東照宮御実紀

東照宮御実紀巻一

徳川実紀

東照宮御実紀巻一(全文)

 青字は「森山崩れ」の記述。

かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文徳天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後に清和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿、常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす。経基。経主といふ。経基王は清和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊予。但馬。美濃。武蔵。下野。信濃等を歴任し。太宰大貳。左衛門権佐。式部少輔。内蔵頭等を累任せられ。鎮守府の将軍に補し。正四位上に叙せらる。」後に神霊をあがめて六宮権現といつぎ祭られ。旧邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と号す。経基王の御子八人。満仲。満政。満季。満實。満快。満生。満重。満頼といふ。長子満仲朝臣。朱雀。村上。冷泉。圓融。花山。一條の五朝に歴任し。春宮帯刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大輔。左馬権頭。蔵人頭。摂津。越前。伊予。美濃。武蔵。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。上総の介に累暹し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造営し。剃髪して多田新発智満慶と称す。満仲の子六人。頼光。頼親。源賢。頼信。頼平。頼範といふ。第四の子頼信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。従四位上。伊勢。美濃。河内。甲斐。信濃。相模。下野。伊予等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬権頭。冷泉院の判官代。鎮守府将軍に補任し。内の昇殿をゆるさる。河内国壷井の通法寺にをさめ。今に祀典絶ず。頼信の子頼義。河内。伊豆。甲斐。信濃。武蔵。下野。陸奥。出羽。相模。伊予等の守。常陸上野介を歴て。左近将監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎮守府将軍になり。正四位下に叙し。内院の昇殿をゆるされしが。鎮守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勤世にいちじるし。頼義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石清水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太郎とは称せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば、東国の武者贄をとりて御家人と称するもの少からず。正四位下。左衛門尉。左馬頭。左近将監。治部兵部の少輔。武蔵。相模。陸奥。出羽。下野。河内。伊予等の守を経て鎮守府の将軍たり。弱冠のむかし父頼義にしたがひ奥に下り。九年の苦戦に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のごとし。また東奥の任にありて清原家衡。武衡をせめふせて其武威いよ/\かゞやけり。』義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は従五位下。帯刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の別庄に幽居し。薙髪して荒加賀入道と称しける。その子義重。義康。李邦とて三人あり。」長子義重に新田の庄を譲り。次子義康に足利の庄をゆずられける。新田足利の両流に分るゝ其本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて上西と号し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國浄海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸国の源氏蜂起するに及びて。義家朝臣の曾孫頼朝。伊豆国蛭小島より旗あげして。諸国の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故に。その招に応ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎮守府将軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。義兼。義範。義李。経義。義光。義佐といふ。』四郎義李は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大将家入洛の時も騎馬の随兵たり。後に髪きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の郷徳川の邑に住せられしより。其子孫徳川世良田を称する事とはなりぬ。」義李の子三人。頼氏。頼有。頼成といふ。長子頼氏。始は世良田孫四郎といふ。鎌倉将軍頼嗣并に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。従卯五位下三河守に叙任す。世良田長楽寺に寺領寄附の文書を蔵せり。頼氏の子経氏。教氏。有氏とす。(大系図には経氏を江田三郎満氏とす)」二子教氏は世良田次郎とも。又三河次郎とも称し。又徳川を称し。後に静眞と号す。(此二世三河守に任じ三河次郎と称せられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徴とすべし。豈奇遇ならずや)」教氏の子を家時とす。世良田又次郎また孫太郎とも称し。父に先だちてうせらる。(長楽寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき)」家時の子を満義とす。世良田弥次郎また孫四郎ともいふ。新田左中将義貞に属し。南朝に仕へて忠勤を励みしが。義貞うせられし後。一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田徳川の間に隠れ住む。後に宗満と号す。(世には此満義を太平記にのせし江田三郎光義とす。又教氏の弟三郎有氏の子江田弾正行氏を光義の事なりともいふ。何れ是なりや)」満義の子二人。政義。義秋といふ。(大系図第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。徳川系図。新田松平譜。大成記等にのする所も前説のごとくなれば今これにしたがふ。三家考に満義の子義周。その子義時。其子政義とす。諸説と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記。大成記にその伝詳にのせず。波合記といへるものには。政義南朝の尹良親王(後醍醐天皇には御孫。宗良親王には御子なり)の御子。良王を守護し。三河にともなひまいらせんとして。波合にて討死されたりと見ゆ。徳川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永徳の頃新田一門波合にて皆討死せられしに。新田義宗の子相模守義陸の討もらされ。後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ。底倉記には義陸を脇屋右衛門義治の子とし。母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州霊山にて旗挙ありし時。上野の世良田大炊助政義。桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ)」政義の子を修理亮親李といふ。親季の子を左京亮有親とす。」有親の子を三郎親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の党類を捜索ひまなかりしかば。この危難をさけんがため故郷をさすらへ出られ。(大成記に上杉禅秀が方人せられしゆへ捜索しきりなれば。父子孫三人東西に立ちわかれ。世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども。鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに。小山犬若丸に方人して奥州に下り。新田義陸を大将と守立んとせられしに。その事ならずして新田。小山。田村党皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに。小山が一乱より捜索厳なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の例見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に来りたまひ。称名寺御寄寓の間。これを寺内に葬られしとて。其墳今も称名寺に存す)時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび。父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが。宗門のちなみによて三河國大濱の称名寺に寄寓せられ。こゝにうき年月を送られし間に。有親はうせ給ひしかばその寺に葬り。後に松樹院殿とをくりぬ。」又此國酒井村といへるに。五郎左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄只人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。徳太郎忠廣(又小五郎親清とも伝ふ。これ今の世の酒井が家の祖なりといふ)といふ。さて五郎左衛門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに。其頃同國松平村に太郎左衛門信重とて。これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが。いかなる故にか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに。今親氏やもめ居し給ふを見て。其女にあわせて家をゆづらんとこふこと頻なり。」親氏もとより大志おはしければ。かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆずり。其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り。其女を妻としその譲をうけて松平太郎左衛門となのられけるが。松平酒井両家ともに。きはめて家富財ゆたかなりしほどに。貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ。近郷の旧家古族はいふに及ばず。少しも豪俊の聞えある者は子とし聟とし。ちなみをむすばれしほどに。近郷のものども君父のごとくしたしみなつかざるはなし。」親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後。吾つら/\世の有様をみるに。元弘建武に皇統南北に別れてより天下一日もしづかならず。まして応仁以来長禄寛正の今にいたりて。足利将軍家政柄を失はれし後海内一統に瓦解し。臣は主を殺し子は父を追ひ。人倫の道絶へ。万民塗炭のくるしみをうくる事今日より甚しきはなし。吾また清和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し。空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近國を伐なびけ。民の艱難を救ひ。武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば。衆人もとより父母のごとくおもひしたしむ事なれば。いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち。身に叶へる勤労をいたすべしとうけがひしかば。兼て慈恵を蒙りたる近郷のもの共。招かざるに集まり来しほどに。まづ近郷に威をたくましうする者の方へ押寄せて。降参する者をば味方となし。命にさからふものは伐したがへられしかば。ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも。大略はその威望に服しける。(当家発祥その源はこの時よりと知られける)卒去有りて松平郷高月院に葬り。芳樹院殿と諡せり。」親氏の子を泰親とす(一説御弟なりといふ)その跡をつぎて是も太郎左衛門と称せらる。父親氏の志をつぎ。弱をすくひ強を伐て貧を恵み飢をすくはれしほどに。衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。」その頃洞院中納言實熈といへる公卿。三河國に下り年月閑居ありしに。(世には實熈三河に左遷ありしよし伝ふるといへども。応仁より後は、争乱の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ。縉紳の徒都に住わびて。ゆかりもとめ遠国に身をよせたる者少からず。この卿も三河國には庄園のありしゆへ。こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし)泰親この卿の冗淪をあわれみ懇に扶助せられ。すでに帰洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば。卿もあつくその恩に感じ。帰京の後公武に請ひて。泰親を三河一國の眼代に任ぜられしかば。是より三河守と称せらる。」この時岩津岡崎に両城を築き。岩津にみづから住し。岡崎にはその子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平郷をゆづり。松平太郎左衛門と称す。(今三河の郷士松平太郎左衛門が祖なり)二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り。良祥院殿とおくらる。信光家継て岩津岡崎の両城主たり。此人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ。此時よりぞいよ/\其一門は國中に滋蔓し。ます/\近國近郷其威望かくれなく。國人帰降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家。(是を竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今其後なり)二男は右京亮親忠。是を嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釈門に入りて安穏寺昌龍と号す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信家が祖)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壱岐守正朝。志摩守重成等この孫なりしが。此筋いまは絶えたり)六男八郎左衛門光英。七男弥三郎元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今図書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠候は深溝の統なり)八男次郎右衛門光親。(能見の松平といふ。次郎右衛門光福。河内守親良等の祖なり)九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七郎親則。(長澤の松平といふ。この統は嫡家絶て今松平伊豆守信祝この筋とす)此外は其名つまびらかならず。この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ。其外所々攻め取りて三河國三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて。かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す)岩津の信光明寺をいとなみ。卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。」二男親忠その跡をつがる。子九人。太郎親長は岩津を領せられ。二男源太郎乗元(後加賀守)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乗元等の祖)三男次郎長親をもて家督とさだめらる。四男弥八郎親房。(後玄蕃助)五男は釋氏に帰し。超誉と号し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光。(西福釜の松平といふ)七男左馬助長家。(安祥と称す)八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乗清。(瀧脇の松平といふ。監物乗道。丹後守信徳等が祖)」明応二年十月の頃三河國上野城主阿部孫次郎。寺部城主鈴木日向守。挙母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへるに。親忠一門家兵を引率し井田の郷に出張し。わづかに百四十余の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十余級を討とらる。この後は西三河の國人大半は帰降し。勢いかめしく聞えける。この合戦に討死せし敵味方の骸をうづめ。額田郡鴨田といへる地に大樹寺を創建せらる。後に家を三子長親に譲り入道して西忠と号せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる)長親ゆづりを受て出雲守と称し安祥に住せらる。子五人。長子を次郎三郎信忠。二男右京亮親盛。(福釜の松平といふ)三男は内膳正信定。(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖)四男甚太郎義春。(東條の松平といふ)五男彦四郎利長。(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寶等が祖)長親また慈愛ふかく武勇も卓絶なりしかば。衆よくなびきしたがふ。」この頃今川修理大夫氏親駿遠両國を領し。三河も過半はその旗下に属しけるが。近来西三河はいふまでもなし。東三河の國士どもやゝもすれば今川を去て長親にしたがはむとする様なるを見て大に驚き。其所属北條新九郎入道早雲を将とし、萬余の兵を率して。永正三年八月廿日庶兄太郎親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討って出。岩津の後詰して早雲が大軍を追ひ払はる。此勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば。いまだ壮の齢にてかざりをおろし道閲と号し。長子信忠に家をゆづられ。所領悉く庶子にわかちさづけ。風月を友とし連歌をたのしみ。八十あまりの寿をたもち。曾孫廣忠卿の御時までながらへて。天文十三年八月廿一日終をとらる。大樹寺に葬りて棹舟院殿といへり。信忠家をつがれし後。蔵人また右京と称せらる。」子三人。長子は次郎三郎清康君。二男は蔵人信孝。(三木の松平といふ)」三男は十郎康孝。(鵜殿の松平といふ)」信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ。新降の國人共やう/\そむきけるほどに。譜代の郎党にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば。信忠其機を察せられ。何事も残り多き齢ながら。僅十三になり給ふ清康に世をゆづり。頭おろし春夢と号し。大濱の称名寺に閑居ありしが。四十に一二余りしほどにて。享禄四年七月廿四日父道閲入道に先立てうせられしかば、これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。」その太郎清康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歳にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみ/\ならず。萬にいみじくわたらせ給へば。御内外様のともがらも。この君成長ましまさば。終に中國に旗挙し給ふべしと末頼母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたたび来りて旗下に属するやから少からず。」岡崎并に山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。清康君十四歳にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻抜かれ。其猛威に乗じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもて清康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひしかば、これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再び此城本家に帰せしなり)世には安祥の三郎殿と称し。その武威を恐れける。」享禄二年五月の頃西三河は皆御手に属しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統さられんとの御志にて。牧野伝蔵信成が吉田の城を乗とらんとて。安祥を打立ち給ふ。信成終にかまけて。兄弟をはじめ主従悉く討死す。かくて清康君は直に吉田川の上の瀬ををし渡し。吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及ばず落ち行けば。清康君その城に入て人馬のいきを休め。一両日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戸田弾正少弼憲光大におそれ。これも忽に降参す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒をすすめ奉る。清康君は此勢に乗じ。近辺の城々にをしよせ/\せめぬき給ふ。破竹のことき勢に辟易して。牛久保の牧野新次郎貞成。設楽の設楽禎三郎貞重。西郷の西郷新太郎信貞。二連木の戸田丹波守宣光。田峰野田の菅沼新八郎定則。その外山家。三方。築手。長間。西郷の輩風を望みて帰降す。享禄二年尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎。野呂(一に科野につくる)を攻めぬき。おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。」天文二年廣瀬の三宅。寺部の鈴木等と戦て敵みな敗走し。その冬信州の大軍を追払はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ。隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して。織田信秀が弟孫三郎信光。美濃の國士数十人かたらひ清康君へ志をはこび。もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。清康君もとより望所の幸なりと。一萬余の軍勢にて。天文四年十二月尾州へ発向し給はむと。まづ森山へ着陣あれば。美濃の國士共もみなこゝにまいり。贄をとりて拝謁し。やがて信秀を清州より引出さんと。謀をめぐらし近郷を放火せらる。しかるに叔父内膳正信定もとよりはらぐろきものなりしが。いつしか志を変じ織田がたに内通し。安祥の虚をうかがひ。本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ。清康君も酒井大久保などいへる旧臣等の諌にしたがひ。まづ軍をかへさるべきに定りぬ。」その頃阿倍大蔵定吉といへる。御家に年ふるおとななりけるが。此者織田に内通するとの流説陣中に粉々たり。定吉大におどろき其子弥七を近よせ。我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外の騒動す。清康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ。木戸を閉よ取外すなと指揮し給へる御声を聞て。かの弥七は父大蔵唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。清康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。御肩先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付けたり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者共も。たゞあきれはてたるより外の事なし。扈従に植村新六郎とて十六歳の若者。御刀とりて御かたはらにひかへしが。其御刀の鞘をはづし。あやまたず弥七を切ふせたり。衆人この時にいたり。かの大蔵をとらへ糾問するに。定吉ありし事どもかくさずものがたり。吾にをいてはたとひ冤罪をもて誅を蒙るまでも。君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の弥七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて。首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば。聴人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閲入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虚に乗じ。追討せんは必定なれば。いそぎ君の御なきがらを守護し。軍を全くして一時もはやく帰国せむにはしかずと。衆軍俄に周章狼狽し。鎧の袖を涙に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ伝へしは此時の事なりとぞ。」清康君はじめには昌安入道が息女(春姫と申せしなり)をむかへ。北方と定め給ひしかど。琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず。後近郷の郷士青木筑後守貞景が女をもて北方となさる。此腹に贈大納言広忠卿生れさせ給ふ。是東照宮の御父なり。此北方は御産後にとくうせ給ひしかば。又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河内左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七郎秀成にはかりあはせたまひ。むかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河内氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。清康君逝去は天文四年十二月五日。忠政の死は同十二年七月十二日なれば。清康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離別の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ)」かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立帰り。其ほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ。御骨をば大樹寺におさめ。善徳院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。随念寺記に菅生丸山に御火葬して。其地に御塚ありしゆへ。烈祖永禄四年随念寺をその地に造営し給ふと見え。又大林寺の記には。はじめの北方春姫。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。清康君御事ありし後。御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば。今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて。三所に葬りたるものなるべし)この君時に廿五歳。さしも軍謀武略世にすぐれ。かしこくわたらせ給ひしを。おしみてもなをあまりある御事なり。」三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき。上下たゞ火をけちたる如く驚嘆して。ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人等。かの大蔵が事を入道に申て御下知を乞しに。入道なく/\仰せけるは。弥七が大罪全く狂気のいたす所なれば。父大蔵が罪にあらず。大蔵は旧にかはらず忠勤をつくすべしと仰せければ。定吉は蘇生をしたるごとく。深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし。御家人をの/\かしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ。今年はわづかに十歳にならせたまふ。御弟二人。御妹一人あり。その一人は源次郎信康。その次は釈門に入て。後に大樹寺の住職となり成誉と号す。御妹ははじめ。長澤の松平上野介康高の妻となり。後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。」さて天文五年二月のはじめ。織田信秀は清康君の御事を聞定め。今は岡崎も空虚なるべし。西三河を併呑せん事この時にありと。八千の人数をして三河に発向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども。さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと。宗徒の輩血をすゝつて誓をなし。井田郷にをいて敵をむかへて決戦し。おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林。植村。高力などいへる究竟のともがら四十人余戦没す。」かの内膳信定は清康君の御時より叛心をいだき。織田方へ内通しけるが。清康御事ありし後。また奸計をめぐらし。老父の入道へしきりにこびへつらひて。何事もおもふまゝにふるまへば。御家人等もせん方なく。今は信定を尊敬する事主のごとく。敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましき振舞多きを見て。かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて。ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戸城主東條右兵衛督持廣は清康君の御妹聟なれば。定吉幼主を持廣にたのみ。しばし神戸にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたわり。こゝにて首服をくはへ。をのが一字をまいらせ。二郎三郎廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病没し。其子上野介義安は父の志を背き織田方に内通し。廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば。定吉大におどろき。また廣忠卿をともなひ神戸を逃出て。遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り。その身駿河に行て。今川治部大輔義元をたのみ。廣忠卿御帰国の事をこふ。義元もとより近國を併呑し終には中國に旗を立んとの素志なれば。速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四郎兵衛忠次も。兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を盡しける。御叔父蔵人信孝。十郎康孝。その外林。大原。成瀬。八國。大久保党等これに応じ。若君當家の正統にましませば。國に迎へ奉らん事を議しあひ。今川義元は廣忠卿を帰國せしめ。岡崎をはじめ三州一圓。をのが旗下に属せしめん下心なれば。東三河與力の士をかり催して。先廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ。廣忠卿に陪従せし御家人等を先鋒とし。織田方旗下に属にたる東條の城主吉良左兵衛佐義郷を攻しめ義郷も討死す。信定これを聞おどろき。若君を國に入しめじと様々心がまへせしかど。譜第の御家人一致して。天文六年五月朔日終に廣忠卿を岡崎に迎へ奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感状今林肥後守忠英が家に存せり)信定も今は力をよばず。又老父入道にたよりて廣忠卿へ降参し。いく程なく病没せり。この後岡崎には蔵人信孝。十郎三郎康孝両叔父を後見とし。大蔵定吉等おもふまゝに軍國の事をとり行ふ。」清康君後の北方(華陽院殿御事なり)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり(伝通院御事なり)。定吉はじめ酒井。石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無疆の大統を開かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞまし/\ける。その程の奇瑞さま/\世につたふる所多し。(北方鳳来寺峰の薬師に御祈願ありて。七日満願の夜薬師十二神将の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御縁起にも記されしこと多し)石川安芸守清兼蝦蟇目をなし。酒井雅楽助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名参らせらる。」こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今川方を背き。織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ。吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に内通する信元が縁に結ぼふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歳なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さてその日になれば。金田。阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り来りたりと聞ば。定めて憤りて一々切り捨らるゝか。又は髪を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。左もあらんにはわらはこそ縁盡て兄のもとにかへさるゝとも。竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては。後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし。御暇は申けれど。猶心ならねば。片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに。はたして刈屋より混甲二三十人出来たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ帰りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰ければ。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姉君は形原の紀伊守家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに。我又水野が縁につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り帰したりしに。信元大に怒りて。送りのもの一人も残さず伐て捨つ。こゝに於て後までも。廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名将の母君ほどまし/\て。いみじき御思慮かなと。世にも聞伝へて感歎せぬはなかりけり。」廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人。女君三人あはしたり。御男子は家元。後に康元。生涯足なえて世に出て人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多劫姫と申。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ。後にその弟與一郎忠吉にあはせ給ひ。其後また保科弾正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に。正光に降嫁ありし烈祖の御妹は。伝通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり)その次は市場殿とて。荒川甲斐守頼持(又義虎)に嫁し給ひ。後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姫と申。長澤の源七郎康忠に嫁したまひき。」廣忠卿にはこの後。田原の城主戸田弾正少弼康光の女をむかへ給ひしかど。この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三郎信乗が子兵庫の頭親良といへるも。實はこの卿の御子なりしともつたへたり。十四年弥生のころ御家人岩松八弥何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ逃いでたり。(隣国より頼まれて刺客となりしといふ)御かたはらの者どもおどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給はず。此時も植村新六郎外のかたより来ながら。おもはず八弥を伐はたす。この植村さきに清康君事ありし時は阿倍弥七を即座に伐とめ。今度また八弥をも其座をさらず首をとり。二代の主君の御仇を即座に誅しける冥加の武士と。感じうらやまぬ者ぞなかりける。」このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに。三州にても上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ。是に内応する徒もすくなからず。こゝに又蔵人信孝は廣忠卿を翼立せし功により。その威権肩をならぶる者なかりしかば。縦恣のふるまひ多かりしを。大蔵定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し。信孝が驕逸そのまゝにすてをかれば。むかしの内膳信定がふたゝび生せしごとくならんと。より/\に廣忠卿をもいさめたり。十六年正月頃卿御病悩にわたらせ給へば。御名代として信孝が三木の領地を没入しければ。信孝帰りて大におどろき。吾翼立の功ありて罪なし。何の故にかく所領を没入せられしぞ。これは定めて吾をにくしと思ふ大蔵等が讒訴のいたす處ならむとて。様々陳謝すれども。これをとりつぐ者もなければ。終に憤りにたへずして。これも織田方に内応の志を抱きけり。」此ほど道閲入道殿もうせ給へば。織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責落し。其子三郎五郎信廣をこめ置。淺理筒針に砦をかまへ。上和田に三左衛門忠倫。上野に酒井将監忠尚を置て椅角の勢を張れば。もとの信定が子内膳清定。山中の権兵衛等もこれに応じ。岡崎孤城となりて甚危し。國中大に乱れてあけても暮ても互の争戦やむ時なし。この時筧平三郎重忠は岡崎の御家人なりしが。偽て忠倫に降参し。したしみよつて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば。岡崎がたは大に悦び。織田方は援助を失ひしに。信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと。用意する由聞えしかば。岡崎にも是を防がむとすれども。衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひければ。竹千代君わづかに六歳にならせ給ふを。駿州に質子たるべしとの事にさだまり。石川與七郎数正。天野三之助康景。上田萬五郎元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七郎忠正。江原孫三郎利全等すべて廿八人。雑兵五十余人。阿部甚五郎正宣が子徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしをあそびの友として。御輿に同じくのせてつかはさる。」こゝに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り中さんと約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を。康光は其子五郎政直とこゝろをあわせ。御供の人々をいつはりたばかり。船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀悦び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはなれ。我かたに降参あるべし。もし又その事かなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。卿その使に対面したまひ。愚息が事は織田がたへ質子に送るにあらず。今川へ質子たらしむるに。不義の戸田婚姻のよしみを忘れ。中途にして奪とりて尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は。霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名古屋萬松寺天王坊にをしこめをきて。勤番きびしく付置しとぞ。」今川義元も卿の義心に感じ。さらば援兵つかはすべしとて。遠江并に東三河の勢をさしむけ。三州小豆坂にて織田勢と合戦し。織田方終に引き返す。蔵人信孝織田方へ内通すといへども。三左衛門忠倫うたれし後は。同志のともがら衰落するを憤り。みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ。権兵衛重弘も山中城より落うせしかば。織田方にはいよいよ大軍を起し。岡崎へ乱入せんとすれば。岡崎にも防戦の用意専らにすといへども。織田方は大軍岡崎は小勢なれば。いかがはからはんと上下心をなやます。」其中に廣忠卿には去年以来御心地例ならずまし/\しが。日にそひおもらせ給ひ。天文十八年三月六日廿四歳にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを。一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松応寺の旧記をあはせ考るに。この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて。ふたゝび。今川へ加勢を請たまふ最中。廣忠卿逝去まし/\けるゆへ。御家人等此事織田方へ聞えんことを恐れ。其頃ふかく御帰依ありし法蔵教翁和尚と内話し。岡崎近き大林寺にて後のわざし。能見の原に内葬して後。今川へも其旨告やり大樹寺に葬礼を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造営あり、松応寺是なりといふ)慈光院殿とをくり。又瑞雲院殿とも申。慶長十六年大一統の後にぞ。大納言ををくられ大樹寺殿と号したふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をくはへて二萬余騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を残し。その外二三の丸まで攻おとし。今川がたの総将雪斎和尚がはからひにて。信廣と竹千代君と人質替の事を申送りける。織田も備後守信秀この春病没し。長子信長家継しが。もとより勇鋭の大将なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窮困すると聞て。是をすくはんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが。安祥既に陥ると聞て引返せんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長も悦て約を定め。十一月十日三河の西野笠寺まで。竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八郎忠俊などいへる岡崎譜代のつはもの出迎へ受取て。信廣をば織田方へ引渡す。」君は天文十六年六歳にて。尾州の擒とならせられ。八歳にしてことしはじめて御帰國あれば。御家人はいふまでもなし。岡崎近郷の土民までも君の御帰國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば。義元は少将宮町といふ所に君を置まいらせ。岡崎へは駿府より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戦の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歳まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に。廣忠卿うせ給ひ竹千代君いまだ御幼稚なれば。敵國の間にはさまり。とても独立すべきにあらず。織田方に降参せんといふもあり。又は今川は舊好の與國なれば。今川は従はんこそ舊主の遺旨にもかなはめといふもありて。郡議一決せざる間に。義元いちはやく岡崎へ人数をさしむけ。城を勤番させければ。岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に属したりと見ゆ。此説是なるに似たり) 

巻二

東照宮御実紀巻二(全文)

 緑字は家康最初の軍功「大高城兵糧入れ」の記述。青字は「姉川の戦い」「三方原の戦い」「長篠戦い」の記述。

竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義廣に作る)理髪し奉る。義元一字をまいらせ。二郎三郎元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。」二月には義元がはからひにて三河國日近の城をせめんと。君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに。城将奥平久兵衛貞直よく防て義春討死す。この城は三尾の國境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ。酒井。大久保をはじめ宗徒の御家人をそへて守らしむ。織田上総介信長これを聞。柴田修理亮勝家を将として攻させるに。御家人等力をつくし防ければ。勝家深手負て引かへす。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。君義元にむかはせ給ひ。それがし齢すでに十五にみち。いまだ本國祖先の墳墓にも詣でず。願はくは一度故郷に帰り。祖先の墳墓をも掃ひ。亡父の法事をもいとなみ。故郷にのこせし古老の家人へも対面仕たしと仰らる。義元も御志のやむごとなきをもて。やむことを得ずしばしの暇まいらせければ。君御悦なゝめならず。いそぎ三河へ立ちこえたまひ。御祖先の御墓に詣給ひ。御追善どもいとなませ給ふ。此時岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住居けるに。君仰けるは。吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請へければ。そのまゝ本丸にあるべしとて。御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ。さて/\分別あつき少年かなと感じけるとぞ。」爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人。今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ。岡崎にて賦税の事を司りしが。忍び/\〃に粮米金銭を庫中にたくわへ置。こたび君御帰國ありて。譜第の人々対面し奉り。よろこぶ事かぎりなき中にも。忠吉は君の御手をとり。年頃つみ置し府庫の米金を御覧にそなへ。今よりのち我君良士をあまた召抱へたまひ。近國へ御手をかけたまわんため。かく軍粮を儲置候なりと申ければ。君御涙を催され。その志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し。年頃諸方の交戦に我家人をかりたてゝ。譜第の家人どもこれがために討死する者多きこそ。何よりのなげきなれとて。更に御涙をながし。なきくどかせたまひける。古老の御家人等是を見聞し。御年のほどよりも。御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま。御祖父清康君によく似させたまふことゝて。感歎せぬはなかりけり。」翌年の春にいたり駿府へかへらせたまひぬ。御名を蔵人元康とあらためたまふ。これ御祖父清康君の英武を慕はせられての事とぞ聞えける。」弘治も四年にて改元あり永禄となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歳十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸将をめされ御指導ありしは。敵この一城にかぎるねからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断べしとて。城下を放火し引とり給ふ。酒井雅楽助正親。石川安芸守清兼などいへるつはものどもこれを聞て。吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらんと落涙してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御旧領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ。腰刀をまいらせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる廣瀬。挙母。伊保等の城をせめ。石が瀬にて水野下野守信元と戦給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略。古老の輩感服せざるはなし。」此頃岡崎の老臣等駿府に行て。元康既に人となり帰城するからには。駿府より置れし城代其外人数をば引取給ひ。旧領かへしたまはりなむやと請けれど。義元我明年尾州へ軍を出さむとす。其ちなみに三州へも赴き境目を査検して旧領を引わたすべし。それ迄は先あづかり置べしとあれば。岡崎の老臣どももせん方なく。ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。」二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三郎信康君と称したまへるは是なり。」此頃織田信長は父信秀の箕裘をつぎ。兵を強くし國をとますの謀をめぐらし。美濃。伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと。鳴海近辺所々に砦をまうけ兵をとめ置と聞。今川義元大に怒り。さらば吾より先をかけて尾州をせめとり。直に中国へ旗を立んと。是も國境所々に新寨を設け兵をこめし中にも。まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり。軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし。しかるに君はわづかに十八歳にまし/\けるが。かひ/\〃しくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ。難なく小荷駄を城内へはこび入しめられければ。敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名誉のことに申ならはしける。(大高送粮の事異説区々なり。その一説尤審なり。其ゆへは信長。寺部。挙母。廣瀬の三城へ兵をこめ置て。今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには。鷲津。丸根両城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。烈祖はやくその機を察せられ。先鷲津。丸根両城を捨て寺部の城下を放火し。その城へせめかゝらん躰を示し給へば。鷲津。丸根の両城は寺部を救はむ用意する其ひまに。難なく軍粮を大高城へ運送したまふといふ。此説是なるがごとし)此後も義元の指揮によって寺部。梅津。廣瀬等の城々を攻給ひ。又駿府へ帰らせ給ふ。」あくれば三年義元用意既にとゝのひしかば。駿遠三の軍四万余を引具し尾州表へ発行す。君もその先隊におはし給ひ。先丸根の城をせめ落したまひ。やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて。鵜殿にかへて君をして是を守らせ。その身は桶狭間に着陣し。陣中酒宴を催し勝ほこりたる。その夜信長暴雨に乗じ。急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば。今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃かへる。君はいさゝかもあはて給はず。水野信元より義元討れし事を告進らせて後。しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城等は。義元討死と聞て取るものもとりあへず逃去ければ。その儘城へ入せ給ふ。君八歳の御時より駿府に質とせられ。他の國にうき年月を送らせ給ひ。ことし永禄三年五月廿三日。十七年をへて誠に御帰國ありしかば。國中士民悦ぶ事かぎりなし。(義元より兼て武田上野介。山田新右衛門等を岡崎の城代に置しが。今度尾州出軍に及び。また三浦。飯尾。岡部等をして岡崎を守らせけるに。義元討死を聞此輩皆逃去ければ。難なく御帰城ありしとなり)」君の御母北方は岡崎より刈屋へ帰らせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ。こゝにて男女の子あまた設け給ひしが。君は三の御年別れ給ひし後は御対面も絶はてし故。とし頃恋したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ。幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて。懇に御消息ありしかば。御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に属し織田方なれど。御外戚紛れなき事なれば。何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。君やがてその館にましまして御母子御対面まし/\。互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて。なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に二人並居し男子を見給ひ。これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。是後に因幡守康元。豊後守康俊。隠岐守定勝といふ三人なり。」信長は義元を討取て後は。君にも織田方に組したまふらめとはかりし所に。君は岡崎へかへらせ給ひて後も。挙母。梅津の敵とたゝかひ。拂楚坂。石瀬。鳥屋根。東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば。信長も思ひの外の事とぞおもはれける。義元の子上総介氏真は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず。寵臣三浦などいへるものゝ佞言をのみ用ひ。むなしく月日を送るをみて。信長は君をみかたとなさんとはかり。水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに。君も氏真終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば。信長も悦なゝめならず。かくて君清洲へ渡らせたまへば。信長もあつくもてなし。是より両旗をもて天下を切なびけ。信長もし天幸を得て天下を一統せば。君は旗下に属したまふべし。君もし大統の功をなしたまはゞ信長御旗下に参る。これは永禄四年なり。」東條の吉良義昭今はまたく御敵となり。しば/\〃味方の兵と戦ひてやまざりしが。其弟荒川甲斐守頼持。兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅楽助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降参す。味方また今川方西郡の城をせめて鵜殿藤太郎長照を生どる。長照は今川氏真近きゆかりなれば。氏真これを愁る事甚しき様なりと聞て。石川伯耆守数正謀を設け。かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな数正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。」君ことし御名を家康とあらため給ふ。(永禄四年十月の御書に元康とあそさばされ。五年八月一日の御書には家康とみゆ)六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り。所々のたゝかひやむ時なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず。此ほど小坂井。牛窪辺の新塞に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。譜第の御家人等これにくみするもの少からず。國中騒擾せしかば。君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ帰順しければ。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。」このさわぎに時を得て吉良義昭。荒川頼持。松平三蔵信次。松平監物家次。松平七郎昌久等又反逆してをのが城に立こもりしかど。かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏真より小原肥前守鎮実をこめ置て岡崎の虚をうかがへば。是にそなへられんがため。岡崎よりも喜見寺。糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに。氏真吉田を救はむがため。二萬の軍をもてこの寨をせめかこむ。君かくと聞召。三千の人数にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。敵の人数は味方に十倍し。その上後詰を防がむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮まし/\てしかるべしと諌けれど。君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ来ると聞て救はざらんには。信も義もなきといふものなり。萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千の備をけちらして。一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿まし/\。翌朝信俊を召し具せられ。将卒一人も毀傷なく。敵勢を追立々々難なく岡崎城へ帰らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて天下後世まで其御英武を感歎する所なり。(後年豊臣太閤のもとに烈祖をはじめ諸将会集有し時。誰にかありけん古老のもの烈祖に対し奉り。先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ。天下に美談と仕候と申上ければ。烈祖否々それも若気の所為なりと宣ひ。微笑しまし/\けると伝へき)」小原鎮実も吉田の城をひらき。田原。御油等の敵城もみな攻おとされ。東三河。碧海。加茂。額田。幡豆。実飯。八名。設楽。渥美等の郡みな御手に属しければ。吉田は酒井忠次にたまはる。これ當家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。」八年には牛窪の牧野。野田の菅沼。西郷。長篠。筑手。田嶺。山家。三方の徒もみな氏真が柔弱をうとみ。今川方を去て當家に帰順しければ。今は三河の國一円に平均せしにより。本多作左衛門重次。高力左近清長。天野三郎兵衛康景の三人に國務并に訴訟裁断の奉行を命ぜらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は。高力は温順にして慈愛ふかく。天野は寛厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば。志慮あるべしとも見えざりしかば。その頃三河の土俗ども。仏高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謡歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司どらしめたまひしは。剛柔たがひにすくひ。寛と猛とかね行はせられし所。よく政務の大躰を得給ひしものなりと。世上にも此時既に感称せしとぞ)」九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と称せられ。十年信長の息女御入輿ありて信康君御婚礼行はる。」十一年正月十一日君又左京大夫をかけ給ふ。」このごろ京都には三好左京大夫義継并にその陪臣松永弾正忠久秀反逆して。将軍義輝卿をうしなひまいらせしかば。都また乱逆兵馬の巷となる。将軍御弟南都一乗院門主覚慶。織田信長をたのまれ都にうつてのぼらるゝに及び。信長よりのたのみをもて當家よりも松平(藤井)勘四郎信一近江の箕作の城攻に抜群の働きして。敵味方の耳目をおどろかしければ。信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと称美し。着したる道服を脱て當座の賞とせられしとぞ。」かの今川氏真は日にそひ家人どもにもうとまれ。背くもの多くなりゆくをみて。甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し。駿河の國はいふまでもなし。氏真が領する國郡を侵し奪はんとす。氏真いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ逃かくれしに。朝比奈備中守泰能は心ある者にて。をのが遠江の國懸川の城へむかへとりてはごくみたり。是よりさき信玄入道は駿府に攻入らんには。後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ。まず當家に使進らせ。大井川を限り。遠州は御心の儘に切おさめ給ふべし。駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ。君もその乞にまかせたまひ。さらば遠江の國を切したがへたまはぬとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八郎定盈がはからひにて。井伊谷の城はやく御手に属し。同國の士ども多くしたがひしに。信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し。當國のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞召。かくてはそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやく其所を退かずば。御みずから伐て出で誅せらるべしとありて。はや御人数も走りかゝる様をみて。信友かなはじと思ひ。信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には當家に和して。大井川を限り。遠州をば御心にまかせたまへと言ながら。陰には當家を侵し。遠州をも併呑せむ為。信友遠州へ出張して遠州の人数をつのり。國士をまねきしなり。この後山縣昌景をして御勢を侵さしめしも。みな偽謀のいたすところなり)遠州の國士等多半御味方にまいりければ。懸川の城外に向城をとりたてゝ氏真をせめ給ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力盡しかば。和睦して城をひらきさらんとするに及び。君はかの使に対し。我幼より今川義元に後見せられし旧好いかで忘るべき。それゆへに氏真をたすけて義元の■を報ぜしめんと。意見を加ふること度々におよぶといへども。氏真侫臣の讒を信じ。我詞を用ひざるのみにあらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども。更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於ては。幸小田原の北條は氏真叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏真を駿州へ還住せしめんとて。松平紀伊守家忠をして氏真を北條が許へ送らしめられける。北條。今川両家のもの共もこれを見て。げに徳川殿は情ある大将かなと感じたり。」かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。その身は大久保。松井等と同じく遊軍にそなへ。本多。榊原等は御旗下を守護す。」大井川を境とし遠州は御領たるべき事は。兼て信玄入道盟約のことなれば。この五月御領境を御順視あるべしとて。五六百人の少数にて御出馬ありしをみて。入道が家士山縣三郎兵衛昌景といへるもの行すぎがてに。御供人といさかひし出し。それを便りに御道をさへぎり留めむとす。御勢いかにもすくなきが故。いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乗じ是を追討せんとひしめく所に。御供の中より本多平八郎忠勝一番に小返しゝて追くる敵を突くづす。榊原小平太康政。大須賀五郎左衛門康高等追々に返し来りて突戦すれば。山縣も終に勝がたくや思ひけむ。草々駿州へ逃入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絶し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども。その実は父を追て家をうばひ。姪を倒し國をかすむ。天倫たへ人道既に失へり。隣國の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず)世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば。入道やむ事を得ず。罪を山縣に帰して蟄居せしむといへども。天下みな入道が姦をそしらざる者なし。君にはさすがに今川が旧好をおぼし召。氏真が愚にして國を失へるをあわれみ給ひ。山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追おとしたまひ。北條と牒し合せられ。氏真を駿府にかへりすましめんと。城の修理等を命ぜられたり。この経営いまだとゝのはざる間に。信玄入道かくと聞て大に驚き。また駿府城にせめ来り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招き。その城ふたゝび奪ひ取る。氏真は兎角かひ/\〃しく力をあはする家人もなければ。後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが。北條氏康卒して後氏政が時に至り。小田原をもさまよひいでゝ浜松に来り。當家の食客となりて終りける。」是より先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされ浜松の城と名付らる。永禄十三年に号またあらたまりて元亀と称す。浜松の城規模宏置近國にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆずりすませ給ふ。」ことし弥生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ。又援兵を望まれしかば。君にも遠江。三河の勢一萬余騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるる所に。信長のいもと聟近江の浅井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。當家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ逃帰る。木下藤吉郎秀吉にわづか七百余の勢をつけてのこされたり。秀吉は君の御陣に来り。しか/\〃のよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ。秀吉既に危く見えければ。最前秀吉が頼むといひしを捨てゆかむに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者共と御下知ありて。御みづから真先に進み鉄砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を盡さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひ。しばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ来り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。」かくて信長は浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先浅井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また三千余兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の横山の城へはをさへを残し小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三郎景紀を将とし一萬五千余騎着陣し。六月廿八日姉川にて戦あり。はじめ信長は朝倉にむかへば君には浅井とたゝかひ給へとありしが。暁にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のままに。大軍のかたにむかはんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。かくて越前の一萬五千余騎君の御勢にうつてかゝれば。浅井が手のもの八千余騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい声あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれども遂にかなはず。北國に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものいよ/\騒ぎ乱れて。旗本もいろめきだちぬ。君はるかにこの様を御覧ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八郎忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引堤て浅井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる浅井勢も徳川勢に横をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ。浅井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またく徳川殿の武威による所なりとて。今日大功不レ可�勝言�也。先代無�比倫�。後世誰争レ雄。可レ謂�當家家綱紀。武門棟梁�也との感書にそへて。長光の刀その外さま/\〃の重器を進らせらる。(これを姉川の戦とて。御一代大戦の一なり)この後も佐々木承禎入道朝倉。浅井に組し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豊後守康重。松井左近忠次に二千余の兵を率してすくはしめたまふ。」此頃越後國に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫呉に彷佛たるの聞え高き古つわものあり。今川氏真が謀にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道悦なゝめならず。當時海道第一の弓取と世にきこえたる徳川殿の好通を得るこそ。謙信が身の悦これに過るはなれとて。左近忠次まで書状を進らせ謝しけるが。是より御音問絶せず。」この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二郎三郎信康となのらせたまふ。」二年正月五日君は従五位上にのぼり給ひ。十一日侍従に任ぜらる。」三年閏三月金谷。大井川辺御巡視ありしに。此頃信玄入道は當家謙信入道と御合体ありといふを聞大に患ひ。しからばはやく徳川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天竜川を境とし両国を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を変じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてて手を出す事なし。入道こそ前に秋山。山縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝせ給ひけり。」信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しば/\〃三河。遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千余騎。入道みづから四萬五千余の大軍をぐして遠江國にうちいり。多々良。飯田などいへる城々せめ落し浜松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ多けれど。兵術軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび。當時その右にいづる者なし。當家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇気さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちのましておそひ奉れば。夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに。からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。(夏目永禄のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬を浜松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ)その時敵ははや城近く押よせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。君聞召。かならず城門を閉る事あるねからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも。我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の内外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ。御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寝ありしが。御高鼾の声闌外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡邊等の御家人突て出で追払ふ。其の夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。穴山梅雪が陣に鉄砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯に陥りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきは浜松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戦とて大戦の二なり)また武田が家の侍大将馬場美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道と徳川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戦にうたれし三河武者。末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。浜松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠江の國をまたく徳川殿にまひらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中国。九國までも手にたつ人なく。やがて六十余州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。」元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよ/\軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵に代りて城を開渡すに及んて。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて。定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃國波合にてはかなくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取まわすものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悦ばず。おしむべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますその寛仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口真似をせしとぞ。」此弥生頃信康君御甲冑はじめ有て。松平次郎右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足助の城兵も逃うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目度たしとて御帰城あり。やがて酒井忠次。平岩七之助親吉を大将にて遠江國天方。三河の國可久輪。鳳来寺。六笠。一宮等の城々責おとす。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて。六か所の城一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。」二年正月五日君正五位下にうつり給ふ。三月八日次郎君生れたまふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。」信玄が子の四郎勝頼血気の勇者なりければ。父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが。去年長篠の城を攻とられしを憤り。高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて。信長の援軍をこわせ給ふ。勝頼徳川織田両家の軍勢後詰すと聞て。城主小笠原與八郎長善(また氏信)駿河の鸚鵡栖にて一萬貫の地を與へむとこしらへて降参せしめ。引つゞき浜松をせめんとしなしば遠州へはたらき。九月には二萬余の軍勢にて天竜川まで出張す。こなたも浜松より御出勢有て備をはらせたまへば。勝頼も謀ありと見て引返す。」三年二月頃御鷹がりの道にて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏真奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂泊し松下源太郎といふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが。井伊兵部少輔直政とて。國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。」その頃長篠の城は奥平九八郎に賜はりて是を守りけるに、勝頼は當家の御家人大賀弥四郎といへる者等を密にかたらひ。岡崎を乗とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ます/\いかりやむときなく。長篠城をとりかへさんと二萬余騎にて取かこむ事急なりとへども。九八郎よくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをたすけて。両家の勢都合七萬二千にて五月十八日君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極楽寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶の巣山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきる夜にまぎれて廣瀬川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ焼立しに。長篠城よりも城門を押開き。九八郎城兵を具して切て出。前後より掩り立れば。武田勢は散々になりて。信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山。君が伏床。久間山等の敵の寨ども悉くなすべしとて君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち塁を気築き柵を二重三重にかまへ。老練の輩をして鉄砲数千挺を打立しむ。血気の勝頼夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七郎右衛門忠世、治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は當家は主戦織田方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に柵より外にすゝみいづ。武田方にも。山縣昌景。小幡上総貞政。小山田兵衛信茂。典厩信豊。馬場美濃信房。その外眞山。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわり/\柵を破らんと烈戦するといへども。両家の鉄砲きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき様もなく。さん/\〃に破られて。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。内藤。土屋。真田。望月。小山田。小幡などいへるもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬場は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝頼は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂弾正昌信(父虎綱)海津の城を守りてありしが。勝頼血気の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討死せしかば。是より甲州の武威は大に劣りしとぞ。この日両家に討取首一萬三千余級。その中にも七千は當家にて討取られしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三郎君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝頼も大に驚き。帰國の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出来り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八郎六町にもたらざる掻揚にこもり。数萬の大軍にかこまれながら。終に一度の不覚なく後詰を待ち得て勝軍せしは。古今稀なる大功なりと信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八郎はじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家伝には定昌と書しといふ)君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝頼磔にかけし事なれば。こたび第一の姫君を(亀姫と申)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ帰陣あり。君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝したまふ。信長さま/\〃饗せられ。長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを那長篠の戦とて大戦の三とするなり)」かくて後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしに。この城々も力おとし。あるは逃さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往来の要路。しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家号并に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。寛永系図にはこの御家号たまはりしは。永禄六年東條の城給ひし時の事とす。孰是なりや)君はこの勢に乗じ。引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝頼城々責とらるゝと聞て。ふたゝび兵をつのり小山の後巻すと聞えしかば。前後に敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三郎君あながちに乞はせたまひてみつから殿をなしたまふ。君は上の臺まで乗上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては。勝頼十萬騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。勝頼が勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば。高坂が諌にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七郎右衛門忠世に給ふ。」四年正月廿日浜松の城にて。甲冑の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし)」此弥生勝頼また遠州へ発向す。横須賀は高天神の押として大須賀五郎左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。君浜松より後巻したまへば。今度も高坂が強て諌め勝頼も引かへしけるが。瀧坂。鹽買坂辺に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍糧運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ榛原郡相良に新城を築かせ。糧をこめて甲州へかへる。是より先謙信入道酒井忠次に書簡を送り。君と謀を合せて勝頼を攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を責らるる時。天野宮内右衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を逃出鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を労したまはんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ逃去る。かくて後も勝頼はしば/\〃遠州にはたらきて。浜松を襲はんとする事しば/\〃なりしといへども。さしてし出したる事もなし。」信長卿はことし大納言より内大臣に昇られ兵威ます/\盛なり。五年十二月十日君も四位の加階まし/\。その廿九日右近衛の権少将に任じたまふ。(當時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭将軍を■戴し。三好。松永を降参せしめ。佐々木六角を討ち亡し。足利家恢復の功をなすにいたり。強傲専肆かぎりなく。跋扈のふるまひ多きを以て。義昭殆どこれにうみくるしみ。陽には織田殿を任用するといへども。その実は是を傾覆せんとして。ひそかに越前の朝倉。近江の浅井。甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姉川の戦おこるゆへんなり。その明證は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり甲州の武田。越後の上杉。相模の北條は関東北國割拠中最第一の豪傑なるよし聞て。この三國へ大和淡路守等を密使として。信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。しかれば織田氏を誅伐せんには。當時徳川家興國の第一にて。織田氏の頼む所は徳川家なり。故に先徳川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し。中國へ旗を挙んとて。信玄盟約を背き無名の軍を興し。遠三を侵掠せんとす。是三方原の大戦おこるゆへんなり。勝頼が時にいたりまた義昭より。北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるる。その使は真木島玄蕃允なり。此文書又勝光院につたふ。是勝頼がしば/\〃三遠を襲はんとする所にて。長篠大戦のおこるゆへんなり。義昭つひに本意を逐ず。後に藝州へ下り毛利をたのまる。これ豊臣氏中國征伐のおこる所也。しかれば姉川。三方原。長篠の三大戦は。當家において尤険難危急なりといへども。その実は足利義昭の詐術におこり。朝倉。武田等をのれが姦計を以て。また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院将軍よりこのかた。室町家は人の力をかりて功をなし。その功成て後。また他人の手をかりてその功臣を除くを以て。萬古不易の良法として國を建し余習。十五代の間其故智を用ひざる者なし。終に其故智を以て家國をも失ひしこと豈天ならずや)

