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紀伊国
紀伊国(きいのくに) 現・和歌山県
七世紀に木ノ国(きのくに)と熊野国が合併して成立。当初は、木ノ国であったという。和銅六年(713)に、好字二字で地名を表す命令が出されたとき、「きのくに」を紀伊国と表記するようになる。後になって読み方も「きいのくに」に変化した。
[国府]
名草郡、現在の和歌山市府中と推定されるが、遺跡は未だ発見されていない。
[守護所]
鎌倉時代は熊野御幸の用度から熊野別当が置かれていた事から、守護は置かれず守護代が置かれていた。室町期に入り、足利氏が畠山氏を守護に任じる。その後、細川・山内・大内らの諸氏がなり、応永六年(1399)以降は畠山氏が世襲した。
[幕藩体制確立後]
和歌山(紀州)藩(五十五万五千石)及び、その支藩新宮藩(三万五千石)、田辺藩(三万八百石)が置かれた。
紀伊国
紀伊国の風俗不律儀第一に而、陽気甚しくいやしく。上と而は下を貪り、下は上みをあなどり、法令を不入而、更に言語に絶たり。牟婁、日高、在田郡の人別而我慢にして意地を強く立るかと思へば、亦弱く而詰る処之奥意不極して、譬ば昨日味方たりし人之弱身なれば、今日は亦敵となり、其従ふ処の人に大事有と見ればさすが本へもかへる事をはぢ、頭なしの一揆をも企る如くの風俗、言舌に顯然と而備れり。因茲見之は郡々に名主と号し、庄司殿と是を呼て、是を主君の如く仰ぎ、勢を得る時は、是を先立、後るゝ時はともに従て、蟄居するの類、治承之乱之時より而聞伝、其ありさまを見るに誠に思ひ当れり。
其気のかたくへなく、不頼から事擧て難云。扨亦伊都、名草、那賀、海部郡之人は南郡よりは気柔也。然れども差掛りたる意地のみにて、是も詰りたる心微塵も無之といへども善悪を知りて多くは悪意に従ふ程の儀は無之と見へたれども、慾深き事日本にも雙ぶ国有間敷き也。都而武士之風俗身を上分に持ちなし、常に饗応を尽、而放逸を不知、唯心之行処に従て、利口を面前に顯し、律儀と云こと実と云ことを露ほども不用而、しかも武之翫ふ処の事をば如形、雖務終に無実して其業数を覚て、耻をかく之人千人に九百九十人如形、両伊丹、石州之五ヶ国よりは意地強し。碁石蕨蒜は吉。(『人国記』)
紀伊国地名解説
紀伊国 内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
九度山(くどさん)
高野山に連なる山で、関ヶ原後、西軍に与した真田昌幸・幸村親子は、上田城を追われここ九度山麓に蟄居した。
『花と火の帝』
幸村はこの地の蟄居先の屋敷にあって、佐助や才蔵らを使い世情を掴んでいた。やがて大坂の豊臣家が仇敵徳川に滅ぼされる事が避けられないと判断した幸村は、蟄居中の彼の見張り役だった村人を屋敷に招いて酒宴を開く。そして彼等が酔いつぶれ正体不明となると、そっと屋敷を抜け出し大阪城へと向ったのだ。
熊野(くまの)
紀伊半島南部の汎称。
古くは牟婁(むろ)と呼ばれ、嶮しい峰と谷に囲まれた山地。外界から閉鎖され、宗教的聖地として神聖視された。熊野三山を中心に、全国から参詣者が集り、修験道、熊野比丘尼で知られる。
天磐盾(あめのいわだて)
『日本書紀』に現れる地名。新宮市。
熊野速玉神社の摂社神倉神社境内にある神倉山を指すという説が通説となっている。
荒坂津(あらさかのつ)
『日本書紀』に現れる地名。別名丹敷浦(にしきうら)。場所不明。
『書紀』(神武天皇記)に「軍を師ゐて進みて、熊野の荒坂津(亦の名丹敷浦。)に至ります」と記された地で、三重県北牟婁郡錦村(度会郡紀勢町錦)とする説があるが、この地が古く熊野に属していたという記録が無く、『紀伊続風土記』などでは、三重県南牟婁郡荒阪村二木島(熊野市二木島町)説を取り、二木を「にしき」の転じたものとしている。
この地に上陸した神武の軍隊は、丹敷戸畔という女賊を誅殺したという。
熊野の神邑(くまののみわのむら)
『日本書紀』に現れる地名。新宮市。
