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耶蘇会日本年報
耶蘇会日本年報(一部)
村上直次郎譯註
赤字は本文中において引用された部分。
1、1581年(天正九年)の日本年報
1582年2月15日(天正十年一月二十三日)附、長崎発、パードレ・ガスパル・クエリヨより耶蘇会総長に送りたるもの(一部)
(前略)
右の諸城の外に、河内のレジデンシヤは堺市のキリシタンを管轄している。
同市は和泉國に在り、八尾より四レグリ離れている。此市は日本全國で最も富み、又土地広くして多数の富裕なる商人が住み、且自由市で大なる特権と自由を有し、共和国の如き政治を行ってゐるので有名である。他の諸市及び城が激しい戦争最中である時、堺の市は甚だ平和に過してゐる事、其他の理由で、パードレ達は此所にレジデンシヤを設けんことを常に希望したが、今日までは坊主の反対と適当なるカザを造るには多大の経費を要する事との為め、甚だ困難であり、従って帰依にも常に大なる障碍があった。然るにデウスの御恵に依り、今日は同所に百人のキリシタンがあり、其中に身分の甚だ高く名誉ある者が數人ある。彼等は堺に於て重きをなす者で、其庇護に依ってパードレは市に入ることが出来た。又烏帽子形の大身パウロ・ボアンダイン殿と稱する人が、家數軒を我等に與へたので、此所に假の小聖堂を設けた。今我等に甚だ都合好き所を市の中央に買ふ機会が出来た。我が教の信用と、此の如く変革多き國に於けるパードレ達及び其財産の安全との為めに、此所に立派な聖堂と善きカザを建つる事は甚だ必要であるのみならず、時期を待って堺の市にコレジョを建て、パードレ及びイルマン等が此所に居り、此國の布教とキリシタンの教育とに尽すに至らんことを期してゐる。
ビジタドールは領主達の請に応じて、右の諸城及び各地を巡回し、到る所高槻と同じく盛んなる歓迎を受け、又多數のキリシタンの参集を得て、荘厳なる弥(弓編に爾)散(手編に散)を歌ったが、キリシタン等は皆非常に満足した。右各地に於て洗礼が行われ、五百人受洗してキリシタンとなった。日本のレジデンシヤ及びカザに関する事は右の通りである。
(後略)
(春秋社刊『耶蘇会の日本年報』第一輯を底本としました。)
遊女考
遊女考(全文)
相場長昭著
白女
古今集巻八離別歌云、源のさねがつくしへ湯あみんとてまかりける時、山崎にて別ををしみける所にてよめる、白女「命だに心にかなふ物ならば何か別れのかなしからまし」、後撰集巻十五雑歌(五紙左)云、女ともだちのもとにつくしよりさし櫛を心ざすとて、大江玉淵朝臣女「難波がた何にもあらずみをつくしふかき心のしるしばかりぞ」、大和物語(抄四巻の十八紙左)云、亭子の帝河尻におはしましにけり、うかれめにしろといふ物ありけり、めしにつかはしたりければ、まゐりてさぶらふ、上達部、殿上人、皇子達のあまたさぶらひ給うければ、しもにとほくさぶらふ、かうはるかにさぶらふよし、歌つかうまつれ、とおほせられければ、すなはちよみてたてまつりける、「浜千鳥とびゆくかぎり有ければ雲立山をあはとこそみれ」とよみたりければ、いとかしこくめで給ふて、かづけもの給ふ、「命だに心にかなふものならば何か別のかなしからまし」といふうたも、此しろがよみたる歌なりけり、(此語、大鏡巻卅右、大同小異、古今著聞集、十訓抄にも出、又、二十紙右云)、亭子のみかど鳥かひの院におはしましけり、例のごと御遊有、このわたりのうかれめどもあまたまゐりてさぶらふ中に、声おもしろく、よしある物は侍りやととはせ給ふに、うかれめばらの申やう、大江のたまぶちがむすめといふものなん、めづらしうまゐりて侍る、と申ければ、見させ給ふに、さまかたちも清げなりければ、あはれがり給て、うへにめしあげ給ふ、そも/\まことか、などとはせ給ふに、とりかひといふ題を人々によませ給ひけり、おほせ給ふやう、たまぶちはいとらうありて、歌などよくよみき、此とりかひといふ題を、よくつかうまつりたらんにしたがひて、まことの事はおぼさん、とおほせ給ひけり、承りて、すなはち「浅緑かひある春にあひぬれば霞ならねど立のぼりけり」とよむ時に、帝のゝしりあはれがり給ふて、御しほれた給ふ、人々もよくゑひたる程に、酔なきいとになくす、帝御うちぎひとかさね、はかまたまふ、ありとあるかんだちめ、四位、五位是に物ぬぎてとらせざらんものは、座よりたちね、との給ふければ、かたはしよりかみしもみなかづけたれば、かづきあまりて、ふたまばかりつみてぞおきたりける、かくて南院の七郎ぎみといふ人有けり、それなん、此うかれめのすむあたりに、家つくりてすむときこしめして、それになんのたまひ、あづけゝる、かれが申さん事、院にそうせよ、院より給だせん物も、かの七郎ぎみよりつかはさん、すべてかれにわびしきめなみせそ、と仰られければ、つねになん、とぶらひかへり見ける、(此語、大鏡八の卅五、大同小異)古今著聞集巻之五(四十三紙右)云、歌よくうたひて、声よき物を、ととはるゝに、丹後守玉淵が女に白女と申けり云々、(大鏡裏書云、丹後守大江玉淵事参議音人卿男)大和物語亭子の帝河尻に云々の条の註云、江口の遊女也、或説に源のつくるがむすめと云々、
遊女記
自2山城国与渡津1浮2巨川1、西行一日、謂2之河陽1、往2返於山陽、南海、西海三道1莫レ不レ遵2此路1、江河南北邑々処々分流向2河内国1、謂2之江口1、蓋典薬寮味原樹、掃部寮大庭荘也、到2摂津国1有2神崎、蟹島等地1、比レ門蓮レ戸人家無レ絶、倡女成レ群棹2扁舟1看2検舶1、以薦2枕席1、声過2渓雲1、韻飃2水風1、経廻之人、莫レ不レ忘レ家、州盧浪尤、釣翁商客、舳艫相蓮、殆如レ無レ水、蓋天下第一之楽地、江口則観音為レ祖、中君、□□□小馬、白女、主殿、蟹島則宮城為レ宗、如意、孔雀、香炉、三枝、神崎、則河孤姫為2長者1、孤蘇、宮子、力余、小児之属、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也、上自2卿相1下及2黎庶1莫レ不下接2床第1施中慈愛上、又為2妻妾1歿レ身被レ寵、雖2賢人君子1不レ免2此行1、南則住吉、西則広田、以レ之為下祈2徴嬖1之処上、殊事2百太夫1、道神之一名也、人別宛2□之1数及2百千1、態蕩2人心1、亦古風而已、長保年中、東三条院(兼家女詮子)参2詣住吉社、天王寺1、此時禅定大相国(道長)被レ寵2小観音1、長元(後一条)年中、上東門院(道長女彰子)又有2御行1、此時、宇治大相国(頼通)被レ賞2中君1、延久年中、後三条院同幸2此寺社1、狛犬、壹等之類並レ舟而来、人謂2神仙1、近代之勝事也、相伝曰、雲客風人為レ賞2遊女1自2京洛1□2河陽1之時、愛2江口人1、刺史以下自2西国1入江之輩愛2神崎1、神崎人皆以2始見1為レ事之故也、所レ得之物謂2之団手1、及2均分之時1廉恥之心者、忿励之与、大小諍論不レ異2闘乱1、或切2鹿絹尺寸1、或分2米斗升1、□□有2陳平分レ肉之法1、其豪家之侍女、宿2上下舶1之者謂2之□1、亦遊得2少分之贈1為2一日之資1、愛有レ髷、俵2月絹之名1、舳取2登指1、皆土2九公之物1、習俗之法也、雖レ見2江翰林序1、今亦記2其余1而已、
注:宛は正しくはリットウ。壹は正しくはリッシンベン。鹿は正しくは鹿三つ。月はイトヘン、
檜垣嫗
後撰集巻第十七雑上(四紙右)云、つくしの白河といふ所にすみ侍けるに(まへよりイ)大弐藤原興範朝臣のまかりわたるつひでに、水たへんとて打よりてこひ侍ければ、水をもて出てよみ侍けるひがきの嫗、「年ふれば我黒髪も白河のみづはくむまでおいにける哉」、かしこに名たかく、ことこのむ女になん侍ける、大和物語(抄三の五十一紙云)、つくしに有けるひがきのごといひけるは、いとらうあり、をかしくて、世をへける物になん有ける、年月かくてありわたりけるを、すみともがさわぎにあひて、家もやけほろび、物の具もみなとられはてゝ、いといみじう成にけり、かゝりともしらで、野大弐うて(討手)の使にくだり給ひて、それが家のありしわたりを尋て、ひがきのごといひけん人に、いかであはん、いづくにかすむらん、とのたまへば、此わたりになんすみ侍りしなど、ともなる人もいひけり、あはれ、かゝるさはぎにいかに成にけん、たづねてしかな、とのたまひけるほどに、かしら白きをうなの水くめるなん、まへよりあやしきやうなる家にいりける、ある人ありて、是なんひがきのごといひける、あはれがり給ふてよばすれど、はぢてこでかくなんいへりける、むば玉の我黒髪は(おひはてゝかしらの、家集)白河のみづはくむまで成にけるかな、と読たりければ、あはれがりて、きたりけるあこめ(相)ひとかさね、ぬぎてなんやりける、又おなじ人、大弐のたちにて、秋の紅葉をよませければ、鹿の音はいくらばかりのくれなゐぞふり出るからに山のそむらん、このひがきのご歌なんよむといひて、すき物どもあつまりて、読がたかるべき末をつけさせんとて、かくいひける、わたつみのなかにぞたてるさをしかは、とてすゑをつけさするに、秋の山べやそらにみゆらん、とぞつけたりける、檜垣嫗集(塙本二百七十二巻十七紙右)に有り、
宮木
後拾遺集第廿釈教(八紙五)云、書写のひじり結縁経供養し侍けるに、人々あまた布施おくりける中に、おもふ心や有けん、しばしとらざりければよめる、遊女宮木、津の国のなにはのことか法ならぬあそびたはぶれまでとこそきけ、遊女記、木作レ城はおなじ人なるべし、
靡
詞花集巻第六別(三紙左)云、東へまかりける人のやどり侍けるが、あかつきにたちけるによめる、くゞつなびき(傀儡靡)はかなくもけさのわかれのをしき哉いつかは人をながらへてみし(むイ)
戸々
千載集巻第十三恋三云、藤原仲実朝臣備中守にまかれりける時、ぐしてくだりけるを、おもひうすくなりて後、月を見て詠侍ける、遊女戸々、数ならぬ身にも心の有かほに独ぞ月をながめつる哉、
妙
新古今集巻第十覇旅歌(十二紙右)云、天王寺へまゐりけるに、にはかに雨ふりければ、江口に宿をかりけるに、かし侍らざりければ、よみ侍ける、西行、世の中をいとふまでこそかたらめかりの宿りををしむ君かな、返し、遊女妙、世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ、山家集下(六紙右)撰集抄、
源平盛衰記巻第八(九右)西行法師と云るが云々、(九紙左)云、江口の妙に宿をかり、仮の宿と読しかば、心とむな、と返しつゝ云々、
木姫
公卿補任曰、嘉禎三年、従三位藤原兼高、十月廿七日叙、故中納言長方卿四男、母江口遊女、木姫、イ隠(壱イ)岐守師高朝臣、
初君
玉葉集巻第八旅(十八紙左)云、為兼佐渡国へまかり侍りし時、越後の国てらどまりと申所にて、申おくり侍りし遊女初君、物おもひこしぢの浦のしら波の立かへるならひありとこそきけ、
阿已
新続古今集巻第九離別歌(四紙右)云、尾張国に京よりくだれりける男の、かたらひつき侍けるが、あすのぼりなんとしける時、しぬばかりおぼゆれば、いくべき心ちせぬよしいひけるに、傀儡阿已、しぬばかり誠になげく道ならば命とともにのびよとぞおもふ、
侍従
新続古今集巻第十羅旅歌(十紙右)云、あづまのかたよりのぼりけるに、あをはかといふ所にとまりて侍けるに、あるじの心あるさまにみえければ、あかつきたつとて、堪覚法師、しるらめや都を旅になしはてゝ猶あづまぢにとまる心を、返し、傀儡侍従、東路に君が心はとまれども我も都のかたをながめむ、
小観音
遊女記白女条に既出、古事談第二臣節条云、御堂召2遊女小観音1、(観音弟也)其出家之後、被レ参2七大寺1之時、帰洛経2河尻1、其間小観音参入、入道殿聞レ之頗赭面、給2御衣1被レ返2遣之1云々、
中君
遊女記白女条に既出、
小馬
遊女記白女条に既出、
主殿
遊女記白女条に既出、
如意
遊女記白女条に既出、
香炉
遊女記白女条に既出、古事談第二巻臣節条云、小野宮大臣愛2遊女香炉1、其時又、大二条殿愛2此女1、相府香炉被レ問云、我与レ鬚愛レ何乎、汝已通2大臣二人1、(二条関白鬚長之故称レ之)
孔雀
遊女記白女条に既出、
三枚
遊女記白女条に既出、
河孤姫
遊女記白女条に既出、
孤蘇
遊女記白女条に既出、
宮子
遊女記白女条に既出、
力余
遊女記白女条に既出、
小児
遊女記白女条に既出、
狛犬
遊女記白女条に既出、
壹
遊女記白女条に既出、
長柄
壬生忠見集(十三紙右)云、いよにくだるに、よしあるうかれめに、おとにきゝめにはまだみぬはりまなるひゞきのなだと聞はまことか、返し、女、年ふれば朽こそまされ橋柱むかしながらの名にはかはらで、
己支
元良親王御集(塙本二百冊之二紙右)云、宮うかれめこ支に住給ふ頃、せまりつといひさわぐを聞給ふて、蔵人にいひつかはしける、ひとりのみ世にすみがまにくゆる木のたえぬ思ひを知人のなき、いとへどもうき世間にすみがまのくゆる煙を待よしもがな、御返し、女、はゝ木々を君が住家にいりくべてたえし煙の空にたつ名は、
毛止里
相如集(塙本二百五十一の三紙右)云、はらへの使に難波にゆきて、もとりといふうかれめにつきて、津の国のなにはの蘆のほのかにもねにきと人にいひつべきかな、おなじもとりにやる、行末は命もしらず夢ならでいづれのよにかまたはあふべき、
熊野
中右記巻之四(七十五紙右)元永二年記云、九月三日夜半、参2北殿御前1、乗レ車出レ門、下官権中納言同車、向2源相公六条亭1令2同車1、天曙間乗2善光寺別当清円船1、(伝平等院所供儲也)以2円賢(弥勒寺別当)船1為2女房御船1、以2八幡別当光清舟1為2伊与守船1、以2上野前司実房舟1為2相公船1、自余不レ能2委記1、勧修寺僧雖レ被レ設2八珍膳於予船1、道間組合也、扈従人々、源相公、伊与守、権中将、下官及三人息男等也、又禅師小野僧都被レ参、過2土曲之間江口1、熊野与2比和君1同船、追2一舟1中指二笠、発今様曲、付船漸過2神崎1之間、今長者、小最、弟黒、輪鶴四艘参会、各五、内有下望2与州寵愛1之気上、暫遊2廻水上之間1、微雨灑漸滂沱、留2女房船於遊女白古宅1、与州以下遊君向2北前宅1、及2半夜1唱歌至2暁更1、各帰宿、相公迎2熊野1、与州招2金寿1、羽林抱2小最1、下官自レ本此事不レ堪、仍帰自沈寝了、四日云々、五日云々、六日出2神崎1、於2高浜1召2遊君六人1、纒2頭長者金寿1、(三領単衣)熊乃、江口、伊世、(三領)、比和(江口)、輪鶴、(各一領)此外、伊与守給レ米云々、路間長谷荘、真上荘、平田荘(平等院左也)送2酒肴1、過2江口之間1、遊女群参、長者熊野自レ本在2此船1為レ饗、書2長者請文1令レ和2母子判1、給2熊野1、件母子預2纒頭1又戸母給レ扇、事了、猶相2具熊野、伊世二人1、宿2八幡別当光清木津荘1、光清儲2珍膳1、
比和君
中右記既出、
小倉
前に同、
弟黒
前に同、
輪鶴
前に同、
白古
前に同、
金寿
前に同、
伊世
前に同、
小三日
傀儡記
傀儡子者無2定居1無2当家1、穹廬鬚氈帳遂2水草1以移徒、頗類2北狄之俗1、男則皆使2弓馬1以2狩猟1為レ事、或双剣弄2七九1、或舞2木人1闘2桃梗1、能2生人之態1、殆近2魚竜曼蜒之戯1、変2沙石1為2金銭1、化2草木1為2鳥獣1、能□2人自1、女則為2愁眉啼1粧2折腰歩齲歯笑1、施レ朱傳レ粉、倡歌淫楽以求2妖媚1、父母夫智不レ誠、□丞雖レ逢2行人旅客1、不レ嫌2一宵之佳会1、徴嬖之余自献2于金1、繍服、錦衣、金釵、鈿匣之具、莫レ不2異有レ1之、不レ耕2一畝1不レ採2一枝葉1、故不レ属2県官1、皆非2土民1、自限2浪人1、上不レ知2王公1、傍不レ怕2牧宰1、以レ無2課役1為2一生之楽1、夜則祭2百神1、鼓舞喧嘩以祈2福助1、東国美濃、三河、遠江等党為2豪貴1、山陽播州、山陰馬州土党次レ之、西海党為レ下、其名儡、則小三日、百三、千載、万歳、小君、孫君等也、動2韓娥之塵1、余音繞レ粱、周書霑レ纓、不レ能2自休1、今様、古川様、足柄、片下、催馬楽、里烏子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周(固イ)風俗、呪師、別法士之類、不レ可2勝計1、即是天下之一物也、誰不2哀憐1者哉、
百三
傀儡子記既出、
千載
前に同、
万歳
前に同、
小君
前に同、
孫君
前に同、
目古曾
古事談第二臣節条云、二条師長実著2水干装束1、遊女(神崎君目古曾)ニ、イカゞミユルト被レ問ケレバ、目出ク御座ノ由申レ之、重被レ問云、水干装束ニテ又ヨカリシ人、又誰ヲカ見哉云々、肥前守景家ト申人コソ見候シカト、詞未レ了前忽解脱云々、
金
古事談第二巻臣節条云、神崎遊女金は大治年間之女、十訓抄巻第十(十八紙左)云、伊通公参議の時、大治五年十月五日の除目に、参議四人、師頼、長実、宗輔、師時等、中納言に任ず、是皆位次の上臈也といへども、伊通其恨にたへず、宰相、右兵衛督、中宮太夫、三の官を辞して、檳榔毛車を大宮表に引出して、破りくだき、褐水干にさよみの袴著て、馬にのりて、神崎の君かねが許へおはしけり、今は官もなき徒者なれる由なり云々、梁塵秘抄口伝集(三紙右)云、神崎のかね、女院に候ひしかば、まゐりたるには申てうたはせてきゝしを云々、猶うたひしを、らねがつぼねむかへりしかば云々、(四紙右)云、資賢やかねなどがうたをきゝとりて云々、
若御前
続古事談上巻(五十一紙右)云、其時白拍子ノ会アリケリ、若千歳ニゾアリケル、糸竹口伝(十五紙右)云、若御前ノ流ト云箏弾、世間ニアリ、彼人ハ按察大納言宗俊ガ孫也、京極大臣宗輔公女、鳥羽院御時、男子ノ装束ヲシテ具シマキラレタリケルニ、若御前ト云名ヲタビテケリ、名誉ノ箏弾ナリ、祖父、曾祖父マデ箏ノ家ナリ、箏ノ少将ノ局ト云人ノ弟子也、彼若御前ノ流ヲバ、三位実俊ツタヘラレタリ、其子中将公世卿、御賀ノ時スゝミ申サレシカドモ、御承引ナカリキ、今ハ絶タルニヤ、中ニモ妙音院大臣箏ニ名ヲ得給ヘリ、委ハ系図ニミエタリ、平家物語妓王が条に出す、合せみるべし、
梁塵秘抄口伝集(八紙右)云、あこまろが母は大進の姉にて、和歌と申候ひし也云々、
延寿
平治物語巻一(廿二紙云)云、みのゝ国あをはかにつき給ふ、かの長者大炊がむすめえんじゆ、
和名抄大須本抜云、建長八年二月、延命、延寿、石熊等、利銭日記同年四月、白拍子玉王注進云々、
梁塵秘抄口伝集(三紙左)おとまへがやう、あこまろがには、ことの外にかはりたれ、延寿がは、あこまろがあなじさまなれど云々、
延命
前条に出、
石熊
前におなじ、
大玉王
前条に見えたる玉王は、大玉王の大の字落たるなり、古今著聞集第廿(卅四紙左)云、白拍子ふとだまわうが家にある女に、ある僧かよひけるを、本妻あさましく物ねたみのものにて、いかにせんとねたみけれども、猶用ひず通ひけるほどに云々、建長六年二月二日の夜、又此僧かの女に合宿したるに云々、
妓王
