賽の河原和讃・猿楽伝記・色道大鏡

地蔵和讃

賽の河原地蔵和讃

和讃は伝承されてきたもので、隆慶一郎作品の時代で謡われたものとは、恐らくかなり違っているのだろうが、概ねこのようなものという資料として現代に伝わる和讃の一つを紹介。作品内の引用部分を赤で表示し、カッコ書きで付記した。

これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる 
さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり

かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む
一重組んでは父のため 二重組んでは母のため
(一重積んでは父のため 二重積んでは母のため) 
三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して

(西を向いては父恋し 東を向いては母恋し
恋し恋しと泣く声が みどりの涙の絶えもなし)
昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく
(ただ明け暮れの嘆きには)(酷や可哀や不憫やと)

親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる
我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す

その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出てさせたまいつつ
汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり
(汝が父は娑婆にある 冥土の父は俺なるぞ) 
娑婆と冥土はほど遠し 
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き

いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩

猿楽伝記

猿楽伝記

巻の上 (一部)

夫舞楽のはじめは、天照大神天の磐戸に隠れ給ふを歎き、猿田彦の命神楽を奏し給ふよりはじまる、聖徳太子漢楽を以て倭楽を定め、是より八音備り、舞楽調ふ、其舞楽を略し用るより、猿田彦の三字を分けて、猿楽、田楽、彦の舞と号す、猿楽と名付るは、五穀成就の祭の為、笛鼓の音曲、烏帽子をかむり、水干を着して舞、うたふ物はとう/\たらりと云、今の式三番に用る祝言の謡也、土田に限らず、田舎の長が家毎にも是を祭り、田畠の豊に実のる為の祝也、此謡物をうたふ時、心中に祈願の呪文を唱ふ、是神道より伝授也、
(中略)

○村上天皇の御宇より二百年後、堀川院の御宇、承長元年洛中にて田楽時行はじまるより、是を世に翫ぶに付、舞と云物始る、男舞、女舞ありて、其謡物は、古き物語の文段の句続きの処に章を付て、ゑぼし、水干を着し、笛鼓を以て囃す、後世の大頭といふ物此姿也、其女舞の帯剣を止め、狩衣にて姿を優にして、扇を以て一曲を上る、白拍子と名づく、妓王、妓女、仏御前等の遊君也、

○後鳥羽院の御宇、亀菊といふ妓女を其始として、妓王、妓女、仏等、皆此類也、桃井幸若丸、叡山の児童として在しが、其舞の文段を、居ながら吟声を付て語る、是賎からず面白し、とさすがなる人も習ひ謡ふより、今の幸若の舞といふ物世に広まり、立て舞、又笛鼓の鳴物も止たり、是より、男舞、女舞の流儀、大頭も世に廃り、白拍子もいつとなく面白からず、真似の舞拍子を仕出し、歌舞伎河原芸となる、

○後嵯峨院の御宇に、往昔村上帝の御文庫に納置給ひし十六章の謡物の次第、叡聞に達し置たるを思召出され、謡舞べき物なりとて、上代よりの楽人の頭人たる大和円満が家の者に賜ふ、故に音曲の鳴物を添て、今の能を仕始たり、此円満の家といふは、聖徳太子倭国の音楽舞楽を定め給ふ時、川勝大臣を以て其事に預らしめらるゝに付、子孫へ伝へて代々楽頭たり、故に今円満に謡舞べき由を仰有し、川勝大臣の時より、円満猿楽の家にして、とう/\たらりの翁渡し家に伝るを以、其吟声にて十六章の謡物を諷ひ、其謡を囃す、笛鼓にて是を囃して、舞曲を取立たり、其吟声は、僧家に伽陀と云呪讃の吟声を元として、移し来る処也、是太子の神道習合を始給ふによる也、是より能といふもの始、則猿楽と是を呼来る、一説に、元ト神楽より起る処なれば、神楽の略にて申楽ともいふ、(但、神の字の示偏を取たる物なりといふ、)
又一説に、猿楽、田楽と同じ類也、則田の字の上下を引延して、申楽と名づけたりともいふ、

徂徠の可成談に曰、たう/\たらりやらるろうといふは、楽の譜成べし、陀羅尼といふは僻言ならん、
又曰、能は元の雑劇を擬して作れる也、元僧の来りて教たる成るべし、是ばかりの事も、此国の人の自ら作り出せるにてはあらじ、又曰、能に神の形チをよそほへるに唐冠を着せたるは、我国の昔を伝へたるやう也、末社の神のかむりたるものも、昔かゝる服の有成べし、聖徳太子定め給へる十二冠は、かゝる物なるにや、

翰林葫蘆集に曰、秦川勝に申楽始る、
推古帝の朝、厩戸皇子(聖徳太子の御事)天神地祇をさいれいし、安国の政を敷く、依て六十六番の曲を作り、川勝に命じ、紫宸殿の前にて大優の技をさしむ、太子、此神楽の神の字を分けて、申楽と名付て、説文に申も又神なりといへり、大歳神申の方にある時は、猿を以て是を配す、よつて猿楽と云、神楽を和らげ、面白く戯れをなすを俳優と云也、宇治拾遺に云、内侍所御神楽の夜、職事家綱を召て、今宵珍らしからん申楽つかふまつれと有り、源氏乙女の巻にも、さるがくがましくとあり、
(中略)

○観世太夫は伊賀の服部の一党の者也、足利将軍東山殿に仕へて、観阿弥と云同朋也、渠に仰せて猿楽の業を学びはじめ勤しむ、其子世阿弥、其子音阿弥とつゞき、同朋にてこれをつとむ、其子俗にて観世三十郎と号し、猿楽となり、金春が聟と成、弥芸修行熟し、子孫相続す、太閤御代世間に繁昌して、能太夫余多ありといへども、金春、観世最上たるも、右の訳故也、太閤の御時、権現様御在勤の後、御休息として関東御下向の時、いづれの太夫成とも江戸へ被2召連1、御慰の御能可レ有、と太閤の仰により、然らば観世太夫を御連被レ成度由御願にて、御借り被レ成候事、是常々御出入仕りし故也、夫より毎度江戸へ下向仕候に付、天下とならせ給ひては、直に御家の太夫と成たり、入道して宗雪と号す、宝生太夫が子を養子として家を譲り、三郎といふて家督す、五山相国寺にて大能あり、観世が家の石橋両度あり、初度宗雪、再度は三郎勤る、脇は観世小次郎也、後年、三郎御料有レ之、没収追放せられ、蟄居の内病死す、其子鬼若被2召出1といへども、父没収に付家業退転し、伝授の書物は有といへども、其習なし、依レ之福王が家より惣ての事を伝授す、福王が家は観世と同流にして、しかも又観世が座の脇の家なれば、謡の章も替りなし、此鬼若家を興し、後入道して黒雪と号す、其子を左近太夫といふ、左近壮年にして病死す、宝生将監が次男を家督として、左門と号し、左近太夫が子久米之介を其子として、後の家督を渡すべしと定む、久米之介成長に及び、相共に勤し所、常憲院様御小姓に被2召出1、藤本源右衛門と改号し、其後筑後守に任ず、依レ之、左門には観世三左衛門が子三十郎を家督に定、織部と改号せしめ、則家を渡したり、是は子たる諸太夫と成、公辺勤仕せし処、猿楽として徘徊迷惑に存ずる故にて、隠居して服部十郎左衛門と名乗、後年におよび、薙髪して園雪と改しが、老後に及び眼盲たり、其実子を服部三郎四郎といふて、ツレの家たり、其子三十郎家督を得て、大納言家重公(惇信院殿)の御能の御師範たり、惣じて猿楽の旧家を御糺被レ成、四座と御定に就ては、御家の太夫元被2仰付1たるものなれば、観世を以四座の第一とし、金春旧家の最上なれば、第二に立らる、
(中略)

○宝生太夫が家は、元観世が一族、是も服部氏にして、其元祖は観世が弟子也、其後観世が庶子を送り、家を相続せしめかゝる事故、観世が流儀に元来は替る事なし、古将監若き時は、元祖七太夫上手なれば、是にたよりて芸をみがきたり、達人なれば、古来よりの上懸りに、七太夫流の下掛りを加へて、己が作意を交、新規一流のものとなり、其加へ取交し事をのけて見れば、観世流にして、謡も左の如し、将監才発の上手なれば、世に触るを以、其家に道成寺の伝なき故、其時分の囃子方の名人どもへ頼み、一流の道成寺を興立せり、(中略)金春、金剛は足利将軍の太夫にして、秀吉公、御当家様迄の太夫也、中頃信玄の太夫にして、当御代別て御太夫也、大蔵も信玄の太夫也、日吉太夫は信長の太夫なり、

○金春太夫が家は、猿楽の開基楽頭大和円満が子孫也、円満が時、能数六十番を定む、後世に至り、其数次第に増益して余多に及ぶ、中頃は是を業とする者国々より出て、弘治、永禄の頃には、太夫たる者十六家あり、此十六家の流儀を、元祖七太夫には不レ残伝授したりと云、十六家今は退転して、日吉、梅若、春日等のみ、家衰る儘にて残れり、かゝる訳を以、金春が家にて今に至り六十番の外を用ひず、猿楽といふは前段書記したる通にて、金春が家根源なる故に、翁渡しの伝授、今に至りて代々子孫に伝来す、此伝授、元来習合の神道を以執立たる物なれば、観世は吉田殿神道の御家なれば、是へ参り、神道の旨を承りしを以、観世が家の翁は、唯一の神道なりといひ伝ふ、宝生は代替りには上京し、吉田殿へ参り、其意味を受得す、是を、観宝は吉田殿より翁渡しの伝授を請し、と世にいひならはし、聖徳太子の神道は、今の習合也、其時代の神道の教に、唯一習合の差別なき故也、金春が家、川勝大臣より近代の八郎迄五十一代に及ぶ旧家也、八郎が父を七郎と云、其父を太夫といへり、渠に男子余多あり、嫡子八郎家を継て、後及蓮といふ、次男金春源左衛門、脇一色を勤む、是より脇師の家別に立、三男大蔵太夫と号す、渠は武田信玄の太夫となり、甲州に行、其子後大久保十兵衛と号し、御家へ被�召出�御群代を勤、石見守に任ず、死後訳有て滅亡す、三男大蔵源左衛門大鼓の家と成、入道と号す、四男大蔵弥右衛門狂言師となる、
(中略)
○金剛太夫は坂戸家と云ふ、円満より六代目の家にて、大和の内坂戸四百五十石を領す、天正の頃の金剛は、小牧合戦に三好秀次の軍に従ひ、敗走の時は、只一人秀次の供して討死す、其子なく、千葉の家の支流といひ伝ふ、渠関ヶ原の時、石田三成に属せしに付、没収せられ、代々の坂戸領地を失ひしが、芸者の事なれば、被2召出1、御蔵米三百俵を賜る、
(中略)

○喜多七太夫家は旧家にあらず、慶長年中、元祖七太夫は鼻金剛が弟子にて、其父は堺の蛇谷に住せし翁屋也、廿七歳の時大坂御合戦にて、(夏御陣也)金春の大太夫と共に大坂へ籠城し、五月七日、真田左衛門佐に伴て、将軍家の御備へ伐込、大太夫は馬上、七太夫は歩行也、大坂落城に及び、両人ともに落去て、大太夫には藤堂和泉守常々目を懸らるゝに付、藤堂方へ走り入て隠れたり、七太夫は大和の方へ逃行しが、其道にて柳生但馬守通り合せしが、是を頼まんと行向ひたり、但馬守甚叱りて退かしむるを以、夫より因みの者を尋て是に便り、隠れ居たり、将軍家には渠が功なる事を御憎みにて、見付次第成敗せよと仰有しかども、両人ともによく隠れ課せり、其後御能の度毎に渠が芸を思し召出され、太閤御代渠が業を上方にて毎度御覧有しに、其内に清経の能すご/\と還幸なし奉るとの所の所作、下間少進と大太夫と七太夫が三人仕分たる事共を思召考へられける時、藤堂には大太夫が恩免の事を相願ふを以、御免にて被2仰出1けるは、七太夫は何方に罷在ぞ、御能被2仰付1御覧有度と上意の時、柳生申上けるは、其渠が居所当所御座候得ば尋見申さんや、と申上らるに付、尋来れとの仰を蒙り、大和在所辺にて尋出し、則呼下すを以被2召出1、七太夫義、元芸を鼻高金剛に習て上手となるを以、金剛と一所に可2罷在1由被2仰付1同居す、数年の浪々なるを以、一世一代の勧進能を勤むべしと、御免にて勤レ之、千両の金子を得たり、
(後略)

(中央公論社刊『燕石十種』第一巻を底本としました。)

色道大鏡(一)

色道大鏡

畠山箕山著

巻第三

寛文式上 (一部)

(前略)
一、新艘の女郎には、ちいさき子のはじめたる禿をつけたるよし、新艘のためとて、一たび先輩に付たる禿をとりかへて付る事なかれ、その故は、先とりあひあしく、且女郎よりこなしてつかひにくし、又は新艘の女郎を禿よりもどかしがる体見れば、其女郎の瑕瑾となる、新艘のとりたては、つれて出たる女郎と、やりてとして引たつる物なれば、禿はいづれにてもくるしからず、

一、家主より女郎に命じて、始たる禿を付る時は、主人より小袖一、女郎より小袖二、上帯、下帯相添てくるゝ式なり、女郎よりはじめて禿に盃を下す、次に遣女より禿に盃を下す、上代には此法たがはざりけれど、今の世になりて、この義まち/\なり、女郎はじめてつれて出る前日、額髪をわけて禿髪に結かふる也、禿髪といふは中じめの事也、櫛道具、帯、はな紙、はき物等に到るまで、惣じて禿の身のまはり、はや此日よりめしつかふ女郎のさばきなり、この以後主人より禿に出すものは、年中に綿布一づゝのみ也、

一、禿成長して禿のかはり出、其者引こむ日より、髪の中じめを改めて、島田わげに結かふる法なり、おなじく後帯をかへて前帯に改む、さrども、俄に前帯するはすしにみゆる物なれば、帯は後帯もよし、

一、新艘の傾城出世するに、女郎つれて出る事、禿の時めしつかひたる女郎即導く、是諸郭共に定る法也、たとひ其女郎いきほひなき人にても、他女これをさまたげざる処也、又、いづれの女郎にも、禿につけずして突出に出す新艘あり、是は主人の見立次第にして、其家にて勢ある女郎に、つれて出よといひわたす事也、是をよろこぶ女郎はなしといへど、権命なればちからなし、又、其中の貌すぐれたる新艘にて、前簾より沙汰ある程のものは、ほうばいの女郎せりあひつれて出る事も自然に有、
(中略)