『書紀』(神武天皇記)に「熊野の神邑(みわののむら)に到り、且ち天磐盾に登る」と記された地で、『古事記』では「熊野村に到りましし時」と記された地。神を「みわ」と読んでいて、新宮市に「三輪崎」という地名が残っている事から、その辺りとされている。また、『万葉集』には「神之崎」という名が現れる。
高野山(こうやさん)
紀伊国伊都郡長峰山脈北東部の「内外八葉」とよばれる峰々に囲まれた盆地。和歌山県伊都郡高野町。
弘仁七年(816)空海が嵯峨天皇より贈られ、金剛峯寺を創建したことから知られるようになる。平安末期から朝廷や摂関家の尊崇があつく、また天下の霊場として納骨信仰が広がり、堂塔伽藍が多数建てられ栄えた。古くから高野山へは諸方から道が通じ、いくつもの参詣道に沿って集落が発達した。
ここ高野山は、弘法大師空海によっておよそ1200年前に真言密教の修行道場として開かれた。最澄が開いた比叡山の天台宗とともに平安仏教の双璧をなした真言宗の総本山として有名な地である。江戸時代までは多くの寺領を持ち、現在の高野町だけでなく隣接する九度山町などをも含んだ地域を差していた。
標高およそ900mの山上の盆地にある壇上伽藍には、大小さまざまなお堂や塔が立ち並び、 仏像や曼陀羅が参拝者を迎えている。
佐野(さの)
古くは狭野(さぬ)と記された地。
『日本書紀』「神武天皇巻」に現れる。現在の新宮市佐野とされ、この地は『万葉集』にも現れる。
名草(なくさ)
『日本書紀』に現れる地名。
「神武天皇巻」に名草邑と記された地で、和歌山市南西にある名草山付近の地を云ったとされる。また、名草山の名は『万葉集』にも現れる。
この地で、神武軍は名草戸畔(なくさのとべ)という女賊を誅殺した。
那智(なち)
社の名。
紀伊国東牟婁郡(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)にる那智山一角の那智権現のこと。熊野三山(熊野大社)の一で、那智大滝をはじめ四十八滝とよばれる多くの滝があり、那智大滝を神体とする飛滝神社、妙法山阿弥陀寺など、一大霊場をなしている。
淡路国
淡路国(あわじのくに) 現・兵庫県淡路島
古くは淡道と書いた。粟国(あわのくに。後の阿波国)に渡る途中にあることを意味する。
『日本書紀』では、伊奘諾尊と伊奘冉尊が最初に生んだ島が「淡路洲」で、それが胎盤だったことから「吾恥(あはじ)」という意味で名付けられたとしている。
[国府]
現在の三原町国衙にあったと推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
[守護所]
初め長沼氏が守護だったが、後には細川氏が兼務している。
[幕藩体制確立後]
三原郡、津名郡の二郡が置かれ、江戸期は徳島藩領となる。
淡路国
淡路国之風俗、遠島之国に而人の気、律儀に而何事も偽る事すくなく、譬ば我が親類縁者とあれば其筋目を正し。たとへ貧賤道路の乞人にても是を正すの風俗也。然ども都て怠惰之気甚き国風にて物のしまる事すくなく退屈の体のみ多く、武士の風俗も質ありといへども達人の可出国にはあらず。(『人国記』)
淡路国地名解説
淡路国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
鹿子の湊(かこのみなと)
淡路島の湊。
淡路国風土記に云はく、応神天皇の廿年秋八月、天皇、淡路の島に遊猟し給ひし時、海上より大きなる鹿の浮び来たれば、やがて人なりけり。天皇、左右を召して詔して問はしめ給ひしに、答へけらく、「我はこれ日向の国の諸縣の郡の牛なり。角ある鹿の皮を著たり。年老いて仕へまつらねども、尚天恩を忘るゝことなく、よりて我が女髪長姫を貢るなり」と申ししかば、仍、御舟を榜がしめ給ひき。因りて、港を鹿子の湊といふ。(詞林采葉抄七)
阿波国
阿波国(あわのくに) 現・徳島県
7世紀に成立した。阿波は古くは粟と書いたが、和銅六年(712))に地名を二字で表記するため阿波に変更された。
