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説教節
説教節『山椒大夫』(一部)
コトバただいま語り申す御物語、国を申さば、丹後の国、金焼き地蔵の御本地を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度は人間にておわします。人間にての御本地を尋ね申すに、国を申さば、奥州、日の本の将軍、岩城の判官、正氏殿にて、諸事のあわれをとどめたり。この正氏殿と申すは、情の強いによって、筑紫安楽寺へ流され給い、憂き思いを召されておわします。
フシあらいたわしや御台所は、姫と若、伊達の郡、信夫の庄へ、御浪人をなされ、御嘆きはことわりなり。ある日の中のことなるに、いずくとも知らずして、つばめ夫婦舞い下がり、御庭の塵を含み取り、長押の上に巣をかけて、十二のかいごを暖めて、父鳥互いに養育つかまつる。厨子王丸は御覧じて、「のう母御様、あの鳥名をなにと申す」と御問いある。母御このよし聞こしめし、「あれは、常葉の国よりも来たる鳥なれば、つばめとも申すなり。または耆婆とも申すなり。なんぼう優しき鳥ぞかし」。
コトバ厨子王丸は聞こしめし、「あらふしぎやな今日の日や、あのように、天を翔くるつばめさえ、父母とて、親を二人持つに、姉御やそれがしは、父という字御ざないぞ。不思議さよ」とのたまえば、母御このよし聞こしめし、「御身が父の岩城殿は、ひと年、御門の大番調えさせ給わぬ御罪科に、筑紫安楽寺へ流されて、憂き思いしておわします」。厨子王は聞こしめし、「父はうき世にましまさば、姉御やそれがしに、暇を給わり候え。都へ上り、御門にて、安堵の御判を申しうけ、奥州五十郡の、主となろうよ母御様」。母御このよし聞こしめし、国を三月十七日、事かりそめに立ち出でて、後の後悔とぞ聞こえける。
三十日ばかりの路次の末、越後の国、直井の浦に御着きある。日も陽谷を立ち出で、扶桑を照らし、日も暮端なりぬれば、「宿取り給え」。うわたき承り、直井千軒の所を、一夜一夜と借るほど、九百九十九軒ほど借れど、貸す者さらになし。
フシあらいたわしやな四人の人人は、とある所に腰を掛け、「さても凡夫世界のこの里や。一夜の宿を貸さざることの悲しさよ」。
コトバ嘆かせ給ふところに、浜路より戻る女房このよし聞き、「旅の上臈様の御意もっともなり。これは直井の浦と申して、悪い者が一人二人あるにより、越後の国直井の浦こそ、人売りがあるよとの風聞なり。このこと地頭聞こしめし、所詮宿貸す者あらば、隣三軒、罪科に行なうべきとあるにより、貸す者、御ざあるまい。あれに見えたる黒森の下に、おうぎの橋と申して、広い橋の御ざある。これへ御ざありて、一夜明かいて御通りあれ」と申しける。
フシ御台このよし聞こしめし、これは氏神様の教えさせ給うかと、四人連れにて、おうぎの橋に着きしかば、昔が今に至るまで、親と子の御中にて、諸事のあわれをとどめたり。北風の吹く方は、いずくもつらいと思しめし、風を防ぎ給い、御小袖を取り出だし、御座の筵に参らせて、中には姉弟御状しある。
コトバこれは直井の浦の御物語。ここに山岡の太夫と申して、人を売っての名人なり。「さても昼の上朧たちに、御宿を申し損うて腹立ちや。謀り売りて、春過ぎをしよう」と思い、女人の足のことなれば、よも遠くへは御ざあるまい。浜路を措いて行くつきか、まったおうぎの橋へ行くべきと、草鞋脛巾の緒を縮めて、前後も知らず伏しておわします。ひとおどし威さばやと思い、持ったる鹿杖にて、橋のおもてを、どうどうと突き鳴らし、「これに伏したる旅人は、御存じあっての御休みか、まった御存じ御ざないか。このは(し)と申すは、供養のない橋なれば、山からうわばみが舞い下がり、大蛇が上がりて、夜な夜な逢うて契りをこめ、さて暁がたになりぬれば、逢うて別るるによって、さてこそ橋のぞうみょうを、おうぎの橋と申すなり。七つ下がれば人を取り、行きがたないと風聞する。あらいたわしや」と言い捨てて、さらぬ体にて御戻りある。
フシ御台このよし聞こしめし、かっぱと起きさせ給いて、月の夜かげよりも、太夫の姿を見給いてあれば、五十あまりの太夫殿。慈悲ありそうなる太夫殿に、宿借り損じてかなわじと、太夫の袂にすがりつき、「のういかに太夫殿、われらばかりのことならば、狐狼変化のものどもに、取らるるとても力なし。あれあれ御覧候えや、これに伏したる童こそ、奥州五十四郡の、主となろうず者なるが、さてふしぎなる論訴に、都へ上り、御門にて、安堵の御判を申しうけ、本知に帰るものならば、やわか太(夫)殿に、せちにせりょうが惜しかるねきか。一夜の宿」と御借りある。
コトバ太夫このよし聞くよりも、宿借るまいと言うとも、おさえて宿の貸したいに、宿借ろうと申す、うれしやな。さりながら、為らばやと思い、「のういかに上臈様、御宿を参らせとうは御ざあるが、強ければ、思いながらも、御宿をば、え参らすまい」とぞ御申しある。
フシ御台このよし聞こしめし、「のういかに太夫殿、(こ)れは譬えでなけれども、費長房や丁令威は、鶴の羽交に宿を召す、達磨尊者は芦の葉に召す、旅は心世は情け、さて大船は浦がかり、捨子は村の育みよ、木があれば鳥が棲む、港があれば舟も寄る、ひととおり一時雨一村雨の雨宿り、これも他生の縁と聞く、ひらさら一夜」と御借りある。
コトバ太夫このよし承り、「御宿を参らすまいと思えども、あまりに御意の近ければ、さらば御宿を参らせん。路次にて人に逢うたりとも、太夫にばかりもの言わせ、御忍びあれ」と申し、太夫が宿へ御供ある。上臈様の運命尽くれば、路次にて人にあいもせず、太夫が宿に御着きある。
太夫は女房近づけて、「いかに姥、昼の上臈様に御宿を申してあるぞ」。女房聞いて、「あの上臈に、御宿を御申しあらば、みずからには飽かぬ暇」と御乞いある。太夫はったと睨んで、「さても和殿は、生道心ぶったることを申すものかな。今年は親の十三年に当たって、慈悲の御宿を申すが、それも惜しいか女房」。姥このよし聞きて、「さて今までは、売ろうがためかと思い申して御ざあはれば、慈悲の御宿とあるなれば、こなたへ」と申し、洗足取って参らせ、中の出居へ入れ申し、もてないて女房は、夜半のころ参り申しけるは、「のういかに上臈様、御物語に参りたよ。さても昼、御宿を参らすまいと申したは、あの太夫と申すは、七つの時よりも、人売り申し、情けなの太夫やな、恨めしの姥やと、御申しあろう悲しさに、さて御宿申すまいと申して御ざある。慈悲の御宿とあるならば、五日も十日も、足を休めて御通りあれ。それとても油断な召されそ。太夫が売るとあるならば、みずから知らせ申そうぞ」。太夫は立ち聞きをつかまつり、「いかに上臈様に申すべし。宿の太(夫で)御ざあるが、御物語に参りたり。もとも京へ御上りか」と問いければ、「今が初め」と御申しある。太夫このよし聞くよりも、今が初めのことならば、舟路を売るとも、陸を売るとも、しすまいたと思い、「舟路を召さりょう、陸を召さりょうか」と問いければ、御台このよし聞こしめし、「舟路なりとも道に難所のなき方を、教え給われ」と仰せける。太夫このよし聞くよりも、ただただ舟路を召され候えや。太夫がよき小船一艘持ってある間、(お)きまで漕ぎ出だし、便船乞うて参らすべし。とこう申す間に、夜が(あ)けそうに御ざある。夜が明け離れば、宿の大事になるほどに、はやはや御忍びあって給われや。上狼様」とぞ謀りける。
フシあらいたわしやな、四人の人々は、売るとも買うとも知らずして、太夫の家を忍び(い)で、人の軒端を伝うてに、浜路を指いて御下りある。さて浜路にも着きしかば、太夫が夜舟に取って乗せ、纜解く間が遅いとて、腰の刀をするりと抜き、纜ずっと切って、あっぱれ切れ目の商いかなと、心の中うちにうち祝い、「えいやっ」と言うて、櫓拍子踏んで押すほどに、夜の間に三里押し出だす。
コトバ沖をきっと見てあれば、霞の中に、舟が二ぞう見ゆる。「あれなる舟は、商い舟か、漁舟か」と問いかくる。「一艘は、えどの二郎が舟、一艘は、宮崎の三郎が舟候」と申す。「おことが舟はたが舟ぞ」。「これは山岡の太夫が舟」。「あら珍しの太夫殿や。商い物はあるか」と問いければ、「それこそあれ」と、片手をさし上げ、大指を一つ折ったるは、四人あるとの、合点なり。「四人あるものならば、五貫に買おう」と、はや値さす。宮崎の三郎がこれを見て、「おことが五貫に買うならば、それがしは、先約束にてあるほどに、一貫増いて六貫に買おう」。われ買おうひと買おうと口論する。刀つきにもなりぬれば、太夫は舟にとんで乗り「手な打つそ鳥の立つに、ことにこの鳥若鳥なれば、末の繁盛するように、両方へ売り分けて取らしょうぞ。まずえどの二郎が方へは、上臈二人買うて行け。まった宮崎の三郎が方へは、姉弟二人買うて行け。負けて五貫に取らする」と、またわが舟にとんで乗り、「のういかに旅の上臈様、今の口論は、誰ゆえと思しめす。上臈様ゆえにて御ざあるぞ。二艘の舟の船頭どもは、太夫がためには甥どもなり。伯父の舟に乗ったる旅人を、われ送ろうひと送ろうと口論する。人の気に合うはやすいこと、里も一つ(み)なとも一つのことなれば、舟の足を軽う召され、類船召され候えや。まず上臈二人は、あの舟に召され候え。おこと姉弟は、この舟に召され候え」と、太夫は料足五貫にうち売って、直井の浦に戻らるる。
フシことにあわれをとどめたは、二艘の舟にてとどめたり。五町ばかりは、類船するが、十町ばかりも行き過ぎて、北と南へ舟が行く。御台このよし御覧じて、「さてあの舟とこの舟の、間の違いは不思議やな。同じ港に着かぬかよ。舟漕ぎ戻いて、静かに押さいよ、船頭殿」。
コトバ「なにと申すぞ、今朝朝えびすを祝いそこない、買い負けたるだにも腹の立つに、上臈二人は買うてあるぞ。舟底に乗れ」とばかりなり。
フシ御台このよし聞こしめし、「やあやあいかにうわたきよ。さて売られたよ買われたとよ。さて情けなの太夫やな。恨めしの船頭殿や。たとえ売るとも買うたりとも、一つに売りてはくれずして、親と子のその中を、両方へ、売り分けたよな悲しや(な)」。(み)やざきの方をうち眺め、「やあやあいかに姉弟よ。さて売られたとよ買われたぞ。命を庇え姉弟よ。またも御世には出ずまいか。姉が膚に掛けたるは、地蔵菩薩でありけるが、自然姉弟が(み)の上に、自然大事があるならば、身替りにも御立ちある、地蔵菩薩でありけるぞ。よきに信じて掛けさいよ。また弟が膚に掛けたるは、信太玉造の系図のもの、死して冥途へ行く折も、閻魔の前の土産にもなるとやれ。それ落とさいな厨子王丸」と、声の届く所では、腰の扇を取り出だし、ひらりひらりと招くに、舟も寄らばこそ、今朝越後の国、直井の浦に立つ白波が、横障の雲と隔てられ、「わが子見ぬかな悲しむ習いあ(り)。のうい(か)に船頭殿、(ふ)ね漕ぎも(ど)いて、今生にての対面を、も一度(させ)て給われの」。
コトバ船頭は聞くよりも、「なにと申すぞ。一度出いたる(舟)を、あとへは戻さぬが法ぞかし。舟底に乗れ」とばかりなり。(う)わたきの女房、「承って御ざある」と、「賢臣二君に仕えず、てん女両夫に見えず、二張の弓は引くまい」と、舟梁につっ立ち上がり、しゅへんの数珠を取り出だし、西に向って手を合わせ、高声高に念仏と、十遍ばかり御唱えあって、直井の浦へ身を投げて、底の藻屑と御なりある。
フシ御台このよし御覧じて、さて親とも子とも姉妹とも、頼みに願うだうわたきは、かくなり果てさせ給うなり。さて身はなにとなるべきと、流涕焦がれて御泣きある。こぼるる涙をおしとどめ、ちきり村濃の御小袖取り出だし、「のういかに船頭殿、これは不足に候えど、これは今朝の代物なり。さてみずからにも、暇を給わり候えや。身を投ぎょうよ船頭殿」。
コトバ船頭このよし聞くよりも、「なにと申すぞ。一人こそは損にはすまい」とて、持ったる櫂にて打ち伏せ、船梁に結いつけて、蝦夷が島へぞ売ったりけり。蝦夷が島の商人は、能がない職がないとて、足手の筋を断ち切って、日に一合を服して粟の鳥を追うておわします。
これは御台の御物語。さておき申し、ことに哀れをとどめたは、さて宮崎の三郎が、姉弟の人々を、二貫五百に買い取って、後よ先よと売るほどに、ここに丹後の国、由良の湊の山椒大夫が、代を積もって十三貫に買うたるは、ただ諸事のあわれと聞こえける。太夫はこのよし御覧じて、「さてもよい譜代下人を、買い取ったることのうれしやな。孫子曾孫の末までも、譜代下人と、呼び使おうことの嬉しさよ」と、喜ぶことはかぎりなし。
(『説教節 山椒太夫・小栗判官他』 荒木繁・山本吉左右編注 東洋文庫243を底本としました。)
早雲寺殿廿一箇条
早雲寺殿廿一箇条(全文)
赤字は本文中の引用部分です。
一 第一佛神を信じ申べき事。
一 朝はいかにもはやく起べし。遅く起ぬれば。召仕ふ者まで由断しつかはれず。公私の用をかくなり。はたしては必主君にみかぎられ申べしとふかくつゝしむべし。
一 ゆふべには。五ッ以前に寝しづまるべし。夜盗は必子丑の刻に忍び入者也。宵に無用の長雜談。子丑にねいり。家財をとられ損亡す。外聞しかるべからず。宵にいたづらに燒すつる薪灯をとりをき。寅の刻に起。行水拜みし。身の形儀をとゝのへ。其日の用所妻子家來の着共に申付。扨六ッ以前に出仕申べし。古語には。子にふし寅に起よと候得ども。それは人により候。すべて寅に起て得分有べし。辰巳の刻迄臥ては。主君の出仕奉公もならず。又自分の用所をもかく。何の謂かあらむ。日果ひなしかるべし。
一 手水をつかはぬさきに脚より厩。庭門外迄見めぐり。先掃除すべき所をにあひの者にいひ付。手水をはやくつかふべし。水はありものなればとて。たゞうがひし捨べからず。家のうちなればとて。たかく聲ばらひする事。人にはゞからぬ躰にて聞にくし。ひそかにつかふべし。天に跼地に蹐すといふ事あり。
一 拜みをする事。身のおこなひ也。只こゝろを直にやはらかに持。正直憲法にして。上たるをぱ敬ひ。下たるをばあはれみ。あるをばあるとし。なきをばなきとし。ありのまヽなる心持。佛意冥慮にもかなふと見えたり。たとひいのらずとも此心持あらば。神明の加護有レ之べし。いのるとも心まがらば。天道にはなされ申さんとつゝしむべし。
一 刀衣裳人のごとく結搆に有べしと思ふべからず。見ぐるしくなくばと心得て。なき物をかりもとめ。無刀かさなりなば。他人のあざけり成べし。
一 出仕の時は申に及ず。或は少き煩所用在之。今日は宿所にあるべしとおもふとも。髪をばはやくゆふべし。はふけたる躰にて人々にみゆる事。慮外又つたなきこゝろ也。我身に由斷がちなれば。召仕ふ着までも其振舞程に嗜むべし。同たけの人の尋來るにも。とゞつきまはりて見ぐるしき事也。
一 一出仕の時。御前へ參るべからず。御次に祗候して。諸傍輩の躰見つくろひ。さて御とをりへ罷出べし。左樣になければ。むなつく事有べきなり。
一 仰出さるヽ事あらば。遠くに祗候申たり共。先はやくあつと御返事を申。頓て御前へ參。御側へはひはひより。いかにも謹て承べし。扨いそぎ罷出。御用を申調。御返事は有のまゝに申上べし。私の宏才を申べからず。但又事により。此御返事は何と申候はんと口昧ある人の内儀を請て申上べし。我とする事なかれといふことなり。
一 御通りにて。物語抔する人のあたりに居べからず。傍へよるべし。况我身雜談虚笑抔しては。上々の事は不レ及レ申。傍輩にも心ある人には。みかぎられべく候也。
一 數多まじはりて事なかれといふことあり。何事も人にまかすべき事也。
一 少の隙あらば。物の本をば。文字のある物を懷に入。常に人目を忍びみべし。寝てもさめても手馴ざれば。文字忘るゝなり。書こと又同事。
一 宿老の方々御縁に祗候の時。腰を少々折て手をつき通るべし。はゞからぬ躰にてあたりをふみならし通る事。以之外の慮外也。諸侍いづれも慇懃にいたすべき也。
一 上下萬民に對し。一言半句にても虚言を申べからず。かりそめにも有のまゝたるべし。そらごと言つくればくせになりてせゝらるゝ也。人に頓てみかぎらるべし。人に糺され申ては。一期の耻と心得べきなり。
一 歌道なき人は。無手に賤き事なり。學ぶべし。常の出言に慎み有べし。一言にても人の胸中しらるゝ者也。
一 奉公のすきには馬を乗ならふべし。下地を達者に乘ならひて。用のたづな以下は稽古すべき也。
一 よき友をもとめべきは。手習學文の友也。惡友をのぞくべきは。碁將棊笛尺八の友也。是はしらずとも耻にはならず。習てもあしき事にはならず。但いたづらに光陰を送らむよりはと也。人の善惡みな友によるといふこと也。三人行時かならすわが師あり。其善者を撰で。是にしたがふ。其よからざる者をば。是をあらたむべし。
一 すきありて宿に歸らば。厩面よりうらへまはり。四壁垣ね犬のくゞり所をふさぎ拵さすべし。下女つたなきものは。軒を拔て燒、當座の事をあがなひ。後の事をしらず。萬事かくのごとく有べきと深く心得べし。
一 ゆふべは六ッ時に門をはたとたて。人の出入によりあけさすべし。左樣になくしては。未斷に有て。かならず惡事出來すべき也。
一 ゆふべには臺所中居の火の廻り我とみまばりかたく申付。其外類火の用心をくせになして。毎夜申付べし。女房は高きも賤も左樣の心持なく。家財衣裳を取ちらし。由斷多きこと也。人を召仕候共。萬事を人に計申付べきとおもはず。我と手づからして樣躰をしり。後にはさするもよきと心得べき也。
一 文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず。文を左にし。武を右にするは。古の法。兼て備へずんば有べからず。
雑兵物語
雑兵物語上巻
作者不詳
鉄炮足軽小頭 朝日出右衛門
杖を突張る役だからは、推量(をっぱかり)をもかへり見ず申事を聞めされよ。言ふまでは御座ないか、首に引懸た数珠玉の結目を襟の真中へ当る様に繰越しめされい。胸の通りに玉があれば、鉄炮がためられないもんだ。又常に角に向てはじく様に早くなはじきめさるな。とつくと魂をひつちめて、あだ玉をはじき捨ない様にはなしめされう。御定のごとく鉄炮はじく時でも、なめし袋は捨なさるな。二つに折て、替朔杖を二本でも三本でもなめし袋の口からつゝばめて、右の脇に後の胴のすいた所へつゝこんでおきなされよ。横にさしたらば杖味方の人の目があぶない程に、よいころにさしなされい。竪にさしたらば、笠にさわつてわかるかんべい。敵間の遠き内は、おれが渡すべい。早合を射はなしめされい。近くおつつむるに随て、胴乱の早合を取出しなされよ。いそげば早落もあり、火縄のはさけ様がわるければ、火もうつらないで立消も有もんだ。若し火も消たむべいならば、替の火縄が沢山な程に取替べい。玉がつかへたらば、爰に太朔杖を杖の中へつゝばめて来た程に、是を以ぶち込ば、あんたる黒がね玉でもつゝこむべい。先に立た人がはじく時は、その次は火縄をはざけめされう。ねらひとつけをば、一町め/\で是から指図を申べい。又敵が見へないとてから、鉄炮をかつぎなさるな。玉薬をつゝこんでかつぎめされよ。馬上の敵は、先馬をはじいて後に人を打よし。又時により、乗たるものを打おとし、はなれ馬をして、敵の人数をさわがす事も有べし。間近くおつつめたらば、左右へ分て、鑓の勝負を始むべし。胴乱一杯ぶちまけたらば、朔杖をひん抜て、鉄炮を腰にひつばさけて、刀を抜て敵の手と足をねらつて切めされい。真向をぶてば、鈍物は鍋の釣の様になるべい。又敵間遠て、筒の内を拭ひ、若しは洗もめされよ。その時とても、半分宛は玉薬をこんだ鉄炮置たが能ござるぞ。又がいに働て、息が切べいならば、打飼の底に入て置た梅干をとんだしてちよと見ろ。必なめもしないもんだぞ。くらふ事は扨置、なめても喉がかわく物だ程に、命の有るべいうちは、その梅干一つ大切にして、息合の薬にとんだして見て、つゝぱめ/\くわないものだ。梅干を見ても又喉がかわくべいならば、死人の血でも又はどろのすんだ上水でもすゝつて居なされ。梅干は在陣中一つで賄へども、胡椒粒は在陣中日数程は入べいぞ。夏も冬も、朝一粒づゝかじれば、冷にも熱にもあてられない物だ程に、是は梅干とはちがひて、がいに入べいぞ。手にもぬつたらばよかんべいが、とつぱづして目なんどをいじつた時、血目玉ががいにうずくべいぞ。
鉄炮足軽 夕日入右衛門
今日は川越が有べいに、胴乱を首に付べい。彦六がおかしいやつだ。具足をきて、口薬入の付様をしらないで、常鉄炮をはじく時の様に、笠を引かぶつて、後緒を首へ引懸べい/\とすれど、緒が短くてかけられない所で、緒を引切て首にひつかけた。胸板にくゝり付る事をしらないで、おかしいやつだ。あれでは鉄炮を打といわれまい。又早合の薬は、玉をぶちだすべいため斗でもない。此長陣に野にも山にもふさるべいに、大勢の中にて、蝮のとげにてもあたる者が有べい時は、早速其つかれた所へ胴薬壹匁斗のせて、火をつければ、毒気はやくつんのく物だ。それも遅ければ利かない物だぞ。
弓足軽小頭 大川深右衛門
先弓を射る者は、首に引懸た数珠(数珠)玉の結目を襟の真中へあたる様に繰越しめされい。胸の通に玉があれば、弦に引懸て、弓が射られないものだ。扨又弓の勝負がはじまらない先から、弓に弭鑓をひつくゝり付て、敵間遠き内は靫の箭射ない物だ。おれが渡すをはじいて、近くなつて靫の矢はじきめされい。必御定の間より遠く射べからず。近き分は不苦。常々的を射めさるゝより一倍もたもつと思つて射めされい。いきほひに懸てあだ矢射捨まじきぞ。鉄炮二挺の間へ弓一人宛つゝ立/\、玉薬込の間をはじきめされう。貳挺の鉄炮と壹度に矢をはじき出さない様に、間をはじきめされい。弓もはじかれない程近くおつつめべい時には、左右へ分て射めされい。左右へ分る事がならない時は、せめて左へひらいて、敵の右の方からはじき込ば、右の方は防にくひ物だ。馬上の敵は先馬を射めされい。矢種つきんとする時は、一つの矢を引つめてはゆるし、ゆるしてはひつつめ、随分一筋の矢をはばつて、むさと射べからず。死ぬべいと思ふ時は、鑓たけより近くおつ詰て、隙間を窺て放つべし。扨弭鑓を以、頬か下散のはづれか、隙間をねらひて突めされい。其後は刀でも脇差でも勝手次第にひん抜て、手か足をねらつて切べし。甲の真向切べからず。刃はつゝかけて、鈍物ではきれぬものだ。又骨は折れ、せついけれど、ちか/\〃と押よせ、弭刺の小刀なり共持て、□□のたてられないと云事もないもんだ。しがみ付てつゝつらぬきめされい。
弓足軽 小川浅右衛門
昨日弦をはりかへた時、ちつくり弦に折目をつけたが、一放はじきたれば、其儘うつきれた。弦は随分念入た弦だが、折れ目がちつくとつゐたれば、二はなし共はじかれずうつきれた。塗らぬ弦よりがいによわいと見へた。替の弦が払底だに、折目のつかない様にそろ/\弦をはりかへべい。又此弓はほこづまりで六尺有。壹尺/\に藤を巻き、間竿に用るための弓だんべい。若し間竿のいるべい時は、此弓を以、弦を下にして間をうつべいまでよ。尺藤作の弓とやらんは此弓だんべいぞ。
鑓擔小頭 長柄源内左衛門
各の原中にあるべい事だと思ひ申せど、御釈迦様にもお経、鬼めにも鉄の寄棒だとやら申事御座る。鑓の勝負がはじまらない先から、鑓のさやを胸板へ入なされい。長き鞘は、刀の後腰に引ぱさんだがよかんべいと存る。先鑓の内でも勝負のはじまるは、御侍衆の鑓からだぞ。扨又鑓をつくもんだと斗思ひ被成な。各心をひとつにして、穂先のそろひ申様に拍子を合て、上鑓に成様にたゝきめされい。必つくべいと思ひ被成な。それは壹人貳人の出合の時は不苦。鑓数の多くそろつた時は、拍子をそろへて打つより外はないぞ。扨又敵の指物をたゝき落す様にしてよかるべいと存る。馬上の敵をば、乗手よりはやく馬の太腹をつきはね、落べい所をつき被成よ。敵をおつ崩して後なればとて、一町より遠くは追被成事、いらざるものだと思ひ申。旗や馬標を一所におつかたまつて、此二色を能々精を出てまもりたらばよかんべいと存申が、如何有べいもしれない。又常々に目釘に心をつけて、ぬけない様にしめされい。まわり胴金ならば、目釘のぬけない様にひねり廻しめされい。惣て御持鑓かつぎは、江戸廻りでは御道具の者とて高給とりて奴はすれど、物前では預ものだ所で我役にはたゝない。数鑓は己がまゝに鑓をぶりくりまはすさかいで、歴々の御侍衆と替事はないもんだ程に、能々腰骨をつよくして、おくれない様に覚悟をしろ。又御持鑓かつぎは、必々我用にたてたらば、うろたへ者の腰ぬけ同前だ程に、後生一大事にひつかつひで、働かないが手柄だぞ。此二色のわけを能々ほて腹へつゝこんでおけ。
持鑓擔 吉内左衛門