平家物語巻一(十二紙右)云、其頃京中に聞えたる白拍子の上手、ごわう、ぎ女とておとゝひ有、とぢといふ白拍子が娘也、しかるに、あねのぎわうを入道相国ちようあひし給ひしうへ、いもうとのぎ女をも、世の人もてなす事なのめならず、母とぢにもよき屋つくりてとらせ、毎月に百石百貫、たのしひ事なのめならず、抑我朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽院の御宇に、島の千ざい、わかの前、かれら二人が舞出したりける也、始は水かんに立ゑぼし、白さや巻をさひて舞ひければ、男舞とぞ申ける、しかるを、中ごろより、ゑぼし、刀をのぞかれ、水干ばかり用ひたり、扨こそ白拍子とは名付けれ、京中の白拍子、ぎわうが事のめでたきやうを聞て、うらやむ者も有、猜者も有、うらやむ者は、あなめでたのぎわう御前のさいはひや、おなじいう女とならば、誰もみなあのやうでこそありたけれ、いかさまにも、ぎといふ文字を名に付て、かきはめでたきやらん、いざや、我らもつひてみんとて、或はぎ一、ぎ二とつき、或はぎふく、ぎとくなど付しも有けり云々、(此間の事は今様の部に出す、依て略す、同十六紙右)云、さてしも有べき事ならねば、ぎわう今はかうとて出けるが、なからん跡の忘れがたみにもとや思ひけん、しやうじになく/\一首の歌をぞかきつけゝる、もえ出るもかるゝもおなじ野辺の草いづれか秋にあはではつべき、(中略、前におなじ)かくて都にあるならば、又もうきめをみんずらん、今はたゞ都の外へ出んとて、ぎわう廿一にて尼になり、さがのおくなる山里に、柴の廬を引結び、念仏してぞゐたりける、いもうとのぎ女是を聞て、あね身をなげば、我も共に身をなげんとこそ契りしが、ましてさやうに世をいとはんに、誰かおとるべきとて、十九にてさまをかへ、姉と一所にこもりゐて、偏に後世をぞねがひける、母とぢ是を聞て、わかき娘共だにさまをかふる世の中に、年おひ、よはひおとろへたる母、しらがを付ても何にかはせんとて、四十五にてかみをそり、二人の娘もろともに、一向せんじゅに念仏して、後世をねがふぞあはれなる、(中略、同廿一紙左)云、されば、かの後白河のほうわうの長がうだうのくわこちやうも、ぎわう、ぎ女、とぢらがそんりやうと、四人一所に入られたり、
妓女
前条に出、
とぢ
前条に出、
仏
平家物語巻一(十二紙左)云、かくて三年といふに、白拍子の上手一人出来たり、かゞの国の者なり、名をば仏とぞ申ける、年十六とぞ聞えし云々、(二十一紙右)に、仏が尼に成る事、年十七と有、委しくは今様の巻、またぎわうが条と引合て見べし、
侍従
平家物語巻十(十六紙右)云、池田の宿にも着給ひぬ、かのしゆく長者ゆやがむすめ、じゝうがもとに、其夜は三位(重衡)しゆくせられけり、じゝう三位の中将殿を見奉て、日頃はつてにだに思召より給はぬ人の、けふはかゝる処へ入らせ給ふ事のふしぎさよとて、一首の歌を奉る、旅の空はにふのこやのいぶせきにふる里いかに恋しかるらん、中将の返事に、ふるさとも恋しくもなし旅の空都もつひのすみかならねば、やゝ有て、中将かぢ原をめして、さても、只今の歌のぬしはいかなる者ぞ、やさしうも仕つたるものかな、とのたまへば、かげときかしこまつて申けるは、君はいまだしろしめされ候はずや、あれこそ八島の大臣殿(宗盛)の、いまだ当国の守にてわたらせ給ひし時、めされ参らせて御さいあひ候ひしに、老母をこれにとゞめおきつれば、いとま申しゝかども、たまはらざりければ、頃はやよひのはじめにてもや候けん、いかにせん都の春はをしけれどなれしあづまの花やちるらん、といふ名歌つかまつり、いとまたまはつてまかりくだり候ひし、海道一の名人にて候、とぞ申ける、
千手
平家物語巻十(十八紙左)云、年のよはひ二十ばかりなる女房の、色しろうきよげにて、かみのかゝり誠にうつくしきが、めゆひのかたびらにそめつけの細まきして、ゆどのゝとをさしあけて参りたり、其あとに、十四五ばかりなるめのわらはめ、かみはあこめだけなりけるが、こむらごのかたびらきて、はんざふたらいにくし入て、持て参りたり云々、(十八紙右)云、中将しゆごのぶしにの給ひけるは、さても、只今の女房はいうなりつる物哉、名をば何といふやらん、ととひ給へば、かのゝすけ申けるは、あれは手ごしの長者がむすめで候が、みめかたち、心ざま、いうにわりなき者とて、此二三年は、佐殿にめしおかれて、名をばせんじゅのまへと申候、とぞ申ける、其ゆふべ、雨すこしふつて、よろづものさびしげなる折ふし、件の女ぼう、びは、こと持て参りたり、かのゝすけも家の子らうどう十よ人引具して、中将殿の御まへちかふ候けるが、酒をすゝめ奉る、千じゅのまへしやくをとる、中将すこしうけて、いとけうなげにておはしければ、かのゝ介申けるは、かつきこしめされてもや候らん、むねもちは本より伊豆の国の者にて候へば、かまくらにてはたびにて候へども、心のおよばん程は奉公仕候べし、何事も思召事あらば、承つて申せ、と兵衛佐殿おほせ候、それ何事にても申て、酒をすゝめ奉り給へ、といひければ、情なき事をきふにねたむ、といふらうゑいを、一両度返したりければ、三位の中将、此朗詠をせん人をば、北野の天神、まい日三度かゝつて守らん、とちかはせ給ふとなり、されども、しげひらは、今生にてははや捨られ奉つたる身なれば、じよゐんしても何かせん、但ざいしやうかるみぬべき事ならば、したがふべし、とのたまへば、千じゅのまへ、やがて、十あくといふとも、猶ゐんぜうす、といふらうえいをして、極楽ねがはん人は皆、みだの名がうをとなふべし、といふ今やうを、四五返うたひすましたりければ、其時、中将さかづきをかたぶけらる、千じゅのまへ給はつて、かののすけにさす、むねもちがのむときに、ことをぞ引すましたる、三位中将、ふつうには此がくを五常らくといへども、今しげひらがためには、後生らくとこそくはんずべけれ、やがてわうじやうのきうをひかん、とたはぶれ、びはをとり、てんじゆをねぢて、皇じやうのきうをぞ引れける、かくて夜もやう/\ふけ、よろづ心のすむまゝに、あな思はずや、あづまにもかゝるいうなる人の有けるよ、それ何事にても今一こゑ、とのたまへば、千じゅのまへかさねて、一じゅのかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶも、皆これぜんぜのちぎり、といふしらびやうしを、誠におもしろふかぞへたりければ云々、(二十一紙右)云、其後中将南都へわたされて、きられ給ひぬと聞えしかば、千じゅのまへは中々おもひのたねとや成にけん、やがてさまをかへ、こきすみぞめにやつれはてゝ、しなのゝ国ぜんこうじに行ひすまして、かの後世ぼだいをとぶらひけるこそあはれなれ、
横笛
平家物語巻十(二十一紙左)云、高野に年頃しり給へるひじり有、三条の斎藤左衛門もちよりが子に、斎藤たき□時よりとて、本は小松殿の侍たりしが、十三の年本所へ参りたりければ、建礼門院のざうしよこぶえといふ女あり、滝口是にさいあひす云々、(二十一紙右)云、うき世をいとひ、誠の道に入なんとて、十九のとし、もとゞりを切て、さがのわうじやういんにおこなひすましていたりける、よこぶえ、此よしをつたへ聞て、我をこそすてめ、さまをかへん事のうらめしさよ、たとひ世をそむくとも、などかかくとしらせざらん、人こそ心つよくとも、たづねてうらみん、と思ひつゝ、ある暮がたに都を出て、さがのかたへぞあくがれける云々、(二十二紙左)住あらしたる僧坊に、念じゆしけるを、滝口入道が声ときゝすまして、御さまのかはりておはすらんをも、みもし、見え参らせんがために、わらはこそ是まで参て侍へ、と具したる女にいはせければ、滝口入道むねうちさはぎ、あさましさに、しやうじのひまよりのぞきて見れば、すそはつゆ、袖はなみだに打しほれつゝ、すこしおもやせたるかほばせ、誠にたづねかねたる有さま、大道心者も心とわう成ぬべし、滝口入道を出して、まつたく是にはさる人なし、もし門たがひにてもや候らん、といはせければ、よこ笛なさけなううらめしけれども、力およばず、なみだをおさへてかへりけり、其後、滝口入道、同宿の僧に語りけるは、是も世にしづかにて、念仏のせうげは候はねども、あかず別し女に、此すまひを見えて候へば、たとひ一度は心づよくとも、またもしたふ事あらば、心もはたらき候なんず、いとま申とて、さがをば出て高野へ上り、しやう/\〃しんゐんにおこなひすましてぞいたりける、よこ笛もさまをかへぬるよし聞えしかば、滝口入道一首の歌をぞおくりける、そるまではうらみしかども梓弓まことの道に入ぞうれしき、よこぶえが返事に、そるとても何かうらみん梓弓引とゞむべき心ならねば、其後よこ笛はならの法花寺に有けるが、其思のつもりにや、いく程なくて、つひにはかなくなりにけり云々、
静
平家物語巻之第十二(二十五紙左)云、判官はいそのぜんじといふ白びやうしがむすめ、しづかといふ女をちようあいせられけり云々、義経記巻四義経都落の条(二十五紙右)云、其ころ、世にもてなしけるいそのぜんじが娘に、しづかといふ白拍子を、かりしやうぞくきせてぞ召上せられける云々、(二十八紙左)云、其外しづかなどをはじめとして、白拍子五人、惣じて十一人、ひとつ船にぞのり給へる、同書の第五よしの山の条(一紙左)云、判官聞給ひ、くるしき事にぞおぼしめしける、しづかゞ名残すてがたく、(中略、三紙左)、判官びんのかゞみを取出して、是こそ朝夕にかほをうつしつれ、見ん度ごとに義経をみると思て見給へとて、たびにけり、是賜はりて、今なき人の様に、むねにあてゝぞこがれける、泪のひまより、かくぞ詠じける、見るとてもうれしくもなしますかゞみ恋しき人のかげをとめねば、とよみたれば、判官枕をとり出して、身をはなさで是をみ給へとて、かくなん、いそげども行もやられず草枕しづかになれし心ならひに、それのみならず、財宝を其数とり出してたびけり、其中に、ことに秘蔵せられたりける、したんのどうにひつじの革もてはりたりけるたくぼくのしらべの鼓を給はりて、仰られけるは、此つゞみは義経秘蔵して持つるなり、白河院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二ツの重宝をわたされけり、めいぎよくといふびは、初音といふつゞみ是なり云々、(四紙左)しづかよし野山に捨らるゝ条云、供したる者ども、判官のたびたる財宝をとりて、かきけすやうにうせにける、しづかは日くるゝにしたがひて、今や/\と待けれども、帰りてこと問ふ人もなし、せめておもひのあまりに、なく/\枯木のもとを立出て、あしにまかせてまよひける云々、(中略、五紙左)云、ある御堂のかたはらに、しばらく休、これはいづくぞ、と人にとひければ、よしのゝみたけ、とぞ申ける、しづかうれしさかぎりなし、月日こそおほけれ、けふは十七日、この御えん日ぞかし、たうとくおもひければ、道者にまぎれ、御正面に近づきて、拝み参らせければ、内陣、外陣の貴賤、中々数をしらず、大しゆの所作の間は、くるしみのあまりにきぬ引かづき、ふしたりけり、つとめも果しかば、しづかもおきゐて、ねんじゆしてぞ居たりける、げいにしたがひて、思ひ/\のなれこまひする中にも、おもしろかりし事は、あふみの国より参りけるさるがく、いせの国より参けるしらびやうしども、一ばんまふてぞ人にける、しづか是をみて、あはれ、我も打とけたりせば、たんせいをはこばざらん、ねがはくは、権現の此度安穏に都に返し給へ、又あかで別し判官に、ことゆゑなく、今一たび引あはせ給へ、さもあらば、母のぜんじとわざと参らん、とぞ祈り申ける、道者皆下向して候、しづか正面に参りて、念珠して居たりける所に、わか大しゆ申けるは、あらうつくしの女の姿や、たゞ人ともおぼえず、いかなる人にておはすらん、あのやうの人の中にこそ、おもしろき事もあれ、いざやすゝめて見んとて、正面に近付しに、そけんの衣をきたる老僧の、はんしやうぞくの珠数もちて立しが、あはれ権現の御前にて、なに事にても御入候へ、御ほうらく候へかし、とありしかば、(中略、七紙右)ものはおほくならひしたりけれども、別して白拍子の上手にて有ければ、おんぎょく、もじうつり、心もことばもおよばず、聞人泪をながし、袖をしぼらぬはなかりけり、つひにかくぞうたひける、(白拍子のうたひもの、今様の部に出、略レ之、七紙左)云、一とせ、都に百日の日でりありしに、院の御幸ありて、百人の白拍子の中にも、しづかゞ舞たりしこそ、三日のこうずひながれたり、扨こそ日本一といふせんじを下されたりしか云々、(八紙右)云、修行の坊にとりいれて、やう/\いたはり、その日は一日とゞめて、あけゝれば、馬にのせて人をつけ、北白川へぞおくりける、是はしゆとの情とぞ申ける、巻之第六(二十二紙右)しづかかまくらへ下る条に云、大夫判官四国へおもむきたまひし時、六人の女房達、白拍子五人、惣じて十一人の中に、ことに御心ざしふかゝりしは、北白川のしづかと云白拍子、よし野のおくまで具せられたりける、都へかへされて、母のぜんじが許にぞ候ける、判官殿の御子を妊じて、近き程に産をすべきにてありしを、六はらに此事聞えて云々、(中略、二十三紙右)云、一たんのかなしみのがれんために、ほつしやうじなる所にかくれ居たりしを尋出して、母のぜんじもろともにぐそくして、六原に行、ほりの藤次請取て下らんとしける、磯のぜんじが心の中こそむざんなれ、まのあたりうき目を見んずらん、とかなし、又とゞまらんとすれば、たゞひとりさしはなつて、はる/\〃と下さん事もいたはしく云々、(二十余四紙右)鎌倉殿仰られけるは、殿上人には見せ奉らずして、など九郎には見せけるぞ、其上、天下の敵になり参らせたる者にて有に、と仰せられければ、前司申けるは、しづか十五の年までは、おほくの人々おほせられしかども、なびく心もさふらはざりしかども、院の御かうにめしぐせられ参らせ、神泉苑の池にて、雨の祈りの舞の時、判官に見えそめられ参らせて、堀川の御所にめされまゐらせしかば、たゞかりそめの御あそびのためとおもひ候しに、わりなき御心ざしにて、人々あまたわたらせ給ひしかども、ところ/\〃の御住居にてこそわたらせたまひしに、堀川殿に取おかれ参らせしかば、是こそ身にとりては面目、とおもひしに、今かゝるべしと、かねては夢にもいかでかしり候べきとて、さめ/\〃となきければ、御前の人々是を聞て、鎌倉殿の御前をもはゞからず、こしかたより今までのしづかゞ身を、おめずおくせず申たり/\とて、おのおのほめ玉ひけり云々、(二十六紙右)云、かくて月日もかさなれば、其月にも成にけり、しづかおもひのほかにけんらう地神もあはれみ給ひけるにや、いたむ事もなく、其心つくと聞て、藤次の妻が、ぜんじもろともにあつかひけり、ことさら御産も平安なり、少人なき給ふ声を聞て、ぜんじあまりのうれしさに、白ききぬにおしまきてみれば、祈るいのりはむなしくて、三神相応したるわかぎみにてぞおはしける云々、(二十八紙云)しづかわか宮八幡へ参詣の条、(三十三紙云)鎌倉殿やがて御参詣有りけり、しづか舞ぬると聞て、若宮には門前に市をなす云々、(三十四ン紙)云、左衛門のぜう、藤次が女房もろとも打つれて、廻廊にぞもうでたりける、ぜんじ、さいばら、そのこま、其日の役人なりければ、しづかとつれ、廻廊の舞台へのぼる、(中略)、しづかは神前にむかひて、ねんじゆしてぞ居たりける、先いそのぜんじ、めづらしからねども、法らくのためなれば、さいばらにつゞみうたせて、すきものゝせうしやと云白拍子を、かぞへてぞ舞たりける、心も詞もおよばれず、さしも聞えぬぜんじが舞だにも、これ程におもしろきに、ましてしづかゞ名にしおふたる舞なれば、さこそおもしろかるらめ、と申あひける云々、(三十七紙右)云、しづかゞ其日のせうぞくには、白きはかまふみしだき、わりびしぬひたるすいかんに、たけなる髪をたからかにゆひなして、此程のなげきにおもやせて、うすげせうまゆはそやかにつくりなし、みなくれなゐの扇をひらき、ほうでんにむかひてたちたり云々、(卅七紙左)しづか、其日は白拍子はおほくしりたれども、ことに心にそむものなれば、しんむじやうのきよくといふ白拍子の上手なれば、心もおよばぬこは色にて、はたとあげてぞうたひける、上下あとかんずる声、雲にひゞくばかりなり、(中略)、祐経、心なしとやおもひけん、すいかんの袖をはづして、せめをぞ打たりける、しづか君が代をうたひあげたりければ、人々是をきゝ、なさけなき祐経かな、今一折まはせよかし、とぞ申しける、せんずるところ、てきのまへのまひぞかし、おもふ事をうたはばやと思て、しづやしづしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしも哉、芳野山みねの白雲ふみ分て入にし人のあとぞ恋しき、とうたひければ云々、(三十八紙左)云、かゝるうき世にながらへても、なにかせんとやおもひけん、はゝにもしらせず、かみをきりてそりこぼし、てんりうじのふもとに草のいほを引むすび、ぜんじもろともにおこなひすましてぞ有ける、すがた、心、人にすぐれたり、をかしかるべきとしぞかし、十九にてさまをかへ、次の年の秋のくれには、おもひやむねにつもりけん、念仏申、往生をぞとげにける、きく人、てい女の心ざしをかんじけるとも聞へける、
いそのぜんじ
平家物語、義経記、前条に出、
玉寿
古今著聞集巻九武勇第十二(十一紙左)云、貞綱は酒に酔て、白拍子玉寿と合宿したりけり、思ひもよらぬに、寝所に打入たりければ、貞綱太刀をぬきて打はらひて、玉寿引立て、後園にしりぞきて、檜垣より隣へこして、我身もともに遁にけり云々、
金
古今著聞集巻之十(二十三紙右)云、近頃、近江国かいづに、金といふ遊女有けり、其頃のさたの者なり、法師の妻にて、年頃すみけるに、件の法師、又あらぬ君に心をうつしてかよひけるを、金もれ聞て、安からず思けり云々、此金大力なる事みへたり、
姫法師
諸門跡譜巻之中(六紙右)云、後鳥羽院愛�女舞女姫法師�、
虎
