新吉原細見記考・新吉原略記・青楼年略考・関原軍記

人国記

五畿内五ヶ国

山城国

山城之国之風俗は男女ともに其言葉自然と清濁分り善くて、譬ば流水之滞ふる事無ふしていさぎよきが如し。世俗に其国風は其水を以知ると云事誠なる哉。城州は其水潔ふして万色を染むるに其色余国にはるい違へる事氈従古至于今如斯、人之膚之滑成事亦如斯、女之姿音声之尋常なる事ならふ国なし。然ども武士之風俗不好、事中々不及子細也。其所以考るに王城之地にして、常に管絃之楽を翫ふ事を見馴れ、或は商売之人等は遠国波島までも偽を以て実とする習なれば、殊に王城の地如斯し。
されば常に実を忘れて虚を談ずるを以て世を渡るを本とす。たま/\実儀之人有といへども其邪に推かくされ、或は其実を隠して其風儀勤る之類有と見へたり。如斯之武士千人に一人なれども、是人も後は如形之悪き形儀に成なり。然れば總て此国の風俗実を用勤る人すくなき故、不知義理也。不知義理が故に勇臆之儀を沙汰すれども余所の事に心得る故也。此気質を不離也、自然に好き人有は。   口伝  

大和国

大和国之風俗表郡は人之気大形名刹を好むもの多ふし。奥郡之者は隠る気有之、蓋し此国之人は大体山城之国人に風俗似たる処多し。昔日王城之地と成が故に其風俗漸く似たる処多しといへども、山城之国より人之気少し、尖成所有。雖然表郡者名刹にかゝわる人多く而常に詞に偽を巧みにして、上分は巧みすくなふ而名を挙んことを願ひ、下劣は於言句之下而偽を述て両舌を吐く風俗也。若是国之人を味方に従はしむるには讒者を以て人之気を可分名刹無き則は速に分つ。亦奥郡之人は隠るゝ気質自然と生れつきたり。是は山深く而常に人倫に交道理を談ふる人も寡ければ、自を如斯に而道理を不知風俗也。
自然に実を振舞ふ人は猶以て隠遁之気発し、世を無き物となす。形儀をのみ見聞が故に如斯之風儀多し。されば古より芳野山奥は人の気五畿内之人に勝れて、いさぎよき也。雖然物之形儀を不知が故に智あつて道理に従ひ、謹とはなけれども邪僻之為に驕を禁ずるもの也。故に自を愚成人多し。若是を取をば、其威を仰て気を悦ばしめて、我が国を全ふ而国人を不労而自を愚を行はせよ、さある時は陰却而陽に変じ、驕奢之気出るものなり。都而名刹名聞につながれて気質に勝ちたると可知也。千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり。   口伝

河内国

河内国之人は風俗上下男女ともに気柔にして、譬ば雪之朝に庭前を見れば一楊之枝をたをますと云へども不折が如し。上手之風俗と可知なり。然れば士農工商どもに富貴成人は都而驕り之気有て人を足下に見いやしむ心強し。雖然気に和有が故に物之道理を知る時は名高き人も有るべき也。上河内郡は城州に風俗不替也。下河内郡は人之気直に而頼母敷き処有。丹南群石川郡錦部之人は別而余国に違て智恵有て物之品あり。
言葉之様子は城州に似たる様なれども、上下どもに毎物卑劣也。此れ是国之人をなびけんには其政をゆるくし気を同ふ而少し弁有人をまねきて談ずる時は危きことなく可従。若し権威を振ふ時は悪む処之者多かるべし。己が長を立る時は必妬起り、禍をたくむ故に却而敵となるべし。亦自を言を出て人を誹る時は還而是国之人はいきどをり深くして従ふやう成ども服する処なかるべし。寔に其国其濕土に因て音声之替ること可知事也。

和泉国

和泉国之人は風俗且而実儀なく、最千人に一二人は実儀之人もあるべけれども、都而物之上手成もの無之、増而名人と云ほどの者鮮し末世もさ有べし。本此国は河内と紀伊国より割り出したる国と聞く。先其風俗を見るに人をたぶらかし、出家沙門他国之商売之人等金銀等をたくはふると見る則は、関東之人之人を殺害するの類は無ふ。而懐けて後に品を以てかどわかす羅之風儀なり。根本に実義すくなきが故に譬ばかみそりのかね悪きを如見が也。
人前行跡は如形見ゆるといへども、彼のかみそりのはがね少なきが如き故に、後には可用様なきに等し。たま/\実儀の人有といへども国風之垢を削る人無き故に、身持墜弱に而踏しむる心も後は大形失ふ也。石津神馬藻鹽船乗りは余国を傾けん事は五日之内也。威を高く振卒法を以て是を動は不可経数日也。次に癩瘡人多し。篠田明神に野狐多し。此狐人を能くたぶらかす事を得たり。されば此国は唯野狐に衣服をしたるに似たり。不頼也。別而和泉の府日根悪し。

摂津国

摂津国之風俗、山城之国に似たり。一圓不可好也。先武士は町人百姓のなす所を我が業と覚て是を真似、而も其当然を勤る処は武士之業之様なれども、武芸を学ぶは渡世之為光陰を送らん所作也と覚ゆる風俗にて更に武士之武士には非ず、而偽り諂ふ類之人多し。亦町人は武士を真似己が実に勤る身にあらざれば、譬ば座敷之置合に兵具をならべ置ていんけんを吐き、亦は刀脇差を拵にも異風に作りて金銀を費し、己が業をば如形大様にもてなし、百貫之身体之者は千貫も持たるやうに有徳顔して己も身上を滅し、人にも損をかくる風俗也。
雖然北郡之者は実儀少有武士もはげしき処有て諂ふ心すくなしといへども国風をまぬがるゝ事なくて、百人が九十人は欲心深し。是国の人を傾んには威を専にして金銀花飾を以て是をなびくべし。思ひ詰たる心なく、我々かち成風俗故に欲にふけり威に恐るゝ形儀也。されども和泉之国にははる/\まされり。若柔に而示す則は威を奪はれ、還て害と成べき国風也。大和山城河内之はづれの国成故に四ヶ国水土集りたる風俗なれば善事も有て、亦悪き事も有といへども惣而之風儀柔弱虚談之国風故武は用るに不足也。雖然間々義を弁ふるものも可有とは北郡を差ての事也。   口伝

東海道十五ヶ国

伊賀国

伊賀之国の風俗、一圓実を失ひ、欲心深し。さるに因て地頭は百姓をたぶらかし、犯し掠めんとする事、日々夜々也。百姓は地頭を掠めん事を日夜思ひ、夢にだに義理と云事を不知が故に、武士之風俗猶以不被用也。

伊勢国

伊勢国之風俗は、南伊勢、北伊勢とて有之。同じ国之中にても南伊勢之作法は諸人の心入土にて作りたる器を漆を以て能くぬり、其上を金銀を以て色どりたるに不異。誠に毎物詞之体はしおらしく、柳の枝に雪折なんと云心にて、山城之人同前なれ共、心底は飽まで慾深く、親は子をたばかり、子は親を謀事を以て本とす。実少もなし。心万事に付てきたなき意地に而侍も、入きたたく下々を情なくつかひ、愛する心は微塵も無之。亦下々は主を当座之光陰送る為に頼みにするとのみ思ひて、主下之法之弁も無きは、偏意地きたなきより発りたる事也。諸事頼無之也。偖亦北伊勢之風俗は南伊勢とは替りて、人の心能き所も多し。
是も譬を以て是を云に、雑木を以て万器を作り、其上を漆を以荘ひらるに、不異。然者土を以て作りたる器を漆を以て荘ひたるよりは、はる/\違たるものなり。是に因て侍の風儀もしをらしき処有て、義理も知りたれども、根性之処は雑木を以作りたる器之如なれば、根のとくる人鮮し。都而上方之内別而京。伊勢の風儀女人之形荘最善し。男は心不定、而頼すくなし。乱世之時は昨日味方たりし人も今日は敵となり、主は被官に被見放、子は親を捨て敵と成の類は南伊勢之風俗也。北伊勢は約而違ふ事あれば、赤面をなす。意地あれば義を以是を可看。南伊勢は違乱、威厳を以是をしめさば、即時に可傾也。熨斗海蘿は天下に名高し但し。  口伝

志摩国

志摩国之風俗、凡そ伊賀伊勢に替る事なく、侍は兵器を身体よりは結構に而我館にならへ置き、諸朋友に見せて、己も驕の気を内に含み、人もさげしみ、我をあなどる事上下ともに皆如斯。下々は夫に応じて意地きたなし。不及書記之也。

尾張国

尾張国之風俗は、進走之気強く、而善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそみ、我が親き者之善き事少しあれば、大分に能き様に云成。悪き事あれども夫を異見を加へ後来之過ちなき様にと有志なくて、共に推し隠して人之非を揚て、夫が悪よりは軽きなどゝ談ずるのみにて、邪智我慢第一。強く人を足下に見なし人の善をけし、我悪を隠すの類にて、万事根のとくる事無、唯大風洪水之出るが如くにて、根にしまる意地すくなし。雖然形儀勇気のきひしき処あれば、伊賀伊勢志摩三ヶ国合たるより上成所有古より秀る者も有。下劣之心底猶以かたくなし。然る故に善に進む事寡ふ、而悪に従ふ事強し。去るに因て謀反一揆之類発する事ども古今多し。飾気すくなき故に、実儀之人も多くして、悪を見て悪と知て改る人も有。中の風俗之国也。男之言葉好し。是国を治るには処々に党多、而地下人も党を結び我慢のさむることを不尽、而傾く事比を可経乎。其党類を懐け正道を以是を教へ、邪義を不誹して恩を加へ、是に談ずるに礼をあつく、而威をはげまし与之、節を考へ是を示に、節を以して、后に善を全く知て合一すべし。無左して、一応の威光厳を以て是をとりひしぐとも、亦本に可帰視、其機気察、其未発、而后に是をぬくは良将之法也。此国には別而  口伝

三河国

三河之国風俗、気勝て人之長け十人に七八人のびず。其言葉いやしけれども実義也。人と物を談ずるに其事とげぬと云事なし。若し違却する事あれば、其子細を理る。風俗に而子は親をはぢ、親は子を恥て虚談する事を禁ずるといへども、偏屈に而我言を先とし、人之述る処を不侍、而是を談し、命うぃ終之族多し。亦自然と気質之邪僻すくなき人も有。我心を知て吾に勝、人あれば諸人是を崇敬する形儀也。別而北三州之人尖なり。尾州に隣るといへども、その気質亦勝たり。武士之風儀善多して悪すくなし。女もけなげにして恥を知れり。

遠江国

遠江国の風俗、三河に不異、而人之気何事に付てもひるむ気なし。さるに仍て可死処と見る。則はたとへ節にあたらずしても死をする人多し。雖然三州に替りて物を頼にする気有。因茲諂ふ気質あらはれて見ゆる儀事々に付て如斯。されども昨日味方になり、今日敵に成如く之儀はいかゝ頼む程の儀有とても有間敷き国也。唯己々が智を以、下より上をはかつて我を不知、而上下ともに主之善悪を下として誹謗して、而も夫を諌る事なく、党を立て他を求ん事を好む族の風俗也。智慧あって気尖成故、善に近し。何事に付にも、明日とのぶる事の不成風俗也。嫌ふ処も多し。一国之内にても東よりて、一入かくのごとくなり。

駿河国

駿河国之風俗遠州に替り人の気狭く、而も実寡し。然ども気狭きが故に伸る心すくなく、気之屈する時は取なをす。而命を終るもの時々成故に、思ひ詰たる時は気一和する故に、片たへなき所有。雖然常に諂ふ事なく、而毎物に気を付、思慮深くしてぬきんずる者すくなく、人に従ふ心大分有て、義を思ひ詰て立る人は小分也。都而いけん多く、而吾は人を誹り、人は吾をいやしむ風儀更にしまりなき国也。去るに因て一国一和するといへども一郡一庄一郷に気質之公成人希に、而慾深し。是国を静めん事旧悪を不数、而其悔る処之事を不糺。唯其勢を高く振ふ時は、心気とろけて旗を巻くこと日を不可期也。

甲斐国

甲斐国之風俗は人之気質尖にかたくへ也。意地、余国を五カ国合せたる程不好国に而死する事を不厭、而傍若無人之事多し。因茲上は下を苦め、下は上を不敬、而下臈に少しの過ちあれば主則是を罰し、主と而下へ非道あれば大身は忠信を専と而諌をなして本意と云二字を忘却、而怨を含み、小身下々は則ち憤を発、而害を近く設け、都而道理を不弁して無道なれども、其勇気甚巧にして死を事とせず、而けなく成事譬ば於軍陣親眼前に討れぬれば、子是死骸を踏越て、共に討死をとげ、子亦討れぬれば親亦如斯。去は人之本は勇を以て初とし■を以て後とす。然は其機に当る人を遣、而厳に威を正く、而其正改を教るものならば、自然と道理に帰服する事も有べきが、其善一に其悪十也。此国生沢之鮎題目石名高し。

伊豆国

伊豆国之風俗強し。中之強にして其気に乗る時は強し。其気に不乗時も強し。是は国風とは云ながら、気質之禀る所都而清成所を自然と得たるもの也。雖然一花気に而今日はたがひに命を投うたんと約する所の人にても少しも違、有時は数日之約を一時に忘れて、俄に亦遺恨甚た強く而大敵と成てあだを施さん事を常にたくみにする風俗也。然故に人皆気一流にして亦各別也。是国をひきゆるには耳目より而是を覆せしむべし。気は皆天気にして陽也。陽は升る也。されば忿り、深きものは名刹を好むもの也。いかにも随て是を可服也。 口伝