銀拵の御持鑓をひつ擔だ所に、うつ草臥て眠た内、銀の上賢輪の金をひつぱなされた。いか成死罪にか行はれべい。とても咎人だ程に、敵を壹疋めつけたいと思ふ所に、馬武者が一騎はじらかしてくる所を、餅をつくごとく馬の太腹へつゝこんだれば、賢輪がなくて柄がわれ、鑓をぬくべいと思つたれば、鹽首がひつかゝつて、鑓は馬の腸漬のすしになつたが、酢桶が太く逞しくて、すしの重石もころばないで、がらり鑓をひつたくられた。是は無念なこんだが、あんとすべいと思所に、仕合とまた敵が壹疋鉤鑓を持て、只今鑓疵を負つたとみゑて、右の方の目玉から血をながいた片目づかひの跛馬に乗て、こぢよくなへびぢいがくる所で、是は幸なこんだと思つて、左から突べいならば、もしか鑓でつかれべいと思ひ、右の方より鑓の柄をおつ取直し、石突のかたで骨のない所を目利して、芭蕉毛の所をがむと突たれば、先へ五間斗つんぬいて、すべつてころんだ程に、鼻先をつゝびじいて、がいに鼻血がでた。是もころんだが、仕合と鑓を持てねまつたらば又馬がにげべいが、とつぱづして鑓をはないた所で、馬がうつころんだ。乗人もまつさか様に打落てふんぞつた所で、寝首をかく様に首をひつかいたが、大脇差は首を引かくにがいに引かきづらいものだ。具足の上に小脇差をはざけるは尤なこんだ。此首を寝首かく如に引かひたれど、若目やさめべいと思て、馬乗にのつて、左の手で素首を押へ、右の片手で大脇差を抜べい/\とすれど、帯がゆるくて、鞘が半分すぎ抜た所で、脇差は貳尺、鞘が壹尺あまりも右べい所で、三尺の刀を片手で抜くやうなものだ所で、こじ破てひつこ抜た。扨々難義なこんだ。ちつと遅ば、おれが首が落べい。当世の鞘にはさか角が有べいならば、帯に引かゝつてはやくぬけべいものをと思へば、今から此鞘に折釘でも打べいか。此刀脇差鑓は此首の主のだが、是故におれが首は最早つくべいと思て、うれしいこんだ。返/\も銀拵の賢輪一つで既に命を失ふべいとした。年のよつた侍衆の物語に、金銀の拵は能ないもんだといゝなさつたが、尤なこんだ。今重ひあたつた。銀拵の鑓は此様な事が有る。金銀拵の刀脇差は味方に寝首をかゝるゝと云。せめて鞍や鐙の金物は引ばげても見苦い斗だが、刀や鑓の金物にはいらざるこんだ。大きな失墜が有。又敵の馬が鑓疵を負て、片目ひつつぶれたと思つたが、此鑓の鉤が当て、右の目がつぶれたと見へた。兎角に物は一様にはいはれぬこんだ。鉤に得があれば、馬上の鑓には又此様な損が有る。所/\に依て武具には去嫌があるこんだ。
数鑓擔 助内左衛門
吉内/\、その鉤鑓はおかしひ鞘をつゝはめた。あんとしたこんだ。此鞘は御持鑓の鞘だが、惣而御法度で、合戦場で諸道具捨ない様に、鑓の鞘のちいさいをば具足の胸板へいれろ、長き鞘ならば腰にはざけろ、と御定だ所で、最前の御持鑓の古鞘だが、胸板からさがし出して、此鉤鑓に御家入につゝぱめたが、よその備を見るに、是も鑓の鞘を捨ないやうにと御法度が有と見へて、肩替の鑓擔が後生一大事に大鳥毛の鞘をになつた鑓擔も有、又縄を以首に引括り付た中間もある。その中でも、制札の鞘をせおつた鑓擔がおかしいこんだ。腸が切べいとした。当世、鑓の鞘の目に立が馬標や纏に成とて、大きな鞘がはやるが、抜き身になれば、馬標はつんぬける、遠くからは標は見へないで、鑓擔が古鞘をせをつて難儀をする、あんたる能き事があつて大きな鑓の鞘がはやるか、合点がいかない。とにかくに鑓の鞘は、薮から棒をつんだいた様に何もつけないが、鑓擔の為にはよいこんだ。
旗差馬標持 孫蔵
はしるべいと思ふ時は、柄立革へつゝぱめて持べい。押前がしづかだに、請筒につゝぱめべい。今日は風ががいにつよひは、手綱をかけてひつぱるべい。いそがしくなつたらば、馬標も旗も一つになつてこねあふべい。長柄を以て敵をば突はらふべい。
馬標持旗差 彦蔵
押前はしづかな時は請筒がよい。がいにはやい時は、柄立革へつつこんで持が勝手によひ。もつとはやくなつたらば、旗をひんまいてひつかつぐべい。敵を追崩していそがしくなるべいならば、旗も馬標も一所にねまつて、長柄をかきにすべいまで。此おれが背中にひつ付た袋の中へ、御旗二流入てせをつたが、一つをばとん出して、蝉口へひつ括り付た。今壹つはまだせをつている。
にしもその通りか、おれも袋に二つ入たを一つをば竿につゝはめて、一つは背中に引付た。
持筒 筒平
鉄平/\、此おれがひつ擔だ鉄炮は、自分ではじくべいとはおもわぬ。旦那の御手筒だ所で、口薬入も首にひつかければ鞘がよごれて、旦那の襟にひつかくる時慮外だ。又胴乱の緒も、よごれてわるかんべいと思つて、一つ袋へつつこんで腰に引付た。されども勝負も近くなつたらば、此鉄炮ひつかつぎたらば、足軽衆の数筒の如くに朔杖をひん抜、具足の間へさして、鉄炮をば腰にひつ付働べいと思ふ。
持筒 鉄平
筒平/\、わが云所尤だ。にしは小じよくな鉄炮を預た所で、腰にもひつばさまるれども、おれがひつかついだ鉄炮は、腰には中/\はさまれない。その上、此鉄炮はじき被成て、請取申た時、小鉄炮を腰にひつぱさむ様に、はやく背中へひつ付られまいと思ふ。がいに手間を取べい所で、難儀をしべい。あすからはにしとかわり/\〃ひつかつぎかへべいとおもふ。
持弓 矢左衛門
御持弓と云ものは、数弓とは覚悟が替べいもんだぞ。先、御弓一張御矢一腰は旦那へあげべい。今一張と一腰ははりがへの御弓・御替矢だ程に、後生一大事にひつ擔で居べいぞ。また弓立は役に立ないもんだとて、捨べいと思ふな。数珠(数珠)打飼と三尺手拭とを以、何とぞ背中へうつかけて、腰の刀を以働べいぞ。
持弓 矢右衛門
矢左衛門が云ごとく数弓とはちがふたこんだ。自分の用に立て射べいなど〃思ふは、不覚悟だんべい。又爰におもひ当た事が有。ゆつて聞せべいぞ。いかに張替の御弓・御替矢だとて、いつまでもひつかついで居べいと思ふな。御侍衆の手明の人があんべいならば、御差図を請て、今一張の御弓一腰の御矢を渡すべいとおもふが、その時は隙になるべい所で、刀をぬくべいも自由だとおもふが、あんと矢左衛門、如何あるべきな。
草履取 喜六兵衛
弥六、にしは挟箱をゆるされ、こりをせをつた。剰、刀まで壹本はさげた。おれらは草履の役に又せをひ物を預つた。弥六はがいに替得をしたが、刀脇指の指様をしらないで、扨もおかしいはさみ様だ。お歴々の侍衆は具足の上刀脇指をさしなさるが、それは小脇指也腰当を以て刀を引付めさるゝ。弥六やおれらは、具足を着るが大きなこんだ。腰当などはならない。此やうなすぐな刀を具足の上に指いては、二尺ばいの刀も抜ないもんだ。おれがかつばさんだ様にさしては、五六尺の刀もぬけべいぞ。先、具足を着ておれが見せべいぞ。具足より先に刀脇指をひつぱさんで、扨その後に、羽織をきる様に具足を着るもんだ。日本国が久しく治て、刀をきつ刃にひくりかへひてさす事がない当世は、鍋鉤の様な刀はおかしい、足の踵をたゝくとて、皆歴々の侍衆も中間もまつすぐな棒の様な刀をはさげる。その刀を、上帯に指ては中/\抜ない所で、敵を見てはぬくべいとすれど、半分ぬけて皆抜ない所で、中どりをして手を切、又は刀をおといて足を切者も有所で、脇指を以片手切にすべい事がなくて、隙な者が多かつた。その中に壹人、刀はぬけないと思つて馳せより、むんずとひつくみ、下になり上になり、俵ころびをしたが、おつぷせられて、脇差を以て突べいとて、抜べい/\としたが、陣中へは目に立がよいこんだとて、大釜の蓋ばいな大鐔に金箔をおいてうつたが、その鐔がつつぱりに成て、抜かぬるうちに、がらり首をとられた。又壹人は、下にくみふせられたれど、是は台所人だと見へて、膾つくるべいとて、大きな小刀をさいた所で、下からその小刀をひん抜て、下散の間よりつゝ込、はね返し、上にのりて、鷹匠の鳥のまるをくるやうにしてさし殺た。直な刀を具足の上に指てきた男は只是壹人だ。其外馬の上で刀をぬくを見れば、皆乗た馬に切先を切付て、手負馬が多かつた。あれを見れば、鍋鉤のごとくな刀又は小脇指は、具足上にさしてはよかるべいと思ふ。鐔のない小脇指を指たらば、手間もいらずにつん抜べい。又大きな小刀もがいに得がある。若小脇指なんどを落した時は、用に立べいこんだ。弥六、具足の上帯に大きな刀脇指は必ささぬものだぞ。具足の着様を教へるはよいが、御下知のないにむさと馬の鞍をとり、具足をぬがない筈だに、はやく着べいぞ。
挟箱持 弥六兵衛
此度之御陣の御供に、お挟箱を御ゆるされなさつて、葛籠ごりを預申てせをつた。昨日よその挟箱持めが人込にだいどうめぐりして、挟箱をぶち破て、中の道具は皆うつとられた。剰、ふんずべつてころんだ所で、平蜘蛛のごとくにふんづぶされて、血へどをでかくはき出した。され共、そのまゝつつ立て、どいつでも壹疋相手にして、打果べいと思つたそうだが、其家中でも喧嘩口論が禁制だと見へて、其法度を思ひ出して、おめ/\としたつらで堪忍したが、おらが家中では、御陣は不申及旅等でも、傍輩中での喧嘩口論は堅く御禁制だぞ。その故は、敵にあわないで死なない時は、御帰陣の時、ほて腹いつぱい思ふ存分に打果べいもまゝだ所で、御法度だ。あいつめは、他の人数を相手にして、おめ/\としたつらで堪忍したといつても、引寄せて細腹をさすべいならば、己が腕骨次第まゝになるべいに、腰抜は又法度の聞ぞこないだんべい。乍去、敵に向て壹疋も討ないで、他の人数といふても打果すも本儀ではない。其上、他の人数と打果すも、御公儀様へは是も以の外成るぶしつけだ。とにかく他の備はまじわらないがよいこんだと思ふ。おれらは斯様に軽き葛籠ごりと御さしかへ被成事難有こんだ。殊更刀を一筋御ゆるしだ。是ではや背骨がつよく成た程に、弁慶にもおそらくはまけ申まい。されどもおれが脇指の柄は、お江戸を出る時はあたらしかつたが、毎日/\手袋の金物にあたつて、其儘柄糸がきれた。合戦だといふのは死ぬもんだとおもへば、思ひの外に死なゝいで、今に命が生てねまる。其上旦那はお旗本だ所で、あに先手からはがいに遠くて、鉄炮はじく音もろくにきこへない。昨日も越し玉が壹つ飛できた。五貫目斗の玉目だつけが、おれが鼻先へ当て、痕もつかないで飛かへつた程だ所で、死べいと思つても、中/\率爾にくたばりそうでもない。柄糸の切たも死なゝい時分難儀だ。柄をつつぱめかへべいと思へど刀屋はなし、今いき当て迷惑だぞ。此刀の柄のごとくにしたんべいならば、命かぎりは有るべいものを、今爰へ来ていき当た。あんとすべい。や、思ひ出した。脇指は両手できらないで、片手討だ所で、柄の寸尺が手一束さへあつて、柄の細い分は、片手討には太ひよりはましだに、糸をひつぽどいて、中心だけに柄をひつつめ、薮の片隅に忍冬の蔓でもあんべい、込穴へ引通して、二重巻にもまくべいとおもふ。
馬取 金六
御出陣の時に、馬取といふものは貳人ながら身にひつつける道具が有べいものだ。先、馬柄杓・鼻捻腰にひつぱさみ、轡に覊・手綱をしつけて首に引懸、腹帯・立縄・力革に至までひつ添て持べいぞ。又馬には、左の妥(元字は革篇・四緒手の事)に面桶に米を入て、右の妥に小鉄炮・請筒共に引付ろ。跡の妥左右には大豆袋ひつさげろ。前輪には鞍・胴乱くゝり付、後輪に鞍飼の糒袋か又はふ杳左右の妥へ引懸て、先にて馬をひつつなげ。小鼻革たちぎゝにおつぱめ、ものはむ時は轡をゆるげひつぱづせ。物はみあげば、覊ひつつめ、則轡をかませべい。假初に馬をとつぱなせば、大きな騒ぎに成こんだ。その上では軍が負に成べいとて、がいに御禁制だぞ。能引つなげ。是は念の為だ所でいふぞ。鐙のもずをがねがおれべいもんだとおもへど、かわりを持てこないからだにおき所がなくて、鐙が一足もない。もづをがねのおれた時、鐙をひつ括り付る覚悟をしろ。又鞍覆は乗敷にして随分すてないがよいぞ。旦那の敷革にもしなさつたらばよかんべい。その時は障泥をひつぱづして、貳人は敷物にしべいぞ。能心得て道具を大事にしろ。
馬取 藤六
金六が物語をきけば、今重ひ出した事がある。おれが生れて七夜もたゝないに、曾祖父の彦惣殿がさへづりなさつたを、耳の底に廿四五年取ておいたが、今重ひ合すれば、むかし陣中に廿日鼠の首を括てつないだ所に、鼠がうつぱなれて、それそれと二人三人云程こそあれ、それが先手でわやめいた所で、敵がつん出たと思つて、一手二手躁立て崩た程に、そのあとの備ではふみかためべいと思つても、いかな先手の人数が小人嶋の人で、跡の備が大仏の様な人間だと云ても、崩れ立てきた程に友崩に成て、怯鬨を作りて、五六万の大軍が十日路斗敗軍だ、と彦惣殿が語りなされたが、金六が馬に念を入るが尤なこんだ。廿日鼠一疋でさへ是だに、ましてや廿日鼠のからだ四五百双倍も有べい馬一疋はなれたんべいならば、五六万人の大軍千日路も敗軍すべい程に、西国のはてから蝦夷まで崩ても国がたらない。大事のこんだ。御法度にも馬を取はなさぬ様にと堅く御禁制だ。たゞ必々念を入て馬ひんまわせ。惣て陣中に小歌・浄瑠璃・はや物語りを御禁制だも、高声させまいと云事だ。その故に、枚木とやらを口にかぢるといふも此事だと云。むかしの五六万人が皆腰抜では有まい。その内に背骨の強い人間も有べいが、真先壹貳人がさわいだがそれが大勢になつて、跡ではふみとめられないもんだと見えた。馬を能/\ひつぱなすな。右の子細は馬を引ずりまわす時の覚悟だぞ。又旦那が馬の口をひつぱなせなさつた時は、両手が隙に成て何もひつぴくべいものがない。刀も一本ひつぱさげた程に、一疋も料理しないも口惜しいこんだ。おれは主を四五拾人も取て見たが、所々に依て覚悟がちがふものだ。今武家の水をのんで、殊に陣中へつん出たが、惣て侍衆の云こんだ、打死が手柄だときいたが、金六めつたと死なゝいもんだぞ。たゞうつちねば、敵ががいにいきおつて得がつくぞ。味方は臆病神が引ついてがいに損がいくぞ。あんとぞして死ぬ共的を壹人成とも殺せ。二人は得だ程に、なるべいならば百人でもうつ殺せ。ぬしが腕骨次第だぞ。壹人もきりつけず、命斗捨べいは臆病だぞ。たゞ死ねば、今迄の扶持方が失墜に成べい程に、能合点をしろ。
沓持 吉六
わつちめは沓持御ゆるされ申て、沓袋をせをい申た程に、身の働が自由自在に成申た。弁慶にも武辺はまけ申まいと思ひ申。剰、刀を壹本ひつぱさんだ程に、あんたる事をもしべいとおもふが、能おもへば、武辺よりは馬の草臥ない様に馬をかい申が、おれが武辺の第一だ。此馬は、今朝野合戦におつつまくつつ半時戸競合が有たが、敵はおつちらかされてにげ申た、がいに骨折た程に、大豆も粥もくらいほうだい腹のさけるもかまわないでくらわせべいが、一度に多くかつたらわるかんべい。此様な時分はちくり/\切/\にかつて、夜も立つめてふらせないが良いぞ。ふせてはあすくたびれて用に立ないもんだ。又余所の沓籠持を見るに、扨/\あれは大儀なこんだ。沓籠をかついで居る内は、敵が来て首をする共、手出しはなるまい。此中の押前に、よその備で馬が一疋きばんで、馬取も乗人も汗をながしてしづめたが、一切穏しくならないで、脇の馬までさわぎ立た時、沓籠持めが馬の中にはさまれて、ふまれない様ににげまわつた所で、埒がなかつた。剰、ころんで沓籠をぶち破た。おれらは手明でいる程に、あの様な時は、藤六殿や金六殿のたりになり申べい。
雑兵物語下巻
矢筥持 矢蔵 玉箱持 寸頓 荷宰料 八木五蔵 夫丸 馬蔵 又若党 左助 又草履取 嘉助 夫丸 弥助 夫丸 茂助 又鑓擔 古六 並中間 新六 又馬取 孫八 又馬取 彦八 又 註記
(岩波文庫『雑兵物語/おあむ物語』を底本としました。)
続近世畸人伝
続近世畸人伝 巻之三の一部
三熊花顛著/伴嵩蹊補
『鬼麿斬人剣』188pで紹介している資料の当該部分の原文です。
加賀千代女/越前歌川女
千代女は加賀の松任の人にて、幼より風流の志ありて、俳諧をたしむ。しかれども其師をえず。是かれ行脚の人にとふに、美濃の廬元坊を称することみな同じ。こヽにして殊更に行て学ばんとおもへるに、折しも行脚して来りしかば、其旅宿に就て相見をこひ、志をのぶ。元草臥たりとて寐てありし所へゆきて、教をもとむるに、さらば一句せよ、といふ。初夏の比なれば時鳥を題とす。やがて句を吐たるに、元其たヾものならざる気韻を見て、其句をうけがはず、是はたれもすべき所也といふ。さらばとて又一句を吐。なお肯ざること初のごとし。元は既につけども女はなほさらず、沈吟す。其眼のさめたるをいかヾひては又一句をとふ。かくて数句に及び、つひに暁天に至る時、元起て終夜さらざりしや、夜は明たりや、とおどろく。時に千代女、
ほとヽぎす郭公とて明にけり
といへるを大に賞し、是成々々、汝他日此意地をわすることなくば、名、天下にふるはんと、師弟の約をなせり。果して女流にめづらしき此道の高名に至れり。これはまだ少女の時なりけらし。後、聟どりせし時、
しぶかろかしらねど柿の初ちぎり
まことに誹諧にてをかし。廿五歳にて夫にわかれし時、
起てみつ寐てみつ蚊屋のひろさ哉
生涯身を全うし、一人の男子に夫の家を嗣しめて、のちは尼になりて別居し、素園といふ。画も越後の呉俊明に学びて頗風韻あり。或人、画を上に讃を下に書てたまへ、とのぞみしに、あさがほのたれたるをながくかきて、
朝がほや地にさくことをあぶながり
句のさますべて女流の趣ありてつよからず、
あさがほにつるべとられてもらひ水
など人口に膾灸して賞す。永平寺の長老、道のついでにやとひたまひて、一念三千の意を句に作るべし、ともとめたまへるに、
千なりも蔓一筋の心から
これも世に語りつたふ。老極りて死せりとぞ。句集有て世にひろまりぬ。
○歌川はもと越前国三国の花街(出村と云)荒町屋某がもとの遊女泊瀬川と云。容色ありて、心ばへうるはしく、香、茶、花、手跡ともに志といへども、もとも性俳諧を好めり。後薙髪して歌川という。(其ほくに吟と書しは花街を離れし後、しばし豊田や吟といひて其党を集し時のこと也。又滝谷女といひしは、薙髪後滝谷寺のほとりに居し、かつ、其寺僧に受戒などせし時なるべしとぞ。)いまださかりなりし時、東都某の士夫、三国に来りてことにむつびけり。其時長谷川いふ、妾、吾妻を一見せむと願ふこと久し、もし時をえて遊びなば君が第にとゞめ給はんや、といふに、こゝろよくうけひきぬ。其後、東国の人とだに聞ば必此ことを約し置り。一日、亭のあるじにむかひ、つばらに此ことを語りて、こゝかしこ、今はゆかりも出来ぬれば、百日のいとま給ひなん、もとより其間の身のつくのひも用意せり、といふに、あるじもつきなきことながら常の心ばへにめでゝゆるしぬ。さて誰かれを送らせんといふに、いな、とくより心がまへせしとて、菅の笠竹の杖、其外旅の調度などをみするに、家こぞりて感じつゝ、日をえらびて出立しむ。是をきゝつぎて人々破子などもたらしつゝ、あるは三里、あるは五里と送りぬ。夫より道すがらしるべをたづね。そこばくの日数をかさねて江戸につき、先心あての第にたづね行、しかじかといふ。人々あやしみながらかくといひつぐに、主人きゝて、さることも有なん、旅のつかれをやすめて後たいめせばやとて、ゆあみなどせさせて、まづいかなればかゝるさまにてはきたりし、と問るゝに、俳諧執行のよしをかたり、道の記などをとう出てみするに、かつおどろき、かつよろこびて内君に托してうらなくとゞめ給ふ。かくて日をふるまゝに同列の人々をはじめ、某の国の守、これの北の方など聞つぎ給ふてめさるゝに、或はほくし、あるは茶を点じ、又琴、香、花などもさまよく手ずさびければ、日夜のわいだめなくまつはし給ひしとぞ。ある時、主人の前に出て、こたび君のみかげにて、かたがた残なくみめぐり、としごろのほゐもとげ、かつ、おもひもかけぬ御恵を蒙りぬ。国にて約せし日数も今はみちなんとすれば、いとま給ひなん、といふに、あるじ其ことはすこしも心にかくべからず。別に人をもて国人にいはせぬ、とて、せちにとゞめ給へば、又多くの月日を過して後、ふたゝびこふに、せんかたなくてゆるし給ふ。こなたかなたよりも餞し給ふとて、こがね衣服何くれの調度など給はりける中に、名ある琴も有しとなん。されば馬五匹におほせて国につかはさしめ給ふ。さて、国に帰りし後、吾妻にて給はりし物ども、ことごとく亭のあるじにとらして、おのれかくて三とせをへなば、一つの菴を結びて生涯をはごくみたまへ、といひて又もとのあそびになりぬ。是をきゝつどひくる人踵をつぎしとかや。かくしつゝ約せし年月もみちぬれば、出村の町離に草庵をむすび、世をやすく過せしが、安永六年丁酉七月、病にかゝりて歿せり。
目ざましに琴しらべけり春の雨
さそふ水あらばあらばと螢かな
爪紅のしづくに咲くや秋海棠
おく底もしれぬ寒さや海の音
あそび成し時、文のはしに、
たゝいても心のしれね西瓜哉
【東洋文庫 202 近世畸人伝・続近世畸人伝】より関連部分を掲載しました。
即事考
即事考(一部)
竹尾善筑著
前略
○香坂并虎と昌の字
甲斐国主信玄大居士の代に至り、二十四将を立、その中にいと勝れし四人を家老と称し、是を四天王に比す。永禄、天正の頃は、其人代り名字改りて、馬場、山県、内藤、高坂を称すと見えたり。扨高坂(又香坂とも。)初は春日大隅といひし百姓なりしに、苗字改させられし旨、甲陽軍鑑に出。此高坂の名乗を、彼書に昌信とありしより、武田三代記を始、甲斐の国の事しるせる書に、いづれも高坂昌信とあるは、皆小幡景憲が軍学をもてはやし、一流の学と定りしかば、其頃はいまだ家々にての伝記も詳ならず、又多くは高坂弾正と計ありて、名乗も見えざりければ、よき潤色にやと、かの軍鑑を標拠とし改候事にや。凡甲斐の国主代々、一族長臣には必一字を賜る事、京都室町の規式をうつされしとしらる。末に至りても、板垣信形、小山田信茂、小幡信定、今福信友、駒井信武のごとき、皆其例也。信虎の時に至り、初て下の字を臣下に賜り、虎の字に改しごとく、諸士多く虎の字を称す。飯富虎昌、山県虎清(初信清)、馬場虎貞、工藤虎豊、内藤虎堅、小幡虎盛、原虎胤、金丸虎嗣、同虎義、甘利虎泰(備前守)、向山虎徳(駿河守)などの類、此外にも多し。然るに高坂には、信の字、虎の字なく、昌信とあるはいかゞと思ひしに、昌の字を名乗に付たる士叉多し。此昌の字恐くは信の字の誤写なるべきか。信と昌と粗々にたる。是も彼の軍鑑にうつし誤りしより、諸家にてうつしとり、寛永系御改の時、悉昌の字になせしか。武田三代記等のごときも、はるか後年の上木なれば、かれに準拠すとしらる。其頃昌の字付し甲州の士の中にも、高坂昌信、山県昌景、小宮山昌友、小山田昌辰、真田昌輝、同昌幸、内藤昌豊、金丸昌直、同昌義、秋山昌詮、加藤昌頼(駿河守)、三枝昌吉、日向昌春、諸角昌清、日向昌時、土屋昌惟、米倉昌純等、此外にも多し。かの国にては、是等をこそ大名叉は老臣といひて、禄重く人数多かりし。然るに是等に、晴信の二字の内賜らぬ事やある。山本勘助にすら晴の字を許され、数代武功の重臣、又何の故にてかく昌の字を悉く名乗べきや。一体甲陽軍鑑は高坂造り、春日惣五郎書つぐとあれど、実は小幡景憲の作にて、甲斐の国の事ども書しるされし日記のこれるをあつめ、集成せると見えたり。されば徂徠先生も、此書のさたは偽造と定め、古来多くは證に備へず。然れども甲斐の国にて信玄の頃の事書しるせるは、此書の外くはしからねば、今は何事も此書にもとづきて考證をも得る也。さて南留別志の四に(徂徠。版本、写本二通あり。)云、高坂弾正といふ者、高野に書状あり、香坂弾正左衛門虎綱といへり、されば甲陽軍鑑は他人の偽作なる事、いよ/\明かなりと。下略今此書によれば、信虎より諸臣に虎の字賜りし時、同じく虎の字を名乗しと見え、其頃の制掟にかなへり。縁山第十三世廓山上人は高坂弾正が二男なり。予縁山志に山の上人の伝しるせるころ、諸記を改め見しに、皆高坂弾正左衛門尉とのみにて、名乗字、列祖伝、鎮流祖伝、総系譜、新撰往生伝、縁山歴代譜等にのせざれば、同じく軍鑑、武田三代記によりて、昌信としるせしなり。山県家記、其後家記等をひらき見るに、名乗なし。いかにもあるべきが、其頃戦乱の中にて実録とて今の(鳶魚註:原本虫損セリ。)などもまれにて、又家々にて書とゞめし事も、まれにのこるといへども、軍陣の中にしるせし事などは多くは伝へず。況や家々に記録とて別にさたありしもまれなれば、一犬虚をほゆれば万犬伝ふるの習にて、まどへる頃、寛永系御撰の命ありしかば、諸家俄に軍鑑によりて書出せしなるべし。かくいへばとて、甲斐の士にて、今、柳沢、米倉、土屋を始め、麾下にては、三枝、駒井、折井、□□、日向、馬場、三井、小菅、武田、跡部、小宮山、斎藤、窪田、内藤等をはじめ、彦根家藩は多分甲州士なれば、それが家々の文書類にいかゞありなんもわかちがたければ、高坂が昌信となのりし事を、一途に偽名とはすべからず。又かの時何の故ありて昌の字を数多名乗し事も、別に故あらんも定がたけれど、今南留別志の勘がへ、高野山に虎綱といへる古文書あるといへる、□□□□いぶかしければ、弾正が事によせ、昌の字を論ずるのみ也。又保科を始、正の字も数人あれば、保科弾正が正の音を、高坂弾正が正の音とし、かながきにて反古にてもありしを、漢字に改ける時誤りしにや。此頃世にも伝へ、官にも書出せるは、寛永系を始とし、多くは其頃家々にての言伝へを文字に改め、初て書しるせし事なれば、甲斐の国にかぎらず、すべて国々の事、軍陣の事、一途に思ふべからず。今の世にても、一つの珍噂あれば伝へきゝ、語る所十人あれば十種につたふ。古の事も左のごとく、其一種を證と定る時は、却て誤謬も多ければ、伝誤、写謬も少からずと思ひぬ。(鳶魚註:原本虫損アリ。)準ずべからざるべし。
中略
○三河国念仏繁栄
