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史疑
史疑徳川家康事蹟(一部)
村岡素一郎著
『影武者徳川家康』新潮文庫版上巻本文101~105pに書かれた二郎三郎の生立ちのエピソードと同じ内容が書かれている箇所を抜き書きしました。
第二章 家康公幼時駿府の寓居地及び祖母尼公の身柄
(前略)
簓者は其の以前、果して那處にありし歟。那處より移り来りし歟。乃ち府中八幡小路より、こゝに移り来りたるなり。是より先き宮の前町に居住したりしが天正の中比、八幡小路に移され、宮の前町は、更に士人の第宅となれり。其の後延宝年中に至り、八幡小路は、久能山東照宮の参詣街道に当り、将軍家若くは代参の不浄目障りなりとて、復叉今の河の辺馬淵の両村に移さる(尤も八幡小路は、其の昔は、宮の前町にして、当時は街衙の井然たるものあるにあらず。疎々落々の蓬戸陋巷なりしならむ。故に其の八幡小路に移ると云ふも、其の実、一方に片附けたるなり。)其の住民の種類は異なれども、彼の故老の口碑に伝ふるところと、畧ぼ符号す。駿府の牢獄は、今の横田町の南方にありしと云ふ。而して牢獄の雑役を勤めたるは、専ら簓者にして、傍ら灯心、附木、附子、等を売りて、生計を営み、其の婦女子は、毎年歳暮には、笠の上に裏白の葉としめを附たるを被り、破竹の八寸計り成を叩きて拍子をとり、市中を徘徊して銭を乞ふ。號けて節季候と云ふ。其の唱歌に曰く、
- さっても、めでたい、節季候、御佳例替らず、旦那の御庭へ、飛び込め、はね込め、サッサと御座れや、節季候。
一家の婦たり母たるもの、往々比丘尼となるものあり。此の頃は、戦陣の間、献馘実検の始末は、此の比丘尼の司とるところなりしと云ふ。
(後略)
第三章 家康公の誕生及び其の父母の身柄
(前略)
江田松本坊は、純粋なる新田の系統にして、将種なり、貴胄なり。時は恰も弓張月の影聞く、幾代重ねし。足利も運命傾く時世なりしが、江田松本坊は、白雲関山、百里の外に来り。朱門高弟に出入し、専ら符呪祈祷をなして、歳序を送りしなり。其の貴族の家に、音物を捧げたるに依れば、優に門戸を張り、窮乏を告げざりしならむ。此の時源応尼の娘に、於大と呼ぶ處女あり。前章に述ぶる如く、此社会の婦女は、歳暮には、節季候と云ふ祝事を為して、銭を乞ひしが、平素は笊、簓、味噌コシ、刷匙、灰ナラシ等を、肆中に売り行くを業務となしたるものゝ如し。此両性の間、料らずも、月下氷人奇縁を結び、一夜熊羆夢に入り、月日を累ねて、天文十一年壬寅十一月廿六日、駿府の片里なる茅廬の中に恙なく分娩し、鳳雛驥子、はじめてこゝに瓜々(口偏に瓜)の声を挙ぐ。是れぞ後来、豊蘆原を一統し、四海兵馬を握り、征夷大将軍太政大臣、淳和奨学両院の別当源氏の長者、徳川家康公、諡号東照大権現の、斯の世に迹を垂れられたる始末なり。
此誕生地は、源応尼公の旧居を距ること、僅二丁にして、今の上八幡町龍華山安南寺の西隣に、本と榊原越中守の拝領家敷と称ふる空地あり。維新後は、此の地に徒刑場を置き尋で小学校の敷地となれり。少将井社記に、往時宮の前町に其の標ありと云ひしは、即ち此の所なり。当時此の辺を宮の前町と総称せしと証すべし。
公の寓居地は、華陽院の境内なること、公の自記に拠りて瞭かなり。何故に別に空地を設け、標しを建てしめて、名残とせられしや。是れ乃ち其の一は寓居地にして、其の一は誕生地なること卜知せらるべし。
