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古道・街道編
畿内
龍田道(たつたみち)
立田越ともいい、河内から大和龍田(奈良県生駒郡三郷町、北葛城郡王寺町)へ抜ける山越えの道。古くから大和と難波を結ぶ要道で、平城遷都後は、天皇の難波宮行幸道ともなった。古来、数多くの和歌に詠まれ、紅葉の名勝地である龍田山を訪れる人々も龍田道を利用した。
伏見街道(ふしみかいどう)
狭義では京〜伏見間。その先は大坂への道(大坂道)と、奈良への道(大和路)に別れる。
伏見街道は、豊臣秀吉が伏見に隠居の城、指月城を築いた16世紀の末頃、京都と伏見を 直結する道として開通した。伏見を過ぎて奈良まで続いていることから、別名「大和街道」と も呼ばれている。現在でも車の行き交う広い道路に出ることなく、細い旧道が続いている。
[街道の遺構・名所・名物]
【一の橋】(いちのはし)
南に行くと、一橋(いっきょう)小学校がある。その校内の一角に、かつてこの伏見街道に架かっていた「一の橋」が復元されている。親柱に「伏水街道」の字が深く刻まれている。この橋は、もと本町通の10丁目と11丁目の間を流れる今熊野(いまぐまの)川に架けられた石橋だったが川が暗渠になって撤去された。伏見街道には二の橋、三の橋までがあり今も名残が街道沿いに見られる。
交通/JR奈良線・京阪電車「東福寺」下車徒歩3分
【伏見人形】(ふしみにんぎょう)
伏見街道の名物として、伏見人形がある。伏見稲荷大社の手前にかわいい伏見人形を店頭に並べた「丹嘉(たんか)」という店。饅頭喰いや鎧武者、熊と金時など素朴で庶民性のある題材をもとに作られた人形で、作られ始めたのは江戸時代初期のこと。丹嘉はその伝統技術を今に伝える唯一の店という。
交通/JR「稲荷」駅から徒歩3分、京阪「伏見稲荷」駅から徒歩5分
柳生街道(やぎゅうかいどう)
大和路笠置から柳生の庄までの道。
宮本武蔵も通ったという柳生街道(滝坂道、現在、東海自然歩道としてハイキングコースになっている)を奈良市高畑から東へ、能登川の渓流にそって春日山原始林のなかを柳生の里へ徒歩で向かへば、より往時を偲べるのかも知れない。
[街道の遺構・名所・名物]
【首切地蔵】(くびきりぢぞう)
柳生街道の途中には、地蔵の首に切れ目が入った首切地蔵がある。柳生の剣豪柳生十兵衛の弟子、荒木又右衛門が、試し切りをしたと伝えられている。
交通/JR関西線「奈良」駅、近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車旧柳生街道を徒歩4キロ。
東海道
東海道(とうかいどう)
古代の七道の一つ。京と常陸国国府を結んだ官道の一。
伊賀路(いがじ)
伊勢の津から長野峠を越え伊賀の上野を結ぶ街道。津と上野を結ぶ道はいくつかあったが、長野峠を越える道が最短だったため、この街道が整備された。江戸期、津には藤堂家の本城があり、上野には同藩の支城があり、藩内で最も重要な街道となる。
伊勢路(いせじ)
近江国(滋賀県)より鈴鹿山脈を峠越えして伊勢国(三重県)に至る街道筋の総称。官路の東海道でもある鈴鹿峠越などを含め10道があった。安楽越・小岐須越は難所として知られ、中でも大河原越は嶮難を極めたという。古来より多くの商人・旅人らにより利用され、特に近江商人の往来が盛んだったといわれる。
鎌倉街道(かまくらかいどう)
鎌倉時代、幕府の置かれた鎌倉から関東各地を結ぶ道の総称。
鎌倉街道上道(武蔵大路) 鎌倉から武蔵国国府を通り、上野国府を結ぶ幹線道路。
鎌倉化粧坂〜本町田〜七国峠〜小野路〜関戸〜多摩川の渡し〜武蔵国府(府中)〜恋ケ窪〜久米川〜所沢〜入間川〜上野国府
