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伽婢子
伽婢子
浅井了意著
巻之二
割竹小弥太売2妖女1事(狐の妖恠)
江州武佐の宿に、割竹小弥太といふものあり。もとは甲賀に住て相撲をこのみ、力量ありて心も不敵なりけるが、中比こゝに来り、旅人に宿かし旅籠をもつていとなみとす。ある時所用の事ありて篠原堤を行けるに、日すでに暮かゝり、前後に人跡もなし。只我独り道をいそぐ。そのあひだ、道のかたはらにひとつの狐かけいでゝ、人の曝髑髏をいたゞき、立あがりて北にむかひ礼拝するに、かの髑髏地に落たり。又とりていたゞきて礼拝するに又落たり。落れば又いたゞくほどに、七八度に及びて落ざりければ、狐すなはち立居心のまゝにして、百度ばかり北をおがむ。小弥太ふしぎにおもひて立どまりてみれば、忽に十七八の女になる。そのうつくしさ国中にならびもなくおぼえたり。
日は暮はてゝ昏かりしに、小弥太の前に立て声うちあげ物あはれに啼つゝゆく。もとより小弥太は不敵ものなれば、すこしもをそれず女のそばに立より、いかにこれは誰人なれば、何故に日暮てたゞひとり物がなしく啼さけび、いづくをさしておはするやらんといふ。かの女なく/\こたへけるは、みづからは是より北の郡余五といふ所のものにて侍べり。このほど山本山の城を責とらんとて、木下藤吉郎とかやきこえし大将はせむかひ、その引足に余五・木下のあたりみなやきはらひ給へば、みづからが親兄弟は山本山にして打死せられ、母はおそれて病出たり。かゝる所へ軍兵打入て、家にありける財宝はひとつも残さずうばひ取たり。母声をあげてうらみしかば切ころしぬ。みづからおそろしさに草むらの中にかくれて、やう/\に命をつぎけれども、親もなく兄弟もなし。頼むかげなき孤子となり、いづくに身をゝくべきたよりもなければ、今はたゞ身をなげて死なばやとおもひ侍べるに、かなしさは堪がたくて人めをもしらず啼侍べるぞやといふ。小弥太聞て、まさしく狐のばけて我をたぶろかさんとす。我は又このきつねをたぶろかして徳つかばやと思ひ、げに/\あはれなる御事かな。親兄弟もみなになりて、立よるかげもおはしまさずは、幸にそれがしの家まことに貧けれども、一人をやしなふほどの事はともかうもし侍べらん。わが家の事心にしめてまかなひつかはれ侍ばらば、たのもしく見とゞけ侍べらんといふ。女大によろこびて、あはれみおぼしめしやしなふて給らば、みづからがため、父母の生れかはりとおもひ奉らんとて、うちつれて武佐の宿にいたり、小弥太が妻にたいめんしてさきのごとくにかきくどきなきければ、妻もあはれに思ひ、ことさら形のうつくしきを見ていたはりいつくしむ。小弥太露ばかりも妻に狐の事をかたらず。
天正のはじめ、江州漸やくしづかになり、北郡は木下藤吉郎是を領知し給ふに、石田市令助京よりくだりける次に、武佐の宿小弥太が家にとゞまり、かの女を見てかぎりなく愛まどひ、いかにもして此女を我にあたへよといはれしかば、小弥太いふよう、歴々の諸大名みな望み給へども、今にいづかたへもまいらせず。それがし身すぎのたよりよろしく宛おこなひ給はゞ奉らんといふ。石田聞て、金子百両を出しあたへ、女を買とり打つれて岐阜に帰られたり。