相模国

相模之国は風俗豆州ににるといへども人の気、転変仕安き所也。栄る人には縁を以てしたしみ、今日までなれし人にも不得。時而蟄居すると見る則は遠り、無科人にも科を付てそしりなし、非有る人にも時めく人をば馳走して是をほうひし、常に栄花を好み、好味を求て酒色を翫ぶ風儀、十人に八九人如斯也。因茲主は被官に被、放被官は主を捨て、今日まで傍輩と成し人をも、明日は主君と仰ぎ、主が被官になり、被官が主に成風俗也。而も智あつて智に迷ひ、義に迷ふ。誠に悪を備る風俗也。

武蔵国

武蔵国の風俗くわったつに而気広し。譬ば秘蔵之道具を過ちに因て損る時は、其者之哀むは最成に、其主且而後悔の気色なくて、結句夫に恩を与て情を深ふする類之心也。子細は秘蔵之器をたくみて可割様なし。吾も人もあやまちするは無念也といへども、とかむるは亦此方之過り也と思案、而名人之風俗也。因茲軍に合ふて敗軍するといへども、敢て其気を不屈、而能く気を改めて敗軍之士を厚めて出陣するの類也。凡そ気に乗と気に後るゝとは雲泥万里也といへども、乗も後るゝも亦しいて可也としがたし。只道理に因る時は気に乗じ、不可成時は己が非を知て承、而制するを上とす。然ども是国風尤いさぎよき風俗也。次に気広きを以て驕る気強し。

安房国

安房之国の風俗は人之気尖成事、譬ば刃の如く、和すること寡ふして、常の作法もかたくへなり。唯人は男女ともに死する事を手柄とのみ覚て、仮初の付合にもたがいに歯を抜き一同之思案にて大形万事思案工夫分別する事不成也。其内にも気質之稟る事能く生付たる人もまゝ有。此国人は言葉溶、卑俗なれども根源に正き所を生得たる上に道理を分別したる故、一旦は尖に見ゆるといへども、武士は武士之上に備る程之器となり。農工商ともに皆是に準へ、而可知。然ども如斯之人は多く無之、而只気質につながれ、漸く理非を少弁ふる人のみ有。さ有るに付て、かり染に執行ふ事も我が生得之気に任せて、執行ふ故に手強く、而堕落なる事稀なり。学者と云人も今不見は、其風流に随て自然と勤るものなり。

上総国

上総国人之風俗、大体安房に替る事なし。雖然此国の人は別而気質偏屈に而、其勤る所諸民ともに常に山賊夜討を本と覚へて、正道を知る人百人に九十人無之。雖然其けなげ成事関東二番と可尖風儀に非ず。されば勇を内にし、智と和とを外に而是を勤るを以善とす。然に此国の風儀勇を先きに而智を後にするといわんや。最智勇兼備の人有と難云。唯気質に勝て、勇を強く行ふ風俗なり。危き事のみ多し。

下総国

下総国の風俗上総に同じ。然れども結城人は律儀に而一国之内にも珍敷きことなり。

常陸国

常陸国之風俗、如形不可。然而唯盗賊多して夜討推込辻切等をして、其悪事顕れ罪科に行はるゝといへども、恥辱とも且て不思。結句至其子孫には病死などは不為などゝ一つの系図に而盗賊するを微塵も非義非礼と云事を不知やうの風儀にて、唯肝胆之間逞く生れ付て如此と見へたり。武士之風儀も是に不替、而道理を知る人少し。たとへ知といへども我意にまかせて執行、故に理に似たる。無理義に似たる不義のみ多、而更に善と難云。世之唱ふるにも、常陸国を差、而全き人なき国と呼り。昨日味方にて今日は敵と成の風儀は千人に一人もなし。若し国風之垢をけづる人あらば、天下に名を呼程之者なるべし。

東山道八ヶ国

近江国

近江国之風俗は賢佞之間を兼たる風儀なり雖然賢智之人を聞く事なし。佞人多かるべきなり。身持上手に而人に非を可被討事を言葉に不顕、而隠非而善を説く、然る故に心を不付、而是を見るときは一段この国の人は惣而きはだち、余国にすぐれたりと見ゆるなり。是をたとへて以論ずるにかねにをなじ。かねには金有銀有銅有鉄有錫有鉛有。みなかねに而みな格別也。さればこの国風、かねといへば結構のやうなれども、金にあらず、銀にあらず、たゝ銅鉄鉛錫のうち也。是を以是を見れば、この国は半佞人と可知。佞人は必利根利発利口に而言舌は賢人にも劣ることなし。吾愚に而賢佞をしるべきやうなし。唯善悪言行を案而可知也。  口伝

美濃国

美濃国之風俗、其意地きれいに而、たとへば水精のことしざれば、水精も不磨は光り出る事あたはず。然ども根性をよく生付きたる風俗は、必垢をけづること早し、而能く道理にしたがふ。雖然西美濃は人之風儀柔に見えて徹する処之物鮮く言舌風流に見ゆるなり。東美濃は生得のまゝに而木地なり。日本の内之風俗四五ヶ国の内なり。されどもところから気しつになれたる風なれば、いやしきことも多く有之也。直成が能きとて人の手足の曲るは亦其理之上の直也。如斯の節にあたると云事を知りたる人は百人に七八十人は無之而、たま/\一人にてもこの理に達する人あらば、名高成べし。され共勢強ふ而国風之手本ともなるべきほどの人は稀なるべきなり。

飛騨国

飛騨国之風俗は律義に而愚也。其愚とは日本は広といへども此国に越たるはなきと覚る人百人に九十人如斯、因茲我国より他邦へ出る事も嫌て、唯、井中之坐より天を如窺なる形儀なり。武士之風俗も唯我領する処之所知を十分に覚て、是に上こす事あらじと思ふの類にて、かいきう不可然也。誠に山中之人等最かく有可也。但生得は石鉄之性とも可謂也。

信濃国

信濃国之風俗は武士之風俗天下一也。最百姓町人之風儀も其律儀なる事伊賀伊勢志摩之風俗に五畿内を添たるよりは猶も上也。所以者義理強く而臆する事なく、百人に九十人は律義也。たま/\臆病成者有といへども夫も他国之如形之人と云程には有らずして、たま/\の物語にも弱みの比興の事は無之、若し比興の事を述べ亦なす。則は、人皆是を悪て不交。故柔弱之人も後には義理を知りて国風と成なり。都而智恵も余国よりは勝れたり。然ども偏鄙之国成故に、かたくへなきことも多しといへども善十にして悪一二之風俗也。

上野国

上野国の風俗は碓水、吾妻、利根三郡は人之形儀信州に似たり。亦、勢田、佐位、新田、片岡四郡は風儀信州より上分の風俗也。然ども詰る所之意地少、信濃よりは不足也。其譬を云に、人之気上分成。故に免す所の気有て我と我が非を少き也と小罪を免じてなすが如し。小罪をなす時は、後大罪に及ぶ事眼前也。然れば信濃の風俗上下ともに弓箭を取れば負て気の屈する事なく、亦出て先悔をすゝがんとはげむが如く此国は二三度も如斯なれども、後には理非を談じて不入。剛気なれば人数を損せんよりは戦を可止などゝ半より能分別発て差置く等の風儀に而しまりすくなく而。亦、邑楽、群馬、甘羅、多胡、緑野、那波、山田等之郡の風俗は、一気勢に而一人気をはけませば、諸人気を一に而一同しぬ。一人来を縮め気をくぢかれて退く気は諸人其気に同ずるの類の風儀也。雖然根性は徹したる心あれども気質の変につながるゝ事余にこへたり。

下野国

下野国之風俗多くは気質に清之内之濁を得たる人多して、其清濁流通する事なく、而邪気甚く傍若無人に而、常に業とする事辻切強盗之類にて、少も耻る事なく、慾心有てつれなく、而も悪を知て直なる事を不用、如形風俗悪し。然ども其気の強き事は上方の国五ヶ国七ヶ国合たるよりは猶も上成べけれども、更に理非を弁る事なきが故に、法外のみ多し。子細は理非くらきが故に、耻を知る事鮮く、亦耻ましき事にも耻るは其闇きが故也。如此人百人に九十人也。取分、芳賀、寒川、塩屋、那須、真壁之人如此也。

陸奥国

陸奥国の風俗は日本の偏鄙成故に人の気の行詰りて気質のかたより其尖なる事万丈の岩壁を見が如に、而邂逅道理を知るといへども、改て知ると云事すくなく、たとへ知るといへども江の水の流なくて塵芥之積りて清る事なきが如し。さるほどに名人の名を呼ぶ程の人は不得聞を也。末代以て如此成べし。右之如之気質故、頼母敷ところ有て、亦なさけなき風俗也。五十四郡の内いづれも二つ三つに少づゝ風俗分れたれども、大枢に替る事なく如此。
此国の人は日の本の故也。色白くして眼の色青き事多し。人の形儀いやしふ而、物語卑劣なれども、勇気正き事日本に可劣国とも不被思也因茲也。朋友無益討果、主君へ志を忘、父母へ孝を忘などする類不知其数。雖然男子上下ともに勇を以て本とする処なれば、偏鄙偏屈なりといへども潔き意地あって耻を知、故是を善とす。女之風俗色白くまみ長く、而其顔色もうるはしきといへども、其形儀音声更に述に不及して悪き也。此国の上臈と上方の下臈と其甲乙を云ふに上方の下臈女房にも嘗て不及也。然ども心底はやさしく情有て気の正き事も上方の男よりもはる/\上なり。
惣而此国出羽、上総、下総、常陸、上野、下野之類大形は人の音声上は拍子也。然る故に心に佞成事なくて差当る所之儀のみ大形に勤ると可知。然故に毎物至て思案工夫分別する事鮮き事千人に九百人如此也。若又智有て気質之変を去らんと志し勤る人有といへども其理之内之陽を取て以て是を用てなす故に、何事も強身なり。取分て牡鹿郡、栽鹿、角階、上津軽、宇多郡之人は兎角そこつあらましなる風俗なり。

出羽国

出羽国之風俗は奥州に大体不替也。然ども奥州之風儀よりは律儀なる処有て知も亦上也。武士は我主親へ忠孝之志有て、下を使ふ之法を沙汰し、下臈は上をうやまふ心有。百姓は地頭を頼む心入有て、他之村郷之者我頭を誹るを聞ては、則勝負を付るの類にて、寔に頼母敷しほらしく有之所多く有也。蓋し此国之者都而我国は遠国偏土に而かたくなき国風成。故耻け敷き事などゝ云風俗なり。因茲奥出両国之者は四民ともに礼厚きなり。本奥出の両国は一国を割り出したる国と云伝へたり。

北陸道七ヶ国

若狭国

若狭国之風俗、人の気十人は十人一和せず、而思々の作法也。今日親しみ有て、明日は其親みを放れて、其人の悪儀を人に触知らするの類なり。誠に九思一言之語に甚だ違たる国風也。さるに仍て下と而は上みを欺き、気の怠り有、上より其罪をとがめられては己が科を隠し、非道のやうに云なし、我が非を不知にも非ず、而如斯なる事まことにいやしき風俗也。然ども取廻し利発成国風故に差当る問答などには如形弁舌能く一花は気勢に随て振舞ふといへども、根をとげてしまる意地無之、中途に而止むの類也。されども伊賀伊勢両国にはまさるべきか、三方郡は江州之風俗也。

越前国

越前之国の風俗、日本に無双智恵国と覚たり。是上臈より下臈に至まで他の国に分つ。而見る時、如此之弁舌尾州にも劣るまじき国なり。さるに仍て高慢にして底意地悪敷軽薄に有之。一旦頼母敷やうにて語る処つれなく、譬ば人を過しめ、走り入て頼む時は心安く請合て、詮儀頻り成時はつれなく突放し、或は旅人之渡りに舟を求れば、あたいの甲乙にて舟を不渡。亦は執行暮て宿を求るにも余国に違て万事つれなく、如此成作法百人に四五十此如なり。智有て智を発つ。而諸事に闇き事なく弁ずるに本智とす。是国の人は智有て邪智をゝくして義すくなし。

加賀国

加賀国の風俗上下ともに爪を隠、而身を陰に持つ中にも、江沼能美如此、石川川北之郡はすこし違て気のひやか也。蓋し武士の風俗をとなしやかに有て、尖成気なく、温和也といへども、武士の上にて秀る事を差て不顕。唯たゝみの上にて調儀を以て身上を上分になさんと思ふ気質之多き事百人に五十人如斯。譬ば他国に合戦亦は堺目論之軍有といへども吾国全ふ而出る事もなく、我国に差向ものあらば不得止事而戦もの也。戦国のうち迚も人の国を無故奪んとするは、盗賊之類也と諸人覚悟を究て賢人風の形儀成ふるまい也。亦諸事之道に付、吾国より外に差て替る道理も有ましきなどゝ他を求る気無、之風俗に而諸事に泥み安く、何の道にても是に従て学ぶといへども、やがて其気屈而半途より捨るの類多し。されば其気を流通而克己之工夫から不入して自然と怠りの気になれたるもの也。都而諸事此国になす処より外は、他に有まじきと思ふ意地なくば、深く学ぶ志強かるべき故、天下の定規とも可成国風なるに、最気質之如、此事浅猿し。

能登国

能登国の風俗は別而人之心持狭くして、譬ば一足他へ踏出す時は則渇命に及と思ふの類多し。因茲我主つれなくあてがふにも、誰々も渇命つなぐべきために、奉公を勤る風儀に而、引放たる意地すくなし。雖然武士一身常之覚悟は如形なりざれば、是国より他へ踏出る程之器量の族有て、他出する時は必可秀なり。不出時は国之棟梁と可成人也。若又他邦せず棟梁とも不成蟄居するに於ては、自然と悪意を企る如くの風俗あるべし。偏固にして道理闇く而も驕之気有之。

