歴史地理・地名便覧[蝦夷・琉球他]

蝦夷

蝦夷(えぞ) 現・北海道

蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、蝦夷(えみし)と呼ばれたアイヌ人等が住していた。江戸時代に松前藩が置かれ、この地を支配。藩祖の松前氏は下北半島蠣崎に住した土豪の蠣崎氏で、津軽の安東氏に属していたが、安東氏の蝦夷地進出で渡島し松前を拠点として勢力を強めた。
天正十八年、蠣崎氏五代の慶広は、海路敦賀から京に向い秀吉に謁見し従五位下民部大輔の官位を受け、続いて志摩守に任ぜられ、安東氏の支配を脱する。この時松前と改姓し、氏は秀吉から蝦夷地交易の独占権を認められ、蝦夷地支配者の地位を確立した。(中嶋繁雄『大名の日本地図』)明治になって北海道となり新たに十一カ国を設けるも、明治新政府の直轄支配となった。このときの十一カ国には、現在北方領土の南千島列島も含まれ一つの国「千島」となっている。

蝦夷地名解説

蝦夷地内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

松前(まつまえ)

松前城の城下町。蝦夷松前。北海道渡島支庁松前郡松前町。
文二十年(1551)に和人地を形成したのが始まり。文禄二年(1593)正月、蠣崎慶広が豊臣秀吉に拝謁し、蝦夷島主認可の朱印状を下付され、蠣崎から松前に改称。慶長九年(1604)、徳川家康から大名知行権である蝦夷交易の独占権を与えられ、松前藩を形成した。

琉球国

琉球国(りゅうきゅうこく) 現・鹿児島県一部・沖縄県

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)

【前史】

琉球諸島が現在の形になったのは、今からおよそ一万年ほど前で、それまではまだ大陸と陸続きであったとされる。那覇市内で見つかった山下洞人の人骨は約三万二千年前で、現代日本人の祖とされる湊川人の人骨は約一万八千年前とされ、これらの先住民はいずれも徒歩で大陸から渡ってきたものと思われている。
このころの人類は、まだ土器を知らず石器や骨角器を使用していた。やがて、紀元前七世紀頃から貝塚時代と呼ばれる時代に入り、魚貝類などの採集で生活をするようになる。この時代は長く続き、さらに南島文化の影響を受けるなど、琉球はその後十世紀頃まで人々は漁労を中心とした生活となった。
十二世紀頃になると、居住地は海岸砂丘から丘陵地に移り、「グスク」と呼ばれる城塞が現れて、農耕や牧畜を行い、合わせて近隣諸国との交易も盛んとなった。この時代をグスク時代といい、「マキョ」と呼ばれる血縁集団で生活を行うようになり、さらに大きな共同体を形成するようになった。こうした共同体の指導者は、より生産性の高い地域へとその生活基盤を求めるようになり、他の共同体とその地を巡って争うようになり、勝利を収める毎にそうした指導者はより強力な権力を獲得していった。これが沖縄本島の「按司(あじ)」、宮古島の「豊見親(とうゆみや)」や八重山諸島の「かわら」と称される首長たちであった。その中でも本島の「按司」はグスクと呼ばれる館に住み、より大きな権力を持つ「世の主」の座を目指すようになった。
琉球最初の史書といわれる『中山世鑑』には、天孫(てんそん)氏が琉球最初の「世の主(国王)」で、二十五代続いた後、逆臣利勇に討たれて天孫王朝は滅びたとされるが、実在は疑わしい。ただ、本島中部で勢力を持っていた按司天孫氏の衰退で、その地位を奪った利勇を、浦添の按司となった尊敦(そんとん)が討ち、最大の勢力となった。

