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当世武野俗談
当世武野俗談(一部)
新吉原松葉屋瀬川
新吉原江戸町松葉や半右衛門抱瀬川といふ傾城は、十ケ年以来は五丁町に並ぶ方なき全盛なり、其人となり異なり、夫遊女うかれ女といへども、往昔を尋見れば、此里にも、寛文の頃には、小紫は能和歌の道に達し、不断敷島の道を尋ね、風雅にして心やさしく、世上こぞつて、偏に石山寺の観世音にて、源氏六十帖編集したる紫式部にも似たり、とて其名を小紫と号しとなり、名高き雅女たり、江戸の小紫が花起証文、葉守の神かけての艶なる文章など、美濃支考が和漢文藻にのせたれば、こゝにあらはさず、又、島原の吉野は、初め浮船と名乗しを、或春、廓桜の花盛を見て、島原籠中の吟とて、
- こゝにさへさぞな吉野は花ざかり
と云名句有しゆへ、これより世に吉野と呼ばれける、又正徳の頃とかや、江戸町茗荷屋の奥州が提灯の文字、貞清美婦胎と云五文字の裏に、仮名にて、てれんいつはりなし、と書て中の町へ持せ、道中せしとなり、其後享保の頃、万字屋九重が浮世の末に、隅田川の三十一字に、奉行大岡忠相の猛き心を和らげし、と要秘録に先達てしるし出したり、是等皆々廓の花紅葉と、其の時々のさかり成べし、今は皆散果し、又来春も咲花の絶ずして、今松葉屋の瀬川と云器量甚勝て此里隋一の美人、王昭君、西施も面を恥、通小町も顔を覆ふ姿なり、其生れ下総国小見川のかろき民の娘たり、幼少にて松葉屋半右衛門抱て教ける、自然と、女の道たる事を不レ学して是を知、妓女の芸一ト通り、三味せん、浄瑠璃は勿論、茶の湯、はいかゐ、碁、双六、ありとあらゆる芸不思議に習ひて、鞠なども上手なり、鼓笛、諷舞も能、其上能書にて、俗気をはなれ、広沢烏石が流儀、文徴明が墨跡に眼をさらし、唐詩選を取廻し、歴々の儒者の門弟にも爪をくはへさせ、絵も上手にて、京下り秋平(大雅堂)が弟子と成て、画工にくわしく、俳諧は、乾什、米仲が引付に入て、ことごとく人の知る所なり、其上易道に委しく、心を用ひ、平沢左内が弟子と成て、卜筮を学びけり、平生おのれが座敷には著を紫の服紗に包、算木を蒔絵の小箱に入て置、傍輩女郎の願ひ事、或は待人、客の往来、首尾の善悪、毎日/\是を占て楽とするなり、ふしぎの女なり、去年宝暦五の春、江戸町二町目丁子屋抱雛鶴と云名高き遊女、田所町山崎斗仙根引して廓を出、名残に中の町にて近附になりしゆへ、瀬川の方より雛鶴へ餞別を送り、其文例之通広沢流にて、唐紙の信夫摺の半切に、
きゝたる処、此里の火宅をけふしははなれられて、涼しき都へ御根引の花、めづらしき御新枕、御浦山敷事はものかは、殊に殿は木、そもじ様は土、一陰陽を起し、陽は養にして御一生やしなふと云字の卦、万人を養育し、万人にかしづかるゝと、頼母敷もめで度御中と、ちよつとうらなゐたる穴賢、
てう 雛さま御もと まつ
瀬より
此文、去年の夏の頃、人の見せし依て、是を覚へて、今此草稿に写て、是を悦ぶ人々のために爰にしるす、此瀬川右の通なれば、客を麁末にせず、家内の傍輩女郎をよくいましめ、金銀、衣服、寝道具、新造出し、座敷開等に、聊不義の心なきやうにいましめて心をつかひけり、此前方より、宮古路豊後ぶしといふ浄瑠璃世上にはやり、此里猶以の事なりしに、此瀬川急度いましめて、家内の女郎に此浄瑠璃を語らせず、子ども、禿、若イ者迄に、松葉屋に豊後ぶしをうなるもの一人もなし、尤、いやしき文段あればなり、夫とも三味の場なれば、浄瑠璃をかたらずといふ事はなけれども、新造、禿は、江戸ぶし河東半太夫の艶なる文句の浄瑠璃を習ひ覚させて、客のもてなしとす、依レ之、人柄あしき客は、松葉屋の二階へは足をも入る事叶はず、されば、傾城遊女は、此家にて隠し言葉、相辞、又はふてう言葉などとて、色々昔より客の聞しらぬ事を女郎どしは云さゝやき、外へは何といふことやらわからざるやうにすることは、傾城に限らず、諸芸、諸商人にても、言葉づかひ、符帳有レ之、外の人是をしらず、先傾城より出たり、松葉やにては、聊いやしきふてうの言葉を遣はずして、此瀬川が作にて、松葉やのふてう言葉は、源氏六十帖といふ風雅のものなり、今も最中不レ替其通りなり、其一ツ二ツを左にしるす、
