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信長公記(巻首)
信長公記
太田牛一著
巻首(一部)
山城道三と信長御参会の事
一、四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありたきの趣、申し越し候。此の子細は、此の比、上総介を偏執候て、聟殿は大だわけにて候と、道三前にて口々に申し候ひき。左様に人々申し候時は、たわけにてはなく候よと、山城連々申し候ひき。見参候て、善悪を見候はん為と聞こへ候。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曽川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で候。富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り候て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実目になき人の由、取沙汰候間、仰天させ候て、笑はせ候はんとの巧にて、古老の者、七、八百、折目高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り候様に構へて、先づ、山城道三は町末の小屋に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧振袋・ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄砲五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ候知人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ候を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し候て、さては、此の比たわけを態と御作り候よと、肝を消し、各次第/\に斟酌仕り候なり。御堂へする/\と御出でありて、縁を御上り候のところに、春日丹後、堀田道空さし向け、はやく御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、諸侍居ながれたる前を、する/\御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。暫く候て、屏風を推しのけて道三出られ候。又、是れも知らぬかほにて御座候を、堀田道空さしより、是ぞ山城殿にて御座候と、申す時、であるかと、仰せられ候て、敷居より内へ御入り候て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り候ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し候。互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子をかみたる風情にて、又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち候なり。廿町許り御見送り候。其の時、美濃衆の鎗はみじかく、こなたの鎗は長く、扣き立ち候て参らるゝを、道三見申し候て、興をさましたる有様にて、有無を申さず羆り帰り候。途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し候ても、上総介はたわけにて候。と申候時、道三申す様に、されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて候と計り申し候。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
今川義元討死の事
天文廿一年壬子五月十七日
一、今川義元沓懸(くつかけ)へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出(とりで)を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、其の夜の御はなし、軍(いくさ)の行(てだて)は努々(ゆめゆめ)これなく、色々世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各々嘲弄して、罷り帰られ候。案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。其の時の御供には御小姓衆
岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎
是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様躰御覧じ、
御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日 午の剋、戊亥に向って人数を揃へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に候。今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向って、足軽に罷り出で候へば、どうとかゝり来て、鑓下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。是れを見て、義元が戈先には、天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと、悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ、陣を居らせ候。信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深田(ふけ)の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡を引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中島へ御移り候。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し候。中島より又、御人数出だされ候。今度は無理にすがり付き、止め申され候へども、爰にての御諚には、各よく/\承り候へ。あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、
前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人
右の衆、手々に頸を取り持ち参られ候。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓懸の到下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍かと申し候なり。空晴るゝを御覧じ、信長鑓をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれ/\と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鑓、鉄砲、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。
天文廿一年壬子五月十九日
旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向ってかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ/\、次第/\に無人になって、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立って若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し候の時、御舎弟を一人生捕り助け申され候、其の冥加忽ち来たりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き/\、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣候なり。
一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目に懸けられ、鳴海在城不慮に御遷化候へば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節なし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、其の上、愛知郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷取出に構へ、山口左馬助居陣なり。此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊もこれなく、無下/\と生害させられ候。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず。千が一の信長纔二千に及ぶ人数に扣き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷仕合せ、因果歴然、善悪二ツの道理、天道おそろしく候ひしなり。山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御目に懸けられ候。討死の由承り候て、馬を乗り帰し、討死。寔命は義に依って軽しと云ふ事、此の節なり。二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死なり。
爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟千艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人どもよせ付けて、どうと懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り候ひき。
上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出あって、翌日頸御実検候ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさゝれたる鞭、ゆかけ持ちたる同朋下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、進上候。近比名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜ならず。義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申し、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のび付の太刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒塔婆を立て置き候らひし。今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ候なり。御手柄申す計りもなき次第なり。
さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠り候。降参申し候間、一命助け遣はされ、大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)
巻三
信長公記
太田牛一著
巻三(一部) 元亀元年庚午
越前手筒山攻め落せらるゝの事
四月廿日 信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越え、其の日、和邇に御陣取。廿一日高島の内、田中が城に御泊。廿二日若州熊河、松宮玄蕃所に御陣宿。廿三日佐柿、栗屋越中が所に至りて御着陣。翌日
御逗留。廿五日越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。信長公懸けまはし御覧じ、即ち手筒山へ御取り懸け候。彼の城、高山にて、東南峨々と聳えたり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り、並びに金ケ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候。即ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差し遣はされ、塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ、
四月朔日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛、丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣はされ、武藤上野人質執り候て参るべきの旨、御諚候。即ち、武藤上野守母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構へ破却させ、
五月六日 はりはた越えにて罷り上り、右の様子言上候。然る間、江州路次通りの御警固として、稲葉伊予父子三人、斎藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙あがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追ひ崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるねきの旨、仰せ上げらる。五月九日御下、志賀の城・宇佐山拵へ、森三左衛門をかせられ、
十二日に永原に、佐久間右衛門置かれ、長光寺に、柴田修理亮在城。安土城に、中川八郎右衛門楯籠る。此の如く塞々に御人数残しをかせられ、
千草峠にて鉄砲打ち申すの事
五月十九日御下のところ、浅井備前、鯰江の城へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止むべき行仕候。然れども、日野蒲生右兵衛門大輔、布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、千草・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく、十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道昭覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
たけくらべ・かりやす取出の事
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以って、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日 信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ、かりやす、取る物も取り敢えず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