【琉球王国ー前期】

こうして琉球最大の勢力となった尊敦は舜天王(在位1187〜1237)を称した。これが琉球王国最初の王とされている。この舜天王には伝説が有り、それによると、尊敦は源為朝の後胤とされ、1156年の保元の乱で伊豆大島に流された源為朝が、島を抜け出して暴風雨に遭遇し、流れ着いた先が沖縄本島の運天港(今帰仁村)で、その地の豪族大里按司の庇護を受けその娘と結ばれ、そして男児が生まれたが、為朝は牧港から再び大島へ帰った。その後、成長した男の子は尊敦と名付けられ、十五歳で浦添の按司になり、逆臣利勇を討取り舜天王となったという話で、『中山世鑑』にも記されている。しかし、この話は後に薩摩の島津氏の支配下に入った尚氏の王朝が、源氏の後裔とされる島津氏との関係を良好なものとするための創作であろうといわれる。
ともあれ、舜天王の王統は舜馬順煕(在位1238〜48)、義本(在位1249〜59)と三代続き、天孫氏の流れをくむ英祖が舜天の王統を滅ぼし、1260年、新たな王(在位1260〜99)となった。この英祖の王統は大成(在位1300〜08)、英慈(在位1309〜13)、玉城(たまぐすく)(在位1314〜36)、西威(在位1337〜1349)と五代続くが、玉城王の時代から国内が乱れ始め、南部の島尻地方に勢力を伸ばした大里按司承察度(しょうさっと)が南山王を称し南部を支配、1322年には北部国頭地方の今帰仁按司怕尼芝(はにじ)が北山王として北部を支配した。このため玉城王は那覇・首里を中心とする中頭地方を支配するだけとなり、中山王と称することとなる。こうして琉球王国は三山時代といわれる三王鼎立となった。

【琉球王国ー中期】

中山王となった英祖の王統は1349年で滅び、浦添按司の察度がその後を襲い中山王となり、三山時代は十五世紀初めまで続いた。この時中山王となった察度によって、遣明船を中国へ送ったことから、琉球王国の明国への入貢が始まる。1405年、佐敷按司巴志(はし)が察度の後を継いだ中山王武寧を滅ぼし、翌年、父忠紹を中山王とし、1416年に北山王を滅ぼした巴志は、1422年、父の後を継いで中山王となり、さらに1429年、南山王を滅ぼして三山を統一。巴志は使者を明に派遣し、三山統一を報じた。明の宣宗はこれを称え、琉球国中山王に封じ、尚姓を授け、以来、琉球国王は尚氏を称することとなる。こうして、尚忠紹から始まった王朝は、尚巴志(在位1422〜39)、尚忠(在位1440〜44)、尚思逹(在位1445〜49)、尚金福(1450〜53)、尚泰久(在位1454〜60)、尚徳(在位1461〜69)と七代続いた。中山王察度から始まった対明入貢は第一尚氏の時代を通じて毎年行われ、入貢時には琉球から多くの特産品が明に運ばれ、代りに明の物産が琉球にもたらされ、琉球王の重要な財源となっていった。