越中国

越中国之風俗陰気の内に智有勇有侫成処多し。人と物を約するにも親は子の云ふ事に一言之内にも質をとり、子は親の言葉を質にして、譬ば親之利物を機嫌を以是を取、親死する後には是家督親の譲などゝ侫を作る事士農工商皆此風儀に而、親子夫婦兄弟朋友之交りにも卒爾に而底意に卒爾成事なき也。さるに因て毎物大事にして大事を破る。軍に逢ふ時も智謀を以敵を取ひ、しかんとのみ工夫するといへども人之気を知る事あたはざるべきは、其智の不足事を不知而人に勝つ事邪侫を以成りかたがるべき也。如斯之風俗都而、我にほこる意地有。勇気甚けはしき故也。雖然臨事不厭死。

越後国

越後国之風俗千人が九百人に負る事を嫌て、勝つ事を好み、仮初にも勇を嗜み痛きと云事をはがゆきと云、途中にてつまづきて倒れ痛きと云事を不云而意得たり。餓鬼目抔と幼き者の育にも教る風俗に而、さしかゝりたる意地多く後道のつまりを不考人多し。さるに因て臆する気の人寡く而、差かゝりたる分別のみにして義理の心強く、主は被官を哀み被官は主を頼み、意地殫麗なれども物の理に至る人鮮ふ而其執行之道に赴く人無之と見へたり。故に名人と名を呼人すくなかるべし。去程に勝事を好む時は必我が非を不知る者なり。唯我善悪を知て、道理に従ふ志あらば、無雙国の風俗なるべきを尤残多き事なり。

佐渡国

佐渡国之風俗越後に似て人の気狭く而、伸やか成事不克而心愚也。
意地強しといへども善としがたし。

山陰道八ヶ国

丹波国

丹波国之風俗は人の気惰弱面々格々にして十人は十様に而、我が身を自満し、人を誹り、人之誉とはせず、而余之人之夫より誉れ多きにたくらへて、是を誹るの類にて、悉皆女人の風俗に不異下劣を従て、己が日夜勤る処の耕作の道は、第二に而商売を本とする事偏に身之栄花をせん事を常にたくみ、 都而勇寡ふ而滔(正しくは言偏)強く昨日味方に有し、人も今日は敵となり、而前になり替り渡世する類之風俗最哀れ成形儀不及、是非事とも也。雖然自然に能き人出生せば、気の柔なる意地より成立風儀なれば、雙ふ方も出来べし。天下乱れて是国をおさめば、五日之内に可従なり。

丹後国

丹後国の風俗、上下男女共に千人万人之内に過ても一人も好人稀也。気質不直而気弱く勇気寡ふ、実寡ふ而、我邪智有て聊も取りて可用様なく、唯隼鷹のみよし。人は気質直なれば勇気なく、勇気あれば邪智有、亦愚智也。実あれば気不叶、兎角擧て難用国也。是れ根本、水土の不然所以也。

但馬国

但馬国の風俗は丹後、丹波よりはまされり。根性に実儀有、取分出石気多、城崎二方の郡は頼母敷意地有。朝来養父郡之者は意地きたなく盗人多し。両丹の風俗之中分にして善にも悪にも従ふ風儀也。

因幡国

因幡国の八上地頭邑美之三郡は実に而、しかも勇有て約を不変形儀也。高草気多法美巨濃之郡之風儀は如形侫に而邪智多ふ而丹波の風俗に似たり。武士は名利々欲にかゝはりて、徳之つく方に従ふ風俗也。一国之内に如斯風儀之替る事寔に天性自然の理とは云ながら、気質之禀る所之正不正に因て如斯成事可見也。

伯耆国

伯耆国之風俗都而半実半虚と可知也。三日善を勤めて三日悪を習の風儀也。譬ば尊き人に交る則は、其気忽然と而実に従、亦其人を離れて三日不親則は本性に還、而悪心を発而心之趣く所に従て不道なりと知りながら而も行ひ不義と見ても、是に與し、一生迷闇の地に有て定る心、終に無之風俗也。されば今世下劣の言葉に物之執行に進て怠り安き者を三日そうと云事、是国の風儀より始と也。知て不勤而怠るは大に勇気の不足するところなり。

出雲国

出雲国之風俗万事なす所之業実儀に勤る事、百人に而六七十人如此、然ども明闇之詮儀、疎に而其道理を不弁而、善悪邪正ともに仏神に祈願を而祈れば必成就すると思ふの風儀也。愚蒙之意地也。されば謀計雖為眼前之利潤必当、神明罰、正直雖非一旦之依怙終蒙日月之憐とある託宣を不知、又神は不受非礼舎正直首といへば吾心悪意を尽而仏神を祈りたりとも何ぞ加護あらんや。古今神明を重んずる事和朝之例たれども、於此国には中々上下とも如斯にして神明を不知なり。

石見国

石見国之風俗は丹後の国に不異而偽計にて実ある人稀也と可知。是も隼鷹は吉し人の風俗、曾て不可好也。実有人は千人に一人も稀也。智有人は日々夜々に悪心を挟言語道断と可知。

隠岐国

隠岐国之風俗柔弱に而放逸成国也。知夫利之郡之者は実儀にして頼布所有海部周吉穏地之郡は風に従草之如く、善にも悪にも否と謂而、相従之風儀也。遠島なれども石州よりははる/\上也。

山陽道八ヶ国

播磨国 

播磨の風俗智恵有て義理を不知、親は子をたばかり、子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ、悉皆盗賊の振舞也。侍は中々不好不及是非也。若き侍の風上にも可置国風にあらず、偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし。

美作国

美作国之風俗は百人が九十人は万事之作法卑劣に而欲心深く譬ば借物を而夫を返納せず、而手柄之様に覚る風儀に而片意地強く我は人にまさらん事を思ひ過ち有ても夫に教訓を加る人あれば、却而夫を邪智を以て過ち無が如くに云なし、似たる事なれば我が過ちを人の過ちのやうに仕なして、我が意地を可立とする事上下皆是風俗也。然ども侍十人の内三四人は心掛如形の人も有奥意には変じ安き所もあるなれば頼もしからざる所ありといへども石州にはまされり。

備前国

備前国の風俗上下ともに利根之故に利根を先と而万事執行ふに仍て、言行之相違する事十に而五つ六つ如此別、而諂ふ心強く而上に翫ふ所之儀をは善悪邪正を不撰而ぬき好むが如くにもてなし、内心は侫を含みて誹謗する事主は被官を滅を以是ををさゑんとし、被官は主に従ふ如くなれども、嘗て内心不快而善と見ゆるといへども其善不積而名刹の為になす所多し。譬ば芸術を執行ふに十人が九人善悪に不構其事を成就せしめて、是を朋友の於前には我一人之様にふけらかして、而もその奥意之至公成処は夢にも不知而如斯にもてなし、或は武の用る兵器兵書をかざり立てば心掛之深き侍と人に用をれん事を好む風儀都而皆如此に而、寔に名刹につながれ実を失ひ、虚をふるまい、不及是非雖然不智不学不志之人にたくらへて、是を見る則は事里ともにはる/\上也。若し能き人有て、是気質を離るゝ工夫をなさしめば、百人に而一二人も其処に可随が多くは諂ひ有て智有国風なれば、五十年にも及びなば其風儀直に成べきか不好風儀なり。

備中国

備中国之風儀都而意地強く侍を初と而百姓男女までも勇気の義理をはげます心常に有、雖然不敵成意地有故に道理を不弁事多ふ而、譬ば兄弟口論をなして兄は弟を哀ます。弟亦兄を敬と云心を不弁一気勢に随て兄弟と而切結、終に討果すの類儘有と見へたり。然れども此国の内備前堺より半国は風儀不正繕ひの風流なる所有故に真実は西郡程には中々無之。

備後国

備後国の風俗は人之気実儀に而一度約をしたる事は変かへをする事鮮し。然れども愚痴成事多き故不実成事をも不弁而うけ合、終に悪名を取る事多かるべきなり。大体は西備中之風俗也。武士之風儀もかくのごとく也。

安芸国

安芸国之風俗は人之気質実多き国風なれども気自然と狭く而、我は人の言葉を待ち人は我を先にせん事を常に風儀に而、人之善を見てもさして褒美せず、悪を見ても誹る儀もなく、唯己々が一分を作廻ふ意地に而抜出たる人千人に十人と無之して、世間之嘲弄をも不厭る風儀也。侍之形儀取分如斯なり。因茲頼みなき様なれども、底意は実儀よりをこりたる事なれば、善き処多し、此気質を離たる人出来は名人とも可謂人出る国風也。別而佐伯沼田加茂郡之人律儀強くて心表裏すくなく形儀よきなり。

周防国 

周防国之風俗は律儀第一なれども、吉敷佐波都野三郡之者は義理少く、昨日まで傍輩と肩を雙ぶる人をも今日仕合よければ、主君と仰く風俗にて常之律儀も利慾之為に無になり、法を背く人百人に七八十如此残而、二三十人の人柄は如形嗜む様なれども、終には右の人に従ふ故に、皆其風俗と成べし。大島玖珂熊毛三郡之人は両郡の人より少はまし也。然ども是も堕落の方に付たる風儀也。能き人出来る事希にして悪事もすくなく善事も亦希なり。然ども是国之人は気少き故、つれなくして不敵なる意地は少もこれなし。

長門国

長門国の風俗毎物万事差掛りたる事無之也。されば人之音声も下音に而上拍子成事無而人吾を頼むといへども、軽く請る事すくなく、思慮を而後に是を答或亦人に事を談ずるにも、十之物七つ八つに而差切たる事なき風俗にして、別而武士之風儀善にも非ず、悪にも非ず我は人を頼、人は我を頼にし、たがひにもたれ合て、毎物遠慮過て大事に構るに、人之過ちある時、人是を誹るを以如斯之意地より出る形儀也。さる程に諸芸を学ぶにも一花勤る様なれども、気に引放たる意地無之故怠惰之気頓而発して中途に而差捨る人百人に六七十人如斯也。是皆勤る意地すくなく独を慎之気弱きの故也。因茲武士之風俗善と難云。若し此意地を発明而、是を勤行する人あらば、国風の垢自ら去りて、名を呼ぶ程の人も可成也。無左士は随分利根也ども用て節に当るべきといわん哉。

南海道六ヶ国

紀伊国 

紀伊国の風俗不律儀第一に而、陽気甚しくいやしく。上と而は下を貪り、下は上みをあなどり、法令を不入而、更に言語に絶たり。牟婁、日高、在田郡の人別而我慢にして意地を強く立るかと思へば、亦弱く而詰る処之奥意不極して、譬ば昨日味方たりし人之弱身なれば、今日は亦敵となり、其従ふ処の人に大事有と見ればさすが本へもかへる事をはぢ、頭なしの一揆をも企る如くの風俗、言舌に顯然と而備れり。因茲見之は郡々に名主と号し、庄司殿と是を呼て、是を主君の如く仰ぎ、勢を得る時は、是を先立、後るゝ時はともに従て、蟄居するの類、治承之乱之時より而聞伝、其ありさまを見るに誠に思ひ当れり。

其気のかたくへなく、不頼から事擧て難云。扨亦伊都、名草、那賀、海部郡之人は南郡よりは気柔也。然れども差掛りたる意地のみにて、是も詰りたる心微塵も無之といへども善悪を知りて多くは悪意に従ふ程の儀は無之と見へたれども、慾深き事日本にも雙ぶ国有間敷き也。都而武士之風俗身を上分に持ちなし、常に饗応を尽、而放逸を不知、唯心之行処に従て、利口を面前に顯し、律儀と云こと実と云ことを露ほども不用而、しかも武之翫ふ処の事をば如形、雖務終に無実して其業数を覚て、耻をかく之人千人に九百九十人如形、両伊丹、石州之五ヶ国よりは意地強し。碁石蕨蒜は吉。

淡路国 

淡路国之風俗、遠島之国に而人の気、律儀に而何事も偽る事すくなく、譬ば我が親類縁者とあれば其筋目を正し。たとへ貧賤道路の乞人にても是を正すの風俗也。然ども都て怠惰之気甚き国風にて物のしまる事すくなく退屈の体のみ多く、武士の風俗も質ありといへども達人の可出国にはあらず。

阿波国 

阿波国の風俗、大体気すくやかに而、智も有り。届きたる意十人に七八人も如此也。然ども智有を以て届きたる意地を忘却して変道を行ふ事あるべし。されども人をたばかり強盗抔の類は究て有間敷也。武士の風俗最如此に而、意地強し。雖然智還而あだとなるべし。三好、麻植、名東、名西郡は形儀一也。勝浦、那賀、板野、阿波、美馬之郡は少心細きか。

讃岐国

讃岐国之風俗気質弱く邪智之人百人に而半分如斯也。武士の風俗別而諂強く方便を以て立身をすべきなどゝ思ふ風儀之由。兼て聞及に不替形儀なり。別而大内、寒川、三木、三野、山田郡如此也。

伊予国

伊予国之風俗、大形半分々々に分れ、東郡七八郡は気質柔に而、実儀強き形儀也。夫より西郡は都而、気強く実は少く見ゆる也。古より是国には海賊満々而、往来の舟をなやます由聞及ぶに不違、今も猶徒党を立て一身を立る族多し。誠に関東之強盗是国之海賊同じ業に而、武士之風俗一段手強しといへども、武士道吟味無之故危きことのみ多き風俗なり。末代も人之気質に替りは有間敷ものなり。

土佐国

土佐国之風俗成程直に而、気質すなをなる国風也。是都て士町人百姓に至るまで如此なり。別而土佐、長岡、吾川郡如此也。されば其気質は鳥けたものにも備る物乎。猿も是国の猿は別て仕付よきなりされども、遠国にして其言舌卑きなり。心底は如形直なり。

