歴史地理・地名便覧[北陸道]

若狭国

若狭国(わかさのくに) 現・福井県南部

日本書紀には若狭国造がみえるので、その後をひくものと推察される。当初は遠敷郡と三方郡からなったが、 825(天長2)年7月10日に遠敷郡の西部が大飯郡として分立して以後三郡となった。若州(じゃくしゅう)と呼ばれる。
風土記に云はく、昔この国に男女ありて夫婦となり、共に長寿にして人その年齢を知らず、容貌の壮若きこと少年の如し。後、神となりき。今の一の宮の神なり。因りて、若狭の国といふ、云々。(倭漢三才図会七十一)

[国府]
現在の小浜市にあったと考えられているが、正確な位置は不明である。

[守護所]
室町期には若狭国守護に武田氏がなった。

[幕藩体制確立後]
小浜藩(十万三千五百石)が置かれた。

若狭国
若狭国之風俗、人の気十人は十人一和せず、而思々の作法也。今日親しみ有て、明日は其親みを放れて、其人の悪儀を人に触知らするの類なり。誠に九思一言之語に甚だ違たる国風也。さるに仍て下と而は上みを欺き、気の怠り有、上より其罪をとがめられては己が科を隠し、非道のやうに云なし、我が非を不知にも非ず、而如斯なる事まことにいやしき風俗也。然ども取廻し利発成国風故に差当る問答などには如形弁舌能く一花は気勢に随て振舞ふといへども、根をとげてしまる意地無之、中途に而止むの類也。されども伊賀伊勢両国にはまさるべきか、三方郡は江州之風俗也。(『人国記』)

若狭国地名解説

若狭国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

小浜(おばま)

小浜城の城下町
越前の敦賀とともに、日本海屈指の要港として栄えた。延宝・元禄頃最盛を極め、廻船業に組屋・木下和泉・桑村・川船屋、絹織業に永井・絹屋、ほかに塩屋・材木屋・岡・長井・山田・吹田・升屋・畳屋・窪田・田中等の豪商が繁栄した。(『福井県史』二) 

若狭国の国府が置かれた小浜は、戦国期には朝倉氏が支配していた。朝倉氏が信長に滅ぼされた後、丹羽長秀、浅野長政、北政所(高台院)の兄木下家定の長男勝俊が領していた。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で西軍に組した勝俊は除封され、そのあとには近江大津城主であった京極高次が若狭一国八万五千石で入封した。
高次は、かつての若狭守護武田氏が築造した後瀬山城を捨て、居城を海岸沿いの蜘蛛の浜(下竹原)に移し、新たに城下町割りを行った。その蜘蛛の浜は後に雲浜と改称され、城は雲浜城とも呼ばれるようになった。高次の子忠高は、寛永元年、敦賀郡二万千石を加増され領地高は合計十一万三千五百石となったが、寛永十一年、出雲松江に転封となり京極氏による若狭支配は2代で終わりをつげる。その後に老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越十万石から移り、京極氏が始めた築城を引き継ぎ天守閣が設けられ、寛永十五年に完成する。酒井氏の支配は15代230年にわたり幕末まで続いた。

『鬼麿斬人剣』
鬼麿はこの小浜で、清麿が鍛えたという二振りの刀の行方を追う。深谷から転封してくる。
慶長十五年(1610)に五代目領主として佐倉(本佐倉)に入った土井利勝は、新たに鹿島山に佐倉城を築く。この時の城下町が現在の佐倉市となり、佐倉城は江戸城の東方を固める諸大名の城となり、土井氏以後九家二十代にわたり藩主が交代した。
辰千代がこの下総佐倉五万石に加増された時、元服し忠輝となり上総介に任ぜられたのだった。しかし、ここの領主であった期間は一年と短く、実際には領地には赴かず長沢松平家の江戸屋敷に住居していたという。

八百比丘尼入定洞

小浜市男山・空印寺。『吉原御免状』に登場する八百比丘尼伝説の一つ。斉明天皇の白雉五年、勢浜の高橋長者の子として生れる。娘は宝徳3年京都に行き、後若狭に帰って八百歳でこの岩窟に入定したという。岩窟の入口には、八百比丘尼のかたみといわれる椿が今も残されている。

越前国

越前国(えちぜんのくに) 現・福井県北部

古くは越(古志・高志)国(こしのくに)と呼び、木ノ芽山嶺から新潟県辺りまでを含む広い範囲をいった。「越」の語源には、木ノ芽(木目)峠を越す事から名付けられたともいわれる。7世紀末に越前国 ・越中国・越後国の三つに分割。その後養老二年(718)に越前国から能登国、加賀国が分割し、その後の越前国の境界が確定した。

