞しき。天皇、勅り給ひしく、「奏せる事は、いまだ聞かざりし所なり。火の下りし国なれば火の国といふべし」と宣り給ひて、やがて、健緒組が勲を挙げて、姓名を賜ひて、火君健緒組といひ、すなはちこの国を治めしめ給ひき。火に因りて火の国といひ、後に両つの国に分ちて、前(みちのくち)と後(みちのしり)とに為せり。又、纏向の日代の宮に天の下知らしめしし時、葦北の火流の浦より発船して火の国に幸し給ひしに、海を度る間に日没れ、夜冥くして著かむ所を知らざりき。忽に火の光ありて、遥に行く前に視ゆ。天皇、棹人に勅り給ひしく、「直に火の処を指せ」と宣り給ひしかば、勅のまにま往くに、果に崖に著くことを得き。天皇、勅を下し給ひしく、「何とかもいへる邑ぞ」と宣り給ひき。国人奏言しけらく、「こは、火の国八代の郡の火の邑なり。但、火の生づるところを知らず」と申しき。時に天皇、群臣に詔り給ひしく、「今この燎ゆる火は、是れ人の火にあらじ。火の国と号くる所以、その爾る由を知りぬ」と宣り給ひき。(『肥前国風土記』) 

国時代、この肥前国を領していたのは鎌倉期から続く龍造寺氏だった。戦国時代の末期には、九州地方は豊後の大友氏、薩摩の島津氏、そしてこの肥前の龍造寺氏の3大勢力が鼎立する。龍造寺氏は隆信(1529〜84)の時代に、肥前、肥後、筑前、筑後、豊前の5ヶ国と壱岐・対馬2島を支配。その龍造寺氏を脅かしたのが島津氏だった。天正六年(1578)十月、島津氏は日向で大友宗麟と戦って大友軍を破り豊後に侵入する。さらに肥後の相良氏、筑前の秋月氏を降し、天正十二年(1584)三月、ついに肥前龍造寺軍と島原半島で戦って龍造寺隆信を自刃に追い込んだ。これにより島津氏による九州統一は目前となった。しかし、肥前龍造寺氏は、戦死した隆信の義弟にあたる鍋島直茂が隆信の遺児政家をもり立て、全権を握って龍造寺勢力をまとめて島津氏に激しく抵抗を続ける。そして3年後の天正十五年(1587)、豊臣秀吉が20万の軍勢を率いて九州へ入り、島津征伐に乗り出したのである。龍造寺勢は言うに及ばず大友氏はじめ反島津勢力は、結集して秀吉軍の先陣をつとめ、その結果、島津氏はほとんど抵抗できず降伏した。秀吉の戦後処理は、島津氏を本領である薩摩・大隅に、大友氏を豊後に、龍造寺氏を肥前に封じ、豊前、日向、筑前、筑後などに九州の小大名や秀吉子飼いの大名を封じた。特に、イエズス会の領地のようになっていた長崎は豊臣氏の直轄領とし、鍋島直茂を代官に任命した。鍋島直茂は龍造寺氏の家臣でありながら同時に豊臣氏の直臣扱いを受けたのである。天正十六年、龍造寺氏は病身の政家が隠居し、幼少の高房が後を継ぐ。しかし、龍造寺氏には最早肥前を統治する能力はなかった。豊臣秀吉の朝鮮侵略には、各大名がそれぞれの軍勢を率いて出兵したが、肥前だけは鍋島直茂の嫡子・勝茂が一万二千の軍を指揮して参戦した。つまり、豊臣秀吉は、肥前の実質的領主は鍋島氏とみなしたわけである。これは徳川幕府の時代になっても変わらず、慶長十八年(1613)、鍋島勝茂はついに二代将軍徳川秀忠によって肥前三十五万七千石の大名として正式に承認され、鍋島佐賀藩が成立した。

[国府]
現在の大和町惣座にあった。1975年から1984年までの発掘で政庁などの遺跡が発見された。

[守護所]
鎌倉期、武藤資朝が守護に任ぜられ、地頭には藤原秀家、源囲、藤原季永などが任ぜられた。

[幕藩体制確立後]
佐賀藩三十五万七千石、その支藩小城藩七万三千二百石、蓮池藩五万二千六百石、鹿島藩二万石が置かれ、他に島原藩七万石、平戸藩六万一千七百石、唐津藩六万石、大村藩二万七千九百石、五島藩一万二千六百石、平戸新田藩一万石が置かれた。
また、長崎は幕府直轄地となり長崎奉行が置かれた。