巻三

東照宮御実紀巻三(全文)

青字は家康の「堺遊行とその後の伊賀越えの大難」の記述、緑字は「小牧・長久手の戦い」の記述。

天正六年武田四郎勝頼はしきりに遠三両州を侵掠せんとしてしば/\〃勢を出せば。浜松よりも武田がかゝへたる駿州田中の城をせめたまはんとて弥生の頃御出馬あり。井伊萬千代直政ことし十八歳初陣なりしが。真先かけて手勢を下知する挙動。天晴敵味方の耳目を驚かす。其外小山の城責。國安川横須賀等の戦いつはつべしとも見えざる處に。越後の上杉謙信入道此月十三日四十九歳にて世をさりぬ。此より先に入道は小田原の北條氏康の子の三郎景虎と。姪の喜平次景勝と二人を養ひて子となし置つるが。入道うせて後この二人國をあらそふ事なえず。景勝心ときおのこなれば。勝頼が寵臣長坂。跡部といへる者をかたらひ。こがね二千両づゝを贈り。勝頼が妹をむかへてその聟となり。永く武田が旗下に属すべし。先は當座の謝儀として。上野一國にこがね一萬両そへて進らすべし。いかにも加勢し給はるべしと申送れば。利にふける勝頼主従速に応じ。終に景虎を伐亡して。景勝父謙信の家をつぐ。勝頼もとより北條氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで財貨に心まよひ。氏政が弟の三郎を亡す加勢せしを。氏政甚うらみ憤り。いかにしてかこの怨を報ぜんと思ひ。やがて當家にちなみ進らせ。織田家へもよしみをむすぶ。七年の卯月七日に浜松の城にしては三郎君生れたまふ。御名を長丸と名づけたまふ。是ぞ後に天下の御譲をうけつがせ給ひし台徳院殿太政大臣の御事なり。御母君は西郷の局と申。さしつゞき翌年この腹にまた四郎君生れ給ふ。是薩摩中将忠吉卿とぞ申き。」勝頼は當家北條と隣好をむすび給ふと聞て大に驚き。さきむぜざれば吾亡ぶる事近きにあらんとて。さま/\〃謀略をめぐらしける事ありし中に。築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時より。年頃定まらせたまふ北方なりしが。かの勝頼が詐謀にやかゝりたまひけん。よからぬことありて八月二十九日小薮村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。(野中三五郎重政といへる士に。築山殿討てまいるべしと命ぜられしかば。やむ事得ず討まいらせて。浜松へ立かへり。かくと聞え上しに。女の事なればはからひ方も有べきを。心をさなくも討取しかと仰せければ。重政大におそれ。是より蟄居したりとその家伝に見ゆ。これによればふかき思召ありてのことなりけん。是れを村越茂助直吉とも。又は岡本平右衛門。石川太郎右衛門の両人なりとしるせし書もあれど。そはあやまりなるべし)信康君もこれに連座せられて。九月十五日二股の城にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御伝なりしかば。若君罪蒙りたまふと聞て大におどろき浜松へはせ参り。これみな讒者のいたす所なりといへども。よしや若殿よからぬ御行状あるにもせよ。そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば。某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ。信長公もなどかうけひき給はざるべき。とく/\それがしが首をめさるべく候と申けるに。君聞しめして。三郎が武田にかたらはれ謀反すといふを實とは思はぬなり。去ながら我今乱世にあたり勍敵の中にはさまれ。たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日彼援をうしなひたらんには。我家亡んこと明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてがたさに累代の家國亡さんは。子を愛する事を知て祖先の事をおもひ進らせぬに似たり。我かく思ひとらざらんには。などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとはすべき。又汝が首を刎て三郎がたすからんには。汝が詞にしたがふべしといへども。三郎終にのがるべき事なきゆへに。汝が首まで切て我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御涙にむせび給へば。親吉もかさねて申出さん詞も覚えず。なく/\御前を退り出たりといふ。是等の事をおもひあはするに。當時の情躰ははかりしるべきなり。また三郎君御勘当ありし初め。大久保忠世に預けられしも。深き思召ありての事なりしを。忠世心得ずやありけん。其後幸若が満仲の子美女丸を討と命ぜし時。其家人仲光我子を伐てこれに替らしめしさまの舞を御覧じ。忠世によくこの舞を見よと仰ありし時。忠世大に恐懼せしといふ説あり。いかゞ。誠なりやしらず)」かゝることどもにはかなく年もくれて。八年正月五日には従上の四位し給ふ。」武田がたの城々は次第におちいり。弥生に至り遂に高天神の城も責落さる。この城小笠原與八郎長善が武田へ降りし後。八年をへてふたゝび當家に帰る。その間大須賀康高横須賀の寨にありて日々夜々に攻たゝかひ。久世。坂部。渥美などいへる属士ども身命をすてゝ苦戦しければ。こたび数年の労を慰せられ。をの/\采邑にかへりしばし人馬を休ましめらる。」十年信濃國福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とはむすぼれたる中ながら。勝頼のふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり。甲州の案内せんといへば。右府大によろこばれ。その身七萬餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中将信忠卿は五萬餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。君も三萬五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三萬餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の國へ逃帰る。君の御勢は二月十八日浜松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ)に入せ給へば。御先手は金谷。島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには國中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとより寛仁大度の御はからひにて。依田。三枝などいへる降参のもの等は。しろしめす國内の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うち/\恵み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝頼をうらむる事ありしとて。弥生朔日駿河の岩原地蔵堂に参り君に対面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝頼は梅雪。典厩。逍遥軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。その子太郎信勝と共にうたれたり。君の御勢は蒲原興津より駿州井出の口をへ給ひ。甲州西郡萬座にすゝみ給へば。梅雪あないし。先鋒の諸将富士の麓八代郡文殊堂市川口よりをし入たり。こゝに成瀬吉右衛門正一といへるは。さきに當家を退し時甲州にありしかば。武州士どもとしたしかりしゆへ。今度仰をうけてかの輩を募り招きければ。もとより御仁愛は隣国までも及びし故。折井。米倉などいへるもの一番に帰順せり。信忠卿古府へ着陣せられければ。君もその所におはしまして対面したまひ。又諏訪へおもむき給ふ。右府は十四日波合にて勝頼父子の首を實檢せらる。その時汝が父信玄は毎度我等に難題をいひかけこまらせたり。首に成てなり共上洛したしといひしと聞しが。汝父が志をつぎて上洛せよ。我も跡よりのぼるべしと罵られ。頓て其首を市川口の御陣へをくり見せ給ふ。君は勝頼の首を白木の台にのせ上段に直され。厚く禮をほどこし給ひ。今日かゝる姿にて対面せんとはおもひよらざりしを。若気にて数代の家國を失はれし事の笑止さよとて。御涙をうかめ給へば。甲斐の國人どもかくと聞伝て。はやこの君ならずばとなづきしたひ奉る。信長は武田の旧臣ども上下のわかちなく。一々さがし出して誅せらる。君はかの者共生残りて餓死せんもいとおしき事とあはれみ給ひ。甲信の間に名を得たる者をば。悉く駿遠の地にまねきはごくませられ。又勝頼父子はじめ。その最期まで付従ひつる男女のなきがら共。田野の草村に算を乱して鳥獣の啄にまかせたるを。武田が世々の菩提所恵林寺も。織田家をはゞかりてとりおさめんともせず。君さすがにさるものゝ骸を露霜にさらさんは情なきに似たりとて。田野より四里へだゝりし中山の広厳院といふ山寺の僧に仰せて。その屍ども懇に葬らしめ。其所に一寺をいとなみ天童山景徳院とて寺料までよせ給ふ。これを見聞する遠近のもの。織田殿の暴政とは天淵の違かなとて感じ仰がざる者なかりしとぞ。十九日には右府父子軍功の諸将士に勤賞行はるゝとて。徳川殿今度神速に駿州の城々責取給ふその功軽からずとて。駿河一國進らせらる。(烈祖織田殿に対し。今川氏真は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏真いま浜松に寓居すれば。駿河を氏真にあたへ。かの家再興せしめんかと仰ければ。信長きかれ。何の能も用もなき氏真に與へ給はんならば。我にかへし給へとて気色以の外なれば。やむ事を得ず御みずからの御領となされしといふ)梅雪入道も君に降りし事なればとて。本領の外に巨摩一郡をそへ與へ。永く徳川殿の旗下たるべしとて属せらる。」さて右府國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。かへさに駿河路をへて富士一覧あるべしとの事なり。そのあたりは君しろしめす所なるがゆへに。其道すがらの大石をのけ。大木をきりはらひ道橋をおさめられ。旅館茶亭を営み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛太政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覧せまほしと宣ひしに。右府我さへ徳川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曽路より帰洛ありしとぞ。(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて。近衛おのれは木曽路をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやるゝ事にこそ)卯月のはじめに右府は八代郡姥口より富士の根方を分いられ。阿難迦葉坂をへて。上野が原。井出の郷邊にて富士を見給ひ。昔鎌倉の右大将家狩倉の古跡などまでたづね。大宮の旅館にわたらせられしかば。君こゝに待迎へて饗し給ふ。道々の御設ども御心をつくされしを。右府あまたゝび感謝し給ひ。一文字の刀。吉光の脇差。龍馬三疋進らせらる。日をへて富士。安部川をわたり田中の城に泊られ。また大井川。天龍川を超て浜松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも禄あまたかづけらる。浜松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあまり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東国征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。こと/\〃くその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次のも真光の刀にこがね二百両そへて賜はりぬ。五月君右府の居城近江の安土にわたらせたまへば。穴山梅雪もしたがひ奉る。右府おもたゞしき設ありて。幸若の舞申楽など催し饗せられ。みづからの配膳にて御供の人々にも手づからさかなをひかれたり。右府やがて京へのぼらるれば。君にも京堺邊まで遊覧あるべしとて。長谷川竹丸(後に藤五郎秀一といふ)といへる扈従を案内にそへられ。京にては茶屋といへるが家(茶屋四郎次郎。本氏は中島といふ。世々豪富也)を御旅館となさるべしとて。萬に二なく沙汰せらるれば。君は先立て都に上らせ給ひ。和泉の堺浦までおはしけるが。今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり右府父子にも対面すべし。汝は先参て此よし申せとて。御供にしたがひし茶屋をば先にかへさる。又六月二日の早朝かさねて本多平八郎忠勝を御使として。今日御帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。君も引つゞき堺浦を打立給へば。忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河内の交野。枚方邊まで至りし所に。都のかたより荷鞍しきたる馬に乗て。追かけ/\来る者を見ればかの茶屋なりしが。忠勝が側に馬打よせて。世ははやこれまでにて候。今暁明智日向が反逆し。織田殿の御旅館にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ。中将殿も御生害と承りぬ。此事告申さんため参候といへば。忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ。飯盛山の麓まで引返したるを。君遥に御覧じ。そのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。御道の案内に参りし竹丸を近くめし。我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人数をも具したらんには。光秀を追かけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥をとらんよりは。急ぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年来の主君なり。一番に腹切て。このほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ/\行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し。石川数正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をも顧みず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。君年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本国へ御帰り有て軍勢を催され。光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ。織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふねけれと申。石川。酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへす/\〃も恥かしけれとて其よし聞え上しかば。君つくと/\聞めされ。我本国に帰り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事は固より望む所なり。去ながら主従共に此地に来るは始めてなり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に涙を浮め。我等悔しくもこたび殿の御案内に参りて主君最期の供もせず。賊党一人も切て捨ず。此儘に腹切て死せば。冥土黄泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御帰国ありて光秀誅伐あらん時。御先手に参り討死せんは尤以て本望たるべし。たゞし御帰路の事を危く思召るべきか。此邊の国士ども織田殿へ参謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも参りしなりと申せば。酒井。石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御帰國には定まりぬ。穴山梅雪もこれまで従ひ来りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辞退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主従みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる徳川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案内をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鎗堤て真先に立。土民をかり立/\道案内させ。茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河内の尊圓寺村より山城の相楽山田村につかせ給ふ。こゝに十市よりあないにとて吉川といふ者を進らせ。三日には大津の渡りにおはしけるに舟なし。忠勝鎗さしのべて柴舟引よせ。主従を渡して後。鎗の石突(金遍に尊)をもて二艘の舟をばたゝき割て捨て。今夜長尾村八幡山に泊り給ひ。四日石原村にかゝり給へば。一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追払ひ。白江村。老中村。江野口をへて呉服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。五日には服部。山口などいへる地士ども御道しるべして。宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ。御供の人々いかゞせんと思ひなやみし所。川中に白弊の立たるをみて。天照大神の道びかせ給ふなりといひながら。榊原小平太康政馬をのりこめば思ひの外浅瀬なり。其時酒井忠次小舟一艘尋出し君を渡し奉る。やがて江州瀬田の山岡兄弟迎へ進らせ。此所より信楽までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども。山岡。服部御供に候すれば。山賊一揆もをかす事なく信楽につかせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは山口。山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ。高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり。音聞峠より山岡兄弟も辞し奉る。去年信長伊賀國を攻られし時。地士どもは皆殺さるべしと令せられしにより。伊賀人多く三遠の御領に逃来りしを。君あつくめぐませ給ひしかば。こたび其親族ども此御恩にむくひ奉らんとて。柘植村の者二三百人。江州甲賀の地士等百餘人御道のあないに参り。上柘植より三里半鹿伏所とて。山賊の群居せる山中を難なくこえ給ひ。六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ。其地の商人角屋といへるが舟をもて。主従この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て三河の大濱につかせ給ひ。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主従はじめて安堵の思をなす。(これを伊賀越とて。御生涯御艱難の第一とす)」八日にはいそぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され。駿遠の諸将を催促せられ。十四日に岡崎を御出馬ありて鳴海(一説に熱田とす)まで御進発ありし所に。十九日羽柴筑前守秀吉が使来り申送られしは。秀吉織田殿の命をうけて中国征伐にむかひ。備前。因幡の國人を降附し。備中の國冠河屋の城を責落し。高松の城を水責にし。弥進んで毛利が勢と決戦せんとする所に。テ輝元より備中。備後。伯耆三國を避渡し。織田殿と講和せんと申送る。此事いまだ決せざるに。都よりして賊臣光秀反逆して織田殿御父子を弑する注進を聞とひとしく。其よし少しもかくさず毛利が方へ申送り。忽に和をむすび。毛利より族三十流。鉄砲五百挺かりうけ。そのうへ輝元が人質とって引かへし。十一日摂州尼崎に着陣し。三七信孝。丹羽五郎左衛門長秀等と牒し合せ。十三日山崎の一戦に切勝て。光秀天罰のがれがたく終に誅に服したり。其餘残党こと/\〃く誅伐をとげ候へば。御上洛に及び候はぬよしなり。君はそのまゝ鳴海より御軍をおさめられ岡崎へかへらせ給ふ。」然るに右府の家人共は國々にありて。こたびの乱におどろきあはて。守る所をすてのぼりければ諸國みな乱れたちぬ。これよりさき右府甲斐の國を河尻肥後守鎮吉に賜りし時。君近國にましませば萬にたのみまゐらするよし申されしにより。こたびも君は本多百助忠俊を河尻がもとにつかはされ。此頃のさはぎに其國中もみだるべし。何事もへだてず百助にはかりあふべし。もしまた急に上洛せんとならば。信州路には一揆蜂起の聞もあり。百助に道しるべさせ我領内よりのぼるべしと懇に仰下されしを。河尻疑念深きおのこにて。こは謀をもて我をうしなはせ給ふならんとをしはかり。百助に酒のませもてなすさまして。其夜たばかりて百助をうちころし。其身はいそぎ國人にも隠れて。家兵を引具し甲州の者等もとより君の御徳をかしこみなつく事なれば君の御使を伐しとて國人大に怒り。追かけて河尻主従をみな討とりぬ。君は弥武田の舊臣等民間にかくれすむ者を尋召出さるべしと。柏坂峠に旗を立てまねきたまへば。横田をはじめこれに應ずる者忽に千餘人に及べり。」小田原の北條新九郎氏直は甲州の一揆共をかたらひ。其國を侵掠せんと五萬の大軍を引つれ。信州海野口より甲州に向へば。君も浜松を打立給ひ同じく甲州にのぞませ給ふに。其國人等糧米薪を献じ。御迎に出る者もさりあへず。古府に御陣をすへられたり。」これよりさき信濃の諏訪を攻よとてつかはされたる酒井。本多。大須賀。石川。岡部等。氏直が後詰すと聞えしかば。一先引かへせとて乙骨が原まで引とる所に。氏直勢案の外ちかく追来りしかば。こなたは謀を設け勢を七隊にわかち。敵の大軍嵩にかゝりて先を遮らんとすれば。七隊一度に立帰り旗を立て蹈こたへ。敵進み兼るとみれば。鉄砲をかけながら引退きする程に。敵みだりに追事あたはず。敵は五萬にあまる大軍。味方は三千の人数にて七里が敵間を引つけ。手を負もの一人もなく引取しは。むかしも今もたぎひまれなる退口とて世いたく称讃す。(是を乙骨退口と称す)」氏直若御子の着陣すれば君も古府をたゝせ給ひ。浅生原へおはしまして対陣し給へども。氏直方は御備のきびしきを恐れて手も出さねば。君は新府にうつらせ給ふ。これより数旬の間五萬にあまる大軍と。八千不足の御人数にて対陣まし/\。帷幄の外へも出給はず。ゆる/\として。かれより和議をむすばせ引取給ふ。天晴不思議の名将かなと世に感ぜぬ者ぞなかりける。」北條美濃守氏規は君今川がもとにおはしたる時よりの御よしみありければ。氏規はかりて上州をば一圓に北條へ渡され。甲信両國は御領とさだめられ。又姫君一所を氏直に賜はりなんことを約し。永く両家の御したしみをむすび。神無月廿九日氏直勢を駿府に引とれば。君も浜松へ御馬を納め給ひ。大久保忠世には佐久郡。鳥居元忠には郡内を給はり。其外軍功の輩に新恩加恩をほどこされ。民をなで窮をすくはせ給へば。織田家の暴政を苦しみし甲信の民ども。萬歳をとなへて歓坏す。」十一年五月石川数正を京に御使して。筑前守秀吉のもとへ初花といへる茶壺ををくらせ給ふ。秀吉よりも使もて不動國行の刀を進らす。」七月姫君(督姫といふ)小田原へ送らせ給ひ。御婚礼とゝのはせらる。又九月十三日に五郎君生れ給ふ。後に武田萬千代丸と申せしは是なり。十月には勅使浜松へ参向ありて。正下の四位に加階し給ひ右近衛権中将に進ませらる。この頃は國境を沙汰し給はんがため甲州におはしけるに。其事告まいらすれば。十二月四日浜松へかへらせ給ひ勅使を饗応せられ猿楽など催され。勅使には引出物かず/\〃にてめでたく帰洛せしめらる。十二年二月廿七日三位の昇階し給ひ参議をかけ給ふ。」秀吉は亡主右府の讎敵光秀を忽にうち亡せしより威名海内に輝けば。陽には右府の嫡孫三法師丸を輔佐し。軍國の政務を沙汰するが如しといへども。實は自四海を統一せんとの志専らなれば。三七信孝を亡し。柴田。佐久間などいふ織田家の古老どもをうち平らげ。瀧川。佐々などいへるやからも降参させ。北國既に平均す。北畠中将信雄闇柔といへども。さすが故右府の御子ゆへ舊臣どもみな心をよすれば。先この人を傾けて天下の大業を急にせばやと思ひ立。信雄の家の長どもをあつくもてなしけるにぞ。信雄忽に秀吉の姦計に陥り。其家長ども黨與して。我をかたぶけんと計るものぞと大に怒り。たばかりて家長三人までを誅したり。秀吉終に其計を得て。信雄讒を信じ良臣を誅したりといふを名として信雄を伐亡さんとし。國々の諸大将をかたらひけるに。織田家の舊臣どもゝ時の勢になびきて信雄方には参らず。秀吉のかたうどする者のみなり。君にも秀吉使進らせて。こたび我方に御加勢あらんには。美濃。尾張両國を進らすべしと申まいらせけれど。君は右府よりの盟約変じがたしとて其使をばかへさる。信雄此時は伊勢。尾張を領して清洲の城にありしが。舊臣等もみなそむき秀吉のかたうどすると聞大におどろき。いそぎ浜松に使してすくひをこはれける。君は右府の舊好あれば。いかで見はなち給ふべきとて。弥生七日浜松をいでます。小田原の氏政表裏のおのこいさゝか守りおこたるべからずとて。御領國のうち甲州は鳥居元忠。平岩親吉。又上杉景勝が押には大久保忠世。駿相の境長窪の城には牧野右馬允康成。興國寺は天野康景。三枚橋は松平康親。深沢は三宅正次。田中は高力清長に各つはものをそへて守らせられ。君は一萬五千餘騎にて七月十三日清洲へ御着陣あり。信雄を信長以来の舊好を捨給はず。これまで御出馬ありしを厚くかしこみ涙ながして謝せらる。」さて落合村といふ所に屯し給ひけるが。榊原康政が申旨にまかせ。後には小牧山に御陣をすへらる。こゝに池田勝入入道といへるは。右府恩顧の下より人となりしが。これも時勢にひかれて秀吉のかたうどし。先尾張の國犬山の城を攻とり。聟の森武蔵守長一とともに楽田。羽黒に打出で。在々所々を焼立たり。味方には榊原。奥平。酒井。大須賀の輩つぎ/\〃に打出で森が勢にはかせかゝり。先軽卒を進ませ鉄砲を打かくる。其中にも奥平が勢無二無三に羽黒村の小川ををしわたる。森は鬼武蔵とよばれし血気の猛将。それが軍師にそへられたる尾藤なにがしも。都邊の敵をのみあしらひたるてだてを三河武士にをしあて。川をわたさば討てかゝらんとゆる/\待しに。奥平が三千餘騎會釋もなく突てかゝる。あとより酒井。榊原。丹羽并松平又七郎家信等つゞいてをし渡り。地煙り立て鎗をいるれば。何かは以てたまるべき。家信時に十六歳。野呂助右衛門といへる剛のものを伐取たり。稲葉一鐵入道はかねて森と牒し合せ段の下に屯し。老波血河に湛ふと高声にとなへゐたる所に。金扇の御馬印遥にみゆれば。徳川殿出馬ありしといふ程こそあれ。敵はみな色めき立て。終にかなはず引て犬山へかへる。」秀吉は此敗軍を聞て大に怒り。十二萬餘の大軍を具して大坂を出馬し。犬山城につき楽田にうつり。二重堀などいへる要害をかまへて小牧山に対陣す。これは長篠の戦に右府武田が勢を鏖にせられし故智を用ひしなり。君小牧山より此備を御覧じ。秀吉は我を勝頼と同じ様に思ふと見えたりとて。ほゝゑませ給ひしとぞ。卯月六日池田勝入。森長一。堀久太郎秀政に三好孫七郎秀次を總手の大将とし。二萬餘騎の兵をわけて楽田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木。柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありとしりて。みかたのうしろにまはり三河の空虚をうたんとのはからひなり。君は兼て篠木の郷民等が告によりかくと察し給ひ。大須賀。榊原并に水野惣兵衛忠重。本多彦次郎康重。丹羽勘助氏次。岡部弥次郎長盛などいへる名にあふものらに甲州穴山勢をそへ。すべて四千餘の人数にて。敵にしらせじと轡を巻て龍泉寺山の麓をへ小幡の城にいたらしむ。此城の守将は本多豊後守広孝とて康重が父なり。兼てことよさせ給ひしかば。所々に人をしのばせ置。敵龍泉寺を出るをみて小牧の御陣へも注進し。大須賀。榊原。水野。岡部等とはかり夜ぶかく小幡より出立ぬ。君は其注進をきかせ給ふと其まゝ。戌の時ばかりに小牧山を打立せ給へば。信雄も御跡に随がふ。敵は九日の朝池田父子先陣して。先丹羽次郎助氏重がこもりし諸和村岩崎の城を攻落しもの始めよしと大に悦び。浮宇原といふ所にて首実検し。二陣の堀は一里をへだて愛知郡檜が根に陣し。惣大将秀次は春日井郡白山林といふ所にて。人馬をやすめかれゐくひてゐたり。折ふし霧深くものゝあいろも見分ざる所に。味方跡より喰付てはげしく伐てかゝれば。秀次の軍師と頼みし穗富の某をはじめ。名あるつじゃものあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり。味方勝にのり追行所に。二陣の堀が勢かくと見るより旗をすゝめてかけあはせ。火花をちらし烈しく戦ふ。先手にありし池田。森も惣大将秀次敗走すときゝ是を救はんと引かへす。」君は小牧山より三十餘町勝川兜塚といふ所にて御甲冑をめさる。これ當家の御甲冑勝川と名付らるゝ事のもとなり。(椎形溜塗の御兜黒糸緘の御鎧)御湯漬を聞召ほどに夜は明はなる。こゝに先手の人々はや首取りかへり。御覧ぜさせ奉る者も少からず。十人の鉄砲頭井伊萬千代直政が二千餘兵を先とし。御旗下には小姓の輩并甲州侍のみ供奉し。直政が勢は富士の根の切通しより進めば。君も其跡より田の中をすぐに引つゞきかゝらせ給ふ。井伊が赤備長久手の巽の方よりゑいとうゑい/\とかけ声して堀が備に競ひかゝる。池田。森が人数は山際より扇の御馬印朝日にかゞやきをし出すをみて。すは徳川殿みづから来り給ふといふより。上下しどろにみだれ色めき立しに。直政が手の者下知してかけたつれば。森武蔵守長一まづうたれ。池田勝入もみだるゝ勢をたて直さんと下知しけるが。永井伝八郎直勝につきふせられ首をとらる。其子紀伊守之助も安藤彦兵衛直次に討る。この手の大将池田父子。森三人とも討れしかば。戦はんとする者もなくひたくづれにくづれたり。味方追討して首をとる事一萬三千餘級なり。秀吉は楽田の本陣にて長久手の先手大敗すと聞て。敵今はつかれたるらん。いそぎはせ付て討とれと其まゝ早貝吹立させ。惣軍八萬餘人を十六段になして押出す。」小牧山にのこされし諸将の中にも。本多忠勝かくと聞て。殿の御勢立直さゞる間に。京勢大軍新手を以て押かゝらば以の外の大事なり。忠勝一人たりとも長久手に馳行て討死せんといへば。石川左衛門大夫康通も尤なりと同意し。忠勝も康通もわづかの勢にて龍泉寺川の南をはせ行ば。京勢は大軍にて川の北をゝし進む。忠勝我こゝにて秀吉が軍の邪魔をせば。其間には殿も御人数を立直さるべしとて。秀吉の旗本へ鉄砲打せて挑みかゝる。流石の秀吉膽をけし。さて/\不敵の者も有ものかな。誰かゝの者見知たるやとゝへば。先年姉川にて見覚えたる徳川が股肱の勇士本多平八にて候と申す。秀吉涙をながし。天晴剛のものかな。をのれこゝにて討死し。主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我彼等主従を終には味方となし。被官に属せんと思へば。汝等かまへて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば。忠勝も馬より下り川邊にて馬の口をすゝがしむ。秀吉其挙動を感ずる事かぎりなし。」長久手にては君味方の者ども勝に乗じ長追すなと令せられ。信雄と共に軍をかへされんとする所に。忠勝馳付て見参せしかば。よろこばせ給ふ事なゝめならず。直に忠勝に御あとうたせ給ふ。其頃千生瓢箪の馬印龍泉寺の上の山へをし出すを君御覧じて。先手の物頭三人までうたせて。筑前さぞせいたであらふとほゝゑませながら。小幡の要害へ御馬を納めらる。秀吉息まきて龍泉寺までをしよせたれども。御勢は皆引とりたる跡なれば。大に腹だちおどりあがりおどりあがり。いそぎ小幡へかけよせんとたけりけるを。かの家人稲葉。蒲生等。日はやくれかゝりぬと諌めければ。せん方なく柏井に陣どり。翌朝は仏暁に小幡へ攻かゝらん心がまへせしに。君其機を察し給ひ。勝は重ねぬ者ぞとて信雄と共に夜中に小幡を立出給ひ。小牧山に御帰陣ありしかば。秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。これも夜明ぬ先に。十二萬の軍勢をくり引に楽田へ班軍せり。(これを長湫の大戦といひて大戦の第四とす。案ずるに此一戦京方は四月六日の朝勝入出軍。同日昼出軍。一日へだてゝ秀次と堀出軍。先手とは三里をへだてたり。君には三河迄敵を入たゝせゆる/\岡崎へをし詰て戦はしめば勝といへども。小牧の本陣遠ければ覚束なし。小牧山近辺にて兵を交へば秀吉速に後詰すべし。されば戦場は長湫の外にはなしと定められ。御先手より四里へだてゝ旗本勢を押出し給ふ。これは上方勢は大軍。御先手は小勢なり。味方初度は勝て後度は敗るべし。上方勢利を得ば勝に乗じ長追して足を乱るべし。其乱れし所へ井伊が勢と旗本勢五千の人数にて討てかゝらんに。味方勝ざる事はあるべからずと神算既に定め給ひ。御先手とは四里へだてゝ御馬をすゝめたまひしなり)」この後秀吉さま/\〃と手だてをかへて戦つれども。事ゆくべくも見えざれば。心中また謀を考へ出し。信雄をすかしこしらへて和議をぞ結びたりける。かゝりしかば君も浜松へかへらせ給ひ。やがて石川数正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける。」秀吉今は従三位の大納言にのぼり。武威ます/\肩をならぶる者なし。浜松へ使を進らせて。信雄既に和平に及ぶうへは。秀吉徳川殿に於てもとより怨をさしはさむ事なし。速に和平して永く好みを結ぶべければ。君にも御上洛あらまほしき旨申入しかど。聞召入られたる御かへり言もなかりしかば。秀吉深く心をなやまし。叉信雄につきて申こされしは。秀吉よはひはや知命にいたるといへども。いまだ家ゆづるべきおのこ子も候はず。あはれ徳川殿御曹司のうち一人を申受て子となし一家の好をむすばゝ。天下の大慶此上あるべからずとこふ。君も天下のためとあらんにはいかでいなむべきとて。於義丸と聞え給ひし二郎君をぞつかはさる。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき。やがて首服加へて三河守秀康となのらしむ。」其頃秀吉卿は正二位内大臣にのぼり。あまつさへ関白の宣下あり。天兒屋根の尊の御末ならでこの職にのぼらるゝ。古今ためしなき事とて。人みなめざましきまで思ひあざみたり。関白いよ/\和平の事を申進らせらるゝといへども。いまだ打とけたる御いらへもましまさねば。十三年の冬重ねて浜松へ使まいらす。君この頃泊狩にわたらえ給ひければ。関白の使御狩場へ参り対面し奉る。君鷹を臂にし犬をひき給ひながら。我織田殿おはせし時既に上洛し。名所舊蹟もこと/\〃く見たりしかば。今さら都恋しき事もなし。又於義丸の事は北畠殿天下のためとてとり申されしゆへ。秀吉の子にまいらせたり。今は我が子にあらざれば対面せまほしとも思はず。秀吉我上洛せざるを憤り大軍をもて攻下らむ時は。我も美濃路のあたりに出むかへ。この鷹一据にて蹴ちらさんに更に難からずと仰ながら。又鳥立もとめて立出たまふ。かの使かへりて斯と申せば。関白重て信雄とはかられ。」君の北方先に御事ありし後。いまだまことの臺にそなはらせ給ふ方も聞えず。秀吉が妹を進らせばやと懇に申こはる。浅野弥兵衛長政などよくこしらへで。終に御縁結ばるべきに定まりしかば。浜松より納采の御使に本多忠勝をつかはさる。これも関白のあながちに忠勝が名をさしてよびのぼせられしなり。四月十日妹君聚落のたちを首途し給ひ。おなじ廿一日浜松へつかせたまふ。先榊原康政がもとにて御衣裳をとゝのへられて後入輿し給ふ。御輿渡は浅野長政。御輿請取は酒井河内守重忠にて。其夜の式はいふもさらなり。廿二日御ところあらはしなど。なべて関白より沙汰し給ふをもて。萬に美麗をつくされしさまいはむかたなし。これ後に南明院殿と申せしは此御事なり。」此後は関白弥君の御上洛をひたすらすゝめ申されしが。遂にこしらへわびて母大政所を岡崎まで下し進らすべきに定まりぬ。君は宗徒の御家人をあつめられ。関白其母を人質にして招かるるに。今はさのみいなまんもあまりに心なきに似たり。汝等思ふ所はいかにととはせ給ふ。酒井忠次等の宿老共は。秀吉心中未だ測りがたし。かの人御上洛なきを憤り大軍にて攻下る共。京家の手際は姉川。長湫にて見すかしたればさのみ恐るゝに足らず。御上洛の事はあながちに思召とまらせ給へと諌め奉る。(さきに真田安房守昌幸がそむきしを誅せらんとて御勢をむけられし時。真田は秀吉に内々降参せし事ゆへ。秀吉越後の上杉景勝をして真田を援けて御勢を拒がせ。又當家の舊臣石川数正は十萬石を餌として味方に引付たり。されば上杉と謀をあはせ。新降の真田。小笠原を先手とし。数正降参の上は徳川家の軍法は皆しるべければ。是を軍師とし。三遠に攻下らんとの計略ありと世上専ら風説すれば。普第の御家人等は秀吉をうたがひしもことはりなり)君聞召。汝等諌る所尤以て神妙といふべし。然りといへども本朝四海の乱既に百餘年に及べり。天下の人民一日も安き心なし。然るに今世漸くしづかならんとするに及び。我又秀吉と矛盾に及ばゝ。東西又軍起て人民多く亡び失はれん事尤いたましき事ならずや。然れば今罪なくて失はれん天下の人民のため我一命を損さんは。何ぼうゆゝしき事ならずやと仰せらるれば。忠次等の老臣等。さほどまで思召定められんには。臣等また何をか申上べきとて退きぬ。是終に天下の父母とならせ給ふべき御徳は。天下萬民のために重き御身をかへ給はむとの御一言にあらはれたりと。天下後世に於て尤感仰し奉る事になん。」既に御上洛あるべしと御いらへまし/\ければ。関白よろこばるゝ事斜ならず。其神無月四日関白執奏ありて君を権中納言にあげ給ふ。やがて浜松を打立せ給ひ。同じ廿五日御入洛あれば。其夜関白ひそかに御旅館をとはせられ。長篠の戦の後十二年にて対面せらるゝとて悦大方ならず。さて君の御耳に口よせさゝやかれしは。黄門兼てしり給ふごとく。秀吉今官位臣を極め。兵威四海を席巻するといへども。もと松下なにがしが草履とりて跟随せし奴僕とは誰かしらざらむ。やう/\織田殿に見立られ。武士の交りを得たる身なれば。天下の諸候陽に畏服するが如しといへども。心より實に帰順する者なし。今被官となりし者どもゝもとは同僚傍輩なれば。實の主君とは思はず。願くば近日表立しく対面進らせむ時に。其御心して給はるべし。秀吉に天下をとらせらるゝも失はしめらるゝも卿の御心一にあり。此事頼み奉りたく。かく上洛をばすゝめ進らせたりとて。御背をたゝかれければ。君聞召。既に御妹にそひまいらせ。又かく上洛いたせし上は。ともかくも御ためあしくははからひ候まじと答給へば。関白弥よろこばる。やがて大坂にわたらせ給ひ。いかめしき作法どもにて御太刀御馬こがね百枚進らせられ。いたく敬屈してぬかづかせ給ふを見聞して。中国。筑紫の諸大名まで。大政所を人質として上洛し給ふ徳川殿猶かくの如し。我々いかでか秀吉を軽蔑する事を得んとて。これより國々の大名関白を尊敬日比に十倍せしとぞ。関白よろこびに堪ず。さま/\〃もてなして。そのかみ秀吉。越前金が崎にて討死すべかりしを。卿の御情にて虎口をのがれ。今この身となれり。此御恩いつの世にかはするべき。神かけて弟秀長に存かへ申べき心はなしなど巧言をつくされ。供奏の人々にもかづけものこちたく行はれ。十一月五日には君を正三位にすゝめられ。都を出たゝせられ岡崎にかへらせ給ひければ。大政所をも都にかへさる。この御送りには井伊直政ぞまいりける。これも関白のことさらの仰にてつかはされし事なれば。直政をもあつくもてなしてかへさる。都には此ほど御位ゆづりあり。(正親町院御譲位後陽成院御即位)関白は内大臣より太政大臣にのぼり。氏をも豊臣と賜はる。君はこの師走に駿府の城にうつらせ給ふ。浜松には元亀二年よりことしまで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時焼うせけるを新に経営せられ。五ケ國(駿遠三甲信)の本府と定められ。御在城まし/\たるなり。」十五年には関白九州を討おさめられむとて。畿内近國の軍勢筑紫に発向す。