阿波国の荘園は、奈良時代に開かれた新島庄・勝浦庄を除いて、ほとんどが平安末期から鎌倉初期に荘園化されたもので、その多くは公田の荘園化であったとされる。また阿波国の荘園は五十ヶ所余も有りほぼ阿波国全土が荘園化され、その多くは中央の寺社領・院宮領だったといわれる。
[国府]
名方郡にあり、現在の徳島市国府町と推定されるが、未だ遺跡は見つかっていない。
[守護所]
鎌倉時代、淡路・阿波・土佐三国の守護職に任ぜられた佐々木経高は阿波に入り、文治二年(1186)、名西郡尼寺の茶臼山に守護所を設けた。しかし、佐々木氏は承久の乱(1221)で後鳥羽上皇に味方し敗れた為、乱後阿波国を追われ、代わって信濃の小笠原長清が守護職に任ぜられて阿波に入った。小笠原氏は井隈に守護所を置き、南北朝期に細川氏に守護職を奪われるまで、およそ百年間阿波国を治めた。
[幕藩体制確立後]
徳島藩二十五万石(淡路国を含む)が置かれた。
阿波国
阿波国の風俗、大体気すくやかに而、智も有り。届きたる意十人に七八人も如此也。然ども智有を以て届きたる意地を忘却して変道を行ふ事あるべし。されども人をたばかり強盗抔の類は究て有間敷也。武士の風俗最如此に而、意地強し。雖然智還而あだとなるべし。三好、麻植、名東、名西郡は形儀一也。勝浦、那賀、板野、阿波、美馬之郡は少心細きか。(『人国記』)
阿波国地名解説
阿波国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
勝間の井(かつまのい)
阿波国風土記に云はく、勝間の井の冷水、勝間の井といふ由は、倭健の天皇、大御櫛笥忘れ給ひしによりて、勝間といふ。粟の人は、櫛笥をば勝間といふなり。已上。(萬葉集註釋七)
讃岐国
讃岐国(さぬきのくに) 現・香川県
7世紀に、現在の香川県の四国本土部分とおそらく塩飽諸島を範囲として成立した。江戸時代に小豆島と直島諸島が備前国から譲られた。
律令時代の讃岐の公田は、『和名抄』によれば一万八千六百四十七町(184.6?)で、人口は菅原道真の国司時代には約十万人とされる。
奈良時代になると荘園が増え、法隆寺領の十三ヶ所や具福寺領山田郡二十町などが知られている。平安時代には石清水八幡宮領が代表的なものとして現れ、平安中期には摂関家領、皇室の御願寺領の金剛院領、安楽寿院領などが現れる。
[国府]
現在の坂出市と推定されているが、遺跡は未だ見つかっていない。
[守護所]
足利尊氏によって阿波守に任じられた細川和氏が四国の経営を任せられ、孫の頼氏の代に讃岐の土豪勢力を従わせて、守護となっている。
[幕藩体制確立後]
高松藩十二万石、丸亀藩五万千五百石、多度津藩一万石が置かれた。
讃岐国
讃岐国之風俗気質弱く邪智之人百人に而半分如斯也。武士の風俗別而諂強く方便を以て立身をすべきなどゝ思ふ風儀之由。兼て聞及に不替形儀なり。別而大内、寒川、三木、三野、山田郡如此也。(『人国記』)
讃岐国地名解説
讃岐国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
鬼ヶ島(おにがしま)
「桃太郎伝説」で、鬼が棲むとされた島の名。
各地に有るが、讃岐高松の北四キロの沖に浮かぶ女木島を「鬼ヶ島」と呼ぶ。この島の鷲ヶ峰山頂近くに、人口の大洞窟が有り、石きり場跡とも海賊の住処とも云われ、その使途が不明なことから、鬼の棲み家とされている。
塩飽(しあく)
塩飽諸島。備前と讃岐の間の備讃瀬戸に浮かぶ大小二十八の島々の総称。
うち櫃石島・与島(坂出市)・本島・牛島・広島・手島(丸亀市)・高見島(多度津町)をとくに塩飽七島と呼び、それらの島々が塩飽の中核を形成している。古来から海賊衆の住処となり、造船・航海術が発達して、塩飽水軍や回船で知られた。なかでも本島がその中心とされ、東北端にある笠島集落は、現在でも伝統的な町並みの形式を保ち、伝統的建造物群保存地区に指定されている。
戦国期にその名を知られた塩飽水軍は、豊臣秀吉の朝鮮出兵や、島原の乱の際の兵員・物資の輸送に活躍。幕末の万延元年(1860)、木村摂津守、勝海舟らが大平洋を渡った咸臨丸の水夫も、その過半は塩飽の出身者だったといわれる。また、塩飽諸島は、両墓制と人名制でも知られている。