【琉球王国ー後期】

尚忠紹から続いた王統が尚徳で絶え、1470年、六代尚泰久に取り立てられた金丸が王位に付き、尚円王を名乗った。これにより、尚忠紹から続いた王統を第一尚氏と呼び、尚円から続く王統を第二尚氏と呼ぶようになる。この第二尚氏が明治まで、琉球王統を継ぐ事となった。
第二尚王朝の三代尚真王(在位1477〜1526)は、地方に割拠していた諸按司を首里に居住させるとともに、刀剣・弓矢などの武器を取り上げ、身分制度を確立するなど、中央集権化に努めるとともに、ノロと呼ばれる巫女たちを組織化し、その最高位を聞得大君(きこえおおきみ)とし、王女あるいは王の姉妹を任じた。また、1500年には八重山の首長オヤケ・アカハチを討ち、1522年、与那国の鬼虎の乱を鎮めるなど、琉球の版図を宮古・八重山地方にまで拡げた。こうして中央集権を確立した琉球王国は、中国との朝貢貿易を中心に、日本や半島との交易も活発となり、中国・日本の文化が流入し、独特の琉球文化の花開く時代ともなった。やがて、中国・半島・日本との間に限られていた貿易も次第に拡大され、遠くシャム(タイ)、マラッカ、ジャワ、スマトラ、安南、巡逹(ジャワ島西岸)、仏大泥(マレー半島パタニ)、旧港(バレンパン)などに及び、日本・半島・中国・南方諸国の中間的位置を利用して、各地の物産を仲介することで莫大な利益をもたらした。しかし、この中継貿易による繁栄は長くは続かず、1570年を最後に南方貿易は途絶えた。これは、大航海時代に入ったイスパニア、ポルトガル船の来航によるとされる。
琉球王国が薩摩藩の支配下に置かれるのは、1609年の琉球侵入によるが、薩摩が琉球を属領扱いし侵攻を正当化した根拠は、嘉吉元年(1441)、室町幕府の六代将軍足利義教から恩賞として琉球国を与えられたことから始まる。しかし、この恩賞は実体の伴わない恩賞だったが、文禄・慶長の役以降、日明貿易が明国によって禁止されると、薩摩は琉球を通じて対明貿易を行い財政の再建を図ろうと、琉球の実質支配に乗り出した。
琉球と薩摩の関係は、天正年間ころまでは友好的な関係が保たれていたが、朝鮮出兵の際、首里王府は薩摩藩の仲介で出兵の代りに兵糧を負担することになったが、琉球側は要求された兵糧の半分までしか出す事ができず、残りを薩摩藩から借りた。しかし、尚寧王の即位で明国からの冊封使を迎えるなどの出費がかさみ、返すことが出来なくなった。一方、薩摩も財政危機に陥っていたことから両国の関係は悪化し、ついに薩摩藩は徳川家康の許可を得て、1609年、三千余の兵を持って琉球に侵攻した。琉球王国はすでに尚真王の時代に武器を廃して百年を経ていたため、戦いらしい戦いを行う事も無く薩摩に降伏した。この時、薩摩藩は奄美諸島だけを直轄領とし、沖縄本島以南を琉球王に下付し、琉球王国の存続を認めたが、以後、琉球王国は薩摩藩の厳しい支配と管理の下に置かれることとなった。これは、日本との貿易を禁じている明国へのカモフラージュで、琉球国王の名の元に行われる朝貢貿易を途絶えさせないための措置にすぎない。こうして薩摩藩は、琉球王国を窓口として、徳川幕府の鎖国下で唯一海外との交易を行う藩となり、後に倒幕運動のスポンサーとなるほどの国力を蓄えていった。

半島

古朝鮮

現大韓民国・朝鮮人民共和国

韓(から)

半島の古来からの汎名称。韓地、韓郷と書き「からくに」といった。「から」という音は、上記の「伽耶」からきているとされる。この「から」という音が、中国の国名「唐」(とう)にも転用された。これは唐の物品・知識等が半島経由でもたらされたことから、「唐」を「から」と呼ぶようになったとされる。この例には、秀吉の朝鮮出兵を「唐入り」(からいり)というなどが上げられる。こうして「唐」=「韓」とされ、朝鮮人を「唐人」と称したのはこの例による。

『日本書紀』に「素戔鳴尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮宝有らずは、未だ佳からじ」とのたまひて、云々」(「神代」上第八段)と有る。

伽耶(かや)

伽耶はA.D.42から562年に減びるまで韓半島南端の慶尚南・北道の西部地域に存在したいくつかの国の総称だが、そのうち金海の伽耶国や高麗の大伽耶国を通称する言葉でもあった。しかし、伽耶は新羅、百済の勢力が強まるにつれ、530年代にまず金海の金官国をはじめとする南部地域が弱まり、562年に高麗の大伽耶国が最終的に新羅に併合され完全に歴史から姿を消すことになる。

東莱を出立した慶次郎は、この伽耶琴の音に引き寄せられて山中に入り伽耶国の王の末裔という伽耶姫に会う。

[伽耶琴](かやぐむ)