當家よりも本多豊後守廣孝軍中の御とぶらひとしてつかはさる。折ふし関白の軍勢秋月が巌石の城に攻寄し時なりしに。廣孝馳加りて高名せしかば。関白も徳川殿の家人に猟の利ざる者なしといたく感ぜられしとぞ。扨島津義久も戦まけて降参せしかば。関白も帰洛し給ふ。

君これをほがせ給ふとて都へ上らせ給ひしに。八月八日従二位権大納言に遷らせ給ふ。此程駿府にても長丸君加冠し給ひ従五位下蔵人頭に叙任せられ。関白一字を進らせられ秀忠となのらせ給ひ。その日又侍従に任じ給ふ。この師走の廿八日には君また左近衛大将をかけて。左馬寮の御監に補せられ給ふ。是は鎌倉室町このかた将軍家のほか此職に補せられず。いとありがたきためしなるべし。」十六年には関白聚落の亭に行幸なし奉るとて。よの中花やぎにぎはしき事いふもをろかなり。君もやがてのぼらせたまふ。今は上達部にて鳳輩の供奏し給ひ。聚落にて日をかさね。かず/\〃の御遊ども催さる。御歌は御製をはじめ親王だち上達部殿上人いとあまたなるが中に。君も松の葉毎にすべらぎの千代の栄をちぎりことぶかせ給ふ。発声披講などとり/\〃近き世にはめづらしくめでたき事多し。此時君は大和大納言秀長ならびに秀次秀家の中納言と共に。内の仰ごとによて清花の上首につかせ給ふ。又行幸に先立て井伊直政。大沢基宥は侍従に任ぜられ。其外爵ゆるされし御家人どもあまたあり。

巻四

東照宮御実紀巻四(全文)

緑字は「水野忠重事件」の記述、青字は「関ヶ原の戦い」前後の記述。 

天正十七年に始り慶長八年に終る
豊臣関白軍威ます/\盛にして。しらぬひや筑紫のはてまでも伐平らげ。島津義久も降参しければ。今は六十餘州のうちに東國の北條ばかりぞ猶従はず。是により使を立て召けれどもさうなくうけひかず。(是より先に君北條と御和平有し時。甲信両國は君の御領とせられ。上州をば悉く北條が領とすべしと約せられたり。然るに上州の内沼田は。真田昌幸が領なればとて北條へ渡さず。よて北條より其旨君にうたへしかば。君真田に沼田を北條へ渡すべし。其代地は別に賜はるべしと仰下さるゝと雖。昌幸胸中甚奇險にてこれに従はざるのみにあらず。終に當家を去て豊臣家へ帰降せり。さるゆへに真田が命に応ぜざる罪を討せえあれんとて。御勢を沼田にむけらるれば。秀吉ひそかに越後の上杉に命じ。真田をたすけて御勢を拒ましむ。今度北條を関白より召によりて北條使を登せ。真田が所領を引渡すべしと仰下されんには。氏政父子快く上洛せんと申により。今度は関白よりの命にて。真田も止事を得ず沼田を北條に渡す。然りといへ共其うち奈胡桃の地は真田代々の葬地なればとて。是は真田が方に残したり。然るを程なく北條又真田が留守の家人を追出し其地を奪ふ。真田又是を憤り其旨を関白に訴へなげく。関白是に於て北條が反覆常なしと怒らる。これ終に関白東征の名を得る所。ひとり北條が代々関東を押領して。天朝に朝聘せざる罪を以てするのみにあらざるなり)氏直今は姫君にそひまいらせしたしき御中なりければ。君もさま/\〃にこしらへて上洛を進め給ひしかども。氏直が父氏政はをのれ代々関東をうち従へ。一族広く家とみゆたかなれば。世におそろしき者なしとのみ思ふいなかうどにて人の諌めをも用ひず。とかくして天正も十八年になりぬ。」去年の程より関白は北條討るべしとて。兵糧の用意軍勢の催促など。いかめしく國々に触わたさるれば。君も都にのぼらせたまひ。軍議どもおはしまして帰らせたまひしが。此春は若君(台廟の御事)を都にのぼせ。関白にはじめて体面せさせたまふ。関白よろこび懇にもてなされ。この殿あまりにいはけなくわたらせ給ふを。久しく都にとゞめ参らせば。父亞相さぞうしろめたくおぼさるべしとて。直政を始め従者等に数々のかづけものしてかへさる。君は関白こたび若君を速にかへされしは。程なく関東へ軍を出されんに。我領内の城々をかりたまはむとの下心なるべし。其心せよと司々に仰下され。城々の修理加へ道橋おごそかにかまへ給ふ。やがて関白。こたび小田原を征せんとき君の城々をかし給はむ事を。みづからの消息もてこはせらる。君もとよりその御心がまへなれば。とみに其こひにまかせ給ふ。御家人等はいかでかうまでは。兼てよりはかりしらせ給ふらんと。いぶかしく思ひあざみたりとぞ。」かくて弥生朔日関白内へ参り給ひ。年頃絶し例を引出し節刀など賜はりて二日都を立出給ふ。其勢は廿二萬餘騎とぞ聞えける。君は如月十日駿河を出ます。御勢二萬五千餘騎。あらかじめ軍令十三條仰下さる。(君御出陣に軍令を仰くだされしは。小田原と関原と二度のみなり)教令最厳なれば軍旅往来のみちの煩もなく。御先手ははや由比倉澤邊へ着陣す。関白は十一日に三河の吉田川ををし渡らんとありし時。このわたし場の奉行せし伊奈といふ男。この程日数へし長雨に。川水いたく水かさそひてうづまきながるれば。軍勢をわたされんことかなふべからず。今しばし此所にとまらせらるべうもやと聞えあぐる。関白軍法に。前に川あらん時雨降て渡らざれば。後に渡る事を得ずといへり。何かくるしかるべき。必渡りなむと仰けるに。伊奈眼に角たて。こは殿下の仰とも覚えず。雨をいとはず川を渡すは小軍の事なり。大軍暴漲を犯し川を渡らんとすれば。人馬沈溺少かるべからず。敵この風説を聞んに。十人を百人百人を千人と云つたへ。敵の心には勇をそへ。味方には臆をまねくものに候はんかといふ。関白手を拍て。亞相の家には賎吏といへども。皆軍旅の智識多しと感じ給ふ事大方ならず。其諌を用ひこゝに三日滞留ありて。十九日に駿府につかせらる。」関白家に石田三成といふ功者あり。かれ讒諂面諛の奸臣にて。當時天下の諸侯諸士かれが舌頭にかゝりて。身をも國をも失ふものあげてかぞふべからず。かれ此地に到り徳川殿北條とはむすぼほれたる中なればその心中はかりがたし。御心用ひなくてはかなふべからずと申けるにぞ。関白忽に疑を生じ駿府に入かね給ひけるが。浅野長政。大谷吉継等とかくこしらへて。関白も疑とけ城にいらる。」廿七日には沼津につかれ。廿八日諸大将をともなひ敵地の事をとひはかられ。やがて先北條が手のもの籠置たる山中の城を責落し。韮山の城をせめかこみ。時の間に箱根山を馳通り。小田原の城に押つめらる。是よりさき伊豆の戸倉。泉頭。獅子濱等の城々攻ざるに皆迯落て小田原へ籠る。」城中にもさすが八州に名をしられたるおぼえの者共悉くあつまり。兵糧軍勢多くこめ置て堅固に守りければ。たやすくはおとさるべうも見えざりしが。君の御勢井伊直政真先かけて宮城の口篠曲輪等を責破る。其上君の御計ひによて。北國は上杉景勝。前田利家等を大将とし。真田。小笠原等の諸軍勢上野國より攻入。松枝。深谷。本庄。安中。武蔵の松山。川越。鉢形。三山等の城々を攻下し。御家人本多。鳥居。酒井等の勢は上州和田。板鼻。三倉。布川。藤岡等の城々を攻ぬき。上方勢と共に合して上総下総の廳南。廳北。伊南。伊北を始め四十八ケ所の城々皆責下し。武蔵江戸。岩槻。忍。八王子等の城々も皆落す。それのみならず小田原にも松田某などいへる腹心の輩。寄手に内通するものも多ければ。いまは孤城守りがたく防戦の手だてをうしなひ。氏政。氏直父子はじめ一族家人等皆降をこふをもて。氏政にははらきらせ。氏直をば助けて。宗徒の家人をそへ高野山にをしこめぬ。さすが氏直は君の御むこなれば。関白もさのみからくももてなされず。後には大坂によびよせ。西國にて一國をあたへんとありしが。不幸にして氏直痘を病てうせければ。北條の正統はこゝに絶ぬ。」さて関白は諸将の軍功を論じ勤賞行はる。駿河亞相軍謀密策。今度関東平均の大勲此右に出るものなければとて。北條が領せし八州の國々悉く君の御領に定めらる。(秀吉今度北条を攻亡し。その所領こと/\〃く君に進らせられし事は。快活大度の挙動に似たりといへども。其實は當家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五國を奪ふ詐謀なる事疑なし。其ゆへは関東八州といへども。房州に里見。上野に佐野。下野に宇都宮。那須。常陸に佐竹等あれば。八州の内御領となるは僅に四州なり。かの駿遠三甲信の五ケ國は。年頃人民心服せし御領なれば。是を秀吉の手に入。甲州は尤要地なれば始に加藤遠江守光泰を置。後に浅野弾正少弼長政を置。東海道要枢の清須に秀次。吉田に池田。浜松に堀尾。岡崎に田中。掛川に山内。駿府に中村を置。是等は皆秀吉服心の者共を要地にすえ置て。閑八州の咽喉を押へて。少しも身を動し手を出さしめじと謀りしのみならず。又関東は年久しく北條に帰服せし地なれば。新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案内にて一揆を征せんには必敗べきなり。其敗に乗じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中。明らかにしるべきなり。されば御家人等は御國換ありとの風説を聞て大に驚き騒しを。君聞召。汝等さのみ心を労する事なかれ。我たとひ旧領をはなれ。奥の國にもせよ百萬石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてまし/\けるとぞ。果して八州の地御領に帰して後。彌我國勢強大にをよび。終に大業を開かせ給ふにいたりては。天意神慮の致すところ。秀吉私智私力をもて争ふべきにはあらざりけり)」又御旧領五ケ國は。秀吉賜はりて旗下の諸将に配分ばさまほし。早く引渡し給はるべしとあり。よて五ケ國の諸有司代官下吏に至るまでいそぎ召よせ。関東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御発輿ありて。八月朔日江戸城に移らせ給ひ。萬歳千秋天長地久の基を開かせ給ふ。抑此城といふは。むかし鎌倉の管領上杉修理大夫定政第一の謀臣太田左衛門大夫持資入道道灌が。康正二年縄張し長録元年成功せしが。文明十八年道灌うせて後は。管領より城代を置て守らせしに。大永四年小田原の北條のために攻とられ。此後は北條より遠山左衛門佐景政して守らせたり。然るに此度御勢共其城せめとらんとて向ひし時。遠山。真田などいへる者共忽に降参して此城を進らす。よて戸田三郎右衛門忠次にうけとらしめられしなり。げにも道灌さる文武の老練にて取立し城ゆへ。この頃まではいまだ規模狭少なりしかども。四神相応最上の城地なりといふことはりにこそ。かくてみうちの人々も駿府より俄に引移る。七月の始めにこのことはじまり。八月より九月はじめ迄に。五ケ國の御家人大小引拂ひたるよし関白も聞給ひ。いつにはじめぬ亞相の下知の神速さよと感にたへられざりしとぞ。やがて井伊。榊原。本多。酒井。大久保等をはじめ。當家に名ある輩皆しる所多く賜はりけり。」関白は此ついでに奥の國いではの境までも打おさめんとて。先江戸におはしけるに。此城いまだ狭隘にて関白の宿らせ給ふべき寝殿もなければ。北郭平川口の法恩寺といへるを旅館となされてさま/\〃饗せらる。関白会津黒川の城までおはしけるに。伊達。南部等の國人どもは。とく小田原の御陣にまいり従がひぬれば。なべて背く者もなく。其長月ばかりに帰洛せらる。」十九年には奥の大崎。葛西の地に一揆蜂起する聞えあるにより。関白再び出馬せらるべしと聞えければ。君も是をたすけ給はむとて。下総の古河までいたらせ給へば。一揆みな落うせて平らぎぬと聞ゆ。よてまづ御馬を江戸に納め給ふ。此事に座して伊達政宗重く罪蒙るべかへる。夏の末より其一揆又蜂起すれば。京よりは秀次を大将にて軍勢せめ下る。秋のはじめ又君も御馬を出され。九戸などいへる城を攻落さる。此中に君は岩手山に新城を築かさられぬ。これは政宗がしる所しばしばさはがしければ。今度はその所を収公せられ。葛西。大崎の地にうつさるべきをあらかじめはかりしり給へば。その時住せんがため。かく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り。深く御恵のあつきをかしこみけるとぞ。」関白は朝鮮を討んとの思ひ立ありければ。やがて當職を養子秀次にゆずられ。其身は太閤と稱せられ。渡海の沙汰専らなれば。君も文禄元年二月に。東國諸大名の惣大将として江戸を立せ給ひ。肥前の名護屋に渡らせ給ふ。(秀吉足利氏衰乱の餘をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が強悍をしたがへ。東は北條が据倣を滅し。天下やうやく一統し。萬民やゝ寝食を安んぜむとするに及び。また遠征を思ひ立。私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる説々あれども。實は此人百戦百勝の雄畧ありといへども。垂拱無為の化を致す徳なく。兵を窮め武を黷し。終に我邦百萬の生霊をして異賊の矢刃になやませ。其はては富強の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して國力を虚耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ國亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を廣め。身後の虚名を求めんとして。よく/\思ひはかり給ふべき事にこそ)」此いくさにひまなきほどに。年の矢は射るが如くに馳てぶん禄も四年に移りぬ。関白秀次ゆづりをうけしより萬思ふまゝのふるまひ多かりしかば。人望にそむく事少からざりしに。太閤また秀頼とて齢の末に生れ出し思ひ子あれば。いかにもして是を世に立ばやと下心に思ひなやまれける。其ひまを得て石田等の讒臣青蠅の間言かさなりしかば。秀次終に失はる。この事に座して伊達。細川。浅野。最上などいへるもの等罪得べかりしをも。君よく太閤をときさとし給ひて平らにおさまりしかば。此輩あつくかしこみ。いづれの時にかをのが命にかへても此御恩報ひ奉らんとぞはかりける。」慶長元年五月八日には君内大臣にのぼらせ給ひ征二位にあがらせられ。御内に侍従二人。諸大夫十八人までに及べり。十一日御任槐の御拝賀に御参内。牛車御隋身など召具せらる。」三年五月五日太閤俄に心地悩ましと聞えしかば。京坂伏見さはがしき事物にも似ず。其身にも此病終におこたるまじく思はれければ。幼子秀頼の事をのみ思ひわづらはされ。さま/\〃の掟共さだめ沙汰せらる。まづは諸大名互に和らぎむつまじからざれば。幼主のためあしかるべしとて。伏見の城に人々をよびあつめ。其事を石田等の奉行人して令しけるに。もとより恨をふくむやから互に和平する事をいなみつれども。君その所におはしさとし給へば。人々御威徳におそれ。すみやかにかしこまり申たるにぞ。太閤ます/\君の御威徳を感ぜられ。君を始め前田。毛利。上杉等の人々をまねき。ちかごとたてゝ起證文かゝしめし中にも。君の御誓書は其身の棺中に納め葬るべしなど申をかる。」初秋の頃は其病いささかひまありとて。君を病の床にまぬかれ。秀吉が命もいまは旦夕にせまりたり。秀吉うせなん後は天下忽に乱れぬべし。是をおししづめ給はむ人は。内府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば。天下の事こと/\〃く内府にゆづり進すべし。我子秀頼成長の後天下兵馬の権をもとるべくば。いかにとも御落涙まし/\て。我浅才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下萬歳の後も秀頼君かくてましませば。誰かうしろめたき心をいだく者あらん。しかりといへども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて。天下後世の為に遺教をほどこさるべし。我に於ては決して此重任にあたりがたしと。再三辞退まし/\退き給へば。太閤はいよ/\心を安ぜず。石田、増田。長束などいへる腹心の近臣に密旨を遺言せらるゝ事しば/\〃にて。葉月十八日臥待の月もまちつけずうせられぬ。(天下を以て子にあたへず他人に譲られしは。尭舜の御後は蜀の昭烈帝嗣子劉禅を諸葛亮に託して。輔くべくばたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべしといはれし事。後世たぐひなきことには申なれ。然るに秀吉の烈祖に孤を託せられ。天下の兵権をゆづらんとせられしは。昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田。増田が詞にまよひ。其事をとげざりしは惜むべき事なりとさる人の申置しか。今案ずるに此説是に似て非也。凡秀吉の生涯陽に磊々落々として快活のすがたをなすといへども。其實はこと/\〃く詐謀詭計ならざるはなし。石田等の奸臣いよ/\秀吉の腹心に入て。常に其胸中を察するが故に。巧に迎合を行ひしものなり。秀吉石田等が説に迷ひ前心をひるがへしたるにはあらず。烈祖は常に先見の明おはしまして。よく人の先を得給へるによて。秀吉が没期の詐謀に陥り給はざるなり。又ある書に。秀吉死に望み小出秀政。片桐且元に密諭せしは。我家亡びざらん様にはからんとすれば。本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに。此七年が間朝鮮と軍し大明とたたかひ。我かの両國に仇を結びし事こそ我生涯の過なれ。我死ん後彼國に向ひし十萬の軍勢。一人も生て帰らん事思ひもよらず。もし希有にして帰る事を得たり共。彼國より此年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。此時に至て。秀吉なからん後。誰ありてか本朝の動きなからん様にはかる者のあるべき。此事をよくはからんは。江戸内府の外又あるべしとも思はれず。しかし此人弥本朝のために大功を立られんには。神明も其功を感じ。聖主も其勲を賞し給ひ。萬民も其徳になづき其威に恐れ。天下はおのづからかの家に帰しぬべし。其時なまじゐに我舊恩を思ふやから。幼弱の秀頼を輔佐して天下をとらんとはかり。此人と合戦を結ばゝ。我家をのづから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝等我家の絶ざらん事を思はゝ。相かまへて此人によくしたがひつかへて。秀頼が事あしく思はれぬ様にはかるべし。さらば我家の絶ざらむ事もありぬべしと。遺言せられしとのせたり。この事いぶかしといふ人もあれど。思ふにこれも詐謀の一にして。秀吉本心はかく正直なりと。死後に人にいはしめむとての奸智より出し初にて。その本心にてはなしゆへに四老五奉行などには此沙汰なく。小臣の両人に申置れたると見ゆるなり)」太閤兵馬の権をゆづり進らせむとありしをかたく辞し給ふにより。しからば秀頼幼稚のほどは。天下大小の政務は君にたのみ進らせ。加賀大納言利家は秀頼保傅となりて後見あるべしとの遺言なり。これより君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば。天下の主はたゞ此君なりと四民なびきしたがふ。石田三成はじめ大坂の奉行共これを見て。何となくめざましくそねみ思ふ事なみ/\ならず。いかにもしてかたぶけ奉らん事を内々をのがじゝはからひける。」君は朝鮮にまかりたる十萬の軍勢。恙く帰朝せん事を御心なやましく思ひはかり給ひしに。これも思召のまゝに事とゝのひ。軍勢ことなくみな帰り参る。其時島津父子が退陣の働すぐれたりとて義弘禄加へられ。その子忠恒をば四位にのぼせらる。奉行等は秀頼幼稚の間。私に賞罰行はれん事いかゞなりと遮ぎり申たれども。賞罰の沙汰なくしていかで政道を正すべきとて。かく仰定られしかば。奉行等ましてふづくみ憤る事やらむかたなし。」とかく此君秀頼と同じところにおはしませばこそ。世の人望も帰するに似たれ。秀頼を大坂へ迎へとりなば。をのずから君の御威権も薄らぐべしと謀り。秀頼の生母をはじめ女房達をたばかり。四年睦月には秀頼を大坂へ迎へとる。君もその御送りとして伏見より大坂へわたらせたまへば。其夜石田。小西等密議し。明朝御帰路を襲ひ伐てうしなひ奉らんとす。されども井伊直政大勢を引具し。鉄砲に火縄かけて御迎に参りければ。大坂方の者共は案にたがひ手をむなしくしぬ。」かくて奉行等益姦謀をめぐらすに。今天下人望の帰する所。江戸内府と加賀亞相の上に出るものなし。しかれば両雄を闘はしめ其虚に乗じはからふにしかじとて。先毛利。浮田。上杉等の人々にはかり。利家にさま/\〃君の御事を讒訴す。其中にも君故太閤の遺令に違はせ給ふ事ありとて。利家等より使立て其旨を申進らせしむ。こゝに於て双方牟楯おこり。兵戦近きにあらんと京伏見騒動大かたならず。兼て志を通じ奉る池田輝政。福島正則。黒田。有馬。藤堂等は日夜に御館に参り。大坂よりもし押よする者あらんには。御味方して一戦せんと申たり。君には今何故にさる事あるべし。たゞとく帰り給へとぞ宣ひける。(前田徳善院此頃ひそかに人に語りしは。弓矢の格様々あるものなり。此頃の騒動に。信長ならばはやく岐阜へ引取給ふべし。秀吉公ならば三千か五千の人数にて直に切て出らるべし。それにあの内府公はさらにこの騒動を心にもかけ給はず。毎日碁を圍て更に餘念も見え給はず。さて/\弓矢の格の違し事よと感ぜしとぞ)此頃は井伊。本多。榊原。石川。平岩の五人を隊将として御家人を五隊に分ち。一組づゞ交代し京の御館に勤番せしが。此春は榊原康政當番にて上洛するとて熱田邊まで来かゝり。此騒動を聞とひとしく。汗馬にむちうち只一騎にてはせ上る。跡より追々馳のぼるもの七百餘人。康政膳所に来るとき。直政が伏見より出せし飛脚に逢て。大坂よりはいまだ寄来る者もなしと聞先安堵し膳所に陣取。秀頼の仰と披露し勢多矢橋邊に新関を置。三日が間往来をとゞむ。諸國にても此騒動を聞て。家々の家人ども急ぎ来るとて。此関にとゞめらるゝもの幾千萬か数しらず。康政三日の末の時ばかりに関の戸をしひらけば。群集したる旅人雲霞のごとく京伏見に馳入る。康政其身小具足きて馬印押立。真先に伏見へ馳参ず。京伏見には此形勢をみて。関東より内府の軍勢数限りなく入洛せしと風説すれば。石田はじめ奉行等これを聞。茫然としてたゞあきれたるばかりなり。其中に細川越中守忠興は利家の聟なれば。此事利家のため尤以て然るべからずと其子利長を諭し。堀尾。中村。生駒のやからとはかり。中に立て双方の平らぎを行ひける。やがて利家病をたすけ伏見にまかり御対面し。向島の御館に引うつらせ給はゞ。彼地は要害もしかるべき所なり。不慮の変に備へ給へなどすゝめ進らせ。心へだてずかたらひて帰る。君もやがて利家の大坂の館におはしまし。先日利家が重病をつとめて伏見までまかりたるを謝し給ふ。利家二なく悦び病をつとめて饗し奉り。我心地終に生べくも思はれねば。利長。利政の二子が身の行末を頼み進らす。此夜は藤堂高虎が家にとまらせ給ふ。石田は同志のやからを會し藤堂が家をおそはんとせしが。これもとかくして其事もとげず。次の日伏見にかへらせ給ひ。やがて向島に引うつらせ給へば。福島。加藤。浅野。黒田。蜂須賀。藤堂をはじめ。伏見にありあふ輩皆まうのぼり。武具馬具酒肴等とり/\〃奉り参らす。大坂奉行はさらなり。毛利。浮田などいへる者等も日ごとに向島に参り御旨をこひ奉る。其うへこのほどかの利家もうせければ。歯爵ともに君の上こすものもなく。御威望はありしにまされり。」こゝに又福島。池田。両加藤。細川。浅野。黒田等の七将は朝鮮にある事七年。その間粉骨砕身して苦辛せし戦功を。太閤勤賞のうすかりしは。全く三成が讒による所なれば。今三成に其怨を報ぜんといかりひしめくにぞ。三成大に驚き恐れ身の置所をしらず。浮田。上杉。佐竹等はかねて三成としたしかりしかば。今この危急をすくはんには。内府の御旨を伺ひ御あはれみをこはざる事を得じとはかり。佐竹義宣深夜に三成を女輿にのせて伏見に参り。ひたすら御なさけをこひ奉る。そのほど福島。加藤等の諸将は。三成とりのがさじと跡より追来る。されども君かひがひしく請がひ給ひ。七将の輩をもとかくさとし給ひ。三成をば職掌を削りて佐和山に蟄居せしめらるゝとて。佐和山まで三河守秀康卿をもて送らしめらる。(三成が太閤没後に及び。烈祖を害し奉らんと謀りし事。いくたびとなく。當家の害となる者三成に過たる者なければ。今度七将の輩三成を誅し怨を報ぜんとするこそ幸なれ。只今三成が年来の罪を糾明してこれを誅し。ながく禍をのぞき給ふべけれと。御家人等諌め奉りしかども。さらにさるみけしきも見え給はず。本多佐渡守正信は帷幄の謀臣なり。正信深夜御寝所に参り。さて殿は治部が事を如何思召やと申す。君聞召。其儀を兎や角やと思案してゐるぞと仰ければ。正信承り。御思慮遊ばし候とあればそれにてもはや安心せり。又何事をか申べきとて直に退出せりとぞ。これ等君臣の御挙動殆ど凡智のしる所にあらざるが如し)」三成佐和山へ蟄居せし後は。三成同意の輩は大に力を失ひ。御家人に阿諛して奔走す。長束。増田などの奉行人等は毛利。宇喜多。上杉の三老に議し。内府天下の萬機を沙汰し給ふ事なれば。向島の御館におはしまさんより。伏見の本丸を御住居になさせ給はんかと聞え奉る。君は我向島にすまゐするも利家のすゝめによれば。今三老并に奉行のすゝめならんには。ともかくも其指揮にまかすべしと仰られ。閏三月十三日伏見の本丸にうつらせ給へば。前田徳善院はからひて。大手をはじめ諸門の鎰悉く井伊直政に引渡す。これより後は伏見はひたすら御居城となりて。御家人等諸城門を警衛す。」今は世のなかもことなくおだやかなれば。朝鮮在陣このかたの労をいこひ人馬をも養はんため。諸大名各就封して國務をも沙汰すべきにやと仰下されしかば。浮田。毛利。上杉。前田等の諸大名をはじめ。生駒。中村。堀尾。并に加藤清正。細川忠興等思ひ/\に暇賜はり帰國すれば。長束などいへる奉行共も。其しる所へ立かへらんとす。」重陽には久しく秀頼母子御対面なければ。大坂へ渡らせ給ひぬ。長束。増田ひそかに浅野長政がはからひにて。土方。大野などいへるを刺客として。君大坂にいらせ給はむ時。害し奉らんと用意するよし告げ奉る。よて本多正信等。明日大坂城へ入らせたまふ事しかるべからずといさめ奉るといへども。井伊直政。榊原康政。本多忠勝等。かくては臆するに似たれば。たゞ其心がまへして御入城候はんにはしかじと申にしたがはせ給ひ。重陽には大坂城へいらせ給ひ。秀頼母子へ御対面あり。井伊。本多。榊原等はおして寝殿まで進んで御側をはなれねば。城中には手を出すものもなくして。平らかに御旅館に帰らせ給ひぬ。されどこなたもその御心づかひせられ。伏見の御人数を召ける。御留守に秀康卿おはしけるが。此城は我かくてあれば何の心づかひあらん。番頭。物頭までも其局を明て。片時卿の下知勢配りのさま聞召。君も吾には生れまさりたりとて。かつ感じかつ悦ばせ給ふ事なゝめならざりしとぞ。今度君を害せんと謀りし首謀は。加賀中納言利長。浅野長政と謀を合せて。土方。大野の両人を刺客に命じたる事なれば。是等が罪をたゞされ。後来をこらしめ給はずばかなふまじと奉行等聞え上しに。此事ひろくあらはに罪をたゞさむには。世のさはぎともなり。秀頼のためしかるべき事ならずと仰られ。まづ長政は所領に蟄居せしめ。大野。土方はそれ/\〃にめしあづけらる。(是實は石田三成と長束。増田等がはかりて。利長。長政を陥れて失はんとす。實は利長。長政等は當家に親しみあれば。當家親昵の徒を離間せんと計りし事いちじるしければ。わざとその罪をかろくとりなさせ給ひしものなるべし)」かくて奉行共に此頃諸大名多く帰國し。諸有司も数少き中に。日々伏見に行かよはんもさまたげ多ければ。我いまより大坂の西丸に住居して。萬機を沙汰せんはいかにと仰らる。長束。増田等もとよりいなみ奉るべきにあらず。このまゝ大坂に御住居まし/\て。萬に沙汰し給はむ事。天下の大幸この上なしと御請し。俄に故太閤心いれて構造せられたる西丸に。ことにことを添て修理を加へ迎へ奉れば。在大坂の大小名も日々西城にまうのぼり御けしきをとるにぞ。いよ/\天下の主とは見えさせ給ふ。」かくて浅野。土方等それ/\〃に御かうじ蒙りしうへは。利長がこと捨をかるべからずとありて。ほどなく加賀國へ打て下らせ給ふべしと聞ゆれば。丹羽五郎左衛門長重こひ出て御先手をうけたまはる。此事世中ゆすりみちて言のゝしるにぞ。細川忠興はじめ故利家此かた彼家にしたしみ深き諸大名より。利長のもとへ此旨をつげやるにぞ。利長大に驚き。横山といふ家司をのぼせ。さらに思ひよらざる旨かへす/\〃陳謝し。其母芳春院を質に進らせけるにぞ事なく平らぎぬ。(是江戸へ諸大名の証人を進らせたる起本なり)」明れば慶長五年正月元日。大坂の西丸におはしまし。諸大名太刀折紙をもて歳首を賀したてまつる。秀頼の近習馬廻の諸士も。組々を分て五日迄拝賀に参る。其にぎはひにるものもなし。」睦月の中旬に至り在大坂の大小名をめし饗せられ。四座の猿楽を催さる。貴賤袖をつらね参りつどふ。御威光故太閤の在世にことならず。」石田三成佐和山蟄居の前より。上杉。佐竹等と深くはかりかはし。時を得て上杉。佐竹と牒し合せ。東國に謀反の色をあらはさんには。内府みづからこれを征せられんとて。打て下られん事必定なり。其時三成大坂へ馳参し秀頼仰と稱し。毛利。浮田をはじめ西國諸大名をかたらひあつめ。西より軍をすゝめ。内府を中途にさしはさみ討奉らんには。勝利疑なしと謀を決しける。景勝が家司直江山城守兼続これもさるふるつはものにて。三成と謀を合せ。たがひに其事をくはだてしが。今は時こそよけれと景勝をすゝめ。領内砦々を取立て塁を高くし溝を深くし。舊領越後。下野邊の郷民をすゝめ。一揆を起させ騒動せしむれば。近國の領主代官大に驚き。上杉叛逆の由大坂へ注進櫛の歯を挽が如し。上杉就封の後期をこえて上坂せざるゆへなれば。世のさはぎをしづめんため景勝はやく上坂すべしと。御使を下され召どもまいらざるのみならず。豊國寺の兌長老して。直江が許へ消息してその情を試給ひしに。兼続が返間傲慢無禮をきはめしかば。今は御みづから征し給はでかなふべからずと仰下さる。大坂の奉行等は。幼君の代始にこは思ひよらぬ事なり。もし景勝實に叛逆するにもせよ。一二の大名をさしむけられんに何の恐れか候べき。御親征あらんは勿体なしと留め奉る。(大坂の奉行等はみな上杉。石田の當類なれば。御親征を遅引して。其中には景勝が防禦の備を全からしめんとするものなり)されど東征の英慮既に決し給へば。いかでこれ等のことばになづみ給はん。六月のはじめには。西丸にあまたの大小名めしあはせられ。軍議既に定まれば。十六日に大坂には佐野肥後守政信を御留守とせられ。大軍を召具し御出馬ありて。其夜は伏見の城にとゞまらせ給ふ。此城は鳥居彦右衛門元忠。松平主殿頭家忠。内藤彌次右衛門家長。松平五左衛門近正をとゞめて守らせらる。(君此時。當城へ残し留る人数不足にて。汝等苦労なりと仰ければ。元忠承り。某は左は思ひ候はず。天下無事ならんには。當城守護せん事某と五左衛門両人にて事たり候べし。もし世に変ありて敵大軍を以て當城をかこまん時は。近國に後詰する味方はなし。とても城に火をかけ討死するの外は候はねば。御人数多く當城に残し給はむ事。詮なしと申けるとぞ)」十八日伏見を首途し給へば。池田。福島。細川をはじめ。上方大名は都合五萬餘の勢にて大坂を打立。追々奥へぞ下りける。兼てより軍令厳重なりければ。農は耕し商はひさぎて敢て生産を失はず。行旅は避るに及ばず。萬民悦びかぎりなし。大津の城に立よらせ給へば。京極宰相高次晝飯奉る。今夜は石部の御旅館にとまらせらる。長束正家水口に就封してありしが石部に参り。明朝は水口に立よらせ給ふべし。饗奉るべきよし申てかへる。其夜思召旨ありとて戌の刻俄に石部を立せ給ひ。長束へも去がたき事出来ていそがせ給へば。こたびは立よらせ給はず。御かへさに立よらせ給ふべしと。御使して仰遣はさるれば。正家大におどろき。御跡を追て十九日の晝土山の御休らひ所に参り。御名残をおしみたてまつれば。御感のよしにて御刀賜はり。正家拝謝して帰る。(石田三成此時はいまだ佐和山に有しに。其謀臣島左近。今夜佐和山より急に水口の御旅館へ夜討をかけんといふ。三成聞て。それにも及ばず。兼て長束に牒し合せ置たれば。長束今夜水口にて謀を行ふべしといふ。左近天狗も鳶と化せば蛛網にかゝるたとへあり。今夜の期を過すべからずと是非に三成を勧め。三千人にて蘆浦観音寺邊より大船廿餘艘に取のり。子刻に水口まできて見れば。はや打立給ふ御跡なりしゆへあきれはてゝ帰りしといふ。烈祖の三成をあしらひ給ふ事。三歳の小児を弄ぶに異ならず。小人小點もとより量をしらざるを見るべし)」此道すがら鎌倉の八幡宮にまうで給ひ。右大将家此かた世々の古跡を尋給ひ。江島の弁天。金沢の稱名寺などとはせられ。七月二日江戸の城に入せ給ふ。(陪従せし上方大名は。海道を直に江戸へ着陣すべしと命位ぜられ。鎌倉御遊覧には御家人のみめし具せらる)程なく上方大名御跡より進発の輩も。やがて江戸へ着陣しければ。悉く二丸に召て大饗行はる。」十九日中納言殿先江戸を御進発まし/\。榊原康政先鋒として下野の宇都宮に御着陣あり。御先手の諸大名。十三日より十五日までの間に。太田原邊まで着陣すべしと定められ。君は廿一日の御馬を出され。廿四日小山に御陣をすゑらる。これは鎌倉右大将佐竹追討の佳例によられしとぞ聞えける。佐竹今度も会津もよりの事なれば、御先手にさゝれながら打立様も見えざえれば。重て御使を立られ御催促ありけれど。たやすくいらへも聞えず。然れば上杉に一味せしに疑なしとて。まづ那須一黨ならびに水谷。皆川。太田原等のやからには。そのをさへを命ぜらる。然るに池鯉鮒の宿にて。大坂の家人加賀井彌八郎といへるもの。争論して水野和泉守忠重を討。彌八郎また堀尾吉晴がためにうたれしが。吉晴も深手負しよし聞ゆ。(是は大谷吉隆がすゝめにより。三成ひそかに彌八郎に命じ。秀頼より存間の使と稱し江戸へ下し。君御対面の席にて刺奉れとの事にて。彌八郎を江戸へ下しける。然るに君いかでかゝる詐謀に陥り給ふべき。御対面なければ彌八郎空しく帰るとて。道にて堀尾をあざむき忠重に会し。酒宴の席にて忠重を害し。堀尾をも討んとして其身伐れしなり)」又三成は大谷吉隆。安国寺恵瓊等とはかり大坂へ馳参り。秀頼の仰なりとて諸國へ軍令をふれまはし。毛利。宇喜多をはじめ小西。立花。島津等。すべて九國。中國の大名小名雲霞の如くよびあつめ。まづ伏見の城を攻落し。鳥居元忠以下を討取たるよし。追々小山の御陣に注進来れば。御供の人々おどろく事かぎりなし。」君は諸将を御本陣にめしあつめられ。井伊直政。本多忠勝両人もて上方逆徒蜂起の事を告られ。諸将妻子はみな大坂に置たる事なれば。うしろめたく案じわづらはれん事ことはりなり。速にこの陣中を引はらひ大坂へのぼられ。浮田。石田等と一味せられん事更に恨とは思はず。我等が領内にをいて旅宿人馬の事はさゝはりなからん様令し置たれば。心置なくのぼらるべしと仰下さる。諸将愕然として敢て一語を出す者もなかりし中に。福島正則すゝみ出。我に於てはかゝる時にのぞみ。妻子にひかれ武士の道を踏違ふ事あるべからず。内府の御ため身命を抛て御味方仕べしといへば。黒田。浅野。細川。池田等はいふまでもなく。一座の諸将みな御味方に一決し。更に二心なき旨を申す。君も其座に出まし。諸将の義心を御感浅からず。さては彌会津に攻入て景勝を踏潰し。其後上方へ進発すべきかと議せらる。諸将みな上杉は枝葉なり。浮田。石田等は根本なり。会津をすてゝ上方御征伐を急がるべきにやと申ければ。彌上方御進発に決せらる。(これは前夜に秀康卿に議せられし時。卿いちはやく上方逆徒御征伐を進められしかば。既に御治定ありし所なり)しかれば清洲。吉田両城は敵地に近きをもて。正則。輝政先陣あるべし。引つゞき先手は清洲に着陣し。我父子出馬を待るべしと仰あれば。正則我居城清洲をさゝげ進らせ置ば。御家人に守らせ給ふべし。十萬の軍資は兼て備置たりと申。山内対馬守一豊も。我も居城懸川をさゝげ置ば御旗本勢をこめをかれ。後陣を御心安く御進発あるべきなりと申にぞ。東海道に城もちし輩は。皆異口同音に同じさまにぞ聞えあぐる。又秀康卿は是非上方の御先手奉はりたしと仰けれど。上杉は謙信以来こゝろにくきものなれば。汝が外これを押ふる者あらざればとて御跡にとゞめられ。秀康卿を総督にて伊達。堀。最上。蒲生。相馬。里見。那須黨を上杉のおさへにとゞめ給ひ。福島。池田等の諸将に井伊。本多を御眼代として差添られ。七月廿六七日に野州を打立。各證人を江戸城にとゞめをき。八月朔日二日に江戸をたつ。」君は小山御陣にて軍令ことごとく定られ。八月五日江戸へ帰らせ給ふべしとありしに。この頃の霖雨にて栗橋の舟橋おし流したりと聞召。是は会津征伐に諸軍往来のたよりよからんため設る所なり。今は用なしと宣ひ。乙女岸より御船にめし西葛西へ着せられ。七日に江戸へ帰らせ給ふ。かくて明日にも上方御進発あるべしと聞えければ。御供にさゝれし御家人は。番所より直に発足すべき用意して。草草鞋路銭を腰に付てつとめ。玄関前塀重門内には。鑓立の柵木を設け虎皮の長柄を飾り。書院の床には御馬印をたてならべ。唯今にも御出馬あるべく見えながらいまだ御出馬もなし。御先手の諸将清洲に着陣して日数をふれば。御眼代にまかりたる直政。忠勝両人も。いかにせんかと思ひわづらふほどに。江戸より先手諸将の慰労の御使とて村越茂助直吉をつかはされしが。折ふし風の御こゝ地にてしばし御出馬に及ばれざる旨のよしを傳ふ。」加藤左馬助嘉明心さときものにて。我輩かくてむなしく内府の出馬のみ待べきにあらず。いざ一戦して忠義をあらはすべしとかたりあひ。各手分して中納言秀信の岐阜の城をせめかこむ。城中にも百々。木造などいへる古つはものありて。謀を設けふせぐといへ共。大軍大手搦手より攻入にぞ。遂には攻やぶられ秀信も降参す。さすが右府の嫡孫なればとて助命さられ。後に高野山に閑居ありてほどなくうせらる。」先手諸将は直に大垣城に対し赤坂に陣とれば。井伊。本多より此事江戸へ聞え上ぐ。よて御感浅からず。各御書を賜ひ賞せらる。」やがて九月朔日君江戸城を御出馬あり。此時石川日向守家成。今日は西塞とて兵書に重き禁忌とす。御出馬は御延引あらむにやといさめ申。君聞召。西が塞ゆへ我東よりゆきて是を開くなりと仰られながら。御馬をすゝめ給へば。衆人みな凡愚の及ぶ所ならずと感じ奉らぬ者なし。かくて桜田までならせ給ふ所へ。岐阜より首桶到着せし注進あれば。増上寺門前に置べしと命じ給ひて。芝明神の社にならせられ。拝殿にて其首共実検し給ひ。増上寺へいらせられ。住持存應先導して本堂へならせられ。ほどなく立出給ひ。直に御乗物にめされ。今夜は神奈川の駅にやどらせられ。こゝより又御書を清洲の諸将に賜はり御出馬を告らる。」十一日熱田までわたらせられし時。藤堂和泉守高虎御迎に参り拝謁して御先にかへる。(高虎小山御陣所より暇賜はり御先へまかる時。今度先陣に打てのぼる諸将は。みなこれ豊臣家恩顧の者共なり。一旦の義により御味方に参るといへども。その實は心中はかりがたし。高虎が催し奉らざるほどは。かまへて江戸を御出馬あるべからずと密に聞え上しが。先手諸将岐阜城をせめぬくを見て。はや御馬をすゝめたまふべしと申しなり)十四日には赤坂へ御着陣あるべしと聞えしかば。かしこに在陣の諸将。手廻の人数ばかり召具し。呂久川の邊まで来り拝謁す。各この程の軍功を賞せられ。明日は八幡にかけ是非合戦をはじむべしと仰られ。その日午刻赤坂につか給ひ。直政。忠勝等兼て経営して待奉りし岡山の御本陣へいらせらる。此岡山といへるは。天武天皇白鳳のむかし大友皇子と御軍ありしとき。勝軍を奏せし行宮の地にて。今度又君御本陣となされ。昔は天皇此地に於て百王一系の帝業を中興せられ。今は君こゝにして千載不朽の洪圖を聞かせ給ふ。いとありがたきためしなるべし。」逆徒は浮田。石田をはじめ。かねてより大垣の城にありて赤坂の諸将と対陣し。打てやかゝらん待てやたゝかはむと軍議に日を送りける。さるにても内府此ほどは上杉が吉左右いつか来らんとそらだのめしてある程に。内府御着陣ありと見え。白旗若干見えたりといふものあり。軍勢雲霞の如くかさみたりといふもありて。城中狼狽なゝめならず。浮田。石田等。然らば是を試みんとて。浮田が家司明石掃部。石田が謀臣島左近等に人数をそへて。株瀬川邊に出して刈田せしむ。此邊中村。有馬。田中等が陣所に近かりしかば。これ等の陣所よりこれを蹴ちらさんと人数を出し。株瀬川の堤上にて散々に戦ひける。御本陣より御覧じ。あの人数引あぐべしと命ぜられ。井伊直政承り。双方火花をちらし混戦する中へ乗入采配を打ふり/\。三家の人数を引まとひ物分れしたる挙動。敵も味方も声を挙て称美せり。大垣城中には浮田。石田が先手明石。島等帰り来り。内府御着陣ありし事疑なし。且急に合戦とりむすばるべき形勢なりと申せば。扨は城外南宮山に備へたる毛利宰相秀元。松尾山に備へたる金吾中納言秀秋が陣甚心元なし。この城へ敵より押の人数をさしむけざる先に諸将出城し。毛利。金吾に力をそへずしてはかなふまじと軍議を決し。夜中大垣城を出で関原に陣をとる。(島津義弘この時弟中書途豊久を使とし。今夜関原に出陣する事良謀とは思はれず。それより今夜中に内府岡山の本陣を襲伐んには義弘先陣すべし。浮田。石田の両将其時出馬せられ。無二無三に内府の先手へ切懸候はん様に下知し給へと申送りしかど。三成は茫然として是に答ふる事あたはず。島左近すゝみ出で。夜討などは小勢を以て大軍を討に利ある事にて。大軍より小勢にむかひ夜討を仕懸る事は古今なき事なり。今度は天下分目の大合戦なれば。明日平場にて一戦せむに。味方勝利は更に疑なき事に候と申ければ。其詞に諸将同意して。義弘が計は用ひざりしといへり。又一書に。浮田秀家は大垣城に在て寄手を引付戦て時日を送り。毛利輝元。立花等が後詰を待て。前後より敵を大事に取ての事なれば尤然るべし。青野が原に打出。一挙して敵を破らんとするは心元なしといひけれども。三成かたく前議を守りて変ざれば。秀家も三成が議を破る事あたはず。終に三成が議に決せりとも見ゆ)」明れば九月十五日。敵味方廿萬に近き大軍関原青木が原に陣取て。旗の手東西にひるがへり汗馬南北にはせちがひ。かけつかへしつほこさきよりほのほを出してたゝかひしが。上方の勢は軍将の指揮も思ひ/\にてはか/\〃しからず。剛なる味方の将卒にきり立られ。其上思ひもよらず兼て味方に内通せし金吾秀秋をはじめ。裏切の輩さへ若干いできにければ。敵方に頼み切たる大谷。平塚。戸田等をはじめ宗徒の者共悉くうたれ。浮田。石田。小西等もすて鞭打て伊吹山に逃いり。島津も切ぬけ。其外思ひ/\に落てゆけば。味方の諸軍いさみ進んで首をとる事三萬五千二百七十餘級。味方も討死する者三千餘ありしかど。軍将は一人も討れざりしかば君御悦おほかたならず。(大道寺内蔵助が物語とてかたり傳へしは。凡関原の戦といふは。日本國が東西に別れ。双方廿萬に及ぶ大軍一所に寄集り。辰の刻に軍始り。未の上刻には勝負の片付たる合戦なり。かゝる大戦は前代未聞の事にて。諸手打込の軍なれば作法次第といふ事もなく。我がちにかゝり敵を切崩したる事にて。追留などゝ云事もなく。四方八方へ敵を追行たれば。中々脇ひらを見る様なる事ならずと見えたり。是目撃の説尤實とすべし)」君は今朝より茶縮緬の御頭巾をめされしが。既に敵皆敗走するに及び。御本陣にて床机に御腰かけられ。勝て胄の緒をしめよといふ事ありとて。はじめて御兜をぞめされける。此時御先手の諸将悉く参陣して御勝利を賀し奉る。岡江雪御傍にて。まことに名将の御武徳とは申ながら。日本國が二に分れたる大合戦なる所。たゞ一日のうちに凶徒こと/\〃く追ちらされ。我々に至るまでも夜の明たらん心地す。あはれ御凱歌を行はるべきかと聞え上ければ。君聞召。いかにもことはりなり。去ながら各はじめ諸将の妻子證人として大坂にあれば。心中を察して我又甚心ぐるし。、もはや三日が間には我大坂へ攻のぼり。諸将へ妻子を引渡し安心せしめ。其上にて勝鬨の規式をば行ふべしと仰ければ。これを承傳ふる大小名士卒厮役にいたるまで。げに仁君かなと感歎せざる者なかりしとぞ。」十七日には諸勢三成が居城佐和山へ押よせ不日に攻落し。大垣に残りし敵も皆降人に出ければ。君は十九日御陣を草津にうつし給へば。こゝに勅使参向ありて。今度おもはざるに天下兵革起り。四海神速にはせのぼり。一戦に数萬の凶徒を討亡す事。古今未曾有の武功といふべし。彌天下大平の政を沙汰せらるべしとの詔を傳へられ。公卿殿上人寺社商工等までも。思ひ/\に御本陣に参賀するさま。箪食壺漿して王師をむかふる御威徳四海にかゞやけり。」中納言殿には宇都宮より直に中山道にかかりのぼらせ給ふ御道にて。信州上田の城を攻給ひしに。真田昌幸かたく防て従はざれば。こゝに押の兵を残し御道をいそがせ給ひ。この頃山道より大軍を引つれ御着陣。加賀黄門利長も北國を平げ参着しければ。彌大坂城へいそがせ給ふ。」これより先大坂城にては西丸に御留守せし御家人を追出し。毛利輝元入かはりて秀頼の後見と号し萬事を沙汰し。増田長盛は秀頼を守護して本丸にありしが。輝元かねてより家司吉川が帰欸する上は。輝元一議にも及ばず城を出て木津の別業に蟄居し。増田も降参して罪なき旨を陳謝す。今は秀頼母子も薄氷をふむ心地する所。草津の御陣より御使ありて。今度の逆謀みな浮田。石田等の姦臣等。私のはからひにて。幼稚の秀頼元来あづかりしらるべきにあらざれば。更に御不審に及ばれざるよし仰つかはさるれば。母子はいふまでもなく。城中男女はじめて蘇生せし心地し悦ぶ事限りなし。此後は秀頼母子身上は御はからひにもるべからず。何事も御仁怒を希のみのよし使もて謝し奉る。君は廿七日大坂城にいらせ給へば。また勅使ありて御入城を賀せられ。京堺畿内の土人まで雲霞のごとく来賀し奉る。」石田。小西。安国寺等は往生擒られ誅せられ。其餘凶徒の城々。あるは降参しあるは攻おとされ。中國九國にては黒田如水。加藤清正と志をあはせて。凶徒の城々せめ平らげて参着し。東國は上杉景勝が臣直江兼続等をして最上に攻入らしめしに。伊達政宗も最上を援けて戦しが。これも関原上方勢敗績すと聞て。兼続兵をまとめて引かへす。よて君大坂に於て今度の賞罰を沙汰せられしが。まさしく御敵となりし上杉。佐竹。島津等の人々さへ其願のまゝに罪をゆるされ。真田昌幸なども。其子伊豆守信之が。軍功にかへて父が首つがん事を願ひければ。これもその願のまゝに聞召入られ。あるは本領安堵し又は所領をけづられ。首討るべき者も多く助命せられ。よろづ寛宥の御沙汰のみにて。世を安くおさめ給ひし寛仁といひ。大度といひ。かけて申もなか/\なり。又闕國も多かりしかば。御味方せし人々にわかち賜ふ。越前國は秀康卿。尾張國は忠吉朝臣。加賀。能登。越中三國は前田利長。安芸。備後は福島正則。播磨は池田輝政。紀伊は浅野幸長。筑前は黒田長政。筑後は田中吉政。備前。美作は金吾秀秋。出雲。隠岐は堀尾吉晴。豊前并に豊後杵築は細川忠興。土佐は山内一豊。伯耆は中村忠一。若狭は京極高次。丹波は京極高知。伊予松山は加藤嘉明。同國今張は藤堂高虎。因幡は池田長吉。飛騨は金森法印。猶あまたあり。」此中にも足利学校の住職三要に仰ごとありて。貞観政要。孔子家語。武経七書等を校正して梓にのぼせらる。戦國攻争間もなく文学をさたし給ふ。是又ありがたき御事なり。」明る六年二月には井伊直政。本多忠義。奥平信昌。石川康昌等をはじめ。功臣の輩に禄あまた加へ。江勢濃三遠駿上等の城々をわかち給ふ。」其彌生中納言殿大納言にのぼり給ひ。御参内の日忠吉朝臣も侍従に任ぜらる。」六月には膳所崎の城を築て戸田左門一西におらしめ。七月には蒲生飛騨守秀行に会津を給ふ。これ秀行が父宰相の舊領なりしが。今までは上杉の領せし所なり。」九月には内院の御料。公卿殿上人の釆邑を査定したまひ。板倉四郎左衛門勝重。加藤喜左衛門正次を京都に於て大小の沙汰せしめ。その冬江戸に帰らせ給ひ。奥平家昌に宇都宮十萬石を賜ふ。」七年正月六日には君従一位にのぼらせ給へばやがて御上洛あり。大坂にも渡えあせらる。五月御参内院参し給ひ。女院御所にて猿楽を催され。主上も御覧にわたらせらる。」此八月御生母大方殿うせ給ふ。さる艱難の中にうき年月をすごさせ給ひしが。今かゝる御光にあはせ給ひ天下の孝養をうけ給ひ。古も稀なる齢に五とせまでかさねて。安らかに終をとらせ給ふ。いとかしこし。」十一月には御五男武田萬千代丸信吉のかた。下総國佐倉より常陸の水戸に移っせ給ひ。此月又都にのぼり萬機を沙汰せられ。明る八年正月には御九男五郎太丸を甲斐國に封ぜられ。池田輝政に備前一國を加へ給ひ。森忠政に美作國を賜ひ。御七男上総介忠輝朝臣は下総國櫻井より信濃國川中島に轉封せらる。すべて治世安民の御沙汰ならざるはなし。

