東照宮御実紀附録

東照宮御実紀附録巻一

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻一(全文)

かけまくもかしこき東照宮君。応仁よりこのかた蠢のごと乱れ瓜のごと分れし百有余年の大乱を打平げ。久堅の天ながく。荒がねの地かぎりなき洪業を開かせ給ひし御事蹟は。つばらに本編にかきしるし奉りぬ。御嘉言御善行のごときに至りては。悉く本編に載べくもあらざれば。今諸書に散見する所の。疑はしきをさり正しかるべきをつみとりて。藻鹽草かきあつめ。本編の末に附し奉るにこそ。」抑まだ御幼稚の御程よりあやしくさとくおはしまして。なみ/\の児童の及ぶ所にあらざる事はいふべくもあらず。八歳にならせられし時。尾張の織田信秀が為に囚れ。同国名古屋の天王坊といふにおはしませし時。熱田の神官御徒然を慰め奉らんとて。黒鶇といへる小鳥のよく諸鳥の音を似するを献じければ。近侍等いとめづらしきものにおもひめで興じけり。君御覧じて。彼が珍禽を奉りし心えはさる事なれど。おぼしめす旨あれば返しくださるべしと聞え給へば。神官思ひの外の事にて持帰りぬ。その後近侍にむかはせられ。この鳥はかならず。己が音のおとりたるをもて。他鳥の音をまねびて。その無能をおほふなるべし。おほよそ諸鳥皆天然の音あり。黄鳥は杜鵑の語を学ばず。雲雀は鶴の声を擬せず。をのがじゝ本音もて人にも賞せらるれ。人も亦かくのごとし。生質巧智にして萬事に能あるものは。かならず遠大の器量なき者ぞ。かゝる外辺のみかざりて真能のなきものは。鳥獣といへども。まだいとけなくわたらせたまひ。ひろく物の心もしろしめさぬ御程にて。かゝることおもひ至らせ給ふは。行末いかなる賢明の主にならせ給はんと。あやしきまでに感じ奉りぬ。後に聞ば。黒鶇ははたして本音のなき鳥なりとぞ。後年に至り豊臣太閤の諸将を評せられしにも。今川氏真。織田信雄など。華奢風流の事はよくなし得たれど武門の器にともし。徳川殿は何ひとつ技芸のすぐれし事は聞えざれども。将に将たる器量を備へられしと感ぜられし事あり。いかにも御幼稚の御ほどより。衆人に殊なる御本性におはしましたるならむと。今さら膽仰せらるゝ事になん。(故老諸談、道斎聞書)
五月五日児童の戯とて。隊を分ち石もて打あふを。俚語にいんぢうちといふは。石打といふ詞のよこなまりしにて。ふるくより児戯とせしは。全く戦国争闘の風童部にもをしうつりしなるべし。君はいまだいとけなくて駿河の今川がもとにおはしける時。石打見そなはさんとて。近侍の者の肩に負れ阿部河原に出ませしに。一隊は三百人あまり。一隊は百四五十ばかりなり。人々みな多勢の方により来て見んとす。君われは小勢の方にゆかむ。小勢の方の人は自ら志を一決して恐怖の念なく。隊伍もいとよく整ふものぞと仰せければ。かの侍。この君何をしろしめしてさは仰せらるゝぞといぶかしく思ひしが。程なく打合はじまりしに。多勢の方一さゝへもせず敗走し。見物の者もそが方にゆきしは。人なだれにおしすくめられ。からうじて迯ちりぬ。この事聞き傅へし者ども。御年の程にも似つかはしからぬ御聡明の御事かなと。感じ奉らぬはなかりしとぞ。(故老諸談、太平夜談抄)
按に。大勢の方は農民なり。微勢の方は武士なり。微勢の方かならず勝むと仰られしが。果して其ごとくなりしといふ説もあり。
天文廿年正月元日今川が館におはしませしとき。かの家臣等義元が前に列座して拝賀す。君いとけなくてそが中におはしますをいづれもあやしみ。いかなる人の子ならんといふに。松平清康が孫なりといふ者なれど信ずる者なし。其時君御座をたちて縁先に立せられ。なにげなく便溺し給ふに。自若として羞怎のさまおはしまさず。これより衆人驚嘆せしとぞ。(紀年録)
駿府におはしませし頃。一日大祥寺といふ禅刹へ成せられしに。鶏廿羽ばかりかひ置きしを御覧じ。住僧にこの鳥一羽われにあたへぬかと宣へば。住僧皆なりとも献らん。菜圃を啄みあらせども。をのれと生育いたし候へば。先そのまゝに飼置きぬと申せば。咲はせられながら。この法師は鶏卵くふ事はしらぬかと仰らる。後に駿河御領国となりし時。かの住僧殊勝の者なりとて。めして寺領御寄附ありしとなり。(君臣言行録)
鳥居伊賀守忠吉は清康廣忠の二君につかへ奉り。君の駿河にわたらせ給ひし時。今川がはからひにて松平次郎左衛門重吉と共に御本国にとゞまり。賦税の事を奉行せしめられしかば。忠吉が子彦右衛門元忠をば。君の御側にまいらせ置て御遊仇とせしが。君は十歳。彦右衛門は十三歳なり。斯る折から殊に悦ばせ給ひ。朝夕したしみかたらひ給ふ。そのころ百舌鳥をかひ立て鷹のごとく据よと。彦右衛門に教へ諭し給ひけるが。据方よからずとていからせ給ひ。橡より下に突き落し給ひければ。御側にありあふ者ども。忠吉が忠誠を尽すあまり。己が愛子までをまいらするに。いかでかく情なくはもてなさせたまひそと諌め奉りしを。忠吉は後にこのこと傅へきゝて。なみ/\の君ならんには。御幼稚にてもそれがしに御心を置せ給ふべきに。いさゝかその懸念おはしまさで。御心の儘に愚息をいましめ給ふ。御資性の闊大なるいと尊とし。この儘に生立せ給はゞ。行末いかなる名将賢主にならせ給ひなん。それがし犬馬の齢すでに傾き。余命いくばくもなし。御行末を見つがん事かたし。彦右衛門汝は末永くつかへ奉り。萬につけてをそそかにな思ひそとて。かへりて己が子のもとへは厳しく申送りしとぞ。人みな忠吉が忠貞にして私なきを感じけり。(鳥居家譜)
按に。鳥居が家譜には。伊賀守忠吉駿府に附そひつかふまつりし様にしるせしは誤にちかし。忠吉はこの頃岡崎に残りて御領の事奉行してありしなり。
尾張におはしませし頃。織田の家士河野藤右衛門氏吉ことにいたはり奉り。常に百舌鳥。山雀などさま/\〃の小鳥ども献じ御心を慰めければ。御手づから葵に桐の紋ほりたる目貫をたまひ。後々もその厚意を忘れ給はで。関原の後にめし出して御身近くめしつかはれぬ。」またおなじ頃鷹狩に出給ふに。鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ。そが中にをし入りて摺据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ。三河の悴にはあきはてたりといふをきこしめしけるが。年経て後高天神落城して。孕石生擒に成て出ければ。彼わが尾張に在し時。我をあきはてたりと申たる者なればいとまとらするぞ。されど武士の礼なれば切腹せよとて。遂に自殺せしめられしなり。(東武談叢、三河の物語)
弘治二年正月十五日御年十五。駿河国にて御首服加へ給ふ。今川義元加冠し。関口刑部少輔親永理髪し奉る。其年尾州の織田信長三河の城々を侵掠するよし聞えければ。君義元にむかはせられ。それがし齢已に十五にみちぬれど。いまだ本国祖先の墳墓を拝せず。哀願くはしばしの暇賜はり故郷にかへり。亡親の法養をもいとなみ。且は家人等にも対面せまほしと仰ければ。義元も御孝志の深厚なるに感じ。仰の儘に許し聞えぬ。君大によろこばせ給ひ。いそぎ三河へ御返ありて。御祖先の御追善どもくさぐさ執行れ。御家人等もこぞりて悦ぶ事大方ならず。岡崎にわたらせ給ひても。本丸には今川より付置し山田新右衛門など城代としてありけるに。君岡崎はわが祖先以来の旧城といへども。それがしいまだ年少の事なれば。これ迄のごとく本城には今川家より附置かれし山田新右衛門をその儘すゑ置れ。それがしは二丸に在て。よろづ新右衛門が意見をも受くべきなりと仰せ遣はされしかば。義元大に感じ。朝比奈などいふ家長にむかひ。この人若年に似合はぬ思慮の深き事よ。行末氏真が為には上なき方人なりとて喜びけるとなん。(岩淵夜話別集)
弘治二年柳原兵部といへる者良馬を献る。無双の駿蹄にして名を嵐鹿毛といふ。是を誓願寺の住僧泰翁もて室町将軍家へ進らせらる。光源院殿悦斜ならず。手翰及び短刀を贈らる。是ぞ當家より柳営へ通信ありし権與なり。(武徳大成記)
按に。其頃京都将軍駿馬をもとめ給ひ。織田家へも命ぜられけれども。とかくさるべき馬も奉られざるよしを聞召。元三河の国大林寺の住僧泰翁。今は京の誓願寺の住職して。常に室町殿へも懇にまいりつかうまつるよし聞召してやありけん。其泰翁をしてまいらせられしなり。其時将軍家よりくだされし手書は今も秘府につたへたり。(この泰翁縉紳家にもひろく交り。知音多かりしかば。此後弥公家堂上の人々へも媒介せし功をもて。後に三河国岡崎の城下に寺地を賜ひ。泰翁院誓願寺を建たるなり。世俗傅ふる所の三河記等に。この嵐鹿毛を進らせられし事を。今川義元が執せし事のごとく傅へしは。全く誤傅としるべし)
今度早道馬事。内々所望由申候処。対2松平蔵人佐1被2申遣1。馬一疋(嵐鹿毛)則差上段。悦喜此事候。殊更無2比類1働驚レ目候。尾張織田上総介方へ雖2所望候1。于レ今無2到来1候処。如レ此儀別而神妙候。此由可レ被2申越1事肝要候。尚松阿可レ申也。
三月廿八日  書判
誓願寺泰翁

駿河におはしけるころ。今川がはからひにて御家人阿部大蔵安吉。石川右近某の二人に岡崎の留守させ。鳥居伊賀守忠吉。松平次郎右衛門重吉二人は御領の事を奉行させ。賦税はみな義元押領せし間。忠吉ひとり辛苦して年比米銭どもあまた貯へ。かねて軍儲に備置きしが。御帰城ありしをまちつけて忠吉よろこびにたえず。御手を引て蔵ども開て御覧にそなへ申けるは。それがし多年今川の人々にかくしてかくものせしは。我君はやく御帰国ありて御出馬あらば。御家人をもはごくませ給ひ。軍用にも御事欠まじき為にかくは備置きぬ。それがし八旬の残喘もて朝夕神仏にねぎこしかひありて。今かく生前に再び尊顔を拝み奉ることは。生涯の大幸何ぞこれに過ぎむやと。老眼に泪をうけて申ければ。君にも年比の忠志。かつ資財までを用意せしを感じ思召し。さま/\〃懇に仰なぐさめ給ふ。この時忠吉銭を十貫づゝ束ねて竪に積み置きしを指して。かく積置ば何程かさねても損ることなし。世人のする如く横につめば。わるゝものなりと聞え奉りしかば。後々までも此事思召し出され。銭をつむにはいつもその如くなされて。こは伊賀が教しなりと常々仰せられしとぞ。(鳥居家譜)
岡崎に還らせ給ひし比にや。一日放鷹にならせ給ひけるに。折しも早苗とる頃なるが。御家人近藤何がし農民の内に交り早苗を挿て在しが。君の出ませしを見て。わざと田土もて面を汚し。知られ奉らぬ様したれど。とくに御見とめありて。かれは近藤にてはなきか。こゝへよべと仰あれば。近藤もやむことを得ず面を洗ひ。田畔に掛置し腰刀をさし。身には渋帷子の破れしに縄を手強(元字は糸篇)にかけ。おぢ/\はひ出し様目も当られぬ様なり。そのときわれ所領ともしければ。汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず。汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば。かく耕作せしむるに至る。さりとは不便の事なれ。何事も時に従ふ習なれば。今の内は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて。世を渡るこそ肝要なれ。憂患に生れて安楽に死すといふ古語もあれば。末長くこの心持うしなふな。いさゝか耻るに及ばずと仰有て御泪ぐませ給へば。近藤はいふもさらなり。供奉の者どもいづれも袖をうるほし。盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。(岩淵夜話別集)
永録二年今川義元大兵を越し。尾張の織田信長を攻亡し。上方に打つて上らんとて。国境所々にまづ新砦を構へ。大高の城をば鵜殿長助長持をして守らしむ。織田方にはこれを支むため大高に対城をかまへ。丹家の城は水野帯刀。山口海老丞。柘植玄蕃。善照寺の城は佐久間左京。中島の城は梶原平左衛門。鷲津の城は飯尾近江守。同隠岐守。丸根の城は佐久間大学をこめ置防禦の備をなし。其外寺部。挙母。広瀬の三城をも取立。大高の通路を遮りければ。城中糧食乏しくしてほとんど艱困に及ぶ。義元いかにもして城中に糧を送らむとおもひ。家のおとなどをも集め評議したれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなかりしに。君纔に十八歳にまし/\けるが。かひ/\〃しくも此事うけ引せ給ひ。其年四月九日の夜半ばかり岡崎を出立せ給ひ。松平左馬介親俊。酒井與四郎正親。石川與七郎数正先鋒奉はり。大高。丸根。鷲津等の諸城を打こえ。はるか隔りし寺部の城に攻かゝらしめ。御みづからは精兵八百ばかりに輜重千二百駄を用意して。大高のこなた二十余町ばかりにひかへ給ふ。先手寺部に押よせ。木戸を破り火を放ち。そが光に乗じてさつと引上。また梅坪にをしよせ。同じさまにせめ戦ひ。二三の丸まで押入。銃声おびたゞしく聞えければ。丸根。鷲津の城兵等大高をばすて置。みな寺部。梅坪の援兵に打て出。諸城ともに人少きよし。細作かへりきて聞えあげしかば。時こそ至れと急に兵を進めて。難なく糧を城中に送らせ給ひけり。君には思ふ様に仕すまして御人数をあつめて引上給ふ。鷲津。丸根の城兵かへりきて。たばかられしを悔れどもかひなし。はじめ岡崎をうち立せられし時。酒井。石川等の老臣等あながちに御出馬を止めけるが。さらに聞入たまはず。御帰城ありし後。老臣等いかにしてこの奇功を奏せられしと伺ひけるに咲はせ給ひ。たゞ大高に兵粮を入むとのみ思へば。丸根。鷲津その外の城兵ども。みな大高にはせあつまりてさまたげむとすべし。ゆへに両城に押よせ敵兵をたばかり出し。そが虚に乗じて糧を入れしなり。近きを捨て遠を攻るは兵法の常にして。あながち奇とするにたらずと仰られしかば。いづれもみな感嘆し。今の御弱齢にてかく軍略に通ぜられしは。天晴末頼き御事かなとかしこまざる者なし。これ今の世までも大高兵粮入といひて。第一の御若年の御美誉にもてはやし奉る事にぞ。(武辺咄聞書)
大高の城に兵粮を入給ひし後。今川義元より。西三河は御旧領なれば御心のまゝに切取給へとあつて。寺部。梅坪。広瀬。挙母。伊保等の城々を御手勢もて攻取給ひ。勲功ある者共に分ち給ふ。御家の人々もはじめて。御武略のすぐれ。あやしうおゝしくおはしますこと。御祖父の君(清康君)に似させ給ひしとて一同感悦し奉り。今川義元も大高の奇功を称して。竜馬の種が竜馬を生むとは。この君の御事ならんとてめで奉りてとぞ。(武徳大成記)
今川義元今度尾州表発向するに及び。君をば鵜殿にかへて大高城を守らせしに。義元はからずも桶狭間に於て織田信長が為に討れし時。君にはその沙汰聞し召つれど虚実いまださだかならず。かゝる所に御母方の御おぢなりし水野下野守信元より。浅井六之助道忠してそのよし告奉りしは。義元既に討れぬ。今川が持の城々皆明退たり。君にもはやく其城を捨て御本国へかへらせ給へと申す。御家人等も同じ様に勤め奉る。君聞しめし。野州外家の親ありといへども。当時織田方に属する上はその言信じ難し。もしそのいふ所の実ならざらんには。故なくして当城を明退き。人に後指さゝれんは。武門の耻辱是にすぎず。道忠をば捕らへ置て。味方の一信を持べしと仰ありて。今までは二丸におはせしを俄に本丸に移らせ給ひ。ひとへに守禦の備をなし給ふ。しばしゝて岡崎の城守りたる鳥居忠吉が方より。事の様詳に聞えあげ。且今川より岡崎の城守らせし者共も引退よしなれば。さらば此城引はらへと仰在て。道忠を嚮導となされ。宵の間は道たどたどし。月待出て引取と命ぜらる。諸人は一刻もはやく引んと思ふに。いと悠然として公(元字は心が下につく)忙の様見え給はず。時刻にもなれば道忠に松火を持しめ御先に進ましむ。古兵のいひしごとく。夜中に敵国ををしゆくにはその習あり。騎馬を十町ばかり先に立て。歩行立には松火を持しめずと仰ありて。艱阻の所毎に道忠松火を振べしと定められ。上下卅人ばかりの士卒を随へ。切所に一人づゝ残して後れ来る者にしらしめ。路々一揆共を追はらひつゝ池鯉鮒に出まして。遂に恙なく岡崎の城に還らせ給ひしなり。今川の人々この事承り傅へて。緒己が身に引くらべて恥かしき事に思ひ。織田信長も。信義あつく末たのもしき大将なりと称し奉りけり。この歳御年十九にならせ給ひしとぞ。(東遷基業、落穂集、岩淵夜話別集)
岡崎に還らせ給ひ。さきに今川より番衛せしめされ。汝等かへり氏真に申べきは。このたびの凶変おなじく驚き思召所なり。さりながら信長いま大利を得て。将驕り卒怠るのときなれば。其不意を伐ば味方勝利うたがひなし。一日もはやく兵を進められんには。それがしも手勢引連。さび矢の一筋も射て。故吏部の旧恩に報ぜんとおもふ。よく/\この旨氏真はじめ諸老臣に申通よと仰けり。しかるに氏真もとより天資闇弱にして。父が仇むくひん志もなく。ただ平常のごとく仏事作善にのみ日を暮し。又三浦右衛門抔いふ姦臣を寵任し。普第の老臣を疎遠にしければ。上下離畔して国政も日にそひて頽敗す。其後も出軍の事度々仰勧られしかども。氏真酒宴乱舞にのみ耽りて何の心付もなし。このほど信長よりは。しば/\水野信元をもて講和を請れしかば。氏真父の弔合戦は孝子の至情より起れば。急遽に出て其機を失はぬを肝要とすべきを。かく日月経てもその沙汰に及ばざれば。わが義元への志も是までなりとて。これよりお織田家と講和の議は起りしなり。(東武談叢、落穂集)
水野信元が織田家に申すゝむるにより。尾張より瀧川左近将監一益もて。石川與七郎数正が許に和議の事いひ送りしかば。老臣等めして此事いかゞせむと議せらる。酒井忠次云く。當家只今の微勢もて。織田今川両家の間に自立せむ事かたし。氏真元より闇弱にして酒色に耽り。父の仇むくひん志もなければ。其滅亡遠からじ。信長と事を共にし給はゞ。行末當家の御為是に過たる事は候まじ。かなたより和議を乞こそ幸なれ。速に御承引あれと云。その時また御家人どもいづれも申けるは。當家もとより今川の一族被官といふにもあらず。たゞ世々の旧好により年頃その助援を受るに似たりといへども。君いまだ御幼年にて駿府におはせし程。御領国の賦税はみな義元が方に収め。戦あるに及んではいつも御家人をもて先鋒とし。そが死亡をもかへり見ず。いと刻薄なる処置は。尤怨ありて恩なしと申べしと申者多かりしに。君も戦に臨むで一命を隕すは。元より士たるものゝ常なれば何ぞかなしむに足む。たゞわが身かの国に人質とせられてのち。普第の者をしてあへなくかれが為に討死せしめしこといくばくぞや。これぞわが終身の遺憾なれと仰られて。御泪をうかべられしかば。諸人もみな士を愛する御志の至りふかきを感じて。いづれも袖をうるほしけり。かくて御盟約定りければ。尾州清洲におはして信長に面会し給ひ。今より後互に力を戮せ心を同うして。天下を一統せむよし誓文に載っれ。誓書をば読終りし上にて灰に焼て神水となし。両家歃飲し給ひ。永く隣好を結ばせ給ひしとぞ。(岩淵夜話、東遷基集)
尾州へおはしましける時。信長も御道すがらの橋梁修理加へ。さま/\〃御まうけせらる。清洲の城へ渡御あれば。御行装を拝まんとて。かの国の者等城門の辺に立つどひていとかしがまし。此時本多平八郎忠勝は年わづか十四にて供奉せり。御馬前に御長刀もちて供奉しながら。三河の家康が両国の好を結れんが為に来られしに。汝等何とてなめげなる挙動するぞと大声にて罵りければ。皆その猛勢に恐れて忽に静謐せりとぞ。かくて信長は二丸までいで迎へ。先立して本丸へ入れ奉る時。植村新六郎家政御刀かゝげて御後に従hしを。信長の家人咎めて。何者なればこゝまで闌入せしといふ。家政我は徳川が内に植村新六といふ者なり。主の刀を持てまかるをば何故に咎らるゝぞといへば。信長きかれ。新六参たるか。これはかくれなき勇士なり。汝等妄りに不礼なせそとて。やがて盟約の議畢りて後さま/\〃饗し奉り。新六をもその座へ呼出し。今日はじめて汝が勇気をみしに。むかしの鴻門の会の樊噌にもこえたりとていたく賞美せらる。この新六が父新六某は清康君を害し奉りし阿部弥七をうちとり。そののち岩松八弥が岡崎殿に鎗付しを即座に打とめ。一身二度の忠節を顕しけるが。今の家政も幼年より数度の戦功をはげみ忠勤怠りなければ。後年その世々の勲功を賞せられ。御家号をも賜はるべきなれど。植村が氏称は他国にも聞え當家の眉目にもなれば御家号は賜はらず。たゞ御名の一字を賜りて家政とめされ。御軍扇并に一文字の御刀賜ひ。直参の徒三十騎を付させられしとぞ。(武徳大成記、貞享書上)
今川氏真織田家と講和ありしよし傅へ聞て大にいかり。使を岡崎へ参らせ。今度旧約を変ぜられ尾張と和睦せらるゝ由なれば。駿府に留置れし北方。及び御息をも害しまいらせし上にて。御領国へ出馬してその事糾明せんといひ送りければ。その使を御前にまし出されて仰有しは。我年比故吏部の厚恩を受けし事大方ならず。今何ぞこれを忘却せんや。されども尾張は隣国にして且強敵なれば。当分講和の躰にてもなさでは軍謀とゝのひ難きゆへ。まげてその意に従ひしのみ。実の和議にあらず。いつにても氏真父の仇をむくひんため尾張へ出張あらんには。兼ても度々申せし如く先陣うけたまはり。錆矢一筋射懸申べきは相違あるまじと仰られしかば。氏真も心とけて。しばしが程出軍の儀にも及ばざりしとなり。(武徳大成記、落穂集)

此巻は、御幼稚の御時より織田家と御講和ありしまでの事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻二

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻二(全文)

一向乱のとき正月三日小豆坂の戦に。大見藤六は前夜まで御前に伺公し。明日の御軍議をきゝすまして賊徒に馳加はりしかば。君近臣にむかひて。明日はゆゝしき大事なれ。藤六さだめてこなたの計略を賊徒にもらしつらん。汝等よく/\戦を励むべし。我もし討死せば藤六が首切て我に手向よ。これぞ二世までの忠功なれと仰けり。かくて明日藤六と石川新七真先かけて攻きたり。新七は水野惣兵衛忠重が為に突伏らる。藤六には水野太郎作正重打むかひ。汝のがすまじとて打むとす。藤六弓引て。せがれめよらば一矢に射とめむとまち構へたるをもかへりみず。正重鑓提て間近く進むに。流矢来て藤六が腕にたてば。弓矢を捨。太刀抜んとする所へ正重鑓付しが。札堅くして徹らす。藤六抜はなちて正重が胄を切けるにこれも切得ず。よて太郎作も鑓すて刀にて切り合ひ。終に藤六を切倒しければ。倒れながら。せがれ無念なりとて念仏唱るところを。其首打落す。かくて二人討れければ賊徒みな敗走す。正重藤六が首を御前へもち参りしかば。藤六をば汝が討たるか。汝が一代の忠功なれと御称誉あり。」又針崎を責られし時。御手鑓もて渡邊半之丞を突たまひしに薄手にて逃行所を。石川十郎右衛門渡邊が前に立て君にむかひて突かゝる。其時内藤四郎左衛門正成はまだ甚一郎と云ひし比なるが。御側より弓引て二人を射る。二人とも射殺されければ賊徒直に敗走す。正成は渡邊には甥なれども。大義親を顧みず射倒せしとて御感斜ならず。其比織田殿諸家にすぐれし武勇の者の名を記し。自ら点かけて置れしに。この正成も若年ながら点かゝりし者なりとぞ。(貞享書上)
正月十一日上和田の戦に賊徒多勢にて攻来り。味方難儀に及ぶよし聞しめし。御みづから単騎にて馳出で救はせ給ふ。その時賊勢盛にして殆危急に見えければ。賊徒の中に土屋長吉重治といふ者。われ宗門に與すといへども。正しく主の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陥るとも何かいとはんとて。鋒を倒にして賊徒の陣に向て戦死す。この日御胄の内に銃丸二とゞまりけるが。御鎧かたければ裡かゝず。戦はてゝのち石川家成に命ぜられ。重治が屍を求め出して御手をかけられ。いたく嘆惜し給ひ。上和田に葬らしめ。厚く追善をいとなまれしとなん。」又この日柴田七九郎重政己が名を矢に彫て射たりしが。その矢に中り死する者数十人。賊徒その精兵に感じ。重政が放ちし矢六十三すぢをとり集めて御陣に送りしかば君御覧じて。御賞誉のあまり御諱の字賜ひ康政とめされ。六十三の文字を旗の紋とし。名をも矢の数にならひ七九郎とめされしなり。(東遷基業、岡崎記、貞享書上)
正月二日より十一日まで日毎に数度の戦あり。御自も太刀撃し給ふこと度々なり。後年伏見に加藤主計頭清正が謁見せし折。よも山の物語ありて。佐々成政が豊臣太閤の為に肥後国収公せられ。清正。小西両人に分ち賜はりし時国中一揆起りしを。清正が武功にて速に打平げし事を仰出され。一揆の魁首木山弾正を討取しを。清正いつも名誉におもひ。ほこりかにいひ出ることなれど。われもむかし領内に一揆おこりて。日ごとに苦戦度々なりきとて。新野何がしといふ者をめし出し。彼等も弓もて我に近づき。既に射むとせしとき。われににらまれ弓を捨て遁たるを。汝は今に覚えたるかと仰られしかば。清正これをうけたまはりて。己が武功はいふにも足らぬ事とおもひ。且感じ且耻て御前を退きけるとぞ。(續明良洪範)
門徒等帰降の折約定ありしは。昔よりの門徒は御ゆるしあり。その身一代門徒に帰依せしは罪に処せられんとなり。しかるにあまたの人の内に。昔よりの門徒も咎め仰付られんとありしに。これは昔よりの門徒なりと申上しかば。むかしとは伊弉諾。伊弉册の尊のことゝ思召されぬ。親鸞は近き世のことなりとて科に処せられしもあり。又戸田三郎右衛門忠次は佐崎の本證寺にありと聞しめし。たはけめ。彼は元来浄土門にて一向門徒にもあらざるを。呼と有て召出されしに。忠次人に語りしは。殿の召るゝゆへ出ぬ。全く臆して狭間をくゞりしにあらずとて。さて三日の内にこの砦をせめ落さむと申す。いかなる計略か有とはせたまへば。道場の下水の樋の口広し。これより人をいれて焼立るほどならば即座に落んといふ。よて大久保七郎右衛門忠世に命ぜられ。忠次を郷導としかの砦を攻しめ。遂に是を陥る。この時忠次奮戦して。鉄砲に中りて疵蒙りしかば。御感あつて国光の御脇差を賜ひけるとぞ。(古人物語、武徳編年集成)
一乱おさまりて帰降の者とり/\〃見え奉りける内に。小栗又一忠政御前に出ければ。君忠政が胸元を捕へ給ひ。汝此後宗門を改むべきや。さなからんには只今一刀にさし殺さんとて御差添をぬかせ給へば。忠政いさゝか驚遽の様なく。御手討にならんとても改宗はなり難しと申せば。汝が様なる者は殺さんも無益なりとて突放し給ふ。忠政かさねて。只今こそ法華に改め候はんといふ。君聞しめし。手匁に逢ても改宗はならぬといふ詞の下より。又法華にならんとは何事ぞと咎め給へば。忠政士たる者が御手討になるがおそろしとて改宗すべき哉。たゞ一命を御助あるといふ上命のかしこさを謝し奉らん為に。法華にならんとは申けるといへば。君もおぼえず御咲ありけるとなり。」又天野三郎兵衛康景もおなじ門徒なりしが。此度浄土に改宗して戦功を尽し。馬場小平太といへる大剛の賊徒を討取しかば。御感有て阿弥陀の木像をたまはるといへり。(續明良洪範、天野譜)
按に一説には。此事石川又四郎が事とせり。又四郎一向乱の後信長に随ひ。其後またたちかへり御鷹狩の御道筋にて見え奉りしに。又四郎が胸取て引よせ御膝の下に組しかれ。汝浄土に改宗はすまじき哉と宣へば。いかにも成がたしと申す。よて衝放給ひて。汝は普第の者にてはなきかと仰らる。又四郎やがて起揚り容を改め。仰のごとく浄土に改むべし。さきのごとく御膝下に組しかれては。いかに主君にても御受は申上難しとあれば。咲はせられしとなり。(池田正印覚書)
永録六年三月今川方の設楽郡一宮の城を攻取られ。本多百助信俊に五百ばかりの勢をそへて守らしむ。七年に至り今川氏真大軍を率ひ。武田信虎に八千を分ちて援路を遮らしめ。一萬二千の兵をもて一宮を十重廿重に責囲めば。防戦ほとんど艱危に及ぶよし聞しめし。援兵を出し給はんとす。この時御勢はわずか二千にすぎず。老臣等いさめて云く。氏真暗弱なりといへども。義元以来旧功の者猶おほし。其上虎狼と呼るゝ信虎に。遊軍を分て援路を支ゆればゆゝしき大事なり。よく/\御思案あれといふ。君聞しめして。おほよそ侍たる者は信義の二を忘るべからず。敵城を攻取しのみにてそのまゝ明置は。ともかうもあれ。既に家臣に命じて守らしむる上からは。その急あるに臨み救ふべきは元より期したることなり。さるを敵が多勢なり。計略が勝れしなどいふを恐れて。家臣の戦死するをよそに見て救はざるべきや。主の大事は被官が危急は主の助る常の事なり。もしこたびの軍難儀に及び討死せば。これ何がし運命の尽る所なれ。いまはたゞ滴の多少にも計略の善否にもかゝはらず。ひらに進めよと打立せ給へば。諸卒も皆盛意のかしこきに感じ奉り。勇み進んで今川の大軍を何ともおもはず。信虎の備を傍に見なし。たゞちに一宮の城際に押付給へば。百助よろこびに湛ず。城門を開て迎へ入奉る。この時今川勢に御備の厳整なるにおそれ。たゞ茫然としてありけるが。やがてこゝろ付。信虎が勢をまとめ一同に責かゝらんといひしめく処に。君にははや御入城ありて御湯漬めし上られ。此所に一宿し給ひ。人馬の労を休められ。翌朝本多をめしぐし給ひ城を出ませば。敵は案に相違し。あれ/\といふ内に。御備は真丸に成て引退く。百助が手勢五百たゞちに信虎が備を突き崩すこと度々なり。とかうして酒井左衛門尉忠次。石川伯耆守数正。牧野右馬允康成御迎に参り。段々に備をたて敵の襲路を断ければ。今川勢追うつ事叶はず。御勢は一人も毀傷なく御帰陣あり。これ一宮の後詰とて。後々まで御武功の一端にもてはやし奉る事なり。右馬允康成己が領邑牛窪にかへり。一族をあつめて。君の御武略は兼て承及びし事ながら。此度の御手段を見てはじめて其実なる事をしれり。かゝる大将の太刀かげを頼み奉りてぞ。行々功をもたて名をもほどこせ。これぞ一家繁栄の基なれといひしとか。はるか年経てのち御上洛の時山岡道阿弥この事いひ出て。その頃より武道に志ある者は。みな御名誉のよし伝称せしと申上しかば。そはわが若年のほどのことにて若気の至なりと仰有て。微笑したまひしとなり。(岩淵夜話別集)
永禄七年五月野田。牛窪の城攻られしに。蜂屋半之丞貞次鉄砲に中り。その疵癒ずして死す。その妻男子なければ。女子をともなひ郷里に引籠りてあり。後にその辺に鷹狩せさせ給ひし折。御鷹それてかの宅地にいる。御供の人々走り入て鷹を据上しに。かの寡婦これをとがめ。人々は何とて寡婦の家に案内もなくて闖入せらるゝぞと高声にののしる。君は何者の後家なるかと御尋あえば。貞次が妻なりと申す。貞次に男子はなきやと御尋により。六歳になる女子たゞ一人ありと申上れば。いと哀とおぼしけるにや。その女に貞次が旧領をたまひ。鳥居源一郎をもて婿とし。貞次が家継しめられしとぞ。(家譜)
同年十一月武田信玄御英名をしたひ。家人下條弾正して酒井左衛門尉忠次に書簡を贈り。この後は両家慇懃を通ずべきよしをのぶ。其書の表に埣啄の二字をしるせり。人々いかなる故を詳にせず。其頃伊勢の僧江南和尚といへるが。たま/\岡崎を過て東国に赴かむとするにより。石川日向守家成この字義をとひしかば。鳥の卵殻を破るにその時節あり。早ければ水になり。遅ければ腐るといふ意なりと答へけるよし御聴に達し。すべて萬事に時を失はざるをもて肝要とす。主将たらん者は殊更此意を失ふまじと宣ひしなり。後に又柴山小兵衛正員をめし。鷹をかふにもよく夜据をなし。時節を伺ふて鳥を捉事は。昔聞し埣啄の意なりと仰られしとぞ。(武徳編年集成)
今川氏真当家を攻むとて信玄へしか/\〃せんといひ送りければ。信玄もその計略の調はざるを知て。心中にはおかしと思ひながらしばらく同意の体にもてなし。心安く思はれよなどよき程に答て。さて当家へは下條弾正を進らせ。そのよしつばらに告奉り。いさゝか御心なやまさるゝまでもなし。もし氏真出馬せばかへりてともにうち亡しなんと申上げしかば。君宣ひしは。信玄は酸刻の人かな。されどかくせずばはかゆくまじと仰られぬ。また氏真が駿河を出亡せし後に信玄と御和議有て。誓紙の文に。川をかぎりて両国の分界とせしむとかき定られしは。大井川の事にてありけり。しかるを入道が心中には。当家いまだ御若年におはしませば。今川義元が扱ひ奉りし折のごとくせむと思ひあなづり。三河の里民の人質などをとりしゆへ。こなたより咎め給へば。誓紙に川切としるせしは天竜川切なりといふ。こゝにて大にいからせ給ひ。天竜川はわが城溝のごときものなり。何ゆへに天龍切といふべきや。かゝる権譎のやからは行末たのまれずと仰有て。遂に隣好を絶れしなり。(武辺咄聞書、古人物語)
永禄十一年三月遠州の城々攻取給はんとて。尾藤彦四郎等が籠りし堀川の城を責らる。先陣は松平勘四郎信一。榊原小平太康政なり。康政己が配下の士にむかひ。われ若年なるをかゝる寵任を蒙り一隊の主将となり。その上御諱の字をさへ賜はりし御恩の深高なること山海にも比し難し。明日の戦にはかならず一番乗して盛意にむくひんとて。其日のつとめてより紺地に無の字の指物さし。笹切といふ鎌鎗を提げ一番に城にせめ入り。散々戦て深手二ケ所負しを。家人等肩に負ひなを進みて城に附いり。遂にその城を乗取れり。班軍の後やがて康政が営にならせたまひ疵を御覧あり。深手にてとても生べしとも思しめさねば。なからむ後の事つゝまず申置と仰ければ。康政もかしこみて。此度その配下の伊奈。中島の両人忠戦衆にすぐれしかば。両人に御恩賞あるべきなり。此外には思置こと侍らずと申せば。即ち二人を御前へめし御感状を授らる。その後康政が疵思ひの外に平癒して見え奉りしに。御けしき斜ならず。さま/\〃慰労の御詞を加へられしとぞ。(武徳編年集成、家譜)
永禄十二年これより先松平の御称号を止められ。徳川の旧氏を用ひ給ひしかども。旧冬此よりはじめて京都将軍家(義昭)へ申請れ。近衛左大臣前久公もて叡聞せられ。去冬十二月九日勅許ありて。この正月三日将軍家より口宣案にそへて御内書。御太刀を贈らる。(武徳編年集成)

改年之吉兆珍重々々。更不レ有2休期1候。抑徳川之儀遂2執奏1候処。
勅許候。然者口宣案并女房奉書申調指‐2下之1申候。尤目出度候。
仍太刀一腰進上候。誠表2祝儀1計候。可2申通1候也。
正月三日  義昭
徳川三河守殿