鎌倉街道下道 鎌倉から江戸、下総国府を経て、安房、及び常陸に向う街道。
鎌倉〜神奈川〜平間〜矢口の渡し〜大井〜品川〜江戸〜須田の橋〜市川 ここで千葉〜市原〜上総国府を経て安房国府へ通ずる道と、松戸〜柏〜土浦〜石岡を経て常陸国府へ通ずる道に別れた。
さらに、鎌倉から溝口、渋谷、板橋、鳩ヶ谷、杉戸、栗橋を経て下野国府に通ずる道や、大磯、酒匂と東海道を都に上る道をも鎌倉街道といった。
武蔵路(むさしじ)
古代の武蔵路は、まだ武蔵国が東山道に含まれていた頃、上野国新田駅と下野国足利駅の間から所沢を経て武蔵国府(現府中市)へ通う枝官道として造られた。近年の発掘調査から両側に側溝のある幅12メートルの道がほぼ直線的に建設され、この路に沿って武蔵国分寺や国分尼寺が造られたと見られている。宝亀二年(771)、武蔵国が東山道から東海道に移されると、官道も相模国府(現海老名市)から座間・町田を経て武蔵国府へ通じる枝官道(相模道・鎌倉道)となり、物流と人馬の流れの変化にともない、古代武蔵路は次第に忘れられた道となっていった。
江戸期に整備された街道
甲州道(こうしゅうどう)
江戸時代の五街道の一つ(武蔵国内藤新宿〜信濃国上諏訪三十一次)。江戸時代初期、総代官に任ぜられた大久保長安によって整備された街道。幕府道中奉行の管轄。
東海道(とうかいどう)
江戸時代の五街道の一つ(武蔵国品川〜近江国大津五十三次)。最も重要視された幹線道路で、幕府道中奉行の管轄。
[街道の遺構・名所・名物]
【鈴鹿峠・鏡岩】
片山神社を抜けた広場の右道入口に芭蕉句碑があり、そこから馬の水飲み場を経て勾配が緩やかになった山道を登り切ると雑木林に入る。そのから鏡岩入口の標識を頼りに鏡岩へ。岩は絶壁の上に突き出ている。鏡岩とは硅岩の表面が断層のズレで磨かれ鏡状になった岩で、 その昔鈴鹿峠の山賊が、旅人の通る姿がこの岩に映るのを見て待ち伏せたという言い伝えから「鬼の姿見」の別名がある。ここまで来れば、峠を越えている。
交通/ 最寄駅はJR関西本線「関」駅だがバスの便は無く、国道1号線を車で行くか、旧道を探りながら歩く。
大坂道(おおさかみち)
伏見から先、大坂までの道を大坂道(大坂街道)と云い、宿は淀、枚方、守口にあった。 江戸期になると、大津から大坂までも東海道というようになる。
東山道
東山道(とうさんどう)
古代の七道の一つ。京と陸奥国国府を結んだ官道の一。
伊那道(いなみち)
上保道(かみのほみち)
飛騨国牧戸から近江国郡上八幡までの古道。
郡上街道(ぐじょうかいどう)
鯖街道(さばかいどう)
飛騨五街道(ひだごかいどう)
天正十四年(1585)、飛騨に入国した金森長近は城下町形成にあたって、東西南北の街道を商人町で接続した。東は野麦峠を越えて江戸方面へ通じる江戸街道、南は宮峠、あるいは刈安峠を越えて尾張、京都方面へ通じる尾張街道、西は白川郷、郡上方面へ通じる郡上(白川)街道、北は越中方面へ通じる越中街道を整備した。また時期をかぎってではあるが、平湯峠を越える平湯街道があり、この街道から安房峠あるいは中尾峠を越え信州へと通じる道があった。これら五街道を総称して飛騨五街道といった。
江戸街道(えどかいどう)
飛騨高山から江戸方面へ通じる街道の総称。その主要道は、野麦峠を越える野麦街道を通り、落合渡から中山道薮原へ抜け江戸へと向う夏場の道。上ケ洞から中山道福島宿へ抜け江戸へと向う冬場の道。また、平湯街道を通り、安房峠を越えて黒川渡、松本を通り江戸へと向う道などをいう。
尾張街道(おわりかいどう)