女いと才覚あり。よろずにつきてさか/\しう利根にして、人の心にさきだち物をまかなふ事、石田がおもふごとくなれば、本妻をもかたはらになし、只此女を寵愛す。されども女は少もたかぶるけしきもなく、本妻の心をとりて、みづからは妾なり。いかでか本妻の心をそむきたてまつらんやとて、夜る昼まめやかにつかへ侍べりしかば、本妻もさすがに憎からずねんごろにいとおしみけり。出入ともがらにもほど/\につきて物なんどとらせけり。あるいは絹小袖・ふくさ物・針・白粉やうのたぐひ、いつもとめをくともみえねどとり出して賦つかはす。しかもその身麻績、つむぎ、物縫、ゑかき、花結びまでくらからず侍べり。石田が家にこそ賢女をもとめけれととり沙汰あり。
半年ばかりの後、石田又京都にのぼる。女いふやう、かならず忠義をもつぱらとして私をわすれ、千金よりをもき御身を小細の事に替給ふな。御内の事はみづからに任せたまへとて、出し立て、京にのぼせたり。京にして高雄の僧祐覚僧都に対面す。祐覚つく/\〃と見て、石田殿は妖恠に犯されて精気を吸れ給ふ。はやく療治し給はずは、命を失給ふべし。此相それがし見損ずまじといふに、石田更に信ぜず、我をあざむく売僧の妄語、今にはじめずとて、打わらひしが、程なく心地わづらひき、面の色黄に痩て、身の肉かれて膏なし。たゞうか/\として物ごと正しからず。家人等おどろきさま/\〃医療すれどもしるしなし。此時に高雄の僧のいひし事を思ひ出して、祐覚を請じて見せしむ。僧のいはく、此事は我更に見そんずまじ。初めわがいふ事を信ぜずして、今この病あらはれたり。仏法の道は慈悲をさきとす。祈祷をもつてこれを治せむ。はやく国に帰して待べし。我もくだりてしるしをあらはさんといはれしかば、家人等おどろき、祐覚ともろ友に夜を日につぎて岐阜に帰り、壇をかざり、廿四の灯明・十二本の幣をたて、四種の名誉をたきて、一紙の祭文をよみて禳していはく、
維年天正歳次甲戌今月今日、石田氏某妖狐のためになやまさる。夫二気はじめてわかれ、三才すでにきざし、物と人とをの/\その類にしたがふて、性分その形をうけしよりこのかた、品位みなひとしからず。こゝに狐魅の妖ありて恣まゝに恠をなし、木の葉をつゞりて衣とし、髑髏をいたゞきて鬘とし、兒をあらため媚を生ず。渠常に氷を聴て水を渡り、疑をいたす事時として忘れず。尾を撃て火を出し、祟を作こと更に止ず。この故に大安は羅漢の地に奔り、百丈は因果の禅を詰る。千年の恠を両脚の譏にあらはし、一夫の腹を双手の賜に破らしむ。粤に石田氏某は軍戸の将師、武門の命士なり。何ぞ妄に汝が腥穢をほどこして、その精気をうばふや。身を武佐の旅館によせて、愛を良家の寝席に興さしむ。汝が状は綏々、汝が名は紫々、式てその醜をいひ、唱てそのはぢをしめす者也。首丘はその本を忘れざることをいふといへども、虎威を仮の奸ことは隠すべからず。汝今すみやかに去。速かに去。汝しらずや九尾誅せられて、千載にも赦なきことを。誰か汝が妖媚をいとひにくまざらん。もしすみやかにしりぞき去ずは、州郡大小の神社をおどろかし、四殺の剣をもつて殺し、六害の水に沈めん。
とよみ終りしかば、俄に黒雲たなびき大雨ふり、雷電おびたゞしく鳴渡りければ、女はなはだをそれまどひ、そのまゝたをれて死けり。家人等おどろき立よりてみれば、大なる古狐なり。首に人のしやれかうべをいたゞきて落ずしてあり。此女の手より人につかはしあたへたる物ども、取よせてみれば、絹小袖とみえしはみな芭蕉の葉、白粉といひしは糠埃なり、針かとおもひしは松の葉也けり。石田氏が心地快然と涼やかになり、忽に平復して、此物どもをみるにあやしき事かぎりなし。狐の尸をば遠き山のおくにうづみ、符を押て跡を禳ひ、丹砂・蟹黄なんど調合の薬を服せしめて、その根本を補なひ、さて武佐の小弥太をたづねさするに、女を売て徳つき、家をうつしていづち行けるともしらず。まさに狐魅よく人を惑はし、祐覚僧都の法験を感嘆しけるとぞ。