[国府]
現在の武生市にあったと考えられるが、具体的な場所は未だ不明である。

[守護所] 
鎌倉時代から斯波氏が守護となり、室町期に斯波氏の守護代として朝倉氏が越前に入り、応仁の乱後、守護大名となって一乗谷を本拠とする。

[幕藩体制確立後]
福井藩(三十二万石)を筆頭に、丸岡藩(五万石)、大野藩(四万石)、勝山藩(二万二千七百石)が置かれた。

越前国
越前之国の風俗、日本に無双智恵国と覚たり。是上臈より下臈に至まで他の国に分つ。而見る時、如此之弁舌尾州にも劣るまじき国なり。さるに仍て高慢にして底意地悪敷軽薄に有之。一旦頼母敷やうにて語る処つれなく、譬ば人を過しめ、走り入て頼む時は心安く請合て、詮儀頻り成時はつれなく突放し、或は旅人之渡りに舟を求れば、あたいの甲乙にて舟を不渡。亦は執行暮て宿を求るにも余国に違て万事つれなく、如此成作法百人に四五十此如なり。智有て智を発つ。而諸事に闇き事なく弁ずるに本智とす。是国の人は智有て邪智をゝくして義すくなし。(『人国記』)

越前国地名解説

越前国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

北庄(きたのしょう)

越前国足羽郡、現福井市の旧称。北庄城の城下町。
南北朝時代、越前国は新田義貞の勢力が強かったが、義貞死後北朝方の支配に入り、北庄は朝倉氏が治めた。朝倉氏は根拠地を一乗谷に映し、その後戦国大名として成長したが、天正元年(1573)に滅亡。越前一向一揆平定後、織田信長は越前国を柴田勝家に与え、勝家はこの北庄に城を築き城下町を形成した。天正十一年(1583)、勝家は羽柴秀吉に大敗し天守閣を焼き払って滅ぶ。
寛永元年(1624)、松平忠昌が北庄へ移ったのを機に、敗北に通づる北庄を福井に改称した。

木目峠(きのめとうげ)

木芽峠。越前国南条郡(福井県南条郡今庄町)にある峠。
標高約六二五メートル。北陸道が二ツ屋より新保(敦賀市)を越える鞍部にある。朝倉義景が織田信長の侵攻に備えてこの地に城を築き、朝倉氏滅亡後は織田氏配下の堀・阿閉氏が守ったが、一向一揆により一揆側の下間筑後守が入城。しかし、天正三年(1575)、織田信長が越前を平定し峠の近辺も放火され、一揆側は壊滅した。

敦賀(つるが)

越前国敦賀郡(福井県敦賀市)、敦賀湾の南岸。城下町。港町。
もと笥飯(気比)と称したが、天皇に奉納したイルカの血が臭かったことから、血浦・都奴賀(つぬが)と呼ばれたともいわれ、また『日本書紀』「垂仁紀二年」には「額に角のある人が船に乗り、越の国の笥飯浦に漂着した。それでこの地を角鹿(つぬが)というようになった」とあり、名義の由来には諸説ある。
この敦賀の町は、天然の良港を擁し古代から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、古代三関の一つ「愛発の関」や、渤海国からの使節を迎えるための「松原客館」が置かれるなど海陸交通の要地として発展してきた。この地を支配していたのは越前国守護斯波氏だったが、戦国期に入り斯波氏の衰退とともにいくつかの争いを経ながら一乗谷に拠点を置く朝倉氏が支配することとなる。朝倉氏は敦賀の町を見下ろす金ケ森城を支城とし、新たに天筒山にも城を構え一族を配していた。元亀元年(1570)、織田信長による 朝倉征伐によって朝倉氏が滅ぼされると、越前国北庄に転封してきた柴田勝家の領地となった。
やがて信長が光秀の裏切りで自刃すると、勝家は秀吉に賤ケ岳の合戦で滅ぼされ、天正十一年(1583)、敦賀郡5万石が秀吉臣下の蜂屋頼隆に与えられた。蜂屋頼隆は従来の山城(金ケ森、天筒山城)に代わり、笙ノ川の西岸に新たに平城を築き始めた。これが敦賀城の始まりである。しかし、天正十七年(1589)九月二十五日蜂屋頼隆が九州の参陣先で没したため、わずか七年で蜂屋時代は終わる。その後に敦賀五万石の領主となったのが大谷刑部少輔吉継だった。
「敦賀の遊郭は、六軒町といふ。挙屋の居る所を、みつやといふ。傾国の遊料十六匁、次は十匁づゝ也。端女は六匁づつ」(『色道大鏡』十二)

『一夢庵風流記』
慶次郎が天正十六年二月にこの地を訪れ、大谷吉継の家臣大滝源右衛門宅で一月あまりを過ごすことになっているが、史実に忠実ならばありえない。
上記のように、大谷吉継が敦賀城主となったのは天正十七年で、その前年に敦賀を訪れた慶次郎が大谷吉継に会うはずはないのだが、大谷吉継という人物に惚れた隆慶一郎は吉継と慶次郎を遭わせたかった。ひょっとすると、ひょっとしたかもしれぬ、これぞ隆慶ワールドの真骨頂なのだ。

敦賀津(つるがのつ)