古の官道として東山道方県駅から別れて飛騨国府に通ずる飛騨支路(位山官道を)があった。この位山官道を江戸時代に川に沿って整備し中山道と合流させ、さらに南下して尾張へと通ずる街道をいう。
白川街道(しらかわかいどう)
飛騨国高山から牧戸を経て白川郷に至る道。牧戸からは郡上八幡へと抜ける郡上街道が分岐した。
野麦街道(のむぎかいどう)
金森長近が整備した江戸街道の高山から松本間のことで、飛騨往還、飛騨街道、善光寺道とも呼ばれる。この野麦街道は信州松本と飛騨高山を結ぶ峠越えの道。標高1,672mの野麦峠を超えるこの街道は、江戸時代には富山のブリが高山に運ばれ、「飛騨ぶり」と名を替えたブリが松本へと運ばれるいわゆる「ぶり街道」だった。昭和になり「女工哀史」「ああ!野麦峠」で一躍知られるようになった嶮しく厳しい道だ。峠からは間近に乗鞍岳の勇姿が見られ、現在では再建された「お助け小屋」や水準点の碑、そして「野麦峠の館」という峠博物館などの施設があり、峠好きの来訪者が絶えない名所となっている。旧道も峠の前後に6kmほど残っていて、往時を偲ぶこともできる。
明治から昭和初期にかけて、日本の資本主義の基幹産業の一つ紡績工業を支えるべく、飛騨地方の若い娘さん達が古川・高山などの宿に集められ、信州諏訪地方に製糸工場の女工として働くために歩いた道中の難所がこの野麦峠だった。「ああ!野麦峠」の主人公みねは厳しい労働条件の中病に倒れ兄の背負われ峠を越え飛騨に帰る途中、「ああ飛騨が見える」と言って息途絶えた。彼女たちは我が国の富国強兵策の犠牲者であり、この「野麦峠」はまさに日本の近代の発展を底辺で支えた彼女たちを象徴する地だといってもいい。野麦峠の駐車場のそばにはその兄妹二人の像があり、駐車場より続く遊歩道を登ったところに「政井みねの碑」が建っている。
飛騨高山と信濃松本を結ぶ道は、安房峠越えと野麦峠越えがあったが、寛政二年に平湯番所が廃止され、安房峠越えの道が通行禁止となると、もっぱら野麦峠越えの道が利用されるようになった。
[街道の遺構・名所・名物]
【お助け小屋】
お助け小屋の始まりは江戸時代までさかのぼる。「厳しい峠越えにより命を落とす者が多いことから、小屋を建てて番人を置き、峠越えをする者を救いたい」という願いを幕府が聞き入れ、天保12年(1841)、高山の代官所により建てられた。当時、高山は幕府直轄地(天領)だった。
現在のお助け小屋は、昭和45年に野麦峠の麓、野麦集落の古い家屋を移築したもので、食事や宿泊もできる施設となっている。
『鬼麿斬人剣』
冬の峠越えは、ブリを運ぶ歩荷たちでさえ命がけだったという。そのため幕府は歩荷たちの避難小屋として「お助け小屋」を建てた。松本を立った鬼麿とたけは吹雪の街道を峠へとやってきて、「お助け小屋」に先客がいることを知る。先客は鬼麿を追っている伊賀同心の頭の末娘おりんだった。
美濃街道(みのかいどう)
美濃〜越前
身延街道(みのぶかいどう)
江戸期に整備された街道
会津通(あいづどおり)
奥州道白河宿より会津藩の城下町会津若松を経て、越後国新発田へ通じる街道。
羽州路(うしゅうじ)
羽州街道。奥州松前道の桑折宿から分岐し、小坂峠を越え山中七ヵ宿を経て金山峠に至り、上山・山形・天童を経由、さらに雄勝峠を越えて湯沢・横手と出羽国内陸部を縦貫して久保田(秋田)城下に達し、さらに北上して津軽半島北端の三厩に至る脇往還。
奥州道(おうしゅうどう)
