歴史地理・地名便覧[畿内]

山城国

古くは山代と書き、7世紀に山背国という表記で国が建てられた。延暦13(794)年11月7日の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなすことから、山城国に改称したとされる。山州、城州などと呼ばれる。
『古事記』には「山代」と書かれ、「しろ」は「実」という意味。奈良時代になって、奈良の都の背後という意味の「山背」と書かれた。平安遷都後、「山河襟帯自から城をなす」という意味の「山城」と称された。(山川出版社刊『京都府の歴史』参考)

[国府]はじめ南山城の相楽郡(現相楽郡山城町上狛附近)、後、葛野郡(現京都市右京区附近)に移った。詳細の地は不明。
[守護所]山城国守護を京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。
[幕藩体制確立後]
京都所司代が置かれ、禁中及び畿内直轄領(天領)の統治、さらには畿内各藩の監視にあたった。幕末には朝廷の反幕派や西国諸藩の尊王派の動きを抑える目的で、廃止されていた京都守護職が復活、会津藩主松平容保がその職に付く。
京都市中には、東西町奉行が置かれ、伏見には伏見町奉行が置かれた。
山城国内唯一の藩として淀藩(十万二千石)が置かれる。

山城国
山城之国之風俗は男女ともに其言葉自然と清濁分り善くて、譬ば流水之滞ふる事無ふしていさぎよきが如し。世俗に其国風は其水を以知ると云事誠なる哉。城州は其水潔ふして万色を染むるに其色余国にはるい違へる事氈従古至于今如斯、人之膚之滑成事亦如斯、女之姿音声之尋常なる事ならふ国なし。然ども武士之風俗不好、事中々不及子細也。其所以考るに王城之地にして、常に管絃之楽を翫ふ事を見馴れ、或は商売之人等は遠国波島までも偽を以て実とする習なれば、殊に王城の地如斯し。
されば常に実を忘れて虚を談ずるを以て世を渡るを本とす。たま/\実儀之人有といへども其邪に推かくされ、或は其実を隠して其風儀勤る之類有と見へたり。如斯之武士千人に一人なれども、是人も後は如形之悪き形儀に成なり。然れば總て此国の風俗実を用勤る人すくなき故、不知義理也。不知義理が故に勇臆之儀を沙汰すれども余所の事に心得る故也。此気質を不離也、自然に好き人有は。   口伝  (『人国記』)
原文はカタカナ交り文で句読点・濁点が附されてないが、読みやすくするために当サイトで句読点・濁点を附し、ひらがな交り文に改めた。

[主な歴史的地誌用語]

洛中(らくちゅう)

京都の町中。天正十九年、豊臣秀吉が構築した延長五里二十六町の御土居に囲まれた内部を洛中、外部を洛外と称したが、賀茂川畔の河原町のように御土居外の地域に正保・寛文年間から人家が立ち並び、賀茂川西堤が築かれ、賀茂川岸が洛中の東限となったように、市街の発展とともに御土居外も洛中と見なされるようになった。 

街道口(京七口)

都と洛外を結ぶ街道の出入り口の事をいい、時代によって六つであったり十であったりした。天正十九(1591)年、秀吉により、洛中と洛外を区別するために設けられた御土居(街を囲った堤防様の土手)には、主な出入口が七つあり、それを七口と称した。
粟田口 東海道、近江方面へ
粟田口は、三条通の白川橋以東、蹴上附近までの地名。平安遷都以前は粟田氏が本拠としていたことから粟田郷と呼ばれていた。遷都後、東海・東山・北陸三道から京都への入口として交通の要衝となり、三条口・三条橋口・大津口ともいわれた。江戸期には、東海道五十三次の終点近くとして賑わう。平安末期以来この附近には刀鍛冶が住み、また陶磁器粟田焼の産地として知られていたという。
道標:東山区神宮道通三条下る東側(粟田小学校前)
今道口 志賀峠を経て東国へ
応仁の乱以降、治安が良かった事から、東海道に出る粟田口よりも良く使われた。
老の坂口(大原口) 若狭街道から大原を経て北陸方面へ 
道標:上京区今出川通寺町東北角
鞍馬口 鞍馬街道(出雲路)を経て小浜へ。
伏見口 伏見を経て奈良街道方面へ
竹田口 奈良街道方面へ 
丹波口(西七条口) 丹波路へ
東寺口(鳥羽口) 大坂道、山崎を経て大坂方面へ
長坂口 周山街道を経て小浜へ

山城国地名解説

京(みやこ) 

現:京都府京都市。 
都(みやこ)、京(きょう)あるいは京師(けいし)ともいう。
平安京が築かれたことから京と呼ばれる。それまでは平城京(現奈良県奈良市付近)を京といった。
京は、皇居のある土地の事で都をいう。唐の都にならった都造りを行った最初の都市は、持統天皇によって飛鳥宮から694年に遷都した藤原京から始る。その後、710年に元明天皇が藤原京より平城京へ遷都、784年には桓武天皇が長岡京へ遷都するがこの都は僅か十年で、794年には現在の地に平安京を築き、以後1869(明治2)年まで千年以上もの長い間、朝廷(皇居)が置かれていた。明治以後、皇居が東京に移るも、山城国の地を京都というようになった。また古書には「京師(けいし)」とも表れる。
京の都は大平洋戦争の戦火からまぬがれたが、その後の我が国の多くの都市同様、近代化という破壊からは免れ得なかった。それでも東京や大坂に比べれば少しはましかもしれない。しかし、千年以上も続いた都市には、古の遺構が残る余地はない。地名や通りの名に残ったわずかな香をたよりに、往時を偲ぶだけの所も多い。

京市内の地名

四条河原(しじょうがわら) 

京都人の散策や夕涼みなどで馴染みの三条から五条にかけての鴨(賀茂)川の河原。今でも、夏になると納涼床が出現し多くの遊山客で賑わっている。
往時、この四条河原はそこが誰の所有でもない河原ゆえ、一種の公界となっていた。慶次郎はこの河原で傾奇者たちと太刀合わせをしたり、傀儡子一族と談笑したりしている。このころから四条河原はさまざまな「道々の輩」が集まり、慶長(1600年代)の初めに出雲の阿国の傾奇踊りが現われ、さまざまな芸能興行が行われる。近松が20歳代当時の延宝年間(1670年代)には、四条河原に七つ以上の櫓(芝居小屋)が立ち並び、歌舞妓や人形浄瑠璃、見世物が盛んに上演されていたという。
交通:地下鉄烏丸線「四条」駅下車徒歩、京阪電車「四条」駅下車

島原(しまばら) 

『歴史用語の基礎知識』「色里用語の部」島原の項参照。

西の京(にしのきょう)  

京の二条城の西。北野天満宮と深い関係を持ち、北野に奉仕する神人「西京神人」の称が鎌倉期の文献に現れる。西京神人の生業は麹造りで、北野社を本所とする麹座を結成し、課役免除と麹の製造・販売の独占権を持っていた。

万里小路(までのこうじ) 

平安京の左京東部を南北に走る通り(京都市中京区・下京区)。応仁・文明の乱で荒廃したが豊臣秀吉によって復興。近世以後は柳馬場通りと呼ばれる。天正十七年(1589)、この通りの二条柳町に初めて官許の遊廓が設置されたが、慶長七年(1602)に二条城造営のため六条柳町に移転した。

柳の馬場(やなぎのばんば) 

『歴史用語の基礎知識』「色里用語の部」柳の馬場の項参照。

六条三筋町(ろくじょうみすじまち) 