今川氏真が甥同弥吉手痛く戦ひしに。御旗下の水野太郎作正重渡り合ひて。弥吉が首取て立上らんとせし所に。敵又弓をもて正重が腰を射ければ。深手ながら引取けるを聞し召。丸山清林といへる外科医をめして。正重の疵大切なれば。いかにもして平癒せん様に療養せよと仰あり。清林もかしこきことに思ひ。殊更心用ひて治療せしゆへ。日頃へて恙なく平快せしなり。」又後年甲斐若御子にて北條と御対陣の折。久世三四郎廣宣。北條が内野中六右衛門といふ者を打取し時。面に疵蒙りしかば。御手づから薬を付させ給ひ。是も清林に療治仰付られ。三四郎が鼻の落ぬやうにと命ぜられしとぞ。これらはみな士を愛し給ふ御心の一端を伺ひしるべきなり。(續武家閑談、柏崎物語)
織田信長越前金が崎。手筒山の両城を攻落し。既に朝倉が居城へ押寄むとせし所に。江州の浅井父子心変りして朝倉と牒し合ぜ。信長を前後より挟み伐むとするよし注進あり。信長大に狼狽せられ。木下藤吉郎秀吉をとゞめ後殿とし。速に旌を返さんとせられしが。この時急遽にして君にそのよし告奉るにも及ばず。いそぎ軍伍も定めず引上。からうじて朽木谷へかゝり危急をまぬかれけり。君には御微勢なれどもよく隊伍をとゝのへ。秀吉が苦戦する時毎度これを援て敵を追ちらし。いさゝか道路の妨なく。若狭路にかゝりて御帰陣ありしなり。御帰京の上信長に御面会ありしとき。秀吉もかへり来て。此度は徳川殿の御援助によて。十死をまぬかれ一生を得たりと披露しければ。信長も君に向ひいたく礼謝せられしとなり。後年長久手の役終り御上京ありし時。秀吉君御在洛の間厨料進らせんとて。先年金崎退口の時をのれ徳川殿に助られ。江州守山にて川田といふ地士を呼出され郷導とせられしゆへ。われ恙なく帰京する事を得しは。全く徳川殿の御智略による所なりとて。守山にて三萬石の地を進らせしとぞ。(落穂集、武徳大成記、御和談記)
姉川の役に織田家の援兵として三千の勢を引ゐて馳せ上らせ給ひ信長に御対面あり。信長申さるゝは。軍期近きによて諸手の備は皆定め訖ぬ。君にはたゞ戦のよはからん方を援け給へとなり。君はる/\〃援兵として打上りしかひもなく。打込の軍せんは永き弓矢の瑕瑾なり。さらんには速に本国に引き返さむにしくべからずと宣へば。信長さらば浅井はわが当の敵なれば。朝倉が方に向はせ給はんや。朝倉大勢なれば。誰にてもわが旗下の者を加へ参らすべしといふ。公それがし小国にて小勢のみつかひなれて侍れば。大勢を指揮せん事思ひもよらず。又心もしらざらむ人と打語らはんもむづかし。朝倉何萬騎なりとも。それがしが手勢ばかりにて打破り見参に入べけれと仰ければ。信長さりながら北国の大勢を御勢にのみに任せたらんには。信長又天下の嘲を免かるべからず。物の用には立侍らずとも。一二人にても召具せらるべしといへば。さらば稲葉伊予守良通をかし給はるべきやと宣ふ。稲葉は小身にて勢も持候はぬ者なれども。御望にまかせ参らすべしと有て。伊予守千にも過ぬ人数を引ゐて御勢に馳加はる。かくて明日に成ぬれば。御勢姉川を打こして朝倉が一萬五千の大軍にかけ合せ。しばし戦ひ給ひしが。遂に敵勢を切崩し給へば。かの伊予守も後陣に控へしのみにて手を下すにも及ばず。織田家の備ははじめ江州勢の為に切靡けられ。既に負色に成りしを。御勢の朝倉に切勝し余勇をふるひ。又浅井が陣に横合より切て懸らせ給へば。織田勢もこれに力を得て備を立直し。遂に勝利を得たり。戦畢りて後信長いたく御武略を賞し。備前長光の刀を進らせけり。この役に織田家の寸兵をかり給ひて北国の大軍を切り崩し。又浅井をも追なびけ給ひしは類なき御事なりとて。日本国中に感zぬものはなかりしとぞ。(藩翰譜、落穂集、常山紀談)
按に一説に。前日の軍議にては君は浅井。信長は朝倉にむかふべしと定められしを。その日の暁に至り信長より。俄に毛利新介秀詮を使として。よべの軍議はかく定めつれど。浅井はわが常の敵なれば信長むかひ侍るべし。君には朝倉に向はせ給へと申送られしとき酒井忠次わが軍列すでに定まりしを。今更かへんとせば列伍乱るべし。此事はいなみ給ひて然るべしといふ。君浅井は小勢。朝倉は大軍なり。大軍の方へ向ふといふは勇士の本意なれ。とかう織田殿の命にこそまかすべけれと。急に御陣を立直し。朝倉が方に向はせられしとぞ。
稲葉伊予守良通ははじめより後陣にひかへ居て本意なく思ふ処に。織田家の先陣浅井が為に切靡けられし様を御覧じ良通にむかひ給ひ。我が兵すでに敵を切崩しつれば。御辺こゝにありても詮なし。いま織田殿の戦危く見ゆれば援けむとおもふなり。こゝは御辺が先陣すべき所なりと宣へば。伊予守も承り。直に横筋違に川をうち渡し。浅井が陣へ打てかゝる。君又御先手の面々へ命ぜられしは汝等今朝よりの戦にあまたゝび奮闘しさぞ疲れたらん。その儘に折敷て休息すべし。こたびは旗本の備もて切勝んと仰有て。稲葉に続き敵陣へ打かゝり給ひ。遂に難なく浅井を追崩し給ひしなり。(落穂集)
この軍議の時君軍は二の手にて勝利のあるものなりと宣ひしを。池田庄三郎信輝もその席にありしが。何ゆへに敵を二の手まで越させ申すべきやとほこらしげにいふを。君聞し召し。さはあり度ものなれと。さらぬ様にて御座を立せられしが。戦に及んで信輝浅井が先鋒の為に散々切崩され。酒井忠次が備へ崩れかゝれば。忠次おことは昨日の広言にも似ぬ様かなといひながら。長刀の尊もて信輝が馬の三途を打しかば。馬おどろきて落馬しぬ。其頃の人々。庄三郎は忠次が為に打落されしなど。誤り伝へしことも有しとか。(落穂集)
この戦に先陣うけたまはりし酒井左衛門尉忠次。小笠原與八郎長忠。菅沼新八郎定盈等川を打渡せしに。向の岸高くして上りかねしを見て。二の手に備へし榊原小平太康政ゑい声上て。先陣をうちころして先に進まんとす。酒井が兵後れてはかなはじと思ひ。競ひかゝりて遂に前岸に上り得て勝ことを得たり。君後に榊原が二陣の仕方後来の模範とすべし。二の手はかくあらまほしと仰られけり。又戦のはじめ。朝倉の先鋒かち誇りしには目をかけ給はず。長沢藤蔵某を斥候に遣はされ。直に敵の二三の陣の間やゝすきたる所に。横合より打てかゝらせ給へば。敵勢裡崩して。惣敗軍となりしなり。信長より授け奉りし感状の文に。今日大功不レ可レ勝レ言也。先代無2比倫1。後世誰争レ雄。十奘噌百張良といへども。日を同うして語るべからずなど。御雄略のほどを賞嘆して進らせしとぞ。(常山紀談、砕玉話)
小栗又一忠政はじめは庄次郎といひしが。此戦の時年わづか十六歳なり。敵兵一人御側近く伺ひよるを見て。御物の信国の鎗取てわたりあふ内に。御勢どもあつまり来て遂に敵をうち取ぬ。君庄次郎が年若けれど心きゝたるを賞せられ。その後も度々の御陣に一番鎗にも越たりとてその鎗をたまはりけり。その後も度々の御陣に一番鎗を入しかば。又一かと仰有て名を又一と改めしとぞ。」又犬塚甚三郎某は敵と鎗を合せしに己が鎗折れければ。敵の鎗取てその敵突伏しを御覧じ。又ない働を仕たるぞ。又内/\と仰ありて。これもこれより又内と改称す。」大久保荒之助忠直も敵の鎗取て奮戦せしかば。荒が事を仕たると仰られて。金の御団扇を賜ひしより荒之助と改称す。」榊原隼之助忠政は敵の首取て御覧に備へしに。折しも御馬副の人なければ忠政に侍ふべしと有て。御手綱の七寸に取付て居たり。忠政只今御方の常に御恵蒙る者どもの。敗走する様の見苦しさよ。かゝる時は誰か奮戦して御恩に報ひ奉らんかと述懐しつれば。尤と聞しめし。後に遠州浜名にて七十貫の地をたまはりしとなり。(諸家譜、柏崎物語、續武家閑談)
元亀二年四月武田信玄御領国に攻来るよしきこえ。浜松より吉田城に御座あり。信玄の先鋒山縣三郎兵衛昌景多勢引つれ攻来る。君三の曲輪の櫓に扇の御馬幟立て。敵陣の様つく/\〃御覧あり。酒井左衛門尉忠次打て出でむといふを制し給ひ。敵陣の様を見るに城を責むとにあらず。我をおびき出し。彼の松原にて伏兵もて討むとするならん。よく見よ。今にかなたより武功の者を出して戦を挑むべし。こなたよりも一騎当千の者を出して。鑓ばかり合せしめよと宣ひしが。果して敵方より広瀬郷右衛門。三枝伝右衛門。孕石源右衛門など土橋まで進み来りしかば。城中よりも酒井左衛門尉忠次。戸田佐門一西。大津土左衛門時隆等打ていで。互に詞をかはして渡り合しが。やがて彼方より引取しなり。此時御推察のごとく山県が備の後には。馬場美濃守。内藤修理亮。小幡。真田等あまた備をかくし。御みづから打て出給はゞ。信玄は御油の宿の方より吉田の西口にかゝり。吉田を攻抜べき手術なりけるとなり。山県勢の跡には足軽の様に見せて人数を少しづゝ残し置しは。甲州言葉にてかゝりかんといふものにて。敵を誘よせ。諸所にかんを起して喰留ん手術なりと忠次に仰られしかば。後年広瀬郷右衛門御前へ出し時。此事語り出給ひしかば。郷右衛門その時甲州の計略全く御明察に少しも違はざりしとて驚感し奉りけるとぞ。(御名誉聞書)
同年夏秋の頃武田の大兵三遠の辺境を侵掠するにより。信長使を浜松に進らせ。早く浜松を去て岡崎へ退かせたまへといふ。君時宜にしたがはんと御答有て。後に侍臣に仰られしは。此浜松を引ほどならば我弓矢を踏折て。武夫の道をやめんものをとて笑はせられしとぞ。其後老臣等。こたびは大事の戦なれば。尾張へ御加勢を乞れんといふ。君我いかに微運に成たりとも。人の力をかりて軍せんは本意にあらずとて聞せ給はず。老臣かさねて。信長よりは度々援助をこはるゝに。こなたよりは是まで一度もこはせられず。隣国相助べきはもとよりの事なれば。こたび仰遣はされしとてわが国の恥辱といふにもあらずと強ちに勤め奉り。味方が原の役に至り。やうやく尾張より援兵を進らせしなり。(柏崎物語)
見付の退口に大久保勘七忠正は一言坂にて鉄砲を打損じけるゆへ。わづかの間にてなどかく打損ぜしと尋給へば。勘七平常の通に打ぬと申上ければ。上意に。そは見付より走り来り。気息のあしさに打損ぜしなり。かゝる時は加様にうつものなりと。つばらに御教諭ありしかば。いづれも感歎せしなり。」又この日本多平八郎忠勝度々奮戦して敵を追払ひ。君にも難なく浜松へ御帰城あり。御途中より成瀬吉右衛門正一もて忠勝が許へ仰下されしは。今日の働日頃の平八にあらず。たゞ八幡大菩薩の出現ありて。味方を加護し給ひしと思召すよし御感賞ありしとぞ。甲州人がからのかしらに本多平八といふ狂句をかきて。見付の台へ立しもこの時の事なり。(柏崎物語)
按に。伊賀路御危難の時にも。忠勝が事を八幡菩薩の出現せしとて賞せられし事あり。さる武功の者ゆへ。度々おなじ御賞詞賜はりしなるべし。
元亀三年十二月武田信玄かさねて大兵を率ひて浜松近く攻来る。人心恟々として穏ならず。この時鳥居四郎左衛門忠廣斥候うけたまはりはせ還りて。敵大勢にて行伍の様もまた厳整なれば。たやすく戦を遂られんならば。わが軍列をとゝのへ。鉄砲迫合に時を移し。敵の堀田辺まで打出むを待て戦をはじめば。萬が一御勝利もあらんか。これも全勝の道にはあらずと申す。君聞し召御気色あしく。信玄なればとて鬼神にもあらず。又大軍なればとておそるゝにもたらず。汝平生は大剛の者なるが。今日は何とて臆したるやと仰らるれば。忠廣君常は持重に過させ給ふが。今日は何とて血気にはやらせ給ふぞ。心得ぬ御事なれ。只今に某が申せし事を思ひ当らせ給ふべしとて御前を退しが。御家人に向ては。今日の戦かならず御勝利たるべし。をの/\進むで忠戦せよと言捨て。みづからは敵軍にはせ入て討死す。渡辺半蔵守綱も斥候に出しが立ち帰り。今日の戦はあやうからんと申上れば。いよ/\御けしきあしきにより。御側に候ひし大久保治右衛門忠佐。柴田七九郎康忠はせ出むとするを。守綱制して許さず。君たとへば人あつてわが城内を踏み通らんに咎めであるべきや。いかに武田が猛勢なればとて。城下を蹂躙してをしゆくを。居ながら傍観すべき理なし。弓箭の恥辱之に過じ。後日に至り。彼は敵に枕上を蹈越れしに。起もあがらで在し臆病者よと。世にも人にも嘲られんこそ後代までの恥辱なれ。勝敗は天にあり。とにもかくにも戦をせではあるべからずと仰ければ。いづれも此御詞に励され。勇気奮決して遂に兵を進られしとぞ。(東遷基業)
この軍既に敗れ殆ど危急に及ばせ給ふ時。夏目次郎左衛門吉信は兼て浜松城を留守せしが。いそぎ手勢引具し御前に馳参じて御帰城を勧め奉る。君われかゝる負軍し何の面目ありて引返すべきや。且敵わが軍後を競へば兵を返さん事もかたし。たゞ此所にて討死せんと宣ひて聞入給はねば。吉信御馬の口取し畔柳助九郎武重にむかひ。我は君に代りて討死すべし。汝は速に御供して帰城せよといつて。自ら廿五騎を打従へ十文字の鎗取て。かしこくも御名をとなへ。追来る敵と渡り合ひ。おもふ様に戦ひて打死す。この間に武重は御馬の口取て引かへさんとするに。御鐙蹴立て二三度蹴させ給へども武重いさゝか動かず。強て御馬を引立。浜松の方へ引返す。敵猶も追かけ来れば、松井左近忠次戦疲れて林の中に息ついで居しがにはかに走りいでゝ。御着脊長の朱色に成て敵の目に付ばとて。己が鎧を着せかへ奉り。己れ御鎧を賜はり。又己が馬をも奉r。みづから松井忠次と名乗て敵を二三度追崩す。武重はからうじて供奉し。浜松に帰りて御門明けよといふに。番兵たやすくうけがはねば。殿の御供して助九郎が帰たるぞとよばはるを聞て。はじめて御門を明て入れ奉る。即ち助九郎に命じて城外を巡視せしめ。御腰にささせられし扇を助九郎に賜ひしが。折しも雨にうるほひて。扇の紙と骨の離れしをもて。後に助九郎が家の紋となしける。忠次もはじめ林中より出でしとき。蔦の葉の胄の上に附きたるを御覧じて。汝は今日の功莫大なり。この後は蔦の葉をもて家のしるしとし、後裔に伝へよと命ぜられ。今に家の紋となしぬ。はるか年経て後。夏目吉信の二子をめし出して。我その時危難おまぬかれ。いま天下一統の業をなせしも。全く汝が父の忠節によれりと。御涙をうかべて仰せられしとぞ。(貞享書上、大三河志)
この戦に夏目が外にも忠戦を抽でゝ御感にあづかりし者少からず。水野太郎作正重は敵の追来るに度々取つてかへし。敵を追はらひ難なく御帰城あり。君の仰に。一日七度の鎗といふことは聞伝へたれど。今日の太郎作が働にはいかで及ぶべきとて御賞詞あり。」天野三郎兵衛康景は胄付の首提て御後に附随ひ。内藤四郎左衛門正成もおなじく従ひ来りしが。敵の弓を持しもの御側ちかくよりくるを見て。正成汝は何者なりと咎むれば。康景後よりその弓を踏落すゆへ敵にげはしる。」又孕石忠弥といふ者御馬の尾を捉へて引とゞめむとす。君御刀もて馬尾を切払はれ。忠弥が倒るゝところへ。松井左近忠次馳来り忠弥を討とむ。」小笠原次右衛門定信は山縣昌景が手に打むかひ。能卯敵討て黄の四半の先へ茜の吹貫出し指物に。首とり添て御覧に備しかば。御感なゝめならず。かゝるところへその父信倫戦死せしよし告げ来りしかば。直に引返し戦場に馳むかふ。折しも敵三人して父の首をあらそふ所へ行あひ。二人をば即座にうちとり一人に手負せ。父がしるしを得てかへりぬ。おほよそ軍中にて父が仇をその座に打得し事。天の冥助にかなひしといふべしとて重て御感あり。」細井喜三郎勝宗も御跡打て勝宗が首をもとり返し。御前に出ければ。御褒詞を加へられ永楽銭一貫文下され。汝黒馬に乗て功を建てたれば。この後は黒と氏を改むべしと仰あり。勝宗は嗣子なければ遺跡を弟の喜八郎勝久に継しめられる。」大久保新十郎忠隣若年なるが。馬に離れてさまよふ様御覧じて。かれ救へと宣ふ時に。小栗忠蔵久次折しも敵の馬奪ひ得て乗来しが。此御詞承るとひとしく馬より飛下りて新十郎を扶けのせて。己が身は股に鑓疵負ひながら少しも屈せず引退く。」野中三五郎重政も御馬に添て引退くところに。甲州侍長何がし七八騎にて御先に塞がるを。君長め/\とのゝしらせ給ふ。重政即ち長を馬より突落し首をとる。こは近年まで小姓勤めし者なるが。御家を出で信玄へ仕へしなり。御帰城の後三五郎に御盃下され信国の御刀を引る。盃に三日月をもて紋とせしめらる。」又御危急なりし時鈴木久三郎御麾賜りて討死せんと申す。君汝一人を討せてわが落ち延むこと本意にあらずとて聞せたまはず。久三郎はしたゝかなるものなれば大に怒りて眼を見はり。さて/\愚なる事を宣ふものかなとて。強て御麾を奪取りて。只一人引き返し奮戦す。御帰城の後。あはれむべし久三定めて戦死しつらんと宣ふ所へ。久三郎つと帰りきて御前へ出ければ。殊に御けしきうるはしく。汝よく切り抜しと仰ければ。久三郎思ひしよりも手に立ざる敵の様に侍るはとさらぬ顔して坐し居たり。」櫻井庄之助勝次は浜松の玄関口を守て居しが。朱鞘の大小さしたる敵の手負て引き退くを誰も追者なかりしが。勝次是をみて走り出でそが首を取。外にも一級とりて還りしかば。大に御感有りて。汝が七本のねぢ馬連の指物は重くて便よからず。茜の四半を指物にせよと仰有て。この後改めしとぞ。(武功実録、家譜、柏崎物語、貞享書上、東遷基業、東武談叢)
浜松に帰らせ給ひし時。けふの大敗にて城中の者ども御安否もしらざれば。大手より還御あらばさだめて驚恠しつらんとおぼしめし。わざと城溝辺を乗廻し。惣懸口より入せ給ふ。植村正勝。天野康景に命じて大手を守らしめ。鳥居元忠に玄関口を守らしめ。且命ぜられしは。城門は明置て。後れ来るものを入るべし。その上敵近よるとも門の明しを見ば疑ひて遅疑すべし。門外四五ケ所に燎火を焼かしめよ。さて/\埒もなき軍して残念なりと仰有て。久野といふ侍女が供せし湯漬を三度かへてめし上られ。御枕引よせ。高鼾にて打ふせさせ給ふ。左右の者は今日の大敗にて一同人心ちもなきに。少しも驚かせ給ふ事なし。かゝる所に高木九助廣正。信玄が近臣大隈入道といふ容貌魁偉の者を討取りて来る。その首御覧じて。城中の人こゝろおだやかならざれば。汝はこの首を太刀につらぬき。信玄を討取しといはゞ。汝が勇敢は元より衆の知所なれば。たれも真と思ひ心おちつくべしとありしかば。人々さてはとはじめて安意せしとぞ。暮がけに甲州の馬場信房。山縣昌景城下までせめ来りしが。御門の明しを見t昌景は。城兵よく/\狼狽せしと見えて。門とづるいとまなしと見ゆ。速に攻入むといふ。信房これを制して。徳川殿は海道一とよばるゝほどの名将なれば。いかなる計策あらんも計りがたし。率爾の事なせそとて遅々する内に。鳥居居元忠。渡辺守綱打ていでければ。二人恐怖して引返しけり。その後目をさましたまひ。信玄はさだめて引返しつらんと仰ありしが。その夜味方犀が原の敵の陣におしよせ鉄砲打かけしかば。武田勢大に狼狽し。さすがの信玄、勝ても恐るべき敵なりとて。軍をまとめて引きとりしとぞ。(前橋聞書、四戦記聞、大三河志)
甲斐の馬場美濃守信房後日に信玄にかたりしは。こたびの戦に三河勢末々まで決戦せざる者はなし。その死骸を見るに。此方にむかひしは皆俯伏し。浜松の方にむかひしは仰倒せり。いづれも戦死せしにて。一人も遁走せしはなしと思はるとて大に感歎しけり。すべてこの時御家人あまた戦死し残少になりければ。君御涙をうかめられ。われ小国にてかく家人を打せては。この後戦せんこと難しと仰られ。戦死の者の子孫は。年の長幼を論ぜずめし出して家継しめられしとぞ。」中根喜蔵利重は戦の最中に。北條より武田が援軍としてむかはせし近藤出羽助実と鎗を合せ。御馬前にて戦死す。しかるに利重子なかりしかば。家絶んとするをあはれませ給ひ。その女子松平九郎兵衛正俊が妻となりて生し子。天正十二年京より還御のとき。岡崎の松原に母と共にありしを御覧じ。利重が外孫なりとてめし出され。中根喜蔵とめさる。時に三歳なり。いとありがたき御事なり。(武徳大成記、武功実録、家譜)
石川善助といへるはわづか三十貫ばかりとりし御家人なり。一とせ當家を立さり加州へゆきて三百貫の地に在付しが。こたびの御敗軍をきゝ彼地を去て立かへり。此度上方よりめし抱へられしものどもは。みな戦を恐れ遁げ散ぬと承ぬ。上方の弱兵ども何の御用にか立候はん。其身不肖には候へ共。御先度を見届ん為立還りぬ。哀れ願くは一旦の罪は御ゆるし蒙らんといふ。君汝がなきとてわが事欠べきやと宣ひしが。実はその質直なるを喜ばせ給ひ。元のごとくめしつかはれしとぞ。(明良洪範)

此巻は一向門徒の乱より。味方原御軍までの間の事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻三

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻三(全文)

天正元年正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城将菅沼新八郎定盈よりかくと注進す。君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべて籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豊後守廣孝はし/\と仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は。門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ。俄に打立射立。敵の陣伍乱るゝ様を見すまして門より打て出で。一散して軽く引とれば城は持よきものなり。さるに籠城とだにいへば。まづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき処にも橋をかけてこそあるべきに。懸来りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て落城の注進ありしとぞ。(御名誉聞書、酒井家旧蔵聞書)
同じ年四月武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとり/\〃いひ伝へしを聞しまし。御家人等に仰ありしは。もしこの事実ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶべきにあらず。おほよそ近き世に信玄は如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がごとくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ様に心得べきなり。すべて隣国に強将ある時は。自国にもよろづ油断なく心を用ゆるゆへ。おのずから国政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣をはゞかる心あるにより。かへりてわが国安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振抜の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝか悦ぶ事にてなしと仰あり。是より御分国の者共いづれも御詞を学びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。」又ある時。人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。信玄が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戦にはいつも粉骨を尽せしなり。むかふさすといふことは誰も忘れまじき事ぞと常々仰ありしなり。孟子に敵国外患なきものは国必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承るにぞ。」上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さて/\残多き事哉。近代に英傑といふべきはこの入道のことなるを。今は関東の弓矢柱なくなりしとて。はら/\と涙を落せしといふ。謙信も信玄と常々争闘せしはさるものにて。天下の為に人物の亡謝するをおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同様の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話、武辺咄聞書、萬千代記)
天正二年四月乾の城攻給はんとて。先陣和田谷まで進しに。折しも大雨降つゞき川水溢れ出。その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし。速に御勢を返されんとするに。野伏ども出て御道を支れば。大久保七郎右衛門忠世殿して。三蔵山といふところまで引上られ。しばし後陣の来るを待て休はせ給ふ所へ。玉井善太郎が股を鐵砲に打ぬかれて来る。君御馬をくだり善太郎に載しめんとす。善太郎勿体なしとてあながちに辞し奉る。七郎右衛門忠世も手を負ひ。忠世が同心杉浦久三久勝も同じく手負て退兼しを見て。忠世己が馬を久勝に与へ乗しめんとす。久勝己が如き者は何人死したりとも何事かあらん。もし大将討るゝならばゆゝしき大事なり。弓矢八幡照覧あれ。われは乗まじといふ。忠世乗度はのれ。のるまじくは心儘にせよ。我が馬はこゝに捨置とて歩行立に成てゆく。よて児玉甚右衛門。久勝をかゝへて馬にのせ引取ぬ。君このよし聞しめし。強将の下に弱兵なしとはこの事ならんとて御賞感浅からず。この時光明山の住僧高継といへるが御路の案内し奉り。寺中に立よらせ給ひしに。高継勝栗を進ければ。一つめし上られて御けしきよく。光明山にて勝栗くひし事。これぞげにかうみやう勝栗なり。行末目出度吉兆なれと宣ひ。これより後々までかうみやう勝栗とて。かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ。(柏崎物語、武徳大成記、落穂集、光明山書上)
按に。杉浦が家譜には。久勝がことを味方が原の時のこととし。忠世が馬矢に中りしを見て。久勝己が馬を忠世にあたへ。みづから歩行立に成て敵陣へ馳入り。敵一騎討とり。それが馬に乗て還りしかば。御感状をたまはりしといへり。後年信州城攻の時御軍令に背しとて。台徳院殿切腹仰付られぬ。君後にこのよし聞しめし御けしき損じ。かゝる勇士はたとひ軍令に背くとて殺すべきことかはと仰けるとぞ。
大賀弥四郎といへるははじめ中間なりしが。天性地方の事に達し。算数にもよく鍛錬し。物ごとに心きゝたる者なれば。会計租税の職に試みられしによく御用に立しかば。次第に登庸せられて。三河奥群廿余村の代官を命ぜられ。其身浜松に居ながら折々は岡崎にも参り。信康君の御用をも勤めければ。今はいづ方にも弥四郎なくては叶はぬといふ程になり。専らの出頭人とぞなりにける。此者元より醇良にもあらぬ人の。思ひの外時に逢しより。次第に驕奢につのり奸曲の挙動ども少からず。御家人の内旧功ある者も。己が意にかなはざればあしざまにいひなし。又おのが心にしたがへばよくとりなしければ。御家人いづれも内には憎み怨ぬ者もなかりしかど。両殿の御用にたち威勢ならびなければ。たれ有てそが悪事を訐発する者もなし。かゝる所に近藤何がし戦功有て采地賜はるべきにより。弥四郎が許に行て議しけるに。弥四郎いふ。御辺がことはわれよきにとりなせしゆへこの恩典にも逢しなり。この後はいよ/\精仕して。我にな疎略せそといへば。近藤いかつて何ともいはず直に老臣の許に行て。新恩の地返し奉らむといふ。いかなる故と問ふにしか/\〃のよし述て。某いかに窮困すればとて。あの弥四郎に追従して。地を賜はらん様なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のごとくならんには。一粒なりとも受奉りては。武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出て御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らんと云てきかざれば。老臣等も詮方なくそのよし御聴に達しければ。御みづから近藤を召て。汝に加恩とらするは弥四郎が取なしに非るはいふまでもなし。汝さきに岡崎にありて早苗取しときわがいひし事を。今に忘れはせじと宣へば。近藤感涙袖をうるほして御前をしりぞきぬ。其後又ひそかに近藤をめして。弥四郎が事つばらに問せ給へば。近藤承り。彼元より腹あしき者にて種々の悪行あれども。当時両殿の寵遇を蒙るゆへいづれも願望していひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ。御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれとて。種々の悪事どもかぞへ立て言上し。なほ詳なることは目付もて尋給へといふ。君聞しめし驚かせたまひ。追々に拷鞫し給へばひが事ども出きぬ。よて老臣をめして。かほどの大事を何とてわれにはいはざりしと仰ければ。さむ候。この事かねて相議しけれども。彼かねて両君の御かへりみ深き者ゆへ。臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ。大に御けしきを損じ。かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしといふ。よて弥四郎をばめ因て獄につなぎ。その家財を籍収せしむるにおよび。弥四郎が甲斐国と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は。此度弥四郎が親友小谷甚左衛門。倉地平左衛門。山田八蔵等弥四郎と一味し勝頼の出馬をすゝめ。勝頼設楽郡築手まで打ていで先鋒を岡崎にすゝめば。弥四郎徳川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ。その勢を引き入れ三郎殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠両国の人質をとり置なば。三遠の者どもみな味方とならん。しからば徳川殿も浜松におはし。かねて尾張か伊勢へ立のき給はん。是勝頼刃に血ぬらずして三遠を手に入らるべしとなり。勝頼この書を得て大に喜び。もし事成就せんには恩賞その望にまかせんと。誓詞を取かはして築手まで兵を進めけり。かゝる所に悪徒の内山田八蔵返忠して信康君にこの事告奉りしより遂に露顕に及びしなり。よて弥四郎が妻子五人を念志原にて磔にかけ。弥四郎は馬の三頭の方へ顔をむけ鞍に縛り。浜松城下を引廻し。念志が原にて妻子の磔にかゝりし様を見せ。其後岡崎町口に生ながら土に埋め。竹鋸にて往来の者に首を引切らしめしに。七日にして死したりとぞ。小谷甚左衛門は渡邊半蔵守綱めし捕むとて向ひしが。遁出て天竜川を游ぎこし二股の城に入り。遂に甲州に逃さりたり。倉地平左衛門は今村彦兵衛勝長。大岡孫右衛門助次。その子傅藏清勝。三人してうち取りぬ。山田八藏は御加恩ありて禄千石を賜はり。返忠の功を賞せられしとぞ。後日に至るまで度々弥四郎が事悔思召よし仰出され。我そのはじめ鷹野に出むとせしに老臣はとゞめけるを。弥四郎ひとり勤めつれば我出立しなり。これ等の事度々に及び。老臣等終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば我家殆むど危し。恐れても慎しむべきは奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては人の賢否邪正を識りわけ。言路の塞らざらんをもて。第一の先務とすべしと仰られしとなり。(東武談叢、東遷基業、御遺訓、今村大岡山田家譜)
長篠の前竹廣村の弾正山に御陣をすえられけるに。御家人等武田の猛勢を聞おぢして。何となく思ひくしたる様を見そなはし。酒井左衛門尉忠次をめしてゑびすくひの狂言せよと命ぜらる。忠次かしこまり。つと立て舞けるが。兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と笑ひ出しにより。三軍恐怖の念いつとなく一散してけり。さて本多。榊原等をめし軍議せしむるに。いづれも味方が原の例を引て。いと御大事なりといふ。君むかしは信玄なり。今は勝頼なるぞ。さまで心を労するに及ばずと宣ひしかば。諸人もいよ/\勇気百倍しけるとぞ。(東武談叢)
おなじ戦の前信長が許におはしけるに。稲葉一鉄入道。此度徳川殿の催促によりて兵を出ることもあらばいかゞせむといふ。君聞し召。信玄の死せしと思ふ事三條あり。第一は昨今両年打続き同じ月日に。甲州にて萬部讀経を執行へり。二には去年このかた彼国の者共多く我方に参仕す。三には穴山梅雪入道縁辺の事違約せり。これらをもてをしはかるに。その死せしこと疑ふべくもあらずと仰ければ。信長稲葉に向ひ出せるとていたくいましめらる。」其後御陣に帰らせ給ひ。井伊。本多。榊原の三臣をめして。敵は多勢味方は微勢なれば。戦もし難儀に及ばゞ討死せんより外なし。よて信康をば岡崎に還さんとす。汝三人の内。一人は信康を守護して本国に帰るべし。鬮もて定めよと仰あれば。三人何とも御請申さでありしかば。御気色損じけるを見て康政居進みいで。臣等いづれも御馬前にて討死せんは兼て期したる事なれども。若殿に従ひて立ち帰らん事は。上意に従ひ難しといへば。又何と仰らるゝ旨もなく。やゝ御けしき直らせ給ひ。御陣所の後のものしづかなる所へ三郎殿を招かせられさきの旨仰られしかば。信康君。年若き某一人岡崎に帰りたりとも何の益か侍らん。それよりは父君こそ御帰城有て領国を守護し給へ。某は御身代してこゝにて討死せんと宣ひて。中々聞入給はざればこの儀もまた止みぬ。こなたにはかくまで持重しておはせしませしが。戦に及むで甲州勢思ひの外に打負て味方大功を奏せられしは。元より天運にかなはせられし御事とは申しながら。戦に臨むで恐るといふ聖訓には。よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ。(久米川覚書、古老夜話)
この戦に信長より使もて。先手の指揮し給へといひこされば。内藤四郎左衛門正成かきの渋帷子きしまゝにて出むかひ。御指図かうぶりて軍すべき家康にてなし。某等も又家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちてその使をば返しぬ。信長これをきかれ。徳川殿には末々の者までたゞ人ならずとて感歎ありしなり。」又戦に及んで甲軍の様を御覧じ。今日の戦味方かならず勝利ならん。敵陣丸く打かこむ時は攻がたし。人数を布散して多勢の様に見するは。衆を頼むの心あればかへりて勝やすしと仰せけるを。酒井忠次承りていたく感服せしとぞ。(紀伊国物語、前橋旧蔵聞書)
国の主たらんものは弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす。武田信玄はこれに熟せしゆへ兵鋒も亦つよし。我かの遺臣を使ひて見しに。別にかはれるふしはなけれども。たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき。諸卒までも荀且のこゝろなきゆへ。陣列も自ら剛強に見ゆるなり。長篠の役にも我と信長と両手十萬ばかり。勝頼はわづか二萬程なり。こなたは柵を三重にゆひけるに。勝頼何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり。若共折瀧澤川の渡を前に当て対陣せば。わが両手多勢といへども十日と持こらへずして引退くべし。その時追伐せば十が八九は勝を得べきに惜しきことならずや。さりながらかく後々までも兵鋒の強かりしは。全く入道が時より。三軍の調練よく届きし故なりとて御感賞ありしとぞ。(中興源記)
後年藤堂和泉守高虎御前に伺公せしとき。武士の武をたしなむはいふまでもなけれども。あまり猛勇に過てはかへりて怯弱に劣る事あり。そのかみ武田勝頼常に血気にはやりし本性なるをわれとくより見透したれば。長篠の戦にわざと柵をふり。優もてなせしを。例のいちはやきくせにて。ゆくりもなく切かゝりしゆへ。たゞちに敗亡せしなり。元より怯惰ならば家臣の諌言をも用ひ。かくもろくは亡ぶまじものをと仰あり。又これにつきて思召に。天下の主たらんもの第一慈悲をもてよしとす。さりながら慈悲の過たるは刻薄に劣る事あり。たとへば家臣の内に弓馬の嗜なく。朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置ば。をのずからその風余人にもをし移り。兵鋒も次第に弱みもてゆくなり。ゆへに心あらん君は。かゝるものをきびしく刑戮し。衆人に目をさまさしめ。はじめて本心を得せしむるなり。汝いかゞ思ふと仰あり。高虎承り。いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ。さらば夜話の折からこの旨将軍家へも言上せよと有ければ。高虎折を以て此よし申上げしに。台徳院殿いたく感じ給ひ。武勇も慈悲も過てはあしゝとの御教諭こそ。子孫の末までも語り傅へて烱鑑にせめとて。御自ら物にしるし置給ひぬ。高虎またこの由を申上しに。将軍にはさる心づきなき人にはあらざれども。孝心の深きよりして。親の詞を反故になさじと思ひ。かくしるし給ふならんと宣ひ。御慎篤の御性質をいと御賞嘆ありしとど。(藤堂文書)
長篠の籠城すでに終りし後。奥平九八郎定昌をめし出され。定昌若年といひ。数日の間小勢もて大敵を引うけ窮城を保ちし事。誠にためしなき働といふべしとて御感斜ならず。またその七人の家長等をめし出て此度の忠節を賞せられ。汝等が子孫後代に至るまで見参をゆるさるゝよし仰付られ。今に奥平が家人毎春謁見を給はるは。此時の例による所なりとぞ。定昌には作手。田嶺。長篠。吉良。田原の内。遠州。刑部。吉比。新庄。山梨。高辺等の地若干下され。姉川の役に信長より進らせし大般若長若の御刀をも下され。又信長より申さるゝ旨あるにより。第一の姫君もて定昌に降嫁せしめらる。その後定昌岐阜へ参り信長に謁見せしに。信長もいたくその功を賞せられ。定昌が此度の勲功武士の模範ともなれば。向後武者之助と改名せよとて。己が一字を授け信昌と名乗らしめ。そが上にもさま/\〃引出物せられしなり。(貞享書上)
甲州士の内にも山縣三郎兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に応ぜぬよし聞しめし。そはいとめでたきことなり。信玄が内の山縣は大なる兎缺なり。かの魂精の抜出て當家譜第の本多が子に生まれ来りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけられ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。台徳院殿の御伽にめし加へらる。後年石川数正が京都へ立去し後。當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附属せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん様にもり立べしと仰付られぬ。此らをもても山縣をば厚く御感賞まし/\ける事はかりしるべきにぞ。(落穂集)
大天龍の迫合に近藤傅四郎某手負ひて。渡邊半蔵守綱を見かけ。汝我を助けよといへば。半蔵己が取たる首を投げすてゝ傅四郎を負ひ。三里ばかり引退きける由聞せ給ひ。味方一人討るければ数千人が弱みとなるなり。味方を助くるは七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰有て。今よりは守綱を鎗半蔵とよぶべしと仰られしなり。」またこの時斥候の者あまた命ぜられ。退口に及むで己がじゝ馬どもを先にこし。歩立に成て引退ける内に島田意伯もありけるが。仰に。意伯が馬もかしこにあるはと仰せられしが。この騒擾の間にいかゞして見しらせ給ひし事と。あやしきまで御強記の程を感じ奉りけるとぞ。(備陽武義雑談、武功雑記)
天正三年八月遠州諏訪原の城責取給ひ。改めて牧野城と唱へしむ。さて誰かこの城守るべきと宣ふに。大事の地なればいづれも容易に御受するものなし。時に松井左近忠次進み出て。某が守り奉らんとかひ/\〃しく申上れば御けしき大方ならず。よて松平の御称号御諱の字賜はり。松平周防守康親と名乗らしむ。こは周武王が殷紂王を牧野にて攻亡せし故事おぼしいでゝ。勝頼を殷紂に比し。康親を周武になぞらへ。かくは命ぜられしなりと傅へしはまことにや。(貞享書上、落穂集)
天正三年八月光明山。諏訪の原二城責とられ。又小山の城を圍れしに。武田勝頼は過し長篠大敗の後。甲を繕ひ死を吊ひ。重ねて二萬の大兵をもて後詰し。先陣すでに岡部。藤枝までに進み来る。この時御人数を引き上られ井呂崎の岡までいたらせ給ひ。信康君をめし。是まで敵にむかふ様にして引取りしが。この後は敵わが軍後にあり。おことは若年にしていまだ戦陣にも習熟せざれば。こゝよりは我に先立て引退れよと宣へば。信康君いかで父君を跡なして引退かむやとて。かたみに御辞譲ある所へ酒井忠次馳来り。只今急遽なり。両殿はともあれ。某はまづ引返さむとて御先に引退ば。君も忠次につぎて兵を収めらる。其時信康君は敵の程合を見合せ給ひ。後殿にてしづ/\〃と引せ給ふ。君はこの様土台にて御覧じ。天晴ゆゝしき退口かな。かくては勝頼十萬の兵もて攻来るとも。打破ることなるまじと御賞賛有て。牧野の城へいらせ給ひしとぞ。(武徳編年集成)
遠州二股の城とれし時本多平八郎忠勝は供奉し。内藤四郎左衛門正成はその比足痛により従ふ事かなはず浜松城を守れり。折しも風雨烈しくて夜中に軍をかへされ。浜松にいたらせ給ふに。忠勝まづ人をはしらせ。殿の御帰城なり。早く御門を明よといはせけるに。正成関輪を固うしてあけず。忠勝自らかへり来て門をたゝきよばはれども。正成櫓にのぼり。この暗夜に。誰なれば殿の御還などいつはるぞ。かしがまし。そこのかすば打ち殺さんとて。鉄砲に火縄はさみて指麾すれば。忠勝もいかむともすることあたはず。やがて君還らせ給ひて。四郎左我が帰たるはと宣へば。正成御声とは聞つれど尚いぶかしくや思ひけん。狭間より挑燈を出し。たしかに尊顔を照して後。いそぎ御門を明て入奉る。後に正成を御賞美ありて。汝が如き者に城を守らせ置ばいとうしろ安し。いかなる詐謀の敵ありとも抜とることかなふまじ。守城はかくありたき事と仰られしとぞ。(砕玉話)
天正六年三月武田勝頼遠州へ出張せし時。大須賀五郎左衛門康高が甥弥吉御軍令にそむき。勝頼が旗本へ打といり高名せしかば。以の外怒らせ給ふ。弥吉恐れて本多平八郎忠勝が家ににげ入て御免をねぎしかども。御ゆるしなく終に切腹仰付らる。何事も寛仁におはしけれど。軍令にそむきし者などはか御宥怒なかりき。(柏崎物語)
天正六年三月越後の上杉輝虎入道謙信。春日山にて卒せしよしを聞召て。武田入道が死せし後は。また謙信ほど弓箭をとりまはす者は今の世にはなかりしに。これもまたはかなくなりぬ。かく年を追t名誉の弓取打続き死し絶る事。世の為いとおしむべき事と仰られしとぞ。この入道いまだ世に在りし程は。君の御英名をしたひ。はるかに越路より書翰を捧げ慇懃を通じ。當家に力を合せ。甲斐の武田を打滅さんと約し奉りし事も有しゆへ。わきてその死を惜ませ給ひしなり。」又水谷正村入道播(元字は虫篇)龍斎といひしは。下野の結城が幕下にて。東国に名高き弓取なりしが。これも當時天下にこの君ならではああ。共に関東を切平げんものあらじと思ひ。石野丹波といへる家人を進らせ書翰を呈し。一度御馬を関東へ進められんには。その主晴朝を勧めて御先手奉らんと申上ぬ。かく遠方の国々よりもはやうより御風采をしたひ。帰属の心を抱くもの数多有しといへり。(落穂集、貞享書上)
武田勝頼大軍を率ゐ遠州横須賀まで打て出て浜辺に陣どり。君御父子も御出馬ありて。入江を隔てゝ互に鉄砲迫合あり。信康君鈴木長兵衛某一人めしつれ。敵陣近く乗よせ。其様見そなはして。いそぎ戦をはじめ給へと仰上られしかば。君かれは大勢味方は小勢。殊さら地利にもよらで戦をはじめば勝事有べからず。この後とてもおなじ様にこゝろ得らるべし。さりながら年若き程のはやりかなる心には。さ思はるゝも理なりとて軍を班されしなり。後に老臣に向ひ。三郎が弓箭の指図は過分の事なり。しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰られしとなり。(岩淵夜話別集)
岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世両人も。御ふるまひのあら/\しき事ども。条件にしるして御覧に入ければ。三郎がかゝる所行あらば。定て汝等二度も三度も諌を納し上にて。尚聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年若きものゝ事をや。いかにと問せ給へば。両人さ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諌良など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠言進め奉るもの候はずと申せば。君今の世に比千。伍子胥が如き忠臣なければ。諌を進めざるも理なれとて。又何と仰らるゝ旨もなし。其後三郎君御生害あり。はるか年経て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことねぎ奉りしに。三郎今にあらばかく天下の事に心を労すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたるやと仰ければ。忠次何ともいひ得ず。ひれふして在しとか。又幸若の舞御覧ありし時。両人にも見せしめられしに。満仲の曲に。をのが子美女丸をもて。主にかへて首切て進らせしさまを御覧じて。両人に向はせ給ひ。其事となく御落涙し給ひ。両人あの舞はと仰られしかば両人大に恐怖せり。又或時三郎殿のかしづき渡邊久左衛門茂に向はせ給ひ。汝等は満仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事もあり。また関原の役にあさとく御旗を勝山に進めれし時も。さて/\年老て骨の折るゝ事かな。倅が居たらば是程にはあるまじと独言の様に仰られしとか。唐国にも漢の武帝が。衛太子の事有し後に望子の台を築き。朝夕にその方ざまを望み見て。いさちなげかれしといふは。悲しきことのさりとは自らなせる事なれ。これは御父子の間の何の嫌疑もあはしまさず。たゞ少年勇邁の気すゝどくおはしませしを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御挙動の在しも。軍国の習にてあながち深く咎め奉る事にあらず。さるをかの両人織田家の奸計に陥り。かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歳の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみはかり奉るに。袖の露置所なくおぼえ侍るにぞ。(武辺雑談、東武談叢、寛元聞書)
三郎殿二股にて御生害ありし時。検使として渡邊半蔵守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人帰りきて。三郎殿終に臨み御遺托有し事共なく/\言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも涙流して居し内に。本多忠勝。榊原康政の両人は。こらへかねて声を上て泣き出だせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。君聞し召し。さてあやしき事もあるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて。小刀もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の當家にさゝはる事かな。此後は御差料の内に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半蔵は三郎殿自裁の様見参りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君御雑話の折に。半蔵は兼て剛強の者なるが。さすが主の子の首討には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り傅へてひそかに思ふやうは。半蔵が仕兼しを。この山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものうくやなりけん。當家を立去り高野山に入て。遁世の身となりしとぞ。(柏崎物語)
七年駿河国持舟の城を責られし時。先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ。城兵打て出るとも味方をとゞめ。一人も出合まじと命ぜられ。わざと弱き様を見せ。城兵の引入とき附入にし。烈しく戦て攻取られしとぞ。この時城将三浦兵部が首をば。康親が家人岡田竹右衛門打取しを。竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせんと思ひ。一色に與しを君御覧じ。いや/\兵部が首は竹右衛門が討取しなり。余人の功にすなとて。御紋の旗と御具足を竹右衛門にたまはり。その功を賞せらる。この竹右衛門は大剛のものにて度々軍功ありて。御感に逢し事もまたしば/\〃なりしとぞ。(三河物語、貞享書上)
高天神の城中より。幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出にせむといひ出ければ。君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城際近く進みより。たかだちをうたひ出でたり。城兵みな塀際によりあつまり。城将の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感涙を流してきゝ居たり。さて舞さしければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃関東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等取そへて大夫に引たり。」かくて明日の戦に城兵皆いさぎよく戦て討死す。殊さら茜きし武者は天晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとり/\〃御覧に備へし内に。顔の様十六七ばかりと見ゆるが薄粧し。歯くろめ髪なでつけ。男女いづれとも見分がたきがあり。君其眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの内に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。黒眼明らかにみえば男なれと宣へば。笄もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部が最愛の小姓に時田鶴千代といふ者にて。討死の様もいと優にやさしかりしとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎輪乗する様を遥に御覧じ。俄に御先手へ仰傅へられしは、只今に城中より真先かけて乗出る武者あるべし。かまへて支へ止むべからず。若強ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乗廻して制せしめらる。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍横田甚五郎尹松なるが。落城のよしを本国に注進せんため。城兵の討死をもかへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て當家に参り。処々の御陣に供奉し。度々戦功をあらはし武名世にいちじるし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり、(落穂集、家譜、明良洪範)
天正八年七月の比浜松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに。数萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならず。御みづから社頭へまし/\しばし御奉弊ありし後。扇子をもてうち払ひつゝ御下知ありしかば。蜂みな四散す。よて社の跡を清め汚穢なからん様にせよと命ぜられ。松を植しめ五社の松とぞ申ける。(柏崎物語)
甲斐の府に入せ給ひし時。信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを。駿遠三に一つ/\引移せと命ぜらる。本多作左衛門重次この事承り例の怒を発し。殿の御心には天魔の入かはりしにや。かの入道が暴政をよしと思召。ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて。をのれ其釜ども悉く打砕き水中に棄てけり。君大に咲はせ給ひ。さてこそ例の鬼作左よと仰られしとぞ。」又馬場美濃守氏勝が娘さる所に隠れ居るよし聞しめし。鳥居彦右衛門元忠に命じて捜索せしむるに見えざるよし申てやみぬ。其後さきに隠れ居と申せし者かさねて御前へ出し折から。又候此事尋給ひしに。その者御膝近くはひより。まことはその娘元忠が方に住つきて。今は本妻の如くにてあると申せば。あの彦右衛門といふおのこは。年若きより何事にもぬからぬやつなりと高声にて御咲あり。其頃元忠同国黒駒にをいて北条が兵と戦ひ。此地は汝が鎗先にて取得しなり。我が與ふるにあらず永く領せよと仰られしとぞ。(岩淵夜話、東遷基業、鳥居家譜)
按に一説には。山縣昌景が組の者に和田加助といふがありて新に召抱られしに。信玄が時上州箕輪の城責に峰法寺口にて働きし趣を御糺しありしが。相違の事ありて召放されぬ。元より武功の者なれば。鳥居元忠己が方にひそかに養ひ置しを。御聴に入る者ありし時。彦右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰られ。その後何の御沙汰もなかりしとぞ。又鳥居家譜に。元忠が女子馬場美濃守氏勝が娘の設る所とみえたれば。本文に元忠馬場が娘を迎へしといふも據所なきにあらず。
甲斐の者どもめし出て武辺の事御尋ありしに。武田が家法にて矢を用ゆるに。鏃をゆるく箆を強くするは。敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり。後々まで傷ましめんが為なりと申ば。武田が法はさもあれ。わが方にてさる事なせそ。敵なりとも盗賊いましむるとは異なり。当座に射中て働事かなはず。味方に利あればたれり。かゝる慘酷の事するに及ばず。わが方にては箆中を強く鏃のぬけざらん様にすべしと仰せられき。(武功実録)
甲州御手に入し時。平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ。奉行は成瀬吉右衛門正一。日下部兵右衛門定好。目付は岩間大蔵左衛門某也。また甲州人もて沙汰聞の役とせられ。専ら国中の動静を告べしと命ぜらる。その輩に教へ給ひしは。おほよそ国を治るに国人親附せざれば何事もしれ兼るものぞ。沙汰の二字は。小石と沙と土の入雑りてわけかぬるを。水にて動し洗へば。土流れて小石あらはるなり。見えざれば洗はん様もなし。主人のためにあしからぬ程の事ならば。聊物とりてもくるしからじと仰けり。」又信玄以来の諸士の忠否を正し給ひ。武功の誉ある者は其證状を奉らしめ。新にめし抱へられ。あるは本領安堵の御書を賜ふもあり。あるは旧地削らるゝもあり。」又武田代々の香火院恵林寺は右府が為に焼れしを。形のごとく再建せしめ。歴世の霊牌どもをすへ置とて費用の金を下され。勝頼自殺の地にも供養のため一宇を荊創せられ。かくとり/\〃邱(元字は丘でなく血)典を施されしかば。国人なべて御仁政をかしこみしたひ。心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ。(岩淵夜話)
甲斐の一条。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが為に。かれに附属せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年なれども臆せし様にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよ/\勉励せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に来り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政両人に付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇乞に参たりといへば。忠次さて/\御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勧めたてまつりて直政に附しめし也。さるを聞分ずして率爾の挙動もあらば。殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功実録)