一、新艘出世定月之事
太夫職の出世は、月を定め、日を撰む事、その家/\の吉例なり、喜多宗真が家には、六条より已来、正月ならでは太夫を出さず、彼家の小長門出世の時、子細ありて、三月に出世すべきよし、おの/\議したれども、賢子左門云、先祖よりの恒例今更そむきがたしとて、寛文元年正月に、左門連て出たり、上林家にも、同じく正月をもつて太夫出世の定月とす、即此家の二世薫、諱倹子、慶安四年正月廿日に出世したり、三世薫、諱輝子、初若菜といひて出世の時、前薫出世の例に准じ、寛文元年正月廿日に出世したりけるが、吉例にや有けむ、前代に増りて繁昌しかりき、これより、いよ/\正月廿日を太夫出世の定日とす、其外出世の定月、正月を用ひざる家には、二月初午、三月の御影供、四月稲荷祭、或は端午、或は祇園会、名月、豕子等、かくのごとくの目にたつ物日を、出世の定日にとれり、是上職、天職、囲職共に此儀同じ、

一、新艘出世門出之法
その日、飯後に新艘着用の小袖三或は四、匣のふたにのせ、上に包熨斗をそへて出す、(上代には、蒔絵のひろぶたに是をのす)先輩の女郎、是を介錯して着せしめ、香をとむる、導きの女郎、新艘をめしつれて座敷に通り、第一の上座に着、若両女とも天職ならば太夫職の次に着べし、それより一家の傾城、労次第に座に着、次に挙屋の年寄、并に水上の挙屋末席に連る、先、熨斗昆布の三方出る、次に吸物、次に銚子、次に重箱、肴は、うるめ、するめの両種なり、家主盃をはじむ、先、長の盃を導く先輩の女郎にさす、此盃長に返る、第二に、新艘の女郎にさす、此盃長にかへる、第三、遣女を召出して長よりさす、盃又々長に返る、長より女房にさす、長の婦より導く女郎にさして、次に新艘より両人の挙屋にさす、その盃もどりて、それより一家へ盃めぐる、若日たけたる時は、傍輩の宴をなほざりにす、挙屋人は巳の下刻を本とす、行列の次第、新艘の女郎、太夫職なれば、一人先にたてゝ、導きの女郎後によりそひて歩む、天職なれば、二行にたてゝ先に進む、その次に、一家の上職、天職、年にしたがひて先にすゝむ、いづれも二行たるべし、囲職は、先輩たりといふとも、若き天職より後に有べし、次に一家の禿、列を乱して一図に付べし、その中に、導く女郎の禿、新艘の禿二人は先に進むべし、禿の後に、一家の遣女残らずつゞく、遣女の出立、服には清絹を着し、前垂は常のごとくす、(五節供に出る女郎の供にはこれを除く)次に、家のおのこ残らずもすそをかゝげて、趾のおさへに付べし、女郎ども、新艘を誘引して、先郭中の親族の方に到る、家門の礼おはりて、挙屋町に至る、先、水上の挙亭へ新艘を同道して、一家の女郎残らず入べし、新艘の部屋には、太夫の時衣桁三脚、天職の時二脚たつる、夏の季たりといふとも、小袖共にかざる、女郎座に着より、三方に熨斗、土器にて引わたし有、(此時は冷酒)次に雑煮、次に銚子出る、挙亭の夫婦出て、新艘と盃あり、宴をはりて挙亭町の礼を勤む、此時、一家の女郎、新艘の後に付て残らず出る、但、家の太夫職計りは、出ずしてもくるしからず、此礼をはつて、傍輩の女郎、面々の挙亭に退く、

一、太夫の新艘、出世の日より三ケ日の間、さげ髪にて後帯する法也、天職の新艘は、両日の間右之通也、然りといへども、すがたぬるしとおもひてや、或は両日、或はその日計りにてやむるも有、此両品は、新艘のしるしを見せしむる謂也、さげ髪を改むるときは、島田兵庫にゆひて、さしぐしをさす、元結は平もとゆひたるべし、初日にても、次の日にても、夜に入てよりは、さげ髪をあらためて、島田にもゆふ、またはつくね兵庫にもゆふ也、
(中略)

一、禿の時より磨きたつるには、いづくにおろかはなけれども、耳のわき、うなじのあたりを、せむに磨べし、いかによのかたをあらためたりとも、此所くろきはおぼえをとり、つたなくみゆ、生れつきにもよるべけれど、実は年をかさねてみがきたらむには、そのしるしなくてやはあるべき、

一、生れつき眉うすき女郎の、眉をそりて黛ひかんに、細すぎたるは、顔愁に見えてわろし、ふときは、すさまじく見えて猶わろし、墨のこきは、いやしくて見ぐるし、眉さきの作り出しをほのかにうすくして、眉さきをこく引出して、眉じりをうすく作る女郎あり、いたくしのばしからず、

一、額うすき女郎、墨をおく事なかれ、町の女さへ見ぐるしきに、まして傾城たらむ人、此わきまへならむや、額のもぎあげたらむは、あがりたるまゝにて顔の作やうあるべし、額のとりやうは、丸きにしくはなし、丸きとても、真中ばかり高くあげて、富士なりにとりたるはわろし、瓦燈がた、袴ごし、かたく是を制す、鬘づらのうすき人は、十川額にもとる、年たけたる女はくるしからず、十川額といふ事、むかし十川氏の男子とりはじめたる額のなり也、さりけれど、女の額に用来りて、中頃までは女中これをこのめり、今もよきにはあらねど、置墨くろくせむよりはまさるべきか、項の髪はへさがりたるとて、剃刀にてそる女郎あり、必制すべし、ぬきつくされぬ時は、そのまゝ置べし、剃口を見たるは、興ざめて覚ゆる物也としるべし、

一、傾城の顔に化粧する事、これを制する処也、但し、新艘立の女郎、少の間は是をゆるす、月を経ては必とゞむべし、端女郎はいかほども心まかせにぬるべし、その故は、局に入来る輩、其善悪をわきまへざれば、たゞ色白く見えたる計りよし、挙女郎の年へたるにも、折々化粧する女かたへにあり、是よからぬ事也、最停止すべし、抑傾城といふは、禿立より、朝夕五体をみがきあげて、繕なき貌を本とす、道に長ぜる人は、傾城の色くろきとてきらはず、色くろき女郎は、くろきまゝにておくべし、是生れつきにて、ぶたしなみとはいはず、むかし天が下しろしめしたる君は、女の顔のいたくしろきをきらはせ給ひて、あさぐろきをこのませ給へり、是御物ずきのたけさせ給ゆへなりと、かんじおぼゆ、

一、髪の結やうは、島田わげ、島田兵庫、乱島田、つくね兵庫、立兵庫の銀杏がしら、笄わげ、笄もどき、笄くずし、ひつかへし、こかし、すべらかし、丸わげ等也、その中に、立兵庫の銀杏がしらは、昔の傾城、おしなべて是をこのめり、されども、近代かたく是を制す、傾城めきて貌はなはだしければ、却て初心に見ゆ、丸わげ又制す、当世もいなかにては、年たけたる女郎、まれ/\自然の手すさびに、丸わげして出立事あり、是無用のいたり也、丸わげは、町かたにても下女のしわざなれば、すがたいたくいやし、かりにも此たはぶれをすべからず、笄わげは振袖の中ばかりを制す、袖をつめたる以後は、心まかせにゆふべし、されども、笄は年のかさなる女郎によし、つくね兵庫は、傾城によくとりあひて、いかにもおもしろし、別てすぐれたる物なり、然れども、初対面の座、はれの時は、斟酌あるべし、これも若年の女郎にこのましからず、このおもしろさをしらざるにや、京の外他郭に是を用ず、ぜひなき次第也、島田わげは、おしさがりてあふのきたる、いたくなつかしき処あり、そのおしさがりてすこしゆがみたるも、猶なつかし、されども、五度の祝儀日、或ははれの時、又は初対面の会などにはこのましからず、是はたゞ心やすくあひなれたる参会によろし、又、ながゝらぬ髪を、そへいれずにすき尽して、ふたつに折わげ、仮にしめゆひたるも、一しほすぐれて見ゆ、されども是は、人に名をもよばれ、其功ある女郎などはよし、さなき女郎は、たけ過たるやうにてよろしからずと見ゆ、次に髪のつとをする事、いやしき業也、さればにや、京の女郎につとをこのむものなし、大坂は大郭なれども、田舎なる故にや、髪のつと専也、無念といひつべし、その外の鄙郭はいふにたらず、

一、笄わげの事、上つかたの女中、さげたる髪をくるくるとまきあげて、髣掻にてさしかためおき、上よりめさるゝ時、笄をぬきて御前へ出たまふを見て、地下の女、これをならひてゆひつけたり、笄とは異朝のかむざしなり、今ももろこし人は、女子ならねども男子も髪長きゆへに、髪を巻て笄をさす也、笄、釵、鈿、珈、筵、簪、皆これかむざしとよむ字也、かうがいともよめり、

一、指櫛の事、此根源は、斎宮伊勢へ行啓の時、大極殿にて、天子御手づから、斎王にさしぐしをさゝせ給へる也、是を湯津の爪櫛ともいふ、湯津とは猶レ言レ湯也、津語助、湯者清潔之儀、水能洗�滌不浄�故曰レ湯也、爪櫛者梳形似�爪甲�、その時、天子斎王に宣へるは、二たび都へのぼりましますな、とて御いとまごひある事也、その子細は、当今かはらせたまへば、斎宮もかはらせたまふ故也、されば、上をまなぶ下とやらむにて、凡下の者も、餞別に櫛はせぬ事也、これをまなぶはおほそれありといへども、ことはりに過たれば、尤にこそ侍れ、斎王のさゝせ給へるのみならず、女の髪にくしをさす事、上代よりありけるにや、清少納言が枕草子に、かしらども一ところにまろびあひて、さしぐしもおち、よういせねば、をれなどしてわらふも又をかし、とあり、延喜弾正式云、刺櫛は女の額にさすくし、と有、げにや、今みれば、傾国共の髪の根もとにさしたるより、ひたいぐちにさしつ、又は鬢頬、又はうなじなどに、さしこみをかろくさしなしたる、いとやさしと見ゆ、たがつたふるとしもなきに、傾国高上の心よりかゝる風流をあらはす事、爰にて筆をなげうつ、今傾城の髪に櫛をさすおこりは、六条の時、名家亜相の、御髪にくしをさゝせ給へるを、その時の傾国共見て、さしはじめつるよし、尊子八千代、予にかたりき、

一、額髪みじかきは野体なり、長過たるは初心めきたり、長からず、みじかゝらざるやうにすべし、但し、やつこふうをこのむ女郎は、成ほど、みじかき方とりあひてよし、

一、爪は手足ともに直にとるべし、丸きはいやしければ、ゆめ/\まろくとる事なかれ、爪はすぐにとりて、うへの肉のかみ出したる、是女の上品なり、肉のさしあがるやうにとりなすべし、爪紅粉もこくさして、ひかり色など見ゆる、いたくうるさし、又さゝぬもあしければ、そのよきほどを可2心得1也、

一、傾城の衣服は、すその長きにしくはあらじ、おもひの外ながきほどよし、大坂の傾城、ゐなかなれども、この頃長きを用ゆ、きどくと謂つべし、長崎の傾城、もちろむ美服は着すれども、すそのたけ抜群みじかし、よき事をしらねば、ちからなしとやいはむ、当世傾城の袖のゆきみじかきは、口惜けれど、都の傾城さへ、今はみじかければ、是非におよばず、六条の時代までは、京、大坂、田舎の果までも、袖のゆき長く、袖のふりも長く、たをやかなれば、風流ことさらなりき、奥村家の八千世が時までは、今のやうに殿中袖はなし、これより後、いよ/\品くだりて、女郎さへ六ぼうめき、つよみがちなるを誉る世にこそ成けれ、これによつて、時にしたがひ、袖のゆきみじかく、大袖口などよしとす、豈女の服ならむや、

一、小袖の綿は厚きほどよし、うすきは少分に見えて、女にくらひなし、殊更、襟には綿を厚く入べし、すそはうらのふきたる方よし、つまも高きよし、この分は末の世までもかはらず有ぬべし、袖下、袖のなりは、時のはやるにしたがふべし、

一、傾城の小袖の着やうは、いくつ着しても、ひとつまへよし、下がへのゑりさきを裏返し、折付てより上がへを合するものあり、これによつて、こしつきよし、立居にもよし、これ程の事さへ、ゐなか傾城のしらざるこそあはれに侍れ、

一、帯の仕様は、さがり過たる程なるをよしとす、傾城は腰のふとみにしぬるものなるが故に、下に居て身をうごかせば、かならず上のほそみへすりあぐるもの也、かかる処をしりて、都の女郎はまもなく帯をおしさぐる、たちあがる時は、いよ/\おしさぐる也、大坂の傾城、京に遠からずといへども、これをしらず、予、年々大坂にくだりて、是を制すといへども、受納する傾城五三人には過ず、江戸にいたりて是を制するに、耳にも聞いれざりき、長崎にわたりて見れば、弱腰にしめ付侍る、これは諌むるに及ばず、剰巻物を三ツ割にして、帯に用ゆ、かゝる処に、肥前の佐賀の住人にあひぬ、是京にたびたび来たるをのこにて、旧友なれば、此人にむかひて、これをあはれがりしに、此ひといはく、さればとよ、われも都の風儀のたうとき事を年頃見おきて、是を歎きつゝ、をり/\制したりし故にや、傾城のすがたとおぼしきもの所々出たり、これ/\とてゑり出し見するに、二ツ割の帯をおしさげてしたる者五六人あり、是を尋ぬれば、廓中にて高名の者のみなり、是に本づきて、我も又鄙風を制し、品々を諌むれば、やう/\傾城めきたる者廿人ばかりあらはれたり、かゝれば、より/\誠の道をしる者出来なむと、たのもしく侍る、
腰のふとき傾城、ふとく見えむ事を苦にして、帯をおしあげてすれば、下ふくれて、いよ/\ふとく見ゆる、腰のふとみにひきまはせば、そのふとさをかくすものなり、なべての女、此極意をしらず、こしのふときを、女の身にしてはくるしむ者おほかれど、ほそきとふときとくらぶれば、ふときかたはまされり、こしのほそきは、幼稚にてしのばしからず、うしろつき見ぐるしきもの也、是秘蔵の事也、でじりの見ぐるしきといふ事は、誰もしれる事なれば、しるすにおよばず、丸きこしは見てあしきもの也、こしつきのよきといふは、うちひらめにて、上下出入なく、すぐなるよし、と先人さだめあひけり、
(中略)