この話は『剪燈余話』巻三「胡媚娘伝」の原話を翻案したものとされる。原話は、河南省新鄭県の駅卒の黄興が、髑髏を戴き月に向って拝して十七、八歳の美女(胡媚娘)と化した狐を連れ戻り、福建省の役人蕭裕に売る。祐が憔悴していくのを道士尹澹然が見破り、符文で難を逃れるというもの。これを見るに、狐が人間に化け、人を誑かすという概念は中国から伝わったと考えられる。恐らく多くの仏典とともに、これらの説話・小説類も多く輸入されたのだろう。
巻之三
牡丹灯籠
年毎の七月十五日より廿四日までは、聖霊のたなをかざり、家々これをまつる。又いろいろの灯籠をつくりて、あるひはまつりの棚にともし、あるひは町家の軒にともし、又聖霊の塚にをくりて、石塔のまへにともす。その灯籠のかざり物、あるひは花鳥、あるひは草木、さま/\〃しほらしくつくりなして、その中にともしびともして夜もすがらかけをく。これを見る人道もさりあへず、又そのあひだにをどり子どものあつまり、声よき音頭に頌哥出させ、ふりよくをどる事、都の町々、上下みなかくのごとし。
天文戊申の歳、五条京極に荻原新之丞といふものあり。近きころ妻にをくれて愛執の涙袖にあまり、恋慕のほのほむねをこがし、ひとりさびしき窓のもとに、ありし世の事共思ひつゞくるに、いとゞかなしさかぎりもなし。聖霊まつりのいとなみも、今年はとりわき此妻さへなき名の数に入ける事よと、経よみゑかうして、つゐに出てもあそばず、友だちのさそひ来れども心たゞうきたゝず、門にたゝずみ立て、うかれおるより外はなし。
いかなれば立もはなれずおもかげの 身にそひながらかなしかるらむ
とうちながめ、涙をゝしぬぐふ。
十五日の夜いたくふけて、あそびありく人も稀になり、物音もしづかなりけるに、ひとりの美人、その年廿ばかりの女の童にうつくしき牡丹花の灯籠もたせ、さしもゆるやかに打過る。芙蓉のまなじりあざやかに、楊柳のすがたたをやかなり。かつらのまゆずみ、みどりのかみ、いふばかりなくあでやか也。荻原、月のもとにこれを見て、これはそもあまつをとめのあまくだりて人間にあそぶにや、龍の宮の乙姫のわだつうみより出てなぐさむにや。まことに人の種ならずとおぼえて、たましゐとび心うかれ、みづからをさへとゞむる思ひなく、めでまどひつゝうしろにしたがひてゆく。前になり後になり、なまめきけるに、一町ばかり西のかたにて、かの女うしろにかへり見てすこしわらひていふやう、みづから人に契りて待わびたる身にも侍べらず。ただこよひの月にあこがれ出て、そゞろに夜ふけがた、帰る道だにすさまじや。をくりて給かしといへば、荻原やをらすゝみていふやう、君帰るさの道もとをきには、夜ふかくしてびんなう侍べり。それがしのすむところは、塵づかたかくつもりて、見ぐるしげなるあばらやなれど、たよりにつけてあかし給はゞ、宿かしまいらせむとたはふるれば、女うちえみて、窓もる月をひとり詠めてあくるわびしさを、うれしくもの給ふ物かな。情によはるは人の心ぞかしとて、立もどりければ、荻原よろこびて、女と手をとりくみつゝ家に帰り、酒とり出し女のわらはに酌とらせ、すこしうちのみ、かたふく月にわりなきことの葉を聞にぞ、けふをかぎりの命ともがなと、兼ての後ぞおもはるゝ。萩原、