此巻は武田信玄と御合戦よりはじめ。長篠御勝利の後甲斐国御手に入しまでの事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻四

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻四(全文)

天正十年五月織田殿の勧めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覧終り。既に御帰洛あらんとせしに。茶屋四郎次郎清延たゞ一騎来り。飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様つばらに語り。忠勝四郎次郎とゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。君聞しめしおどろかせ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に帰り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ。半里ばかりゆかせ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川数正。榊原康政等にむかひ。若年のものの申事ながら。君御帰京有て無益の死を遂られんよりは。速に本国にかへらせ給ひ。御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてそのむね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ。山賊野伏の為に討れんよりはと思ひ帰洛せんとはいひつれ。誰か三州への案内知りたるものゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺の郷導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死し。故主の恩に報じなん。これより河内山城をへて江州伊賀路へかからせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障ることはあらじと。かひ/\〃しく御受申せば。君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案内させ。木津川に至らせたまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河内路へて山城に至り。宇治川にて河の瀬知りたるものなければ。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にてわたす。その辺にいつき祭る呉服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立て郷導し奉れば。郷人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信楽に至らせ給へば。土人木戸を閉て往来を止めたり。此地の代官多羅尾四郎光俊はこれも秀一が旧知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戸をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地蔵の像を御加護の為とて献る。(慶長十五年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚づゝたまひ。かゝるときは人ごとに金もたるがよし。何れか用をなさんもしれずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植三之丞清廣はじめ。かねて志を當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案内し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大浜の浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟麦米の三しなを一つにかしぎし飯を。常に用ゆる椀に盛て献る。菜はなきかとのたまへば蜷の塩辛を進む。風味よしとて三椀聞しめす。かくて御船大浜に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ。明る日岡崎へ御帰城まし/\ける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ数日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の涙を催せしとぞ。(武道雑談、永日記、貞享書上、酒井家旧蔵聞書、続武家閑談)
この御危難の折御道しるべして勲功有しものどもさまざまなり。山口玄蕃光廣といひしは多羅尾四郎兵衛長政が養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより。光廣実父多羅尾が方へ申をくりて。己れ御迎に出て田原の居城へ入奉り。これより供奉して江州の光綱が家へ案内し奉り。伊賀路の一揆ども追払ひつゝ白子まで御供せしかば。光忠の御刀及新地の御判物たまはれり。」又山岡美濃守景隆は代々江州勢田の城主にて京都将軍家に勤仕す。弟の対馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれ共逆党に背き。勢田の橋を焼断て追兵を支へ。御駕を迎へ賊徒を追払ひつつ。伊賀の闇峠まで供奉せり。」又伊賀の侍柘植三之丞清廣といひしは。これよりさき天正九年三河に参謁して。伊賀のもの共皆織田家をそむき。當家に属せんとす。願くは御書をたまはる事かたし。たゞ元の如く本領を守るべし。もし當家に従はんとならば御領国に遷るべしとなり。その後伊賀の者猶織田家の命に従はざれば。右府大にいかられ悉く誅伐せらるゝにより。みな山林に遁隠て時節を窺ふ所に此度の事起りしかば。清廣をのが一族伝兵衛。甚八郎宗吉。山口勘助。山中覚兵衛。米地半助。其外甲賀の美濃部菅三郎茂濃。和田八郎定教。武島大炊茂秀等を勤め。みな人質出して郷導し。鹿伏兎越の険難をへて伊勢まで御供す。後年関原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し。御本陣に参りて警衛し奉る。この折伊勢路まで御供せし輩は。後々召出されて直参となり。鹿伏兎越まで供奉に半途より帰国せし二百人のものどもは。服部半蔵正成に属せられ。伊賀同心とて諸隊に配せられしなり。またこの年六月尾州にて召出されしは。専ら御陣中の間諜を勤め。後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附属する伊賀ものゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島。美濃部。伴などいふやからは直参となり。その以下は諸隊に配せられて与力同心となされしもありしなり。(諸家譜、武徳編年集成、伊賀者由来書)
武田亡びてのち織田右府駿河国をば當家へ進らせ。甲斐国をば其臣川尻肥前守鎭吉にあたへ。よろづ御心添あらまほしき旨右府よりたのまれしゆへ。こなたにもまめに受引給ひ。度々川尻が方へ御使つかはされ御指諭ありしが。鎮吉もとより疑念ふかきをのこゆへ。こなたの御深意をかへりてあしざまにおもひ。かつ甲州人の皆當家に従ひ。鎮吉に服するもの少きは。全く當家の御所為なりと思ひ誤り。諸事京のものとのみ相議し。国人にはひたすら心置しゆへ。国人もいよ/\心服せずして。川尻をにくむものおほし。かゝる所に此度右府の凶事有て。瀧川左近将監一益も上州を捨て上洛すれば。川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思召。その旧友なれば本多百助信俊をつかはされ。万事心安くかたらふべし。もし上洛あらんには。此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞。百助に案内せしめ。わが領内を経て上らるべしなど。ねもごろに仰つかはされしに。鎮吉いよ/\疑を起し。百助に己を討しめられん御謀と思ひ。密に人をして百助を害せしむ。此事忽に聞伝へて甲人一揆を起し鎮吉を討とりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及しかば。われかねて信長と約せし事もあれば。彼が謀議の為にもと思ひ百助をつかはせしに。かゝる無道人にあひて。御泪数行に及ばせたまひぬ。このとき老臣等。速に御勢を催し川尻が罪をうち給へとすゝめしに。それは川尻が二の舞にて。家康などがする事にてなし。先その儘よとの上意なれば。又と申上べき様もなくてやみぬ。かくて川尻死せしのち甲州主なければ。その間をうかゞひ。北条氏政父子責入よしとり/\〃風聞し。国人も北条が民にならんは念なし。當家より御旗をむけられなば皆々打かたらひ。時日をうつさず甲州一国を切取んとうつたふるもの多かりしかども。さらに聞しめしいれず。たゞ明暮奉行人に命じ。国人の忠否を正し。武道の御穿鑿のみを専らとせられ。いさゝか競望の念おはしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話)
甲斐の若御子にて数月の間北条氏直と御対陣有しとき。氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申により。上州を北条が領とし。甲信二国は當家の御分国とせられ。且督姫のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約すでにさだまり。氏直も野辺山の陣を払て退かんとするに及び。平沢の朝日山に砦を築しむるよし聞しめし大にいからせたまひ。われ先年駿河に有しとき氏規と旧好あるをもて。こたび彼が強ちにこひ申にまかせ盟約を定め。且婚家たらん事をもゆるしぬ。さるにわが領国の内に城築く事不当の至なれ。この上は有無の一戦を決すべしと仰有て。朝比奈弥太郎泰成もてこの由北条が方へ仰つかはさる。此とき敵は平沢より信濃路へ引払はんとする所に。當家の御先手は若御子の上に押上り。もし北条が答遅々せば直に打てかゝらん形勢したれば大に恐れ。早々人質出し。朝比奈と共に新府の御陣にまいり。異議なきよしをさま/\〃謝し報りければ聞しめしとどけられ。こなたよりも人質をつかはされ。両陣互に引払ひしとなん。(落穂集。武徳編年集成)
この対陣のとき。味方の内誰なりとも。鉄砲打かけて敵陣の様試みよと仰有しに。いづれも遅々せしが。甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて。足軽めしぐし鉄砲持せてはせいで。その子彦助正吉は父が指物を相図として。斥候をしつゝ馳廻るさまを御覧じ。たれもかのさまをみよとて床机より下り立せられ。御杖もて二たび三たび地を扣かせたまひ。曲淵は年老ぬれど。武道のうきやかなる様かな。彦助も父に劣らぬ若者よとて。殊にめでさせ給ひしとなん。(家譜)
天正十一年の事にや。京より九年母といふこのみを献りしものあり。こは其頃南洋よりはじめて舶載して。いとめづらかなるものなれば。百顆ばかりを分ちて小田原の北条が許に贈らせ給ひしに。かの家臣どもだい/\〃と見あやまりて。めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや。浜松には稀なると見えたり。こゝにはあまたあり進らせんとて。だい/\〃を長櫃に入れ。役夫八人にかゝせて献りけり。君小田原のものどもこの葉をあぢはひもせず。たゞだい/\〃とのみ思ひとりて。かゝるなめげの挙動する事よ。主人はともあれ。家臣等がかゝる粗忽の心持にては。家国の政事を執行ふに。いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰られしとなり。(東武談叢)
長久手の役に夜中小牧を御立有しが。勝川といふ所にて夜ははや明はなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覧じ。哀むべrし次郎助一定討死しつらんとのたまふ。こは丹羽次郎助氏重仰を蒙り岩崎山守りしが。池田勝入が為に戦て討死せしなり。さてこの所は何といふぞと御尋あれば。勝川甲塚といふよし申上。こはめでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて。このときためぬり黒糸の御鎧に椎形の御胄をめされ。御湯漬をめし上らる。士卒に御下知有しは。人数押の声ゑいとう/\といふはあしく。ゑいとうゑいといふべしと命ぜられ。いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊萬千代直政が赤揃一隊をやりすぎて。行伍の乱れしを御覧じ。あれとゞめよ。足並乱して備を崩すことがあるものか。木股に腹を切せよとて。御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづまりぬ。直政山を越て人数を押むといふに。広瀬。三科の両人小口にて息がきれてはならぬといふ。直政何ならぬ事があるものかといふ所へ。近藤石見馳来り。かかる事は若大将の知事にてなしといひつゝ。直政が馬のはな引かへし。脇道より敵陣へ打てかゝる。君は竹山へ御上有し所へ。内藤四郎左衛門正成還来て。御先手崩れぬ。今日の御軍おぼつかなし。兵をおさめ給へといふ。高木主水正は御勝軍なり。早く御勢をすゝめたまへといふ。本多正信はかゝる御無勢にて大敵にかゝりたまふべきやみだりの事ないひそと制す。主水いかに弥八。御辺は座敷の上の御伽噺や。会計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異なり。今日は御大将の進まで叶はせられぬ所なり。速に御出あれといへば。君も咲はせたまひながら。さあ出んとて金の扇の御馬験を押立て進ませ給へば。敵は是をみて。さてこそ徳川の出馬有しぞ。大事なれとおどろきあはてゝ色めき立を。森武蔵守長一打立て制すれどもきゝいれず。とかうする内に鉄砲に中て死しければ。これを御覧じ。婿めが備は崩るゝぞ。勝入が陣を崩せとのたまふにより。御家人等我先にと馳入て高名す。勝入も引なかへせと下知すれど。崩れ立ていよ/\敗走する所に。永井傅八郎直勝遂に勝入を討とりしかば。これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語、東遷基業)
池田。森の両将既に討れ。上がた勢惣崩して敗走す。味かたこれを追討ゆくをとゞめたまひ。砂川よりこなた十町ばかりにて引上させ給ひぬ。そのとき秀吉は大敗を聞いきまきて馳来り。龍泉寺の上の山に金の瓢箪の馬印をおし立たり。もし味かた十町も追過なば。荒手の大軍に出合て戦難儀なるべきに。早く其機を察し引上給ひしゆへ。勝を全うしたまひしなり。君ははるかにかの馬印を御覧じて。
筑前頼み切たる先手の三人まで討せ。さぞせきたるらんとてはゝゑませ給ふ。榊原康政進み出で。仰のごとくいかにもせきたるとみえて。馬廻ばかりにて走り出候。今ぞかれを討とるべき機会なりといへば。又咲はせられ。勝に勝は重ねぬものぞ。一刻も早く小幡に引取れとて。渡邊半蔵守綱を殿として小幡に引とられ。其夜又小牧に御帰陣有しなり。此日秀吉は犬山に在て茶を点じて居し所へ敗軍の告有しかば。大にいかり直に出馬し。龍泉寺の辺にて軍の状を尋られしに。徳川殿は既に小幡に引取られしといへば。秀吉且いかり且感じ馬上にて手をうち。さて/\花も実もあり。もちにても網にてもとられぬ名将かな。日本広しといへどもその類又と有まじ。かゝる人を後来長袴きせて上洛せしめんは。秀吉が方寸にありといはれしとか。(渡邊図書小牧長久手記、落穂集)
按に一説に。このとき酒井忠次。秀吉を討は今日にありといひしに。勝て胄の緒をしむるといふはこゝぞと仰らるれば。忠次重ねて。一陣破て残党全からずと申せば。唯今こそよき図なりといふ内に。敵はや柵を附たれば。明日は秀吉に降参したまふべしといひしとか。これも康政と同じ事を両様にいひ傅へしなり。
本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが。秀吉が大軍押出すをみて遮伐んといふ。酒井忠次。石川数正きかざれば。己が手勢わづか八百人もて川水にそひ。秀吉が大軍と睨あひつゝ川ごしに押て行。秀吉其大膽にして且忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば。既に御勝利にて小幡に引入給ふときゝ。今は心安しとて御道筋に出て拝謁し。かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは。よく/\御見限ありしと申上れば。君われ身を二つに分たる心地して汝を小牧に残し置しゆへ。心やすく勝軍せしなりと仰られて。直に供奉命ぜられ。小幡に入らせたまひなり。(柏崎物語)
小幡の城にて榊原康政。大須賀康高等御前へ出で。今宵敵陣の様を伺しめしに。昼の程長途を馳来りしゆへ。みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討かけて辛き目みせんと申ければ。御首を振せられ。いや/\とのたまひてとかうの仰もなし。みな御前をまかでしのち本多豊後守廣孝をめして。汝城門を巡視し一人も門外へ出すべからずと有て。間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を触られ。成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ。必ず夜討かけ給ふならんと人々思ひしに。小牧へ御馬を入られしかば。誰も/\おもひよらぬ事とて感じ奉りぬ。後日浜松にてこの折の事語り出たまひ。汝等が夜討せよといひしは。秀吉をうち得んと思ひてか。またはたゞ戦にかたせんとまでの事かと尋たまへば。互に面を見合せやゝ有て。秀吉を討とるまでの思慮も候はず。たゞ必ず御勝利ならんと思ひしゆへなりと聞えあげしかば。われもさは思いし事よ。敵を皆殺にしても。秀吉をうちもらしなばかへりてあしく。昼の戦に池田。森の両人を討しさへ。一人にてもよかりしと思ひつれと仰ありしとぞ。(岩淵夜話別集)
按に菅沼藤蔵定政が譜には。既に小幡の城に入らせ給ひ。斥候の者して敵の様伺はしめしに。今にも襲ひ来らんよしいふ。よて藤蔵定政をめして。彼等がいぶかし。汝行てたしかに見てこよと仰あり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出て伺ひ終り。かへりきて申上しは。敵は皆甲をぬいで飯くひ居たり。今来らん様にてなし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におはして大敵にかこまれなば。ゆゝしき御大事なりとて。小牧に御陣をうつしたまへと勧め奉れば。我もさこそは思ひつれとのたまひて。重ねて小牧に御動座あり。果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといへども空塁なれば案に相違し。いたづらに軍を班せしとぞ。
この戦に平松金次郎は。茜の羽織に十文字の鑓をもち。一番に勝入が陣に蒐入て。敵の首三級取て見参に入しかば御感あり。追討の時は鎌もて草を薙ぐが如しといへば。首もたゞ一つ取て足れり。多級を貪るに及ばずと仰られたり。」又大脇七兵衛は金次郎と同じく先陣に進みたるが。此度の鑓は金次郎一番なりと仰ける所へ。七兵衛つとまいり。某も其場に侍しが。弓射よとの命有しゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ様の御賞詞は蒙るまじきをと申せば。しばし御思案の様にて。汝がいふ所の如く是をしるしにとらせんとて。御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしとなり。」又高井助次郎実重といひしは。其父蔵人実広今川の家臣なるが。桶狭間の戦に討死し。助次郎も亦氏真につかへ終始節を改めず。この戦に諸人いづれも高名したるに。助次郎一人は何の仕出せし事もなく。あまりの面目なさに泪ながして居しかば。汝は古主氏真の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば。けふの戦に敵の首取たるよりはるかにまされり。歎に及ばずと仰られしかば。助次郎は思ひよらず面目を施しける。」小笠原清十郎元忠は兼て弓篭手をこのみてさしけるを御覧有て。弓篭手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働のならざるものぞといましめたまひが。この戦に元忠敵三人切伏しに。右の腕を打落され。左の手に太刀の腕貫をかけて働しが。終に討死せしちなり。」又成瀬小吉正成このとき十七歳なりしが。敵陣に蒐入て首一取来て御目にかくれば。その勇を称せられ。唯今旗本の人数少し。汝はこゝに止れとのたまふ所に。御先手の崩れかゝる様をみて。正成また馳出んとするに。馬の口取轡を控て放さず。正成葉武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて。鞭打てあふれども猶放さず。君この躰を御覧じ。士の討死すべきはここなり。放してつかはせとのたまへば。口取放すとひとしく敵陣に馳入て。味方の退くものどもを励しつゝ奮戦し。又首を得てかへりぬ。のちに正成が戦功を賞せられ。汝の働は宿将老師にもまされりとて。根来の騎士五十人を附属せられしとぞ。(感状記)
玉虫忠兵衛といひしは。甲州の城意庵が弟にて。信玄謙信に歴事し。後に當家に参りこの役にも供奉し。御行軍のさま拝覧して有しが。君忠兵衛にむかはせ給ひ。今少し見合せて鑓をいれて見せん。よく見よと仰ありしが。程なく御勝になりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは。君の御軍略は甲斐。越後にはおとらせたまふとも。御勇気の凛然たる事ははるかに優らせ給へり。末頼もしき御事なりといひしとか。或ときの仰に。玉虫はたはけたるをのこなれども。軍陣には眼の八つづゝあると仰られしとぞ。のちに上総介忠輝朝臣につかへ。浪華夏の役に軍監つとめけるが。指揮のさまあしかりとて。御いかりあれて追放され。玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雑記、古士談話、大坂覚書)
初鹿野傅右衛門信昌は。甲斐の加藤駿河守が次男なり。同国に入らせたまひしとき。傅右衛門さま/\〃走廻りて勲功有しかば召抱へられんとせしに。己が旧知の四百貫に。実父駿河が遺領二百五中貫の地を共に書入て。證状となして捧げしかば。兄弟後及第弥平次郎両人。傅右衛門が一人して父が遺領とらん様なしといひ訴へ出しに。御糺ありて。たゞ四百貫の旧知のみをたまひければ。傅右衛門大にふづくみて。此度召出されし人々の内には。親兄弟の者を結び入てしるし出せしを。そのまゝくだされしもあるに。己ればかり賜はらざるのみならず。あまさへ奉行人んp前に引出され拷掬にあひぬれば。この後人に面むけん様もなしとて。さきに賜りし御朱印は反古に成たり。我等がごとく走り廻りても何の詮かあらんとて。人々にむかひ口さがなく廣音吐てゐたり。このよし岩間大蔵左衛門聞付て。もとより傅右衛門とは中あしければこれ究竟の事と思ひ。そのゆへ目安にかき連ねて奉りければ。御糺ありしに目安にまがひなければ。大に御いかり有て。おごそかに警しめ給ふべけれども。世々武名ある家筋なれば。死一等を宥めて其禄収公せらるゝとなり。かくて傅右衛門旧知にも離れ。流浪の身となりて宥しが。此度の戦にひそかに御陣に従ひ。三宅弥次兵衛正次と同じく敵の首取て。内藤四郎左衛門正成に就て披露をたのみけれども。御咎蒙りし者ゆへ。はばかりて聞え上ず。其折君はるかに御覧じ付られ。傅右衛門これへまいれと上意なれば。御前に出しに。汝往年の罪により一旦はいましめつれども。久しからずよびかへさんと思ひしに。よくもこゝまで供して高名せしぞとかへす/\〃仰ければ。傅右衛門かしこさのあまり涙ながして拝伏す。其時弥次兵衛正次も傍より進みいで。さきに某一番鎗の仰を蒙りしが。まことは傅右衛門某より一町あまりも先にて。敵の首得たりと申せば。弥次兵衛も直実なるものよと。これも御賞誉を蒙りしなり。」小幡藤五郎昌忠は甲斐の小幡豊後守昌盛が子なり。武田亡びて後當家に仕へ奉り。甲州の新府にて北条と御対陣のとき。平原宮内といふ者北条に志を通じけるよし露顕し。御前にて人の刀奪て切廻り。あまたの人に手負せける所へ。昌忠走りきて宮内を切とむ。宮内倒ざまに払ふ刀に昌忠左の手首うち落されぬ。其功を賞せられ父が本領給ひ。また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたはに成しかば。今は世のまじらひせん事も叶はじ。暇たまはらんとこひ出しに。左の手はなくとも右の手にて太刀打はなるべし。あながち辞するに及ばずとて。もとのごとくめしつかはれたり。さてこの日の戦に昌忠敵の首二切て御覧にそなへ。また外に首二もち出で。これは家僕が取しなりとて捧げしかば。汝が家人のとりし首を。我に備ふるは何事ぞと咎め給ひしかば。昌忠かしこまつて御前をまかりでぬ。後近臣にむかはせたまひ。かれ左の手首なけれども。そのとりし首は家僕が力を添しにあらずといふをしらしめんとて。家人のとりしをば別に見せしめしならん。とかく甲州人には油断がならぬと仰られしとぞ。」又水野太郎作正重は己が隊下の同心。銃もて森武蔵守長一をうち落し。敵陣の色めくをみて。正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り。敵陣に蒐入しを御覧じ。御馬廻に命じ。同じくかけ破らしむ。軍終てのち。今日の戦大久保忠佐こそ。先登して大功を立しとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違たまひしならんとはおもへども。あながちいひもあらそはざりき。重ねて軍功を論ぜらるゝに及び。又この事仰出されしかば。正重もつゝみかねて忠佐に向ひ。尾崎より乗下せしは某なり。御ことは其折渡邊弥之助光と同じく久下に控られたり。余人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど。御辺は数度の武功もありながら。上の御見違を幸に。人の働を己が功に成さんとおもはるゝか。御辺に似合ぬ事といへば。光も正重が申所いさゝか相違なし。某も見届たりと申す。君つばらに聞しめし分られ。さてはわが見違しなり。正重心にかくるなと御懇諭有しかば。正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。」又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は。池田が士卒を射しに。守綱鑓を落しければ。孫之丞敵の中けかけ入り敵を突ふせ。其鑓を取てかへり守綱にかへしければ。この働武蔵坊弁慶にもまされり。今より氏を武蔵と改むべしと仰有て。あらためしなりとぞ。(岩淵夜話別集、落穂集、家譜)
小牧対陣の折當家及び織田信雄が勢。敵の二重堀に攻かゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば。その旨秀吉に告るもの宥しに。秀吉折しも碁を打て居られしが。二重堀破れば兵を出すべし。早くしらせよといつてもとのごとく局に向ひ居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ。敵もし後詰にいづるほどならば。こなたよりも攻かゝらん。さまでになくば戦ふなと仰られ。荷中に及び両陣引上ける。後に筑紫陣の折秀吉この事をいひ出され。先年小牧の時など攻かゝりたまはざりしといふに。君その折家臣どもは皆軍せよと勧めつれど。某は小牧より勢をこなたに引付て討むと思ひしゆへ。かゝらざりきと宣へば。秀吉も手を打て感嘆し。をのれも二重堀破れば。小松寺より大勢を出し戦はゞ。必ず勝なんものをと思ひしといはれける。誠に敵も味かたも良将のよく軍機を熟察有しは。期せずして符を合するごとくなりと。森右近大夫忠政が人にかたりしとぞ。(小牧戦話)
小牧山へ御陣をすへられしとき。秀吉が方には隍をほり柵をつくるを御覧じ。信雄にのたまひしは。先年長篠にてわれ故右府とゝもに。かゝる手術して武田勝頼を待うけしに。勝頼血気の少年ゆへ陣をみだして切かゝりしに。こなたは待設けし事なれば思ふ図に引付。鉄砲にて打すくめ。労せずして勝を得しなり。今秀吉その故智を用ひ柵などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我等を。勝頼と同じたぐひの対手と思ふとみえたりとて咲はせ給ひしとぞ。(落穂集)
瀧川一益が秀吉に一味して。尾州蟹江の城に籠るよし告有し時。尾州清州におはしけるが。すみやかに御出馬有べしとて。奉書もて諸所へ触しめらる。尊通といへる右筆その状をかきて御覧に入しに。可2出馬1とある文に至り。可字除くべし。軍陣の書は一字にても心用ひてかくべきなり。いま大敵を前に受ながら。可2出馬1とかけば文勢ゆるやかに聞ゆ。出馬するものなりとかゝばその機運なりとて。かきかへしめられしとぞ。」同じ城責のとき瀧川が内に。瀧川長兵衛といふ名ある者を捕へ来りしに。そが命を助けて返せとのたまへば。捕しものやむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものをかへし給へば。當家の兵鋒日数重ねても撓むことあるまじと思ひ。城兵をのづから退屈すべしと思しめしてなり。」酒井忠次はこの城直に攻潰すべしといふに。まづ其まゝにして置と仰られ。九鬼が粮米を船に積て。城に入るゝをも支へんともしたまはざれば。君には城攻を忘れ給ふかろさゝやきいふも聞入たまはず。ひそかに人に命じ城中の動静を伺はしむるに。此度一益秀吉に頼まれて籠城しつれども。かくすみやかに御出馬あらんとは思ひもよらざりしといふを聞給ひ。今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入てみよとてその旨仰つかはされ。且城将前田與十郎を切て出さば。一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを。家人等相議し前田を切て出しければ。約のごとく一益をゆるして城を受取らしめらる。一益が退去に及び。追伐んといふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふとはゞ。秀吉方のものども思ひの外にて心を置べし。その上唯今一益を扶け給ふとも。のちに秀吉其まゝにはすて置まじと仰られしが。果して秀吉。一益が前田を殺せしをいきどほり。丹羽長秀が領内越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝいひしは。志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は當家御一代の勝事にておはします。この後詰のとき折しも湯あみしておはせしが。その告あるとひとしく。湯まきめしながら御出馬あり。従ひ奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入て。残卒はいまだ上り終らざる内に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書、小早川式部物語、老人雑話)
佐々内蔵助成政越路の雪をふみ分つゝ。さら/\越などいふ険難の地を歴て。ひそかに浜松へ来て。まづ君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り。この上いよ/\心力をつくし。織田家の興立せん事を願ふよし申す。君も成政が深冬風雪をおかし。はる/\〃参着せしを労せられ。われ元より秀吉と遺恨なし。たゞ信雄が衰弱をみるにしのびずして。故織田殿の旧好をわすれかねて。わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしときけば。わがこれまでの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政旧主の為に義兵を起さんならば。援兵をばつかはすべしとねもごろに待遇し給ふ。成政かしこまり御物がたりの序に。君を信玄に比し。己れを謙信になぞらへ。自負の事どもいひ放ちつゝ。かへさに信雄が許にゆきて京に責上らんとそゝのかしけれど。信雄は己に秀吉と和せし上なれば成政が言に従はず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降参せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき。高力與次郎正長めして仰有しは。佐々は頗る人傑なり。かゝる者には知人になりて。その様見習置がよしと仰あり。酒井忠次は成政が自負をいかり。かゝるおのこなるものに御加勢あらんは無用なりと申せば。かれもとより大剛の士なれば。その勇気にまかせ失言あるも理なり。さる事にかゝはるべからずと仰有しとぞ、(柏崎物語)
真田安房守昌幸。上田。戸石。矢津の城々明渡さんといふより。御家人をつかはされ請取しめんと有しとき。真田は信玄の小脇差といわれしほどの古兵にてあれば。さだめてかの城鵜も守備堅からん。その上彼が兄長篠にてわが勢の為に討れたれば。此度弔ひ合戦すべきなど思ひまうけしもしるばからず。彼がごとき小身ものに。五ヶ国をも領するものが打負なば。いかばかりの恥辱ならん。こは保科。蘆田などに扱せよと仰けれども。老臣強て申請により。大久保。鳥居などの人々に。二萬ばかりそへてつかはされしが。果して真田が為に散々打まけて還りしかば。いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。老臣重ねて兵を出さんと申上しに。岡部弥次郎長盛に甲信の兵をそへて。信州丸子表に出張し。真田が様を見せよと命有て。長盛丸子に於て真田と戦ひしに。打勝て真田上田に引退しかば。ことに長鵜盛が戦功を御賞誉有しとなり。(御名誉聞書)
三河草創よりこのかた。大小の戦幾度といふ事をしらざれども。別に當家の御軍法とて定れる事もなく。たゞそのときに従ひ機に応じて御指麾有しのみなり。長久手の後豊臣秀吉たばかりて。當家普第の旧臣石川伯耆守数正をすかし出し。数正上方に参ければ。當家にて酒井忠次とこの数正の両人は第一の股肱にて。人々柱礎のごとく思ひしものゝ。敵がたに参りては。この後こなたの軍法敵に見透されば。盲に目のぬけしなどいふ譬のごとく。重ねて敵と戦はん事難かるべしと誰も案じ煩ふに。君にはいさゝか御心を悩し給ふ様も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。其頃甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ。信玄が代に軍法しるせし書籍及びそのとき用ひし武器の類。一切とりあつめて浜松城へ奉らしめ。井伊直政。榊原康政。本多忠勝の三人をもて惣督せしめ。甲州より召出されし直参のものをはじめ。直政に附属せられしともがらまで。すべて信玄時代に有し事は何によらず聞え上よとて。様々採■有し上にて尚又取捨したまひ。當家の御軍法一時に武田が規護(元字は矢篇)に改かへられ。其旨下々まであまねく令せしめ。近國にも其沙汰広く伝へしめられたり。(岩淵夜話別集)