はゝきゞとは 間夫と云ふてうなり、ありとは見えて逢ぬ君かなといふ心
かゞり火とは やりてと云事、心の火をたゐたりけしたりもの思ふといふ心
蓬生とは たばこの事
夕顔とは うらにくる客の事、ほの/\〃見ゆる花の夕顔といふ心
雲がくれとは きれた客の事
から衣とは きのじやの事
蓬生とは 銭の事
是等の事夥しけれども、予もいまだ多く覚えず、誠におかしき事どもなり、扨叉、瀬川がみさほを爰に記す、一とせ、揚屋町鳥羽屋正三、中の町にてひそかに瀬川に云けるは、常盤津文字太夫と云ふ浄瑠璃語り瀬川に逢度よし、年頃心を通じける、あはれ一夜御逢被レ下候様にと願ひ申候、私に取持くれよと頼申候間、申入候、御情のほどかきくどき、色々に申ければ、瀬川答て、いかにも執心と候得ば余儀もなく候へども、芸者、浄瑠璃語りなどへは、勤の身にても枕はかはさぬ習ひ、子細は外の客へ障り申候、されども其許達て御申候間、ひそかに可レ被レ遣候、逢可レ申候、と申ける故、正三悦て文字太夫に右の趣申ければ、文字太夫は満足して、綺羅をかざり、茶屋、船宿、たいこまざりに、松葉屋へ客と成り行ければ、頓て瀬川も出て座につき、盃などして、其後、瀬川文字太夫に浄瑠璃を望けり、日頃豊後ぶしを嫌ひし瀬川、何とも心得ずと思ふ人もありけり、文字太夫は嬉しく、声はりあげ、瀬川が気に入らんと思ひ、精を出して語ければ、瀬川禿に申付、目録金子千疋台にのせ、文字太夫が前に置せ、今宵は御太儀に候なり、天晴面白く覚え候、是は謝礼にて候、酒にてもまゐり御帰り候へ、といひすて、二階より下へ瀬川は静におりけるとなり、文字太夫、芸者として瀬川に逢んと、色々不届成事を申掛、並々の徒なる傾城と思ひあなどりし故、其心をこらしめ、廓の女郎ども浄瑠璃語などに徒をして、うわ気成る者どもの教にもと、かくいたせし瀬川がみさほ遖れ成事にてあれ、是は廓の最上なりしが、去年宝暦五の年の暮、江市屋宗助請出て廓を根引す、実は去太守の御家老根引なれども、表向は江市屋なり、夫故、去年十二月、江市屋が女房まで来て廓を連立出て、薬研堀村松町浮き普請小屋裏に借座敷して今におりけり、
(中央公論社刊『燕石十種』第四巻を底本としました。)
燈仙一睡夢
燈仙一睡夢(一部)
大谷木忠醇著
(前略)
大塩後素は、大坂東御役所の属吏也。予外祖父なる和泉守、この東庁に尹たる十年間、この平八を特に愛して、始終側近く呼び置て使用し、平八々々と重宝にせしゆへ、与力仲間にても大にこれを娼疾して、御奉行さまの御小間遣ひと、あだ名をせし程なり。然れども和泉守鑑する所あつて、彼れに腹心をあらはさず、予が父なるもの、その頃幼なりしを、平八に嘱して素読を受けしめ、父に命じて曰、汝を平八に託して彼が宅に通学せしむるの条、よく眼をその室中に注て物色せよと、ひそかに戒厳せしに、平八よくこれを黙識心通して悟り得、父に接する、敬礼を悉くして失はず。然るに和泉守、同役荒尾但馬守が潜に逢ひ、帰府を命ぜられて、小普請支配に転じ、即日御目附の高井隼之助、これに代つて大坂の市尹を命位ぜらる。この日営中にて隼之助に後事を託するの序謂て曰、東庁の与力に大塩平八郎なる者あり、学文も有レ之候が、一体天賦の敏捷なるは、聞レ一悟レ十也、乍レ去油断のならぬくせものなれば、其御心得御注意有レ之度と忠告せしに、高井氏よくこれを領し得て控御せしゆへ、平八又その技倆を逞ふして、切支丹捕縛等の大功を建てたり。後年高井氏帰府の後、予が父に面する毎に、尊大人の忠告によつて汗血馬を鞭策し終りて候と謝しけると云々。和泉守及び高井氏ともに、彼れが事を挙げざるに先だちて簀を易へたるにより、天保八年二月十九日の兵火は知らず。