曾我物語巻之四(二十八紙左)大いそのとらおもひそむる事の条に、されば、しうぢやく身をはなれず、おんせいつきずして、大磯のちやうじやのむすめとらといひて、十七さいになりけるいうぐんを、すけなりとしごろ思ひそめて、ひそかに三とせぞかよひける、これやふるきことばに、うつし得たりやうひとうのゑくぼを、なしあらはせりにんみんあふきたるくちびるを、なんど思ひ出して、をり/\なさけをのこしける、同巻(二十五紙右)とらを具してそがへゆきし条云、かくて月日をおくりけるが、さだむるつまもつべからずとて、たゞとらがなさけばかりにひかれて、をり/\通ひける、たがひの心ざしの深き事は、ふつくんにもおとらず、千代よろずよとぞちぎりける、そも/\このとらと申は、ははは大磯のちやうじや、ちちは、一とせあづまにながされしふしみの大納言さねとものきやうにてぞましましける、なん女のならひ、りよしゆくのつれ/\〃、一夜のわすれがたみなり、されば、とらが心ざまじんじやうにして、わかの道に心をよせ、人丸、赤人のあとをたづね、なりひらのむかし、源氏、伊勢物語になさけをうつし云々、同巻(初紙右)十郎おほいそへゆきてたちぎゝの条云、此二三年なさけをかけてあさからぬとらに、いとまこはんとて云々、(二紙左)云、をりふし、とらがすみかには、とものいうくんあまたなみゑて、物がたりしける中に、とらが声とおぼしくて、たゞいまのぼる人々は、いづの国の誰人ぞ、聞給はずや、せんぢんはよこ山のとうまのぜう、とぞ申しける、とらききて、まことや、ぐしのことばに、みゝのたのしむときにはつゝしむべし、心のおこる時にはほしいまゝにすべからざれとは申せども、あはれ、げにこのとのばらの、うま、くら、よろひ、はらまきを、わらはにくれよかし、女ぼうたちきゝて、あはぬねがひもの、なにの御ようにや、といふ、すけなりにまゐらせ、おほふ事を、とばかりいひて、なみだをうかべけり云々、同巻(三紙右)わだのよし盛さかもりの事の条云、みやこの事はかぎりあり、ゐなかにては、きせ川のかめづる、てごしのせうしやう、大いそのとらとて、かいどう一のいうくんぞかし、一献すゝめてとほらばや、しかるべく候とて、かのちやうなのめならずによろこびて、とほさぶらひのちぎりをはらひ、よしもりこれへ、としやうじけり、とらにおとらぬ女ぼうども三十よ人いでたゝせ、ざしきへこそはいだしけれ、(中略)、されども、とらはざしきへ出ざりけり、よしもり心えずおもひて、この君たちもさる事なれども、とらごぜんのけんざんのためたり、などや見え給はぬ、(中略)、とらは又、十郎が心を見かねて、いかにや、むかしのふん女が事をみしり給はずや、さやうの事だにあるぞかし云々、同巻(十一紙右)あさひなとらがつぼねへむりにゆきし事の条云、さても、はゝはとらをせいしかね、何とてはゝにはしたがはざるや、とぞいひける、とらは猶も泪にむせび、ながれをたつる身ほどかなしき事はなし、つまの心をおもひしれば、はゝのめいにそむき、はゝにしたがへば、ときのきらにめづるに似たり、とにもかくにも、わがおもひみだれそめける黒髪の、あかぬなさけのかなしさよ云々、(中略)、十郎此あり様を見て、何かはくるしかるべき、一たんこそあれ、ざしきへいで給へかし、母のめいにそむきなば、みやうのせうらんもおそろし、と申ければ、とらは是にもしたがはず、たゞなくよりほかの事はなし云々、(下略)同巻(十四紙左)とらがさかづき十郎にさしぬる事の条(よしもりいかる事みへたり、文略レ之)同巻(十六紙左)五郎おほいそへゆきし事の条(五郎があにの後ろにある事をしりて、よしひで歌をうたひて、座を和らぐる事みへたり)同巻(十八紙左)あさひなと五郎ちからくらべの事の条云、あさひなさかづきとりあげ、三どほす、そのさかづきをとらのみて、よしもりにさす云々、同巻(二十紙左)そがにてとらが名残をしみし事の条(二十二紙左)云、こんどの御ともをさいごにさだめ、ふたゝびかへらじと思へば、別のみちすてがたくて、と申ければ、とらきゝもあへず、十郎がひざにかゝり、しばしは物もいはざりけれ、やゝありて、うらめしや、とはずばしらせじとおぼしめすかや、まことにわらはゝ大いそのいうくん、あさましきものゝ子なれば云々、(中略)、十郎がひざのうへも、とらが泪にうくばかり、袖もしぼりぞ兼たりける云々、(中略)、是をかたみにとて、すけなりにそふとおぼしめせとて、びんのかみをきりてとらせぬ、とらは泪もろともにうけとり、はだのまぼりにふかくをさめ、ものをもいはず、ふししづみぬ云々、(中略)、今をかぎりの別なり、のちの世までのかたみとて、十郎きたりけるめゆひのこそでに、とらがこうばいいろのこそでにきかへて、心のあらばうつり香よ、しばしのこりてうきわかれ、なぐさむほどもおもかげの、きかへしきぬにとまれかし云々、同巻(二十七紙右)山びこ山にての事の条(そがとなかむらのさかひ山びこ山まで、とら御前の十郎をおくりし事也)同巻第十(十六紙右)云、あにの十郎は、やはんに打死し給ひぬ、おとゝの五郎どのは、あかつきにおよびいけどられ給ひき、此人のふるまひは、てんまきじんのあれたるにや、かゝるおびたゞしき事を、大いそのとら御前のいもうときせ川のかめづる御ぜんより、大いそへつげさせ給ふ御つかひなりとて、はしりとほりけり、同巻第十一(初紙右)とらがそがへ来りし事の条云、あま一人、こき墨染の衣におなじいろのけさをかけて、あしげなる馬にかいくらおきてのりし人出きたる、何ものぞとみれば、十郎がつねにかよひし大いそのとらなり云々、(文長ければ略す)同巻(六紙左)はゝはとらをぐしてはこねへ登りし事の条(十八紙右)云、又大いそのきやくじんの御心ざしこそ、世にすぐれては候へ、かまへて/\、おこたらずとぶらひ給へ、とおほせられければ、とらもなみだをおさへて、仏事とうけたまはりし事、ゑしんはつぐわんのぎなりければ、あかぬ別れのみち、いつかはおこりたり候はんと云々、同巻第十二(初紙右)とらはこねにていとまごひして行わかれし事の条に云、さる程に、大いそのとらは、十郎すけなり打死して後、いかなるふちかはにも入ばや、と思ひけれども、なき人のぼだいのためにもなるまじければ、ひとへにうきよをそむき、かの人のごせをとぶらはん、と思ひたち、けさ、衣などとゝのへて、はこね山にのぼり、百ケ日の仏事のをりふしに、なく/\ひすいのかざりをそりおとし、五かひをたもちけり云々、(中略)、とら御ぜんに申されけるは、そがへいざなひ、十郎がかたみに見まゐらせ候はん、といはれければ、とら、もつとも御とも申、たがひのかたみに見えまゐらせたく候へども、大磯にてのついぜん、又はぜんくわうじへの心ざし候、げこうにこそまゐり候はめ、とて行別れけり、同巻(二紙左)出のやかたのあと見し事の条云、かくてとら心に思けるは、此ついでに、十郎のむなしくなりしふじのすそ野、出の屋かたの跡を心ざして、はこねの山をうしろになして行程に云々、(中略)、つかのほとりにてねんぶつし、くわこいうれい、じうぶつとくだつ、とゑかうすれば、十郎のこんれいも、いかばかりうれしとおぼすらん、と思ひやられてあはれなり、とらなみだのひまより、かくぞつらねたまひける、露とのみきえにしあとをきてみれば尾花が末に秋風ぞふく、うき世ぞと思ひそめにしすみごろも今また露や何とおくらん云々、同巻(六紙右)手ごしの少将にあひしことの条云、さても、とらはあるこいへにたちより、あるじのをんなをかたらひて、せうしやう御ぜんをよび出して、たび人の、これにてそと申べき事の候、と申給へといひければ、やすき事とてよび出しけり、少将はとらがかはれるすがたを見て、いひ出すべきことばもなくて、たゞなみだをぞながしける、とらなく/\申けるは、かのすけなりにあひなれて、すでに三年になりさふらふ、しゆくゑんふかきゆゑにや、又よの人をみんとおもはざりつるなり、此人うせ給ひぬるとききしときは、おなじこけのしたにうづもればや、と思ひしかども、つれなきいのちながらへて候ぞや、されば、世をわたるあそびものゝならひは、心にまかせぬ事もさふらふべし、と思ひて、百ケ日のぶつじのついでに、はこねにてかみをおろし云々、同巻(八紙左)とらと少将はふねんにあひたてまつりし事の条云、さる程に、二人はうちつれだち、あさ衣、かみのふすまをかたにかけて、諸国をしゆ行し、しなのゝ国ぜんくわうじに、一両年のほど、たねんをまじへずしてねんぶつ申、くわこしやうりやう、とんせうぼだい、といのり、又みやこにのぼり、はふねん上人にあひたてまつり、ねんぶつの法だんをくわしくちやうもんし、いやましにねんぶつしゆぎやうすゝみけるこそ、ありがたけれ、同巻(九紙右)とら大いそにとぢこもりし事の条(かうらいじの山のおくの廬に、少将もろとも住し事也)同巻(九紙左)母と二の宮のあね大いそへたづね行しことの条(十一紙右)とら出あひよび入し事の条(十四紙右)云、とらなみだをとゞめて申しけるは云々、(中略)、あのあまごぜんはわがあねにてまし/\候、みづからをうらやみて、おなじくともにさまをかへ、ひとついほりにとぢこもり云々、
少将
前条にみえたり、猶、曾我物語巻八(二十七紙左)すけつねがやかたへゆきし事の条云、すけなりすこしもはゞからず、やかたのうちへいり、見たまへば、てごしのせうやうはさゑもんのぜうが君とみえたり、ちやくしいぬばうにしやくとらせ、さかもりしけるをりふしなり云々、同巻(二十四紙左)やかたのしだい五郎にかたる事の条(三十七紙右)云、びぜんのくにのぢう、きびつみやのわうとうない、手ごしのせうしやう、きせがはのかめづるを並べおきて、さかもりなかばなりしに云々、同巻第九(十八紙右)すけつねうちし事の条(十九紙右)云、あたりをみれば、人もなし、さゑもんのぜうはてごしのせうしやうとふしたり、わうとうないは、たゝみすこしひきのけて、かめづるとこそふしたりけれ云々、同巻第十二(七紙左)少将しゆつけの事の条云、かくてせうしやうは、とらがかはれるすがたを見て、まことにうらやましく、なれるすがたかな、だうりかな、ことわりかな云々、(中略、八紙左)云、御身は十郎どのぜんちしきとして、うき世をそむき給ふ、われは又、御身のすがたをぜんちしきとして、ころもをすみにそめんとおもひ候とて、やがてひすいのかみをそりおとし、花のたもとをぬぎかへて、こきすみぞめにあらためつつ、年廿七と申に、するがの国手ごしの宿を出立けり云々、同巻(十五紙左)せうしやうほうもんの事の条云、かくて、はゝも、二の宮も、ぶつだうのおもむき、くはしくきかまほしく候へ、と申ければ、とらはせうしやうのかたを見やり、すこしうちわらひ、あねごはねんぶつのほうもんどもしらせ給ひて候へ、申てきかせまゐらせ給へ、と申ければ、わらはもくはしき事はしりまゐらせず候、一とせみやこにて、ほうねん上人おほせられしは云々、(法文略レ之、少将のとらのあねなる事、前にもみえたり)
亀鶴
虎が条、少将が条に出たり、又からいとぞうし下(十二紙左)云、二番は、きせ川のかめづる、しぼりはぎをうたふたり云々、(歌は今様の部に出)
とねくろ
梁塵秘抄口伝集云、あそびとねくろが、いくさにあひて、臨終のきざめに、いまは西方極楽の、とうたひて往生し云々、
ぼたん
からいとざうし下(八紙右)云、五番は、むさしの国いるまがはのぼたんといひししらびやうし、是をはじめて十一人なり云々、(十二紙左)云、四ばんは、いるまがはのぼたん、すゞりわりをうたふたり云々、
千代
前太平記巻之第九(十四紙左)云、爰ニ松崎ノ千代ト云シ遊君ハ、九州第一ノ美女ニテ、無双ノ舞姫ナリケルヲ云々、(松崎ハ筑前也)
白菊
北条時頼記巻之第六(九紙左)云、円が谷に白菊といふ白拍子有云々、
力寿
源平盛衰記巻第七(二十紙右)近江石塔寺事条云、大江定基、三河守ニ任ジテ、赤坂ノ遊君力寿ニ別テ、道心出家シテ大唐国ニ渡云々、
亀菊
婦人養草巻之第一(二十五紙右)云、承久三年、武家天気にそむく事は、其時の舞女、亀菊といふものゝ申状に依て也、其ゆゑは、後鳥羽院より、亀菊が訴訟を、鎌倉へ両度までおほせらるれども、義時同心せざるがゆゑに、御気色あしく成て、承久の乱おこれり、承久兵乱記云、摂津国長江、倉橋の両荘は、院中に近う召つかはれける白拍子、亀菊に給ひたりけるを云々、
八幡愚童訓下(二十四紙左)云、承久兵乱為2御祈祷1御幸アリき云々、(二十六紙左)二位殿、亀菊御前理不尽ニ内奏シ、光親、宗行中納言ノ御気色、近習尊長、尊範ガ梟悪被レ勧、西面下朧メラガ力ヲ憑セ給テ、無益ノ合戦ヲ思食立テ、只一日ノ聞ニ、天下ハ暗ト成ハテヌ、(中略)、傾城トハ城ヲ傾クト書、依レ有2先蹤1也、亀菊御前ニ過タル傾城コソ無リケレ、
文殊御前
婦人養草巻之第三(二十三紙右)云、竹岡の尼といはれしは、もとは室といふ所の流婦なり、中納言源顕基ふかく愛せられけるが、後にはすてられて、京より室へかへり、尼になり、竹岡といふ所に、後世をつとめて有ける、ある時、中納言の御内のもの、西国より京へかへるとて、路にて此尼にあへりければ、陸奥紙に我黒髪をつつみ、一首の歌をよみて、中納言の従者ののる舟のうちへ投入しなり、つきもせぬうきをみるめのかなしさにあまとなりても袖ぞかはかぬ、此歌を中納言見たまひて、くやみ、あはれがり給ふとなり、
桜木
尾花集巻之第二(二十紙左)云、題しらず、遊女桜木、ものおもふとながむる空のしぐるゝは身をしる雨のふるにぞ有ける、
雲井
尾花集巻之第五(八紙左)云、八月十五夜、たのめける人のまからざりければ、遊女雲井(江戸)、もろともにみてこそ月は月ならめ何中空にあくるがるゝ身や、
音羽
尾花集巻之第五(八紙右)云、人のもとより、おとにきく音羽の滝のいとはやもみなれぬ袖になみのかくらん、とよみて、つてにおこせける返しに、遊女音羽(江戸)、よる瀬なき袖のしら波数ならぬ音羽の滝の音もはづかし、
浅尾
渚の松巻之第五(二紙右)云、八月十五夜、たのめける人のとはざりければ、遊女浅尾(越後柏崎)もろともにみてこそ月も月ならめ空だのめにもふけ行はうし、
刈藻
渚の松巻之第十二(四紙左)云、身をなげきてよめる、遊女刈藻(越後柏崎)河竹のよそにながれの名は立て枕さだめぬうきねにぞなく、
栄花物語三十一殿上花見巻(十四紙左)上東門院住吉石清水詣の条にいはく、えぐちといふ所になりて、あそびどもかさに月を出し、らでん、まき絵さま/\〃に、おとらじ、まけじとしてまゐりたり、こゑども、あしべ打よする浪の声も、江ぐちのいふべきかたなくこそ見えしか云々、(十六紙左)云、二日、あまの河といふ所にとまらせ給ひて、あそびどもめして、物どもたまはす、人々みな物ぬぎなどす、同三十八松のしづえの巻(十七紙左)後三条院住吉詣の条に云、二十二日のたつのときばかりに、御船いだしてくだらせ給ふ程に、江口のあそび、ふたふねばかりまゐり、禄などをぞ給せける、
更科日記(九紙右)云、足がら山といふは、四五日かねて、おそろしげにくらがりわたれり、やう/\入たつふもとの程だに、空のけしきはか/\〃しくもみえず、えもいはずしげりわたりて、いとおそろしげなり、麓にやどりたるに、月もなくくらき夜の、やみにまどふやうなるに、あそび三人、いづくともなく出来たり、五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四五なると有、いほのまへに、からかさをさゝせてすゑたり、をのこども火をともしてみれば、むかし、こはたといひけんがまごといふ、髪いとながく、ひたひいとよくかゝりて、色しろく、きたなげなくて、さても、ありぬべき下づかへなどにてもありぬべし、など人々哀がるに、声すべて似るものもなく、空に澄のぼりて、めでたく歌をうたふ、人々いみじう哀がりて、けぢかくて人々もてけうずるに、にしぐにのあそびは、えかゝらじ、などいふをきゝて、難波わたりにくらぶれば、とめでたくうたひたり、みるめのきたなげなき、声さへにる物なくうたひて、さばかりおそろしげなる山中にたちて行を、人々あかず思て、皆なくを、おさなき心地には、まして此宿りをたゝん事さへあかず覚ゆ云々、同記(十四紙右)云、美濃国なるさかひに、すのまたといふ渡りして、野上といふ所につきぬ、そこにあそびども出で来て、夜一夜うたうたふに、あしがらなりしおもひ出られて、哀に恋しき事かぎりなし云々、
江次第巻第十五(二十二紙右)八十島祭条(三十四紙右)云、次中宮御料、次東宮御料宮主著2膝突1西面、捧2御麻1修レ禊、了以2祭物1投レ海、次帰レ京、於2江口1遊女参入、纒頭例禄如レ恒云々、
明日香井和歌集下(五十五紙右)吾妻へ下るとて、あをはかの宿にて、あそびて侍ける傀儡のぼるとてたづねければ、身まかりけるよし申をきゝて、たづねばやいづれの草の下ならん名はおほかたのあをはかの里、
藤原光経集(五十五紙左)云、貞応二年十月二十六日、津の国をばやしといふ所に、湯あみんとてまかりて侍りしほど、なれあそびし遊女に、十一月九日、小屋野より別るとて、旅人のゆきゝの契り結ぶともわするな我を我も忘れじ、
古事談巻之第三に云、書写上人可レ奉レ見2生身普賢1之由祈請給、有2夢告1云、欲レ奉レ見2生身普賢1者可レ見2神崎遊女之長者1云々、仍乍レ悦行2向神崎1相2尋長者之家1之処、只今自レ京上日之輩群来、遊宴乱舞之間也、長者居2横座1、執レ鼓弾2拍子之上句1、其詞云、周防ムロツミノ中ナルミタライニ、風ハフカネドモサゝラナミタツ云々、其時聖人成2奇異之思1、眠而合掌之時、件長者応2現普賢之貌1、乗2六牙白象1、出1眉間之光1照2道俗之人1、以2微妙之音声1説曰、実無漏之大海ニ五塵六欲之風ハ不レ吹トモ、隋縁真如ノ波タゝヌトキナシト云々、其時聖人信仰恭敬シテ拭2感涙1、開レ自之時ハ又如レ元為2女人之顔1、弾2周防室積1船、閉レ眼之時ハ又現2菩薩形1演2法文1、如レ此数ケ度敬礼之後、聖人乍2涕泣1退帰、于レ時件長者俄起レ坐、自2間道1追2来聖人之許1示云、不レ可レ及2口外1ト、謂了即逝去、于レ時異香満レ空云々、長者俄頓滅ノ間、遊宴醒レ興云々、(此語西行撰集抄五の巻十九のひだりにもみえたり)
今昔物語集旧本巻之第十三定法寺別当之条(八十八紙右)云、遊女、傀儡等ノ歌ヲ招テ、詠ヒ遊ブヲ常ニ業トス云々、同巻之十九(四十八紙左)云、仏事ヲバ不レ営リケリ、常ニ、遊女、傀儡ヲ集テ、歌ヒ嘲ケルヲ役トス云々、
平家物語巻の第五(三十八紙云)富士川合戦の条云、其辺近き宿により、ゆう君、ゆう女どもめしあつめ、あそび、さかもりしけるが、あるひはかしらわられ、或はこしふみをられて云々、同巻之第六(十八紙右)云、今年正月十五日、備後のともへおしわたり、遊君、遊女共召あつめて、あそびたはぶれ、酒もりしける処へ云々、同巻之第十(四十紙左)云、三河守範頼、やがてつゞいてせめ給はゞ、平家はたやすうほろぶべかりしに、むろ、たかさごにやすらひ、遊君、ゆう女どもめしあつめ、あそびたはぶれてのみ月日をおくり給ひけり云々、
増鏡巻之第一(二十六紙左)云、とほつあふみの国はしもとの宿につきたるに、れいのゆう女、おほくえもいはずさうぞきてまゐれり、頼朝うちほゝゑみて、はしもとの君に何をかわたすべき、といへば、かぢはら平三景時といふぶし、とりあへず、たゞそまやまのくれであらばや、いとあいだちなしや、馬くら、こんくゝり物などはこび出てひけば、よろこびさわぐ事かぎりなし、同巻之第六(二十二紙左)云、鵜舟御らんじ、白拍子御船にめし入て、歌うたはせなどせさせ給ふ云々、
曾我物語巻之第五(二十二紙左)五郎をんなになさけかけし事の条(二十三紙右)云、ときむねも、けはひざかのふもとに、しりたるものゝ候、五日、十日をへてゆく道にても候はず、このたびいでなんのちは、又あひみん事もかたし、明日まゐり、あひ申さん、とてうちわかれけり云々、(かぢはらげんだざゑもんとあらそひの事、略レ之、三十四紙左)云、そも/\此ゐしゆをたづぬるに、けはひざかのふもとにゆうくんあり、ときむねなさけをかけ、あさからずおもひしに、ひくてあまたの事なれば、かぢはらがはまいでして、かへりざまに、この女のもとにうちよりて、夜とともにあそびけり、あかつきかへるとて、いかゞしたりけん、こしのかたなをわすれいでけるを、女のもとより、かたなをつかはしけるとて、いそぐとてさせるかたなをわするとはおこしものとや人のみるらん、かげすゑむまにのりながら、ゆんでのあぶみをいまだふみもなほさず、返歌をぞしける、かたみとておきてこしものそのまゝにかへすのみこそさすがなりけれ、そのころ、げんだざゑもんは、歌道には、ていか、かりうなりともおもひしなり、さても此うたのおもしろさよ、と思ひそめて、かげすゑかよひなれけり、よその事わざなどたはれければ、女ひきこもり、五郎一人にもかぎらず、しゆつしをとゞめけり、これをしらで、五郎、かのもとにゆき、たづねけれども、あはざりけり、なにによりけるにや、あやふくとものゆうくんにとひければ、かぢはらげんだどのゝとりておかれ、よのかたへはおもひもよらず、といひければ、五郎きゝて、ながれをたつるあそびものをたのむべきにはあらねども、世にある身ならば、げんだには思ひかへられじ、と身一ツのやうにおもひける、ひんはしよどうのさまたげとは、おもしろかりけることばかな、人をも世をもうらむべからず、とて此うたをよみて出きぬ、あふとみるゆめぢにとまるやどもがなつらきことばにまたもかへらん、とかきて、ひきむすびておきたりけり、五郎かへりてのち、此女出てみれば、むすびたるふみあり、とりあげてみれば、日ごろなれにし五郎がしゆせきなり、このうたをつく/\〃見て、文をかほにあて、さめざめとなきつゝ、とものゆうくんに、これ御らんぜよや、人々、はぢともしらで、はづかしや云々、同巻(二十九紙右)五郎がなさけかけし女しゆつけの事の条云、さるほどに、みな人よくきゝ給へ、ていじよりやうふにまみえずとは、まへにいひつる女の事也、いかなるていじよか、二人の夫に見え、いかなる身にてか、ひく手あまたにむまれつらん、さらぬだに、われらふぜいのものは、よくしんにぢうする、といひならはせり、おのれをしるものゝために、かたちをつくろふ、ともんぜんのことばなるをや、われ又かひ/\〃しくなければ、かげすゑがまことのさいじよになるべき身にてもなし、らいせこそつひのすみかなれ、そのうへ、ほとけもなふじゆし、じひをたれたまふ、されば、花になく鶯、水にすむかはづだにも、うたをばよむぞかし、いはんや、人としていかでか是をはぢざるべき、とて此うたをよみける、かずならぬ心の山のたかければおくのふかきをたづねこそいれ、すつる身になほおもひでとなるものはとふにとはれぬなさけなりけり云々、(中略)、しかるべきぜんちしきをたづねて、しやうねん十六さいと申に、しゆつけして、しよこくをしゆぎやうして、のちには大いそのとらがすみかをたづね、ともにおこなひすまして、八十よにして、大わうじやうをとげにける、ありがたかりし心ざし、とぞきこえし云々、