此巻は伊賀路の御危難より。長久手御合戦の後までの事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻五

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻五(全文)

長久手の戦に上方勢おもひの外に敗續しければ。秀吉いまはひたぶるに當家と和議を結ばんとおもひ。まづ織田信雄と講和し。信雄をかたらひて。御長子お義丸殿を秀吉養ひまいらする事となり。元服させ三河守秀康と名乗せかしづきぬ。されどもこなたにはいまだうちとけさせ給ふ御さまにもおはしまさねば。秀吉度々使をまいらせしうへ。猶又土方下総守雄久をしてかさねて慇懃を通じ。近きほどに御上洛ありて。秀吉御父子にも御対面あらまほしく。かつは都方の名所ども御遊覧もあらせられば。御心をも慰め給ふべうもやと懇に申をくられしかば。君聞しめし。われ今何事の有て秀吉にあふべき。秀康が事は秀吉が子に進らせしうへはわが子にあらず。親の秀吉にさへ用なきに。何の用ありて其子の秀康にあふ事を求めんや。織田殿世におはせしほど都にも上り。名所旧跡みな遊覧しつれば。今さら見まほしとも思はず。このごろはたゞ分国にありて朝夕鷹を臂にし。犬引て野くれ山くれかりくらす。これに過たる楽なし。さりながらもし秀吉己が兵威をもて。あながちに我を上せんとはからはゞ。われも又其心得あり。つゝまず申せとのたまへば。雄久大に恐れ。これ秀吉が命ぜられしにてはなし。全く某一人の私意もて。御気色とりしまでなりといひすてゝ。いそぎ京へ逃のぼりしとぞ。(岩淵夜話別集)
其後秀吉妹の朝日の姫君もて御台所に進らせ。そのうへにも母の大政所をも岡崎へ下して。御上洛をすゝめたてまつれば。今はあながちに辞せんもあまり心なきに似たり。いかゞせんと議せらる。酒井左衛門尉忠次等の老臣申けるは。秀吉が心中いまだはかりがたし。御上りあらん事よしとも存ぜず。万一彼怒を発し大軍をもて責下るとも。上方勢の手並は長久手にて見透したれば恐るゝに足らずとて。皆御上洛を止めたてまつる。君聞しめし。汝等がいふ所理なきにあらず。さりながらよく考へみよ。本朝応仁よりこのかた大乱うちつゞき。四海の民一日として安きことを得ず。今天下漸静謐ならんとするに及んで。我又秀吉と干戈を交へば。騒乱いよ/\やむ時なくして。人民これが為に命を喪ふ者多からん。豈いたましからずや。さればわが一命もて天下万民の命にかはり。上洛せんと思ふなりと仰ければ。忠次等もさまで思召定め給ひし御事ならば。臣等又何事をか申上べきとて退きぬ。此御詞承りしもの。末終に天下の父母とならせ給ふべき御徳は。この御一言にあらはれたりと評したてまつりける。殷湯王が百姓過あらば朕一人にあり。萬方罪あらば罪わが身にありといはれしも。同じ様の御事と伺はるゝにぞ。さて都へ出立せ給ふにのぞみ。御留守奉る者に仰置れしは。もし我都方にて事有ときかば。大政所御台所も速に京にかへしまいらすべし。この人々はもとより大事にあづかりしにもあらず。又家康は婦人を下手人にとりしなど人に嘲られんは。なからん後までの恥辱なれば。かまへてわるびれたる挙動すなと。かへす/\〃のたまひ置れしとぞ。(逸話)
御上洛ありて。茶屋四郎次郎清延が家もて御旅館となさる。秀吉よりは使もて御上京を賀せしめ。夜に入ひそかに微行して来られ。年久しくて対面しこゝらの鬱懐皆散じぬ。扨此度徳川殿をはる/\〃こゝまで迎へまいらせしは。秀吉をして天下の主たらしめん事をたのみ進らするよしいはる。君聞しめされ。御身正しく天下の主とならせ給ひながら。何とてかくは宣ふぞ。秀吉いやさることの候ぞ。秀吉今位人臣を極め。勢天下をなびかすといへども。其はじめ松下が草履取し奴僕たりしを。織田殿に取立られし事は誰かこれを知らざらん。かゝれば天下の諸大名陽には敬服すといへども。内心にはあなづり思ふ者少からず。あはれ願くは明日対面せんに。その御心がまへして給はるべし。秀吉をして天下一統の功を全うせしめ給はん事。徳川殿の御心一つにありとありければ。君今はたむすぼれたる御中となり。かく上洛さへつかふまつるうへには。何事も御為あしうは存ぜず。ともかうもよきにはからふべけれとうけひかせ給ひ。さて明日大坂城にわたらせ給ひ。諸大名群集の中にて太刀馬どもさゝげられ。敷居隔てゝいかめしきさまにけいめいしてもてなさせ給ひしかば。秀吉よろこびに堪ずさま/\〃饗したてまつり。物どもあまた進らせけり。これよりして天下の大小名。殿下の人質出して迎へられし徳川殿すらかく関白を敬礼せらる。われ/\いかで軽卒にすべきとて。いよ/\尊崇する事前日に十倍せしとか。(玉拾集)
御上洛の折大和大納言秀長朝の御膳たてまつるとて迎へたてまつりしとき。秀吉も俄に其席に臨まる。白き陣羽織の紅梅の裏つけ。襟と袖には赤地に唐草の繍したるを着したり。秀吉がたゝれし後にて。秀長と浅野弾正長政とひそかに申上しは。彼陣羽織を御所望あるべしと申。君某今までかゝる事人にいひし事なしといなみ給へば。二人これは殿下物具の上に着せらる陣羽織なれば。こたび御和議有しからはあながちに御所望ありて。この後殿下には御鎧は着せ進らすまじと宣へば。関白もいかばかり喜悦ならんと申す。君もうなづかせ給ひ。秀長の饗席既に終り。秀吉と共に大坂城に上らせらる。このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉いはく。毛利。浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。徳川殿を明日本国に還すなりとて。又君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられよ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脱し給へといへば。秀長。長政。御側によりきて脱す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。君御陣羽織とうけたまはるからは猶更拝受を願ふなり。家康かくてあらんには。重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脱て着せ進らせ。諸大名にむかひ唯今家康の秀吉に物具させじといはれし一言をおの/\聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報のものよといはる。この日諸大名の陪従多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へと申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。徳川殿御聞候へ。この所よりわづか清水へゆくにも。人数の三萬か二萬と申されしとぞ。次の年駿城にて井伊直政。本多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。家康が一言にて四国中国の者を鎮服せしめん為なり。次に近所へゆくにも二萬か三萬といひしは。兵威をもて我をおどさんとてなり。例の秀吉が権詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四国中国はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもいひ伝へて。関白の兵威の盛なるを称しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に来り我にむかひ三度まで拝礼す。その事しりし秀長。浅野長政。加々爪某。茶屋四郎次郎四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し抜て事をはかる人には。中々力押にはなりがたし。よく/\時節を持て工夫あるべしと仰ありしとぞ。(続武家閑談)
北条氏直へ姫君住つかせ給ひしより四年になれども。いまだかの父子に対面し給はず。こたび氏政父子伊豆の三島まで詣るよし聞しめし及ばれ。御使もて会面せまほしき旨仰つかはされしに。氏政が方にも。さこそ存ずれ。但黄瀬川を越てこなたへわたらせ給ふやう。あらまほしとの事なり。このとき酒井忠次等うけたまはりて。氏政がかくうけたる答のまゝに。川をこして渡御ましまさば。世の人。徳川殿は北条が旗下になりたりなどいひ伝へば。当家の名折此上なし。ひらに思召止らせ給へと諌めたり。君名位の前後を争ふは詮なき事也。さきに信玄謙信の両人和議を結ばんとて。犀川を隔てゝ会面せしとき。謙信ははやりかなる性質ゆへ。信玄よりさきに下馬せしを。信玄はいまだ下馬せずして応接せしかば。謙信大に怒り其場より鉄砲打出して合戦に及び。又十五年が間争戦やむ時なし。其ひまに織田殿は上方に切て上り大国の主となり。我も織田殿に力を合せて一方に自立する事を得たり。この入道等とく和融して軍したらば。織田殿も我も一文も成がたきを。いらぬ争ひに年月を過したる中に。他人をして大功を立しめし事のうたてさよ。今氏政実心もて我に接するからは。我何ぞ其下にたつ事をいとはむ。天下一統の後にて。上につくとも下に立とも。其おりに議すべけれ。今の位争は無用なりとて。遂に時日を定め。三島におはして氏政父子は上座に着れ。一族の陸奥守氏輝はじめ其次に座す。君は氏政より下に着せられ。酒井忠次。井伊直政。榊原康政ばかり陪座す。一通り献酬終りし後美濃守氏規進み出て。御宴進まざるうちに。上方の軍議をなされんかといふ。君上方の事はとくに定め置つれば今さら議するに及ばず。けふの対面はかたみに打とけて。こゝらの宿念をもはらし。且はこの後無事ならん為なり。まづ両国の境なる沼津の城をはじめ。城々みなとりこぼちて境界なしにせんと思へば。もし上方に事あらば。我手勢五萬のうち三萬をひきゐて切て上らば何条事かあらん。又奥方に出馬し給ふ事もあらば。其先手うけたまはりて切靡け申さんに三年は過さまじ。とにかく親しううち語らはんこそ肝要なれと宣へば。氏政はじめいとおもひの外の事に思ひ。よろこぶ事限りなし。かくて酒宴も闌になりて。君自然居士の曲舞をかなで給ひ。黄帝の臣に貨狄といへる士卒とうたはせ給へば。松田。大道寺等同音に。徳川殿は当家の臣下になり給ひぬとはやしたつれば。氏政もゑつぼに入てきゝ居たり。酒井忠次は例の得手舞の海老すくひ。川いづれの辺にて候と舞出たれば。氏政太刀を忠次に引る。忠次又おしいたゞき小田原の老臣等にむかひ。我等は斯様なる結構の海老をすくひあてゝ候と高らかにいひけり。忠次が歌のうちに鎌倉くだりといふ詞の有しを。小田原の山角上野介いまはしくやおもひけん。たむし尻うつたるを見さいな。納りに熱田の宮上りと舞留ける。大道寺いひけるは。酒井殿は鎌倉下りなれば。山角は熱田の宮まで切り上り候ととりなして。主方も客人もをのをの興に入たり。氏政ゑひすゝみて君の御膝へよりかかり。御指導をぬき取て。京兆には若かりしほどより。海道一の弓取とよばれと戯れける。此とき松田尾張守。徳川殿にははや当家の臣下におはしませば。何の嫌忌かおはしまさんといふ。この日北条が御もてなし実に善美をつくせり。宴はてゝ後帰らせ給ふ。北条より山角紀伊守して御見送の役を勤めしむ。御かへさの道すがら沼津の外郭の塀及び櫓をみな毀撤せしめ。本丸ばかりを御旅館の設に残され。紀伊守に見せしめ。こたび親会せし上は封境の険も無用なればかく取こぼちたり。この旨氏政父子によく伝へらるべしと仰含められしゆへ。小田原にもうしろやすくなり。いよ/\当家を慕ひ隣交をこたらざりき。かゝりしかば世には。徳川殿は小田原と結縁ありし上に。そのうへ軍法をも武田が流にかへ給ひしなど京にも聞えければ。豊臣家の上下。さきに彼方に降附せし石川数正が事を。古暦古箒と名付て。用なきものゝ様におもひあざけりけるとなん。(駿河土産、校合雑記)
小田原よりかへらせ給ひし後。本多正信にむかはせられ。北条も世が末に成たり。やがて亡ぶべし。松田と陸奥守と二人の様にて知れりと宣ひしが。果して後に敗亡のさま。松田の反響はいふ迄もなし。陸奥守氏輝も。氏政なくば氏直を軽視して。その国政をほしいまゝにせんかとの。御推考にたがはざりしとぞ。(紀伊国物語)
天正十八年の春長丸君を都に上せ給ひ。はじめて秀吉に見参せしめらる。秀吉大によろこび君の御手をひき。後閣につれゆきさま/\〃もてなされ。大政所みづから御ぐしをゆひ直し。御衣装をも改めかへ。金作の太刀はかしめ。重ねて表方に誘はれ。御供せし井伊直政等にむかひ。大納言殿には幸人にて。よき男子あまたもたれしな長丸いとをとなしやかにてよき生立なり。たゞ髪の結様より。衣服の装皆田舎びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。いはけなき子を遠き所に置れ。亜相もさぞ心ぐるしく待遠に思ふらめ。とく供奉してかへれとて。直政はじめ人々にもとり/\〃かづけものしてかへされしなり。君には此度小田原征伐の事起りしにより。長丸君を質子の御下心にて上せ給ひしに。秀吉速にかへされしは。やがて出馬あらんときに。我領内の城々をからんとての謀略ならんと御先見まし/\〃ければ。本多正信を召て。いづれもその用意せよと仰ありて。三河より東の城々修理加へられ。道橋をも修理加へられたるが。三日ばかりありて京より秀吉みづからの書翰もて。城々からん事を請れしかば。いづれも機を見給ふ事の速なる。神明不思議なりと感じ奉りしとぞ。(東遷基業)
東征の軍議ありて秀吉関東の奥地の図を出して。君と共に検視してありし折。真田安房守昌幸もその末席にありしを。秀吉安房もこゝにきて図をみよ。此度汝に中山道の先鋒をいひ付るぞといはる。昌幸は徳川殿とおなじく秀吉の待遇ありしを。世にかしこき事に思へり。秀吉また別に昌幸をよび。家康が許にゆきて礼謝し。間をよくせよ。長きにはまかるゝものぞといはれ。富田左近を昌幸にそへて。御旅館に参らせまみえしむ。君もとより昌幸の反覆を憎ませ給へども。秀吉が紹介なればいなみ給ひがたく。よきほどに応接してかへされぬ。後に左近をめして。安房が事は過つればせんかたなし。このうへは石川伯耆守などを。同じ様に連来らざるやうに頼むと仰られしとぞ。(老人実話)
東征の前かた甲州の士小宮山又七昌吉に長柄奉行を仰付らる。又七は念若けれども。その兄内膳友信主の勝頼が先途を見とゞけれ討死せし心ざま。あつぱれ忠誠の者と思召さる。内膳子なきが故昌吉をもてその遺跡をつがしめ。かゝる重役をも仰付られしなり。全く兄が忠義を賞しての事なれば。昌吉はいふまでもなし。諸人みな。忠義の士は死後まで族表の典を蒙る事と。かしこまざるはなかりしなり。(東遷基業)
秀吉既に駿河の三枚橋まで下られしよし聞えければ。榊原。本多の人々。こたび秀吉たまさかの下向なれば。こなたの御領中に於ても。殊更の御もてなしなくてはかなふまじと申す。君われもとくよりさは思ひつれど。外におもふ旨あればまづ捨置なりとて。その後ひそかに彼等を召れ。われ秀吉の様をみるに。己が才略もて一世を篭絡せんとする人なれば。我又これに対して才智だてをして。智謀ある人とみられむはかへりてあしきなり。とかう物事にこゝろづかで。たゞ篤実一ぺんの人と思はれんこそよけれと宣ひて。御饗待の様も並々の事にて。別に耳目を驚かすまでの事はなかりしとぞ。(老士物語)
秀吉駿府の御城に宿られし時。御みづからもおりたちて御あつかひあり。城中どよみにぎはしきおりふし。本多作右衛門重次は。これよりさき御用の事ありて遠境にまかりしが。今日還り来り。旅装のまゝにてその所へつと入来て。にが/\しき顔して大音あげ。殿々とよびたてまつり。さて/\殿は愚なる事をさせ給ふものかな。おほよそ国の主たるものが。己が居城あけて人にかす理のあるべきや。さる御心にては。人が女房衆をからんといはゞかし給ふべきかなど。思ふまゝの事いひはなちて己が宿にかへりぬ。君もあまりの事に。何のうつけをいふぞと仰られ。後に京の人々にむかひ。かれは本多作左といふて。家康が父祖の代より今に至るまでまめに仕へ。あまたゞひ武功もあるものまるが。もとより田舎武士にて。ただあらげなくおこなるふるまひのみして。心の儘の事をいひもし。行ひもし。人をば虫とも思はぬものなり。されど今日の事といひ。人々の前をもかへりみず。あのごとき無礼をふるまふやつなれば。家康とさしむかひしおりは。いかに心ぐるしからざらん。各くみはかりたまふべしと宣へば。人々その作左こそ上方にも承及たる勇士なれ。かゝる勇士持せらるゝは。実に御家の重宝とこそ申べけれと。一同感じけるとぞ。(岩淵夜話、落穂集)
秀吉沼津まで着れしかば。君は織田信雄とおなじく。浮島が原の辺まで出まして。待むかへ給ふところへ。秀吉が前駆餌差鷹飼ともうちつれて通るうちに。稲富喜蔵といへるは君かねてしろしめすものなるが御前を平伏して。過ぎがてに。殿下もやがて来らせ給はん。いと異様なる御行装なり。見給へといひさしてゆく。そのおり甲斐の曲淵庄左衛門御供に候せしが。三尺余の朱鞘の大刀に大鍔かけてさしたるを御覧じ。御みづからの御佩刀とさしかへ給ふ。かくするうちに秀吉が馬既にちかづきぬ。そのさま金の唐冠の兜に緋をどしの鎧を着。緋純子の袖なし羽織に紅金襴のくゝり袴。作髭をし。金の大熨斗付の太刀二振はき。金の土俵のうつぼに征矢二筋さしておひ。金の瓔珞の馬鐙かけたる駮の馬に乗られしが。君と信雄の立せらるゝを見て。俄に馬より下り慰労の詞をのべ。かの団扇もて君の御刀の柄をおさへ。近頃よき御物ずきかなとほゝゑみながら。いざ同じく参らんと連立て数町ばかりおはせしが。諸大名追々出迎へたてまつれば。殿下はもはや御馬にめさるべしと聞え給へば。秀吉さらば軍中に礼なしとかきく。御ゆるし蒙らんとて又馬にうちのりぬ。外々の大名へはみな馬上より声かけて通られしとぞ。(天元実記、武家閑談)
按に一説に。このとき秀吉吉馬より下り太刀の柄に手をかけ。信雄。家康逆心ありときく。立上られよ一太刀まいらんといふ。信雄は面あかめて何ともいふことならず。君は秀吉が左右の者にむかはせられ。殿下の軍始に御太刀に手をかけ給ふことのめでたさよ。いづれもほぎたてまつれと高声に仰ければ。秀吉又といふ詞なく。重ねて馬に打乗て過行ぬ。其とき見し者君のいさゝか動したまはざる御様に感じけり。」また小田原の陣中に。君と信雄と秀吉が陣におはして還らせ給ふとき。秀吉十文字の鎗の穂をはづし。御名を呼かけて追かくれば。君右に持せ給ひし御刀を左にもちかへ。立にておはしければ。秀吉大に笑ひ鎗を持かへ。尊(元字は金篇)のかたを君にむけたてまつり。これは年比己が秘蔵せし品なれば。今日参らするとてなげ出されしかば。君おもひよらざる賜物とおしいたゞかせ給ひて。持帰り給ひしとぞ。信雄ははじめ秀吉が追かけしさまみてうち驚き。君にもかまはず早々急ぎにげ出ぬ。これよりいよ/\秀吉が為に見限られしとぞ。是も同日の談にて。姦雄の人を試むるに。泰然としていさゝか変動の態見えさせ給はざる御識度いとたふとし。
三月十八日秀吉三枚橋の辺巡視終りて長窪に至り。諸将をつどへて此度の軍議をせらる。秀吉徳川殿にはかねて海道一の弓取とうけたまはる。こたびの計略いかゞしてよからん。指導あれかしとありしに。君聞しめし北条が家はその祖早雲入道已来。国富み兵強くして武功の者少からず。今度殿下の御征討を承り。定めて主に代り打て出で防戦すべきに。これまで一人も兵をまじへざるは。はや殿下の御軍威を恐るゝとみえたり。此後とても出ることはあるまじ。さらば惣軍を二手に分け。一手は韮山一手は山中を攻んに。何ほど臆したる敵なりとも。己が城攻らるゝに救はざる者はよもあるまじ。そのとき残る一手をもて戦ひなば然るべうもや候はんかと宣ふ。秀吉大に感じ。さらば北条が後詰をば徳川殿にまかせたてまつらんといはる。君いかにも奉りなん。先年甲信の境にて北条と七月より十一月まで対陣せし事のありしに十が九は勝利を得侍りぬ。されども此度は敵地の戦といひ。かれ又無双の険要に據れば。いかなる計策せんもはかりがたし。萬一仕損じなば。二の手は秀吉いかにもうけたまはるべし。徳川殿を一番に進ませ。秀吉二の手をつめば。日本国中はいふに及ばず。高麗大明まで攻入る共。恐るゝに足らずとて大によろこばる。重ねて秀吉。両城を攻るに敵もし出合ざらんときはいかんと問はる。君そのときは両城のうち一城を攻落し。其勢をゆるめず。某手勢をひきゐ。山中の古路をへて。酒匂。早川へ押出して陣を取しき。関東の城々より小田原への通路をたつべし。殿下は惣勢をひきゐて小田原へ押詰給へと宣へば。秀吉酒匂筋に敵城はなしやと問はる。君鷹の巣。足柄。新庄の三城あり。秀吉その城々は必明退べし。先年武田信玄二萬の兵もて。小田原近辺まで攻入しときもこの城々落失たり。まして此度の兵威を望み一支もなく落行なん。秀吉もし逃ざるときはいかゞといへば。君それこそ某が望むところなれ。速に手勢もて攻落すべし。先年対陣のおりも。五六百の家人もて築井の城をせめ。彼がうちに名を得し内藤周防を討取。関本の城に押寄大道寺を追落せし事もあり。彼が弓箭のほどはかねて知たれば。いさゝか恐るゝに足らずと事もなげに申させ給へば。秀吉はじめ満座の大小名。いづれも御智算の周遍して。残る所なきを感じたてまつりける。秀吉その後は沼津にかへられ。重ねて地図を取出し諸将と評議し。いよ/\君の御指図にしたがひける。このとき黒田勘解由孝高も秀吉が供して。君の御陣にも折々伺公し軍法の物語せしが。こたびの城攻始より終に至るまで。いさゝか君のはからせ給ひしに違はねば。或人にいひしは。徳川殿は頂の上より爪の端まで。弓箭の金言にて束ねし名将なれ。殿下も軍議となれば。徳川殿の口を待て後に発言せらるゝなりといひしとぞ。(続武家閑談)
織田信雄ひそかに君に勤めまひらせしは。こたび秀吉の下向こそ幸の事なれ。北条と諜し合せ。前後より挟み討ばかならず志を得んといふ。君秀吉我を信じてこそわが領内をも心ゆるして通行すれ。いかで反覆の事して信義を失はんやと仰らる。」またこの陣に関白わづか十四五騎ばかりにて居られしときをみて。井伊直政唯今こそ秀吉を討べき時なりと。ひそかにさゝやきけれど。君かれこたび我をたのもしきものにおもひて来りしを。籠のうちの鳥を殺さんやうなるむごき事はせぬものぞ。天下をしるはをのずから運命のありて。人力の致すところにあらずと仰ければ。直政もえうなき事いひ出しと思ひ。面赤めてありしとぞ。(明良洪範、寛元聞書)
山中既に落城せし晩方。戸田左門一西御本陣に参り。今日の一番乗は中村式部が内に渡辺勘兵衛といふ者のよしなれども。実は某と青山虎之助某と両人折よく参り合せ。一番に乗入りしにまがひなし。上方の黄母衣の者も見とゞけて候へば。この旨仰立られよと申す。榊原康政取次てこのよし聞え上しかば。君聞しめし。我婿の氏直が城をわが手勢もて取たりとても。さのみ出かしたる事にてもなし。汝等が勲功はわれさへ聞置ばすむことなり。虎之助は大にふづくみ。用なきむだ骨をもて勘兵衛が手柄にせしも。あまりわが殿のおとなし過しゆへといひふらしけるを。御聴に入るゝものありしに。青山がさいはゞそのまゝいはせて置と宣ひ。別に御咎もなかりき。その後関東御移のとき。左門に武州鯨井にて五千石たまはりしは。此ときの賞に宛行はれしなりとぞ。(天元実記)
按に家譜には。虎之助このとき討死せしとみえたれば。本文に記す所は別人なるも知るべからず。凡家譜と記録と異同のあるは。家譜をもて正しとすれども。強ち記録の説みなあやまれりともいふべからず。
小田原長陣の事ゆへ米価踊貴してやまざれば。いかゞして此価を低くせんといふ。君何ほども高くかへと上意なれば。そのごとくせしに。小田原は米価高し持ゆきてうれとて。海陸より我先にと競ひ集り。俄に米価低くなりしとか。」また伊奈熊蔵忠政御前へ出しとき。此度去年より御領中の米豆貯ふべき命ありしゆへ。重ねて用意し沼津まで運輸し置ぬ。この地に来りて承れば。山中の価も江尻。沼津と同じ様なり。さればはる/\〃運費をかけんよりはと存じ。この地の米を買求めぬ。かほど合点のゆかぬ儀は侍らずと申す。君こは長束大蔵政家がする事なれ。惣じて国の主たるものが。常に物事節倹にして浮費を省くは。事あるにのぞみ用度の不足なからしめんが為なり。さるを常に倹約にして。事あるにも慳吝ならば。金銀米銭は何の用をかすべき。土石にも劣りたるものなれ。汝そが職にありながら。かゝ事に合点の至らぬといふは。我も又合点がゆかずと仰られしとぞ。(古人物語、天元実記)
宮城野口。竹浦口を攻られしとき。かねて先鋒は当家。二陣は秀次と定められしに。秀次うちこして前に進まんとす。よて村越茂助直吉をもて秀次が方へ仰つかはされしは。秀次先陣うたれん事。年若き御心にはさもあるべし。いと神妙の御事なり。わが陣頭を開て通すべし。家康もその余勇を求めて。勝利を得んと思ふなり。たゞし敵は地戦。味方は客戦にして地の利にくらし。そのうへ今日日暮に及んで。山下に陣取は兵法のいむ所なり。今夜はまづこの所に屯し。明朝先陣打ればしからんかと仰つかはされしかば。秀次且感じ且恥て。其夜は箱根山の半腹に陣取。終に夜篝を焚ひて夜をあかしけるとぞ。(天正記)
井伊直政酒匂川のかたにむかひしに。森を後にして陣せよと命ぜられしに。河原に陣どりしを御覧じて大に御気色損じ。敵城近く備を立るには。樹陰を後にして。敵に勢の多少を見透されざるをもて主とす。さるを味方の足数までみゆる所に備ふるは。以の外なりと仰ければ。直政さきに御諚有しゆへそが通りに備を立しなりと申せば。御馬上にて小刀をぬかせ給ひ。御腰物にてうちならしたまひ。此かねの罰を蒙る法もあれ。わがいひしはかしこにはあらざるものをと仰られ。小刀をうち折てすて給ひしとぞ。」又その辺を巡視ありて酒匂川の端に下らせ給ひ。海ばたより城内を俯視してかへらせ給ふとき。供奉の者城際を通るを見給ひ。敵もし城より打ていでゝ味方討死もせば。敵に勢を添べし。又逃去らんも見ぐるし。汝等はしれた事をするものかな。城の巡視は城際より乗廻し。横より見るこそ作法なれと宣ひしとぞ。」又諏訪の原御本陣とせられ。内藤四郎左衛門正成。高本主水助清秀。渡辺忠右衛門守綱。筧助大夫正重。渡辺半蔵重綱を残し給ひ。汝等はこゝに陣取れとて。御みづからは年若き者五六騎召具して巡視に出給ひ。還御の後内藤等の陣取の様見そなはし。汝等年比軍陣になれし者なれば。少しは心得つらんと思ひしに。などかくふつゝかなる様よと。散々に御叱りありて陣取をかへしめ給ふ。かゝる囲城のうちよりは白昼には打て出ぬものなり。夜討より外の衛なし。夜討も城よりは出ずしてことゞころに隠れ居て。我陣の後よりうちかゝえい。軽くかけ破りて城に引入んとそるものなり。されば其心得して城際の陣取は。裏を表のごとくにとるものなりと仰られしとぞ。(三河之物語)
笹郭を御巡視ありし後。大久保治右衛門忠佐。高木主水助清秀に命ぜられ。本陣の小屋をかけしめられしに。城にむかひし所を厚く後を薄くかくるを御覧じて。敵は虎口より出べし。堀越には出ぬものなり。ゆへに後の方を厚くとるが古法なりと宣ひて改めしめられたりとぞ。」又同じ曲輪を攻られんと議せられしとき。其辺に橋を渡して距闡の様なるもの有。井伊直政をめして橋が/\〃とばかり仰あり。直政さま/\〃思ひをめぐらし。橋下の水の浅深を試みよとの盛慮ならんとおもひ。橋下に杖を立て水痕の及ぶ所を験として御覧に備へしかば。とかうの仰もなく。又はしが/\〃とばかり宣ふ。かさねて直政其所に久しくたたずみ検視するに。橋桁殊更撓みけるを見て心づき。急ぎ馳かへりかくと申あぐ。君聞しめし。さればその事よと仰らる。おほよそはじめ命ありしより。直政が思ひ得しまでは。四十八時ばかりへしとぞ。さて直政に属せられし甲隊の広瀬美濃。三科筑前は老功の者なれば。この郭攻む様直政かれとはからへと宣ひ。直政相議せしに。二人うけたまはり。御家人の子弟の年若きかぎりすぐり出て攻手にあてられば。子弟の出戦すときかば。その父兄等己が子弟等に功名を立させんと思ひ。われも/\と出来りてをのづから多勢になるべし。萬一仕損ずるとも子弟の事なれば。させる恥辱にあらずと申すにより。そのごとく命ぜられしかば。果して大勢あつまり来て攻かゝり。かの橋辺に至りしとき。諸勢いさゝかあやぶみためらひしに。直政はこゝなりと思ひ。この橋危しとてつゞきの郭をとらであるべきやとて。みづから橋詰まで進み銃取て放つに。火薬強かりしかば筒裂て指を損ず。されどもいさゝかひるまず曳声あげて進みより。遂に曲輪を乗取けり。君の神算妙諭はいふまでもなし。直政もよく御詞の旨をふかく思ひ久しく考へてあだにせざりしゆへ。かゝる奇功をも奏すれとて人々感じけるとぞ。(東武実録、前橋聞書)
長陣の間にさま/\〃の流言ども出きて。君と信雄と北条に同意有て諸陣を焼払ひ。城よりも同時に討て出るなど。根もなき事粉起してやまず。秀吉小早河左衛門督隆景のすゝめにしたがひ。みづから君の御陣を巡視すとて。伊達染の小袖に緋純子の羽織を着。脇差ばかりさし。刀をば従者に持せ。信雄。隆景其外陪従の者も皆脇差ばかりさし。高声に雑談しつゝ御本陣に参られ。午の皷うつ比より夜中まで宴楽あり。其後又信雄が陣へも君と隆景と秀吉にしたがひておはし。また重ねて君と信雄とを秀吉の本陣に招請せられ。昼のほどは申楽行はれ。夜に入り酒宴まうけ小唄おどりとり/\〃にて。夜一よ遊びくらして曉にかへらせ給ひ。この後諸陣にもかたみ行かひして会宴まうけ。人心漸穏になりければ。浮説もいつとなくやみしなり。これ北条はまさしく君の御ゆかりにおはしませば。かゝる雑説も出来しゆへに。君ひそかに秀吉と迎合され。かくははからはれしとぞ。このときの小唄とて後々まで伝へしは。人かひ舟は沖をこぐとても。うら/\身をしづかにこげ。我等を忍ばゞ思案して。高いまどからすなをまけ。雨が降といふて出逢はん。(落穂集)
松平石見守康安はこの役に大番頭奉りて供奉しけるが。あるとき君城中にむかひ。御みづから矢を放ち遠近を試み給ふに。侍臣等城中まで御矢入りつと申せば。城までは程遠し。弓勢のをよばん様なしと宣ひ。康安をめし。汝は聞及びし精兵なり。試みよと仰あり。康安射しに多くは土居にて落ぬ。数矢のうちにたゞ一筋城墻を貫きしがあり。よて左右の者に仰けるは。康安が弓勢すらかくのごとし。さるを汝等わが矢城中に入しといふは。全く詔諛のいたす所なり。かまへてかゝることは申さぬものぞといましめ給ひしとぞ。」また本目権左衛門義正はもと松平氏なりしが。箱根山中の案内したてまつり高名ありしかば。汝は侍の眼なり。この後は氏を本目と改むべしと仰有て。これより本目に改めかへしといふ。(家譜)
甲相の境なる三増峠といふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覧じ。北条家末になりて武略疎きをもて。かゝる山を荒廃せしめ。武田が為に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植へて林にせよと命ぜられしなり、(常山紀談)
小田原落城のころ二子山の下たいらに御本陣をすへられ小高き所をかたどり。かたへに御鎧櫃を置。その上に板二枚を渡し御寝所とす。夜中御傍に大河原源五右衛門といへる十五六ばかりの小姓ふしてありけるが。惣陣の騒がしきを聞付て。俄にはね起てひしめければ。かの板にあたりいよ/\驚き。御寝なりしを起したてまつりこのよし申上しに。汝は若年にてものに馳ざるゆへ。かくそらおどろきするなれ。敵が夜討すれば必ず弓銃の音するものなり。こは味方の闘諍するか。あるは馬を取放せしならん。さはぐ事なかれとて。いさゝかおどろき給ふさまはおはしまさゞりしとぞ。(武家閑談)
北条ほろびて後人々に仰られしは。武田信玄は近代の良将なりしが。己が父の信虎を追出せし余殃子にむくひて。勝頼さしもの猛将たりしが運傾くに至り。普第恩顧の者まで離畔してはかなく亡びしは。天道その親愛の恩義なきを憎み給ふゆへとしらる。小田原は百日ばかりの囲城に。松田尾張が外は反逆のもの一人もなし。氏直が高野に赴きしときも。命をすてゝも従はんと願ふもの多かりき。これ早雲已来貽謀のたゞしくして。諸士みな節義を守りしがゆへなりと仰られしとなん。

此巻は豊臣家と御和睦より。小田原征伐までのことをしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)













milk_btn_pagetop.png

東照宮御実紀附録巻六

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻(全文)