六月廿一日、浅井居城小谷へ取り寄せ、森三左衛門、坂井右近、斎藤薪五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取り上げ、町を焼き払ふ。信長公は、諸勢を召し列れられ、虎御前山へ御上りなされ、一夜御陣を居えさせられ、柴田修理、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、江州衆に仰せ付けられ、在々所々、谷々入々まで放火候なり。
あね川合戦の事
六月廿二日、御馬を納められ、殿に諸手の鉄砲五百挺、并に御弓の衆三十計り相加へられ、簗田左衛門太郎、中条将監、佐々内蔵介両三人御奉行として相添へられ候。敵の足軽近々と引き付け、簗田左衛門太郎は中筋より少し左へ付きて、のがれ候。乱れ懸かって、引き付け候を、帰し合ひ/\、散々に暫し戦ふ。太田孫右衛門頸をとり、罷り退かれ、御褒美斜ならず。二番に佐々内蔵介手へ引き付け、八相山・宮の後にて取り合ひ、爰にても蔵介高名致し、罷り退く。三番八相山下られ、橋の上にて取合ひ、中条将監疵を被る。中条又兵衛橋の上にてたゝき合ひ、双方、橋より落ちて、中条又兵衛堀底にて頸をとり、高名比類なき働きなり。御弓の衆として相支へ、異儀なく罷り退く。其の日は、やたかの下に野陣を懸けさせられ、よこ山の城、高坂・三田村・野村肥後楯籠り、相拘へ候。廿四日に四方より取り詰め、信長公は、たつがはなに御陣取り、家康公も御出陣候て、同じ龍が鼻に御陣取る。
然るところ、朝倉孫三郎、後巻として八千ばかりにて罷り立つ。大谷の東、をより山と申し候て、東西へ長き山あり。彼の山に陣取るなり。同浅井備前人数五千ばかり相加はり、都合一万三千の人数。六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ、廿八日未明に三十町ばかりかゝり来たり、姉川を前にあて、野村の郷・三田村両郷へ移り、二手に備へ候。西は三田村口、一番合戦、家康公むかはせられ、東は野村の郷、そなへの手へ信長御馬廻、又、東は美濃三人衆諸手一度に諸合す。
六月廿八日 卯刻、巳寅へむかって御一戦に及ばる。御敵もあね川へ懸かり合ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、爰かしこにて、思ひ/\の働きあり。終に追ひ崩し、手前に於いて討ち取る頸の注文、真柄十郎左衛門、此の頸、青木所左衛門是れを討ちとる。前波新八、前波新太郎、小林瑞周軒、魚住龍文寺、黒坂備中、弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門、此の頸、竹中久作是れを討ちとる。兼ねて此の首を取るべしと高言あり。浅井雅楽助、浅井斎、狩野次郎左衛門、狩野三郎兵衛、細江左馬介、早崎吉兵衛、此の外、宗徒は千百余討ち捕る。大谷まで五十町追ひ討ち、麓を御放火。然りと雖も、大谷は鉱山節所の地に候間、一旦に攻め上げ候事なり難くおぼしめされ、横山へ御人数打ち返し、勿論、横山の城降参致し、追出し、木下藤吉郎、定番として横山に入れおかる。夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘へ候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷取出仰せつけらる。
丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。公方様へ当表の様子仰せ上げられ、天下諸色仰せつけらる。七月八日、岐阜に至って御馬を納められ候へき。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)
巻六
信長公記
太田牛一著
赤字は本文(『風の呪殺陣』徳間文庫版183p)引用箇所です。
巻六(元亀四年癸酉)(一部)
阿閉謀叛の事
八月八日、江北阿閉淡路守、御身方の色を立て、則ち、夜中、信長御馬を出だされ、其の夜、御敵城つきがせの城、あけのき候なり。
八月十日、大づくの北、山田山に悉く陣とらせ、越前への通路御取切り候。朝倉左京大夫義景、後巻として、二万ばかり罷立ち、与語・木本・たべ山に陣取り候。近年、浅井下野守、大づくの下、やけをと云ふ所こしらへ、浅見対馬を入れ置き候。是れ又、阿閉淡路と同心に御身方の色を立て、御忠節とし、
八月十二日、大づくの下、やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ候。其の夜は、以外の風雨に候と雖も、虎後前山には信長公の御息嫡男勘九郎殿を置き申され、信長、雨にぬれさせられ候て、御馬廻召しつれられ、太山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、既に乗り入るべきところ、越前より番手として、斎藤・小林・西方院、三大将の人数五百ばかり楯籠り、色々降参仕り候。尤も討ち果たさるべき事に候へども、風雨と云ふに、夜中、大づく落去の体、朝倉左京大夫存知せられ間敷候の間、此の者ども命を助け、敵陣へ送り遣はされ、此の表抱へがたき仕合せ、敵の勢衆に知らせ、其の上、朝倉左京大夫陣所へ打ち向けられるべきの御存分にて、右籠城の者、適所へ送り遣はさる。大づくには、塚本小大膳、不破河内・同彦三、丸毛兵庫・同三郎兵衛入れ置かれ、直ちに又、ようの山、信長御取り懸け候。平泉寺の玉泉坊番手として楯籠り候。是れも御詫言申し、罷退く。然らば、信長御諚には、必定、今夜、朝倉左京大夫退散すべく候。先手に差し向け候衆、佐久間右衛門、柴田修理、滝川左近、蜂屋兵庫頭、羽柴筑前、丹羽五郎左衛門、氏家左京助、伊賀伊賀守、稲葉伊予、稲葉左京助、稲葉彦六、蒲生右兵衛大輔、同忠三郎、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀新左衛門、弓徳左近、阿閉淡路、同孫五郎、山岡美作守、同孫太郎、山岡玉林、此の外歴々の諸卒、爰をのがし候はぬ様に覚悟仕るべきの旨、再往再三仰せ遣はさる。其の上、御いらでなされ、十三日夜中に越前衆陣所へ、信長又、御先懸なされ、懸け付けられ候。然れども、度々仰せ遣はされ候御先陣にさし向け候衆、油断候て、信長の御先懸なされ候を、承り候て、御跡へ参られ候。地蔵山を越え候て、御目にかゝり候へば、数度仰せ含められ候に、見合せ候段、各手前の比興、曲事の由、御諚候ところに、信長へこされ申し、面目も御座なきの旨、滝川、柴田、丹羽、蜂屋、羽柴、稲葉、初めとして、謹んで申し上げられ候。佐久間右衛門、涙を流し、さ様に仰せられ候へども、我々程の内の者は、もたれまじくと、自讃を申され候。信長御腹立ち斜ならず、其の方は、男の器用を自慢にて候か。何を以ての事、片腹痛き申し様哉と、仰せられ、御機嫌悪候。御分別の如く、朝倉左京大夫義軍癈軍候を、討ち取り、頸ども、我も/\と持参候。此の時、御馬にめし御出だし候。中野河内口、刀根口二手に罷り退き候。何方へ付き候はんやと、相支へ、僉議区に候ところに、信長御諚には、引檀・敦賀の身方城を心懸け、退くべく候間、引檀口へ人数を付け候へと、御諚候。妙案なり。中野河内口へは雑兵を退け、朝倉左京大夫、名ある程の者どもを召し列れ、敦賀をさしてのがれ候。頓て、刀根山の嶺にて懸け付け、心ばせの侍衆、帰し合ひ/\、相支へ、塞ぎ戦ひ候へども、叶はず、敦賀まで十一里、追ひ討ちに、頸数三千余あり。注文、手前にて見知の分、朝倉治部少輔、朝倉掃部助、三段崎六郎、朝倉権守、朝倉土佐守、河合安芸守、青木隼人佐、鳥居与七、窪田将監、詫美越後、山崎新左衛門、土佐掃部助、山崎七郎左衛門、山崎肥前守、山崎自林坊、ほそろ木治部少輔、伊藤九郎兵衛、中村五郎右衛門、中村三郎兵衛、中村新兵衛、金松又四郎これを討ち取る。長島大乗坊、和田九郎右衛門、和田清左衛門、引檀六郎二郎、小泉四郎右衛門、濃州龍興、印牧弥六左衛門、此の外、宗徒の侍数多討死す。爰に、不破河内守が内の原野賀左衛門と申す者、印牧弥六左衛門を生捕り、御前へ参り候。御尋ねに依って、前後の始末申し上ぐるのところ、神妙の働き、是非なきの間、忠節致し候はば、一命を御助けなさるべしと、御諚候。爰にて、印牧申す様に、朝倉に対し、日比遺恨深重の事と雖も、今、此の刻、歴々討死候ところに、述懐を申し立て生残り、御忠節叶はざる時は、当座を申したるとおぼしめし、御扶持もこれなく候へば、実儀も、外聞も、見苦しく候はんの間、腹を仕るべしと、申し乞ひ生害。前代未聞の働き、名誉、是非に及ばず。同日、落城の数、大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、引檀、敦賀、志津が嵩、若州栗屋越中所へさし向け候て、付城共に、拾ケ所退散。