巻五

東照宮御実紀巻五(全文)

慶長八年二月に始り四月に終る 齢六十二
慶長八年癸卯二月十二日征夷大将軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中弁光廣。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀終て勧修寺宰相光豊卿勅使として巳一点に伏見城に参向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帯なり。雲客以上は城中玄関にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陰陽頭久脩御身固をつまふまつりて後。紅の御直垂めして午刻南殿に出給ふ。今日参仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。勅使にまづ御対面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事弁みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。磐折して御昇進と唱ふる事二声。一揖して退く。次に広橋。勧修寺両卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事参仕の弁等は第三の間に左右に別れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近将監中原職忠征夷大将軍の宣旨を乱箱に入て。小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧て進む。大沢少将基宥請取て御前に奉る。御拝戴有て宣旨は御座の右に置。基宥乱箱をもちて奥にいる。永井右近大夫直勝その箱に砂金二裏入て基宥に授く。基宥是を持出て官務に授く。官務拝戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持参し。基宥受取て御前に奉り。箱は基宥とりて奥に入る。直勝砂金一裏を入れ。基宥これを持出て大外記に授く。大外記拝戴して退く。其さま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出。次に大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に隋身兵杖の宣旨大外記持出。次に淳和奨学両院別当の宣旨官務持いづる。其度ごとに乱箱に砂金一裏づゝ入て賜はる。次に職事弁等座を立。次に上卿勅使太刀折紙もて拝謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出て。三の間長押の内にて拝し。大外記以下は太刀を三の間の内に置て廣庇にて拝し。官務。出納。少外記。史も同じ。次に陣の官人。召使等太刀は献ぜず。廣縁にて拝して退く。次に右近大夫直勝。西尾丹後守忠永(寛政重脩譜には。忠永此時未だ酒井の家に有て主水と稱すとあり)役送し。兼勝卿に金百両。御紋鞍置馬一疋。光豊卿に金五十両。鞍馬一疋遣はされてのち奥に入御あり。次に参仕の官人。召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤原忠文等は禁中に召宣下ありしなり。幕府に勅使を遣はされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大将家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に勅使を迎へ。三浦次郎義澄。比企左衛門尉能員。和田三郎宗實。郎従十人甲冑よろひて参りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拝受せられしこそ此儀の権輿とはすべけれ。足利家代々此職をうけつがれしかど。等持院。寳筐院。鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば。典礼儀注を講ぜらるるに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法もほゞそなはりけるなるべし。それも応仁よりこのかたは。幕府また乱逆のちまたとなりぬれば。礼儀の沙汰もなし。こたびの儀は其絶たるをつぎ廃れしをおこされ。鎌倉。室町の儀注を斟酌して。一代の典礼をおこさせ給ひしものなるべし。(此日の作法は宣下記并に勧修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども。麁略にして漏脱多し。ひとり出納職忠記最詳なれば。今は職忠の記に従がひてこれをしるし。宣下記。勧修寺記。西洞院記の中にもはゞそのとるべきをとりて補ひぬ。この時の作法は當家典礼の権輿といへども。いまだ全備せしにはあらず。これより世々たび/\沿革ありて。いまにいたりて全く大備せしといふべし)つぎに勅使上卿を始め奉行職事弁を饗せられ。三寳院門跡羲演准后出座して相伴せらる。(三寳院は室町将軍家代々宣下のとき。出座して饗応の席に連る例なりしをもて。けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは。満済准后の鹿苑院将軍の猶子となられしよりこのかた。代々室町家の猶子ならざるはなし。其中には室町家の実子にて住職せしもあれば。此門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて。かゝる大礼にあづかりし事と見えたり。此外にも室町家出行の時は。三寳院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この出座ありし義演准后といふも。霊陽院の猶子なりしとぞ)」この日越前中将秀康朝臣を従三位宰相にのぼせらる。(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による)」又板倉四郎右衛門勝重は京所司代たるにより。豊臣家の例によりて騎士三十人。歩卒百人を附属せらる。」又本郷治部少輔信富はその家代々室町将軍家につかへ。将軍家の制度儀注にくはしければ。この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あり。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利将軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝将軍につかへけるが。三好長慶が叛逆の時若狭の國本郷の所領を没落し。後に霊陽院義昭将軍につかへ其後織田家にしたがひ。去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり。(藩翰譜備考日勧修寺記。西洞院記。中原記。続通鑑。家忠日記。家譜。寛政重脩譜)」○十三日秋元茂兵衛泰朝従五位下に叙し但馬守と改む。此日生駒雅楽頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。寿七十八。此親正が先は参議房前に出で。数世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家号とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。是親正が父なり。親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豊臣家に属ししば/\〃軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戸の城主とせられ三萬石を領し。又播磨國赤穂にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に転封せられその國鶴羽浦に住し。また丸亀の城にうつり。このとし堀尾帯刀吉晴。中村式部少輔一氏と共に豊臣家三中老の一人に定めらる。是より先従五位下して雅楽頭と称す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。文禄四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にひしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島。加藤等とおなじく海道を発向し。関原の戦にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に従ひ。家卒を出して丹後國田辺の城責に与力せしかば。関原御凱旋の後一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石余を賜ひ。丸亀を改めて高松の城にうつりすむ。親正はなまじゐに田辺の城責に人数を出しければ。其罪を恐れ高野山に逃のぼり薙髪して謝し奉りける。されど一正既に軍忠を著はし勧賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御ゆるしを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正にはごくまれけふ終りを取りしとぞ。(家譜。藩翰譜備考。寛政重脩譜)○十四日公卿殿上人伏見城に上り将軍宣下を賀し奉る。(西洞院記)○十五日島津少将忠恒が使の家司拝謁して帰国の略賜はる。(天元実記)○十九日朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するが如くにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一昼夜に日月蝕す。尤珍事とて喧噪す。(当代記)○二十五日南都東大寺三庫修理成功するにより。本多上野介正純并に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井伊賀守定次并に中坊飛騨守秀祐これをつとむ。大内よりは勅使として勧修寺右大弁光豊卿。広橋右中弁總光参向あり。この三庫は聖武天皇の遺物とて。蘭奢待をはじめ。紅沈香。麝香。人参。綾羅。錦繍。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿。その外屏風。楽衣等五十の唐櫃に納め。千歳近く収蔵して朽敗せず。天朝にも勅封ありて尤秘蔵し給ふ所なり。足利将軍家代々一度。蘭奢待を一寸八分づつ切て寳愛せらるゝ故事となりて。織田右府も切取て秘賞せられしかば。當家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに。聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久しく勅封を開かず。庫内朽損漏湿して古物の破壊せむ事思ふべきなりとて。去年六月正純。長安等を監せしめ。定次。秀祐等奉行し。勅使参向して勅封をひらき。寳物を他所にうつし庫内を修理せしめられ。九月に至る。唐櫃三十は新調して寳物を収貯せしめられしが。このほど告竣に及びしかば。勅使ふたゝび参向ありて寳物を庫内に収め勅封ありしなり。(和州寺社記。筒井家記)○二十七日三河國鳳来寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壊す。天狗の所為なりと流言す。又山中宗徒死亡する者多し。(当代記)◎是月井伊萬千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。」上杉中納言景勝卿江戸に参観す。櫻田に於て宅地を賜ふ。」又諸國の大名より各丁夫をめして。江戸の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに属する者三人。松平下野守忠吉朝臣を上首としてこれに属するもの四人。加賀中納言利長卿を上首としてこれに属するもの四人。上杉中納言景勝卿を上首としてこれに属する者三人。本多中務大輔忠勝を上首としてこれに属する者四人。蒲生藤三郎秀湯行に属する者一人。伊達越前守政宗に属する者一人。生駒讃岐守一正に属する者十八人。細川越中守忠興に属する者十人。黒田甲斐守長政に属する者三人。加藤主計頭清正に属する者三人。(以上所属の徒詳ならず)浅野紀伊守幸長に属するものは。池田少将輝政。堀尾信濃守忠晴。蜂須賀長門守至鎮。山内対馬守一豊。加藤左馬允家盛。有馬玄蕃頭豊氏。中川修理大夫秀成。前田主膳正茂勝なり。(浅野家の書上による)この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ。世に名けて千石夫とよべり。又此時より市街の名みな役夫の國名を課せて名付しとぞ。」又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拝謁して。舊主直勝磯山に城築かんと請置しかど。磯山はしかるべしとも思はれず。澤山城より西南彦根村の金亀山は。湖水を帯て其要害磯山に勝るべしと命ぜられし上。今の直勝は多病なれば。汝主にかはりて其城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは。直勝多病なりといへども。其弟辨之助直孝とて今年十四歳なるが。父直政が器量によく似て雄略すぐれて見え候。此者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに。何のおそれか候はんと申ければ。その直孝召つれ来れと仰あり。守勝かしこみ悦ぶ事斜ならず。速にともなひ見参せしめしに。其面ざし父に似たり。いかさまものの用に立べきものぞ。直に江戸へまかりて中納言殿によく仕へよとの仰を蒙る。」又牧野傅蔵成里入道一楽ははじめ豊臣関白秀次につかへ。関白事ありて後石田三成に属し。関原の戦に石田が味方にて備しが。石田方大敗に及び家兵十餘人ばかり引具し。大敵の中を切抜て池田輝政が備に来りしかば。輝政これを播州にともなひ帰り撫育なしをき。この程輝政御夜話に侍しける時この事聞え上しに。その傅蔵は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戸に奉仕せしむため。酒井雅楽頭忠世にともなひ江戸へ参るべしと命じたれば。傅蔵も同じく江戸へまからせ仕ふまつらしめよと仰らる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に。又先に御勘気蒙りたる近藤平右衛門秀用恩免の事聞え上しに。これもゆへなく御ゆるしあり。一楽は此後還俗して傅蔵と改む。」又松浦式部卿法印鎮信は壱岐隆信とて時に十一歳なるをともなひ。都にまかり初見の禮をとらしむ。鎮信が子肥前守久信は父に先立てうせければ。鎮信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。」又大納言殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江國久野の所領をうつされし松下石見守重綱。暇賜はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野三郎左衛門安宗入道宗庵に賜はり。下総の所領千石を合せ。舊領共に八千五百石になされ入城す。」森右近大夫忠政この六日信濃國より美作國に転封せられたるをもて。信濃國川中島。松城。飯山。長沼。牧の島。稲荷山。五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。」又第十の御子長福丸のかた今年二歳にならせ給ふ。諏訪部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覚書。寛永系図。寛政重脩譜。家忠日記)○三月三日伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍従雅宣。勧修寺宰相光豊卿等参賀あり。この日水野孫助信光死して其子孫助信秀つぐ。(勧修寺記。寛永系図)○五日尾崎中務某死して其子勘兵衛成吉つぐ。」鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ参謁しければ。帰路諸驛の御朱印を下さる。(寛永系図。八幡古文書)○六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁す。(舜舊記)○十日中根喜藏正次小姓組に入番す。(寛政重修譜)○十一日永井右近大夫直勝を勧修寺宰相光豊卿のもとに御使して。御直慮の事を議せらる。よて叡聞に達する所。直廬は内廷に設るをもて規模とする事なれば。長橋の局をもて御直廬に定らるべしとの内旨を。光豊卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく参りて両卿よりつたふ。(勧修寺記。貞享書上)○廿一日伏見城より御入洛ありて。二條の新御所に入らせ給ふ。(去年聚落の御館を二條に引うつさる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり)傅奏其外月卿雲客これを迎へまいらすとて。大佛堂西門邊まで出て拝謁す。廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿に御懇詞を加へらる。」この日森右近大夫忠政就封す。忠政は封地美作國鶴山に城築く事こふまゝに許されしかば。やがて新築して後に名を津山と改む。(舜舊記。勧修寺記。作州記)○廿三日小出遠江守秀家卒す。其弟五郎助三尹を世継として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて。母は豊臣太閤の外叔母なれば。豊臣家にはよきぬなからひなり。はやくかの家に仕へ。従五位下に叙し遠江守と稱し庇蔭料千石を授けらる。慶長五年上杉御征伐の時父秀政は老病に臥ければ。秀家に従兵三百人を加へて御供に侍はしめ。下野國小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。先これを誅せらるべしとて大旆をかへされたるに秀家も御供す。関原凱旋の後秀家最初より御味方にまいりし功を賞せられ。千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に應じ。丹後國田邊の寄手に加はりしかども。秀家が軍忠によりて父兄皆御ゆるしを蒙り。秀家けふ三十七歳にて卒しぬ。(秀家が世つぎ三尹が時。姪大和守吉英が所領を分て一萬石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべて萬石以下の輩には傅をたてずといへども。秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ。こゝにその来歴を詳にせざることを得ず)」此日神龍院梵舜二條御所に出て御気色を伺ふ。(寛政重修譜。舊舜記)○廿四日黒田甲斐守長政江戸より上洛し。二條の御所へまうのぼり拝謁す。○廿五日将軍宣下御拝賀として御参内あり。其行列。一番は雑色十二人。切子棒鉄棒を持て御成を唱ふ。此十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。(これは御進献の品なり)下部これをもつ。公人朝夕十人左右に別れ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀持一人。朧(正しくは有扁に龍)二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭緤(正しくは革扁)をもつ。朧二人。笠持一人。長刀持一人。四番隋身。左山上彌四郎政次。島田清左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四郎正盛。渡邊半蔵重綱。鵜殿善六郎重長。横田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帯剣。弓箭をもつ。朧二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸太夫。風折直垂。太刀小刀を帯す。(これは帯刀のつとめにあたる)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狭守近次。戸田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。内藤出雲守某。七番御車。(糸毛なり)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀をさし。馬上に御剣をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。朧二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成瀬小吉正成。安藤彦兵衛直次。榊原甚五兵衛某。阿部左馬助忠吉。豊島主膳信満。林藤四郎吉忠。高木善三郎守次。朝比奈彌太郎泰重。石川半三郎某。都築彌左衛門為政。右は米津清右衛門正勝。中山左助信吉。柴田左近某。横田甚右衛門尹松。日下部五郎八宗好。長谷川久五郎某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊蔵忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九郎左衛門某。八番騎馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛騨守忠政。松平玄蕃頭家清。本多豊後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帯し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。朧二人。引敷持一人。九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相忠興。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人従ふ。遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直次は路次行列の事を沙汰す。禁廷唐門に公卿出迎られ。昵近衆は直に従ひて長橋にいらせらる。御降車の時勧修寺右大弁宰相光豊卿御簾をかゝげ。四條左少将基宥御剣をとり。長橋の局もて御直廬代とせらるれば。こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拝賀あり。主上も殊に龍顔うるはしく。本朝百有餘年の兵革を撥正し。四海大平の基を開く事。ひとへに将軍の武徳によると詔あり。天盃たまはらせ給ひ。舞踏拝謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は。主上へ銀千枚。并に新大典侍の局へ三十枚。権典侍に三十枚。長橋局に五十枚。すけの局。大乳人へ三十枚づゝ。新内侍の局へ廿枚。伊よの局へ十枚。おこや。おまみの局へ五枚づゝ。末の女房五人十五枚。女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。師の局。お乳の人。やゝのおかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。此時池田三左衛門輝政。福嶋左衛門大夫正則は少将に陞り。加藤主計頭清正。黒田甲斐守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎮。山内対馬守一豊。井伊右近大夫直勝ともに従四位下に叙し。清正は肥後守。長政は筑前守。一豊は土佐守。忠氏は出雲守と改む。従五位下に叙する者十七人。板倉四郎右衛門勝重は伊賀守。松平次郎右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狭守。三好久三郎可正は越後守。三好助三郎長直は備中守。佐々木藤九郎高和は民部少輔。松平長四郎正綱は右衛門佐。松平文四郎重成は志摩守。近藤七郎太郎政成は信濃守。加藤孫次郎明成は式部少輔。石川宗十郎忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三郎勝政は豊前守。内藤四郎左衛門正成は右京進。松前甚五郎盛廣は若狭守。相良四郎次郎長毎は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直次は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五郎作忠泰従五位下に叙し。可澄は筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豊後守にあらたむ。(将軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年録。續通鑑。寛永系圖。西洞院記。舜舊記。武徳大成記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。気譜。藩翰譜備考。寛政重修譜)○廿六日こたび叙任せし四位五位の武家拝賀のため参内す。(将軍宣下記)○廿七日八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。九條関白兼孝公。一條前関白左大臣内基公。二條前左大臣昭實公。近衛左大臣信尹公。鷹司左大将信房卿はじめ。公卿殿上人二條の御所に参向ありて今度の宣下を賀せらる。摂家親王は上段。其以下は下段にて御対面あり。」この日江戸にて内藤修理亮清成。青山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは。御料私領の農民等。其他の代官并に領主を怨望して其地を逃去る時は。代官領主より其事を注進するとも。みだりに還住せしむべからず。逃散の年貢未進あらば。奉行所に於て隣郷の賦税をもて各算勘し。其事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへんと思ふ者は。あらかじめ其地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を。目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近郷の賦税に准じてはからふべし。年貢高下の事。農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事厳禁なり。しかりといへども人質をとられ。やむ事を得ざる時は此限りにあらず。代官并に奉行所に再三目安をさゝぐるといへども。承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もし其事を代官奉行所にうたへずしてさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては。其旨を告うたふるに及ばず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事厳禁なり。たとひ罪科ありともからめ取て奉行所に出し。上裁をへて定め行ふべしとなり。(将軍宣下記。制法留)○廿八日禁中方々の女房より。将軍宣下を賀して二條御所へまいらせものあり。(西洞院記)○二十九日諸門跡二條御所へ参賀せらる。」江戸に於て大納言殿。佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひし故とぞ。(西洞院記。慶長年録。慶長見聞書)◎是月細川幽斎法印玄旨は足利家代々に仕へければ。その身文武の才藝すぐれたるのみならず。武家の故實典禮にくはしく。當時有識のほまれ高かりしかば。永井右近大夫直勝もて。幽斎につきて武家法令典故を尋問はしめられ。今より後禮法議注を定制せらる。幽斎足利家の禮式を考て。今の世の時宜にしたがひ。家傅禮式三巻をえらびて献ず。」又曾我又左衛門尚祐といへるが。これを足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり。筆札の故実に精熟せしかば。これより先めして御内書以下の書法を定めらる。(家譜。藩翰譜。明良洪範)◎是春関西の諸大名は次第を追て江戸へ参り大納言殿に拝謁し。守家の御刀。眞長の御脇差をたまふ。時に五歳なり。」この頃江戸彌大都会となりて。諸國の人幅輳し繁昌大かたならず。四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり。歌舞妓といふ戯場を開く。貴賤めづらしく思ひ。見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ。其歌舞をもてはやす事風習となりけるに。大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人其厳格に感ぜしとぞ。(創業記。寛永系圖。當代記。慶長見聞書)○四月朔日日蝕することあり。(節蝕記)○二日醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる。(寛永系圖)○三日神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拝謁す。(舜舊記)○五日二條御所にて猿楽催さる。(舜舊記)○七日猿楽催さるゝ事五日におなじ。この時進藤権右衛門とて山科の農民。森田庄兵衛とて京の商人なり。この両人そのわざ堪能なればとて観世召具してまかり。権右衛門は脇をつとめ。庄兵衛には笛を吹せたるに。とりどり妙手なりければ。殊に御けしきにかなひてともに観世座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歳にて。こと更笛音雲井をひゞかしければ。是より子笛とて常に召れしとぞ。(舜舊記、傅記)○十日智積院に御朱印をたまふ。其文にいふ。学業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舎并に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひせば。寺中を追放つべしとなり。(武家厳制録)○十三日石野新蔵廣光死して其子新蔵廣次つぐ。廣光は長篠の戦に高名し。今は菅沼小大膳定利が家士を引具し。此年頃忍城を勤番せり。(寛政重修譜)○十四日神龍院梵舜二條城にのぼり拝謁し。三光双覧抄の事御尋問あり。(舜舊記)○十六日二條より伏見城へかへらせ給ふ。(御年譜、西洞院記)○十七日伏見城にて将軍宣下御祝の猿楽催さる。」けふ雨宮平兵衛昌茂死して其子権左衛門政勝家をつぐ。(當代記、慶長年録、寛政重修譜)○十九日諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代并に酒樽をさゝげ将軍宣下を賀し奉る。(當代記、慶長年録)○廿二日豊臣大納言秀頼卿正二位内大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿。勘修寺宰相光豊卿大坂へ参向あり。秀頼卿には此時十一歳なり。江戸よりは青山常陸介忠成を大坂につかはされ任槐を賀せらる。(西洞院記、家譜、當代記)○廿八日御妹矢田姫君逝し給ふ。こは大樹寺殿の御女にて。御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤の松平上野介康忠に嫁し給ひ。源七郎康直。源助直隆。隼人直宗。この外にも女子二所まうけ給ひ。けふ五十七歳にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくりて。三河國法蔵寺におさめられしとぞ。(或は長光又長康に作る)」この日藤澤の清浄光寺遊行伏見に参り拝謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し。(家譜、西洞院記、當代記、慶長見聞書)◎是月池田少将輝政其二子藤松に備前國たまはりしを謝して江戸に参り物多く奉る。大納言殿御感浅からず。酒井雅楽頭忠世を御使せられ。滞留の料として粮米を下され。こと更営中に召て御みづから御茶を賜ひ。辭見に及びて御刀及び虚堂墨跡。并に鳳凰麒麟と名付られたる駿馬二疋下され。帰國の時は大久保加賀守忠常。安藤対馬守重信をして箱根の関までをくらせ給ふ。其優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は帰路又伏見に参り拝謝して。藤松ことし五歳なり。成長するまでの間は兄新蔵利隆に。備前の國務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る。(寛永系圖、寛政重修譜)◎この春江戸に参観せし関左の諸大名辭見して伏見に参る。」又長崎の地は天主教の淵薮なればとて。天正十六年豊臣家の頃は。鍋島飛騨守某といへる者に所管せしめられ。文禄元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原為信入道一庵をその地の奉行に仰付られ。法印に叙せらる。これ長崎奉行の権輿とぞ聞えし。よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門。薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる、これ長崎町使役の濫觴なりとぞ。(年禄。長崎記)