京都市下京区西洞院辺り。六条柳町。
『京都府下遊廓由緒』によると「慶長七壬寅年傾城町東ハ室町、西ハ西洞院、北ハ五条、南ハ魚棚ヲ限場所替ニ相成町名六条柳町ト云、三筋町トモ相唱候由」とあり、現在の室町通、西洞院通、六条通、五条通の間の広大な土地であった。寛永年間に六条三筋町の色里は西方の朱雀野(後に島原と称される)へ移転命令を受けた。現在、この地は市街化が進み、遊廓の歴史は全く残っていない。
『花と火の帝』
後水尾帝を守るため、岩介ら天皇の隠密は三筋町を根城に、京の町を東奔西走する。

その他の山城国地名

宇治(うじ) 

山城風土記に曰はく、宇治と謂ふは、軽島の豊明の宮に天の下知らしめしし天皇の子宇治の若郎子、桐原の日桁の宮を造りて宮室と為し給ひき。御名に因りて宇治と号ふ。本の名は許の国といひき。(詞林采葉抄)

大原(おおはら)  

里の名。
小原(おはら)ともいった。山城国愛宕郡(京都市左京区)、比叡山の北西麓、四方を山林で囲まれた南北に細長く狭い大原盆地にある里の名。古くから山門延暦寺との関係が深く、隠棲の里、仏縁の地として知られる。平家滅亡後、この地に棲居(寂光院)した建礼門院を後白河法皇が訪ねる「大原行幸」は『平家物語』でも有名な下りとなっている。また楽北の山々から薪・炭などが集る里で、これら集った薪や炭を頭の上に乗せて都へ行商に行く女性たちは、大原女として現在にも知られる。近世になると、若狭の物産を都に運ぶ近道として重要な交通路となった。

朧清水(おぼろしみず)

三千院から寂光院に抜ける道の傍にあり、歌枕として知られた名水。建礼門院が寂光院に入る際、わが身を水に映し、涙にくれて姿がはっきり見えなかったことに由来するといわれるが、その前にも和歌に詠まれている。

小椋(おぐら) 

山城国久世郡(京都府宇治市小倉町)にある。巨椋池の東岸の地。
古代の巨倉庄・小巨倉庄に当り、共に藤原摂関家の所領。北部に春日明神を祀った巨椋神社があり、豊臣秀吉による宇治川の河川変更と巨椋池の築堤工事によって出来た小椋堤がある。この堤上には新たに大和街道が設定され、伏見と直結したという。

桂の里(かつらのさと) 

里の名。
山城風土記に云はく、月讀の尊、天照らす大神の勅を受けて、豊葦原の中国に降りて、保食の神の許に到りましき。時に一つの湯津桂の樹あり。月讀の尊すなはちその樹に倚り立たしき。その樹の有りし所を、今、桂の里と号ふ。(雍州府志)

賀茂(かも) 

書で賀茂とある場合、そのほとんどは賀茂社のことで、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下賀茂神社)の両社を一組にして称することが多い。賀茂の祭で有名なものに、競馬会神事(五月五日)・葵祭(五月十五日)があり、洛中・洛外から多くの見物人が集った。

上賀茂(かみかも) 

賀茂の一地域名。山城国愛宕郡賀茂(京都市北区上賀茂)。賀茂川の左岸に上賀茂神社を中心として広がる村。社家・寺家・地下人の家屋が立ち並び、中世後期までには門前町として発達。後一条天皇により寄進された四郷は、中世には賀茂六郷と称されていた。

柏野(かやの) 

山城国愛宕郡(京都市左京区紫野)にある野。
古くは「かへの」とよばれ、紫野・蓮台野の南に続く。平安遷都後、柏野は洛北七野の一つに数えられ、天皇・貴族らの遊宴場所となっていた。

北白川(きたしらかわ) 

京都東部に水源を持つ白川が、山地から平野に出た谷口一帯の称。平安遷都後は京の近郊として、また近江へ抜ける志賀越(白河越)の入口として人々が往来した。この地から近江志賀里や唐橋・坂本へ至る山中越や白川の景観は、歌に多く詠まれ親しまれた。

北山(きたやま) 

地域名。
京都北方、山城国葛野郡(京都市北区大北山)を中心に、京の北側を囲む船岡山・衣笠山・岩倉山などの諸山とその近辺の称。

鞍馬(くらま) 

鞍馬山。海抜569mの山、その山に鎮座する松尾山金剛寿命院鞍馬寺をいう。
本尊昆沙門天は、福の神として信仰あつく、正月初寅の日に参詣者多く、これを初寅参りと称した。また、洛中から鞍馬へ行く途中の野を市原野と称した。
鞍馬といえば牛若丸や鞍馬天狗などの昔話や伝説で有名だが、元来は鞍馬山信仰の聖地であり、平安京の北方守護として、 千手観音菩薩、毘沙門天王、護法魔王尊を祀っている。また、今でも有名な鞍馬の火祭りはここの『由岐神社』で毎年10月22日に行われている。

九十九折(つづらおり)

鞍馬山にある坂道の名。鞍馬口から鞍馬寺へ登る道は清少納言が『枕草子』の中で「近うて遠きもの」の一つとして、「くらまの九十九折といふ道」と記した道。天狗杉のあたりまで登りつめると、「木の根道」という太い木の根が縦横に露出したところがあり、その樹齢をしのばせる。
『一夢庵風流記』
この道を人知れず咲く一本の桜を観るため、慶次郎は伽姫を抱いて愛馬松風に跨がり登って行く。 その時、上から降りて来た結城秀康と鉢合わせすることとなった。
山頂の鞍馬寺まで行くには、中腹までケーブルカーが通っているが、健脚ならば人知れず咲く桜の木を探して歩いて登るのもよい。恐らく人知れず咲く桜木など見つかるはずもないが、時空を遡る想像力があれば見ることができる。
交通:叡山電鉄出町柳駅から鞍馬行き乗車約30分で終点下車

栗栖野(くるすの) 

山城国宇治郡。京都市山科区栗栖野
山科盆地南西部、山科川と安祥寺川に囲まれた地域をいい、蝦夷の乱を鎮圧した坂上田村麻呂が葬られたとされている。また、和歌にも多く詠まれている。なお、愛宕郡にも栗栖野の地名が見られ、歌枕となった栗栖野は愛宕郡の方だという文献もある。

西院(さいいん) 

山城国葛野郡西院。京都市右京区西院。
西を桂川支流の天神川が南流、南に山陰道が東西に通る。平安初期、淳和天皇の後院淳和院(西院)があり、これが地名の由来となった。藤原伊周の邸、閼伽井宮、野宮などがあったが、中世以降、たびたび戦乱の地となった。

醍醐(だいご) 

山城国宇治郡醍醐。京都市伏見区醍醐。
地名は、醍醐寺開祖聖宝が当地の山に登った時、白髪の老翁が閼伽井の水を飲んで醍醐味なるかなと賞したことに由来する。大和から近江に至る交通の要地でもあった。

鳥部山(とりべやま) 

山の名。

鳥部(とりべ) 

山城国愛宕郡鳥部郷(京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峰町)にある阿弥陀ケ峰をいい、麓の鳥部(辺)野と共に、京の人々の葬送地として知られる。平安京の昔から諸家の墓が作られていたが、高僧の埋葬・浄土宗寺院の建立が相まって葬所として一般化した。
山城風土記に云はく、南、鳥部の里、鳥部と稱ふは、秦公伊呂具が的の餅、鳥に化りて飛び去り居りき。その所の森を鳥部といひき。