伽耶琴は古朝鮮南部の伽耶国で中国の箏をかたどって作られた。『三国史記』(1145)楽志には『新羅古記』の引用として、『 伽耶国の嘉実王が唐土(南北朝末の中国)の楽器を見てこれを作らせ、楽師省熱県人于勒に命じて12曲を作らせた。のちに国情が不安となったので彼は楽器を携えて新羅の真興王(在位540〜576)に投じた。王は彼を国原におき、大奈麻法知と階古と大舎万徳の3人に、その業を伝えさせた。(中略)「伽耶は亡国の音、取るに足らず」という献言もあったが、王は「伽耶王は淫乱のため自ら滅びた。音楽に何の罪があろう」といい、大楽と称した』とある。

金海(きんかい)

百済(くだら)

高句麗(こうくり)

高麗(こうらい)

斯盧(しら)

新羅国の前身。
斯盧国は、始祖開国の年を中国前漢宣帝の五鳳元年(B.C57)とし、辰韓十二国中最も古い。その後、諸国が争い吸収合併が行なわれる時代となり、新羅となるが、奈勿尼師今王(在位356〜402)頃までを斯盧時代としている。

新羅(しらぎ) 

五世紀前半、辰韓(しんかん)十二国の一つ斯盧(しら)国を中心に辰韓が統合された時の国名。

新羅(しらぎ)は、新羅(しんら=しら)に城を現す言葉「き」が付いて、新羅奇(万葉集)、志羅紀(出雲風土記)などと記され、後に「新羅」をもって「しらぎ」と読むようになった。

四世紀末、高麗の好太王軍により新羅救援(400)が行なわれ、新羅は匈奴からの侵攻を免れた。その後、新羅は高麗国、倭国(日本)に属する形で国力を蓄え、五世紀半ばになると、高麗の制圧を排し、百済・倭をも敵とした。六世紀に入り、任那併呑を着々とすすめた新羅は、欽明二十三年(562)、高麗を滅ぼし任那の東半部を領有した。
やがて唐と連合した新羅は、663年、百済・倭国の連合軍を白村江で破り(白村江の戦い)、百済を滅ぼし、半島の統一国家「新羅」が誕生する。この時、高麗人、百済人の多くが列島(日本)に亡命したとされる。
『日本書紀』に「素戔鳴尊、其の子五十猛神を師ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処に居します。」(「神代」上第八段)と現れるが、この新羅は半島を称する汎名として表したものと思われている。

任那(みまな)

『日本書紀』に表れる半島の国名。

「(崇神天皇)六十五年の秋七月に、任那国が、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢して来た。任那は、筑紫国を去ること二千余里で、北の方の海をへだてて鶏林(しらき:新羅)の西南にある。」(『日本書紀』巻第五)
「この年(垂仁天皇二年)、任那人、蘇那曷叱智が、「国に帰ります」と申した。おそらく、先皇の御代に来朝して、まだ帰っていなかったのであろう。そこで、蘇那曷叱智に手厚い贈物を賜わった。すなわち赤絹一百匹を持たせて任那の王に賜わった。しかし、新羅人が、道を遮ってそれを奪ってしまった。この両国の憎しみは、このときにはじめて起こったのである。」(『日本書紀』巻第六)
さらに続けて「一説によれば、御間城天皇(みまきのすめらみこと:崇神)の御世に、額に角が生えた人が、ひとつの船に乗って、越国の笥飯浦(けひのうら:福井県敦賀市気比神社付近)に碇泊した。したがって、そこを名づけて角鹿(つぬが)というのである。その人に、「どこの国の人か」と尋ねたら、答えて「意富加羅国(おおからのくに)の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名を于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)といいます。人づてに、日本国に聖皇(崇神)がおられるとうけたまわって帰化したのです。穴門(あなと:長門国西南部の古称)に至ったとき、その国に、名を伊都都比古(いつつひこ)という人がいて、私に語って『われは、この国の王である。自分のほかには、また別の王がいない。だから他のところへ行ってはならぬ』と言いました。しかし、私は、よくよくその人となりを見て、けっして王ではないということを察しました。そこで、またそこから退去しました。しかし道がわからなくて、島々や浦々をさまよいました。北海(きたつうみ:南部日本海)を廻って、出雲国を経て、ここにまいりました」と言った。このとき、崇神天皇の崩御に遭遇した。そのまま留まって活目天皇(いくめのすめらみこと:垂仁)にお仕えして三年が経過した。天皇は、都怒我阿羅斯等に尋ねられて、「おまえは、国に帰りたく思っているのか」と仰せられた。阿羅斯等は、お答えして、「そのように望んでおります」と申し上げた。天皇は、阿羅斯等に詔して、「おまえは道に迷うことなく、まちがいなくもっと早くやって来ていたら、先皇にお会いしてお仕えできたであろう。そこで、おまえの本国の名を改め、御間城天皇の御名を追負して、おまえの国の名としなさい」と仰せられた。そこで赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、本国にお返しになった。その国の名を弥摩那国(みまなのくに)というのは、このような縁があるのである。こうして、阿羅斯等は、賜わった赤絹を、自分の国の群府に収納した。新羅人がそれを聞いて、軍を起こしてやって来て、その赤絹をみな奪ってしまった。これが両国の憎しみの原因となったといわれている。」(『日本書紀』巻第六)と任那と新羅の関係を記すとともに、任那国とは大加羅国のことで、任那と名付けたのは日本であるという事が伺い知れる。
[『塵袋』にある任那の記述]