三河国は、北条家の末より足利氏に至迄は、仁木、細川、吉良、渋川。一色等、皆足利氏の支族にて、何れも当国の村々に住されし後、夫々の国に移封、一色、吉良両家の領となりしに、応仁已後は互に責戦ありて、一色衰へ、吉良、東西条栄え、一色の家をたをし、松平、板倉、天野、牧野、戸田、小笠原、菅沼、奥平など起りし也。就レ中徳川信光君、始めいまだ微々たりし時、一色家衰へけれど、国司の威ありければ、かの姫を娶り室とし、かの家に威力にて、近在をも伏し給へりとなり。一色氏常に在京ありて、公方家へ奉公ましませば、自ら国勢は家臣にゆだねられしに、いづれも戦国の習として我儘なる政事、はては主家の領をも皆互に領知せり。此一色氏いまださばかり国乱れざりし始、在国の折から、都にて帰依ありし円福寺の長老竜芸上人を崇敬し、国へむかへ、法蔵寺などを建ければ、姫も念仏門に入て後、信光君もともに信じさせ給ひ、長沢の嫡家妙心院殿、妙心寺を建らるゝ時、此姫真常院殿を開基し、号も真常院殿と号す。今も位牌に桐の紋所は、是一色氏の紋也。其後一色氏は都にあられ、山名、細川、斯波、畠山の乱打つゞきければ、国の政事はいつとなく徳川家に帰し、徳川家仁義を以て臣士をまねかせ、礼譲を守りて遠近をさとされしかば、累徳積功、かつは姫のゆかりによりて、仰をうけたまはりしにぞ、自ら威勢もつよくならせられ、親忠君の代にいよ/\家興し給へり。諸軍書に唯何となく家起されしに書なせど、物毎始の楷なくして何ぞ事を成さんや。徳川氏の起家は、ひとへに一色氏の家士あつまりて、姫君の威制をかり給ひしとしらる。されば信光君の時、西山浄土宗を帰依し、親忠君の時に至、鎮西真宗にうつり給へり。是も開運記等に、始て浄土宗を崇賜、大樹寺を開基のよししるされしかども、其父信光君も浄家帰依あられしかば、勢誉上人をまねかれ、かの勧誠を聞せられて、戦死得脱の利益より、大樹寺起立には及び給ひしなり。かくて都より西山の竜象たる竜芸上人、法蔵寺を開かせらるゝによりて、都は戦の岐となりしが、かの流の所化共、上人の徳をしたひ、一色、徳川家などの帰依をよろこび、都よりあまた当国へ下りしかば、それぞれ道俗力を合せ、寺院をひらきけるにぞ、深草、西山の他国にまさり、当時凡寺数三百にみつるも、始は此故也。其後関東よりも、鎮西の知識大徳相つぎてのぼられしは、当国御津大音寺を了暁上人ひらかれしより縁を求め、又は招待し、往来の知識法門など執行ありしにぞ、城主々々もめされ、法義聴受に及ばれ、寺院を起立あり。もとより今の如く異流他流と争ひもなく、同じ浄門の弘通なりと、互に彼我の念なく、浄土同宗に揚挙あれば、武士は猶其優劣しらせらるゝもあらねば、両流の開基わかつ事なし。此時又一向の徒も同じ念仏と名をかりて、真門に混同し、愚夫愚婦を勧化ありしゆへ、野老田人、老女卑類、悉く蟻集し、寺院を開きけるにぞ、惣談して本願念仏盛に当国に流通し、他宗は十が二三あり。
○一向宗諸国に遍流の訳
始蓮如山科を立のき他国に出ける時、あまたの浪人をともなひ、乱国の中を見つくろひて村民を邪化し、其村より一揆を起し、己が宗にならざるは火をかけんと云。又は力戦に弘通し、又は他宗の寺院の主僧をたぶらかし、末世相応と名づけ、国制をうけず、宗敵と称して城主を攻落しなどあり。加賀国富樫介政親も、是が為に一族亡ぶ。かくする内に、おひ/\宗徒倍増し、国主の制も及かねければ、学問に志ある清僧も、かれの為に心ならず改宗し、又古宗を改めざるには京都の衰にのりて、士家衆の姫などをむかへ下し、又は攻落されし城主の姫女、又はそれにつかへし女性、又は家中の女などをつれ来りて、大小の寺主へあたへ、もしうけがはざるは預置、数日を経る内に寺主の心もみだれ、こよなき清僧も、邪濁にふれては末世相応の名にまどひ、又は子孫をのこさんとの言葉に迷ひければ、昨日は鷲山の教に戒恵のさたせし輩も、けふは浄土の門に慚愧ながらの念仏をともなふ世となりしとても、本寺、本山は、遠国にありて制もうけず、国主、荘司は、かの徒の勢におそれて指をさゝずまま、中には城主に加勢し知行をうけ、城をかまへて梵字と名く。故に本願寺一ころは二百万石をも領せし事、八十八年也。其外小知行の輩は数百箇寺ありし也。又今准門跡の号は、後柏原、後奈良二帝よりの勅賜にて、是は御即位の料財を逍遥院殿の御執奏にて進呈せしより也。門に櫓をかまへ、一筋の築地、しら口、唐はふ迄、皆公式の賜、今にのこれるは、此時のいさほし也。故に諸国の諸宗改門入衆せしもの、心ならずとは云ながら、法の興廃ひとへに仏神の所作と聞ゆれど、まづは此宗の弘通は道に背き、ともに釈流の本意を失ふ基をひらきし也。織田平公竜興の時に及び、北越の領地を奪ひ、此宗の勢をくぢかれしより、昔の十が二三となれる也。もしそのかみのまゝにありて、織田右府世に出られずば、当今、加賀、薩摩といへども及がたき威烈なるべきか。又右府若五年が程も世にいまそかりせば、海内の此宗、今の十が一二に衰ふべきか。猶ゆへによりては亡宗にも及なんか。
後略
(三田村鳶魚編『鼠璞十種』上巻中央公論社刊を底本としました。)
続日本武術神妙記 その一
続日本武術神妙記 その一
中里介山著
序
日本の武術の特質に就いて著者の認識は、前篇の序文に明らかにした処である。本篇に於て新たにこれに加うるの要を見ない。ただ、日本武術が、近来流行のスポーツというものと、絶対に性質及び使命を異にするものであるということは、この際、特に強調して置く必要があると思う。
抑々、スポーツとは何ものぞ、これが解釈については相当意見もあらんが、最も通常の意味に於ては、一種の遊技に過ぎないものである、三省堂発行の「コンサイス英和辞書」の第五百六十二頁に曰く、
遊戯・戯れ、遊技・猟・遊猟・愚弄ーナブリ物、遊道具・玩弄物ーオモチャーオドケージョウダンー遊ブーオドケルーフザケルー見セビラカスー金ビラをキルーウカルーヒョウゲルー戯弄
等の解釈になっている。これが要するにスポーツというものの通例概念である。
然るに、当今「日本の武術も立派なスポーツになっているよ」と云われて、さも光栄に喜ぶかの如きしれ物がある。右の解釈を適用して見ると「日本の武術も立派な玩弄物になっているよ」
と云われて狂喜するやからと同じことになる。
日本武術は断じてスポーツでは無い、最も神聖にして厳粛にしてしかも融通変化自在なる幻妙味を有する破邪顕正の発動であることを、少くとも本書の前後を通読して味得せらるるは日本国民たるものの必須の教養なりと謂って宜しいと思う、敢て自ら薦む。
昭和十一年十一月佳節
介山居士題
(略)
星野勘左衛門
星野勘左衛門はこれより先き弓を無入に学んで常にこの天下一を志し、三十三間堂に上堂したけれども前人を凌ぐに至らなかったが、遂にここに至って天下一の名を紀州から尾州に取り戻しここに尾張、紀州両家の弓の争いは高潮に達したのであるが、この星野勘左衛門は老いて浄林と号し弓に於て天下一たるのみならず人物もまた甚だ勝れていた、それから寛文八年に紀州の葛西園右衛門が七干七十七矢を通し、その翌年五月二日には星野勘左衛門が重ねて三十三間堂に登って八千矢を通したが、その時勘左衛門が云うよう、
「われは尚余力はあるけれども、この上に射越してしまうと後の壮士が失望して競争の心を起すものがなくなり射芸も従って衰えるようなことがあってはならぬ」
といってそこで十分の余裕を残して馬に乗って所司代や町奉行に届出でて後、酒楼に登り、よもすがら宴を張って意気昂然平常と変るところはなかった。
豪気潤達なる紀州頼宣は如何にもして尾州の星野を射抜かせようと思ったがその人を得ず、十六七年を経て貞享三年に至って彼の和佐大八というものが紀州から現われて来た、この大八はその以前天下一を挙げた吉見順正の弟子であったがこの年の四月六日三十三間堂に上って来た、大八はその時年十八歳で腕も力も勝れてはいたが最初のうちは通り矢が甚だ少ないので見る人がこれをあやぶんでいたが、ひそかに桟敷で見ていた星野勘左衛門が、
「惜しい少年である、よしく、彼をして名をなさしめてやろう」
と大八をさし招いて小刀を取ってその左の掌を刺して血を出してやり、それで再び弓をとらせて見たところが大八の射前が忽ち以前と一変して総矢一万三千のうち通り矢が八千一百三十三という成績を得て、ここで勘左衛門を越えて天下一の名を取ったがそれは勘左衛門のおかげであると云われている。
なるほど勘左衛門は一万五百四十二発して八千本をとり、和佐大八は一万三千本を発して八千一百三十三を取ったのだから比例から云えば勘左衛門が勝っているということは云えるのである。 (尾張敬公)
喜連川茂氏
下野の喜連川家は、もと足利将軍の一族で、徳川家でも特に名家の末として優遇していたが、八代将軍吉宗の時に至って、この喜連川家から茂氏と云って今鎮西八郎とも称せらるべき豪弓家が出た、この茂氏は常に白木の一寸の弓を引いていたが、鏃の長さが八寸、幅が一寸二分その中心の長さが三尺あって、箆の太さは栂指ほどあり弓弦の太さも小指ほどであり、鷹の羽ではぐのに羽尺のままで本末をはいで直ぐにはぎつけるのであったが、遠矢を射る時は、一尺の的を七十五間の処に懸けて八分の弓で引き、百発百中の技量であった、鉄胴の鎧を置いて三十間距てて射ると矢が鉄胴を射抜いて向うへ隠れないのはない、斯ういう素晴らしい豪弓であったけれども、その人となり謙遜にして誇りがましいことがなかったから常に二三の近臣と共に邸内で引くばかりで、世間の人は殆んどこれを知るものがなかった。
その頃江戸で日置流、雪荷流を上手に引く宮本嘉斎というものがあって七分の白木を引き、遠矢の上手を以て有名な人物があったが、或時神田明神下の弓師吉兵衛の宅へ行って見るとその家に一寸二分の弓と九寸余りの鎌をつけた矢があるのを見て大いに驚いて試みにその弓へ弦をかけて見たが宮本の腕ではどうしても弦がかからない、そこで、
「これほどの豪弓を引く人が世にあろうとも思われない、一体誰から頼まれた弓矢だ」
と訊ねると、吉兵衛が、
「これは喜連川の殿様の御使用料でございます、喜連川の殿様は至って豪弓引きで一寸や二分は軽々とお扱いになります、まことにお大名には珍しいお方でございます」
というのを聞いて宮本は大いに驚いて、それから常に出入りをする森川出羽守俊胤のところへ行ってその話をしたところが俊胤が、
「それは何かの間違いであろう、今の喜連川殿は拙者も知っているが、至っておとなしい人柄でござる、毎年暮に参府して正月年始の登城をすれば、直ぐに領地へお帰りになる故に我等もしみじみとお話をしたことはないけれども、あの人がそんな豪弓を引くとは受取れない」
と云っててんで取り合ってくれなかった、そこで宮本は、
「此奴弓師に担がれたのだな、明神下の吉兵衛の奴不都合な奴だ」と早速弓師のところへ来て、
「喜連川殿は至っておとなしい方でその方が申すような力量があるとは思われない、一寸の豪弓を引くなんぞとはその方出鱈目に人を担ぐのであろう不届きの奴だ」
と云って詰問に及んだところ、弓師吉兵衛は平気な面をして嘘か誠かこれを御覧下さいと云って宮本の前に突きつけたのは喜連川家の用人平賀七左衛門という者から来た註文の催促状であった、その註文状によると、先達中註文いたした山科弓の写し一寸の塗弓の儀主人も待ち兼ねて居る、別して来る十五日八幡祭礼の法楽に引き初めをいたし度い思召しだから、相成るべくは十二日方に持参いたすように、矢は二手によろしい。
という文面であったから宮本嘉斎もそれを見て、これならば疑うところはない、ではこの手紙一両日借用と云って懐中したまま、またも森川出羽守のところへ来て、さあこの証拠を御覧下さいと座り込んだものだから出羽守も閉口して、
「なるほど、この手紙があっては最早や疑いがない、それにしてもこれほどの豪弓を世間がまだ一向に知らないとはどうしたものだ、さてもよいことを聞いた」
と云って、次の巳登城して将軍の前へ出た時に、この話をすると、武芸奨励の吉宗はこれを聞いて、
「喜連川がそれほどの豪弓家とは少しも知らなかった、では呼んで矢を引かせて見たいものだが、表立って登城させては左兵衛の督も迷惑するであろう、来月は出府致すこと故に、誰ぞ遣わして弓勢のほどを見聞させるであろう」
と云っているうちにその噂がだんだん高くなると懇意の大名等は喜連川へ文通をするものもあり容易ならぬ評判となった、茂氏は既に将軍の耳にまで入った上は或は上覧仰出ということになるかも知れない、これは迷惑千万のことだと心中甚だよろこばず、十二月の下旬に江戸へ出て池の端の邸に入って歳暮の登城をして、それから正月に入ったところが、その十三日というのにとうとう出入りの坊主から内々知らせが来て、
「近日上様から大目付大久保長門守をお遣わしになって|予《かね》て評判の高い弓勢を検分なさる筈」
と云って来た、茂氏はそれを聞いて将軍上覧などということになっては迷惑千万だが、大目付が来て見るということならさほど苦しくもないと云って、その用意をして待っていると果して大久保長門守がやって来た。
「貴殿の弓勢は当代無双であるとの評判が高く、上様より見届けまいれとの上意を蒙って罷り越して候」
という口上であった、茂氏が出て挨拶し、
「至って拙い弓矢で御覧なさるほどのものではないが御上意に候わばお目にかけ申すべし」
と、かねて築いて置く書院の前のあずちのあたりへ桐の紋の幕を打ち廻し、自分は日置流の式の型で上使に見せる為に直垂を着し、へり塗りの烏帽子をひき入れ、設けの場所へ静々と出て左手に一寸の弓を握り、右手に甲乙の矢二筋取って折り敷き的に向って矢をつがえ、易々と引きしぼって切って放つと、的の真中を射抜いてその矢はあずちを貫いて遙かの向うへ飛び、松の木ヘハッシと立った、茂氏が、
「これは不敬なる射形を仕りました、この矢でお詫びを仕る」
と云って、八分の弓をとって引きしぼり、こんどは的の真中を射て羽を没し、筈一寸ばかりを表わしたが、それを抜くことが出来ないので、鋤を以って掘り出した、大久保長門守は大いに驚いてそのまま弓と矢とを携え登城して、見たところをつぶさに言上すると将軍吉宗も大いに驚いて、
「昔の鎮西八郎が弓勢も左兵衛の督の上に出ずることはあるまい、流石に名家の子孫ほどあって常々の心懸け神妙である」
と云って大いにお賞めの言葉があった、そこで大久保から右の趣を喜連川家に伝達した、これを聞いて諸大名が吾も吾もと茂氏に交際を求めて追従するものが多くなったので茂氏はうるさく思って早々喜連川へ立ち帰ってしまった。
天保の頃まで喜連川の鎮守の社にこの人の弓矢が残っていたとのことだが、今もあるかどうか、茂氏は隠居して禿翁といった、頭が薬罐のようだと云って自ら斯様に号したのだということである。
大河内政朝
大河内政朝(政綱の子)の事は前著にも出ているが、十歳を過ぎた時分から三州の山の中に行っていて家にも帰らず、山谷を家とし飲食を断ち或は三州やつるぎ川または遠州池田の天竜川等で泳ぎの稽古をしたが、背中に大きな石を背負って泳ぎ廻った、相州の小田原は大きな浪の打つ処であると云って、わざわざ小田原まで出かけて行って海上を一里余り沖へ泳ぎ出してまた元のところへ泳ぎ着き、それから直ぐに一里脇の酒匂川という処へ泳いで行った、沖には長さ五間或は三間ばかりの鰭が多かったけれども事ともせず毎日泳ぎに出かけた、たとえがたなき危い振舞いであった。
また抜け走りと云って走りの稽古をしたが三間柄の鑓を提げて三十余町もある処をただ一息に走った、はじめは息つぎが少し荒かったけれども、毎日怠らず走ったので、後には少しの鼻息もしないようになった、或は大久保玄蕃頭忠成を誘って甲冑を着け刃引の刀で斬り合いをした、政朝は武芸のうち家伝の秘法は祖父出雲守基高を師として伝え、剣術は中川将監に就いて吉岡一流を残らず伝え、その後、御子神典膳を主としてその流儀を悉く伝え尚お新当流をも一通り稽古したが居合いは串橋右馬大輔を主とし鑓は野村勘右衛門尉に就いて引田の一流を残らず伝え、また奥山民部少輔や浅井新四郎にも一通りずつ直伝を得た、薙刀は穴沢左近大夫を主として詳かに伝え弓は祖父出雲守基高を主として稽古したが、政朝が持つところの弓を尋常の人は肩を入れることが出来なかった、厚さ二寸ずつの青石という石を立て置いて射るところが政朝はいつも筈をもかけないでそれを射抜いてしまった、その頃、数人の手だれが同じように石に向って見たがこれを射抜いたものは無かった、鉄砲は田中小左衛門尉を師として安見一流を詳かに伝え、飛鳥を打って外さず、朝鮮に於ては虎よりも早いという、狼糞という獣を打って外さなかった、大筒は多胡主水佐を師として相伝を得た、馬は八条流を稽古し、朝鮮人の乗り方をも少々伝えたがその後神尾織部允吉久を師として悪馬新当流を詳かに伝えた、斯く諸々の武芸を努めて自然に妙を得、「不伝妙集」という書を作って子孫に伝えた、一生涯夜は二時とまどろんだことはなかった、細工物も上手で矢細工をさせては細川幽斎と政朝ほどの矢の上手はあるまいと評判されたものである、少年の頃から武芸のほかに父の政綱は観世太夫を召し寄せて謡の稽古をさせた上に笛つづみ太鼓等も習わせ、また伴閑という狂言師を扶持をして置いて稽古をさせまた幸若八郎九郎に舞を習わせ、中司という数寄者を抱えて数寄の稽古をさせまた正庭という鞠の上手を扶持して置いて鞠を稽古させたが政朝は何れの稽古にも万人に優れ、兄弟その他の子童共同じく稽古したけれども政朝に及ぶものは無かったが父が養前寺の和尚を師として手習い学問を習わせたがこれは一番性に合わないで自分も好きでなかった。 (大河内家記)
(略)
伊庭軍兵衛
伊庭軍兵衛は祖先以来江戸幕府に仕えた剣客であるが、弟子千余人を持っていた、却々気概があって文政、天保の頃天下が穏かで幕府の侍が遊惰に流れるのを慨いて門下の士気を粛清した。衣を短くし、長い剣を帯びて市街を往来するものは誰れかと見れば大低軍兵衛の弟子であった。
水野越前守忠邦にその気概を認められて抜擢されたこともあるが、忠邦が退くと共に軍兵衛も職を辞めその間に八郎を産んだ、この八郎が後に幕末の際勇名を馳せたのであるが、安政年間幕府が講武所を開いて武術の達人を徴して旗本の子弟に教授をさせた、八郎の如きは当然召さるべきものであったが、軍兵衛は一言も伜の事を云わないので人が不思議にしていた。 (諏海)
岩崎恒固
岩崎恒固(つねかた)は世々笠間藩牧野侯に仕えて江戸浜町の邸に住んでいた、寛政十二年の生れ、資性剛直、身の丈六尺に余り眼光燗々として一見人を威服せしめる風采であった、諸般の武術悉くこれを究めたが、殊に剣術、馬術、柔術の師範として藩士をはじめ足軽に至るまでその門に入るのみならず、他藩の藩主たちも往々来り学んだ、千葉周作、桃井正八郎等と常に往来して相磨き、またその頃有名な馬術家簑田一貫斎などとも往来してお互いに研究していた。
或る時酒に酔ってブラブラと芝の切通しを通りかかった時に闇の中から三人の賊が飛び出して来て、前後から刀を振って斬りかけた、恒固は直ちに刀を抜いて縦横これに当ったが三賊は遂に当るべからざるを知って逃げ出してしまった、恒固は従容として下着を割いて創を包み謡をうたいながら家に帰り灯をかかげて身体中を調べて見ると背中にニカ所の創、額と首とに各一カ所あった、医者を呼んでそれを療治させながら笑っていうことには、
「身をかがめて横に払った時確かに賊の腕を一本斬り落した筈だ、明朝早く行って調べて見よう」
明治維新の際に戦功があった、明治七年病気の為笠間で亡くなった。 (文荘漫録)
石黒甚右衛門
石黒甚右衛門は播磨の国主池田利隆の家来であったが、若い時から観世音を信仰しその途中巾を刀へかけてその両端を手に持って手綱のようにして馬術練習の心持で四里の道を往来した、烈風暴雨の時でも敢えて怠ることがなかった。
それから佐貫又四郎というものと一緒に馬の稽古をする時は朝まだきから夜に及ぶまで学んで倦まず、寝れば仰向けに寝て脛を合せてあぶみを踏むら真似をし、帯の両端をとって手綱の真似をするという程であって遂に馬術の奥妙を極めた、馬の将の前、堀際などで二尺でも三尺でもの処へ線を画いて置いてどんな荒れ馬で乗りつけて来てもその線でピタリと馬足を止めることが出来た、また鉄砲を打たせると他人の乗った馬は皆んな驚き騒いで飛ぶけれども甚右衛門が御すると眼の前で鉄砲を打っても馬はゆるやかに歩いて蹄を乱すことはなかった、またどうにも斯うにも扱いのつかない悪馬で鞭打っても動かないものを、甚右衛門が乗ると手綱、鐙を動かさないで自由自在に走り廻らせたということである。
海野兄弟
海野能登(輝幸)は上野の人であって信州真田の宗家である、力量があって太刀打にかけては関東無双の名があった、けれども尚お足れりとせず武者修業を試みて諸国をめぐること七八年、真正の意味で天下第一の実を示そうとした。山本勘助の推薦で甲斐の武田信玄に仕え屡々軍功があったが、六十に至るに及んで辞して本国に帰ったが、天正三年正月に計を以って上杉家に属していた同国吾妻郡岩槻城を奪い取って城将斎藤勝一を追い、ついで利根郡沼田城を抜いた、そうして兄の幸光を岩槻の城に置き自分は沼田にいて二郡を全く占領してしまった、兄の幸光も劣らぬ武芸の達人であった、併し吾妻郡のうち鎌原、湯本と云ったような七族がこれに従わず真田の方へついていたものだから、輝幸は怒ってこれを征伐せんとした、七族のものがこれを聞いて驚いて真田幸隆に訴えたので、真田方は評議した。
「彼れ兄弟の者は猛勇絶倫である、あれが若しも南方の豪族と連与して兵を出した日には一大事である、早く平げてその禍の根を絶たなければならぬ」
と時日を移さず岩槻城を襲いかけた、不意を襲われた幸光は勇猛絶倫とは云え年はもう既に七十五であって、眼がかすみ自分ながら打太刀がはっきりしないのを慮って、室内へ麻桿(おがら)を撒き散らさせ、,敵がその麻桿を踏んで近づくのを目あてにして三尺五寸の大太刀で十四五人を斬り伏せ館に火をかけて腹を切って死んだ、妻子もまたこれに殉じて火中に投じた。
右の如くして岩槻の城が陥ったので、寄手は直ちに沼田の城に向った、輝幸はこの事を少しも知らずに子の幸貞と共に僅かの手勢を従えて外出をしたが、途中の神原という処で端なくもこの対手に出会ってしまった、幸貞は家来の斎藤重竜という者と唯二人、縦横に戦って二千五百の敵を走らせてしまった。
輝幸は茶臼割と称する名刀を抜き、討手の大将木内八右衛門の一隊と別に女坂で戦ったが、輝幸の打つ太刀は八右衛門の左の肩先から綿噛のはずれまで切り下げ、乗りかかってその首を斬った、それから輝幸は真一文字に敵陣に乗り入れた処を田口又左衛門というものが、馬を進めて輝幸に組もうとしてやって来たのを、輝幸は鎧の袖を打ち違えて左の腕に提さげ横に払ってその体を一刀両断にしてしまった、敵は怖れて四方に散乱したが、従う味方も皆廃れてしまった、そこへ幸貞は一方の陣を斬りぬけて来て父子巌の上に腰かけて刺しちがえて最期を遂げた。輝幸年七十二であった。 (豪雄言行録、羽尾記)
幸庵物語
渡辺幸庵物語には宮本武蔵を竹村武蔵として次の如く書いている。
予は柳生但馬守宗矩弟子にて免許印可も取りたり、竹村武蔵というものあり、自己に剣術を練磨して名人なり、但馬に比べては碁にて云えば井目も武蔵強し、細川越中守忠興に客人分にて四十人扶持合力あるなり、子を竹村与右衛門と云ってこれも武蔵に次いで武芸に達す、武蔵事は不レ及レ申2武芸1、詩歌茶の湯碁将棋すべて諸芸に達す、然るに第一の疵あり洗足行水を嫌いて一生沐浴することなし、外へはだしにて出で、よごれ候えば足を拭わせ置くなり、それ故衣類汚れ申す故、その色目を隠す為にびろうど両面の衣類を着、夫れ故歴々疎みて近づかず、この子孫、久野覚兵衛とて松平摂津守殿に奉公、一人は久野団七とて松平出羽守義昌に奉公、これは隠れなき馬好きにて身上五百石なれども金五十両より下の馬を求めず、何時も高直なる能き馬を調うるなり。 (渡辺幸庵物語)
竹村武蔵、子は与右衛門と云いけり、父に劣らず剣術の名人にて、川に桃を浮べて一尺三寸の剣にて打つに桃の核を貫きたり。その上手裏剣の上手なり、 (渡辺幸庵物語)
竹村武蔵、上泉伊勢、中村与右衛門、この三人の剣術、同代の名人なり、与右衛門は武蔵が弟子なり、武者修行す、伊勢は泉州堺の住人也、武者修業の時信州にて卒す(諏訪か)、武蔵は細川三斎に客人分にて居り候、小坪という処に三斎遊山の所有之、これに茶屋ありそれに武蔵住居なり、歌学もあり、連歌も巧妙なり、与右衛門は中村三郎衛門が子なり、父三郎衛門は能上手なり。 (渡辺幸庵物語)
閑斎の馬術
慶長、元和の頃、豊前の国に馬の上手があった、後盲目となって閑斎といった、盲目になってからも、初めての馬場だというと一返しは口を取らせて試みたけれども二返し目からはこれを謡んじて馬場末の廻し方なども少しも誤らなかった。
何よりも不思議なのは、家のうちにいながら道を過ぐる馬の足音を聴いて、馬の毛色、疵曲、老馬若馬を云い当てて少しも間違ったことはない、その位だから馬を手さぐりすればなお確かである、馬を二つ三つ入れ違えて乗り、早道一三共に目の明いたものと同じことに乗りこなした、もと奥州者で十歳の頃から馬を好んで乗り、盲目となったのは四十歳の頃であったが、六十に余るまで馬を捨てず、種々名誉のことをした。 (武将感状記)
鍋蓋
昔、鍋蓋と称する剣客があった、本名は笠原新三郎頼経、信濃の農家の子であったが耕転を好まず、武芸を好み、自ら剣術を修め、呼吸の法を考え出したが、年とって、山中に隠れ、世塵を避けていた。
宮本武蔵が武者修行の途中、道に迷うてこの翁の処に一泊した、その時翁が武蔵の芸を賞めて呼吸の法を授けたということである。 (稿本)
浪およぎの刀
伊勢の桑名の渡しで、何者か人を斬った処が、その斬られた人が斬られながら三間ばかり波を泳いで行って二つになった、そこで、この斬った刀を「浪およぎの刀」と名をつけた、これが家康の手に入り、重宝となったが、家康から上総介忠輝へ贈られた、忠輝は浅間へ蟄居の時までもこの刀と相国寺という茶入の二品は離さなかった。刀は「信国作」ということであった。 (古老茶話)
(略)
耳くじり