(中央公論社刊『燕石十種』第一巻を底本としました。)
百合若大臣
幸若舞『百合若大臣』(全文)
抑むかし我朝に、嵯峨の帝の御時、左大臣きんみつと申て並びなき臣下一人おはします。しかれ共、きんみつに御代を継ぐべき御子なし。かくてはいかゞ有べきと、大和の国初瀬の寺に詣でして、悲願尽きせぬ観音の利生を仰ぎ、三十三度の歩みを運び、申子をこそし給ひけれ、今に始めぬ観音の、願ひの潮もはや満ちて、程なく御子をまうけ給ふ。しかも男子にて御座ある。夏の半ばの若なれば、花にもよそへて育てよとて、百合若殿と名付申、いつきかしづき給ひけり。七歳にて御袴召し、十三にて初冠召し、四位の少将殿と申奉る。十七にては、程なく右大臣にならせ給ふ。御童名によそへて、百合若大臣と名付申。三条壬生の大納言あきときの卿の姫君を迎へ取らせ給ひ、並びなふこそかしづきけれ。
そも我が朝と申は、国常よりも始めて、さて伊奘諾と伊奘冉は、彼国に天降り、二柱の神と成て、第一に日を産み給ふ。伊勢の神明にて御座ある。その次に月を産む。高野の丹生の明神月読の御子、これなり。その次に海を産む。摂津の国に御立ちある蛭子の宮、夷三郎殿にておはします。その次に神を産む。出雲の国素戔鳴は、大社にておはします。その外、末社の部類等は、皆此神の総社たり。神の本地を仏とは、よくも知らざる言葉かな。根本地の神位こそ、仏とならせ給ひつゝ、衆生を化度し給ふなれ。其はともあらばあれ、そも我朝と申は、欲界よりもまさしく魔王の国となるべきを、神自ら開き、仏法護持の国となす。大魔王、他化自在天に腰を掛け、種々の方便めぐらして、いかにもして我朝を魔王の国となさんと巧むによりて、則天下に不思議多かりき。
此度の不思議には、む国の蒙古が蜂起して、四万艘の船どもに、多くの蒙古取り乗り、りやうさうとくわすい、飛ぶ雲、彼四人が大将にて、筑紫の博多に船を寄せ、攻め入とこそ聞えけれ。国に有あふ弓取、防ぎ戦ひけれども、彼らが放つ毒の矢は、降る春雨のごとくにて、四方鉄砲放ちかけ、天地を動かし攻め入れば、叶ふべきやうあらずして、みな中国さして引き退く。
そも我が朝と申は、国は粟散辺土にて、小さしと申せ共、神代よりも伝はれる三の宝、これあり。一つには神璽とて、大六天の魔王の押し手の判、是あり、二つには内侍所とて、天照神の御鏡なり。三つには剣宝剣とて、出雲の国簸上の山の大蛇の尾よりも取し霊剣なち。是みな天下の重宝にて、代々の御代に、異国より九夷興って欺け共、神国たるによりつゝ、亡国となす事もなし。今も天照御神の五十鈴川の末尽きず、伊勢へ奉幣奉り、内侍所の御託宣によりつゝ、討手を遣はすべしとて、諸社の奉幣、臨時の御神楽参らせ給ひけり。
其中にとつても、内侍所の御託宣は、かたじけなふぞ聞えける。七つにならせ給ひし乙女が袖に託して、鈴振り立て神託ある。「蒙古が向かふ日よりして、天下の神達、高天原に集会して、軍評定とり/\〃也。しかりとは申せ共、蒙古が大将りやうさうが諸庁に放つ毒の矢が、住吉の召されたる神馬の足に立。此傷癒さんそのために、神の戦を延べられたり。これによつて九夷ども、力を得たりと攻め入るなり。されども、彼らが振舞は、風吹かぬ間の花成べし。急ぎこの度凡夫の戦を早めよ。神も向かはせ給ふべし。凡夫の戦の大将には、左大臣が嫡男に百合大臣を向くべきなり。彼人討手に向くならば、諸神合力まし/\て、金剛の力を添ゆべきなり。もしさも有て下向せば、鉄の弓矢を持つべきなり。遅くて此事悪かりなん。急げ/\」と神託有て、神は上がらせ給ひけり。
御父左大臣は、御子の百合大臣を召して、「下向せよ」との御諚なり。神託と申、綸言又は命成ければ、吉日を選び、都出でと風聞す。扨神託に任せて、「鉄の弓矢を持つべし」とて、鍛冶の上手を召し寄せ、一所を清め鍛冶屋と定め、精誠を尽して作り立る。弓の長さは八尺五寸、周りは六寸二分。矢束は三尺六寸、矢数は三百六十三。根には八つ目の鏑を入、弓も矢も鉄にて、引ては返すべからずと、人魚の油をさし給ふ。国に有り合ふ弓取、みな当千の兵にて、一騎も残るところはなし。既に選ぶ吉日は、弘仁七年庚申二月八日に都を立つ。大臣殿の御勢は、三十万騎に記さるゝ。その外以下の軍兵は、百万余騎とぞ聞えける。
都を立て其日は、八幡の御前に、陣を取り、明くれば摂津の国難波潟昆陽野に陣を取り給ふ。去程に、王城の鎮守を始め奉り、衣冠を脱ぎ替へ鎧を召し、清麗微細の色の上には、夜叉羅神の形を現じ、雲に乗り、霞に乗り、一つは国家を守らんため、又は氏子を守護せん為、我氏子わが氏子、形に影の添ふごとく、先に立てぞ守らるゝ。さて神たちの議によりて、神風涼しく吹ければ、筑紫に陣取る蒙古共、この由を承て、「今度はまづ/\引けや」とて、四方艘に取り乗て、蒙古国へぞ引きにける。さてこそ天下も穏やかに、国も目出度おはしけれ。
大臣殿は、この由奏聞申されたりければ、内よりの宣旨には、「大臣がこの度の勧賞には、筑紫の国司を取らするぞ。急て罷り下れ」との宣旨なり。大臣殿は、九国に住まむもの憂さに、辞退申されけれども、「国の守りの為なれば、在国せでは叶ふまじ」と、重ねて勅使立ちければ、力及ばず、御台所を引き具して、急ぎ筑紫に下り、豊後の国府に京をたて、さながら都に劣らず住ませ給ふ。
又都には、公卿僉議まち/\たり。「蒙古が大将は四人と聞ふるを、せめて一人討取てこそ戦に勝ちたるしるしはあるべけれ。九夷は二相の者なれば、何とか思ふて引つらん。心の内も悟りがたし。先高麗国へうち越え、七百六十六国を攻め従へ、其大勢を率し、百済国を攻め靡け、其後む国を攻めん事、何の子細の有べき」と僉議して、筑紫へ勢をぞ越されける。大臣殿も吉日を選び、御出でとこそ聞えけれ。新造の大船百余艘、枝舟は数知らず。その外浦/\の漁船、かたせ舟、総じて船数は八万艘にて向かひけるに、一倍増してぞ向かはれける。扨大臣殿の御座船をば錦をもつて飾りたて、艫舳に斎ふ神/\〃、六十余州の霊神たち、斎垣、鳥居、榊葉、雲に光りを交へつゝ、烽火、太鼓を奏すれば、身の毛もよだつばかりなり。卯月半に、大臣は、はや御座船に召されけり。御台、名残を惜しみて、「同じ船に」と宣へども、「思ひ寄らず」との給ひて、押しこそ止め給ひけれ。さて船どもの艫舳には、五色の幣をはぎたてて、神風涼しく吹きければ、魔縁魔界も恐るべし。昔の譬へを引くときは、神功皇后の新羅を攻めさせ給ひし時、神集めして向かはれしも、かくやと思ひ知られたり。
む国に陣取る蒙古ども、天の色をきつと見て、二相神通の者なれば、討手の向くと悟をなし、「近ふ寄せては叶ふまじ。潮境へ討つて出で、防いでみん」と僉議して、四万艘の船どもに、多くの蒙古取乗、唐と日本の潮境、ちくらが沖に陣を取る。大臣殿の御座船をも、ちくらが沖へ押し出す。彼も恐れて近づかず。互ひに恐れて寄りもせで、五十余町を隔てつゝ、三年の春をぞ送られける。蒙古が大将りやうさう、一陣に進み出で、天を響かす大音にて、「我らが戦の手立には、霧を降らする習ひ有。霧降らせよ」と下知すれば、「承る」と申て、きりん国の大将、船の舳板に突つ立ち上がつて、青き息をつく。いかなる術をか構へけん、霧と成てぞ降りにける。初めは薄く降りけるが、次第/\に厚く成て、月とも日とも見え分かず、虚空長夜のごとくにて、一日二日にて晴れもせで、百日百夜ぞ降りにける。さしもに猛き弓取も、霧の迷ひに悪びれて、弓の本末をだにも知らざれば、引くべきやうもそなかりけれ。この霧ばかりに冒されて、蒼波の水屑とならん事憂かりなんとぞ嘆きける。大臣殿は無念至極に思し召し、「今ならでは、いつの時、神の力を仰ぐべき」と思し召されける間、潮を掬び手水とし、「南無天照皇太神宮、その外六十余州の大小の神祇、此霧晴らしてたび給へ」と、祈誓を申させ給ひければ、あらありがたや、祈誓の験はや見えて、伊勢の国荻吹く嵐に、霧も程なく住吉の、松吹く風も涼しくて、迷ひの闇も白山の、雪より早く消えければ、いつしか鹿島楫取も、喜びの帆をぞ上げにける。
大臣殿は斜めならずに御喜び有て、「さらば戦を早めん」とて、端船降させ給ひ、「態大勢は無益。思ふ子細のあるぞ」とて、十八人を引具して、蒙古が船へぞかゝられける。りやうさう、くわすいこれを見て、蟷螂が斧と勇みつゝ、鉾を飛ばせ、剣を投げ、四方鉄砲放ちかけ、天地を動かし攻めけれども、大臣ちつとも御騒ぎなく、蒙古が船へぞかゝられける。船の舳先につかせたる鉄の楯の面には、般若心経、観音経、金泥にて書かれたる尊勝陀羅尼の中よりも、社耶社耶昆社耶といふ文字が、三毒不思議の矢先と成て、蒙古が眼を射潰いたり。不動の真言に含鏝二つの文字が、剣と成て飛びかゝり、多くの蒙古が首を切る。観音経の名文に於怖畏急難といふ文字が、金の楯と成て、蒙古が矢先を防げば、味方一騎も手も負はず。さてこそ諸人力を得、鎮護の合戦手を砕く。大臣殿は御覧じて、「いつの料ぞ」と仰せ有て、鉄の弓の弦音すれば、雲の上迄響あり。三百六十三筋の矢を、残り少なく遊ばせば、りやうさうは討たれぬ。くわすい腹切りぬ。飛ぶ雲、彼ら二人は生捕られぬ。その外以下の蒙古ども、或ひは討たれ、腹を切て海へ入て死するもあり。四万艘に取り乗たる蒙古、多く討たれて、僅か一万艘になる。さのみは罪になるべしとて起請を書せ助け置き、本地へ戻させ給ひて、日本は戦に勝ちぬとて、八万艘の船内の喜び合ふ事限りなし。
大臣殿は、此まゝ御帰朝有ならば、めでたかるべき事どもを、この間の長陣に、精気を尽させ給ひ、傳(めのと)の別府を召して仰せけるは、「いづくにか島やある。上がりて身を休めん」との御諚なり。別府兄弟承て、端船降し尋ぬるに、波間に一つの小島有。玄海が島これなり。味方の船をば忍びやかに上げ参らせ、御敷皮を延べ、岩の角を枕にせさせ申、睡眠ならせ給ふ。大力の癖やらん、寝入て左右なく起きさせ給はず、夜日三日ぞまどろみ給ふ。
さる間、別府兄弟は、徒然さの余りに、物語をぞ始めける。弟の別府の臣が、申けるは、「あらめでたや、この君、先度は筑紫九ヶ国を賜らせ給ひ、上見ぬ鷲と御座ありしが、剩この度は、多くの蒙古を攻め滅ぼし給へば、日本国を他の妨げなく賜らせ給はん事のめでたさよ。人の果報を願はば、みな此君のやうに」と申。兄の別府が、是を聞、「さればこそとよ、その事よ。君はさやうに富み給はば、我ら兄弟は、元のまゝにて朽ち果てむ事こそ口惜けれ。いざ、この君を討ち申、主なくして御跡を知行せん」と申。弟が是を聞き、「あら、勿体なの御巧みや候。此君の御恩を天山に蒙り、人と成し我等ぞかし。いにしへの御恩を忘れ申、我らが手にかけ申ならば、天命いかで逃るべき。御思案有べく候」。別府、此由聞くよりも、「扨は、汝は君と一体よな。遂にこの事洩れ聞えなば、我一人が科たるべし。よそに敵はなきぞとよ。和殿とと合ふて死なん」とて、刀の柄に手をかけて、飛んでかゝらむとす。弟がこれを見て、「げにと、さやうに思召給はば、例へば手にかけ殺し申さずとも、生きながら此島に捨て置き申て帰るならば、所は僅かの小島にて、十日ばかりも御命の何に長らへ給ふべき」。兄の別府が、是を聞き、「こは面白くも申されたるものかな。さらば、さやうに仕らん」とて、いたはしや、君をば玄海が島に捨て置き申、元の船に上がり、味方の軍兵共を近付て申けるは、「いたはしや、君は蒙古が大将りやうさうが放つ矢を、御着背長の引合せに受け留めさせ給ひて候を、薄手にて御座有しを、さりともさりともと、頼みをかけし験もなく、遂に空しくならせ給ひて候。御死骸をも陸に上げ、御台所の御目にかけたくは存候へども、諸神を斎ひたる御座船にて有間、いたはしながら海底に沈め申て候。さて有べきにてあらざれば、船出せよ」と下知すれば、味方の軍兵共は、ひとへに夢の心地して、我劣らじと押し出す。一艘二艘の船ならず、総じて船数は八万艘。一度に帆を上げ梶を取れば、天地も響くばかりなり。
この声どもに、大臣は夢うつ覚まさせ給ひて、「誰かある」と召さるれど、御返事申者はなし。「こはいかに」と思し召し、かつぱと起きさせ給ひて、あたりを御覧ありければ、人一人もなかりけり。召したる船を見給へば、帆を上げてこそ押し出せ。「さては別府が心変りを仕るか。例へば別府こそ心変りをするとも、などや以下の軍兵ら、我をば連れて行かぬぞや。あの船こちへ」と宣へども、皆船どもの音高く、聞きつけ申者もなし。せめて思ひの余りにや、海上に飛浸つて、息をはかりに泳がせ給へど、船は浮木の物なれば、風に任せて早かりけり。力及ばず大臣は、憂かりし島に又戻り、そなたばかりを見送りて、あきれて立たせ給ひけり。早離、速離が、古、海岸波頭に捨てられしも、これに似たりと申せども、せめて其は二人にて、語り慰む方もあり。所は僅かの小島にて、草木も更になかりけり。蒼天広遠うして、月の出べき山もなし。朝の日は海より出、又夕日も海に入る。露の身は頼みなや。夜更けて聞も波の音、岩間の宿を頼めてや、うち伏す方も濡れ勝る。稀にも言問ふものとては、波に流るゝ群鴎、渚の千鳥鳴く時は、猶又友も恋しくて、いとヾ明け行く夜も長く、暮行日影も遅かりけれ。露の命を草の葉に、宿すべきやうなけれ共、なのりそ摘みて命を継ぎ、憂き日数をぞ送らるゝ。いたはしゝ共なか/\に、申ばかりけり。
さる間、別府兄弟は、筑紫の博多へ船を寄せ、喜びの帰朝と風聞す。豊後の国府に御座有御台所は、珍しき曲共を構へさせ給ひ、御出遅しと待ちざせ給ふ所に、さはなくして、別府兄弟うち連れて、先御所様さして参る。御台所は御覧じて、「あれは、いつもの御先への案内申にこそ参りつらん」と、人して聞し召すべき事を遅く思し召し、自身御簾間近く御出有て、「珍しの兄弟や、何とて君は遅く見えさせ給ふぞ」。兄弟、しばし御返事申さず。重ねて「いかに」と尋ねさせ給へば、その時、兄弟涙を流す体をして、「申さんとすれば、涙落つる。申さずは知ろし召さるまじ。いたはしや、君は、蒙古が大将りやうさうと申者と、押し並べ組ませ給ひ、二人ながら海底に沈ませ給ひて、その後、又も見えさせ給はねば、その思ひのみ深ふして、戦に勝ちたる験も候はず。さりながら、御形見の物をば給て候」と、御着背長と鉄の弓、御剣を添へて参らせ上ぐる。御台、この由御覧じて、「これは不思議の事どもかな。敵と組ませ給はんに、いつのひまに御形見を止めて、海に入り給ふべきぞや。前後不覚の事を申ものかな。あはれ、この者兄弟を取て押さへて拷問し、召し問はばや」とは思へども、はかなき女性の御事なれば、心一つに腐しつゝ、簾中深く入り給ひ、形見の物を召し集め、抱きつかせ給ひて、流涕焦がれ給ひければ、御前中居の女房たち、一度にわつと泣きければ、よその袂に至るまで、しほるばかりにあはれなり。
其後別府兄弟、打連れて急都へ上り、喜びの帰朝と風聞す。「天下の繁昌世の聞え、何事かこれに勝るべき」と、上下ざゝめき給ひけり。しかりとは申せども、大臣殿御帰朝なき間、天下は闇のごとし。御父左大臣、御母御台所、「年たけ齢傾き、盛りの御子に後るゝ事は、枯木に枝のなき風情。つれなき命にかへばや」と嘆き給へど叶はず。内よりの宣旨には、「大臣が帰朝するならば、日本国をと思ひつれども、討たれぬる上、力なし。誰に勧賞を行ふべき。別府兄弟には筑紫の国司を取らするぞ。急ぎ罷り下り、後家に宮付き、大臣が孝養懇ろに問へ」との宣旨なり。別府承て、「案に相違の宣旨かな。日本国をと思ひてこそ、君をば振り捨て申たれ。珍しからぬ筑紫へ」とて、又こそ下りけるとかや。
別府、道/\案じけるは、「さもあれ、我君の御台所は、天下一の美人にてましませば、風の便りの玉章を参らせて見んずるに、承け引き給はばしかるべし。背き給ふものならば、柴漬け申さん」と、玉章懇ろにこしらへ、「これは都よりの御状なり」とて捧げければ、近所の女房取り次ぎ、御台所に参らせ上ぐる。御台所に参らせ上ぐる。御台所に参らせ上ぐる。御台所は、「都よりの御状」と聞召、なか/\上書をだにも御覧じあへず。急ぎ開いて見給へば、思ひの外に引かへて、別府が方よりの玉章なり。余りの事の悲しさ二つ三つに引裂き、かしこへがはと捨てさせ給ひ、「命あればこそ」との給ひて、御守刀を召し寄せ、自害をせんとし給へば、乳母の女房参り、御守刀を奪い取り申、「御道理にて御座候ふ。三条壬生の御所よりも、必ず御迎ひの参り候ふべし。命を全ふし給へ」と、とかくなだめ奉り、「返事をせぬ物ならば、不得心なる別府にて、いかなる所存か巧むべき」と、乳母の女房がそばよりも返事をする。「三年の後の新枕、我に限らぬ事なれ共、相撲草も取/\〃に、引けばや靡く習ひ也。ま見えむ事は易けれども、君のむ国へ討手に御向きの時、宇佐の宮に参り、千部の経を書読まむと、大願を立、七百余部は書き読みぬ。今二百余部は書き読まず。この宿願成就の後はともかくも」と書とめて、「これは御台所の御返事なり」とて返す。使は急立帰り、別府殿に見せ奉り、「あらめでたや。扨は靡かせ給ふべきや。宿願成就の間はいか程か有べき」と、百年を暮す心地して、明かし暮し待ち居たり。
其後御台所、数の女房たちを召し集めさせ給ひ、「命あればこそ、かゝる事をも聞くなれば、今も淵瀬に身を投げ、跡かきくれたく思へども、草の所縁も忍ぶゆへ、そよぐ心もよしあしと、君が面影の夢現に立ち添ふ時は、又死したる人とは見え給はず。恋は祈りのものと聞く。会ふまで命惜しき也。大臣殿此まゝ御帰朝なきならば、我も身を投げ空しくなるべし。さあらん時に、御形見を、山野の塵となさんより、尊き人に奉じ、跡をも問はせ申さん」とて、御手馴れの琵琶、琴、和琴、笙、篳篥、草子の数を取集め、尊き人に奉ぜらる。四十二疋の名馬ども、みな寺々へ引かれけり。三十二疋の鷹犬の絆を切てぞ放されける。此程有し鷹匠たちをも、思ひ/\に散らされけり。十二てうの鷹どもの足緒を解ひてぞ放されける。
十二てうのその中に、緑丸と申て大鷹の有けるが、君の名残を慕ひてや、立ち去る方もなかりけり。御台所は御覧じて、「あれは君の秘蔵の緑丸なるが、疲れに臨みてあればこそ、羽を垂れひれ伏しては居たるらめ。あれ/\女房達餌食を与へて放し給へ」と仰せければ、「承る」とは申されけれ共緒、いづれも皆女房たちの事なれば、餌飼うやうを知らずして、飯を丸めて供ふる。この鷹嬉しげにて、此飯をくはへ、雲井遥かに飛び上がり、羽うち延べて飛びけるが、大臣殿の御座ある玄海が島に飛び着きぬ。飯をば、とある岩の上に置き、我が身も傍なる岩に羽を休めてぞ居たりける。あらいたはしや。大臣殿は只うつせる影のごとくにて、岩間の宿を立ち出で、汀の方を見給へば、このほど見なれぬ鷹一もと、羽を休めてぞ居たりける。大臣あやしく思召、急ぎ立寄り見給へば、いにしへ手馴れし緑丸なり。余りの事の嬉しさに、急ぎ立ち寄り給ひて、「さて、大臣が此島に有とは、何とて知て来たりけるぞ。げに鳥類は必ず五通有とは、これかとよ。さてもこれなる飯は、御台所の御業かや。此飯を賜ばんより、など言伝文はなきぞ。豊後にいまだましますか。都へ帰り御上りか。淵は瀬となる習ひかや。いかに/\」と宣へば、心苦しき風情にて、涙ばかりぞ浮かべける。大臣殿は御覧じて、「今これほどの身と成て、此飯服してあればとて、いくほど命の長らへむ。鳥類なれ共、あの鷹の見る所こそ恥しけれ。食はでもあらで」と思し召すが、さもあれ、緑丸が万里の波を分越したる心ざしの切なきに、「いで/\さらば、服せん」とて、御手をかけさせ給ひければ、嬉しげにて、この鷹が、羽をたゝき爪をかき、御膝の回りにひれ伏して、ものいはぬ斗の風情なり。大臣殿は御覧じて、「あら、便りもなや、緑丸。汝が見るごとく木葉だにもなき島なれば、思ひの色をも書やらず。いかゞはせん」と仰せければ、この鷹嬉しげにて、又雲井遥かに飛上がる。大臣殿は御覧じて、「しばしもかくて候へかし。あら、名残惜しの緑丸や」と仰せければ、さはなくして、緑丸いづくより取りて来りけん、楢の柏葉含みて、大臣殿おに奉る。「蘇武が胡国の玉章を、雁の翼に言伝てしも、今こそ思ひ知られたれ。我も思ひは劣らじ」と、御指を食い切り、木葉にものをぞ遊ばしたる。単の落葉なりければ、たゞ歌一首書き付て押し畳み、丸めて鈴付に結ひつけて、「はや帰れよ」と有しかば、嬉しげにてこの鷹が、三日三夜と申には、豊後の御所に参りけり。