古くは「笥飯の浦」といい、九世紀には、渤海使節接待のための「松原客館」が設置されていたという記録もあり、天然の良港として大陸との交流の窓口となる。また、畿内と日本海側諸国を結ぶ津泊として栄え、貢納品・年貢物などの中継地として運上の要衝となり、戦乱時には軍事上の拠点となった。室町期には商人らが舟座を組織し、朝倉氏の保護下に繁栄、近世に入り北陸第一の要港となり、日本海経済圏の中心を担っていた。

栃ノ木峠(とちのきとうげ)

北国街道に有る峠。
近江国と越前国の国境にある峠で、北庄を本拠とした柴田勝家が古来からあった杣道を京へ上る道として整備。この峠越えの道は木目峠の西近江路に対して東近江路といわれた。

三国湊(みくにみなと)

湊町。越前国坂北郡(福井県坂井郡三国町)にある港。
竹田川と九頭龍川の合流する右岸に位置する古くからの湊。明応三年(1494)、朝倉貞景が加賀一向一揆と戦った時、この地に朝倉方は出城を築いた。また天正三年(1575)に織田信長が越前平定の際、この湊の富豪らが協力して情報を流すなど、その後も敦賀・小浜とともに北陸の重要な拠点でもあった。
福井藩領の三国湊は北前船の寄港地として知られた地。『続日本紀』宝亀9年(778)9月の条にその名が見えるなどその歴史は古く、中世には荘園物資の積み出し港として運用されていた。この当時、大量の荷物を輸送するには陸路より水路を利用した水運が発達した。九頭竜川河口にあたる三国はその地理的条件から物資の集散に最適の地であったことから、古くから三国を湊たらしめていた。江戸 時代には、川舟が運んでくる九頭竜川流域の産物を京・大坂に積み出す商港として栄えた。また京や大坂の物資を東北・蝦夷地へ運び、代わりに北の物資を京・大坂に運ぶ北前船の往来も活発となる。この北前船交易における三国の隆盛はこのような湊としての適性と、商品経済の発達、そして福井藩が唯一の外港として庇護に努めた結果だった。
しかし、三国湊の繁栄は福井〜小松間の鉄道敷設で終わりを告げる。その後、三国は商港から漁港へと転換していくことになる。
湊の北側九頭竜川河口から日本海に面した地は、かって滝谷出村と呼ばれていた。現在は三国町の一部となっているが、江戸時代には湊を所有する福井藩とは異なる丸岡藩の領地だった。丸岡藩は何も無い原に人を定住させ村を作り、三国湊の賑わいを自藩にもと再三幕府に湊の新設を要望するが果たせず、湊に集る人足たちを相手とした御免色里を代わりに作ったという。

「三国の傾城は、松が下と上新町とにあり。此の内に挙屋もあり。出村には、竪町と地蔵町とにあり」(『色道大鏡』十二)

「三国。越前の内にても至りたる所にて、揚屋も有り。女良も都にて囲ともおぼしき風俗、諸芸もいたす。殊の外面白きわけ。くつわにて話せば修札六匁。揚屋行き中匁なり」(『諸国色里案内』中)

『鬼麿斬人剣』
金沢で加賀藩家中の権力争いに巻き込まれながらも数打ちの刀を一本折った鬼麿は、おりんにしつこく勧められてここ三国湊までやってきたのだった。

思案橋(しあんばし)

三国町神明。辰巳川にかかるこの橋は、福井藩と丸岡藩領の境界にあり、滝谷出村遊郭への出入り口でもあった。

加賀国

加賀国(かがのくに) 現・石川県南部

弘仁十四 (823) 年三月一日に、越前国の江沼郡と加賀郡を割いて設置された。国郡制下で最も遅く成立し、加州と呼ばれる。

[国府]
江沼郡から分立した能美郡(現在の小松市)の古府にあったと推定されている。

[守護所]
鎌倉時代は北条一門が守護職を占め、鎌倉後期から南北朝期に台頭してきた富樫氏が守護に任ぜられると、室町期にも富樫氏が守護の座についた。しかしその支配は部分的なもので、富樫氏が加賀一国を掌握するのは文明六年(1475)の政親の代で、この政親は長享二年(1488)、一向一揆の攻撃で自刃。富樫氏の一国支配は僅か十一年間で終った。

[幕藩体制確立後]
金沢藩百二万石(能登国を含む)およびその支藩大聖寺藩十万石が置かれた。

加賀国
加賀国の風俗上下ともに爪を隠、而身を陰に持つ中にも、江沼能美如此、石川川北之郡はすこし違て気のひやか也。蓋し武士の風俗をとなしやかに有て、尖成気なく、温和也といへども、武士の上にて秀る事を差て不顕。唯たゝみの上にて調儀を以て身上を上分になさんと思ふ気質之多き事百人に五十人如斯。譬ば他国に合戦亦は堺目論之軍有といへども吾国全ふ而出る事もなく、我国に差向ものあらば不得止事而戦もの也。戦国のうち迚も人の国を無故奪んとするは、盗賊之類也と諸人覚悟を究て賢人風の形儀成ふるまい也。亦諸事之道に付、吾国より外に差て替る道理も有ましきなどゝ他を求る気無、之風俗に而諸事に泥み安く、何の道にても是に従て学ぶといへども、やがて其気屈而半途より捨るの類多し。されば其気を流通而克己之工夫から不入して自然と怠りの気になれたるもの也。都而諸事此国になす処より外は、他に有まじきと思ふ意地なくば、深く学ぶ志強かるべき故、天下の定規とも可成国風なるに、最気質之如、此事浅猿し。(『人国記』)