可憐の寧馨児、此の世に生出す。命名無かるべからず。蓋し幼名国松と命けられしならむ。国松とは市松丑松等と等しく、上品の名称と云ふべからず。公の孫即ち秀忠の息子、兄を竹千代と名け、弟を国松と名く。一は貴公子に適したる名なれども、一は然らず、意味無きこと能はず。蓋し公が幼名を、暗に其の孫に譲りたるものならむ。公は生れて骨格逞しく健全なれども、身長卑くして侏儒のごとし。
江田松本坊は、固より雲水萍蓬(へいほう)の身(身偏に呂)なり。公が生れて程もなく、瓢然駿府を去て、其の適くところを知らず。母氏独り之を養育すること能はず。此の子を携へて、石田村(有度郡)の富士見馬場なる、久松土佐の家に再嫁せられしが、異父弟三郎太郎康元が生るゝに及び、其の実家なる老母源応尼の許に遣はし、此の子の養育を托せられし。公が年甫めて三歳の比ならむ。
第四章 家康公幼少期の境遇及び其の業務
夏木秋蘭、歳月流るゝが如く、公が年既に六七歳に及ぶ。此の間、清水山の喬木に舉登し、安倍川に游泳し、八幡山に椎の実を拾ひ、軍神森に犬を逐ひ竹馬を駈るの外、拳頭に百舌を止まらせ、山野を駆けめぐりて娯楽とす。此の比、老尼の甥なる大河内源三郎、善く愛護を加へしと云ふ。既にして智短上人の門に送られ、読書習字を始めらる。此の智短上人は、知源院の住職と寺記には見ゆれども、知源院は、狐が崎の河原場にある、微々たる堂宇にして末寺なり。其の本寺は東照山(今は月見山と改む)圓光院と云ふ。浄土宗の無縁寺なり。(今猶ほ八幡小路に在り)智短上人は、此の寺院の住職にして、公の学問せられたるも此の寺院なり。
神祖大君御幼年の時、参州の一寺中に、書学し玉ふて、自ら東照院と名付玉ひ、後江戸に於て、其の住僧に逢ひ玉ひ、浅草新寺町を玉ふ、則彼栄廣山東照院興源寺是なり、(咬雜物語)
(参州山中村二村山法蔵寺に、御硯水草帋掛松あり後世の附會たると明かなり)
此の小寺院を東照院と号せしと奇瑞と云ふべし。智短上人の弟子に文慶といふ雛僧あり。公は之と甚だ親善なりしと寺記に見ゆ。永録三四年の比、智短上人は遷化す。文慶は芸州広島に往て、浄国寺の住持となる。慶長十四年華陽院建立あり、此の時召して住持となし給ひしと。公の智短上人に師事せられし時は剃髪して僧となり、名を浄慶と改められたるものゝ如し。当城二の丸に、常慶門と云ふ虎口あり。松下常慶と云ひし人、此の御門造営の事を司りける。後世に其の功を残すべしとて、常慶門と名附けらると、駿府雑談に見ゆれども、松下常慶は台所向の小吏なりしなり。其の名を城門に取られしと、頗る不倫の談なり。駿府に常慶町と唱ふ町名あり。此の町は常慶の住せしに相違なし。察するに同門文慶と年齢も畧ほ同じ、師の坊より浄慶と命名せられたるやに覚ゆ。
爰に公が身上に一変故こそ到来しけれ。公は此の比より、已に周(人偏に周)黨(人偏に黨)不羈矯々として寸蛇呑牛の概あり、敢て緇徒沙門の規制に拘せられざりき。公は幼より小鳥を捕ふるとを好み、老年に及びても、鷹野は、公の最も好むところなりし。或日慈悲尾山増善寺の山に入り、餅(米編に恙)棹を以て小鳥を捕ふ。忽ち寺僧の見咎むるところとなり、痛たく呵責を加へられ、師の坊の許に送り届けらる。増善寺は今川家の菩提寺にして、固より殺生禁断の霊場なり。幼少なれば国法は見遁したるも、師の坊は之を不問に置くと能はず。遂に破門の厄を被むらる。是の時公は更に頼るところなく、流離顛沛、道塗に彷徨し、一飯腹に充たず。方に喪家の犬に類せり。時に悪奸又右衛門と云ふものあり。銭五貫を以て、公を人の家に販売しぬ。公の年方さに九歳なり。公が自白の物語は、此の時の景況なり。更に掲載すべし、