西海道九ヶ国

筑前国

筑前国の風俗、大体飾り多し。人之心十人は十人みな思々に違り、勇気も一応はつとめとぐるといふとも、かざり有風俗故に終には何事も成就す間敷国風也。西国に珍敷き花奢のくに也。酒色を好む事千人に七八百人如此。惣じて此国は万事の風俗わが為に徳つくことなれば、我が親み中絶する人をも親み寄り、親を捨てゝも其人にしたしむの風儀甚不可然なり。

筑後国

筑後国之風俗筑前に替り実儀成者十人に八人如此。常に義理を談じ得失を沙汰し、費を慎て言語を飾る事猶以て鮮し。雖然下劣は一涯に而非を弁る者すくなく、無礼の事のみ多し。譬ば其堅固成事鉄石を以て是を云に鉄に非ず、而如石其練れる事無ふして分れて二度遇ふと云事なきは石なり。武士も大形此風儀に和あるものと可知。

豊前国

豊前国之風俗譬ば如馬々に名馬有、曲馬有、色々之毛品有、長け高く様子うるはしく品能き馬の如し。然ども曲有之時難用者也。然は馬に比而是を見れば如曲馬と可知。亦曲馬に走る有、止る有、喰有、踏有、其曲無く中気なる有ざれば、是国之風儀何れの曲せ有と考るに、唯中気の如馬にて真実定りたる意地なく、死生を論ずる場に至る時、人と而死は重きと云事不知と云事なし。然ども不得止時は、為忠一命を捨、為孝死を致し、為義命を失ふ事常の習ひ也に、是国之風俗忠孝義理を忘れて命を遁るゝもの千人に七八百人如是也。されば是理を不知かと思に、左には非ず。能く知て能く失道者也。誠に一旦之忿の為に命をくじく者、雖有之義に因て命を捨る所之者鮮し。蓋是理に本く人無く而唯気質之儘に執行する所のものなれば、不義不理なり。曲馬国とも可謂乎。亦自然に勤る処之人有は其気質之汚れを能く創る人は其志之厚き事挙而可仰所なり。

豊後国

豊後国の風俗、其気質之禀る処偏塞なる事百人に九十人如斯と可知也。残る十人善といへども気質之偏屈成内より出生するなれば、如形之風儀也。譬ば子をまびくこと聖徳太子之宣ふこと出家せさせて、子孫を断絶する時は、其苗減ずる所以成に是理を翻却而、其生ずる処之子を殺害するの類に心得たる者、今も儘有之と見へたり。末世に至るとも此風儀成べし。如此の人之気質故に其死を不厭事如鵞毛也。別而武士の風俗如右なれども、自然に国風をまぬがれんと思ふ人あれども、正智邪智を不弁而、其弁ずるところに従て国風を削らんとするといへども、正道に至事不克而或は不覚を取り或は邪智に迷て臆病をなす人も可有。多は勇勝而理闇き形儀多し。自然と気質之すなをなる人もあるべけれども稀なりとしるべきなり。

肥前国

肥前国の風俗山陰を合たるより猶勇国にて、勇に赴く時は義を知て、ひるむ色なし。誠に其国之濕土に生得るとは云ながら、百人にして九十九人如斯也。若一人不勇の人あるは珍敷事ども也。武士之風俗尚以如此と可知也。雖然無風に勇を行ふが故に、温和之志を不知なり。されども上と而は下を哀み、下と而は上みを敬ひ、主君之為に命を捨ん事を常に願ひて志す事士より国民に至まで皆如斯なれば、百姓町人と云ども義理を強ふ而身に難遁罪科有て死に究ると知る時は、男女に不限致死事露程もをしまざる也。音声は卑劣なり。風儀は信州に而、智之すくなき国風なれども、人之一和することは信州にこへたり。

肥後国

肥後国の風俗肥前に似たりといへども、其勇之甲乙を数ふるに百に而其一也。武士之風俗は肥前に替りて柔也。雖然其意地筑前豊前両国を合たるより上と可知也。されども知有を以て分別多く、思ひ/\成所あるにより、一和する事すくなく、二つ三つにも引分れての形儀なれば、肥前にはる/\劣るものか。

日向国

日向国之風俗無体無法之事のみ多は只気之尖成にまかせて、己理と見る時は非と云人有といへども且而不用、己非と云ふ時は人来て道理といへども且而不従。於是其理非は第二に而、其段ずる処の人と口論になり終に討果すの類多き風俗也。寔に偏卑之浅ましき事人倫の道理を不知事可歎所也。唯死するを以て善とする事危き風俗也。可恐。

大隅薩摩国

大隅薩摩両国之風俗、違ふ事なし。是も皆死を以て表とし、唯男子は死するを道とすと覚て、五常之道と云ふ事一段外之事と覚へ、仏法といへば死て後之穿鑿に而、生死を可知為となれば、用るに不足と自見而遠り常に主下之作法も有てなく、主ち云名を知て禄を受る士は主とのみ覚へ、百姓は地頭とのみ覚て不礼之行跡擧而、不足言也。武士之戦場に死するも忠義に因て死する処の節を以て善とする工夫なく、唯武士は於戦場に死を致す者とのみ覚へて死するは可論様なし。蓋し泰平之時は主安座而席を正ふ而あるに臣は足を伸し、或は立ちながら主君と問答するの類多し。末代以て是風俗なるべし。

壱岐対馬国

壱岐対馬之両国遠島たれども物之花奢成事は大隅薩摩にはる/\可勝也。人之気柔弱なる所多ふ而自堕落事多し。

夫天地の道理を察するに混沌、而未分之霊溟幸而妙然たり。時に其霊動て清濁升降す。於是天地全く生ず。此霊周而万物を生ず。故に在天則元気と云、在万物物則霊と云、在人則心と云。蓋人倫は天理之性を具足、而出生する処なれば、虚霊不昧之ものなり。天は広大成を以て万理に無所不該也。人者全体を稟得たれば、万理不備と云処なし。天は万理を該る故に、万物を生じ、人は万理を備るを以て万事に応ず。於此是をみるに其性情之不同事、気質の稟る所不等は也。所以者正通偏塞美悪清濁之替あり。気者陰陽の気なり、質者形也。天の気を受て人之気と成に正道の気を受て人となり、偏塞之気を稟れば、鳥獣魚虫草木と成、人と成中にも聖賢智者となり、或は愚不肖と成は正通の気之中にも美悪清濁有、正成気に而美成を受たるは愚不肖と成通なる気にして、清成を受たるは善人となり、濁気を受たるは悪人と成。是寔に正通之気を得て人となれども、賢愚善悪分れたる処也。偏塞之気を受たる中にも鳥獣には聊心有、虎狼も吾が子を愛し、黄鳥之丘隅に止るも智有。草木は一向無心也といへども、夫だにも大小長短之替り有り。是亦偏塞之気に美徳清濁有故也。此偏気の中之美成と塞の中之清成とを受たるは鳥獣となり、偏気の中之悪成と塞気の中之濁成と受たるは草木と成。人と而も容貌美く而心邪成有。容貌醜の而心直成も有。容貌醜ふ而心邪僻成も有。是皆気質之不均に因也。されば其土地水土に因て其風儀之分る事、於是可知之、然ども其国人を而善悪邪正之道理を常に不怠して儒仏神之三道を以て其機に応、而教之者何ぞ其風儀の奸き事すなをになをさらん哉。松柏之曲れども是を作れば直くなり。亦直を作れば曲るが如く也。其気質之善を教へ邪僻を示さば、日を追て何ぞ風儀不正と云事あらんや。去れば上み一人能き人有、則は其風儀日々に新成べし。夫一人を而十人にならはしめ、十人を而百人、百人を而千人、千人を而万人、万人を而億兆にしらしむとは太公が言也。然ども国風湿土に因て風儀の違る事あれば也。吾案之人の機気を観察する事已闇ふしめ、是を知る事難成と可知、雖然窺之に傅有。誰か是を知る事有ん乎。委く生栄死枯之巻に人気治乱之根本有之後代之亀鑑といふべきものなり。

右人国記課人令書写以二本手自批校完

天保十一年二月     伴信友

(原文はカタカナ交り文で句読点・濁点が附されてないが、読みやすくするために当サイトで句読点・濁点を附し、ひらがな交り文に改めた。)
(『史籍集覽 武辺叢書 十巻』を底本としました。)

新吉原細見記考

新吉原細見記考(一部)

加藤雀庵著

きさらぎ二日といふ日、春雨のつれ/\〃に、年頃集めたる新吉原細見記を取出て見れば、万治より安永に至りて六十三冊に及びぬ。(内万治と享保七年のものは一枚図なり。)うち見るまゝに、例のやくなしごとひとつ二つかいつく。

△万治元年新好原(好の字如レ此あり。)細見図
こは明暦三年正月、かぐつちの神のあらびし後、同じ年の八月に、千束の竜泉寺村へ移されて新吉原と呼ぶ。その翌年の発版なり。天保十四年に至りて、百八十六年を経たり。

△揚屋十九軒(揚屋町にあり。)△茶屋十八軒(同所にあり。)中ノ町は左右ともに商人居住して、今とは異なり。△三浦屋四郎左衛門内の所に太夫高雄、同花紫、同薄雲と見ゆ。此高尾は数代のうち、すぐれて名高き万治高尾といひしは是なり。此翌年十二月五日終る。(イに、三年十二月廿五日。)寛文七年印本讃嘲記犬枕、手のよきものゝ部に、「たかをたんしうが手跡」、又過にし方恋しきものゝ部に、「でんよみやうしんがはか」、又高きものゝ部に、「みうら高をが名」など見えしは、此二代目高尾が事也。さて又かの書に見えたる高尾は、三代目にして、万治三年印本総まくりに見えたるたかをと、同人なるべし。さて上の同書に、おそろしきものゝ部に、「たかをがめざし」といへるは、三代目をいへるなるべし。△同二本堤の所に、「日本堤八町あり。(但し、しやうでん町より四町半、みのわの方より四町半。)みのわ村原宿へ出る」とあり。みのわ村は今の箕輪村、原宿は今の小塚原なるべし。さてこの日本堤の事は、異本洞房語園に、「箕輪村に柴崎与兵衛とて数代の百姓有。是に日本堤の年数を尋ねしに、右与兵衛が云。祖父の時より申伝へ候は、此百年前庚申の年、始て出来承候と申。然れば年号は元和七年に当る也」。(一説に、元和六年庚申、台命に依て築くと。)按るに、七年は辛酉にて、庚申は元和六年に当る也。天保十四年より逆算すれば、二百二十四年に及べり。(今みのわ村に、柴崎藤兵衛、同金蔵といふものあり。是等が祖ならむ。)

△享保七年正月発兌細見記(今かりに露の玉菊と号く。)
此細見記中、角町中万字屋勘兵衛の所に見えたる玉菊は、新吉原の燈籠に名をかゞやかしたる元祖玉菊なり。吉原大全に、此妓、正徳年中七月のはじめ身まかりたるよし記すは、大なる誤也。かの書には、此他誤れる事なほ多し。さて奇跡考に、是を正して云、「享保十三年印本袖草紙(玉菊追善句集)といふものを按るに、享保十一年三月廿九日身まかりぬ。光感寺といふに葬るよし云々。始て燈籠をともせしも、享保元年といふは妄説也。(雀庵云、此細見記にあるを一證とすべし。)玉菊死せし享保十一年七月新盆の節、新霊を祭る為、中ノ町俵屋虎文、揚屋町松屋八兵衛等発起せし事也。故に七月死せしと思ふ人多し。竹婦人玉菊追善の浄瑠璃水調子を作りしは、享保十三年三回忌の時也。故に二をり三をり年をへてと云文あり。玉菊曾河東節の三絃をよくひきし故に、十寸見蘭州催にて、かの浄瑠璃を作らしむ。同時乾什、かの袖草紙を著す。玉菊日頃大酒を好み、つひに酒にやぶられ、廿五歳にて死せしと云。かの句集に酒のことをいひたる句多ければ、さもあるべし。水調子の文に、その酔ざめの夢の世にと書るも、その故也。禿を、しげみ、しのぶといふ。鏡のいへに摘の葉を入るゝ事、玉菊が始むといふ。是らの事は、水調子の文を證とすべし」とあり。是にて玉菊が考明らけし。又同書に、玉菊が拳まはしといふものゝ事見えたり。さて右の説によれば、玉菊は元禄十五年の生にして、此細見記の年は廿一歳也。(文政八年、百回忌の句集出来たり。)燈籠始りてより、今年天保十四年に至り、百十八年に及。乾什は浅草竹門に住し俳諧師也。よりて竹婦人とかくし名せる也。(鳶魚註:水調子ノ作者竹婦人ハ、竹島正朔ナルコト、武江年表ニイヘリ。)此細見記、江戸町二丁目の所に見えたるつた屋庄二郎といへるは、右にいへる水調子の催主十寸見蘭州也。つるつた屋といへり。又右にいへる、燈籠を発起せしと云中ノ町俵屋虎文といへるは、此細見記に見えたる俵屋佐右衛門なるべし。同揚屋町松屋八兵衛とあるは、揚屋町の所にある松屋新兵衛とある人の改名にや、又その子なるにや。享保十三年細見記にも、同じく新兵衛と見え、又十七年より後の細見記には八兵衛と見ゆ。是なるべし。上の説々によりて当時を思ふに、此玉菊は殊に諸人にめではやされし娼妓なりけん。今に至りて燈籠の華美に盛んなる、かの玉菊の余光といはまし。

△同京町一丁目三浦四郎左衛門所に見えたる太夫高尾は、元祖より九代目也。享保五年印本丸鏡に、奥州がかぶろしのぶといへるが、正徳五年太夫となる。是先祖より九代目の高尾といへるは是なり、といへる高尾なるべし。