まだ早朝の事なるに、御台所は縁行直して御座ありしが、緑丸を御覧じて、「汝は虚空を翔るものなれば、至らぬ所よもあらじ。物言ふものにてあるならば、大臣殿の御行方を、などかは申さで有べきぞ。あら、うらやましの緑丸や」と仰せければ、この鷹嬉しげにて、御前さして参り、鈴付を振り上げ居直りたり。御台不思議に思し召し、詳しく見給へば、木葉に血の付いたるあり。急ぎ取り上げ見給へば、いにしへの人の言伝てに、一首の歌にかくばかり、
- 飛ぶ鳥の跡ばかりをば頼め君うはの空なる風の便りを
かやうに詠ませ給ひつゝ、「扨は此世に大臣は、いまだ長らへ給ふぞや。是こそ命のあるしるしなれ。紙なき方にてあればこそ、木葉にものをば遊ばしたれ。硯と墨筆なければこそ、血にてものをば遊ばしたれ。いざや、硯を参らせて、思し召されん事のはを詳しく書せ申さん」とて、紫硯、油煙の墨、紙五重に筆巻添へ、御台を始め参り、その数/\の女房たち、我劣らじと文を書く。取り集めたる巻物は、由なき業と思えたり。
鈴付に結ひ付け、「構へて今度は疾く参れ、緑丸」と仰ければ、この鷹嬉しげにて、又雲井遥かに飛び上がり、羽うち延べて飛びけるが、紫硯の習ひにて、潮の満干に従つて、時々重く成ほどに、次第に引に引かれつゝ、そのまゝ海に浸りて空しくなるぞ無残なる。
島にまします大臣殿、鷹だにも今は通はねば、何に慰み給ふべきぞや。「此鷹の又も参らぬは、もしも別府が方へ洩れ聞え、殺されてもあるやらん」と、時/\〃通ふ息だにも、限りの色と見えさせ給ふ。猶も命の捨てがたくて、海松布、青苔取らんとて、岩間の宿を立ち出で、汀の方を見給へば、波うちかゝる岩間に鳥の羽少し見ゆる。大臣怪しく思召、急ぎ取り上げ見給へば、此程通ひし御鷹なり。余りの事の悲しさに、かしこにどうどまろびゐて、鷹を御膝の上にかき乗せ、「あら、無残の有様や」と、詳しく体を見給へば、沈むも一つ理なり。紫硯、油煙の墨、その数/\の文共が、潮に乱れて見え分かねども、心静かに見給へば、とり/\〃にこそ見えにけれ。「これや女性のはかなきとは。紙、墨、筆だに有ならば、是ほど多き巌にて、いかほども物をば書くべきに、硯を付くるは何事ぞや。さても此鷹が、鬼界、高麗、契丹国へも行かずして、又この島に揺られ来て、二度物を思はする。必ず生を受くるもの、魂魄二つのたましゐ有。魂は冥途に赴けば、魄はうき世にあると聞。我も命つゞまりて、今を限りの事なれば、冥途の道のしるべをして、連れて行けや、緑丸。我をば誰に預けて、さて、何となれと思ふぞ」とて、此鷹に抱きつき、流涕焦がれ給ひけり。彼大臣の御嘆き、君に見せばやとぞ思ふ。
これは、大臣殿島にて御嘆き。豊後の国府に御座ある御台所の御嘆きは、なか/\申ばかりもなし。せめて思ひの余りにや、宇佐の宮に参り給ひ、七日籠り願書を書て籠めさせ給ふ。「帰命頂礼宗廟神。もしも大臣殿帰朝の笑を含ませ給ひ、二度御目にかゝるならば、宇佐の造営申べし。玉の宝殿磨き立、黄金の戸びらを延べ開き、瑠璃の高欄やり渡し、車(元字は石篇)渠(元字は石篇)(しゃこう)の擬宝珠磨き立、砌の砂に黄金を混ぜ、壁には七宝を鏤めて、池には玉の橋をかけ、斎垣は光耀鸞鏡し、回廊と拝殿、四つの楼門、玉の眉(元字は木篇)(まぐさ)を磨くべし。棟梁の棟を浮きやかに、神殿廂を広/\〃と、いかにも瓔珞結び下げ、華鬘の幡は雲を分け、紙銭幣帛、獅子狛犬、黄金をもつて磨くべし。大塔と鐘楼をいかにも高く、雲の上に光を放つて造るべし。四季の祭礼、別、臨時、花の徭役をなすべきなり。九本の鳥居を高く立、極楽浄土を学ぶべし。極楽外に更になし。諸神の所居、浄土とす。歩みを神に運べば、神道よりも仏道に帰する方便、これなり。その海底の印も、今も絶へせず新なり。報賽神にいたせば、菩提の種を包むなり。そも/\神と申は、神足たるを姿とし、正直たるを心とす。塵の中に交はり、我らに縁を結べり。本願限りあるならば、我をば漏らし給ふなよ。敬白」と書き止めて、くる/\とひん巻ひて、神前にとうど置、七日七夜まどろまで、至誠心にぞ祈らるゝ。
まことに神の誓ひにや、壱岐の浦の釣り人、釣りに沖へ出でたるが、南の風に放されて、北の沖へ流れ行き、大臣殿の御座ある玄海が島に吹きつくる。船人どもは島陰に上がり、いとゞ物憂き折節に、大臣殿を見付申、「けうがる生物有や」とて、かなたこなたへ逃げ去つて、怖ぢて左右なく近づかず。大臣殿おは御覧じて、「あら、口惜しや。さてははや、我が姿人間とは見えざりけるや。何と成行事共」とて、御涙にむせばせ給へば、涙を流す体を見て、ちつと心が剛に成て、「さもあれ、汝はいかやう成生物ぞ」と問へば、大臣嬉しく思召、「有のまゝに語らばや」と思し召すが、「もしも別府方の者にてもありもやせん」と思召、偽り、かうぞ仰ける。「是は一年百合若大臣殿、む国へ討手に御向きの時、舟夫にさゝれて、向かひたりし者なりしが、不思議に船に乗り遅れ、この島に捨てられて候。大臣殿御帰朝の後は、はや三年になるかと覚えたり。しかるべくは、御芳志に我を日本の地に着けてたべ」と仰せければ、船人共が是を聞、「あら不便の次第やな。公事する身には何はにつき、物憂き事の多ひぞや。人の上とも思はねば、助けて、さらば戻らふずが、風の心を知らぬなり。我人果報めでたくは、順風次第に出すべし。有とも運が尽き果てなば、なをしも遠く放さるべし。只果報を願へ」。大臣、「げにも」と思し召し、潮を掬び手水と召され、「あら、うらめしや。何とて日本の仏神は、我をば捨て果て給ふらん。観音経の名文に、「入於大海。仮使黒風。吹其船舫。飄堕羅刹」。例ひ船舫、飄堕羅刹の国に赴くと、我一人が祈念によつて、本地の岸へ着けてたべ」と祈誓申させ給へば、誠に仏神も不便に思し召さるゝか、八大竜神波風止め、俄に順風吹き来る。帆柱の蝉口に、八大竜神こと/\〃く面を並べ座せられたり。船の舳先には不動明王の降魔の利剣を引つ提げて、金剛堅固の索の縄、悪魔を寄せじと守護せらるゝ。含(元字は口篇)鏝二の御眦、艫には広目、増長天、伊舎那天、大光天と羅刹天、風天、水天、火天等、雨風波を静めんため、上界下界の竜神、邪心の毒を止めて、夜日三日と申には、筑紫の博多に吹きつくる。有がたし共、中々に申ばかりはなかりけり。
船人、申けるは、「これ迄届けたる忠に、我にしばらく宮使、恩を送れ」と言ひければ、大臣、「げにも」と思召、ならはぬ業をし給ひて、恩をぞ贈らせ給ひける。国内通計の事なれば、別府の臣が伝へ聞、「壱岐の浦の釣人が、けうがる者を拾い来て、養ひ置くと伝へ聞く。急ぎ連れて参れ」と御使立つ。その頃、靡かぬ草木もなし。やがて具してぞ参りける。別府立ち出で、つく/\〃見て、「あら、けうがる生物かな。鬼かと見れば、鬼にてもなし。人かと見れば、人にてもなし。たゞ餓鬼とやらんはこれかとよ。我にしばらく預けよ。都へ具して上り、もの笑ひの種となさん」とて押し止め、門脇の翁に預け、やがて扶持をぞ加へける。彼門脇の翁と申は、年比大臣殿に召し仕へし者なれども、御顔にも御足手にも、さながら苔のむし給ひ、御背も小さく色も黒く、有しに変る御姿を、いかでか知り申べき。され共、情深き夫婦にて、「あら、無残と痩せ衰へたる餓鬼や」とて、重ねて扶持をぞ加へける。
ある夜の寝覚に、祖父が祖母に語りけるは、「扨も先祖の君、百合若大臣殿、む国へ討手に御向き有て、又も御帰朝なき間、その思ひのみ深ふして、そゞろに年も寄るぞとよ。さても御台所は、国府の庁屋にましますよな」。祖母、此由を聞よりも、「さればこそとよ、その事よ。別府殿の、御台に心をかけさせ給ひ、御玉章のありかども、更に靡かせ給はねば、無念至極に思し召し、此二三日先ほどに、まんなうが池に柴漬け申けると聞く。是につけても、憂き命つれなく久に長らへ、かゝる事をも聞くや」とて、せきあへずこそ泣にけれ。大臣殿は物越しにて聞召、「あら、何ともなの事どもや。今迄命の惜しかりつるも、君にや会ふと思ふゆへ。今は命を惜しからず。明けなば急尋ね行き、まんなうが池に身を投げて、二世の契りをなさばや」と、思ひ入てぞおはしける。其後、祖父が声として、「今より後は、いま/\しうな泣そ」とこそ申けれ。祖母、この由を聞よりも、「あはれ、げに世の中に心強きは男子なり。祖父のやうにつれなしこそ、主の別れも悲しまね。我ら、日比の御情、只今のやうに思はれて、いかに云共、泣かうぞ」とて、又さめ/\〃と泣き居たり。祖父、此由聞くよりも、「あら、やさしの祖母御前や。さほど君を大事に思ひ申さば、物語をして聞すべし。構へて口ばし利くな。恐ろしや。彼別府殿の後見の忠太は、翁が甥にてある間、御台所の柴漬けられさせ給はん事を、祖父かねて承り、是をばさて、いかゞはせんと思ひ、愛子のひとり姫、御台所と御同年に罷り成を、「御命に替るべきか」と尋ねてあれば、姫は斜めに喜ぶで、「男子女子には限り候ふまじ。御主の命に替らむこそ、幸いにて候へ。忍びやかに」と申程に、祖父余りの嬉しさに、姫をば御台所と号し、まんなうが池に沈め、姫が居たりし帳台に、君をば隠し申たれ。形見を取り持ちて、「これは夢かや、現かや。さりながら、君を助け申こそ、嘆きの中の喜びなれ。しかりとは申せ共、人間に限らず、生を受けぬる類の、子を思はぬはなかりけり。三界一の独尊釈迦牟尼如来だにも、御子の羅候(元字は目篇)羅尊者をば、又密行と説き給ふ。金翅鳥は子を悲しみ、修羅の脳に嘴を立つる。夜の鶴は子を悲しみ、連理の枝に宿らず。野牛仔牛を舐り、野外の床に伏すと聞く。生きとし生き、生を受けぬる類の、子を思はぬはなきものを、我身を分けしひとり姫、主の命に替へし事、恨みとは更に思はねど、あら、惜しの姫や」とて、流涕焦がれ泣ければ、祖父も共に泣く時こそ、大臣殿は聞召、ともに連れて忍び音の、せき止めがたき御涙、やるかたなふぞ聞えける。大臣殿は、「唯今も立出、名乗て聞かせばや」と、思し召されけれ共、しばしと思ふ所存にて、時節を待たせ給ふ。
かくて其年もうち暮れ、新玉月にもなりければ、九国の在庁ら、弓の頭を始め、別府殿を祝ふ。いたはしや、大臣殿には、御顔にも御足手にも、さながら苔のむし給へば、苔丸と名付申、矢取りの役をぞ指しにける。大臣、弓場に立たせ給ひ、「こゝにて運をきはめばや」と思召、「あそこなる殿の弓立の悪さよ。こゝなる殿の押し手の震う」と、さん/\〃に悪口し給ふ。別府、この由聞くよりも、「いつ汝が弓を射習ふて、さかしらを申ぞ。もどかしくは一矢射よ」。大臣殿は聞召、「射たる事は候はね共、余りに人々の射させ給へるが醜きほどに、申て候」。別府聞て、「さほど、汝が射ぬ弓をさかしらを仕るぞ。是非射じと申さば、宇佐八幡も御知見あれ。人手にはかくまじ。直に切て捨つべし。とく射よ」と責めかくる。大臣殿は聞召、「仰にて候程に、一矢射たくは候へども、引くべき弓が候はず」。別府聞て、「やさしく申ものかな。強き弓の所望か。又、弱き弓の所望か」「同じくは、強き弓の所望にて候」「易き間の事」とて、筑紫に聞ゆる強弓を、十張揃へて参らせ上ぐる。二三張押し重ね、はら/\と引折つて、「いづれも弓が弱くして、事を欠ひた」と仰ければ、別府これを見て、「きやつは曲者かな、其儀にてあるならば、大臣殿おの遊ばしたる鉄の弓矢を射させよ」「尤然るべし」とて、宇佐八幡の御宝殿に崇め置く、鉄の弓矢を申下ろし、大臣殿に奉る。
いつしかもとより御執らし、懸りの松に押し当てて、ゆらりと張つて素引きして、鉄の御調度をうち番ひ、的には御目をかけられずし、歓楽して居たりける別府の臣に目をかけて、大音上げて仰せけるは、「いかにや九国の在庁ら、我をば誰とか思ふらん。いにしへ、島に捨てられし百合若大臣が、今、春草と萌え出る。道理に任せて我や見ん。非道に任せて別府や見ん。いかに/\」と有しかば、大友諸卿、松浦党、一度にはらりと畏まり、君に従ひ奉る。
別府も走り降り、「降参なり」とて、手を合する。いかでか許し給ふべき、松浦党に仰付、高手小手に縛め、懸りの松に結ひ付け、自身立出給ひて、「汝が舌の囀りにて、我に物を思はする、因果の程を見せん」とて、口の内へ御手を入、舌をつかんで引抜いて、かしこへがはと投げ捨て、首をば七日七夜に挽首にし給へり。上下万民おしなべて憎まぬ者はなかりけり。弟の別府の臣をも、同じごとく罪科あるべかりしを、島にて申言葉の情を、有のまゝ申。「さらば、汝をば流罪にせよ」とて、壱岐の浦へぞ流されける。
その後、大臣殿お、国府の庁屋へ移らえ給ふ。御台、この由聞召、ひとへに夢の心地して、袂を顔に当てながら、涙とともに出で給ふ。会はぬが先の涙は、理なれば道理なり。会ふての今の嬉しさに、言の葉も絶えてなかりけり。何のつらさに我が涙、押ふる袖に余るらん。御台所は、宇佐の宮の御宿願の由を御物語ありければ、大臣斜めに思召、立てさせ給ふ御願は、事の数にて数ならず。金銀珠玉を鏤め給ふ。
其後、大臣殿、壱岐の浦の釣人に、「尋ぬべき子細あり。急ぎ参れ」と御使ひ立つ。いかなる憂き目にか会ふべきと、只鬼に神とる風情にて、国府の庁屋へ参り、庭上にひれ伏す。大臣殿は御覧じて、「命の主にてある者が、何とて恐れをばなし給ふぞ。それへ/\」と仰有て、広縁迄召し出され、「嬉しきをも辛きをも、などかは感ぜらるべき」と、御杯に指添へて、壱岐と対馬両国を浦人の下し賜びにけり。門脇の翁を召し出させ給ひて、筑紫九ヶ国の荘政所賜び給ふ。翁が姫のために、まんなうが池のあたりに御寺を立給ひ、一万町の寺領を寄せさせ給ひけるとかや。緑丸が孝養に、都の乾に神護寺と申御寺を建て給ひけり。鷹のために建てたれば、扨こそ、今の世までも高雄山と申なれ。
大臣殿の御諚には、「筑紫に住居をするならば、もの憂き事もありなん」と、御台所を引具して、都へ上り給ひけり。網代の輿は十二挺、張り輿は百余挺、大友諸卿、松浦党、御供を申さるゝ。昨日迄は賤しくも苔丸と呼ばれ給ひしが、今日はいつしか引きかへて、七千余騎を引き具して都へ上り、父母に対面有て後、やがて参内申さるゝ。御門、叡覧まし/\て、「いかに珍しや。先度別府が上り、討たれぬる由申せしを、誠ぞと思ひて、勅使を下す事もなし。不思議の命長らへ、二度参内する事、一眼の亀のたまさかに浮木に会ふがごとく」とて、日の本の将軍になさせ給ふぞ有がたき。さてこそ、天下太平、国土安穏、寿命長遠なりとかや。
(岩波書店刊『舞の本』新日本古典文学大系59を底本としました。)
吉野伝
吉野伝
湯浅経邦著
遊女吉野、実の名は徳子、祖父は藤原の秀郷の末なりとぞ、慶長の頃、都大仏の辺りにうまれぬ、まだいとけなきほどより、六条三筋町の廓林何がしなるうかれ女の長がもとにありて、童名をば林弥といひき、一とせ、出雲の国の守、これが相を見給ひて、家あるじにのたまふやう、此童なみならず、よくおほしたてよ、かならず名を日の本にしらるべき相あり、とをしげ給ひしが、げに、およずけては、天の下にならびなきあそびとなりてぞ、万のをのこしたはざるはなかりし、其頃、もろこしまでもきこえたる人は、あづまに羅山林氏、都に徳子よし野となん、むかし、江口の妙、西行に歌よみかけしなどは、こよなきほまれながら、すこしほふけづきて、すきたわめたるかたの、情にうとくやありけむ、とおもひやらる、されば、日のもとにてたぐひなき名妓とは、此よし野をぞいふべき、さて天正のはじめ、二条万里小路に廓ありし時より、今の島原の廓になりて、寛文、延宝の頃までに、吉野といひし遊女十人ありけり、此徳子は二世のよし野なるを、今はさだかにしれる人あらざれば、先其時をかうがへわかちて、こゝにしるしつ、
林与次兵衛家
二条柳町、遊女の長なり、はじめ又一郎といふ、其後、六条より今の廓に移りて、寛文五年、家断絶す、
元祖吉野 諱禎子
時代詳ならず、上職、高名の遊女なり、今按るに、天正、慶長の頃、万里小路の廓の遊女なりしならん、
二代吉野 諱徳子
六条廓上職の遊女(コレヲ太夫職、又五三ノ君ナド通称ス)、禿名林弥、肥前といへる天職にしたがひて、元和五年五月出世、寛永八年退廓、在廓の間十三年、六条にて七人衆の内、定紋一ツ巴なり、
三代吉野 諱恰子
時代詳ならず、坤廓(今ノ島原ヲイフ)天職の遊女(俗ニ天神トイフ)今按るに、正保、慶安の遊女ならん、
喜多八左衛門家 上ノ町
初代吉野 諱雄子
六条廓上職の遊女、寛永十七年出世、それより坤廓に移りて、正保三年退廓、
二代吉野 諱雪子
坤廓天職の遊女、明暦三年出世、始上職、万治二年、天職となる、寛文二年卒す、もと浪花の上職にて、薫といひし者なり、
三代芳野 諱媛子
坤廓上職の遊女、禿名三弥、延宝三年出世、徳子吉野に次ては高名の聞えあり、定紋は一ツ巴の中に桜の花あり、今人、二代吉野とおもへるは、此媛子がことなり、
田中喜三郎家 中ノ町
吉野 諱征子
時代詳ならず、坤廓上職の遊女、後天職となる、今按ずるに、正保、慶安の間ならん、
高田七郎右衛門家
よし野 諱栄子
坤廓天職の遊女、もとは林家の上職なりしが、正保四年、高田家に移りて天職となる、
伊藤吉右衛門家 柏屋と云、上町
吉野 諱球子
時代詳ならず、坤廓にて上職の遊女なり、今按るに、万治、寛文の間ならん、
宮島甚三郎家 大夫町
吉野 諱悦子
坤廓天職の遊女、禿名七之丞、寛文十一年出世、
さて、徳子吉野がことは、箕山が大鑑の処々に見へたるを、またべちに、烈女伝とて真名もて書たる巻あり、其中に吉野伝ありて、いと/\つばらかなり、今其本文のまゝを出して、後のしるしとす、
色道大鑑 巻之十七
扶桑女列伝云、吉野、諱徳子、姓藤原、松田氏、曩祖出2於俵藤太秀郷1、後陽成院御宇、慶長十一年丙午三月三日、生2落陽大仏1、自2七歳之秋1、被レ養2林氏与次兵衛之家1、而従2益子肥前1、禿名林弥、肥前不レ深レ憐2愍徳子1、而家主労而令レ退レ之、其後不レ扈2従先輩1矣、于レ時雲州太守視レ之、告2家主1曰、童女林弥、有2奇異相1、必発2名於日域1、最可レ為2上職1、依2此言1、元和五年已未五月五日出世、而補2太夫職1、于レ時徳子年十四、名曰2吉野1、自レ是先有2此名1、依レ為2高名1号レ之、徳子性軽爽而智恵甚深、霊艶而化レ心活然恣レ気、且下レ情有レ要焉、徳子聰レ香得レ妙、亦常好レ酒、能2遊宴1、言語奪2人心1、在廓之内、高徳威儀、其繁数無2指頭1、語断2舌根1而已、有2大明国呉興季湘山者1、夢中会2吉野1通レ言、嘉2這幽容1、而以寛永四年丁卯秋八月、賦レ詩而送2扶桑1、其詩曰、
日本曾聞芳野名、夢中髣髴覚猶驚、
清容未レ見恨無レ極、空向2海東1数2雁行1、
又翌年、自2漢土1請2徳子之寿像1、我朝之遊客議レ焉、而命2画工1令レ図レ之、跪2徳子之目前1写2佳貌1、画工尊2其暉相1、而不レ採2毛延寿之例1、時図画処七影、不レ違2顔色1、恰如レ移2影鏡1、悉附レ軸為2七幅1、而遣2九州1、異朝商人代2之綾羅1、而歓喜夥、況於2倭人1乎、衆人見2金峰山之花1者、忍2松氏姿1、詠2袖振山之月1者、思2徳子面影1矣、寛永第八辛未年、就2麁客1而有2訴論1、因レ茲雖レ不レ充2年季1、同年八月十日、年廿六而還2旧里1、