一、帯のむすびめは、真中よりすこし右の方へよせてむすびたるよし、又なるほど引廻して片わきにてむすびたるもよし、しかる時は、帯のうはかた前へかゝりたる所を、すこしおりかけたるよし、

一、客の前ならず、内証にていそぐ時など、帯の真中とりてまへにあて、うしろのかた帯もじれて、見ぐるしきもの也、傾城は、人前ならずとも、常に心得あるべき事也、町の女はかゝる処をわきまへず、人前にてもかゝる帯の仕姿有、身をはぢぬ故成べし、
(中略)

一、傾城の打懸をする事、時により、事によりて着すべし、貴人の前へ出るか、或は初対面の会にいづるか、或は大よせの座席に至る時などはさもあらむか、また残暑の時分、端居したる夕つかた、袖にすゞしく、さとふく風におどろかせ、禿に命じ、帷子の上に小袖うちかけたる、又、肌寒き折から、月にうかれて三絃をしらべ、又盤にかゝりてふくるをわすれたる夜半、うすく着なしたる上に、まどゐしながら、又ひとえ引かさねたるなどは、天性おのづからのけしきにて、もとめたる業にあらず、或は挙屋の見せに客待うけつゝ、うちかけして立たるなど、きながしよりはまされり、かやうの処をよく味ひて、うちかけすべし、また、子細あつてうちかけを好むもあるべし、すぐれてせいひきゝ女郎は、胴つまりて、かならず腰つきあしゝ、又、せいひきからねども、天然とすがたよからぬ女郎もあり、これらの類は、うちかけにてつゝまむために、常にこのむと見えたり、伊藤家の藤江、大坂の常世、両女共に、さしもすぐれたる容貌なりしに、そのたけみぢかくして、杉針の、恋のうき名のなどいひわたりしが、裳すそを長く着なし、常にうちかけしたりつるが、見にくきやうにはあらざりけらし、天職たる人のうちかけする事、心得あるべき事也、客まちながら挙亭の見世に立時は、いづれにてもくるしからず、初対面の座へ出る時は、その身高名の女郎ならば、打懸もしかるべし、さもなき人は無用の至也、又、太夫職と入まぜの座ならば、斟酌あるべし、囲職たる人の打懸、見かけ然るべからず、遠慮すべき事也、

一、傾城の衣裳を、客の前へきかへ出る事、両三度迄を許す、その上は然るべからず、大よせの座などにて度々改る事、初心のいたりなり、六条の時、太夫十八人の大寄あり、さなきがに、此時の上職どもは、荘厳常にあたりもかゞやく計りなるに、此日ははれの会なりとて、あらたに衣裳を改む、綾羅錦繍をもとひ、金色のひかり座に充て、偏に安養浄土に異ならず、此日、吉野(諱徳子)上客たりけるが、いまだ出座なし、いかにととへば、暁天まで起居給ひしが、いまだしづまりておはす、といふ、さらば夢おどろかし申せ、とて座中より使をたてしに、目をさまして、はや何も来り給ひつるか、それへ参りなん、と寝所にて手水をこひ、ねみだれ髪にて座に出たり、白綾の肌着に、無地なる黒き物二ツかさねきて、紫のくゝし帯をまはし/\出つるが、数輩並居たる女郎を越て、座上に着たる体、あつと感じられて、しばらく挨拶もしがたかりけるとかや、その座におはしける歴々の御方、予にかたらせ給ひけるまゝ書つけ侍る、
(中略)

一、太夫あがりの事、天神より太夫になる事は、一分の利発すぐれ、且、その身運に乗じて昇進する道也、自分の訴訟にてなるはまれ/\の事也、おほ方は、その身平生の勤め、世間の見聞をもつて、主人よりいひわたす事也、辞退するもあり、又命に応ずるもあり、其身上職たらむと心に治定したる時は、日頃の知音共により/\相談すべし、きゝえたるをとこはよし、きゝえがたき男を其まゝおきてきはむる時は、口舌のもとなり、其男聞えざればとて、女郎のためあしかれとおもふにはあらず、一世浮沈の処なれば、大事がりておもふなるべし、それを打捨ておかず、遣手にもいはせ、挙屋にもいはせ、其主はいく重にも辞退の心なれども、達て主人より申つけらるゝといへども、そのほうさまと談合の上ならでは、内への返事もいまだ御申なきなどゝ、その男次第のやうにいひてのみこませ、いづかたをも下談合すましおきて、日限きはむるよし、太夫あがりの法は、
主人より小袖十、并寝道具かはるべし、
禿に小袖一、帯一筋、主人より出す、
女郎自分に、小袖三或ニ、帯二、下帯等を用意す、
禿の小袖二、帯一、これも女郎自分の用意也、
客より来る小袖は此外たるべし、

扨、知音の輩に約して日並をくばり、太夫なりの日より出続る事、五十日、或は三十日、その身の器量にまかす、惣じて高名の女郎には、物日といふ事もなく、いつまでといふ際もなし、不断出るものなれば、いつとても闕日あるべからず、初日には、知音の男より一家の女郎を挙る法也、さなき時は、とりたてのけいせい一両輩、并昵近の囲職五人、或三人、太夫につれて挙べし、挙亭の饗応、木具にて二膳たるべし、尤造り花、島台等を用意すべし、客より挙亭への祝儀、分量は時の様子次第にして、折紙を出す、客より遣手にも此目録をつかはす、時服にても、金銀にても、又、太夫より遣手へは、必時服たるべし、
天神の太夫に昇るは、よく思案すべき事也、明暦三年十月、上の町天神女郎、みづから太夫職に望みをかけて、只独り有知音に談合したり、此男も年頃知音する程の心なれば、太夫になしたくやおもひけむ、一段しかるべき、とうけたり、女郎満足して、主人にかたる、家主遣手をよびていはく、我是非とも太夫にせむとはおもはねど、知音所望の上ならば、ともかくもすべし、といふ、遣女尤とおもひ、内談するに、彼男、先一ケ月に十日宛うけとりたり、其外は又をりふし来る人もあらむなれば、先あげよとて、太夫になしたり、彼男かしらをうけとりつゝ、此以後、誰にても他客来りて望む時、我にことはるまでもなく引合すべし、といひつけて、五日過れども、十日過れども、外より請待せねば、是非なく、廿日ばかりこたへしが、少やすまむとて内にかへす、第一、この傾城、かこひとはいはれざりしが、無類の天神といふ程の貌にもあらず、右はをり/\あふたる者もありつれど、太夫職になりぬと聞てより、眉をひそめて来らざれば、外に忍ぶものなし、毎月の物日節供うりまで、一日もかゝさず、彼男計りにあてつけければ、此者ことのほか草臥つくまゝに、のきたくおもひて、色々の無理をたくみ、難題をいひかけみれど、むりともにせめかけ/\無心をいへば、此男後にはあいそをつかしてのき切けり、さるほどに、男一人もなければ、すべき手だてもなし、あけくれ隙ある身となれば、家主いかりて、さればこそ、我心にすゝまぬ事をいひ出、いらざる太夫になりしよ、とはぢしめられ、ほどなくもとの天神となりき、まもなく、あがりさがりする女郎を、最上河ともいひ、又やねふき傾城といふも、このたぐひ歟、

一、天神あがりの事、囲職より天神に昇る事は、度々諸郭におほし、かこひの天職にあがるも、天職にあがるも、天職の太夫になると心持は同じ事也、儀式さして改まらず、女郎の知音に内談するとても、囲職をかふ程の知音は、さまでの者ならねば、談合のはかもゆきがたし、只主人の見立計りにて天職となる也、
家主より、小袖五、并寝道具かはるべし、
禿に小袖一、帯一、主人より出べし、若禿の小袖主人より出ぬ時は、女郎自分に用意す、たとひ主人より出るといへども、数なき故に、女郎ぜひ共に用意すべし、
天神なりの日より出続る事、三十日、或は廿日、その女郎の器量によるべし、

一、太夫おろしの事、傾城屋の太夫を持事、家の規模なれば、たとひ不全盛なりとても、しばらくは持こたへ見るもの也、然といへども、一円知音もつかず、其身不運なれば、天職にくだす、又主人の命ならねども、その身不全盛なることを恥ぢ、度々訴訟をして天職となるも有なり、天職となれば、太夫より身もちも心やすく、万事ちがふ事のみあれば、自分より望むも尤なるべし、又、太夫の時うちくもりたる女郎、天職となりて俄にうり出し、然らば、おもひきりて官を下すも一ツの謀也、

一、天神おろしの事、天職のかこひにくだる事は、よく/\無仕合なる事也、太夫の天神におり居たる計りは、外聞はよろしからねど、又うり出せば、人がらもよく見えて、むかしをくゆる程の事なし、天職のかこひに下りたるは、先禿をつかはねば、見かけといひ、不自由といひ、衣服、寝道具のかはりめあり、遣手のあしらひまでちがへり、その上一ぶむの客のかふ事稀にして、太鼓式のあひてとばかりなる事なれば、是非なき次第也、天神おろしの法は、主人より遣手承りて、其日挙亭中を廻り、今日より囲になし申由、触しらする事也、
囲職の見ぐるしきは、坤郭のみなり、第一禿を付ず、且、太夫、天神の引者と見ゆるによつて、傾城のはへなし、大坂の囲は禿をつるゝといひ、其上一分の知音をもつ故に、太鼓めかず、自然に上職の挨拶にくはゝるといへども、目にたゝざる也、又小郭の囲は、猶以其へだてなし、是田舎なる故ならむかし、

一、端女郎の事、端女の居る所を局といふ、局にかくる暖簾、むかしは花族の御家へ申上、御ゆるされを蒙りてかけたり、免許なければかくる事かなはず、即、彼御家より出たる暖簾布を、柿染にして、長さ四尺、はゞ三幅也、縫合の二所に柑子皮の露あり、然といへども、此儀今は断絶して、かの御家より吟味なし、傾城屋自分のはからひとして、是をかくる、当時暖簾の色は紺染を用ゆ、されども、太夫町一町ばかりには、柿色を今に用ゆる事、吉例をもつてす、寔に殊勝の事也、この局の内、土間は外にして、畳二帖敷を先定れる法用とす、或は三帖敷もあり、又四帖半に床棚を付るも有、昔の局には、壁に対て竿をつる、是を衣掛の竿といふ、子細これあり、江戸の局は、口の間も広く、奥の間に寝所をかまふ、西国の局には、端女二人三人一所に並居て、男来れば、その好む女一人残りて、外は奥に退く、是国々の風俗也、

局の具、
屏風、主人よりこれを引、屏風の模様は、物ずきにかまはず、只目にたつを本とす、
蒲団、敷筵、主人よりこれを渡す、
莨宕(正しくは草冠)盆、端女自分として用意す、たばこも自分にこれをまかなふ、
手水鉢、主人よりこれをおく、
火鉢、火ばちは主人よりわたす、炭は端女自分にこれをまかなふ、
上帯、下帯、楊枝、雑紙、はきもの等、端女自分にまかなふ、
端女の遣手外にあり、端女の多少によらず、その家に一人宛これ有、挙女郎の遣手を兼てめしつかふ事なし、

一、若衆女郎の事、近年傾城の端女に、若衆女郎といふあり、先年祇園の茶屋に、亀と謂し女、姿かたちを若衆によく似せて酌を取たり、されども、是遊女ならず、これのみにて断絶しぬ、若衆女郎の始る所は、大坂新町富士屋といふものゝ家に、千の助とてあり、此女始は葭原町の局にありしが、おのづから髪をみじかく切てあらはしゐたり、寛文九年已酉の年より、本宅の局に帰りて、さかやきをすり、髪をまきあげにゆひ、衣服のすそをみじかくきり、髪をまきあげにゆひ、衣服のすそをみじかくきり、うしろおびをかりたむすびにし、懐中にはながみかさ高くいれて、局に着座す、よそほひかはれるしるしに、暖簾もかへよとて、郭主木村又次郎がゆるしをえて、暖簾に定紋を付たり、紺地に鹿の角を柿にて染いれたり、是若衆女郎の濫觴なり、見る人めづらしきといひて、門前市をなす、故に、爰に一人、かしこに一人づゝ出来るほどに、今はあまたになり、堺、奈良、伏見の方までひろまれり、是衆道にすける者をも引いれむの謂ならむか、されども、よき女をば若衆女郎にはしがたし、それにとりあひたる貌を見たてゝするとみゆ、大坂の若衆女郎は、外面よりそれとしらしむるためにや、暖簾にかならず大きなる紋を染入る、

一、恵比須箱の事、恵びす箱といふは、端女のとれる料足、銀などを入る箱也、長さ三尺、はゞ六寸、高さも六寸にて、上に七穴あり、小口に引出し鎖前あり、長さを三尺にとる事、一月の日数三十日に比すと云、はゞ六寸、高六寸は、六根六色なり、七穴は七耀の星をかたどる、権大僧都栄海に加持をたのみて、しやぐはんの又市さだめたる法式なり、

巻第四

寛文式下 (一部)

(前略)
一、躍の事、盆のをどりは、さはがしくてよからぬたはぶれなれど、郭中商売の為なれば、停止しがたし、此見物として入こむ輩、郭中無案内の老若ともに来らずといふ事なし、名にある傾城のをどるぞと計りおもひて、見る事にや、先心をつけて見るに、ならはぬ芸なれば、拍子そろはず、殊更傾城ばかり儀式をたてゝもをどらず、道俗人ごみにをどれるすがた、茫々としてらうがはしゝ、年に一度の事なりとも、よくならはせて見まくほしき事也、室、下関、長崎は、田舎なれどもをどりをたしなみ、一ふりふりたる品すがた、都の傾城にはまさり侍る、