また後のちぎりまでやはにゐまくら たゞこよひこそかぎりなるらめ
といひければ、女とりあへず、
ゆふな/\まつとしいはゞこざらめや かこちがほなるかねごとはなぞ
と返しすれば、萩原いよ/\うれしくて、たがひにとくる下紐の、結ぶ契りやにゐまくら、かはす心もへだてなき、むつごとはまだつきなくに、はや明がたにぞなりける。
萩原、その住給ふ所はいづくぞ。木の丸殿にはあらねど名のらせ給へといふ。女聞て、みづからは藤氏ののすゑ、二階堂政行の後也。そのころは時めきし世もありて家さかえ侍べりしに、時世うつりてあるかなきかのふぜいにて、かすかに住侍べり。父は政宣、京都の乱れに打死し、兄弟みな絶て家をとろへ、わが身ひとり、女のわらはと万寿寺のほとりに住侍べり。名のるにつけては、はづかしくも悲しくも侍べる也と、かたりけることばやさしく、ものごしさやかにあいぎやうあり。すでに横雲たなびきて、月山のはにかたふき、ともし火白うかすかに残りければ、名ごりつきせずおきわかれて帰りぬ。それよりして、日暮れば来り、明がたにはかへり、夜ごとにかよひ来る事、更にその約束をたがへず。荻原は心まどひてなにはの事も思ひわけず、たゞ此女のわりなく思ひかはして、契りは千世もかはらじと通ひ来るうれしさに、昼といへども又こと人に逢ことなし。かくて廿日あまりにをよびたり。
隣の家によく物に心得たる翁のすみたるが、荻原が家にけしからずわかき女のこゑして、夜ごとに哥うたひわらひあそぶ事のあやしさよと思ひ、壁のすき間よりのぞきてみれば、一具の白骨と荻原と、灯のもとにさしむかひて座したり。荻原ものいへば、かの白骨手あしうごき髑髏うなづきて、口とおぼしき所より声ひゞき出て物がたりす。翁大におどろきて、夜のあくるを待かねて荻原をよびよせ、此ほど夜ごとに客人ありと聞ゆ。誰人ぞといふに、さらにかくしてかたらず。翁のいふやう、荻原はかならずわざはひあるべし。何をかつゝむべき。今夜かべよりのぞき見ければ、かう/\侍べり。をよそ人として命生たる間は、陽分いたりて盛に清く、死して幽霊となれば、陰気はげしくよこしまにけがるゝ也。此故に死すれば忌ふかし。今汝は幽陰気の霊とおなじく座して、これをしらず。穢てよこしまなる妖魅とともに寝て悟ず。たちまちに真精の元気を耗し尽して性分を奪はれ、わざはひ来り。病出侍べらば、薬石・鍼灸のをよぶ所にあらず。伝尸癆祭の悪証をうけ、まだもえ出る若草の年を、老さきながく待ずして、にはかに黄泉の客となり、莓の下に埋もれなん。諒に悲しきことならずやといふに、荻原はじめておどろき、おそろしく思ふ心つきて、ありのまゝにかたる。おきな聞て、万寿寺のほとりに住といはば、そこにゆきて尋ねみよとをしゆ。
荻原それより五条を西へ、万里小路よりこゝかしこをたづね、堤のうへ柳の林にゆきめぐり、人にとへどもしれるかたなし。日も暮がたに万寿寺に入て、しばらくやすみつゝ、浴室のうしろを北に行てみれば、物ふりたる魂屋あり。さしよりてみれば、棺の表に、二階堂左衛門尉政宣が息女弥子、吟松院冷月禅定尼とあり。かたはらに古き伽婢子あり。うしろに浅茅といふ名を書たり。棺の前に牡丹花の灯籠の古きをかけたり、疑もなくこれぞと思ふに、身の毛よだちておそろしく、跡を見かへらず寺をはしり出てかへり、此日比めでまどひける恋もさめはて、我が家もおそろしく、暮るを待かね、あくるをうらみし心もいつしか忘れ、今夜もし来らばいかゞせんと、隣の翁が家に行て宿をかりて明しけり。