さる程に、信長、年来、御足ながを御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて、金松又四郎、武者一騎山中を追ひ懸け、終に討ち止め、頸を持参候。其の時、生足に罷り成り、足はくれなゐに染めて参り候を御覧じ、日比御腰に付けさせられ候御足なが、此の時御用に立てられ候由、御諚候て、金松に下さる。且は、冥加の至り、面目の次第なり。信長公、御武徳両道御達者の故、案の内の大利を得させられ、十四日、十五日、十六日、敦賀に御逗留。所々の人質執り固め、十七日、木目峠打ち越え、国中へ御乱入。
八月十八日、府中龍門寺に至って、御陣を居えさせられ、朝倉左京大夫義景、我が館一乗の谷を引き退き、大野郡の内、山田庄、六坊と申し候所へのがれ候、さしも、やむごとなき女房達、興車は名のみ聞きて、取る物も取り敢へず、かちはだしにて、我先に/\と、義景の跡をしたひて落ちられたり、誠に、目も当てられず、申すは中々愚かなり。然るところに、柴田修理亮、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守を初めとして、平泉寺口へ義景を追ひ懸け、御人数差し遣はされ、其の上、諸卒手分けをして、山中へ分け入りて、さがし候へと、仰せ出だされ、毎日、百人弐百人宛、一揆ども、龍門寺の御大将陣へ括縛、召し列れ参り候を、御小姓衆に仰せ付けられ、際限なく討たせられ、目もあてられざる様体なり。爰に、野仁の者ども、けだかきかと有る人と見えたる女房の、下女をもつれ候はで、唯一人これあるを、さがし出だし、五、三日いたらぬ奴原止め置き候ところに、或る時、硯をかりて、はな紙の端に書き置きをして、たばかり出で、井戸へ身をなげ、果てられ候。後に、人/\是れを見れば、此の歌なり。
- ありをればよしなき雲も立ちかゝるいざや入りなむ山のはの月
と、一首を書き置き、此の世の名残是までなり。見る人、哀れに思ひて、なみだをながさずと云ふ者なし。平泉寺の僧衆、御忠節仕るべきの由に候て、人数を出だし、手を合せ、朝倉左京大夫義景、遁れがたき様体なり。
爰に、朝倉同名に、式部大輔と申す者、情なく、義景に腹をきらせ、鳥井与七・高橋甚三郎介錯を致し、両人の者も追腹仕り候。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に候。朝倉式部大輔、義景の頸を府中龍門寺へ持たせ越し、八月廿四日、御礼申さる。名字の総領と云ひ、親類と云ひ、前代未聞の働きなり。義景の母儀、並びに、嫡男阿君丸を尋ね出だし、丹羽五郎左衛門に仰せ付けられ、生害候なり。さて、国衆縁々を以て、帰参の御礼、門前市をなす事に候。則ち、義景が頸、長谷川宗仁に仰せ付けられ、京都へ上せ、獄門に懸けさせられ、越前一国平均候間、国中の掟を仰せ付けられ、前波播磨守、守護代として、をかせられ、
八月廿六日、信長公、江北虎後前山まで御馬を納めらる。
八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ取り上り、浅井下野・同備前父子の間を取り切り、先ず、下野が居城を乗っ取り候。爰にて、浅井福寿庵、腹を仕り候。さる程に、年来目を懸けられ候鶴松大夫と申し候て、舞をよく仕り候者にて候。下野を介錯し、さて其の後、鶴松大夫も追腹仕り、名与是非なき次第なり。羽柴筑前守、下野が頸を取り、虎後前山へ罷り上り、御目に懸けられ候。翌日、又、信長、京極つぶらへ御あがり候て、浅井備前・赤生美作生害させ、浅井父子の頸京都へ上せ、是れ又、獄門に懸けさせられ、又、浅井備前が十歳の嫡男御座候を、尋ね出だし、関ヶ原と云ふ所に張付に懸けさせられ、年来の御無念を散ぜられ訖んぬ。爰にて、江北浅井が跡一職進退に、羽柴筑前守秀吉へ、御朱印を以て下され、悉く面目の至なり。
九月四日、信長、直ちに佐和山へ御出でなされ、鯰江の城攻め破るべきの旨、柴田に仰せ付けられ候。則ち、取り詰め候ところ、佐々木右衛門督降参候て、退散なり。何方も御存分に任せらる。
九月六日、信長公、岐阜に至って御帰陣。
さる程に、杉谷善住坊、鉄砲の上手にて候。先年、信長、千草峠御越えの砌、佐々木承禎に憑まれ候て、山中にて、鉄砲二玉をこみ、十二、三間隔て、無情に打ち申す。されども、天道昭覧にて、信長の御身に少し宛打ちかすり、鰐の口御遁れ候て、岐阜御帰陣候ひき。此の比、杉谷善住坊は、鯰江香竹を憑み、高島に隠居候を、磯野丹波召し捕へ、九月十日、岐阜へ、菅屋九右衛門・祝弥三郎両人御奉行として、千草山中にて鉄砲を以て打ち申し候子細を御尋ねなされ、おぼしめす儘に、御成敗を遂げらる。たてうづみにさせ、頸を鋸にてひかせ、日比の御憤を散ぜられ、上下一同の満足、これに過ぐべからず。
九月廿四日、信長、北伊勢に至りて御馬を出だされ、其の日は、大柿の城に御泊。廿五日、太田の城、小稲葉山に御陣取り。江州衆は、はつふ、おふぢ畑越えにて、廿六日、桑名表へ人数打ち出だし、西別所に一揆楯籠り候を、佐久間右衛門・羽柴筑前守・蜂屋兵庫頭・丹羽五郎左衛門四人として、取り懸け、責め破り、数多切り捨てられ候。柴田修理・滝川左近両人は、さか井の城、片岡と云ふ者の構へ取り巻き、攻められ候のところ、降参申し、十月六日、退出、右両人直ちに、ふかやべの近藤の城取り懸け、かねほりを入れ、攻められ、是れも御詫言申し、罷り退く。
十月八日、信長、東別所へ御陣を寄せさせられ、これに依り、いさか、かよふ、赤堀、たなべ、桑部、南部、千草、長ふけ、田辺九郎次郎、中島勘解由左衛門、何れも、人質進上候て、御礼申し上げ候。爰に、白山の中島将監、御礼に罷り出でず候。然る間、佐久間、蜂屋、丹羽、羽柴、此の四人を仰せ付けられ、築山を築き、かねほりを入れ、攻められ候。抱へがたく存知、此の上にて御侘言申し、退散。
さる程に、京都静原山に楯籠りし御敵、山本対馬、明智十兵衛調略を以て、生害させ、頸を北伊勢、東別所まで持ち来たり、進上。御敵をなす者、悉く御存分に属し、御威光申すにも足らず。北伊勢一篇に罷りなり、河内長島も過半相果て、迷惑仕るの由に候。矢田の城、御普請丈夫に仰せ付けられ、滝川左近入れ置かる。
十月廿五日、信長、北伊勢より御馬を納められ、左は多芸山、茂りたる高山なり。右手は入川足入り多くありて、茂りたる事、大方ならず。山下に道一筋めぐりまはって、節所なり。信長、のかせられしを見申し、御跡へ河内の奴原、弓・鉄砲にて、山/\先/\へ移りまはり、道の節所を支へ、伊賀・甲賀のよき射手の者ども馳せ来たりて、さしつめ引きつめ、散/\に討ちたをす事、際限なし。雨つよく降りて、鉄砲は互ひに入らざる物なり。爰に越前衆の内、毛屋猪介、爰にては支へ合せ、かしこにては扣き合ひ、数度の働き比類なし。信長公の一の長、林新次郎を残し置かれ、数度追ひ払ひ、節所のつまりにては相支へ、火花をちらし相戦ふ。林新次郎、并びに家子郎等、枕をならべて、討死なり。林の与力に、賀藤次郎左衛門と申す者、尾張国久/\取合ひの内、爰はと云ふ時には、よき矢を仕り候て、人々存知たる射手なり。此の度も、先へ懸かる武者をば、射て倒し、林新二郎と一所に討死。名誉と云ふ事も愚かなり。其の日は、午刻より薄暮に及び、以外の風雨にて、下々人足等、寒死候べき。夜に入って、大柿城まで御出で、十月廿六日、岐阜に御帰陣なり。