肥前国
肥前国の風俗山陰を合たるより猶勇国にて、勇に赴く時は義を知て、ひるむ色なし。誠に其国之濕土に生得るとは云ながら、百人にして九十九人如斯也。若一人不勇の人あるは珍敷事ども也。武士之風俗尚以如此と可知也。雖然無風に勇を行ふが故に、温和之志を不知なり。されども上と而は下を哀み、下と而は上みを敬ひ、主君之為に命を捨ん事を常に願ひて志す事士より国民に至まで皆如斯なれば、百姓町人と云ども義理を強ふ而身に難遁罪科有て死に究ると知る時は、男女に不限致死事露程もをしまざる也。音声は卑劣なり。風儀は信州に而、智之すくなき国風なれども、人之一和することは信州にこへたり。(『人国記』)

肥前国地名解説

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佐賀(さが)

佐賀城の城下町。
佐賀の城下町は、龍造寺氏が築城した龍造寺隆信の居城村中城を中心に形成され、鍋島直茂が村中城を拡張して築城することで肥前の中心地となった。以後、佐賀鍋島藩の政治の中心として発展し今日にいたっている。

長崎(ながさき)

港町。
長崎県内にヨーロッパの貿易船が来航するのは、天文十九年(1550)、平戸に一隻のポルトガル船が入港したことに始る。永禄四年(1561)には五隻のポルトガル船が入港した。その後、大村領横瀬浦(よこせうら)(現在の西海町)が新しい貿易港となり、さらにポルトガル人は横瀬浦から福田(現在の長崎市福田本町)へと貿易の拠点を移してゆく。
永禄八年(1565)開港された福田は、直接外海に面しているという欠点があったため、貿易の拠点は島原半島の口之津港へ移るも、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を希望したため、候補地として挙げられた長崎港の調査が始まり、元亀(げんき)二年(1571)、ポルトガル船一隻、ポルトガルがチャーターした唐船一隻の合計二隻の入港によって長崎港が開港した。以後、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになり、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展してゆく。天正八年(1580)、大村純忠は長崎の町を教会知行地として、イエズス会に寄進した。
その後、豊臣秀吉は天正十五年(1587)、宣教師追放令を出し、長崎を没収し直轄領とした。さらに慶長元年(1597)には京都や大坂地方で捕らえられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑。 これが26聖人の殉教とよばれる事件。その後、江戸幕府は徳川家康の貿易奨励策で、キリスト教に関しても寛大だった。そのため、キリスト教は広く深く信仰され、天文十八年から寛永七年(1549〜1630)の約80年間にキリスト教に改宗した人は約76万人に達したといわれている。しかし、幕府は「岡本大八事件」をきっかけに取締を厳しくし、慶長十九年(1614)、ついにキリスト教禁止令を発令。高山右近をはじめとした多くの信者たちがマニラやマカオに追放された。その後、取り締まりはさらに強化され、拷問による棄教の強要、密告の奨励、残酷な処刑など、キリシタンへの迫害はさらに厳しさを増す。幕府は、キリスト教の布教を阻止するために当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島を作った。これが出島で、寛永十三年(1636)に「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資によって完成した人工の島。この25人の町人たちはいずれも長崎を代表する豪商だった。
寛永十四年(1637)の島原の乱によって、ポルトガルに対してますます警戒を強めた幕府は、寛永十六年(1639)、『かれうた船禁止令』を発布しポルトガル人を出島から追放し、築造されたばかりの出島は無人の地となる。翌十七年一艘のポルトガル船が再度の通商を求めて長崎に現れるのだが、禁令を破って入港した「かれうた船」は拿捕され、乗組員は事の子細を澳門(マカオ)に伝えるために籤で選ばれた十三人を除き、残りの乗組員61人全員が打首獄門とされた。一方オランダは、この島原の乱で原城を砲撃、幕府への忠誠を示すことで信頼を獲得し、やがて日本との貿易を独占していった。

○長崎港 異国の商船、上古は筑前の博多に着、二百年以来は、周防或は豊後の府、薩摩の防津、肥前の平戸につきたり、元亀年中、肥前の長崎一ヶ所に極る也、始は深江の湊いひし也、大坂より海上凡百四十八里(『近代世事談』巻之五)