東山(ひがしやま) 

京の東縁に連なる山々の総称。またその山麓にある郊郷・街並、清水寺・八坂神社一帯をいう。貴族の別業が多く、また葬送の地でもあったが景勝の地としても知られた。

伏見(ふしみ) 

城下町。川港町。宿場町(伏見宿)。
この伏見は、物語の表舞台となることはないが、豊臣秀吉、徳川家康を語る時にしばしば登場する地名である。現在では京都の一郊外という感覚でしかないが、京の都や大坂と遜色のない有数の町だった。ある意味で、京や大坂よりも注目された時期もあった。
「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」と、万葉集第九に詠まれた風光明媚な指月の丘に橘俊綱が延久年間(1069〜74)に山荘を営んだ頃から伏見の名が知られるようになるが、伏見は「日本書紀」に「俯見」と記されたのがはじめともいわれる。その後、臥見・節見、伏水などの字が当てられた。奈良と平安京との中間点に位置するため、その後の文献にもたびたび登場することとなった。宇治の平等院を建立した藤原頼通を父に持ち伏見長者と呼ばれた俊綱が造営した豪壮な別荘、それが伏見山荘と呼ばれる。荒廃した鳥羽離宮に代わってその壮麗さをたたえられたのが伏見殿(伏見山荘)だった。橘俊綱没後,伏見山荘は白河上皇に献上され、皇室の荘園にくわえられる。後白河上皇はここに壮麗な伏見殿を造営、船津御所、伏見離宮とも称される。南北朝時代には足利尊氏が擁立した北朝の光厳上皇、光明上皇、に受け継がれ、両上皇の母、藤原寧子は伏見殿に居住し、隣接する場所に大光明寺を建立した。伏見殿は光厳上皇が後に伏見宮家の始祖となる栄仁親王に譲る。南朝北朝が統一されると、芸能文化が盛んに行われるようになり、伏見殿に近い御香宮などでも猿楽・連歌・御茶事などが行われたという。伏見宮家の貞成親王が著した『看聞御記』には村人が伏見殿に集まり、華美なつくり物や仮装をして、松拍子といわれる拍子物(踊り)を奉納したことが記されている。しかし、足利八代将軍義政の家督相続争いに端を発した応仁の乱(1467)では稲荷社の本殿などが焼失、醍醐寺も五重塔を残して全滅するなど伏見の町も兵火にかかった。天正元年(1573)に将軍足利義昭が織田信長に降伏し、室町幕府の終焉を迎える。天下統一をとげた豊臣秀吉はその晩年に伏見城を築城。伏見は京都・大坂・奈良・近江の中継地にあたり、さらに、木津川・宇治川・桂川・鴨川の流れ込む水路、陸路ともに交通の要所となった。築城に際して、文禄3年(1594)建築資材を運ぶため伏見港を開き、巨椋池と宇治川を分離させるための大規模な工事をおこなった。さらに、太閤堤、槙島堤と呼ばれる堤防を築き、宇治や奈良などを結ぶ街道とした。また、淀城を破棄、文禄4年(1595)には聚楽第も破棄し天下の中心ともいえる一大拠点とした。
秀吉が築いた最初の伏見城の築城は文禄元年(1592)にはじまっている。当初は茶会や宴会を催す隠居城として指月の丘に屋敷をつくったが、その後すぐに本格的な城郭へと造りかえている。延べ25万人を動員し、わずか5ヶ月で完成した城だったが慶長元年(1596)の大地震により倒壊、その10日後、木幡山に再び築城を始めた。城内には舟入御殿や茶亭、茶道の学問所が設けられた。慶長3年になっても工事は続けられ、同年8月秀吉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢」の辞世を残してこの世を去った。文禄三年(1594)より城下町の町割や開発が急速に進められる。武家屋敷、寺社、町家、道路などの区画整理が行われ、現在の町の原型が形づくられた。外堀が城郭の西側に流れ、町の中心部を囲むように掘られ、掘り上げられた土砂でさらに西部の低湿地帯を埋立てられ、南北に縦貫する京町通と両替町通が町人居住区の中核を成していた。『豊公伏見城ノ図』には石田三成、浅野長政などの武将の屋敷が記されているように、全国各地から有力大名が集められ、また、大名に呼び寄せられた商工業者も住むようになる。江戸時代の伏見港は幕府公認の船で、過書船とよばれる船や三十石船、二十石船などが行き交う港町として賑わった。瀬戸内海の鮮魚が陸揚げされた草津の湊、巨椋池・宇治川を通って淀川や木津川ともつながる六地蔵にも港があった。慶長十六年(1611)御朱印貿易により財を築いた角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を築き、さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより、京都と大坂が水路で結ばれたのだ。中継地として水上交通の要となると、大小の船が集中するようになり、伏見港はさらに発展した。京橋付近が伏見港の中心で、参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ宿場町として多くの旅人で賑わったようだ。

四辻の四つ当たり(よつじのよつあたり) 

伏見城下(東西約4km、南北約6km)に残る城下町の道の作り方を示す遺構。東本願寺別院(伏見幼稚園)の前の通りにあり、四つ辻の四つ当たりと呼ばれている。東西南北どこから来ても突き当たるというこの通りは、遠見遮断といわれる城下町の町割りの特色をしめしている。
交通/京阪電鉄「伏見桃山」駅下車徒歩10分

八瀬(やせ) 

里の名。山城国愛宕郡八瀬村。京都市左京区八瀬。
八瀬という地名は、壬申(じんしん)の乱に、天武天皇がこの地で背に矢をうけられた故事(矢背)によるという。この時、里人がかま風呂をもってその矢傷を治したと伝えられ、その跡が八瀬大橋の西詰の上流にある。かま風呂とは、むし風呂、いわ ゆるサウナ風呂の一種で、半円形のかまの中に青松葉をたき、かまの中が十分に熱せられたら火を引き、むしろを敷いてその上に寝転んであたたまる風呂だ。現在でもこの風呂が楽しめる宿があるという。
この村の男共が「八瀬童子」と呼ばれていたのは、彼らが元は比叡山で雑役をさせられた者たちで、結髪することを許されず、肩までの長髪の四方髪、いわゆる大童髪(おおわらわがみ)であっために年齢にかかわらず童子と呼ばれたという。(『花と火の帝』)
岩介が生まれた八瀬村は比叡山の西麓にあり、大原の里へと通じる高野川に沿った道の途中の山あいの村。八瀬村という呼び名は昭和24年に京都市左京区に編入され無くなり、現在は国道367号線が多くの観光客を乗せたバスや乗用車で引きも切らぬ風情だが、その昔は、大原の里から京の町に柴や漬物などを売りに行くため、それらを頭に載せた大原女が朝に通い、夕べに帰る細道が通るだけのほとんど他国者が来る事のない村だった。
また、新井白石の『折たく柴の記』には
「又前代の時(五代綱吉)、日光准后望み申されし、叡山結界の事によりて、八瀬の里人、其産業を失ふ由を以て愁訴す、其事いまだ決せずして、我代におよべり、これらの窮民、滞留の日久しからむ事不便なり、まづこの事を議し申すべし、と仰下されたり。廿五日の朝、まづ八瀬の事の議を奉る。やがて奉行所よりまいらせし所の文書等を下し賜り、廿六日の朝、申すべき事共しるして奉る。廿八日に参りし時に、八瀬の里人愁訴の事、いはれなきにあらざれども、叡山の結界今はた改廃すべからず、されば、彼結界の地に代ふるに、上田を以てして、その産業を得せしむるにはしくべからず、其さだめ文の草をまいらすべしと仰下され、廿九日に、其草を奉る。猶又仰下さるゝ事共ありて、七月五日に至て、つゐに御みづから草し給ひしものを、しめし下されたりき。(此事は、むかし叡山の結界ありしを、そのゝち八瀬の里人みだりに山中に入て、木をきりとり、国家鎮護の浄界、婦女牛馬のために穢さる、もつともしかるべからずと、日光の准后前代に申し給ひしかば、戊子の年(宝永五年:1708)十二月に、京の奉行等かしこにおもむきて、結界の事あり。こゝにおゐて、里人等、薪をこりて産とせし地をうしなひ、多くの古文書どもをさゝげて證とし、その結界を改め廃せらるべき事を訴ふる事、年を経て、今に至れる也。これによりて、彼庄にある所の私領寺領等を他所にうつし替られ、その地をば、八瀬のものどもに下され、年貢諸役一切に免除せられぬ。此さだめぶみ、はじめ某奉りしは、真名にてありしを、御みづからかな文字をまじへて改めつくらせ給ひたり。されば、此ものは御自撰の所なれば、ありがたき事ぞかし。此年の冬、御使を奉りし時、叡山にのぼりて帰る時、八瀬の里をすぐるに召供のものどもの晝の餉するほど、道のほとりなる家に入りて、縁に腰かけ居たり。あるじは老女にて子なるものは京に出ゆきしといひけり。かのうたへの事を問ひしに、結界ののちは、こゝの人、世わたるべきわざをうしなひしに、今の御めぐみによりて、ふたたびいき出し心地しぬれば、人々此御代をば、万々年とこそいのるなれ、されど今のほどは、はたうち田つくる事は、いまだならはぬわざなれば、いかにやあるべきなど申せど、つゐにはしかるべき事也と申す事也といひき)」
とあり、江戸初期の八瀬の人々は比叡山の裏山に入って薪を集め生計を立てていたが、日光准后の異議で綱吉の代に、八瀬の人たちが山に立ち入る事を禁じたとある。