加賀国地名解説

加賀国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

金沢(かなざわ)

金沢城の城下町。
この金沢は尾山と称される地で、天文十五年(1546)に加賀一向一揆の本拠となった本願寺尾山御堂(尾山御坊)があった。一世紀にわたる一向一揆は、中央の政争と連動して幾度もの主導権争いをくり返していた。賀州三か寺(本泉寺・松岡寺・光教寺)など地元の指導者に代わり、加賀国を大坂石山本願寺が直轄化するときにその政庁として天文十五年に創建したのが尾山(金沢)御堂で、住職は本願寺宗主が兼ねていたといわれている。織田信長と本願寺の間で、10年間に及ぶ石山合戦が始まると、本願寺坊官に指揮された加賀は兵粮米や兵力の基地となる。
天正三年(1575)、越前一向一揆を平定した信長は明智光秀を加賀国代官に任じ、ついで北庄(福井市)の柴田勝家に加賀支配を委ねた。石山合戦が終結した同八年、停戦命令を無視して柴田軍が加賀に侵攻し金沢御堂は陥落した。御堂には勝家の甥佐久間盛政方が入城し北加賀の平定がなされた。盛政は後に利家に与えられる石川・河北二郡十三万石を領し、尾山御堂を戦国城郭へと改修して尾山城と称した。
信長死後、覇権を争ったのが羽柴秀吉と柴田勝家だった。前田利家と慶次郎の叔父滝川一益は勝家側についた。賤ヶ岳の戦いでは勝家側についた利家だったが、すぐに勝家を見限り秀吉と和議を結んだ。その結果、秀吉は勝家を北庄に追いやり滅ぼしたとされている。その功績として、利家は勝家が一向衆を平定して領地とした加賀の二郡を与えられ尾山城に入り、城を改築して名を金沢城と改め幕末まで続く大藩の礎を築く。
天正十一年(1583)に利家が尾山(金沢)城に入ったとすれば、天正十五年に養父利久が金沢で没しているので慶次郎たちが七尾から金沢に行くのは翌十二年か十三年頃だろう。その辺りの詳しい記述は『一夢庵風流記』にはない。

長町(ながまち)

長町は、藩政時代、加賀藩の上・中級武士たちが住んでいた屋敷跡。今も残る木羽板茸き屋根の付いた黄土色の土塀や、武者窓のある門構えが、当時の面影を偲ばせている。金沢駅から北鉄バスで「香林坊」下車、徒歩約5分の所に有り土塀の町なみを散策していると、土塀の石垣に穴が開けられているのを見かける。これは、屋敷の庭に水を取り入れて曲水を造る「遣水(やりみず)」と呼ばれる。また、季節によっては、雪から土塀を守る「こもかけ」 も見られ金沢の冬の風物詩のひとつとなっている。

交通/JR北陸本線「金沢」駅より市内路線バス「香林坊」下車、徒歩約5分

ひがし茶屋街(ひがしちゃやがい)

石川県金沢市東山1丁目辺。
平成13年に文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された「ひがし茶屋街」は、卯辰山の麓にあり。今では金沢の代表的な観光地として全国的に知られているが、文政3年(1820)正式に加賀藩がこの附近に点在していたお茶屋をここに集めて町割りしたのが始まりである。格子と大戸、通りには、繊細な木虫籠をはめ込んだ家並みが続き、特に二階の造りが高い町なみが特長で(当時町人の家は平屋建て)、藩政時代の面影を今も残している。 

交通/JR北陸本線「金沢」駅より市内路線バス「橋場町」下車

能登国

能登国(のとのくに) 現・石川県能登半島

養老二年 (718)五月二日に越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して成立。天平十三年 (741) 十二月十日に越中国に併合されたが、天平宝字元 年(757) に元に復した。能州と呼ばれる。

[国府]
能登臣の拠点能登郡にあったと推定され、現在の七尾市府中・古府・国下の三ケ所が候補に上がっている。
能登国は八世紀から十世紀にかけて渤海国との交易の拠点として重要な地となり、能登の福浦がその重要な寄港地だったとされ、延喜二十三年(804)、桓武天皇の勅命により客院(大使館)が設けられた。しかし、その渤海国が滅ぶとその交易も無くなり能登国の重要性も薄れ、次第に中央から忘れられる存在となる。

[守護所]
鎌倉時代は守護が置かれず、鎌倉末期に吉見氏が守護として足利政権誕生に力を添えた。吉見氏は能登と越中の守護を兼ねた大名に発展するが、南北朝期に能登の守護職を畠山氏に奪われた。