昔、短い脇差を差した侍があった、十二三になる前髪立の少年がそれを見て、いつも「耳くじりを差す」といって嘲り笑った。少年のことではあるが、毎度しつこく嘲るのでその侍も堪忍をしかねて、或時その若衆を後ろ向きに膝の上に抱き上げて、
「お前がいつも笑う耳くじり、お前の腹へ通るか通らないか見給え」
と、いって若衆の腹へ突き立てた処が、その少年が少しも騒がず「耳くじりでは思うようにわしが腹へは通り申さぬよ」と、いって自分の長い脇差を抜き、自分の腹から抱いていた侍の腹まで突き貫いて二人ながら死んだということである。 (異説まち/\)
川崎鎗之助
越前の人であったと云われる、刀剣の術を好み、上野国白雲山、波古曾の神に祈り、東軍流の名を揚げた(或いは云う東軍という僧に就いて学んだと)併しながら、自らその術を惜んで世上に伝播しなかった、五世の孫、二郎太夫というものに至ってはじめて世に弘めたということである。
二郎太夫は奥州の人と云われているから、そちらに移ったのかも知れぬ、この人は忍侯阿部正秋に仕えたが、のち致仕して江戸本郷に住居を構えた、その門人に高木虚斎がある。
(略)
片岡平右衛門
名は家次、山城国山科の人であった、幼より弓術を好み、吉田出雲に従って学ぶこと十数年、その精妙を得、関白秀次が山科から射術家六人を召した時も、平右衛門がその長であった、秀次はその技を賞して俸禄を与えたけれども固辞して受けなかった、元和元年五十八歳で死んだ、その子家延があとを嗣いだ。
片岡家延は父家次と同様、平右衛門と称し、山科に住んでいた、弓術の名家である、その矢が四町五反にまで達したということである、門人数百人、その従遊の盛んなることこの人の如きはなかった、寛永十四年五月二十二日年僅かに四十八歳で病死した、子の家盛があとを継いだ。
片岡家盛は父祖を学んで射名益々揚り、承応中幕命を以って蓮華王院に射を試みたことがある、その名が益々現われた、寛文十年七月十三日、五十三を以って病死した。
結翁十郎兵衛と念仏丸
結翁十郎兵衛は蒲生下野守の家来であった、江州の野良田合戦の時浅井久政の家来で百々内蔵之助と称する勇士が槍を振って下野守の陣に迫り、歩士三人を刺し、騎馬武者八人を倒した、蒲生の兵が震いおそれて近づく者がなかった時、十郎兵衛は念仏丸という三尺余りの刀を振って百々と渡り合い、忽ちこれを斬った。
この刀を念仏丸と名付けたのは、且つて夜已むを得ざることがあって辻斬を試みたが、その時斬られた人は斬られながら走って行き、石につまずいた時に南無阿弥陀仏と声をたてるや否や身体が二つになってしまった、それ以来この刀を念仏丸と名付けたということであった。
(略)
難波一藤斎
難波一藤斎は遠州三倉の人であって父を一甫斎といった、一藤斎左の手を失ったが、然も剣術に達していた、寛永九年十一月吹上に於いて、剣術上覧の時、相手の金井半兵衛に勝ったが、金井の同門吉田初右衛門が金井の敗れたのを見て大いに憤慨した、その時大久保彦左衛門が一藤斎に向って「吉田ともう一番仕合をしないか」とすすめた、一藤斎それを承知して、一尺二寸の小太刀を携えて立って、吉田は三尺の太刀をとって縦横にふるい戦ったが、一藤斎は神出鬼没飛鳥の如く吉田の後に出てその背を打った、吉田憤激のうちにこれをものの数ともせず尚奮闘して一藤斎の刀を打ち落したが、柳生但馬、小野治郎右衛門、大久保彦左衛門等が検証して遂に吉田の負けとした。
結城朝村
結城朝村は朝光の子である、射をよくして曾つて将軍藤原頼経に従って京都に至り、関白道家の邸へ赴いたが、その時関白の家で籠の鳥が離れて庭の木の上にとまった、頼経が朝村にあれを射よといったので、朝村は虚箭を飛ばして鳥に的てたので鳥が傷つかずに下へ落ちて来た、見るものが皆それを歎賞した。
丸目主水
丸目主水は一伝流抜刀術の祖であるが、何れの国の人であるか分らない、少壮より剣を好み、殊に抜刀にかけては神出鬼没、当時その右に出でるものはなかった、国家八重門、朝山内蔵之助、海野尚久、金田正理、陽夏能忠等がその伝統を継いだ。
千葉新当斎
千葉新当斎名は右門字は率然下総佐倉の人であった、剣をもって一代に勝れたのみならず、槍は宝蔵院の第十二世を伝えて一代に響いていた、曾て安房国に遊んだ時に広い野原でその術を試みたが、その時、矢を雨の如く射かけさせて新当斎は槍を振って真中に突立ったが、降り来る矢を悉く砕いて地に落した、見る人、人間業にあらずと舌を巻いた、鋸山に石碑を建ててその事を記している。
山本玄常
山本玄常は対島の守と称し山本流の祖である、後三夢入道と称した、八流の剣を極めて一流を創めた、大友豊後守の家来となって一万石を領していたが、大友氏が亡ぶるに及んで浪人となった、その子山本賢刀次元国が山本流を継いで剣に秀でていたが父が没して後僧となって「雪好」と号し、越後高田の山の中に隠れている間柳生三厳が丁度通りかかってこれと仕合をして見て打勝ったが、その時三厳に無明の剣を伝えた、三厳がこれを徳として尾張公にすすめ、還俗させて三千石を賜るようになったとの事である。
渋川伴五郎
渋川|伴五郎は渋川流柔術の祖である、後、友右衛門と称した、関口氏業に就いて学び後一家を成した、江戸の人で西の窪城山に住んでいた、身の丈六尺二寸、力三十余人を兼ねていたといわれる、寛永九年武術上覧の時には年齢三十歳であったが、関口弥太郎と組んでこれに勝った、子孫世々柔術家として伴五郎を称した。
狭川助直
柳生但馬守に従って新陰流の刀法を学び四天王の一人と称せられた、天和三年仙台の伊達綱村に膀せられて師範となった、沢庵和尚に就いて禅を学んだことがある、或時松島の瑞巌寺に至り天嶺和尚と相見した、和尚は助直を一介の武人として余り重くは見なかったが、話をしている最中一羽の雀が来て座敷へ飛び込んだ、助直は静かに扇子をとってその雀を抑えながら話をし、やがて又扇子をあげると雀がぱッと飛び去ってしまった、助直は一向それを心に懸けず、抑えたり離したりするうちにも平気で話をしていたから天嶺和尚が感心してそれから深き交りをゆるすようになったそうである。
熊沢正英
尾張の瀬戸の人であったが、肥前唐津の寺沢家の家老となった、或夜盗賊が入り、家中上を下へと騒動したが、正英は予て宅地の隅に大木があってその枝が垣の外に垂れているのを見て思うには、もしこの家へ盗賊が入るとすれば必ずこの垣と木の枝から上下するであろうと見極めていたが、その晩に至り、さてこそとこの木蔭へ来て待っていると案の如く盗賊がやって来てその枝を伝わって逃げ出そうとする処を正英は一刀の下に斬って捨てた。
寺沢広孝がそれを聞いて近臣を集め、さしも壮年屈強でそうして大胆不敵な盗賊奴が、七十の老翁の手で易々と斯うも廃れたのは、要するに日頃の用意の如何にあるので、すべてにわたって不常が肝腎だということを教訓したそうである。
山崎将監
山崎将監は中条流の名士であって、父は兵左衛門といった、国主徳川忠直が父の兵左に命じて藩中の剣士と仕合をさせたが、父は自分は既に年老いて、術も全からずといって、伜の将監をしてこれに代らせた、将監は時に年十六であったが、相手の剣士をうち込んでこれに勝ってしまったので、主君忠直から大いに賞せられた、その後技大いに進んで精妙に達し後将軍秀忠から麾下に召されることになった。
吉田一刀斎
吉田一刀斎は遠州浜松の人であった、寛永九年剣術上覧の時に遅れてその場へ到着したので大久保彦左衛門に頼んで漸く組に入れて貰うことが出来た、そこで羽我井一心斎と組合せられて互いに秘術を尽して相闘ったが数刻の後相方共に疲れて刀を落してしまった、そこで勝敗なし、大久保彦左衛門が二人をねぎらった。
武田信玄の武術裁判
武田信玄が我国第一の武将であって、この人が長命をしていれば信長も家康も頭が出せなかったことは明らかであるが、武術に就いても造詣が深く、その摩下の武将は武将として現われていたけれども、単に武術家としても錚々たる一流の人であった、上泉伊勢守の如きも信玄の配下であったのである。
信玄の武将飲富兵部少輔(おぶひようぷしようゆう)の組下に志村金助と云って、なかなか勇武の聞え高い家来があった。その同僚に六笠与一郎というものがあって非常に仲よく交っていた、処が、この志村の仲間に団藤太というものがあって、これが六笠の二番目の娘に思いをかけて言い寄ったけれども女が従わなかった、そこで団藤太は刀を閃かして脅かしたことなどあるのを何者か志村に告げたので、金助は大いに怒って直ちに団藤太を呼びつけて厳しく叱りつけた、けれども此奴はなかなか無法者で却ってふざけた返辞をしたりなどするものだから、志村はこらえかねて手打ちにしようと引据えた処、此奴はなかなか大力なものだから振り放して逃げ出そうとするのを、志村が抜き放って斬りつけると団藤太も抜き合せながら引外して逃げ出してしまった。志村は大いに焦立って後を追いかけたが、逃げ足が早くてなかなか追いつけない、工小路という町を曲ろうとする時に丁度向うから来合せたのは志村の友人の六笠与一郎であった、金助が後ろから言葉をかけて、そいつ逃すまいといったので、六笠もこれは手討ちにすべき奴だと心得て団藤太を追い詰めて二刀斬りつけた、団藤太が弱ってハタと転んだ処を六笠が駈け寄ろうとすると、団藤太は起き上りざまに持ったる脇差で六笠がもろ膝をなぎにかかる、六笠が驚いて退くと団藤太はすかさず脇差を投げつけたので、六笠の左の太股へ三寸ばかり突立った、そのうちに志村金助が追いついて団藤太を斬り倒して一刀に首を打ちとった、しかし、友人の六笠与一郎に、斯うして負傷させたのを気の毒に思い取り敢えず自分の家へ連れ帰って養生をさせたが、五十日余りで治った。
処がこの六笠与一郎という男は虚栄家と見えて、その後諸方へ行って云い触らす事には、
「志村の仲間の団藤太という奴はどうしてなかなか大剛のもので金助も持て余して打ち漏そうとした奴を拙者が受取って斬り倒し、志村に首を取らせたのだ、これ御覧ぜよ、この創はその時の創あとだ」と見せびらかして歩いた。
金助はその事を聞いて、以っての外の言い分だ、斯ういう心ざまの曲けた奴と知らずに今まで交際していたのは不覚だ、だが私の怨みをもって彼を討ち果すのも不忠になると考えてその事情をすっかり記して組頭の飲富兵部卿少輔へ訴え出た処が、なかなかむずかしくて飲富の決断にも及びかねたので遂に信玄のお聞きに達すということにまでなってしまった。
そこで、信玄は直ちに志村と六笠の両人を呼んで訊問を開始した。まず、
「右の仲間を討ち止めた場所は何処だ」
と尋ねたところ、両人は、
「工小路にて候」
と申上げる。そこで信玄が、
「では、その町内の者を残らずこの白洲へ召し出せ」
と云われた。そこで直ちに工小路町内の者が全部白洲へ召集されたのを見て、信玄が、
「その方共の中に志村の伸間、団藤太が討たれた実際を見たものがあるだろう、その者は見た通りを正直に申し出ろ、聊かでも嘘、いつわりを申すと罪に行うぞ」
斯ういうことを申渡されたので、召し寄せられた工小路の町人五十余人が謹んで申上るには、
「志村殿が、十四五間後から追って来られた時に、六笠殿が仲間に行き向って、何事かと不審がられつつ行き違いになって五間ばかり距った時、志村殿がそいつ逃がさじと声をかけられましたので、六笠殿がそれを聞いて刀を抜いて取って返し追いつめられた時に、かの仲間はもう息をつぎかねたような有様で六笠殿に追いつめられ二刀でうつぶしに突伏してしまったのを、六笠殿が駈け寄ろうとなされた、その時彼の仲間が起き上りざまに脇差を投げつけました、その間に志村殿が追いついて首をお斬りになりました」
と一同は申上げたので、信玄がうちうなずき、
「では、その仲間が脇差を投げつけた時、六笠はどういう仕方をしたぞ」
と、訊ねられたので、町人が承って、
「かの仲間が六笠殿の足をなごうと致しました時に六笠殿は二三間しさられました」
と申上ると、また信玄が訊ねて、
「そのしさったというのは、後ろへしさったのか、またうしろを見せて退いたのか」
と訊ねられた処が、町人共が、
「それは、仲間をあとにしてお逃げになったのです、そこへ仲間が脇差を投げつけました、その創で六笠殿も転ばれて暫くは物をも言えないでおいででした」
と、五十人の者が口を揃えて証言したので、信玄が宣告を下していう。
「六笠与一郎事卑怯第一のものである、何の役にも立つべきものではない、追って申付けるまで控えて居れ」
と、そこでこの裁判は終ったが、終った後信玄が評定衆へ申されるには、
「我が父信虎公の代に、白畑助之丞という大剛の勇士があって父の覚えも深いものであったが、その家の僕を折橿するといって、今金助がしたように後から追いかけた処が、その僕はなかなか武術鍛錬のもので、追いかけて来る助之丞が自分に寄って刀を振り上げる時分を考え、こちらは刀を抜きながら振り返りざまに膝をついて、片手討ちになぎ払った為に白畑が両腕を添えて頭もろ共にただ一刀で落ちてしまった。原美濃はまだ若盛りの頃であったから、その時一番に折り合わせて長身の槍をもって彼の下僕を突き転ばした処が、彼の者は転びながら槍をたぐって来て、原美濃が腕を少しずつではあったけれども二カ所斬りつけた、美濃の事だからそれを事ともせず突きつけて動かぬようにしていたのを、多田淡路が立ち廻って、まず両腕を斬り、その後止めを刺した。そのものの身上をただして見ると深島の松本備前守が下戚腹(げじようぱら)の孫であったそうだ、さしも大剛の名をとった白畑助之丞であったけれども侮り過ぎて自分の下僕に斬り殺されたことは惜しいことだ、その時余は十三歳であったが、幼な心にも余りに惜しく思って白畑に弔いを致して遣わした。さ様な次第であるから、他では兎も角も信玄が家では逃げて行くものに追いつかぬからといって卑怯とは申さぬのだ、誰にしても些かなことで命をあやうくし、我が用に立ってくれぬようになっては残念だ、如何なる場合にも科人を追って行く時には見失わぬように十間も後から行くがよろしい、若し追いつく場合にはその科人と並ぶように追いつくがよろしい、将棋倒しのように追ってはならぬ、危ないことだ、さてこの度の六笠与一郎は武士の道に外れ、信玄が家には入用の無い者だ、さりとて斯ういう奴は他国へ追っ払えば自分をよいように云い持えて我が国の恥になるようなことを、いつわり触れ歩くものである、許して置く時は良き侍を悪しざまに云い、悪い侍を賞めたりなどして士気を乱し軍法を乱るものである」
といって、時日を移さず成敗を行われた、そこで、好才の輩も我が身を顧みて言語を慎しむようになった。
これによって見ても武田信玄が、名政治家であり、武術に於いても優れた見識を備えていたことがよくわかる。
上杉鷹山と吉田一無
上杉鷹山公の臣に吉田一無という剣術の士があった、一刀流の奥を極めていた、或時米沢の城外で江戸相撲の屏風島というのに出逢った、この相撲は東北興行中に何か仕出かして破門され、この辺に流浪していたのであった、一無はその素晴らしい体格を見て「斯ういう者に武芸を授けて置けば他日国の為に何かの役に立つだろう」と云ったが、この相撲は心実のよくないものと見えて、共に歩いているうちに出し抜けに一無に向って金銭をねだり始めた、そのねだり方が無礼千万な恐喝的であったので一無は、勃然として怒って立ち処にこれを斬ろうとしたが、
「待て待て心気の定まらぬうちに事を為せば必ず過ちがあるものだ」と気を静めているうちに、丁度その日は雪が降っていて自分は簑笠で歩いて来たのだが、その簑へ降る雪がさらさらと当る音を聞いたので、もうよい! と思っているうちにやがて|廓内《くるわうち》に近づいて藍漬橋という橋の半ば頃まで来ると相手が弱気と見て図に乗った相撲がまたも再三強迫して金銭の押借りをはじめ、果てはうしろから廻して一無の懐へ手を差入れたので、一無は身を開いて刀を抜いて横に払った、そこで当然この相撲は両断されていなければならないのに、寂として手ごたえが無い、相撲はそのまま橋の上に突立っているだけである。一無は自分ながらこの事を不思議がって、試みに刀の柄でもって立っている相撲の身体を押して見ると、忽ち大の身体が二つになって倒れ落ちてしまった。
一無はここに於て自分の業が予想外に練達の域に至っていることを知り、屍を川の中へ蹴落して帰って来た。
一無は性質朴直忠誠にして古人の風があった、鷹山は深くこの剣士を愛して屡々夜話に呼んで武道のことを語り明かされた、或時、屏風島を斬ったことを尋ねられた処、一無は声を壮にし、体を怒らして物語る様一座の者を驚かしたが、口角泡を飛ばして公の袴にまで及んだということであるが、この人は天明二年正月二十九日に七十九歳で亡くなったが、晩年に至るほど術が精妙を極め、入神の域に至ったということである。
鷹山公はまた、その家中の一人の有志が脱獄者を見かけて捕えようとし、相手に斬られて重傷を負いながら終にそれを捕えてしまった、その功を賞していたが、書役の復命書のうちに、斬られながら屈せずして組み止めた、と書いてあるのを見て、これは勇士に対する言葉ではない、斬られながらと書かないで、斬らせながらと書かなくてはいけないと云われたことがある、文事あるものは武備がある、徳川時代中、有数の治世の名君といわれた鷹山公は武術に対してもまた明眼の人であった。
(略)
武装と甲冑
昔の武士は剣術よりは居合、抜き打ちを専ら習った。それは鎧兜を着ては寸の延びた刀は抜き兼ねるものであるから、特に念を入れたのである。加藤清正が宇土を攻めた時に、南条玄宅というものが、三角角左衛門という相手と槍を合せ、角左衛門は前へ抜け、玄宅は後ろへ抜けたが、角左衛門の若党が後ろにあって、玄宅が抜けて来たところを得たりと額を斬った。そこで玄宅は眼が眩んでくるくると廻ったが、廻りながら刀を抜いてかの若党を抜き打ちに胴斬りにしてしまったとのことである。その時、居合抜き打ちがやれなければ自分の身はたまらなかったのである。
針の妙術
上遠野伊豆という人があった。奥州の人で禄八百石、明和安永の頃勤めたそうであるが、武芸に達した上に、わけて独流の手裏剣を工夫してその妙を極めていた。その方法は針を二本中指の両側に挾んで、投げ出すのだが、その思うところへ当てないということはない、どういうわけでこの針打ちの工夫を始めたかというに、敵に会った時、両眼を潰してかかれば、如何なる大敵と盤も恐るるに足らずと思いついた処から始ったとの事である。
平常、針を両方の髪に四本ずつ八本隠して差して置いたとのことである、これは、「奥州波奈志」という本にあるのだから、あちらの藩に仕えていたのだろう、或時国主のお好みで針を打たせられたが、お杉戸の絵に桜の木の下に駒の立っているのがあったのを見て、国主が、
「あの駒の四ツの肢の爪を打て」
と云われたところ、それに従って二度打ったが、二度まで少しも外れなかった。芝の御殿が焼けてしまう前まで、その跡が確かにあったそうである、この手裏剣はこの人一代限りで習う人は無かった、習いたいという者はあっても教えることが出来ないと断わって、
「元来、この針は人に教えられたことではないから、何と伝うべき由もない、ただ、根気よく二本の針を手につけて打っている間に、自ら自得したまでである」
と云った。
馬上の槍
酒井家の家臣に、草野文左衛門という老功な武士があった、人々が常に戦場の様子や馬上で槍を入れる実地などを見せて貰いたいということを所望したが、文左衛門はいつも、それは無用の事だといって断ってしまったが、或時今日はたってという覚悟で頻りに所望されたものだから、文左衛門も断りかねて、
「それほど御所望ならばお見せ申そう」
といって、甲冑を着け、馬に乗り、槍を左右へ打ち振り打ち振りその勢目醒しきばかりで、槍を打ち振る度毎に馬の脚がたじたじとした。
さて、その事が終って、見物の人が皆感嘆賞美したが、その中の一人がいうことには、
「御勇気の有様申すに及ばず、その上馬術に於いても御名誉の事で、槍を振る度毎にさしもの馬の脚がたじたじとした有様は天晴れ見事と拝見致しました」
と賞められた、それを聞くと文左衛門が云うよう、
「さればこそ斯ういうことをしてお見せ申すのが無用のことだとは申したのだ、拙者が昔若い時は馬の脚がたじろぐようなことは決してなかったのである、年が老い力も衰えたればこそ槍一本を自由にすることも出来ないので、そこで馬に骨を折らせるのである、今のような有様では人も馬も疲れて、却々働くことは出来ないものだ、それを賞められることはなさけない次第だ、すべて、今時の人に向って武勇談というものは皆斯ういうわけのもので、一つも用に立つことはない、心得方が違っている以上は何を申したりとて耳には入らぬものである」
といって大いに歎いた。
日本のテル
阿部家の家臣に某というものがあった。日頃弓術に熱心で、精を出していたが、どうも「早気」という癖が起って、矢を番えて的に向うと、肩まで至らないうちに放してしまう。巻藁に向うと耳を過ぎないうちに放してしまう。自分ながらどうしてもその癖がやめられない、師匠も終に愛想を尽かして、
「貴君の御熱心は結構だが、弓の稽古は思い切ってもうお止めなさい」
とまで云われてしまった。某はそれでも断念せずしてどうかして、我ながらこの「早気」の癖を矯め直したいものだ、自分のこぶしながら、口惜しいことだ、そこでその家に伝わっている、主人から賜った古画の屏風へ主人の紋付の衣服を掛けて置いて、これならば勿体なくて軽々しく矢は放せないだろう、これに向って軽々しく拳を動かすようでは人間の道ではないのだ。と観念して、屏風に向って弓を引いて見たが、それでも「早気」の癖がこらえられず放してしまった。
我ながら、これではとても弓を取ることが出来ない、我ながら何という意気地無しであろうか、自分で自分のこぶしを抑えることが出来ない、残念無念と自分で自分を恨み抜いた結果、遂に自分の最愛の子供を向うへ置いて、それに向って弓を引いて見ることにした、こんど、こらえずに切って放せば、我が子の命を取ることになる、これでも癖が止まらないならば、我も腹を切って死んでしまおう。
と思い定めて、我が子に弓を差し向けて引きしぼったが、一心の致すところか、恩愛の情か、この時ばかりはいつもの「早気」が失せて、拳を放すのを堪えることが出来た、それから絶えず修行しているうちに右の癖も止んでしまったということである。
ウイリヤムテルの物語りにも似た悲壮な逸話である。耳袋という書物の中にある。
安藤治右衛門
大阪夏の陣の時、徳川秀忠が城方の七組の兵に囲まれて甚だ危かった。
これより先秀忠の父家康は、この危険を慮って安藤治右衛門というものを謀って使い番として命令を秀忠に伝えしめた。
「今、物見をしたものの申す処によると、城の中から六七千の兵が出て来る気色がある、その大軍が出ない先きに早くこちらの戦陣を進めて敵の鋒をくじくがよい」
秀忠それを聞いて云うのに、
「治右の馬鹿奴、我軍は四十余万ある、敵は城を傾けて出払って来たところで八万には過ぎまい、大軍とは何事だ、貴様のような使い番は物の役に立たぬ」
治右衛門がそれを聞いて歯噛みをして、
「役に立つか立たないかその内お見せ申す時があろう」
と云って秀忠の前を立ち去った。
治右衛門が立ち去ると間も無く、地雷火が爆発して秀忠は陣を焼かれ、兵馬混乱した処へ、大阪方の木村主計が素肌武者三十五人を連合して秀忠に迫って来たので、秀忠の身が危かった時に、柳生宗矩は秀忠の馬前に立って七人を倒し、尚進んで決死の戦をして最早や主従戦死と見えた。帰途半ばでそれを聞きつけた安藤治右衛門は、鞭をあげると直ちに取って返して、木村主計と一騎の勝負をして互に重傷を負った、治右衛門は流るる血が眼中に入って眼は見えなくなったけれども、精神は衰えず、やみくもに打って遂に主計を殺し、秀忠の囲みを解いてこれを助けた、秀忠は慚愧と感謝の念に堪えずその陣所へ出向いて行って薬をとって治右衛門の口に含ませ、厚くこれを看病した、治右衛門は泣いてその恩を謝したが遂にそのまま緯切れてしまった。安藤は特に武術家というわけでは無いが、柳生の事もあり、武道の神妙を実現した意味としてここに記した。
井上伝兵衛
井上伝兵衛は上野車坂下町に直心影の道場を開いて、その名、都下に鳴っていたことは前に島田虎之助の時に書いていた。腕も勝れ、頭も人格もよかった人だが、この人が無惨にも暗殺されてしまった。それが松浦静山侯の「甲子夜話」に書いてある。松浦侯は最初伝兵衛の家の前を月々上野登山の折から往来して、その道場を見かけ、竹刀の音を聞くにつれ伝兵衛の評判も聞き知って、他所ながら感心していたのだが、それほどの名手が、もろくも暗々と討たれてしまったと聞いて、興がさめ却って軽蔑する気にもなったが、さて後でよくよく聞いて見ると必ずしも一笑に附すべきものでない、如何にも悲愴なものがあるど聞いて特に書き留めたのである。
伝兵衛がある時、或る大名の茶会に招かれて出席したが、その大名が伝兵衛に向って云われるには、
「この方へ剣術に優れた武士が一人やって来る、今、浪人ではあるけれども、なるほど立ち合わせて見ると勝てる者はない、今の伊庭八郎次だの、その門弟等とも仕合をさせて見たが皆この者が勝った。その位だから、まず都下に右に出る者はない、ただ、井上伝兵衛、貴殿だけ一人残っている、お前と仕合をして勝ちさえすれば本当にもはや江戸中には無敵なのである、そこで右の浪人は是非お前と一本立合をしたいと希望している。若しお前に勝てれば仕官をしたい、負けるようならば一生浪人で禄の望みを断ちます。斯うまで云っているのだが、どうだ、そなたはこの浪人と立合って見る気はないか」