霜月四日、信長、御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。三好左京大夫殿、非儀を相構へらるゝに依って、家老の衆、多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉両三人、別心を企て、金山駿河、万端一人の覚悟に任せ候の間、金山駿河を生害させ、佐久間右衛門を引き入れ、天主の下まで攻め込み候のところ、叶ひがたくおぼしめし、御女房衆・御息達みなさし殺し、切って出で、余多の者に手を負はせ、其の後、左京大夫殿、腹十文字に切り、比類なき御働き、哀れなる有様なり。御相伴の人数、那須久右衛門・岡飛騨守・江川、右三人、追腹仕り、名誉の次第、此の節なり。若江の城、両三人御忠節に付いて、あづけ置かる。
十月二日、信長公、岐阜に至りて御帰城なり。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)
巻七
信長公記
太田牛一著
赤字は『風の呪殺陣』本文186~、191p引用箇所です。緑字は『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻151p~本文引用箇所、青字は本文記述(『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻154p)に関連する部分です。
巻七(天正二年甲戌)(一部)
河内長島一篇に仰せ付けらるゝの事
六月廿三日、河内長島御成敗として、信長御父子御馬を出だされ、其の日、津島に御陣取る。抑、尾張国河内長島と申すは、隠れなき節所なり。濃州より流れ出づる川余多有。岩手川・大滝川・今洲川・真木田川・市の瀬川・くんぜ川・山口川・飛騨川・木曽川・養老の滝、此の外、山/\の谷水の流れ、末にて落ち合ひ、大河となって、長島の東北、西五里・三里の内、幾重ともなく引き廻し、南は海上漫々として、四方の節所申すは中/\愚かなり。これに依って隣国の佞人凶徒など相集まり、住宅し、当寺を崇敬す。本願寺念仏修行の道理をば本とせず、学文無智の故、栄花を誇り、朝夕乱舞に日を暮らし、俗儀を構へ、数ケ所端城を拵へ、国方の儀を蔑如に持扱、御法度に背き、御国にて御折檻の輩をも能隠家と抱へ置き、御領知方押領致すに依って、一年、信長公御舎弟、織田彦七殿、河内小木江の郷に至って、既に打ち越し、足懸を構へ、御在城のところ、先年、信長公志賀御陣、浅井・朝倉と御対陣半ば、御手塞ぎと見及び申し、一揆蜂起せしめ、既に日を逐り、攻め申す。織田彦七、御腹めさせ、緩怠の条々、勝て計ふべからず。日比御鬱憤候へども、信長、天下の儀仰せ付けらるに依って、御手透御座なく、御成敗御延引なさる。今度は、諸口より取詰め、急度御対治なさるべきの御存分にて、東は御嫡男織田菅九郎、一江口へ御越しなり。御伴衆、織田上野守、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤新五、簗田左衛門太郎、森勝蔵、坂井越中守、池田勝三郎、長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中島豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳。西は賀鳥口、佐久間右衛門、柴田修理亮、稲葉伊予守、同右京助、蜂屋兵庫頭。松の木の渡り、一揆相支へ候を、どつと川を乗り渡し、馬上よろ数多切り捨て候なり。信長公は、中筋はやを口、御先陣は、木下小一郎、浅井新八、丹羽五郎左衛門、氏家左京助、伊賀伊賀守、飯沼勘平、不破河内、同彦三、丸毛兵庫、同三郎兵衛、佐々蔵介、市橋九郎左衛門、前田又左衛門、中条将監、河尻与兵衛、津田大隈守、飯尾隠岐守。一揆小木江村を相塞ぎ候を、追ひ払ひ、御通り候。又、しのはしより一揆罷り出で、相支へ候。則ち、木下小一郎・浅井新八両人、懸け向かはれ候。こだみ崎川口、舟を引き付け、一揆堤へ取り上り、かゝへ候。丹羽五郎左衛門懸け向かひ追ひ崩し、数多討ち捕り、まへがす、ゑび江島、かろうと島、いくいら島を焼き払ふ。信長、其の日は、五妙に野陣を懸けさせられ、十五日に、九鬼右馬允あたけ舟、滝川左近、伊藤三丞、水野監物、是れ等もあたけ舟。島田所助・林佐渡守両人も囲ひ舟を拵へ、其の外、浦々の舟をよせ、蟹江、あらこ、熱田、大高、木多、寺本、大野、とこなべ、野間、内海、桑名、白子、平尾、高松、阿濃津、楠、ほそくみ、国司お茶筅公、捶水、鳥屋野尾、大東、小作、田丸、坂奈井。是れ等を武者大将として召し列れ、大船に取り乗りて、参陣なり。諸手の勢衆、船中に思ひ/\の旗じるし打ち立て/\、綺羅星、雲霞の如く、四方より長島へ推し寄せ、既に諸口を取り詰め、攻められ、一揆廃忘致し、妻子を引きつれ長島へ逃げ入る。信長御父子、との妙へ打ち越され、伊藤が屋敷に近陣に御陣を居えさせられ、懸けまはし御覧じ、諸口の陣取り仰せ付けられ候。御敵城は、しのはせ、大鳥居、屋長島、中江、長島、五ケ所へ楯籠るなり。しのはせ攻めの衆、津田大隈守、津田市介、津田孫十郎、氏家左京亮、伊賀伊賀守、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助。大鳥居攻め衆、柴田修理亮、稲葉伊予守、同彦六、蜂屋兵庫頭。今島に陣取、川手は大船を推し付け、攻められ候なり。推しの手として、佐久間父子、江州衆を相加へ、坂手の郷に陣を懸けられ候なり。長島の東、推付の郷陣取りの衆、市橋九郎右衛門、不破彦三、丹羽五郎左衛門。かろうと島口攻めの衆、織田上野守、林佐渡守、島田所之助。此の外、尾州の舟数百艘乗り入れ、海上所なし。南大島口攻めの衆、御本所、神部三七、桑名衆、此の外、勢州の舟大船数百艘乗り入れ、海上所なし。諸手、大鳥居、しのばせ、取り寄せ、大鉄砲を以て塀櫓打ち崩し、攻められ候のところに、両城迷惑致し、御赦免の御詫言申すと雖も、迚も程あるべからざるの条、佞人懲らしめのため、干殺になされ、年来の緩怠・狼藉、御鬱憤を散ぜらるべえきの旨にて、御許容これなきところに、
八月二日の夜、以外の風雨に候。其の紛れに、大鳥居籠城の奴原、夜中にわき出で、退散し候へど、男女千計り切り捨てられ候。
樋口夫婦御生害の事
八月十二日、しのばせ籠城の者、長島本坊主にて、御忠節仕るべきの旨、堅く御請け申すの間、一命をたすけ、長島へ追ひ入れらる。さる程に、木目峠に取出を拵へ、樋口を入れ置かれ候ところ、如何様の含み存分に候ひしやらん、取出を明け退き、妻子を召し列れ候て、甲賀をさしてかけ落ち候を、羽柴筑前守追手をかけ、途中にて成敗候て、夫婦二人の頸、長島御陣所へ持たせ、こされ候なり。今度長島長陣の覚悟なく、取る物も取り敢へず、七月十三日に、島中の男女、貴賤、其の数を知らず、長島、又は屋長島、中江、三ケ所へ逃げ入り候。既に三ケ月相抱へ候間、過半飢死仕り候。
九月廿九日、御詫言申し、長島明け退き候。余多の舟に取り乗り候を、鉄砲を揃え、うたせられ、際限なく川へ切りすてられ候。其の中、心ある者ども、はだかになり、伐刀ばかりにて、七八百ばかり切って懸かり、伐ち崩し、御一門を初め奉り、歴々数多討死。小口へ相働き、留主のこ屋/\へ乱れ入り、思ふ程、支度仕り候て、それより川を越え、多芸山、北伊勢口へ、ちり/\〃に罷り退き、大坂へ逃げ入るなり。中江城、屋長島の城、両城にあるの男女二万ばかり、幾重も尺を付け、取り籠り置かれ候。四方より火を付け、焼きころしに仰せ付けられ、御存分に属し、九月廿九日、岐阜に御帰陣なり。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)
巻八
信長公記
太田牛一著
赤字は本文(『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻155p)引用箇所です。
巻八(天正三年乙亥)(一部)
越前御進発、賀・越両国仰せ付けらるゝの事