[幕藩体制確立後]
天領と金沢(加賀)藩領で占められ独立した藩は置かれなかった。 

能登国
能登国の風俗は別而人之心持狭くして、譬ば一足他へ踏出す時は則渇命に及と思ふの類多し。因茲我主つれなくあてがふにも、誰々も渇命つなぐべきために、奉公を勤る風儀に而、引放たる意地すくなし。雖然武士一身常之覚悟は如形なりざれば、是国より他へ踏出る程之器量の族有て、他出する時は必可秀なり。不出時は国之棟梁と可成人也。若又他邦せず棟梁とも不成蟄居するに於ては、自然と悪意を企る如くの風俗あるべし。偏固にして道理闇く而も驕之気有之。(『人国記』)

能登国地名解説

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七尾(ななお)

城下町。
織田信長により天正九年(1581)、能登に封じられた前田利家は、翌十年に能登畠山氏が築いた難攻不落の山城「七尾城」から、港に近い独立丘陵の「小丸山」に新たな城と城下町を形成し拠点とした。小丸山城は、港を中心とした経済活動を優先し、拠点とするには最良の場所であった。城下町も、主要道路によって整然とした街区割をほどこした町づくりをしていたという。その七尾城下に慶次郎たちが訪れたのは天正十一年(1583)のこと。
この能登の地は、室町・戦国時代の170年問にわたり、守護の畠山氏が支配していた。同氏は、室町幕府の有力守護職であった畠山氏の分家で、応永十五年(1408)以来、満慶(みつのり)・義忠(よしただ)・義統(よしむね)の歴代が、領国支配の基礎を着実に固めていたという。戦国時代前期の永正年中(1504〜1521)の末年ごろ、能登の内乱に際し、それまで守護所のあった鹿島郡府中(ふちゅう)(現七尾市府中町付近)の地から、南東約五キロメートルの七尾山に城郭を築き、そこに移り住むようになる。これが、能登畠山氏が戦国大名に発展するきっかけとなった。
七代守護・畠山義総(よしふさ)は、七尾城を拠点に能登国における内乱を制圧し、百姓や寺社の統制を強化する一方、七尾湾・富山湾の生産・流通の掌握や宝達(ほうだつ)金山の開発など、戦国大名権力の確立に努めた。七尾城の麓には新しい城下町七尾が形成され、義総の権勢と文芸愛好の人柄を頼って、京から多くの文化人たちがやってきたという。
天文十四年(1547)、三十年間にわたり政治の安定をもたらした畠山義総が死ぬと、一族や重臣の間で争いが起こり、能登畠山氏の勢力は次第に衰える。重臣の畠山七人衆が能登国の政治の主導権を握り、彼らの分裂抗争は、弘治・永禄の内乱(1555−1560)に発展した。その後、大名畠山義綱は、支配体制の立て直しを試みたが、重臣たちの反発を買って能登から追放され、かわって幼い義慶が七尾城主となった。天正五年(1577)9月、畠山家臣団の対立と上杉謙信の攻略(七尾城の戦い)によって、七尾城は落城し、能登畠山氏は滅亡した。
天正九年十月、織田信長から能登一国を与えられた前田利家は、翌年一月から府中の港に隣接した小丸山に築城を始め、山城である七尾城を廃城とした。それは能登に戦国時代の終わりを告げる出来事であった。
しかし、翌天正十一年には、前田利家は秀吉から新たに扶持された金沢城に本拠を移し、小丸山城は兄安勝、次男利政に委ねている。それは、慶次郎たちが訪れた数カ月後のことだった。
この能登七尾の地は、滝川一益が柴田勝家方について秀吉に敗れた後、おそらく滝川一族の庇護の下にあった養父利久家族のために前田慶次郎が妻の実父前田安勝を頼って訪れた地。
















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越中国

越中国(えっちゅうのくに) 現・富山県

7世紀末の越国 (こしのくに) の分割によって成立した。初見は大宝2年 (702年)。成立時の範囲は、現在の富山県全域と、新潟県の西部にあたる。
大宝2年 (702年) 3月に、頚城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡を越後国に譲った。これによって、現在の富山県と同じ範囲(射水郡、礪波郡、婦負郡、新川郡の4郡)になった。

[国府]
現在の高岡市伏木古府にあった。

[守護所]
初め源氏の姻戚である比企能員が守護となるが、後、北条泰時の弟朝時が越中・越後の守護を兼ねた。
室町期、足利尊氏は初め桃井直常を守護に任じたが、直常が南朝方に転じたことから、南北朝統合後には足利義満は畠山基国を守護に任じた。