それを聞いて、井上伝兵衛が答えて云うことには、
「その望みには一理なきにあらねど、総て事の勝負というものは、一日の勝ちが終身の勝というわけのものではござらぬによって、左様に強い望みをかけらるるほど、この勝負は断じて無用のことでございます」
と云って、再三辞退したけれども、殿様をはじめ満座の者が挙ってこれをすすめ、その上に右の浪人も予めもう次の間で立ち合いの仕度をして待っているという有様だから、井上もどうにも断りようが無く、止むことを得ずして右の浪人と立ち合った処が、どうしたことか右の浪人が一刀の下に井上に打たれてしまって、立ち処に勝負が見えたのである。
それを気の毒に思って温良な井上伝兵衛は取りなして云うことには、
「最初にも申した通り、一日の勝ちは終身の勝というわけのものでは無い、また一.日の敗が終身の敗というわけでもござらぬ、只今それがしが勝もさのみ賞めるに足りないし、そなた様の負けも失望するに足りない、どうか殿様にも御知行を下しおかれ、そなた様も今日から御仕官なさるがよろしい」
と、井上から懇ろに殿様に取りなしたけれども、殿様もさすがに浪人の最初の広言を取次いだことでもあり、斯うなって見ると、それでも召し抱えようとは云えず、浪人は赤面しながら手持ち無沙汰で、その席はそれで終った。
ところが、その晩の帰りのことであったか、またはそれから後の別の夜のことであったか同じ大名の処で茶会があって井上が帰る時、茶の後席で酒を賜わって、井上は酔いながら殿様から貰った茶碗を包んで手に携げて酔い心地で帰途についたが、その途中、夜中のことだから誰れがどうともわからないが、股引絆纏着の身軽なる態のものが四人であったと聞く、まずそのうちの一人がいきなり刀を抜いて井上の右の腕に斬りつけた、井上は右を斬られたので、左の手で刀を抜こうとしたのを、また左の腕を斬られた。左右を斬られながら、それでも身をかわし、身をかわし四人の相手と戦いつつ辻番所まで駈けつけた、そして辻番所に向ってこの有様をつまびらかに物語り、
「拙者は車坂の井上伝兵衛であるが、この有様だ、拙者の宅へよく仔細を申し告げられたい」
と云って、そうしてそこで瞑目したということである。
この最期などは悲愴極りない心地がして、井上の為口惜しさとうらめしさとの限りなきものがあって、ここの斬られ方受け方なかなか研究ものである。
とにかく、井上伝兵衛は珍しく人格の出来た人であったと見えて、心形刀流の師範、伊庭八郎次や、関口流柔術の師範であって、松平楽翁公の柔術の師である鈴木杢右衛門などとは同じく御徒士であり、殊に別懇の問柄で他所へ行って夜おそくなるとお互いにその家に泊りなどして兄弟の如く附き合っていたということである。
渡辺兵庫
忍びの名人渡辺兵庫と云うものが、年少き人に対して語るよう。
「旅宿などにて隅に片寄って寝てはいけない、隅は壁か障子かに近いものだから、盗人等が伺って壁越し障子越しに突く時は、もし急所に当らないまでも相当の負傷をして働けないものである。その室の中央に寝るのが宜しい、戸を破って外から這入られてもそれにとり合う間合がある、また盗人が這入った時こちらが声をかけ『何者ぞ逃さじ』なぞと罵るのはおろかなことだ、暗い処では声をしるべに斬るものであるから、声をかけるのは盗人に向って、『われここにあり、来りて斬れ』と教えてやる様なものだ、家の中が暗くて人音も物音も無い処では却って気づかわしくて這入れないものである。また盗人を一人斬り止めた時は、左か右かに退いて鳴りを静めて物音を聞いて届るが宜しい。斬る時も『エィ』ともなんともかけ声をしないが宜しい。何とか言えば、たとえ賊の一人は仕止めたからと云って後につづくものがその声をしるべに斬りつけるものである。静かにして物音をしないで届さえすれば、幾人来ても先に這入ったものが斬られたとあれば、後は無暗に押入るわけには行かないものである。たとえ、押しこんで来たからと云って、その足音をしるべに斬りさえすれば残らず斬り伏せて終うことが出来るものである。」
渡辺兵庫は本多大隅守正賀の臣であるが、大隅守の在所、榎本は下総の古河に近かった。ある時古河の士が人を斬って榎本へ逃げ込んで来たものがあった、追手は地境まで来たけれども、他領であるによって是非なく引返した、大隅守はその者の身上を聞いてみると、なかなか勇士であったので、惜んで深くかくしてしまった。
古河から使者が来て「どうぞそれを引渡して貰いたい」と云った一大隅守は「承知致した」と云いながら、どうしても出さない、古河からの使者が三度に及ぶとき「我を頼んで此処まで逃げて来たものであるによって差出すにしのびない、御免を蒙りたいものだ」
と云って、番人を付けて昼夜守らせて置いたところが、古河から間者を入れて右の士を殺してしまった。
大隅守が大いに怒って番人を召し寄せ、
「貴様等の様な役に立たずを斬る刀はない」
と、髪を剃らせて放逐してしまった。それから渡辺兵庫をよんで、
「その方古河へ行って、しかるべき士を一人斬って、我が鬱憤を晴らせ」
と云った。兵庫は、
「委細かしこまりて候」
そこで、頃は五月の半ばであったが、兵庫は簑を付け鍬を肩にして百姓の装をし、簑の下に一尺三寸の短刀を一つ差して夜の明け方に古河の方へ出かけて行った。そうすると、早起きをした士がその辺の川辺に二人居て、一人は立って一人は坐って話をして居たところを、先ず立って居るものの首を斬り落してしまった。坐って居た者が驚いて立上るのをまた首を打落してしまった。
古河の町人が大いに騒いで出会い追いかけたけれども行方が分らない。
兵庫の方では入って来る時に、予て退口を考えて置いて、古河の町から二十丁こちらに土橋がある、土橋の下に岩の洞があった、身をちぢめてその中に匿れて居た。若し追手の者がそれに気付いた時には、無下には殺されず、その者を刺して共に死のうと思い、短刀をぬき持って居たが、その辺の竹藪だの、神社や寺の中などを探索して廻ったが、土橋の下に気の付くものは一人も届なかった。
大隅守は様子如何と人をつけて伺わせたところが、古河の町が大いに騒動すると云って復命したけれども兵庫は未だ帰って来ない「定めて打たれてしまったのだろう」と安からず思って、夜になっても寝ないで居ると、夜更けて兵庫が帰って来た。大隅守は喜んで出迎え、
「どうした」
と尋ねると、兵庫が「しかじかで候」と答える。大隅守が、
「では、左様な紛乱の間であり、印は取らずに来たろう」
と質ねたところが、兵庫が答えて、
「選まれて出向き申したのに印がなくて、何と致しましょう」
と云って、布袋の中から首を二つ出して差上げたので、大隅守の感歎ななめならずであったと云う。
源頼光
三条院がまだ春宮に在しました頃、御所の軒に狐が出て丸くなって眠っていた。それを殿上人が見つけて丁度その時、頼光朝臣(よりみつあそん)は春宮付であったが、殿上人たちが、あの人は多田の満仲の子で世に聞えたる弓取である、あの者にひとつあの狐を射させて見たいものだと頻りに噂をするのを春宮が聴こしめして、御弓とひきめとを取寄せつ、頼光に向い、
「あの辰巳の槍にある狐を射よ」と仰せられた。
頼光がお返事を申上げるよう、
「仰せを背く次第ではござりませぬが、他の人ならば射損じても恥ではござりませねど、私が射損じでも致しました日には限り無き恥でござります、もし射当てましたところで、当然のことでござりまする、若い時は随分、鹿などを射たこともござりまするが、近頃ではトンと左様なことを仕りませぬ、由ってこの頃では矢の落つる見当もつきませぬ」
と云って辞退したがお許しが無かったので、是非なく御弓を取ってひきめをつがえてまた申すには、
「力がありますれば、これでも宜しゅうございますが、あの通り遠いものはひきめは重くございます、征矢が宜しゅうございます、ひきめでは下へ落つるかも知れません、弓箭の道では下へ落つるのは射損じるよりも、おこがましいことでござりまする、これはどのように致したら宜しい事でござろうか」
と紐差しながら表の衣の裾をまくり、弓頭を少し臥せて、その箭で力のある限り引きからめて放った。暗がりで矢の行方もよくわからないと思っている内に、狐の胸に射当てて狐は頭を立て池の中へ転がり落ちてしまった。
力の弱い弓に重いひきめを以って射たことである故に、如何なる名人と雛も、射つけないで矢は途中に落つべき筈であるのに、見事にこの狐を射落してしまったので、宮を初め殿上人がいずれも感歎した、水に落入って死んだ狐を取り捨てて後、宮は御感の余り主馬の御馬を召して頼光に賜った。頼光は庭に下りて御馬を賜って拝してまかり下る時に申すよう、
「これは頼光が仕りたる箭ではござりませぬ、先祖が頼光の矢を恥しめまいと思って、守護神の助けて射させ給える矢でござります」
その後頼光は、親しき兄弟などに会っても「あの矢は頼光が射た矢では無い、武家の名誉の為に先祖の守護神が出でて助けて呉れた矢である」と云って、更に己の功に居らなかったので、聞く人が皆感心したということである。
源頼信と頼義
源頼信は東国から良い馬を貰い受けて上京させたが、途中馬盗人がこの馬を見て非常に欲しがって、
「よしくこの馬をきっと盗んで見せる、よし今盗めなければどこまでもついて行って必ず盗んで見せる」
と、ひそかに馬をねらって上ったが、それを護る者共に一寸のすきもなかったので、盗人もとうとう京都までついて来てしまった。
所が、ある夜雨が降ったのに乗じて馬盗人が、旨々とこの馬を盗み得て逃げて行った。やがて厩で番人たちが気がついて「それ、馬盗人が」と云った。
頼信はその物音をほのかに聞いて、子息の頼義が寝入って居るのに、この事を何とも告げないで、起きて着物を着て、壼を折って胡簸を掻き負って厩に走り行き、手ずから馬を引き出して、あり合わした粗末な鞍を置いてそれに乗って唯一人関山の方へ追いかけて行った。頼信が心の中に思うには「この馬盗人は、東国の方からわざわざついて来たものに相違無い、それが道中ではスキが無かった為に盗むことが出来ない、京都へ着いて初めてこの雨の夜にまぎれて盗み去ったものに相違ない」
所がその時分寝入ったと思って居た子息の頼義もその音を聞いて立ち上がった、その時はまだ装束も解かずに丸寝であったものだから、起きると共に父のように胡簸をかき負って厩なる馬に飛び乗り、関山の方へ唯一人で追いかけて行った、その心は父の頼信の馬盗人を目指すと同じ推量であった、行く行く頼信は、吾子は必ずつづいて来るに相違ないと思い、頼義はまた、父は必ず先発して届るに相違ない、それに後れてはならぬと走せながら行った、ところが河原を過ぎると雨も止み空も霧れたので、愈々走せて追い行く程に関山に行きかかった。
さて、馬盗人は盗んだ馬に乗って、関山まで落ちて来たが、もうここまで逃げて来れば大丈夫と思って、関山の端で水のあるところをあまり走せないで、水の中をツブツブと歩かせて行ったところが、頼信がその物音を聞き留めて、雨は霧れたとは云うが四辺は真闇である、それに子息の頼義が追いかけて来て居るか来ないか分るまいと思われるのに、言葉をかけて云った。
「あれを射よ」
と云う言葉のまだ終らざるに、弓音がして手応えがあったと思うと共に、馬の走り出す音を聞いた、しかも、その馬の鐙がカラカラと鳴って走り出した音が聞える、そこで頼信がまた言う、
「盗人はもはや射落した、速かに走せ寄って馬を取って来るがよい」
とばかり云いかけて、その儘後をも見ないで京へ帰って了った。その後で頼義は、現場へ駈けて行って馬を取り戻して帰って来た。父子共に入神の名人と云いつべきである。
八幡太郎
頼義の子息が即ち八幡太郎義家であるから武勇の筋が思いやられる。
後冷泉院の時、義家は鎮守府将軍たる父の頼義に従って貞任宗任を攻めたが、戦大いに破れて死者無数、将卒四方に散って余すところ僅かに六騎になってしまった事がある、貞任が軍これを見て攻め寄せ矢を飛ばすこと雨のようであった、それを義家が防ぎ戦う有様神の如く、未だ弱年の身をもって大いなる箭を射た、その前に当ったもの、倒れ伏さずと云う者無く、それが為に父子主従が無事なることを得た。
古記に、
義家沈勇絶倫、騎射神の如し、白刃を冒し、重囲を突いて賊の左右に出で、大鍍箭を以って頻りに賊帥を射る、矢空発せず、中る所必ず撃る、雷奔風飛、神武命世、夷人靡き走り、敢えて当る者無し、
とある。
奥州征伐の時、義家の弓勢が甚だはげしくて、射る毎に鎧武者が皆弦に応じて死んだ。武則がこのことを見て舌を巻いていたが、後日義家に向って云うことには、清原の
「今日は一つ失礼ながら貴方様の弓勢をためして見たいと思いますが、如何です」
義家答えて曰く、
「宜しい」
そこで武則が、最も堅い鎧をすぐって三領、それを樹の枝にかけた。義家が一発の箭でその三領を貫いてしまった。武則がこれを見て大いに驚いて、
「これは神様の仕業だ、凡人の為七得るところでは無い」
八幡太郎が武士から帰服されていたのは、斯う云う武術の神技によることが少なくはなかった。
源義家が奥州征伐の後、降惨した安倍の宗任を一人召連れて出掛けたことがある。主従共に狩装束でウツポを背負っていた。広い野原を通る時に、狐が一匹走せ通った。それを見るや義家はウツボからかりまたを抜いて、狐を追いかけたが、
「射殺すまでのこともあるまい」と、わざと左右の耳の間を擦るように射つけたところが、箭は狐の前の土に立った。狐はその箭にふせがれただけで、やがて死んでしまった。従者の宗任が馬から下りて狐を引き上げて見て、
「箭も立たないのに死んでしまった」
と云ったところ、義家が、
「臆病で死んだのだ、殺すまいとして当てないように射たのだから、やがて生き返るだろう、その時放してやるがよい」と云った。
蕪坂源太
後白河天皇の頃、吉野の奥に、蕪坂源太(かぶさかげんた)と云う者があった。生れは紀伊の国熊野山蕪坂という処の者であったそうだが狩を職業としていた、二町の間を隔てて走る鹿を外さなかったという事である、ある時、里人が集ってその弓勢の程をためして見たところが、差矢三町、遠矢は八町をたやすく射渡したところから、差矢三町遠矢八町というあだ名を付けられた。
保元の乱の時に、興福寺の僧徒等に催されて新院の方へ馳せ参ったが、新院のお戦が破れたと聞いて、僧徒等は南都へ引返した、源太は組の者六七人を連れて都の内を此処彼処と見物して歩いたが、三十三間堂に来ると「斯ういう処でひとつ自分の弓勢をためして見たいものだ」と御堂の後ろに廻って、芝の上に脆いて、先ず例の差矢を射て見ると、御堂を二倍余りに射渡した、次に、御堂の縁の上に登り、小さい鳴根をすげたる矢を取出して、軒端の下を射渡したところ、七筋迄あやまたず御堂のうちを射透して、余る矢は尚お御堂の丈程先へ射抜いていた、この三十三間堂即ち得長寿院は、普通の二間を一間とし、堂の長さが縁の小口から小口まで六十四間一尺八寸六分あるということである。
日本の弓矢
昔、壱岐守宗行の家来の者が何か過ちを仕出かして、主人から殺されようとしたので、小舟に乗って逃げて新羅の国へ渡って匿れて居た、ところが新羅のキンカイと云うところで何か人が罵しり騒いで届る。
「何事であるか」
と尋ねると、新羅人が答えて、
「虎が出て来て、村里へ這入って人を喰うのだ」
「虎は幾疋出て来たのか」
「ただ一疋だけだが、不意に出て来ては人を喰ってまた逃げて行き行きする」
「そんならば、その虎に会って一矢射て見たいものだ」
「滅相もない、喰われてしまいます」
「喰われても宜しい、一矢射て見たい、射損なえば死ぬまでの事、まかり間違ったところで、虎を殺してこちらが死ぬ、どの道ただでは喰われない、この国の人はどうも武芸の道に暗いようだ」
と云ったのを国守に言いつけたものがあった。そこで国守がこの日本人を呼びまねいて、
「では虎に向ってみろ」と云った。
そこで右の日本人は、虎の居所を聞いて行って見ると、広々した畑で四尺ばかりの麻が生えている。その中を分けて行って見ると、果して虎が伏して居た。そこでとがり矢をつがえて、片膝を立てて居ると、虎が人のにおいをかいで、平身になって猫が鼠を狙ううような形で迫って来るのを矢をつがえた日本人は音もしないでその儘で待っている。虎が大口を開いてこの日本人の上からのしかかるように飛びつくところを矢を強くひいて放したところ、虎の顎の下から首へ七八寸ばかり矢を射抜いてしまった。そこで虎が逆さに伏し倒れて、あがくのをかりまたをつがえて二度まで腹を射て、二度ながら土に射つけて殺して置いた。
そうして、その矢を抜かないで国府に帰って国守にその旨を告げると、国守が驚き感じて、多くの従者を召し連れて虎のところまで来て見ると、成程三本ながら虎は矢を射通されて無残に倒れ死んで居る。それを見て国守が恐れて云うことには、
「まことに百疋千疋の虎がおこってかかって来たとても、日本の人が十人ばかり馬で押し向って、矢を向けたならば虎はどうすることも出来まい、我新羅の国では、一尺ばかりの矢に錐のような鍍をすげて、それに毒を塗って射るのだから毒が廻ると虎は死ぬけれど、こういう風にその場所へ射伏せてしまうことなんぞは出来る筈がない、日本人は己れの命を惜まず、危機一髪のところまで行って、大きな矢でこの通りその場で射殺してしまうのだ。兵の道では日本の人には真実かなわない、恐ろしい国だ」と云ったとのことである。
この話は宇治拾遺物語にあるが、事実の考証如何はさて措き、より日本武術の要領を捉えている。
秀次の無刀取
柳生宗矩が京都へ着いた、その頃柳生の無刀取が有名であった、関白秀次がこれを聞いて宗矩を召して、
「その無刀取の術を一覧致したい」
と所望した時に宗矩が、
「無刀の事は人に伝えようとして工風したのではござりませぬ、刀や脇差等をとり合せるいとまも無い様な時にはと、なぐさみに工風を致してみたまでの事でござります」
と申したところ、秀次がそこで刀を抜いて宗矩に斬ってかかった、宗矩が、つかつかと走り寄るところを秀次が拝み打ちにひしと斬った、宗矩が違い様に足でずんと蹴ったところが、秀次の持った刀が手を離れ二間ばかり飛んで落ちた、其処で宗矩は秀次の拳に取りついて、
「恐れ多き事でござりました」
と云っておし戴いた、秀次は、
「名誉の儀である」
と云って宗矩の弟子となった。
その後、秀次は木下半助をもって、この事を太閤秀吉へ推薦した、秀吉が聞いて半助に向い、
「その方が申した様に、しかと秀次が申し聞かせたのか」
と問う、半助が、
「申上げた通りでございます」
と答えたので秀吉が、
「秀次はその分別では我が後を継ぐことはなかなか出来ないであろう、天下を治むべき身として白刃にて我身を斬らせ、それを取ったからと云って何の益になるのだ、大将たるものは左様のうつけた真似はしないものである、我は天下を治めたけれども遂に我刀で人を斬った事は無い、この方の影で人に人を斬らせる分別を以って天下を治めたのだ、秀次はそれ程のうつけ者か」
と云って、殊の外立腹したと云う事である。
その二
続日本武術神妙記 その二
中里介山著
幻妙の美少年
筑紫から兵法修行に上って来た片山重斉と云う人があった。卜伝流を伝えて無双の極位を指南して居たが、五条坊閣に宿をとって武家在家を問わず弟子が多くあって、朝晩繁昌していた、取分けて兵法の道理が面白いと云って徳善院の家中は大方残りなく稽古して居た。
或年の六月半ば頃、玄以法印の家中に深沢兵部少輔と云う人の許へ重斉をよんで終日遊び暮して居た。夜になると庭前に水をまかせて傍輩衆七八人打寄って涼みをして届たが、稽古の為だと云って、木刀を数多組んで出し、使いして届るところへ、年の頃十六七でもあろうと見える若い、ゆゆしげな美少年が白い帷子の如何にも美しいのを着て、一尺余りの脇差に扇を取添えて差して居たが、忽然として庭前にかしこまって皆の兵法をば見物して居る、兵部少輔がそれを認めて、
「あれに見える御人は誰人にておわすやら」
と云いかけたところがこの若衆が差し寄って申されるには、
「私はこの御館近い処に住む者でござりますが、兵法をば少しずつ心掛けて明暮|彼方此方と修行の真似を致して居りますが、今日重斉先生と申されるお方が此方へ御越しになされた由を承り及び候によって、御太刀筋を拝見させて戴き度く、御案内をも申上げないでお庭まで伺候致しました事を御許し下さいませ」
と申されたので、兵部少輔もそれを聞いて、
「扨もやさしいお志でござる、この辺にて何れの御子息にておわしますぞ」
と尋ねると、
「さなき者の伜でございまして、御歴々の御参会の中へそれと名乗る程の者でもござりませぬが、この近辺にまかり在る者でござるによって、うろんなものではござりませぬ」
と云って辞退する、重斉はそれを聞いて、
「まだお年若なのに、それ程に兵法を御執心なさる上は定めて御器用な事と御察し申す、皆の者の中誰ぞ打太刀をくだして若衆の太刀筋を御覧になるが宜しい」
と云ったところ、居合す人々が、もっともな次第であると片唾を飲んで見物して居る中に、吉村七之助と云って、重斉の弟子で二番通りの器量のある使手であったが、重斉がこれを呼んで、
「打ってみよ」
と云い付けると、この若衆が申されるには、
「初心者の儀で候によって、先ず私が仰せにまかせて打って見るでござりましょう」
と云って二尺五寸の木刀を取って構えた。七之助も一尺八寸の木刀をもって打ってかかるを待ち受けて居た。その時に若衆が云う事には、
「その構えでは刀が入り申す可く候、お直しになっても苦しくはござりますまい」
と云った、七之助扱はと驚いて構えを直すと、
「それでもまだ入り申すでござろう」
と云ったので七之助、
「ともあれ打って御覧あれ」
と云う言葉より早く弓手の肩先をしかと覚ゆる程に打ってしまった、人々は大いに驚いて、
「扱もお若衆は器用なる兵法でござる、なかなかの太刀筋、余程功者と見え申した、誰か……」
と人々があきれて居るところへ重斉が立ち上がった。
「左様ござらば若衆打って見たまえ」
と云って一尺八寸の木刀をもって、一流の極秘を構えて待って居るところに、この若衆立つより早く鳥の飛ぶが如くにつと寄って、したたかに打ったところ重斉は木刀を落されてしまった、これを見て連座の人々仰天して唇を翻して居ると若人が云うのに、
「これは思いもうけぬ事でござった、怪我の功名でござりましょう。如何様、また明晩参って御指南を蒙るでござろう」
と云って、ついと立ち中門の下へ寄ると見ると姿が消えて見えなくなってしまった。夜が明けてから人々が、
「さては重斉の兵法に天狗が来てさまたげたことと見える、この後よくよく注意しなければならん」
と云って恐れおののいた。
高橋の捕物(一)
生駒雅楽頭が抱えて置いた相撲取りが三十人程あった、その中に「うき雲」「ひらぎ」「かけはし」と云って三人の者が最も勝れて居たが、この三人|己《おの》れの勇力をたのんで乱暴狼籍をし、甚だ評判が悪いので雅楽頭が安からぬ事に思って、或時家老達をひそかに呼んで、
「あの三人の力士共、けしからぬ者共である、生捕って成敗をするがよい」
家老達仰せを承って答えて申す様、
「あの三人の者共を生捕りに致すという事はなかなか容易な事ではござりませぬ、しかしよく考えて見まするに、この頃若い者共が兵法の稽古に参ります師匠に、高橋作右衛門と申す者がございまして、なかなかの名人の由承りました、その者を頼みて仰付けになっては如何かと存じまする」
雅楽頭それを聞いて、
「おゝ、その名前は方々で聞き及んで届る名だが、その者がこちらに来て我家中の者共も指南を受けて居るとは幸い、おっつけ呼び寄せてくれ、近づきになって置こう」と。
そこで、高橋作右衛門(光範)に使者が立つと、高橋が、
「それでは今日は私用がござりまする故明昼参りましょう」
そこで翌日、生駒殿へ参って対面をしたが、成程器量骨柄いかめしく見事なる人物である、その日は終日御馳走して後ひそかに右の一議を頼まれた、そうすると高橋が、
「それはいと易き事でござります、追っつけ明日生捕って御覧に入れましょう」
そこで翌日になると、高橋が参って家老に向い、
「今日は殿様のお尋ねなさることがあると云って、あの三人の者を一人ずつ中門の中へ呼入れて戴きましょう、拙者中戸の蔭にあってそれを一々生捕ることに致しましょう」
と云ったので、その通りに用意をし、尚要心の為に腕に覚えの者を多数門内にしのばせて置いた、雅楽頭も見物するとて程よき処に出られたので、側付の侍達も伺候して容子いかにと待っている。
さる程に高橋は中門の蔭に革袴の裾を高く取って、しかとはさみ一尺二寸の小脇差をただ一腰差して用ありげな気色で縁の端に腰を掛けて待って届た。
やがて三人の力士共がお召しによってやって来た、しめし合せた通り一人ずつ入って来る様にとの云い付けに従って、刀は小者に持たせ大脇差ばかりを差して中門を入って来て、何気なく高橋の前へ出て、
「まかり出ました」
とお礼を云う処を高橋がつと寄って、うつぶきさまに取って伏せ、右の膝で七のずをひっしと詰めて、やがて早縄をかけてしまった、相手は大力とは云えどもちっとも働かせず、手早き事云うばかりも無い、やがて引起して、
「それ/\」