小田原いまだ落城せざる前かた。君と信雄と共に秀吉が笠掛山の新営におはしけるとき。秀吉この山の端に城中のよく見ゆる所あり。いざ同じくゆきて見んとて立出給ひ。やゝしばらく城のかたを見わたしながら軍議どもせられしに。秀吉いはく。この城落去せば。城中の家作どもそのまゝ徳川殿に明渡して進らせんに。殿は此所に住せらるべきやいかにと問はる。君の御答に。後日はしらず。さしあたりては此城に住せんより外なしと宣ふ。秀吉聞れ。それは甚よからず。この所は東国の咽喉にて枢要の地なれば。家臣のうち軍略に達せし者に守らせ。御身はこれより東の方江戸といふ所あり。地図もて検するにいと形勝の地なり。その所を本城と定められんこそよけれ。やがて当地の事はてば。秀吉奥州まで征伐せんと思ふなり。その折江戸の城に立より。かさねて議し申さんといはれき。かゝれば御転封の事も江戸に御居城の事も。此陣中より既に内々定議ありて。落城の後に至り秀吉より申出せしなり。さて御転封仰出されしはじめには。こたびも北条がときのごとく。小田原に住せ給ふや。又は武家の先蹤を追て鎌倉に定居あらんかななどとり/\〃議しける内に。江戸に定まりければ。いづれも驚嘆せしとなり。そのとき秀吉。大久保七郎右衛門忠世をめして。汝は徳川家の股肱なれば。此城に箱根山をそへて徳川殿よりたまはるべしといはれし。これぞ大久保が家にて代々この城守る事の権輿なり。秀吉陽には当家の為に重任ひ。何となく忠世に私恩を施されしものなり。本多忠勝に佐藤忠信の胄たまひしと同日の所為なりとしらる。(天元実記、大業廣記、落穂集)
天正十八年七月小田原の城落去しければ。この度の勤賞に北条が領せし関東八州をもて。当家の駿遠三甲信の五国にかへ進らするよし関白申定られしとき。君御遷移の事を御いそぎ有て。同じ八月朔日にははや江戸の城に移らせ給ひ。又下々に至りては八九両月のころおほかた引遷りすみければ。大坂へ御使つかはされ。五ヶ国引渡さんと有しかば。秀吉大に驚かれ浅野長政にむかひ。三遠甲信の四国はいそがば此頃にも引移るべけれ。駿河は共居城なり。それを引払といふも。速なるも限ある事なれ。いかでかくは弁ぜしならん。すべて徳川殿のふるまひ凡慮の及ぶ所にあらずといはれしとぞ。(大業廣記)
小田原落城の前にさま/\〃の雜説ありて。北条がはろびし後は。当家の旧地を転じて。奥の五十四郡にうつしかへらるゝなどいふ説もあり。井伊。本多の人々。もしさる事もあらば。僻遠の地にかゞまりて。重ねて兵威を天下にふるふことかなふまじとてひそかに歎息す。君聞しめし。もしわが旧領に百万石も増加せば奥州にてもよし。収納の善否にもよらず。人数あまためしかゝへて。三万を国に残し。五万をひきゐて上方へ切て上らんに。我旗先をささへん者は。今の天下にはあるまじと仰られしとぞ。(続武家閑談)
御遷移のころ榊原康政をめして。この城内に鎮守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎮守の神にもあらん。御覧あれとて。康政郷導してその所に至らせ給ふ。小さき坂の上に梅樹数株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そなはすと直に御拝礼ありて。さて/\式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ当城に鎮守の社なくば。坂本の山王を勧請せんとかねておもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そも/\当城うごきなくして。御家運の栄えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城塁開拓せらるゝに及び。山王の社を紅葉山にうつされ。かさねて半蔵門外に移し。明暦の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてゝ。当家歴朝の産神とせられ。菅神の祠は平河門外にうつせしを。又麹町に引うつして旧跡を存せらる。今の平河天神これなり。(大業廣記)
江戸城はさき/\〃北条がとき城代たりし遠山が家居。本丸より二三丸まで古屋残れり。多くはこけらぶきはなく。みな日光そぎ飛州そぎなどいふものもてふけり。中にも厨所の辺は萱茨にいぇいとすゝけたり。玄関の階板は幅広き舟板を三枚ならべて階とし。外は捨置せ給ふともこの所は御造営あるべし。諸大名の使者なども見るべきに。いかにも失体なりと申上れば。君いはれざるりつぱだてをいふとて御笑ひありて。そのまゝになし置れ。まづ本城と二丸の間にある乾濠を埋られ。その上は大小の御家人の知行割をいそぎ給ひ。榊原康政もて惣督とし。青山藤蔵忠成。伊奈熊蔵忠政二人これを奉り。微録の者ほど御城ちかきあたりにて給はり。一夜へだつるほどの地は授くまじと令せられ。また一城の主たるものは御みづから沙汰し給ひ。殊に御いそぎ故大かた一人一村かぎり。また隣村つづきにて下されけり。この事終りし後御家人へ仰渡されしは。此度給はりし銘々が釆邑に。手軽く陣屋を作り妻子を置。その身と僕従輿馬のみをさし置れしなり。路程遠きものは城下の市屋を就(元字は人篇)居して日をかさね在府し。当直にあたればまうのぼり番簿に名をしるし置て。又一両月も釆邑に帰住し。すべて簡易の事なりき。その後都下繁栄にしたがひおの/\宅地給はり。みづからの力もて家屋いとなむ事と成しなり。(落穂集、君臣言行録)
はじめて江戸城に入せられし時。御行装を遥拝せんとて。老若男女所せまきまで御道のかたはらに並居たり。そのころ増上寺称名院とて。今の龍の口の辺にありけるが。住持存応和尚も衆人と同じく寺門に出て拝み居たり。君御覧じ近臣して。かの僧は何といふと御尋なり。存応つゝしんで。寺は浄土宗にて増上寺といひ。貧道は存応と申候よし申す。それは感応(大樹寺の住持)の弟子の存応にてあるかと宣へば。さん候と申す。よて御馬を下り寺に入らせ給ひ御茶など聞しめし。明日また参らんと宣ひて明朝渡御あり。存応思ひよらざる事にて。寺のうち馳めぐりて御もてなし。斎飯すゝめたてまつる。君御気色よく当家の宗門は代々浄土にて。三河にては大樹寺をもて香火院としつれど。当地にてはいまだ定れる寺なし。幸この寺同宗の事なれば。当寺をもて菩提所とせんと思ふ。よろづ供養の事和尚に頼むなりと仰ければ。存応も世にかしこき事に思ひ感涙袖をうるほしける。さて師壇の御契約はこの時に定まり。のちに寺を今の芝浦に引移され。慶長十年はじめて堂塔剏建ありて。一宗の本山として代々の大道場となされしなり。(啓運録、事跡合考)
按に一説に。いまだ小田原におはしませしとき。兼て江戸にて御祈願所になるべき天台宗の寺と。御菩提所になるべき浄土宗の寺を。えらぶべきよし命ぜられて捜索ありしに。浄土にては伝通院。増上寺の二刹のみ。そがうち伝通院は窮僻の地なり。増上寺は勝地にてかつ江城に近ければ。増上寺を菩提所にせられ。御祈願所は浅草の観音堂しかるべしと申により。かの二寺の僧を小田原にめして謁見せしめ。そのよし命ぜられ。寺内に建べき制札を下されしともいへり。(落穂集)
豊臣関白より。此度の御転封により井伊。本多。榊原の三臣へはわきて加封あるべきに。各何程賜はらんやと有しに。十万石づゝとおぼしけれども。十万とのたまはゞ。関白その上に増封せよといはれんは必定なりと思召。わざと六万石づゝ給はらんと仰つかはされしに。案のごとくそれにてはあまり少し。十万石づゝ給はれと指諭ありしかば。その如くに下されき。又領邑を渡すに縄をつめず。打出すやうにして割渡すべしと仰付られしが。これも関白より同じ様の事申をくられしとぞ。(紀伊国物語)
たんはんといふ者いと滑稽に巧なりしが。常に近侍して親幸を蒙りけり。江戸に御移ありしころ。あるとき黄金一枚出給ひて。汝ほしくば中にてとれと。御戯れながら投給ひしに。又中にてとれり。この外にも御手に持せられしをも賜はらんとねぎしに。いや/\との仰にて御座を立せらる。本多正信御側より。たんはん追懸たてまつれとそゝのかす。たんはん殿様御しはき事とて御後に従ひたてまつれば。上にも急ぎ後閤に入らせらるゝを。いよ/\追懸たてまつり。殿は戦場にてもかく御後を人に見せさせ給ふやといひて御諚口まで参り。ゑい/\おうと高声に凱歌をとなへて。もとのかたへひきかへしとなり。このたんはんは下野の宇都宮が氏族にて。氏は失ひしが名をば大和といひて。一城の主なるものゝはてなるが。常々談伴に候して御かへりみ深く。後々は腰刀もはかず。たゞ遁世者のごとくにてありしとなり。(霊岩夜話)
御旧領のうちにて。甲斐の国の転ぜしをばことに御心とどめさせ給ひ。常々その事を仰出されしなり。さればにや江戸にて御長柄もつ御中間は。武州八王子にて新に五百人ばかりめしかゝへられ。小禄の甲州侍もてそが頭とせられしは。八王子は武蔵と甲斐の境界なれば。もし事あらんときには。かれらに小仏口を拒しめ給はんとおぼして。かくは命ぜられしなり。同心共は常々甲斐の郡内に往来し。絹帛の類をはじめ彼国の産物を中買し。江戸に持出売ひさぐをもて常の業とせしめしとなり。(落穂集)
関東にて名門旧族の。時世かはりて沈淪せしものどもをあまためし出され御扶助あり。宮原勘五郎義熈といふは古河御所晴氏が弟左馬頭憲寛が子にて。下総宮原に住せしをめし出され采地千石下され。のちに高家に列す。」由良信濃守国繁は新田左中将義貞の後胤にて。代々上野金山の城主たりしが。小田原の戦の後太閤より所領召放されて流浪せしを。名家なればめし出て常陸にて采地給ひ。是も後に高家となさる。」一色宮内大輔義直はもと足利家の支族にて。世々鎌倉古河の幕下に仕へし家筋をもて。めして武州幸手にて五千石余の地を給はる。」江戸太郎高政といひしは。江戸重継より以来東国の旧家なるが。長尾但馬守顕長が家臣と成てありしを。江戸を称するは憚ありとて。母方の氏を冒して小野と改め。御家人にめし加へらる。」難波田因幡守憲次は関東管領上杉が幕下に弾正憲重といひて。武州松山の戦に歌よみて名高き者の末なれば。同じく召出され。また北条が家臣間宮豊前守康俊は。山中の城にて戦死せしかば。忠臣の後なればとてその子惣七郎元重はじめ。一族まで御家人となさる。」太田新六郎重正は道灌入道が末裔たるをもてめし出され采地をたまひ。その姉のわづか十三歳になるも同じく御側ちかくめしつかはれ。名を梶とめさる。関原の役より茶臼山の御陣営の地を勝山と改め給ひしとき。汝が名も勝と称すべしと仰られ改めしなり。この女後々御かへりみふかく。姫君一所まうけしが。早世まし/\ければ。水戸頼房卿の御母代となされ。後に英勝院尼と聞えしは是なり。」河田伯耆守泰親といふはもと上杉謙信に属し武功の者なるが。後に北条にしたがひ上野国利根郡のうちにて三千貫の地を領せしが。北条ほろびて後戦死のものゝ首帳御覧ありしに。泰親が名なければ。定めて当地に居るべしとて。井伊直政に命じて尋ねしむ。泰親はさきに松枝の戦に深手負て。既に死せんとするよし直政聞え上しかば。かねて聞をよびし忠実の者なれば。死せざらん前にみるべければ。藍輿にのせて連来れとの仰によて。板扉にかきのせて御前にすへ置ば。泰親が側近くよらせられ。いと御愁悼の御さまにて。此疵平癒せば不動山の城主とし。普第の大名に準ずべし。それまで心の儘に養生せよと仰有て。当分の費用にとて月俸百口下されけるが。遂にはかなくなりしかば。其子の助兵衛政親未だ六歳なるを直政が家に養はしめ。年長ずるに及んで父の跡つがしめられしとぞ。(諸家譜)
北条家の侍どもあまた召出されし内に。下総の臼井が子に吉丸。上総の東金の城主酒井が子に金三郎政成。両人とも旧家たるをもてめし出され。後年伏見の城造営終て巡視せられしとき。吉丸御はかし持て従ひ奉りしが。とみの事にて履はく事ならねば。跣にて炎天の折から栗石の上にかゞみ居たり。金三郎これを見かねて履持ゆきて吉丸にはかせけり。その後同僚の者ども。いかにも親友なればとて。衆人のみる前にて同僚に履はかすることやあるべきと口々にいひ立れば。目付の者もすて置がたくて御聴に入しに。君にもかねて聴しめし及ばれ。金三郎をめして御礼有しに。金三郎それがし唯今吉丸と同じ列に侍れどもそのはじめをいはゞ彼は主家にて治れば。そが熱石の上にたゝずむを見るにしのびず。草履はかせしまでにて。深きゆへよしあるにも侍らずと申せば。仰に。金三郎若年ながら旧主を思ひ本をわすれざるは。武士の道にかなひ神妙の事なり。その心ならば家康が恩をも恩と思ふべし。末頼もしき侍かな。と御賞美有て加恩たまはりけり。是より士風やうやく敦厚になり。一日たりとも頭役と仰ぎてその指揮受し者に対しては。後日に我身何ほど顕官に上りても。会見の折からさきの重役の人には。必ず礼義を慇懃にせし事となりしとぞ。(岩淵夜話)
北条が比は法令惰弛なれば。八州のうちに博戯盛に行はれ。僧俗男女のわいためなく。みなおしはれて行ふことなり。かねて御旧領におはしませしときより。この事厳断せられしをもて。御遷徒あると直に。板倉四郎左衛門勝重もてきと厳令を出され。博戯するものは見及びしまゝ追捕して死刑に行はる。ある日浅草の辺御狩のおり。博徒五人が首を梟木にかけしを御覧じ。罪人梟首するは衆人に見せてこらしめん為なれば。五人一座の科ならば。某の月日何の地にて犯せしといふ事を札にかきて。人多くつどふ所にいくつも建置べしと命ぜられ。後には十人一座に捕得しは。十箇所にて誅戮し各所にかけしとぞ。かくおごそかに御沙汰せしゆへ。一両年過て八州のうちに。この戯行ふもの絶果たりとぞ。(君臣言行録)
小田原の城に氏康柱といふあり。そのかみ北条氏康がときに。荒川何某といふ者逆意企し聴えありて。氏康衆中に於て手刃せしに。その太刀の鋒書院の柱に切込しを。後々まで大切にし。蓋をかけ置て。見んとこふものあれば明て見せしめ。後々叛逆の者の懲戒にせしめん為残し置しなり。当家となりて小田原をば大久保七郎右衛門忠世にたまはり。忠世が子忠隣に至り。君御上京のおり小田原にやどらせ給ひ。忠隣めして。かの柱を供奉の人々に見せよと上意ありしに。忠隣うけたまはり。その柱の立し書院いと荒廃し。柱根も朽果ぬれば。近比立直せしにより柱も取すて侍りぬ。但むかしより玄関にかけ来りし鈴木大学が弓といふものは。唯今ももとの所に置ぬと申せば。聞し召れ。北条家は早雲氏綱が代には。豆相両国のみ領せしを。氏康に至り次第に国を伐ひろげて。遂に東八箇国を全領せしなり。そのうへ氏康いまだ若年のころ。武州川越の夜軍にわづか八千の兵もて。上杉が八万三千の大敵を切崩し。武名を天下にかゞやかせし事。近き世にはめづらしき英傑といふべし。その名を負し柱なれば。朽たりとも根をつぎても残し置ば。末々までみる人々武道の励にもなるべきに。なぞゆへなくは取すてしぞ。心なき挙動なり。大学が弓などは折ても捨べきものをと宣へば。忠隣大に恐れ入て。惣身に汗し御前をまかでしとぞ。(岩淵夜話)
三州大沼に住せる居士木村九郎左衛門定元は。此度遷徒の御供し。その子三右衛門吉清は妻子引つれ。一番に江戸に馳参りければ。土井甚三郎利勝このよし言上す。君吉晴が年比住なれし地を離れ。速に馳参りしを賞せられ。御気色斜ならず。旅装のまゝにて出よと宣へば。吉晴革の立付はき。乱髪のまゝにてまみえたてまつる。かねて酒好むよし聞しめされ御前にて数盃下され。吉晴ゑひすゝみてこゝちよきさま御覧じ。伊奈熊蔵忠政をめし。三右衛門は酒ずきなれば。よき地えらみて酒のまむ料につかはせと仰ありて。やがて相州高座郡のうちにて菖蒲沢村百石の地をたまはりしが。今にその辺にてこの領邑の事を酒手知行といふとぞ。(家譜)
樽屋藤左衛門といふは水野右衛門大夫忠政が七男弥大夫忠頼が子なり。はじめは弥吉康忠といふ。長篠の役に酒樽をたてまつりしかば。織田右府に贈られしに。右府大によろこび。樽とよばれしより氏を樽と改め。遠州町々の支配を命ぜられしが。こたび御遷移により。又江戸市街の事をつかさどらしめ。神田玉川水道の事をも奉り。東国の升の事つかさどらしむ。」この外奈良屋市右衛門。喜多村喜右衛門といへるも同じく御旧領より引移り。樽屋と共に市中并に水道の事を奉る。」守随兵三郎といふは甲州にて秤をうりひさぐものなるが。これも御遷移をうけたまはり伝へて速に江戸に来り。多門伝八郎信清をたのみ。井伊直政もて八州の権衡奉らん事願ひしかば。はる/\〃甲斐の国より馳参り神妙におぼしめせば。願ひのまゝ御ゆるしありて御朱印を下されけり。」又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは。その祖大久保藤五郎忠行は左衛門五郎忠茂が五男にて。三州におはしませしころ小姓勤めしものなり。一向乱のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば。己が在所に引籠りてありしが。もとより菓子作る事を好み。折々己が製せし餅をたてまつりけるが。御口にかなひしとて毎度求め給ひしかば。これもこたび御供に従ひ新知三百石たまひ。そが餅を駿河餅といひて。時世うつりて後はいとめづらかなるものとせり。これより後彼家世々この職奉る事とはなりしなり。(家譜、武家嚴秘録、御用達町人来由)
蒲生飛騨守氏郷太閤より会津の地たまはり。はじめて就封せし道すがら。江戸へたちより謁したてまつり。かねても親しくせさせ給ひければ。こなたにも殊に御喜悦にてさま/\〃御饗応あり。こたび大国の主になられはじめての入部なれば。何がな馬の餞せんと思ふ。何にても望まれよと仰ければ。氏郷もかしこみたてまつり。何某思はざる大身になりて何も事欠く事は候はねども。殊更の仰なれば一しな請申事あり。唯今是へ出たりし色黒き老人の。朱鞘の大脇差さしたるは何と申者にて候か。いとめづらかなる士と見受たり。これを家人に申給て。此度の入部の晴にせまく存ずるなりと申せば。君聞しめし。いとやすき所望ながら。これは御望にまかせがたし。彼は曲淵勝左衛門吉景とて若年の比武田がおとなの板垣信形が草履取にて。その子の弥次郎につかへいと賎しき者なり。信玄讒を信じて弥次郎を誅せしかば。信玄を主の仇なりとて度々伺ひけるほどの。不敵の思慮もなき者なれば。かの国に居ん事もかなはず。家康がもとににげ来り。今は見らるる如く老衰して何の用にも立ず。さるをまいらせてもかへりて当家の恥辱なれば。此義はゆるさるべしと宣へば。氏郷思慮なきにも老衰にもよらざれども。今の仰承れば深く御心かけてめしつかはるゝとみえたり。強ちに申請んもいかゞなり。此うへはせめて知人になりて。昔物語にても承り度と申すにより。御前へめし出て。信玄勝頼二代の間。合戦の事どもとり/\〃語り出て聞しめし。氏郷もいと興に入けるとぞ。(岩淵夜話別集)
御遷の後はじめて御上洛ありしに。蒲生氏郷も会津の就封を謝せんため。同じく上京して御参会の折から。会津城経営の様を尋給ふ。氏郷いはく。会津の城は芦名家以来芝土居にて有しを。こたび石垣に築直しぬ。そも/\殿下今不肖の某をもて大国の重鎮となし。そくばくの地下し給ひし上は。せめて居城にても見苦からぬ程になし置んとて。国々の城地のさまを参見せしに。毛利輝元が安芸の広島の規模某が胸にかなへば。会津も是にならひて作出んと存ずる旨申上しに。すべて城の大小とその主の身分の大小にかなふがよし。本丸はじめ二三の曲輪は。塀櫓迄心を用ひて作出んはいふまでもなし。その外の塀などは時にのぞみてもたやすくかくる事なるべし。広島のごとく外郭の塀までかくるには及ぶまし。松永弾正久秀が和州志貴の城に多門櫓といふもの二三の曲輪内に建置しは。居城の便などにはよきものなりと仰られしを。氏郷つぶさに承りて感嘆し。その後帰国し。かねての経営のさまをかへ。仰のごとく惣郭の塀をばかけず。多門櫓たてんとせしが。いまだ竣功に及ばずして氏郷病にかゝり身まかりぬ。よて後々に至りても会津城の三の丸に。塀櫓なきはこのゆへなりとぞ。(落穂集)

この巻は関東へ移らせ給ひしおりの事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻七

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻七(全文)

聚楽の亭にて申楽興行ありしに。あつじの関白をはじめ織田常真。有楽などもみなつき/\〃かなで。殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり。君は舟弁慶の義経に成らせ給ひしが。元より肥えふとりておはしますに。進退舞曲の節々にさまで御心を用ひ給はざれば。あながち義経とも見えずとて諸人どよみ咲ひしとぞ。」後に関白此事を聞れて。常真がごとく家国をうしなひ。能ばかりよくしても何の益かあらん。うつけものといひべし。徳川殿は雑技に心を用ひられざるゆへ。当時弓矢取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめらる。」又秀吉夜話の折近臣等。徳川殿ほどおかしき人はなし。下ばらふくれておはするゆへ。親ら下帯しむることかなはず。侍女共に打まかせてむすばしめらる。この類さま/\〃にて。すべて言立ればおほやうすぎたる大名なりといふ。関白さらば汝等がかしこしとおもふは何事ぞ。武辺衆にすぐれ国郡をひろく保ち。金銀のゆたかなるをかしこしとは申べけれといふ。其時関白。汝等がおかしといふかの人は。第一武略世に並ぶ者なく。その上関八州の主として金貨もわれよりおほく貯へ置る。かゝれば汝がおかしとおもへるは即ちかしこきにて。並々の者の測りしるべきならずといはれしとぞ。(士談会稿、岩渕夜話)
按に醍醐花見の折。関白が近侍の輩君の御事いひ出て咲ひ種にせしを聞かれ。家康が芸は三つあり。常人の及ぶ所にあらず。第一は武略衆にすぐれ。第二は思慮のよき。第三は金銀を多くもてり。此三つは人に咲はるまじき大芸なり。汝等何を咲ふといはれしかば。近臣ども。徳川殿はなにがよければ。いつも殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ。これも本文と同じ様の事をさま/\〃に伝へしなり。
文禄元年正月二日聚楽の邸にて謡初の式行はる。着座の次第は第一秀次。第二岐阜中納言秀信と定めらる。加賀亜相利家云く。秀信は正しく織田殿の孫なれば第一たるべし。今日の儀注はたが書しといへば。石田三成。それがし殿下の仰を奉てかきしといふ。よて利家秀吉へそのよしをいふ。秀吉そは理ながら秀次は我甥なれば。ゆく/\は養子にして家継せんと思へば第一座に定めしなりとて聴入ざれば。利家は心地あしとて座を起んとす。君その様御覧じ。利家しばしまたれよとありて秀吉へ宣ひしは。殿下そのはじめかりにも秀信の後見せらるゝと有しをもて。織田家の旧臣もみな帰服せしなり。いま利家が秀信を上座に立むといふも。旧義を忘れざる心より出て。あながち秀信に左担するにもあらず。かゝらば秀信をば別に奥方にて。拝礼盃酌の儀をすませられ。表様にては秀次を一座につけ給はゞ。人心事体に於て両ながらその宜を得むかと仰られしかば。太閤もその允当の御処置に感じ。仰のごとくせられて謡初の式事故なく遂行はれしとぞ。(武辺咄聞書)
関白あるとき君をはじめ毛利。宇喜多等の諸大名を会集せし時。わが宝とする所のものは虚堂の墨跡。粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるゝ宝は何々ぞととはれしかば。毛利。宇喜多等所持の品々を申けるに。君ひとり黙しておじゃしければ。徳川殿には何の宝をか持せらるゝといへば。君それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舎に生立ぬれば。何もめづらかなる書画調度を蓄へしことも候はず。さりながら某がためには水火の中に入れも。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て。第一の宝とは存ずるなりと宣へば。関白いさゝか恥らふさまにて。かゝる宝はわれもほしきものなりといはれしとぞ。」また秀吉ある時君に尋進らせしは。応仁このかた乱れはてたる世の中をおほかた伐従へつれど。いまだ諸大名己がじゝ心異にして。一致せざるをいかゞせんとあれば。君おほよそ萬の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の当る所はなべて人の従ふものなりと御答ありしとぞ。(寛元聞書。武野燭談)
細川忠興入道三斎が。年老て後大猷院殿の御前にてむかし今の物語ども聞え上しうちに。そのかみ入道伏見の城にて。あやうきことのかぎりを見侍りしといへば。いかなることゝのたまふに。いつの年にか有けん。豊臣殿下の前にて。東照宮をはじめ諸大名列席せし時。殿下の宣ふは。われむかしより今迄弓箭の道に於て。一度も不覚を取しことなしと広言いはれしに。たれか殿下の御威光に服せざるもの候べき。いづれも上意の通と感服してあり。其時君ひとり御けしきかはり。殿下の仰なりとも事にこそよれ。武道に於ては某を御前にさし置れて。かゝる御言葉承るべくも候はず。小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて宣へば。一座の者みな手に汗を握り。すはや事こそ起れとあやぶみしに。関白何ともいはず座を立て内に入れぬ。さてありあふ人々。只今殿下の仰は実に一時の戯言にて侍れば。徳川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば。いや/\武道の事はいかに殿下なりとも。そのまゝすて置べきにあらず。今日より殿下の仰に違ひ御勘事蒙るとも。いさゝかくゆる事なしと宣ふ。とかうして関白また出座せられ。重て物語どもありて。さきの事いさゝか詞色にもかけざる様なれば。いづれも安堵してまかでしなり。その頃入道もまだ年若き程の事にて。今に思ひ出れば何となく胸さはぎせられ侍るといへり。こは秀吉。君の御様を試みむとて。わざとかゝる広言いはれしに。君たゞ余人のごとく敬諾のみしておはせば。かへりて関白のたのみがたき人と思ひ給はんとおぼして。武道のことには不測の禍をもかへりみず。たれなりともその下に立べからざる御実意をしらしめ給はんとて。御けしき迄もかはらせ給ひしならん。魏の曹操が劉備にむかひ。天下の英雄は只御辺とわれなりといひしに。劉備が飯くひてありしが。持し箸を落せしとおなじ様の事にて。姦雄の伎倆も天授の明主にあふては。其術を施す事を得ざるにぞ。(紳書)
関白伏見にて。古今の名将の上の事をとり/\〃評論せしに。金吾秀秋むかしよりいひはやす如く。源義経。楠正成などこそ誠の名将とこそいふべけれといへば。関白。正成は戦の利なきをしりながら。一命を抛て湊川にて討死せしは忠臣といへども。己が諌の聴れざりしをふづくみて死をいそぎしに似たり。義経は梶原が姦悪をしらば。はやく切ても捨べきに。すて置て後害を蒙りしは智といふべからず。むかしはしらず今の世にては。家康に過たる名将はあらじといはれしとぞ。」また関白諸大将の刀をとりよせ。われ其刀の主をあてゝ見むとて。彼よ是よと名ざされしが一つも違ふ事なし。前田玄以法印大におどろき。何をもてかく御覧じ分られ候にやといへば。関白別にかはれる術もなし。先づ秀家は美麗をこのむ性質なれば。金装の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賎より起り数度の武功をかさねて大国の主ろなりし人なれば。いにしへを忘れずして革柄を用ゆるならん。輝元は数奇人なればこと様の装せし品其差料ならむ。江戸の亜相は器宇寛大にして。刀剣の制作などに心用ゆる人ならねば。元より修飾もなく美麗もなきなみ/\の品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれといはれしとぞ。(古老噺、常山紀談)
伏見にて太閤。君をはじめ前田利家。蒲生氏郷等を饗せられ。それより聚楽にて遊讌し。かへさに君の御亭に立よられんとあれば。君はかねてその御心がまへし給ひ。御亭のうちきよらかに酒掃せしめ。御みづから茶一袋を出して。茶の事奉る守斎といふ者に挽しむ。其日にも成ぬれば。君はとく聚楽よりまかで給ひ。茶をとりよせて御覧あるにわづかなかり残りたり。こはいかなる事と御けしきあしゝ。守斎申は。水野監物忠元がひそかに給はれりといふ。献物は美少年にして御うつくしみ深き者なり。よて君また一袋を取出し。こたびも休閑といへる茶道に授しむ。加々爪隼人政尚。殿下は只今にも渡御ならん。遅々しては間に逢ふまじ。最初の残茶少しなりともすゝめ奉らんといふを聞しめし。やあ隼人。汝も年比われに近侍して在ながら。心掛の薄き事よ。今にも殿下来臨ありて。茶を進るに及ばずして帰られんともせむかたなし。人の飲あませしものを進めんは。はゞかりある事ならずや。其志にては我に奉仕のさまもおもはしからずとて。いたくいましめられしとぞ。(砕玉話)
豊臣秀長。織田信雄など。おなじく聚楽の亭にて夜中に遊讌ありし時。蝋燭の心はねしに。君は何げなくおはせしが。秀長は驚き座をたちし様を御覧じ微笑に給ふ。秀長己が性劣をわらはせらるゝかとおもひ。いかれる顔して。それがしが火をよけしを。心弱くおぼして笑はせ給ふにやといふ。君御辺や某などは。一大事のあらん時は殿下の御先をも承るべき者の。かゝる細事に心ひてなるべきか。まだ若年におはせば。さる事までおぼし至らぬなるべしとて。さらにあげつろふ様にもおはしまさゞりしゆへ。秀長もかへりて恥らいてやみしとぞ。(岩淵夜話)
太閤が伽の者に。曾呂利伴内といふいと口ときおのこあり。折々は君の御館へも参り御談伴に候したるが。或時伴内。世の中に福の神なりとて。人のうやまひまつる大黒天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大黒はその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財なければ用度を弁ずる事ならざるをもて。大黒は袋を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれ。かりにも上を見るまじとてなり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福禄を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大黒の極意といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬがでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上下四方より目を配り。おさゝかさはるものなからしめむが為に。常にはかぶりつめてあるぞ。是ぞ大黒の極意よと宣へば。伴内も盛旨の豁大なるに感じ。後太閤の座にありて此事いひ出しに。太閤今の世にもわた持のいき大黒があるをしりたるかと尋らる。伴内心得ざるよし申す。太閤いき大黒とは徳川の事よ。汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(霊岩夜話)
山名禅高聚楽にて晴の事ある時。いつも肩の綻たる茶染の羽折を着して候す。或日禅高にむかはせられ。御辺の羽折はことの外に打きれて見苦しと宣へば。禅高是は故の光源院将軍(義輝)の給はりし品ゆへ珍重にして。表立しき時のみ用ひつれども。年月を重ねし故かく打切ぬといへば。よくも旧を忘れぬ朴実の人かなとおぼして。わきて御懇遇ありしば/\御館にも伺公せり。」或日禅高の申は。朽木卜斎はことに粗忽の人なりといふを聞しめし。卜斎が粗忽は皆人のしる所なり。御辺の粗忽は卜斎に超たりと我は思ふと宣へば。禅高をはじめ外にありあふ者も。いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに。卜斎は粗忽ながらも祖先已来料し来りし朽木谷を今にたもてり。御辺が祖は六十六州の内にて十一ヶ国を領せられしをもて。むかしより六分一殿といへば。山名が家の事にもいひならはせり。さるをみうしなひはて。今寄寓の身となりて。かしここゝにさまよはるゝは。天下の粗忽これに過たるはあらじと思ふなりと仰ければ。禅高はさまで羞赧の色もなく。げに尊旨の通りにて侍れ。某今は六分一ののぞみもなく。せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上ければ御笑ひ有しとぞ。」又天正十六年の比君御上京ありて。斯波入道三松が家へ渡御有し時禅高も供奉せり。禅高三松へ応接の様あまり慇懃に過しかば。還御の後禅高をめし。斯波が家は代々足利の管領といへども。其祖は足利の支族なり。汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして。近き比まで数ヶ国の太守たり。今むかしの如くに非ずとも。いかで足利の家人に対してかく厚礼をなすべきや。この後は我につかへ忠勤を尽し。重く家国を振起すべしと仰ければ。禅高も殊にかしこしと思へりとか。(霊岩夜話、山名譜)
聚楽にて談伴のともがらあまた太閤の前に侍してよも山の物語せしに。一人。世の諺にいふ。親に生れまさる子はまれなりといふは尤の事なりといふ。太閤聞てわれもまたかくの如しといはる。いづれも解しかねしに。君はうちうなづかせ給ひ。いかにも仰の通と宣へば。太閤。徳川殿しばし待せ給へ。余の人々はいかにといへば。いづれもみな頭もたげて案じぐしたり。太閤われらが親なるものは。誰もしらるゝごとくきはめていやしの者なりしが。某を子に持れたり。某は親に劣りて子に事を缺よといはれしとぞ。(霊岩夜話)
浮田黄門が許にて秀吉はじめ申楽見られしに。秀吉庭上に下らむとせられし時。君先立て下立せ給ひ。秀吉が履も直し給へば。秀吉手をもて君の御肩ををさへ。徳川殿にわが履を直さする事よといはれしとぞ。(老人雑話)
奥の九戸に一揆おこりし時。武州岩附の城まで御動座あり。井伊直政をめして。汝は軍装のとゝのひ次第出陣し。蒲生。浅野に力をそへ。九戸の軍事を相計るべしと命ぜらる。この事承て本多佐渡守正信御前に出て。直政は当家の執権なれば。此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣はされ。されにて事弁ぜざらん時にこそ直政をつかはされば。事体におゐても允当ならんと申す。君そは思慮なき者のいふ事なれ。わが壻にて在し北条氏直などがかかる事をばすれ。いかにとなれば。事のはじめに軽き者を遣はし。埒があかずとて又重き者をやらば。はじめにゆきし者面目をうしなひ。討死するより外なし。さればゆへなくして家臣を殺さしむる。おしむべき事ならずやと仰られしとか。」後年筒井伊賀守定次罪ありて所領収公せられし時。そが居城伊賀上野の城受取のため。本多中務大輔忠勝。松平摂津守忠政始め数人遣はさる。其折の仰に。伊賀守は江戸にあり。上野の城は家人等のみ守り居れば。かく多人衆をつかはすに及ばざれども。事体に於て終始符合せず。物に譬へば。膝をかくす程の川をかち渡りするに。高尻かゝげて渡るはあまり用意に過たれど。滔溺の患はなしと仰られしとぞ。(岩淵夜話)
内府に進ませ給ひし後。太閤が饗し奉らんとて。こたび既に任槐の上は。御調度などもなみ/\の品用ひ給ふべきに非ずとて。葵の御紋と桐をまきたる懸盤を製して進らせられければ。かしこきよす謝し給ひ。御亭に還らせられしのち本多正信をめし。人の我をのするにはそれと知てものりたるがよきか。はづしたるがよきかと仰らる。正信先年小笠原與八郎が御方に参りし時。加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに君うなづかせ給ひしとぞ。こは小笠原はじめ遠江の城飼郡を領して頗る大身なりしが。当家に参りし本意は。此方の隙をうかゞひ。遠州一国を己が物にせんと思ひて帰降せしをとくに察し給ひし故。姉川の役に小笠原に先鋒を仰付られ。必至の戦をせしめられしなり。これ彼が我をはからんとするに。わざとはかられし様して。かへりて彼を制馭し給ひしなり。こたびも豊臣家の待遇に乗て。かの進らせし調度を用ひ給ふは。小笠原が御加恩にのりて危き戦せしと同じ例なりと。正信がおもひはかりて申せしなりとぞ。(紀伊国物語)
関白秀次違乱の前江戸へ下向し給ふにのぞみ。台徳院殿及び大久保大輔忠隣に仰有しは。わが下りし後に当て。太閤父子の間にかならず争隙起るべし。さらむには太閤が方に参るべしと仰ければ。台徳院殿は謹で御請し給ひ。忠隣は当今の静謐なるに。何事の起るべきかと不審に思ひしが。果して秀次叛逆の聞え在て。台徳院殿を己が方へ迎へ奉り。是を質となして秀吉へいひ開きせんと謀りしに。忠隣兼て心得居し事なれば。よき様にあつかひて太閤が方へいれ奉りし故。何の御恙もましまさで。太閤も珠によろこばれしなり。これも御明識にしてよく未来を察知し給ひしゆへ。かゝる不慮の変をも免かれ給ひしなり。」秀次の変有し後御上洛ありしに。太閤待迎へられ御手を取て。此度の大事徳川殿上洛を待付て処置せんと思ひしが。遅々してかなはざる事ゆへ。形のごとく申付ぬといへば。君の仰に。殿下こたびの御はからひそれがしはよしとも思ひ侍らず。関白もし異慮あらば何れへなりとも配流して番衛附置ればたりなん。さるをかくはかなき事になされしはおしき事ならずや。殿下いま春秋已にたけ。御子秀頼ぬしまた御幼穉におはせば。もし思はざる変事の出来んに。関白かくしても世におはさば。世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば。太閤何ともいはで。此語は世の中の事みな徳川殿にまかするといはれしとぞ。(寛元聞書)
江城におはしませし時。豊臣家の使来りて朝鮮征伐の事聞え上しに。書院に座したまひ何と仰らるゝ旨もなく。ただ黙然としておはしぬ。本多正信折しも御前に侍しけるが。君には御渡海あるべきやいかゞと三度までうかゞひければ。何事ぞかしがまし。人や聞べき。筥根をば誰に守らしむべきと仰られしかば。正信さては兼てより盛慮の定まりし事よと思ふて御前を退きけるとぞ(常山紀談)
朝鮮の役に初て大御番五組を定められ。一番は内藤紀伊守信政。二番同左馬助政長。三番永井右近大夫直勝。四番粟生新右衛門某。五番は菅沼越後守定吉なり。いづれも麾とる事をゆるさる。これぞ今の大番組の濫觴なり。後慶長十二年に至り大番頭をして伏見城を戌らしめ。番頭は一年にて交替し。番士は廿四月にて交替せしむ。これを其ごろ三年番といひしとぞ。(貞享書上、卜斎記)
名護屋陣の折行軍の次第。第一は加賀亞相利家。第二は当家。第三は伊達政宗。第四は佐竹義宣と定めらる。其後また太閤の内意にて。当家の次は義宣。其次政宗とくりかはりしにより。政宗本意なく思ひその由歎き訴へければ。君もことはりと聞召。政宗佐竹に拘はらずわが陣後に押べし。もし咎むる者あらば家康が命ぜしと申べしと有て。政宗仰の如く御跡に従ひ奉る。太閤石田三成もて。徳川殿いかなる故もて。かねての軍令に違はれ政宗を後に附らるゝとなり。君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは。兼てこなたの後陣は本多中務に申付しが。存ずる旨ありて中務を先手に立。その代に政宗を後陣に押せつるなり。そも/\去年奥の岩出山佐沼の城経営の折。政宗若年といひかつ遠国者にて。何事もうい/\しければ。万事につきて家康が指諭を頼むと有し故。こたびも家康が後に引付。過誤なからしめん様にせんためなりと仰られしかば。太閤も聞分られ。いかにも亞相申さるゝ所さるべき事なりとて。はじめに令せし如く当家の次に政宗と定められぬ。政宗君の御一言もて本意の如くなりしかば。御恩をかしこむことおほかたならず。此時政宗が惣勢の装いかにも異様なりしかば。京童ども伊達者といひしより。後々までも平常にかはり奇偉の装するを。伊達をすると俚言にもいひならはせしとぞ。(貞享書上)
名護屋に赴かせ給ふとて。安芸の広島に宿らせ給ふ時。上杉景勝が臣潟上弥兵衛。河村三蔵。横田大学の三人打連て御旅館の前を通りゆくに。君楼上より大声を発せられ横田大学と呼せらる。大学仰のきて見奉れば。汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ。大学かしこまり二人をやり過し。己れ一人楼に上りて謁し奉る。汝が主の景勝は前田利家を討むとて。位次の先後を論ずるときく。いらざることなり。早くこの旨直江山城に申て。景勝に諌をいれよと宣ふ。大学速に立かへり直江にかくと申ければ。兼続も景勝をいさめけるに。景勝も盛慮のかしこきを感じて。その企はやみけるとぞ。かく他家の事までも御心にとめられ。あしざまの事はいましめ諭されしゆへ。御徳に懐き従ふ者年月にそひておほかりしとなん。(校合雑記)
朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戦の様はか/\〃しからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戦いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづから三十万の大軍を率ゐて彼国にをし渡り。利家氏郷を左右の大将とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の事は徳川殿かくておはせば安心しと有ければ。利家。氏郷等上意の趣かたじけなきよしいふ。其時君にはかに御けしき損じ。利家氏郷にむかはせられ。それがし弓馬の家に生れ。軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覚の名を取らず。今異域の戦起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸将の跡に残とゞなつて。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連。殿下の御先奉じるべし。人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。関白大にいかり。おほよそ日本国中において。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも残る事なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひ放てば。一座何となくしらけて見えしに。浅野弾正少弼長政進み出て。徳川殿の仰こそげに尤と思ひ候へ。此度の役に中国西国の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北国奥方の人衆を召具して渡海あらば。国中いよ/\人少に成なん。その隙を伺ひ異域より責来るか。また国中に一揆起らんに。徳川殿一人の凝りとゞまらせ給ひ。いかでこれをしづめたまふ事を得ん。さらばこそ渡海あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。惣て殿下近比の様あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。関白いよ/\いかられ。やあ弾正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。弾正いささか恐るゝけしきなく。抑応仁このかた数百年乱れはてたる世の中。いま漸く静謐に帰し。万民太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく国財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう亀が人にとらるゝと申譬のごとく。今朝鮮をとらむとせらるゝ内に。いかなる騒乱のいできて。日本を他国の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさざりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りとは申侍れといへば。関白事の理非はともあれ。主に無礼をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常真。前田利家などおしふさがり。弾正そこ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ぬば。君。徳永。有馬の両法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事済けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩淵夜話別集、天元実記)
この陣の中比大廳病あつきよしきこえて。秀吉帰洛あるべしとするに及び。君へむかひ。此度異域征討の半なれど。大廳の病体心許なければしばらく帰京する所なり。朝鮮の事は徳川殿にまかせ置ば。いか様の事出来るとも人の意見をとはるゝまでもなし。はる/\〃浪花まで議し示さるゝにも及ばず。御心ひとつもてさるべく決せられよと有て。浅野弾正長政はじめ在陣の諸将をよびよせ。只今大納言に何事もたのみ置たりとて。其趣をいづれもよく承り置て。大納言指麾に違ふ事なかれとて。太閤は直に帰洛せられしなり。こゝに於て人々みな。太閤の深く君を信じ奉りしゆへ。かゝる重事をも委任在しとて。いよ/\当家へ心を傾けし者出来しとぞ。(清正記)
名護屋陣中にて当家の御陣所の前に清水涌出て。外の陣所よりも人々来て是を汲ば。番人を付て守らしめらる。其頃久旱にて水乏くなりしかば。後には外人に汲せざりしを。加賀利家の家人来りて強りに汲取しかば。番人制すれども聴ず。かへりて悪言などいひ出しにより。闘諍に及び。おひ/\侍分の者いでゝ両方三千ばかりの人になり。今にも事起るよと見えし時。本多忠勝。榊原康政二人出て制す。忠勝は渋手拭にて鉢巻し。康政は大肌ぬぎ汗に成てとゞむれば。漸にしづまりぬ。君にははじめよりこの様見て。何と仰もなくておはせしが。後に康政が御前に出しとき。汝頃日当陣の見廻として。はる/\〃秀忠より使に越れしゆへ。何ぞもてなしもあらんかと思ひ。珍らしき喧嘩をさせて見せたれ。さぞ労したらんと咲はせ給ひながら仰られしとぞ。この事太閤聞れしにや。幾程なく利家には陣替せしめられしとなり。(天元実記)