(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)







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東照宮御実紀巻六

徳川実紀

東照宮御実紀巻六(全文)

慶長八年五月に始り九月に終る

五月四日小笠原越中廣朝死してその子権之丞某家つがしめらる。(寛政重修譜)○五日午刻三河國雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死するもの多し。(當代記)○七日下野國烏山城主成田新十郎重長。父左衛門長忠に先立て卒す。(断家譜)○十九日大内より廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿御使として薫袋五十進らせらる。」この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁し。神祇道并に日本記の事ども尋とはせ給ふ。(舜舊記)◎是月もとの北條の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて。督姫君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて。北條滅て後千二百石たまはりしかど。定勝年老たりとて辞退し山林に世をさけて。ことし七十五歳終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて。兼て奉仕せしめられしなり。」佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。」毛利黄門輝元入道宗瑞江戸に参り大納言殿に拝謁す。(寛永系圖、寛政重修譜)○六月二日瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ。大納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして。一時は死したる事を注進する使に逢てかへり来り。其よし聞え上しに。勇士の子孫なればこと更抜擢あるべきを。不幸にして世を早くせりとておしませたまふ。(寛永系圖、寛政重修譜)○六日武田五郎信吉君(御五男)の老臣等より藤澤の道場へ制札をたつる。其文にいふ。寺中に於て屠殺するか。竹木斬伐するか。門内にて蹴鞠相撲等すべて狼藉のふるまひするに於ては厳科に處すべしとなり。其連署の老臣は帯金刑部助君松。河方織部永養。近藤傅次郎吉久。宮崎理兵衛三楽。馬場八左衛門忠時。萬澤主税助君基といふ。(鎌倉古文書)○九日貴志兵部正成死す。其子助兵衛正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各々別に采邑賜はりしなり。正成は北條氏照が臣なりといふ。(寛政重修譜)○十一日戸澤九郎五郎政盛始て就封の暇賜はり時服を下さる。(寛政重修譜)○十五日長福丸の方伏見城にて髪置の式行はる。(紀藩古書)○十八日長谷川甚兵衛重成死して子四郎兵衛重次家をつぐ。(寛政重修譜)○廿二日吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る。(舜舊記)○廿五日大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覧にならせらる。(西洞院記)(志那は大津の湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絶ざる所といふ)(近江輿地誌)◎是月大納言殿の北方(崇源院殿の御事)御長女千姫君をともなひ御上洛あるべしとて。その御首途に先青山常陸介忠成が許へわたらせられしかば。大納言殿にも同じくならせられ。忠成にも茶入丸壺硯屏など若干もの賜はり。終日御遊ども数をつくされて帰らせ給ふ。北方。姫君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明て帰らせ給ひぬ。やがて江戸をいでたゝせ給ひ。伏見につかせ給ひて御対面あり。これは姫君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど。いちけなき姫君一人を京へのぼせ給はむを。あながちに御心もとなく思召給へば。御身のわづらはしきを忍びて。さしそひのぼらせ給ひしとぞ。(寛政重修譜、家譜、家忠日記、渓心院文)○七月三日伏見より二條へわたらせたまふ。(御年譜、西洞院記)○五日神龍院梵舜二條へまうのぼり拝謁す。(舜舊記)○六日一條前関白内基公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拝謁せられ。御宴ありて御物語数刻に及ぶ。(西洞院記)○七日観世宗雪江戸にまかりしかば。この日江城にて猿楽催さる。(當代記)○八日大坂より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城にめされ。猿楽催され饗応せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姫君御入輿の事議せらるゝためなるべし。(西洞院記)○十日神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ。(舜舊記)○十二日又おなじ。(舜舊記)○十四日大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歳。父が家つぎて直に拝謁せしめらる。(寛永系圖)○十五日二條より伏見城にかへらせたまふ(御年譜、家忠日記)○廿四日連歌師里村紹叱没す。歳は六十五。紹巴が死せしのちは。新治筑波の道にをいて海内の宗匠と仰がれ。柳営年々の御會にも必召れし所なり。(寛永系圖)○廿五日諸大夫以上の輩登営して拝謁す。」近江國膳所の城主戸田左門一西今年六十二歳なりしが。居城の櫓にのぼり顛墜して頓死せりとぞ。(重修譜は寛永系圖にしたがひ。一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば。今家譜にしたがひ。重修譜の説はとらず)其子采女正氏鐵に遺領三萬石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子。天正三年五月三河國吉田にて武田勝頼と御合戦のとき。敵将廣瀬郷左衛門と鑓を合せ。また武田左馬助信豊が陣をつき破る。長篠の戦には酒井忠次等と共に鳶巣山の要害をせめぬき。その九月には遠江國小山の圍を解てかへらせたまふ時の殿し。敵追来るを引返しつきやぶる。十二年小牧山にては。仰により丸山の御陣場を嶮点し。十八年小田原御陣には。青山虎之助定義とおなじくすゝみ戦て功あり。関東にうつらせ給ふ時。武蔵國鯨井にて五千石の采邑をたまはり。慶長五年には山道の御供して。信濃の上田城責に大納言殿御前において聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ。このとし従五位下に叙し。近江國大津の城主になされ。二萬五千石加へられ三萬石たまはり。そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年(寛永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり)大津の城は山口近くして要害の地にあらずとて。新に同國膳所崎に城くづかしめて。一西これが主たらしめられ4しなりとぞ。(西洞院記、當代記、寛政重修譜、藩翰譜)(家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書にその證なければとらず)○廿七日将軍塚鳴動すること二声。(西洞院記)○廿八日千姫君(時に七歳)この日内大臣秀頼公の大坂城に御入輿あり。伏見より御船にて大坂にいたらせたまふ。御供船数千艘引つゞく。この間十里ばかり両岸の堤上。東方は辻堅として関西の諸大名とり/\〃警衛し。西岸は加賀中納言利長卿の人数のみ戒厳専ら整備し。立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島辺を警衛す。こと更黒田甲斐守長政は弓鉄砲の者三百人づゝ出して戒厳し。堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に槌鍬もたせ出し。御船に先立て水路の厳石をうがち游滓を通じ。御船の渋滞なからしめしかば。この事後に聞召て。忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぼらせたまふ。大坂城にては大久保相模守忠隣御輿を渡し。浅野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有司。大手門より玄関までに畳をしき。其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを。片桐市正且元聞て。将軍家は専ら倹素をこのみ華麗を悪みたまへば。さる結構ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姫君に附られ執事役命ぜらる。」此頃大坂にては。今度姫君御入輿ありてはます/\将軍家より秀頼公を輔導せられ。後見聞え給に。四海いよいよ静謐たるべしといへども。将軍家の威徳年を追て盛大になり。ことに将軍の重職を宣下ありて。諸國の闕地はこと/\〃く一門譜第の人々を封ぜられ。天下の諸大名はみな妻子を江戸に出し置て其身年々参観す。これをおもふに天下は終に徳川家の天下となりぬ。さりながら故太閤数年来恩顧愛育せられ。身をも家をもおこしたる大小名。いかでその深恩を忘却し。豊臣家に対して二心をいだかば。天地神明の冥罰を蒙らざるべきと会議して。故太閤恩顧の大小名を城中に会集し。今より後秀頼公に対し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ血誓せしむ。この事は福嶋左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豊臣氏滅亡の兆とぞしられける。」此日信濃國郡代朝日寿永近路死して。其子十三郎近次家つぎ後に大番になる。(創業記、家忠日記、西洞院記、寛政重修譜、武徳偏年集成)○廿九日山城國常在光寺の事により相国寺に御朱印を下さる。その文にいふ。山城國東山常在光寺の寺地山林の替地として。朱雀西院の内にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり。(国師日記)◎是月大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませ給ふ。これを初姫君と申しまいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど。千姫君ひとり落陽にのぼせ給ふを御心もとなく思召て。つきそひのぼらせられ。御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに。月も次第にかさなれば。江戸にかへらせ給ふもいかゞなりとて。いまだ伏見にまし/\ながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は。北方の御姉君におはしければ。こたび生給ひし女御子をばまづこの尼のもとに引とり。御うぶ養よりして沙汰せられ。後にその子若狭守忠高にそはせたまひしはこの姫君なり。」このころ佐渡の国人等訟ふる旨あるにより。銀山の吏吉田佐太郎は切腹し。会沢主税は改易せられ。中川市右衛門忠重。鳥居九郎左衛門某。板倉隼人某。佐渡國中を検視せしめらる。(家忠日記、渓心院文、佐渡國記)○八月朔日たのもも御祝として。大内へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名もうのぼり当日を賀し奉る。」石見國の土人安原傅兵衛おがみ奉る事をゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鉱を捜得て大久保石見守長安にうたへしかば。長安是をゆるして掘らしむるに。年々に三千六百貫。あるは千貫二千貫を掘出て上納せしかば。長安大によろこび其事聞えあげしにより。けふ召て見えしめらる。傅兵衛は一間四面の洲濱に銀性の石を。蓬莱のかたちに積あげ車にて引てささぐ。ことに御感ありて参謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて称歎せざるものなし。(御湯殿上日記、銀山記)(世につたふる所傅兵衛(一に田兵衛に作る)備中早島の産なりしが。年頃銀山を捜索しけれど尋得ざりしかば。おもひくして同国清水寺の観音に参籠して祈請丹誠を凝しける。七日にみつる夜不思議の霊夢を蒙り。鏈を授らるゝとみて立かへり。其後銀山を求得て。其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ。公の御ゆるしを蒙りて掘はじめしに。銀の出ることおびたゞしく。年々公にみつぎすること若干なり。故に此年頃石州の銀山に諸国の者あつまり来り。山中の繁昌大方ならず。京堺にもおとらぬ都会となり。傅兵衛が家は甚富をなし。召つかふ家僕千餘人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覧にそなへ御感を蒙りしをもて。今も石見の國より大坂城の府庫に納る税銀は。車をもて引事を佳例に傅へたりとぞ)(銀山記)○二日大内より御たのむの御返しとて物進らせらる。」この日三河国寶飯郡豊川村辨財天祠の別当三明寺に御朱印をたまふ。其文にいふ。三河国寶飯郡馬場村のうち二十石。先例にまかせて寄附せらるれば。神供祭礼等怠慢すべからずとなり。(御湯殿上日記、可睡斎書上)○三日小堀新助正次御使として。石見の安原傅兵衛が積年銀鉱のことに心用ひしを褒せられて。備中と名のらしむべきよし大久保石見守長安に仰下さる。(銀山記)○五日遠山民部少輔利景に美濃国志那土岐両郡に於て六千五百三十一石六斗餘の采邑をたまはる。」安原備中改称を謝し奉り伏見へもうのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落涙におよぶ。(貞享書上、銀山記)○十日伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君と名付らる。後に水戸中納言頼房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。此局は安房の里見が家の老にて。上総の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環斎が女なりしを。入道勝浦の城を退去する時に。小田原の北條が被官蔭山長門守氏廣にあたへたりしかば。氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これよりさき長福丸のかたを設け。又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後には勝の局御母代にて養ひまいらせき。勝の局は後に英勝院尼と聞えしなり。」この日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。(家忠日記、以貴小傅、舜舊記)○十一日堀田若狭守一継より千姫君婚礼を賀し進らせければ。大納言殿より一継に御書をたまふ。(古文書)○十四日下総国関宿城主松平因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。此康元は久松佐渡守俊勝が二子にて。はじめ三郎太郎と称す。母は伝通院殿なり。永禄三年五月十八日(重修譜は寛永系図により三月につくる。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ)久松が尾張国智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ。御母君に御対面ありしとき。御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見参せしめられしかば。御座近くめして。我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて。三郎太郎。源三郎。長福三人みな松平の御家号をゆるされ。三郎太郎御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年三河国西郡の城を父俊勝にたまはりしかど。俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば。康元西郡の城をあづかる。元亀三年三方が原の役には。其身苦戦し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年甲斐国に御進発の時従ひ奉りて駿河国沼津の城を守り。又尾張国床奈部の城を攻落し。長久手の役には床奈部の城代をつとめ。十八年小田原の軍にも従ひたてまつり。北條亡びて後其城を警衛し。仰をうけて北條が累代の家人武功の者を捜索しいぇ家臣とす。是年下総国関宿の城主になされ二萬石をたまふ。十九年陸奥国九戸の役に。騎士百五十歩卒一千餘人をひきゐて。下野国小山にいたりしかば。その多勢を御感ありて。かへらせたまひし後二萬石を加へて四萬石になされ。是年叙爵して因幡守と称す。慶長五年関原の役にはとゞまりて江戸城を警衛し。七年伝通院殿の御ためにとて関宿の地に仏宇をいとなみて光岳と号す。ことしけふ五十二歳にて卒せしなり。」又御弟三郎五郎家元卒せらる。これは大樹寺御湯殿女房の腹にまうけ給へる御子なりしが。十三歳の時より足なへて行歩かなはせられず。外殿にも出まさずして。けふ卒せらる。五十六歳なりし。法号を正元院といへりとぞ。(寛永系図、寛政重修譜、大樹寺記、薨日記)(此人の葬地も詳ならず。又法号も康元と同じく見ゆ。疑なきにあらず)○十八日三河国大濱の長田八右衛門白吉死す。寿八十四。其子喜六郎忠勝はこれよりさき別に采邑をたまふ。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが。天正十年六月和泉国堺に御座ありし時。明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢国白子に着御あり。白吉が大濱の宅におゐて饗し奉りしとぞ。」この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。(貞享書上、寛政重修譜、舜舊記)○廿日三河国額田郡妙心寺寶飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石。天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石餘。東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄瀬間村にて七石五斗。遠江国長上郡神立神明に蒲郷にて三百六十石。豊田郡八幡宮に中泉村にて十七石。敷智郡応賀寺に中郷にて三十八石。清源院に中郷にて十七石。各社領寺領を寄附したまふ。(寛文御朱印帳)○廿一日遠江国府八幡宮に同国豊田郡にて社領二百五十石をよせられ。御朱印をたまふ。(寛政重修譜)○廿二日三河国碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(寛文御朱印帳)○廿四日美濃衆高木権右衛門貞利死して。その子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇蔭料三百石をあはせて二千三百石餘になる。(寛政重修譜)○廿六日三河国額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石。寶飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石。革井寺に牛窪郷中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。厚み郡常光寺に堀切郷にて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印を賜ふ。(寛文御朱印帳)(世につたふる所。西明寺はもと最明寺と書たり。この日住僧御前にめして。最明寺は。ことさらの霊跡といひ。鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば。寺領境内悉く寄附したまふべし。其上に汝が寺の本尊弥陀仏は。こと更その由緒をもしろしめしたれば。この後西明に改むべしと面命ありて。御印書にも西明としるし下されたりといへり)(寺傅)○廿七日島津少将忠恒薩摩国より。宇喜多前中納言秀家。其子八郎秀親に。桂太郎兵衛并に正興寺文之といへる僧をそへ。大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば。大辟に処せらるべしといへども。忠恒があながちに愁訴するのみならず。其妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて。其罪を減じ遠流に定められ。先駿河国に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は関原にて大敗せしかば。伊吹山に逃入しかども。従卒みな逃失てせんかたなく。やう/\と饑喝を忍び薩摩国へ落くだり。島津をたのみ露の命をかけとめたり。其時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば。秀家が踪跡を尋させられしに。正次答けるは。秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど。其後は主従別れ/\にかくれ忍びて行衛をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ。其隠る所を申さぬに疑なしとて。かへりて其忠志を感ぜられ。金十枚を賜ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘蔵せし鳥飼国次の脇差いかがなりけむかと御尋ありしに。正次関原の辺にて捜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより。本多上野介正純。徳山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに。正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置し事。五十日にあまれりといふ。先に正次は三日附添たりと申。其詞符合せずといへども。その主を思ふ事厚きが故に。己が美を揚ずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ。(創業記、家忠日記、貞享書上、宇喜多記、寛政重修譜)(正次がこと浮田家記。落穂集。東遷基葉。坂板卜斎覚書等の説大同小異なるがゆへ。今は寛永系図。重修譜によりて其大略を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑給はりしを慶長七年十月二日とすといへども。秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば。采邑給はりしも此後ならざる事を得ず。よて本文其年月はのぞきて書せず)○廿八日三河国加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石。碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石。引佐郡方広寺に井伊郷奥村にて四十九石餘。幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石。遠江国周知郡一宮に一宮郷にて五百九十石。社領寺領を御寄附あり。(寛文御朱印帳)○廿九日伏見より御上洛ありて知恩院へならせたまひ。御建立の事仰出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超誉住職せられし地なり。かつ當家代々の御宗門浄土宗の本山なればなるべし。(舜舊記)◎是月伊達越前守政宗江戸より暇賜はり就封し。去年新築したる仙台の城にうつる。よて鷹并金若干を賜はる。」又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乗に賜はる。しかりといへども一乗幼稚の間は。その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信。大久保相模守忠隣。青山播磨守忠成よりつたふ。(貞享書上、寛永系図)○九月朔日神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ。(舜舊記)○二日山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河国久能山に下らしむ。彌死罪を減ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る。(貞享書上)○三日豊後国臼杵城主稲葉右京亮貞通卒しければ。長子彦六典通に遺領五萬六千石をつがしむ。この貞通は故伊予守良通入道一鐵が子にて。父と共に織田家につかへしば/\〃軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豊臣家に属し。太閤の軍にしたがひ又戦功少からす。天正十五年の冬従五位下侍従に叙任し。美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後。慶長五年の秋大坂の奉行等が催促に隋ひ。我身は犬山の城を守りしが関東に通じ。東軍尾張国にいたると聞て。井伊直政。本多忠勝がもとに使立て御味方に参るべきよし申す。八月廿日かくともしらで遠藤。金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て。子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり。遠藤が陣を散々に打やぶり。其後貞通かねて関東の御味方に参りたり。されども猶合戦の勝負を決せられんとにやといはせければ。金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。此よし聞えければ。貞通既に御味方に参るといへども。をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり。さりながら郡上の城は遠藤が累代伝領の地なれば。下し給ふべきよし已に仰下されしにより。貞通には別に所領たまはるべきとて。十二月今の城たまはり。所領の地加へて五萬六千石を領し。この日京の妙心寺中智勝院にありてうせぬ。歳は五十八とぞ。」この日また松平長四郎正永初見す。(寛政重修譜、家譜)○六日吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は。足利左馬頭義氏が二男左馬頭義継。三河国吉良の庄を領せしより吉良と号す。その十一代の孫左兵衛佐成高武蔵国世田谷村に住し。これより世田谷の吉良と号す。成高が子左兵衛督頼康。其妻は北條左京大夫氏綱が女也。その子氏朝に至るまで北條に従がひてありしが。北條亡びてのち上総国生実に逃る。関東やがて當家の御領となりければ。天正十八年八月朔日江戸へうつらせ給ひし時。氏朝江戸に参りはじめて見参す。その子源六郎頼久に上総国長柄郡寺崎村にて千百二十石餘の采邑を賜はりしかば。氏朝は入道して世田谷に閑居し。年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ。(寛政重修譜)○九日伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢両宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは応仁このかた四方兵か革の中なりしゆへ。伊勢両宮荒廃きはまる事百年に過たり。天正十三年十月慶光院の開基清順尼。豊臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて。この時もかく令せられしなるべし。(武家厳制録、続通鑑)○十一日武田五郎信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ満千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局。後には下山の方と称す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ。天正十八年下総の小金にて三萬石給はり。文禄元年同国佐倉の城主になされ四萬石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば。つねに引こもりおはしけるが。慶長七年十一月常陸国水戸に転封せられ十五萬石賜ひ。けふ廿一にてうせ給ふ。浄鑑院と法号して水戸城内の心光寺に納めらる。(延宝七年九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地にひきうつされ。向山に於て浄鑑院をいとなみ香火院とせらる)世つぎなければ封地は収公せらる。よて伏見江戸に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゝふ。」又三河国額田郡龍海院に御朱印を給ふ。其文にいふ。三河国額田郡妙大寺村の内。寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで。南は下宮吉池の辻まで。東は六所の谷境。北は門前一の橋限り。先規の如く寄附せられ。竹木諸役免許せらる。仏事勤行懈怠あるべからずとなり、」又同国渥美郡興福寺にも。吉田郷のうち二十石の御朱印を下さる。(此龍海院は清康君御夢を卜したる圓夢が寺にて。世にいはゆる是の字寺といふ是なり)」此日長田金平白勝はじめて奉仕す。(御年譜、家忠日記、藩翰譜、慶長年録、寺伝、寛永系図)○十六日大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ。(寛政重修譜)○十九日遠江国敷智郡普済寺に浜松寺島村にて七十石。大通院に浜松庄院内門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田郷にて三十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗餘。浜名郡金剛寺に中郷にて五十石。蔵法寺に白須賀村にて十三石。豊田郡宝珠寺に岡田郷にて三十二石九斗餘。幡豆郡法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ。(可睡斎書上)○廿一日遠江国榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる。(可睡斎書上)○廿三日安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く。(寛永系図)○廿五日三河国宝飯郡上善寺に牛窪村にて廿石。遠江国豊田郡光明寺に二俣山東村一圓。佐野郡最福寺に原谷村にて廿五石餘。青林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十二石。永源寺に名和村にて十二石。仙名郡海江寺に掘越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に苫野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豊田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲斎に野辺村にて十五石。玖延寺に二俣郷珂蔵村にて二十石。増参寺に向坂村にて十三石。学圓寺大宝寺に高岡惣領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野辺村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(寛文御朱印帳)(世に伝ふる所は。天正四年光明山に御在陣の時。光明寺虚空蔵菩薩に御祈願をこめられしは。もし思召まゝに天下を平均し。萬民水火の苦を救はせ給ひなば。当村一圓に此寺に寄附し給ふべしとて。又其時の住持高継にも其よし御物語あり。天下平均せば此旨うたへ出よと仰下されしとぞ。よて高継この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば。御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の地なりしかば。今度御朱印を下されしに。定善を上善としるし賜はりしかば。此後上善寺と改めしとぞ)(貞享書上、牛窪記)」此日後藤長八郎忠直死して子清三郎吉勝つぐ。(寛政重修譜)○晦日島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり。(貞享書上)◎是月一尾小兵衛通春はじめて拝謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎮入道宗麟が女なり。通春久我を称せしがこれより一尾と改む。」又武田五郎信吉君に仕へたる松平加賀右衛門康次。成瀬吉平久次召返されて再び御家人に列し。康次は目付になる。」又江戸芝浦内藤六衛門忠政が宅地を転じて。其地の高邱に愛宕権現の祠を構造せしめ。石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月泉の堺浦より閑道をへて三河に帰らせ給ふとて。大和路より宇治信楽にいたらせ給ひ。土豪多羅尾四郎右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。其時光俊が家に伝へし愛宕権現の本地仏将軍地蔵の霊像を献ず。こは鎌倉右大将家護身の本尊にて我家につたへたり。いつも戦場にもたらして尊信するに。危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御帰路守護のためこの霊像を献じ進らすべしと申ければ。其志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に来れば。この像奉祀のために此僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。其後年頃神證をして奉祀せしめられしに。今度其祠を造営せられ。神證が居所をも作らしめられ。遍照院といふ。今の圓福寺是なり。(寛永系図、寛政重修譜、多羅尾家譜、林鍾談)◎是秋大河内善兵衛政綱帰り参り再び御家人となる。慶長四年末子平次郎政信が縁者大久保庄右衛門某を切害し。信濃国へ逃去しをもて。政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去してありけるに。伏見より御免を蒙り今度帰参せしとぞ。」又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次。伏見にて初見の礼をとり。左国弘の御脇差を賜ふ。時に三歳なり。」五島淡路守玄雅が子孫次郎盛利。花房志摩守正成が子彌左衛門幸次。根来右京進盛重が子小左次盛正。杉原勝左衛門政行が養子善衛門勝政はじめて奉仕す。(時に十四歳)この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより。奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持参る良刀と引かへ盗去る事度々なりしを。中山雅楽助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしかば。御感ありて金二枚褒賜せらる。(寛政重修譜、寛永系図、貞享書上)

巻七

東照宮御実紀巻七(全文)