蹇同云、少しく慢言に似たれ共、和泉守と山城守なればこそ、彼を凌駕し得たり、これより以下の市尹、東西を論ぜず、彼を制するの識量あるもの無し。内藤隼之正、新見伊賀守ならばまだしも、迚も跡部が兄の虎威を仮りて圧伏せんとするは、所詮為し得がたき事、笑ふべし。
蹇同予て大塩後素が事を奉るをもつて、天下を傾覆するの逆賊とは見做さず。彼れを目して謀叛人と呼ぶは、冤柱の甚しきものにて、慶安の由井、丸橋、承応の別木、石橋、明和の山県、藤井などゝ並ぶべきには、決してこれにあらず。後素が識量の高きや、学問の博きや、宇宙を達観し、世上を豪視す、豈如何ぞ慮りこれを為さむ、後素を以て逆賊とするは、即これ小人の腹をもつて君子の心を臆測想像するもの也と論断して、断然動かざりしゆへ、当時予を見て狂人と目せし腐儒もありて、ともに語るべからざりしに、安政三年の秋、伊陽より赦に逢ふて帰府せし小川氏に、栗本瑞見の宅にて面話し、当時の事跡を聞く。
此小川氏は忠之進と称し、南庁市尹の属吏(即ち八町堀の与力也。)にて、矢部駿州の事に連坐して、一旦火消与力に左遷せられ、又甲府勝手小普請に成り、天保十四年甲州に赴き、安政三年悴徳太郎の代に至り、赦を得て帰府せしが、都下に邸宅無きをもつて、栗本瑞見より予が父に乞ふて、しばらく僑居させたり。此忠之進少しく学問あり、又その勤筋だけありて、天保年中を能く知り、殊に、矢部、水野、鳥居一件等は、格別その実況を語るに委しかりき。
予夜話の序、小川氏に謂て曰、明智光秀は主殺しの逆賊なれども、京都にては今にこれを尊奉し、大塩後素も謀叛人なれども、大坂にては、鴻池、加島、米平などの外は、みな後素大明神を以てし崇奉せり、十兵衛が主を弑したるは勿論なれども、平八郎を謀叛人と呼ぶは、少しく其当を失するに似たりとおもふ、愚見如何と語りしに、同人、さればの事也、矢部駿州にも、その持論を吐かれたりし事うぃ聞き居れり、その言に曰、平八郎を叛逆人といへるは、駿河守が按には左様に不レ存候、平八郎は一体天質肝癪持の甚しき人物にて、その与力を勤むる時にも、豪富を析き、小民を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味せし類、天晴れ才能ある吏也、又其学問も有用の学にて、死物にあらず、拙者大坂勤役中、彼を度々讌室へ招きて密事をも胥議し、又某が過失を言ふ忠告をも聞て、大に益を得て、勤務上にも便なりし事ありし、其言語容貌決して尋常の人物にあらず、彼実に叛逆の志あらむには、いかで大坂の御城へ籠らざるべき、(大坂御城門の御手薄なる事等、平八郎つねに苦心して、戒厳を予に忠告せし事ありき。)然るに御城入は為さずして、棒火矢を市中奸商豪富の家へ放ちたるは何ぞや、拙者ある時、平八郎を招きて相共に飯を喫せしに、折節金頭と云ふ魚を炙りて、両人の膳に上せり、時に平八郎は慷概憂世の談に及んで、忠憤の余り怒髪衝レ冠ともいふべきけんまくなるゆへ、予も種々に慰論せしに、平八郎ます/\憤り、金頭魚の頭より尾に至るまでガリ/\と噛砕きて喰ひたり、扨其翌日に至り、家宰なるもの予を諌めて云、昨日の客は狂人也、ゆめ/\高貴の御方近くへは寄すべからざるもの也、爾来奥通り等は御謝絶なされ然るべしと云ふ、これは実に家来の身として、主某の為をおもふの諌なれども、予こたへて、汝の注意尤千万なれども、汝等が知る所にはあらずとて、不2相替1彼と交りを全くせり、此一事小なりといへども、平八郎の人と為りを知るに足れり。此時予おぼへず掌を拍て快を呼び、曰く、