一、近代は、傾城の中に奴風といふあり、野郎若衆にも奴風あれど、是は根本男子なれば、ゆるす処もありけむ、女郎の奴だて、いさゝかいぶかしき事なれども、つくづく愚案をめぐらするに、時うつり、品かはりて、人の心直ならず、多くは野人のもてあそびものとなりて、きやしやなる事はこのまず、はづみたる事計りをすく世にしあれば、かゝる風情もなくてやはあるべき、しかりといへども、太夫職の用ゆべき風儀にあらず、天職より以下の業なるべし、うちくもりたる処なくて、心勇む物なれば、是をあしとにはあらず、此風によくはまりたる傾城は、よのつねの女郎より、をとこのすく事莫大也、もし此風儀をたてむとおもふ女郎あらば、しめすべし、いかに人のおもしろがればとて、傾城の格をはづすは、狂人に似たり、かはるところと、かはらぬ処と有べし、つよきはつよきにたてゝ、卑劣なるふるまひをせず、気推は気推にたてゝ、またなくむさからぬ体を心に持べし、この心得なからむ傾城は、奴をまなぶといふにはあらで、本性あらはさむは、口惜かりぬべし、つよみがちなるうちも、心にうけえたる人にあひ、ひし/\となりて、もろくたはるゝ所ありなば、男のまよふ事、たなごゝろをさすがごとくなるべし、近世まのあたり見およびたる奴には、江戸の勝山、京には、三笠、蔵人、大坂にては、八千代、御階、大隅等也、

一、遣女の事、遣女とは遣手なり、やりてといふは、主人より傾城をあづけ置もの也、又、傾城の与力として、後見のため、又横目にも比せり、つねに召つるゝ故に、家来かとおもへば、其元傍輩たり、さるによつて、これをこなしてつかふ傾城すくなし、其上近代の傾城は、平生入用のまかなひ、皆遣手をたのまざれば、曾てとゝのひがたし、遣手も又、是を鼻にあてゝ、女郎を尊敬する事うすし、かゝれば、客のまへ、傾城の威をうしなひ、心ざしをうばふ、傾城たる者、その身奉公の勤め、私なく、まぶてぐだする心ならねば、やりての異見をうけず、恐るべき事なければ、へつらふ事なし、然といへども、疵のなき傾城は、十人に一人もあらぬ物なるがゆへに、やりてに物をかくし、恐るゝこと也、されども、やりてはおもはくある風情を、かりにも見付ずといふ事なし、又、子細をしりたればとて、そのまゝ主人へ告るものにもあらねど、一段しかるべきといふやりてなければ、つつしむもことはり也、遣手、女郎に対し、ひそかに教訓すれば、或は陳じ、或はのぼる、或は領掌しておもひやむものあればよけれど、やりてにおどろかされてとゞまる女郎、又十人に一人もなし、そのやりて、折々異見するまゝなれば、いふところなきに、相おもふ男と女郎と、密談して謀をめぐらし、遣手をだき込てならびとなる事、すくなからず、又、不忠にして賄にふける遣手は、謀におよばず、つゝまずしてあかすを悦びつゝ、傍輩の女郎にさへかくし、三人一味すれば、その女郎心のなほるべきやうあらず、そも又、賄に遠ければうちはわれして、人にもかたり、我よきものゝやうにしなすは、やりて也、かく前うしろなく、始終心の糺しきやりてを、主人もよく聞とゞけてまねきよせ、傾城に付る事也、かやうの遣手をば、客又にくみ、女郎もうちとけがたく、むつかしがるもの也、女郎、遣手、共に誠の忠あらば、何をもつてか恐れへつらふ事あらむや、

やりての所作、女郎のさばきは、田舎なれども、大坂のやりて、京のやりてにおとらず、されども、風俗は京のやりてに及ばず、いかにとなれば、客のまへにて行儀のたゞしきと、詞のきやしやなるとのかはりめ也、その外は、さしてかはる処なし、片田舎の遣手をみれば、悉皆女郎の友達なり、其心を客にもあてゝ、座をはなれず雑談し、酒宴をことゝす、又傾城も、京、大坂とかはり、一人の客と対する内に、やりて来れば、まねきよせて、客もたづねざるはなしをし、物をくはせ、酒をしゐ、馳走するさま、誠につたなくうるさき事也、惣じて、遣手は、客の前の長ばなし、よびいださゞるに出る事、客のこのまぬ事なり、すいなる遣手は、よく/\の用なきには出ず、若やりてより女郎に用ある時は、禿をもつてよびたつるよし、それも又、客せきぶんのをとこにて、少の事も不審するとしらば、目通りの次まで出て、用事をかたるべし、女郎にさゝやく事、あまねく客のきらふ事也、
(中略)

一、挙屋より三味線を取に遣はす時、そのまゝ持来る事、野体也、箱に入来るもあしゝ、袋に入るべきなり、袋とても、むかしの盲目の持たるやうに、海老尾の処よりおりかけてむすびたるは、いと初心なり、緒を二重にし、両方に口をあけてさし込み、半にてかけむすびにしたるよし、是は八橋検校江戸にて仕出したる袋の形なり、段子、綸子、ちりめんなどにて、女郎の定紋、和歌など、縫にしたてちらしたるはよろし、

一、太夫職の三味線をひく事、上手ならば、初会にてもひきてあしからず、その後はいよ/\ひくべし、初会に引べきならば、取出し、はじめて調子をあらたむべからず、先太鼓女郎にひかせて後、それをとりてひくべし、上職は大かた後までも、歌をうたひて引事なかれ、人にうたはせのせたるばかりよし、糸のきれたる時、太夫職などのみづからつぐはあしゝ、太こ女郎につがせて後、糸をあはすべし、

一、琴は、たとひよくひくとも、初会にひく事なかれ、なれてもまた時節によりてひくべし、ながくひく事もよろしからず、

一、歌がるたとる事、よき女郎の心をうつして取も曲なし、ついさしよりとりて、客もあらば、あからさまにしまはせたる見よし、

一、常のかるたをうたむに、賭をさだめずしては無興なり、但し、さだむるとも、耳引がけか、又竹篦がけをよろしとすべし、

一、双六は、客を待うけたる内に、うちかゝりたるなど見よし、初会にてしづまりたる座席に、他家の女郎などとうちあひたるもよし、双六の半、太鼓女郎ならびに禿などに命じて、たばこつけさせてのみたる体よろし、

一、傘の事、太夫職、天職ともに、長柄たるべし、囲職の出る時は中柄たるべし、最定紋を傘にゑがく、日傘は無紋にして、新艘出世の時さしかくる事勿論也、然れども、天曇たる時はさし置べし、五節供に女郎の出る時は、必日傘を用ゆる法也、且又、極熱の時分、日のつよき時は、常にも用ゆ、然るに、この頃見れば、雨傘を日傘に用ゆ、是非なき次第にあらずや、
(中略)

一、賢子左門、予に語ていはく、この頃傾城とても、さかしき女郎は、身をたしなむ事残る処なくさふらへども、鼻の内までに気をつける女郎なし、といひし、実もとぞおぼゆ、
(中略)

一、酒宴の事、傾国の酒を用ゆる事、三味線に次ての一芸なり、ひたすらの下戸は、傾城三ツの悪相のそのひとつにして、殊更にきらふ事なり、上戸の傾城は、上戸の客にあふて勿論よし、下戸の客にあひても、酒のまぬ分にてすむ事也、下戸の女郎の、酒のみ男にあひたる時は、座をもちかぬる物也、上戸の客は、たとひ容貌すぐれぬ女郎にても、酒のむ方をとる心なれば、いかにきよらなる女郎にても、下戸なれば何とやらむうたてく、きのどくがるもの也、又、さけさへのめばよきとて、人もすゝめざるに、女郎のづば/\のむものにあらず、大かたに酒のつよき女郎とても、随分軽くうけて、底をつよく捨ざれば、こたへ難き物なり、客にもりかけたる盃の、むくひてしきりにおさへられ、さしづめになりなどする時は、いさぎよくはのむべき、又、客のかたへさゝむとするに、女郎のまいりたらば、われらもたべむ、といひてつがるゝ時、女郎のまずして客にもらむとする事、なりがたし、むりにさせば、我のむ事のいやさに、人をかへてさすべきとすれば、さしそこなひといひて、人これをうけえず、かやうの時こそ、ぜひにおいてのまねばならぬ所成ければ、かゝる時、あたりへあひを頼み、むかふのこと葉をかためて、さはやかに呑など、見かけうるはしくけしきだちて、いさみかゝるもの也、下戸の女郎は、一きは無理をもいひてみれど、あいさつもつれ、をとこがたへかゝり、つれたる女郎へ言葉をゆづり、あるひは禿に科をおほせ、とやかくもてゆけども、さしづめになりて、のまでかなはねば、ひとつうけはうけながら、まあひをみてすてむとし、たゝむとするをも、すかさずつめかけてのますれば、さは/\と色に出、心ときめきして、くるしき事のかぎりなりける、夜に入て酔おもければ、床の内にてねいる事まのあたりなり、然れば、一日の勤無益の業とはなる、恐るべし、つゝしむべし、さらば、下戸なる女郎は、いかにとかすべきなれども、心をさへはたらかしめ、あいさつすぐれたれば、男は女郎に負るがちなり、きめつけては、酒ももりがたく、又、色にほだされては、用捨なきにあらず、かゝる品々にて、下戸の女郎は、酒の中にてそだち行もの也、一筋に思ふべからず、
評曰、源氏酒、振廻し、けむ酒、花酒盛などは、下戸、上戸わかたぬ一興なれば、たとひ下戸の女郎とても、おくれを見せず進むべきみちなり、
(中略)

一、傾城は歌学するまでこそあらめ、せめて、歌の文字、よみ計りなどは覚えおきて、折ふしのうつりかはる風景などに、古歌をも吟じ見むは、いとやさしくゆかしかりなむ、傾城買とて、野人なる者ばかりもてあそぶにはあらじ、さやうの人に、心ある客あひかたらはゞ、外をもとめむ事やはあるべき、鳳子小藤、尊子八千代などは、心やさしくやありけむ、古歌をよく覚えたりければ、折ふしごとには、感に堪たる事おほかりけり、鄙郭なれども、大坂の明子小太夫、又其ごとくありき、此書をみむ女郎ありとも、その心つく人あるまじければ、只歎きて過るのみならし、
(後略)

巻第七

翫器部 

三味線 三絃とも書、夫琴は大なれども、三味線は当道翫器の第一なれば、此部の巻頭におく、三味線のおこりは、永禄年中に、琉球国より是を渡す、その時、蛇皮にてはりて三絃なる物也、泉州堺の琵琶法師中小路といひける盲目に、人のたらせたりけるを、此盲目よろこびて、しらべつゝこゝろみけれど、教をきかざれば、音律かなはず、是を心うくおぼえて、長谷の観世音に詣て、一七日参籠し、引やうを祈りしに、あらたなる霊夢ありて、階をくだる時に、大中小の糸三筋、盲目が足にかゝる、是をとり、三筋の糸をかけてひくに、無尽の色音出たり、それより三絃にきはむる故に、三味線としかいふ、其砌は、むざと引きてなぐさみとせしに、暫して虎沢といひし盲目是を引かため、本手、破手といふ事を定めて、人にこれをつたふ、其後、沢住といふ盲目ありて、是をひきおぼえ、歌に載て引出したり、それより、公家、武家の内にも、賞翫せさせ給ふかたおほくありて、みづからもひかせたまふ、其時は、此器に緒をつけて、頸にかけて引を用とす、其後、平家の俤にして、浄瑠璃と云ものはじまりて、かたり出たりしかば、平家にのせて琵琶をひくごとくに、浄瑠璃にのせて三味線を引はじめたるは、沢住がなすところ也、而後寛永のはじめ、摂州大坂に、加賀都、城秀といふ坐頭両人世に出て、三味線を引出すに、その堪能なる事、古今に独歩たり、東武にわたりて、大家高門の翫者となり、既に盲目の極官に昇進す、加賀都は柳川検校、城秀は八橋検校となれり、今にいたり、三味線において、柳川流、八橋流といふは是也、其後、出世したる検校、勾当の内に、此両検をあざむくほどの名人あまたあれども、柳川、八橋両検は、三味線の嚢祖たり、これによつて、今世三味線の工人に、八橋豊前、柳川吉兵衛などいふも、此名字をゆるされたる者也、抑、傾国の芸において、三味線に上こすものなし、傾城の是にうときは、官家の人の和歌を詠ぜず、武士の弓ひくすべしらぬにひとしければ、尤修練すべき道なり、六条にしては、小村家の幾島、越前、三味線に堪能なり、坤郭にうつりて、鳳子小藤、尊子八千代、是三味線の棟梁たり、転子藻塩これに亜けり、所謂八千代が楊枝引、小藤が下調ひゞき、風流を招きて恋慕を催す事、古今たぐひなかりき、俗語ながら、誠に、恋の寄太鼓とは、むべいひけらし、遊客の心を動す事、三味線にしく物なし、かすかなる端女とても、是に堪たる者は、諸客に呼出され、太夫職の座席にいたる、尤当道において、遊興に奇器なるものをや、
何事もおとろへ来るといへども、三味線の荘厳ばかりは、むかしにまされり、六条より坤郭にうつり、はるかに年を経るまで、銘のある三味線はなかりき、むかしのよき三味線と見ゆるは、蒔絵をしげく書尽したるのみを賞美したり、頃年もてはやす三味線のかざりは、さのみ蒔絵をばこのまず、其上、蒔絵のしげきは、色音にさはり有と覚ゆ、当時の三味線は、胴の内を吟味して、音色のすぐれたるに銘を付て、是を秘蔵させしむ、高田家の猷子家隆所持したりし三味線、銘は浦千鳥と号す、胴たがやさん、棹したん、胴の四方なでしこのまきゑ、金貝をもつて是をいるゝ、黒檀の菊てんじゆに銀のさかわあり、金銀の三枚しとゞめ、根緒は金糸、根緒かけの座、銀にて三ツかりがねに三ツなでしこのすかし金物、猿尾のせつぱ三枚菊座、海老尾に銘あり、但し、ふむだみ、乳ぶくらの裏に、三ツかりがねの紋有、同じくふむだみ、已上、

上林家三世薫暉子のもてる東雲といふ三味線のかざり、胴くわりん、棹したん、こくたんの亀甲てんじゆ、からうとめんをとりて、小口に、定紋をば青貝にて入たり、根緒は銀糸の石だゝみ、根緒かけの座、金銀にてすかしたる菊の折枝、しとゞめは赤胴の三枚菊座、猿尾のせつぱ三枚は、金の唐草をすかせり、海老尾の表に二字の銘を金具にて入る、裏は亀甲に桔梗の定紋、同じく金貝、乳ぶくらには紋なし、胴の上下に一重稲妻の蒔絵在レ之、已上、