と云ったので仲間が寄って来て、遙か隅の方にある松の樹の方に引き寄せて置いた、後の二人の者も右の様にして手も無く生捕って三人共に引据えてしまった。
雅楽頭これを見て、
「扨々、思ったよりも早く無造作な事かな、大の男の逞ましくして、力飽くまで旺んな者共を、引伏せ引伏せ取固めらるその功、言語の及ぶ所に非ず」
と喜び限り無く、御前にあった人達もこの首尾を見て、
「光範に逢っては刀も器量も要にたたん、よくああも美事に捕れるものかな」
と唇を返して驚歎した。
斯くしてこの褒賞として、赤鑓、呉服、銀子、並びに三人の相撲共が差して届た金銀持えの両腰まで賜った。
高橋の捕物(二)
また或時、天王寺の辺に至剛の狼籍者主従二人取籠って、
「誰人でも腕に覚えのある奴は来て仕留めて功名にせよ」
と云って居たが、生駒殿の奉行で柳村源次兵衛、松本右衛門が百五十余の人数で、四方を囲み、夜昼三日が間種々にたばかり色々に智略をめぐらしたけれども教えて用いず、ただ斬り死にをして冥途の思い出にしようといって寄せ手を待ちかねている、この上は詮方なく、ただ家に火を放って焼討ちにするより外はないと、各々あぐんで老中生駒殿へ申出たところが雅楽頭が、
「大事の仕物を重ね重ねの事であるが、また高橋を頼んではどうじゃ」
と云われたので、
「さん候、光範はこの程少し咳の加減と云って養生中であると承りましたが、それにしても人を遣して見せてみましょう」
と云ったところが生駒殿が、
「人までもあるまい、その方行ってみるがよい」
と云われたので、柳村と松本がかしこまって、やがて高橋へ行って見ると、丁度作右衛門は病気も少し良くなって食事等も進んだ様であって、来訪の二人に酒等を出して挨拶をし、やがて使いの趣きを申入れると、高橋が、
「それがし咳病さえなければ行き向って如何様にもして見ましょうけれども、未だ何となく頭が重く身の皮肉がしびれる様で気分が悪い、しかし、ああ云う者に三日も四日もかかっていると云う事は他国への外聞もあるし、こちらに人もない様で面白くござらぬ、人が一人や二人籠ったからと云って、焼討ちになさると云うのも余り大げさで近所の迷惑も思いやられます、ではそれがし、兎も角も参ってみましょう」
と云われたので、
「あゝ、そうして下さると雅楽頭殿も大いに喜ばれる事でござろう、我々も面目でござる」
と云って二人は帰ったが、高橋はやがて従者を二人つれて天王寺へ行き向って見ると、柳村、松本等は青息をついてあぐねて居る有様、高橋はそれに見舞の言葉をのべたりしてやがて、
「では、それがしが先ず内へ入ってみましょうによって、四方の人数を一町ばかり退けてよく守って居ていただきたい、総てこの辺に人の影一つも無い様にして置いてもらいたい」
「承知致した」
そこで、どっと囲みの勢が退くと、高橋は両刀共に人に持たせて自分は丸腰で、裏へ廻って戸をたたいたところが、内から、
「何者だ」
という、高橋が、
「苦しからん者でござる、奉行所から使いに参った、先ず開け給え」
と心を静かに、言葉もいとていねいに云い入れたところが、内から云うには、
「それは何の為に来られたのだ、云う事があらばそれにて申され候え、承らん」
と云う、光範がまた云う、
「何の気づかいもない使いの者である、御覧候え、丸腰で扇さえ差して居ないのだから用心までもござるまい」
と云う、内から差しのぞいて辺りを見まわすと、成程四方に人影も無く、この人たった一人で誠に扇さえも差してはいないのに安心して戸を開けた、高橋はいかにも心静かに入って亭に腰をかけると、二人のもの次第によっては高橋を一討ちにと、心構えつつ上にかしこまって居て、
「扨、何事のお使いでござるか承ろう」
と云い出した、高橋が云うのに、
「実は昨日今日天王寺の修行僧房が、たって訴訟を申し出でて申すには、当山八丁四方は殺生禁断の地でござるによってたとえ重罪の者たりとも他国より来る科人ならば僧房として、この地に於ては是非共申受けを致したい、この寺域以外の処ならば如何様にもお計いあって宜しいが、当寺域内に於ては捕物の職お控えありたい、ただし当所の人をあやまりたる者共でござるや否や実否を仔細に聞き届けてから万事取計らわれたいとの事でござる故に、さらば仔細をつぶさに尋ね問う可しとあって、それがしを遣わされたのでござるが、そもそも如何なる意趣で斯様には立籠りなさるのだ、その由を早々語り給え」
と長々しく高橋が申述べたところから、中の剛者も成程と思ったのであろう、事の始め終りをつぶさに語り出した、それを聴き終った高橋は、
「その儀ならば別に仔細は無い、夕さりの暗にまぎれてどちらへでもお立ちのきなさい、後のところはそれがしが殿の御前へ善き様にとりつくろうでござろう」
と云って立ち上ると、中の剛者が、
「そう云うわけならば兎も角も御身の計いにまかせ様」
と少しくつろぎ顔になって云い出したから高橋はうなずいて、さあらぬ体でそこを出てしまった。
扨、奉行所に帰って高橋はこの首尾を委細に語って、
「夕さりひそかに二人が落ちて行くところを、主人の方は拙者が召捕るでござろう、従者の方はあなた方で取逃さない様にしてくれ給え」
と約束して、その日の暮れるのを待って、たそがれ時高橋はまた二人の籠っている処ヘやって来て、
「いざ、時刻も宜しゅうござるによって、これから何れへなりともお立ちのきなさい、但し主従二人で一緒に行かれては人目にっき易い故に、離ればなれにお出になるが宜しい、それには御主人は後から心静かにお出になるが宜し、拙者にも送れと仰せ有るならば、一丁でも二丁でもお送り申して宜しい」
と隔てのない様に云った。
「有難い仰せでござる、それはそうだが、行く先に待伏せしている様なものはござるまいか、それが少々心にかかる」
と云ったところ、
「当山よりの詫び事種々あるによっての事であるが故に、気遣いは少しもござらぬ、若しまたまかり間違って待伏等が出て来たならば、此処に居ても斬り死に、そちらへ行っても斬り死にと云う覚悟で思い切って出掛けて御覧なさい」
とうち笑って云ったところが、
「もっとももっとも」
と受けて、油断なく歩んで行ったところが、早や世間も静まり空も暗くなって人の影も見えない様になって来たから、従者は先に東の方を指して落ちて行った。主人はそれよりも遙か後に両刀を帯びて西の方へと落ちて行った。
折ふし五月半ばの事であったから、麦の刈ったのが積み重ねてあった、そこへ来ると高橋は麦の影にかくれたかと思うとまた立ち現れ、後から強者を取っておさえて縄をかけてしまった、そこで、
「やゝ」
と二声叫んだところが松明を立てて奉行衆が各々来て喜び勇んで引立てて行った、従者も仔細なくからめ捕ってしまった。高橋のこの機略、弁舌に感ぜぬ者とてはなかった。
源為朝
鎮西八郎為朝の面目とその弓勢のことは保元物語に詳しく出ている。
白河院夜討の時に、伊勢国住人故市伊藤武者景綱が伊藤五、伊藤六の兄弟を引きつれて、為朝の矢面に馳せ向ったのを、為朝が、三年竹の節近なのを少し押し磨いて、山鳥の尾を以ってはぎたるに、七寸五分の丸根の箆中過ぎて箆代のあるのを打ちくわせ、しばし保って兵と射た、真先きに進んだ伊藤六が胸板かけず射通し、余る矢が伊藤五の射向けの袖に裏返して立った。六郎は矢場に落ちて死んでしまった、伊藤五はこの矢を折りかけて大将義朝の前に参り、
「八郎御曹司の矢を御覧候え、凡夫の所為とも覚え候わず、六郎はこの矢の為に死にました」
安芸の守清盛をはじめ、この矢を見る兵共が皆舌を振って恐れた。
清盛の郎党に、伊勢国の住人、山田小三郎伊行という豪の者、聞こえたる猪武者であったが、為朝の一矢の為に将軍が退き色になったのを見て、
「さればといって、矢一筋に怖れて、陣を退くということがあるものか、縦え筑紫の八郎殿の矢なりとも伊行が鎧は、よも通るまい、この鎧というものは我家に五代伝えて戦に逢うことも十五度である、自分の手にとってからも度々多くの矢を受けたけれども、未だ裏をかいたという例がない、人々を見給え、八郎殿の矢をうけて後の物語りにして見しょう」
といって、馳け出したところから、仲間のものが、
「オコの功名立てはせぬもの、無益の業である、控えさっしゃい、控えさっしゃい」
と制したけれども、本来きかぬ気の男であり、遂に下人を一人ひき連れたままで黒革絨の鎧に同じ毛の五枚甲を猪頸に着、十八差したる染羽の矢を負い塗籠籐の弓を持ち、鹿毛なる馬に黒鞍を置いて乗り、門前に馬をかけ据え、次の如く名乗った。
「物その者にはあらね共、安芸守の郎等、伊勢国住人山田小三郎伊行、生年二十八、堀河院の御宇、嘉永三年正月二十六日対馬守義親追討の時、故備前守殿の真先懸けて公家にも知られ奉りし山田庄司行末が孫也、山賊強盗を搦取る事は数を知らず合戦の場にも度々に及んで、高名仕ったる者ぞかし、承り及ぶ八郎御曹司に一目見参が致したい」
と申出でた、為朝、これを聞いて、
「これは、てっきり奴め、弓を引きもうけて云っているのだ、然らば一の矢は射させてやり、二の矢をつがうところを射落してくれよう、同じ射落すならば、矢のたまる処の弓勢を敵に見せてやろう」
と云って、白藍毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていたのだが、馳け出でて、
「鎮西八郎これにある」
と名乗るところを、もとより山田は引きもうけていたことであるによって、弦音高く切って放つと、為朝の弓手の草ずりを縫うようにして射切った、山田は一の矢を射損じて、二の矢をつがう処を為朝が引いて兵と射ると、山田小三郎が鞍の前輪から鎧の草摺を尻輪へかけて矢先き三寸余り射通してしまった、暫くは矢にかせがれてたまるように見えたが、忽ちやがて弓手の方へ真逆さまに落ちたので、矢尻は鞍に止まって馬は河原へ馳け出した、下人がつと走り寄って落ちたる主人を肩に引っかけて味方の陣へ帰って来たので、寄手の兵がこれを見て愈々この門へ向うものはなくなった。
そうしているうちに、夜も漸く明けて行った。主のない離れ馬が源氏の陣へ馳け込んだ、鎌田の次郎がこれを捕らせて見ると、鞍つぼに血が溜って、前輪は破れて、尻輪に鑿のような矢尻が止まっている、これを大将の義朝に見せて、
「今夜(保元元年七月十一日)これは鎮西八郎殿が為された弓矢と思いまする、御弓勢のほど何と恐ろしいものではござりませぬか」と云った。
義朝は弟の八郎の弓勢をさほどとも思わず、タカの知れた十七八歳の小冠者の仕業と鎌田をかけ向わせたが、たまり兼ねて敗退した、そこで義朝が軍勢を指揮して兄弟当面の白兵戦となったが乱軍のうちに義朝は大きな男で、大きな馬に乗って軍勢を指図をしていた内兜がまことに射よげに見えたので願うところの幸いと、為朝は件の大矢をうちつがい、ただ一矢に兄の義朝を射落そうと弓をあげたが、さて思うよう、
「弓矢とる身のはからいで、兄は内方(後白河)へまいり、われは院方(崇徳)へまいろう、汝負けなば、頼め助けん、我れ負けなば汝を頼まんなどと約束して父子が立ち分れたのかも知れない」
と為朝は思慮して番えたる矢を差し外して兄の義朝を撃つことは遠慮をした。
こういう次第で、為朝の矢に当るものは助かるものとては一人もなかったのであるが、徒らに罪つくりをするでもないと、名乗って出るものの外は射ないことにして、首藤九郎という者を呼び寄せて云った。
「敵は大勢である、若し矢種が尽きて、打ちものとっての軍ということになると、一騎が百騎に向うとも遂にはかなわないであろう、坂東武者の習いで、大将軍の前では親死し、子うたるれども顧みず、弥が上に死に重なって戦うなりと聞くそうなっては悲惨の至り、さりとて大将は我が兄である、射落すことは本意でない、ただ、矢風だけを負わせて退かせるようにして見たいがどうだ」
首藤がそれを聞いて答えて云うには、
「それは結構な思召しでございます、然し、誤って義朝公にお怪我をさせるようなことがあってはなりませぬ」
と云う、
「なに、さ様な心配は無用だ、為朝が手本は覚えの通り」
と云って、例の大矢をうち番え、かためて兵と射る、思う矢つぽをあやまたず、下野守義朝の兜の星を射削って余る矢が宝荘厳院の門の方立に箆中せめて突き立った。その時義朝はたづなをかいぐり打ち向いて嘲って云うようは、
「汝の弓勢も聞き及ぶほどではない、甚だ荒っぽい未熟の手筋だ」
といった、為朝それを聞いて、
「兄君でござるが故に思うところあってわざと今のように射たのである、御許しの上ならば二の矢をまいらせよう、真向内甲は恐れもござる故、障子の板か栴檀弦走か胸板の真中か、草摺ならば一の板とも二の板とも、矢坪を確かに承りて、その通りに致して見せ申そう」
と云って、既に矢をとって番われた処に、上野国の住人深巣七郎清国というものが、つと駈け寄ったので、為朝はこれを弓手に相請けて、はたと射た、清国が甲の三の板から直違いに左の小耳の根へ、箆中ぱかり射込まれたので、暫しもたまらず死んでしまった。首藤九郎が落合って深巣が首をとった。
これも事ともせず、我先にとかかった中に相模の国の住人大庭平太景能、同三郎景親が真先きに進んで、鎌倉権五郎の先祖から名乗りあげてかかった、為朝これを聞いて、
「西国の者共には皆手並みのほどを見せたけれども、東国の兵には今日はじめての軍である、征矢は度々射たけれども今度は一つ鏑矢で」
と思って目九つ指したる鏑の、めはしらには角を立て、風返し厚くくらせて金巻に朱をさした、普通の墓目ほどなのに手先六寸、しのぎを立てて、前一寸には、みねにも刃をつけた、鏑より上十五束あったのを取って番い、ぐさと引いて放されたところ、御所中に響いて長鳴りし、五六段ばかりにひかえたる大庭平太が左の膝を片手切に、ふっと射切り、馬の太腹かけずとおったので、鏑は砕けて散って了い、馬は屏風を倒す如く、がばっと倒れ、主は前へあまされてしまった、敵に首を取られじと弟の三郎が飛び下りて兄を肩にかけて四五町ばかり引き退いた。
この合戦は院方が敗北となって、為朝の父為義をはじめ院方に走せ参じたものは皆族滅の形となったが、為朝だけは末代にも得難き武勇だとあって、伊豆へ流されることになった、併し、このまま野放しにして置いては末が怖ろしいと肘を抜いて伊豆の大島へ流すことになったが、それから五十日ほど肩を療治をして後は、力こそ少く弱くなったけれども、矢束を引くことは二伏ほど増したというから、さし引き昔に劣ることは無くなったのである、そうして大島へ流されているうちに大島を管領するのみならず、五島を打ち従えてしまって年貢を納めない処から、領主の狩野介茂光が京都へ訴え、軍勢を狩り催して押し寄せ、嘉応二年四月下旬に、一陣の舟に兵三百余人射向けの袖をさしかざし、舟を乗り傾けて三町ばかり渚近く押し寄せた、為朝がこれを見て、矢比は少し遠いけれども、犬鏑を取って番い、小肘の廻るほど引きつめて兵と放つ、渚五寸ばかり置いて大舟の腹を彼方へつと射通したところ両方の矢目から水が入って舟は水底へ巻き入ってしまった、水心ある兵は楯、掻楯に乗って漂うところを、櫓擢、弓のはずに取りついて他の舟へ乗り移って助かった、為朝これを見て、
「保元の昔は矢一筋で二人の武者を射殺した、嘉応の今は一矢に一船を覆えし多くの兵を殺し畢んぬ、南無阿弥陀仏」
と唱えて腹を掻き切って失せたということである。
むつるの兵衛と上六太夫
後白河院が鳥羽院においでになった時分、みさごが毎日出て来て、池の魚をとるものだから、或時これを射させようと思召して、武者所に誰かあるとお尋ねあった処が、折ふし「むつるの兵衛尉」があったので、お召しに従って参った。
そこで、この池にみさごがついて、多くの魚をとって困る、射止めるがよろしい、但し、みさごを射殺してしまうのも無惨である、鳥も殺さず魚も殺さぬように計らいを致して見よとの仰せであった。否み申すべき余地もなくて、かりまたの矢を取って罷り立って待っていたところ、案の如くみさごがやって来て、鯉をとってあがるところを、よく引いて射たところが、みさごは射られながら尚飛んで行った、鯉は池に落ちて腹白く浮いている、そこで取りあげて叡覧に供するとみさごが鯉をつかんだ足を射切ったのである、そこで鳥は足を射切られただけでは死なないで飛んで行き、魚はみさごに爪を立てられながらも落ちて死ななかったので、御感の余り禄を賜ったということである。
このむつるの兵衛尉がまたある時、懸矢をはごうとして、とう(鳥名)の羽は無いかと探して見たが、どこにもなかった、その時、上六太夫という弓の上手がそれを聞いて、
「とうならば、今この辺に降りて餌をあさっていたようです」
といったので、家来たちが立ち出でて見ると、なる程川より北の田にとうが降りて餌を食べている。
その報告を聞くと、上六太夫は弓矢をとって出かけた、むつるの兵衛主従もその様子を見に出かけた、そうすると上六は弓に矢を番えたけれども、直ぐには射ないで、
「あの、鳥のうちで、どれがこがれている」
とたずねた。
しまいに飛んでいるのがこがれている、というのを聞いたが、なお急がず弓を控えていたが、とうが遙かに遠くなって、川の南の岸の上を飛ぶほどになった時、はじめてよく引いて切って放すに、あやまたず目指す鳥を射落した。
さすがの、むつるの兵衛も感心の余り、なお不審を問い質していうことには、
「どうして、近いうちに射ないで、遙か遠くなってから射たのだ」
と尋ねると、上六太夫が答えて、
「そのことでござる、近いのを射落してしまった時は、川へ落ちてその羽がぬれてしまうでしょう、それでは矢を作るお間に合わない、向うの地に着いてから射落しました故にこの通り羽は傷まない」
と答えたので、皆その用心の由々しいことに感心した。
精兵
よく射るものを精兵と昔から云い習わしていた。精兵の資格としては、まず三間中を置いて畳を一畳横に立てて、それからまた一間ずつ間を置いて二畳立ててそれを射させて、かけず、たまらず射抜くだけのものを称して普通精兵の資格としたものであるという。
(略)
男谷と島田
これは事実どうかわからないが、ある雑誌の記事によると、男谷下総守と島田虎之助との仕合を見たという人の話に、一礼して立ち上って互に気合を容れて、一方がじりりとつけ込めば、一方はあとに圧迫され、一方が盛り返してつけ込めば、一方は反対にあとに圧迫されること数回、遂に勝負を見ることが出来ず、相引となったが、男谷先生が面を取って、
「いや、よい稽古にあずかりました、まいりました」
といって挨拶された時、島田は顔色碧白になって口が利けず、殆んど卒倒せんばかりになっていたという。
那須の与市
那須の与市の扇の的のことは余りにも有名で云い古りてはいるが、矢張り神妙記としては一通り書いて置かなければなるまい、そのことは源平盛衰記に最も詳しく描いているが、時は元暦二年二月二十日のこと、源平の戦が酷で、今や一息入れてまた戦おうとする時に、沖の方から縞麗に装った船が一艘、汀に向って漕ぎ寄せて来た、勿論この時、陸は源氏、海は平家であって、船は平家の方から漕ぎ出して来たのである。
倦、その船の上に、柳の五重に、紅の袴を着て袖笠かずける女房が一人立って、皆紅の扇に日の出でたのを杭にはさんで船の舳に立てて押し出して来た、勿論、これを射よといって源氏の方を招いたわけである、昔の戦争は流石に悠長で美的な趣味がある。
それを遙かに見た源氏方では、これは面白い景気だと心をさわ立たせるものもあるし、この扇を誰に射よとの命令が下るかと、胆を冷しているものもある、それを見た一轍短慮の義経、何じよう猶予すべき、味方のものにあれを射るものはないかと命令が下る、その詮議が畠山重忠の頭上に落ちて来た、重忠以外にはこの任に当るべきものが無かろうとの源氏方の輿論であった。しかし、重忠はそれを辞退した、重忠の万人から嘱望せられた勇武のほども思われるが、それを辞退した辞退振りもまた器量のあるものであった。畠山が辞退したので、流石源氏の坂東武者も色を失った。この上は誰があの選に当るのか、若しその人を得なかった時は源氏の恥辱、坂東武士末代までの名折であると色を失っていると、畠山が云うことには、
「当時、味方には下野の国の住人那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ斯様の小物を射させては覚えがあるものでござる、彼等をお召しになって御覧なさるがよろしかろう」
と大将義経の前へ申出でた、畠山という人は器量もあり武勇もあるが、同時に人を見ることをよく心得ていた人物だということがわかる。
「さらば、十郎を呼べ」
といって、呼び寄せてその事を申付けると、十郎が答えていうには、
「仰せを蒙った上は申し訳をする次第でございませぬが、先日、一ノ谷の岩石落しの時に、馬が弱くて弓手の胃を砂に附かせて少々怪我をいたし、灸治を加えて居りますが、未だ治りませぬ、小振いして矢が定まらぬ憂いがございます故に、誠に失礼ながら拙者の弟に候処の与市は小兵ではござりますが、懸鳥や産などは滅多に外したことはござりませぬ、弟ならばあれをやれるかもしれません」
といって、弟に譲って控えていると、
「さらば、与市を召せ」
といって、召された。
与市のその日の装束は紺村濃の直垂に緋絨の鎧、鷹角反甲、届頸になし、二十四指したる中黒の箭負い、滋籐の弓に赤銅造の大刀を帯び、宿賭白馬の太く逞しきに、洲崎に干鳥の飛び散ったる貝鞍を置いて乗っていたが、進み出でて判官の前に弓を取り直して畏まった。義経が、
「あの扇を仕れ、晴れの働きであるぞ、不覚をするな」
与市はその仰せを承って、何か仔細を申そうとする処に、伊勢の三郎義盛、後藤兵衛尉実基等が、与市を判官の前に引き据えて、与市に口を開かせないでいうことには、
「何れもが、何かと故障を申立てたによって、日は既に暮れかかっている、与市の兄の十郎が、指し申した上からは、何の仔細がある、疾々急ぎ給え、海上が暗くなっては由々しき味方の大事である、早々」
と急き立てたので、与市は、げにもと思い、兜をば脱いで童に持たせ、揉烏帽子を引立てて、薄紅梅の鉢巻をして、手縄を掻いくって、扇の方へ打ち向った、生年十七歳、色白く小髭が生え、弓の取りよう、馬の乗り振り、優なる男に見えた、そこで馬を乗り入れて、鎧の菱縫板のつかるところまで打ち入れたが、浦交の馬であるによって、海の中ではやるのを手綱をゆり据えゆり据え鎮めたけれども、寄る小波に物怖じして、足も止めず狂っている。扇の方を急いで見ると、折ふし西の風が吹き来って船が動揺する処から、扇も杭にたまらず、くるりくるりと廻るので、何処を当てに射ていいかわからない、与市は運の極みと悲しくなって、眼を塞ぎ心を鎮めて薦るよつ、
「帰命頂礼八幡大菩薩、日本国中大小神祇、別而ハ下野国日光宇都宮氏御神那須大明神、弓矢ノ冥加有ルベクハ、扇ヲ座席二定メテ給工、源氏ノ運モ極ミ、家ノ果報モ尽ベクハ、矢ヲ放ヌ前二深ク海中二沈メ給エ」
と、祈念して眼を開いて見ると、神の助か扇が座に静まっている,物の射難い点から云えば、夏の山の木の葉隠れの間に見える小鳥を殺さぬようにして射ることなどであるが、それに比べて、挾んで立てたあの扇である、まして神の力で今、風も鎮って、扇の座も定まった、もうこっちのものだと思いながら、十二束二つ伏の鏑矢を抜き出して、爪やりをしつつ滋籐の弓の、握り太なるに打ち食わせ、よく引いて暫くかためている、海上七段ばかりを距てたことによって、源氏の方からは、
「まだまだもう少し中へ入れ入れ」
と呼ばわる声が聞える、扇に胡いをつけた与市は、扇の紙には日を出しているから、これを射るのは怖れがある、要を志して、兵と放つ、矢はうら響くまでに鳴り渡り、要から上一寸置いて、フッと射切ったので、要は船に止まって、扇は空に飛び上り、暫くひらめいてひらひらと海の上へ落ちかかる、折から夕陽にかがやいて、波に漂う有様は美しさの極みであった。平家は舷を叩いて賞める、源氏は馬の鞍の前輪を叩いて賞め唯す声が海陸に鳴り響いた。
名和長高
後醍醐天皇を助け奉った名和氏の一族長高もまた聞ゆる弓矢取りであった。船上山合戦の時、長高が出向い、
「一矢仕り臆而可参候」
と天皇の御前を罷り立ち、黒糸絨の鎧に五枚甲の鍬形打たるに、二十五指たる黒ほろの矢負い、四尺三寸、三尺九寸の大刀二振帯び、五人して張ける例の大弓杖につき、ねり出た事がらは支那の簗噌というとも是には勝れじと見えた、矢ごろと覚しい処に立って、下様に見ると楯のはずれに四方白の甲著た者がいる、田所が弟五郎左衛門尉種直と云う者であった、長高が是を見て、例の大弓弦くいしめ、中差取ってつがい、よっ引きひょうと射る、種直が鎧の引合つと射通し、後に続きたる弟の六郎が甲のまこう、後に矢たけ射出した、二人一度に臥して廃れた、是を見て郎等源七、楯をつきかけ、肩に引懸んとする処を長高が二の矢を番いて、楯の中を射たが、楯を通る矢に楯つきが頸の骨を射切て、余る矢に源七が小手のはずれを羽際まで射込んでしまった、そこでまた二人ともに繁れ臥したので、一所に四人が死んでしまったのである。是を見て敵の田所が申すには、
「昔の八幡太郎殿鎮西八郎為朝と申すとも、角ぞ候ん、如何に思うとも叶わない、いや/\」'
と云って引退いた、長高が大音に名乗るには、
「東国にてはよも聞き及ばじ、近国に於いては、皆々長高が弓勢は知られたであろうに、是まで寄せられたるこそやさしけれ、今さら引かん事見苦しく候、近く寄給え、矢坪はちがい候まじ、我と思わん人々は、打出でて矢坪を望まれ候え、三の矢においては、尋常に可仕候」