△同揚屋町あげ屋の内和泉屋半四郎とあるは、かの紀の国や文左衛門、節分の夜小粒金を蒔しと云伝ふる紀文大尽が揚屋、和泉屋半四郎なるべし。又二朱判吉兵衛が大尽舞の文句に、あげや半四におくらるゝ、と作りしも是なり。今の印本に半治とある。誤れるものなり。

△同揚屋尾張屋清六とあるは、尾張屋清十郎なるべし。此頃清六といひしにや。此家、万治元年細見記、十九軒の中に見えて、宝暦六年細見記に至りて、此家一軒あり。此人の名、洞房語園にも見ゆ。上にいへる寛文七年の犬枕に、ふかきものゝ部に、「あげや清十郎」と見ゆ。その住家の大なるも思ふべし。

△両巴巵言(享保十三年細見記。天保十四年に至て、百十六年に及。)
此巻中、三浦屋四郎左衛門所に見えたる高尾は、元祖より十代目の高尾なり。奇跡考に、享保十三、十四両年の間に出廓なるべしといへるもの、是なり。神田なる紺屋某うけ出す。だぞめ高尾といへる是なり。○角町中万字屋に玉菊と見えしは二代目なり。元祖は此書より二年前に身まかる。○巻中、四妓女の像を画きし鳥居清信は、鳥居家の祖にして、元禄より出て、世に行はれしものなり。此頃は清信晩年の筆なるべし。○地図のうち(○ひがし通り、青のふれんと云。○江戸町がし、本町がし、京町がし、此通り京町迄、西がし通り、かきのうれんといふ。○さかいまち。○らせう門がし。○道鉄。○金杉通り、金杉橋。)今金杉ひかげの石橋、百年の昔は板橋なりしや。

△菖蒲草(上下、同年秋七月発兌。此草紙のとびらにかいつけ置しを、又左に写す。)
まこも草あさかの浪にしげりあひていづれあやめとひきぞわづらふ。此歌は梶原景茂が詠にして、此歌によりて、頼朝公より菖蒲をたまはりたる事は、沙石集に詳なり。俗誤りて頼政が歌とす。近頃ある人の俳諧歌に、「頼政にあらねどけふは引かへてあやめを軒のつまと見る哉」とよめるも、是また伝聞の誤にぞある。そはとまれ、此歌五月端五の日の歌也。此細見見キけふさつき五日に得たるものにして、書名見えざれば、そゞろに右の歌に因て、あやめ草と号く。なほ長き根の長く伝へんとてなり。又景茂の引わづらひし美女房は十人あり。又此書に、めづらかにも太夫十一人あり。こも亦いづれ引わづらひし梶原大尽ありけむかし。(天保五年といふ年のあやめふく日。)

△奇跡考四の巻に、「享保十三年印本細見の図、并に両巴巵言に、一本ともに高尾なし。此高尾、享保十三、十四両年の間に出廓なるべし」といへり。按るに、此書の奥書に申の月改とあれば、此細見記は享保十三年七月の印本なり。これに高尾なきをもて思ふに、此十代高尾出廓は、享保十三年七月已前なること明らかなり。

○享保十一年姫の式に見えたる遊女若糸は、此書、江戸町二丁目丁子屋内わかいとなるべし。又同書に、同かほると見えしは、此書、江戸町一丁目巴屋内かほるなるべし。俳家奇人談にも、右姫の式に載たるカホルが発句を載す。同人なるべし。○おはぐろうり番人勘十郎、○湯島天神女坂下板元問屋相模屋与兵衛」とあり。

△浮舟草(享保十八年。天保十四年に至、百十一年に及。)
中万字屋に二代目玉菊あり。あげや六軒。
此細見と同年版の一本、合刻両都妓品を合せ見るに、此本にある太夫四人のうち、一本には、三浦孫三郎内紅梅、又玉屋山三郎内若紫、此二太夫は位を下りて格子となり。又此本、山口屋七郎右衛門内白糸はさんちやなるに、位を上りて太夫たり。又此本、揚屋町あげや松葉屋善兵衛と見えたるは、一本には此家なくて、いさゝかその俤をのみ残せり。按るに、此松葉屋は、此年(享保十八年)夏の頃に、其家絶たるべし。此外大同小異あるに、一本癸丑の秋とあるによりて考れば、此本は享保十八年初春の発兌なることうたがひなし。よりて此本を春の巻とし、一本を秋の巻とするになむ。○第一丁に、妓女の紋六ツをしるして、下に発句あり。考るに、第一は大三浦内太夫小紫が紋、第二は三浦源三郎内三浦が紋、第三は同孫三郎内紅梅が紋、第四玉屋山三郎内若紫が紋、第五さんちや山口屋七郎右衛門内白糸が紋、第六同嘉右衛門内きてうが紋也。○此本、五丁町の図中、あげ屋町の所に井戸初と記しゝは、紀文が此里に始て掘しといふ井なるべし。(鳶魚註:井戸掘リシハ紀文ニアラズ。奈良安ナリ。)紀文は此細見の翌年、享保十九年四月廿四日、深川八幡一の鳥居の隠宅に終れり。○初丁、五十間道の所に、○はいかいてんじやしう月取次所。又ゑもん坂の辺に人形見世とあり。又江戸河東上るり河丈とあるは、元祖河東の門人也。○奥書に、「新吉原揚屋町三文字屋亦四郎、神田新石町相模屋原介、人形町平野屋小八、享保十八歳癸丑今月今日開版」とあり。

合刻両都妓品(享保十八年秋九月)
此一小冊は、新吉原(附京島原)細見記中の異本なり。さて発兌の年号を記さゞれど、序文のすゑに癸丑秋とあるによりて考ふるに、享保十八年秋九月の印本なる事明らけし。○此書始、島原の細見中に見えたる桔梗屋治助といへるは、かの浪花新町なる茨木屋幸斎が実子也。父幸斎奢によりて、享保三年三月牢居仰附られて、其上家地御取上げと成、父子とも大坂を御払になりし也。倅治助も京島原に来て、廓中の者に歎く。諸人治助をあはれみて、桔梗やと云潰れ株を興させしに、日を追て繁昌し、島原に名を得し上林、一文字や等の故家はおとろへ、桔梗屋はます/\栄ゆ。もとより治助は風流の志ありて、俳名を呑鯨といふ。寛延の始に終る。呑鯨が甥呑獅、跡をつぎていよ/\栄え、家内二百人に余りしとぞ。此呑獅は、宝暦七年印本島原細見一目千軒にその名見えし、則その本撰者の一人たり。幸斎が盛になりし頃、家内の男女五百人に余りしと伝へり。(幸斎が事、傾城竈将軍と云冊子にも見えたり。)○此本に見えたる松葉屋半右衛門抱の遊女瀬川は、三代目也。此瀬川は故有て、享保廿年卯十二月三日廿二にして自害す。(鳶魚註:宝暦八年三月廿五日、十九歳ニテ自殺ト、続談海ニアリ。)法名心月浄栄信女。(寺は浅草寺中。)「宵の間に置霜なれば朝ごとにきゆる此身と今ぞ知りぬる」。此瀬川は十九歳の暮より出たりといへば、此細見の前年、享保十七年より出たる也。遠見録といへるものに、「此瀬川を六代目とし、又此瀬川より三代已前の瀬川は、松葉屋にて夫の敵を討」云々と記せり。ともに誤なるべし。此夫の仇討たる瀬川は、此前代二代目にして、幼名をたかといふ。その仇討は享保七年四月也。後幡随院の弟子となり、剃髪して自貞といふ。浅草再法庵に住し、念仏の外に和歌を楽む。並木五瓶が俳諧通言に、自生尼と記せしも誤也。生にあらず、貞なりと、さきに記せしまゝに、又こゝにかいつけしが、こゝに至りてうたがひあり。上にいへる享保十三年春の細見記に、瀬川見えで、同年七月のものに瀬川あり。上の説によれば、是は二代目なるべし。他日證を得ば、又々かいつくべし。(鳶魚註:瀬川復讐ハ妄説ナリ。)

新吉原絵図(享保十七年。太夫二人、三浦四郎左衛門内小紫、同源次郎内三浦。○はいかいししう月、あげや町の所にあり。)

あげや六軒。
松葉屋半左衛門の所に瀬川あり。上の説によれば、三代目なり。○へいぎわゑじだんごよし田や庄兵衛。と、角町がしの所にあり。同所に、○あだおとこ平七又中之町大門より右の所に、○あづま男まつや庄兵衛。○こぶくしやつるや平吉。と有。をかしくめづらしければ、書附おく。又、○此水道じりは、昔つぼね二十五けん有より、おしなべて天神がしとなづけてよぶ。いつの頃よりかして、ちや屋あきんどゝなる。(大伝馬町三丁目鶴屋喜右衛門版)

△婦見月(享保十九年)
此細見記、はじめをはりやぶれうせたれば、書名及び発兌の年号をしるよしなし。その得たる月の名をもて、そぞろにその名とす。又享保十三年より元文、寛保の細見記にてらし合せ考へて、十九年のものと定む。○三浦屋の所に高尾あり。是十一代目なり。

△山紅鳥(享保二十年、太夫二人、三浦屋四郎左衛門内高尾、同源次郎内三浦。)
あげや五軒、松葉屋善兵衛亡ぶ。
此序文によるに、此年正月発版のものに、三好鶯といへるがあるなるべし。未レ見。○三浦の高尾あり。上と同人、十一代目也。版元大てんま町うろこがたや孫兵衛。

△続浮舟草(享保廿一年。太夫三人、二人上に同じ。玉屋山三郎内きよ花。)
こは上に記す十八年細見浮舟草に対しての名なるべし。○総て五丁町元女郎、かぶろ、人別帳残らず四郎兵衛方に有レ之。その外はいふ、大伝馬町三丁目より知らず。)○江戸町二丁目の所に、○名主津の国屋佐兵衛といふ遊女屋あり。○高尾、上同人なり。版元人形町平野屋善六。

△元文二年九月細見記(女郎花と号く。太夫三人、二人上に同じ。玉屋内花紫。)
あげや右同。
三浦高尾、上に同。十一代目也。○江戸町二丁目太田屋喜右衛門内紅梅、禿かしくとあるは、元文三年印本洞房語園に見えたる「いつちよくさいたおゐらが桜哉」と詠しかしくにや。

○黒助稲荷(享保十九年。正一位云々。○新吉原揚屋町三文字屋又四郎版。

△なのはな(元文四年。太夫二人、上の高尾、上の花紫。)
あげや右同。
三浦高尾あり。上同人。版元所、上に同。
此高尾、寛保元年六月四日出廓。(高尾は是にて絶えたり。)

(中略)

△実語教(宝暦十一年七月。)△初みどり(宝暦十一年正月。)
あげや清十郎なし。

○九十目太夫高尾(たつた、もみぢ、引舟二人。)六十目片三十目格子薄ぐも(あけは、くれは、引舟一人。)三浦屋高尾は十一代にて絶え、此年又玉屋山三郎に、高尾、薄雲出来たり。めづらし。されど此年七月出来て、翌年正月の細見記には見えず。こはかならずわけありしことなるべし。

○玉屋山三郎、前年迄商売休み、当年類焼に付き、手前地面扇子屋跡へ普請し、見世開致。則扇子やは京町へ引越申候。)こはある人の書入し文字なれど、こゝに写し置。さて太夫の位は、此の年廓中に絶果たり。並木五瓶が俳諧通言(文化三年印本)に、「明暦、元禄のすへより中絶して、今は此位なし」と記しゝは非也。

(後略)

(三田村鳶魚編『鼠璞十種』上巻中央公論社刊を底本としました。)

新吉原略記

新吉原略記(一部)