江戸時代の五街道の一つ(武蔵国千住〜陸奥国白河二十七次)。奥州道は天正十八年(1590)、小田原征伐の直後、秀吉によって小田原〜会津間約百里に幅三間の道路の築造を命じたことに始まり、江戸に入封した家康がその政策を継ぎ進められた。文禄三年(1594)、伊奈忠次が千住大橋を架橋して江戸から奥州道が通ずるようになり、陸奥白河までの街道が開通した。その後、江戸に幕府を開いた家康は街道の整備を重視し、慶長六年(1601)には東海道・中山道に伝馬・宿駅制を導入、翌七年、奥州道中にも伝馬制が布かれ宿駅が整備された。しかし、東照宮の日光への移籍により将軍や諸大名の日光参詣が始まると、宇都宮までが日光道中とされ、奥州道中は宇都宮〜白河間だけとなった。幕府道中奉行の管轄。
奥州松前道(おうしゅうまつまえどう)
広義の奥州街道で、奥州道の白河宿から先、福島・仙台・一関・盛岡・青森・三厩を経て蝦夷松前に至る道中。この内、白河〜仙台間を仙台道といい、仙台〜松前間を松前道ともいった。また、白石の先から山形・新庄・秋田へ至る羽州街道が別れていて、ここを通って松前に至る道を陸奥出羽往還・奥州出羽街道などと称した。江戸期には伝馬が置かれ、勘定奉行および通過する各藩が管轄した。
中山道(なかせんどう)
中山道は木曽路とも呼ばれ、江戸時代の幹線道路・五街道(東海道・中山道・甲州道中・奥州道中,日光道中)の一つ。東京・日本橋から埼玉、群馬、長野、岐阜、滋賀を経由し京都・三条大橋に至る約530キロの行程に、69カ所の宿駅が置かれた。東山道とも呼ばれ、東海道と並び関東と関西を結ぶ主要道として古代から使われていたが、江戸幕府が開かれる前年の慶長七年(1602)に本格的な整備が始まった。参勤交代の大名行列や長野・善光寺に詣でる旅人などが行き交い、幕末には公武合体政策で14代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮の大行列が通った。幕府道中奉行の管轄。
○木曽路 和漢三才図会に云、元明帝の和銅年中に、木曾路を開く、始は岐蘇道と書、美濃の国の内也、今信濃に属す、行基菩薩諸国を巡行し、風土記を作、日本の図も此僧にはじまる(『近代世事談』巻之五)
[街道の遺構・名所・名物]
【笠取峠の松並木】
この旧中山道芦田宿(北佐久郡立科町)と長久保宿(小県郡長門町)の間、佐久小県郡境にある峠が笠取峠だ。『木曽路名所図絵』に「此処にて浅間山見晴しよし」と書かれた笠取峠は標高887m、「三十丁上り」といわれる緩い昇りの道が続く。この峠道に差し掛かった所で、鬼麿は後に道中を共にすることとなる山窩の子「たけ」に出会う。その鬼麿の背後には、服部小平太率いる伊賀忍軍の追手が迫っていた。
天然記念物「笠取峠の松並木」は、慶長7年(1602)徳川幕府が小諸藩に赤松753本下付し・芦田宿の外れから頂上まで、風よけ、日除けのために植えさせたものという。現在は松並木に沿って遊歩公園(松並木公園)となっていて、樹齢2〜300年の松が約1?の所に110本あまり残っている。また、峠近くには一里塚も残っている。
この笠取峠は月の名所としても知られ、名月が冴えわたる空に、雁が列をなして飛ぶさまは、一幅の名画に形容され、「雁取峠」の別名もある。
日光道(にっこうどう)
江戸時代の五街道の一つ(武蔵国千住〜下野国鉢石二十一次)。元は宇都宮から別れて日光へ向かう街道を日光街道と称していたが、日光に東照宮が移されて、将軍や諸大名の日光参詣などが行われると、それまで奥州道中だった日本橋〜宇都宮間をも日光道中と定めた。幕府道中奉行の管轄。
日光御成道(にっこうおなりどう)
中山道の本郷追分で分岐し、岩渕宿・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て、幸手宿の南で日光道中と合流する五宿十二里の街道。道筋の成立は古く、鎌倉時代に鎌倉幕府よって整備された鎌倉街道の中道と同じかあるいは沿うように造られている。この御成道は、その名の通り、将軍が日光東照宮へ社参するための専用道路として整備された道路で、江戸期を通じて都合十九回使われた。