さていかゞすべきとうれへなげく。翁をしへけるは、東寺の卿公は行学兼備て、しかも験者の名あり。いそぎ行てたのみまいらせよといふ。荻原かしこにまうでゝ対面をとげしに、卿公おほせけるやう、汝はばけものゝ気に精血を耗散し、神魂を昏或せり。今十日を過なば命はあるまじき也とのたまふに、荻原ありのまゝにかたる。卿公すなはち符を書てあたへ、門にをさせらる。それより女二たび来らず。
五十日ばかりの後に、ある日荻原東寺にゆきて、卿公に礼拝して酒にえひて帰る。さすがに女の面かげこひしくや有けん、万寿寺の門前ちかく立よりて、内を見いれ侍べりしに、女たちまちに前にあらはれ、はなはだ恨みていふやう、此日比契りしことの葉のはやくもいつはりになり、うすき情の色みえたり。はじめは君が心ざしあさからざる故にこそ我身をまかせて、暮にゆきあしたにかへり、いつまで草のいつまでも絶せじとこそちぎりけるを、卿公とかや、なさけなき隔のわざはひして、君が心を余所にせしことよ。今幸に逢まいらせしこそうれしけれ。こなたへ入給へとて、荻原が手をとり、門よりおくへつれてゆく。めしつれたる荻原が男は、肝をけしおそれてにげたり。家に帰りて人々につげゝれば、人みなおどろき行てみるに、荻原すでに女の墓に引こまれ、白骨とうちかさなりて死してあり。
寺僧たち大にあやしみ思ひ、やがて鳥部山にはかをうつす。その後、雨ふり空くもる夜は、荻原と女と手をとりくみ、女のわらはに牡丹花の灯籠ともさせ出てありく。これに行あふものはおもくわづらふとて、あたりちかき人はおそれ侍べりし。荻原が一族これをなげきて、一千部の法華経をよみ、一日頓写の経を墓におさめてとふらひしかば、かさねてあらはれ出ずと也。
原話は中国元の時代の話『剪燈新話』巻二にある「牡丹燈記」で、慶長五年(1600)には林羅山がこの話を元に「牡丹燈之詩」をものし、慶長末成立とされる『奇異雑談集』や慶安年中成立の『霊怪艸』に翻訳された。さらに浅井了意が日本的に翻案し、我国に広く受け入れられた物語とされ、明治十七年には三遊亭円朝が「怪談牡丹灯籠」の怪談話として語り、現在に続いている。
巻之七
飛加藤が術の事
越後の国、長尾謙信は、春日山の城にありて、武威を遠近にかゝやかし給ひける所に、常陸の国秋津郡より、名誉の竊盗(しのび)のもの来れり。しかも術品玉に妙を得て、人の目をおどろかす。
ある時、さま/\〃の幻術をいたしける中に、ひとつの牛を場中にひき出し、かの術師これをのみ侍べり。一座の見物きもをけし、きどくの事にいひけるを、その場のかたはらなる松の木にのぼりて見たるものありて、たゞ今牛をのみたりとみえしは、牛のせなかにのり侍べりとよばゝるに、術師はらをたて、その場にて夕顔をつくる。二葉より漸々に蔓はびこり、扇にてあふざければ花咲出つゝ、たちまちに実なりけり。諸人かさなりあつまり、足をつまだてゝ見るうちに、かの夕がほ二尺ばかりになりけるを、術師小刀をもつて夕顔の蔕を切ければ、松の木にのぼりて見たるものゝくび切落されて死けり。諸人きどくの中にあやしみをなし、眉をひそめたり。