[幕藩体制確立後]
富山藩十万石が置かれた。

越中国
越中国之風俗陰気の内に智有勇有侫成処多し。人と物を約するにも親は子の云ふ事に一言之内にも質をとり、子は親の言葉を質にして、譬ば親之利物を機嫌を以是を取、親死する後には是家督親の譲などゝ侫を作る事士農工商皆此風儀に而、親子夫婦兄弟朋友之交りにも卒爾に而底意に卒爾成事なき也。さるに因て毎物大事にして大事を破る。軍に逢ふ時も智謀を以敵を取ひ、しかんとのみ工夫するといへども人之気を知る事あたはざるべきは、其智の不足事を不知而人に勝つ事邪侫を以成りかたがるべき也。如斯之風俗都而、我にほこる意地有。勇気甚けはしき故也。雖然臨事不厭死。(『人国記』)

越中国地名解説

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倶利伽羅峠(くりからとうげ)

北陸道の加越国境にある峠の称。
平安時代末期の寿永二年(1183年)、源氏と平家が興亡を賭けた砺波山合戦(倶利伽羅合戦)の舞台となり、木曽義仲の「火牛の計」の作戦が「源平盛衰記」に記されている。この倶利伽羅古戦場は、県定公園にも指定される景勝の地で、春には、約7000本の八重桜が山を染める。

『一夢庵風流記』
この峠を、松風に乗った慶次郎と野風に跨がった捨丸は一気に駆け抜けて行く。

砺波山(となみやま)

越中国と加賀国にまたがる山。倶利伽羅山の古称。
砺波とは鳥網の義で、峰越の鳥を網を張って捕ったことに依る。北陸道筋にあり、交通・軍事の要地であった。寿永二年(1183)の木曾義仲と平維盛の合戦の場として有名。鎌倉幕府の西限支配地で、承久の乱(1219)でも北条氏が軍勢を徴発しえた西限の地でもあった。

五箇山(ごかやま)

越中国(富山県)現富山県南栃市。
加越国境の山間にあるいくつかの集落の称。
江戸時代には、加賀藩の流刑地として知られるようになったが、これは一般人を山に近付けさせないための策でもあった。加賀藩はこの地で密かに火薬の原料となる煙硝を生産した。
また、ここの合掌造り集落は飛騨白川郷の合掌造り集落とともに、1995年、ユネスコの世界遺産に登録された。

『鬼麿斬人剣』
白川の先に街道細見にものっていない加賀藩の陰道がある。加賀藩の流刑地である五箇山を越えて金沢に出る道だ。(172p)

おりんもこの道が、金沢藩の流刑地五箇山を通っていることは知っている。だが藩が、囚人を流刑地に運ぶためだけに、この嶮しい山道を切り開く筈がない、ということを忘れていた。この陰道は現在煙硝街道の名で呼ばれている通り、火薬の原料である煙硝を運ぶ秘密の道だった。煙硝は加賀藩の重要産業の一つである。その煙硝づくりが流刑地である五箇山で行なわれていたのだ。出来上がった煙硝は、秘密裡に、嶮しい峠越えと谷川沿いの道を金沢まで運ばれた。警備は厳重を極めたが、それは流刑地のためと解釈され、公儀隠密でさえ疑ってもみなかった。(174p)

立山(たてやま)

飛騨山脈の雄峰。
現在では黒部・立山アルペンルートを使って、誰でも気軽に散策やトレッキングができる立山だが、少し前までは装備を整えたアルピニストにのみ開かれた北アルプスの雄峰だった。さらに時代を遡り、我が国に近代登山術が伝えられる以前は、山岳信仰の対象として拝め奉る山で、山人か修験者で無い限り、一般の人はこの立山に足を踏み入れることもなかった。

『風の呪殺陣」
昇運は、この立山を行場として選んだ。ただ只管、信長を呪い殺す術、呪法を身に付けるために…。

『今昔物語集』に、立山の地獄に関連する記述あり、参照ください。

五色ケ原(ごしきがはら)

雲の平、五色ケ原は溶岩大地で、自然が創造した美しい造形が見られる。夏の短い時期には、夏池や湿地は高山植物に覆われる。黒部源流をなしている奥黒部周辺は北アルプス最後の秘境として最近脚光を浴びており、熟練者コースとして人気が高い。
室堂から一の越・浄土山・ザラ峠を経て行程約4キロ、広さ2平方km、標高2,500m。ハウサンイチゲ・シナノキンバイ・コバイケイソウ・ウサギギクなどの高山植物が咲き乱れる事から五色ケ原の名がついたとされる。佐々成政の愛妾早百合姫が「ザラ峠に黒百合の花が咲く時こそ佐々家滅亡の時と思え」といったろいう黒百合の群生も見られる。

称名滝(しょうみょうのたき)

称名滝の入口称名平へは、立山駅よりバスで20分。停留所・駐車場より、称名滝滝見台園地まで徒歩約30分。
称名滝の落差は日本一の落差といわれる350m、4段に流れ落ちる勇壮な滝。また、雪解け時期や雨が多い時期には、称名滝の隣に、落差500mのハンノキ滝も見られる。国の名勝・天然記念物に指定され、日本の滝100選にも選ばれている。
称名の名は、浄土宗開祖法然上人が、立山に登拝した時にこの近くで一休みしていると、滝の音が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称名を称えているように上人の耳に聞こえたことから由来する。