英傑在て雋豪を識る、天下の英雄たゞ卿と吾と、当時在廷の百僚尸素の生(正しくは生に目)盲、沐猴の冠免(正しくは日に免)、馬牛の襟裾、狗尾の続貂、論無し/\、所謂席に列して威儀揚々たるを見るに、即ち是れ五百羅漢の土用ぼしに異ならず。蓋し此時予門生の為に書を講じて聴聞せしむ。講をとどめて小川氏のいふ所を聞て、他に耳無きが如し。門生等互ひに相見て曰、先生もまた狂するやと。咄々快事。
譬へば人あやまちある時、再三反覆これを告るは忠といふべし、再三忠告せる上にて、其人この言を用ひざれば、これを憤り、座に有逢ふ火鉢など取て其人に投げ附れば、これ至極の不敬無礼也、始めには其人を愛するのあまりに、これを忠告するも、後には却てその人に瑕疵を附るに至る、いづくんぞ其人を愛するにあらんや。平八郎も初めは忠告すれども、用ひられざるを怒り、つゐに叛逆にひとしき乱を企るも此類也。其御勘定奉行たりし時ゆへ、此議を主張し、何とぞ叛逆の名を除きて大不敬の科に処したきと建議せしかど、其議容れられざるのみならず、某までも、桀を助けて虐を為すと目せられたり。又平八郎が罪状を数へたる中に、養女として養子に婚せしむる約あるの女に奸通の事あり。拙者は平八郎の事を能く知りたるが、其女は近郷農民の子也。
河内国般若寺村忠兵衛の娘ならん。蹇同もまた聞く事あり。平八郎に在て、この事甚だいぶかし。併しこればかりは、俗諺にも、思按勘考外の特別と為すあれば、保證しがたしといへども、予祖父和泉守に聞く事あり、平八郎に与力上席目安方を委任せし時、即日平八郎妻に金三拾両を添て離別せしと云。其意は、爾来奉行を補佐して吟味裁判を担当専任する以上は、婦人あるを以て妨とする、この日下女も暇を遣はし、その代りに飯焚水夫を使用し、其身空閨、家内に女一人も蓄へざりしと云。予この事を祖翁に聞て、板倉勝重よりも平八まされりと云ひし事あり。彼れが娵を犯せしといふ事は、予甚だ不合点也。
これは全く下女にかゝへたるを妾に為したる事にて、何の仔細も無き事にて、罪名指数の箇条中などへは、書加ふるも恥かしき事也。其上たとひ其事疑ふべきとても、平八を拷問して自首せし実事にもあらず、その人既に自ら焚死せしものに、かくの如き罪名をあたふるは、立派なる公裁とは云ひがたし。駿河守をしてこの事を治めしめんには、平八郎年来の忠憤はさる事ながら、憤激のあまりに叛逆にもひとしき事を仕出し、上をおそれざるは、これを大不敬として裁断せば、平八郎も甘んじて罪を泉下に謝すべし、又大坂市中の人心をも圧伏すべしと、扼腕して語るを聞けりと。(以上小川氏の所レ言。)
予又小川氏に謂て曰く、平八実に非望を覬覦し、彼れ取て以て、これに代るの志あらむには、まづ第一に御城中へ発砲する筈也、平八の韜略をもつて、これを為さしめば、大坂城は五月七日を俟ずして、一朝反掌に落去すべし。然るに城を問はずして市中を放火し、跡部一人を目がけて討捕らむとするは、大にその仔細ある事なるべきは如何。
小川又語て云、されば也、矢部駿州御勘定奉行に転じ、跡部山城守に後任を命ぜらる。この時城州より駿州に後任引継の事を問ふ、駿州答へて、かたの如く申送り、引継たるうへは、また言ふこと無し、こゝに一つ伝達すべき肝要の一事あり、与力の隠居に大塩平八郎と云ふものあり、非常の人物なれども、たとへば悍馬の如し、その気を激せぬやうにさへすれば、頗る御用に立つもの也、よくよく注意したまへと、跡部唯諾して退き、人に語りけるは、駿州も非凡の人材とおもひしに、大に皮相を損じたり、大坂市尹の勤務を問ひしに、他事はさまで懇切ならずして、区々たる一介の与力の隠居の御機嫌をよく取れなど語るとは何事ぞ、と嘲り笑て云ひしが、翌年の事ありて、跡部大ひに後悔を駿州に謝せり。世間にてもまた、跡部が奉務上の無状に、この残害を誘起するを指弾し、駿州先見洞鑑の明を称誉せり。