一、昔日本にしたがひける任那国をみまなと云ふ、本意如何。
みまなは一国の名なれども、十箇国を合てみまなと云ふ。加羅国、安羅国、斯二岐(しにき)国、多羅国、率麻(そつま)国、古差(こさ)国、孟他(もうだ)国、散半(さんはん)国、乞食(こつじき)国、稔礼(しんれい)国也。此の中に加羅国を其の首とするか。御間城(みまき)の天皇(崇神天皇也)の御時、額につのおひたる人、一の船にのりて、越海笥飯の浦につきたり。此の国の人あやしみて問ひければ、我は是れ意富加羅国の王の子、名をば都怒我阿羅斯等と云ふ。(或は蘇那曷叱智とも云へり)日本に聖皇いますときゝてまうでたり。路をしらず、始は出雲国に来て、かしこよりこゝにうつるに、天皇已に崩じ給へれば、活目天皇(垂仁天皇也)の御代に及て已に三年也と云ふ。都怒我と云ふを、此の土の人は訓のよみになして角鹿とぞ云ひける。活目天皇是をきこしめして、あはれみ玉ふ。本国にかへらんと思はゞすみやかに帰れ。路にまよはずば、御間城天皇の御世にもあひなまし。汝が本国の名を改て、御間城天皇の御名をとるべしとの玉て、紅絹百疋をたびて返しつ。
是より其の国をみまなと云ふ。御間城の御間をとりて名とする也。まさしく御間名国と云べきなめり。今は任那とかきなして、みまなとよむ。本義には非ず。任の字はにむの音なれば、にまなとも云ふべきにみまなと云ふは、便宜なき様なれども、壬生の二字はにふとよむべけれども、今はみふと云ふ、是れ其の例か。任の字も片方に壬をしたがへたれば、壬と同じ様にみともよむなるべし。にんをみまとよむは、まみむめの五音通ずる故也。那は名の字の代也。
都怒我はきぬ百疋を玉て帰へりけるを、道にて新羅国の人うばひたりけるより、新羅と任那と敵国なりけるとかや。御間城の天皇六十五年の秋七月、任那よりはじめてみつぎもの奉りたりけり。此の国は筑紫の地を去ること二千余里、海をへだてゝ鶏林の西南に当れりとかや。
昔は加様にのみこそありけれ。今は蒙古にせめららる。いと心うきよのすゑのありさま也。(『塵袋』一)

半島地名解説

半島内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

尚州(しょうしゅう/サンジュ)