さる程に、江州勢田の橋、山岡美作守・木村次郎左衛門両人に仰せ付けられ、朽木山中より材木を取り、七月十二日吉日の由に候て、柱立つ。橋の広さは四間、長さ百八十間余。双方に欄干をやり、末代の為に候の間、丈夫に懸け置かるべきの旨、仰せ付けられ候。天下の御為めとは申しながら、住還人・旅人御憐愍なり。十五日、常楽寺まで御出で。十六日、捶井に御泊。十七日、楚根へ御立ち寄り。稲葉伊予、忝きの由候て、孫どもに能をさせ、御目に懸けらる。其の時、ささせられ候御腰物、彦六が息に下さる。
七月十七日、岐阜に御帰城。
八月十二日、勢州へ御進発。其の日は、捶井に御陣取り。十三日、大谷、羽柴筑前守が所に御泊。此の時、惣人衆へ、筑前守所より兵糧を出ださる。十四日、敦賀に御泊り。武藤宗右衛門が所に御居陣。
御敵相拘へ候城々。
一、虎杖の城丈夫に拵へ、下間和泉、大将にて、賀州・越州の一揆ども罷り出で相抱へ候なり。
一、木目峠、石田の西光寺、大将として、一揆ども引率し、在陣なり。
一、今城。
一、火燧ケ城、両城丈夫に拵へ、往古の如く、のうみ川、新道川、二ツの川の落ち合ふを関切り、水を湛へ、下間筑前守、大将にて相抱へぬ。
一、だいらこへ、すい津の城、大塩の円強寺、加賀衆相加はり、在城なり。
一、海手の内、龍門寺拵へ、三宅権丞これあり。
かくの如く、塞く取詰、足懸かり構へ、堅固に拘ふべきの旨に候。八月十五日、以外の風雨に候と雖も、悉く打ち出でらる。越前、牢人衆を先陣と為し、
前波九郎兵衛父子、富田弥六、毛屋猪介、佐久間右衛門、柴田修理亮、滝川左近、羽柴筑前守、惟任日向守、惟住五郎左衛門、別規右近、長岡兵部大輔、原田備中、蜂屋兵庫、荒木摂津守、稲葉彦六、氏家左京助、伊賀伊賀守、磯野丹波、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破河内、不破彦三、武藤宗右衛門、神戸三七信孝、津田七兵衛信澄、織田上野守、北畠中納言、同伊勢衆、
初めとして三万余騎、其の手/\を争ひ、だいらこへ、諸口より御乱入。
海上を働く人数、粟屋越中、逸見駿河、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田。
丹後より働くの衆、一色殿、矢野、大島、桜井、数百艘相催し、幡首打ち立て/\、浦/\湊/\へ上り、所々に烟を挙げられ候。円強寺、若林長門守父子、人数を出だし候、惟任日向守・羽柴筑前両人として、屑せず、追ひ崩し、二、三百討ち捕る。両人の居城に乗り込み、焼き払ふ。
八月十五日に、頸を敦賀へ進上候て、信長へ御目に懸けられ候。
八月十五日、夜に入り、府中龍門寺、三宅権丞楯籠り候構へ忍び入り、乗っ取り、近辺に放火候。木目峠・鉢伏・今城・火燧城にこれある者ども、跡を焼き立てられ、胆を潰し、府中をさして罹り退き候を、羽柴筑前守・惟任日向守両人として、府中の町にて、賀州・越前、西国の一揆二千余騎斬り捨てらる。手柄の程、是非に及ばず。阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。
十六日、信長、敦賀を御立ちなされ、御馬廻其の外一万余騎召し列れられ、木目峠打ち越え、府中龍門寺、三宅権丞の構へまで御陣を寄せらる。爰にて、福田三河守に仰せ付けられ、路次御警固のため、今城にをかせられ候。
下間筑後・下間和泉、専修寺、山林に隠居候を引き出だし、頸を斬り、是れを御宮笥として、朝倉孫三郎頸持ち来たり、御赦免の御侘言申し候と雖も、御同心なく、向駿河に仰せ付けられ、生害させられ候。爰に希異の働きあり。右の様子具申し、孫三郎家来金子新丞父子・山内源右衛門と申す者両三人追腹仕る。是れ等の働き見申し候て、向駿河、胆を消し、感じ申され候。
八月十八日、柴田修理・惟住五郎左衛門・津田七兵衛両三人、鳥羽の城へ取り懸け、責め破り、五、六百斬り捨てられ候。
金森五郎八・原彦次郎、濃州口より郡上表へ相働き、によう、とこの山より、大野郡へ打ち入り、数ケ所小城ども攻め破り、数多斬り捨て、諸口より手を合せ放火候。これに依って、国中の一揆既に廃忘致し、取る物も取り敢へず、右往左往に、山/\へ逃げ上り候。推し次第、山林を尋ね捜して、男女を隔てず斬り捨つべき旨、仰せ出だされ、八月十五日より十九日まで御着到。しかして、諸手より搦め取り進上候分、一万二千二百五十余と記すの由なり。御小姓衆へ仰せ付けられ、誅させられ候。其の外、国々へ奪ひ取り来たる男女、其の員を知らず。生け捕りと誅させられたる分、合せて三、四万にも及ぶべく候しか。
八月廿三日、一乗の谷へ、信長御陣を移さる。参陣は賀州まで、稲葉伊予父子、惟任日向守、羽柴筑前守、永岡兵部大輔、別喜右近、打ち入るの趣、御注進有り。
八月廿八日、豊原へ御陣を寄せらる。
さる程に、堀江、小黒の西光寺、連々申し上ぐる筋目これあり、御赦免の御礼申し上げ候。賀州能美郡・江沼郡、二郡御手に属すの間、檜屋城、大正寺山、二ツこしらへ、別喜右近、佐々権左衛門、并堀江相加へ、入れ置かせられ、十余日の内に賀・越両国仰せ付けらる。御威光、中/\申すばかりなし。
九月二日、豊原より北庄へ、信長御越しなされ、城取りの御縄張させられ、御要害仰せ付けらる。北庄御普請場にて高島打ち下、林与次左衛門、生害させられ候。子細は、先年ン、志賀御陣の時、浅井・朝倉引き出だし、早舟にて渋矢を射懸け申し、緩怠の条々、御遺恨に候ひしか。越前国、柴田修理に八郡下さる。大野郡の内、三分二、金森五郎八に仰せ付けられ、三分一、原彦次郎に下され、大野郡に在城候なり。府中に足懸けを構へ、不破彦三・佐々蔵介・前田又左衛門両三人に二郡下され、在城なり。
一、敦賀郡、武藤宗右衛門が在地なり。
惟任日向守、直ちに丹波へ相働くねきの旨に候。
一、丹後国、一色殿へ参られ候。
一、丹波国、桑田郡・舟井郡、細川殿へ進めらる。
荒木摂津守、是れも越前より直ちに播州奥郡へ相働き、人質執固め参るべきの旨、仰せ付けられ候。
九月十四日、信長、豊原より北庄まで御馬を納められ候。滝川左近・原田備中・惟住五郎左衛門両三人として、北庄足羽山に御陣屋御普請申し付けられ、御馬廻、御弓衆、歴/\を固め、前後結構さ、中/\興を催すことに候。賀・越両国の諸侍馳せ集まり、有縁を以て帰参の御礼、門前市をなす事に候。賀州奥郡の一揆ども、信長御帰陣の由承り及び候か。人数を出だし候。羽柴筑前、天の与ふる所の由候て、懸け付け、一戦に及び、究竟の者頸数二百五十余討ち捕り、是れより帰陣す。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)
巻十三
信長公記
太田牛一著
赤字は本文(『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻141p、『風の呪殺陣』徳間文庫版218p、『花と火の帝』講談社文庫版187p)引用箇所、青字は本文記述(『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻177p)に関連する部分です。
巻十三(天正八年庚辰)(一部)
宇治橋御見物の事
抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり。其の子細は、奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀・鳥羽より大坂城戸口まで、舟の通ひ直にして、四方に節所を抱へ、北は賀茂川、白川、桂川、淀・宇治川の大河の流れ、幾重ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、神崎川引き廻し、東南は、尼上ケ嵩、立田山、生駒山、飯盛山の遠山の景気を見送り、麓は道明寺川・大和川の流に新ひらき淵、立田の谷水流れ合ひ、大坂の腰まで三里四里の間、江と川とつゞひて渺々と引きまはし、西は滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入り、五畿七道こゝに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。隣国の門家馳せ集まり、加賀国より城作を召し寄せ、方八町に相構へ、真中に高き地形あり。爰に一派水上の御堂をこう/\と建立し、前には池水を湛へ、一蓮託生の蓮を生じ、後には弘誓の舟うかべ、仏前に光明を輝やかし、利剣即是の名号は、煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家を立て、甍を並べ、軒を継ぎ、福裕の煙、厚く、と遍に此の法を尊み、遠国波島より、日夜朝暮、仏詣の輩、道に絶えず、家門長久の処に、思はず天魔の所為来りて、信長公、一年、野田・福島御詰め候を、落居候ては、大坂手前の儀と存知、長袖の身ながら、一揆蜂起せしめ、通路これを直さず。