蹇同曰、これ嚮に予が祖翁より高井山城守へ密告せし趣に同じ、高井氏はよくこれを領受してあやまたず、跡部良弼、矢部の言を信ぜずして、忽諸に失せり。
(後略)
(中央公論社刊三田村鳶魚編『鼠璞十種』下巻より)
道聴塗説
道聴塗説(一部)
大郷良則著
第四編(抄)
○高尾の七代
吉原京町一丁目右の角三浦屋四郎左衛門が名妓高尾は、凡七代相続す。初代仙台侯に請出されし故に、是を仙台高尾といふ。二代目、紀伊中納言殿御内最上吉右衛門(高五百石)受出し、紀伊国へ連行く。是を最上高尾といふ。三代目、水戸宰相殿為替御用達水谷六兵衛受出す。後に平右衛門とて六十八歳になる下人と密通して出奔し、又半太夫了運が妻となり、又牧野駿州の妾となり、中小姓河野平馬と共に出奔し、又深川の髪結の妻となり、又役者袖岡政之助が妻となり、又三河町元結売の妻となる。末には北廓の後、大恩寺前鎌倉屋といふ茶屋の側に斃死す。是を水谷高尾といふ。四代目、浅野壱州(三万石)受出さる。是を浅野高尾といふ。五代目、大伝馬町一丁目紺屋九郎兵衛受出す。此妓四代目迄になき美麗にて、筆跡もすぐれ、心ばへも直にて、貴人の室家たりとも恥かしからず。しかるに九郎兵衛は、名の如く色黒く長低く、鼻ひしげ猿顔にて、無双の醜男なりしが、夫婦睦しく栄えける。件の九郎兵衛、染物至て下手なる故に、世人駄染々々と罵りける。是を駄染高尾といふ。六代目、榊原侯受出さるゝ。此事に坐して、式部大輔隠居、所替、越後高田へ連行かる。後に尼となりて其菩提を弔ひ、三十余歳にして死す。是を榊原高尾といふ。七代目、如何なる者受出せしや、又年明て廓を出しにや、其事詳ならず。後に木挽町采女原の水茶屋に居たりしが、其行末を知らず。合せて七代、高尾こゝに於て絶ぬ。此履歴、御留守居与力原武太夫盛和が談を略記す。詳なる事は再訂録進すべきのみ。抑古今色荒惑溺の輩、今更論ずるに及ばず。それが中に、仙台高尾は貞操を以て称せられ、水谷高尾は淫奔を以て嗤られ、各其死所を得ず。只駄染高尾の如く令終の美を全くせんは、川竹の流を清くすといふべし。
第五編(抄)
○高尾の色紙
扨妓女と申に附て、そのむかし見たりし黒助稲荷の社へ奉納、万治年中、高尾が筆の色紙、金泥雲形、若松春草、筥の蓋に、寄松恋歌と題せり。殊勝に覚ゆ。
- 人ごゝろまつにひとしきものならば ときはのいろをともにちぎらん たかを
○前車の覆轍
高尾の事に附て思出せしは、泡影記といふ書に、寛保元年、榊原式部大輔、令レ身2請遊女高尾1、而出2淫廓1日、作2盛砂於大門内外1、而行粧美也、士跡乗而迎2於宅1、松平和泉守、松平左衛門佐、為2待受1而祝レ之と見えたり。有徳院殿の御在世、尚かゝる行状の人あり。驚愕すべし。されば幾程なく其身隠居、越後高田へ所替とはなりぬ。今の時にあたりて、彼松北二賢の如き挙動も、亦驚愕の一つならずや。恐るべし、慎むべし。
第六編(抄)
○高尾の弁誤
島田高尾と称するは、麾下の士島田重三郎といふ人に馴染し故とかや。中将綱宗朝臣も四五度手を掛られしに、島田に操を立て、其意に随はざりければ、朝臣は薄雲といふ太夫に馴染給ひ、見受して、三谷堀より船にて汐留の邸に迎取、それより仙台に下りて、一子をまうけ給ふ由。然るを三股にて、朝臣の手にかゝりて身まかり、或は其怨霊の祟をなすによりて、永代橋のこなたへ祭たりなどいふは、皆妄説也。永代橋の高尾明神は、寛明日記に見ゆるごとく、山城国高尾明神を勧請せし事疑なし。かゝる風説は、皆家臣原田甲斐、伽羅の下駄の事迄、世上に沙汰せんとて、土佐芝居にて狂言に作り、人々に知しめ、一家を動し、我功にせんとの計略なりとぞ。