岩渕宿と川口宿は宿間七町と短く、荒川を挟んで対岸にあったため、半月交代で伝馬役を勤めた。問屋場は岩渕宿にあり、旅籠は三軒で戸数二百二十余、人口千二百五十余人、川向こうの川口宿は旅籠十軒、戸数二百九十余、人口千四百余人だった。間の荒川の渡しは馬船と歩行船が常備されていたが、将軍社参時と川口にあった善光寺の開帳時には人手が多かったため仮橋が設けられた。鳩ヶ谷宿は戸数二百十余、人口九百余人と川口宿より規模は小さかったが、三と七の日に立つ六斎市に集まる商人のために旅籠十六軒と多かった。大門宿は旅籠六軒、戸数百八十余、人口八百九十余人と規模は一番小さかった。岩槻宿は城下町でもあったため、旅籠十軒、戸数七百七十余、人口三千三百七十余人と五宿中もっとも規模が大きい。
北陸道
北陸道(ほくりくどう)
古代の七道の一つ。京と佐渡国国府を結んだ官道の一。
若狭から越前、加賀、越中、越後、そして佐渡に至る道を北陸道という。古くは越(高志)の道と呼ばれ、加越国境の砺波山(倶利伽羅山)の麓に和銅五年(712年)砺波関(となみせき)が設けられていた。近江国内は琵琶湖の西岸を通り古代三関の一つ愛発関を越え、敦賀に抜ける官道として重要視された。この道筋は後に西近江路と呼ばれる。
[街道の遺構・名所・名物]
親不知(おやしらず)
この親不知は北陸道最大の難所として知られていた。張り出した飛騨山脈が日本海で急峻な崖となって終わり、海岸の僅かな砂地が辛うじて通れる道になっていた。今でこそ崖を切り開いたり、トンネルを通す事で波に攫われることは無くなったが、当時は「親も子を見かへるいとまなく、子も親に尋ぬるに隙(ひま)なきとて、ここを親不知・子不知と名付けたり」と言われた所だ。この天険のために、信長と覇を競っていた謙信も容易に上洛できなかったと言われている。
北陸本線の市振駅と親不知駅の間を「親不知」、親不知駅と青海駅の間を「子不知」といい、現在はそのどちらにもかっての海沿いの道はなく名前だけが残っている。
『一夢庵風流記』
加賀忍群の刺客を躱すように前田領を一気に駆け抜けた慶次郎たちは、越中富山に入っても旅の脚を緩める事はなかった。その越中を越えると目指していた越後の上杉領になる。その越後に入って最初の難関が親不知。しかし、その地で慶次郎たちは加賀忍びの待伏せに合う。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)
源平合戦の「火牛の計」に関わる史跡や加賀藩の参勤交代のための往還道など、歴史的・文化的価値が評価され、富山県小矢部市桜町から石川県津幡町竹橋までの延長12.8kmが平成7年6月に歴史国道として認定されている。
交通/JR北陸本線「石動」駅下車徒歩
糸魚川街道(いといがわかいどう)
千国街道ともいう。信州松本から越後糸魚川を結ぶ街道。別名「塩の道」とも言われる。
北陸路(ほくりくじ)
北国街道。北国路。北陸道。近世では、越前・越中・越後の日本海沿いを抜ける道筋(北陸道と同じ道筋)をいい、その起点・終点は定かではないが、中山道関ヶ原宿から藤川・小谷・木ノ本・柳ヶ瀬関所・栃ノ木峠を越えて今庄に入る道筋で、その先は、福井・金沢・津幡・倶利伽羅峠を抜けて越中に入り、親不知・糸魚川・直江津・柏崎・出雲崎・寺泊を経て新潟に至る街道を一般に北陸路といった。また、さらに北へ三廏までの日本海側の道筋をもいう場合がある。
西近江路(にしおうみじ)
古代の北陸道の一部。