鬼が城(おにがじょう)

八瀬の西北にあった岩屋。岩屋の中に鬼石と呼ばれる石があり、酒呑童子の貌といわれていた。

山崎(やまざき) 

山城国乙訓郡。京都府乙訓郡大山崎町大山崎。
京と西国を結ぶ水陸交通の要地。長岡京造営の際、橋が架けられ栄える。その後淀川水路の整備により中心地が淀川上流域に移動したため、住人らの多くは石清水八幡宮の神人となり灯油を中心とした商業活動に切り替えて行く。また当地は戦略上の要地でもあり、天正十年(1582)には明智光秀と羽柴秀吉が争い、秀吉が勝利して天下統一の第一歩を踏み出した。

山科(やましな) 

郷名。山城国宇治郡山科郷。京都市山科区。
東山山地・逢阪山山地に囲まれた盆地一帯をいう。古くから天皇家との関わりがみられ、平安末期には後白河院により院領化されたいた。鎌倉末期から南北朝期にかけ、本所を皇室、領主を皇室系の寺院とする山科七郷が成立、七郷はそれぞれ自治組織を持ち、連合組織体として一揆などを起している。

淀(よど) 

山城国久世郡淀。京都市伏見区淀。
京都周辺の水陸交通の要地。豊臣秀吉の愛妾茶々の産所となった淀城の城地としても知られる。また、江戸期には東海道の宿駅(淀宿)として栄えた。

大和国

「やまと」は現在の奈良県天理市付近にあたる地域の名で、この地域から興った豪族(現天皇家の祖)が周辺地域を支配し、その支配地の広がりとともに「やまと」と呼ばれる地域が拡大。のちには、我国全体をも指す言葉となった。漢字の移入とともに「倭」「大和」などの文字が当てられる。令制による国名でもこの「大和」を附した国名となった。

[国府]数ヶ所推定されているが不明。
[守護所]設置せず。興福寺がその役割を果たしていた。
[幕藩体制確立後]
奈良天領に奈良奉行が置かれる。
郡山藩(十五万五千二百石)を筆頭に、高取藩(二万五千石)、小泉藩(一万千百石)、新庄藩(一万石)、芝村藩(一万石)、柳本藩(一万石)、柳生藩(一万石)が置かれ、明治元年に田原本藩(一万石)が藩列している。

大和国
大和国之風俗表郡は人之気大形名刹を好むもの多ふし。奥郡之者は隠る気有之、蓋し此国之人は大体山城之国人に風俗似たる処多し。昔日王城之地と成が故に其風俗漸く似たる処多しといへども、山城之国より人之気少し、尖成所有。雖然表郡者名刹にかゝわる人多く而常に詞に偽を巧みにして、上分は巧みすくなふ而名を挙んことを願ひ、下劣は於言句之下而偽を述て両舌を吐く風俗也。若是国之人を味方に従はしむるには讒者を以て人之気を可分名刹無き則は速に分つ。亦奥郡之人は隠るゝ気質自然と生れつきたり。是は山深く而常に人倫に交道理を談ふる人も寡ければ、自を如斯に而道理を不知風俗也。
自然に実を振舞ふ人は猶以て隠遁之気発し、世を無き物となす。形儀をのみ見聞が故に如斯之風儀多し。されば古より芳野山奥は人の気五畿内之人に勝れて、いさぎよき也。雖然物之形儀を不知が故に智あつて道理に従ひ、謹とはなけれども邪僻之為に驕を禁ずるもの也。故に自を愚成人多し。若是を取をば、其威を仰て気を悦ばしめて、我が国を全ふ而国人を不労而自を愚を行はせよ、さある時は陰却而陽に変じ、驕奢之気出るものなり。都而名刹名聞につながれて気質に勝ちたると可知也。千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり。   口伝(『人国記』)

原文はカタカナ交り文で句読点・濁点が附されてないが、読みやすくするために当サイトで句読点・濁点を附し、ひらがな交り文に改めた。

大和国地名解説

大和国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

莵田(うだ) 

宇陀。
『日本書紀』(神武記)に、「遂に莵田下県に達る。因りて其の至りましし処を号けて、莵田の穿邑と曰ふ」と現れ、莵田下県は今の宇陀郡のこと。穿邑は「うかちのむら」と読み、宇陀郡に有る村の名で、現在の宇陀郡莵田野町宇賀志とされる。

畝傍山(うねびやま)  

大和三山の一つ。奈良県橿原市。
『日本書紀』などに見える上古から知られた山。

忍坂(おしさか) 

『日本書紀』に現れる地名。「おさか」「おつさか」とも読まれる。磯城郡城島村大字忍坂。桜井市忍坂。
『書紀』(神武記)に「汝、大来目部を帥ゐて、大室を忍坂邑に作りて、盛に宴饗を設けて、虜を誘りて取れ」と記された地。また、城島村大字忍坂近くの忍坂山の麓にあった古道を「おむろ越」と云ったとされ、「をむろ」という字名も残っているという。

香山(かぐやま) 

香具山。
風土記にいはく、天の上に山あり、分れて地に堕ちき。一片は伊予の国の天山と為り、一片は大和の国の香山と為りき。(神代紀口訣三)

葛城(かつらぎ) 