慶長十七年八月十九日、御雑談内、昔年御幼少之時、有2又右衛門某云者1銭五貫奉レ売2御所1之時自2九歳1至2十八九歳1迄御ー座駿府之由、令レ談給ふ、諸人伺侯、衆皆聞レ之云々。(駿府政事録)
其の公を売りたるところは、誰れ人の家なりしか。有度郡府中八幡小路当時の宮の前町に住みたる願人なりき。願人は妻帯肉食の修験者なり。
(後略)
春夢独談
春夢独談(一部)
沢近音著
明智光秀の本能寺謀叛の前後を述べた部分。
下巻(一部)
○老人雑話に、明智謀反の時、家老にはしらせ諸卒にはしらせず、西国立とみな心えたり。亀山より樫木原までいでゝ西国のかたへおもむくやとおもへば、たゞちに京のかたへ武者を押す。それ故みな不審す。桂川をわたりてはじめて列をなす。未明に信長のおはします本能寺におしよす。信長御自殺ありて火をかけたり。京中には何事ともしらず、新在家は他所にかはり四方にかきあげの堀ありて土居をつき、木戸ありてかまひの内なり。土居にあがりて見るものは、明智殿の謀反ならんと推量していふものあり。紹巴は内意を知られしが、何に左様の事あらんと人のいふ事をも制す。昌叱は思ひ合せたる事ありと人のいふことをも云、さて本能寺に火をかけてより、城之介殿の御座す妙覚寺へ押よす。其比は京の町家もところ/\〃にわづかにありてさはる事なければ、土居の上より分明に水色のはた妙覚寺の方へ来るが見えければ、さては明智殿の謀反よとたしかに皆知る。妙覚寺は今の室町薬師町にあり。されども構なければかなはずして、南都の陽光院殿のおはします小池の御所をかりて城之介殿うつらる。陽光院殿禁中へうつらる。烏丸の門より出させ給ふに、肩輿もなく、人の背におはれてゆく。また公方家の正親町殿は陽光院へ見舞にいおはしけるに、室町のかたより入る。陽光院殿はすでに御出なり。敵は急にせめければ出る事ならず内にこもれり。よりてその時の様子を見て後にかたれりとぞ。諸士はみな大庭にならびゐたり。正親町殿菓子に昆布ありけるを持出て諸士にあたへられしに、其時顔色変じてしをれたるは皆家に功ある歴々也。意気揚々たるはみな新参也。顔色変じたるものは討死す。意気揚々たるものはみな狭間をくゞりてのがれぬとぞ。さて正親町殿は室町の方に一かは町家の有けるに楽人の家在。壁をのり越て楽人の家に入、装束を着し冠をかぶりていづ。よせ手は公家なりとてゆるし通しける故にのがれたりとぞ。妙覚寺すでに破れ、其まゝ明智より紹巴へ便ありて、町人に少しもさわがぬやうに申されよとなり。さて安土へとりかゝらんとて、その日の午時前より東におもむく、折節勢田の橋を近江士岡山と云者焼落しける故、其日勢田に逗留し橋をかけさせ、明日安土を取、壻左馬之助を人数三千ほどそへて安土に残し、明智は七日に安土よりかへる。安土にありける信長のものどもをば、蒲生より一夜のうちに男女ともに引取上りて置しとぞ。さて明智、安土よりかへるとき、大和国主筒井順慶をこゝろもとなく思ひければ、近江よりすぐに大和路へおもむき、和議になりて六ケ国を順慶につかはし、明智が子を養子にするやくそくにて陣をひく。此時明智より紹巴へ、大和すでに和議になり、洞が峠まで引取しといふ状来るとぞ。明智大和路を引とり下鳥羽に陣をとる。其時の薬院、秀吉にも明智にも別して念ごろ也。をりふし秀吉へ見舞にゆきて西国にありしが、のぼりて下鳥羽明智が陣所へ立よりて、筑前守はこの事をきゝはや上洛す。間はあるまじといひければ、明智あはてゝその夜雨のしきりにふりけるに、桂川を無理にこえしゆゑ、鉄炮の玉薬もぬれて用にたゝざりしとぞ。しかるところにはや太閤の先陣池田勝入、高山右近、中川瀬兵衛の三頭、山崎宝寺のほとりまでおし来れり。