「敦賀から疋田を抜け、琵琶湖最北端の港町海津に出、以後湖を左に見ながら、今津・大溝・堅田・坂本と南下して、遂に大津に達する街道を、西近江路という」とあるように、西近江路北国海道は、古代より都と北陸を結ぶ要路として使われ、琵琶湖西岸を通って海津から七里半越えと呼ばれる難所を越えて日本海側の敦賀まで達していた。現在この道は国道161号線となっている。
海津や今津の辺りには、まだまだ街道沿いに昔ながらの町並みが残っている。今でも宿場町の面影が残っている今津は、小浜から来る若狭街道と西近江路の合流地で、ちなみに、今津から小浜までは「九里半越え」と呼ばれていた。また、この今津は湖上水運の一大拠点であったため大いに賑っていたという。今も竹生島行きの船がここから出ていて、旧街道沿いには古い民家が点在している。「われは湖の子 さすらひの」ではじまる琵琶湖周遊の歌(三高寮歌)もここ今津で生まれた。
『一夢庵風流記』
この西近江路は敦賀を出立した慶次郎が捨丸と出会う道である。
【七里半越え】(しちりはんごえ)
西近江路の内、海津から敦賀までの道のりを特に七里半越えという。
『一夢庵風流記』
当時、七里半越えと呼ばれた難所は、敦賀から海津までの峠から峠へと続く山道だった。ここで捨丸は待ち伏せている加賀忍びを斬る。捨丸は味方を裏切ることで慶次郎への忠誠を見せたのだった。
五位川の渓谷沿いに続く道は、国道となっていて当時の面影はないが、京都から北陸へ車で行く機会があったら、北陸道を通らずこの西近江路を通ってみるのも酔狂でよい。ひょっとすると、山の木の陰に加賀忍びの姿を見ることになるやもしれぬ。
江戸期に整備された街道
北国街道(ほっこくかいどう)
江戸時代には中山道追分宿より上田を経て善光寺・高田・直江津を経て出雲崎・新潟へ通じる街道。直江津までを北国西街道といった。
善光寺道(ぜんこうじみち)
北国往還ともいう。中山道追分宿から善光寺までの往還。
北国街道(ほっこくかいどう)
近世では、中山道関ヶ原宿から近江国藤川・木ノ本を通り栃木峠を経て、越前北庄へ抜ける道。また、関ヶ原から木ノ本へ至る道は北国脇往還と呼び、中山道鳥居本宿から米原湊・長浜を経て木ノ本へ至る道を北国街道といったともある。また、直江津より新潟までを特に北国街道ともいう。
近江より越前に抜ける道は、戦国期以前は西近江路を海津から敦賀に抜ける(七里半越え)か、塩津より現在の国道8号線を通り敦賀に抜ける道(五里半越え)が一般的だった。いずれにしても若狭を経由して越前に行く。近江・越前間を最短距離で結ぶ道として椿坂峠・栃木峠を越える道もあったが、急峻な峠越えで板取崩れとよばれる崖道もあったりしたため木こり道として使われるだけだった。その木こり道を整備したのが越前国の領主となった柴田勝家だ。信長亡き後、秀吉と覇権を競い、賎ヶ岳の合戦で敗れた勝家は本拠の北庄に退くも、その整備された道が仇となり秀吉軍に一挙に攻められ滅びたのは歴史の皮肉といえよう。
『一夢庵風流記』
慶次郎が上杉景勝の佐渡征伐に参加するために通った道が、ここ栃木峠越えの道。のちに北国街道と呼ばれるこの道を慶次郎たちが通ったのは、大津から船で琵琶湖を渡り長浜に出たからであった。
[街道の遺構・名所・名物]
【栃木峠】(とちのきとうげ) 近江国(滋賀県)
現在、国道365号線となっている北国街道の最高地点。標高537mで難所といわれた。
加賀街道(かがかいどう)
北陸道のうち、加賀国内を通る道筋をいった。
三国街道(みくにかいどう)
中山道高崎宿より三国峠を越え越後国長岡を経て北国街道出雲崎へ通じる街道。
若狭街道(わかさかいどう)
山陰道
山陰道(さんいんどう)
古代の七道の一つ。京と岩見国国府を結んだ。