山崎美成著

今の吉原を新吉原といへるは、元吉原に向へてよべる称也、此地の古名は、千束村也、(上千束は今の竜泉寺町也、中千束は吉原是也、下千束は田圃の慶印寺辺也)元吉原は元和三年丁巳三月より始まりて、全くなれるは、寛永三年丙寅十月なり、其後、明暦二年丙申の初めに至りて、(元和三年より是まで凡四十年なり)大江戸の繁栄いふばかりなく、日々月々にいとにぎはしくなれるまに/\、かゝる遊女町の市中にあらんこといかゞなるべき、との仰せありて、同年十月、所替仰出され、其代りとして、浅草寺のうしろなる日本堤の辺りにて地を給はり、引料金壱万五千両下し給はる、(ひと小間に金十四両ならしなり)元吉原は廓二丁四方なりしを、此度は其五割増にて、二町に三町の地を下されやり、されば田井あらたに築立、家居造るべき事始めせしかど、同三年丁酉正月十八日のことなるに、大風しきりに吹起り、未の刻計りのことなるに、本郷丸山なる本妙寺より火もえ出、ひたぶるに焼ひろごりて、江戸市中大かたに焼たりしが、元吉原も此火にてなごりなく焼亡せり、よりて、日本堤へ引移りのことも、姑く其沙汰やみにき、同年六月の初に、急ぎ代地へ悉く引移るべき由、仰せあり、しかれども、其家作なり終へん中、其辺、今戸村、山の宿村、鳥越のあたりにて、百姓の家々に相対にて借屋いたし、商売は己がまに/\せよ、と有ければ、元吉原の遊女屋残らず山谷に引うつれり、(此時、山谷にて借家したるが、今の仮宅の権輿なり、其由委しく下にいふべし)是れまでは、昼のみ商売せしを、此山谷の仮宅より新吉原へ移りて後も、昼夜御免し有りけり、(今遊女の片仕まひといへることも、むかしよりありし此里の定め也)かつ其頃、江戸町中に二百軒余ありし風呂屋(風呂屋といふものゝ始めを思ふに、天正十九年の頃、伊勢与市といひしもの、銭瓶橋のほとりにせんとう風呂を一ツ立る、風呂銭は永楽一銭也、みな珍らしきものかなとて入たるよし、今は町毎に風呂あり、とそゞろ物語に見へたり、是れや風呂屋の起原なるべし)を悉く禁止せられたりとなり、さて此山谷の地へ遊興に来るを、山谷通ひといへり、いづれもみな編笠をかたむけ、扇を鼻にあてなどしてぞめきけり、其後も猶しかぞ有し、されば、田町又は五十間道の茶屋(明和の火災以前までは、五十間道の片側に十軒づゝ、左右にては廿軒ありし、今も細見記に編笠茶屋の部あり)に編笠を釣り置、遊客是をかぶりて廓中へ入る事なりし、(其頃、貸編笠と云は、茶屋にて焼印を押たる編笠を貸たる也、是はひたすら客の顔をかくす為めのみにあらず、夜の客は、茶屋、船宿より挑灯を提て案内すれば、その挑灯を印とすれども、ひるの客は挑灯なき故、此編笠をもて、何れの茶屋の客也、といふ目じるしとしたるなり、元より大尽のきるものにあらず、明和のころより、ひるの客まれになりて、貸あみ笠も廃せしなり)若人等は、白柄の刀、白革の袴、白き馬にのりて往かふを、風流のことゝせり、当時、所々より山谷への駄賃附に、日本橋より大門まで、並み駄賃二百文、馬奴二人こむろぶしうたふ、かざり白馬駄賃三百四十八文なり、としるしたり、又、明暦の小歌に、春の日のいとゆふわけて柳たをるはたれ/\ぞ、白き馬にめしたるとのごよ、とうたひけるよし、白馬を好みし証とすべし、(此小うたは、白馬驕不レ行、章台折2楊柳1、と云唐詩の意なるべし)今、浅草寺の境内に馬道といふ名あるも、山谷へ馬にて通ひたる名残也とか、かくて同年八月の初、新吉原の家作全くできにければ、何れも廓中に引移り、己が家々にてぞ商売をいとなみける、江戸町一丁目、同二丁目、京町一丁目、同二丁目、角町、この五町は元吉原より有し町々なり、しかるを、其町々の中、こゝかしこに一二軒づゝありし揚屋のみを、同じ所に移して、別に揚屋町といふを取立たり、堺町といふは、寛文八年戊申三月、江戸端々に有し茶屋遊女持七十余人のもの来り住めるなり、伏見町は、堺町出来りし時、新たに新道を作りて伏見町と名づく、其故は、此所の年寄たち、多くは生国伏見のものなるをもつてなり、新町といふは、京町二丁目のこと也、後にしか名附たり、此外、中の町(大門口より水道尻までの大通りなり)西河岸(揚屋町の河岸をいふ)羅生門河岸(新町、角町のかしをいへり)天神河岸(水道尻をいふ)待合の辻(江戸町一丁目、二丁目の角をいふ、昔遊女の此所にて客を出迎へ、待居し所なるをいへり)肴市場(角町のかどをいふ)水道尻(世に袋町とも云、此水道尻に紀文が事をいへるものは附会にて、ひがごとなり、元吉原の頃より有し地名なり)昔大門口の傍に、一株の松あり、これをかごづけの松といへり、思ふに、遊客の此松の木までかごにのり来りて、こゝにておりしをもて、其松をやがてしか名附しなるべし、(大門より内、医師の外は駕篭にて乗入るをゆるされざる掟、昔より今にしかなり)今は此松のあとかただにしるものなし、そは度々の焼亡によれるものにやあらん、昔の家作りのさまを思ふに、明和五年戊子四月五日の焼亡のまへまでは、江戸町に巴屋といへる遊女屋ありしよし、(宝暦の初年、十二挑灯といふ小歌はやりしが、その文句に、めぐる紋日の巴屋ともへ豊山に、といへるは、即此巴屋の事也、明和の始に家断絶したりとぞ)此家のみは外の遊女屋と異にして、至て麁相なる見世つきにて有し、其頃より、大上総屋、天満屋などばかりは、見世のうしろ、格天井のごとく光りて美しかりしが、巴屋は長押をも付けず、見世のうしろも、常体の障子を切ぬき、格子の外の方に、三尺の格子戸のひらき有て、其中に及一人居たり、入口もせまく、奥へ長く、はるか奥に、紋もなき短き暖簾かけてあり、見世の正面に、差径し六七寸ばかりの黒き三ツ巴の紋を、額のやうに掛置きたり、いと古風なる見せなり、とみな人云しとか、昔はすべてかくの如くなりしなるべし、中の町の茶屋の二階も、明和焼亡まへまでは、惣格子なりし、二階を取払ひたるは、揚屋にのみ限れることゝぞ、しかるを、明和以後たびたびの火災にて、次第に家作も花美になりしなるべし、(按ずるに、掟証文に、家作之儀、普請等美麗に不致段、前々被2仰渡1も有之候間、急度相守、別て三階体の家作不仕、金銀之張附、同滅金かな物等無用に致可レ申事、但家作三階体之儀は、此節早々相直、軒高さ壱丈八尺に限、其余高き分、追々修復之節、相渡し可申候、と見へたれば、故らに美麗且高大に作りまうけし家もありけるとしられたり、これは今の御定めなりける)さて、今焼亡の度毎に、仮宅とて他所に借屋して商売することは、山谷の仮宅に始るといへども、其後過半の焼亡も有けれども、他所に出ることを見ず、そのよしは、延宝四年丙辰十二月七日の焼亡に、過半焼にけれど、仮宅の事なし、同六年にも焼亡したれど、此時は廓中へ仮宅をまうけて、遊客を迎へし也、(洞房語園のきてう物語に、ころは延宝六年、吉原類焼のみぎりにて、家作もいまだ出来不揃、桐屋が家もひら家にて、客あれば局にてもてなしたり、と見えたり)しかるに、明和の焼亡には、廓中残りなく焼たり、此時は、山谷、今戸、並木、橋場辺に仮宅をかまへたり、(思ふに、これまでの焼亡は、不残やけざりしがゆへにやありけん)これを今の仮宅の始めともいふべし、此後は、焼亡毎に、必しも他所の仮宅を願ふことにはありけり、しかはあれど、他所の仮宅は元私の願にて、公の御定めにはあらざりしなり、(掟証文に、仮宅の事をいへる条に、吉原内にて渡世致し、可レ成丈外町仮宅渡世の義は御願不2申上1様可致候事、と見えたり、かゝれば、焼亡毎に仮宅すべき掟にはあらざる事をしるべし、去文政七年甲申四月三日、京町二丁目より火出て焼亡せし時に、江戸町一丁目扇屋宇右衛門、同二丁目丁子屋とみ、此二軒のみ焼跡に仮宅をしつらひ、商売したりしを、いとめづらかに云へる者も有しが、元よりしか有べき事にこそ)廓中の遊女、見世をはり居けるに、今もすがゝきとて三絃ひきけるが、昔は小唄などうたひつれたり、(大尽舞に、なんなんたるすがゝきに、かん/\たるかひて衆がと云々、いづれどんとや鷺の首、ゑりを長くしてぞめくなり、太夫、格子もはん昌に、散茶、うめ茶も賑かに、もんし/\とよぶこ鳥、といへるをもて、其頃のありさま思ひやるべし、此うたひものは、二朱判吉兵衛作にて、享保、元文のころのあかしとするにたれり)さて、そのかみ第一の遊女を太夫といへり、(太夫といふ称は、元吉原よりありし称呼なりし)一会の価銀八十四匁なり、しかるに、文金行はれしより、九拾匁にのぼしたり、(此太夫ありしほどは、揚屋もあり、太夫は必ず揚屋へよびてあふべきものなればなり、享保の頃より、太夫すくなくなりて、揚屋も亦減ぜり)此後、太夫やうやくに行はれずして、宝暦、明和に至りて絶たり、太夫の次を格子と云、夫より下りて、局といへるあり、(この後、局の品をわかちて、五寸、二寸、一寸など云り、これは切れを売るといふ心なり)散茶、うめ茶といへるは、寛文以後に始まれり、江戸はし/\〃の茶屋に遊女あまたかくれありしを、こと/\〃く此里にうつしあつめて、其品をわかたん為に、名づけて散茶といへり、其後(貞享の末、元禄の始め)五寸局をひと所にあつめ、さん茶になぞらへて、埋茶といふもの起れり、(其始は、散茶、うめ茶、各つとめの品ことなりしかども、近年はそのさたに及ばず)昔の風俗を思ふに、遊女はすべて、紅粉、おしろいといふものをむさきことゝし、揚屋女郎の薄化粧だに、あげやふうとは云ながら、いやしきことにいひなしたり、髪は兵庫に引結び、あらぐしにてすきあげ、爪紅、つまかへしの草履、地女と違ひ、きれいなるを女郎とせし也、しかるを、享保のころは木の塗櫛をさし、其後いく程もなく、朝鮮鼈甲の櫛笄をさしけるが、寛延の頃より象牙に蒔絵したる櫛笄行はれたり、寛政中に至りては、みな真の玳瑁さゝぬはなかりしとぞ、もと櫛一枚、笄二本、簪四本、耳掻二本の外、多くはさゝせまじき定めなりけるを、後にはみだりに夥しくさしよそほふことになりて、又々、櫛二枚、笄、かんざし、耳掻きとも七八本にかぎれる由(大黒舞のうたひ初めに、さしたり/\女郎衆のかんざし、といへり)定られし也、衣服も、昔は(享保以前)今の如くいかめしきものをのみ好まず、常の女はぬひ箔光る小袖をきたるゆへに、遊女は無地もの、縞類をきたり、又、家に居る時は、打かけをもきたれど、外へ出るには、帯をのみしめたり、是れ常の女と風俗かはるべき為也、延亨、寛延の頃までも、猶、縮緬、羽二重などを多くきたり、といへり、この後、錦繍をもて粧ふことゝなりしは、近頃の掟にも、古来の通り、いづれの品にまれ、紺屋染をのみ用ひ、金銀の糸入たるはさらなり、摺箔やうのものもいましめられたり、扨、此廓の中、一とせの中、何くれのわざありて、いとこと繁きものから、それも昔しと今はいたく異なり、今其一二をいはゞ、まづ正月はことに賑はひて、松の内のありさま、筆にも及びがたし、といへり、早春には、家ごとの遊女年始のことぶきを賀し、礼にいづ、そのさまいとしどけなく、衣服にはしつけ糸のかゝりしまゝ着する事、昔より今にしかなり、(蜀山翁の松の内を評して、曲中妓著2新衣1、以2麻糸1縁者今猶如此、といへり)大黒舞、大神楽、人形回し等、引もきらず行かふとなり、三月中桜を植ることは、寛保元年辛酉三月、廓中より願ひ出たりしは、中の町茶屋軒なみに、せき台植の桜を出し置きたきよし願ひたるに、其事叶ひ、さて翌年より、初て中の町へ植ることとはなりし、七月、中の町へ燈籠をともすことは、享保十三年戊申七月、中万字屋の遊女玉菊が追善に、始めて挑灯を出したりしが、年を追ひ美を尽して、今の如くにはなりし也、(玉菊は享保十一年三月廿九日身まかり、墓所は浅草光感寺に有りといへど、今は尋ぬれどもしれず)八朔に白小袖をきることは、古来より、五月五日は染地の袷、八朔には白き袷をきたり、しかるを、寛文の始め、新町に宗玉といへる娼家の夕霧といふ太夫の、ひとゝせ八朔にことの外寒かりし時、かねて用意や有けん、白き綿入の小袖をきたりしに、とりなりもすぐれて能鵜見えければ、翌年より、夫にならひて、家ごとの遊女、みな綿入小袖をきたりとぞ、今に改めずと也、同月、廓中よりねりものを出し、仲の町をねり行、これを今、俄といふ、其始は、享保十九年甲寅のとし、九郎助稲荷正一位大明神と官階ありし時の八月祭礼の願にて、この事起れり、(近頃までも、俄の中は、大門口に葉附の竹二本左右に立てゝ、しめ縄引はへてありし、これ祭礼の意なるをもてなり、しかるに、今日さる事もなし、といへり)さて今の有様の一班を窺ふべきものは、喜多川歌磨がゑがける年中行事に、六樹園が吉原十二時など併せても思ひやるべし、廓中の遊女いかばかあらん、昔は知らず、(享保五年の丸鑑に、さん茶女郎二千人になん/\とす、とあれば、これに、太夫、格子、新造、禿、局女郎を加へなば、いと夥しき事なるべし)天明六年丙午に、遊女、禿を合せて二千二百七十四人あり、亨和の初めに、三千三百十七人、今茲三千六百人とぞ記したる、(今茲男芸者二十人、女芸者百六十人ほど有りとぞ)これらにても、其弥栄へにさかへ、日にまし、この里の盛り行を思ひはかるべきこと也かし、

(後略)

(中央公論社刊『燕石十種』第三巻を底本としました。)

青楼年暦考

『青楼年暦考』 ー庄司家譜ー (一部)

『吉原御免状』『かくれ里苦界行』関連部分を抜粋。赤字は本文引用部分、青字は隆慶作品関連の記述。

和名類聚鈔 村上天皇御宇 源順朝臣撰

武蔵国 国府在2多磨郡1 行程上廿九日、下十五日
管廿一 田三万五千五百七十四町七段九十六歩、正公各四十万束、本稲百一万三千七百五十束五把、雑稲三十一万七百五十束五把、

久良(久良岐) 都筑(豆々岐) 多磨(太婆 国府) 橘樹(太知波奈) 荏原(江波良) 豊島(止志末) 足立(阿太知) 新座(爾比久良) 入間(印留間) 高麗(古末) 比企(比岐) 横見(与古見 今称2吉見1) 埼玉(佐伊太末) 大里(於保佐土) 男衾(乎夫須万) 秩父(知々夫) 幡羅(原) 榛沢(波牟佐波) 那珂 児玉(古多万) 賀美(上) 