明智が兵をさん/\〃に打やぶる。明智こらへずして青龍寺の城にたてこもるとりまきせめければ、その夜しのび脱けて東行しけるが、山科越にて百姓にころされ、当分はしれずやゝ日をへて死したることかくれなし。秀吉は明智敗北の後にのぼり給ふ。筒井順慶日和を見けれども、つひに太閤に帰服せりといへり。老人は江村専斎翁なり。この翁永禄八年にうまれて寛文四年に身まかる。そのよはひ百歳なりきとなん。そのありの世に見もし聞もしたることをかいしるせるなれば、この翁いつはりだにいはれずば、この説ぞまさに正しかるべき。そのしるせるさますべての事、文はさとびたれども実録とするに足れり。この本能寺の夜討また山崎の合戦は世に名高くて、真書太閤記の説または軍談師といふものなどの、こうさくの説などにはいかめしくいはれたるを、老人の説を見れば、其おもむきいたくことなるが、いとめづらかにおぼえてこゝにはかいしるしつ。又湯浅常山翁が紀談にも、山崎合戦の事あれど、真書太閤記と大同小異なるのみ、なほ世にいひならひつる説のごとし。常山紀談も永禄天正の頃より後々の事まで実録せるものなれど、この山崎合戦の事は専斎翁の目のあたり見たる説にはおよぶべからず。近嶺おもふに、このたゝかひのみならず、すべてむかしの合戦のありさま書にしるしおけるとは、いたくことのかはれる事あるべし。かく近き世の山崎合戦すら専斎翁のものがたりほどの事なれば、そのむかしべの事大かたにおもひはかるべし。まことに書をこと/\〃く信ぜば書なきにしかずとは、これらのたぐひをいへるならんか。
(吉川弘文館刊『続日本随筆大成』八巻を底本としました。)
常静子剣談
常静子剣談(抜粋)
松浦静山著
神仏にまかせて打ちおろす一刀
せつこふ(切甲)刀注1を木剣にて使ふに、上段にかざして仕駆くるとき、受太刀の刀を見ずして、至て無心なるがよし。而受太刀の太刀を打ときに、鉄砲に火移ると鳴る如く、我が了見は一つも無しに、摩利支天とか又は何明神とか、神仏の力にて打落す心にて打べし。我力にて打と思ふ心にては不レ宜。此心を考べし。
注1 切甲刀:心形刀流の太刀筋の一つ。
高慢と盲信は進歩の敵
聊も師言を不レ信者は、とても其奥を究る人に非ず。然ども師、石火矢に勝つの太刀ありと云はんに、是をも信ぜん人は、これも亦其奥に至る人に非ず。
剣法に不思議のわざは無い
剣術には意外のわざある者にて、人より不意に勝を取らるるなり。是れは学者の理に闇きゆゑ也。其故は人の手足の動きは大抵きわまりたる者にて、奇妙なることは無き者なり、夫に二刀を添へたるにて、此刀、刀ばかりの妙とてはなし。皆人の手足に随ふ者なれば、此理を知て手足の動きを尽し見るときは、一通の使方は勿論、秘伝とても大抵自心にわかる者なり。今之を聞ては不審なるべし。能く思ひて自得を成したる後は、始めて此言を信ずべし。故に初学とても混もの工風して理を尽すべし。理を尽すとは常に一本にても勝負の場合をためし見ること也。
思わざるの変には、定まらざるの刀を以て勝つ
総て表を使ふに、使ひそんじたるとき、其を使ひ直す事あり。是は其表の形にせんとて為す事ゆえ尤なる事成れど、此心こそ剣術の真の心に非ず。
其故は、変に応じて自在なる願ふ所なり。因て表には各其変あり。之を知らざれば剣を学ぶの術にはあらず。然ども人の手足の進退、不思の変ある者、これは必其変応を予めするとも、之無きも多し。其ときは己が心に随て即応すべし。此即応のわざ、流儀の形にあらずとて恥と思ふ者は、還て流儀の意を知らざるに似たり。本形の起ること変応の為なれば、不レ思の変に、不レ定の刀を以て勝つこと、大に尚ぶ所なり。然れば形を使ひそんじたるが恥と思ひ、使ひかけたるにて使ひなほさんより、無法の太刀にても、即座に間に合せたるこそ恥に非るなり。表は皆勝負なりと心得べし。