西坂(にしざか)

日本26聖人記念館/開館時間9:00〜17:00/休館日12月31日〜1月2日/入館料個人:一般 250円 / 中・高校生 150円 / 小学生 100円

交通アクセス/JR長崎駅より徒歩15分

1597年2月5日、豊臣秀吉のキリシタン禁教令のため、京都や大阪などで捕らえられた外国人宣教師6名、日本人信者20名がこの地で処刑された。1862年、ローマ法王・ピオ9世から26人の殉教者は聖人に列せられ、1950年、ローマ教皇ピオ十二世は、この地をカトリック教徒の公式巡礼地として指定。1956年4月、長崎県の史跡として指定を受け、西坂公園として公開されている。1962年、「二十六聖人」列聖百年を記念して26人が一列に並び祈りを捧げる姿が彫られた記念碑とキリシタン関係の資料が展示されている殉教記念館が建てられ、ガウディー設計の聖家族教会を模した塔2本も隣接して建っている。1981年2月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がこの地を訪れ祈りを捧げられ、今も、国際的巡礼地「殉教の丘」として国内外から巡礼者が訪れている。

『死ぬことと見つけたり』
この地で、斎藤杢之助は61名のポルトガル人の処刑のさまを見守った。何の抵抗もせず黙って首を斬られる彼等の中に心の有り様の真の強さを知り、愕然とするのだった。

深堀(ふかぼり)

長崎県長崎市深堀町。
この深堀地区は、幕府直轄領であった長崎に隣接する鍋島藩領。現在、この地に鍋島藩の遺構があるのかどうかは不明。

松浦(まつら)

郷名。肥前国松浦郡(長崎県・佐賀県にまたがる)。
九州西北部、玄海灘に面し、古代には「末廬国」「末羅国」「末羅県」などと称した。『和名称』には「万豆良」と記される。大陸に最も近いことから、唐・新羅等への派遣使節の発着地となる。平安中期より松浦党と称する武士団がこの地に発生し、中世になるとその地位を確立した。



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肥後国

肥後国(ひごのくに) 現・熊本県

火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀に成立した。初見は持統天皇十年(696)であり、この時までに肥前国と肥後国が成立していたと推定される。

(公望の私記に曰ふ、案ずるに)肥後国風土記に云はく、肥後の国は、本、肥前の国と合せて一つの国たりき。昔、崇神天皇の世、益城の郡、朝来名の峯に土蜘蛛ありき。名を打猴、頸猴といひ、二人して徒衆百八十余人を率ゐ、峯の頂きに隠れて、常に皇命に逆ひて降服はざりき。天皇、肥君等が祖健緒組に勅して、その賊衆を誅たしめ給ひき。健緒組、勅を奉り、到来りて皆こと/\〃に誅ち夷け、すなはち国裏を巡りて、兼ねて消息を察、八代の郡白髪山に到り、日晩れて止宿りき。その夜、虚空に火あり、自然ら燎え、やや/\に降下りてこの山に焼え著きき。健緒組、見て大く驚怪を懐き、行事既に畢りて朝廷に参上り、行状を陳べて奏言しけらく、云々。天皇、詔り給ひしく、「賊徒を翦ち払ひて、頓に西の眷へなし。海上の勲、誰人か比ふものあらむや。又、火の空より下りて山を焼くも怪し。火の下れる国なれば、火の国と名づくべし」と宣り給ひき。又、景行天皇、球磨贈唹を誅ち給ひ、兼ねて諸国を巡狩給ひき、云々。火の国に幸して海を渡り給ひし間、日没れて夜暗く、著く所を知らざりき。忽ちに火の光ありて、遥かに行く前に視えき。天皇、棹人に勅り給ひしく、「行前に火見ゆ。直ちに指して往け」と宣り給ひき。勅のまにま往きしに、果に崖に著くことを得き。すなはち、勅り給ひしく、「火の燎ゆる処はこれ何界と号ひ、燎ゆる火は亦何の火ぞ」と宣り給ひき。土人、奏言しけらく、「こは火の国八代の郡の火の邑なり。但し、いまだ火の由を審かにせず」と申しき。時に、群臣に詔して、「燎えし火は俗の火にあらず。火の国の由、しかる所以を知れり」と宣り給ひき。(此等の文に因れば二義ありと謂ふべきか。(釋日本紀十)