豊島郡 
日頭(ヒノト)占方(ウラカタ)荒墓(アラハカ)湯島 広岡 余戸 駅家 
以下略此 

往古ハ鎌倉よりの道も狩野川(今かな川)を通り、玉川矢口の渡り、目黒より大塚を経て平塚へ出、新堀(今日暮里)より石浜へ出ると、
以上白石先生新安手間にも、太平記文和三年閏二月六日の平旦、尊氏鎌倉を出て武蔵の国に下り久米川に逗留二日、官軍廿日の辰ノ刻ニ小手差に打臨て合戦、尊氏敗走せられ、義宗追ふ事、坂東道四十六里、尊氏石浜を渡る、
元亀天正の江戸図と号するものを見るに、往還前にしるすがごとし、

武蔵野地名考 田沢源太郎義章著
恋が窪(武蔵野の内)京師よりみちのくに至るの往復の地也、此駅に遊女などありし也、今はむさしの中の民家とあり、恋がくぼ村となむ云、藤原の孝標女さらしなの日記に、遊びともきりてなどかける、此処なるべし云々、
然らば武蔵野ノ駅舎に遊女ありし事明也、弁秀云、さらしな日記を見るに、此説たしかならず、むさしのゝ事とは云がたし、
百人女良品定(享保八年卯正月)大和絵師西川祐信画

三ケの津色里の始 八文字屋自笑序文
世に傾国けいせいなどゝにくてい口のやうにいひなせとも、源ふかく理義ハあまねく知る所、天竺震旦我朝とてもさら也、殊更吾国ハ天神地祇より神風の道にみちたる国の風情、大に和く日の本の風俗とかや、されバ京江戸三ケ津を此道の上品と定るも故ある事ぞかし、第一京都島原ハ天正のそのかみ原三郎左衛門林又市郎といふ浪人に許命せられて、則柳の馬場二条の北に傾城町を開し、後に六条西の洞院の東に移され、それよりはるか後寛永年中に今の朱雀野に所を易られしが、昔のちなみをもつて今も西新屋敷柳町といひ伝ふる也、そのときの原氏ハ今の島原上の町西南角桔梗屋八右衛門が粗也、又林氏は今の下の町西南角藤屋八郎左衛門屋敷その跡也、林氏は寛文年中に大坂に引越し、今の大坂新町扇屋是也、江戸はそのかみ太田氏、彼土地をひらかれし砌に、御赦免にて何某多かりしが、わけて山下氏など此道の祖也、難波津新町ハ昔より繁花の大港にして、諸方に色町多かりしが、寛永の末、正保のはじめつかたひとつ所にあつめられて四筋の町となりぬ、則木村や又次郎町(瓢箪町これなり)佐渡島の勘右衛門町、四郎兵衛町、金右衛門町、吉原町これなり、其外六十六国に色里数多あちといへども、およそけいせい町と称する所のものは、あらまし泉州の乳守ならびに高洲、和州の奈良に木辻鳴川、伏見の橦木泥町、大津にしばやまち、越前に三国敦賀の両町、西国筋においては播磨の室、同国鶉野の姫路や又左衛門町、備後の鞆、同じくたゝのうミ、備中の宮中、安芸の宮島の新町、下の関いなり町、長崎の丸山町、此外国/\所々に遊女は多しといへども、皆色里などゝこばして、さま/\〃の品位あまたなれども土地のかはりめ、風俗いろ/\あればしばらく爰に略す、
右の文に江戸は其かみ太田氏彼土地をひらかれし太田道潅入道持資の事なるべし、御赦免にて何某多かりしが、わけて山下氏など此道の祖也、按レ之何某とは遊女屋誰々/\と云事にて、数多ある中に山下氏といふものを祖とすと見ゆ、何の旧記によりて書るにや、しばらくこゝに記す、
此山下と書るは山本を比して書るものか、
島原の事は一目千軒にも見えたり、当時三ケの津の図

(以下図略)

(元吉原之図にある地名)
禰宜町 
私名雪踏町、禰宜丁といふハ今の長谷川町の事也と云々、寛永年中、中村勘三郎芝居、此所に有りし由、勘三郎書上旧記ニ見ゆ、
けん蔵主町の名、吉原旧記に見へず、知る人なし、洞房語園及び吉原開基の由来認候節も、道恕も知らざりしと見えて其説なし、

青楼年暦考

天正十八年庚寅
八月朔日 江戸御打入
生国相州小田原の浪人のよし、庄司甚右衛門十五歳にて江戸へ出、大橋の内柳町に住居し、初名甚内と云、但甚右衛門が姉ハお菖蒲と云て、小田原氏政公の寵愛の妾也と云

十九 辛卯
奥州九戸乱に依テ御進発、

文禄元 壬辰
秀吉公高麗陣、
江戸御城普請有、

二 癸巳
八月 秀頼公誕生
惺窩藤歛夫ヲ江戸ニ召テ大学及ビ貞観政要ヲ講談セシメラル、林道春ノ師也、

三 甲午
伏見御城立、

四 乙未
五畿内洪水、

慶長元丙申年 明万暦廿四年
或説に、今年一分ト小判始テ出来、是ヲ慶長金ト云、一歩と小判始る、朝鮮人来朝、

二 丁酉

三 戊戌
耳塚成ル、太閤秀吉公薨、

四 已亥
太閤を豊国大明神ト申奉、

五 庚子
濃州関原御陣、御勝利ノ後、始テ関東ヨリ京都所司代ヲ差置ル、奥平美作守信昌是ヲ務、同年孔子家語貞観政要武経七書始テ板行被2仰付1、京都ノ四辺に於て禁中御領及公家ノ領地ヲ定置事、南都東大寺ヲ開カシメラル、
京大仏エンゼウ、
一、此時庄司甚右衛門鈴森八幡の前に茶店を構へ御供奉の御方へ御茶を奉るよし、

六 辛丑

七 壬寅

八 癸卯
神祖家康公将軍、東海道及越後陸奥等の諸道、五里塚を築しめらる、同年朝鮮国ヨリ聘使ヲ遣シテ和平ヲ乞、故に生捕ノ者ドモヲ返シ遣サル、

十 乙巳
秀忠公将軍、或説に、今年長崎桜の馬場に始て煙草を植といふ、

十一 丙午
2江戸御城1、御本丸御普請出来に依て御移徒あり、
一、此節柳町の場所御用地ニ付、傾城や共悉く元誓願寺前へ引越申候由、
江戸御城御本丸と西御丸との間にて観世今春勧進能興行す、其跡にてお国と云女歌舞伎を興行す、同年伏見三年番始る、八月十二日より代る、永楽銭通用御停止、林道春ヲ儒官に仰付らる、烟草御制禁、琉球国王駿府江戸の御城に来朝す、是去年島津家へ仰付られ彼国御征伐降参するによつて也、

十二 丁未
駿河御城成、

十三 戊申

十四 已酉
琉球人来、

十五
尾州名古屋御城立、

十六 辛亥
秀頼公上洛、琉球国より聘使来ル、
庄司甚内、甚右衛門と改名の事は、勾坂甚内といへる悪党と諍論対決におよびける時、其名おなじき故、甚右衛門と改と云々、

十七 壬子
大鳥逸平并同類江戸にて誅せらる、是喧嘩を好み、仕切をなす悪党也、
大鳥逸平、京都に行止るよしを、御役人中とり手として御出有り、于レ時市橋恕軒斎といふ剣術者しのびてとりかたに上り、かれ等が遊び居たる茶やへ入て、御上意也と声かけしに、逸平心得たりと太刀をぬいて切ければ、酒樽を切て柱まで切こみけり、されども恕軒手だれなれば終には生捕、江戸に引、此後逸平申けるは、我等差料の剣ハ恕軒にゆずりたきよし申て、則恕軒へ伝ふ、此太刀、西田道恕が家に伝ゆ、はちまきと云、
寛文年中市橋恕軒、野村良意へ免許剣術の巻物を見るに六字流柔術トアリ、
一、慶長十七年の頃、庄司甚右衛門、御府内に遊女町の儀、初て御訴訟申上る、京都大坂駿河其外諸国の津湊、惣而繁昌場所、先規より御免之傾城町二十四ケ所有之候、然所御江戸日に増シ御繁昌に候ヘバ、一ケ所の遊女町無2御座1分散仕候ハゞ、御町中の為不宣事も可之旨、三ケ条之願書、米津勘兵衛様御町奉行、御評諚所へ本多佐渡守様御出座、追て可2仰付1旨也、

十八 癸丑
南都大仏鐘鋳、

十九 甲寅
洛大仏鐘成、
江戸御城御普請、諸大名へ被2仰付1、同年南蛮人紅毛人等来朝ス、

二十改元、元和乙卯年
五月大坂落城、禁裡仙洞并武家及仏家等の法式を定らる、正月五日古幡随意上人寂、
一、元年冬の頃、御伝奏所へ被2召出1、キミガテゝの事

二 丙辰
家康公御薨去

(中略)

七 辛酉
東福門院御入内、

八 壬戌
四月、日光御社参、

九 癸亥
家光公将軍御上洛、

寛永元 甲子
東叡山草創造之、 
一、中村勘三郎芝居始、

二 乙丑
東叡山ニ御宮御建立、

三 丙寅
行‐2幸二条御城1、四月より八月迄旱、三年二条御城在番始ル、但御番衆計三十人組により差人なり、寛永三寅ノ秋御上洛ノ節、仙台家の諸士一キワ花ヤカナル御出立ニヨリ伊達ト云言葉ハジマル、
一、元吉原に於て角町を開く、外町より後なる故には裏行十三間也ト云、

四 丁卯
大地震、八月洪水、

五 戊辰
仙洞御造営
一、五年十一月よし町と堀江町の間へ橋を懸る、是をおやじ橋と云事、庄司甚内が懸たる故也と云々、

(中略)

十四
肥前島原一揆蜂起、
一、新町河合権左衛門内雲井といふ女郎は、宮本武蔵が相方なり、島原陣の時、此家より出立して、黒田様内陣へ宮本武蔵御見参にまいりけるよし、

十五 戊子
一揆ヲサマル、

十六 已卯
駿府御城在番始て御書院番仰付らる、江戸御本丸御殿焼失す、御天主御櫓ハつゝがなし、
卯九月姫君様、尾州様御入輿の御時、乍レ恐(吉原丁ノ者)御道具持の人歩百人被2仰付1、其の節玉はりし素袍袴秘蔵之所、延宝四年辰年皆々焼失仕候由、

十七 庚辰
十二月御城御煤払、今年始る、
一、同年已卯年、加々爪民部様奉行之節、江戸町に於風呂や女発興して、吉原の者共是をうらやみひそかに風呂やへ遊女を出し候事露顕、誰々十一人御仕置被2仰付1候由、
一、寛永の頃迄は遊女の役目として御評定所へ御給仕罷出候申伝へ候、

(中略)

二十一年改元正保元年也、清朝順治元年、
諸家系図御改、
一、寛永廿一年三月五日、京町高島屋清左衛門内かつらと云遊女に逢候、客人大喧嘩にて騒動致候、是を元吉原のかつら事と云、
一、正保元年十一月十八日、庄司甚内死、願誉浄心信士と豪、深川雲光院に葬る、寛永江戸図ヲ見ルニ、雲光院、此時は馬喰町辺ニアリ、
一、寛永正保の頃、名にたちたる遊女やには、江戸町西村庄助、二丁目山田三之丞、角町並木源左衛門、京丁高島や清左衛門、京町三浦屋四郎左衛門、新町山本芳潤等也、其頃ハ溢者等も入こみ、或は人心も至て強く、意気地を争ふが故に、喧嘩口論も多かりし故にや、みな/\用心のため柔術など習嗜て、宮本武蔵の弟子にて、就中並木源左衛門山田三之丞などよく得たる由申候、
一、宮本武蔵ハ新町河合権左衛門内雲井といふ女郎の相方にして遊はれけるが、寛永十五年島原一揆の時、黒田様の御陣へ見舞に参るとて、いちま乞ながら、かの雲井が許に来られ、かの女にさし物を縫はせ、勇々敷出立、直に騎馬にて肥前へ参られけるよし、
一、新町野村玄意は、其頃隠なき柔気一流の名人、市橋恕見斎の弟子に宮本氏とも懇意也、
寛永年中元吉原の旧地絵図等見及候所、江戸町二丁目の名、けん蔵主町と有レ之、延宝の図にも、二丁目ヨリ伏見町河岸の所に、けんどん町と書付有之、ケン蔵主の転ジタル語カ、此事一向に今旧記も不2相知1、別名にやとも、
此なやと云ハ元来二丁目にて、今の玉や山三郎が家也、其古説はしれず、吉原旧記に元禄十六年廿六日大松寺焼と有り、此寺のことにや、かの僧などの拠有て、けん蔵主町の名あるにや未詳、

正保二年 乙酉
天海僧正に仰付られ一切経を板行あり、
一、正保二年十一月、角町並木屋源左衛門内遊女佐香穂、法心の思ひしきりにして、御町奉行朝倉石見守様ヱ御訴訟申上、尼に成度段申依、主人ヱ御尋の所、望のことく尼にいたし、長谷川町本立寺の弟子と成候、貞閑尼と号、
佐香穂発心ノコトハ、年月馴染シ客人、西国方ノ士也ケルガ、殉死ノ期、カタミノ文ヲ玉ヒケルヨリ、フカク世ヲイトフ心トナリケルト也、
一、正保慶安より明暦年中迄、端々風呂や夥敷繁昌にて、明暦に至て二百軒余有之候所、悉御潰し御停止被遊候、
風呂ヤの作りは、吉原のサンチヤのかゝりのよふに作り、見世の庭の角に畳ミ小半畳計の腰かけを置たるよし、