青字は『逆風の太刀』で描かれた米子藩「飯山城最後」関連の記述。 

慶長八年十月に始り十二月に終る

十月朔日鎌倉鶴岡八幡上宮造替あるにより遷座あり。造替の奉行は彦坂小刑部元正これをつとむ。」この日日蝕す。(御造営記、節季蝕記)○二日河村與惣右衛門某。木村惣右衛門勝正に淀川過書船支配の御朱印を下さる。其文にいふ。大坂伝法尼崎山城伏見上下する所の過書船。公役として年中銀二百枚課せしむべし。官用の船は例のごとく。川筋折々船番すべし。武家船は課銀をとるべからず。商物を積載するに於ては厳に査検を加ふべし。木材の如きは直に武家の邸内へ収めしむべし。木材商へ渡さしむべからず。二十石積の船課は銀五百貫目納むべし。船に大小ありといへども課銀は二十石積に准じて収むべし。鹽蔵の魚物課税も上に同じ。下り船の米は二割をとり収むべし。新過書三十一人船一艘づゝのすべし。かく定めらるゝ後。船持商人に対して非義を申かくるに於ては。厳に命ぜらるべしとなり。(家譜、木村伝記)○三日山岡道阿弥景友が邸へならせ給ふ。景友子なきがゆへに。兄美作守景隆が子主計頭景以が嫡子新太郎景本とて。今年八歳なるをともなひ出て。初見の礼をとらしめ養子とせん事を聞えあぐる。よて景本に吉光の御脇差を給ふ。此御脇差は甲斐の武田が累世の秘蔵とせし物なりとぞ。又景友に伏見成山寺のニ王門并に多宝塔を下され。三井寺に寄進せしめられしとぞ。(寛永系図、家忠日記、続武家閑談)○四日神龍院梵舜伏見にまいり木練の柿を献ず。伊勢両宮并に大嘗会の事を御垂問あり。」此日渋谷文右衛門重次を長福丸の方へつけらる。(舜舊記、家譜)○五日安南国より書簡并に方物を参らせて。去年方物を献ぜしとき。御答礼として甲冑以下の器械をつかはされしを謝し奉る。よて金地院崇伝に御返簡を製せしめられ。御答礼として長刀十柄をゝくらせ給ふ。(異国日記)○九日津軽右京大夫為信伏見にのぼり拝謁して御気色伺ひ奉る。」此日尾崎勘兵衛成吉伏見城の守衛にありて死しければ。其子勘兵衛正友家つがしめらる。」又相模国馬入の渡より大磯平塚の間氷降る。其大さ日輪の如し。隣国にはすべてこの事なし。(西洞院記、当代記、寛政重修譜)○十五日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見にまうのぼり拝謁し。兼見卿は綾衣。梵舜は筆を献ず。(舜旧記)○十六日右大臣の御辞表を捧げ給ふ。(公卿補任)○十八日伏見城を御首途ありて江戸に還らせたまふ。五郎太丸とて今年五歳なるをともなはせ給ふ。かねては永原までわたらせ給はんとの御事なりしが。長福丸とて二歳になり給ふ御子。あながちに御跡をしたはせ給へば。これもふりすて給ひがたく。にはかに其用意つくらせ給ひしかば。時うつりてこよひは膳所にやどらせ給ふ。」今朝島津右馬頭以久初見し。日向国佐土原城三萬石を給ふ。龍伯入道并に少将忠恒が請奉るによれり。」又大番三浦庄右衛門直次に采邑二百石下さる。」粟屋市右衛門吉秋死して子市右衛門忠時つぐ。(創業記、西洞院記、寛政重修譜、寛永系図)○十九日亀山にやどらせ給ふ。○廿日名古屋にやどり給ふ。」この日土屋市之丞勝正。岡野平兵衛房恒の二人仰を蒙りて近江国を巡視す。(寛政重修譜)○廿一日岡崎につかせ給ふ。○廿二日吉田。○廿三日浜松城にとませられ給ふ時。松平左馬允忠頼に吉光の御脇差をくださる。(寛永系図)○廿四日中泉につかせらる。○廿五日懸川にやどらせ給ふ。」この日立花左近将監宗茂江戸高田の宝祥寺(一説に浅草寺中日恩院といふ)に閑居せるをめして。陸奥国棚倉にて一萬石を賜ふ。宗茂は庚子の乱に大坂の催促に隋ひ。軍勢を引具し伏見の城をせめやぶり。勢田の橋を責落しけるが。関原の味方敗績すと聞て本国に引返しをのが城に楯こもり。鍋島が軍勢押寄ると聞て。家人等を出し散々に防ぎ戦ふ。かゝる所に黒田如水入道。加藤肥後守清正馳来て双方をなだめしかば。宗茂は居城を清正に渡しけり。如水。清正等こと更に歎き申ければ。其罪をなだめられ。領国をば悉く収公せられき。宗茂はこの後清正に養はれ。肥後国高瀬といふ所に閑居しける間。清正が奔走大方ならず。翌年の春にいたり。宗茂暇ある身なれば。此ほど都近き辺の名所古跡をも遊覧せまほしと請しに。清正もことはりと聞て。又旅の用意をもねもごろにあつかひて都へのぼせたり。宗茂は都をはじめ南都和泉の堺までも心しづかに一覧し。三年がほど山水の間に優遊しけるが。しきりに江戸のかたゆかしく覚えければ。江戸の方にまかり。戸塚の駅より本多佐渡守正信に消息してことのよし告たりしかば。正信まづ高田の宝祥寺まで来るべしといふ。宗茂其詞にしたがひかの寺に着て旅のつかれをやすめける。大納言殿もとより宗茂が勇有て義を守る志をふるて其よし聞たれば。正信より土井大炊頭利勝もて伏見に恩に浴せしえあげしめられ。忽に御ゆるしありてかく新恩に浴せしとぞ。(寛政重修譜、藩翰譜、久米川覚書)(一説に大納言殿よりは三萬石賜はり。書院番頭を命ぜらるべきにやと伺はせ給ひしに。宗茂は老練の宿将なれば。所領は少しとも。いづ方にてもさるべき所を撰み城を授けよと。伏見より御下知ありけるといへり。寛永系図に。宗茂居城を清正にわたし速に江戸に至り。其翌年奥州にてニ萬五千五百石給はりしとあるは大なる誤なり。)又国恩録に。慶長十一年正月二日とするも誤なり)」又松平隼人佐由重三河国松平郷にありて卒す。寿八十一。こは永禄三年七月廿五日三河国刈屋の軍に深手負て。世のつとめかなひがたく。旧領の地に年頃籠居してけふ終をとりたるなり。その子太郎左衛門尚栄は庚子の乱後江戸に参り奉仕し。慶長十八年にいたり旧領松平郷を賜はりて采邑二百五十石になる。(寛政重修譜)○廿六日田中にとまらせ給ふ。」加藤太郎左衛門成之死して子源太郎良勝つぐ。この成之もはじめ源太郎と称し織田家につかへ。後に當家にめし出されつねに近侍し。庚子の役に毎度御先手に御使し。思召のまゝにことはからひて御感にあづかりしが。今年伏見にあり。五十二歳にて死せしなり。其子良勝わづかに十歳なりしかば。去年たまはりし加恩五百石は収公せらる。○廿八日駿府。○廿九日三島。○晦日小田原。◎是月柬埔寨国王より書簡並に獅角八。鹿皮三百枚。孔雀一隻をまいらせ。其国叛人を征討する事あるをもて戎器を請ふ。よて金地院崇伝をして其御返簡をつくらしめ。其請にまかせて太刀廿把を贈らせられ。本邦の刀鋭利他国に比倫なし。もし懇望するに於ては望にまかせらるべしと仰つかはさる。」又菅谷左衛門大夫範政。上総のうちにてたまはりし采邑千石に加へて。旧領常陸の筑波郡にて五千石を給ふ。この範政は代々常陸小田城主小田讃岐守氏治入道天庵につかへ。天庵太田三楽のために小田の城を奪はれし時。範政別に喜多餘の城を居らしめしに。梶原美濃守景国又その城を攻落す。範政三日が間にその城を攻て。梶原を追落し其城をとりかへす。小田原北条亡びて後同国高津村に蟄居せしを。範政年ごろ其主のために忠功を立し事を聞召。文禄元年當家に召て采邑給はりしに。今度御前にめしいでゝ先の軍功を御直に聞召。其軍略を御感ありてかく加恩せられしとぞ。」又松平與右衛門清政死す。その子右近清次つぐ。」又宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣江戸へ参観せらる。この時秀康卿は越前より出られて中山道にかゝり。上野国碓氷峠を越えらるゝとて横川の関を過らるゝ時。関の番人等卿の供人の中に鉄砲を備へられたるを見咎めてこれをさゝへたり。卿聞給ひ従者をして。これは番人等が秀康なる事をしらずして遮るなるべし。秀康なればくるしからぬほどに。そこ開て通すべしといはせられけるに。番人共聞て。たとひ秀康卿にもあれ何人にもあれ。公より鉄砲査検すべしとて置れたる関を通すべきにあらずと罵りければ。卿大に怒り給ひ。天下の関所に於て秀康に無礼ふるまふは天下を軽蔑するものなり。其まゝに捨置べからず。悉く打殺せとありければ。番人ども肝を消し早々逃走て江戸にまいりこのよし訴へしに大納言殿聞召。(諸書これを烈祖とす。しかれども此時烈祖は御道中なれば。江戸にうたへしを聞召たるは台徳公なり。今は大三河志に従て台徳公とす)番人ども秀康卿を抑留せんとせしは人をしらざるなり。卿にうち殺されず死を免れしは番人共の大幸といふべしとて笑はせ給ひ。別に仰せ出さるゝ事もなし。(これ台徳公友愛の情あつく。殊さら秀康卿御庶兄の事ゆへ。最御優待他に殊なる一端なるべし。さりながらその時勢今を以て論ずべからず。世に越前の家は制外なりといふはこの時よりの事とす)」又浅野紀伊守幸長。加藤肥後守清正も参観す。幸長が女を五郎太丸のかたに御配偶あるべし。清正が女を長福丸の方に御婚儀むすばれん事を約し下されしも此頃の事とぞ聞えける。(異国日記、寛政重修譜、寛永系図、御年譜、逢古城記、清正記)(世に伝ふる所。清正が江戸の宅地は外桜田弁慶堀今井伊が邸の地なり。外門前にかしの木を植ならべし故かしの木坂とよべるといへり)(事跡合考)」また毛利黄門輝元入道宗瑞は伏見より暇給はり帰国し。この後は周防国山口に菟裘の地いとなみうつりすみしとぞ。(寛政重修譜)○十一月朔日藤澤にやどらせ給ふ。○二日神奈川につかせらる。○三日江戸城に還御なり。(この還御を続通鑑。武徳編年には冬とのみあり。日記摘要には十二月とす。十二月とするは誤なり。今十月十八日伏見御首途より日を推してみるに。今日還御ならざることを得ず。よりて推考してこゝにしるす)○五日目付松平加賀右衛門康次三河にて四百六十石余をたまふ。(寛政重修譜)○七日大納言右近衛大将をかけたまひ右馬寮御監を兼給ふ。」この日長福丸の方を常陸国水戸の城主になされ廿萬石に封ぜらる。(御年譜、武家補任、創業記)(翌年五萬石加へられ廿五萬石にせられしなり)○九日烏丸左中弁光廣江戸にまいるとて洛を発す。(創業記)(本月七日台徳院殿右大将御兼任ありしゆへ。其宣旨持参せしなるべしといへども。是を受給ひし事諸書に見えず。今しばらく光廣参向をしるして後の證とす)(西洞院記)○十一日松平久助忠直死す。こは長澤の松平兵庫頭一宗が次男次郎兵衛親昌が孫にて上野介康忠が聟なり。(この事妙心寺記。長澤系図。武徳編年にのみ見えて定かならず)」松平隠岐守定勝長子遠江守定友遠江国懸川城に於て卒す。年十九。(妙心寺記、寛政重修譜)○十六日安房国館山城主里見左馬頭義康卒しければ。その子梅鶴丸(忠義)に遺領十二萬二千石を襲しめらる。この義康其先は義家朝臣の三男足利式部大輔義国の嫡男新田大炊助義重の二男里見太郎義俊が十代刑部少輔氏朝と共に。鎌倉管領左馬頭持氏の子春王丸。安王丸を下野国結城の館に迎へ取りて。上方の勢と戦はんとせしに。其城落て家基も討れしかば。義実家人を具し小舟に取のり安房国に落行しが。後に国人共を討平げ白浜の城を構へ住し。其子刑部少輔成義が時上総国をも討したがへ。これより上総安房両国を合せ領せり。成義が子上総介義通うせし時其子太郎義豊わづかに五歳なりしかば。弟左衛門督実堯に国をゆづる。義豊成人に及びても実尭これをかへさず。よて義豊怒て叔父実尭を稲村の城にて討とりぬ。実尭が子安房守義尭また軍起して義豊を討亡し。終に安房上総両国を押領し。生実の左馬頭義明の味方となりてしば/\小田原の北条と戦ひ。武蔵。相模。下総の地をもこゝかしこうちしたがふ。其子左馬頭義弘の子安房守義頼はこの義康が父なり。父につぎ岡本の城にありて。是も北条と国をあらそひ戦てやまず。天正十八年豊臣関白北条追伐に下向ありし時其味方しければ。従四位下の侍従に叙任せしめ羽柴の家号をゆるされ。後に館山に城築てうつる。庚子の乱に大旆にしたがひ奥に向はんとせしに。上方の逆徒蜂起し引かへし打てのぼらせ給へば。義康等は少将秀康朝臣の麾下に属し。上杉。佐竹等と戦はんとす。然るに関原の一戦逆徒悉く敗績して。上杉。佐竹も降人に出ければ。義康には常陸国鹿島の郡を割て三萬石下し給はる。ことし三十一歳にて卒せしなり。(里見記)(里見家記といへる書には。豊臣太閤より小田原へ参陣せしを賞せられ。上総の三浦四十余郷を賜はりしを。関原の時病と称し出陣せざりしゆへ四十余郷の地を収公せられ。わずかに鹿島の地にて三萬石たまはりしゆへ。里見の君臣臍を噛て悔恨すとあり。いづれか是なるや)○十八日松前志摩守慶廣参観す。在府の料とて月俸百口給ふ。此後永例となる。(寛政重修譜)○廿五日榊原式部大輔康政御上洛の供奉及び在京の料として。近江国野洲。栗太。蒲生三郡の内に於て五千石を給ふ。又元重の御刀及び国綱の鑓二柄を下さる。(寛政重修譜)◎是月丹羽五郎右衛門長重召出されて。常陸国古渡に於て一萬石の地を給ふ。長重は庚子の乱に加賀国松任の城にこもりて出陣せず。前田中納言利長卿近國の叛徒を討平げんがため出軍して。長重にも軍を出さん事をすゝむるといへども。催促に応ぜず。遂に合戦に及びしかば。関原平均の後賞罰をたゞされし時所領を没入せられしに。長重はこの後郎従両三人を伴ひ江戸に来り。品川辺に閑居して異心なきをあらはしけり。右大将殿もとより長重とは懇に御したしみありければ。しば/\長重が事ながかせ給ひしにより。かく召出されたり。又長重が弟左近長次も兄と同じく品川に閑居しけるが。これも召れて右大将殿へ初見し奉る。(寛政重修譜)(芝泉岳寺旧記に。長重兄弟が閑居したる寺田中内匠某家をかりて。従者は十三人なりしといふ)○十二月二日右大将殿河越へ放鷹のためならせらる。(当代記、慶長年録)○三日浅間山鳴動する事三四度に及ぶ。其音三河美濃両国の間に聞ゆといふ。○廿日山岡備前守景友入道道阿弥卒す。こは故美作守景之が四男。はじめ僧となり暹慶と称し。三井寺の光浄院に住す。天正元年二月霊陽院義昭将軍いつしか織田右府の威権を忌て。武田信玄。浅井長政等と通じてこれを討んとはかられし時。暹慶も足利家の命を奉じて石山堅田辺に要害をかまへ立こもるといへども。織田の大勢に攻られしかば城兵勢盡て城をのがれさる。これより暹慶還俗して八郎左衛門景友とあらため。織田家につかへ備前守と称しける。十年右府本能寺にて事有し時。景友膳所にて勢多の船ををしとめ。明智光秀をして渡る事を得ざらしむ。光秀ほろびて後豊臣家につかへ。入道して道阿弥と号し所々の戦場にしたがひ。恩遇を蒙り宮内卿法印になされける。太閤うせられて後。大坂の奉行等が當家を傾けまいらせんとはかりしこと度々なりしに。入道いつも無二の御味方として御館をぞ守りける。慶長五年奥の会津にむかはせ給ひしに御供し。弟源太景光入道甫庵は伏見城を守りて。上方の軍おこりし時城中にて討死せり。又下野国小山の御陣にて御供の諸将を集め軍議ありしにも。入道并に岡江雪二人をして仰をつたへしめらる。人々皆御味方して先陣うつてのぼるべきに決しければ。入道は福嶋掃部頭正頼が加勢として伊勢国長島城に立こもり。原田隠岐守胤房と戦ふ。しかるに関原の戦味方勝利して凶徒みな敗走すときゝ。入道手の者引具し。城を出て川船に取のり大鳥居にさしかゝる時。長束大蔵少輔正家が敗走して来るにゆきあひ。散々に打ちゝらし首百余切て又桑名城にをしよせ。氏家内膳正行廣兄弟を降参せしめ。又神戸。亀山。水口等の城を請取て大津に参りしかば。両御所入道がふるまひを感じたまふこと斜ならず。伏見にて討死せし甲賀士の子孫与力十人同心百人をあづけられ。近江国にて九千石の地をたまはり。ことしその家にわたらせ給ひし時吉光の短刀を賜はる。齢六十四にしてけふうせぬる也。姪主計頭景以が子新太郎景本を養子とすといへども。景本いまだ幼稚なれば。仰によりて景以にこれまでたまはりたる三千石は収公せらる。(寛政重修譜)(景友萬石に列せずといへども。創業の功臣なれば傅をこゝに出す)○廿三日此夜大雪。」京にては三條曇華院火災あり。(当代記)○廿八日太田原出雲守増清に百石加へられて千五百石になさる。(寛政重修譜)◎是月阿部勘左衛門宗重を右大将殿の御方に附らる。」朝倉右京進政元。弟七左衛門景吉ともに拝謁し鶴千代の方に附らる。(寛政重修譜には月日を記さず。今は当代記。年録による)」又右大将殿土方河内守雄久が外桜田の邸へならせ給ひ鞍馬を下さる。(寛政重修譜)◎是年京極宰相高次が子熊丸。(時に八歳)小笠原安芸守信元が子孫三信重。真野金右衛門重家が子惣右衛門勝重。駒井次郎左衛門昌長子長五郎昌保。大久保喜六郎忠豊三子六右衛門忠尚。角倉了以光好子與一玄之。織田家に仕へし島弥左衛門一正。(後に使番となり千五百六十石給ふ)金吾黄門に仕へし林丹波正利。武田に仕へし瀬名左衛門貞国初めて拝謁す。正利にはやがて旧領にひとしく采邑給はるべしとて先采邑二千石給ひ。貞国にも二百石給ふ。」京の外科医奈須與三重恒が子二郎四郎重貞。織田家に属せし内藤喜右衛門政長は右大将殿に初見す。」牧野成里入道一楽は仰によりて江戸に参り右大将殿に初見し。束髪して傅蔵と改め。この時めされたる長の御袴を給ひ采邑三千石給ふ。」板倉伊賀守勝重三子主水重昌。長谷川波右衛門重吉弟左兵衛藤廣。天野伊豆重次二子にて故森右衛門正景の養子たりし森右衛門重勝。武島大炊助茂幸が子七大夫茂成。黄門秀秋に仕へし矢橋嘉兵衛忠重。川勝主水正秀氏が弟太郎兵衛重氏はじめて仕へ奉り。忠重は采邑五百石。近江国矢橋村旧宅の地をも給ひ詰衆に加はる。」牧野傅蔵成里が二子五六成純。石原小市郎安長が子小大夫安正。長田喜兵衛吉正養子十大夫重政。飯塚兵部少輔綱重二子半次郎忠重(時に十二歳)。渡辺忠右衛門守綱三子忠四郎成綱。織田家に仕へし中村四郎兵衛長次。安藤三郎右衛門定正子忠五郎定武。多喜六蔵資元が子十右衛門資勝は右大将殿御方に召出され。重政は納戸番。忠重は小姓となる。長次には二百石賜ふ。」先に本多中務大輔忠勝に附属せられし都筑弥左衛門為政。彼家を去て信濃国松本に閑居してありしをめされ。是も右大将殿に附られ采位邑六千石給ひ。其子惣左衛門言成は越前家に附らる。」天正の頃故有て當家を退去したる武島大炊助茂幸三子與四郎茂貞再び御家人になされ采邑二百石下さる。」又大久保石見守長安に佐渡の奉行をかねしめられ。山口勘兵衛直友。柘植三之丞清廣。伏見城定番命ぜられ。長野内蔵助友秀伊勢の山田奉行仰付られ。長谷川左兵衛藤廣長崎奉行になり。小堀新助正次備前国の制法を沙汰せしめらる。」土方河内守雄久二子鍋雄重(時に九歳)右大将殿小姓になる。」三浦長門守為春は長福丸の方輔導の臣とせられ。封地水戸に赴く。」青山伯耆守忠俊百人組の頭となり。五千石たまはり。騎士廿五人歩卒百人をあづかる。」久永源兵衛重勝は右大将殿御方に附られ。五百五十石加恩ありて五千二百石になされ。騎士十人同心五十人をあづかり。先手弓頭となる。二千石は騎士同心の給地にたまはりしとぞ。」三井左衛門佐吉正は歩行頭となる。」千村平右衛門良重は信濃国にて一萬石。遠江の国中にて鐚銭千四十貫余の地を所管とし。榑木の事をも沙汰せしめらる。」青木與兵衛信安は甲斐国武川の本領を給はり。かの地に住居して五郎太丸の方につけらる。」其外成瀬内匠正則。津金修理亮胤久を始め武川津金の輩の子弟等廿人。并鷹師西村仁兵衛某。倉林四兵衛昌知を同じくつけらる。」大久保甚右衛門忠長が子牛之助長重は書院番に加へられ。多田八右衛門正吉が子三八郎正長。大久保三郎右衛門忠政三子三郎右衛門忠重。遠山四兵衛直吉子新次郎景綱。武田家に仕し今川平右衛門貞国は大番にいり。忠利は三百石。貞国は二百石下さる。」鳥居久五郎成次は叙爵して土佐守と称し。内藤三左衛門信成は豊前守と称し。小出萬助三尹は大隅守と称し。同助九郎吉親は信濃守と称し。池田弥右衛門重信は備後守と称す。」津金勘兵衛久清武蔵国鉢形の采邑を改めて甲斐国の旧領を賜ふ(税額詳ならず)。山寺甚左衛門信光も旧領三百九十石給ふ。みな武川津金の地なり。」米倉加左衛門満継甲斐の旧領に復し。甲府城の勤番を勤む。」大岡兵蔵忠吉は相模国にて百櫓六十石余を給ふ。」金森兵部卿法印素玄五畿内に於て放鷹の地を給ふ。」又池田備後守重成の子備後守重信。永見新右衛門勝定が子権右衛門重成。渡邊弥之助光の子弥之助勝は父死して家つぎ。勝には父の原職を命ぜられ足軽を預けられ。夏目万千代某は死して子なきゆへに采邑を収公せらる。」池田備中守長吉は伏見城の修築を奉はり。松平又八郎忠利。古田兵部少輔重勝。遠藤左馬助慶隆は近江国彦根の城新築の事を奉はり。慶隆は美濃国加納の城をも築かしめられ。吉川蔵人廣家は御許蒙りて周防国横山に城を築く。」細川越中守忠興は江戸運送廻船の事をつかうまつらしめらる。」角倉了以光好仰を蒙りて安南国に船を渡して通商す。」又有馬玄蕃頭豊氏が子生れしかば吉法師丸と名を給はり。其家司吉田掃部助に御刀を給ふ。是は御養女連姫の御方の所生なるが故なるべし。」山村甚兵衛良勝は父三郎左衛門良候の遺跡を去年つがしめられしにより。父の遺物茶壺を献ず。」又松平(中村)伯耆守忠一は封地伯耆国岡山の城にありて。家の老横田内膳村詮を誅す。忠一ことし僅に十五歳。身の行ひ強暴なりし故。内膳直諌の詞を盡せしを憤りて。饗宴に事よせ自ら是を斬る。内膳きられて其所を走り出るを。近臣近藤吉右衛門馳むかひて打とゞむ。内膳が召具したる小童これを見て。主の刀をぬいて忠一に切てかゝる。天野宗葉をしへだて。其童をば安井清次郎。道家長右衛門切てすつ。内膳が子主馬助かくと聞て。父が居城飯山にたてこもる。忠一が家人これに組するもの少からず。忠一大に怒て軍勢をさしむけ飯山の城を責かこむ。こゝに於て隣国までも騒動大かたならず。堀尾山城守忠晴。出雲隠岐の軍勢を出し忠一を助く。城中にこもる所の兵柳生五郎左衛門(但馬守宗矩が弟なり)をはじめ。一人も命いきんと思ふものなく防戦すれば寄手討るゝもの数をしらず。其後柳主をはじめ城兵も次第に討れければ。主馬助城に火をかけ主従こと/\〃く腹切て死す。此事江戸に聞えければ大に御気色損じ。忠一が寵臣安井。近藤。天野。道家四人をめして子細を尋とはせ給ふ。忠一いまだ幼弱なり。たとへひが事はかるとも。それを諌めざるのみならず。主の悪を迎合してふるまふ事以の外なりと怒らせ給ひ。安井。天野。道家三人は忽に誅せらる。(道家は先に姫君に附られし人なり)。近藤一人は助けられもとのごとく仕へしめらる。これは近藤はじめ忠一が内膳を誅する密議を聞て忠一を諌しに。忠一さらに聞入ず。さては幼弱の人のみづから大剛の兵誅せられんことを危しと思ひ。ひそかに長刀携て奥の間に忍びゐて。終に内膳を討とめしふるまひ。にげなからざればなり。」又伊丹長作重好は小栗次郎光宗を討果して逐電し。黒田筑前守長政にあづけられし石尾越後守治一は御ゆるしを蒙り。又三河国大林寺に百石の御朱印を下さる。」又白銀町の日輪寺を浅草に引うつさる。」又京中市街の市人を十人づゝ党を定められ。その党中に一人も悪行の者あらんときは。同組のもの悉く同罪たるべしと令せらる。これは京伏見この頃盗賊横行の聞えあるにより鞠治せられんがためなり。」又京の處士林又三郎信勝洛中に於て朱註の論語を講ず。聴衆雲のごとくあつまる。こゝに於て清家の博士舟橋外記秀賢等大に猜忌して。凡本朝にして経典を講説する事。勅許あらざれば縉紳の流といへども講ずべからず。まして凡下の處士かゝるふるまひ尤奇怪なり。速に其罪を糾明あるべきなりと奏しければ。禁廷よりこのことを議せられしに。御所聞召て。聖道は人倫を明らかならしむためなれば。ひろく講説せしむべきことなり。これをさまたげんとするもの尤狭隘といふべし。弥ゆるして講説せしむべしと仰らる。これより信勝はゞからず洛中に於て程朱の説を主張して経書を講読す。これ本朝にて程朱の学を講ずる濫觴なりとぞ。(貞享書上、寛永系図、寛政重修譜、家譜、佐渡記、大業廣記、蓬左記、断家譜、藩翰譜備考、慶長見聞録、落穂集、由緒書、町年寄書上、当代記、烈祖成績、東鑑)

巻八

東照宮御実紀巻八(全文)

慶長九年正月に始り六月に終る 御齢六十三

慶長九年甲辰正月元旦右大将殿新正を賀し給ひ。次に在府の諸大名諸士江戸城に登り慶賀し奉る。(御年譜、創業記、家忠日記)○二日昨夜より大雪。八日に至る。(慶長見聞書)○七日若菜を祝はせ給ふ。」この夜追儺。(慶長年録)○八日立春。○十日足利学校主僧寒松貞観政要の訓訳を献ず。御気色にかなひ酒井備後守忠利。戸田藤五郎重宗をもて寒松に時服金を給ふ。」柴田七九郎康長焼火間番頭命ぜらる。」けふより京淀川の堤修築せしめらる。板倉伊賀守勝重これを監す。大坂城よりも片桐市正且元をしてこれに莅ましむ。(慶長見聞書、当代記、慶長年録、寛永系図、舜旧記)○十三日天満茨木屋又左衛門。尼崎又左衛門に。安南国渡海通商の御朱印を下さる。(御朱印帳)○十四日京富森堤を修築せしむ。板倉伊賀守勝重これを監視す。(西洞院記)○十五日松平(蒲生)飛騨守秀行に召あづけられたる新庄駿河守直頼。其子越前守直定と共に府にめされて両御所に拝謁す。この父子庚子の乱に石田三成が催促に応じ。伊賀国上野城に立籠りたるをもて。関原御凱旋ののち。秀行に召あづけられ。陸奥の会津に閑居せしめらるゝといへども。反徒にくみせしは其本志にあらざる事。聞召とゞけらるゝによて。こたび召出され。常陸。下野の内にて所領三萬三百石給ひ。常陸国麻生に住せしめられ。此後はより/\御談判に候し。諸家へならせ給ふ時もしば/\〃めされて陪侍せしめらる。(寛永系図、家譜)○廿日具足御祝例のごとし。連歌興行又同じ。立こすや霞を松の若みどり(三益)雨そゝぐ夜のあけぼのゝ春(右大将殿)月にふく風の高こちしづまりて(紹之)(慶長見聞書)○廿五日榊原九右衛門正吉死す。其子大番組頭八兵衛正成家をつぐ。この正吉は永禄三年五月。尾張国丸根城の戦に鎗を合せしをはじめとし。廣瀬の城責。一向専修の乱。姉川長篠等の戦にいつも供奉して戦功をはげみしものなり。齢詳ならず。(寛政重修譜)○廿七日松前志摩守慶廣に蝦夷交易の制三章を授らる。其文にいふ。諸国より松前の地に出入する者。廣瀬に告ずして夷人と交易せば曲事たるべし。廣瀬に告ずしてみだりに渡海して夷人と通商する者あらば。速に府にうたへ出べし。夷人は何片に往来するとも心まかせたるべし。夷人に非義を申かくべからず。これに違犯せば厳科に所せらるべしとなり。(家譜、令條記)◎是月松平三郎四郎定綱江戸に参り拝謁す。仰により右大将殿につかへしめらる。その時本多佐渡守正信に命ぜられ。定綱その器の応じ登庸せらるべしとて。先下総国山川の地五千石たまふ。」故の武田七郎信吉君の家司萬澤主税助君基。馬場八左衛門忠時。宮崎理兵衛三楽。近藤傅次郎吉久。河方織部永養。帯金刑部助君松士籍を削らる。この輩は穴山陸奥守信君入道梅雪以来の旧臣どもなりしが。信吉君年若くおはしければ。封内賦税の事などほしゐまゝにはからひ私欲を専にせしとて。穂坂常陸介某、有泉大学某。芦澤伊賀守某。佐野兵左衛門某等うたへ出しかば。営中にめして双方対決せしめられしに。萬澤等語塞がりしかばかく命ぜられしなり。」又筒井伊賀守定次参観し新年を賀し奉る。(寛永系図、貞享書上、慶長年禄、筒井家記)○二月四日右大将殿の命として。諸国街道一里毎に侯(正しくは土扁)塚(世に一里塚といふ)を築がしめられ。街道の左右に松を植しめらる。東海中山両道は永井弥右衛門白元。本多左大夫光重。東山道は山本新五左衛門重成。米津清右衛門正勝奉行し。町年寄樽屋藤左衛門。奈良屋市右衛門も之に属してその事をつとめ。大久保石見守長安之を惣督し。其外公料は代官。私領は領主沙汰し。五月に至て成功す。(家忠日記、当代記、慶長年録、寛永系図、津軽志、町年寄由緒書、大三河志、落穂集)(世に伝ふる所は。昔より諸国の里数定制ありといへども。国々に異動多かりしが。近世織田右府領国の内に侯塚を築ぎ。三十六町を以て一里とさだむ。豊臣太閤諸国を検地せしめ。三十六町にさだめ。一里毎に侯塚をきづかしむ。此時又改て江戸日本橋を道程の始に定め。七道に侯を築かれしとぞ。其時大久保石見守に侯樹にはよい木を用ひよと仰ありしを。長安承り誤りて榎木を植しがいまにのこれりとぞ)(落穂集、武徳編年集成)○六日青山常陸介忠成。内藤修理亮清成。大久保石見守長安。長谷川七左衛門長綱。伊奈備前守忠次奉りて。長吏(非人の長なり)弾左衛門に江戸小田原の伝馬下知状を授く。其文にいふ。江戸より小田原まで。駅馬一疋を立べし。これは鹿毛皮白皮に製せしめられんためなれば。滞る事あるべからずとなり。(由緒書)○十日深夜怪音四方に鳴動する事五六度。(其音はじめはどん/\〃。後ばた/\〃とす)何の怪たるを知らず。(当代記)○十五日榊原式部大輔康政が二子伊予守忠長卒す。歳廿。兄国千代忠政は外祖大須賀五郎左衛門康高が家をつぎし故に。忠長嗣子となり御一字を給はり。叙爵て伊予守と称しけるが。けふ卒しければ。康政は三男小十郎康勝をもて嗣子と定む。(寛永系図)○十六日上杉中納言景勝北方うせぬ。これは武田晴信が女にて菊姫といひしなり。(慶長日記)○廿八日大和国布施領主桑山修理大夫一晴伏見に於て卒す。子なければ弟久八一直に遺領一萬三千二十石余を襲しむ。この一晴は故の大納言秀長につかへ。朝鮮の軍に彼国にをし渡り。番手の船を打破り勇戦し。慶長元年五月十一日叙爵して修理大夫と称し。五年祖父治部卿法印重晴と同じく関東の御味方し。紀伊国和歌山城を守り。又叔父左近大夫貞晴と共に新宮の城をせむ。城将堀内安房守氏善降を乞て大野に迯れしかば。かの地を平均し。此年封を襲て和歌山二萬石を領し。叔父伊賀守元晴に一萬石を分ちあたへ。六年和歌山を転じ大和国葛下郡布施にうつり。けふ三十歳にて卒せしなり。(寛政重修譜)○廿九日相模国戸塚(富塚ともしるせり)の土人等彦坂小刑部元成にうたへしは。戸塚の村年頃駅馬の事つかうまつりしを。今度藤澤。程谷の両駅よりこれをはぶき。宿駅の列にあづからしめず。よて戸塚一村生産を失へば。よろしく藤澤。程谷の両駅に暁諭せられ。古来のごとく戸塚の一駅を立給はん事を希ふとの事なり。(案に此後上裁ありて。藤澤。程谷の間に又戸塚の一駅を置事ゆるされしなるべし)」又小堀新助正次卒しければ。その子作助政一をして遺領一萬二千四百六十石余を襲しめ。二千石を次男左衛門正行に分ちあたへ。父が例のごとく備中の国務をつかさどり。松山の城をあづけらる。此正次は故勘解由左衛門正房が子にて。はじめ近江の浅井家に属し。後に豊臣太閤につかへて大和大納言秀長に附属せられ。大和。和泉。紀伊三国の郡代となる。其後高野山御詣のとき。御路すがらの事を沙汰せしにより御かへりみを蒙り。秀長卒しその子中納言秀俊も世を早うせしかば。再び豊臣家につかへ五千石を領しけるが。慶長五年上杉御追討の供奉し下野の小山にいたる。此時より常に麾下に属し。九月関原の役にもしたがひしかば。その十二月旧領を給ひ。備中国の内にて一萬石加へられ。すべて一萬四千四百六十石余を領し。備中の国務をつかさどり松山の城を守り。また板倉伊賀守勝重。大久保石見守長安とおなじく五畿七道の事を相議し連署して。六年伏見城作事の奉行し。七年近江国検地の事をつかさどり。八年備前国に赴き制法を沙汰し。ことし江戸に参るとて二月十九日相模国藤澤の駅にをいて卒しぬ。歳は六十五なり。(鎌倉古文書、寛政重修譜、寛永系図)◎是月相模国中原に放鷹し給ひ。高木主水助清秀入道性順が海老名の隠宅に立よらせ給ひ。鷹の取し雁を下し給ふ。」また遠江国中泉に伝馬の御朱印を給ふ。」この頃関東辺の神祠仏宇修造せらる。」また久松多左衛門定次召出され近侍す。(高木源廣録、遠州古文書、創業記、寛政重修譜)○三月朔日御上洛あるべしとて江戸城を御発輿あり。五郎太丸長福丸両公子をともなはせ給ひ。御道すがら伊豆国熱海の温泉にゆあみし給ふとて。七日御滞留まし/\。此間御みづから御独吟の連歌を遊ばさる。春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船。一村の雲にわかるゝ鴈啼て。つき/\〃百韻に満しめ給ふ。こゝに陸奥国仙台に猪苗代兼如といへるは。其父兼載とて宗祇法師が高足の弟子にて名高き連歌の宗匠なり。仙台少将政宗また風月のすき者にて。これを聘召して其国につかへしが。兼如其子にて今箕裘をつぎ当時堪能の聞えありしかば。兼如にこの御連歌を見せしめ給ひ批評を命ぜられ。後にこの賞として兼如に金一枚を賜ふ。(熱海御滞留の間。何日より何日に至りしといふ事は詳ならず)」又吉川蔵人広家病臥のさま聞しめされ。東條式部卿法印して。この地温泉の湯五桶を広家がもとへ搬送せしめらる。(御年譜、創業記、家忠日記、武徳編年集成、貞享書上、大三河志、由緒書)○二日松前志摩守慶廣に兼光の御脇差并に時服五領を給ふ。」又武川の輩に加恩あり。小尾監物祐光に百石。柳澤兵部丞信俊に百廿石。伊藤三右衛門重次に百十八石八斗。曲淵庄左衛門正吉に八十石。曾根孫作某に五十六石四斗二升。曾雌民部定政に八十六石。折井九郎三郎次吉に六十石。折井長次郎次正に九十石。曾雌新蔵定清に百十石。有泉忠蔵政信に五十石。山高宮内信直に七十五石。青木與兵衛信安に八十石。青木清左衛門信生に二十石。馬場右衛門尉信成に百石。折井市左衛門次忠に二百石給ふ。この余百六石七斗八升は次忠にあづけらる。(家譜、貞享書上、寛政重修譜)○五日小栗庄右衛門正勝に采邑五百五十石。忍城番天野彦右衛門忠重にもおなじく五百五十石給はる。(寛政重修譜)○十五日下総国相馬郡徳萬寺に。市川郷に於て二十石の御朱印を下さる。」又武蔵国足立郡大宮の社に。高鼻村落合村にて合三百石の御朱印を下さる。(寛文御朱印帳)○十九日益田伝次郎某に采邑三百三十石給はる。この父外記某は三方が原の戦に御馬前にて討死せしが。其頃伝次郎幼年なりし故此度本領を給ふ。御朱印の券書に外家の苗字をしるされしゆへ。この後益田を改め柘植と称す。今紀邸につかふ。」又駿河国龍泉寺に寺領二十石よせたまふ。これは右大将殿御生母宝台院のかた御墳墓の地なるが故也。後に龍泉寺を改め宝台院と称す。」又相模国鎌倉郡天王の社に五貫文の地をよせられ。常陸国東條の庄興祥寺に廿石の地をよせられ。寺中山林竹木諸役免許の御印書を下さる。(貞享書上、日記、寛文御朱印帳、慶長日記)○廿日致仕黒田勘解由次官孝高入道如水卒す。齢六十九。此孝高は父を美濃守識隆といふ。小寺藤兵衛政識に属し。その苗字をあたへて小寺を称せしめしが。政識死して子なかりしかば。識隆その兵卒をしたがふ。播磨国姫路において孝高うまれしに。幼より弓馬の道に達したるのみにあらず。敷島の大和歌を嗜みける。十七歳より常に戦場にのぞみ。真先かけて功名をあらはす事なみ/\ならず。天正元年織田右府上洛のとき。孝高も都にのぼり謁見す。右府たのもしき者に思はれ。吾中国を征伐せん時は必汝を以て先手に用ひんと約せらる。其後羽柴筑前守秀吉右府の命を蒙て中国へ伐て下るとき。孝高使を出しこれをむかふ。秀吉悦ななめならず。兄弟の契りをむすぶ。八年秀吉別所長治が三木の城を攻落し。こゝを居城とせんとありし時。孝高姫路は国の中央にして。ことに船路のたよりよければとてその城をゆづり。其身は国府山城に退去す。秀吉いよ/\その志の私なきを感ぜられ。始て一萬石をさづけらる。十年毛利を攻られしとき。孝高がはからふ事ども少からず。しかるに京にて右府逆臣明智光秀がために弑せられし告あるにより。秀吉毛利と和睦し京都へ打てのぼられしに。孝高。毛利宇喜多が旗数十流かりうけて秀吉の先隊にすゝみ。光秀誅に伏す。十一年秀吉柴田勝家と中たがひ矛楯に及びしにも。孝高又秀吉の味方して先登せしかば。千石加へられ近江国山崎城にうつり。長曾我部を征せられし時には軍監として四国に発行し。阿波讃岐の城々を攻落し。筑紫の軍にしたがひ。豊後日向をへて薩摩国に攻入しにより。其軍功を賞せられ豊後の六郡をさきあたへられ。十六年五月従五位下に叙し勘解由次官と称す。孝高が豊臣家のために忠ある事かくの如しといへども。秀吉これに大官大国をあたへられざりしは。孝高が勇略終に人の下風に立べからざるを察して忌れしものなり。孝高また其意をしりければ。はやく所領を長子吉兵衛長政にゆづり。その身は猶太閤に近侍し軍事をたすく。このとき入道して如水と号す。このゝち小田原の軍にしたがひ。朝鮮に渡海し軍勢を督しける。慶長三年太閤薨ぜられし後。かの家の奉行等やゝもすれば烈祖をかたぶけ奉らんとせしに。孝高かねて御恩遇の厚をかしこみしかば。常に家臣を具して伏見の御館を守護し。福嶋加藤等をすゝめ御味方となし。五年上杉御追討のため奥に下らせ給ふに及んで。長政は御供にしたがひ。入道は所領中津にありしに。石田三成謀叛し上方またみだるゝと聞て。隣国の敵いまだ蜂起せざる先にこれをうち従へて。関東の忠勤に備へんと。豊後にいたり敵の要害ども見めぐりて中津川にかへる。この頃大友義統が三成にくみし。細川忠興が木付の城をせめかこむ。孝高は速に中津を発し。同国竹中源助重利を味方に属し。兵を分ちて木付の城をすくはせしに。此兵ども石垣原にて大友が兵と大に戦て。名あるものども数多討とる。其後如水着陣して義統を生擒し。又垣見和泉守一直が富来の城。熊谷内蔵允直陳が安喜等の城々攻落し。九州半は既になびきしたがふ。かくて豊前にかへるとて居城に立よりもせず。香春が嶽小倉城等を攻ぬき。筑後に入て久留米の城柳川の城を請とり。九州の城々皆平らぎ法制を定め。これより薩摩国に攻入んとせしに。関原既に御凱旋ありければ。御書を給はりて其大功を御感浅からず。又薩摩国に攻入事はしばらくこれをとゞめらる。長政は関原の軍功を賞せられて筑前国をたまふ。六年如水今度九州平均の功莫大なれば。官位封国望のまゝに給はるべき旨仰ありしかど。入道齢既に傾たり。長政既に大国を賜はりし上は。かしこに隠遁し老を養はまほし。この外更に所願なきよし申て致仕し。けふ終をとりなり。(寛政重修譜)(致仕の人はその致仕の日に終身の事業をしるすといへども。如水當家の御ために忠勤せしは。みな致仕後の事なれば。今別例をもて卒去の日にその傅ふる所は。この入道死に臨み其子長政に遺言せしは。汝は吾に生れまされし事五條あり。其一は吾は織田。豊臣の二代につかへ。三度其旨にたがひ閑居せり。汝は徳川家父子の意に応じ終に一度の過失なし。第二には吾は生涯所領十二萬石に過ぎず。汝は五十萬石の大身になりたり。第三に我は手をおろしたる武功なし。汝は自身の高名七八度に及ぶ。第四に吾は思念をこらしたる事なし。汝常に思念深し。第五我男子は汝一人なり。汝は男子三人あり。この五條皆汝が父に生れまさりし所なり。たゞ老父汝にましたる事二条あり。その一は我死すときかんに。我召つかふ者はいふまでもなし。汝が家士をしなべて愁傷し。力を落さゞる者あるべからず。汝が死たる時はかく愁傷するものあるべからず。これ臣を見る事平生我に及ばざる所なり。次に吾は当時博徒の随一なり。是汝が及ばざる所なり。関原の時東西の軍勝敗決せざる事百日に及ばゞ。我西国より切て登り。勝相撲に入て天下を併呑すべし。其侍は一子の汝までも一局に打込むと思ひしなり。その一場に臨み妻や子も顧みず。この大博奕は汝が及ぶ所にあらず。又これは汝にとらする形見の品なりとて。紫の袱子につゝみし物をさづく。長政開きみるに草履一隻。木履一隻と溜ぬりの飯笥なり。其時入道又。死生を一場に定むる大合戦に思慮も分別もなるべからず。草履。木履かた/\〃はかけねば大合戦なるべからず。汝才智あまりありて何事も深念深慮すれば。大功はなし得べからず。又飯笥は兵糧を蓄ふ事忘るべからず。いかにも無用の浮費をはぶき兵糧用意怠るべからず。この外思ひ置事なしといひながら。瞑目におよびしとぞ)(慶長見聞書)○廿一日竹内喜右衛門信重死してその子八蔵信次つぐ。(寛政重修譜)○廿二日和泉国岸和田城主小出播磨守秀政卒す。その子大和守吉政に遺領三萬石を襲て岸和田にうつりすましめられ。吉政がこれまで領せし但馬国出石城六萬石を。其子右京大夫吉英にゆずらしめらる。又秀政が長子遠江守秀家は去年卒せしかば。其子大隅守三尹に八千石を分ち給はり。旧領を合せ一萬石になさる。この秀政は代々尾張国中村にすすめる五郎左衛門正重が子なり。豊臣家につかへ太閤の姑にそひしゆかりをもて。諱の字をさづけ秀政となのらしめらる。後に當家にしたがひ。けふ六十五歳にて卒せしなり。(寛政重修譜)○廿五日越前守宰相秀康卿の四子北の庄にて生る。五郎八となづく。後に大和守直基といふ是なり。」又依田肥前守信守死して子源太郎信政つぐ。(貞享書上、寛政重修譜)○廿九日快晴。伏見の城に着せ給ふ。畿内西北国よりこれに先立て都にのぼりたる諸大名追分まで出てむかへ奉る。時に鑓二柄。長刀一柄。挟箱二。御先追ふ歩行廿人ばかり。乗輿のあとより騎馬の者十人ばかり従へすぐる者あり。諸人定めて本多上野介正純にあらずやなどさゝやきしが。あとより来る部下にとへば。将軍家にわたらせ給ふといふに大に驚き。伏見辺にて追付しかば御輿をとゞめられ。各これまではる/\〃迎へ奉りし事を謝し給ひて御入城あり。御簡易御真率の事と驚嘆せざるものなし。御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほどわかれ/\にのりつれ。思ひ/\に物がたりし。其中には手拍子打て小歌をうたひ。片手綱にてさゝへの酒をのみながらまいりたる事なりしとぞ。」この日酉刻頃より夕陽の辺白雲飛揚する事数しらず。去年二月十五日。この正月元旦にもかくの如くなりしとぞ。(御年譜、西洞院記、板坂卜斎覚書、当代記)◎是月黒田筑前守長政。父如水入道遺物とて備前長光の刀并に茶入木の丸を献じ。右大将殿に東鑑一部をさゝぐ。こは小田原の北条左京大夫氏政。豊臣太閤との講和の事はからふとて。如水かの城中へまかりし時氏政の贈りし所にて。今御文庫に現存せり。」青山作十郎成次めし出され小姓となる。」又松平庄右衛門昌利が子傅市郎昌吉召出され右大将殿に付らる。」武蔵国足立郡氷川大明神へ三百石の地を寄附せらる。其中の百石は天正十九年より寄附せられし所なりとぞ。」又三條曇華院を大坂の秀頼より造営せしめらる。」又この頃膳所が崎へ伊勢の御神飛来らせ給ふとて。詣る男女雲霞の如し。(寛政重修譜、寛永系図、寛文御朱印帳、当代記)○四月昨日この日日蝕す。」廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿伏見城へ参向せられ御対面あり。やがて京へわたらせ給ひて。上達部殿上人には御対面ましますべしと仰いださる。(西洞院記)○五日伏見大坂にありし諸大名。みな伏見城にまうのぼり歳首を賀し奉り。各時服かつげらる。」近藤織部佐重勝が遺領一萬石をその子信濃守政成に賜ふ。この重勝は織田家の臣間見仙千代につかへし弥五右衛門重郷が子にて。重勝も間見が家人たりしが。間見天正六年伊丹の城にて討死せしとき。右府もとより重勝が武名をしられしかば。召て堀久太郎秀政に属せらる。秀政卒して後その二男美作守親良に属し。慶長三年豊臣家堀が所領を越前より越後にうつさるゝに及んで。重勝には親良が封地の内にて別に一萬石を分ちあたへらる。其後重勝子七郎太郎政成を携て大坂に参り。はじめて拝謁しける時。其先祖の事をとはせ給ふに。たゞ尾張国にすめる九十郎といふものゝ孫に候へども。稚くて父にわかれ候へばくはしき事はしらざるよし聞え上しに。汝が祖父は尾張国高圃の城を守り當家に忠ありしものなり。汝が子を召出さるべしとの仰を蒙りしかば。政成を奉りし。時に政成十三歳。小姓に召出されぬ。重勝は京にすみてこの正月廿四日うせぬ。年は五十二なりとぞ。(創業記、当代記、寛政重修譜)○六日昨日におなじ。諸大夫以上時服かつげらるゝもの。昨今すべて九十八人なり。(舜旧記、当代記)○十日神龍院梵舜まうのぼり。春日八幡宇都宮等の事跡を御垂問あり。」この日松前志摩守慶廣に鷹并駅馬の券をたまふ。(舜旧記。家譜)○十一日市人西野與三に占城国渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)○十二日代官長谷川七左衛門長綱卒す。其子久五郎某といふ。(寛政重修譜)(此家絶しゆへ家つぎし事詳ならず)○十四日昵近の公卿伏見城に参向して拝謁あり。(西洞院記)○十八日松前志摩守廣慶滞府の料として。月俸二百口給ふ。(家譜)○廿日越前宰相秀康卿江戸へまゐり。右大将殿御気色伺はむため発程あり。雨の為に遅引し廿九日に清洲までおはしぬ。右大将殿あらかじめ目付の輩に令せられ。諸駅の道路茶亭等洒掃おごそかにせしめ。又鷹師等を途中に出迎へしめ。心まかせに鷹狩せしめ。江戸へつかせらるゝ時は右大将殿御みづから品川の宿までむかへさせたまひ。直にともなひ給ひて二丸にやどらせられ。僕従の類は大手門前大久保相模守忠が隣家にやどらせられ。卿滞留の間は常に本城にめして饗宴を開かれ。実に家人の礼をとらせ給ひ。友千の情をつくさせ給ふ。衆みな感ぜざるものなかりしとぞ。」又南部信濃守利直が家人北尾張に右大将殿自書ならびに縮布三十反下さる。これは奥の馬度々御厩に牽れし事をつかうまつりしによれり。この後桜庭兵助にも同じ事により。御自書并に鞍鐙をたまふ。(越前年譜、落穂集、貞享書上)○廿一日浅野紀伊守幸長が家にならせ給ふ。(御年譜)○廿三日関東大風雨洪水。(当代記)○廿五日下野国板橋領主松平五左衛門一生卒しければ。その子松千代成重に所領一萬石をつがしめらる。この一生は故五左衛門近正が子にて。天正十三年十一月十六日浜松にをいてはじめて見え奉る。(時に十六歳)慶長五年父近正伏見城にて忠死せしかば。其遺領をつぎ上野国三蔵に住す。ほどなく上野国の所領を下野国板橋にうつされ。加恩ありて一萬石を領す。七年佐竹右京大夫義宣が封地を移さるゝにより。五月八日松平周防守康重。由良信濃守貞繁。菅沼與五郎某。藤田能登守信吉等と共に水戸の城を勤番す。佐竹が旧臣丹波等一揆をおこし。城をうかゞひし時。密に忍び入らんとせしを。一生が番所にて見とがめていけどり。其懐をさぐりて一揆の廻文を得たり。この夜一揆は三丸の八幡小路までよせ来るといへども。一生かねて其心して防しかば一揆利を失て退く。翌日一生城番の人々と同じく謀り。丹波をはじめ酋賊こと/\〃くとらへ。江戸へうたへ誅戮せしめたり。今年三十五歳にて卒せしなり。(寛政重修譜)○廿七日内藤修理亮清成。青山常陸介忠成。伊奈備前守忠次。相模国藤澤の里正をめして戸塚駅訴論の事を裁断す。(古文書)◎是月島津少将忠恒薩摩国を発して上洛せり。(寛政重修譜)○五月朔日右大将殿御使(此御使の名つたはらず)筑前国博多へつかはされ。黒田筑前守長政が父如水入道が死をとはせられ御自書をたまはり。香銀二百枚下さる。(家譜)○二日神龍院梵舜伏見城にのぼる。御尋問により豊国明神臨時祭の事を聞え上る。(舜旧記)○三日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重より長崎舶来の白糸の事を令す。唐船着津の時かねて定めらるゝ所の父老等会議し糸価を定むべし。その価いまだ定まらざる間は。諸商長崎のみなとへ入事をゆるさず。糸価治定の後は心まかせに商売すべしとなり。これは先に長崎へ唐船入津せし時。白糸若干つみのせ来りしに。これを買とる者なければ既につみ帰らんとせしとき。京堺の商人来り。費をいとはず其糸をこと/\〃く買とり。その翌年もまた若干のせ来りしにも。京堺の商人あまさず買取しかば。此賞として。此後白糸はみな京堺のもの并に長崎の土人買取て後。その余の諸物は諸国の商人買とるべしとて。其制は糸百丸は京商。百丸は長崎商と定め。堺商は百廿丸と定めらる。これ先につみ来りたる糸多くは堺商買とりし故とぞ聞えし。この時より糸割符の者十人と定めらる。諸国の商人輻湊するものなければ。混乱する事多きが故なり。」又松平飛騨守忠政江戸へ参観す。(京鑑抜書、当代記)○七日下野守忠吉朝臣。摂津国有馬の温泉に浴せんがため清洲を発程あり。(創業記)○十三日程谷駅に駅馬の事を命ぜらる。(古文書)○十六日三河国賀茂郡長興寺の住職を義超に命ぜられ御朱印を賜ふ。」また神龍院梵舜伏見城にまうのぼり。僧承兌并に水無瀬宰相親具入道一斎も拝謁す。吉田二位兼治に清心圓を賜ふ。其文に曰。豊国明神社家の事。左兵衛佐既に吉田院を相続すれば。当社の事は先令の如く慶鶴丸に。二位の弟神龍院梵舜教導して何事も令すべし。明神御倉代官等の異議すべからず。社中役人社頭以下の事。社法の古例をみだるべからず。社務進止永く相違あるべからずとなり。(舜旧記)○十九日吉田慶鶴丸。神龍院梵舜伏見城へのぼり。昨日御判物たまはりしを謝して。慶鶴丸より単物十太刀馬代を献じ。梵舜より錫鉢二。権少輔某より扇十柄献じ。豊国大明神臨時祭一番は狩衣三十騎。二番は田楽廿人。三番は上下京の市人造花笠鋒。四番申楽たるべき旨建白す。(舜旧記)○廿八日松前志摩守慶廣従五位下に叙し伊豆守とあらたむ。(家譜)(慶廣今までは叙爵せずして私に志摩守と称せし也)◎是月先に右大将殿より命ぜられたる諸国候塚こと/\〃く成功す。」徳永式部卿法印寿昌が二子式部昌成召出されて近侍せしめらる。」青山藤蔵幸成は御勘気を蒙る。」仏郎機工渡邊三郎太郎に豊後国葛城村にて釆邑百石たまはり。御名の一字を御みづから給ふ。この後御用器械にもみな康の字を銘とするといふ。(家忠日記、寛永系図、貞享書上)○六日朔日江戸城修築はじめあり。(創業記、当代記)○二日福嶋左衛門大夫正則右大将殿御けしきをうかゞはんとて封地を発程す。(当代記)○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豊国大明神臨時祭の事建白す。(舜旧記)○六日近江国彦根に新築城かるゝによて。役夫糧米運漕の事を板倉伊賀守勝重。日下部兵衛門定好。成瀬吉右衛門正一連署して。菅沼伊賀守定重及び三河の代官松平清蔵親家入道念誓(一に親宅に作る)并東意等に傅ふ。この構造奉行は犬塚平右衛門忠次。山本新五衛門重成なり。また伊丹宗味へ呂宋渡海の御朱印を下さる。(古文書。御朱印帳)○十日伏見城より二条へ渡らせ給ふ。昵近の月卿雲客御道にむかへ奉る。(西洞院記)(御年譜并に伊達家貞享書上に。今日右大将殿御入洛としるせしは誤なり。台徳院殿この時は江戸にましませしなり)○十二日片桐市正且元。山内土佐守一豊。神龍院梵舜。二条にまうのぼり豊国社臨時祭の事を議せらる。(舜旧記)○十三日松前伊豆守慶廣御参内の時供奉すべしと命ぜらる。(家譜)○十五日神龍院梵舜まうのぼる。この日六郷弾正道行卒す。其子兵庫頭政乗は是より先に。常陸国府中に於て一萬石をたまはりて別に家を立たり。(舜旧記、寛政重修譜)○十六日御参内あるべしとて嘉定の式を止めらる。然るに雨ふりしかば御参内ものべらる。」江戸にしては山田次郎大夫正久が子彦右衛門正清。始めて右大将殿にま見え奉り小姓となる。(西洞院記、寛永系図)○十七日いさゝか暑気におかされまし/\て御薬の事あり。(創業記、当代記)○十八日御不豫によて御参内をのべ給ふ。(西洞院記)○廿日相良左兵衛佐長毎老母を証人として江戸へ参らするにより。駅路人馬の御朱印を給ふ。これ西国大名の江戸へ証人を参らする権與なりとぞ。(寛永系図)○廿二日御平快により御参内。御直垂にて御輿にめさる。月卿雲客こと/\〃くまいり唐門の前にて迎奉る。内にて御三献。女院の御方にて二献。長橋の局にて一献あり。」是日叙爵十六人。松平又八郎忠利は主殿頭。松平勘四郎信吉は安房守。水野三左衛門分長は備後守。水野新右衛門長勝は石見守。安藤五左衛門重信は対馬守。三淵弥四郎光行は伯耆守。三好為三一任は因幡守。三好新右衛門房一は丹後守。佐々喜三郎長成は信濃守。森宗兵衛可政は対馬守。能勢總右衛門頼次は伊予守。東條某長頼は伊豆守。西尾某教次は信濃守。佐久間将監実勝は伊予守と称す。(西洞院記、寛永系図、続武家補任、貞享書上)○廿三日摂家はじめ大臣公卿殿上人こと/\〃く二条城に参向して拝謁あり。参議以上太刀目録をさゝぐ。」此日堀尾帯刀可晴従四位下にのぼせらる。」安藤次右衛門正次常陸国水戸の監使にさゝれ暇給ふ。」下野国宇都宮明神の社御造営の事仰出さる。よて青山常陸介忠成。内藤修理亮清成。伊奈備前守忠次連署して材木の事を令す。大河内金兵衛秀綱は造営の奉行す。(西洞院記、寛政重修譜、寛永系図、古文書)(慶長五年関原の逆徒御征伐の時。当社に御奉幣ありしにより。同七年社領を増加せられ。今年社を御造営有し也)○廿四日二条城にて猿楽を催し給ひ。故豊臣太閤北政所高台院のかたをまねき饗せらる。(西洞院記)○廿五日相国寺にならせられ僧承兌に五色五十給ふ。」この日坪内惣兵衛家定に与力十騎あづけらる。(舜旧記、寛政重修譜)○廿七日承兌が学舎へならせ給ふ。囲碁の御遊あり。今日暑甚し。黄昏雷雨。(西洞院記)○廿八日松前伊豆守慶廣帰国の暇を給ふ。(家譜)◎是月大旱。摂津国昆陽池の鯉鮒等多く死す。」島津少将忠恒仰により陸奥守と称す。」又近衛左大臣信尹公病臥のよし聞しめして御薬をくり給ふ。」又相良左兵衛佐長毎が老母証人として江戸に参りければ。月俸五十口たまひ。長毎にも備前実長の御刀をたまふ。(当代記、寛政重修譜、西洞院記、貞享書上)