件の高尾が墓は、浅草三谷日光山春慶院にあり。和尚の説に、是は万治の頃、三浦屋が別荘三谷町にあり、高尾病に臥して爰に住たりしが、其頃此寺の常念仏の声を聞て、吾身まかりなば此寺に葬り候へと言置て、万治二年已亥十二月五日失ぬ。三浦屋が菩提所は浅草榧寺なれども、件の遺言に任せて当寺に葬りぬ。世に仙台侯の手にかゝりしといふは非なり。彼侯身請の志ありける半に病て失ければ、薄雲を身請し給ひぬと、昔より語伝ふ。墓石四方塔にて、至極念に入たる製造也。往年総墓地の地形を修理せしによりて、高尾の碑を暫く脇へ移しけるが、下は石室なりとぞ。又土手の道哲、弘願山西方寺に、三浦屋が内二代目高尾の碑とて、転誉妙身信女と題せるあり。辞世も同じく「寒風にもろくもくづる紅葉哉」と刻あり。但年月は万治三庚子十二月廿五日に作る。江戸砂子、江戸鹿子等に記して、世人の普く知れるは、此道哲の墓なれども、是は後年浄瑠璃に流行せし道哲の教化にて、高尾が浅間しき姿消て、正覚院と成けるといふに本づきて、此墓を爰に築きて、世人の参詣を導きたるにやといふ。初編以来風と高尾の事跡を誌しければ、誰で此弁誤を追加するのみ。
(中央公論社刊三田村鳶魚編『鼠璞十種』中巻より)
洞房語園抄書
洞房語園抄書(一部)
○吉原開基の砌より二三ケ年の間、賑ひしこと大かたならず、昼夜共に見物の諸人多く入込し節は、譬ば、東側より向ふの西側へ、わづか幅四間の所なれ共、女童の如きは、向ふまで自由に通ることならざる程賑ひしと也、理なる哉、御江戸の津は諸国第一の大都なるに、わづかに方二町の境地なれば、さも有べし、
○甚右衛門は、毎年三月二十八日、誕生日とて、親類同士の者をまねき、一種の麁菜を調へ、酒を進めて祝ふ、惣じて、諸祝儀、家建、普請等、事始にも、八日、十八日、二十八日を専ら用ひ、自分に於ても目出度数なり、殊には、御当家御吉例の数なり、といひし由、正徳元年卯七月中、飯沼弘経寺覚誉上人、病気治療のため、浅草寺内智泉院の庵室に逗留の間、愚父良鉄御見舞中、数々物語申ける序に、此八の数のこと申出、承り候得ば、上人の仰られしは、其事成程由緒有り、とて御物語ありしを、次の間にて具に承りしと也、
○覚誉上人の仰られしは、永禄年中に、尾州大高城より三州大樹寺へ渡らせ給ひし時、供奉の隋兵僅に十八人と聞へしかど、大樹寺の登誉上人御加勢申され、白布の御旗に、厭離穢土欣求浄土の八字を書て、是を押立させ給ひ、織田家の大軍に打勝せ給ひ、夫より御威勢日に盛んにして、岡崎の御本陣に渡御まし/\けると也、御先祖代々当宗御帰依浅からず、然ば、浄土宗は阿弥陀如来の四十八願を願奉る中にも、第十八の御願は王本願と申て、最初の御願也、松平の松の字に十八公の名あり、十八人の隋兵にて勝利を得させ給ひけるも不思議也、御入国は天正十八年八月にして、関八州平均す、此時、増上寺は辰の口の東にあり、住寺は源誉和尚と申ける、御入国の御規式を拝まんと、惣門の外に出給ひし時、御駕篭暫らく止りて、上様、和尚を御覧遊され、御近習を以御尋の節、寺は浄土宗、住寺は存応、と御答申ければ、扨は感誉が弟子存応か、との御諚にて、明日当寺へ御成ありて、御斎を召上るべきよし御約束遊ばされ、翌日御成、永く御菩提所の御契約を遊されけると也、慶長六年の春、御帰府の砌り、存応和尚と鴻巣の普山和尚と登城せられし時、滅罪御祈祷の事、浄土宗にて修行仕るべき旨、御上意也、存応の申上るには、御祈祷の儀は、天台、真言の両宗へ仰付れ然るべし、と仰上られ候へば、左あらば、然るべき祈祷坊主を推挙あれ、との上意に付、普山和尚の御取持にて、江戸崎の不動院南光坊と申奉りしを吹挙ありし也、(慈眼大師の御事なり)此時に、南光坊御年八十三と聞へし、扨叉、兼て御契約まし/\ける由にて、十八公を表し給ひて、浄土宗に十八檀林を御定め置せられ、御取立遊すべきよし御諚なり、慶長八年には御任官、同年存応和尚は国師とならせ給ふ、御一統に治り、御城下八百八町と申も目出度ためし也、と仰られし、難レ有物語なれば記レ之、