倭(大和)国にある地。葛城県。
始めは高尾張邑と呼ばれ、その地に住していた土蜘蛛を神武軍が征討して葛城邑としたとされる。『日本書紀』(神武記)に「高尾張邑(或本に云はく、葛城邑といふ)に、赤銅の八十梟帥有り。此の類皆天皇と距き戦はむとす」と有る。
五世紀には豪族葛城氏の本拠となり、後に興った蘇我馬子は「葛城県は、元臣が本居」と称し、蘇我蝦夷が祖廟を葛城高宮に建てている。その後、『和名抄』に葛上郡、葛下郡と有るように、郡名となった。

[高尾張]

尾張氏はこの地に住していた土豪で、後に移住し尾張国の名の元になったとされる。

[土蜘蛛]

蝦夷と同じように、土着の人々を卑下していった言葉。穴居生活を営み、背が低く、手足が長かったことから名付けたとされる。
一、上古には土蛛と云て朝威をいるがしにするものありと覚ゆ。其の姿はくもの如くなるか。
南都に常明がかきたる数巻の六道の絵あり。畜生道の分に、土蛛をかづらの網をしてとらへたる事をかけるには、をそろしげなる大蛛を書たり。是は僻事か。土蛛は人類也、蛛の形に非ず。或は国巣とも云ふ同じ類ひ也。後に心を改て御門にしたがひ奉て、みつぎものまいらせたるあり。吉野の国巣と申すたぐひ也。土をほりて穴をつくりて、其の中に隠居る。石をたゝみなどしてえもいはずこしらへて、是にすむ。人来れば穴の中に隠れ、人去れば出て遊行して、よはめに随て物を取る。人勢多きつちぐも、少々の人数をば不レ恐してうちおとす。穴の中の栖かをば堡と云ふ。蛛の土の穴にすんで虫などを捕て我が栖へ引入るゝににたれば、土蛛とは云にや。或は土主とも云へり。(『塵袋』五)

葛城山(かつらぎさん)

金剛山地の一峰で、河内国と大和国の境にある標高960mの山。
修験道の祖とされる役小角の出身地とされ、各地の修験者の聖地ともいわれる。また、この葛城山を含む金剛山系一帯は、修験道場としても知られていた。
古代の豪族葛城氏の本拠地であったとされる。頂上からは大阪平野と奈良盆地が見渡せる。(『好色一代男全注釈』)

磯城(しき) 

『日本書紀』に現れる地。奈良県磯城郡。
『書紀』(神武記)に「倭国(やまとのくに)の磯城邑(しきのむら)に、磯城の八十梟帥(やそたける)有り」と記される地。『和名抄』には城上(しきのかみ)郡、城下(しきのしも)郡の二郡の名として「しき」が現れる。

[八十梟帥]

つわもの・武勇の集団につけられた名。土豪の兵集団で、倭国平定の神武軍と干戈を交えた。

添(そう) 

長柄丘岬(ながらのおかさき)・波多丘岬(はたのおかさき)・臍見(ほそみ)・和珥(わに)

日本書紀』に現れる地名。「そふ(曾布)」。層富(そほ)。大和国添上郡、添下郡。
『書紀』(神武記)に、「是の時に、層富県(そほのあがた)の波多(元字は口篇)丘岬(はたのおかさき)に、新城戸畔といふ者有り。又、和珥の坂下に、居勢祝といふ者有り。臍見の長柄丘岬に、猪祝といふ者有り。此の三処の土蜘蛛、並に其の勇力を恃みて、来庭き肯へにす」」と記された地。
葛上郡長柄神社の地。御所市名柄。
添上郡赤膚山。唐招提寺の西の地とされる。
不祥。
添上郡にある地名。天理市和珥。

十津川(とつがわ) 

大和国吉野郡(奈良県吉野郡十津川村)の郷名、またそこを流れる川の名。 
→十津川(河川名)

飛火野(とびひの) 

昔、狼煙を上げた遺跡にちなむ地名。
「飛火野。東大寺の前に北向の荒神と云ふ有り。その所を飛火野と云ふ」(『奈良曝』二)とあり、また『調林名所考』一には「飛火は烽火也。帝城に非常の事出来、諸国に急に知らせんとする時、かねて定めをける飛火をたつる事也。(略)和銅五年正月、春日野に飛火を置きて」と有る。

鳥見(とみ) 

『日本書紀』に現れる地名。元の名を鵄邑(とびのむら)という。
『書紀』(神武記)に「皇軍の、鵄の瑞を得るに及りて、時人仍りて鵄邑と号く」と記された地で、「とび」が訛り「とみ」となり「鳥見」の文字が当てられたという。奈良県生駒郡生駒町北部から奈良市西端部(旧富雄町)にわたる地域で、『続日本紀』(和銅七年十一月条)には「登美郷」として現れ、以後平安期から江戸期には「鳥見庄」「鳥見谷」と呼ばれていた。

初瀬(はつせ) 

里の名。長谷。大和国城上郡初瀬村。奈良県桜井市初瀬町。
古くは泊瀬(はつせ)と記し、地勢が狭く長い所から長谷の字をあて、波都勢(ハツセ)と読んでいたが、現在ではハセと訓む。また、初瀬川の上つ瀬にあたるので初瀬とも記した。泊瀬の観音とは長谷寺をいう。

柳生の里(やぎゅうのさと) 

里の名。柳生谷。奈良盆地の東端の山間にある山里。奈良県奈良市柳生町
『柳生刺客状』
「柳生家は石舟斎の時、将軍義昭に加担して織田信長と戦い、一敗地にまみれてから、一切の扶持・封禄を失っている。以後柳生谷に逼塞し、僅かに兵法指南をなりわいとして、細々と暮していた」とあるように、この柳生の里は宗矩、兵庫助が生まれ育った地。

一刀石(いっとうせき)

大和柳生の里にある天石立神社の奥に、真っ二つに割れた巨岩がある。この岩には柳生石舟斎が天狗と戦った時、天狗だと思って切りつけた岩が、まっ二つに割れていたという伝説がある。

大和郡山(やまとこおりやま) 

郡山城の城下町。
かってこの辺りは東大寺の荘園だった。郡山という地名が現れるのは、正安二年(1300)薬園庄より分立した郡山庄という名前かららとされる。この頃、朝廷の庇護を受けていた各地の寺院は、東大寺に限らず広大な寺領を有していた。やがて朝廷の衰退とともに寺の力も弱まり、代わって台頭するのが豪族達で、彼らはそれぞれ蓄えた富で武装し領地を獲得していった。
この大和郡山の地を領有したのが筒井家で、戦国時代、日和見主義者として喧伝される筒井順慶はこの一党だった。筒井家は何度かこの地を追われるが、信長、秀吉についた順慶は天正八年に郡山城に入った。翌九年には島左近を千石で召し抱えている。順慶死後、筒井家は天正十三年(1585)伊賀上野へ国替えとなり代わりに羽柴秀長が入った。秀長没後、養子となった豊臣秀保が次ぐも文禄四年(1595)十津川湯で秀保も横死し、増田長盛が二十万石で入封。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に加担した増田長盛が改易され、郡山城は廃城となった。代わって大久保長安が郡山在番の奈良代官となりこの地を治める。
こうして一時天領となった大和郡山だが、大坂冬の陣で大阪城が落城すると、水野勝成が三河国刈屋より六万石で郡山に入り藩を興した。以降、松平(奥平)家、本多家、松平(藤井)家、本多家、柳沢家と藩主を代え明治を迎える。
『死出の雪』は藩主本多忠直の時代、郡山藩士生田伝八郎の仇討にまつわる物語である。