今世高名の傾国の所持したる三味線、いづれも右の三絃にまさりはするとも、おとるべからず、さりけれど、すこしいたましきは、此頃、女郎へおくる三味線に、銘さへつけてつかはせば、よきとおもへるにや、さしてすぐれざる三味線にも、銘のなきはなし、ひくといふ縁さへあれば、朝霞、夕霞、子日の松、君が袖などゝ名づけ、よからぬ筆して、ふんだみなどにかけるさま、人並に覚えて、をかしくこそ侍れ、

琴 

琴は、倭漢共に管弦の大器にして、黄帝の時よりはじまれり、始皇帝は、琴ゆゑにとらはれをまぬかれ給、和朝にしては、清見原天皇弾じ給ひぬれば、天人あまくだり、五節の舞をかなづ、その徳高く、品芳しき事、あげてかぞへがたし、然りといへども、当道において、三味線の徳にはこえず、寛永のはじめまでは、傾国の坐にもてはやさゞりき、然るに、八橋検校初度の上衆引たりし時、江戸において、筑紫楽といふことを引いだし、人のもてあそびとなる、寛永十三年丙子年、花洛にのぼり、寺尾検校城印が下にて、勾当職に任じ、山住と名づく、山住は予が家来にして、勾当が老母を扶持し置たれば、予が家にて五六ケ月滞留す、其時節、城言と謂し座頭ありしが、筑紫琴をなげきて懇望し、既に山住が門弟と成て是を学び、大坂の万重といひし太夫職にひかせけるより、ことおこれり、其後寛永十六年已卯閏十一月に、山住勾当、江戸より又上洛して、検校職に任ず、山住を改て、上永検校、諱城談といふ、其後又称号を改て、八橋検校といへり、此時も猶予が家に来りて、一二月休息し、武江の発足を待内に、八橋述作せし琴の秘曲といふを引て、旧友のものに聞せける、その時、城連、城行といひける座頭両人、そば近くありしが、是を懇望して伝へを請、これより秘曲も世にひろまり、こと/\〃く傾国の手にも渡れり、されども、琴は挙亭にて場をとるものなれば、さまでこのましからず、又よくひく人もまれなり、すぐれずしては聞おほせがたければ、なくてもくるしからずとしるべし、

小弓 

むかしは、遊興の座へかならず出したれど、この頃はよくひく人もなければ、絶て久しく出さず、むかしの小弓は、弓の絃をいたくはりて引用ひたり、小弓も、八橋検校みづから考へて、弓をなめらかに長く、手づから削りてこしらへたり、絃を引はらず、ゆた/\とゆるやかにのべて、無名指にてひくやうにかけたり、その色音、昔にかはり格別也き、八橋が外には、大坂太左衛門、法名是閑といふもの、頗名人なりき、傾城にしては、大坂の長崎万重、諱倚子、小弓に堪なり、其後、尊子八千代、もとめずして心にかなひ、折々しらべ出るに、人の心をなやませり、今はひく人もなく、聞人もなければ、おもしろきといふ所をしらず、是諸道堪能ならざる故ならむか、

尺八 

尺八の事、漢朝よりはじまる、遊仙窟に、大篳篥詠�尺八�、長一尺八寸、舌四寸八分、律呂図云、大篳篥、小篳篥、又云、尺八為�短笛�、古文真宝前赤壁賦、客有下吹�洞簫�者上、倚レ歌而和レ之、其声鳴々然、如レ怨如レ慕、如レ泣如レ訴、とあり、是尺八の事と註せり、玄宗皇帝、前身は羅漢なり、好みて尺八を吹て擯出せらると云々、唐の代が亡びたる事を句に、尺八唐音砕云々、尺八の笛と歌にも読り、みよぎりの尺八は、普化僧これを専とす、かゝるゆへに、傾国などにはとりあはぬものなるが、奥村家の尊子八千代、恋慕ながしを吹出したるを聞たる時は、楊貴妃のためしもおもひ出られ、そゞろになつかしく侍りき、一よ切も、おなじく八千代好みて、常に吹侍りぬ、諸芸堪能の遊女なりつれば、いづれにおろかはなかりき、八千代が外に、尺八をこのめる人なければ、よしともあしゝとも定めがたし、尺八もすぐれたるにしたがひてきかば、いかでか興なくてはあらむ、

貝覆 

上品の女中のもてあそびながら、六条の時代には、傾国も是をもちひて興じつれど、近代此沙汰なし、これほどに、世かはり品くだりつるよとおもふ故に、こゝに載侍る、

続松 

歌がるたの事也、当時傾国のとるは、貝おほひのごとくに、残らずならべ置て、歌の上の句を一枚づゝ出し、歌に合てとる時は、露松といふ、又、常のかるたのごとくに、歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ、扨、一枚づゝうち出て、歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むるを、歌がるたといふ、其もとはおなじ物ながら、とりやうにて名目かはるなり、されども、かるたのごとくにうちあふ事、今はたえて、貝おほひのごとくにのみもてあそび来れり、女郎いとまある折ふしや、座中つれ/\〃としらけたる時は、やさしくもおもはれ侍る、此歌がるたに、百人一首の歌ならでは用ひざるやうにおもはれて、をかしくこそ侍れ、ねがはくは、古今集の歌や、伊勢、源氏やうの歌などをも、かゝまほしけれど、小藤、八千代ごときの女郎、今はあるまじければ、ちからなくこそ侍れ、

加留太 

かるたは、異狄より渡りたれば、その根元をしらず、ばう、いす、おうる、こつぶ、などいふ名目も弁へ知りがたし、上品にはあらねど、わさ/\したる物なれば、時により、傾国の内でも難なし、一座のさびしき時は、興ともなるなり、竹篦がけなどいふも、一きはをかしく聞え侍る、

歌文字鎖 

男女しめやかなる参会に、是程の口すさびは有まじけれど、是も歌数おぼえぬ女郎とは催しがたし、たとひ一人二人ありとても、その中に一人にても古歌しらぬ女郎ありなば、無興なるべき、所詮、ところにしたがひて、座のしらけざる様に心をくばるべし、

双六 

尤、傾城の手すさびに、よく似あひたる物なり、露松などは隙をとる物なれば、座のしらくる事おほし、双六ははてくちはやきゆへに、酒になりたる時、仕まひやすし、又、双六うつうちに、盃とりかはしたるにも興あり、とかくいさみたる物なれば、わやつくうちにも、うたれずといふ事なし、客と取くみても、女郎どちうちても難なければ、歌がるたにはまさろ侍る、

夫双六は、子達よりはじまり、又、張文氏が十娘と双六を作る事、遊仙窟にあり、兼名苑には、阿育王の作り始給ふ、とあり、天竺にては、波羅と名け、又は六采六字といふ、依レ之、漢土には双六といふ、六を双ぶる義也、天監年中に、始めて日本に渡る、聖武天皇、曲水宴の時、詩を作らざる者には、五位已上に双六局を賜ひて、賭には青銅三千貫を給ふといへり、

双六に十二の名目あり、
相見、品態、扣子、平齊、乞出、入破、採居、立入、袖隠、透筒、要筒、定筒、

双六盤の事、三味線に亜で、傾国のもちゆる翫器なれば、名ある女郎は自分に拵ておくべきことなるに、さはなくして、挙亭にありあひたるを取出せば、盤も見ぐるしく、筒はわれかゝり、齊たらずなどいふ事粗あり、上職の女郎などのうちかゝるには、口をしくおもはれ侍る、用意をしおくともかたからず、客より心を付るにも、いとやすき事にはあらずた、双六の手まはしすぐれざらむ女郎は、唯うたざらむにはしかじ、手のおそきも見ぐるし、上林家の金太夫、諱麗子、さしもの上手なりしが、是はあまりはやすぎてすげなかりしかば、常の人とはまだるきとて、心しりの女郎どち打に、つねの一番すぐる間に、五六番づゝうち仕廻たり、是をよしとも定めがたきは、わきより見るに、興ずるいとまあらず、惣じて、傾城のうつかゝりは、まてにうつべからず、はをする事をいとはずして、敵の石をむざととりひしぐにきはまれりとしるべし、

手鞠 

傾国のすさびに、あながちこのましからねど、時節により、自然には有べし、是正月中に用ゆ、客の来らぬ内、挙屋の見世の内などにては取べし、土地にてとる事、ゆめ/\有べからず、されども、天職以下のすさびなり、此手まりといふは、糸にてまろく巻かためたる物なり、近年は、皮にてくゝりたる木鞠を、上職、下職ならびてこれをつけり、風流ならずおもへど、制すべきやうなし、もすそをたぐりあげ、あつければ肩をぬぎかけなどして、うち見さわがしきさま、いたくらうがはし、

はねつき 

尤正月の手すさびなり、是、上職、天職共にくるしからず、初春の夕つかた、小づまかいとりて、はね、胡鬼板、右の手のみにてさばきたる、いとやさしげあり、立むかひて、はねをやりあひたるより外なし、そも亦、程のひさしきも、さのみ見よからず、やがてさしおくべきなり、数をかぞへてひとりのみつく事、努々有べからず、

弾貝 

伊勢貝とも、瀬々がひとも、猫貝ともいふ、傾城の弾貝をとるは、おほむね格子にての手すさび也、禿などの持たるをとりて、挙亭にてとる事も、自然にあり、幼浅なる事ながら、いたいけに、花車なるすさび也、をかしく、にくからずと見るべし、

石何劫 

是も格子にての所作也、されども、これはわさわさしたるものなれば、挙屋にてもくるしからず、禿やうのものゝすさびなれども、すぐれてよくとるは、一きはさはやかなるもの也、いしなごは、胡桃にてとるを第一とす、荘厳するには、ふむだみ、箔だみを用ゆ、檳椰子は、こけすぎてゆぶつく、象牙もこけ過る、其上おもくてひゞきあしゝ、象牙のまりこも、手の内よろしからず、小石も重し、且野卑なり、とかく胡桃ばかりを用ゆべし、石何劫の名人、六条にては玉葛鬢、坤郭にうつりて宮島家の左馬助、今の八左衛門家のきぬがえ、


(中央公論社刊『続燕石十種』第三巻を底本としました。)

(二)

色道大鏡

畠山箕山著

巻第八

音曲部 

小歌 

当道音曲の最上也、小歌といふは、むかしの白拍子のうたひし今やうといふものを縮めたる物なり、中比、泉州堺の住人高三氏隆達といひし者、三十一字の和歌に、みづからふしをつけてうたひける、是弥小歌といふ名目にかなへり、即隆達ぶしとて、今も世に残れり、此一流、殊勝とは聞えて、風流先だゝずなむ、古風といつゝべし、其後、洛下に平野九郎右衛門尉(法名宗孝)一流をうたひ出し、是を平九流と名く、東武において、森田庄兵衛(法名体音)葛野九郎、我道の芸に亜で、小歌に鳴事世に甚し、されども、傾国の歌の道筋は、むかしより品かはり、声やさしくて、風流すぐれたり、六条において、対馬が労さい、内記が片撥、古今無双にして、聞人丹心を悩す、坤郭において、尊子八千代、周子初音、祝子若松、又是に亜げり、とかく傾城のたしなむべきは、第一に三味線、第二小歌たるべし、抑、傾城の歌は、らうさい、片撥を最上とす、次に、梛節、信田節、尤是を賞す、但、此二節は、時分によりて、一きは甘味あるべし、惣じて小歌は、年々にあたらしきせうが、いづくともなくはやり出て、世にひろまれば、先めづらしき歌のみ人の口にちかし、然といへども、右の四節は、小歌の■■にて、むかしより賞翫する事、此にたえず、自今已後も、又々かくの如し、按るに、江戸の小歌と三味線計りは、男女ともに、都よりまさり、丹前の一節も、江戸より出たり、丹前といふ名目は、堀丹後守殿門前に、桔梗風呂の吉野といひし者のうたひ出せし一流なれば、即是を丹前節といふ、丹前といふ歌は、根本は片撥なり、

桔梗風呂の吉野は、丹前の元祖也、紀伊国風呂の市野は、吉野が高弟にして、丹前の歌を請つげり、師にすぐれて名人なれば、吉野に歌はまされり、同家の勝山も吉野が門弟にして、是又歌の上手なりき、同家の采女、同じく吉野に是を学ぶ、山方風呂の幾夜、市野が第一の弟子たり、此幾夜、丹前は市野に請つぐといへども、頗名人にて、又一流をうたひあらたむ、追手風呂の淡路、同じく市野に丹前をならひえたり、明暦三年丁酉、江戸の風呂の遊女停止となりて、三谷に移る時、右の勝山、幾夜は、山本芳潤が家に来る、采女は三浦が家に入れり、幾夜山本家に来りて、郭中の小歌ぶし改りて、幾夜にしたがはずといふ事なし、今に至り、歌の風俗よろしきは、幾夜が流をくむにあり、惜哉、万治三年、芳潤が家にして早世しぬ、此外に、山方風呂の柏木といふ者、幾夜が古傍輩なりしが、是は師を求めずして、おのずから労さいの名人なりき、かゝる歌どもは、前後無双なり、当時の歌ははるかにおとり侍る、