と罵ったけれども、寄手の佐々木清高は二町計り引き退きて申すには、
「何と思うとも攻め落すことは六つかしい、是に向う城を取りて、食攻めにするが宜しい」
という事になったので、長高は内裏へ参った。昔八郎為朝は、矢一つにて清盛の大勢を追い帰したが、今の又太郎は、矢二つにて佐々木清高が二千余騎を退けたと云って聞く者が舌を捲いた。
本間孫四郎
この頃は弓矢の話が大分続くが、もう一つ鎮西八郎以来の弓矢取、本間孫四郎の事は伝えなければならぬ。
新田足利が兵庫の浜で合戦の時に、本間孫四郎重氏、黄瓦毛なる馬の太く逞しきに、紅下濃の鎧着て、ただ一騎、和田の御崎の波打際に馬を打寄せて、沖なる船に向って、大音声を揚げて申しけるには、
「尊氏将軍には筑紫より御上洛でござるによって、定めて靹、尾道の傾城共を多く召し具せられた事と存じ申すが、その為に珍しき御肴一つ推して進ぜまいらせよう、暫く御待ち候え」
と云って、上差の鏑矢を抜きて羽の少し広がったのを鞍の前輪に当てかき直し、二所籐の弓の握り太なるに取り副え、小松陰に馬を打寄せて、浪の上なる鵬の己が影で魚を驚かし飛びさがる程を待っていた、敵は是を見て、射そこねたらば希代の笑い哉とながめている、御方は射当てたらば、時に取っての名誉哉と、まもっている、遙かに高く飛び挙った鵬は、やがて浪の上に落ちさがって、二尺計りなる魚を捕るより、ひれを酬んで、漢の方ヘ飛んで行くところを、本間は小松原の中から馬を懸出し追い様に成りて、かけ鳥に射た。態と生ながら射て落そうと片羽がいを射切って真中のところは射なかったから、鏑は鳴り響いて、大内介が舟の帆柱に立ち、鴫は魚を馴みながら、大友が船の屋形の上へ落ちて来た、射手を誰とは知らないながら、敵の船七千余艘は、舷を踏んで立ち双び、御方の官軍五万余騎は汀に馬を控えて、
「あ、射たり射たり」と感ずる声、天地を|響《とよも》して静まらない、将軍尊氏はこれを見て、
「敵は己が弓の程を見せようと、この鳥を射たが、こちらの船の中へ鳥の落ちたのは、味方の吉事であるぞ、何様射手の名字を聞きたいものだ」と云ったので、小早河七郎が、舟の舳に立ち出て、
「類い少く見所有っても遊ばされたもの哉、さても御名字をば何と申候やらん、承り候らわばや」
と尋ねた処、本間弓杖にすがって、
「その身人数ならぬものにて候えば、名乗り申候とも、誰か御存知候べき、但弓箭を取りては、坂東八力国の兵の中には、名を知りたる者も御座候わん、この矢にて名字をば御覧候え」
と云いて、三人張に十五束三伏、ゆらゆらと引渡し、二引両の旗立てたる船を指して、遠矢を二つ射た処が、その矢が六町余を越して将軍の船に双んだ佐々木筑前守が船を箆中過ぎ通り、屋形に乗った兵の鎧の草摺に裏をかかせて立った、尊氏がこの矢を取寄せ見ると、「相模国住人本間孫四郎重氏」と小刀の先で書いてある、諸人この矢を取伝え見て、
「穴催、如何なる不運の者が、この矢先に廻って死ぬのだろう」と怖れて胸を冷してしまった。
本間孫四郎扇を揚げて、演の方をさし招いて、
「合戦の最中でござるによって、矢一筋も惜しく存候、その矢此方へ射返してたび候え」
と云った、将軍尊氏がこれを聞いて、
「味方に誰か、この矢を射返す程のものがあるか」と高武蔵守に尋ねたところ、師直が畏まって、
「本間が射たところの遠矢を、同じ処で射返して見せるほどの者は坂東勢の中には有るべしとも覚えません、本当であるかどうか、佐々木筑前守顕信こそ、西国一の精兵と承って居りますが、彼を召され仰付けられて御覧になっては」と申したので、げにもとて佐々木を呼ぶことになった、顕信召しに随って、将軍の前に参ると、将軍、本間が矢を取り出して、
「この矢を本の矢所へ射返され候え」
と云ったが、顕信畏まって、
「それは私には出来ませぬ」と再三辞退をしたが、将軍が強っての仰せであるによって、辞するに処無くして己が船に立帰り、火絨鎧に、鍬形打ったる甲の緒を締め、銀のつく打ったる弓のそりだか反高なるを帆柱に当て、きりきりと推し張り、船の舳崎に立顕れて、弓の弦くいしめしたる有様、これならば成程射返せるだろうという武者振りには見えたが、かかる処に如何なる推参の馬鹿者か、讃岐勢の中から、「この矢を一つ受けて、弓勢の程を御覧ぜよ」と高らかに呼ばわる声があって、鏑を一つ射たものがあったが、胸板に弦を打たれでもしたものだろう、元来小兵であったせいか、その矢が二町までも射付かず、波の上に落ちてしまった、本間が後に控えたる軍兵五万余騎、同音に、「あ、射たりや」と云いて、しばし笑いが止まらなかった、斯うなっては中々射てもよしない事だと佐々木は遠矢を止めてしまった。
それから、本間孫四郎が最後の功名としては、太平記巻の十七「山門攻」の処に詳しく記してある。この戦は後醍醐天皇を新田義貞が守護し奉り二度叡山に行幸になった時、賊軍が五十万騎の兵でこれを攻め奉ったという処である、賊軍の一手は熊野の八庄司共が五百余人で新手に加わって来た、それを先手に立てて西坂から攻め上って来た、この熊野の兵共というのは黒糸の鎧甲に指のさきまで錬りたる籠手、肝当、半頬、膝鎧を透処なく一様に裏んだいでたち、まことに世間態とは異り、天晴れ一癖あって役に立ちそうな有様であったから、この手の大将、高豊前守が大喜びでその者共に面会して戦さの様子を尋ねると、庄司のうちの一人湯河の庄司が進み出でていうことには、
「紀伊の国育ちの吾々共は、若い時から悪所岩石には馴れて、鷹をつかい、狩をいたして居るものでござるによって、馬の通わぬような瞼しい処でも平地のように心得てござる、この位の山は山とも何とも思っては居りませぬ、この鎧は絨毛こそよくはござりませぬけれど、吾々共が手製で携め持えたものでござる故に、鎮西八郎殿と雛も滅多には裏をかかせるようなことはござりますまい、こんどの合戦は将軍(尊氏)の御大事でござります故に、私達が軍勢の矢表に立って敵が矢を射たらばこの物の具に受け止め、切ってかかったならば、その太刀長刀に取りついて敵の中へ割って入りましょう、そうするほどならば如何なる新田殿なりとも、やわか持ちこたえは出来ますまい」
と傍若無人に申したので、聞く人見る人、何れも偏執の思いをした。さらば臆て是をさき武者として攻めよと云って、六月十七日の辰剋に、二十万騎の大勢、熊野の八庄司が五百余人を先きに立てて、松尾坂の尾崎から、かずきつれて上ったのである。
官軍の方では綿貫五郎左衛門、池田五郎、本間孫四郎、相馬四郎左衛門と云って、十万騎の中から勝り出された強弓の手垂があった、池田と綿貫とは、この時丁度東坂本へ遣わされて居合わさなかったが、本間と相馬と二人、義貞の前にいたが、熊野の人どもが真黒に裏みつれて攻め上って来るのを遙かに見下し、からからと打笑い、
「今日の軍には御方の兵には太刀を抜かせまい、矢一つをも射させないようにし、我等二人が罷り向って、一矢仕って、奴原に肝をつぶさせ申そう」
と云って最閑に座席を立ち上った。猶も弓を強く引かんがために、着たる鎧を脱ぎ置いて、脇楯ばかりに大童になり、白木の弓のほこ短かには見えたけれども、尋常の弓に立ち双べては、今二尺余ほこ長く、曲高なのを大木どもに押擁め、ゆらゆらと押し張り、白鳥の羽ではいだ矢の、十五束三伏あったのと、百矢の中からただ二筋抜いて、弓を取り副え、説歌うたって閑々と向いの尾へ渡ると、後に立ちたる相馬は、銀のつく打ったる弓の普通の弓四五張井せた程なのを、左の肩に打ちかたげて金磁頭二つ箆の擁に取り添えて、道々擁め直し、爪よって一群茂る松陰に、人交もなくただ二人、弓杖突いて立っている、そこへ是ぞ聞えたる八庄司が内の大力よと覚えて、長八尺ばかりなる男、一荒あれたのが、鎖の上に黒革の鎧を着、五枚甲の緒を締め、半頬の面に朱をさして、九尺ばかりに見えたる樫木の棒を左の手ににぎり、猪の目透したる鐵の歯の、亘一尺ばかりあるを、右手に振りかたげて、少しもためらう気色もなく、小跳りして登る形勢は、阿修羅のような姿に見える、あわい二町ばかり近づいた時、本間が小松の陰から立ち顕れ、件の弓に十五束三伏、忘るるばかり引きしぼり、ひょうと射わたす、志す処の矢所を少しも違わず、鎧の弦走から総角付の板まで、裏面五重を懸けず射徹して、矢さき三寸ばかりちしおに染まって出たので、鬼か神かと見えた熊野人も、持っていた銭を打ち捨てて、小篠の上にどうと伏した、その次に是も熊野人かと覚えて、先の男に一かさ倍して、二王を作り損じたような武者、眼がさかさまに裂け、髪左右に分れたのが、火絨の鎧に竜頭の甲の緒を締め、八尺三寸の長刀に四尺余の太刀を帯いて、射向けの袖をさしかざし、後をきっと見て、
「遠矢は射るな、矢どうなに」
というままに、鎧ずしきて上って来る処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三伏の金磁頭くつ巻を残さず引きつめて弦音高く切って放つと、手答とすがい拍子に聞えて、甲の真向から眉間の脳を砕いて、鉢着の板の横縫きれて、矢じりの見ゆるばかりに射籠んだので、あっという声と共に倒れて、矢庭に二人死んでしまった。跡に継いた熊野勢五百余人、この矢二筋を見て、前ヘも進まず後へも帰らず、皆背をくぐめて、立ちすくんでしまった。本間と相馬とは、こんな事に少しも頓着のないような面をして、御方の兵が二町ばかり隔たって、向いの尾根に陣を取っていたところへ向って、
「例ならず敵兵が働くように相見える、ならしに一矢ずつ射て見せて上げよう、何でもよろしい的に立てて御覧」と云ったので、
「では是を遊ばし候え」と云って皆紅の扇に月を出したのを矢に挾んで、遠的場だてに立てた、本間は前に立ち、相馬は後に立って、
「月を射ては天の恐れも有るであろう、両方のはずれを射よう」と約束して、本間は、はたと射れば、相馬もはたと射る、矢所約束に違えず中なる月を残して射切った。
その後百矢二腰取り寄せて、張りかえの弓の寸引をして、
「相模国の住人本間孫四郎資氏、下総国の住人相馬四郎左衛門忠重、二人この陣を堅めて候うぞ。矢少々うけて、物具の真の程御覧候え」
と高らかに名のったので、後なる寄手二十万騎、誰追うともなく、我先にとふためいて、また本の陣へと引き返してしまった。
本間はこれほどの名人であったが、義貞北国落ちの時、尊氏方へ降人に出でた、本来、尊氏の旗下であったのだが、尊氏は兵庫の合戦の時以来の仕打ちが憎いと云って、六条川原へ引き出して首を斬ってしまったのは、惜しいことである。
朝倉犬也入道
結城秀康が弓馬の名人朝倉犬也(能登守)に向って云わるるには「関東侍は、馬上で達者に働くそうだが、さぞつよ馬を好む事であろう」と、朝倉犬也が答えて、
「関東さむらいと申しましても、あながちつよ馬を好むというわけではござりませぬ、唯、自力に叶いたる馬をもっぱらと乗ります、愚老の旧友に、伊藤兵庫助と申して、馬鍛練の勇士がござりましたが、或時口ずさびに『大はたや大立物に強き馬このまん人は不覚なるべし』とよみました、馬下手の癖につよ馬をこのむのを見ては、馬には乗るのではない、馬に乗られるのだと申しました、むかし頼朝公の御前に諸老が伺候しての砌り、仰せによって各昔の経験を語る所に、大庭平太景能が保元の合戦の事を語りましたが、その間に申すことには、勇士の気をつけて用ゆべき物は、弓矢の寸尺、騎馬の学びである、鎮西八郎殿は、我朝無双の弓矢の達者でござりましたが、それでもあの方の弓箭の寸法を考えて見ますると、その涯分に過ぎたようにも覚えまする、その故は大炊御門の河原において、景能は八郎殿の弓手に出逢いましたが、八郎殿が弓をひかんとなされたが、鎮西よりお出でになった為、騎馬の時では、さすがの八郎殿も弓が思うように行かれなかったようで、その時、景能は東国において、よく馬に乗り慣れて居りました事故に、八郎殿が妻手に、はせめぐって相違い、弓の下をこゆるように致したものですから、身にあたるべきの矢が膝にあたりました、この故実を知らなければ、あの時たちまち命を失ってしまうのでした、されば勇士はただ騎馬に達していなければならぬ、壮士等耳の底にとどめて聞いて置いてもらいたい、老翁の説だと云って嘲弄してもらうまい」
と一座の者が皆成程と感心した。
さてまた犬也入道が云うことには、
「されば治承の頃おい、足利又太郎忠綱が宇治川をわたす時、よわき馬をば下てにたて、強きに水をふせがせよと下知したのも、尤もの事でござる、佐々木、梶原が生食、摺墨とやらいう強馬にのり、宇治川の先陣を仕ったのはゆゆしい事であるが、併し、大河をわたすというのはまれ事、一得をもって、多失を忘れてはならない事だ、昔の人も、馬鍛練はしたと見えて、武者絵などに馬をとばせ走る間に、弓を引き、矢を放つと見えている、それ馬に乗って遠路を行くのは、自分の足を休めん為である、軍中で乗るのは馬上で弓鎗を用にたてん為であるが故に、昔関東では、戦場を未だ踏まない、若い者は広き野原へ多数打連れて出て、敵味方と人数を分ち、旗をさし、弓鎗長刀、おのれおのれが、得手の道具を以って馬に乗り馬をこころみるため、鉄炮をならし、矢叫びの声をあげて、おめき騒ぐ時に、いさんで進む馬もあれば、おくれてしさり驚いて横へきるる馬もある、山へ乗り上げ、岨のがけ道を乗り、塀を飛ばせ自由に働くようにと鍛練いたし、先陣の場合にはぬきんでて懸引き達者をふるまい、勝利を得るように嗜なむのでござる。早雲の教えの第一カ条の内に、馬は下地をば達者に、乗りならいて、用の手綱をば稽古せよとしるしてござるが、侍たる者が馬の口を取らするは一代の不覚、仮初の馬上にも、名利を忘れ、乗方を心掛け、大将たりというとも、馬の口を取らせて行くものは、馬下手故か、弓馬の心がけなき人かと指をさされる次第でござる、馬鍛練の儀は、殿の御前に候する愚老の昔友達などがよく存ずる事でござる故御尋ねあるが宜しゅうござりまする」
と申上げたので、秀康が、
「犬也、お前も若い頃はさぞ馬鍛練した事であろう、昔の面影をちと見せてもらいたいものだ」
と云われたので、犬也は、
「愚老は、もはや七十に及び、馬上のふるまいは叶いがとうござりまするが、仰せを辞し申しては却って恐れあり、御遊興までに昔ぶりをまなんで御目に懸け申しましょう」
と云って用意の為にと宅へ帰った、秀康は御見物の席を設け、諸侍共は芝の上に並んでいると、犬也は鴇毛の駒に、黒糸絨の鎧著、星甲の上の頭巾あて、白袈裟をかけ、いぶせき山臥の姿に出で立ち、矢おい弓持ちて、郎等一人めしぐし、鑓を提げさせ、馬に打乗って、御前近くしずしずとあゆませ、
「軍陣に候、下馬御免」
と申しもあえず、馬場を二三返はせめぐり、馬場の向うに築地の有るを、敵方と、はるかににらんで、手綱を鞍の前輪に打ちかけ、またにて馬を乗り、弓に矢をはけ、声をかけ走るうちに、矢を二つ三つ放ち、扨弓をすて飛びおり、従者が持ったる鑓おっ取って従が先立ってにぐるを追っかけ、従がとって返せば、飛びしりぞき、馬も心有るや、跡をしたって来るのをまたうち乗りて一さんに走らせ、弓手妻手へ鑓を自由自在にちらし走せ廻るを、秀康が見て、目をおどろかして、感心される。
「犬也、お召でござるぞ」
と云う声がかかったので、馬をしずめ、近くよせ飛びおり、御前に近づくと、当座の褒美として、刀に長刀さしそえてくだされた。
斎藤青人
斎藤青人(俗名主税)という人は馬術の名人であったが、鹿島の神庫から左の馬書を申出して、段々潤色してそれを五敬にわかち(常敬、相敬、礼敬、軍敬、医敬)一敬の済んだのを免許とし、五敬済んだのを印可とした、百馬の図を改めると云って四ッ谷へ三年の間宿を移したのは、四ッ谷は小荷駄の多く通る所であるからである、一生のうち落馬四十八度門弟三千人有りて(実は千五百人也)世上では馬孔子と云い、大名高家貴賎ともに、その頃彼の門人ならぬはなかったと云われた。
都築平太
武蔵国住人都築平太経家は、高名の馬乗馬飼であった。
平家の郎等であった処から、鎌倉へ召捕られて梶原景時に預けられた、その時陸奥の国から大きくて猛烈な悪馬を献上したものがあったのを、鎌倉ではいかにも乗る者が無かった、聞えた馬乗どもにいろいろと乗せられて見たけれども、一人もたまる者は無かった、頼朝がそれを心配して、景時にたずねて見ると景時が、
「東八力国に、今はこれぞと思う者はござりませぬが、ただ今召人になっている経家ならば」
と申上げた。
「さらば召せ」
と云って召出された、経家は白い水干に葛の袴をつけていた、頼朝公が経家に向って、
「この通りの悪馬がある、その方乗れるか」
とたずねると、経家は、かしこまって、
「馬というものは必ず人に乗られるように出来ているものでござりますから、いかに猛き馬であるからと云って、人に従わぬ事はありませぬ」
と返事をしたので、頼朝も興に入った。
「さらばやって見ろ」
と、そこで例の馬を引出させた、誠に大きく高くして、あたりを払ってはねまわっている、経家は水干の袖をくくって袴のそば高くはさんで、えぼうしがけをして、庭におり立ったけしき先ずゆゆしく見えた、兼ねて存知と見えて、轡を持たせて来た、その轡をはげて、さし縄とらせたのを、少しも事とせず、はね走るやつを、さし縄にすがって、たぐりよせて乗った、やがてまかりあがって出たのを、少し走らせて打ちとどめて、のどのどと歩ませて、頼朝の前にむけて立った、まことに見る者の目を驚かした、それから充分によく乗りこなし、頼朝から、
「それでよし」
と云われた時に下りた、頼朝は大いに感心して、勘当ゆるして厩別当にされた、彼の経家が馬の飼いようは、夜半ばかりに起きて、何に知らん白い物を一かわらけばかり手ずから持来って必ず飼った、すべて夜々ばかり物をくわせて、夜明くればはだけ髪を結わせて、馬の前には草一把も置かず、さわさわとはかせてあった、頼朝が富士川あいざわの狩に出られた時、経家は馬七八匹に鞍置いて、手綱を結んで人もつけずうち放してやると従順に経家が馬の尻について来る、さて、狩場で馬の疲れたおりには、召に従って来る、箇様に秘術を伝えたる者は無い、経家はその後どうしたものか海に入って死んでしまった、そのあとをつぐ者が無いことは遺憾千万の事である。
小笠原大学兵衛
織田信長が鬼月毛という名馬を豊後の大友へ遣わさるる事があった、この馬の形相、よのつねの馬よりは、はるかに長延びて八九寸程あって、骨あがり筋ふとく、眼は朱をさしたようで、いつもいかり、常に噺き、四足をうごかし、歯がみをし、人をも馬をも食うので、鬼月毛と云うのも尤もであった、大友宗麟は、
「この馬を乗る者は無いか」
と云われた処、
「ここに、小笠原刑部大輔晴宗と云う者があって、元義輝公方の侍であった、その子息に大学兵衛と云って、究寛のあら馬乗がある、たれたれと申そうよりも、この小笠原大学兵衛で無ければ中々乗れ申す仁は御座るまいと存じます」
と別当雄城無難が申上げた。
そこで、無難が馬を引出させる、馬には金覆輪の黒鞍置かせ、紅の大ぶさに、しんくの縄を八筋付け、舎人八人、また鍍二筋付け両方へ引きわけ、十人してひけどもためず、大鐘をならすが如く、大声をしていばい、白淡かみ、おどり瞑って馬場へ入る、宗麟も出場し、諸侍その外町人以下までも見物に出るものが多かった、大学兵衛は六尺あまりの大男、ゆらりと打乗って手縄を調え、五方の口をひき、鞍の敷所、鐙の踏所、例式のとおりにして、序より早道に移り、浮掻足、長短の遠走、踏鎮足、この外手縄の秘術をつくし乗り鎮め畢った、宗麟をはじめ諸大名がどっと感じ入った。
誠に七町余の馬場を人の息四五そくつめればたやすく往来するほどの駿足である、その後馬を乗ろうというほどの者は所望して乗って見たが、十人の内一両人は腰をかけるけれども、足を出すまでは乗り得ないで止めた、残る八人九人は、気色におそれて乗るまでの事はなかった、雄城無難が申すには、
「常の馬を乗るは、我等なども、さまで替りたるようには覚えませぬが、この鬼月毛は、上手ばかりではのられませぬ、第一力乗りである、大学兵衛殿、ちからは馬よりもまし、その上上手であるが故に、かように乗れるのでござる」
鋳物師安河
江州音羽城に鋳物師の安河と云う者が籠って居たが、稀代の弓の上手で、彼が射る矢先に立つ者一人として命を失わざるは無かった。沢蔵軒は、音羽城から三丁程遠ざけて、本陣を取っていたが、陣の前に五尺廻りの柳の木が在ったのに、かの安河が射た矢で羽ぶくらせめてその柳を射通してしまったので、是を見る人々皆舌を巻いて擢れた。やがてこの柳の木を切りて城中へ送り、名誉の精兵と云って表彰した、これは応仁時代の事である。
即日印可
柳生宗矩が曰く「大剛に兵法はない」と、一日或摩下の士某が来って弟子とならんことを乞うた。宗矩これを見て「足下は、何事かもうすでに一流を成就されたお人とお見受け申す。委細を承った上で、師弟の契約を致すでござろう」と、その人答えて、
「お言葉ではござるが、私は武芸など曾つて稽古したことはござりませぬ」という。宗矩それを聞いて不興の面をして、
「信ては但馬守を嬲りに参られしや、将軍家の師範をするものの目鑑が外れる筈はござらぬ」という。その人「誓って左様なことはござりませぬ」と対う。「さらば武芸以外何事か得心のことはござらぬか」と問うに。その人答えて「幼少の時武士は命を惜しまぬが極りなりとふと存じついて、数年の間心に掛けた結果、今では死ぬることを何とも思わぬようになりました。この外に得心申したことはござりませぬ」と云う、宗矩大いに感心して、
「拙者目鑑の程少しも違わぬことがそれでわかった。拙者兵法の極意は要するにただその一事である。是まで数人の弟子極意を免るす人一人もこれなし、太刀を取られないでもよろしい、そのまま一流皆伝致そう」と云って印可巻物を即庭に渡したということである。
紀州南竜
紀州の南竜公も、聞えたる武術の達人であったが、嘗つて市川清長の宅に臨み、て庭に立たせ「腰帯」と名づけた備前長光の刀を以って、自ら大袈裟を試みたが、一罪人を引き紫電一撃極めてその妙を得、切られた罪人の身体が、そのまま立っているのを禰を以ってこれを突いたところ、始めて二段となって倒れた。左右これを見て斉しく嘆称したということである。
公常に侍臣に謂て日うには、
「明日にも何事か起って、まさかのときには紀州武士は必ずうつむきに倒るべし、のけざまに倒るる者は一人も無いであろう。この事は|関口魯伯《せきぐちろはく》に聞いたことだが、昔大坂の町家の二階で相討ちした者の死体を見た処、一人は仰のきて、一人は傭いて倒れた。あおのいたのはその状いかにも見苦しいものであるにより、誰人でも死ぬるならばうつむけて倒れるがよいと。実に魯伯の言う通りである。抑々討たれて侑むけに倒るる者は、勇気の溢れたるを示すものである。これ、身を挺んでて働くが故である」と。
柳生三厳と鳥山伝左衛門
柳生三厳は十兵衛のことである。幼にして家光に仕え、文武両道に通じた。父宗矩が十兵衛の武芸を試みんとして突然礫を打ったが、三厳これを受け損じて片眼を無くしてしまった。長じて新陰流の奥儀を極め、剣術ならびなかった。家光が九州の諸侯の徳川氏に心服せりや否やを知ろうと思い、三厳に命じて、狂気と称して家を弟宗冬に譲り、武者修業の途に上らしめた。三厳諸国を遍歴し、熊本鹿児島に居ること十年、精細の地図を製し、人情風俗を究めて帰ったので、家光が大いに喜び、厚くこれを賞した。三厳は狂気猶癒えずと云って、正木阪に隠居して剣術を教授していたが、相当の技術に達した弟子が一万三千六百余人あったということである。
酒井下総守も柳生三厳を師と頼んで兵法を稽古せられたが、或る時三厳が下総守を訪ねた時、下総守今日は小姓等を召出し、武芸の見物を致したいといい出でた、三厳直ちに承諾をして、代る代る出でくる小姓の竹刀を或は踏み落し或は飛び越え電光石火の如く、三十八人まで撃ちすえた。この時丁度酒井雅楽頭の使として、鳥山伝左衛門という者が参り合せたによって、下総守もそれを聞き心安き間の使であるから、口上も聞かず、先ず早くここへ出でよといった。この伝左衛門はことの外兵法を好んで、戸田清玄の孫弟子となり、戸田流を究めまた小野次郎右衛門について、一刀流を学んだ。けれど柳生三厳は天下一の剣の家である。それと仕合をすることいかがと思って出でかねていると、下総守何とて出ぬぞと怒ったので、やむを得ず、一尺七八寸の小竹刀を用意しつつ一足二足進み出ると、三厳が大喝して退いてしまい、
「仕合するに及ばず」と云ったので、伝左衛門はその儘次室に退いてしまった。三厳色を作して、
「数多の小姓の中に、かかる上手を隠し置きまぎらわかして、十兵衛に恥をかかせようとした」
と以っての外に怒った。下総守は申し訳をして、
「どうして左様な巧みをやなすべき、伝左衛門は己れの家来にもあらねば、剣法に長ずるとは少しも知らず、唯今他家より使者として参った折柄、最早出すべき小姓どももなきままに出したるものである」と云われたから、三厳も怒りを解いて、
「伝左衛門は殊の外小太刀に骨を折ったと見える。何人の弟子であるか」と尋ねた処、小野次郎右衛門の指南を受けたものであると答う。三厳曰く、
「さもありなん、拙者左様のものを見はずす筈は無い、次郎右衛門が弟子にもこれほどの上手は多くはあるまじ」と賞めたそうである。仕合もしないで巧拙を見分けたる手練のほど人々感じ入ったそうである。
(略)
諸木野弥三郎