摂津国

7世紀に津国(つのくに)として設置された。和銅六年(713)に摂津国と改称され、「つのくに」と呼んだが、後にその字にしたがって「せっつのくに」と変化したとされる。摂州と呼ばれる。
また、この地を難波というのは、『浪華百事談』に「○浪速国号 「日本書紀」曰、神日本磐余彦天皇戊午年春二月丁酉朔、丁未日、皇師遂東、舳臚相接、方到2難波碕1、会下有2奔潮1太急上、因以名為2浪速国1、亦曰1浪華1、今謂2難波1訛也云々、是は、神武天皇東征して中州を定め、天業を恢になさんと欲たまひ、皇族を師て日向の国を発し、筑紫、安芸、吉備等の国を経て、難波に到りたまふに、潮奔り、浪大ひに急に遇たまふ、茲よりて、号て浪速国といひ、浪華とも書す、なにはといふは、なみはや、又なみはなの略訓ならむ、今、難波と謂は、訛なりとぞ、○愚按に、浪速国と称する地は、海浜数郡の惣号なる歟、上古の図を閲るに、大郡、小郡、百済、住吉にて、大江の岸その西に列り、難波崎、三津、敷津、此号ある海浜なり、今は、東成、西成の二郡にいたり、大坂の地を以て、なには津とはいへり、「和名抄」に云、なには津は大坂の旧号なるべし、郷名多し、とあり、又曰、なにはの里は、大坂および東北の里をさす、とも云へり」とある。

[国府]当初は現在の天王寺区国分町にあったという。805年に現在の中央区石町に移り、844年に難波の鴻臚館に移った。10世紀の中頃に住吉郡に移るが、その後、渡辺津の当りに戻ったとされる。
『浪華百事談』に「○難波の国府考」として「国府といへるは往古の市街のよし、城下、城市など称るものゝ如き歟、是を上古の図によりて推考すれば、方今、陸軍省所轄地の中なる、練兵場となる地の南にあたれり、「日本地誌提要」摂津国沿革の条に、(上略)天武天皇六年、摂津職を設け、延暦中、国司を改めて、府を西成郡に置く(誌に曰、府地不レ詳)、「続日本後紀」承和十一年、鴻臚館を以て府とするの語あり、館地、東成玉造の南、真田山に有と云(以上、「地誌提要」の文也)、前に述る処は、難波大郡の中にて、大郡後に東成郡となる、然るに、府を西成郡に置との文によれば、延暦の小郡なり、又「続日本紀」の承和十一年に、鴻臚館をもて府とするの文によれば、旧図の地と同郡中にて、少し南方を指ていへり、鴻臚館は旧名三韓館と称へしか、旧図に記せるものあり」とある。
[守護所]国府の辺りにあったとされるが、詳細は不明。この摂津は初め対外交易の副都としての「難波宮」を管理する摂津職が置かれたが、後に職が廃止され守護を置いたとされる。
室町期の守護職は初め赤松氏、後には細川氏が代々勤めていたが、応仁の乱後、織田信長が入京するまで戦乱の地となった。
[幕藩体制確立後]
大坂は幕府直轄地となり大坂城代、大坂東町・西町奉行が置かれ、現大阪府域には高槻藩(三万六千石)、麻田藩(一万石)が置かれる。兵庫県域には、尼崎藩(四万石)、三田藩(三万六千石)が置かれた。 

『浪華百事談』に「摂津国の沿革」の記述有り参照。

摂津国
摂津国之風俗、山城之国に似たり。一圓不可好也。先武士は町人百姓のなす所を我が業と覚て是を真似、而も其当然を勤る処は武士之業之様なれども、武芸を学ぶは渡世之為光陰を送らん所作也と覚ゆる風俗にて更に武士之武士には非ず、而偽り諂ふ類之人多し。亦町人は武士を真似己が実に勤る身にあらざれば、譬ば座敷之置合に兵具をならべ置ていんけんを吐き、亦は刀脇差を拵にも異風に作りて金銀を費し、己が業をば如形大様にもてなし、百貫之身体之者は千貫も持たるやうに有徳顔して己も身上を滅し、人にも損をかくる風俗也。
雖然北郡之者は実儀少有武士もはげしき処有て諂ふ心すくなしといへども国風をまぬがるゝ事なくて、百人が九十人は欲心深し。是国の人を傾んには威を専にして金銀花飾を以て是をなびくべし。思ひ詰たる心なく、我々かち成風俗故に欲にふけり威に恐るゝ形儀也。されども和泉之国にははる/\まされり。若柔に而示す則は威を奪はれ、還て害と成べき国風也。大和山城河内之はづれの国成故に四ヶ国水土集りたる風俗なれば善事も有て、亦悪き事も有といへども惣而之風儀柔弱虚談之国風故武は用るに不足也。雖然間々義を弁ふるものも可有とは北郡を差ての事也。   口伝 (『人国記』)

原文はカタカナ交り文で句読点・濁点が附されてないが、読みやすくするために当サイトで句読点・濁点を附し、ひらがな交り文に改めた。

摂津国地名解説

大坂(おおさか)

古くは摂津国の国府が置かれていた地で、難波津と呼ばれていたが、隣接する小坂(おさか)に蓮如が石山御坊を建立したことから石山本願寺の門前町として発展。後、秀吉が大坂城を築き城下町としてさらに発展し、短期間であったが事実上の日本の首都となる。
現在、東京に次ぐ大都市に発展した大阪は、古くは難波宮が置かれるなど歴史に名を表すのは京よりも古く、室町期には海上交通の要所として知られた。
現在の大阪の基礎となったのは、浄土真宗の第八代宗主蓮如が、明応五年(1496)、現在の大阪城がある場所に、後に大坂本願寺(石山本願寺)となる大坂坊舎(石山御坊)建立に着手したことから始まる。その頃、上町台地の突端にあった小坂(おさか)という地名が、「おおさか」の語源といわれている。
幕末の国学者黒川春村の『硯鼠漫筆』にも、「摂津国の大坂は、旧は小坂と呼び、或は尾坂ともかけりけむを、明応の頃よりか大坂とも書そめけむとおぼし。(略)さて大坂と呼そめたりはしは、何時許りならんと推考ふるに、疑ふらくは明応五年に、蓮如上人此地を卜て本願寺を建立せしほど、小坂の号を祝ひ更め、始て大坂と呼びしにはあらかじか。」と書かれている。その後、御坊周辺は寺内町として栄え、現在の大阪の基盤が誕生した。また敵から攻められにくく、見晴らしがよい「上町台地」に織田信長も着目し、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」と言っている。
第十一代宗主顕如が、織田信長に石山本願寺を明け渡したのは天正八年(1580)。その後、大坂を拠点に天下統一を成し遂げたのが豊臣秀吉だった。秀吉は石山本願寺跡に大坂城を築城し城下町大坂を築く。東横堀川、西横堀川、阿波堀川などを堀り、海運・水運の拠点大坂を築き上げた。また、各地から商人を移住させ木綿、油、薬種、金属加工業などの産業の集中を図り、さらに、海外交易にも力を入れ、東南アジアへも商人が雄飛することとなる。しかし、秀吉の城下町大坂は、慶長十九年(1614)、元和元年(1615)の大坂冬の陣、夏の陣で焦土と化した。
朝鮮出兵が「難波の夢」と化し、秀吉が没した直後、またぞろ覇権を争う動きが活発化し、五大老となっていた前田家も時代に巻き込まれる。この前田家に無関係といえぬ慶次郎は、大坂の前田屋敷に向かった。
『浪華百事談』にある大坂の地名についての記述参照。

浮世小路(うきよこうじ) 