浄瑠璃 

じやうるりの由来は、矢矧の長者がむすめ、浄瑠璃姫の事を作り始めたるによつて、じやうるりと名付たり、此十二段と云ものを見るに、何者の作りたれば、かゝる不都合なる事のみを書つゞけたるぞとおもふに、小野の通が作なれば、実ことはりとぞ覚ゆる、通女つとめの身にて、学問すべきいとまはなく、をりふしごとに、わらはべの、むかし/\かたるやうに書つらねたると見えたり、書たる始は草紙なりしを、滝野勾当といふ者、平家をやつして、是に節をつけたり、其頃、五条に次郎兵衛といふ者ありて、滝野に是をならひかたりけるに、おなじく洛人熊村小平太といふ者、是をきゝならひ、是をたのしみて、夜毎に洛中をかたりありきけるを、京わらべ聞て、これよりじやうるりといふ事をしれり、小平太江戸にまかりて、此浄るりをかたる、即太夫となりて江戸薩摩といひしは、此小平太が事也、老後に入道して浄雲といへり、抑浄るりは、滝野勾当ふしを付て、文禄三年甲午の年よりかたりはじめたり、此じやうるりに、本ぶしとてあり、此本ぶしに、表裏とて秘伝あり、粤に杉山七郎左衛門といふもの世に出て、滝野直伝の本ぶしをかたり、尤、浄るりにおいて中興の開基たり、杉山江戸に至り、元和二年丙辰の年より芝居をたて、操をして浄るりをかたる、其後杉山氏、承応元年の夏、江戸より京都に上り、忝も口宣を頂戴して、天下一杉山丹後掾藤原の清澄となのる、入道しては宝山高智といへり、伜予も又、受領して肥前掾といふ、浄るりの最初に序を付始たるは、是清雲が作也、丹後はじめて是をかたる、予倩おもふに、序を付たるは、浄るり奥深くて聞よきが、浄るりの初段の発端に、さても其後といふ事、聊不審なり、二段目よりは尤ときこゆ、いかにしても、此道理きこえがたさに、丹後掾、并喜太夫、大坂の出羽、播磨、こと/\〃くかれらにあひて、是を尋ぬれども、終に理をわかたずして曰、此扨も其後といふに、家々のふし、ゆり、息継、音声、さま/\〃子細あり、調子をうかゞふに秘術ありて、一子一弟に相伝する事なれば、たとひ誤りにても候へ、今又改めがたし、といひてやみぬ、むかしの浄るりは、詞つゞき凡卑なりしかども、若狭がかたり出たる命乞の時分より、すがた、詞やさしくなり、又此頃作り出せるは、抜群おとなしき物にぞありける、夫浄るりの風儀は、年々にかはるもの也、其上、所びいきといふ事ありて、京は京の太夫をよしとし、江戸は江戸の太夫を好む、大坂は大坂の太夫ならではとおもふゆへに、いづれを是とも定めがたし、畢竟、浄るりといふもの、下品なる芸なれば、素人の口すさびとても、よき人かたるべからず、たとひかたるとても、一段の始終をそろへてかたらむは曲なし、節ある所をかいとりて、みじかくかたるをよしとす、又、よき傾城の浄るりはのらぬものなり、天職までは制禁すべし、かこひ以下の沙汰なり、端女とても、小歌とかはり、浄るりは、外より望まれてかたり出べし、かたるとも、道行などこそやさしかるべけれ、女の口より、さてもその後といふ発端は、聊斟酌あるべし、

説経 

説経の操は、大坂与七郎といふ者よりはじまる、沙門の説経をやつして、下僧のかたるを歌念仏といへり、たとひふしを付るとも、仏教のみをかたらば、さも有なむ、小栗、山椒大夫などいふものに、鉦鼓の拍子をとりてかたる事、これいかにぞや、歌念仏の名目にはたがへり、操にする説経のふしも、当時は浄るりに近くなりにたり、田舎の傾城は、自然に是を学ぶものありて、芸のひとつとす、興ずる者も又田舎ものにして、都のかたにはあらぬ業なり、男子は太夫の外、白人かたる事、よしなき口すさびなり、

船歌 

船子やうのうたふ船歌の類にはあらず、時節相応の事を長くいひならぶる作り船歌の事也、されども、是には音頭のとり処ありて、おほくは、地よりつけてうたふものなれば、上手、下手のわかちも、さまで有べからずとしるべし、

躍口説 

船歌とかはり、上手、下手、さま/\〃ある事也、をどりのくどきといふ事、むかしとかはり、中比よりは、殊外高上になりにたり、このくどきの詞に、儒道を先だて仏教をしめし、又神道をあらはす、詩歌の心をふくませ、且和漢の古事を引出すことおほかり、詞さへおぼゆれば、誰もいふべき事なめれど、音声、息継、拍子合に、上手、下手ありて、品々わかてり、先上京に、或法師、此妙を得て、天下に名あるといへども、予が一族なれば、はゞかりて姓名をしるさず、次に役者喜内といひし者あり、法師につぎて此名を得たり、其後、願西次郎兵衛、自然とこの道にかなひて、これを口ばしると、其芳しき事、先達をあざむくなるべし、

巻第十二

 

日本遊郭総目 (一部)

一、京(西新屋敷、号�坤郭�、又号�島原�)
二、山城国伏見(夷町)
三、同伏見(柳町)
四、近江国大津(馬場町)
五、駿河国府中(島)
六、武蔵国江戸(三谷)
七、越前国敦賀(六軒町)
八、同三国(松下)
九、大和国奈良(鳴川、木辻)
十、大和国小綱(新屋敷)
十一、和泉国堺(北高洲町)
十二、同処(南津守)
十三、摂津国大坂(瓢箪町)
十四、同兵庫(磯町)
十五、佐渡国鮎川(山崎町)
十六、石見国塩泉津(稲荷町)
十七、播磨国室(小野町)
十八、備後国鞆(有磯町)
十九、安芸国広島(多々海)
廿、同宮島(新町)
廿一、長門国下関(稲荷町)
廿二、筑前国博多(柳町)
廿三、肥前国長崎(丸山町、寄合町)
廿四、肥前国樺島
廿五、薩摩国山鹿野(田町)
以上廿五箇所

第一 落陽傾城町由来

粤に原三郎左衛門といふもの有、豊臣太閤秀吉公に仕へて、出駕の御供には必はづれざりけり、或時、太閤諸士に謂てのたまはく、予天下を掌握に治しより此かた、国富民栄ふること、其限しられず、此時に当りて、いかなる雑人ばらにても、心に望み思ふことあらば、申べきよし、仰下さる、然るに、太閤、落陽万里小路を馬上にてとほらせ給事有、其時、三郎左衛門も御供しけるが、其比万里小路辺は、道の左右に並木の柳生つゞきたれば、俗に柳の馬場といひける、此処にて、三郎左衛門、公の馬前に跪きて申上けるは、恐多き申事ながら、私内々存る旨あり、遊女を抱集めて、洛中に傾城町を建、格子、局をかざり、糸竹の調に歌舞を尽し、衆人を慰めて、京師の賑ひ、且国家安泰の佳相なるべく候やらん、と申上る、秀吉公元より色をおもんじ給ふ武将なれば、頓て腔に入らせ給ひ、実に是はさぞあるらん、さあらば、汝に是を許容す、則此所に町を取立べきのよし仰下さる、寔に宜御機嫌に申出し、有難き上意を奉て、三郎左衛門は此処に一人残り、人夫を招きよせ、はや並木の柳の枝をうち、是を門の柱に用ひ、かりなる麁屋をしつらひ、暖簾をかけわたしける処に、太閤帰路に及び、此所を通らせ給ひ、是を御覧じて、きやつめははや遊郭をしつらひたるよな、さてのこゝろよし、猶もさし急ぎて棟をならべ、家毎に格子をとり付、遊女をかざるべきよし、仰含られて帰城し給ひぬ、それより諸方に幽居せし者ども馳集りて、三郎左衛門に属しつゝ、屋敷を請取、家を造る、于時、天正十七年已丑に、是を建創す、(原三郎左衛門は、上町、今の九郎左衛門祖父なり)万里小路通二条押小路南北三丁、名付て柳町と云、上丁、中丁、下丁、是也、此より先に、洛中の遊女僅に是ありと雖ども、一所に集らず、離れ/\に居住せし也、此柳町へは、秀吉公の時々ならせ給ひ、御顔に袖を覆ひ、格子/\、局々迄、残りなく見物し給ひけるとかや、其後、秀頼公の御代、慶長七年壬寅に、柳町を室町の六条に遷さる、爰に於て三筋町と名付、此地に居をしむる事四十年、其後大猷院殿の御代、寛永十八年、又六条より今の新屋敷に遷さる、此時より此処を島原ともいふ、或云、肥前国島原陣落去の砌として、郭の構一郭一門にして、四方掻揚の堀なるが、有馬の城に似たりとて、かくいひし、ときけど、是はおぼろげのたとへとや申べからん、抑、島原といふ心は、人皇七十四代鳥羽院の御宇に、島千歳、和歌前といひしは、是本朝遊女の根元也、此島といふ字を取て、此遊郭になづく、原とは広き心をいふ也、(毛詩十七、公劉篇、鄭言曰、広平曰レ原云々)又或説に、肥後国たはれ島といふ有、風流島と書く、又、六条宮の御撰の伊勢物語の真名本には、遊島とあり、彼是両様をもつてみれば、兎角たはるゝ境地なれば、此島の流にしたがひて、島原と名づけ侍る物ならし、後撰集第十五に、朝綱朝臣、

  • まめなれとあだ名はたちぬたはれじま よるしら浪をぬれぎぬにして

同第十九、よみ人しらず、

  • なにしおはゞあだにぞおもふたはれじま 浪のぬれぎぬ幾夜着つらん

所詮、此地を島原といふも、耳にたちてきこゆ、落陽の西南にあたれば、坤郭といはんに、何ぞ難かるべき、

坤郭八景

壬生残花
壬生境静幾吟望、可レ愍白桜残2半粧1、知レ是為レ消2蜂蝶恨1、後レ花春色一枝香、

朱雀孤月
朱雀荒来孤月幽、閑人温レ故尚悲レ秋、深叢落レ露三千丈、破屋舗レ瓊十二楼、

古塚草露
何歳何人荒塚残、更悲蔓草露溥々、往来日夜千行涙、秋色蹊深故不レ乾、

前塘竹雨
回塘修竹近籠煙、雨入2秋情1洗2世縁1、尚勿下為2孤閑1拓上レ径、繁陰滴々不レ安レ眠、

青田暮蛙
田面雲青日已傾、群蛙鳴度入2多情1、従来自レ慣2英遊地1、迎レ月陰々鼓吹声、

丹径雪樵
路歴2丹陽1樵歩頻、雪花片々飾2柴薪1、一朝買子休帰去、又怪担頭帯レ錦人、

東寺雲塔
巨寺久留空海蹤、怪看層塔宿2蛇竜1、自高密法半天上、十里鈴声玉一峰、

本国暁鐘
本国隣連恨必生、楼鐘報レ暁独空驚、情談未レ尽同床月、夢送2声々1錯2転更1、

京傾城は郭外に出ず、遊料は、太夫職五十八匁、天職は三十匁、囲職十八匁、端女郎昼よりは囲職並、夜に入ては十一匁、午刻より未刻まで昼隔子あり、但、太夫職は隔子へ出ず、傾国のかしなし、客の夜泊りあり、酉の上刻より惣門を閉て、客の出入なし、卯の上刻に惣門を開て、挙屋廿四軒、客入に腰物を預る、但昼の内計りにて、夜泊是を制する処なり、

坤郭年中売日(是を物日ともいひ、又紋日ともいふ)

(略)

第二 山城国伏見(夷町)

伏見の鐘木町は、本名夷町也、鐘木町とは、油掛通東行あたりの町をいふ也、夷町も、町の象鐘木に似たりとて、いひならはしたるべし、惣じて、遊郭の本名をいはずして、外の町名を呼るたぐひ、所々におほし、是より先に、林五一郎といふ者出て、豊臣太閤に遊郭を申請け、伏見県の西にあたり、田丁といふ所を賜ひて、慶長元年丙申に傾城町をとりたつ、然りといへども、太閤大坂に帰城し給ひ、剰、程なく薨じ給ひければ、伏見の繁栄、時移りことさりて、此処の者も落陽にうつり、又大坂に退く、跡はいたづらに野となりて、只狐梟の栖となれり、然る所に、渡辺掃部、前原八右衛門といふ者有、其時の奉行長田喜兵衛尉、芝山小兵衛尉といひける、此両人によしみありければ、是にたよりて、遊郭を再興致し度よし訴ふ、忝も、上意として、富田信濃守屋敷の跡を遊郭に仰付られ、慶長九年甲辰十二月二日に開地せしむ、今の夷町是也、即其時、長田、芝山、上意の趣をしるし、一通の状を渡辺、前原に遺して、永く夷町に遺す、寔によしある遊郭也、

京より鐘木町に至る行程、落陽五条橋より大仏正面迄五丁、正面より一の橋迄六丁、一の橋より稲荷鳥居にて十三丁、鳥居より極楽町の角まで十一丁、極楽町より墨染之辻迄七丁、墨染より十丁目の辻まで二丁、此辻より鐘木町の門まで一丁、合四十六町也、

当郭の傾城、先年半夜女計の時は、いたく凡卑なるが故に、京の者の翫ぶ事もなかりし所に、初音、小左衛門抔いふ女来りしより、京の者も少々出そめたり、又、寛文の始より、天職出世しつれば、歴々の人まで入込、弥繁昌しけり、されども、今は天職も中絶し、入ける客も減じぬれば、所の賑ひもかはりぬ、惣じて、当所の傾城、都ちかき郭なれば、京の者に馴て風流少しなきにしもあらず、然といへ共、小郭にて育あがりたる女故に、物を広くうかゞはざれば、腹中せばし、京の者とさへいへば、智あるも愚なるも、福人にもすりきりにも、其かんがへなく、ひたぶるに思ひ付て、行末久しかるべきとおしはかり、すまじき人にも、心中の懇志を尽すといへども、男の心はか/\〃しからず、されども、一たびの負おしみ、是非なくつとむるなど、皆当郭の傾城の癖也、究竟男をたらす事は成がたく、男にたらさるゝといふもの也、不便と謂つべし、倩おもひ競れば、傾国の正理にたがへり、此頃は所さびしく、又々おとろへ来りぬれば、猶品あしくなりもて行べきと、いたましく思ひ侍る、

鐘木町、天職、囲職来由
伏見夷丁、昔は押並て半夜女ばかり也、然る処に、摂州大坂木村又二郎が家女両人、江州大津に預けおけるを、当郭主前原九左衛門忠勝、万治三年庚子四月十一日に、是を需めて囲職に補す、是当郭囲職の濫觴なり、一人は初音と名付、是、大坂にては元名山崎といひ、大津にしては丹州といひしなり、当郭以後、南都にして留伊といひし者也、今一人は小左衛門となづく、是も大坂にては元名御船といひ、大津にしては浮船といひし者也、寛文元年辛丑に、同家の仄、浮船両人、又囲職となる、寛文三年癸卯十一月廿八日、大坂木村又次郎が家女両人、又前原家に遷りて、天職に補す、一人は淡路、是大坂にて繁山と云し女、一人は小藤、是大坂にて佐渡と云たる太夫職なりき、此時、同家の仄、天職に昇進す、是当郭天職の権輿なり、然るに、寛文第五乙巳年、淡路、小藤、大坂に帰る、仄は寛文六年三月廿日病死す、道号紫光、法名妙雲といふ是なり、天職暫中絶し畢、