此巻は豊臣家聚楽の亭におはしましての事どもより。名護屋陣の事までをしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻八

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻八(全文)

慶長元年七月十二日地おびたヾしくゆりて。伏見城の楼閣悉く破損す。君いそぎまいらせ給ひ。太閤に御対面ありてその無異を賀せられ。かつ速に内の御けしきを伺はせ給ふべきにやとのたまへば。太閤吾もさこそ思ひつれども。かゝる大変にて陪従の者いまだとゝのはず。幸の事なれば。徳川殿ともに参らせ給へ。その従士をかり申さめと有て。当家の陪従ばかりにてともに出立せ給ふ。太閤久しく刀をはかで。けふは殊に腰の辺おもく堪がたし。徳川殿の従臣の内に持せ給れとあれば。君御みづから持せ給へば。それにてはかへりて心ぐるし。ひらに家臣の中に渡し給へとあるにぞ。井伊兵部少輔直政に渡し給ふ。とかうする内にかの家人ども追々に馳付て。駕輿も舁来たれば。太閤輿に乗れんとするに及び。こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝をよばれ。汝等が下心には。今日こそ秀吉を討んによき時節なりとおもひつらめ。されど汝が主の家康は。さる懐に入し鳥を殺す様なる事はせぬ人なり。さきに我刀を汝に持せ度は思ひしが。折悪しく隔たりしゆへ。間にあはでいと残りおほし。汝に持せたらばさぞおもしろかりなんものを。かく思はるゝも汝等は必竟小気者なればなり。小気者よ/\と笑ひながら輿に乗られしかば。忠勝何ともいはずたヾ俯伏して在しとぞ。(柏崎物語。続武家閑談)
ある時数寄屋の御道具あづかりし者をめして。御茶杓をとりあつめもてこよと仰付られ。そが内にて瀬田掃部が削りし杓六七本。筒に入て在しをとり出され御手づから節の所より一つ/\〃に折しめられ。取捨よと命ぜらる。こはその頃掃部。豊臣家の内意を受て。蒲生氏郷を鳩殺せし聞えありしかば。彼の所為をいたくにくませ給ひての御事ならんかと人々いひあへりしとぞ。(天元実記)
大坂の城中にて石田治部少輔三成。頭巾を着しながら火にあたりて在し時。君のまうのぼり給ふ道筋なれば。浅野弾正三成にむかひ。只今内府の通らせらるゝに。さるなめげの様してはあしからむと。三度までおどろかせしに。三成しらぬ顔して空うそぶきて居たり。長政あまりの事におもひ。その頭巾を取て火中に投じけれども。三成いかれるけしきもなし。これ三成この頃よりすでに。後日の一大事を思ひ立て在しかば。かゝる細事には心もとめざりしなり。この事後に聞しめし。さて/\あやうかりし事よ。もしその折三成が怒て長政と切合ならば。われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰られしとぞ。」この長政は豊臣家にはゆかりありて故舊なりしが。度々三成が讒にあひて。太閤の前を失ひし事の有しに。いつも君の仰こしらへ給ひて無事なりし故。殊に御仁恵をかしこみ奉り。後に大坂の奉行等が異図企し時故有て武州に蟄居し。其末子をもて御家人に列せん事を願ひ。御ゆるし蒙て慶長四年釆女正長重十二歳にて江戸に参りたれば。御けしき斜ならず。同五年より台徳院殿につけしめられ。野州真岡にて二萬石下され譜代になされ。七年松平玄蕃允家清が娘は御姪女なるを。養せられ長重に配せられ御待遇浅からず。おほよそ上方の大名の子弟当家に奉仕する事は。長重をもて権輿とするにぞ。」又長政常に寵眷浅からず。君つれ/\〃の折ふし長政を召出して共に碁を囲み給ふ。時として長政行道をあらそひ。なめげなる挙動有しを。君にはかへりて御一興に思召てほゝゑませ給ひけり。長政が身まかりしのち。しばしが程碁を囲み給ふことおはしまさゞりしが。こはむかし鐘子期が死して。伯牙が琴をひかざりしといふ故事に思ひよそへられて。いと哀なる御事になん。(寛元聞書、貞享書上、大三河志)
慶長三年正月二日とみの事にて石清水八幡宮へ詣させ給ふ。よて供奉の者の服忌など御改あり。こはそのころ御夢想の事おはしませしゆへなりといへり。」同じ夜関東にても御家人米津清右衛門正勝が妻。夢中に一首の和歌をみて。さめて後人々に語りしは。
  盛なる都の花はちりはてゝ東の松そ世をば継ける
これは其ころ豊臣殿下すでに薨去ありて。都方次第に衰替しゆくに。当家は関東におはして。日にそひ御威徳のそひまさらせ給ふにより。天意人望の合応する所より。かかる瑞徴もおはしませしならん。(天元実記)
伏見にて炎熱の折から。城櫓の上に納涼しておはしけるに。廚所より出入する下部の様を御覧じて。本多正信に宣ひけるは。下人どもさま/\〃の物を懐にし。又は袂の内に入れ持いでゝ。宿直の具の中につゝみてまかづるは。いかさま官物を私すると見えたり。これ全く官長の行届かざるゆへなりとてむづからせ給へば。正信承り。こはいとめでたき御事なりといふ。君聞しめし。下人が盗竊するをめでたしとは何事ぞととがめ給へば。正信そも/\そのかみ岡崎におはしませし程の御事は申までも候はず。浜松にうつらせ給ひても。御分国広大に成せ給ひしとはいへども。廚所のもの鰹節一本盗む事もならざりき。さるに当時関八州の太守にならせ給ひ。海内第一の大名におはしまして。天下の政務をもきこしめせば。国々の守どもより貢物奉る事おびたゞしきゆへ。おのづから饒富にならせらるゝをもて。かゝる盗人も出来れ。これぞ御家の栄へそはせ給ふ御しるしなれば。前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや。御台所と河の瀬は。いつもどむ/\となるがよいと申ごとくにて候と申せば。君も御けしきにて。例の佐渡がいふ事よとてほゝゑませ給ひしとぞ。(霊岩夜話)
伏見におはしける時張文せし者あり。老臣等おごそかに糺察せんとこふを聞せられ。かゝる事たゞさんとすれば。いやがうへにするものなり。元より丈夫の志ある者ならばさるかくし事はなさず。これたゞ兒女子がするわざなれば。それを検出してとがむrつもまた同じ様の心なれ。其儘毀裂して捨よと仰付られしが。此後は果して絶てせざりしとなり。(三河之物語)
伏見城の天守に茶壺十一を上置れ。壷一つに二人づゝ番附て守らしめらる。三井左衛門佐吉正をもて惣司とせらる。いづれも怠らざる為にとて厨膳をたまひ。棋。象棋。双六の盤などまで遣はされ。随分心長に守らしめよと命ぜらる。かくて三日ばかり在て。御用の由にて壷二つ取寄給ひ。其後御みづから天守へ渡御ありて番人等を慰労せられ。残の壷ども御覧じて仰けるは。さきに十一あづけ置しを。何とて二つたらぬぞとのたまへば。左衛門佐承り。二つは御用の由にて先日召せられし故。御使に渡しぬと申す。さればよ兼て汝が公事に念入べしとおもひつれば。大事の茶壺を預けしに。わが取に遣はしたらん時には。汝も其使に付そひてこそ参るべきに。たゞ使にのみ渡してよしとおもふは。緩怠の至りなりとておごそかにいましめられしなり。かく何事にも覈実におはしまして行届かせられしゆへ。いづれも心用ひて。あへて句(正しくは草冠)旦の事はなさゞりしちぞ。(紀伊國物語)
豊臣太閤既に大漸に及び。君と加賀亜相利家を其病床に招き。我病日にそひてあつしくのみなりまされば。とても世に在むとも思はれず。年比内府と共に心力を合せて。あらまし天下を打平らげぬ。秀頼が十五六歳にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。我なからむ後は天下大小の事はみな内府に譲れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返す/\〃申されけれど。君あながちに御辞退あれば。太閤さらば秀頼が成立までは。君うしろみ有て機務を攝行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は内府に頼み置つれば心やすし。秀頼輔導の事に至りては。偏に亜相が教諭を仰ぐ所なりとあれば。利家も涙ながして拝謝し。太閤の前を退きし後に。君利家に向はせられ。殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり。我と御辺と。遺命のむねいさゝか相違あるまじといふ誓状を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ。(天元実記)
太閤の遺命により。浅野長政。石田三成の両人に命ぜられ。朝鮮の諸勢を引取しめられんとありしが。なを心許なくおぼしめし。藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り諸勢早々帰帆せしむべしと命ぜらる。」その日の夕方仰残されしむねあれば。高虎かさねて参謁せよと仰遣はされしに。高虎は命を蒙るとひとしく出立して。跡には留守の家老のみ在と申上しかば。君御手を拍て近臣に宣ひしは。この佐渡といふおのこは。近頃までは與右衛門とていと卑賤なりしを。太閤その才幹あるを察せられ。追々抜擢せられし程有て。万事敏捷なる者なり。汝等聞置て後学にせよと仰れしとぞ。」かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに。これよりさき島津兵庫頭義弘泗川の戦に明兵あまた討とりしかば。明兵その威に怒れ引退ぬれば。遠からず惣軍皆帰帆せむと注進有ければ。高虎がしばし名護屋に在て渡海に及ばず。その年十一月に本朝の軍勢残らず博多へ着岸す。」こたび島津が勲功莫大なれば加恩給らんとて。前田利家とその事議せられしに。石田三成云く。これは秀頼公御代始の事なれば。外々三老へも議し合されて。しかるべしと有て御商議有しに。浮田中納言秀家ひとり異議を陳て従はず。よて五奉行の人々その事申上れば。君の仰らるゝは。今秀頼幼年におはせば。みづから天下の賞罰定めらるゝ事は。十四五年もへずばかなふまじ。それまでの間功ある者を賞せず。罪ある者を罰せずしては。天下の政治いかにも立べからず。人々はいかゞ思はるゝとあれば。前田徳善院は愚僧も仰のごとく存しなり。その後薩摩大隅両国の中にて。島津に一萬石まし給はりしとぞ。(天元実記、寛永系図)
太閤薨ぜられし後は。京大坂の間浮説区々にして人心おだやかならず。其比加賀亜相利家重病に侵され。今はかうよと見えし比。生前にいま一度謁見せむとこひ奉る。そのころ利家が異心測りがたければ。堅く臨駕をとゞめたまへといふ者ありしに。亜相が心はわれよくしれり。さる反復の者にてはなし。まして彼すでに病をつとめてわが方に来りしを。我遅々してゆかざらんには。かへりて世の浮説しずまりがたしとて。遂に彼家におはしぬ。亜相もかく降臨ましませしを世に嬉しげにおもひ。病あつくして衣装を正すこともかなわず。されば上下をば側におきて見え奉る。其身なからん後も賤息の事を見捨給はるなと返す/\〃いひ出しかば。君にも其様を御覧じて。哀におぼし召御涙を浮められ。家康かくてあらむには。心安く思ひ給ひねと仰られて。何事もなく遷御なりぬ。亜相より家人と徳山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ。浮説もいつしか静まりて。人心も何となく落居しなり。」ある伝には。利家その子利勝をよびて。今日内府を招くにより。汝が心得はいかにと問ひしに。今朝とくより饗応の設共みなしつるといふ。さて還御の後重ねて利勝を招き。己が臥せし褥の下より白匁を取出し。さきに吾汝に問しとき。汝さるべき答をせば。われ病中ながらも内府とさし違へんと思ひしものを。口惜の事ならずや。今の三奉行はじめ一人も人材のなき事よ。わがなからん後は天下はかならず内府の掌握に帰すべし。されど汝等が事はよく/\頼み置つれば。疎畧にはせらるまじ。汝等も又敬事して怠ることなかれといひ置て。いく程もなくはかなくなりしとぞ。(戸田左門覚書、公程閑暇雑書)
大坂の大老奉行等より安国寺惠瓊長老。生駒雅楽頭親正。中村式部少輔一氏君には故太閤の遺命に背かれ。妄に諸大名と縁を結ばせ給ふは以の外の御事なり。かくては某等も前々のごとく。天下の事共に議し申さん事も成難しといふ。君聞しめして。我故殿下の終に臨み。幼主の事をかへす/\〃遺托ありしゆへ。日夜心力を尽してその為よからんことをはかる所なり。さるに方々近比は何事も我に議し合されず。別人の様に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ。もし我扱よからず思はれば。ひそかに心を添られ。ともに議し正しなば。殿下の遺命もたち。それがしも世にそしりを免かれなん。然るに今あらためてかゝる事いひ越るゝは。穏当の所為とも思はれず。かく人々にうとまれては。重任にありても詮なし。やがて致仕し関東へ下り。代りには武蔵守をよび昇せて当地にさし置なん。この旨誰をもて誰にいひ告べきや。方々指図給はるべしと宣ひ。又安国寺に向はせられ。御僧はいつよりか三人の列になられし。我もいまだ知らざる所なり。すべて大老奉行より用事とあるは。天下の政務にあづかりし事なり。御僧出家の身として。たが命を受てみだりに三人の中に徘徊せらるゝや。今日はまげてゆるしかへすといへども。重ねてかゝる所へ出るに於ては。きと沙汰せむ様もあれと。おごそかに咎め給ひしかば。惠瓊は面の色をかへ。わな/\ふるひ出せしとぞ。」同じ比加藤左馬助嘉明が御けしき伺と伺公せしに。折しも物具取出されて御覧有しかば。この具足は故殿下の賜はりしなり。近日大坂の四老奉行。家康と干戈を交へんとの風聞あり。よて今取出して検点するぞと宣ふ。嘉明承り。只今の世に当りてたれか内府公に対し奉りて。軍する者のあるべきと申て御前をまかでしとぞ。(紀伊国物語、天元実記、落穂集)
向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき。松平右衛門大夫正綱をめして。城の屋上にのぼり。もし火もえ出る所あるか。その外怪しげなることあらば聞え上よと命ぜられ。夜半過るころ御みづから正綱が居し所へ礫をもて打おどろかし給ひしとか。」後にすべて新らしき所にうつりし夜などは。思はざる悪徒どもの。焼草つみ置て焼立ることもあるものなれば。よく/\警しめねばかなはぬものなりと仰られき。」向島の本邸に還らせられ。おほよそ一夜の内に二度づゝ。かなたこなた行めぐらせ給ふこと。五十日ばかりに及びしとぞ。其折は扈従の者も親しきかぎり三人か五人に過ず。余はみないぎたなくて知り奉る者なし。常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが。この程はいたく忍びてものせさせ給ひしとぞ。(前橋聞書、卜斎記)
向島の邸へ御移ありし比。菱垣あまたゆひ渡して。いと御戒備厳重なり。御門を明て御長柄鉄炮など修理す。新庄駿河守直頼伺公して。かゝる時はいかなる急変あらんも測り難し。御門を閉しめ給へといふ。君門をうてば敵にあなづらるゝものなり。只打出して玄関にて用意するがよしと宣へば。直頼も盛旨の豁大なるに恐服せしとぞ。(落穂集)

ある日向島の御館へ。加藤。細川の人々伺公して武辺の物語あり。いづれも是迄の御武功の事承り度と申上しに。土岐山城守定政をめし。人々に語てきかせ候へと上意也。定政君の御事を申さず。其座にあり合し御家人の名をいひしらせ。さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し。かれが親はいつの年いかなる功名せしなどゝかぞへ立て。つぎ/\物語せしかば。君の御武功はおのづから言をまたずして顕はれしとぞ。いかにも御称誉の様。よく其体を得しと人々感じて。かく武功のものおほく持せらるれば。終末にこの君天下の主に成せ給はんかと。下心におもひけるとなん。(駿河土産)
細川越中守忠興は兼て当家へ志を通じたれば。陽には大坂の奉行共が奸計にくみし。彼等の内議を聞出して一々言上す。ある日長束大蔵大輔政家忠興にむかひ。今宵内府が館を襲はむと群議已に一決せり。御辺も力を合されよといふ。忠興云。内府の勇略今の世に立ならぶ者なし。味方定見もなくしてみだりに戦をしかけなば。いかに利を得むやといつて従はざれば。其夜の議は遂ずなりぬ。明日忠興御館に参りて。しか/\〃の由聞え上しかば。われもほゞその事を聞つれ。もしさらむにはわが館に火をかけ。東北の広地に出て是を防がむと思ひつれと仰ければ。忠興も兼て成算のおはしたるに感じて退きたるとぞ。(武徳大成記)
おなじころ伏見の御館浅まにしてかつ御無勢なれば。御居所をかへられ。六条門跡を御頼在て彼寺中へ立のかせ給ふか。さらずば京極宰相高次が大津の城に御動座あるべきかなど。とり/\〃議しけるに。君の仰に。長袖の門をたのみては。軍に勝たりとも心よからず。又大津の城へいらば。家康は敵を恐れて落たりなどいはれ。重ねて兵威を天下に振ふことかなふまじ。たゞこのまゝにて在んこそよけれとて。更に御恐怖の様もおはしまさず。泰然としておはせば。敵方のものもあへて手を下す事もならざりしとなり。」この時井伊兵部少輔直政。関東より御勢をめし上げ給はんかと伺ひしに。わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりも在ん。もし不虞の変あらんにも。此人数にては軍するに事かくまじとて聞せ給はず。」徳善院法印この比の事を評して。かゝる時に出合て。織田右府ならば。岐阜まで引退るべし。故太閤ならば五千か三千にて切て出たまふべし。さるを内府はいさゝか御動転なく。日々に棋局をもてあそび。何げなき様して沈静持重しておはせしは。なか/\名将にもその上のあるものなりと評したるとか。(紀伊国物語、三河之物語)
加藤主計頭清正。同左馬助嘉明。浅野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。黒田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戦にいづれも千辛萬苦して軍忠を励み。武名を異域にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。帰陣の後太閤へさま/\〃讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。よて七人会議して三成を打果し。旧怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騒擾に及び。三成も窘窮してせむすべしらざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義気あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏見に来り。向島の御館に参りてさま/\〃歎訴し奉れば。君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾まし/\。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰下されしは。当時秀頼幼穉におはせば。天下物しづかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尚更なるべし。三成が旧悪はいふまでもなけれど。彼已に人々の猛勢に恐れて。当地へまで逃来りし上は。おの/\の宿意もまづ達せしなれば。これまでに致され。此上は穏便の所置あらむことこそあらまほしけれとの御諚なり。この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳来り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて従服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。そも/\三成当家をかたぶけ奉らむとはかりしこと一日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし。救済せしめたまふ御事。さりとは寛容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天元実記)
後年駿河におはしまして。今の世に律儀の人といふは誰ならむといふ者有しに。その律儀なる人はまれなるものなり。こゝらの年月の内に佐竹義宣が外は見たる事なしと宣へば。永井右近大夫直勝いかなるゆへかと伺ひ奉りしに。汝等もしる如く。先年大坂にて七人の大名ども石田三成を討むとせし時。義宣一人三成を扶持してわが方へ来り。さま/\〃こひし旨有をもて。われ七人の者をいひこしらへ。三河守して三成を佐和山まで送り遣はさしめしなり。其折もし途中にて三成を。かの大名どもに討せては。義宣己が分義立ずとて道筋へ横目を付置。万一違変あらば討ていでゝ秀康に力を合せむとて。上下軍装して在しとなり。これは誠の律儀人といふべけれ。関原の時は何れへもつかず。国に蟄し両端を抱きしゆへ。其儘にも捨置がたく移封せしめしなり。はじめより我方に属し忠勤を抽んでむには。本領はそのまゝに遣し置べきに残りおほきことなり。とかく律儀はよけれども。あまり律儀すぎたるといふは。一工夫なくてはかなはざる事なりと仰有しとか。(駿河土産)
島津修理大夫義久入道龍伯は朝鮮初度の役に。豊臣太閤の命により肥前名護屋赴しが。再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに。君その年老て異域に渡らん事をあはれませ給ひ。さま/\〃申たまひ。入道はゆるされ。その弟の兵庫頭義弘を渡海せしめらる。これより入道御恩をかしこみ奉る事大方ならず。慶長四年その家臣伊集院源次郎忠真日向庄内の城にこもり島津に叛きしとき。入道家人にいひ付是を征せしめ。喜入大炊久正を使としてこのむね言上に及び。かつ庄内の地図を御覧に入れしかば。久正を御前にめし。地形の險易。人衆糧食の多少をつばらに御尋有し上にて。こは地利を得し敵なれば。俄に責落さむとせば。かへりて士卒あまた損ぜん。日を曠して糧の尽るをまたば。おのづから力つきて落去せむ。忠恒は少年の異なれば。血気にはやり急ぎ責落さんとすとも。入道堅く是を制して。兵衆を傷はざらむ様にせよと仰られしが。果して命の如くにして責取しとぞ。(寛永系図)
慶長四年九月重陽の佳儀として。坂城にまうのぼらせ給ひしが。城中には兼て異図あるよし群議まち/\なれば。本多中務少輔忠勝。井伊兵部少輔直政はじめ宗徒の人々十二人。いづれも用心して供奉せり。桜の門迄おはしませしは比。門衛の者。扈従のものおほしとてとがむれども聞入ず。増田右衛門尉長盛。長束大蔵大輔正家出迎て案内し奉る。井伊。本多等の十二人は御跡に附そひ。御使番の輩五人は玄関に伺公す。かくて奥方に通らせ給ひ。秀頼母子に対面したまひ。御盃ども出て。とり/\〃御賀詞をのべらる。この時かの十二人の者どもは次の間まで伺公し。其様儼然たれば。城中にもかねての相図相違して。敢て異議に及ばず還らせ給ふ折から。わざと厨所の方へ廻らせ給ひ。一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし。是は外になき珍らしき者なり。わが供の田舎者共にも見せ度と在て。酒井與七郎忠利をもて。御供の者悉く召よばれて見せしめられ。内玄関より静にまかでさせ給ひしなり。かゝる危疑の折といへども。いさゝか御平常にかはらせ給はず。人なき地をゆくがごとく御處置ありて。鎮静をもて騒擾を帖服せしめ給ひし御大度は。いとたうとく仰ぎ奉らるるにぞ。(慶長見聞書)

此巻は慶長元年大震の事をはじめ。伏見大坂の間騒擾の事どもをしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻九

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻九(全文)

慶長五年会津の上杉御追討の儀仰出されしころ。大坂の奉行人等いづれも。連署をもて御出馬を止め奉りけるは。近年東国打続き凶飢にして兵食もともしく。其上雪天にもさしかゝらば諸軍艱困すべし。当年はまづ思ひ止らせ給はず。加藤主計頭清正も山岡道阿彌に就て諌め奉る條件には。第一当時かしこくも内府の重任を御身に負せ給ひながら。御親征に出立せ給ふは。あまり軽忽の御挙動と世の人思ふべし。第二には今の御老体にて。長途の御旅行いとゆゝしき御大事なり。第三には御出陣ありし御跡にて。奉行人等景勝といひ合せ。東西よりは細川。福島。黒田。池田。藤堂等の人々に征討の事仰付られ。それにてもいまだ御心危くおぼしめさば。伊達政宗。最上義光。堀久太郎などそへ給はゞ。いとたやすく軍功を奏すべし。御親征はとゞまらせ給へとなり。君聞しめし。清正が申所はさる事ながら。われ弓馬の家に生れ。若年より戦場をもて家としぬるに。近年かゝる重任をうけ軍旅の事みな忘れ果ぬ。幸こたびの征討は老後の思ひ出なればいさましくおもふなり。東西に敵起りたるとも何程の事かあらん。心安く思はるべし。清正には軍略智勇天下にその倫なし。こたび伏見に在て禁闕を守護せしめたくは思へども。筑紫辺の事心許なくおもへば。いそぎ帰国あつて其用意せられよと仰下されしかば。清正それがしも諸将と共に。東国の御先鋒奉はらんとこひ奉れども御ゆるしなし。終に暇給はりて肥後国に下向しけるとぞ。(明良洪範)
上杉御追討に立せ給はんとて。大坂の西丸にて諸人謁見し奉りしに。渡辺半蔵守綱をめし。南蛮より舶来せし鳩胸の鎧に椎形の胄を賜ひ。汝年比忠勤を尽せしにより。殊更の思召もてこれを賜れば。この鎧着し一しほ若やぎて。こたびの御先仕れと有て。附属の足軽五十人まして百人になされ。御供命ぜられしとぞ。(貞享書上)
会津御追伐として下らせ給ふとて既に大坂を打立せたまひ。伏見の城に御とまりありけるに。六月十七日の夜のことにて。鳥居彦右衛門元忠御前にいでゝ何事やらん聞えあげける後に。今度當城の留守人数少にて。汝等一しほ苦労ならんと仰有けるに。彦右衛門申上けるは。恐ながら今度会津御進発は大切の御事なれば。御人数一騎も多く召連られてこそ然るべけれ。当城は本丸をそれがし守り。外郭を松平五左衛門近正に守らしめ給はゞ。両人にて事たるべしと申せば。そはいかゞと仰ありければ。元忠重て申けるは。今度御進発の御跡にて今日のごとく平穏ならんには。それがしに近正両人にて事たるべし。もし又世の変出来り。大軍にとりかこまるゝに於ては。近国に後詰せん味方はなし。たとへ此上五倍七倍の御人数を残し置せ給ふとも落城せんは疑なし。されば御用に立べき御人数を無益に留守させ。戦死せしめむこと勿体なく存ずる故。かくは申上るなりと申ければ。其後はとかうの仰もなく。其かみ駿河の今川のもとに人質として宮が崎におはしましける時。君は御十一。元忠は十三にて。艱苦を共になし給ひし事など仰出され。御物語に夜もふけたれば。明日は定て早く御進発有べし。短夜に候へばはや御寝遊ばされ候へと申ながら。先も申上し如く会津表御進発の後にて。上方筋別儀もなく候はゞかさねて見参すべし。もし又世の変も候はんには。これぞ今生の御暇乞にこそ候べけれとて。御前をまからんとせしが。老人長座して立兼し体を見そなはし。小姓に命じ手を引て退座せしめ給ひしが。其跡にて近臣等御側へ出て見奉れば。しきりに御袖にて御泪をのごはせおはしましけるとなり。(落穂集)
案に関原軍記に。元忠は御落泪まし/\けるを見て。井伊直政にむかひ。我君は御齢やう/\たけ給ひ御心臆し給ふにや。御少壮より駿遠三の合戦に険阻艱難を尽させ給ひ。今天下分めの御大事にいたり。御家人の身命をおしむべき時にあらず。それを我々が命を捨む事をいたましく思召は何事ぞや。われ/\如きが五百か千の命を捨む事。何のいたましき事あらんと大にのゝしりたりとしるしぬ。さる事もありしにや。
伏見を御立有て京極宰相高次が大津の居城に立よせ給らひ。高次昼の御膳を献ず。高次が内室(崇源院殿御姉)松の丸殿に始めて御対面あり。又高次が家人黒田伊予。佐々加賀。多賀越中。瀧野図書。山田三左衛門。同大炊。赤尾伊豆。安養寺聞齋。今井掃部。岡村新兵衛等をめし出され夫々名謁し奉る。其内に浅見藤兵衛といふ名は兼て聞召しらせ給ひ。かれは志津が嶽にてはなきやと宣へば。高次仰の如く以前柴田が方に仕へ候と申す。君かれがことは年頃聞及びし者なり。高次には元より士を愛せらるゝ故名ある者多く持れ。末頼もしき事かなとのたまへば。かの家の郎等ども承り伝へて。我等が事までかく御心にとめらるゝは。かしこき御事なりと思ひ。後に東西軍起りて高次籠城せし折も。諸人一しほ勇気を励ましけり。わづかの御一言にても。人心を興起し給ふ御事いとたうとし。(落穂集)
大津を立せられて江州石部に宿らせ給ふ。水口の城主長束大蔵大輔政家父子御旅館まで出迎へ。明日己が城中に於て御茶を献るべし。願くは御駕を停め給へと申す。君其志の程を謝せられ。御腰物を賜ひて政家をかへさる。其夜戌の刻ばかり密に告者のありて。俄に石部を御立ありて。水口をばまだ暁深く過させ給ひ。御跡より渡辺半蔵守綱を御使として水口に遣はされ。兼ては其居城に立よらせ給はんあらましなりしが。とみの事出来ていそぎ出立せ給ひぬ。いと残りおほくおぼしめすよし仰せ遣はさる。政家大に驚き。即ち守綱とともに追付奉り。井伊直政もていさゝか別心なきよしを聞え上しかば。御輿の側にめしてねもごろの仰あり。たゞ急事によて違約に及びしなり。いさゝか心にかくる事あるべからず。御帰陣の折は必ず立よらせ給ひ。目出度御茶をもこはせ給ふべしなどねもごろに宣へば。政家もかしこみて土山まで送り奉りしなり。この折しも石田三成は同国佐和山にありて。政家と牒し合せ。さまざま思ひまうけし事どもありしが。かく意表に出て神速に通御ありしゆへ。彼等が姦計はみな齟齬せしとなり。この時御供のものいづれも刀の下緒に火をくゝり付て通れと命ぜられしが。水口の土人是を見て。関東勢の鉄炮の数は。さて/\おびたゞしき事よとて皆驚愕せしとぞ。(関原大成、武徳安民記、武功雑記)
此度下らせ給ふ比の事なりしか。ある夜近臣等御側に伺公して御物語ありしに。此頃世上にて当家のうはさ何と申ぞと仰られしかば。米津清右衛門正勝さらに正体なしと申候。そのゆへは世にしる如く。東西に敵をうけておはします事なれば。大坂の奉行等が人質を取かため諸大名も引付給ひ。伏見の城にもおほくの御人数をこめられ候上にて。会津の御進発をいそがせ給ふは。さらに御正体は候はぬと申ものと我等も存奉ると。さもにが/\しく御顔を犯し。思召にさはれかしと申上けれども。さらにかはらせ給ふ御気しきもなかりしとぞ。」また東征の御道すがら軍事にはいさゝかも御心をとめさせられず。朝夕たゞ鷹の手当のみを事とし給ふ。本多忠勝かくては当家の破滅近きにありと申せば。いやとよ。わが此ごろうつけたる様に見ゆるは。かくせでかなはざればなり。まて/\今に汝等もよき事あらむと仰られしが。果して仰のごとく符号せしこそありがたけれ。(永日記、酒井家旧記)
駿府の城過させ給ふに。城主中村式部少輔一氏はこの頃膈を煩ひてあれば。此度東征の御供にも供奉かなはざるよし申て在城しける故。村越茂助直吉をもて一氏が病体を尋たまふ。一氏しきりに御立寄をこひ奉れば城内に入せたまひ。城代横田内膳が宅にて昼の御膳を奉る。一氏は歩行もかなはざれば人に負れながら。やう/\御前へいざり出て見え奉る。はじめのほどは一氏が病を申立て。御供を辞し申かと疑はせ給ひしが。此体を見そなはして実にも哀とおぼしめし。一氏が手を取せ給ひ。かくまでの事とは露しろしめさず。今さらおどろき思召よし。懇の上意ありて御涙をそゝぎ給ふ。一氏もなみだながし。この年頃御隣国をかためて毎度失儀に及びしは。全く主命のもだしがたき所本意にあらず。こたび病あつしきにより御供にもるゝ事。老後の口おしさ是に過ず。愚息一学いまだ幼稚なれば。舎弟彦右衛門一栄を御供に奉るよし申。なからむ後までの事を頼み奉る。今迄国境をかため抗衡の力を尽せしは。各其主のためにする所。いさゝか御こゝろにかけさせ給はず。一学が事は我かくてあらんほどは。心安かるべしとの仰を蒙り。そが家臣新村加兵衛。大藪新八郎。小倉忠右衛門三人を御家人になし申たきよしねぎければ御ゆるしあり。後に三人とも江州蒲生郡にて采地を賜ふ。かくて一氏には備前長光の御刀を下され。それより三枚橋の城にて一栄夕の御膳を奉り。一氏が病体とても出陣はかなふべからず。汝兄が陣代勤むべしとて信国の御刀を給ひ。これより供奉に列せしとぞ。(関原大成、東武談叢)
本願寺の光佐が。先妻の腹に設けし嫡子を光寿といふ。後妻の生みし次子を光照といへり。光佐が死せし後豊臣太閤その後妻が美婦の誉高きを聞及ばれ。めしよせて寵眷せられたるより。光照をもて光佐が嗣とし本願寺を継しめ。光寿をば早く隠居せしめ。真常院とて子院の住職となさしむ。光寿も我身犯せる罪もあらで面目をうしなひしを。君にも兼てさるまじき事とおぼしめしたり。さるに此度の戦の前に及び。光寿京を出て関東赴き。金川の御旅館にて見え奉り。愚僧が門徒の者ども美濃近江の間にあまた候へば。此度彼等に一揆を起させ。御味方をなさしめんと申せば。君その心ばへは奇特に思召せども。一揆の事はまづ無用にいたされ。御僧は是より江戸におもむきて滞留せらるゝとも。又は上方へかへらるゝとも。心まかせにせらるべしと仰られたり。」其頃黒田長政もまた一向門徒をして。上方に蜂起せしめむと勧め奉りしに。われ賊徒を誅するに。何とて法師の力をからんやとて聞せ給はず。」其後慶長七年光寿が事不便に思召。特更の御執奏にて光寿を門跡になぞらへ。別に東六条に伽藍を営建して。一刹を開かしめ給ひしかば。光寿は弥陀如来の弘慈も是には過じと。世にかしこき事と思ひ。これより此宗東西両派に別るゝ事とはなりしなり。(岩渕夜話)
下野国小山の駅に御陣をしへられ。景勝追討の御計略をめぐらさるゝ所に。伏見を守りし鳥居彦右衛門元忠が許より注進しけるは。近日石田治部少輔三成其居城佐和山を出て大坂に赴き。同意の諸大名を語らひあつめ。偏に当家を傾け参らせん結構とおぼえたり。さだめて近日此城に責寄るべし。城中の御家人みな志を一致にして。堅固に拒ぎ守れば御心安かるべしとなり。君聞しめし驚き給ひ。急に御使をもて。こたび従行の諸将を御本陣にめしよばれ。井伊。本多の両人もてかの注進状を見せしめ給ひ。三成事昨年以来の恥辱を雪がむとて異図を企て。諸大名をかたらふと見たり。景勝も定めて同意ならん。この事彼が心中より出しはいふまでもなけれど。秀頼が為とある上は各も其命に背かむ事かたし。ましていづれもの人質大坂にあれば。それをすてゝ家康にくみせられん事。我ながら心ぐるしく思ふなり。抑軍国の習にて。けふは味方と見えしも。あすは敵とならんことめづらしからず。されば今人々大坂にかへられんとも。家康など怨を挟むべき。速に是より引かへして大坂へ赴るべし。路次の煩いささかあるべからずと。辭をつくして仰らる。そのとき何れもとかうの御答もせざる内に。福島左衛門大夫正則一人進み出。内府の仰はさる事なれども此度の事全く三成が計より出て。天下を乱さんとするにまがひなし。人々はいかにもあれ。正則に於ては内府の御味方して。かの凶徒を誅戮せんと有ければ。黒田甲斐守長政傍より。左衛門大夫が申さるゝ如く。某等も今更凶徒に與せん所存かつて候はず。たゞ存亡を御当家とともにすべしと申ければ。其外一座の面々いづれもこの人々のごとく。御旗下に従ひ奉らんよし各誓書を奉りけり。」此事のはじめひそかに長政を御陣にめして。御密議あらむとせしに。長政とくに正則が陣所にゆきて。さま/\〃いひこしらへてのち。御陣に参りかくと申上ければ。御けしき殊にうるはしく。長政が忠誠にしてかつ才略あるを感賞し給ひけり。かかれば会議の時に及び正則一番に御請申し。その外の人々もみな御味方に属せしなり。(関原大成、藩翰譜)
上方の軍議已に一決しければ。景勝が押には結城三河守秀康主を残さるべしとおぼして。松平玄蕃允家清御使として。その旨仰遣はされしに。秀康主大にいかられ。上方の戦を打捨て此表に残りとゞまらん事思ひもよらず。たとひ父君の仰なりとも。此儀には従ひ奉りがたしとて。御家臣梶原美濃守。原隼人両人を玄蕃允にさしそへて御本陣に参らせ給ひ。上方出陣の事御願あり。君かの両人をめし。三河守が年若き心にはさこそ思はれんも理なれ。御直に仰聞らるべき旨あれば。いそぎ御本陣に参らせ給へとあつて。来らせ給へば。御対面の上にて仰けるは。此度上方の敵は何十万騎ありとも。みな烏合の勢にて何程の事かあらん。抑上杉が家は謙信入道より已来。弓矢取て天下に並ぶものなし。景勝又幼弱の昔より軍の中に生長して武名遠近にいちゞるし。今かれに向てたやすく軍せむ者あるべからず。さるをおことがかたきにとらんは。此うへなきめんぼくならずや。その上此度上方へむかふ人々。又はその家人の人質みな江戸にとゞめつれば。もし関東の守かたからずば。諸人の心もおのづから堅からずして勇気振ふべからず。彼是につけてもおことこの地にとゞめずしては。かなはざるなりと宣へば。守殿も終に領承し給ひければ。君も世に嬉しき御様にて御涙をながしたまひ。御みづから御きせなが一両取出したまひ。扨此鎧は家康がまだ若かりし頃より身に附て。一度も不覚を取たる覚えなし。父が佳例になぞらへ。今度奥方の大将承て。名を天下に揚たまへとて進らせ給へば。守殿も心とけて御心地よく御受したまひしとぞ。このとき本多佐渡守正信守殿の御側にすゝみより。よくも殿は御受申させ給ひたり。大殿をして一統の功を立させ給ふも。此御うけの御一言にて定まりぬ。天晴内府の御子にてましますぞとて。御膝をたゝき立て悦びしとぞ。」さて後に守殿にも軍の機要を仰示されしは。景勝もし打て上るとも。宇都宮の辺にて支給ふな。やり過して利根川をこしたりときゝなば。諸勢一度に押出し。その跡をつけしたはば。敵かならず取て還すべし。其時諸勢を下知して。一戦に雌雄を決し給へと仰られしとぞ。(武徳大成記、藩翰譜)
津田小平次秀政はじめ織田。豊臣両家に仕へ。この時君の御供して小山まで来りしが。上方の注進を聞せたまひ御けしきよからず。御側に伺公せし者も何といはむ様もなくて在しに。秀政進み出て。やがて上方の逆徒を誅伐し。安国寺が調度を没収せられんに。かれが珍蔵せる肩衝の茶入を賜はらば。是をもて朝夕茶事を専らにし。大平を楽まんといひ出しにより。御けしき直り。いかにも汝が願をかなへてとらせんと仰られしが。後御勝利に属しければ。兼て御ゆるしのごとく。かの茶入をば秀政に下されしとぞ。(家譜)
小山の御道すがら近臣に向て。われ麾を忘れたり。あれなる竹林に入て。串になるべき小竹を伐てこよと命ぜらるれば。切て奉りしに。帖紙をとり出給ひ。御鞍の前輪に当て切裂給ひ。竹にゆひ付て二振三振うちふり給ひ。景勝を切靡けんはこれにて足ぬべしと仰られ。後にまた還御のとき彼竹林を見そなはし。上方の敵を破らんは麾も無用なりとて打すて給ひけり。其折東西に大敵起りしかば。人心何となく恐れはゞかる様なれば。かゝること仰られて人心を鎮圧したまひしなるべし。(常山紀談)
小山より還御の折洪水にて。利根川の舟橋は全く会津に向により。諸軍の便よからしめん為にかけしなり。上方へむかふには無用なれば改架に及ばずと仰有て。小山と古河の間にある乙女川岸より御舟にめされ。西葛西につかせられ。江戸へ御帰城ありしかば。その迅速なるに感じ奉りしとぞ。(士談会稿、落穂集)
花房助兵衛職之といひしは。はじめ浮田黄門に仕へしが。かの家臣等が訴論の事により佐竹義宣に預られ。此度佐竹が方をのがれ出て御陣に参りければ。君こたび義宣石田にくみし打て出る事あるべからずと申す。さらば義宣かならず出まじといふ誓状を書て奉れと宣へば。職之承り。父子の間といへども人心は計りかたし。この儀は御ゆるし蒙らんとて書て進らせず。君近臣にむかはせられ。助兵衛は兼て聞及びし高名の者なるが。将器にあらずと仰けるを。一座にありあふ者。何ゆへかゝる事仰らるゝかとあやしみ思ひけり。」其後職之生涯落魄して終りぬ。後に人に語りしは。かの誓状を奉れと仰せられしは。全く三軍の心を安からしめむためなれば。書て奉りし後に。もし佐竹が打て出たりとも。何か苦しからん。さるを我心おさなくて。あまりかたくなにいなみて。誓書を奉らざりしこそ今さら遺憾なれ。名将の一言半句もおろそかには承るまじき事なりといひて。いとくひ思ふさまなりしとぞ。(志士清談)
案に。この職之後に大坂の役まで生ながらへ。松平左衛門督忠継が手に属し。肩輿に乗て出て拝せしかば。御けしきよく。さすが平日武辺を好むゆへ。老かゞまりても出陣せしは。大剛の者といふべしと御感あり。またその子の池上本門寺に喝食と成て居しを召出され。榊原康政が一族に准へ。榊原左衛門職直とて台徳院殿につけらる。一旦御けしきに違けれども。其武功をば忘れたまはざるゆへなり。
伏見の籠城に佐野肥後守忠成は。兼て後閤の女房たち阿茶の局などあづかり奉りて本丸に在しが。大坂の奉行等より申むねありしかば。かの人々を伴ひて城を出。大和路へて相知れる者の方二あづけ置。引還して鳥居。内藤等とおなじく討死す。此よし聞しめして。彼わが命をうけて女どもを預りたれば。それを守護してともかくも時宜に応じてよきに従ふべきを。いかなれば己が預かりし者をば人手に渡し。そが任にもあらざる籠城して戦死せしは。忠が忠に立ずおしき事なりと仰られけり。かゝるゆへにや死後にその禄三千石を收公せられ。子の主馬成職に俸米五百俵賜りけるとぞ。(続明良洪範、家譜)
小山より江戸へ還御あると直に。上方へ御出馬あらんと一同思ひ居たりしに。御陣触有し上にて廿日あまり御滞留なり。されどその間御家人へ命ぜられしは。何時によらず俄に御出陣あるべきも計らざれば。いづれも懈怠なく相守。御城の宿直に当りし節は。番所より直に御供せむ心組して上直せよと。その頭々よりいひ渡せしゆへ。いづれも草蛙路銭まで腰に付て宿直にいで。又二三日づゝ隔て番士を頭の宅へよびよせ。御供の用意油断なき様にいましめとなり。」其折は御玄関の前塀重門の内には新に鑓立を作らしめ。虎の皮の御長柄鑓を立ならべ。御書院の床の上には御馬印を立置れ。即時にも御出陣あるべき様にて在しとなり。(落穂集)
御出陣の前かた増上寺存応和尚御前にいでゝ。この度御出馬により。御領内の寺社にて怨敵退散の御祈祷命ぜられんかと伺ひしに。いづれの寺社がよけむと仰らる。鎌倉の八幡宮こそ第一なれと申す。此神はわが若年の頃より朝夕祈念すれば。今改めて祈祷に及ばず。幸ひ霊武の神なれば常陸の鹿島大明神。仏にては兼ての祈願寺に申付たれば。浅草の観世音しかるべしとて。両所へわきて祈誠懇丹を抽づべきよし。宮司別当へ仰下されぬ。こは鎌倉右幕下平家追討の節の旧躅を遂行せられしなりとぞ。」さて九月朔日より祈祷興行し一七日満願により。両所より使もて符録を奉りけるが。十四日の夕方に岡山の御陣までもて参りしに。その日は中村右馬の手の迫合にて御陣混擾しければ。明日奉らむとてひかへしが。十五日は早朝よりの大戦にてその暇なし。十六日の晩方藤川の台の御陣へ参りて捧ければ。御けしき大方ならず。已に御勝利の上は両人とも馳帰り。この後は怨敵退散の祈を止め。天下安全の精誠をぬきむづべしと仰下されしとぞ。(天元実記、落穂集)
先鋒の諸将海道打て馳上る内に。黒田長政には仰聞らるべき事のあれば立帰るべしと。奥平藤兵衛貞治もて仰遣はされ。藤沢のこなた厚木といふ所にて。藤兵衛追つき其由申せば。長政引還し其夜御前に出しに。福島左衛門が心なを計り難しと宣へば。長政承り。かれ元より石田治部と不和なれば。更に御疑あるべからず。もし別心も候はんには。長政いかにも異見を加へ御敵にはなし申まじ。其上にも聞ざらむには。それがし彼とさし違へんのみ。ともかうも正則が事は長政にまかせ給へと申せば。御けしきうるはしくて。長久手の戦にめされし歯朶の御胄に。鞍置る馬を長政に賜はりけりとぞ。(佼合雑記)
岐阜の城攻の検点として。安藤次右衛門定次を遣はされ。戦訖て定次江戸へ参り。上方の諸将岐阜を攻落し。合渡の戦にも打克しと申上しかば。合渡より呂久川までの間に討れし敵の死骸は。いづれの方へむかひて在しと尋給ふ。みな大垣の方に向て臥したりといふを聞せられ。さては味方追討せしに疑なしと仰られて。御けしきうるはしかりとなり。(古事談)