不意をうたれぬ心の修行
剣術者の心事は、飲レ酒、戯レ婦女、或は箏三弦抔を聴入て居る中、後より撃ちかけられしとき、即便に打捨る気合なるべし。此心を常に工風して日を渉るべし。
日ごろの動作で腕前が知れる
剣術には、人の動作を視て其技の達するを知べし。其故は、常に物に頭を衝ち、立廻に後なる物に臀を衝き、或は起たんとして戸障子などに触り、或は据置きたる物に躓き、泥途にてすべり抔する者は、皆是其伎に於ても精心ならざる人也。因て剣術には常に人の動作を視置きて其人の分際を知るべし。
打出さぬ前こそ肝心
剣術も及レ刃上たるを大切の至極と思ふべきが、是は還て末の事にて、未だ手出しを為ざる前が大切なる場と思べし。此意味を能可レ知事也。喩ば鉄砲も堅甲を砕く物にて、大に可レ懼事は勿論なれど、其堅を貫く場は還て末なり。夫れ奈何となれば、中るときは堅も貫けり、不レ中ときは皆帰レ空。故に鉄砲の可レ懼も未2打出1前こそ大切なる場と覚悟すべき事也。意解るや否や。
法則と技術が勝利の保障
予曰く。勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし。問、如何なれば不思議の勝と云う。曰く、遵レ道守レ術ときは其心必不レ勇と雖ども得レ勝。是心を顧るときは則不思議とす。故に曰ふ。又問、如何なれば不思議の負なしと云ふ。曰、背レ道違レ術、然るときは其負無レ疑、故に云爾客乃伏す。
試みなければ秘伝も無意味
総じて剣術の秘事と云ふは、何事も人に知らせずして、聞きたるままに隠し置く事に非ず。其故は、其術を試ずして徒に己が有とのみ為置ば、臨2其時1、其術得レ勝事かたし。仮令いか様の極にても、其事を伝え受けたらん者は、其師とか又は其術を知る者と、其技を試みて而後秘とすべし。一切無2其験1者は秘も秘と為すに不レ足。
剣術の達人、孔子
是は戯言に邇きなれども、先づは比喩なり。其事は剣術者の心事は、聖人にせよ賢者にせよ、向面に立たる時は一刀に打捨べくして、爰に思慮に渉るべからず。然ども夫子の行を思ふに、是ぞ剣術者の印可の行なり。可レ咲きことなれども、誰も夫子の剣術に達し玉ひしと云事は聞も及まじ。然ども夫子に太刀を執らせて相手にせば、己れ随分負るに手間はあるまじ。修行長くる程、此言は甘く味ひ覚るべし。さて此験を見せんに、論語郷党篇に云「孔子、郷党に於て恂々如たり。言ふこと能はざる者に似たり。その宗廟、朝廷に在るや、便々として言ひ、ただ謹しめり。朝して下太夫と言へば、侃々如たり。上太夫と言へば、ぎんぎん(元字は門構えに言)如たり。君在せば、叔(正しくは足篇)昔(足篇)(しゅくせき)如たり。与々如たり」この余の事も論語に見えたれども皆此趣なり。是にて観よ。如レ茲夫子は、内外につき一向に油断は莫き事知るべし。善く思ふべし。此様にては、迚も我輩の剣術にては、夫子は何程つけ窺たりとも、所詮打出すべき穴は有るまじ。其あげく此方は透間を見られば還て打捨てらるべし。顔子の喟歎して夫子は循々然として善く人を誘ふと賞申せしも、以レ今観れば、剣術者の印可の場是なり。
伊豆守殿の能談義に学ぶ