巻九

東照宮御実紀巻九(全文)

慶長九年七月に始り十二月に終る

七月朔日二条城より伏見城に遷御あり。」井伊右近大夫直勝が近江国佐和山城を彦根にうつさる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて。その臣木股土佐守勝去年聞えあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより。美濃。尾張。飛騨。越前。伊賀。伊勢。若狭七か国の人数をして石垣を築かしめらる。松平主殿頭忠利。遠藤但馬守慶隆。分部左京亮光信。古田兵部少輔重勝。また越前宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣。平岩主計頭親吉。石川長門守康通。奥平美作守信昌。本多中務大輔忠勝。富田信濃守知信。金森長近入道法印素玄。筒井伊賀守定次。一柳監物直盛。京極若狭守高次等に仰せて人数を出さしめらる。山城宮内少輔忠久。佐久間河内守政実。犬塚平右衛門忠次をして奉行せしめられ。城中要害規晝はこと/\〃く面諭指授し給ふ所とぞ聞えし。(創業記、当代記、舜旧記、井伊略傅、木股日記、貞享書上、寛永系図、家譜)○五日平野孫左衛門呂宋国渡海の御朱印。高瀬屋新蔵に信州渡海の御朱印を下さる。」福嶋左衛門大夫正則江戸を発程して上洛す。」此日大雨。近江国佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毀傷三十人に及べりとぞ。(御朱印帳、当代記)○十一日片桐市正且元伏見に参る。」右大将殿より小澤瀬兵衛忠重を御使として。井伊右近大夫直勝に御書をたまはり。築城の労を慰せられ。其事にあづかりし諸有司にも御書を給ふ。」又吉田二位兼見卿采邑のうち。水田四十八段圃十四段をその男宮之助正勝。恨ありて小姓花井小源太某を殺害して自殺す。(舜旧記、家譜、武徳偏年集成)(重修譜には駿府にての事とするは誤なり)○十七日越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ。(貞享書上并に越前家譜に。両御所渡御ありしとするは誤れり。此時台徳院殿は江戸におはしましけるなり)御饗応ありて後相撲を御覧にそなへ給ふ。相撲数番の後。越前の相撲嵐追手と。前田家の相撲頭順礼と角力す。これをけふの関相撲とすれば。其座に居ならびたる諸大名諸士。腕をにぎり堅唾をのんでひかへたり。順礼は衆にこえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべき者とも見えざりしが。やゝいどみあひしに。やがて嵐は順礼をとつて大庭に投付しかば。一座声をたてゝ褒美する。其声鳴もやまず。嵐勝ほこり。広言はなつて傍のさま各制しかねし時。秀康卿庭上にむかひ白眼たまへば。一言も出されざる者なし。けふの御設ことさら興に入らせ給ひ。夕つげて遷御ありしが。後までも秀康卿の威風を感じ給ひしとぞ。」この日江戸にしては巳刻前右大将殿の北方御産平らかにわたらせたまひ。こと更男御子生れ給ひしかば。上下の歓喜大方ならず。御蟇目は酒井河内守重見。御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる。(諸書大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤なり。今は御年譜。御系図による)このほど鎌倉八幡宮御造営の折からなれば。神慮感応のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歳なりしを召出され。若君に附られ小姓になさる。又稲葉内匠正成が妻。(名をば福といひしとぞ)かねて御所につかうまつりけるをもて若君の御乳母となさる。これは明智日向守光秀が妹の子斎藤内蔵助利三が女にて。利三山崎の戦に討死せし後。母は稲葉重通入道一鉄が娘なりしかば。母子ともに一鉄がもとにやしなはれてありしが。後に正成が妻となる。男子をも設けしに。いかなる故にや正成が家をいで。このとし頃江戸の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく御かへりみを蒙りしはこれなり。」又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる。(御年譜、貞享書上、落穂集、慶長年録、慶長見聞書、寛永系図、柳営婦女伝、藩翰譜、寛政重修譜)○十八日致仕故伊勢国長島の城主菅沼織部正定村が子にて天文十一年三河の野田に生る。はじめ今川氏真に属しけるが。永禄四年當家今川と矛盾に及ばせ給ひし時。定盈并に田峰の小法師設楽西郷等は。多くの敵の中より出で當家に属し奉る。其九月氏真大軍にて野田の城を攻かこみし時。力をつくし防戦しければ。寄手より和議を乞しにより城をわたし。高城といふ所に砦を築き移る。氏真またこの砦を攻るといへども堅く防て落されず。この年牛窪の牧野等を征したまふに。定盈先登して家人等も粉骨をつくす。五年正月より岡崎の城にて御謡初の席につらなりしめらる。其六月今川方見附の城を攻んとて出軍するひまをうかゞひ。夜に乗じて野田の城をせめとり。再び旧地に復す。七月廿六日今川勢西郷の城を攻取しに。孫六郎清員その難をのがれて野田に来る。定盈もとより従弟のちなみあれば其旨聞え上。西郷の旧地に城を築て清員に住せしむ。今川又三河国一宮の砦を攻るのとき。定盈清員と共に軍功あり。七年吉田の城攻にも戦功をあらはし。十一年遠江国いまだ帰順せざるをもて。定盈謀を献じて井伊谷刑部の城を攻落し。兵を進めて浜松の城にむかふ。城兵同士軍して戦死せしかば。浜松の城をも乗とり。いよ/\進んで敵数人をうちとり。十二年正月久野城主久能三郎左衛門宗能が一族等。今川氏真に内応する者多かりしかば。仰を受て彼城を守り。三月七日懸川。堀江等の城攻に軍功を励み。元亀元年六月姉川の戦には定盈病臥せしかば。家人を出して戦はしめ。二年武田が臣秋山伯耆守晴近すゝめて田峰。長篠。作手のともがら多く武田に属せし時も。其使を追返してしたがはず。天正元年信玄大軍を引ゐ。さま/\〃の術を尽し城の水の手をとり切しかば。定盈一人自殺し城兵を救はん事を約して定盈出城せしを。信玄生捕て。城に籠置て我手にしたがはしめむとせしかども。かたく拒て其詞に応ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事をこふ。則御許容ありて。互に相かへて定盈は野田城にかへる。七月廿日長篠を攻給ふとき久間中山をまもり。二年野田城は先の戦に破壊多かりしかば。大野田に城築てうつり。四月十五日勝頼大軍にて城をかこむ。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諌しかば。城を出で野田瀬をこえ西郷まで退く。勝頼また山県昌景をして西郷をせめしむ。定盈西郷清員をたすけて堅く防て敵を追返す。三年五月長篠の戦には。定盈案内者として鳶巣砦が伏見の城を追うち。家人等多く高名す。六月小山の城攻にも外郭をせめやぶり。其後上杉謙信と御よしみをむすばれし時。謙信よりも定盈がもとに誓書を贈る。九年三月高天神落城の時も功少からず。十年甲斐の国にいらせ給ふとき。定盈が謀にて諏訪安芸守頼忠を帰順せしめ。乙骨の軍にはみづから首級を得。今川が勢を破る。十二年四月小牧山を守り。家人をして長久手の戦に軍忠をあらはし。十月より小幡の城を守り。関東に入らせ給ふのち野田をあらため。下野国阿保にて一萬石たまはり。其後致仕して子定仍に家ゆづり阿保にありしが。庚子の乱には別の仰を蒙り江戸の城を留守し。慶長六年定仍に伊勢国長島の城給はりしかば。定盈も長島にうつりすみ。けふ六十三歳にて卒せしなり。(寛永系図、寛政重修譜)○十九日神龍院梵舜伏見城にのぼり団扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰下さる。(舜旧記)○廿一日江戸より安藤次右衛門正次御使として伏見にのぼり。若君誕生の事を告奉る。殊更御喜悦有て若君の御小字を竹千代君と進らせ給ふ。」又下野守忠吉朝臣は此程伏見にありて心地例ならざれば。暇を賜ひ尾張の清洲にかへらる。」又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿楽を催さる。(寛永系図、国朝大業廣記、創業記、当代記)○廿二日腰物奉行野々山新兵衛頼兼死して。其子新兵衛兼綱家をつぐ。」此廿二三日三河国鳳來寺山鳴動すれば。衆僧本堂に会集して騒擾甚し。(寛政重修譜、当代記)○廿三日江戸城にて若君七夜の御祝あり。上総介忠輝朝臣。設楽甚三郎貞代。松平伊豆守信一。西郷新太郎康員。松平右馬允忠頼。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠実。松平丹波守康長。水野市正忠胤。小笠原右衛門佐信之。牧野右馬允康成。本多伊勢守康紀。松平周防守康重。此賀筵に伺候せしめらる、水野清六郎義忠が二子清吉郎光綱。稲葉内匠正成が三男千熊正勝。岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召出され若君に仕へしめらる。(貞享書上、寛永系図)(長綱が姉は大姥とて台徳院殿の御乳母也)。○廿四日吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拝謁し奉る。(舜旧記)○廿五日松平右衛門大夫正綱が養子長四郎信綱召出され。若君につけられ月俸三口給はる。時に九歳。」この年六月より久しく旱せしにこの日暴雨。(寛永系図、当代記)○廿六日菅沼信濃守定氏卒しければ。其子新三郎定吉家をつぐ。此定氏は大膳亮定廣が四男にて清康君の御代よりつかへ奉り。永禄のはじめより元亀天正の頃しば/\〃軍功をはげみ。けふ八十四歳にてうせぬるなり。(寛政重修譜)◎この月伏見城修築ありて西国諸大名其事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手縄手の石垣を修築せり。(貞享書上)(寛政重修譜には慶長七年六月とす)○八月三日三河国目代松平清蔵親家入道念誓が子清蔵親重つぐ。此入道は松平備中守親則より出で長澤松平の庶流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三郎君に仕へしが。此君若くしてあら/\しき御振舞ありしを諌かね。職を辞し入道して念誓と号し籠居せしを。浜松の城におはせし頃召出され。御茶園の事など命ぜられ。入道が珍蔵せし初花の茶壷を献じければ。望の儘に御朱印の御書をたまはり。葵の紋用ふることをも許され。三河一国の賦税をつかさどらせられしが。齢つもりて七十一歳にてけふ没せしとぞ。(寛政重修譜、由緒書)(此子孫三河国額田郡土呂郷にすみて松平甚助と称す)○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豊国明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重。片桐市正且元と共に奥殿に於て御談話に侍し奉る。」又出雲国松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歳なるに。原封二十四萬石をつがしめられしが。猶いとけなければ。祖父帯刀先生可晴をして国政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。右大将殿御名の一字給はり国俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父と志をおなじくして。當家に忠節をつくし。五年右大将殿にしたがひ下野国宇都の宮にいたる。此時御所には同国小山に御着陣ある所。石田三成等反逆の色をあらはすのよし告来りければめされて軍議あり。山内対馬守一豊。忠氏にむかひ。今日御前に於て一座の思慮を御たづねあらんにはいかゞこたへ奉らんやととふ。忠氏答て。我は居城浜松を明て捧奉るべきの間。御人数を入をかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。既にして会津には押の勢をのこされて上方御進発に事決するにより。七月廿八日忠氏御先手の諸将と共に小山を発し。八月十四日尾張国清洲の城に着陣す。廿二日諸将岐阜城をせむ。忠氏は池田。浅野。山内の人々と共に上の瀬河田の渡に向ふ。忠氏たゞちに川上よりこえて一番に鎗を接し一柳大監物直盛と共に敵の後に廻りて攻けるが故に敵敗走す。忠氏が手に討取所の首二百廿七級なり。廿三日諸将瑞龍寺山の城をせむ。忠氏郷土川をわたりて大坂の援兵を追崩し首級を得たり。此よし江戸に言上するの所。廿九日御感状下さる。このとし出雲隠岐両国に封ぜられ二十四萬石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宋十郎忠總に嫁す。このとき右大将殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日従四位下に叙し出雲守に改め。けふ廿八歳にて卒す。この時香火の銀二百枚を給ふ。」此日酉刻より大風。諸国損害多し。(舜旧記、寛政重修譜、当代記)○五日大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る。(当代記)○六日舟本弥七郎へ安南国渡海の御朱印を給ふ。(御朱印記帳)○八日江戸にて若君三七夜の御祝あり。著座の輩浜松城の旧例を用らる。(慶長見聞書)○十日大久保石見守長安佐渡国よりかへり参りて。かの国銀山豊穣のよし聞えければ。御けしきうるはしくして。長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(当代記)(これより先に上杉家にて佐州を領せし時は。その国より砂銀わづかに出けるが。御料となりしより一年の間に出る所萬貫にいたる。又石見の銀山も。毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を産せしを。御料に帰して後一年の間に四千貫を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の真主に帰する所。是等においてもしるべきなり。(佐渡記)○十二日桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む。(家譜)○十三日細屋喜斎に安南国渡海の御朱印を下さる。」この日雨により豊国の社臨時祭を延らる。(御朱印帳、舜旧記)○十四日伊勢。尾張。美濃。近江等大風。伊勢の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。」この日京には豊国の社臨時祭あり。豊臣太閤七年周忌の故とぞ。一番弊帛。左右に榊。狩衣の徒これをもつ。次に供奉百人。浄衣風折。二番豊国の巫祝六十二人。吉田の巫祝三十八人。上賀茂神人八十五人。伶人十五人。合て騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ならび。豊国の大鳥居より清閑寺の大路を西へ。照高院の前にて下馬す。三番田楽三十人。四番猿楽四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸。左兵衛佐兼治仕ふまつる。猿楽二番終る時大坂より使あり。豊国大門前にて猿楽一座に孔方百貫づゝ施行せらる。(当代記、舜旧記)○十五日相模国鎌倉鶴岡八幡宮造営成功により遷宮あり。この奉行は彦坂小刑部元成つかうまつる。(これは今年御上洛の折から。御参ありて御造営の事仰出されしとぞ)(造営記)」京には豊国社臨時祭行はる。上京下京の市人風流躍の者金銀の花をかざり。百人を一隊として笠鉾一本づゝ。次に大仏殿前にて乞丐に二千疋施行。次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し。片桐市正且元奉行す。伏見の仰によりて神龍院梵舜出て神事をつとむ。(舜旧記)○十六日片桐正市且元。神龍院梵舜伏見城にのぼり。臨時祭の事聞えあぐる。御けしきことにうるはし。(舜旧記)○十七日高城源次郎胤則死す。こは北條が麾下にして下総国小金の城主たりしが。小田原落城の後伏見に閑居せしを。今年御家人に召加へられしに病にふし。いまだつかへまつるに及ばずして没せり。其子龍千世重胤いまだ幼稚なれば。外族佐久間備前守安政に養はれ。元和二年にいたりめし出されしなり。(寛永系図、寛政重修譜)○十八日唐商安当仁に呂宋国渡海の御朱印を授らる。」三枝勘解由守昌。下総国香取郡にて新に采邑五百石賜ふ。(御朱印帳、寛政重修譜)○廿三日大島雲八光義卒す。寿九十七歳。遺領一萬八千石余を分て。長子次右衛門光成に七千五百石余。二子茂兵衛光政に四千七百十石余。三子久左衛門光俊に三千二百五十石余。四子八兵衛光朝に二千五百五十余石を給ふ。没前の願によてなり。此光義。父を左近将監光宗といふ。新田の庶流にて遠祖蔵人義継が時美濃国に住し大島を称す。光義幼くて父はわかれ。国人と領地をあらそひ合戦する事絶ず。しば/\〃武功をあらはし射芸の名世に高し。後に織田右府に属しいよ/\軍功をはげみ。元亀元年姉川の戦に先がけし。天正元年近江の国にて越前の兵と戦ひ。長篠の戦にも功あり。やがて豊臣家に属し。慶長三年二月豊臣家より与力同心の給地を合せて一萬千二百石を賜ふ。庚子の乱には小山の御供に従ひしに。石田三成叛逆の告あるにより。上方に妻子をのこせし諸士はかへり上るべしとの仰ありしかども。光義兼て當家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて。妻子を捨て関原に供奉しければ。領地をくはへられ一萬八千石余になさる。光義生涯戦に臨む事五十三度。感状を得る事四十一通。今度病に臥しても。しば/\〃御使を以てねもごろの御尋どもあり。けふ卒したりとぞ。(寛政重修譜)○廿五日商人與右衛門に暹羅国渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳)○廿六日細川越中守忠興封地にありて病にふしけるが。おもふむねあるにより。長子與一郎忠隆。二子與五郎興秋には家ゆずらず。兼て質子として江戸に参らせ置たる内記忠利を家子とせむ事をこひければ。其望にまかすべき旨両御所より御書を賜ひ。また岡田太郎右衛門利治して病をとはせられ。忠利にも帰国して看侍すべき旨御ゆるしあり。」安南国へ御書をつかはされ。先に方物捧げしをもて一文字の御刀。鎌倉広次の御脇差をつかはさる。」又末次次平蔵に安南国渡海の御朱印。角倉了以光好に東京渡海の御朱印。田辺屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印。與右衛門に大泥国渡海の御朱印。平戸助大夫に順化渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(家譜、異国日記、御朱印帳)○廿八日佐竹右京大夫義宣。去年より新築したる出羽国久保田の城成功してうつりすむ。よて湊城をば破却す。(寛政重修譜)○廿九日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。」この日また池田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り。輝政に恩賜若干あり。其北方へも金二千両たまはる。(舜旧記)○晦日金吾中納言秀秋が家司平岡石見守頼勝。譏の為に金吾家を出て処士となりてありしを召出され。美濃国にて一萬石賜ふ。」故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召出され。備中国にて采邑五千石賜ふ。」また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る。(寛政重修譜、寛永系図)◎是月瀧川久助一乗幼稚なるがゆへに。一族三九郎一積とて。中村一学忠一が家人なりしを召て後見すべしと命ぜらる。これは其家士野村六右衛門が。一乗わづかに二歳にて今の采邑領せんは。其はゞかり少からざれば。名代をもて何事もつかうまつらむ事を願ふ。よて一乗齢十五歳に至るまでは三九郎一積二千石の地を領し。二百五十石は一乗并にその祖母母を養育せしむべしと仰付らる。」又安藤三郎右衛門定正死して子忠五郎定武家継て今年初見す。」又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。」又江戸築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制としてさゝぐべきよし令せられ。其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の数は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は。池田宰相輝政。福嶋左衛門大夫正則。加藤肥後守清正。毛利藤七郎秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守家政。細川越中守忠興。黒田筑前守長政。浅野紀伊守幸長。鍋島信濃守勝茂。生駒讃岐守一正。山内土佐守一豊。脇坂中務少輔安治。寺沢志摩守廣高。松浦式部卿法印鎮信。有馬修理大夫晴信。毛利伊勢守高政。竹中伊豆守重利。稲葉彦六郎典通。田中筑後守忠政。富田信濃守知信。稲葉蔵人康純。古田兵部少輔重勝。片桐市正且元。小堀作助政一。米津清右衛門正勝。成瀬小吉正一。戸田三郎右衛門尊次。并に尼崎文次郎なり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸国に課せて大材を伐出さしむ。諸国より運送せし材木を積置所。今の佐久間町河岸なりとぞ。」岡野融成入道江雪斎の孫権左衛門英明を携て伏見にのぼり拝謁す。英明時に五歳なり。入道が采邑をばこの孫につがしむべしと命ぜられ。入道が二子三右衛門房次は江戸にまかり右大将殿に仕うまつるべしと命ぜられしが。後に紀伊家に属せらる。(寛永系図、寛政重修譜、覚書、町書上)○閏八月九日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見城へまうのぼり。兼見卿より明珍の轡一具。梵舜筆数柄を献ず。(舜旧記)○十日近日御出京あるべしと聞えければ。公卿殿上人諸門跡みな伏見城にのぼり辞見し奉る。西洞院少納言時直薫物を献ず。(西洞院記)○十一日商人栄任に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)○十二日島津陸奥守忠恒。五島兵部盛利。并に平戸伝助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。」又陸奥守忠恒には暹羅国渡海の御朱印を下さる。」窪田與四郎にしん洲渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)○十三日岡田太郎右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ。右大将殿よりも。其家司松井佐渡に御書を賜ふ。(貞享書上)○十四日伏見城をいでゝ江戸におもむかせ給ふによて。五郎太丸。長福丸の御方々をも引つれ給ひぬ。飛鳥井参議雅庸御道まで送り奉る。こたびは竹千代君生れさせ給ひ。かつ伝通院御方大祥も近ければとて殊更御道をいそがせ給ふ。(西洞院記、当代記、慶長見聞書)○九月十日堀尾山城守忠氏が遺物とて。国次の脇差并に素眼の筆蹟を其父帯刀可晴より献じければ。右大将殿より可晴に御書を賜ひ吊せらる。(貞享書上)○十四日井上半右衛門清秀没しぬ。この清秀はもとの阿部大蔵定吉が遺子にて。大須賀五郎左衛門康高が手に属し軍功をはげみしが。その子太左衛門重成は越前家に属せしめられ。三子半九郎正就は右大将殿御方につけられしが。後に次第に登庸せられ。井上主計頭とて執政たりしは是なり。」又杉浦弥一浪親正死して其子彦左衛門親勝つぐ。(寛永系図、寛政重修譜)○廿日飛鳥井参議雅庸卿江戸へ参る。」この日勝矢甚五兵衛利政死し其子長七郎政次つぐ。(西洞院記、武徳編年集成)(利政が死日を寛永系図。寛政重修譜に記さず。今は編年によりこゝに収む)○廿三日代官彦坂小刑部元成より相模国戸塚の農民に貢税の制を令す。(古文書)○廿九日永田弥左衛門重直死して其子四郎次郎重乗家をつぎ。三子四郎三郎直時ことし初見の礼をとり召出さる。(寛政重修譜)◎この月伊奈備前守忠次。谷全阿弥正次より武蔵国足立郡氷川の社人へ。こたび神領を三百石に定めらるれば。後にくはへられし二百石の内百石は造営料とし。百石を以て小禰宜三人巫女二人を置。その他は例のごとく配分すべしと令す。(古文書)◎此秋木津川の橋を大坂より架せしめらる。長さ二町にあまれりとぞ。(当代記)○十月五日中値喜四郎正重死して。其子喜四郎正勝家をつがしめらる。(寛政重修譜)○十日伊達越前守政宗江戸へ参る。(貞享書上)○十五日逸見小四郎左衛門義次が二子勝兵衛忠助。右大将に初見し奉る。(寛永系図)○十六日右大将殿忍辺に御放鷹あり。(当代記)○廿四日右大将殿忍より蕨浦和辺に鷹狩し給ふ。(当代記)○廿九日普請奉行伏屋左衛門佐為長死して其子新助為次家つがしめらる。(寛政重修譜)○十一月二日彦坂小刑部元成より戸塚の駅に。藤沢。神奈川と同じく駅馬のことつかうまつるべしと令す。(古文書)○三日武蔵国法性寺に新郷にて十五石。正覚寺に持田村にて三十石。長久寺に長野村にて三十石。浄泉寺に下河上村にて廿石。真観寺に小見郷にて十石。常光院に上中條村にて三十石。幡羅郡熊谷寺に熊谷の郷にて三十石。一乗院に上の村にて三十石。目沼村の聖天宮に同所にて五十石。上野国勢多郡養林寺に大胡郷にて百石。源空寺に白井村にて五十石の御朱印をくださる。(寛文御朱印帳)○七日鷹師吉田弥右衛門正直に采邑百六十石余を賜h。(寛政重修譜)○八日竹千代君山王の社に御詣初あり。青山伯耆守忠俊。内藤若狭守清次。水野勘八郎重家。川村善次郎重久。(寛政重修譜には慶長十三年とす)大草治左衛門公継。内藤甚十郎忠重等御伝役命ぜられ供奉す。御かへさに青山常陸介忠成がもとへ立よらせたまふ。(慶長見聞書)○十日右大将殿御放鷹はてゝ浦和辺より江城へかへらせ給ふ。(当代記)○十日飛鳥井宰相雅庸卿江戸を辞し帰洛す。(西洞院記)○廿一日前夜大雪。この寒中信濃の諏訪湖水氷らず。世以t珍事とす。(当代記)○廿四日宰相秀康卿の五子越前国北庄にて誕生あり。後に但馬守直良といふ是なり。(貞享書上)○廿六日堺皮屋助右衛門に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)○廿七日松浦式部卿法印鎮信に迦知安渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)○廿九日大雨。(当代記)◎是月三宅惣右衛門康貞武蔵国深谷より三河国挙母に転封し。五千石を加へて一萬石になさる。」毛利中納言輝元入道宗瑞長門国萩の城を新築せしが。成功して山口よりうつり住む。(寛政重修譜)○十二月三日山田次郎大夫正久死して。其子小姓彦左衛門正清家をつぐ。(寛永系図)○六日江戸城にて猿楽を催し給ふ。(当代記)○十五日駿河国西光寺に小泉庄にて十五石の御朱印を下さる。(寛文御朱印帳)○十六日大黒屋助左衛門に大泥国渡海の御朱印を下さる。」今夜遠江国舞坂辺高波打あげ。橋本辺の民家八十ばかり波と共に海に引入られ。人馬死傷少からず。釣船は廿艘ばかり踪迹を失へり。其時伊勢の海辺は数町干潟となり。魚貝あまた其跡に残りしをみて。漁人等是をとらんと干潟にあつまりしに。又高波俄に打上て漁人等皆沈没せり。伊豆の海辺みなこの禍にかゝりし中にも。八丈島にては民家悉く海に沈み。五十余人溺死し。田圃過半は損亡し。上総国小田喜はこと更涛声つよく。人馬数百死亡し七村みな流失す。摂津国兵庫辺は更にこの害なしとぞ。(御朱印帳、当代記、崇福寺古文書)○十八日六条二兵衛に柬埔寨渡海の御朱印。檜皮屋孫兵衛に大泥国渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)○廿日酒井宮内大輔家次下総の国碓氷を転じ上野国高崎城主とせられ。二萬石加へて五萬石になさる。(寛政重修譜)○廿八日松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝より。戸塚駅の民に賦税の券をさづく。」又曾雌民部定政死して子帯刀定行つぐ。(古文書、寛政重修譜)◎是月長福丸君に常陸国水戸五萬石を加へられ三河国中を検地せしめらる。」伊奈兵蔵忠公召出され竹千代君につかへしめられ小姓となる。(時に八歳)又青山藤蔵幸成御勘気をゆるさる。(紀伊系図、龍海院記、寛政重修譜、寛永系図)◎是冬右大将殿土方河内守雄久がもとにならせられ。来国光の御脇差を賜はり。下総国田子にて五千石加へられ一萬五千石になさる。(寛永系図、貞享書上)◎是年加賀大納言利家卿の五男孫八郎利孝。菅沼新八郎定盈三子左近定芳は両御所に謁し奉る。」赤沢貞経入道丹斎。(此時赤沢を称し。後に改て小笠原と称し。台徳院殿の御代に廩米五百俵下されたり)能勢摂津守頼次二子小十郎頼隆。大森半七郎好長。角南新五郎重義。并に其二子主馬重勝。沼間兵右衛門清許。由比庄左衛門宗政。(後に百俵をたまふ)同弟與五左衛門安義。仙石越前守秀久が七子右近久隆。(此年直に右大将殿小姓となる)山下弥蔵義勝子弥蔵周勝。小長谷市兵衛時友が子四郎右衛門時元。稲富伊賀守直家。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尚。船越左衛門尉景直二子三郎四郎永景初見し奉り。直家は鳥銃の秘術を両御所へ伝奉り。後に右大将殿に仕ふ。」高井助兵衛貞重子市右衛門貞清。(小姓組にいり後大番になる)宮田茂右衛門吉次が子治左衛門吉利。(此年父茂右衛門吉次死す。家つぎし日詳ならず)原田清次郎維利。(入道して宗馭と号し。茶道具の格に召出され現米七十石賜ふ)小長谷加兵衛時次右大将殿に初見し。伊達庄兵衛房次。永井右近大夫直勝二子伝十郎直清。渡邊吉兵衛定。(始は村瀬と称す)斎藤左源太利政。市橋左京長政。上杉源四郎長員。(後畠山を称す)林藤左衛門勝正。加賀大納言利長卿の質子として進まらせ置たる横山右近興知は(時に十二歳)右大将殿に奉仕す。」使番米津勘兵衛由政江戸町奉行となり。采邑五千石を給ひ。島田兵四郎利正使番となり。大番朝倉藤十郎宣正。三雲新左衛門成長は其組頭となり。宣正采邑二百石を加へられ四百石になり。成長は千石を加へて千五百石となり。河島喜平次重勝歩行組の頭となる。柴田七九郎康長は火の番の組頭となり。角南主馬重勝。高井市右衛門貞清は小姓組にいり。小長谷加兵衛時次は大番にいり。中島大蔵盛直が二子長四郎盛利。(時に十一歳)船越三郎四郎永系。(時に八歳)能勢小十郎頼隆共に小姓となり。頼隆は采邑千石賜ひ。間宮若狭守綱信が四子忠左衛門重信(時に十三歳)も近侍せしめられ。菅沼左近定芳御手水番となり。松平清蔵親重は父念誓親家が原職を命ぜられ。入道して念誓と改め。三河の代官たり。伊沢源右衛門政信は右大将殿の小姓となり。中山猪右衛門勝政。都筑又右衛門政武は同じ御方の大番となり。政武は廩米二百俵を給ひ。安西甚兵衛元真焼火間に候せしめらる。(寛政重修譜には今年召出され。十二年焼火間番とあり)又本堂伊勢守茂親は本多佐渡守正信に属し。城溝疏鑿の事をつかうまつらしめらる。」秋田東太郎実季は貝塚青松寺辺新築の助役す。」松平主殿頭忠利三河国矢作川浚利をつとむ。大岡伝蔵清勝伏見城の番を命ぜらる。渡邊六蔵公綱。若林善九郎某は長福丸君の方に附らる。又叙爵する者あり。丹波郡代山口勘兵衛直友駿河守に改め。那須太郎資晴大膳大夫と称し(ほどなく修理大夫になる)亀井新十郎政矩右兵衛佐と称す。政矩は本多上野介正純。成瀬小吉正成を以て昵近の勤をこふ。」松前甚平次忠廣は右大将殿につかへんことを願て江戸にまゐる。」永井伝八郎尚政常陸国貝原塚にて采邑千石賜はり。渡邊忠七郎忠綱は父忠右衛門重綱が所領一萬四千石を分て三千石賜はり右大将殿に仕ふ。安藤彦四郎重能。佐久間新十郎信実は父が所領の外二百七十石余。入戸野又兵衛門宗は本領を賜ひ。大番杉浦忠太郎親俊は三百石を賜ふ。」服部石見守正就は御勘気を蒙りて岳父松平隠岐守定勝にあづけらる。」上総介忠輝朝臣始て信濃国川中島に就封せらる。」また本多中務大輔忠勝衰老をもて致仕を請といへども御ゆるしなく。両御所よりしば/\〃御使せられ病をとはせらる。よて忠勝は悉く其家政をば長子美濃守忠政にゆづりて世事にあづからず。」牧野右馬允康政も衰老をもて勤仕を辞し。何事も其子新次郎忠成をして摂せしむ。これより先康成が女をもて御猶子となされ。福嶋左衛門大夫正則に降嫁せらる。大番横山弥七郎一吉が二子半左衛門一政。代官下山弥八郎正次が子平右衛門重次。并に小姓加藤茂左衛門正茂が子伝兵衛正信。皆父死して家をつぐ。」又右大将殿水谷伊勢守勝俊がもとにならせられ。勝俊御茶を献ず。」また長曾我部土佐守元親が伏見の旧邸を松平隠岐守定行に賜ひ。又仰により島津陸奥守忠恒が女をめとらしめらる。其上に島津は久しき名家なれば。婚礼の儀式も厳重なるべしとて。一位の局その外女房数十人をしてその儀をとり行はせられ。又村越茂助直吉。日下部兵右衛門定好をして其事を監せしめらる。」又金森兵部卿法印素玄狩場にて鶴とる事をゆるされ。蒼鷹一連。黄鷹二連賜ふ。次の日其鷹もて鶴をとりて奉る。」山内土佐守一豊に四聖坊の茶入を賜ふ。」又埼玉郡増林村の御離館を越谷駅にうつされ。浜野藤右衛門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)」また京の知恩院を御造営あり。其荘厳天下無双と称す。」また中村一学忠一参観するといへども。去年家臣横田内膳を誅し国内を騒がしける事により。江戸に入事をゆるされず。よて品川駅に於て籠居せしが。日数へて後召を蒙り登営して拝謁す。」又朝鮮の僧松雲。孫文或。金孝舜対馬に来る。これは宗対馬守義智江戸に参観せし時。さきに豊臣太閤朝鮮を伐しより。両国の通信永く断たり。しかりといへども當家に於てはかの国に於て更に恨とする事なし。彼隣好を結ばんとならば。其請所をゆるすべし。我よりあながちに請べきにはあらず。汝よく此旨をもて朝鮮国王に諭すべしと仰ありしかば。義智帰国し。朝鮮に使をたてゝ其御旨をさとすといへども。朝鮮王半信半疑して更に決せず。こたび三僧を使し日本の和儀其実ならんには。江戸伏見に至り両御所に拝謁して。我国の情実を聞えあぐべし。もしさなからんには速に帰国すべしとて来らしめしなり。義智は其家司柳川豊前調信を江戸に参らせて其よしを告奉る。然るに明春は両御所共に御上洛あるべければ。義智調信はかの三僧を伴ひ。都にのぼり其期を待奉るべしと仰下さる。よて義智は三僧を具して都にのぼり。板倉伊賀守勝重にはかりて。大徳寺を旅館として三僧を饗し。御上洛の時をぞ待にける。」又近江国蒲生郡佐々木の神社は。少彦名命を一座とし仁徳。宇多の両天皇。敦実親王をもて配祀したる社にて。佐々木家代々の尊崇する所なりしが。天正の比佐々木六角承禎入道が観音寺の城没落せし後。社頭荒廃きはまり。祭田もみな烏有となりぬ。然るに庚子の乱に御祈願の事ありて。御凱旋の後社領百石を寄附せられたりしが。今年又社前に鰐口を寄附せらる。」又江戸市谷久宝山萬昌院。(今牛込にうつる)品川専光寺。(今浅草六軒町)赤坂松泉寺矢倉蓮妙寺。(今浅草六軒町)神田東福寺(今麻布本村)に寺地をたまふ。」又関東の国々永楽銭を通貨とし鐚銭を用ひず。今より後は鐚四銭をもて永楽一銭にあてゝ通用すべしと令せらる。」又長崎の湊に於て始て訳官を設らる。この時帰化の明人馮六といふ者よく国言に習へるをもて。はじめてこの役を命ぜられしとぞ。」又藤堂和泉守高虎猶子宮内少輔高吉が家士亡命し。加藤左馬助嘉明が弟内記忠明が采邑伊予の松山の下邑林村といふに潜居せしをもて。高吉討手を差むけてこれを討はたさしめしより事起り。その地を騒擾せしむ。よて高虎より其事を訴へしかば御けしきよからず。高吉は京都へ迯のぼり。薙髪して東福寺に閑居す。(寛永系図、寛政重修譜、貞享書上、家譜、松平由緒書、信府記、家忠日記、浜野書上、創業記、当代記、家忠日記追加、慶長日記、近江輿地志、大三河志、長崎実録、高名記)