箕山之評云、嗚呼徳之感2天下1也、夫至乎哉、吉野流1美名于中華1、令2風雅之士1悩2丹心1、何必在レ色耶、吾国唱2名于異域1者、載2青史1、而今不レ足レ贅、天正而来、羅浮子道春達2名大明1、活所子道壇2文詩名于海外1、吉野可下与2二賢1並レ鏨馳上矣、惜哉、使2司馬氏在1必採載2女史之伝1、
また、吉野がかたち、その世にたぐひなかりしよしは、同じ書の寛文遊女式てふ巻中に云、上略、六条の時、太夫十八人の大寄ありけり、さなきだに、その時の上職どもは、荘厳常にあたりもかゞやくばかりなるに、此日ははれの会なりとて、あらたに衣裳を改む、綾羅錦繍をまとひ、金色のひかり座に充て、ひとへに安養浄土に異ならず、此日、吉野其上客たりけるが、いまだ出座なし、いかにととへば、暁天まで起居給ひしに、いまだしづまりておはす、といふ、さらば夢おどろかし申せ、と寝所にて手水をこひ、ねみだれ髪にて座に出たり、白綾の肌着に無地なる黒きものふたつかさね、紫のくゝし帯をまはし/\出つるが、数輩並居たる女郎をこえて、座上に着たる体、あつと感じられて、しばらく挨拶もしがたかりけるとかや、其座におはしける歴々の御かた、予にかたらせたまひけるまま、書つけ侍る云々、(採要)、私に云、今按ずるに、此頃の太夫職といふものは、先童なるほどより其人をえらび、いとよくおほしたてゝ、さて、世に有がたきほどの姿ならでは、此職にはなさずと、(今按るに、傾国の上首を太夫といへるは、元和の頃よりの称なり、其頃、六条に佐渡島庄五郎などいふ座ありて、申楽の能をなすに、其中に、芸の堪能なる遊女をさしてしかよびしより、中頃は、又姿とみやびわざと、うちあひてすぐれたるを、百人が中より十人ゑり、十人が中より一人ゑらみ出すほどならでは、太夫とはいはざりしとなん)されば、おのづからをよしとて、おもてに化粧せず、まれ/\化粧するは、品くだりたる遊女なりとなん、さるに、此吉野、名だゝる遊びどものさばかり心づかひしたる円居のむしろに、つくろはぬ姿の、かくもきぢめの見えつるは、いと/\たぐひなきかたちなりかし、先に、閑田子伴のうし、続畸人伝を草案せし時、此遊びの伝を載す、其中に、鍛冶のをのこ吉野に懸想して、つひにほいをとげて、後西川に沈みて死せしことをときたり、こは西鶴がつくれる好色一代男(天和二年板本、桜塚西吟が跋あり)てふたはれ書に見ゆ、(其後、名代紙子など云冊子にも云り)「都をば花なき里になしにけり吉野は死手の山に移して」と或人のよめり、なきあとまで名を残せし太夫、前代未聞の遊女なり、いづれをひとつ、あしと申べき所なし、情第一深し、爰に、七条通に駿河守金綱と申鍛冶の弟子、吉野を見て、人しれず我恋の関守は、よひ/\ごとの仕事にて、五十三日に五十三本、五三の価をためて、いつその時節を待ども、魯般が雲のかけはしのよすがもなく、袖のしぐれは、神かけて是ばかりは偽なし、吹革祭の夕暮に立しのび、及事のおよばざるはと、身のほどいと口をしと歎くを、或者太夫にしらせければ、其こゝろいれ不便と、ひそかに呼入、こゝろのほどをかたらせけるに云々、(下略)、続畸人伝中、吉野が伝に云、かくて、明の日桂川に身を投し者ありしが、一通の遺書あり、とし比のおもひをばとげて、今は世におもふことなければ、かく身を捨るなり、とかけり、何事ともしられざりしが、この鍛冶男なりけるとかや、希有のことゝいふべし、(採要)、私に曰、又其比、近衛信尋公(応山公と称す、世に三筆と称せし三藐院殿の息なり)華街にての御名を石白と呼て(石白は関白をかくしていふならん)しば/\吉野が許にかよひ給て、御情の程いと深かりしに、吉野おもはずも人の妻となりければ、いとゞおもひみだれ給ひしよしは、松花堂昭乗に賜ひし御文にてしらる、其文に曰、(此文は賀楽主人かくせり)
年来誤り候て執着候事之、今更截断難レ叶事出現候て、妄念乱候、一両日山居候而、仏法之道理も申談候は如何、猶承諾于三十日辺可2登山1候、
菊月十一日
滝本
今案ずるに、天正十八年、原三郎左衛門といふ者、豊太閤の御ゆるしを得て、都万里小路二条の南北三町にはじめて遊女町をつくる、(傾城廓の名ここにおこる)まだ其比は、人の家もなく、大路は柳の木立ならびたりしを、木を伐りて家の柱とし、格子、局など、時の間に成て、こゝを柳町の廓とぞいひける、(今俗、柳馬場といふも、柳の木ありしゆゑなり、又、今の島原に、出口の柳といへるも、其なごりなりとぞ)さるほどに、四方に在しうかれ女の長ども、皆こゝにつどひて、いと/\にぎはへることなりけん、豊太閤は、もとよりかやうのことをすき給ふ御本性なりしかば、御顔をものにつゝませ給ひ、従者一人二人にて、人しれず、格子、局など、見ありかせ給ひしとなん、これらにていにしへをしるべし、それより、こゝにあること十三年の後、やゝ世の中おだしくなりしにつきて、商人の家造るさはりなりとて、秀頼公の御時、慶長七年に柳町の廓を、六条坊門(今の五条をいふ)の南、西ノ洞院の東に遷さる、中に三つの大路あるからに、時の人、三筋町の廓とぞいふ、(今の室町、新町、西洞院これなり)かくて、元和のはじめに、浪華津の浪しづまりてよりは、天の下にありとある人、みながらやすくたのしき時にあひしかば、やんごとなき御かた/\〃、国の守などもこゝに通ひ給ひて、よき人になれまゐらする遊女どもなれば、その様おのづから風流なりけり、万のあそびわざもむかしめきて、十柱(正しくは火扁)香、貝おほひ、歌よみ、連歌し、弾ものも、琵琶、琴など、すべてえんなることをこのみて、下者のわざは目にだにもふれず、其比、三筋町に七人衆といひて、わきて名高きあそび七人ありけり、其七人といふは、林家の吉野、同じ家の対馬、同じ家の土佐、柏屋の三笠、宮島家の小藤、若女郎家の葛城、永楽屋の初音、又其後、六条の四天王といふあり、万右衛門家の万戸、同じ家の淡路、五郎左衛門家の野風、八左衛門家の長島、かく世にしらるゝほどの遊女は、一とせの身の代りとて、黄金あまた家あるじにあたへおき、さておのがまに/\まらうどに逢ふほどに、司高き人にまれ、宝おほき人にまれ、心にあはぬ人には絶て見えず、されば、もしあはじといはれし人は、うき恥を見て長き思ひに沈み、またかれが心にあひてしたしむほどの人は、つひに身をはふらかし、家をうしなふにいたるとぞ、伝て云、ある年のやよひ、仁和寺の花おもしろき頃、都の守りし給ふ公の(板倉周防君なりといふ)此辺りをすぎさせ給ふに、木々には色々の幕うち廻し、廓のもとには、いときら/\しき女の乗ものゝあまた立ならびたりしかば、さては内あたりの女房のしのびて花見給ふならむ、と人してとはせ給ひしに、三筋町のうかれ女どものつどひて、花見に来たれるなりしとなん、かうやうの過差のことのみありしゆゑにや、大猷院殿の御世、寛永十八年に、又今の朱雀野へ遷されたるなり、(此所を新屋敷といふ、又島原といふは、其年、肥前の島原に耶蘇宗門の徒蜂起す、其族徒、楯こもる所を島原といふ、此廓も其所に類するをもてしかいふなり、名づくる所自称にあらず、と正徳の山州名跡志にいへり)されども、万治、寛文の比は、猶ときめきて、遊女のみやびなりしこと、六条の時におとらざりしを、(今の廓になりて、正保、慶安の間、奥村の八千代、中村家の小藤などいひしは、いと名高くすぐれたる遊びなりし、又寛文中には、喜多家の大和、高田家の左門、柏屋の小藤、上林家の薫、此四女を後の四天王といひしとなり)おほやけの法やゝつよくて、品高き人の出入をとゞめ、はた我人おさまれる世の習ひに移りて、とめるを尊み、貧しきをいやしみ、若き人もおのづからまめ/\しう、かゝるあたりに宝をうしなふ人まれ/\になりもて行に、遊びどもゝ、さるかたに心ひきて、いつとなう品くだりて、延宝、天和の比には、手かき、歌よみ、よろづに心高き遊女はやう/\なくなりにたり、と箕山翁がかきたるにてしりぬ、さても、吉野かく姿のめでたかりしのみならず、其心の操も、又こと人には似ざりし、大鏡十五、雑談の部といふに云、六条の時、後の吉野徳子天下に名を高くし、威勢都鄙にかゞやかせり、子細ありて、季の充るをまたず、家主隙を出し、暫く洛外に居たり、上京なる人これをしたひ、むかへて妻室とす、其頃、京わらんべ吉野が高徳をほむるに、夫の家名をつけてこれを唱ふ、一族聞て、安からぬことにおもひ、使をもつて離別すべきことを諌といへども、夫これを請ず、一類名あるものどもなれば、各議して不通せり、然りといへども、夫これをいたまず、猶なづみて、昼夜これをたのしみ居けり、かくして年を過るに、吉野、節あり義あることを、夫が一類伝へきゝ、感じて和睦しけり、さらば、妻室に対面して一門の交りをなさんと、日をさし夫が家にあつまる、一門の女中、天下無双の吉野といふに初て逢事を恥て、さなきだに綺羅を尽すなる輩、あらたに綾羅錦繍をたちぬひて、香をたき、翠黛紅粉こゝをはれとみがき立、彼亭にうつる、一家の男女おしなべて座につきたる粧ひ、善尽し美尽せり、一門土器とりどりに酒蘭なるまで、吉野座敷へ出ず、使をたてゝ間に、吉野がいはく、我身不祥なり、御一門の座につらなり奉ること憚おほかるべし、と謙退す、一門の女中、先吉野を見たがり、我々ども外ならぬ身にしあれば、いかでかこゝろおかせ給ふべき、さあらば奥に入り侍らん、とて男女もろとも簾中におしこみ、こゝかしこを見るに、吉野といふべき人なし、内室はいづちにぞ、といへば、台所の末にきよげなる女の、しをれたる肌着のうえに、藍染の木綿の袷をかさね、黒き帯を押しごきて高くしたり、髪をばつくね兵庫に曲て、腰に白きさらし布をはさみ、とりしまひたる器をおしのごひて居たり、是何人ぞや、これ則吉野なりき、一門女中、そば近くむらがり、吉野が手をとりて、中の亭まで誘ひ出し、各並居つゝ、かく紫のゆかりと成ては、隔なく睦びまゐらせんとおもふに、さまではいかばかり辞しおはしますぞや、うしろめたしなどいへば、さて/\有難き仰、冥加なきまでにおぼえ候、妾は是匹夫の家に生れ、幼少より人につかへ、殊更つたなき傾国となりし身なり、なべての妾は、色につきて、其一人の寵をいたましむるに堪たり、今公の御いたはりによりて、是にとゞまるといへども、簾中のさたに及ばず、ひとつとして其心なし、しかあるに、今公の妻室になずらへさせ給ひ、ゆかりあるかたにおぼさんとや、中々おもひもよらず、自今以後、公の家女としてつかうまつり、御家門の御まじはりにめさせ給はゞ、倍膳をつとめ、御酌につかへまつらん、と倹に演たりし詞の、花のにほひあまりて、一門の女中、さしもきらめきてかざりし、かのこ、縫箔の玉の光も、よし野が藍染の麁服にけおされて、たゞ色なくぞ見えわたりける、おの/\あつと感じ、つや/\返答にだに及ばず、をとこがたの親類も皆対面して、努々疏意あるまじ、向後隔なく申かはしまゐらせん、と諾して、それ/\〃に盞事をはりて引ぬ、それよりして、一家一門の憐愍、したしみ、あげてかぞへがたし、をしい哉、人生かぎりあれば、吉野の花も無常の風にちりて、人のことの葉のみぞ今世に残れる、物みなかくのごとし云々、(採要)、今案ずるに、上にいへる上京なる人とは、佐野三郎兵衛といひし人なり、又、真名伝に、麁客につゐて訴論あり、これによつて、年季不レ充といへども旧里にかへる、といふ、此麁客は、かの鍛冶のをのこがことなり、さて、吉野、此をのこがことにて訴などのくぜちいできたるを、佐野氏はもとよりあひおもふ中なるうへにて、情深きこゝろざしのいと殊勝なりとて、日頃よりおもひまさり、人しれずかれが身の代をあたへ、さて、家あるじよりは訴るによりて、旧里にかへせしよしいはしめ、しばらくかごかなる処におきて、後むかへとりたるならむ、佐野氏は、其頃、都にきこえたるとみ人にて、箕山などとも、風流をもてしたしくむつみたる中なるべければ、かやうにたど/\しく書たるなるべし、吉野、佐野が家にうつりて、十二年の後、寛永廿年八月廿五日、卅八歳にてみまかりぬ、佐野氏は代々日蓮宗にて、立本寺に塚あり、かの寺にはふむりしにやあらん、此寺、もと上京にありしを、宝永の火の後、西の京にうつされたれば、今はさだかならず、又、鷹が峰の日蓮宗の壇上に(寺号は寂光山常照寺と云)吉野塚とてあり、こは日経上人の因をおもひて、これが髪などをさめたるならんか、此日経上人の事は、畸人伝に云、よし野島原にありしとき、(時代の事よくかうがへられざりしなり)ある客舎へ一人の僧きたりて、よし野とやらん一目みたし、といふ、あるじ頭をふりて、よし野は名妓なり、かろ/\〃しく見給ふべきにあらず、殊にさる御身にては似げなし、とあら/\しくいへども、僧きかず、たゞ見るべし、と動かねば、もてあまして、せんかたなく、かくと告たれば、何とかおもひけん、ついきたりて、いざおくへおはしませ、といざなふを、僧は立ながらつら/\と見て、よくみせたり、今は用なし、はやかへるべし、たゞし是を見るには、一百銭の銀入べしと人いへり、さらば是を、とて首にかけたる財布よりとりでゝ、其家主にあたふ、あるじ笑ひて、これ計の事に何の価をかうけ侍らん、とかへしたれば、さては人が我を欺きしなり、とて又首にかけて出られぬ、吉野ふしぎにおぼえて、密に人をつけて、其帰る所を見せ、其名をもきかしむるに、鷹が峰の壇上にて学匠の聞えある日経上人といへるにて、かの銀は、人のいふまゝに信心の旦那にかりて携へられしなりき、吉野深く信仰して、殊更に、小袖、金子などを施して、今よりは帰依の者に成侍らん、何にてもともしからんものは心おかず仰給へ、とてこれより後はしば/\音信しが、灰屋にていくほどなく身まかりし、後ある人、此僧のことを告しかば、則嵩が峰壇上にはふむりて、今も吉野塚とて有となん云々、一日、立入うし予が為に鷹が峰にゆきて、吉野塚を尋ね、はた僧にかたらひて、鬼録等を写して予におくらる、塚は本堂のうしろのかたにあり、
唱玄院妙蓮日性 寛永廿年八月廿五日 于レ時卅八歳
又、鬼録には、佐野紹益先妻としるせり、寺僧云、此寺、先の門は名妓よし野が建る処なりと、又これが為に、年に三たび(正、五、九なり)今に経を読誦するとぞ、いと/\すさうのことゝいふべし、又、吉野あそびたりし時、常にもてならせし調度、広東島の衣のきれ、京極黄門の山中の色紙、蟹の盃などいふものを、世に伝へてもたる人こそありときゝしが、
因に云、佐野三郎重孝は、都上売立の人にて、通名は灰屋三郎兵衛、後剃髪して紹益といふ、(重孝は其懐紙に書たるところ也)実は本阿弥光益が男佐野紹由が為に養はる、重孝はやく妻あり、或人いふ、本阿弥光悦が女なりと、よし野はそれが後にむかふ処なり、(大鏡に、一類名ある者どもなれば、とかけるは、これらをいふか)重孝、和歌、および、茶、香、鞠に名あり、中にも歌は逍遥軒貞徳翁にまなびて、いとよくよみしとぞ、
- むさし野の草はみながら置露の 月をわけゆく秋の旅人
又、或人のもたる懐紙の歌、
- 明やすきうらみはあらじ我袖に すゞしさのこせ夏の夜の月
又、よし野の身まかりし時、哀悼の歌とていひつたへたるは、
- 都をば花なき里になしにけり よし野は死手の山にうつして
此人の著す処、にぎはひ草二巻あり、こは兼好ほふしのつれ/\〃草にはたがひて、茶、香、鞠、あるは和歌のことにて、やごとなき人々にちかづき奉り、其身幸ありしことどもをおもひ出て書たるなり、この草子のはじめに、我身の幸を人にしらしめむとするにやと、罪うべきことにも思ひ侍らぬにはあらねども、といへり、これらもて、其富たりし事しらる、又下の巻には、光悦が鷹が峰の太虚菴の有様など、つばらかにしるせり、元禄四年十一月、八十一歳にて終れりとなん、
(中央公論社刊『燕石十種』第六巻を底本としました。)
与話情浮名横櫛
与話情浮名横櫛(一部)
瀬川如皐作
赤字は「源氏店妾宅の場」で有名となったセリフと場面。
四幕目 源氏店妾宅の場
本舞台三間の間、常足。大阪土、下地窓の欄間。上の方に三尺の床の間、これに続き大阪土の壁、腰張りの好み。下の方に、一間上下二段の押し入れ。上の方、中窓、同じく壁、船板の羽目。屋台一面大和葺の庇。二重の下、腰障子一間の家体、前づら竹の打附け窓。この前へ栗丸太の門口を押し出し、四ツ目垣へ卯の花の盛り、海棠の台実木、庭の模様よろしく。二重よき所に箱火鉢、菓子箪笥、鏡台など置き並べある事。右の鳴り物にて、道具納まる。
ト下手よりお富先に、藤八、お福附き、件の傘を持ち、出で来り、
藤八 なる程、こちらが表口じゃな。この間は、これから参りました故、裏口はとんと勝手が知れなんだわえ。
トこの内お富先へ、門口へ入り、上へあがる事。お福、莨盆を出して、
ふく サア/\一服お上りなされませ。
藤八 モウ/\、構はつしゃるな/\。
とみ コレ、お茶の支度をしや。
ふく ハイ/\。
ト立って、明りのつきし有り合ふ土瓶の茶を汲み出して、
マア、これを一つお上りなされませ。
ト有り合ふ菓子箱を出す。藤八、こなしあつて、茶をとる事。
とみ たゞ今すぐに、お煮花が出来まする。マ、一つお取りなされませ。
藤八 アゝ、モウ/\、構はつしゃりまするな。多左衛門どのは、今日は為替仲間の参会へござつて、どうで戻りは遅うござらう。その留守へ参って、無遠慮千万○アゝ、だん/\雨がやみましたわえ○傘を一本お貸しなされませ○これは御内室、お世話になりました。
トもじ/\立ちかける故、
とみ アゝ申し、マアお待ちなされませ。珍らしいあなたのお出、今、折角お茶の支度も致しました。マア一つ、お上りなされませ。其まゝにお帰し申しては、宅で戻ると、わたしが呵られまする。
藤八 アゝモシ滅相な、お前さんを呵らせては、私が済みませぬ故○そんなら折角のお志、お煮花を一つ下されませうか○ハゝゝゝゝ。併しマア、お前を呵らすまいとて、私が長居して、却って多左衛門どのに私が呵られうも知れぬわえ。
ふく これはしたり、内の旦那は、其のやうな事には、とんとお構ひはござりませぬ。誠に粋な御気質でござりますわいなア。
藤八 サア、その粋な多左衛門どのなればこそ、かうしたいきなおとみさんを、世話しておかしゃるてな○とはいへ、女子二人の所へ、わしらが様な男が、一人長居をして居るのは、譬へにも言ふ猫に鰹節。
とみ エゝ。
トこなし。
藤八 鰹節は本土佐ぢやが、肝心のこつちがどら猫かも知れぬわい。
ト思入あって云ふ。これにてお富、身仕舞しながら、思はず笑ひ、
とみ ホゝゝゝゝ○ほんに可笑しい藤八さんぢやわいな。
トいひながら、顔をしてゐる。この内下女、茶を入れる事。
藤八 イヤ、又店向の格式などいふものは堅いもので、先づお前方も、定めてお聞き及びでもあらうが、私共の大旦那は、三年後から、笹目ケ谷の別荘へ隠居さつしゃれて、店はこつちの多左衛門どのをはじめ、私等が預かってゐる故に、猶々堅くせにゃならぬじゃ。然し多左衛門どのには、別して堅いお人故、かうした休息所はありながらも、滅多にはござらぬ様子。所で私が呑み込んで、折々は行きなされ/\と勧めるようにして、こつちへ泊りにおこしまする○モシ女中衆、あんな堅い人でも、こつちへ泊りにござって、おとみさんと、睦言の痴話などといふ様な事がござりますかな。
ふく オホゝゝゝゝ、どうでござりまするか、そんな事は知りませぬわいなア。
藤八 所で私が、多左衛門どのにいふには、あゝしておとみさんを、内密者にして置かうよりは、表向き御内儀の弘めをしてはどうぢやといふたれば○イヤあれは、ちと仔細あつて三年前、田舎より連れ戻ったが、わしが女房にするといふ訳にもゆかぬ者なれば、どこか相応な所があらば、嫁づけてやりたいと、此のやうに云ふてゞあつたが、どうも一ゑん合点が行かぬて、併しマア、おとみさんが、どこへ縁づかうと、真実思ふ料簡なら、随分そりゃア、こゝらあたりにも、望み手はないでもないが、かうやって世話をして置きながら、今さら余所へやらうとは、多左衛門殿の料簡が分らぬて。