増上寺は慶長三年に芝浜表へ引移されしと云、
(中略)
○新町河合権左衛門といひし者の内に、雲井とて局の女郎あり、彼に其頃二刀の達人宮本武蔵が逢馴て、同町の揚屋甚三郎が許へ折々通ひける、寛永十五年の春中、肥前の島原一揆起り、西国御大名仰付られ、発向の砌、宮本氏も、黒田家の幕下へ見廻として彼地へ赴くとて、雲井に暇乞のため、甚三郎が許へ来り、揚屋にて発足の用意をしたり、武蔵が指物は箟を二本打違へたり、雲井を頼み、縮緬にて袋をぬはせ、箟に掛、青き筋純子の裁付、又雲井が紅鹿子の小袖を裏に付たる黒繻子の陣羽織を着たるよし、太夫、格子の遊女ども、武蔵坊とやらんいふ人の出立を見んと、中の町に群集したり、寛濶なる時代、宮本は聊もおくれたる気色もあらで、夫々に餞別の時宜を述、大門の外より迎馬に飛のり、勇進て打立けるといふ、
新町野村玄意は、其頃隠れなき柔術一統の名人一橋如見斎が弟子にて、宮本とも懇意なり、江戸町二丁目山田屋三之丞、角町並木屋源左衛門は、共に宮本が弟子也、右三人殊に餞し、首途を祝しける、
○江戸町西村庄助が家に、香久山とて名取の太夫有し、或時、庄助が方へ、年頃三十四五なる男、藍染の股引に同じ木綿布子着て、草鞋をはき、荷棒なわを結付、手拭にて頬かむりし、庄助が方へ来りて、不案内ながら、爰の内に香久山といふ名取のお女郎が有と、在所にて取沙汰を致す、けふは此近所までまかつたから、爰を尋ねて立寄り申た、其お女郎を鳥渡見物して参りたいが、成ませうかな、と言ければ、折ふし庄助が女房居合て、安いお望なれども、香久山は夕べから揚屋へ参り、宿におりませぬ、といふ所へ、香久山揚屋より帰り候故、女房しか/\〃のよし申ければ、香久山打笑て、彼田舎人の側へ行、香久山とは私事でござり升、先おこしをおかけなされてお休みなされませ、といふて手づから茶を汲て出しければ、彼在郷人、忝なふはござれども、迚もの事に御酒一つたべとふござる、といへば、香久山禿に言付、酒を出しければ、身どもは給ぬ、とて自身と燗鍋を持て囲炉裏の側へ行、袂から長さ六七寸計りの伽羅のわり木を二本取出し、囲炉裏へくべ、燗をして、茶碗にて一つ呑、慮外ながら、とて香久山にさす、かぐ山いたゞきて返しければ、又ついで二つ呑、舌打をして、大事の女郎を見物し、酒までたべて忝し、と礼をいふて帰りしが、何かたの人といふことを知らず、其跡にて、庄助女房かの伽羅を取あげんとすれば、香久山がいふやう、田舎人のやうには候へ共、いたづらなる殿がたの、わざ/\御出ありて燻給ひし物ならん、夫を其儘取あげ候はいかゞなれば、おたきなされませ、といへば、庄助女房も、尤とて一本はたきけれ共、一本は取あげたり、吉原五町の外まで薫じ渡り、家々にても、けしからぬ匂ひ哉、隣か向ふか、何かたで伽羅を燻ぞ、と騒ぐ計りに薫じければ、二ケ月計り程過て、芝筋より有徳なる町人来りて、香久山に二三度あひて身請させて連行しが、実は町人にてはなかりしといふ、
(中略)
○三浦屋四郎左衛門抱への高尾、七代あり、
初代妙心高尾 我生みたる子を乳母にいだかせ道中せしゆへ、子持高尾とも云
二代目仙台高尾
三代目西条高尾 御蒔絵師西条吉兵衛うけ出す
四代目水谷高尾 水谷庄左衛門請出す
五代目浅野高尾 五万石浅野因幡守請出す、此家今は断絶
六代目だぞめ高尾 だぞめや九郎兵衛請出す、神田の紺屋也、享保十年也
七代目榊原高尾 延亨、寛延の頃なり