或時、予、閣老松平豆州の筵席に在て談話せし中に、豆州、能のことを言つて曰はれしは、今春にて指を為す注2には、左の身を向へ進ませ、夫を右に引かへて指すゆへ、指目に立ちて指す意のよく分るなり。総の物を指すに、譬へば横川の杉のと指すに、舞者の心実は杉に在らずしてただ其手を学びたるままにして謡の文句に当てて横川の杉と謡ば、彼の指の手を為す。全体は杉と謡へども杉はなし。因て杉と指せども空物を指すゆへ、此所大切なり。夫れ故、心中に杉の在処を設けて、其杉へ指すと思ひて、杉を目前に視る如く扇を指せば、其態善く見事に感ありて見ゆる也。尋常の者は唯習ひたるままにして何の念もなく、横川の杉とばかりの手に指すゆへ、精心一向見えず、ただ扇を揺がしたるばかり也。此両端を弁ずべきなりと言れし。
予、傍より尤に候と答へしが、退て思ふに剣術を習ふにも此意にて、譬ば表などを使ふに、太刀を挙げて彼の肩を撃つに、其中心に一刀を截段する意を専にして、此太刀を使へば、其撃所作は何れも同じ事なれども、外望にて殊更に違ふなり。是にて何れの刀法も一つことに覚るべし。実に豆州の評判格論なり。
注2 金春にて指を為す:金春流で指(さし)をする。指というのは能のしぐさで、扇を持った手を頭上にあげて前方の物を指し示すこと。
道場は楽屋、ふだんが本舞台
世の諺に、楽屋に声を枯す注3と謂ふこと宜なる言なり。総じて今講釈と云て、座に列り経義を聴く者を観るに、儼威儼格可見。而其席を退くを見れば、或は太息し或欠伸或は戯笑す。忽ち講旨と違ふ。これ講席を表向と思ひ、平常を裡と思ふより如レ斯。則諺の若し。
講席は物を学ぶ処ゆへ楽屋に比す。平常は行レ之場ゆへ舞台也。楽屋は調を合はする場処ゆへ、如何やうにもことを改替へらるゝ也。舞台に出ては取返しはならぬ也。茲を能く察ふべし。剣技も如レ斯にて、けいこ場は裡なり、平常は表向なり。夫をけいこ場にてさへ見事なれば事済むと心得居るは、畢竟愚なる故也。剣技もけいこ場は楽屋にして平常は舞台なること能く弁ふべし。如前言舞台にては仕直しは成らぬ也。けいこ場にては如何やうにも習行はせらるゝ也。とかく剣生の念入は楽屋舞台を取違ふる也。
注3 楽屋に声を枯す:本舞台に出る前に声が出なくなること。
「犯すべからざるの色」を備えよ
予、常に言ふ。剣学場にて剣勝負など申し扱ふは、其次第を超たること也。とかく常の容体こそ専一なり。夫故修行する時、其事を如レ真にして為レ之べし。是が即真剣勝負の本なり。然るを当時の修行と云ふは、徒に其進退手足の出入を志て、絶て心気発動のことに及ぶ者なし。頃日礼の曲礼を読むに、喪に臨めば則ち必ず哀色あり。弗(正しくは糸篇)を執りて笑はず、楽に臨みて歎せず。介胄すれば則ち必ず犯すべからざるの色あり。故に君子は人に色を失はざるを戒慎すと、此の如く云へり。然れば古人も既に是事に目は着きて居たり。さすれば礼は尚き者にて、強て言はば剣術の本とも謂べし。此四箇条の心根は、自然を云ふには非ず。皆君子の戒慎して不レ失レ之なり。剣生も思レ之て、於2学場1対レ敵は、戒慎して心気を逞くし、不レ可レ犯の色有らんを務べし。
「平心の術」により生涯の勝利を得る
諸処他流試合など云て、人と対し其技を抗し、誰は誰某に勝たりと其誉られし人の心には己が技は善しと思はん歟、抑又彼人に勝たりと思はん歟、予は然らず。当流の意を以て云はば、一時の勝は終身の勝に非ず、仮令其人に勝たりとも、これ終身の勝と為べからず。秘事なれども云はん、勝とするに一時を以て云ふは無一の術、終身を以て云ふは平心の術なり。若し剣生能くこの義を悟らば、即是皆伝の人なり。
(吉田豊編『武道秘伝書』徳間書房刊を底本としました。)
常山楼筆餘
常山楼筆餘
湯浅常山著