此巻は会津御追討に下らせたまひ。下野小山より江戸に還御ありしまでの事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻十

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻十(全文)

赤字は『吉原御免状』本文312、313p引用部分、『影武者徳川家康』本文28、29p引用部分。青字は紹介部分を表しています。

上方の逆徒御誅伐の御出陣九月朔日と仰出されしに。石川日向守家成朔日は西塞なれば。日をあらため給はんかと聞え上たりしに。西方ふさがらばわれゆきて是を開かん。何のはゞかる事かあらむとて御出馬ありしなり。この春奉りし年筮を占せられしに。習坎の初六を得させられしとか。其時前後に大敵を受けたまひし姿は。坎卦の爻の辞に云重険に陥とも申すべけれども。よく恐戒おはしませしゆへ。終に凶を転じて吉になされしならん。(武徳大成記、武辺咄聞書)
江戸を御首途の日外櫻田の御門にいたらせられしころ。濃州岐阜より井伊。本多の呈書来り。去る廿五日石田治部が手の者を福島正則が家人うちとりしとて。その首級入し桶品川まで到来せしよし注進あり。増上寺の門前にさし置べきよし命ぜられ。やがて御発駕あり。その比芝神明の社はいと小祠にて。本祠の前にわずかの拝殿あり。それへ渡御なりてかの首ども御覧じ。御門出の吉兆なりとて御けしき斜ならず。また増上寺へ立よらせ給へば住持の存応迎へ入奉り。本堂にて御拝あり。しばし御やすらひありて程なく立せられしぞ。(武徳大成記、大業広記)
此度の御出陣いとしのびやかにおはしまして。御旗もしぼらせ御旗印御馬印も目に立ぬ程にせられ。三島に着せらるゝと。御馬印は熱田へもてゆけと仰せて。奉行人もそはで。たゞ御小人ばかりにて御先へまかり立。大垣に着御ありて後はじめて旗幟などをして立て。いとおごそかに見えければ。上方勢はじめて目を驚かせしとぞ。(見聞集、卜斎記)
岐阜に御着陣ありしとき厚見郡西庄村亀甲山立政寺の住持。大なる柿を献りければ殊にめでさせたまひ。はや大垣が手に入たるはと仰られて。その柿をまきちらして近臣等に賜りければ。いづれもあらそひて給はりしとぞ。(天元記)
御進発の御道すがらさる僧をめして。汝今度の戦は勝敗いかにあらんと問せられしに。此僧答けるは。果して御負軍なるべしと申す。そのゆへいかにとなれば。大敵をたゞ一時に挫べしとの思召御表にあらはれ候。かくてはかならず御勝利あるべからずと申す。扨は何と思案してよかるべきにやと仰らるれば。願くは天下安泰に伐治め。万民塗炭の苦を免かれしめ。諸寺諸社の頽廃せしをも興隆せむと。大悲の御兜に忍辱の御鎧をめされ。たゞ天地神明のために逆賊を征討せしむ思召にさへましませば。御勝利疑あるべからずと御請せしかば。これ至極の理なりと感ぜさせ給ひ。この僧を戦場にめしぐせられ。敵味方の戦死の者どもを。ねむごろにとむらはしめられしとぞ。(新著聞集)
按に新著聞集に。関原の御道にて旅僧に行あひ給ひ。この説を尤と聞召軍陣にめし具せられしが。この僧後に増上寺の観智國師といふよししるせしは誤なり。源誉はこの時すでに増上寺の住職し。また関原御出陣に寺社祈祷の事など勤め奉りし事もあれば。その時の事誤伝せしなり。
水野六左衛門勝成は井伊。本多の指揮によりて。曾根村にありて大垣の敵の鎮圧としてありしが。岐阜に御着あるを承り諸将とおなじく待迎へ奉る。君勝成にむかはせられ。曾根は険要の地ときく。諸手の人夫をもて両三日のうちに。古城を改築せむ事なるべきやと尋給へば。勝成何ほど大勢にても中々五六日にはなりがたしと申す。さらば汝はこれまでのどとく曾根にかへり備へよと宣ふ。勝成某はじめ御出陣まで曾根にあらむと中書。兵部の両人に約しつれば。いま御着のうへは御旗下に候ひて。戦功をはげまさんといふ。君汝などは外々の者とかはり。とにかく我等の事第一におもふべきを。己が一箇の功をのみ立むと思ふは。汝には似つかはしからざる事かなと警め給ひしかば。勝成理に服してまた曾根に引返せしとぞ。」また坂崎出羽守成政戦の前かた御前にて。此度は某精力をつして戦功を抽むよし申上しかば懇の御謝詞あり。近臣等出羽がしれたる事申すに。あまり御優待に過たる御答かなといへば。あの様なる者には此様にいふて置がよしと仰られしとか。(落穂集、武功実録)
九月十三日岐阜につかせ給ひ。翌朝御出立ありて。御陣押の様を敵に見せまじとて。大垣の方をよきて長柄川。呂久川を渡りこし西の保山をへて。赤坂の後なる虚空蔵山と南禅寺山との間なる余池越を通らせ給ふとき。諸大名御途中まで出迎ひて謁し奉る。この時御輿のうちより南宮山につゞきし敵のさまを御覧じ。御輿の傾く程御頭を出され。御まだゝきもなく見めぐらしておはせしに。柳生又右衛門宗矩近よりて。此度御上意めでたし。いづれもこれにさぶらふと申せば。はじめて御心づかれ。おの/\太儀に思しめさる。明日は草々戦を始むべし。かならず勝利ならむと宣ひしとなん。」この時本多忠勝御輿によりて。筑前中納言秀秋御味方せむと黒田長政をもて申出。すでに人質も取かはしぬと申す。何と秀秋が返忠するとか。さらば戦はすでにかちたりと高らかに仰ければ。諸人これを承りてよろこび勇むことかぎりなし。」戦に及びて小西助右衛門正重(家譜助兵衛或は助大夫とす)。西尾伊兵衛正義両人を秀秋が備へし松尾山につかはされ。かの陣の體をうかゞはしめしにかへり来て。秀秋いかにも裏切すべき様なりと高声に申上ければ。その時は。かゝる事はひそかにいふべきものなれ。もしさなからむには。諸軍の気をくるゝものなりと仰ありしとなり。(黒田家譜、前橋聞書、古人物語)
十四日大垣城中よりこなたの御出陣の様を伺はしめんとて。浮田。石田の家人ばら株瀬川を渡りて刈田をすれば。中村一学忠一が手の者出合てこれを追退け。川を渡りこす様を御覧じ。あれ川切にをひとめはせずしてと仰らるるうちに。果して又敵に追返されければ。近臣にむかはせ給ひ。我等がいはぬ事か。あれを見候へとのたまひ。井伊兵部少輔直政。本多内記忠朝に仰付られ。諸勢を引上させ給ひしとなり。」この迫合に有馬玄蕃頭豊氏が家人稲次右近。敵方横山監物に組伏られし所を。右近が若党監物を引倒して己が主に監物が首をとらせける。かゝる所にまた何者か来りてその若党の首切てにげ去りぬ。後に御糺しあれば堀尾信濃守忠氏が家人の由なり。またく味方伐の事ゆへ右近その旨訴出しに聞召。何をいふぞ。かゝる打込の軍にはさる事もあるものぞ。その儘にてすて置と仰けり。」同じ時敵方に白しなへの指物させし者。幾度となく後殿して引き退きし様いかにも殊勝に見えければ。あの白しなへが武者振を見よと度々仰られしとぞ。これは石田がうちに林半助といひしものなりとぞ。(天元実記)
戦の前日諸軍の合詞をあらため給ひ。かねては山か麓か。麓か山かをといふを。山は山。麓は麓といふべしと仰出され又總軍の左の肩に角取紙を付られ。味方打なき様にすべしと命ぜられしとぞ。(落穂集)
十四日の夕方右筆関左馬之助をめして。明日軍果し後に関東へ遣はさるべき御書各状三通に。江戸留守の者への連状一通を認むべしと仰付られ。十六日藤川の御陣にて昨日の書状はと宣へば。左馬之助かねてしたゝめ置しを御覧に備ふ。あて所は三河守秀康主。伊達政宗。最上義光へ一通づゝ。江戸の御留守は本城新城ともに連名に認むべしとありて一通残りければ。左馬之助こは佐竹義宣が方へ遣はされんかと伺へば。いづかたへもつかぬものをと仰らる。左馬之助いづれへもつかずば猶更つかはさるるがよけむと申す。いや/\との仰にて。さて汝この状をかきしに今十五日と書きしはさる事なれど。巳の刻とまで前方より時刻をはかりてかきしは。いかなるゆへかと問はしめらるれば。左馬之助敵は大軍味方は小勢なれば。巳の刻より午の刻までにかたせ給はずかならず御負なるべし。さらば御書も不用なりとおもひて。かくはしるし侍りぬといへば御笑ありしとなり。この左馬之助元来善書のみにあらず。その才覚も御意にかなひければ。四百石賜はりて右筆の組頭のごとくにてありしが。後にまた加恩ありて使番になされしとぞ。(霊岩夜話)
十四日の晩がた黒田長政より。家臣毛屋主水をもて言上の旨あり。御前へめし出し御物語あり。敵は何ばかりあらむと問せ給ふ。主水御陣の縁のはしによりながら。某が見し所にては二三萬もあらむかとおもはるゝと申す。そはおもひの外の小勢かな。外々の者は十萬もあらむといふに。汝一人かく見つもりしはいかにとあれば。仰のごとく總勢は十萬餘もあらむなれども。實に敵を持し者はわづか二三萬にすぎじといふ。こは金吾。毛利の人々かねて御味方に参らむといふを内々伝へ聞てかく申せしゆへ。
君にも思召当らせ給へば殊に御けしきにて。御前にありし饅頭の折を主水に賜ふ。主水戴き御縁に腰をかけながら。饅頭を悉くくひつくしてまかでしなり。跡にて御側のものに。かれが本氏を尋置べきにと宣へば。毛屋主水と申す。いやとよ彼が毛屋を氏とせしは。越前の地名にてその本氏にあらず。毛屋にて軍功ありしゆへ。地名をもて氏とせしなりと仰せらる。末々の陪臣までの事をいかにして御心にとゞめられしとて。御強記の程を感じ奉れり。」またこの日の夜半ばかり福島正則より祖父江法斎を使に参らせ。敵勢こよひの中に大垣を出て。牧田海道をへて関原表へをし出す様に見え候。此方にも明日早天に戦をしかけ敵を切崩し候はむ。早々御馬を進め給へとなり。よて法斎をめし出し。正則が勧むるごとく御出馬あるべき旨仰聞られ。御湯漬めし上られ御用意をなさる。往年長久手にて三好秀次を切くづし給ひしこと語りいで給ひ。このたびも彼の大勢をどつと追崩してと仰られながら御馬にめさる。御胄はと申せば。いや/\との仰にて茶縮緬のほうろく頭巾をめして御出陣ありしなり。」この時御手水をめし御陣の縁へ出おはしまして。近臣等をめし呼れ。敵の陣どりし山々の篝火を指し給ひ。あれを見よおびたゞしき事にてはなきか。夜あけばかの敵どもを蹈ちらさむ。汝等も父や祖父のつらにくそをぬるなと仰ければ。いづれも御前を退き。只今の上意を承りては。血首を提て御覧に入るるか。さなくば我々が首を敵にとらるゝか二つの外はなしと。いよ/\奮励して勇気百倍せしとぞ。(落穂集)
十五日の朝勝山より関原へ御陣をすゝめらるゝとき。さて/\年がよりて骨の折る事よ。倅が居たらばこれほどにはあるまじ。内藤四郎左がこねば斥候に遣るべき者もなし。渥美源吾は居たらむよべとの上意にて。源吾勝吉まいりければ。敵の様見てこよと命ぜられしが。やがて馳かへり。今日の御軍かならず御勝利ならむ。早く御旗をすゝめ給へと申。先手のかたに鉄砲の音聞ゆるやと問せ給へば。誰もいまだ答せざりしに。年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが。殿よ戦はすでにはじまりしと見えたり。はやく御馬を出し給へといふ。汝何を知りてかさはいふぞ。すりさきまで鉄砲の聞えしが。今やみつれば。さだめて鎗合になりしならむと申す。さらば鬨の声をあげよと命ぜらるれば。いづれもその御挙動を感嘆するに。かのすりひとりは糞がにの飛だ程にもなしと悪言はくを。とがめもし給はでほゝゑませ給ひておはせしとぞ。」又辰刻ばかりに本多三弥正重御陣に参り。敵合遠し今少し御陣をすゝめ給へといふを聞せられ。口脇の黄なるほどにていはれざる事をと宣へば。三弥御次に退き。なんぼう口脇は黄なるにもせよ。遠さは遠しといひて居りしとなり。」又朝のほど霧深くして鉄砲の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乗廻しつゝ。御陣もいまだ定らざるに野々村四郎右衛門某あやまりて。君の御馬へ己が馬を乗かけしかばいからせ給ひ。御はかし引抜て切はらはせ給ふ。四郎右衛門はおどろきてはしりゆく。なほ御いかりやまで御側の居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐せ給へどもその身にはさはらず。これ全く一時の英気を発し給ふまでにて。後日に野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ。(古人物語、落穂集、卜斎記)
米津清右衛門正勝敵の首取来て小栗又一忠政に向ひ。我ははや高名せしといふ。忠政かねて清右衛門と中あしければ。汝がしらみ首とるならば。我は胄附の首取てみせむといふて先陣へ馳ゆく。清右衛門はかの首を御覧に入しかば。使番つとむる者は先手の様を見てはやく本陣に注進するが主役なり。首の一つや二つ取て何の用にか立とて警め給ひしなり。忠政はやがて胄附の首とり来て清右衛門に。これ見よ。汝になるほどの事が。我になるまぢきかといひて。その首をば路傍の谷川に捨てけり。」また大野修理亮治長は先年の事により佐竹が方に預けられしを。こたび御ゆるし得て御本陣に候せり。戦のはじめ先陣にゆきて敵の首とりて馳かへりしに。匠作これへと仰にてその功を慰労せられ。もはや先手にすゝむに及ばずと宣ひ。岡江雪とともに御本陣にありしとぞ。この折治長が得し首は誰とも知れざりしが。後にきけば浮田が家に高知七郎左衛門といふ者なるよし聞召。さほど名ある者としらば。我その折たしかに見て置べきにと宣へば。治長は首一つにて両度の御賞詞を蒙りしと。時の人みなうらやまぬものはなし。(落穂集、明良洪範)
この日辰刻に軍はじまり。午の刻におよびてもいまだ勝敗分れず。やゝもすれば味方追靡けらるゝ様なり。金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由うち/\聞えしがいまだその様も見えず。久留島孫兵衛某先手より御本陣に来り。金吾が旗色何ともうたがはし。もし異約せむもはかりがたしといへば。御けしき俄に変じ。しきりに御指をかませられ。扨はせがれめに欺かれたるかとの上意にて孫兵衛に。汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき。鉄砲を放て試みよと宣へば。孫兵衛組の同心をめしつれ山の麓より鉄砲うちかけしかば。筑前勢はじめて色めき立て麓へをし下せしとぞ。(天元実記)
この日の戦未刻ばかり全く御勝利に属しければ。藤川の台に御本陣をすへられ。御頭巾を脱せられて裏白といふ一枚張の御兜をめし。青竹を柄にして美濃紙にて張し麾を持しめ給ひ。勝て兜の緒をしむるとはこの時の事なりと仰られ。首実検の式を行はる。」諸将も追々御陣に馳参り。首級をさゝげて御覧に備へ御勝利を賀し奉る。」一番に黒田甲斐守長政御前に参りければ。御床机をはなれ長政が傍によらせられ。今日の勝利は偏に御辺が日比の精忠による所なり。何をもて其功に報ゆべき。わが子孫の末々まで黒田が家に対し粗略あるまじとて。長政が手を取ていたゞかせ給ひ。これは当座の引出物なりとてはかせ給ひし吉光の御短刀を長政が腰にさゝせ給ふ。」本多中務大輔は御前にありて諸将への御詞を伝ふ。」福島左衛門大夫正則進謁せしかば。今日の大功左衛門大夫をはじめ。その外の者どもいづれも其働目をおどかしぬと申せば。正則。忠勝が人数扱の様げに比類なしといへば。忠勝おもひの外の弱敵にて候といふ。君中務は今にはじめぬ事よと上意あり。」やがて下野守忠吉朝臣は手を負れ。布もて肘をつゝみ襟にかけて出で給ふ様を御覧じて。下野は手負ひたるかと宣へば。朝臣薄手にて候と答へ給ひながら座につかる。井伊兵部少輔直政も鉄砲疵を蒙り靱に手をかけ。忠吉朝臣に附そひ参り。忠吉朝臣の勳功の様を聞えあげ。逸物の鷹の子は皆逸物なりと稱譽し奉れば。そは上手の鷹匠がしゝあてよきゆへなりと宣ひ。汝が疵はいかにとて御懸硯をめしよせ。御膏薬を取出して御みづから直政が疵に付給ふ。直政かしこみ奉りていはく。今日某が手よりこのみて軍をはじめしにあらず。全く時分よくなりしゆへ。守殿と共に手始せしといへば。いたく御賞美あり。」其次に本多内記忠朝大太刀血にそみて。■元五六寸ばかり鞘にいらざるをさして御前に出るをみそなはして。忠朝若年なれども武勇のほど父祖に愧ずと宣ふ。」織田源五郎入道有楽は石田が家臣蒲生備中が首を堤げ来りしかば。有楽高名めされしなと仰あり。入道かしこまり。年寄に似合ざることゝ申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。入道が子河内守長孝も戸田武蔵守重政が胄の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覧あるに。いかゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の様して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。はじめてこの作の當家にさゝはる事をしり。御家の為にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を抜きてその鎗を散々に切折りしとぞ。」金吾秀秋は参陣遅々しければ。村越茂助直吉を遣はされてめし呼る。秀秋長臣二十人ばかりをしたがへて参り芝居に跪てあり。君御床机より下らせ給ひ。かねて懇誠を通ぜられしうへに。また今日の大功神妙の至なりと宣ふ。秀秋かたじけなきよしを申し。明日佐和山討手の大将をのぞみこふによて御ゆるしあり。」この時金吾が見参せし様を見て。後日に福島正則が黒田長政に語りしは。こたび内府勝利を得られしといへども。いまだ将軍にならせられしにもあらず。さるに秀秋黄門の身として芝の上に跪き手を束ねし様は。いかにも笑止にてはなきかといへば。長政さればよ。鷹と雉子の出合とおもへばすむ事よと笑ひながらいふ。正則こは御邊が贔屓のいひ様なれ。鷲と雉子ほども違はむかといひて笑てやみしとぞ。(武徳安民記、明良洪範、天元実記)
十五日の申刻より大雨降出し。車軸を流すごとくなれば。飯を炊く事ならず。御本陣より御使番馳まはり。諸陣に触しめられしは。かゝる時は飢にせまり生米を食ふものなり。されば腹中を損ずべし。米をよく/\水にひたし置。戌の刻に至り食すべしと仰諭されしかば。いづれも尊意のいたらぬくまなく。ゆきとゞかせらるゝを感じ奉れり。さるに不破の河水溢れ出て戦死の尸骸を押流し。水の色血にそみしかば。浸せし米もみな朱色に変ぜしとぞ。(落穂集)
朽木河内守元綱はこの日の夜に入り。細川忠興にたより御本陣に伺公し。元綱一旦敵方にくみせし罪は遁るゝ所なしといへども。脇坂中務少輔安治が陣に属し御味方の色をあらはしたり。あはれ御ゆるし蒙りて後日の忠功をはげまさしめむといふ。君聞召。其方などの如き小身者は。草の靡きといふものにて深く責るに及ばず。本領安堵これまでの如しと仰ければ。元綱も盛慮の寛洪なるに感じ。涙落して御前をまかでしとなん。(東遷基業)
金吾秀秋等佐和山の城責しとき。城中に籠りし津田喜太郎清幽といへるものは元御家人たりしをもて。船越五郎左衛門景直に命じ清幽を城外へ呼出し。三成すでに敗北しぬ。城中の者ども速に城を明て帰降すべし。清幽は一度御家にも召使はれしものなれば。厚く恩賞あらむとなり。清幽某すでに身を城将に委するからは。これにそむかんこと本意にあらず。仰はかしこけれどしたがひ奉ること叶はずと申切て城にかへり。三成が弟木工頭一成に告。一成いかゞせむと議すれば。清幽三成には徳川殿に敵対したまへども。君をばさまであしともおぼさず。いま三成と君の妻子をたすけられば。検使をうけて腹切給はんか。さらずば力の及ばむだけ防戦して討死せられんか。此二の外なしといふ。一成さらば最初の議にしたがはむとて。明日城を渡し奉らむにより。村越茂助を検使に給はれといひ出しが。其うちに城中に違心の徒ありて本丸に火を放ち。寄手俄に責入しかば。一成は清幽に後事を托して自殺す。清幽は脇坂中務少輔安治が家人村瀬忠兵衛と戦ひ。忠兵衛を捕へ。是を證として同僚十一人と同じくその場を切ぬけ。御陣にまいりそのよし申上れば。汝そのかみわが家人たりといへども。近日の挙動かくこそあるべけれとて。清幽父子をめし出し。同僚十一人は大坂におもむき秀頼につかへしめよとありて。大坂にて佐和山防戦の功をもてをの/\碌仕を得たり。清幽は後に尾張義直卿に属せしめらる。一とせ清洲御通行の折平岩親吉をめして。清幽はもと尾張の産にして。且二心なく誠実の者なれば。何事ぞあらむには一方の任をうちまかせても。あやうき事なしと仰られしかば。清幽も感涙をながし。終身御詞のかしこきを人々に物語けるとなん。(家譜)

この巻は関原御発向より御勝利の後までの事をしるす


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)














milk_btn_pagetop.png

東照宮御実紀附録巻十一

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻十一(全文)