○喧鈍 寛文二年寅の秋中より、吉原にはじめて出来たる名なり、往来の人を呼声喧しく、局女郎よりはるかにおとりて、鈍に見ゆるとて、喧鈍と書たり、其頃、江戸町二丁目に仁左衛門といふものは、温飩を拵へ、そば切を仕込て、銀目五分づゝに売はじめ、契情の下直になぞらへて、けんどんそばと名付しより、世間に広まるなり、
(中略)
○吉原の遊女ども、八朔には白小袖を着る事、古来は五月五日、染地の袷、八朔には白き袷を着したり、寛文の初に、新町宗玉と云し者の家に、夕霧といひける太夫、たしなみ能女にて、五月、八朔共に、小袖と袷と二通りづゝ仕立置たり、一年、八朔にけしからず寒き事有しに、他の女郎は袷を着したるに、夕霧は寒き折から、相応に白小袖を着たり、夫故に、外の女郎より見分よく見へたり、他の遊女これを見て、夕霧にまけじとて、翌年の八朔、残暑といへども、綿入小袖に仕立着したり、其上、薄く綿を入れし小袖は、袷より取形もよく見ゆる故、今にやまずして、汗を流しながら小袖を着すること、夕霧にならひてなり、
(中略)
○角町万字屋庄左衛門が家に、万寿と云し格子女郎有し、一人の客になづみて、外の勤を粗略にし、庄左衛門が教訓用ひず、うち捨て置ば、外の女郎共の為あしければ、勤をやめ、引込せて、腰元奉公の如く召つかひたり、万寿は生質発明にて、器量ある女なれば、是も当分のこらしめなればこそとおもひ、下女共の立働らく程のことを、何事もいとはず働き、或は買物あれば、彼布子を着て中の町へも出て、諸事に付、随分かい/\〃しくはたらきけり、此頃、長谷川宗月とて、希代の相人ありて、折々吉原へ来りしが、一日、庄左衛門が方へ来りて咄し居候ゆへ、庄左衛門、宗月を饗応なし、其遊女共の相を見せければ、宗月も当座の言分に、相応なる挨拶してけり、彼万寿はこれを聞、主人庄左衛門が勝手へ立し透に、己も其相人とやらんに見て貰はんとて、宗月に物いふ所へ、庄左衛門また座敷へ出ければ、どこやら主人はこはひ物か、万寿は言捨にして、又勝手へ入けるが、宗月ちょっと万寿が相を見て、庄左衛門にいふ様、先程から大勢の相を見し内に、今の下女程の相はなし、福相有て、あっぱれ遊女ならば、此廓の一二を争ふ名取とも成ねし、三年を過さずして、かならず千人の上を越すべき相あり、といへば、庄左衛門聞て、夫は彼女の仕合にこそ、といひて、扨、宗月には酒を進めて帰しけり、半年計り過れども、主人は何の沙汰もなく、下女にして召仕ひければ、扨は当分のおどしにてはなかりしものかとて、万寿も志をあらためて、人を頼みて誤り、詫言するゆへ、庄左衛門合点して、また勤を致させければ、かたの如く時花て、宗月が言しに違はず、其年より三年目に、年季も一年ありしが、ある有徳成る方へ貰はれて行、多の人の上に立しといふ、伊達ある女にて、やつこ万寿といはれし、
[補]
○元吉原は、今の和泉町、高砂町、住吉町、難波町、此所方二町四方也、竈河岸は其時の小堀なり、今の大門通りは、其時の大門口通り也、其頃の遊女屋、京町右側角大三浦屋四郎左衛門、同左側角むかふ三浦屋源三郎、是等其頃の大見世なり、
元吉原、元和三巳年より明暦三酉年迄、三拾九年相つゞくなり、
○大門口御高札御文言
覚
一、前々より制禁の如く、江戸町端々に至る迄、遊女の類隠し置べからず、若違犯之輩有レ之に於ては、其所の名主、五人組、地主迄、可レ為2曲事1者也、
五月
一、医師之外、何者に寄らず、乗物一切無用たるべし、
附、鎗、長刀、門内へ停止たるべき者也、
五月
正徳元年卯七月十一日、御立替有り、
○元吉原焼失の後、浅草三谷の辺に引移り、仮宅中夜見世致し、明暦三酉年、新吉原(元の地名竜泉寺村)へ引移る、
(後略)
此一巻は、流布本のうちより抄出して、本書の遺漏を補ひつ、
活東子
(中央公論社刊『燕石十種』第五巻を底本としました。)

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