越後国

越後国(えちごのくに) 現・新潟県

7世紀末、越国 (こしのくに)の分割によって成立した。当初の領域は、新潟県本州部分の中部から東部で、日本海側で蝦夷の領域に接する辺境国であった。
大宝2 (702) 年3月に、越中国から頚城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡を譲り受けた。和銅元(708)年 9月28日 に、北東端から出羽国が分離。

越後の城下
越後の国往古は出羽越中に距りし事国史に見ゆ。今は七郡を以て一国とす。東に岩船郡(古くは石に作る海)蒲原郡(新潟の湊此郡に属す)西に魚沼郡(海に遠し)北に三嶋郡(海による)刈羽郡(海に近し)南に頸城郡(海に近き處もあり)古志郡(海に遠し)以上七郡也。城下は岩船郡に村上(内藤侯五万九千石よ)蒲原郡に柴田(溝口侯五万石)黒川(柳沢侯一万石陣営)三日市(柳沢弾正侯一万石陣営)三嶋郡に与板(井伊侯二万石)刈羽郡に椎谷(堀侯一万石陣営)古志郡に長岡(牧野侯七万四千石よ)頸城郡に高田(榊原侯十五万石)糸魚川(松平日向侯一万石陣営)以上城下の外頗豊饒を為す處、魚沼郡に小千谷、古志郡に三條、三嶋郡に寺泊・出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる事論を俟ず。此余の豊境は姑略す。此地皆十月より雪降る、その深と浅とは地勢による。(鈴木牧士『北越雪譜』)

[国府]
現在の上越市にある「国府」地区の近辺にあったと考えられる。この地は越後国の成立時には越中国に属していたので、当初の国府はもっと東にあり、後に移転したと考えられている。
越国の国司として知られているのは阿部比羅夫で、東北地方の開発と平定に活躍した。

[守護所]
建武新政で新田義貞が越後守護となったが、新政権があえなく崩壊すると、足利幕府は越後守護職に上杉憲顕を任じた。

[幕藩体制確立後]
新潟は天領とされ、新潟奉行が置かれた。
高田藩十五万石を筆頭に、新発田藩十万石、村山藩五万石、村松藩三万石、長岡藩二万四千石、与板藩二万石、三根山藩一万一千石、黒川藩、三日市藩、椎谷藩、糸魚川藩各一万石が置かれた。

越後国
越後国之風俗千人が九百人に負る事を嫌て、勝つ事を好み、仮初にも勇を嗜み痛きと云事をはがゆきと云、途中にてつまづきて倒れ痛きと云事を不云而意得たり。餓鬼目抔と幼き者の育にも教る風俗に而、さしかゝりたる意地多く後道のつまりを不考人多し。さるに因て臆する気の人寡く而、差かゝりたる分別のみにして義理の心強く、主は被官を哀み被官は主を頼み、意地殫麗なれども物の理に至る人鮮ふ而其執行之道に赴く人無之と見へたり。故に名人と名を呼人すくなかるべし。去程に勝事を好む時は必我が非を不知る者なり。唯我善悪を知て、道理に従ふ志あらば、無雙国の風俗なるべきを尤残多き事なり。(『人国記』)

越後国地名解説

越後国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

出雲崎(いずもざき)

北陸道の宿場町。佐渡へ渡る港町。
上杉領であった時には上杉家家臣松本石見守景繁の居城小木ノ城があった。上杉家が会津転封になるとこの地は幕府直轄領、いわゆる天領となり佐渡の金山からの金を陸揚げする港として栄え、越後でもっとも人口密度の高い町となったといわれる。
ちなみにこの出雲崎は良寛の誕生した地でも有り、良寛にまつわる史蹟、資料が数多く残っている。

『一夢庵風流記』
慶次郎たちが旅を急いだのは、佐渡鎮圧に向かう直江兼続の出航に間に合わせるためだ。彼らが出雲崎に到着したのは、兼続たち上杉軍本隊が出航する前の日でまさに間一髪のところだった。

越後福島(えちごふくしま)