[国府]
はじめ詫麻郡にあり、ついで平安時代の『和名類聚抄』が記す益城郡に移ったと考えられている。遺跡が発掘されたのは詫麻郡のみで、9世紀に洪水を受けて廃絶された。

[守護所]
鎌倉期には大友氏が守護職を勤め、室町幕府になって在地の土豪菊池武朝を肥後国守護に任じた。

[幕藩体制確立後]
熊本藩五十四万石を筆頭に、熊本新田藩三万五千石、宇土藩三万石、人吉藩二万二千百石が置かれた。
天草には幕府直轄地が置かれた。

肥後国
肥後国の風俗肥前に似たりといへども、其勇之甲乙を数ふるに百に而其一也。武士之風俗は肥前に替りて柔也。雖然其意地筑前豊前両国を合たるより上と可知也。されども知有を以て分別多く、思ひ/\成所あるにより、一和する事すくなく、二つ三つにも引分れての形儀なれば、肥前にはる/\劣るものか。(『人国記』)

肥後国地名解説

肥後国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

阿蘇の郡(あそのこおり)

熊本県阿蘇郡。
肥後国風土記に曰はく、昔者、纏向の日代の宮に天の下知らしめしし天皇、玉名の長渚の濱を発ちて、この郡に幸し給ひ、徘徊りて四を望み給ひしに、原野広く遠くして人物を見給はざりき。即ち歎き給ひしく、「この国に人ありや」と宣り給ひき。時に二神あり、化して人となりて曰ひしく、「吾が二神、阿蘇都彦、阿蘇都媛、この国にあり。何ぞ人なからめや」と云ひて、忽然に見えざりき。因りて阿蘇の郡と号けき。これその縁なり。二神の社は郡の東に見在り、云々。(大日本古文書、阿蘇文書之二)

五家荘(ごかのしょう)

熊本県八代郡泉村の椎原・久連子・葉木・仁田尾・樅木の五つの集落をいう。
伝えによると、平清盛の孫清経が長門壇の浦の合戦(1185)の後、阿波国祖谷を経て豊後竹田へ逃れ、緒方国実をたよってその娘を妻に迎え、緒方姓を名乗った。のち、山賊の協力を得て建長二年(1250)ころにこの地に移り住み、椎原・久連子・葉木を支配した。また、菅原道真の死後(903)その一族が藤原氏の追討を逃れて延長年間(923〜31)、左座(ぞうざ)氏を称して仁田尾・樅木に住していた。これら五集落は、こうした成り立ちから他郷との交流も少なく、近年までひっそりと隠れ住む山里的な秘境とされていた。同地区には「緒方家系図」「左座家系図」「落人由来書」などの文書や鎧・兜などが残されている。

日向国

日向国(ひゅうがのくに) 現・宮崎県

古くは「ひむか」と読んでいた。日向国は、7世紀に設けられた。成立時には、現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分を領域にしていたが、鹿児島県部分の大半には律令的な制度が及んでいなかった。その辺りには日本の支配が実質化していなかったと考えられる。

日向国風土記に曰はく、纏向の日代の宮に天の下知らしめしし大足彦の天皇の世、兒湯の郡に幸でまして丹裳の小野に遊び給ひ、左右に謂り給ひしく、「この国の地形は直に扶桑に向へり。宜、日向と号くべし」と宣り給ひき。(釋日本紀八)

[国府]
児湯郡にあった。現在の西都市の寺崎遺跡と推定されている。

[守護所]

[幕藩体制確立後]

日向国
日向国之風俗無体無法之事のみ多は只気之尖成にまかせて、己理と見る時は非と云人有といへども且而不用、己非と云ふ時は人来て道理といへども且而不従。於是其理非は第二に而、其段ずる処の人と口論になり終に討果すの類多き風俗也。寔に偏卑之浅ましき事人倫の道理を不知事可歎所也。唯死するを以て善とする事危き風俗也。可恐。(『人国記』)

日向国地名解説

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橘小門(たちばなのおど)

日向に有る地名とされるが、所不明。
『日本書紀』に、「筑紫の日向の小戸の橘」(神代上第五段)と現れ、次に「橘小門に還向りたまひて、払ひ濯ぎたまふ」と現れる。小門は川の落ち口、河口の事。