ト考へるこなし。
とみ ほんにさうでござんす。わたしもかうして三年越し、深いお世話になっては居れど、ほんの床の間の置物同然でござりますわいな。
藤八 ハア、それではいよ/\、多左衛門殿の言葉が、本当かしらんて。
ト思入。この時下女お福、茶を汲み持ち出て、
ふく ハイ、お茶が入りました。
ト湯呑みの茶を、お富の側へそっと置き、藤八へ茶を出して、
お煮花が出来ました○お一つ、お上りなされませ。
藤八 アゝコレ、こんなお世話になる事なら、なんぞお土産でも、持って来ねばならぬのじゃ。アゝ、鈍な事してのけたわえ。
ト思入あって、此のうち紙入れよりちょっと二朱金一つ、鼻紙へくるみ、外に一包拵へる事。此のうち 雨車止む。
ふく ドレわたしは、傘をちょっと戻して参ります。
ト立ちかけるを、藤八お福を引き止め、二朱の包みを出して、下手にて遣る事。
イエ、こんな事は。
ト捨ぜりふのように断る事。
藤八 ハテマア、よいわいの。
ト仕方でよろしく、一つの包みを出し、酒肴をいひ付けろ心にて囁く故、よせとお福手にて仕方する。藤八、ハテ行けといふ心意気よろしく、お福是非なく、
ふく ドレ、傘を戻して参りませうか。
ト傘を持ち、下手へ入る事。お富、これに心づかず、此のうちに身仕舞してしまふ事。鏡台を片寄せて、
とみ お前さん一人捨てゝ置いて、身仕舞して居りました故、お構ひも申しませぬ。モシ藤八さん、堪忍して下さんせえ。
藤八 なんの/\、心おきなくなんなりともさつしやりませ。こちらも遠慮なしに煮花をば御馳走になりましたが○アゝ、大そうによい茶だ故、どうやら浮かされて、今夜はどうか、寐られぬようだわえ。
とみ お前さんが浮かされなんしたら、どこやらでさぞ、嬉しがる女中さんがござりませうねえ。
藤八 アハゝゝゝゝ、よしてもおくれじゃ、おとみさん、おだてさつしやんな。
トこなしあつて、少し摺り寄り、
イヤ、さっき風呂から、戻らつしゃんしたその時も、綺麗なものぢやと思ったが、今また身仕舞をさつしやつたら、また格別に、美しいものじゃなア。
とみ エゝモ、よして下さんせ。
藤八 ハテ、よせといふて、どうよされるものじゃ○アゝ誰に見しよとて、紅かねつきよぞ、みんな主への心中だて○とは有り難い。
ト好みの合方、思入ある。お富心意気あって、
とみ アゝモシ藤八さん、そんな事、いはしやんすなら、早う戻って下さんせ。
トじつと腹立つ思入。
藤八 なんじゃ、戻れえ。それでもお前が、マア茶が入るから、ゆるりとして行けと、云ふたじゃないかいの。
トこなし。お富、ひょんな事いひしと思入。
アゝ、思へばこれが浮き世の習ひ、一つ旦那へ奉公して居れど、多左衛門どのは働き者とはいふものゝ、よくせきに果報者なればこそ、おとみさんの様な女子に思はれ、それを自由に寵愛してござるとは、よく/\よい月日の下に生れたと見えるわぇ。アゝ、羨ましい事じゃなァ。
トこんなこといひながら、だん/\側へ寄る。お富、迷惑なるこなしよろしく。右の合方、時の鐘。此のうち向ふより蝙蝠の安五郎先きに、後より向ふ疵の與三郎、頬冠り、好みの形にて、出で来り、花道にてこなしあって、
與三 蝙蝠や、手前がこの間行ったといふのは、向ふの家か。
安 さうよ、随分わかりのいゝ家だ、行って見や。
與三 さうして今日は、どうするのだ。
安 ナニ、今日は、小遣ひ取りをする積りだ。マア、おれが先へ行くから、手前門口に待つて居やな。
トこんな事をいひながら門口へ来て、
おれが先へ入つて、段どつて置いて、それから呼び込むから、そこに待つてゐや。
與三 ムウ。よし/\。
ト思入。蝙蝠安窓口を開けて、
安 ヘイ、真平、御免なされませ。
トいふ。お富こなしあって、
とみ アイ、どなたでござんすエ。こつちへ、お入りなさんせ。
ト安、辞儀して、
安 ヘイ、真平、御免なせぇ。
ト内へ入り、
御新造さん、この間は、大きに御厄介になりました、有り難うござります。
とみ お前は、いつぞやのお方、なんでござんしたエ。
安 ヘイ、ちつと、申し兼ねた事じゃアごぜえますが、また少々お願へがあって参りました。
とみ 又お前、そんな事をいつて、この間もあれ程訳をいつて、あげたではござんせぬか。殊に、縁もゆかりもないお前、そんな形をして、たび/\来られては、近所の手前もあり、誠にこつちでは迷惑でござんすわいな。
安 そりゃモウ、お前さんのおしゃる通り、参られた義理じゃござりやせんが、この間、モシ、わつちの友達が喧嘩をして、大きな怪我をしました。そこでマア、わつちらが寄って世話をして、湯治にでもやらうと思ひますが、御覧なさる通りの始末だから、御近所を少々づゝお願ひ申しまする積りで。
トいひながら立って、門口へこなしあつて、
與三や、こつちへ入りな○モシ、この野郎でごぜえます。何分お頼み申します。コレ、お礼申せ/\。
ト此のうち與三郎、手拭を冠りしまゝ内へ入り、下手へ小さくかしこまり居る。
與三 そりやア、大きに有り難うござります。
ト思入。
とみ なんの事かと思つたら、その事でござんすか。折角のお頼みではござんすけれど、今日は生憎と旦那も留守なり、さうたび/\は、わたしにもしにくいによって、マア今日はお断り申しまする。
安 モシ、さうおしゃつちゃア物がねぇ。たとへ旦那がお留守であろうとも、随分わからうと思ふ節があればこそ、来たのでござりやす。モシ、たんとの事じゃアござりやせん。どうかしてやつておくんなせえな。
とみ モシ、いま聞いて居ればおつに絡んだ物のいひやう。何もわたしの所で隠し売女や勝負ごとの宿をしたといふではなし、何も後暗い事はござんせぬ。しらツこの町家の住居、何もお前方につけ込まれて、無心をいはれる覚えはござんせぬわいなア。
安 ソリヤアおつしやる迄もなく、これが天秤棒を肩へかけて、一貫の元手で、四百儲けるといふ、しがねえ暮しの所なら、こんな事もいつちやア来やせんが、マア、お前さんなんぞは、年が年中、お蠶ぐるみで居なさる御身分だ。モシ、たんとの事じやアござりやせん、どうかしてやつておくんなせえ○モシ、一服、貸しておくんなせえやし。
トこの内よろしく藤八、思入あつて、この時中へはいり、
藤八 最前から私も、黙ってこれに居つたが、何をいふにも主の留守、どうも仕やうのない事じや。ところで、わしが扱ひじや。甚だ軽少ではあるけれど、こりやわしが心ばかり、マア/\、これを取って、今日は不承して帰らつしやれ。
ト紙入より當百一枚出し、鼻紙に包み、蝙蝠安に出す。
安 こりや、有り難うござりまする。
ト手に取り、捻くつて見て、
これ見や、草鞋銭が、たつた百だ○モシ、有り難うござりまするが、こりやアお返し申します。
藤八 ムウ、そんなら、その銭はいらぬのか。
安 いらないから返すのよ。大の男が二人来て、足を薪にしても、一貫や二貫の代物はあるワ。それになんだ、たつた百とは、あんまり人を、唐変木にするなえ。べら棒め。年が年中、お蠶ぐるみの身で居やアがつて、重いものといつたら、箸か煙管、枕の下へ手を入れりやア、いふ目の出るおめえの體、それだから貰ひに来たのだ。それになんだ、たつた百ばかり、扱ひだも凄まじい。そつちの方へ、すつ込んでうしやアがれ。
藤八 おとみさん、こりや、えらうむづかしくなつて来たぞぇ。
ト後へ引き退る。
安 ナニ、べら棒め、ぐず/\吐しやアがると、擲きなぐるぞ。
藤八 ヤアゝ。
ト藤八、恐れるこなしあつて、よろしく控へる。安、よろしく捨てぜりふあつて、きつとなる。お富こなしあつて、
とみ コウ、あんまり騒いでおくれでないよ、近所隣へ恰好が悪いわな。静かにおしな、わたしにも歴然とした主のある體、何もおつう嫌味をいはれる訳はないが、かれこれと面倒だ。
ト莨箱の引き出しより一分銀を出し、紙に捻り、
サア、これを持ってお帰り。
安 これだからさつきから、こつちはおかみさんにお頼み申すのだ○それに、弥次馬が出やアがつて、なんだその面ア。
ト藤八へ思入しながら、右の金を與三郎の方へこなしあつて、
オイ兄イ、聞いたか、おかみさんはさすがに苦労人だ。あの通り、だん/\いひなさるものだから○これをお貰ひ申して行かうじやアねえか。
トちょっと見せる。與三郎思入。
與三 なんだ一分か、よせ/\、返してしまへ。
安 エゝ○それでも、あんなに訳をいふものだから。
ト合点のゆかぬ思入。
與三 返してしまへといふ事よ。
安 そんなら、これでも少ねえからか。
與三 そりやアな○サ、たつた二百でも帰る場もあり、百両もらっても、帰られねぇ場所もあらア○マア、おれが掛け合ふのを、そつちの方で見て居ねぇ。モシおとみ、イヤサおとみさん、コレおとみ、久し振りだなア。
ト手拭を取る。
とみ エゝ、そうしてお前は。
與三 與三郎だよ○お主やアおれを見忘れたか。
とみ エゝゝ。
ト呆れる思入。藤八慄へる。蝙蝠安、こなし。誂への合方。
與三 しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年越し、江戸の親には勘当受け、據所なく鎌倉の、谷七郷は喰ひ詰めても、面へ受けたる看板の、疵が勿怪の幸ひに、切られ與三と異名を取り、押し借り強請も習はうより、慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲ひもの、死んだと思ったおとみとは、お釈迦さまでも気がつくめえ。よくもお主ア達者で居たなア○安やい、これじゃア一分じゃア帰られめえじゃねぇか。
安 なる程、こいつは○一分じゃア帰られねえわぇ。
與三 まだ木更津に居た時は、そつちも亭主のある體、それと知りつゝうつかりと、はまり込んだはこつちも不覚、その代りにゃアこの通り。
ト體の疵へよろしくこなしあつて、
身に過ちがあればこそ、ぢつと蟄して居るを見て、源左衛門めが非道の手込籠め。殺しもやらず斬りさいなむ、その俤はこの疵だワ。手前もその時海松杭に、追ひつめられて木更津の、海へざんぶり飛び込んだと、聞いたる時の俺の心、今に忘れず重ひ出し、心で念仏を申して居たに、(わりやア、その場を逃げのびて、命を助かりかうした態は、なんの事だ。それじやア済むめえ/\が、エゝ。
トお富の胸倉を取り、いろ/\思入あつて、
サア、誰れの世話で爰に居るのだ。)それに今聞きやア、立派な亭主があるといつたが、亭主は誰れだ。どこのどいつだ、それを吐かせ、それをいへ。きり/\ぬかしやアがれエゝ。
ト思入。お富、この内ぢつとこなしあつて、
とみ エゝも、静かにおしな、マア、わたしがいふ事も、とっくりと聞いたその上で、どうなとしたがよいわいなア。
與三 いふ事があるなら、早くいへ。
とみ わたしも、その時永らへる、心ならねど湊から、海の深みへ捨つる身も、漂ふ浪の夢うつゝ。漕ぎ行く船へ引き上げられ、薬よ医者よと手厚い介抱。そのお蔭にや甦へり、今はかうしてゐるものゝ、囲はれ女とは表向き、枕かはすはさておいて、色めいた事はこれ程もなく、今日まで暮すその中も、この家の留守を預って、女の役の針仕事、勤め著替への裾直し、楽すぎるだけ生中に、心苦しう今日明日と、過ぐる月日も三年越し、義理に迫って暮す内、お前はこの世にござんすか、但しは、その時死なしゃんしたか、便り聞かねば逢ひ初めて、枕交したその日をば、お前の命日忌日ぞと、忘れる暇はないものを、今のやうな怨言、そりや、聞えぬ、胴慾じゃ、聞えぬわいなア。
トお富、思入あっていふ。與三郎、煙草のみゐて、
與三 えゝ、いゝ加減に気休めをいう。エゝ、半死半生でゐるものを、医者よ薬よと手当して、やう/\達者な身體にして、この通り囲って置き、誰れがたゞ置くやつがあるものかえ。なア、安や、さうじゃアねぇか。
安 違えねぇ/\、今お主がいふ通り、この美しい代物を、金にあかして療治をしたその上で、こんな家に囲って置き、たゞ遊ばして喰はせておく、そんな奇特な篦棒が、今時何であるものか。そこはなんだかわかるものかな。お主もこの女故にやア、すばらしい苦労をして今の身の上、切られ與三郎とかいはれる身體。おれも又蝙蝠安だ。もう打つちやってはおかれねえぜ。ぜんてえお主はどうする積りだ。
與三 知れた事よ。居所の知れたが幸ひだ、今こいつを世話してる野郎をばつらまへて、その筋を立てた上、おとみを俺が女房にするか、又は手切れと下素ばるか、おれが面を立てにやアおかねえ。
トきつとこなし。蝙蝠安うなづいて、
安 違ひなし、そいつが極だ○お主やアその女故に、手ひどい仕置きも、満足な身體ばかりか、その面へ受けた三筋の刀疵、おれも名代の蝙蝠安、三筋に蝙蝠は遁れねぇ仲だ。これからは、俺が手伝ふのだ。
トこれまで藤八、始終の様子を聞く度に、驚ろく思入。可笑味いろ/\あつて慄へゐる。この時、そつと二枚折の屏風の蔭より顔を出す。與三郎見て、
與三 先刻から、まじ/\として居やアがるこいつ、おとみを世話する野郎めの、慥に友達だ。
安 ムウ、いゝ所へ気が付いた。
ト藤八、たまりかね、逃げようとするを引捕へて、
手前は、どこの奉公人だ。
與三 おとみは、誰れが世話をする。
両人 それをいへ/\。
ト色々こづく。
藤八 イヤ/\、わしは知らぬぞ。その様な事は知らぬ/\○コリヤマア、情ない目に遭ふことだ。アゝ、桑原々々。
安 いはなけりやア酷いぞ。サア、早くいへ/\。
ト藤八を捕へ、胸倉をしめる。藤八、苦しむ。
藤八 アゝ、切ない/\、許して下さい。いひます/\。
與三 コウ/\、安や、いふといふから、緩めてやりやれ。
安 サア、緩めてやるから、あり體にいへ/\。
藤八 かうなるからは、有り體にいはいでどうせう。ありや、わしが勤めてゐる所の丁稚だ。
両人 なんだ、篦棒め、何を吐かしやアがる。
藤八 イヤサ、一番々頭でござりますよ。
トいひながら、うろたへ逃げて入る。
與三 なんだ、うろたへて逃げやアかつたな○サア、これからは、手前が相手だ。あり體にいつてしまへ。
ト詰め寄る。この以前より、多左衛門先に、丁稚つき添ひ、出て来り、門口へ来て、内の様子を窺ひ、丁稚に囁き、多左衛門、丁稚に戻れといふこなし。これにて丁稚引き返し入る。この途端に多左衛門内へ入る。
多左 イヤ、おとみが口から聞かうより、わしがいつて聞かせませう。
トこれを聞き、與三郎、蝙蝠安見て、
安 ヤ、さういふお前は。
與三 おとみさんの旦那か。
ト両人、顔見合せ、居住ふ。多左衛門、二重へ直る。お富、よろしくこなし。
とみ ほんにお前は旦那さん、今日はお仲間の参会ゆゑ、まだお戻りには間があらうと思ひましたに、いつよりは、お早うござりましたなア。
ト何気なき體、湯呑みへ鉄瓶の湯を注ぎゆかりを入れ、多左衛門へ出す。
(以下略)
(岩波文庫『与話情浮名横櫛(切られ与三)』を底本としました。)
柳営婦女傳系
柳営婦女傳系(一部)
巻之一(一部)
東照宮御祖父清康君御内室(伝通院殿御毋堂)
○華陽院殿伝系
東照大神君の御外祖を、華陽院比丘尼と称し奉り、始の名はお富の方と称し、世に隠れなき美女なり、養父大河内左衛門尉源元綱(始の名但馬守清成)、其先源三位頼政の後胤にして、参州額田郡の十人なり。又実父は尾州住士青木加賀守弌宗と号す、是は江州佐々木京極の種類なり。お富の方、其始尾州小川の城主水野右衛門大夫源忠政に嫁して、東照宮の御母堂(後伝通院殿と号し奉る。)、及其外男子水野織部正忠守・同備後守忠介・同和泉守忠重を産めり、然るに天文□年□月□日右衛門大夫忠政病死、仍て後家と成て大河内の家に帰居す。
或云、忠政に嫁して女一人と男二人を産て、忠政と離別し給ふと云々。
時に世良田次郎三郎清康君は、兼て此於富の方を恋ひ慕ひ給ふ所、幸に大河内左衛門尉元綱方え仰遣し、頻りに望み乞ひ給へ共、御年齢不相応たり、清康君は十八歳、お富の方は廿三歳なれば、大河内夫婦の者も合点せざりし処に、お富の方の叔父に尾州宮の城主に宮善七郎平秀成、本名岡本に、清康君此事を一向にお頼みありし故、善七郎はお富の方を奪取て、頓て清康君に嫁し奉り、男子一人・女子二人を産し給ふ。男子は松平源次郎信康君、女子は始長沢の松平上野介康高に嫁し給ひ、康高死後に酒井左衛門尉忠次に再縁し給ふ、是を雄水殿と称せり。お富の方、始水野右衛門大夫忠政に嫁し、産給ふ処の女子を相倶して、清康君の家に来り給ひしを、清康君御養女と為して、清康君前室(江州住士青木筑後守貞景が女なり。)の腹に儲け給ふ御嫡子徳川次郎三郎広忠君に取合せて家室と成し給ふ、是行合兄弟夫婦と成給へり。此御腹に東照大神君を儲け給ふ、時に天文十一年壬寅十二月廿八日なり、八歳より十五歳まで、八箇年の間、お富の方御養育なり。東照宮の御尊母、始はお大方殿と称し、後に伝通院殿と号し奉りて御長生なり、然るに清康君、天文四年乙未十二月五日、尾州森山の御陣中にて不慮の御横死あり、是に依てお富の方、又後家と成給ふ、後に星野備中守秋国が室となり、菅沼死去の後、又菅沼藤十郎定望が妻女となり、菅沼死去の後、川口久助盛祐が妻女となり給ふ、お富の方、不幸の事に逢ひ給ひしか共、美質の聞へありけるにや、都合五度縁付給へり、乱世の時節には係るためしもあるものなれば、後人是を不審せり。後年お富の方、剃髪染衣の身となりて、永禄三年庚申五月六日、大河内源三郎政房宅にて、七十余歳にて死去有て、御法名華陽院殿玉桂慈仙大姉と号し奉れり、是則東照宮の御外祖母の御事なり。駿州宮崎少将松智源院に葬れり、其時に住持智短上人導師と成れり、智短は東照宮御手習の師範と云。其弟子に僧文慶は、東照宮御手習の御朋友なり、智短遷化の後、文慶芸州広島城下浄国寺に住持す。然るに後年東照宮召出され、駿州狐ヶ崎に於て一宇を建立し、華陽院と名づけ、智短を開基とし、文慶上人住持す。然るに今参州鳳来寺及同州山中法蔵寺に東照宮御幼少の時の御手習道具有レ之、乱世の時節、智源院滅却の時、此寺に奪取来るものか。
巻之三(一部)
岡崎三郎信康君御母堂称2築山殿1
○清池院殿之伝系
岡崎三郎信康君の御母堂は、駿州太守今川治郎大輔源義元卿の御養女、同上総介氏真の妹分、実父は同州瀬名郷主関口刑部大輔氏縁女也(今川・関口は本一族にして、従弟也と云々)。故に駿河の御前と号し、又築山殿と称す、是無類の悪質嫉妬深き婦人也。然るに東照宮の初の御室にして、永禄二年己未三月六日、参州岡崎の城におゐて御嫡子岡崎三郎信康君を産せ給ふ、童名竹千代君と申す、岡崎城本丸天主脇に大き成松の木あり、是を以て三郎殿松といふ、是は則三郎君御幼少の節、手自ら植させ給ふと云伝へり。同三年庚申、又亀姫を産み給ふ、是後に奥平美作守信昌室にして、嫡子奥平大膳大夫家昌・次男松平右京大夫家治・三男松平摂津守忠政(幼少時号2菅沼1)・四男松平下総守忠明(是長沼家)松平家を相続す。この亀女後加納殿と称す、寛永二年乙丑五月二十七日卒す、法名盛徳院香林慈雲大禅定尼と号す、信康君は元亀元年庚午八月二十八日、御年十二歳にて織田信長公の許にして御元服、信長公の諱の一字を授與あり、又御父家康公の御諱の康の字を摘て信康と号し奉り、御先祖より清康君・康忠君まで代々の御家名を以て岡崎三郎と称し奉る。岡崎三郎信康君は御代々に勝れ給ひて、甚だ武勇を好み給ふ、同二年辛未五月二十七日、信長公姫君を以て於2遠州浜松城1而御婚姻有レ之、御女子両人を産せり。嫡女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室也、然るに御母堂築山殿の讒言に依て、信康君は内室と御挨拶あしくなり給ひ離別、其上信康君甲州武田勝頼へ内通の聞へ有に依て、東照宮大きに御怒り有レ之、天正戊寅十月十五日、大久保七郎右衛門忠世奉りて、遠州二俣城に於て、信康君御生害有レ之、時二十一歳、検使として天方山城守、介錯人服部半蔵正成(後号2石見守1)、遠州二俣清龍寺に葬る、御法名清龍寺殿逹岩善通大居士と号す、或は常法院殿隆岩長越大居士、或は謄雲院殿松翁道樹大居士。是故に衣て御母堂築山殿も天正十年己卯八月二十九日、遠州浜松城に於て御生害、同所西来禅院に葬る、検使石川太郎左衛門、介錯人岡本平左衛門(初名大八郎)也、法名清池院殿潭月秋天大姉。信康主御百年御遠忌の節、延宝六年戊午九月十五日、将軍家綱公鈞命によつて三十石御増地有て、高八十八石の御朱印被レ下レ之。