慶尚北道尚州市
大韓民国中部に位置する都市。国鉄慶北線によって金泉(キムチョン)、栄州(ヨンジュ)と結ばれている。
俗離山(ソンニサン)の南東の麓、洛東江(ナクトンガン)中流域の米作地帯にあり、三国時代に洛東江流域を拠点とした新羅が、西方に対する防衛上の要衝として城を築いたのが都市の起源という。古くから地方行政と商業の中心地であった。また、尚州は洛東江西岸の渡津(渡し場)で発達した所ともいわれる。「三白の地方」で稲作は慶北道で一位である。三白とは白い色の「米、麦、繭(マユ)」を指す。かつて尚州は生糸の産地で、「尚州明紬」として有名であった。商人は「尚州のものでなければ触れるわけにはゆかない」といったという。最近は化繊に押されて、つるし柿が特産にかわっているが、小規模ながら製糸など繊維関係の工業がある。

慶尚道という地名は、この地方の中心地であった「慶州」と「尚州」の頭文字から付けられた。慶尚南北道を「嶺南地方」ともいう。嶺南地方は鳥嶺、竹嶺以南地域を指す場合もある。慶尚南北道、全羅南道をあわせて「三南地方」ともいう。
現在は韓国の一地方都市だが、古くは朝鮮通信使も通う要路の行政地であった。この町で慶次郎たちは朝鮮国将軍李鎰と会った。

俗離山法住寺〜文蔵台
岩山と渓谷が作り出す絶景を鑑賞しながら歩くコース。1,400年以上の歴史を持つ'法住(ボプジュ)寺法住寺から'文蔵台(ムンジャンデ)に登り、慶尚北道尚州市ファブク面ジャンアム里までのトレッキングコース。行程は5時間程度。海抜1,054mの文蔵台は巨大なひとつの岩の峰で、頂上にある表面の平らな岩の上には数十人が一度に座ることができる。文蔵台の頂上に立つと忠清道の報恩(ボウン)と反対側にある慶尚道尚州を見ることができる。このようなコースを歩き、当時の慶次郎たちの旅の雰囲気を味わうのも良いだろう。

漢陽(かんよう)

ソウル市
漢陽は隣国韓国の首都ソウルの古称。漢陽は漢城とも呼ばれていた。その後、日帝植民地時代に京城となるも、1948年、大韓民国政府樹立とともに、現在の「ソウル」が正式名称となった。
漢陽に都を定めた李氏朝鮮は、李成桂の息子・李芳遠(イ・パンウォン・太宗)が中央集権的な堅固な体制にまとめあげ、500年以上にわたる長期政権の基礎を固める。第4代国王・世宗(セジョン、一万ウォン札肖像人物)の冶世に、儒教を基本に据えた文治国家としての治世が固まった。また、1446年の訓民正音の創成は民衆に親しみやすい文字として、学者たちの助言のもとに開発した。この文字が、現在我々もよく知るハングルの元祖である。16世紀末まで、ときには暴君や政治的混乱などが起こりつつもおおむね平和な社会であったという。
こうした安定を打ち破る突発的な不幸が任辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)である。豊臣秀吉軍の前に朝鮮軍は一時総崩れとなったが、その後、明からの援助や義兵によるゲリラ闘争などで持ちこたえ、最終的には李スンシン将軍率いる水軍の活躍などで防衛に成功した。
この任辰・丁酉倭乱の1年前に、慶次郎たちは漢陽にいる日本の使節団の一人玄蘇と会う。ここでもまた慶次郎は刺客に襲われた。

釜山(ふざん/プサン)