近世、この山陰道は五街道や中国路に比べて交通量が少なく、整備はあまり行われず、宿駅も置かれなかった。
出雲往来(出雲路) 山陰道の一部。米子〜出雲間を称した。
但馬往来 山陰道の一部。浦富〜鳥取間を称した。
伯耆街道 山陰道の一部。鳥取〜米子間を称した。
周山街道(すざんかいどう)
丹後路(たんごじ)
山陰道中のうち丹後国内の道をいう。
丹波路(たんばじ)
山陰道中のうち丹波国内の道をいう。
江戸期に整備された。
智頭街道(ちずかいどう)
鳥取藩が参勤交代のために整備した街道で、上方往来とも称した。鳥取から千代川にそって南下し、用瀬、智頭を経て志戸坂峠を越えて隣国に入り、米子からの出雲街道に合流して中国路に出た。
山陽道
山陽道(さんようどう)
古代の七道の一つ。京と長門国国府を結んでいた。
近世、大坂〜小倉を結ぶ中国路を山陽道と称することもあり、本街道に次ぐ脇往還として整備され、主要な街道となった。
中国路(ちゅうごくじ)
山陽路。山陽道。近世の山陽道をいい、『五駅便覧』によれば大坂から豊前国小倉までの街道で、宿駅は五十二宿置かれた。瀬戸内海の海路と平行して走る街道で、長崎奉行・幕府役人など幕府御用通行や西国大名の参勤交代に使用された脇往還。
宿駅は、大坂から三里で尼崎、尼崎より二里で西宮、以降(五里)兵庫(五里)明石(五里)加古川(三里)御着(一里)姫路(三里)鵤(一里)正條(十八丁)片嶋(三里半)有年(三里)三石(三里)片上(四里八丁)藤井(二里)岡山(二里十二丁)板倉(三里)川辺(三里)矢掛(三里)七日市(一里)高屋(一里二十四丁)神辺(四里)今津(二里)尾道(三里)三原(二里半)本郷(六里)西條(五里半)海田(二里)広島(一里四町)廿日市(二里)玖波(三里)関戸(一里半)御庄(二里半)玖珂本郷(十八町)高森(二里)今市(十八町)呼坂(一里半)久保市(一里)花岡(一里二十六町)徳山(一里十二町)富田(二十町)福川(二里半)富海(二里)宮市(四里半)小郡(二里半)山中(二里半)船木(一里八町)厚狭市(三里)吉田(一里)小月(二里)長府(二里)下関(海上一里)大里(一里半)小倉(『五駅便覧』)
南海道
南海道(なんかいどう)
古代の七道の一つ。京と土佐国国府を結んだ官道の一。
西海道
西海道(さいかいどう)
古代の七道の一つ。京と薩摩・対馬国国府を結んだ官道の一。
大津街道(おおつかいどう)
加藤清正が豊後街道を参勤交代に使用するために整備し、江戸・大坂へ通ずる道路としたものが大津街道といわれる。この道沿いに植えられた杉は、時代が代わる度に植え変えられ、現在も国道57号線に大津街道の杉並木として保護されている。
また、東海道の「大津」〜「伏見」間の街道も「大津街道」といった。
竹田街道(たけだかいどう)
長崎道(ながさきどう)
小倉藩領の豊前大里(瀬戸内海路の起点港)・小倉から筑前福岡藩領内、黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の筑前六宿(むしゅく)を通り、対馬藩飛び地筑前田代に入り、佐賀藩領の轟木・中原・神埼・境原・佐嘉(賀)・牛津・小田・成瀬・塩田・嬉野を経て、大村藩領彼杵・松原・大村を通過、再び佐賀藩領永昌・矢上を通り、天領に入り日見を経て長崎に至る街道。。
[木屋瀬宿](こやのせしゅく)北九州市小倉西区
代官所跡、本陣跡、問屋場跡などが有り、古い町並みを残す。
[黒崎宿](くろさきしゅく) 北九州市小倉西区
曲里と松並木が復元・整備されている。
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