関原の役に中納言殿は木曽路をへて。九月十三日大津の宿に御着あり。其日は御不豫とて御対面なし。あくる十四日御快然のよしにて。中納言殿はじめ奉り供奉の者までみな謁見す。中納言殿御遅参により。大事の戦に合せ給はざるよし謝し奉らせ給ふ。君の仰に。さきに参陣の期限申つかはせし使のもの。違言なきにしもあらざるべし。あながち心を労せらるゝに及ばず。およそ此度のごとき大戦は囲碁と同じ様のものなれ。枢要の石だにとり得ば。對手の方に何ばかり目を持し石ありともそが用にたゝぬものぞ。こたびの一戦にだにうちかたば。真田がごときの小身は何ほど城を持ち固めたりとも。遂には聞おぢして城を明て降参せんより外なし。此度供奉せし者の中に。かゝる事議せし者はなきかと尋給へば。中納言殿。戸田左門一西こそ上田表にてかゝる事申出せしとて。つばらに仰上させ給へば。供奉の人々の方を御覧じ左門と召されしに。一西聞得ざりしかば。中納言殿御声高にてめし呼る。一西おどろきて御前へ出しに。御菓子を両の御手にてすくはせ給ひて下され。汝は小身にて口がきかれざるな。やがて口のきかるゝ様にしてとらせむと宣へば。一西あまりのかしこさにいまだ御請もせざるうちに。中納言殿御側より御懇の仰を蒙り。かたじけなきよし御執謝あり。これまで一西は武州鯨井にて五千石下されしが。明くる慶長六年江州膳所の城をあづけ給ひ三萬石になされしなり。その時本多正信をめして。こたび膳所の城新築ありしが。この所王城に近くして枢要の地なり。誰に守しめむと問せたまへば。正信しばし思案して。戸田左門一西こそ武勇もすぐれ且天性誠実なれば。これに過たるはあらじと申せしにより一西に定まりしとぞ。(天元実記、明良洪範)
加賀中納言利長は北國を切したがへ大津の御陣へ馳参り土方勘兵衛雄久と共に謁し奉る。君御けしき斜ならでその功労を賞せらる。」利長。此度丹羽宰相長重はじめ逆徒にくみせしといへども。先非をくひ某に就て降謝をこひ奉るうちに。関原の戦すでに御勝利に属しぬれば。今更忠功を励むべき便なし。あはれ願くは一旦の斜をば御ゆるしありて。後効を勤めしめむといへば。御邊が請るゝ所は何事も申すまゝたるべけれど。この事にをいてはかなひがたし。抑宰相が亡父長秀死期の様武士の本意にあらずとて。故太閤のいかり大方ならず。すでにその所領をも没収せられむとありしに。われ長秀とかね/\〃親好あるをもて不便に思ひ。かれこれといひなだめて本領安堵せしのみならず。長重また官位までも昇進せしはみなわが舊恩ならずや。さるを忘却して賊徒にくみし。剰御邊と干戈に及びし事死刑にも處すべき者なりと宣へば。利長なほ又さま/\〃言を尽して陳謝し。中納言殿も御傍より御解説ありしかばからうじて御ゆるしあり。利長のかくまでこはるれば。まげて長重が一命をばゆるしつかはすにより。小松の城を明て利長に引渡し。何地へなりとも立退べしとて。雄久をもて長重が方へ仰遣さる。」利長また越前北の庄の城主青木紀伊守一矩も同じく御ゆるし蒙らむとこひ奉れば。かゝる族は外々にもあるべし。城だに明退ば一命をばゆるし遣すべしと仰られしとなり。(天元実記)
石田治部少輔三成。大谷刑部少輔吉隆二人が行衛しれざれば。田中兵部大輔吉政に命じ追捕せしめらる。この時三成はなみ/\の者にあらざれば。けふ落人となりても。明日は又いかなる企せむもはかりがたし。しかるを田中一人に捜捕せしめらるゝはいかなることにかと私議するものあり。いくほどなくて吉政石田を捕へ出て進らせぬ。その時の仰に。田中はかねて治部と中がよかりしゆへ。いささか嫌疑なきにしもあらざりしが。此度の功によてわが疑ははれたりと仰ければ。諸人はじめて盛慮の深遠なるを感じ。もし此度吉政石田をとらへ得ざらむには。その身いかにあやうかりなむといひ合りしとぞ。(武功雑記)
石田三成をとらへ来りし時その状をたづね給へば。三成関原の戦敗て後伊吹山に逃入り草津の駅に出しが。天運のつくる所にて。折しも腹病を煩ひ出し。詮方なくて身を樵夫にやつし弊衣を着し。腰に鎌を挟みかくれ居りし處を捕たりといふ。御前伺公の徒。かゝる大逆を企る者が。死をおしむことのうたてさよと口々にいへば。聞召て。おほよそ人は身を全してこそ何事も遂るものなれ。大望をおもひたつ身にては一日の命も大事なり。未練といふにあらず。早く衣類をあたへ。食事なども喰るゝ様にして進めよ。もし病気ならば医者にも見せしめ。よく扶助してよろず不自由ならざらむ様にはからへよとて。父の仇なれば鳥居彦左衛門元忠が子久五郎成次にあづけらる。成次仰の如くねむごろにいたはりしゆへ。さすがの三成も涙流してその厚意を感ず。数日へて成次見え奉り尊意の辱きを謝し。且亡父元忠が一命を奉りしは全く君の御為なれば。あへて三成が所為とも思ひ侍らず。元より私の遺恨あるべきにあらず。さりながら三成は天下の御敵なれば。餘人にめしあずけられむかと申上げしに。御感ありて本多上野介正純にあずけられしとぞ。(岩淵夜話、鳥居家譜)
十九日御上京の御道すがら。何者ともしれず黒き具足を着。鹿毛の馬に乗り。金のさいづちの指物さして御路の先を行者あり。其あはひ十町ばかりもへだてり。供奉の者は心付ず。さだめて大名の使番にてもあらむかといふ。君にははるかに御覧じとめられ。あらためよと宣ひて速に物色せしに。敵方の落人なれば。成敗せよとありて。路傍にて切捨にせしとなり。(明良洪範)
浮田黄門秀家は戦負て後伊吹山へにげ入り。家人進藤三左衛門正次といふ者たゞ一人附従へり。正次秀家にいふやうは。日ごろ君が御身に附られし鳥飼國次の脇差は衆人の知る所なれば。これを某にたまはらば。某徳川殿に参りはからはん様あり。御身はいかにもこの地を遁れ。薩摩が陣に参り。某主の秀家を手にかけ。その死骸をば深くうづめ。差料の鳥飼國次の脇差を持参したりと申せば。忠勝何ゆへ検使をうけずして。ひそかに秀家が尸をうづめしといへば。正次厚恩の主なれば。たとひ手にかくるとも。いかで其首敵に渡し梟木にかけむや。抑此脇差は秀家が常に愛して身をもはなさゞりしことは。内府公にも知しめせば。御覧にいれ給はれといふ。忠勝これを御覧に入れしに紛ふべくもあらず。かれ秀家を害せずばよも當家に降ることはあるまじとて御家人に召加へらる。其頃人々。主を害して己が功にせむとす。後にはいかなる御誅伐にあはむもはかりがたしと囁きけり。」さて秀家は虎口をまぬかれ。からうじて薩摩へ下りけるが。後にそのよし聞え。かの國に仰ごと下り秀家をめしよばる。よて正次承り。いかにもはじめは秀家を遁さしめむとて詐言を申せしなり。主の為にこの身を失はむは元より期したる所なれば。この上はいかなる重科にも處し給はれといふ。この旨聞召。己が一命をすてゝ主をすくはむとせしは。あつぱれ忠義の者かなと御賞詞ありて。ありし月俸をそのまゝ賜はりたり。秀家が八丈島へ遠流せられし後も舊恩を忘れず。しばしば海船の便に米金を送るよし聞えしかば。これも御感にあづかり采邑五百石賜はりしとなん。(武家閑談、寛永系圖)
按ずるに家譜には。初正次秀家に従ふこと三日にして。その後は行衛を知らずといひ。又仰により関原の邊にゆき國次の刀を求め出て獻り。後に秀家薩州にあると聞えてめしよせられ。正次が事を御糺しあれば。かれ秀家にしたがふこと五十日あまりなりといふ。しかるを三日といひしは。全く主のためをおもひ。詐言をいひてその期を延せしは。げに忠臣といふべしとて御感ありしとなり。おほかた本文とおなじ様にして。いさゝか異なり。こゝに附記して一説に備ふるのみ。
大津の城巡視ありしに山岡道阿弥御供にありて。此度京極高次上方の大敵を引うけ。数日の防戦感ずるに堪へたり。たゞ一日を持かゝへずして明退しは。近頃残多き事なりと申せば。何と仰らるゝ旨もなく。たゞ奥平九八が長篠籠城の折は此様の事にてはなし。戦終て後見たりしに。壁は土をふり落して籠の如く。戸板は鉛丸にうちぬかれて障子の如くなるを。筵畳をたてかさねなどして持こらへたるはと御物語ありしとなり。(太平雑話)
本多佐渡守正信。中納言殿の御供して。二条の御城にて謁し奉りし時。石田三成が息。妙心寺のうち寿牲院が弟子になりて。すでに幼年より釋徒にもなりてある事なればゆるし給はれと。かの住持はじめ一山の僧供願ふよし。御物語あれば。正信承り。それは早く御許あるべし。三成は當家へ対し奉りてはよき奉公せし者なれば。そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも。何のさゝはりかあえあむと申す。君三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば。正信さむ候。こたび三成妄意にかゝる事企てずば御勝にもならず。當家一統の御代にもなるまじ。さすれば治部は當家への大忠臣と存ずれといへばほゝゑませ給ひ。おかくずもいへばいはるゝものとの御戯言ありしとぞ。(霊岩夜話)
按ずるに。此石田が子の僧。其願のまゝ助命ありて。後には済院和尚といひて泉州岸和田に居しが。年老て後は岡部美濃守宣勝ゆへありて。よく扶助して終りをとりしとなり。
関原の役すでに終て大久保治部大輔忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉の人々をめし。我男子あまたもてるが。いづれにか家國を譲るべき。汝等おもふ所をつゝまず申せとの仰なり。正信は三河守殿こそ元よりの御長子といひ。智略武勇も兼備はり給へば。此殿こそまさしく監國にそなはらせ給ふべけれと申す。直政は下野守忠吉卿然るべしといひてやまず。其外もまち/\にして一決せず。忠隣一人争乱の時にあたりてこそ武勇をもて主とすれ。天下を平治し給はんには文徳にあらでは大業守成の功を保ち給はんことかたし。中納言殿には第一御孝心深く。謙遜恭検の御徳を御身に負せられ。文武ともに兼ね備らせたまへば天意人望の帰する所此君の上にあるべしとも思はれずと申し其日はそのまゝ何とも御沙汰なくして各退去せしめられしが。一両日過て先の人々をめし。忠隣が申す所吾が意にかなへりとて。遂に御議定ありしとかいひ伝へし。」抑中納言殿年頃儲位におはし。御官途も外々の公達より進ませ給ひ。すでに関東へ御遷ありし時。諸臣及寺社等へなし下されし御書は。皆中納言殿の御署状なれば。儲位の定まらせ給ひしはいふまでもなく。その比より既に御位をも譲らせ給はむ尊虜にてありしなれば。この時に臨みかゝる異議おはしまさんにもあらねど。関原御凱旋天下一統のはじめなれば。なほ群臣人望の帰する所をこゝろみ給ひしものなるべしと恐察し奉る事なれ。(無徳大成記、烈祖成績)
この戦終て後しばし大坂の西丸におはしまし。井伊。本多。榊原の人々して此度諸将の勤怠を明にせしめ。天下の機務を議せしめられ。本多上野介正純して訴訟のことを司らしむ。又この人々を中納言殿御方に進らせ。此度の闕國もて有効の者に宛行れむとす。さるにてもまづ御居城をばいづくに定め給はむか。江戸をもて其所となされむかと御意見を訪はしめ給ふ。中納言殿御答には。某年若くして何のわきまへか候べき。天下を経理せむにさりぬべき所をもて御居城と定め給ふべきか。しかればいづれも盛慮にまかせらるべしとなり。よて遂に江戸をもて御本城となし。秀頼をば大坂に居らしめ。摂津河内の両国を授けられぬ。」其比老臣等申上るには。こたび逆徒等秀頼が名を借て大乱を起せしも。全く坂城の険要をたのめばなり。このまゝさし置れば。後々とても同じ姦計おもひ立もの。出来むもはかりがたしと申せば。君秀頼元より幼穉にして何事をかしらむ。さるを今當城を追のけて他所に引うつさば。天下にをいて利ありとも。われ何ぞこれをなすにしのびむや。とてきかせ給はず。片桐市正且元をもて秀頼が輔導たらしむ。かくてぞみなその公平仁慈置に感服して。天下一同安心せしとぞ。(武徳大成記)
福島左衛門大夫正則は此度の大功により。安芸備後の両国を賜はり。はじめて襲封を謝し謁見せし時。家長三人も謁をゆるさる。第一備後神邊の城主福島丹波は。片足なへて進退思ふ様ならず。第二同國三好の城主尾関石見は兎缺なり。第三同國本條の城主長尾隼人は一眼なり。(一説隼人は長みじかく耳遠くて。左手きかずといへり)いづれも片輪なれば御側に侍せし者思はずに咲出ぬ。謁見終りて後御気色あしく。汝等かの三人の不成なるを見て咲たるな。おほよそ人はいつの時いかなる働して片輪にならむもはかり難し。かの三人は武勇の誉高き者共なれば。正則が家にても追々に家長にまで取立られ。家康が目通にも出るとあるは。なんでう栄耀着のことならずや。されば汝等が卒心には彼等にあやかり度と思ふべきなり。さるまことの心付なきゆへ咲も出るなれ。惣じて武士は生れ付ぬ片輪になるものよと覚悟をきはめねば。武功はなし得ざるものなれ。我心には彼等をば。汝ごとき若者には煎じても飲せたく思ふなりと御教諭ありしかば。人々何事に付けても尊諭のかたじけなきことゝ。かたみに感じ思へりとぞ。(岩淵夜話、校合雑記)
土方勘兵衛雄久。大野修理亮治長の両人も本領安堵を命ぜらる。この両人は先年大坂の奉行等が内意をうけて君を害し奉らむとはかりし者どもなれば。此度そが一命をたすけらるゝだにあるを。本領安堵とはあまり寛典に過たりと申者ありしに。いやとよ。かの両人奉行の指揮をうけて。家康をだに害せば。秀頼がために忠臣といふべし。まして今度修理は浅野幸長に属して岐阜の城をも攻め。又関原の戦にはわが本陣に伺公して。石田が備へ矢の一すぢも射かけ度と幸長もてこひ出。敵方に名ある者をうちとり。頗る忠勤を抽でぬ。雄久も小山より我使を奉りて北國に赴き。前田利長と共に諸事を相議し。わが為に馳廻り。一かどの微功なきにあらず。古人の舊悪を思はずとこそいひしに。ましてかの両人の所為秀頼が為を思ひしなれば。舊悪といふにもあらず。かた/\〃その功を賞すべきことなりと仰られき。」漢の高祖が丁公を誅して雍歯を賞せし故事よりも。なほ寛宥の御所為ははるかにまさらせ給ふと。人みな仰服し奉りしなり。(岩淵夜話)
浅野左京大夫幸長は此度の戦功によて。甲斐の國を轉じて紀伊國三十八萬石に封ぜらる。就封のゝち後藤庄三郎光次暇給はりて。熊野祠へ参詣して還り謁せし時。汝は熊野のかへさに幸長が許へも尋ねしや。幸長何をもて汝をもてなせしと問はせ給へば。さむ候。幸長紀伊河と申す所へ舟行せし供に参り。網引き魚など捕なぐさめ申し候。又山狩鷹狩に出し折も参りしが。これはいと目ざましき見物にて候ひき。それにつきたゞ某が思慮の及ばぬ事の候。始めの度は雉子山鳥あるはむじなの獲物多かりしかば。さだめて歓喜ならむと思ひしに。其日はさむ/\〃腹立て。勢子奉行はじめすべて役懸の者みな勘事に逢ぬ。次の度は何の獲物もなければ。さだめて不興ならむと存ぜしに。おもひの外心地よげにて。諸役人殊に出精せしとて。慰労の余それ/\〃に賜物とらせぬ。これぞ今に考へ得ぬ事にて侍れと申ければ聞召。汝等が思慮には及ばぬ筈なり。幸長が所為は真の鷹山にて。物数の多少による事にてなしと仰られしとぞ。(駿河土産)
慶長五年二月廿八日今上(後陽成院)第二の皇子政仁(後水尾院)親王宣下あり。御母は近衛信尹公の女なり。帝かねて御寵愛まし/\て御位を譲り給はむとおぼす。しかるに是よりさき中山大納言親綱卿の女の腹に生れさせたまひし第一の皇子良仁(後仁和寺覚深法親王)を。親綱徳善院法印玄以と相議し。豊臣太閤にこひて菊亭右府晴季公もて奏聞し。先立て親王宣下ありしにより。ひきこして政仁を坊に立給はむこともはゞかり思召けるが。このころに至りその事内々仰せ進らせられ。御内慮をはからせ給ひしに。君もかねて良仁を親王にせられし事よしとも思召されねば。御答の趣には。子を知るは父にしくはなしといふは古今の通義にて侍れ。臣も亦男子多くもてり。何れをもて嗣子とせむも臣が思ふ所にありて。他人の議すべきにあらざれば。朝家においても一二の皇子いづれをもて皇嗣に定め給はむも。みな叡慮にこそまかせらるねけれ。但し第二の皇子は槐門のよせ重くおはしませば。坊に居給はん事しからむかと御奏聞ありしにより。天感なゝめならずして。遂にその議に決せられしとぞ。(武徳大成記)
関原の御一戦に上方の凶徒すでに天誅に伏し。四海一統して當家の御威徳を仰ざる者なし。然るに年へてもいまだ将軍宣下の御沙汰なければ。内よりも御けしき給はり。諸大名の中よりもより/\いひ出しものもありしとか。其比藤堂和泉守高虎。金地院崇伝侍話の折から何となくこの事いひ出。世にははや将軍宣下の慶賀聞えあげむなどいふよし申しければ。君聞かせ給ひ。さる方の事はいそがぬ事ぞ。只今さし當りては天下の制度をたて。萬民を撫育して安泰ならしめむこそ急務なれ。まして諸大名どもゝ國替所替等にて。いづれも多事なるに。我一人己が私をはかるにいとまあらむやとて。御心にもかけ給はぬ御様なれば。両人も御謙徳の厚きに恐感して退きしとなん。(落穂集追加)
慶長六年十月伏見を御立ありて。あくる十三日江州佐和山に着御あり。城主井伊兵部少輔直政は頭役の者ども引つれ。中門番所に出てまちむかへ奉る。御輿ちかくなればいづれも平伏してあるに。足軽の中に一人首をもたげて。何事やらん聞えあげたり。通御の後直政は頭役の者糺聞せしに。その足軽すゝみ出て。御糺しまでも候はず某にて候。年久しく見え奉らざれば。久々にて御目に懸るといひしのみなりと申す。頭役いよ/\驚愕し。これ全く狂人の所為なれ。いかゞせむとて同僚と相議してある所へ。本丸より中門の番頭よびに来れば。さはこのことならむと思ひ。そのものゝ腰刀もぎりとり番人附て警めよといひ捨て馳ゆきしに。直政さきに通御の折から。上へ向ひ。御久敷と申上げし者のあるを承らずやといへば。さん候。しかじかのよしにてその者いましめ置きぬといふ。直政いやさる事にあらず。その者に知行あたへよとの上意なれば。新知百石申付るなり。番ゆるして家に帰らしめよとあれば。番頭は思ひの外にてまづ安心し。立ち返りてその事申渡す。直政かさねて御前へ出でしに。かの足軽には何ほど知行とらせしと御尋あれば。百石遣はしぬといふ。君御頭をかゝせられ。よく/\役にたゝぬやつならむと仰られしとぞ。」この足軽は直政がいまだ年若くて御小姓勤め。寵眷ふかゝりしころ。御庭ちかき邊に直政が家居作らしめ折々渡御ありし時。この者も直政に給事して御前へも出でしゆへ。上にも御見覚ありて。こたびその舊故をおぼしめし出て。かくは仰下されしなり。(天元実記)
慶長六年十二月関西の諸大名に課して京二條を営築せしむ。その折城溝の狭きにより二間堀広げしむ。池田三左衛門輝政。加藤左馬助嘉明等は今少し広くせむと申上げしに。いやこれにてたれり。もし世変出来てこの城せめ囲るるとも。しばしがほどはもちかゝゆべし。そのうちには近畿の城々より後詰も来り。とかうするうちには江戸より大勢はせ上るべし。さらばせばきと思ふがよし。萬一敵にせめとられし時。味方より取返さむにも便よし。功力をついやすに及ばずと仰られぬ。」又ある時の仰に。堀は幅をせばくほり。下には鎗を振廻さるゝほどにするがよし。又城の方をなぞへにむかひを急にすべし。水のある堀もせばくて船の自由にならぬほどがよし。寄手へ鉄砲のちかくあたるもよし。江戸の西丸の外堀は広くほり過ぎたりとて。其ころ御不興なりしとかいひ伝へし。(古人物語)
二條にて御物語の次。當時天下には加藤肥後守清正に及ぶ者はあるまじと宣ふを。折しも本多佐渡守正信空眠して居しが目を見開き。殿は誰が事をほめ給ふかといへば。加藤肥後がことよと宣ふ。そは太閤が時に虎之助といひし小倅が事かと申せば。肥後が事を知らぬ者やると仰せらる。正信某年老いて物忘れすることのうたてさよ。されど殿は信玄。謙信始め数多の名人の上を御覧じつくされし御目にて。加藤などのことほめ給ふはいかにぞや。さるにても加藤が為には上なき名誉なれといへば。肥後が事はわれよくしけれり。當時西國のことまかせ置ぬれば心安けれども。かれには一つの疵あればひたぶるにたのみがたしと宣ふ。正信何事にて侍るかと申せば。物にあやうきこゝろあり。今少し心落付ば實に立並ぶものはあるまじと宣ふ。正信上意の如くあやうきこゝろありて。剛気に過しは大なる疵なれ。武田勝頼もかゝる癖ありしゆへ。遂には國をも失ひしなれ。おしむべし/\〃といふ。折しも末座に京の商人など陪して承り居しが。後に清正に告げ知らせければ。清正さては君には我を心あやうきものとおぼすよと心付て。これより物ごと慎密にして持重になりしとなり。」後年正信が子上野介正純この事を父にとひければ。正信こは實に清正をほめ給ふにあらず。そのころ當家草創の比なれば。彼もし鎮西の人々にすゝめて。秀頼に與黨せしむるならばゆゝしき大事なれ。彼のあやうき心なくばと仰せられし御一言を承りしより。彼何となくおもりかになりて。生涯過誤なくて果てしなり。これ君の御智略の深遠にして。凡慮のはかり知るべきにあらず。それをたゞそのことゝのみ思ひて我にとふは。汝が智慮の浅きとやいはむ。其心にては天下の機務をとる事がなるものか。よく/\工夫せよと諭しけるとぞ。」又正信後には清正としたしくなりしに。ある時正信内意をうけて清正に諷諭せし事三箇條あり。第一は當時西國の諸大名みな浪華に着岸すると直に。駿河。江戸に参観する事なるに。清正はいつも大坂に数日とゞまり。秀頼の起居を候してのち東國へ参観す。それにも及ぶまじ。第二は近頃諸大名参観の折。従兵も昔よりは減少せしに。清正は以前にかはらず多勢を召具するは目立ちていかゞなり。第三には當時清正が様に面に髭多く生し置くものなし。謁見の折など異様に見ゆれば。これも剃落さればいかにとなり。清正きゝて。この三條御邊の詞をまつにも及ばず。某もかねて心づき。世の譏評にもならむかと思ひつるが。さりとて又改めかぬる事どもなり。御邊も知らるゝ如く。某はじめは故太閤の抜擢によりて肥後半國を賜り。當家になりて小西が舊領をまし賜はり。一國の主となりしは。當家の御恩はいふまでもなけれど。そのかみ舊恩うけし太閤の御子のおはす所をよそに見て。空しく通らむは武士の本意にあらざれば。今さらこの事やめがたし。次に参観の陪従を減ぜば。費用も省き家臣もよろこぶべき事なれども。西國の大名常は在國して。御用の折のみ召るるならばともありなむ。近頃の如く交代して参観するからは。何ぞ臨時に御用仰付られむもはかり難し。さらむには領國遥に隔たりて。國許の人めしよばんに急遽には来らず。すこしなりとも當地に有合ものどもにて御用を辮ぜむ為に。餘人よりは多くめしつるゝなれば。これまた減じがたし。三つには頬髭すり落さば我もさぞ心すゞしくなりなむと思へども。年若きよりこの髭に頬當をし甲の緒をしむるに。その心地よさいふばかりなし。今かゝる御治世に出逢ても。心よさの忘れがたさに。思ひ切て剃り落しがたし。御邊が懇志もていはるゝ事を。一條も承引ぬとありてはいかゞなれど。今も申すごとくなればよく聞き分けて。あしからず思はれよといひしかば。正信思ひの外にてその旨言上せしに。清正がいひごとかとばかりにて咲はせられしとなん。(駿河土産)
慶長十年台徳院より浅野弾正少弼長政に。常州真壁にて五萬石。江州愛知川にて五千石下されけるを。長政あながちに辞し奉れば。長政を召して。此度の賜地を辞するは汝が一代の不思案なり。嫡子紀伊守こそ大國を賜はりてあれども。右兵衛。采女の両人もあるに。いらざる謙退ぶりかな。将軍よりくるゝとあらば。なに程も貰ひ置て。子孫の為にせよと上意ありしによて。其明日御請を申上しとなり。(天元實記)

この巻は関原御勝利の後慶長十年ごろまでの事をしるす。


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)

巻十二

徳川実紀

東照宮御実紀附録巻十二(全文)

慶長十年四月征夷の職御与奪ありて将軍家は江戸におはしまし。君には駿府の古城を御修理ありて御居城とせられ大呉ワ苡鰍ニ称し奉る。」その頃皆朱玳瑁の鑓は。殊さら武功の者ならでは持しめまじき由仰出されしに。此度修理奉る細川越中守忠興が丁場のうちに。皆朱の鑓持せしもの。菖蒲皮の立付をはきて。下吏三十人ばかりめしつれて指揮するものあり。目付の輩みとがめて其名をとふに。細川がうちに沢村大学なりと答ふ。よてその事聞えあげしに。その沢村は若き折は才八といひて。小牧の役に太閤二重堀に砦をかまへ。あまた人を籠置しに。われ長久手の戦にうち勝ちしかば。太閤も二重堀たもつ事ならで退かむとしけれども。もしわが小牧より追討む事をおそれ。みづから数万の兵もて青塚といふ所にそなへ。二重堀時に明けのくを。織田信雄追うちして彼軍敗北せし時。細川越中一人後殿して信雄が軍と戦ふ。その時この沢村一番に鑓を合せしを。われまのあたりに見及たり。かゝる剛勇の者に皆朱玳瑁の鑓は持しめむがためにこそ。なみ/\の者には禁ずべしと令したるなりとの仰により。大学は大に面目を施し。かしこさ身にあまり感泣せしとぞ。(天元実記)
御隠退の前かた将軍家へ仰進らせられしは。小身の旗士へはわきて目をかけてめしつかはるべき事なり。同じ大名といふうちにも。三河以来の譜代より抜擢せられ。万石につらなりし者は。当家と興亡を共にすれども。外様国持の輩にいたりては。各そが家を大事と思ふからは。時にしたがひ勢につき。たゞ家名の長く存せむことをもて主とするは古今の常態なれば。これまたふかくせむるにたらずと宣ひしとど。(駿河土産)
駿府へ移らせ給ひし年の十月江戸へおはして。これまで江戸の西城に貯へ置れし黄金三万枚。銀子一万三千貫目をそのまゝ将軍家へ進らせらる。その時江戸の老臣へ仰ありしは。これは御身の奉養にもちひ給はず。天下の物と思召て此うへにも積貯へ給ふべし。平常の国費は年毎の入額もて弁じ。成たけ浮費を省き金貨を多く貯へ給ふべし。かく貯へ給へといふは何のためなれば。第一は軍国の費用に備へ。第二は不慮の大災にて。御居城はじめ城下の士民まで焼亡にあひて艱困せむに。これを賑救あらむるがため。第三は日本国中に守護地頭を建置て。万民飢渇せざらん設はあるなれど。またいかなる凶荒打続て。そが力も及ばざる時には。上より守護地頭に力をそへて。それ/\〃に頒布して救荒の政を施されむがためなり。これぞ天下の主たる者の本意なれ。かゝるをもて当年の入額何程余分ありともあだに心得て。さまで功績なき者にみだりに新地興る事あるべからず。将軍にはいまだ年若き事なれば。このゝち男子いくばく出生あらむもしれず。これまでわが末子にとらせし禄額もあれば。将軍の子達もこれに准じ。五万七万ばかり遣はしては国体においていかゞなり。故に天下の禄額のかねて減ぜぬ様にいたし置事経国の第一なり。その旨よく心得て。将軍にも申上よと仰せられしとぞ。(駿河土産)
これも御隠退の前かた。江戸より本多佐渡守正信御用奉て駿河へまかりし時。正信に仰られしは。我若年の時は軍務繁多にして学問するいとまなし。よて生涯不学にして今此老齢に及べり。さりながら老子がいひし詞なりと人に聞置しは。足る事を知て足る者は常に足るといふ詞と。仇をば恩をもて報ずるといふ二語は。若きほどより常に心にとめて受用せしなり。将軍にはわれと違ひ。かねがね学問もせらるゝ事なれば。さだめて聖賢の格言どもあまた心得てあるべければ。この語のみをもちひられよといふにはあらざれども。汝等が心得までにいひ置なりと宣へば。正信感銘して江戸に帰り。そのよし申上げしかば。将軍家直に御硯をめして。御みづから右の二語を記し給ひ。御座右に糊して置せ給ひしとぞ。」其後また金地院崇伝に命じ。この語を大書せしめて。平常の御座所にかけ置れて常々御覧あり。その御親筆は故ありて内田平左衛門正世が所持せしを。大猷院殿聞し召て。その子信濃守正信に仰下されて。御取よせありて御床にかけられ。麻の上下めして御拝覧ありしとぞ。(駿河土産)
江戸老臣のうち誰にてかありけん。江戸より御使奉りて駿河へまかりしに。御前近く召れ。汝は将軍の心に叶ひてつかはるゝと見えて。此度も使に越されしな。おほよそ主の心にかなふはいとかたき事なるに。かくめみせよきはかしこき事なり。かゝるに付ても汝が心懸また第一なり。すべて大小の諸臣をして将軍へおもひつかしむるも。又怨をふくましむるも。みな汝等が心ひとつにある事なり。第一主人の気に入り。威権の帰するにしたがひて。驕奢の心いつとなく出来る者なれば。わが身の尊くなるにしたがひ。いよ/\慎謹にして。物ごと粗略にすべからず。また人を推薦するにもいさゝか私意なく。その人品の邪正をたしかに見定めて。性質忠良にして。奉行頭人にもなるべき器あらば。我と中あしくとも私隙をすてゝこれを登庸すべし。第二は重役のくせにて。をのれ一人して万事を沙汰し。人には何もいはせぬ様にしたく思ふ心の出来るものなり。この心あらば。何程聡明にして才幹ありとも甚害あるものなり。これを物にたとへば。舁夫の駕輿をかくに。其長同じ程の者が二人あるうへに。また添肩の者がありてこそ。長途険所をもかき行なれ。いかに剛力なりとも一人して輿かくことはかなはず。その身の長短つり合ねばあやうき事なり。天下国家を治るは上もなき重荷なれば。その重荷を持こらへて落さゞらんために。数多の諸役人を建設け。それ/\〃の位禄をも与へ置なり。さるををのれ一人して主の対手になりて擔当せむと思ふは。大なる心得違なれ。舁夫に添肩のあるがごとく。よき老臣あまたあつまり。奉行頭人もそれ/\〃任にかなひ。何事も思ふ所をつゝまずうち明て相議し。殊さら善とおもふ事をとり用ひば。万民も帰服し天下長久の基なれ。すべて和漢とも世々の名臣といはるゝものは。一己の功を建むとのみ思はず。賢哲を撰み材能をすゝめて。主の責とするをもて第一の急務とす。汝等常々この旨同僚と相議し。輔導のたすけあらむ様に心がけよと仰られしぞ。(駿河土産)
駿河にて宰相頼宣卿の邸へ渡御あるべき御あらましなりしころ。土井大炊頭利勝はいまだ御側近くつとめしころなりけるが。此度の事により彼邸にまかりて。安藤帯刀直次が諸事指揮する様見習へと仰付られ。利勝日毎に彼方にゆきて見しに。諸役人帯刀が前へ出て。この事はいかゞせむと議するに。己が意にかなふことは領承し。かなはざる時はいやあしゝとばかりいひて何の指揮もせず。よてその者同僚と重議せしうへにて出てうかゞふに。又意にかなはざれば幾度もかくのごとし。終に允當を得て後許容することなり。利勝おもふに。人の物をとふに。あしとばかりいはむより。直にかくせよと指揮あらばそのこと速に弁ぜむといふ。直次某犬馬の齢すでにたけて。このうへは死なむのみなり。かく諸役人を遇するは。若き殿に人物を作りなして進らするなり。我指揮をうけてさへすればすむとのみ思へば。人々何事にも思慮を用ひず。万事未熟にてよき人物は出来ぬものなりといひしをきゝて。利勝大に感じ。こゝが君の見習へと仰られし所ならむと心付。後々機務を司るに及びて。下僚より議する事あるとき。わが意に応ぜざれば。そはさる事なれどもまた何とか仕方もあるべきか。同僚に相議してかさねていひ出られよ。同僚にて弁ぜずば。親族または家臣とも商量して申されよとありて。いよ/\評議をかさねて理にかなへば。いかにも尤也。その通にてよしといひしとぞ。これも君の御教諭によりて。利勝後に天下の良佐となりけることゝ人々感歎せり。(古諺記)
何役にや欠員ありし時。土井大炊頭利勝をめして。何がしは人物性行いかにと御尋あり。利勝承り。その者は常に臣が方に出入せざれば。人物の善悪聞え上難しと申す。君聞し召し御けしき損じ。なべて諸旗本の善悪を知らぬといはゞわが非理なれ。いまとふ所の者はさのみ人にしられまじき程の身分の者にてもなし。さるをしらずといふてすむ事か。汝等は家人の善悪を常に見定めて。わが用ひん時にいひ聞かするが主役なれば。いづれにもしらずといふ事を得ず。汝をかゝる心がけの浅露なる者と知らで。年若ながらも用にも立むと思ひて老職に登庸せしは。かへす/\〃もわが過誤なれ。よく/\かうがへて見よ。惣じて武辺の心懸ふかく志操あるものは。上役に追従せぬものぞ。されば重役の許に出入せざる者のうちに。かへりて真の人物はあるなれ。そが中にて人材を撰ぶこそ忠節の第一なれ。いま雑庫のうちに名高き刀剣埋れてありときかば。たれもほり出し。われにしめしよろこばせんと思ふべし。刀剣は何ばかりの名作といへども治国の用にたたず。我常にいふ所の宝の中の宝といふは。人材にしくはなしといふ語を空耳にきくゆへ。かゝる卒爾の対をもすれ。汝等が方へ朝夕立入りして相知れるものばかり出身するならば。諸人の心立次第にあしく。みな阿諛侫の風になりはてん。おほよそ国家の体は人の一身の如し。人身の元気衰ればかならず死するごとく。大名の家にても。人々耻を知り義を守るは一藩の元気なり。諸人の義気うすくなり。鼻はまがりても息さへ出ばとおもふ様になりゆき。主の恩をかしこしともおもはず。たゞ眼前をよくとりかざり。互に観望するをもて巧智とし。人心次第に澆漓して家法の頽敗するにいたりては。遂に亡滅の基を引出すなり。汝が只今の失言はさしゆるすといへども。この後はきとつゝしみて。いさゝか粗忽のことなく。わが命をよくよく遵守せよと誡め給ひしとなり。(岩淵夜話)
一とせ尾張国御通行の時。薩摩守忠吉朝臣に御所望ありて。その国の鍛工のきたひし小刀剃刀の類を供奉の面々へ下されけり。その時朝臣むかしよりこのかた御武辺の御物語うけたまはり度よしを仰上られければ。古きはなしをきゝ度とある心懸ならばよしと宣ひしのみにて。別におはなしはなかりしとぞ。(駿河土産)
慶長十一年江戸の城改築ありしとき。藤堂和泉守高虎をめして。泉州老練の事なればよく参議し。思ふ所つゝまず申さるべしとてありて。指図を出され高虎と共に御覧じ。この所はかく。かしこはかうよとて。御みづから朱墨もて引直したまひ。おほよそ城取といふものは。あながち人の才智もて作り得るものにあらず。その地勢に応じ自然と出来るものなりと上意ありて。その国定まりて後将軍家にも見せ奉れと仰ありて御覧に入れしに。つばらに御覧じ。申様もなき経営の御規模かなと御感賞あり。その後諸大名に課して経営をはじめられ。竣功の後殊更に高虎が労をねぎらはれ。加恩の地二万石賜はりしとぞ。(藤堂文書、家譜)
慶長十二年三月薩摩守忠吉朝臣江戸にて病卒ありし時。近臣稲垣将監。石川清九郎など追腹切しと聞しめし殊に御けしきあしく。江戸の老臣共は何とて制せざるぞ。制してもきかずば。将軍へも申しおごそかに咎申付べきにと上意ありて。かさねて仰けるは。おほよそ殉死は昔よりある事なれど。いとえうなき事なり。それほど主を大切に思はゞ。己が身を全うし後嗣につかへ忠義をつくし。万一の事あるにのぞみ。一命をなげうたむこそ誠の忠節され。何にもならぬ追腹きるは犬死といふものなり。畢竟は主のうつけにて。かねて禁じ置ざるゆへなりと宣ふ。このよし江戸へも聞え。その閏四月越前黄門秀康卿北の庄にて卒去ありし時。将軍家よりかの家長等へ御書をたまはり。第一殉死をとゞめられ。駿府よりも同じ旨仰下さる。その大略は。黄門卒去あられしにより。殉死の者あらむと聞召及ばれぬ。一旦の死はやすく。後嗣を守立て忠節を尽すはかたし。北の庄は北国枢要の地にして国家鎮禦の第一なれば。黄門へ忠義をつくさむと思ふものは。一命を全して後命をまつべし。ゆめ/\無益の死を遂べからず。もし此旨違背においては。子孫までも絶さるべしと仰下されしなり。この御書いまだ彼地に到着せざる前かた。永見右衛門。土屋左馬助などいふ黄門の近臣死せしのみにて。その余は殉ぜしものなかりき。かくかね/\〃厳禁ありしゆへ。君御大喪の折も台徳院殿御事の時も一人も殉死はなかりしなり。(駿河土産、慶長見聞書、貞享書上)
薩摩守殿卒せられし時君は伊豆の三島におはしけるが。江戸より土井大炊頭利勝御使してかくと聞え上しに。さこそ御痛悼おはしまさむかと思ひけるに。頃日の病体にてはさもありなむと仰ありて。例のごとく鶴の羹作れ。鷹野にも出むとて。さして御悲嘆の様にもおはしまさず。天海僧正にが/\〃しき事と思ひながら御前に出で。薩摩殿の御事によて。さぞ御歎おはしまさむかと思ひつるに。かゝる御けしきにては愚僧までも安心なりと申す。君又われはたゞ将軍の親弟を失ひて哀戚あらむかと是のみ心にかゞると仰られしなり。秀康卿卒去のときはかへりて御愁傷申ばかりなし。こは薩摩殿はかねてより病体さはやき給ふまじと思召定められしゆへ。大事に及びてもさまで御哀痛もなく。秀康卿元来御長子といひ。且度々軍陣の御用にも立せられ。今はまた北国におはして常にとぼ/\〃しくのみましませしうへに。薩摩殿卒後いまだいくほどなく。さしつゞきこの卿もうせたまひしゆへ。とりあつめ一しほ御愁悼深かりしならむと人々思ひはかりしとなむ。(池田正印覚書、駿府記)
秀康卿の病中にかねて。佐の局とて君にもしろしめしたる女房を駿河に進らせられ。秀康こたび重病にかゝり。とても世にあらむものとも思ひ侍らねば。うち/\このよし仰進らせらるゝとなり。君聞召驚かせ給ひ。わが子多き中にも秀康は長子といひ。殊更勇烈にして度々軍功もありしものなり。さるをたゞ越前一国のみ与へ置ては本意ならず。此度の病平癒せばその祝儀として。近江下野のうちにて二十五万石ましあたへ百万石になし下されむ。汝とく越前にかへり。この旨申聞て慰めよと仰ありて。御書付を下されければ。局は夜を日についでいそぎ立かへりしが。三河の岡崎にて卿の赴をきゝ。又駿河に引かへし御前へ出しに。君にはこの折棋を囲みておはせしが。聞せ給ふと御愁悼の様かぎりなし。局はかの御書付を取出して。こは大切の御書なれば返し奉るとて上れば。女ながらも心きゝたる者よとて受取せ給ひしとぞ。かの藩士等は内々この事きゝ伝へて。いらぬ女の利発だてよといひけるとか。(天元実記、貞享書上)
慶長十三年十二月武州河越に御鷹狩あり。その頃新庄越前守直頼は剃髪して宮内卿法印とて御供せしが。直頼に仰ありしは。近ごろ下総国の海上に一人の隠者ありときく。いと淳直の者にして華飾なく財利をむさぼらず。常に一瓢を軒にかけ里民の贈与をまちて食とす。もし瓢中むなしきときはあながち求ることなし。氏姓をきくにたゞ三好家の者とのみいらふ。直頼が父蔵人直昌は先年摂津江口の戦に討死す。其始末かれ定めてしりつらん。汝ゆきてとひ来るべしと仰ありしかば。直頼かの海上にゆき隠士の家求めいでしに。七十余りの老僧法華経を読誦して居たり。名は惣帰居士といふ。直頼其庵に入りて対面し。四方山の物語きゝし序に。かの江口のこといひ出て。新庄といふ人の討死の様。及び其家人の首級実検せし事などかたる。直頼も思はず涙をうかべ。その新庄といふ人こそわがなき父直昌が事なれ。さて又御辺が姓名は何といはるゝかと問ひしに。隠士もいと驚歎の様にて何とも名乗らず。直頼またその時。金の采配取て三軍を指揮せし武者ありときゝしは。誰が事なりといへば。これぞ某が事なれとばかりにて。終に姓名をかたらざれば。直頼辞して河越にかへりその旨申上しに。君も甚御感ありしとぞ。(寛永系図)
駿府にて浄土法華の宗論起りて既に対決に及ばむとす。まづ法華僧を御前へめして。汝明日の対決にかちなばゆゆしき眉目なれ。さて負たる浄土僧をばいかゞすべきやとたづね給ふ。僧申すは。かの首刎られその宗を絶し給はば。かさねて宗論起りて上裁を労する事もあるまじきなりと申す。また浄土僧をめして同じ様の事とはせ給ふに。何とも御請申さず。しひてとひ給へば。宗論の起るも各の祖師を尊信するゆへなり。彼等が負候とてあながち御咎にも及ぶまじ。そのまゝにさし置れてよからむといへば。御けしきかはり。我かく切問するに。汝実情を白さぬかとなほ/\責問給へば。さらば宗論に負しは其宗の恥辱なれば。三衣を脱せしめたまはんのみといふ。こゝにおいて御けしき直り。かの僧神妙に思召御膳を下されまかでぬ。後に近臣に。明日の論にはいづれかかたむと汝等は思ふと上意なれば。いづれとも決し難しと申す。仰に必ず浄土かちなむ。いかむとなれば。日蓮僧は。浄土にかたばその首を刎よとは。そが邪念より起りて。釋徒に似つかはしからぬいひ言なり。浄土は三衣を脱せむのみといふ。これ出家相応の答なり。故に浄土かたむと思ふなりと宣ひしが。果して明日宗論はじまりしに浄土の方かちぬ。人々御明察にして。御詞の露違はぬに感じ奉りぬ。この後はいたく宗論を禁ぜられしとぞ。(校合雑記)
蜂須賀家政入道蓬庵が駿城にまうのぼりしとき。さいつころ秀頼公のけしきうかゞはむため坂城に参りしに。大野修理亮治長密に申けるは。入道には故太閤の厚恩うけられし事は。今において忘却はあるべからず。此のちとても万事頼み進らするよし物語候ひき。かゞる事入道のみ聞置てもいかゞなれば。内々聞え上ると申ければ。俄に御けしき損じ。入道には年老てしれたる事いはるゝな。先年関原のとき。われ殊更に仁典もて秀頼の一命をたすけ置のみならず。摂河両国もて封邑とし。安楽にすごさしむるに。何の不足かあらむ。さるを入道が口より。かゝることいひ出てよきものかと仰らるれば。蓬庵もかしこまり入て御前をまかでぬ。こは浪華の騒乱の前方の軍にて。さる御下心ありて宣ひしなりとぞ。(駿河土産)
駿府の不明の御門は小十人の徒更番して守ることなり。或日村越茂助直吉他所へ御使に参り。日暮に及び御門に至れば。既に御門は閉たり。村越茂助なるが。御使はてゝたゞいま帰れり。御門を明ることかなはずといひしらふ所へ。安藤彦兵衛直次も通りかゝり。こは茂助に紛れなし。ひらに明て通されよといふ云。小十人。方々は重き御役をもつとめられながら。さることいひてよきものか。この御門はかねて日暮の後は人を通すまじとの御定なれば。誰にも通す事はかなはずとて終に明ざりけり。このよし聞しめして。この日当番の小十人両人へは加恩たまはり。常々よく御門を固守するとて賞せられ。後に二人とも紀伊家に附属附属せられしとなり。(駿河土産)
常に鎌倉右幕下の政治の様御心にやかなひけむ。その事蹟共かれこれと評論ありし事多し。頼朝石橋山の戦にうちまけ。朽木の中にひそまり居しを。梶原景時がたすけし時。景時ちかひごと立て。君もし後日天下の主になり給はば。景時を執権職にせられよといひしを頼朝うけがはれぬ。さりながら若悪事もあらむには。刑戮に處すべしといはれしは。かゝる艱困の中といへども。大将たらむ人の対面を失はざりしは。実に将軍の器といふべし、」又頼朝が七騎落の時。先例あしゝとて一人の供奉を減じたるはいかなる故ぞ。かゝる時は一人にて多きがよきにと仰らる。」また頼朝陰晴をよく見さだむる者をめし呼て。浮島が原に出て天気を見定しむ。その者天気は見なれし所にては分りやすく。さなき所にてはしれ難しといひしとか。こはいと尤の事なりと仰らる。」また頼朝蛭が小島に潛居の時家僕にかたられしは。われもし本意とげて天下の兵権を掌に握ることもあらば。かならず汝に恩禄とらせむといはれしを。その者あざ咲て居けり。後に頼朝将軍職になられて。あまねく恩賞行はれしとき。その者の沙汰には及ばざりき。よてその者むかしの事いひ出しに。汝はむかしわが詞を咲ひしをわすれしにやといはる。其者いや某わすれは候はず。さりながらよくかうがへて見たまへ。そのかみよりうき年月さまでたのもしく思ひ奉らぬ主君に。今まで附そひ進らせし某を。はじめより此君に仕へて功名をも立むとおもひし人々にくらべては。某がかたかへりて忠義に候はずやといひしかば。頼朝も理に屈してその者に厚恩を施されしとか。こは其者の詞いと尤なれと仰せられけり。」また夜話の折御談件等申すは。頼朝は古より名将といひ伝れども。平家追討にさゝれし三河守範頼。伊予守義経二人の弟は。すぐれて軍功もあるを。後に誅戮せしは少恩の至ならずやと申せば。君外々の者どもはいかが思ふと宣へば。いづれも同意のよしを申す。その時それは世にいふ判官びいきとて。老嫗兒女など常に茶談にする事にてとるにたらず。すべて天下を治むる者は。己が職をゆづるべき嫡子の外。庶子の分には別に異礼を施すことなし。其親族たるをもて国郡の主になし置といへども。これを遇するにいたりては。外々の大名とかはれることなし。よてその兄弟たる者も身をつゝしみ上を敬し。万事を篤実にせばよし。もし兄弟の親をたのみにし無道の挙動するを。親族なればとて見のがしてては外様の示にならざるなり。親族のわいだめなく理非を分明に行ふこそ。天下の主たらむ者の本意なれ。驕奢無道ならば配流に處し。もし反逆の企もあらむには死刑に行はねばならぬなり。すべて天下の主の心と大名の心とは大に変るものなり。さる大体をわきまへずして頼朝を非議するは。これまた老嫗兒女と同日の所見なれと仰られしとぞ。(駿河土産)
慶長十五年。諸大名に命じて尾州名古屋の城を改築せしむ。そのころ福島左衛門大夫正則。池田三左衛門輝政にむかひいひけるは。近年江戸駿河両城の経営ありて。諸大名みなこれがために疲弊せり。されどいづれも天下府城の事なれば。誰も労せりともおぼえざるなり。この名古屋は末々の公達の居城なるを。これまで我等に営築せしめらるゝはあまりの事なり。御辺は幸大御所の御ちなみもあれば。諸人の為にこの旨言上せられよといふ。輝政は何とも答へざりしが。加藤清正大にいかり正則にむかひ。御辺は卒爾なる事いはるゝものかな。経営をいとはるゝならば。人に議するまでもなし。はやく自国に馳せかへり兵を起さるべし。さる事もなりがたくば台命に違ひて。えうなきこといひ給ひそといたくいましめければ。正則も面あかめて居たり。後にこのこと聞せ給ひ輝政をめして。諸大名度々の経営に難義すときゝぬ。さらばいづれも本刻に馳かへり。城池を固くし人衆を集めて。わが討手のいたるをまつべしと仰ければ。いづれも大に恐怖し。すみやかに人夫をかりあつめ。夜を日に継て経営をはじめ土地をならし。二十万の人夫もて西海南海の大石を伊勢三河の大船もて運致し。石塁をきづき城溝をほり。いくばくもなくして竣功せしとぞ。(武徳大成記)


(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)






milk_btn_prev.png

|1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|11|12|13|14|15|16|17|18|19|20|21|22|23|24|25|26|27|28|

milk_btn_next.png

隆慶著作一覧へLinkIcon