大隅国

大隅国(おおすみのくに) 現・鹿児島県東部

和銅6 (713) 年4月3日に、日向国の肝杯郡、贈於郡、大隈郡、姶羅郡の四郡を分けて設けられた。天長元(824) 年10月1日に、現在の屋久島と種子島にあたる多?国をあわせた。

[国府]
現在の国分市にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]
この地にあった豪族らが藤原氏の威光を頼り、領地を寄郡(よせごおり)として島津荘に付属させたことから、大隅国のほとんどは日向国島津荘の荘域となり、守護は置かれず、荘園の下司として下向した島津氏が中世から江戸期を通じて支配した。

[幕藩体制確立後]
薩摩藩領となる。

大隅国
大隅薩摩両国之風俗、違ふ事なし。是も皆死を以て表とし、唯男子は死するを道とすと覚て、五常之道と云ふ事一段外之事と覚へ、仏法といへば死て後之穿鑿に而、生死を可知為となれば、用るに不足と自見而遠り常に主下之作法も有てなく、主ち云名を知て禄を受る士は主とのみ覚へ、百姓は地頭とのみ覚て不礼之行跡擧而、不足言也。武士之戦場に死するも忠義に因て死する処の節を以て善とする工夫なく、唯武士は於戦場に死を致す者とのみ覚へて死するは可論様なし。蓋し泰平之時は主安座而席を正ふ而あるに臣は足を伸し、或は立ちながら主君と問答するの類多し。末代以て是風俗なるべし。(『人国記』)

大隅国地名解説

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに) 現・鹿児島県西部

大宝二年(702)に、日向国から唱更国が設けられた。唱更は、辺境を守るという意味である。『続日本紀』8月1日条にある、薩摩多?を征討し戸を校して吏を置いたという記事が、唱更国と多?国の建置を示すと考えられている。

唱更国は、数年以内に薩麻国に改められた。8世紀半ば以降のどの時点かで薩摩国に改称した。

[国府]
現在の川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の生徒によってなされ、1964年にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。

[守護所]
大隅国と同様、薩摩国のほとんどが島津荘の荘域であったため、守護はおかれず、中世から江戸期を通じて島津氏が支配した。

[幕藩体制確立後]
薩摩藩(国高不明)が置かれた。

薩摩国(大隅国と同文)
大隅薩摩両国之風俗、違ふ事なし。是も皆死を以て表とし、唯男子は死するを道とすと覚て、五常之道と云ふ事一段外之事と覚へ、仏法といへば死て後之穿鑿に而、生死を可知為となれば、用るに不足と自見而遠り常に主下之作法も有てなく、主ち云名を知て禄を受る士は主とのみ覚へ、百姓は地頭とのみ覚て不礼之行跡擧而、不足言也。武士之戦場に死するも忠義に因て死する処の節を以て善とする工夫なく、唯武士は於戦場に死を致す者とのみ覚へて死するは可論様なし。蓋し泰平之時は主安座而席を正ふ而あるに臣は足を伸し、或は立ちながら主君と問答するの類多し。末代以て是風俗なるべし。(『人国記』)

薩摩国地名解説

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壱岐・対馬国

壱岐国(いきのくに) 現・長崎県壱岐島

史料上の初見は、魏志倭人伝に一大国あるいは一支国としてある。古くは壱岐のほか、伊伎、伊吉、伊岐、由紀、由吉など様々に表記され、「いき」または「 ゆき」と読んだ。令制国しての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。

壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。

[国府]
石田郡にあった。具体的な場所については諸説あり、遺跡もまだ見つかっていない。

[守護所]

対馬国(つしまのくに) 現・長崎県対馬

対馬国の初見は、魏志倭人伝に対海国としてある。日本では津島とも書かれたが、7世紀に律令制の地区分として対馬国が設けられると、対馬に定まった。対馬国は、対馬島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。

[国府]
下県郡にあった。現在の対馬市厳原町と推測されているが、未だ遺跡は見つかっていない。

[守護所]

壱岐・対馬国
壱岐対馬之両国遠島たれども物之花奢成事は大隅薩摩にはる/\可勝也。人之気柔弱なる所多ふ而自堕落事多し。(『人国記』)

壱岐・対馬国地名解説

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