其の時、野田・福島の御人数御引き候へキ。其の遺恨おぼしめし忘れられざるの故か、既に五ケ年以前の度、当寺参詣の輩を推し止められ、剰へ、御敵を一分に捕へ、諸口を取り詰め、天王寺に至って、原田備中相城を申し付けられ候。御普請、首尾なき以前と存じ、即時に一揆を催し、天王寺へ差し懸け、一戦を遂げ、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門を初めとして、歴々討ち捕り、其の競ひに天王寺とり巻き候ところ、信長御後詰として、無勢を以て御動座なさる。其の日、両度御合戦に及ばれ、両度ながら大坂合戦に打ち負け、数多討死させ、誠に大軍を以て小敵の擒となる事、無念の次第なり。併せて、末法の時到って修羅闘諍の瞋恚を発し、力及ばずながら、大坂も、こう津、丸山、ひろ芝、正山を始めとして、端城五十一ケ所申し付け、楯籠り、構への内にて、五万石所務致し、運を天道に任せ、五ケ年の間、時節を相守ると雖も、身方は日々に衰へ、調儀・調略相叶はず。信長御威光盛んにして、諸国七道御無事なり。此の上は、勅命と云ひ、御道理は違はずと云ひ、退城仕るべきと、肯じ申し候。爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、昨日の夢のごとく、世間の事相を観ずるに、生死の去来、有為転変の作法は、電光朝露のごとく、唯、一声称念の利剣、此の功徳を以て、無為涅槃の部に至らんにはしかじ。然りと雖も、今故郷離散の思ひ、上下已に涙に沈む。然れども、大坂退城の後、頓て、信長公御成りあつて、此の所、御見物なさるべく、其の意を存知、端/\〃普請掃除申しつけ、面には弓・鎗・鉄砲等の兵具、其の員を懸け並べ、内には資財雑具を改め、あるべき躰を結構に飾り置き、御勅使、御奉行衆へ相渡し、八月二日未の刻、雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、近年相抱へ候端城の者を初めとして、右往左往に、緑/\を心懸け、海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり/\〃に別れ候。弥時刻到来して、たへ松の火に、西風来たりて、吹き懸け、余多の伽藍一宇も残さず、夜日三日、黒雲となって、焼けぬ。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)
巻十四
信長公記
太田牛一著
赤字は本文(『影武者徳川家康』新潮文庫中巻395p)引用箇所です。
巻十四(天正九年辛巳)(一部)
御爆竹の事
正月朔日、他国衆の御出仕御免なされ、安土にこれある御馬廻衆ばかり、西の御門より東の御門へ御通しなされ、御覧あるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候ところ、夜中より巳刻まで雨降り、御出仕これなく、安土御構への北、松原町の西、海端へ付けて、御馬場を築かせられ、元日より、菅屋九右衛門・堀久太郎・長谷川竹両三人御奉行にて、御普請これあり。
正月二日、安土の町人どもに御鷹の雁・鶴を余多町/\へ下され、悉きの由候て、佐々木宮にて、御祝言として能を仕り、爰にて頂戴候ひしなり。
正月三日、武田四郎勝頼、遠州高天神の城後巻として、甲斐・信濃一揆を催し、罷り出づるの由、風説に付きて、岐阜中将信忠卿御馬を出だされ、尾州清洲の城に御居陣なり。
正月四日、横須賀の城御番手として、水野監物、水野宗兵衛、大野衆、三首指し遣はさる。
正月八日、御馬廻、御爆竹用意致し、頭巾装束結構に致し、思ひ/\の出立にて、十五日に罷り出づべきの旨、御触れあり。江州衆へ仰せ付けられし、御爆竹申し付けの人数、北方東一番に仕る次第、平野土佐、多賀新左衛門、後藤喜三郎、蒲生忠三郎、京極小法師、山崎源太左衛門、山岡孫太郎、小河孫一郎。南方の次第、山岡対馬、池田孫次郎、久徳左近、永田刑部少輔、青地千代寿、阿閉淡路守、進藤山城守。以上。
御馬場入り御先へ御小姓衆、その次を信長公、黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐錦の御そばつぎ、虎皮の御行■(ムカバキ)。蘆毛の御馬、すぐれたる旱馬、飛鳥の如くなり。関東祇候の矢代勝介と申す馬乗り、是れにも御馬乗りさせられ、近衛殿、伊勢兵庫頭。御一家の御衆、北畠中将信雄、織田上野守信兼、織田三七信孝、織田源五、織田七兵衛信澄。
この外、歴/\、美々しき御出立、思ひ/\の頭巾、装束、結構にて、早馬十騎・廿騎宛乗せられ、後には、爆竹に火を付け、どうと、はやし申し、御馬ども懸けさせられ、其の後、町へ乗り出だし、さて、御馬納めらる。見物群集をなし、御結構の次第、貴賤耳目を驚かし申すなり。
正月廿三日、惟仁日向守に仰せ付けられ、京都にて御馬揃へなさるべきの間、各及ぶ程に結構を尽し、罷り出づべきの旨、御朱印を以て御分国に御触れこれあり。
二月十九日、北畠中将信雄卿、中将信忠卿、御上洛。二条妙覚寺に御寄宿。
二月廿日、信長御出京、本能寺に至って御座を移さる。
二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢廿六、七と見えたり。惣の身の黒き事、牛の如し。彼の男、健やかに、器量なり。しかも、強力十の人に勝たり。
伴天連を召し列れ参り、御礼申し上ぐ。誠に以て、御威光、古今に承り及ばず、三国の名物、か様に希有の物ども、細々拝見、有りがたき御事なり。
二月廿四日、北国越州より、柴田修理亮、柴田伊賀守、柴田三左衛門尉、罷り上り、色々珍奇、員を尽し進上候て、御礼これあり。御馬揃へ、
二月廿八日、五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、駿馬を天下に集め、御馬揃へ
聖王へ御叡覧に備へられ、訖んぬ。上京、内裏の東に、北より南へ八町に馬場中に竪に高さ八尺に柱を毛氈を以てつゝませ、埒をゆはせらる。抑も、禁中東門御築地の外に行宮を立てさせられ候事、借染とは申しながら、金銀を縷め、清涼殿より、帝・雲客・卿相・殿上人、衣香当を撥ひ、四方に薫じ、其の数さも花やかなる御粧にて御出であり。摂家・清花の御衆、歴/\甍を並べ、皇居の四囲を守護し申され、左右に桟敷を打たせられ、扨も、儀式の御結構、美々しき有様、筆にも述べがたく、何れも/\、晴ならずと云ふ事なし。下京本能寺を、信長、辰の刻に出でさせられ、室町通りに御上りなされ、一条を東へ、御馬場へ入るの次第。
一番に、惟仁五郎左衛門尉長秀、并びに摂州衆・若州衆・西岡の河島。二番、蜂屋兵庫頭、并びに河内衆・和泉衆、根来寺の内大ケ塚、佐野衆。三番、惟仁日向守、并びに大和・上山城衆。四番、村井作右衛門、根来・上山城衆。御連枝の御衆、中将信忠卿、馬乗八十騎。美濃衆・尾張衆、北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎。同七兵衛信澄、馬乗十騎。同源五、同又十郎、同勘七郎、同中根、同竹千代、同周防、同孫十郎。公家衆、近衛殿、正親町中納言殿、烏丸中納言殿、日野中納言殿、高倉藤右衛門佐殿、細川右京大夫殿、細川右馬頭殿、伊勢兵庫頭殿、一色左京権大夫殿、小笠原。御馬廻、御小姓衆、何れも十五騎づつ、与/\を、仰せ付けらる。越前衆、柴田修理亮、同伊賀、柴田三左衛門、不破河内守、前田又左衛門、金森五郎八、原彦次郎、御弓衆百人。頓而御先を、平井久右衛門、中野又兵衛両人、二手に分けて、二段に参り候なり。是れは一統に打矢を腰にさゝれたり。