摂津国大坂
大坂の北浜に有った小路の名。「高麗橋通と今橋通との中間にある小路。東横堀より西横堀まで十二町通ずる。大坂では町界に一条の大下水ある筈なのに、ここではどうしたわけか南と北に二条の大下水あって、その中間が界線になってる。そこで大下水には蓋石を置き土盛りして、通れるようにしてあったもの。然し南北両町の裏手なれば、場所柄とて土蔵のあることおびただしく、「一筋の丁に土蔵百十三有り 浮世小路」(『難波の希有』四篇)と云われたくらい、うら寂しい小路であった」ことから、番頭・手代の隠し宿、蓮葉女の出合宿が集り、浮世臭い小路になっていたために付けられた名称とされている。「そも/\此の浮世小路といふ所は、南は高麗橋筋、北は今橋筋の真中に、細き小路ありて、こゝぞ手代の隠し宿、又は問屋葉栖女の身まゝになりて、相応より奇麗に住居する訳はといふに、奉公人の出合宿也」(『新日本永代蔵』三の四)「寛文・貞享の頃は、東堀より西堀の間両側に、楊弓屋・風呂屋あれば、其の隣は餅屋・質屋、次は三味線法師・謡曲指南の者もあり、或は米屋・油屋軒を争ひ、家々建て集ひて、実に浮世の有様眼前に見わたす故を以て、浮世小路とは唱へたる由なり」(『浪華江南筆記』)

新町(しんまち) 

摂津国大坂
大坂新町は現在の大阪市西区新町1丁目2丁目辺りで、東の大門へは西横堀川に架かる新町橋を渡ったが、この橋は昭和46年、川の埋め立てのために取り壊され橋柱だけが高架道路下に残されている。また、この橋の由来が、四ツ橋筋三井住友銀行向かい側の寿司店「すし清」前に記されていたという。また、西の大門の位置は定かではなく、なにわ筋を越えた新町二丁目と三丁目の境付近といわれている。当時、この辺りは砂浜であったらしく、遊郭に出入りする人を相手に繁盛した蕎麦屋が、現在、全国的に有名な「薮蕎麦」の祖「砂場そば」の発祥地という。
江戸吉原同様、ここ新町御免色里も姿を消している。まだ町名が残っているだけ吉原より良いのかもしれない。とはいえ、遊廓を形成していた佐渡町、九軒町などの廓町の名は最早無く、掘割も全て埋め立てられ当時の面影を残すものはない。
『かくれさと苦界行』
誠一郎と幻斎は、又右衛門に殺された玄意たちを山中で荼毘に付した後、この新町の傾城屋に逗留する。
[石碑・句碑]
現在、大阪厚生年金会館が建つ所に、九軒町の大店「吉田屋」が有ったという。この「吉田屋」は新撰組の土方や沖田たちが遊んだ廓として有名で、店の前に堤を築き桜を植えていた。その記念碑が厚生年金会館の前にある新町北公園の北西角にひっそりと立っている。また、「だまされて 来て誠なり 初桜」と記された加賀の千代女の詠んだ句が刻まれた碑も一緒に立っている。
交通/大阪市営地下鉄御堂筋線「本町」駅下車徒歩5分
『歴史用語の基礎知識』「色里用語の部」大坂新町の項参照。

その他の摂津国の地名

江口(えぐち) 

淀川河口の地
難波江の口という意味。瀬戸内海への玄関口として多くの人の往来があったことから、この地には「浮かれ女」「遊女」が多く住するようになったという。このことから、江口は近隣の神崎とともに「遊女の里」として知られていた。
『歴史用語の基礎知識』「江口・神崎」の項参照。

須磨浦(すまのうら)  

摂津国最西部(神戸市須磨区)にある海岸。『源氏物語』や謡曲『松風』などの舞台となった風光明媚な地あるとともに、山陽道の要地としてを知られ、『平家物語』や『源平盛衰記』『太平記』に表れるように、しばしば戦場となった。近くには「戦の浜(いくさのはま)」「鵯越(ひよどりごえ)」「一の谷」「敦盛塚」などの古戦場・史跡が多い。現在は須磨浦公園として整備されている。
天王寺(てんのうじ) 
摂津国東成郡(大阪市天王寺区・阿倍野区・生野区)、上町台地中央に位置する大村で、地名は天台宗荒陵山四天王寺(通称天王寺)に由来する。摂津から河内南部、和泉への要地で、延元三・建武五年(1338)北畠顕家と高師直、正平二・貞和三年(1347)楠木正行と細川顕氏、享禄四年(1531)細川高国と晴元、元亀元年(1570)織田信長と三好三人衆、さらには天正七年まで続いた本願寺合戦の舞台となった。

難波(なにわ) 

難波崎。『日本書紀』(神武記)に有る地名。
日向を立った神武天皇が、筑紫、安芸、吉備を経て着いた崎に名付けられた名。神武天皇の軍がこの辺りを通った時、潮の流れが非常に早かった事ため、この地を浪速の国(なみはやのくに)と名付けた事に始まる。その後、浪花(なみはな)などと称され、それが転訛し「なにわ」となった。その読みに「難波」の字が当てられたと『日本書紀』に有る。

兵庫津(ひょうごのつ) 

津泊。摂津国西部(兵庫県神戸市兵庫区)にあった港の名。
古くは大輪田の泊と呼ばれ、瀬戸内を航行する船の寄港地として開かれ、兵庫湊とも呼ばれた。近世にいたり、北浜・南浜・岡方の三地区に別れ、四十四町有ったとされる。岡方の磯之町には遊女町があり、四軒の遊郭があったが、寛文四年(1664)の大火で焼け、以後廃された。女性の髪型「兵庫結」というのは、ここの遊女から来ているとされる。
また、慶長の頃には風呂屋が繁盛し有名となっている。前田金五郎氏は『好色一代男全注釈』の中で「『再版神戸市史』別録一によれば、兵庫は近世初期から風呂の名所と知られ、慶長十年、僧景徹玄蘇が西下の途中、兵庫の浦に泊まり、売浴の室に赴き「浴後自誇清浄身、江頭山色共相均、兼全名実古来少、地是福原民是貧、四月昨泊?兵庫浦?、赴?売浴之室?」(仙巣稿上)と賦し、『諸国万句』五に「つたへ聞く兵庫は風呂の名所にて」という前句が見え、同二年、出雲侯の近臣黒沢三右衛尉が、帰国の節「兵庫に至り、風止みぬれば、此の磯に船つなぎぬ。此の所に大なる浴室ありと見侍るに」と記し、上引の玄蘇禅師の七言絶句を引用してある(懐橘談上)。また『一目玉鉾』四には、兵庫の津について「此の津は民家たちつゞきて、物の自由なる所也。湯屋・風呂屋もあり。昔は遊女あつて、舟かゞりの旅人、浪枕をかりし也。是より難波の一の洲まで十里の海上也」と説明するから、少なくとも同書刊行の元禄二年までは、風呂屋は繁昌していた。」と書かれている。

三嶋江(みしまえ) 

江口・神崎と並び称された地。高槻市三島江。
淀川左岸の湊で、中世には遊女がいて栄えた。「江口・神崎・三嶋江の舟には、白拍子が乗れり」(『類船集』六)などと書かれた。