新潟県上越市直江津。
福島城下。
この越後福島藩は、いうまでもなく上杉家の元領地であった。越後守護代長尾為景の次男景虎(後の上杉謙信)が、戦国期に越後国をいち早く平定し、春日山城を本拠として戦国大名の雄となったことは、諸書に詳しいのでここでは割愛するが、その後を受けた甥の上杉景勝が慶長三(1598)年、豊臣政権下で会津百二十万石に移封したあと、堀秀治が越前福井より春日山へ入城した。この地に入った堀秀治は、上杉遺臣の地士による度々の叛乱抵抗に会い領地の経営にかなり苦労する。その秀治が慶長十一(1606)年に亡くなり、嫡男忠俊が後を継いだ。忠俊、この年若干十歳。翌慶長十二(1607)年、居城を春日山城から海沿いの直江津に平城の大城郭福島城を築城し、そこへ移って越後福島藩となるのだが、福島城の築城は父秀治の時代に始められていたと思われる。この若い領主が越後一国を領する外様の大藩だったことが、堀家の悲劇となった。藩の経営はまだ若い忠俊に代わって、重臣等が取り仕切っていたのであろう。その家老同士がいがみ合い、三年後の慶長十五(1610)年には、到頭幕府の調停を頼むほどに悪化した。折しも徳川政権の磐石化を目差して大名鉢植政策を実行中の幕府にとって、これは願ってもない好機となる。事の理非はともかく、重臣等の言いなりになっている藩主堀忠俊は、大藩を預かる器にあらずという理由で改易となった。その後に松平忠輝が、川中島藩を領したまま移封。忠輝は一躍七十二万石の大大名になった。
堀氏が築いた福島城は、関川を挟んで直江津の湊の対岸にある。海を背にした半海平城であったため、城下町の形成には不向きだったのだろう。越後福島に入封した忠輝は、慶長十九(1614)年、春日山城の南部、関川とその支流青田川などの合流する平地に新たに高田城を建設し、城下町(元高田市)を造る。こうして、越後福島藩は越後高田藩と名を替え、天和元(1681)年、高田藩が改易され幕領となるまで続く。
忠輝がこの高田城主であった期間は、わずか二年、元和二(1616)年には家康によって勘当され、その後には上野高崎城主酒井家次が十万石で入っている。この時から越後は一国一領主ではなくなり、分割されることとなった。この酒井家の時代もわずか二年で、家次の後を継いだ酒井忠勝が川中島へ移封され、元和四(1618)年には越前宰相結城秀康の次男松平忠昌(忠輝の甥)が高田城主となっている。

親不知(おやしらず)

北陸道の越中・越後間など、通行が困難な地に付けられた名称。
北陸道の難所として知られ、海の荒れる冬期はほとんど通行不能となった。他に「親不知・子不知」と呼ばれる所は福島県の霊山、もう一つは北海道利尻島。どちらも登山道に付けられている。

寺泊(てらどまり)

越後国三島郡寺泊。新潟県三島郡寺泊町寺泊。港町。
日本海に面した港町。佐渡への玄関口としても栄えた。遊女町を新町といい、渡海の舟人・旅人を相手に、小歌・三味線などをも饗してした。

[逸話]
永仁六年戌のとし藤原為兼卿佐渡へ左遷の時、三嶋郡寺泊の駅に順風を待玉ひし間初君といふ遊女をめし玉ひしに、初君が歌に「ものおもひこし路の浦の白浪も立かへるならひありとこそきけ」此歌吉瑞となりてや五年たちてのち嘉元元年為兼卿帰洛ありて、九年の後正和元年玉葉集を撰の時、初君が件の歌を入れられ玉へり。((鈴木牧之『北越雪譜』)

直江津(なおえのつ)

越後国頸城郡。
今の高田の海浜をいふ。(『北越雪譜』)

佐渡国

佐渡国(さどのくに) 現・新潟県佐渡島

国が建てられた時期は不明。初見は文武天皇4年 (700年) に遡る。天平十五年(743)、一時越後国に合併されたが、天平宝勝四年(752)に再び分離された。
佐渡は日本がほぼ形をなした八世紀には、北陸道の1国として国府も置かれていた。鎌倉時代には佐渡国の守護として大仏氏が支配するが、その後守護代となった本間一族が戦国期まで佐渡を支配した。やがて、上杉謙信による一向一揆の鎮圧とともに越後・上杉領となるも、北佐渡の川原田本間氏や南佐渡の羽茂本間氏の面従腹背と絶間ない勢力争いで不安定な状態が続いていた。その状態を鎮静化し、領地安土を図るため上杉勢が動く。

『一夢庵風流記』
慶次郎はその平定戦に加勢すべく朋友直江兼続の元へ駆けつけた。

[国府]
国仲平野の南辺にあったと推測される。下国府遺跡が官人の住居と推定されているが、政庁はまだ見つかっていない。
天平宝字四年(759)、生江臣智麻呂が佐渡国司に任命されたのが記録に残る佐渡国司の最初とされる。

[守護所]

[幕藩体制確立後]
佐渡は天領とされ、佐渡奉行が置かれた。

佐渡国
佐渡国之風俗越後に似て人の気狭く而、伸やか成事不克而心愚也。
意地強しといへども善としがたし。(『人国記』)

佐渡国地名解説

佐渡国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

賽の河原(さいのかわら)

河原や海岸などの石がごろごろした所に多く名付けられた名称。
各地に有り、隆慶作品では、佐渡の「賽の河原」が描かれている。

『一夢庵風流記』
「賽の河原」は二ツ亀から大野亀への遊歩道沿いの海岸にある。幼くして死んだ子供の魂が集まる場所と信じられており、信仰心の厚い佐渡の人達が供養に訪れる。小石を積んだ塔や、おびただしい小法師(小さなお地蔵様)が並び、洞の前には赤い風車が回っている。ここから慶次郎と骨が本間三河守一家の礫刑を見る。



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