又一本、弘治二年丙辰、竹千代君駿府に在て元服を加させ給ひ、次郎三郎元康と称し奉り、今川義元媒酌として、関口刑部少輔義広女を娶り給ひ、是を築山殿と号す(関口氏一は瀬名氏と号す、今川の族なり、義広の妻は義元の妹也、或は義元の姑也)、諸士駿府に至り賀し奉る、永禄二年己未三月六日、参州岡崎城に於て男子御誕生、竹千代君(後に岡崎次郎三郎信康君と称す)と名づけ奉り、同三年庚申□月□日女子御誕生、御名亀姫(後奥平美作守信昌の室となり、加納殿と称す)と名づけ奉る。同十年丁卯五月二十七日、織田信長公、東照宮と嫁娶の事を議し、家臣佐久間右衛門尉信盛をして、其女を送て岡崎に至らしめ、信康君に嫁せらる、信康君及信長の女共に九歳也、年序を累ね桃天の喜を成し、不苣の楽を極て二女を生たり、群臣和順の義を思ひ、閠門肅敬の礼を行ふ、信康君の御母堂築山殿嫉妬の故を以て、伊勢越前に牢落し給ふ、信康君哀憐してこれを迎へ給ふ、築山殿生質邪侫ゆへ、信康君をして御夫婦相反したまひて、信長を弑して信康君を立んとし給ふ。天正七年己卯の夏、信康君の室、信康の十二罪を書して、酒井左衛門尉忠次をして信長に告げしむ、信長書を閲して酒井を召しこれを問はる、十罪皆信なり、未二罪を問ふにおよばず、酒井をして東照宮に告奉りて曰、信康心邪に行辟めり、家を齋る事あたはず、殺さずんば有べからずと、酒井命を奉て帰る時に、岡崎を過て信康君に面せず、直に浜松に至る、信康君殺されん事を知て、以為く父と国との為に殺されむには厭べけんやとて、居ながらに罪を待しむ、酒井浜松に至て事を以て神君に告ぐ、神君の曰く、宜哉信長の彼を殺さんと欲する事、八月四日信康君を逐て大浜に往しむ、時に平岩七之助親吉は信康君の傅たり、曰、率爾に信康君を殺し給はゞ必後悔あらむ、我傅となりおしゆる事あたはずして爰に至れり、我罪大なり、我頚を刎て信長に献ぜよ、信長何も女婿の好の忘れんや、或は憤を止る事有んかと云。神君、信長の命を背くに及ばざるが故に、平岩が言を聴ず、同九日信康君を遠州堀江城に移す、転じて二俣に入れて、大久保七郎右衛門忠世に預けしめ、出る事を得ざらしむ。八月廿九日、村越茂助をして検使として築山殿を害せしも、信長の憤未だ解ず、信康君の室こゞろいまだ平かならず、故に九月十五日、天方山城守と服部半蔵をして検使として、遂に信康を殺さしむ、時二十一歳なり。
系図略
越前中納言秀康卿御母堂称2小督局1
○長勝院殿之伝系
長勝院殿は、池鯉鮒の住永見志摩守娘(其名於萬の方)也。
一説、攝州大坂の住村田意竹女也、意竹男村田清右衛門仕2秀康卿1賜2千石1、改号2村田信濃1、為2越前福井町奉行1。意竹者伊賀の産也、仍勢州神職、於萬の方懐妊のとき、築山殿(岡崎信康御母堂)嫉妬深き故、於萬の方を赤裸にして縛て、浜松城の曲輪樹木の間に捨置きしに、其比本多作左衛門御留守在城し(其所後作左衛門曲輪と称す)、夜中女の啼き声聞ゆるを怪み尋得て、彼女の縛など解て様子を聞届、夫より作左衛門方にて、天正二年甲戌二月八日、遠州引間郡浜松城下有富見村(後産見に改む)に於て出産あり、双子にて、御一人は其節死去、御一人は於義丸殿、後に秀康君の御事也、依レ是秀康君御幼年の節、暫く御対面無レ之云々。元和五年己未十二月六日逝2於越前北荘1、時七十二歳、号2長勝院殿松室妙載大姉1、葬2于越前敦賀顯孝寺1。
越前家伝云、秀康君母堂懐-2妊于遠州浜松城1時、有レ背2東照宮之命1、夜中俄出レ自2城内1、往2本多半右衛門伯母許1、半右衛門は本多豊後守家老也、其伯母は東照宮御幼少奉仕(御年七増)、勤2表使1、浜松町屋有2休息所1、時に到2其屋1、於萬御方到2彼伯母許1、告2出走之旨1、彼伯母叱レ之、可3速帰2城内1、於萬御方不レ従レ之而将レ死、伯母驚而宥レ之、翌朔登城、見-2聞御前之様1、無2御咎之事1而経2三十日許1、於2彼町屋1、於萬之方生2両子1、其一子即歿、其一子秀康君也、此時於萬之方廿八歳、東照宮三十三歳也。爰有下称2慶仲1医者上、招レ之令レ見2御胞衣1、則有2葵御紋1、半右衛門持-2参之本多作左衛門重次許1、謂云、是御子無レ粉、重次伺2之岡崎君1(家康公御長子)、信康曰、我嘗希レ儲レ弟、仍以2秀康1預2重次1云々。
○結城秀康君御室家之伝
結城七郎朝光より十九代結城左衛門督晴朝、野州結城城是十万千石を両す、其頃小田原北条より伐従レ之、関東大方幕下に属し、天正十八年庚寅、秀吉北条退治の時、晴朝兼て志を通じ、一番に馳参し、北条持の城々を攻落す故、本領安堵。晴朝嗣子なく、秀吉へ歎に付、参河守秀康君を養子に賜ふ、故に類葉の内、江戸但馬守が娘を養て嫁しめ、晴朝は閑居す。秀康君結城宰相と号し、関原乱後、越前一国を賜り所替故に、晴朝も代々の結城を捨て越前へ移る。秀康君の六男あり、其内の五男五郎八を祖父晴朝方にて養育成長、故に哀憐深し、是に結城の家を継しめ、結城五郎八と号し、代々の重器等を与へ、後年松平大和守直矩と号す。晴朝は秀康君より後年、慶長十九年甲寅七月、八十一歳にして越前にて逝去あり。
巻之四(一部)
台徳院御母堂称2西郷局1
○宝台院殿御由緒伝系
当時宝生太夫座付にて、御切米等自分判にて請取、御蔵米百五十俵、父は蓑庄之助、当辰次郎。蓑笠之助、始は服部平太夫と云て伊賀の者也、其頃伊賀の名張の城主を服部出羽守保章と云、明智日向守舅也、明智反逆の時、家康公泉州堺に御座に付、平太夫早速馳参、此日堺の町人今井宗薫方に茶湯して御入故、罷越委細を告申、驚かせられ評議の上、堺を御立、伊賀越被レ成、三州へ御帰有しと。彼の名張の城下御通有レ之度故、城主出羽守は平太夫一族故彼仰入しかども、猶御用心にて、山路の間道を御通比レ遊、此路次御忍なれば、平太夫蓑笠を奉れば是を召さる、夫より平太夫を蓑笠之助と改号すべしと被2仰付1、常に近仕す。御天下と成し後、江戸将軍家に参り可2奉仕1由仰有れども、老年の事故御免を乞、依て其弟服部七右衛門に家督を被2仰付1、其後七右衛門は青山図書介と改号し、加判の列に加り、一万石給り、後年将軍家へ御附け奉仕の後、家督の儀に付没収にて、当時其子孫青山平八(父七右衛門と云。)にて両番組也。(将軍家より青山伯耆守へ被2仰付1、名字を送るとも云なり。)
一、笠之助実子嫡男は薩摩守忠吉君へ御附け、服部惣右衛門と号す、其子孫今に尾州に奉仕、次男・三男は早世にて、四男平四郎には、七右衛門に家譲の後隠居料として給る所の百五十俵を譲る、是を二代目の箕笠之助と号し、当庄次郎は其孫也。箕笠之助が娘、御傍に奉仕し西郷局と号す、是笠之助妻、西郷家の親類故なりと云々。此女、台徳公・忠吉君の御母堂也、号2宝台院殿1、此御因に付、笠之助が嫡男惣右衛門をば忠吉君に御附也。
一、彼服部出羽守は明智滅亡に付沈淪し、江州北村に蟄し、北村と改称す、その子孫、常憲公御代に松平美濃守吉保を便り、被2召出1度旨願ふと云ども、彼出羽守が子との伝来のものは、光秀が幼息にて嫡孫の由なれば、実父明智障りと成て事不レ調、依レ之無2是非1、松平右近将監家老某が養子と成る。笠之助本姓服部にて、猿楽の列なる由を考れば、観世太夫も本姓服部なれば、始其親類ならん。観世も元祖服部観阿弥は足利将軍義政公の同朋也、其先服部某と云て楠正成が家臣の由なれば、笠之助も先祖は武士と云へども、其頃は観世抔と同敷猿楽なるべし。世説に有と云へり、庄次郎が家伝に丹波の領地の事を不レ知由。
○台徳公御母堂服部氏伝系
系図(略)
巻之五(一部)
武田七郎信吉君御母堂称2下山殿1
○長慶院殿由緒伝系
是穴山越前守源虎康女(虎康父称2秋山氏1、与2源四郎1同人歟、)同族穴山陸奥守信君入道梅雪為2養女1、東照宮幸レ之、産2萬千代君1、因レ是萬千代君依2母姓1、改-2名武田七郎信吉1、継2穴山梅雪之名跡1、始領2甲州穴山1、信吉君、慶長八年癸卯九月十二日逝、時廿一歳、以2無レ嗣故1、御舎弟水戸中納言頼房卿(童名鶴千代、後改2武田九郎1)、相-2続穴山遺領1。正之の母は台徳公に幸せられ、正之を設けし時、台徳公の大夫人崇源院殿嫉妬深き故、正之の母堂を見性院殿方へ掛込せられ、又其比保科家は甲州士の事にて、信吉君の母堂その因みある由にて、見性院殿懇意なる故、正之をして保科の家を相続せられ、其子の正之をば見性院の御養子と称せらる。寛永十四年丁丑二月十二日逝、法名良雲院殿天誉寿清信女。
長慶院殿姉
○信松院百回会場記
武州多摩郡八王子荘横山信松院者、被2甲斐州主武田信玄公、諱晴信第六女新館禅尼開基1焉、尼公、諱阿松、始新-2造別殿1居レ之、故人呼称2新館君1。母油川氏、生有2容色志操1、八歳与2織田信忠1約レ婚、比レ至2十二歳1、有レ故而絶、翌年信玄公卒時、母先卒、以レ故常依2兄仁科公信盛1。居止言行如2孤霜(正しくは女偏)者1、所親憐強嫁レ之、尼公辭曰、吾雖レ未レ焦(正しくは酉偏)、聘礼已行、信レ命亦有レ年矣、則命豈忍而背レ之哉、且我久以祷2考妣冥福1為念、不レ欲レ關2人世之事1、遂退断レ髪禁レ肉、持レ節頗厳、于レ時十八歳、天正壬午廿二歳、織田氏侵レ州、陥2高任城1、仁科公死レ之、而玉山公亦走2田野1自殺、了義公自-2焚海野1、故尼公挟2李妹幼秩1、逃2栗原1寓2海洞寺1、家臣小澤氏侍女三人従焉。(妹春日氏所レ生妹一人、玉山女一、仁科公女一、小山氏養女也。)信真夫人聞、潛使下家臣小田木氏贈以中衣食上、道換不レ得レ達。(夫人三條大納言殿女、後号2陽玄院1、卒後孝子信俊、建2寺武州金久保1。)而仁科公幕臣平岡氏・加藤氏・上条氏・内藤氏・丸山氏・窪田氏・猿橋氏、時有レ所レ餉、敵卒知而奪レ之、因剽2村落1、尼公恵下以2己故1傷中平民上、乃去入2武州1、隠2于安下山1、鄰境将士、請2迎以為レ1妾者多、尼公誓曰、吾豈愛2一身之微1、求2残骸之安1、以2貴族1而配2賤流1、以蒙2失節之汚名1哉、因拒不レ従。於2横山邑中1、自営2茅舎1以居、窘苦日逼、歎曰、吾忍レ死養レ関至レ此者、正為3侍女輩存2于世1也、因与2伯母1共事2括織1、以自2幼孤1、故族中子弟、亦就養者多。(叔父信連入道弟葛山氏甥一、了義公次男一、仁科公嫡子也。)于レ時家臣窪田氏・石坂氏・荻原氏・志村氏・原氏・河野氏・中村氏・山本氏、自2甲州1移-2居同州1、為2尼公1改-2修屋舎1、奉養愛護甚至。而後横田甚五郎・成瀬吉右衛門、有3以聞2東照宮1、大嘉2其志行1、賜以2中使1問安、且迎2妹氏1備2姫妾1、妹氏生2武田公諱信吉1、乃封2水戸1、食2二十五万石1、以2成瀬伊賀守・松平加賀右衛門1為レ伝、属以2穴山信君故臣数人1、二扶(正しくは女偏)女亦為2岩城城主内藤忠興・足利之裔宮原義久室1。町尼公苦節、能感2人主1、以全2撫恩於遣弱1如レ此、語曰、上天無レ意、惟仁人受レ賜、宜哉、嘗伝2法於心源卜山和尚1、持レ志日固、修悟大詣、元和丙辰四月十六日、端坐微笑逝、春秋五十有六。臨レ終約2和尚1、捨2居館1為2禅院1、和尚乃請レ官営レ寺、号為2信松院1、石坂氏為建2牌位1、萩原氏施2香火料1、令2永世以不-1絶、而慶安元年、猷廟附以2田数頃1、又以為2奉祭奠1也。自後物換星移、暦数已向2百年1、当院第四前住梅樹老和尚、遠来謂レ余曰、百回之忌至矣、安可下詣3衆僧与2道場1、以修中尼公之福上哉、然法事重大、非2有力者1不レ能也、今武田氏之裔孫、雖レ有2貴顯族属1、疎遠、得2宜レ為レ主之家1也難耳、足下亦如2其沢竭1、然顯曾祖与2尼公1同母兄弟、且乃祖兄弟、亦得2尼公慈愛1深、則親猶未レ可レ為レ薄、恩亦不レ為レ不レ厚也、子之力以為レ不レ足レ宰2此善事1歟、予惻然応レ之曰、吾常自下祭2祖弥1之誠上、而推2旁親之愛1、固有2於雨露之咸1、行2令于レ1時、則今也百回香奠、亦以不レ可レ忽矣、然力纔在2焼レ新而不レ1足、余以計下請献2一重1酬中和尚惓々之徳上。夫祭祀之報、本2於人心1、草野小人、尚能知レ報レ本、而況衣冠礼義之士哉、請師遍告2裔族1、余属之家、宜下以2忠孝1徼勤上、則自2侯牧大夫士之間1、應レ募者必累至、可2以備1也。乃為按2譜籍1、書2姓氏1以与レ之、於レ是一時欣然、損レ金助2其祭1者、曰元老土屋相模守殿、列侯松平甲斐守殿、真田伊豆守殿、亦各分2月俸1供2仏餉二十余石1也、且夫松平筑後守殿、特聞2其義1、賜以2金若干1、諸公之重義、報レ本若レ是、而和尚之至誠、亦能貫、感3奮発有2以星起1、衆人善心者。而然矣、今慈夏四月忌日、酒-2掃堂宇1、潤-2色碑面1、封-2飾墳墓1、乃以2梅光和尚1為2導師1、点2万灯1、燭2幽冥1、供2香華1、厳2霊位1、加レ之前大乗卍山禅師賜2香語一篇1、以頌2尼公令徳1。而因招2清衆七十余員1、自2首夏1至2孟秋1結制、以2百日1為レ期現住梅原・為2法幢師1、其置2首座維那副寺知客典座等1、如レ法厳正、而老和尚講2法華妙経1也、凡祷2菩提1、修2仏会1、無レ不2具備1、噫感哉。予不レ堪レ感、衣-2綴其終始1、以蔵2廟院1、欲レ使2尼公之徳・和尚之仁・諸君之義1、宗族弟姪不レ能レ忘、而報レ本之礼、然亦行也。正徳乙未四月、族姪原資真泣拝以書。
○信吉君之室家由緒
木下若狭守少将勝俊の息女を請給て娶らる、勝俊は霊山の長嘯子也、勝俊関ヶ原乱の時、伏見城より出嵯峨に退隠す、信吉君の舅に定りて、江戸へ出府之事を被2仰遣1と云へども、固辞して歌を以て心底を申て、遂に不レ被レ出、其後霊山に退隠して長く風雲に嘯く、此歌の意味有2知入1、甚御感心也。
身のうきは世のさがなれや亀山の石がき沼に尾を引まほし
其比嵯峨に蟄居故、荘子の心より也、此時被2召出1ば三四万石は可レ賜御旨成よし。長嘯子の一男子萩雲平と号し、井伊掃部頭直孝に仕て、子孫代々井伊家に従仕して、二百石を領せるなり。
越前少将上総守忠輝御母堂称2阿茶方1
○朝覚院殿御由緒伝系
朝覚院殿の父は、駿州金谷の人にて、同所鋳物師の妻也、彼夫、同所島田郷の者共と於2水掛場1及2口論1、終に棒にて打-2殺之1依レ之鋳物師の女房娘於八を召連れ、於2参州吉良郷1、家康公御鷹狩の時、母子親の敵を被レ下候へとて、御訴訟に御前に出る所に、彼母子を家康公鈞命に依て駕に乗せて岡崎城に帰御也。彼寡女御寵愛に依て、男子二人を産す、松千代・辰千代と号す、同日二児出生の由、松千代は早世、辰千代廿五万石を領し、上総介左少将忠輝と号す。其後娘於八は鈞命に依て花井遠江守に嫁す、則遠江守為2御伝1、忠輝君の家臣に附レ之、越後糸魚川の城主と成、三万石を領す。又於八従弟井伊伊兵部少輔家士長谷川八郎右衛門は、於八が父の敵山田氏を鉄炮にて打殺す、故に八郎右衛門も忠輝君に被2召出1也。又忠輝君の家臣木全刑部は長谷川氏支流也、仍て於茶阿未レ嫁以前の子、兄は喜八郎、弟は又八郎、両人共に木全刑部の養子と成、忠輝君御小姓に召出さる。花井遠江守は唐人八官が子にて、謡鼓に達し猿楽の列也、始三九郎と云、東照宮御小姓に被2召出1、五百石被レ下、段々立身し、上総介忠輝君に被レ附、長臣之列に入る、御筋目有レ之に付て、為2隠居料1五千石を忠輝より被レ下レ之、其子主水正奢侈悪逆ゆへに忠輝君の家を亡す、故に酒井雅楽頭に御預、主水が弟左門は、此時古河城主土井大炊頭利勝え被レ預、終に家人と成、松下左門と改号す。本荘因幡守微少の時、因幡守が姪(正しくは女偏に弟)を妻とす、土井周防守代に出奔す、其後因幡守口入にて加賀家へ従仕す、然るに左門が子暴悪を振舞ゆへに、老中より因幡守へ内意あるに付、潜かに招て是を害す、然れども加賀家より扶持賜る者、一旦の付届もなく我意の由、不興あるゆへ、左門も加賀家へ居たまらず暇を取、其後十日程過て左門は頓死す、次男は本多中務大輔家に従仕す。
(系図略)
巻之六(一部)
赤字は本文(『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻331p)引用箇所です。
直卿御母堂尾張大納言義
○相應院殿之傳系
義直卿の御母堂は於亀の方と稱し、其父志水加賀守菅原宗清は、元来落陽岩清水八幡宮の神職の修験者也、於亀の方、東照宮に奉仕し枕席に陪侍し、御懐胎の事あるに付、東照宮御尋ありけるは、其方先祖何者ぞとありける時、答へ申上けるは、岩清水の修験と申す、然らば産前は誰尋る共、先祖の咄を堅くする事なく、隠密にして早く還俗さすべし、其内には鬢髪も延て結るべしと有ける。其内に出産の事あり、時に慶長五年庚子十二月廿八日也、御幼名千千代と稱せる、後に東照宮仰に云く、城郭櫓井楼の石壁に大石巨石を積重ぬるに、草尾に五郎太石を以てせざれば叶はざる事なり、その如く天下の草尾は此子也と、仍て向後御名改て五郎太丸と稱すべしとの上意有て、御慈愛不レ淺故、命を以て尾張の御嫡子は御代々御幼名五郎太丸と稱し来り、始は徳川右兵衛督に任じ大納言に至れり。於亀の方御父其鬢髪延て結るれけるより、竊に東照宮に申上られければ、然らば志水八右衛門と名を改て、若黨一人・草履取一人・挟相持一人・道具持一人、主従五人にて、御旗本の風俗にして、老中本多佐渡守正信宅へ往き、兼て近付の體にもてなし参るべきとの御事なり。上意に任せ、八右衛門は佐渡守玄関へ上り、御用の儀有レ之旨申入ければ、佐渡守被レ申は、追付登城すべし、大手にて待合すべし、夫より同道可レ申とあるゆへ、大手に相待處に、如レ按佐渡守来て同道し、御城の御玄関より、御徒目付案内し、芙蓉之間にて老中列座、佐渡守上意を傳て云く、八右衛門事は、五郎太殿御由緒是あるに依て三千石を賜ふ由、且従五位下に敍し、加賀守に任ぜらる、其子孫相継で尾州の家臣に成れり。於亀の方、其前竹腰定右衛門と云者の妻女にして、嫡子竹腰傳次郎(或云2小傳次1)を産す。定右衛門死去の後、東照宮へ召仕はれ、御側女と成て義直卿をば産し奉る、故に傳次郎は義直卿と異種同腹の御兄弟なり。仍て傳次郎始め東照宮の御側小姓に被2召仕1、後五郎太丸の御側小姓と成れり、義直卿四歳の御時、慶長八年癸未正月廿八日、始て甲斐國廿五萬石の地に封ぜらる、東照宮の仰に云く、尾張・紀伊の両家は鳥の両翼の如く、将軍家を輔佐すべしとあつて、是を御三家と稱せり、其後頼房卿御出生まし/\て准三家と稱せり。然るに義直卿の御舎兄清洲中将松平薩摩守忠吉卿、此歳閏四月廿六日、春秋廿八歳にて御逝去なり、未だ御子ましまさざるゆへ御名跡として、義直卿直に其家領を御相続あつて、尾州清洲城へ封を移され、六拾萬石餘を御領知あり、故に忠吉君の御家臣悉く附属あり。時に竹腰左傳次政信、老臣と為り、従五位下に敍し山城守に任じ、三萬石を拝領し、成瀬半左衛門正成隼人正に任じ、是も三萬石を拝領し、共に老臣となれり。於亀の方は東照宮薨去の後、剃髪して相應院尼と稱せり、寛永十九年壬午九月十六日、尾州名護屋に於て御逝去、時に七十餘歳なり、御法名相應院殿信誉公安大姉と号し、尾州に於て一宇を建立し、妙亀山相應寺と号し、寺領三百石御寄附あり。
(『柳営婦女伝双』 国書刊行会編 名著刊行会 1965年発行を底本としました。)

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