諸木野(もろきの)弥三郎は宇陀郡秋山直国の家来であった、天正年中勢州合戦の時、敵織田信長の陣中に秋山を罵署するものがあった。弥三郎が怒ってこれを射たところ、矢は四五町を距ててその相手を貫きその上後ろの松の樹に突立った。信長大いに感賞し、その矢に物を結んで送還したということである。
根本武夷
根本武夷は鎌倉の人であった。
剣を長沼四郎左衛門に学んでその奥義を極めた外、常に云うよう、小より武技を好み、
「我が日本の人の長とするところは武術である。文芸は遠くこれに及ばない。故に日本開国の天皇を神文と称し奉らずして神武と号し奉るのである。そこで我輩も真の武人とならなければならぬ」と。
或時、師匠の長沼に従って厩橋公の席に招かれて行ったことがある。そこに、佐藤直方という学者がいて、長沼に向って語っていうには、
「剣は小技である。項籍すらも一人の敵だといってこれを学ぶことを徳としなかった。まして況んや項籍でないものをや」
武夷が傍らにあってそれを聞いて、自分が軽蔑せられたるが如く激昂し、剣道を侮る佐藤の云い分の無礼なるを憤ったけれども、一体その佐藤がいうところの項籍というのは何者だか一向わからないものだから文句のつけようがなかった。それから発奮して本を読まなければならぬと考え、そうして荻生徂徠について学問を習いはじめた。それは二十六の年であった。
幾何もなくして文学の方にも達し、文武共に生徒に教授し得るようになった。常に子弟に向って云うには、
「武術を修めようとする者は宜敷まず文事からはじめるがよろしい、然る後如何なる難問題にぶつかっても刃を迎えて自ら説くことが出来、武器の使用もはじめて神妙に至るのである」
武夷が或時、山井毘喬(やまのいこんろん)と共に足利学校に遊んで七経を校勘したが、それが伝わって将軍の覧に供せられ、銀十枚を賞賜せられたことがある。
阿部鉄扇
阿部正義(鉄扇)は越後溝口家に仕えて、戸田流柔術の指南役であるが、越後の新発田から江戸へ屡々御用状を持って使をしたが、普通十日間の行程三度飛脚でさえも五日かかるところを、この人は三日でもって江戸へ着くのを例としていたが、享保二年五月二十四日の昼九ツ時に出発して、二十六日の夜四ツ時に江戸の藩邸に着いたということである。
或時、江戸の町を歩いていると、路傍に見世ものがあった。それは、台の上へ自分の掌をのせて置いて、誰でも通る人に磨ぎすました小柄を与えて、これでもっておれの掌を刺せというのである。そこで、好奇の者や、覚えのあるものが小柄を差して電光石火とやって見るが、その時早く、掌は引かれてしまって小柄は空しく空を差してしまうのである。正義は人に連れられてそこへ行って見た。ところが、その者が正義の眼玉を見ると忽ち周囲にたかっていた群集の蔭に隠れて逃げ出してしまったことがある。その鍛錬の威力に圧せられたのである。
また、或時は両国橋の際に高く看板を掲げて縄抜けの術を見せるものがあった。そのものがまず観客に思う存分自分の身を縛らせて、それから、大きな布をすっぽり被らせしまって、その瞬間また布を取り払うともうさしもに堅く結えてあった縄がすっかり解けてしまって下に散り乱れている。見るものこれを奇なりとして黒山のように集まった。正義はまた人に連れられてこれに行って、では一つ縛って見ようと、型の如くそれを縛りからげたが、こんどはどうしても解けない。そこで、術者が憐れみを乞うて、どうぞ縄を解いて下さいと降参した。どういうわけでこの人の縛った縄に限って解けなかったというに、正義は結ぶ時にひそかに唾液でもってその結び目を湿して置いた為に解くことが出来なかったのである。
享保十四年のこと、九之助というものが藩のお倉所に於て狼籍を働き、何人も手におえないで弱り切っていた処へ正義が出かけて行って、赤手でもって発矢と一撃を食わすとその前額が破れて血を吹き、恰も刀を以って一割したような形であった。時の人がこれを称して「戸田の骨破り」といった。
宝暦年間のこと、溝口藩の捕方が大泥棒会津清兵衛、護摩堂大兵衛をとっ捕えて、これを江戸へ送ろうとした。ところが、この両賊共に手下のものが多くって、途中宿々で奪い去らるるの危険がある。そこで、役人達が正義を起して護送の任に当らせようとして命を正義に伝えた、ところが、正義答えて、
「もはや、吾等は老いぽれて役にたちませぬ」
といって、別に高弟近藤関右衛門というのを推薦した。正義が辞退したのは必ずしも老いぽれて役にたたないばかりでなく、自分が最早勤めを退いた後また、出かけるということになると恰も藩に人がないように見られるおそれがあったからである。
亀崎安太夫
池田光政の領国、備前岡山の磨屋町薬師寺へ、亀崎安太夫という柔術の達人が寄宿した事がある。追々聞き伝えて門弟となる者が多かった。然るに同国に住する浪士本間半左衛門(後号無雅尺八を能くす)という者が行きて仕合を所望した、亀崎が「心得候いぬ」と云って奥に入り、片足をくくり片手を帯に差入れて、片手片足で躍り出て、さらばお相手仕ろうと云った。本間は人を馬鹿にした仕方だと憤慨し、
「まだ勝負を試みないうちに、御辺は甚だ拙者を軽しめらるるは、いかなる次第」と、亀崎答えて、
「貴客の御不興は御尤もである。けれどもこのようにしても危くないという心当りが当方にござる故に」と云った。
本間は己れ奇怪な振舞い、いで門弟の面前で打廃し恥をあたえてやろうと、どっと走り寄りて亀崎を取りて目より高くさし上げた。さし上げられたる亀崎笑うて、
「是だけでは勝負にならぬ、これからどうなさるお積りだ」と云えば、本間、その儘曳という声とともに、打付くるを、亀崎中でひらりと返り、本間を一当てあてて打倒すと、仏壇の唐紙を打破った所を透さず飛びかかり、
「覚えられたるか」と云う、本間大いに感じ、即座に師弟の約をしたという。
(略)
戦場と武芸
昔から剣槍の上手名人と称せられるものが、戦場でその割合に功を成せしものはなく、鳥銃の達人稲富一夢の如きは、茅屋の中にて屋根の上の鳥の哺き声でその集る処を察し、あやまたず打ち落したという位の名人であるけれども、朝鮮陣の時に敵に向っては一丸も当らなかったといわれている。
北条氏康の家老北条左右衛門太郎は、下野の小山で敵の侍百人ばかりの中へ只一騎で乗込みよき敵二十人ほどを悉く馬で乗り倒し、その勢いで雑兵共百四五十の首を、続いて来た自分の臣共に取らせたことがある。
正木の剣術
橘南難の「東遊記」の中に、
正木段之進といえるは美濃国大垣の家中にて歴々の武士なり、この人剣術の妙を得てこの門人となる者へは鎖を授くることとし、京都杯にもこの鎖を伝授したる人多し、その外江戸杯には尤も多く、諸国とも門葉多く、この段之進剣術の事に付ては世間色々の奇妙のはなし多くして信じがたきこともあるに旅中にて彼の門人に親敷交りてその修行のあらましを聞しに誠に感ずべくとうとむべきなり、この段之進の父祖にや有けん幼年より剣術に心を寄せ日夜寝食を忘れて修行せし頃、一夜寝間の襖を鼠の咬む音に目覚て畳をたたきて追いたりしに鼠逃去れり、暫くして少し寝入らんとする頃また鼠来りて襖を咬む、また目覚て追えば鼠逃去る、心ゆるみて寝入らんとすれば鼠襖を咬む、かくのごとする事三四度に及びて段之進思うよう我気みたずして彼の鼠に徹せざれぱその眠るに従うて鼠襖を咬むなりとて、起直り座を正して一心に気をあつめ鼠の方を守りつめて居たりしに鼠ついに来らず、その後は鼠の音する度にかくのごとくするに鼠咬むことあたわず、後にはけたを走る鼠をも気を集てこころみぬれば落る程に成りけり、今に至りその門人気を練る事を稽古するに鼠の物を咬むにてためす事ありという、門人の中にも二三人はよく鼠を退くる程に至れる人ありとなり、いかなる猛獣といえども先ず此方の気を以て制す、敵人といえども立向うより先ず気を以って勝つ事也とぞ、この事は奇妙のように聞ゆれどもさることもあるべしとおもう、我学ぶ所は医術にも圧勝の法という事ありて気を以て禁ずるに積気を開かしめ或は腫物を押ならし又は狐狸に魅せらるる者を治しその外に奇効目を驚す程のこと出で来るもの也、その法皆正木の修行のごとし、又熊沢先生の書集められし書にも、敵をうたんとする人、その家に忍び入らんとすれば内に寝入りたる当歳の小児帰き出してその父目を覚す、折悪ししと暫しひかえぬれば小児もよく寝入りて家内静か也、又討入らんとすれば小児帰出す再三かくのごとくして遂に討つ事を得ざりし、是れその殺気の無心の小児に徹せし也とぞ、その理の論は格別、先の正木の修行に心を用いられし事を感ずべし、又彼の鎖所持の者はいかなる強敵に逢う時にもおくれを取る事なく、又いかなる猛獣盗賊といえどもこの鎖を所持する人には近付くことあたわずと云えり、是はいかなる事にてかくはいう事なるやと尋ねしに何人にもせよ正木の門人と成り鎖を受けんと願う時先ず誓約をすることとぞ、その誓約の辞、君に不孝なるまじ親に不孝なるまじ朋友に信を失うべからず虚言いうべからず高慢の心を起すべからず大酒すべからず礼儀を失うべからず公事にあらずしてみだりに血気にはやり夜行すべからず猶その外数々の条目ありて若し是に一つもそむくことあらば摩利支尊天の御罰を蒙りて武運に尽くべしと也、初めにかくのごとく誓うことゆえに、もしこの辞にそむく者はたとえ鎖幾条所持するといえどもそのしるしなく鎖の奇特を失うと定めたり、誠にかくのごとくなれば正大の誓約いと有難き鎖なり、聖人の道といえどもかくやあるべき、実に武道の奥義というべし、法華経の水火も焼溺する事あたわずと説き、老子の虎豹も牙を触るる事なしと教えしもまた是に外ならず、項末の技芸の上にてもその妙所に至りては有難きこと多し、されど尚その人に交りて親しく聞きし事ならば誤りしるせし事もあるべきにや。
伊庭藤太夫
池田武蔵守輝直の家来に伊庭藤太夫という強弓を引く侍があった。備前の国で、山狩をした時伊庭の方へ手傷い猪子が一文字にかかって来た、藤太夫大かりまたを打ちつがい兵と放てば彼の猪子の鼻づらから尾の方へ射抜き尚そのうしろの五寸廻り程の松の木を射切ったことはかくれもない話であった。或時また備中の国酒折の宮に百合若大臣(百人の力があるという)のくろがねの弓というものがおさまっていたのを藤太夫がその弓をうらはずから引き折りその後打ちつがせ、額木に伊庭藤太夫これを射折ると象嵌を入れて置いたそうである。
石突の働き
赤坂の芸州の山屋処の際の土手の下を通る草履取のような男と、槍を持たせた侍、伴の者の云い分から喧嘩になって、侍の連れた中間共は斬り伏せられ、若党共も手を折った、そこで、侍が槍をとって立ち向ったが、先方の男がなかなかの動きで、槍の穂を切り折られて、穂は土手の方へ飛んでしまう、そのまま先方の男は手許へ飛び入って来たのを侍が石突の方を取り直して胸元を突きつけ土手へ突きつけ置いて、
「家来共首討て」
といったので、家来共が又打ち寄ってその男をなますのように斬りきざんだということである。
竹刀六本砕破
渡辺昇が若い時は斎藤弥九郎の道場にあったが、或夜同じ塾生の御濠耕助と激しい議論をしたが、その翌朝二人が道場に出て竹刀を合せると前の夜の議論が竹刀に乗り移ったかとばかり激烈になり、一方が「君は昨晩の議論をまだ竹刀の先に出していないか」と呼ぶと他の一人が「そうではないが、そう云われた以上は二人共その覚悟で決戦しよう」と怒号奮戦数時間に亘り各々竹刀を砕破すること六本に及んだが、そのうち一人が、
「どうだこの辺で休戦しては」
と云い出すと、そこでカラリと両人が竹刀を収めて胸襟を開いてしまったということである。
侠客の剣
駿河の侠客、清水の次郎長は剣術を学んだことはないが、真剣の場合に一度も負けたことはない、その言葉に云う。
敵と相向って斬り結ぶとき、相手の剣がこっちの剣とかち合って音がするのをきっかけに一振り振って敵を斬れば一人として斬り倒せぬ奴はない。
根岸信五郎
明治の老剣客根岸信五郎曰く、
元来この剣法と云うものは身体の強弱、体量の軽重と云うものの外に存して届るものであるから如何に丈け低く力弱く体量の軽い人と雖も身体強大の人に対して決して負けを取ることはありません。世間では日本人の体格は西洋人に比較して遙かに小さいとか云う事を心配して何とかして西洋人の如く大きくなりたいと云うて心配する様であるけれども身体が大きいのが何も自慢になる訳ではない。小さい自体を以って大きな身体の者に負けない様に稽古をする事が一番便利な法であろうと思います、故に斯の剣道に達する以上は身体の強弱大小等に疑念を懐くのは至って愚かな話である。その例を挙げて見ましょうなら或時体量二十五貫目程有る大きな人が私と勝負をした事があります、その時私は僅かに十四貫四百目計りの体量でその人とは殆んど半分位の重さであった、その二十五貫目の男が云うには体重の重い人には到底勝つものでないと斯様言いますから私はこれは御前は左様思うかも知らないが、術と云う者があって、なかなか御前の思う通りに行くものではない、と云うと「夫れなら一番その術を見せて呉れ」と云うので私はその男と立合った、尤もこの男は撃剣は五級位は遣われる人でした処が、その男は私を倒す考えで初めは体当りで私に突き当って来ましたから私はヒョイと身を外しながら今度体当りを持って来ると私は一足も動かぬぞと云うと、その男は「何の」と云いながらまた当って来たが果して私は一足も動きません、何遍来てもそう云う訳であるから終にはその男の身体がヘトヘトになって閉口して仕舞いました。然るに私は何ともなかった。このような訳で到頭その議論は私の勝ちになりました。
またこの間今一度試して見ようと思って今の角力取の小神竜それと柏戸それから二段目の西郷この三人の男を私の伜の根岸資信に当たらして見た所が、最初は躰当りを以って来たので直に外して此方から足柄をかけるとコロコロと転ぶので、今後はヒックリカイしますと言って打付かって来たが矢張敵わないので三人の男も仕方がない「こんどは貴方を取りますよ」と云うて来るから此方は竹刀を以て体を引きながらヒョイと向うの身体を引くと矢張転んで仕舞う、二三度もやって見たが終に敵わないので終に惇の方が勝利を得ました。
かくの如く此方に竹刀を持たれると如何に身体の強大なるものでも必ず負ける、決して敵うものではありません。
また曰く、
「私が長年の間やって見るのに或は撃剣は脳が痛むとか頭を害するとか云う者がありますけれども脳が痛むと云うことは私の実験に依りますと余り感じたことはありませぬ、けれども只胃腸と云うことに大きに心配したのであります、過激の運動の後では腹が空く腹が空くから飯をウンと食うそれがだんだん続くと必ず胃腸病と云うものが起って来る、こりゃア余程戒めなければならない、運動をすればするに従って食物と云うものは減らして往かなければならない、第一運動する以前に充分に腹が膨れて居れば運動と云うものは決して出来るものではない、是がために却って腹部の工合が悪くなる即ち運動をして反って害になるものであります。であるから、三度の食事の量を定め運動をした後には必ず三十分か四十分経って極めただけの食物を食ベるようにするが宜い、鶏卵位の物は運動する前にそりゃア食っても宜い、ソコで運動をすると必ず咽喉が強く乾いて苦しいからツイ水を飲みます、それが極く悪い、息の治まらぬ内に水を飲むのは極く害になります。私は是まで息の治まらぬ中に度々水を飲んでそれがために命を喪った人を二三人を知って居ります、息のハッハッと云うようになった時には決して水を飲むことはなりません、その息が治ってから水を飲むのはそりゃ宜しい。
文を止む
杉浦重剛著「倫理御進講草案」中の一節。
「本来、武という文字は文を止むると書し、うる心中常に平和を祈願したりという」
平和を意味するものなり、又名工岡崎正宗が刀を鍛
挿話
幕末の頃、土佐に茶坊主土方某といえるものあり、性嘉落にして奇行多く又胆気あり。士分に列せられて両刀を帯す、曾つて江戸屋敷にありたる日、或る夜出でて和田倉門外を通過しける折、一人の武士に相遇す、武士声をかけて曰く「甚だ突然のことなれども、願わくは我れ御身と真剣の勝負を決せん。我は所願ありて既に多くの人々と立合い、幾十百人を斬りたり、固より辻斬りを為すものにあらず、名乗合いて勝負するなり、御身の心如何」言葉静かにして挙動沈着なり。
土方某は固より剣道を知らず、心中大いに驚くと雛も左あらぬ体を装いて曰く「御身の望む所は我れこれを諾す、然れども今主命を奉じて使する途中なれば、直ちに立合を決し難し、御身若し我の主用を果すを待たんには我喜びて勝負を決すべきなり」と。
武士曰く「善し、十分念を入れて主用を果し給え、我れ此処にて待つべし」と。土方「さらば二た時ぱかり猶予せられよ」といいて、再会を約してその場を去り、急ぎて神田お玉ヶ池なる剣客千葉周作の門を叩きて、面会を請えり、千葉の門生曰く「夜分にてもあり、且先生不快にて臥床せらる、明朝訪ね給え」と。
土方「いやく明朝を待つこと能わず、急用の為め主命を帯びて来れるものなり、是非是非許し給え」と逼りぬ。
門生奥へ入り、再び出で来りて曰く「先生の仰せには主命とあらば余儀なし、臥床中なれども苦しからずば御目にかかるべし」と、土方「辱なし」とて伴われて千葉先生の病床に至る。
先生「主命とは何事なるか」と問う、土方答えて「主命とは偽なり、許し給え」先生「御身は怪しからぬ振舞せらるるものかな」と叱責す、土方「偽りたる段は重々御詫を申し上げん、然れども御面会を得ざれば主命と偽るよりも更に主命を汚すべき大事ありたるが故なれば先ず一通りお聞き給われ」とて、果し合いを挑まれてこれを承諾したることの顛末を物語り「さて御恥かしきことなれども、我は未だ剣法を知らず、兎にも角にも討たれて死すべきに覚悟はしつれども、未練なる死に様して恥を遺し、主名を汚すを恐る、故に来りて先生に見え、見苦しからぬ死をなすの方法を問わんとす。願わくは先生、これを教え給え」
先生曰く「珍しきことを聞くもの哉、我れ幾多讐討の後見をなし、或いは多く剣法を人に教う、如何にして敵に勝つべきかを問わるること幾度なるを知らず、然れども如何にして死すべきかを問われたるは今日を始めとす、善し、御身の為に語らん、只今の御話しによれば、敵は頗る手練ある武士と見ゆ、縦令御身が今より必死に数年の修養を積みたりとも決してその武士に勝つこと能わざるべし、却って御身が剣道を知らざるを利なりとす、御身、心して我が言を聞け、彼の武士と相対して互に一刀を抜くや否や、御身は直ちに左足を踏み出して力を込め、大上段にふりかぶりて、両眼を閉ずべし、如何なることありとも、その眼を開くことあるべからず、梢ありて腕か頭か冷やりと感ずることあるべし、是れ斬られたるなり、その刹那、御身も力に任せて上段より斬り下すべし、敵も必ず傷つき、或いは相打ちになるやも知れず、この事決して背くべからず」と、土方唯々として拝謝し、一大決心を以って彼の門外に帰り来たれば、彼の武士悠々として待てり。「遅なわりたり」と挨拶すれば「いやく意外に早かりし」と答う、いよいよ沈着なる武士の態度なり。いざとて双方立別れ、一刀の鞘を払う、土方此処なりと、魂を丹田に込めて大上段に構え、両眼をひたと閉じたり、武士は梢離れたるものの如く、工、ヤと声をかく、土方瞑目して石像の如く立てり、心中今か今かとその斬らるるを待ちたれども、時刻移りてなお無事なり、不思議と思う間に「恐れ入った」と声す、その時眼を開き見るに、武士刀を投げて大地に伏す、土方また怪訝の念に堪えず、花然として語なし、武士曰く「恐れ入ったる御手のうちなり、我等の及ぶ処にあらず、就いては我一身如何ようにも処分し給え」
土方「土佐藩の武士は降伏したるものを斬るべき刀を所持せざるなり」
武士「一命をお助け下さらば誠に有難し、願わくば我を以って御身の弟となし給え、就きて伺いたき儀あり、我れ多年諸国を廻りて多数の剣客と立ち合いたるも、未だ御身の如き奇なる流儀を見ず、御身剣道は何流ぞ」
土方心中可笑しさに堪えず「否々何をか隠さん、我は聊かも剣道を知らぬものなり、先刻主用云々と云いたるは全く偽なり、実は千葉周作先生を訪ねて、死に方の教訓を受け、先生の云わるるままに為したるのみ」と微笑しつつ語れり。
武士日く「よし剣道を知らざるにもせよ、その決心を定め得たるは正に剣道の奥儀を会得したるものなり、我が兄として仰ぐべきなり」と。
土方「さらば夜更けたるも、千葉周作先生を訪ねて今宵の物語りを致さん、連れ立ち給え」とて両人打揃いて先生の門を叩く。
先生、事の始末を聞き、手を打って喜ばれければ、両人はその面前に於て兄弟の約を定め、爾後親交漁らざりきとぞ。
武士と相撲
尾州家の星野勘左衛門はまた大力の聞えある士であったが、或る日さる諸侯の家老の方へ行った、その家老は相撲好きで常に相撲取が出入りをしていたが、この日もまた相撲取が来合せていた。この相撲取は五百石積の船のいかりを片手で振廻す程の力であったが、星野勘左衛門にその相撲取と相撲をとられよと亭主が所望した、勘左衛門は再三辞退したけれども、強いて所望されたので止む事を得ず、取ることとなった。そこで件の相撲取は裸になって出て来た。星野勘左衛門は袴の儘、高股立をとり、大小を指したなりで立ち出でて来た。諸人が不審に思った。行司某が是を見答咎めて、
「相撲をとるに帯刀なさるという法はござりませぬ」
星野勘左衛門が答えて、
「拙者は相撲取ではない、武士である、亭主の所望によって合手になるのだ、だが武士の身として無腰になる法はない」
という、どうにも仕方がないので、そのままいざ取組まんとする途端に、星野勘左衛門は抜き打ちに相手の相撲取を大げさに切倒してしまった。見る人仰天している間に星野勘左衛門は、白刃を鞘に納め亭主の前へ坐し、
「武士というものの勝負を争う時は、斯様に致さねばならぬものと存じ候」
と云って、暇を告げて帰った。亭主は心の中では大いに怒ったけれど、何とも致し方なく、その儘にして止んだ、一座の人々が後で云うには、「星野勘左衛門の仕方尤もである、相撲取と武士たるものと勝負を所望するのは失礼である、全く亭主の誤りであった」
東湖の剣術観
藤田東湖の「見聞偶筆」の中にこういう事がある。
川路曰く近来試合剣術盛んに行われ一世剣術の実用に適する事を知れるは可賀事也、然るに近来試合剣術の中甚だ長きしないを以て片手にて刺突を専らとする事流行せり、試合も如此なり行きては実用に遠く形剣術と同日の論なり、さればその弊を矯んには人々双刀のしないを帯び槍を遣わせ迫りたらば槍を捨て、刀を抜き戦わしむる事を調練せば、甚だ長き剣の実用に遠きを悟るべしと嘆息せり、彪また嘗つて憂いを同じゅうするゆえ共に慨嘆せり、鳴呼可謂識鷺冬
支那人の日本武術観
揮刀如神
和冠の盛んなりし頃、明将の記文のうちに曰く、倭奴刀を揮うこと神の若し、人これを望めば輻ち擢れて走る、その長ずる所の者は刀法のみ、その鳥晴銃の類これ猶お我兵の如きなり、弓矢の習い猶おこれ我兵の如く、この外殊に称するに足るものなし、唯だ倭性殺を好む、一家一刀を蓄えざるものなく、童にしてこれを習い壮にしてこれに精し。
外人の日本国民性観
ケムプェル
日本人は、戦争に於て勇あり。確心あり。彼等は愛も憎も尊敬も軽蔑も子々孫々これを伝えて凡ての凌辱は必ずや報いられずば止む事なく、相手の一方が絶滅するに至って始めて偲止す。平氏及び源氏の争いはその例なり。
ツンベルグ
正直なること此民族の如く、しかも同時に勇桿にして自信力の強固なるものは他の加うる所の凌辱を黙許する筈なし。然り余は実に日本人の如く憎悪の念強く、復讐心に富めるものを見ず、彼等の胸に沸騰すなる憤怒の情は面にあらわれざれども、裏に熱して、絶えずこれに報ゆるの機会を待つ。彼等は凌辱や迫害に対して多く口答えせず、僅かに苦笑するか、または長くエ.エ.工と云うのみ。而もその胸裡の怨恨は、何ものと難もこれを打ち破ること能わず。敵に些細の非礼を与えて僅かに心の欝をやるが如きにあらず、陽には懇和を示して、人をして聊かもその禍心を包蔵することを覚らしめずして、終に機を見て厥然敵を撃ち倒すなり。
モンタヌス
戦いは日本人の頗る喜ぶ所なり。彼等の武器は鉄砲弓矢の外に刀あり。
刀は非常に能く鍛えられあればヨーロッパ流の刀身などは容易にこれにて切断せらるべし。
ジャン・クラセ
日本人の特に習練するものは武術なり。男子はすべて十二歳にして刀剣を侃び、これより後は夜間休憩する時の外は腰間の秋水を脱せず、寝に就くの時と錐も、尚枕頭にこれを安置して、睡眠中と難も、曾つて武事を忘れざるを示す。武器は剣、短剣、小銃あり、弓箭あり。その剣は精練を極めて鋭利なること、これを以ってヨーロッパの剣を両断するとも刀口なお疵痕を残さずと云う程なり。日本人の風習かくの如くに武を尊べば、彼等は刀剣の装飾に深くその意を注ぎ、これを室内にも拝列して第一の修飾となす。
フランソア・サビエル
第一、余の考えにては、日本人程善良なる性質を有する人種はこの世界に極めて稀有なり。彼等は至って親切にして虚言を吐き、詐偽を働くが如きことは嘗つて聞きも及ばず。かつ甚しく名誉を重んじ、その弊は却って彼等をして殆ど名誉の奴隷たらしむるが如き観あるに至れり。
(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)

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