巻十

東照宮御実紀巻十(全文)

 
慶長十年正月に始る 御齢六十四

慶長十年乙巳正月元日江戸城に於て右大将殿御対面歳首を賀し給ふ。其他群臣年始を賀し奉る事例の如し。(御年譜、創業記、家忠日記)○二日松平下総守忠明はじめて謡曲始の列に加はる。(家譜)○三日こたび御上洛あるべしとて法令を下さる。其文にいふ。喧嘩争論厳に停禁せらる。親族知音たるをもて荷擔せしめなば。罪科本人よりも重かるべし。御上洛の間人返しの事停禁せしむ。もしやみ難き事故あらば帰府の後其沙汰あるべし。道中鹵簿の行列はあらかじめ示さるゝ令条の如く。次第を守り供奉すべし。諸事奉行の指揮に違背すべからず。旅宿の事奉行の指揮にまかすべし。押買狼藉すべからず。渡船場に於て前後の次第を守り一手越たるべし。夫馬以下同前たるべし。他隊の輩混合する事一切停禁すべし。もし此令に違犯するものは厳科に処せらるべしとなり。」この日尼崎又二郎に大泥国渡海の御朱印を下さる。(令条記、御朱印帳)○九日御上洛のため江城を御発興あり。しかるに痳をなやませ給ひしかば。数日内藤豊前守信成が駿府城に御延滞まします。長福丸方も陪せらる。」稲毛川崎の代官小泉次大夫吉次新田開墾の事を建白せしにより。役夫の御黒印を下さる。後日成功せしかば新田十が一を以て吉次に賜はりしとぞ。(御年譜、創業記、寛政重修譜)○十一日天野孫左衛門久次が子孫左衛門重房召出されて。右大将殿につけられて焼火間番を命ぜらる。」この日島津三位法印龍伯より唐墨二笏。折敷二十献じければ。御内書を賜ふ。(寛永系図、寛政重修譜)○十三日駿府に於て大草久右衛門長栄召出され采邑三百石下さる。」栗生吉兵衛茂栄先に御勘気を蒙り籠居せしが。これも御ゆるしありて新に采邑三百石下さる。」三上太郎右衛門某も召され采邑千石給ひ。山下茂兵衛正兼も采邑三百石給ふ。(家譜)○十五日安藤彦兵衛直次武蔵近江の新墾田を合せて二千三十石余を加賜せられ。合せて一萬三千三十五石になさる。永井右近大夫直勝の給料として四千五十五石六斗余を加賜せらる(寛政重修譜)○廿日多田三八郎昌綱死して。其子次郎右衛門昌繁幼稚なるが故に。加恩三百石の地は収公せられ。先々のごとく甲州武川の輩と同じく給事せしめらる。(貞享書上、寛政重修譜)◎是月本多佐渡守正信が三子大隅守忠純に。下野国榎本に於て所領一萬石給ふ。」間宮左衛門信盛に。采邑の御朱印に茶壷をそへて下さる。」京醫今大路道三親清江戸に参る。(寛政重修譜)○二月朔日駿河国安倍郡の海野弥兵衛某に采邑の御朱印を給ふ。井出志摩守正次がうけたまはる所なり。(由緒書)○三日松平長四郎信綱に月俸を加へて五口を賜はる。(寛政重修譜)○五日御なやみ常に復らせ給ひ。この日駿府を打立せ給ふ。(御年譜、創業記)○九日青山常陸介忠成。内藤修理亮清成。伊奈備前守忠次連署して浅草東光院に寺料の替地を下さる。(由緒書)○十日中根傅七郎正成采邑二百石加へられ四百石になさる。(寛政重修譜)○十一日松平内記清定死す。其子内記清信は寛永十二年に至り召出さる。(寛政重修譜)○十二日大番組頭鎮目市左衛門惟明が二子藤兵衛惟忠召出され大番に加へらる。(寛政重修譜)○十三日昨今霜威厳酷にして草木多く涸枯る。」此夜上京下京火あり。(当代記)○十五日右大将殿御上洛あるにより。榊原式部大輔康政。佐野修理大夫信吉。仙石越前守秀久。石川玄蕃頭康長等は先駆としてけふ江戸を発程す。」此日美濃部鹿之助茂廣死して子市郎左衛門茂忠家をつぐ。(創業記、武徳扁年集成、寛政重修譜)○十六日伊達越前守政宗御上洛供奉の為江戸を発程す。(貞享書上、武徳編年集成)○十七日堀左衛門督秀治。溝口伯耆守秀勝江戸を発す。尼孝蔵主は御上洛を迎へ奉るとて途中まで参る。(武徳編年集成)○十八日大駕此日水口にいらせ給ふ。右大将殿は江戸御発輿あるべしと兼て令せられしが。大雨により御延滞あり。」此日平岩主計頭親吉。小笠原信濃守秀政。諏訪因幡守頼永。保科肥後守正光。鳥居左京亮忠政発程す。(武徳編年集成、創業記、当代記)○十九日伏見城へ着せ給ふ。」江戸よりは右大将殿先駆として米澤中納言景勝発馬す。(創業記、武徳編年集成)○廿日高倉宰相永孝卿。飛鳥井少将雅賢。烏丸右大弁光廣等伏見城にまうのぼり謁見す。」江戸よりは蒲生飛騨守秀行発程す。」駿州の海野弥兵衛某。朝倉六兵衛在重に本多佐渡守正信より。今度右大将殿御上洛の時其地に於て拝謁し。采邑新恩を謝し奉るべき旨を達す。(西洞院記、武徳編年集成、由緒書)○廿一日神龍院梵舜等伏見城にのぼり御気色うかゞひ奉る。いさゝか御なやみあるにより拝謁せずして退く。江戸よりはこの日本多出雲守忠朝。真田伊豆守信之。北條左衛門大夫氏勝。松下右兵衛尉重綱発途す。(舜旧記、武徳編年集成)○廿二日大久保相模守忠隣。同加賀守忠常。皆川志摩守隆庸。本多大学忠純。高力左近忠房等江戸を発す。(武徳編年集成)○廿三日酒井右兵衛大夫忠世。水野市正忠胤。浅野采女長重。鍋島加賀守直茂。田中隼人正。(後に忠政となのる)市橋小兵衛某等江戸を出る。(武徳編年集成)○廿四日右大将江城御首途あり。供奉は鳥銃六百挺。其奉行は三枝土佐守昌吉。森川金右衛門氏信。屋代越中守秀正。服部中保正。加藤勘右衛門正次。細井金兵衛勝久。次に弓三百挺。其奉行久永源兵衛重勝。青木五右衛門高頼。佐橋甚兵衛吉久。倉橋内匠助政勝。次に豹皮鞘の鎗二百本。近藤平右衛門秀用。都築弥左衛門為政。次に召替の御轎。舁夫熨斗付の太刀をはく。引馬龍(元字は有篇)者上に同じ。猩々緋黒羅紗にてつゝみし御持筒五十挺。御持弓三十挺。挟箱二十荷。長刀二振。持夫上に同じ。次に御輿。舁夫熨斗付を帯す。次に御持鎗五柄。持夫上に同じ。次に騎馬。供奉の輩は茶具奉行長谷川讃岐正吉。小姓の輩は青山図書助成重。安藤対馬守重信これを属す。次に使番。次に大番士。其次は土屋民部少輔忠直。高木善次郎正次。次に柴田七九郎康長。安部弥一郎信盛。内藤新五郎忠俊。牧野九右衛門信成。内藤若狭守清次。上杉源四郎長貞。土方河内守雄久。藤堂内匠助正高。溝口孫左衛門善勝。西尾隼人某。戸川宗十郎某。須賀摂津守勝政。神谷弥五郎清次。秋山平左衛門昌秀。下曾根三右衛門信正。跡部民部良保。駒井孫三郎親直。柴田三左衛門勝重。阿部備中守吉親。牧野傅蔵成純。真田左馬助信勝。永田四郎三郎直時。木造左馬助某。青山常陸介忠成。水野隼人正忠清。堀伊賀守利重。堀讃岐守某。次に若党。馬乗奉行。歩行士。小者。次に永田善左衛門重利。永井弥右衛門白元。次に御馬廻。鉄砲奉行朝倉藤十郎宣正。また供奉の輩みづからの器械鳥銃千挺。弓五百挺。鑓千柄。長刀百挺。挟箱三百なり。今夜神奈川の駅にやどらせ給ふ。(武徳編年集成、御年譜)○廿五日後騎の輩江城を進発す。酒井宮内大輔家次。牧野駿河守忠成。内藤左馬助政長。小笠原左衛門佐信之。次に松平上総介忠輝朝臣。松平周防守康重。次に最上出羽守義光。次に佐竹右京大夫義宣。次に南部信濃守利直。次に鳥居左京亮忠政押後す。先後の供奉の中にも。甲信の輩は木曽路をのぼり大津にて諸勢をそろへしむ。凡道中前後十六日の間人馬陸続して透間なし。この夜右大将殿藤沢の駅にやどり給ふ。夜に入て軽雷あり。(御年譜、当代記)○廿六日小田原につかせ給ふ。」本多佐渡守正信より。海野弥兵衛某。朝倉六兵衛在重をして諸国の材木を巡察せしめらるゝ旨を駿遠信甲の輩にふれ渡さる。(御年譜、由緒書)○廿七日三島に着せらるゝ。雨によりこゝに三日延滞し給ふ。(御年譜)○廿九日右大将殿供奉の先駆はけふ入洛す。(大三河志)◎是月三河の郡士松平久大夫政豊。御上洛のとき御途中にてはじめて拝謁し。召出さるべき旨仰を蒙る。」松下善十郎之勝采邑五百石賜はる。」石谷十右衛門政信右大将殿に附けらる。(家譜、寛政重修譜、寛永系図)○三月朔日右大将殿三島駅に御滞座あり。(御年譜)○二日右大将殿三島を御発輿ありて蒲原にいらせ給ふ。」この日野辺傅十郎正久死してその子助左衛門当経つぐ。(御年譜、寛永系図)○四日右大将殿藤枝につかせ給ふ。」神龍院梵舜は伏見にのぼり拝謁し杉原十帖扇子を献ず。(御年譜、舜旧記)○五日右大将殿懸川にやどらせ給ふ。(御年譜)○六日松平左馬允忠頼が浜松の城によぎらせ給ひ。こゝに御滞留あり。(寛永系図)○七日けふも浜松に滞留し給ふ。(御年譜)○八日吉田につかせ給ふ。」伊達越前守政宗はけふ大津に着せり。(御年譜、貞享書上)○九日右大将殿岡崎につかせらる。(御年譜)○十日下野守忠吉朝臣の清洲の城にいらせ給ひ。こゝに御滞留あり。(御年譜)○十一日清洲城にて忠吉朝臣右大将を饗せられ猿楽を催さる。(御年譜)○十二日伏見城にて囲棋の御遊あり。神龍院梵舜まいる。」右大将殿けふも清洲城に御滞留あり。(舜旧記。御年譜)○十三日右大将大垣に着せ給ふ。(御年譜)○十四日井伊右近大夫直勝が彦根城に入らせ給ふ。(寛政重修譜)○十五日永原にいたらせ給ふ。青山藤蔵幸成配膳の役を命ぜらる。(御年譜、寛永系図)○十七日戸田左門氏鐵が膳所崎の城にいらせ給ひ。こゝに三日御滞留ありて。後騎の輩到着を待せ給ふ。(御年譜、家譜)○十八日春日明神薪能の事により。五師并に奈良の父老六人を伏見に於て対決せしめらるゝ所。父老等専恣の挙動まぎれなきにより五人禁獄せしめらる。寿閑といへるは八旬を越たる大老なれば。しばらくなだめられてその沙汰に及ばれず。」この日島津陸奥守忠恒伏見にのぼり拝謁し。御刀二口賜ふ。」又先手頭佐橋甚兵衛吉久死して。その子治郎左衛門吉次つがしめらる。(春日記録、寛政重修譜、家譜)(吉久始は乱之助といふ。射芸に達し。元亀元年姉川の戦に朝倉勢のむらがり進みしを射払て。敵を追しりぞけしよりして。三方が原。長篠。田中。長久手の戦毎に射芸をあらはさずといふことなく。関原の戦にのぞみ。今の御所に付られ。今の職奉はり。伏見にありて死す。五十九歳なり。此人右大将殿に射芸をつたへ奉りしとぞ)(寛永系図)○廿一日右大将殿膳所崎の城を出まし。これより前後鹵簿をとゝのへられ。粟田口より醍醐を過て伏見城に入らせ給ふ。御行装綺羅をつくさる。京中の貴賤市人等まで御卯迎にまいるもの道もさりあへず。都鄙近國にこの御行装をおがみ奉らんと。路傍に蹲踞する者雲霞のごとくあつまりて立錐の地もなし。伏見城にては朝とくより舟入櫓にならせられ。この御行装を御覧じ給ふ。(西洞院記、舜旧記、家忠日記)○廿三日諸大名伏見城にのぼり拝謁す。(貞享書上)○廿六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁す。」二条御殿預三輪七右衛門久勝死してその子市十郎久吉つぎ。父の原職を命ぜらる。(舜旧記、由緒書)○廿七日神龍院梵舜まうのぼり拝謁す。慶鶴丸。権少副并社家等太刀折紙を献ず。神主。祝。禰宜等の次第。并日本紀の事ども御垂問あり。(舜旧記)○廿八日斎藤新五郎利次死す。蔭料千石を御書院番左源太利政に賜h。(寛政重修譜)○廿九日右大将殿御参内あり。国々の大名こと/\〃く供奉す。これは去年右近衛の大将かけ給ひし御拝賀とぞ聞えける。先伏見より二条にわたらせられ。施薬院にて御衣冠をめさる。禁裏にては四足門より高遺戸をへ給ひ。鬼間にやすらひ給ふ。御帳台の前を御座とし。上段の北に親王の御座を設けられ。下段に大将殿わたらせ給ふ。主上臨御まし/\。天酌にて御三献まいる。其後国々の諸大名四位以上御盃を下さる。大将殿より御太刀。御馬。綿三百把。銀二百枚まいらせ給ひ。親王へ綿二百把。銀百枚。女御へ綿百把。銀百枚。女院へ銀百枚。紅花百斤進らせられ。女房へは小袖料とて銀若干つかはし給ふ。国々の諸大名よりは太刀馬代をささぐ。事はてゝ伏見へかへらせ給ふ。(御年譜、西洞院記)◎是月島津少将忠恒伏見に参観す。」右大将殿より朽木信濃守元綱に鹿毛の馬。其子兵部少輔宣綱に黒鹿毛馬をたまひ。又竹腰源太郎正好初見し奉りし時。虎皮鞍覆せし馬一疋たまはり。騎法を学ぶべしと仰下さる。」又細川越中守忠興。その二子長岡與五郎興秋を質子として江戸へ進らせしに。興秋いかに思ひけむ道より逐電せり。よて従弟長岡平左衛門を江戸へ進らす。」又この春通商のため呂宋。東京。暹羅に渡海せし船一艘もかへり来らず。あるは風涛の変にあひ沈溺せしといひ。あるは異域にて賊殺せられしともいふ。其踪迹さだかならず。」又伏見城にて東鑑刊刻の事を令せらる。此頃いまだ世にしる者少かりしに。武家の記録是よりふるきはなし。尤考証となすべきものなりとの盛慮とぞ。(家譜、寛政重修譜、当代記)○四月五日右大将殿。金森法印素玄が伏見の邸にわたらせられ終日饗し奉る。(慶長年録)○七日御みづからの御齢も六十あまり。四年の春をかさね給ひ。右大将殿もやゝをよすげ給へば。大将軍の重職を御譲りまし/\。今は御心のどかに御代をうしろみ聞え給はんとの御本意もて。こたび御上洛まし/\けるより。この日御辞表を奉らせ給ふ。」けふ。関五郎左衛門吉兼死して。其子傅兵衛吉直つぐ。(御年譜、創業記、家譜)○八日伏見より御入洛あり。」細川越中守忠興が子内記忠利は従五位下。最上出羽守義光が子駿河守家親は従四位下に叙し。共に侍従に任ず。(舜旧記、家譜、寛政重修譜)○十日御参内あり。これは御辞表の事内にも聞召入られしを謝し給ひしなるべし。(創業記、家忠日記)○十二日大坂の豊臣内大臣秀頼公を右大臣にあげらる。(家忠日記)○十三日神龍院梵舜當家の御系図を考定し。二条に参りて進覧す。(舜旧記)○十五日御譲任の事内にもことはりと聞召入られ。御素志の事ども思召まゝに御治定ありければ。伏見にかへらせたまふ。(御年譜、創業記)○十六日勅使広橋権大納言兼勝卿。勧修寺権中納言光豊卿等二条城に参向あり。右大将殿に征夷大将軍を授られ。正二位内大臣にあげ給ひ。淳和奨学両院別当。源氏長者とせられ。牛車にて宮中出入の御ゆるしまで。御父君にかはる事ましまさず。御所は此時より大御所と称し奉り。しばし伏見の城にゐましけるが。おなじ九月十五日伏見を出まし。十月廿八日江戸に還御なる。」同十一年三月十五日また江戸をいでまして。四月七日都にいらせ給ひ。伏見または二条にわたらせられ。十一月四日江戸にかへらせ給ふ。」十二年五月朝鮮国よりはじめて使を参らす。豊臣太閤文禄の遠伐より隣好もたえはてしを當家世を治め給ふによて。いにし恨もとけて。遠を懐くるの御徳をしたひ奉るとぞ聞えし。」この正月より駿府の城を経営せられ菟裘に定め給ひ。七月三日駿府にうつらせられ永く御所となさる。この後はしば/\〃駿府より江戸にも往来し給ひ。御道すがら鹿狩鷹狩等をもて人馬の調練武備の進退はいさゝかも怠らせ給はず。将軍また御孝心世にすぐれまし/\。何事も御庭訓を露たがへ給はず。瑣末の事といへども。御旨をこはせ給はず御一人の思召もてうけばり行はせ給ふ事はましまさず。御みづから駿府におもむかせたまひ。または御使をまいらせられ。御ゆづりをうけさせられし後も。たゞ子たるの職を拱し守りておはしければ。大御所御隠退の後も猶二なく大政をうしろみたすけ給ひ。むつまじく萬機をはかりあはせ給ふ。かゝるためしなむ昔も今も又あるべくも覚えず。」十四年春のころ島津陸奥守家久御ゆるしをこひて琉球国をせめふせ。中山王尚寧をはじめ其一族等多く生取。駿府江戸に引つれてまいりしかば。中山王はさらなり。その国人はゆるして国にかへされ。琉球国をばながく島津が家につけらる。」大坂の右府秀頼は。庚子の乱に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば。その時秀頼をも誅せられ。永く天下の禍根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣いさめ奉りしかども。秀頼いまだ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは父太閤の旧好もすてがたしとて。寛仁の御沙汰にして。秀頼母子の命を助け給ふのみならず。そのまゝ大坂の城におかれ。河内。摂津を領せしめられ。今は御孫姫君にさへあはせ給へば。秀頼もあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど。■母。賊臣等がゆへなき讒言を信じ。良臣を遠ざけ無頼のあふれものをあつめ。天下逋逃の薮となりしかば。諸国の注進櫛の歯を引が如し。今は思ひの外の事とみけしきよからず。十九年十月十一日駿府を出て大坂へ御動座ありしかば。将軍にも同じ廿三日江戸を御出馬あり。凡五畿七道の軍兵数十萬騎。雲霞の如くはせあつまり大坂の城をとりかこむ。城かたもはじめのほどこそあれ次第に心よはりて。和順の事をこひまいらせしにぞ。堀築地をやぶりて事たいらぎしに。いくほどもなくあくる元和元年の春のころ。又不義のふるまひあらはれしかば。再び御親征あるべしとて。四月十八日二条の城につかせ給へば。将軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ。五月五日両御旗を難波にすゝめられ。六日七日の合戦に大坂の宗徒のやから悉く討とられ。秀頼母子も八日の朝自害し。城おちいりしかば。京都に凱旋あり。」ことし七月七日公家の法制十七条。武家の法令十三条を定められ。天下後世の亀鑑と定めまし/\。将軍は其十九日都をいでゝ八月四日江戸にかへらせ給ひ。大御所にはその日御出京ありて廿四日駿府に還御あり。」翌年の正月廿一日大御所駿河の田中に鷹狩せさせ給ひしに。その夜はからずも御心ち例ならず悩ませ給ひ。急ぎ駿府に帰らせ給ふ。聊かをこたらせ給ふ様なりしかど。はかばかしくもおはしまさず。江戸にもかくと聞召おどろき給ひ。御みづから急ぎ駿府にならせ給ひ。萬にあつかはせ給へば。九重の内にても延命の御修法など行はれ巻数まいらせらる。されば諸社諸寺の御祈は更なり。天下に名あるくすしども召集め御薬の事議せしめらる。内には猶も撥乱反正の大勲にむくはせ給はんの叡慮深くましましければ。今一きざみ長上を極めしめ給はんとあながちに勅使を下され。三月廿七日太政大臣にすゝめ給ふ。この頃はいとあつしく渡らせ給ひながらも。猶天恩のかたじけなさを畏み給ふあまり。御いたはりをしゐておもたゞしく勅使を迎へさせ給ひ。紫泥の詔をうけ給ひき。されど御年のつもりにや日をふるにしたがひかよはくならせ給ひつゝ。四月十七日巳刻に駿城の正寝にをいてかんさらせ給ふ。御齢七十に五あまらせ給ひき。将軍外様をはじめ。凡四海のうちに有としあるものなげき悲しまざるはなかりけり。御無からは其夜久能山におさめまいらせ給ひ神とあがめ奉る。」あくる三年二月廿一日内より東照大権現の勅号まいらせられ。三月九日正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて霊柩を下野国日光山にうつし奉り。四月十六日御鎮座ありて十七日御祭礼行はる。年月移りて正保二年十一月三日重ねて宮号宣下せられ東照宮とあふぎ奉り。あくる年の四月より始めて例弊使参向今に絶せず。」仰すめるものはのぼりて天となり。にごれるものは下りて地となりしより此かた。御裳濯川のながれかれせず天津日継の御位うごきなき中に。清和天皇幼くて御位つがせ給ひしよりこのかた。外戚の家政柄を世々にせられしかば。藤氏の権海内を傾くるにいたりしが。鳥羽の上皇昇天の後。棣萼の御爭出来しより。その権源平の武家にうつりぬ。しかるに鎌倉右大将(頼朝)一たび伊豆の孤島より義旗をあげられ。平氏の武家は一門こぞりて寿永の春の花とちりはてゝ。終にわたつ海のそこのもくづとしづみにしのちは。天下たゞ武家の沙汰に帰しぬ。右大将家の後三代にしてたえしかば。陪臣北條義時がはからひにて。都よりあるは藤氏の庶子を請て主となし。あるは親王を申下して君と仰ぎ。をのれ国命を専らにしたるに。元弘。建武に至り後醍醐天皇高時を誅せられんと。新田。足利の武力をかりて叡慮のまゝに北條を誅し。中興の業はなし給ひつれど。皇統又南北にわかれ。終に足利氏天下を一統する事とはなりぬ。されど是も尊氏詐謀奸智をもて。上をあざむき衆をたばかりて。そのもと正しからざれば。下又これにならひ。足利氏十五世をふるが間。骨肉相残し父子兄弟互にあらそひ。強は弱をあはせ衆は寡を犯す。まして応仁より此かた四海瓦のごとく解け。逆徒蜂のごとくおこりて天倫の道たえ。萬民塗炭のくるしみを受る事こゝに百年にあまりぬ。織田右府(信長)勇鋭にして義昭将軍を翼載するかとすれば忽にこれを放逐し。その身も又賊臣のために弑せられ。豊臣太閤の雄略なる。其身草間より出て旧主の讐を伐て遂に宇内を一統せしも。驕逸奢侈にふけり遠征を事とし萬民の疾苦をかへりみず。其余威二世につたふるに及ばず。此時にあたり維獄より神をくだし真主こゝにあれまし。寛仁大度の御徳そなはらせ給ひ。武はよく乱にかち。文はよく治を致し。終に海内百有余年の逆浪をしづめ。天下大一統の成功をとげ給ふ。しかれば足利氏以来の暗主奸臣はいふまでもなし。織田氏の強暴豊臣氏の傲慢なる。ともにみな淵のために魚をかり。薮のために雀を逐ふたぐひにて。真主の為に天これをまうくるものなるべしとしらる。されば萬世無彊の基をひらき給ひし功徳。なまじゐに石の火のうちいでんも憚りの関のはゞかりあることながら。朝政武断に帰せし後。一人として実に尭舜の道をたふとみ。聖賢のあとをまなばれし主ある事をきかず。しかるに烈祖ひとり干戈の中にひとゝならせ給ひ。沐雨櫛風の労をかさね嶮岨艱難をなめつくし給ひし千辛萬苦の御中にて。はじめて世を治め天下を平らかにせんは。聖人の道の外にあらざる事をしろしめし。惺窩。道春などいへる一時の儒生をめしあつめられ。大学。論語ならびに貞観政要などよませて聞しめし。其外承兌。崇傅。天海などいへる碩学どもを召て内外の諸紀傅を聞せ給ひ。駿府におはしまして後も。道春に四書六経をよび武経七書などを講ぜしめられ日夜顧問にそなへられ。関原御凱旋の後はことさら御心を萬機にゆだねられ。国やすく民ゆたかならむ事をのみ思召。天下後世のために業をはじめ統をたれ。大経大法を大成し給ひ。聖子神孫いやつぎ/\〃に太平無彊の大統をつたへ給ふ。其精神命脈はひとり好文の神慮にこそおはすべけれと仰ぎ奉らるゝ事になん。かくてぞふたらの山の日の光は。こまもろこしの外までもあまねくてらしまし。武蔵野の露の恵は。敷島の大和島根うるほさゞる方もなし。千早振神の御徳御いさほし。凡髪をいたゞき歯をふくむたぐひ。たれかこれをかしこみもかしこみ。をそれみもをそれみ仰ぎ奉らざるものあらんや。(御年譜、宮号宣下記)

 

(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)


 

 

 












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