河内国

四世紀末から五世紀にかけて、応神陵・仁徳陵の巨大な古墳にみられるように、河内を中心とした地域に強大な王朝が創られていた。その後、大和に豪族連合の政権が創られると、この地は摂津・和泉を含む汎河内国(おおしこうちのくに)と呼ばれる。大阪湾に面した立地から難波津を門戸に、大陸や半島から多くの渡来人がこの地に定住し、大陸文化を積極的に摂取する大和政権の重要な地域として発展した。
七世紀に津(摂津)国が分離し、大化改新(645)で河内国となる。さらに、元正天皇の時代に和泉国が分国し近世に至った。現在の八尾市周辺は、かっての大豪族物部氏の本拠地だったといわれる。また、羽曳野市壷井は後に東国武士を率いる八幡太郎義家や源頼朝などの祖となる河内源氏の本拠地でもあった。さらには、鎌倉末期に活躍する楠木正成も南河内の豪族であり、この河内国は、「もののふ」の発祥の地といえよう。

[国府]志紀郡にあった。現在の藤井寺市にあるものが国府遺跡と推定されている。
[守護所]詳しい地は不明。
南北朝期には楠木正成・正行が守護となっている。その後、畠山義深が河泉の守護となり、その子基国が河内一国を領する守護大名となる。
[幕藩体制確立後]
河内天領、丹南藩(一万石)、狭山藩(一万石)が置かれた。

河内国
河内国之人は風俗上下男女ともに気柔にして、譬ば雪之朝に庭前を見れば一楊之枝をたをますと云へども不折が如し。上手之風俗と可知なり。然れば士農工商どもに富貴成人は都而驕り之気有て人を足下に見いやしむ心強し。雖然気に和有が故に物之道理を知る時は名高き人も有るべき也。上河内郡は城州に風俗不替也。下河内郡は人之気直に而頼母敷き処有。丹南群石川郡錦部之人は別而余国に違て智恵有て物之品あり。
言葉之様子は城州に似たる様なれども、上下どもに毎物卑劣也。此れ是国之人をなびけんには其政をゆるくし気を同ふ而少し弁有人をまねきて談ずる時は危きことなく可従。若し権威を振ふ時は悪む処之者多かるべし。己が長を立る時は必妬起り、禍をたくむ故に却而敵となるべし。亦自を言を出て人を誹る時は還而是国之人はいきどをり深くして従ふやう成ども服する処なかるべし。寔に其国其濕土に因て音声之替ること可知事也。 (『人国記』)

原文はカタカナ交り文で句読点・濁点が附されてないが、読みやすくするために当サイトで句読点・濁点を附し、ひらがな交り文に改めた。

河内国地名解説

河内国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

柏原(かしはら) 

現大阪府柏原市
近世、大和川の舟運を担った柏原船の発着地。付近の物資を集散する商業の中心地として栄えた。室町時代の河内門徒衆の伝統から、浄土真宗の寺院十五寺をはじめ二十六寺が存在して、付近には玉琳寺・上の太子(叡福寺)・道明寺・藤井寺などがある。柏原住の肥料商で柏原船仲間の三田浄久(みつだきよひさ)は、早く松永貞徳門下の俳人で、北村季吟・安原貞室・井原西鶴等と交友があった。

交野(かたの)  

河内国交野郡(大阪府枚方市・交野市・交野郡一帯)にあった原野
主に枚方市北西部の淀川東岸沿いの一帯で、片野ともいった。古来から狩猟・景勝の地として知られ、特に鷹狩が盛んに行われた。また歌枕にも詠まれる。南北朝期から戦国期は戦場となる事が多く、畠山昭高の家臣安見氏の居城交野城には、織田信長が援軍を送っている。

日下(くさか) 

現大阪府牧岡市日下町
この地は、地内にある草香山とともに『日本書紀』に現れる「草香邑」(くさかのむら)とされる。
また、この地は大阪府中河内郡孔舎衙(くさか)村大字日下と称されていた地で、この孔舎衙村という名は大正元年に新しく付けられた名だが、『書紀』に「孔舎衛(くさえ)坂にして、与に会ひ戦ふ」(神武記)とある地名からきている。
同書に現れる「草香津」も同地付近の山麓の名で、青雲白肩津、盾津とも記された。これらの地名から、上古、その付近には潟湖があり、それに臨んでいたものと思われている。


和泉国

霊亀二年(716)四月十六日に、河内国から大鳥郡、和泉郡、日根郡を割いて和泉監(いずみげん)が建てられた。この地に離宮として茅渟(ちぬ)宮(珍努宮、和泉宮)が置かれたことが、監という特別な位置づけに関係していたと見られる。
天平十二年(740)八月二十日に廃止され河内国に再び併されるも天平勝宝八年 (天平宝字元年)(757)に、和泉国として分国された。泉州と呼ばれる。

[国府]和泉郡(現和泉市府中町)にあった。
[守護所]初め国府のそばにあったが、室町時代に堺に移った。
南北朝期、河内国と兼務で楠木正成・正行が守護となり、その後畠山義深が河内守護兼務で守護職となる。室町期は細川氏が守護となるが、摂津とともに応仁の乱後は戦火が絶えなく、そうした中で、堺の町が自治都市として独立していった。
[幕藩体制確立後]
堺は幕府直轄地となり堺町奉行が置かれ、岸和田藩(五万三千石)、伯太藩(一万三千五百石)が置かれた。

和泉国
泉国之人は風俗且而実儀なく、最千人に一二人は実儀之人もあるべけれども、都而物之上手成もの無之、増而名人と云ほどの者鮮し末世もさ有べし。本此国は河内と紀伊国より割り出したる国と聞く。先其風俗を見るに人をたぶらかし、出家沙門他国之商売之人等金銀等をたくはふると見る則は、関東之人之人を殺害するの類は無ふ。而懐けて後に品を以てかどわかす羅之風儀なり。根本に実義すくなきが故に譬ばかみそりのかね悪きを如見が也。
人前行跡は如形見ゆるといへども、彼のかみそりのはがね少なきが如き故に、後には可用様なきに等し。たま/\実儀の人有といへども国風之垢を削る人無き故に、身持墜弱に而踏しむる心も後は大形失ふ也。石津神馬藻鹽船乗りは余国を傾けん事は五日之内也。威を高く振卒法を以て是を動は不可経数日也。次に癩瘡人多し。篠田明神に野狐多し。此狐人を能くたぶらかす事を得たり。されば此国は唯野狐に衣服をしたるに似たり。不頼也。別而和泉の府日根悪し。  (『人国記』)

原文はカタカナ交り文で句読点・濁点が附されてないが、読みやすくするために当サイトで句読点・濁点を附し、ひらがな交り文に改めた。

和泉国地名解説

和泉国内の地名・古地名の歴史資料にある記述を中心に紹介しております。

堺(さかい) 

自治都市。港町。
和泉国大鳥郡塩八郷と摂津国住吉郡榎津郷(大坂府堺市・大阪市住吉区)の境界で、和泉・摂津・河内三国の堺にあったことから由来する地名。陸上交通の要地であるとともに、大阪湾に西面する地の利から、港町として発展した。中世には南蛮貿易・日明貿易の拠点港として大いに繁栄し、惣村形態をなし、豪商による会合衆を中心に自治組織が発達、戦国期にもその自治は維持されていた。

山城水門(やまきのみなと)  

『日本書紀』に記された和泉の海(茅渟:ちぬ)に面した船着場の名。別に山井水門、雄水門とも記される。また、『古事記』には「紀国男之水門」と現れる。現在、泉南市樽井町に「山井の遺跡」と呼ばれるものが有り、そこの事とされる。


milk_btn_pagetop.png

milk_btn_prev.png

|1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|11|12|

milk_btn_next.png