御馬牽かせられ候次第。厩別等青地与右衛門御奉行なり。左の御先へ杓もち、みちげ、草おけ持、御のぼりさし。一番鬼蘆毛、右御先へ水おけ持、御のぼりさし。ひさく持、今若。御くらかさね唐織物、同あをり、同前、雲形はこうのきんらんなり。二番、小鹿毛。三番、大あし毛。四番、遠江鹿毛。五番、こひばり。六番、かはらげ。
此の御馬と申すは、奥州津軽、日本まで、大名・小名によらず、是れぞと申す名馬、我も/\と、はる/\牽き上せ、進上候。余多の名馬の中にて、勝れたる御馬なり。本朝において是の上こすことあるべからざるの御馬、御皆具は申すに及ばず、何れも、色/\に御結構、申すばかりなし。御中間衆出立、立烏帽子、黄なる水干、白き袴、す足に草鞋なり。七番、夕庵、山うばの出立にて、此の外、坊主衆、長安・長雲・友閑、御先に参らるゝ。八番、御曲■(ロク)持四人。御奉行、市若。地を金に、雪に浪を絵取りたり。
左の御先小姓、御杖持、北若、御長刀持、ひしや、左、御小人五人、御行■(ムカバキ)持、小市若。御馬大黒に召され、惣て御小人廿七人。右、御先小姓御小人六人、御行■(ムカバキ)持、小駒若、御太刀持、糸若、御長刀持、たいとう、御行■(ムカバキ)、地を金に虎の府を繍に、御鞍重、御あをり、御手綱、腹帯、尾袋まで同前なり、紅の総房の鞦に、やうらくを付けさせられ、御小人衆、あかき小袖に、こう地白の肩衣、黒皮の袴一統なり。
御内府の御装束、御眉にて、きんしやを以てほうこうめされ、今度、京都・奈良・堺にて珍らしき唐織物御尋ねなされ、各、御枝葉の御衆、御装束と仰せ出ださるゝの処、隣国より我も劣らずと、上品の唐綾・唐錦・唐縫物等、其の員を尽し、上覧に備へ奉るものなり。此のきんしやと申すは、昔、唐土か天竺にて、天子・帝王の御用に織りたる物と相見えて、四方に織止ありて、真中に人形を結構に織り付けたり。今亦、天下納りて内裏・仙洞御ほうこうの御用に罷り立つべき為めに、参りたり。能と織られたる如く、御ほうこう似相申すなり。上古の名物拝見、有りがたき御代なり。
御頭巾とうかむり、御後の方に、花を立てさせられ、高砂大夫の御出立か、梅花を折り、首に挿し、二月雪衣に落つる心か。御膚にめされ候御小袖、紅梅に白のだん、段々に、きり唐草なり。其の上に、蜀江の錦御小袖、御袖口には、よりきんを以て、ふくりんをめされ候。是れは、昔年、大国より三巻、本朝へ渡りたる内の、其の一巻なり。永岡与一郎都にて尋ね、捜し求め、進上。古今の名物ども参集し、御名誉、申す計りなし。御肩衣、べにどんすに、きりから草なり。御袴、同前なり。御腰にぼたんの作り花をさゝせられ、是れは、禁裏様より参りたる由なり。御腰蓑白熊、御太刀卸のし付、御はきそへは、さや巻の熨斗つきなり。御腰に鞭をさゝせられ、御ゆかけ、白革にきりのとうの御紋あり。御沓は猩々皮、立上りは唐錦なり。
花やかなる御出立、御馬場入りの儀式、さながら、住吉明神の御影向も、かくやと、心もそゞろに、各、神感をなし奉り訖んぬ。然らば、隣国の群集、晴れがましきに付けて、爰を肝要と、思ひ/\の頭巾、出立は、我れ劣らじと、あらゆる程の結構生便敷、各手を尽し、しか/\〃の衣装、下には過年、紅梅・紅筋、上着は薄絵、唐縫物、金襴、唐綾、狂文の小袖、側次、袴同前、各腰蓑付けられたり。或ひは、きんへい、或ひは紅の糸、縫物を切りさきにして、付けられたるもあり。馬具押し懸け、鞦、三尺縄各上品の紅の糸を付けたるもあり。又、五色の糸にてくませたる鞦もあり。蹈皮、草鞋等に至るまで、皆、五色の糸にて作らせ、太刀は過半のし付なり。生便敷したて、結構と申すは、中/\おろかなり。数百人の事なれば、一/\には、しるし得ず。初めは、一与に十五騎つゞと、仰せ出だされ候へども、ひろき御馬場にて、三与四くみづつ、一手になり、入りちがへ、透間なく、馬に行き当たり候はぬ様に、埒を右より左へ乗りまはし、辰の刻より未の刻まで、めさせられ、駿馬の集まり、記しがたきは、勿論、御料の御馬、細々めしかへさせられ、誠に飛鳥なんどの如くなり。関東より祇候の矢代勝介、是れにも御馬乗させらる。
岐阜中将信忠卿、■(アシゲ)の御馬、勝れたる早馬なり。御装束、事に勝れて、花やかなり。北畠中将信雄卿、河原毛御馬。織田三七信孝、糟毛御馬、目に立ちて、足きゝ早馬、達者比類なし。此の外何れも、おとらぬ名馬、いづれを、何れとも、申し難し。似相/\の御装束、是れまた、催興の有様なり。後には御馬とも懸け足にめさせられ、御叡覧に備へられ、皆/\、馬上の達者、花麗なる御出立、本朝の儀は申すに及ばず、異国にも、かほどの様これあるべからず、貴賤群集の輩、かゝる目出たき御代に合ひ、天下安泰にして、黎民烟戸さゝず、生前の思ひ出、有りがたき次第にて、上古・末代の見物なり。然して、御馬めし候半、十二人の御勅使を以て、かほど面白き御遊行、天子御叡覧、御喜斜ならざるの旨、悉くも、御綸言。併せて、信長の御面目、勝て計へず。晩に及び、御馬を納められ、本能寺に至って御帰宅。千秋万歳、珍重々々。
三月五日、禁中より御所望に付きて又御馬揃の中の名馬五百余騎を寄させられ、御装束は黒き御笠に御ほふこふ、何れもめされ、くろき御道複に御たち付け、御腰蓑させられ候なり。抑も、御門、百敷の大宮人・女御・更衣等、其の数、美々しき御粧ひにて、御幸ありて、御叡覧に備へられ、御遊興、御歓喜、斜ならず。信長御威光を以て、悉く、かまくも、一天の君、万乗の主を、間近く拝み奉る事、ありがたき御代かなと、貴賤群集の輩、合掌、感じ敬ひ申すなり。
三月六日、神保越中、佐々内蔵佐、并びに国衆、上国候。加賀・越前・越中三ケ国の大名衆、今度の御馬揃へに、各在京なり。今の透に人数を出だすべきの行にて、名誉のごうの刀作りたる松倉と云ふ所に楯籠り、御敵、河田豊前調略を以て、越後より長尾喜平次を呼び越し、大将として一揆を催す。佐々内蔵佐、人数入れ置き候小井手の城、三月九日に取り詰め候。又、加賀国白山の麓、ふとうげと云ふ所に、卒度、足懸りを拵へ、柴田修理人数三百ばかり入れ置き、近辺知行の所務、納め置くところ、賀州一揆、手合せとして、蜂起せしむ。ふとうげへ取り懸け、攻め破り、入れ置き候者を悉く討ち果たし候。この国の警固として、佐久間玄蕃を残し置き候。則ち、玄蕃、ふとうげへ責め上り、乗り帰し、一揆ども数多切り捨て、手前の高名、比類なし。
三月九日、堀久太郎に仰せ付けられ、和泉国中知行方改めの員数申し上ぐべきの旨、上意にて、泉州へ差し遣はさる。
三月十日、京都より信長、安土に至りて、御下り。
三月十二日、神保越中、并に国衆、安土に至りて参着。
御馬九つ、国衆より進上。佐々内蔵佐も御鞍・鐙・轡・黒鎧進上候なり。
三月十五日、朝、松原町御馬場にて、御馬めさせられ候。越中衆、何れも御礼申さるゝに、一/\御詞を加へ、悉き次第なり。こゝにて、長尾喜平次、越中へ罷り出で、小井手の城取り巻くの趣、言上のところ、則ち、先勢として、越前衆、不破、前田、原、金森、柴田修理の人数、時を移さず、出勢致すべきの旨、仰せ出だされ、各御暇下され、夜を日に継ぎ、越中に至りて、着陣候へキ。
三月廿四日、佐々内蔵佐、神通川、六道寺川打ち越し、中郡の内、中田と云ふ所へ懸け付けられ候ところ、上方の御人数参陣の由、承り及ぶ。
三月廿四日、卯の剋、御敵、長尾喜平次・河田豊前陣払ひを致し、小井手表引き払ひ、火の手を、間三里程に見懸け、成願寺川・小井手川を打ち越え、人数付けられ候へども、早、諸手引取り候間、是非に及ばず、併せて籠城、運を開く。
さる程に、去年、長岡兵部大輔・与一郎・頓五郎父子三人、度々忠節に付きて、丹後国下され候。然る間、青龍寺の城上げ申され候。これに依って、三月廿五日、御番手城代として、矢部善七郎・猪子兵助、青龍寺へ両人差し遣はされ、永岡知行分改め、居城仕るべきの旨、仰せ付けられ候へキ。
(『信長公記』新人物往来社刊、昭和53年3刷を底本としました。)

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