釜山広域市
李氏朝鮮時代(1392〜)にはブサンポ(富山浦)と呼ばれ東莱府使の行政管轄にあったが、その後、釜山と名が変わった。高麗末から朝鮮時代の初期までは人口も少ない閑散とした漁村に過ぎなかった。また、たび重なる倭冦の侵略で平和な生活ができず、住民の移動も多かった。
世宗王の時には日本人の往来が許可された「三浦」(東莱の富山浦(釜山鎮)、熊川の乃而浦(鎮海市)、蔚山の塩浦(方漁津と長生浦の間))があり、釜山はその一つだった。この時期はやや安定し釜山地方の人家も増えるが、その後の文録、慶長の役によって人口が再び減ることになる。
文録、慶長の役の後は対倭国交が正常化されるにつれて富山浦が外交の前哨基地としての役割を果し、これにより国防都市化されるなど新しい性格が付与され、着々と都市化していった。そして、大院君の鎖国政策で固く閉じていた釜山港は不平等条約である江華島条約が日本側の強圧によって1876年2月27日に結ばれ、釜山港は止むをえず開港を迎えることになる。この時から釜山は韓国の関門として多くの外国人と内国人で賑わうようになり、韓国第二の都市、そして第一の港と生まれ変わったのだった。
現在は釜山市の東莱だが、当時は東莱の釜山浦だった。その釜山浦(富山浦)に慶次郎たちは上陸し、東莱都護府のある東莱の町にやって来たのだった。

東莱(とんぎ/トンネ)

釜山市東菜区
東莱パジョン発祥の地としても有名な東莱は、釜山市内で一番歴史を感じさせるエリアといえる。豊かな山林と歴史情緒あふれる梵魚寺や金井山城など、多くの史跡の数々が旅人の目を楽しませてくれる。また、旅人の身体を癒してくれる温泉街としても注目されている。

密陽(みつよう/ミリャン)

慶尚南道密陽市
太祖元年(1392)に「密城郡」と呼んでいたが太祖三年(1394)に「密城府」に。太宗元年(1401)再び「密城郡」に変り、太宗十五年(1415)、住民の請願によって千戸以上の集落を全て「都護府」とするときに「密陽都護府」になった。
密陽の地理的特性は、慶南の東北部にあって、蔚山広域市蔚州郡と慶尚北道清道郡に接し、周囲が6市郡に囲まれ、東・西・北の3面は深山峻嶺であり、南は洛東江が滔々と流れ、北東が高く南西が低く東西が南北より長い地形となっている。北西にある華岳山は密陽の守護山で、その姿は凛々しく聳え北西風を遮り、北東の載薬山(1,189m)を中心に迦智山(1,240m)を主山にして南は天台山(631m)、西は雲門山(1,188m)、九万山(785m)、鉄馬山(630m)が連なり、密陽江が北から南に流れて洛東江に合流しているため、流域の平地は肥沃で土質が良く農耕が盛ん。(密陽市HPより)
残念ながら、鵲院や黄山江という地名は確認できないが、この密陽は嶮しい山と川に守られた地のようだ。慶次郎たちは密陽に入る途中の桟道で府使の手下を追い払って町に入っている。

大陸

古代中国国名

夏(か) 

紀元前2205頃、堯、舜の後を受けて禹が即位し、夏王朝が始まる。

商(しょう)

紀元前1766年頃、成湯が夏の傑を追い国号を商と改める。

殷(いん)

紀元前1401、商が国号を殷と改める。

周(しゅう)

紀元前1122、西発、殷を滅ぼし国号を周と改める。

東周(とうしゅう)春秋時代

紀元前770、周の平王が犬戎の難を避け、都を洛邑に移し、東周の号が起る。
722年以後、周姓の諸王八カ国(呂、衛、晋、鄭、燕、曹、葵、呉)、その他の姓六カ国(斎、宋、陳、楚、秦、越)が分立し春秋時代が始まる。

秦(しん)

紀元前249年、秦の王が東周を滅ぼし、皇帝を名乗る、(秦の始皇帝)

漢(かん)

紀元前206年、秦が滅び漢が起る。

新(しん)

紀元前1年、漢帝没し、王奔が実験を握り新を名乗る。

後漢(ごかん)

紀元24年頃、漢の後裔帝位に付き光武帝を称し、後漢時代が始まる。

三国時代

230頃、呉、蜀、魏の三国が鼎立。

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