巻一 (一部)
○吾邦ノ射法 古ヨリ受伝ルコト有ベケレドモ詳ナラヌニヤ。天照大神戎装アリシ時、靫ヲオイ、弓ヲ執タマヒシ事、太古ノ時ニ聞ベシヲ、始テ天鹿児弓天之波士弓ナド、皆太古ノ時ニ聞ヘタリケリ。其後調役ニモ弭ヲ定ラレシコト、景行天皇ノ御時ナリ。中葉ニ至テ、善射ノ人モアマタ世ニ聞ヘテ、保元ノ乱ニ、鎮西八郎為朝ノ射、殊ニスグレタリトス。其後モ名アル人、数ツクスベカラズ。然ドモ古ニハ病(くせ)トイフ事有トモ聞ヘズ。病有テモ其事ヲ詳ニシルサズヤアリケン。但今川貞世ノ大草紙ヲ視ルニ、了俊(貞世の事)一切ノ弓ノクセトイフホドノ事ヲモチタリシカバ、人ヲキラハズ、弓ノ上手トイヒシ人々ニ、アマネク習聞シカバ、吾身ハ下手ナレドモ、病ヲ直サンヤウハ淵底ヲ尽シテ問聞シナリトシルサレシナレバ、昔ヨリ病ハ有ケルナリ。古今ヲ通ジ考ルニ、吾邦ハ弓ノ強弱ヲイヘドモ、弓之強弱ヲイヘドモ、弓ノ軽重ヲ論ズルコトヲ聞ズ。明ノ高頴ガ射学正宗ニ、因レ弓制レ矢、量レ力調レ弓、此不刊之典也、弓之強弱、必須レ量2我力之大小1、大率以2百斤1為レ準トイヘリ。先其躬ノ力ノホドヲ試テ、弓ノ軽重ヲ料リテ、弓ヲ造リ出ス法詳ナリ。コレ日本ノ射法ニ無キ事ナリ。左伝ニモ、又弓ノ軽重ヲイヒシ事見ヘタリ。サレバ弓ノ軽重ハ其身ノ力ヨリ出テ、其躬ノ力ノ限アルナリ。是聖人弓ヲ造リ出シタマヒシ遺法ナルベシ。吾邦ノ士、勁弓ヲ好ムヨリ病ハ出来ルナリ。聖人ノ遺法ニ遵テ、マヅ躬ノ力ヲ試テ弓箭ヲ造リタランニハ、病ツクコト尠カルベシ。弓ノ力定リテ後ニ、箭ニモ軽重定ル法、詳ニ高頴ガ書ニシルセリ。吾邦ニテ、矢ノ軽重ヲ論ゼザルニハ非ズ。然ドモ弓ノ軽重ニヨリテ論ズルニ非ズ。又弓ヲ造ル事、高頴ガ書ニ詳ニテ、吾邦ノ弓ニ比スレバ、以テノ外ニウスキ物ナリ。郊射ハ百歩ニテ射ルト見ヘタレバ疑思ヒシニ、吾藩山川氏ノモトニ烈公ノ賜ハリタリシ異国ノ弓アリ。其制モ正宗ニ見エシト相同ジク見ヘ、試ニ射タリシニ百歩ニ及ベリ。サレバ高頴ガ射書ノ法、疑フベカラズ。射法ヲ好ム人ニハカリテ弓ヲ造リ出サバ、聖人ノ弓矢ノ法モ、吾邦ニ興サルベキニヤ。
巻二 (一部)
○平家物語ニ見エシ、平相国清盛ノ寵セラレシ娼妓王トイエルハ、近江益須郡北村ノ人ナリ。北村ハ水利ノ便ヨカラザル地ナルニヨリ、清盛ニ請テ小キ渠ヲホラント申シタリケレバ、清盛下シ文ヲアタヘラル。益須川ヨリ三里水ヲヒキテ田ニ灌キ、其餘ハ湖水ニ入、今ニ至テ其民利沢ヲ得ルトナリ。吾藩ノ小森子徳ハ、モト近江ノ人ナリシ故ニ、此事ノ語リツタエタルヲ詳ニシリテ語リシナリ。下シ文モ今ニ伝ハレリ。其詞ニマス川ヨリ北村ヘ弓長箭長ニ水ヲホリ通スベキトノセラレタルトナリ。広サ僅ニ丈バカリモヤアラン。土人ハ此ヲ妓王湯ト云トカヤ。湯ト云ハ小川ヲイヘル方言也。今モ猶老農ハ妓王ガ忌日ニ素食ス。北村ニ妓王寺アリ。妓王ヲ葬トイヒ伝タリト、子徳語リタリシ。妓王娼ナリトイエドモ、民ヲ利沢スル事ヲ忘レズ。平家物語ニ見エタル妓王ガ事、是ニ凡庸ノ人ニ非ズ。サレバ肉食ノ君子、国家ヲ輔佐スルノ位ニ在テ、賢ニ下リ士ヲ愛スルノ道ヲシラズ。唯其門地ヲ自負シ、驕奢ヲノミ事トシ権威ヲ独擅ニシ、民ヲ利沢スルコトヲシラザルハ、妓王ガ罪人トゾイフベキ。