三 丙戌 
大明国より国性爺が使、加勢を乞に来る、
家光公の三男綱吉公御誕生、


江戸王子にて犬追物御上覧(島津光久興行)

慶安元 戊子
天海僧正を慈眼大師ト号、

二 已丑
日光御社参、武州川越大霰、
一、慶安二年十月十八日、庄司甚右衛門妻死、浄誉清閑信女、
一、慶安の頃、二丁目揚屋喜斎といふもの、三味線の名人にて、喜砦が六筋がけとて名誉なりと云々、

三年 庚寅
諸国に毛降、九月国々洪水、
紅葉山御宮に鳥居建、尚六月参勤の大名衆、八月末に参勤可仕旨被2仰出1、江戸町人伊勢ぬけ参りはやる、

四年 辛卯
家綱公将軍、家光公薨去、大猷院様ト申奉ル、
由井正雪、丸橋忠弥御成敗、

五年改元承応元年 壬辰
一、慶安五年辰六月十三日、庄司甚右衛門娘なべ死、(二代目甚之丞妻也)夏屋清俊信女、

二 癸巳
大裡炎焼、祇園造営、

三 甲午
隠元来朝、新番の指物五色の吹流に定らる、
一、承応三年十一月、キリムギ町辺より出火の節、吉原町の者つよくふせぎ申候、其節別而働候もの、角町吉蔵、同丁源左衛門、同喜右衛門、同町町代半蔵、江戸町甚左衛門、同市兵衛、同所左衛門、同二丁目七蔵、三之丞、半左衛門、京町喜右衛門等也、御町奉行石谷将監様より御褒美として御樽一荷鴨一番給はる、
一、承応明暦の頃、名高キ遊女に山本芳潤が家の勝山、今勝山風と云髪の結あり、此遊女より始る、また丹前といふも、此女の風俗より出立せる事也、同家の常盤名取也、

  • 見まいらせ候はぬときは花よ夢  京大文字や 重頼
  • 姫松のかはらぬ色や常盤御前       雑屋立圃

同じ頃高島やが家のかほるまた全盛也、

(中略)

明暦二年 丙申
一、明暦二年申十月九日、石谷将監様御町奉行職之節、吉原町の者共御召被レ遊、只今迄の場所御用地に付、屋敷替被2仰付1間、急度御請可2申上1旨被レ仰候、代地の儀ハ本所の内か、浅草寺後の辺り、右両所の内にて勝手次第御願申上べく由、年寄共、元吉原の地面に四十余年住ひ候上、遠方へ引越候儀、何共迷惑至極に奉レ存候儀申上候得共不2相叶1、罷帰相談いたし候所、此段按にいまだ此節ハ本庄といふてハ、一向に両国橋新大橋永代橋等の橋もなく、甚不通路の所にて、浅草今の地面ハ沼にてもあれ、観音の参詣も有、日本堤の往来もたより能ければにや相談をきわめ、
一、扨同申十一月中、又々被2召出1候、弥浅草之儀御願申上候へば、石谷将監様神尾備前守様被レ仰候には、吉原町の者共の儀、遠方へ被遣候間、其代として御慈悲を以諸徳あまた被2下置1候間、難有奉存べき旨被2仰渡1候、
一、只今迄、二丁四方の場所なれ共、此度新地にては五わりまし、二丁に三町の処被2下置1候事、
一、只今迄、昼計商売いたし候へ共、遠方へ被遣候代りに、昼夜の商売御免の事、
一、御町中に二百軒有之候風呂屋共、悉御潰し被遊候事、
一、遠方へ被遣候ニ付、山王神田両所の御祭礼并に出火之節、跡火消等の町役御免之事、
一、御引領として御金一万五百両被2下置1候事、
但小間一間ニ付十四両ならし、

旧記に云、明暦二年申十二月廿七日拝領金請取の帳面、并に町内割渡し帳面、右名主方に有レ之由、

十二月廿七日拝領金請取人
一、本柳町     市兵衛   太郎兵衛
一、本柳二丁目   治右衛門  彦右衛門
一、京柳町     清左衛門  茂右衛門
一、京柳町二丁目  芳潤    亦左衛門 
一、角町      甚助    喜兵衛
一、西河岸     長兵衛   仁兵衛
一、大門通り中ノ町 道西    五右衛門
一、二丁目河岸   与五右衛門 小右衛門
一、新町両側会所地 九郎右衛門 太右衛門
右請取人共、将監様御役所へ被2召出1、今日浅草御蔵へ参、御金頂戴可仕旨即日五町年寄行事之者共名前、右のごとし、御蔵へ参り頂戴仕候、月迫に及候故、来春より代地普請取かゝり可申との御事也、

明暦三年 丁酉
正月江戸大火、御城御本丸御天守等炎焼、西御丸恙なし、焼死する者多し、尸骸を本所に埋、回向院建、
正月十八日、本郷本妙寺より失火して、元吉原町も悉焼亡す、二月始の頃、吉原年寄共ヲ御奉行所へ御召、此度大火ニ付、所替の事、先当分仮家にて商売可レ致旨被2仰渡1ほどなく諸国より諸職人等当地に入込て、江戸の賑始に倍せり、同年四月八日、石谷将監様神尾備前守様地方會根源左衛門様、日本堤へ御越、場所御見分被レ成、傍示御定杭御建被レ下、今の大門口より土手迄真直に縄はりいたし候を、備前守様御指図にて三曲に道を作りたり、其間五十間成ル故、今以五十間道と云、土手の下り坂を衣紋坂といふ、是ハ大門が見ると衣紋をかいつくらふが故に云と也、
同六月九日、又々吉原年寄共を将監様へ被2召出1、当月中引越可申旨被2仰渡1、同時に今戸新鳥越三谷村之百姓共へ被2仰渡1、吉原町の者共、代地家作出来迄ハ、右三ケ所之者共、住宅をかし商売為致候事くるしからず、但宿賃ハ相対次第に可致由被仰候、
同六月十四日、十五日には、元吉原より遊女共不残三ケ所の旅宿へ引越す、其見物おびたゞし、
同年六月七月ハ右仮宅にて渡世いたし、八月十日時分迄に普請出来して悉引移候由、

万治元戊戌年
御切米御張紙始て出る、同年定火消四組始て仰付らる、伊勢内宮エンゼウ、江戸日本橋始てかゝる、

二年 己亥
両国ばしを造る
土手道哲、西方寺及び三谷鳥越春慶院にある所の高尾が石塔、法名天誉妙身、万治二年とあり、西方寺は石地蔵の石塔、春慶院ハ蓮花のほり有て、寒風にもろくも散し紅葉哉と云発句あり、いづれ其縁ある客などの建し石なるべし、三浦や菩提所ハ浅草榧寺正覚寺也、又高雄が塚の事、宝永の頃の江戸鹿子にハ葉柴村正光院と云、浄土寺に有、そのかみ三浦四郎左衛門内二代目の高尾といふ遊女、おもき病におかされ云々、万治の初つかた身まかりぬ、そのからを今の正光院の客殿の左かたに埋ミ、あとのしるしに紅葉を一もと植置きぬ、(略文)私按に是春慶院の事なる歟、
又云、三ツ股の瀬に沈ミシ高尾も、万治寛文の頃とか聞ゆ、いづれなるや、

万治三年 庚子
日本国中の寺社へ御朱印地二百十万石程を附させらる、大坂大雷、森田勘弥芝居始る、
万治の頃、江戸中、髪結仲間御焼印頂戴のよし云、万治寛文の頃、名取の遊女名よせ文句、洞房語園ニ見ゆ
叉京町新屋三郎右衛門抱吉田おなじく千とせなどいふもの名高かりし由、就中吉原四天王と云は、

  • 京町高島屋内勝山  新町建出内井筒
  • 角町高砂や内かるも 同万字や内朝づま

など聞へ侍る、
老人の話に、大門口外五十間道茶屋共の事、古来元吉原にて大門外に居候待合の茶屋共、少々此所へ来り、同じく門外にて、かし編笠など致しける由、五十間道、高札場前髪結床二ケ所、右一ケ所ハ大門通りより同じく来り候木瓜や三左衛門と云者、寛文延宝の頃にや、此新吉原類焼候頃より、此所へ床見世出し渡世致し、同人弟子伊兵衛とやら云者も、一ケ所床しつらひ、都合二ケ所有之、貞享元禄宝永享保元文の間、度々御見分をも請候由、其髪結商売向之事、右三左衛門書伝へ之旧記、床主所持のよし也、

○万治寛文に至り、江戸端々に茶や遊女発興す、是ハ大方明暦年中御停止被2仰付1候風呂屋共、品を替て茶たて女と称し、大勢抱置、依間江戸町二丁目名主源右衛門ヲ頭梁とし、御奉行所村越長門守様渡辺大隈守様へ御訴訟申上、急度証拠を取置、遊女大分有之候故、小道具ヤ九右衛門を買上に遣し置、寛文三卯十一月廿六日夜、吉原より町人十八人船にて参り、并鉄砲洲三崎築地之茶屋町善右衛門と云者抱の遊女小太夫捕へ、并主人善右衛門、其外遊女三人迄捕、御番所へ召連申候、彼所の者共大勢申合出合、長道具刀大脇差を抜いぇ手むかひいたし、捕候遊女奪ひ取、吉原二丁目仁右衛門追かけ、叉此方へ取かへし候、此節吉原角町権治郎召使之男、左の手首を切落され、江戸町二丁目九郎右衛門家来八右衛門手疵負申候、其内跡より吉原年寄共人足五十人遣候故、茶屋の者引取申候、

寛文元 辛丑
寛文の初より鉄棒組吉屋組など云男達、土手ぶしといふ物をうたふ、

(後略)

(三田村鳶魚編『未刊随筆百種』 第2巻を底本としました。) 

関原軍記

関原軍記(一部)

作者未詳

ここに美濃国加賀井の城主駿河守が嫡子同名弥八郎重秀(重望の誤)といふ者あり。当時無双の大力にて、谷川の早き流れに戸板を押して逆登り、山に入りて熊猪などを手取りにする、大力無双の勇者也。(略)弥八郎浪人して江州に有りける時、短気無双の男にして、ややもすれば人を打ち殺し、又は片輪にしければ、諸人弥八郎が振舞を愁ひける。元来弥八郎篤実の者なれば、我短気にして人の為に憎まるる事を知りて、行跡を改めんといふ心あり。或る時、隣の老人弥八郎が前に来て、無性に溜息をつきければ、弥八郎老人に向ひて、此の年は豊年にて、五穀よく成就して、国中に少しの愁ひ災ひ等なし。然るに老人は何を愁ひて歎息し給ふや。老人答へて、仰せの如く五穀もよくみのりて豊年なれども、当国には三つの害あり。これを除かずんば、何ぞ我々楽み申さんや。弥八郎聞きて、其の三つの害といふはいかに。老人答へて申すは、越智川(愛知川)に夜な夜な蝮蛇出でて人を呑み喰ふ。伊吹山の奥に鬼神有りて近辺の男女を奪ふ。これ二つの害也。御辺大力量に任せて、猥りに人を悩ます。合して三つの害也と云ふ。弥八郎笑ひて、某其の三害を除きて、汝等を安楽にすべしとて、風雨の夜を待ちて越智川に来て、蝮蛇や出るやと待つ処に、深更に及んで、大地俄に震ひ動き、四方に雲を起して、諸木を左右え押し分け/\、其丈け数十丈の蝮蛇頭を上げ、百連の如き眼を怒らし、紅ひの舌を巻きて、のたり出づるを、弥八郎見るよりも川中え飛び込んで、件の蝮蛇の上に打股がり、弐尺三寸引き抜いてゑぐり通せば、蝮蛇苦んで七転八倒するを、終に是を差し殺し、それより伊吹山の奥に入りて、鬼神を退治せんと、鉄の棒を引っ提げて伊吹の山奥へ入りける。抑伊吹山の鬼神、旅人を殺し近辺の女を奪ひ、国中の害となれども、誰有つて是を退治せんといふ者もなく、又たま/\件の鬼神を見る者は、忽ち震ひ付きて瘧を震ふ。これに依つて諸人恐れけり。弥八郎熟々思ふは、世界に何ぞ鬼といふ者あらんや。必定山賊の類ひならん。是を退治せん事、手の内にありと、木こりの体に様を替へて、鉄の棒を杖にして、谷を越え峰をよぢ、段々山深く分け入る処に、峨々たる巌を楯に突き、大木の茂りたる中を住家として、赤鬼青鬼其の外七八人見えける。弥八郎熟々見て、何様愚民共が恐れるも尤も也。然も片腹痛き盗賊共やと思ひ、彼等が這入り口の前につつ立ちけり。鬼共是を見て、ああ人くさい風が吹いて来たはと云ひながら、弥八郎が有様を見て、皆々大音上げ、愚人夏の虫、鷹の巣に鼠が入りたる同前なり。さりながら木こり山がつの体なれば、身に貯へたる物もなし。棄て置け棄て置けといふを、弥八郎幸ひと、完爾々々と笑ひ掛け、近々と寄りて、彼の鉄の棒追つ取り直して、大将と覚しき鬼の真向を丁ど打つ。血烟りと諸共に、頭は微塵に砕けたり。残る奴原是を見て、推参也、遁さじと手鉾を取つて打つて掛るを、弥八郎物ともせず、弓手馬手に薙ぎ倒し、さても腰骨弱き鬼共かな。さぞかし閻魔大王の力落しならんと、から/\と打ち笑ひ、死んだる鬼共を見れば、鬼形の面をかぶり、赤熊を着て居たり。是より盗賊の難かつて無し。諸人安堵しける。其の身の短気の振舞を止めて、国中の三害を除きたり。

○此の説晋の周処字子隠ト同日ノ論也

(『好色一代男全注釈』上巻解説所収文を底本としました。)













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