謙信きゝ給ひ、御前にめして子細をたづねられしに、幻術の事は底をきはめて得たり。手に一尺あまりの刀をもちては、いかなる堀・塀をも飛こし、城中にしのび入に、人さらにしらず。この故に飛加藤と名をよび侍べりといふ。さらばためしに奇特をあらはし見せよとのたまふ。今夜直江山城守が家に行て、帳台に立をきたる長刀とりて来れとて、山城守が家の四方にすき間もなく番をゝき、蝋燭を間ごとにともし、番のもの男女ともに、おくはし、みなまだゝ(瞬)きもせずして居たりけるに、内には村雨とて逸物の名犬あり。あやしきものを見てはしきりにほえいかり、しかもかしこき狗にて、夜るはすこしもねず、屋敷のめぐりを打まはり/\、猪のしゝといへ共物のかずともおもはぬほどのいぬなり。これをはなちて門中の番にそへたり。飛加藤、すでに夜半ばかりにかしこにおもむき、焼飯ひとつふたつもちて行かとみえし、犬にはかにたふれ死す。かくて壁をのり垣をこえて入けるに、番のもの半ねふりてしらず、あかつきがたに立かへる。帳台にありし長刀、ならびに直江が妻のめしつかふ女の童の、十一になりけるをうしろにかき負て、本城に帰り来るに、女の童ふかくねふりてこれをおぼえず。番の輩ねふるとはなしにすこしもしらず。
謙信これを見給ひ、敵をほろぼすには重宝のものながら、もし敵に内通せばゆゝしき大事也。この者は、心ゆるしてめしかゝへをくものにあらず。たゞ狼を飼てわざはひをたくはふるといふものなり。いそぎうちころせとのたまふ。直江すなはちわがもとによびて、めしとりてころさんとはかりけるを、加藤これをさとりて出ていなんとするに、諸人これをまぼり居たればかなはず。加藤いふやう、なぐさみのため、面白き事して見せたてまつらんとて、錫子一対をとりよせ前にをきければ、錫子の口より三寸ばかりの人形廿ばかり出てならびつゝ、おもしろくをどりけるを、座にありける人々目をすまし見けるほどに、いつのまにやらむ、加藤行さきしらずうせにけり。
後に聞えしは、甲府の武田信玄の家にゆきて、跡部大炊助につきて奉公を望みしに、古今集をぬすみたる竊盗に手ごり(懲り)して、ひそかにうちころされしといへり。
この話の挿話は、唐の大暦年中(766~779)の話をまとめた『剣侠伝』中の「崑崙奴」と推定されている。飛加藤については、『甲陽軍艦末書結要本』(寛文元年刊)に、「武田信玄公、とび加藤と申者奉公に来り、尺八を一つ持てばなにたる堀・塀をもとびこし出入するを、かゝへて隠密御成敗なり。……永録元年午のとしなり」とあるように、既に飛び加藤という忍びの者がいたとされる。また「崑崙奴」では、主人公磨勒が主人のために妓女を秘術を用いて盗み出す話で、了意の話と異なっているが、番犬を殺して忍び入る、匕首でもって高垣を越す術、女を拉致してくるなど、「崑崙奴」中のエピソードと多くの一致がある事が指摘されている。
(平凡社東洋文庫475『伽婢子』1を底本としました。)
画証録
画証録(一部)
喜多村信節著
遊女 白拍子
和名抄、乞盗類に、遊女、楊氏漢語鈔云、遊行女児(宇加礼女、一云、阿曾比、或節云、昼遊行謂2之遊女1、待レ夜而発2其淫奔1、謂2之夜発1也、俗云、夜保知)と有、もとより賤き部類ながら、高貴にももてあそばれき、栄花物語、松のしづえの巻、後三条院天王寺に詣させ給ふ条に、二月廿二日のたつの時ばかりに、御船いだしてくだらせ給ふほどに、江口のあそび、ふたふねばかり参り、ろくなどぞ給はせける、朝野群載、遊女記、自2山城国与渡津1、浮2巨川1西行、一日、謂2之河陽1、往2返於山陽、南海、西海三道1之者、莫レ不レ遵2此路1、江河南