○昔娼トイエルモノ、大抵旅舟ツナグベキ所ニアマタ有ケルニヤ。本朝文粋江以言見2遊女1序文ニ、豫州源太守兼員外左典厩春行2南海1路次2河陽1河陽則山河摂三州之間而天下之要津也。其俗衒2売女色1邑里相望維2舟門前1遅2客河中1ト見エタリ。唐人ノ長干行ノ詩ニ相似タルトゾ覚ユル。河陽ハ今ノ山城山崎ノ地ナルニヤ。昔ヨリ歌ニ詠ゼシ多ク船ツナグ所ニテ、室津江口ノ事ヲイエリケリ。小松大臣重盛ノ、伊豆守仲綱ノモトヘ馬ヲ贈ルトニ、夕ニ陣外ヨリ傾城ノモトヘ遅レン時用ラルベシト云レシハ、必シモ娼女ヲサスニハ非ザルベシ。東鑑ニ、里見冠者ヲ遊君別当トセシ事見エシハ、其世ハ酒宴ノ時、娼女ニ酒ヲ行シメテ争論モ有シ故ニ、カヽル命モ有シニヤト云人アリ。又凡庶ノミニ非ズ、栄花物語松ノシヅ枝巻ニ、延久五年、後三条帝男山ニ謁タマヒシ事ヲシルシテ、橋本ノ津トいフ所ニクダラセタマヒ、江口ノアソビ、船マイリロク賜セケル事見エタリ。大和物語ニ、亭子院ノミカド鳥飼院ニオハシマシケリ。例ノゴトク御アソビアリ。コノワタリノウカレ女ドモ、アマタ参サブラフ中ニ、声ヨシアル物ハアルヤト問セタマフニ、ウカレ女バラノ申スヤウ、大江玉淵ガムスメトイフモノ、ナンメヅラシウ参テ侍ルト申ケレバミサセタマフニ、サマ貌モ清ゲナリケレバ、アハレガリタマヒテ、ウヘニ召アゲタマフ抑マコト哉ト問セタマフニ、鳥ガヒト云題ヲ人々ニヨマセタマヒケリ仰タマフヤウ玉淵ハイトラウ有テ、歌ナドヨクヨミキ。此トリガヒト云題ヲ、ヨクタカフマツリタランニシタガヒテ、誠ノ子トオモホサント仰タマハリ、承テ則、
- アサ緑カヒアル春ニアヒヌレバ カスミナラネドタチノボリケリ
ミカド憐ガリタマフテ、ウチキ一重バカマタマフ。上下皆カヅケタルト見エテ、大鏡ニモ此事同ジクシルシタリ。太平記ニ、越前金崎ノ船遊ヲシルシテ、島寺ノ袖トイフ遊君、東宮一ノ宮ノ御前ニ参テ御酌ニタチタリシガ、翠帳紅閨万事之礼法雖レ異舟中波上一生之歓会ト謡ケル事モ見ユ。天子皇子ノ側ニ娼妓ノ侍坐セシ事、アヤシキコトヽイヘドモ、是古今風俗ノ移リカハレル故ナリ。風俗ノウツリ変ルハ、制度ノカハレルヨリシテ、其世各一種ノ議論アルガ故ナリ。其実ハ、郡県ノ代ハ廉恥ヲ養フニ甚疎ナルヲ以テ、封建ノ時ト大ニ事情ノ変ゼシハ、此一事ヲ以テモ推料ルベシ。後世ノ学者、風俗ニヨリテ議論ノ変ズル事ニ心ツカズ。後代ノ空理ヲ推テ、古ノ人ヲ論ズ。コノ故ニ悖レル事多キナリ。
○五雑組ニ戴タル武芸十八般、日本ノ武伎ト其名ヲ比ベ視ルニ、イカナル物ニヤ、詳ナラヌ物多シ。日本ノスマフト云物ト稍似タル物モ聞ユレドモ、審ナラズ。角抵ハ相撲也ト注セシ物モアリ。皇朝ニハ、七月相撲ノ節トテ、天子御覧ノ事アリ。上卿勅ヲ奉テ、左右ノ次将ニスマフ有ベキ由ヲ申、召ノボセラル。仁寿殿ニ出御ナリ。左右ノ相撲人、犢鼻ノ上ニカラキヌハカマヲ著テ、勝負アリト云コト、公事根源ニモ見エ、江次第ニ詳ナリ。其始ハ、神亀三年トカヤ。サレバ昔ハ賎キワザトハセザリシナリ。曾我物語ニモ、頼朝卿伊東ガ館ニオハセシ時、東国ノ士ドモ慰申シテ、狩セシ後相撲アリシニ、其人々皆イヤシカラヌ弓トリナリ。又東八箇国ニスグレタル大力ノスマフ出来テ、手向スベキ人ナシ。畠山荘司バカリ心ニクウ候トイヒシヲ、頼朝卿重忠ニ所望有シ事モ、著聞集ニ見エタリ。今ハイヤシキ事ト人ニ思エルモ故アルベキニヤ。昔ノ戦ハ専騎射ナリ。射シラマカシテヒルム処ヲ、馬ヲ駆ヨセテ太刀ウチシ、或ハ駆乱シ、或馬ヲナラベテクンデ両馬ガ間ニ堕、短刀ヲ抽テ刺テゾ勝負ヲシケレバ、クミウチノ武功多シ。其後鳥銃出来テ戦法大ニ変ジ、火薬ノ烟ノ下ヘ槍鉾ヲ揃テ衝テカヽリテ勝ツコトニナリケル故ニ、スマフヲバ無用ノ伎ト思エルナルベシ。元和浪華ノ役、数十万ニ及ブ兵ナリシカド、クミウチハ至テ尠シト、フルツハモノヽ語リ伝エシナリ。
(『続日本随筆大成』第二巻所収を底本としました。)

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