挙屋五軒、客入に腰物預る、昼隔子を出す、昼女郎の借しあり、夜客をとゞむる事、京のごとし、遊料は、天職廿八匁、囲職十六匁、半夜八匁、然る処に、挙屋困窮により、延宝四年辰八月より、囲職十八匁、半夜九匁宛、

鐘木町年中物日

(略)

第三 伏見柳町の遊郭(俗に泥町といふ)

此郭は、夷町より十六町坤の方なり、此間、南部町通板橋下る町に、金札宮あり、此社は太玉尊也、此外させる旧跡なし、遊郭を柳町といふを、誤りて泥町といへり、泥町とは、河波橋を渡りて、此柳町の入口、東西へ通りたる町をしかいふ、斯のごとき誤名、当所にかぎらず、遊郭ごとに是あり、落陽坤郭の本名を柳町といへば、此所を柳町といふもまぎらはしけれど、名付ぬれば力なし、猶、筑紫の博多なる遊郭をも、柳町といへり、抑、臥見柳町の一郭、先年は柿木浜に是有、小堀遠江守政一奉行たりし時、寛永三年丙寅に屋敷がへありて、此処に遷す、当郭を柳町と名付る事、僧雪岑が柳の詩曰、

渭水橋辺送レ別時、馬前折送笛中吹、若教下繁2得離情1住上、何必千糸又万糸、

目前の景気此心に相叶へり、仍是に名づく、当郭の物日少々有といへども、事繁によりて略す、

伏見の柳町は船着の遊郭にして、麁女のみ集あける所なれば、風俗をいふにたらず、たとへば、高瀬の船人、馬借の類、入込て興ずる者なれば、昔より今に至り、其味ひ少し、されども、元祖の薫美子、奥村家の尊子八千代抔は、此地より来現したり、奇妙と謂つべし、

第四 近江国大津遊郭(馬場町)

大津の遊郭は、世に柴屋町といひならはし侍れど、馬場町なり、柴屋町といへるは、遊郭の外、下の一町をいふ、柴屋町は、昔、比良、小松わたりの柴を船につみて、爰につけて売たる所なれば、斯いへるなるべし、抑江州大津は、帝城を去る事三里、昔時、天智天皇此所に宮造りし給ひて、大津宮と申奉りき、台嶺魏々とそびへ、前には湖水洋々たり、所謂大津八町は、都より吾妻に趣く最初の旅館にして、人馬道につどひ、往還爰にしげし、あやしの出女迄も一ふり見えて、恋のしるべなきにしもあらず、

大津馬場町年中の物日

(略)
大津の傾城、郭中の外へ出ず、天職廿六匁、小天神廿一匁、囲職十六匁、青大豆十匁、半夜八匁也、昼隔子なし、昼がしなし、夜見世有、夜隔子、酉下刻暫時也、夜隔子過て、目利所望の客あれば、其家の内に燈を立、傾城を出す、合十軒、客人に腰物預る、郭の入口四方に是有、客の出入昼夜不レ苦、
当郭の傾城、先年は八丁の旅館迄も出しぬれば、旅人一宿の便ちかく、且洛人思ひよりて通ふ輩も、郭中の挙屋をさしおき、八丁にのみ宿しければ、其賑ふ事限りなし、されども、いつぞの頃よりかは、御禁制にて、傾城郭外へ出ず、所に住馴し傾城長も家をさり、身を退きなどして、さびわたりたるを、昔の五分が一もあらず、凡大津傾城は、物ごとおほやうにて、伏見よりは少しまさりたるやうにありつれども、今かくおとろへたれば、いづれともわきがたし、伏見は京に近けれど、其かはりに、所の遊客にさせる勇士なし、大津は京の客たよりに成がたけれど、地の客に折々勇士たえず、傾城も人の口に出る者二人三人宛ありき、然れ共、頃年は地の客も心はたらかず、能傾城もなくなりゆけば、所の風俗とても、しるすべき品もあらず、筆の行ゑも定めがたし、

第五 駿河国府中(島)

府中の遊女は、昔より有けり、中頃、宮城野といひし者、其頃世に隠なかりき、容貌他にすぐれ、智あまり、手をも能かけり、和歌の道にも心をよせ、情の色深し、遠近の人是をしたひ、風流の輩是にしたしまざるを恨とす、

八月望の頃読る歌、

遊女 宮城の

  • いくよわれおしあけがたの月影に それと定めぬ人にわかるゝ

府中の内に、藤井清六とて京家の人有けり、先祖国司の家なりしが、地下にくだり、此所に住宅し、富める身にてぞくらしける、父には後れ、母一人ありしが、藤井氏此宮城野になれて、浅からぬ情の末にや迷ひけん、家主に此女を乞請、身の代を出し、則妻とす、母本意ならね共、是非なく迎取て、同家に住けり、宮城野もとより才智すぐれたる女なれば、姑につかふまつること、実の母のごとくす、母かぎりなく歓び、此妻いかなる人の末にもあれ、孝行の道をしりて節義を守る、我子のまどひめでぬるも理ぞとて、いと惜み深かりけり、京に此母の弟有しが、頻に煩よしの便有、叔父の事なれば、清六、京にのぼりて看病せんとするに、死しぬ、清六、力なく国に帰らんとするに、其頃乱世にて、道々関すはりて、行ことあたはず、其内に、母も亦病付て、今を限とぞ見えし、此妻、母の病中に、暫もいねずしてあつかふといへども、猶頼母しげなく見えつれば、母の命にかはらんと、天帝地祇に是を祈りしかども、限り有て、終にはかなくなりぬ、妻歎きながら、是非なくからをおさめ置、夫の帰国を待所に、永禄十一年戊辰、武田信玄駿河に発向して、府の城に取かけ、民屋に火を放ち焼立ければ、今川氏実堪りえずして落うせたり、武田方の軍兵、家々に乱入、乱妨分捕、狼藉いふばかりなし、藤井が家に入て、宮城野をとらんとす、妻奥に逃入て、みづから溢れて死しぬ、兵士共、其貞節を憐み、屍を家の後なる柿の木のもとに埋めり、駿州は武田家の手に入、諸大将も和睦しければ、清六漸くして国に帰りみれば、家に人もなく、其由を尋れば、しか/\〃とこたふ、生死無常のことはり、力及ばず、母と妻の廟をひとつ所にして、朝夕廟参しつゝ、妻の貞節を感じ、又は歎きのあまり、ねがはくは、ありし世の姿を暫も見え給へ、と念じて、廿日計りに及ぶ、或夜、月くらく星あらはなる夜、独燈をかゝげて座す、宮城野が姿影のごとくにして来り、君が念を感じて、司禄神に暇を乞て、今爰に顕れたりとて、始終の事共を泣々かたるに、自もとより官家高門の息にあらず、あだにはかなき流のみとなり、人に契りて心をとゞめず、色につくろひ、花をかざり、姿をなまめき、詞をたくみにす、昨日の人を送り、けふの客をむかへ、西より来れば、西なる人の婦となり、東より来れば、東よりの人の妻となりて、よるべさだめぬ契にのみ月日を送りしに、君に逢て誠の妻となり、昔のならはしを捨て、正しき道をおこなはむとするに、かゝる禍にあふ事、前世の業因つたなきをしる、然れども、貞節孝行の徳により、天帝地府、我を変じて男子となさしむ、今鎌倉の切通しに富裕の家あり、高座の某となづく、此子となりて明日生れ侍る也、君爰に来り給へ、君にあはゞ笑ひ侍らん、是をしるしとし給へ、といひて、亡者のかたちは消うせけり、藤井、歎きながらも不思議の思ひをなし、七日を過して鎌倉にゆき、高座の某が家に尋入、此間生れし子や有、子細のあれば見せ給はれ、といふ、此子胎内に廿ケ月ありて誕生せしが、今に至り、昼夜鳴て声絶ず、とて懐きて出す、藤井をみるより、莞爾と笑ひ、それより鳴やみてけり、藤井有のままに件の物語しつゝ、自今以後、一族の契約して、往来のちなみ絶ずぞ有ける、右府中の遊女の濫觴は分明ならざれども、有が中に奇異のもの語りなれば、爰にしるし侍る、

第六 江戸三谷

江戸の傾城町は、近来迄葭原といひて、深川の辺に有しかども、明歴三年丁酉正月十八日、本郷より火出て、葭原も此時に灰燼となりぬ、其砌は、焼跡に小屋抔かけわたし、かりなるしつらひにて客をとゞめけるが、同年初秋の頃、今の三谷といふ所に、此遊郭を移されたり、北方一口に惣門を構へ、右葭原の如くに町をわりて、家造りし侍りぬ、かたついなかの遊郭さへも、其程々につきてにぎはふ物なるに、ましてや、是は天下の武陵にして、日本の貴賤集りをれば、遊人日々にしげく、繁栄日にかさなれり、帝都をさること杳かなれども、郭風いさぎよく、行粧さはやか也、誰か是をしのばざらんや、

江戸三谷年中の物日

(略)
江戸の傾城、郭を出ず、太夫職廿七匁、昼夜続は七十四匁、格子女郎廿五匁、挙屋十四軒、客入に腰物預る、散茶町の傾城は挙屋なし、内留也、客入に腰物預る、金一歩宛、或廿匁、但当座銀、一夜銀にして宿本を不レ尋、若逗留する時は、請人を立る、散茶町にても、昼夜居続れば、遊料一倍増也、
(略)

第七 越前国敦賀(号2六軒町1)

敦賀の遊郭は、六軒町といふ、挙屋の居る所をみづやといふ、傾国の遊料十六匁、次は十匁宛なり、端女は六匁宛、

第八 越前国三国(号2松が下1)

三国の傾城は、松がしたと上新町とに有、此内に挙屋も有、出村には竪町と地蔵町とに有、

巻第十七

扶桑列女伝

落陽

吉野伝

吉野諱徳子、姓藤原、松田氏、曩祖出2於俵藤太秀郷1、後陽成院御宇慶長十一年丙午三月三日、生2洛陽大仏1、自2七歳之秋1、被レ養2林氏与次兵衛之家1、而従2益子肥前1、禿名林弥、肥前不3深憐2愍徳子1、而家主労而令レ退レ之、其後不レ扈2従先輩1矣、于時雲州大守視レ之、告2家主1曰、童女林弥、有2奇異相1、必発2名於日域1、最可レ為2上職1、依2此言1、元和五年已未五月五日、出世而補2太夫職1、(于時徳子年十四)名曰2吉野1、自レ是先有2此名1、依レ為2高名1号レ之、徳子性軽爽、而智恵甚深、霊艶而化レ心、活然恣レ気、且下レ情有レ要焉、徳子聴レ香得レ妙、亦常好レ酒能遊宴、言語奪2人心1、在郭之内、高徳威儀、其繁数無2指頭1、語断2舌根1而已、有2大明国呉興李湘山者1、夢中会2吉野1而通レ言、慕2這幽容1、而以2寛永四年丁卯秋八月1、賦レ詩而送2扶桑1、其詩曰、

日本會聞芳野名、夢中髣髴覚猶驚、清容未レ見恨無レ極、空向2海東1数2雁行1、

又翌年自2漢土1請2徳子之寿像1、我朝之遊客議レ焉、而命�画工�令レ図レ之、跪�徳子之目前�而写�佳貌�、画工尊�其暉相�、而不レ採�毛延寿之例�、時図画処七影、不レ違�顔色�、恰如レ移�影鏡�、悉附レ軸為�七幅�、而遣�九州�、異朝商人代�之綾羅�、而歓喜夥、況於�倭人�乎、衆人見�金峰山之花�者、忍�松氏姿�、詠�袖振山之月�者、思�徳子面影�矣、寛永第八辛未年、就�麁客�而有�訴論�、因レ茲、雖レ不レ充�年季�、同年八月十日、年廿六而還�旧里�、

評曰、嗚呼徳之感�天下�也、夫至乎哉、吉野流�美名于中華�、令�風雅之士悩�丹心�、何必在レ色耶、吾国唱�名于異域�者、戴在�青史�、而今不レ足レ贅、天正而来羅浮子道春、達�名大明�、活所子道円、擅�文詩名于海外�、吉野可下与�二賢�並レ鏨馳上矣、惜哉、使�司馬氏在�、必採戴�女史之伝�、

左門伝

左門諱賢子、姓平、三浦氏、南都之人也、生�寛永三年丙寅春二月�、小名鶴、幼時後レ父、其母誘レ彼而令レ嫁�他家�、自�幼稚之時�秀才発レ外、利根遮レ眼、雖レ然継父不レ歓、(以下脱紙闕文)

八千代伝

八千代諱尊子、姓藤原、波多野氏、寛永十二年乙亥五月朔日、生�於播州姫路�、母夢見レ懐�金宝器�而即孕、生而為�七歳�之時、後�于父�、于時兄弟三人、母雖レ養�育之�、家益貧而難レ保レ之、因レ茲、正保二年乙酉、(于時尊子年十一)遣�城州臥見柳町(此遊郭、俗号�泥町�)福田理兵衛者家�、小名石、慶安元年戊子春二月、出世居而為�囲職�、名曰�千戸�、(于時年十四)同二年已丑春二月、入�坤郭�而遷�奥村三四郎之家�、同年三月七日、郁子三笠導レ之、而再出世補�太夫職�、(于時年十五)改レ名号�小太夫�、其後亦改レ名而号�八千代�、重職如レ元、自レ是其名充�天下�、威勢覆�于世�、巍然其徳芳、才智越�万人�、通�達諸芸�、其中能レ書、而為�一流祖�、次粋�糸竹�也、三味線名人、而又一流之大祖也、次玄(正しくは玄に少)レ琴也、次小弓、尺八之音声異�于他�也、小歌殊勝而節有�感味�、剰好�茶湯�、而以窺レ式、又翫�風雅�、而快�吟旧歌�、且携�俳諧連歌�、而作�発句�、松江氏重頼聴レ之、万治三年庚子夏五月、集�懐子�之時、尊子之句撰�入彼集�、寛文三年癸卯春三月、以空軒安静撰�鄙諺集�、尊子之句猶入�此集�矣、承応三年甲午春三月、発�起百人弌首�、自レ洛呼�講談人�而聴レ之、同年六月、聴�伊勢物語�、明暦元年乙未春、聴�徒然草�、同三年丁酉春正月、聴�古今和歌集読方�、同年自�四月上浣�、聴�源氏物語�、翌年十月、至レ詠�幻巻�、講人病故懈怠、惜哉、其後依レ催�退郭義�、而不レ充レ志矣、尊子性正直而兼�備智仁勇之三徳�、専�忠勤�矣、或時家有�賀儀�、而家女悉作レ列、以�先輩�座上之恒例也、因レ茲、定�第一郁子三笠、第二栄子野風、第三宗子吉高、第四尊子八千代�、厥時尊子分�入三笠下野風上�而令レ着レ座、(于時年十五)爾時座中懲レ気、家主謂�尊子�曰、座席違背如何、尊子曰、座上者不レ可レ寄�年積�、可レ寄�忠功�、以�其意�居レ此、家主入�腔子�不�復言�矣、随�成長�而尽�孝慈母�救�昆弟�、且昵近之傾城、或有レ好之輩、尊レ之敬レ之、而尊子与�重貨�、施�無量金銀�也、自�己丑�至�戊戌�、臘十箇年之間、従レ彼而出世之遊女七人、馨艶之風流停�這一人�、荘厳倍�上古�、所謂天下壮観也、尊子紋者花輪違梧也、此紋聞�異域�、而以織�之金襴之地紋�、而渡�我朝�、明暦元年乙未秋九月、唐船入�肥前州長崎県�、諸方商人挙而寄焉、唐人解�其織物�、而戯謂�倭人�曰、是貴邦第一傾国紋也、重レ色之人者豈厭�価高�、須�速買�矣、又自�朝鮮国�聴�此紋�、而画�茶碗�而渡�日本�矣、自レ古至レ今、本朝之遊女、聞�異朝�而弥レ之者、於�六条�徳子芳野、於�坤郭�尊子八千代、唯此両女而已、万治元年戊戌十二月廿九日、廿四歳而退�去郭中�、