[人名制]
天正十八年(1590)、豊臣秀吉が塩飽水夫の優れた航海・造船術を認め、島民六百五十人に特別の朱印状を下賜した。人名とはこの六百五十人をいい、どの藩にも属さず、自治制をしいていたが、必要に応じて船方として出役することが義務づけられていた。この制度は徳川幕府にも引き継がれ、明治維新まで続いた。
[両墓制]
死者一人に対し、亡骸を埋める墓と、魂を祀る墓の両方を作る墓制。
八嶋の洲崎(やしまのすざき)
讃岐国山田郡(香川県高松市)の屋島をいう。
豊玉姫が八尋の産殿を作らせた八尋島の略といわれ、形状が屋根に似ていることから八島・屋島の名が起こったとされる。平安初期は真言宗御室派霊場として栄え、後期には源平合戦の舞台として著名となった。一の谷の戦で敗れた平氏は、当地に内裏や御所としての城廓を築き本拠地となし、その水軍力で瀬戸内海を制したが、源義経の奇襲に敗れ当地を追われた。
屋島は瀬戸内海に突き出た溶岩台地で、東西約三キロ、南北五キロ、標高二百五十〜九十m。古銅輝石安山岩からなり、卓状台地(メサ)の典型的な例として、国の天然記念物に指定されている。現在は陸続きとなっているが、中世までは海に囲まれた島であった。四方を断崖に囲まれた屋島は、天然の要塞だったことから軍事上の拠点として利用されてきた。古代において、白村江の敗戦後、大和政権は天智天皇六年(667)、対馬国金田城、筑紫国大野城、大和国高安城などとともに、この地に屋島城を築いて、朝鮮半島からの攻撃に備えたと『日本書紀』にみえ、島の西側の谷に僅かに残る石塁がその城趾とされている。
壇の浦(だんのうら)
島の東麓にある海岸をいい、源平合戦の古戦場として知られる壇ノ浦(周防国)とは別。
伊予国
伊予国(いよのくに) 現・愛媛県
7世紀に成立した。
[国府]
越智郡にあり、現在の今治市と推定されているが、未だ遺跡は見つかっていない。
[守護所]
[幕藩体制確立後]
伊予国
伊予国之風俗、大形半分々々に分れ、東郡七八郡は気質柔に而、実儀強き形儀也。夫より西郡は都而、気強く実は少く見ゆる也。古より是国には海賊満々而、往来の舟をなやます由聞及ぶに不違、今も猶徒党を立て一身を立る族多し。誠に関東之強盗是国之海賊同じ業に而、武士之風俗一段手強しといへども、武士道吟味無之故危きことのみ多き風俗なり。末代も人之気質に替りは有間敷ものなり。(『人国記』)
伊予国地名解説
伊予国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。
天山(あめやま)
愛媛県松山市天山。
伊予国風土記に曰はく、伊予の郡、郡家より東北に天山あり。天山と名づくる由は、倭なる天の加具山、天より天降りし時、二つに分れて、片端は倭の国に天降りき。因、天山といふ本なり。その御影を敬礼ひて久米寺に奉りき。(釋日本紀七)
熊野の峰(くまののみね)
伊予国風土記に曰はく、野間の郡、熊野の峯、熊野と名づくる由は、昔者、熊野といふ船をこゝに設りき。今に至るまで石と成りて在り。因、熊野といふ本なり。(釋日本紀八)
土佐国
土佐国(とさのくに) 現・高知県
7世紀に都佐(とさ)国造と波多国造の領域をあわせて建てられた。土佐は、古くは土左と表記されることもある。
[国府]
長岡郡にあった。現在の南国市比江で遺跡が発掘されている。紀貫之が国司を勤めた。
[守護所]
[幕藩体制確立後]
土佐国
土佐国之風俗成程直に而、気質すなをなる国風也。是都て士町人百姓に至るまで如此なり。別而土佐、長岡、吾川郡如此也。されば其気質は鳥けたものにも備る物乎。猿も是国の猿は別て仕付よきなりされども、遠国にして其言舌卑きなり。心底は如形直なり。(『人国記』)
土佐国地名解説
土佐国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

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