初音伝(杉山家)

初音諱夭子、姓源、渋河氏、江州永原之人也、生�寛永四年丁卯�、従�前初音琢子�、禿名長吉、寛永十八年辛巳、出世而補�天職�、(于時夭子年十五)琢子初音導レ之、名曰�和泉�、依�貌麗�呼�其名�、而正保元年甲申三月廿一日、昇�進太夫職�、改レ名号�初音�、承応之始迄、雖レ発�其名�、自�明暦之末�威勢衰、適雖レ求�珍客�、続而不レ会、故累年悔レ之、且身自悲�歓退出之遅々�、夭子常信�観世音�、因レ茲、祈�意趣於観自在�、雖レ然不�幸来�尚矣、寛文元年辛丑八月十日寅刻、夭子夢、大悲尊座�巌上�、而指�夭子�曰、汝無�現世之果福�、可レ想�後生之需�也矣、同十六日戌下刻又夢、白衣神女来�夭子之枕上�、而振�素幣�曰、

憂世乎去天乃知會多能死喜

此句両三遍唱而去レ空、同月十八日頓卒、年三十五、法名号�妙修�、滅後覧レ之件遣翰在�一匣中�、

藤江伝

藤江諱貴子、姓最不レ賤、降�誕寛永十二年乙亥十月�、母蔵�其姓氏�而遣�他家�、而又自�其家�贈�郭内�、小名曰レ万、不レ扈�従先輩�、而慶安元年戊子九月廿一日、出世而補�太夫職�、(于時貴子年十四)峰子高根導レ之、貴子性堆尋常而容貌潔、眼裏麗々有�奇相�、音声清々爽馨、豁然独立、必飽花車、而深悪�卑風�、在郭之間、仮不レ聴�商業沙汰�、猶口不レ語�野言�、所謂蓮者生�汚泥�而如レ不レ染レ濁、臘十有二年之間、従�貴子�而出世之弟女六輩、所謂高子小藤、川子鳴瀬、雲子葛城、朗子衣重、波子松山、謙子藤江(謙子藤江退出之疇昔、依レ為�出世�、而即譲�其名�矣)等也、万治二年已亥六月十日、年廿五而退�去郭中�、

葛城伝

葛城諱雲子、姓藤原、斎藤氏、平安城之人也、生�寛永廿年癸未春二月聚落�、従�貴子藤江�、禿名八弥、明暦三年丁酉、出世而補�太夫職�、(于時雲子年十五)名号�葛城�、貴子藤江導レ之、雲子性情潔而心理閑寂也、粛然恐レ己、肅然観�浮世�、能相�同貴子之心�、無欲第一而雲子独浄レ此也、嫌�於勇剛之人�、招�於和直之客�矣、雲子常尊レ法、而帰�浄土門�、万治三年庚子冬十月、求�於師�受�血脈�、且勤為�念仏五千返日所作�、自�寛文三年夏五月�病、同秋九月十三夜、夢中、善導和尚現�半金色之尊貌�、告白、汝今厭�離此穢土�而生�安楽国�也矣、雲子夢覚歓喜、拝�虚空�、而不レ愁�病困�、断�薬療�而以静修�臨終之業�、同十五日午刻、唱�弥陀宝号�、向レ西合掌卒、于時年廿一、葬�四条京極大雲院�、道号明室、法名光雲、

初音伝(宮島家)

初音諱周子、姓不レ詳、寛永十七年庚辰六月三日、生�落陽�、幼稚而後�父母�、他腹之兄無レ恵レ之、依レ為�貧家�不レ能レ保レ之、而為�傾国�、従�伯子薄雲�、禿名号�長吉�、出�世承応三年甲午春三月�、而補�天職�、(于時周子年十五)伯子薄雲導レ之、周子性利根英才而面在�愛敬�、毎レ会レ客不レ択�美醜�、下レ情無�浅深�、小歌名人而天下之寄レ焉、且粋�三線�也、故鳴�於都鄙�、因レ茲、万治元年戊戌冬十月、補�太夫職�、自レ是益レ威、光雲覆�於世�、徳山高�於地�、寛文三年癸卯十二月四日、年廿四而退�曲郭�矣、

和泉伝

和泉諱清子、姓藤原、結城氏、生�寛永十八年辛巳五月九日華洛�、禿名筑紫、従�前和泉芳子�、承応三年甲午秋七月、出世而補�天職�、(于時清子年十四)清子性正直潔白而容貌険麗也、周子初音、依レ為�先輩�為レ之下レ言、清子曰、出世遅速レ隔レ月、未レ隔レ年、忠勤不レ劣�周子�、何故侮レ予矣、周子曰、夫家族者雖レ隔レ日、従�先輩�之例也、奈憤�於我�哉否、而不レ止�威論�、爾時家主宥�双方�、而以請レ同�言語�、遂応�家主之諌�焉、万治二年已亥四月十一日、補�太夫職�、(于時清子年十九)旧年冬十月、周子初音依レ任�太夫職�、重職相同、因レ茲、亦両女諍レ威尚矣、寛文三年癸卯五月三日、花齢廿三而退廓、

金太夫伝

金太夫諱麗子、其姓氏不レ詳、寛永十六年已卯春三月、生�於華洛�、少年之間、従�深子初島�、禿名号�長吉�、承応二年癸巳六月七日、出世而補�太夫職�、(于時麗子年十五)深子初島導レ之、麗子性大胆而常好�花美�也、顔容勝�于世�、体弱前後無双、寔天生麗質、而讃不レ足レ口、仰在�其恐�、郭中之美容無�顔色�也、座配風流、而飲宴有�佳興�、献酬闌而剰不レ飽�交会�、是以諸客莫レ不レ忍焉、険子薫者家族而雖レ為�先輩�、不レ随レ彼、恒諍�威勢�及�累年�矣、薫客来�此方�不レ通、金客又遷�彼方�、自レ薫不レ通、故隔�呉越�、数輩之家族分�南北�、而以北者号�険子派�、南者呼�麗子派�、権威倶無�増劣�、寛文元年辛丑三月十日、年廿三而退去、

武州江戸

勝山伝

勝山諱張子、未レ詳�其姓氏�、武州八王子之人也、正保三年丙戌、出�世紀伊国風呂�、而号�勝山�、勝山性大胆而有�余情�、活然而好�異風�也、見�聞之葭原�而莫レ不�望慕�矣、承応二年癸巳秋八月、山本氏芳潤需レ之、以補�太夫職�、山之家族宏子采女者、遷�三浦宅�、自レ是勝山挫�郭中�、依以先輩之上職無�其色�矣、張子常不レ飽レ酒、猶粋�小歌三線�也、是丹前吉野直伝之祖也、剰結レ髪興�一流�、行レ道改�身振�、踏レ土用�草履�、所謂勝山綰、勝山歩、勝山鼻緒、是也矣、粤都巽郷有レ客、其貌黒色而且有�痘痕�、法体而齢超�初老�、往年勤�武江�而有レ暇之時、慕レ山而会レ之、其間撰レ友重�威儀�、贈�衣服并珍器�、善尽哉美尽哉、于時都巽之客問レ山曰、公是何背レ我、否哉、山答曰、予洛陽之人有�可レ伝言�、不レ違�一言�慥達レ之者、為�交会�、法師曰、不レ及レ言、豈背レ仰哉、山曰、誓聞レ予、其時動�天神地祇�而誓レ言、爾時張子和レ色而謂�法師�曰、脚下者洛陽坤郭而会�尊子八千代�、有�其聞�、即八千代可レ伝レ言、伝聞尊子者、洛陽第一之佳名、而其威夥レ是、然脚下魏(正しくは女扁)希�有于世�人相也、何以親レ之睦レ之哉、妾是雖レ在�鄙郭�、好�美容�不レ好レ賂也、不レ残�此言�通�尊子�、法師感�動此言�、諾而待�芳情�、張子不レ能レ辞、既従�客之意�、翌日以�消息�通レ客曰、契会限�畴昔�也、重而不レ能レ逢、法師無レ力、上洛而会�八千代�、褒�美東郭�而伝�此言�而已兮、明暦第二丙申春、告�衆人�曰、予念、今年之内可レ去�当郭�、不レ違�此語�、而同年秋八月、的然而退郭、

高雄伝

高雄諱娥子、氏松岡、武州豊島郡之人也、小名曰レ徳、不レ扈�従先輩�、明暦元年乙未夏五月、出世而補�太夫職�、宏子采女導レ之、娥子性飽花車而貌殊麗、気質弱細而姿優美也、所謂応�小町之歌風�、能レ書絶�三線小歌�矣、自�万治三年庚子臘月朔旦�着�病床�、而同月十八日卒矣、于時年十九、法名号�妙信�、

摂州大坂

小太夫伝

小太夫諱明子、姓橘、楠氏、寛永九年壬申二月十日、生�摂州東成郡�、母産レ之時有�光気室�矣、父祖出�於武臣�、已来下�商賈�経レ年尚矣、屡依�家貧�、而寛永十六年已卯秋八月、為�木村又次郎家女�、(于時明子年八)禿名号�須美�、暫従�輪子葛城�、正保二年乙酉四月朔日、出世而補�太夫職�、名曰�小太夫�、延子定家導レ之、明子性聡明絶倫而賢才広平也、依レ有レ才広レ気、依�心広�于世高レ名、依�名高�富貴積レ身、依�其身富�能施、依�能施�衆人崇レ之、依�人崇�其徳高、洋々乎自貴、的然覚�人之心�、剰孝之厚無レ量�勝計�矣、倩観�明子之本性�、花車風流之根元、而亦不レ可レ有レ例、常哀�当郭之鄙風�、而猶己恨レ不レ住�帝都�也、明子心直而気浮、空艶情飽而強矣、耀�舞遊之扇�、被レ比�五節之舞妓�、弾レ琴松風之響終古催、次能レ毫、雖レ随�国風�、器量抜群而翰法不レ卑、又寄�意倭歌浦波�、雖レ不レ求レ師、以�旧歌�為レ師、而時々令レ歌レ之、客採�集之�、入レ洛而逍遊軒明心居士請�添削�、貞徳翁啓レ之覧レ之、粗有�秀逸之和歌�、可レ謂�奇特�、其後雖レ不レ為�対談�、徳老人為�尊師�、而常贈�添削之詠草�矣、或好�茶湯�而寄�器物�、且得レ妙�物数奇�也、仮令改�茶器袋及表具衣色等�、恰莫レ不レ中�大有宗甫居士之遺風�、或著�衣裳作用�、定�遊行法�、又令レ帰�依禅�、招�小林寺月潭和尚�、而屡聞レ法、而以為�参徒�、其後謂レ予曰、儒者不レ中�我道�、請窺�南華老人之道�、予説�逍遥遊斎物論之大意�、而示�荘子之寓言�、明子聴�此両篇�、而以速弁�天地万物之理�、誠不可思議之遊君也、聴�華洛之体想�者、明子独無レ不レ受レ之、尊子八千代常聴�明子之行�、而令レ感レ之、会下毎通�明子�之客上、伝レ言而述レ徳、潜探�郭内�聞�郭外�、不レ堪レ忍者、脚下一人而已、兼念願同�居脚下�矣、伝レ言及�度々�、而後時々通レ書也、惜哉、令レ居�坤郭�者、並�尊子�而比�飛車之両輪�矣、承応三年甲午六月十日申刻、退�出郭中�、于時年廿三、

大和伝

大和諱耀子、姓不詳、寛永十七年庚辰夏五月、生�摂州住吉県�、来�木村之家�、而自�九歳�至�十二歳�、従�晋子静間�、禿名号�伏屋�、静間自�退出�、相続而従�明子小太夫�、禿名如レ元、承応二年癸巳九月朔日、出世而補�太夫職�、(于時耀子年十四)名曰�大和�、明子小太夫導レ之矣、耀子性芳艶而面有�微笑相�、眼粧帯レ炯、而美靨鮮々、顔容勝�百千�、姿貌窈窕司�古今�矣、癸巳之重陽者、耀子出世而不レ過�十日�、然諾�耀子�而為レ待レ之客、有�五輩�也、諍�契約之先後�、而既挙屋与�遣女�、(于時加津)不レ正�相論�、爾時明子小太夫契�先言�之人、定�重陽之客�、其次者採レ鬮而極レ之、自レ是世上之賞翫夥、威勢過�先達�也、蓋傾国新造而諸客称レ之者、唯帰�耀子�乎、及�成長�而益鳴�于世�超�諸郭�矣、万治二年已亥五月廿八日退レ郭、而寓�居大坂�五年、而後寛文三年癸卯秋九月卒、年廿四、

 
(中央公論社刊『続燕石十種』第三巻を底本としました。)



 

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