北邑々処々分レ派、(一本作レ流)向2河内国1、謂2之江口1、蓋典薬寮味原牧掃部寮大庭庄也、到2摂津国1有2神崎、蟹島等地1、比レ門連レ戸、人家無レ絶、娼女成レ群、棹2扁舟1着2旅船1、以薦2枕席1、声遏2渓雲1、韻飄2水風1、経廻之人莫レ不下忘2家州1虞中浪遊上、釣翁、商客舳艫相連、殆如レ無レ水、蓋天下第一之楽地也、江口則観音為レ祖、中君、小馬、白女、主殿、蟹島則宮城為レ祖、如意、香炉、孔雀、立牧、神崎則河菰姫為2長者1、孤蘇、宮子、刀命、小児之属、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也、上自2卿相1下及2黎庶1、莫レ不下接2牀第1施中慈愛上、又為2人妻妾1歿レ身被レ寵、雖2賢人君子1不レ免2此行1、(中略)、長保年中、東三条院参2詣住吉社、天王寺1、此時禅定大相国被レ寵2小観音1、長元年中、上東門院又有2御幸1、此時、宇治大相国被レ賞2中君1、延久年中、後三条院、同幸2此寺社1、狛犬、饐(正しくはリッシン扁)等之類並レ舟而来、人謂2之神仙1、近代之勝事也、相伝曰、雲客風人為レ賞2遊女1、自2京洛1向2河陽1之時、愛2江口人1、刺史以下自2西国1入レ河之輩、愛2神崎人1、皆以2始見1為レ事之故也、所レ得之物謂2之団手1、及2均分之時1無2慮レ恥之心1者、忿2萬(正しくは厂たれ)之1与2大小1諍論、不レ異2闘乱1、或切2麁絹尺寸1、或分2米斗升1、■■有2陳平分肉之法1、其豪家之侍女宿女下船之者、謂2之■■1、亦遊得2少分之贈1、為2一日之資1云々、(長保の度の事は、前に引る栄花物語に見えたる、是なり、古事談にも、御堂殿御出家の後、七大寺に参らるる時、小観音来れり、御堂このよし聞かれて、赤面ありし、としるせり)また、栄花物語(殿上花見の巻)長元四年九月廿五日、女院(上東門院)すみよし、石清水へ詣させ給ふ云々、くだらせ給ふほどに、えぐちといふ処になりて、あそびども笠に月をいだし、らでん、まきゑさま/\〃に、おとらじまけじとしたて、まいりたり、と有、遊女は、かならず傘をさして、船中にあり、明衡の新猿楽記に、遊女をいふ処、昼荷レ登(正しくは竹冠)任2身上下之倫1、夜叩レ航懸2心往還之客1、といへり、月を出しとは、傘にかける絵をいふ也、小舟をこぎめぐらして、旅船につきて乗うつる事也、櫓をこぐは侍従の女のわざ也、此さま、法然上人画伝などに見えたり、御幸などに、おそれげなく押て参りなどせし、其頃のならひにて、公卿達多く遊女にかよはれし故なり、古事談に、遊女香炉は、小野宮殿と二条関白と、大臣二人に通じたり、とあり、されば、才能もすぐれたるもの多かりとみゆ、年山紀聞、明月記を引て云、建仁三年五月十三日御幸ノ記に、雨降、時々止、已時参2上御向殿1、小時還御、遊女着座、神崎妙スベリテ顛朴ス、今按、これは西行と贈答ありし遊女也、新古今にても、妙とよむべし、といへり、宸遊に侍る事も有し也、また、長門本平家物語、清盛厳島詣の時、室の遊女が贈りし歌、花うるしぬる人もなき我身かなむろありとても何にかはせむ、かやうのたぐひいと多し、漢土には、水滸伝に、徽宗帝、妓女孝師々が家に微行ありし事をいへるは、うきたる事とのみ思ひしに、升菴外集(巻八十六)李師々下(正しくはサンズイに上が突き抜けた下)京名妓云々、徽宗微行幸レ之、見2宣和遣事甕天坐(正しくは月扁)語1、又載、宗江潜至2李師々家1、題2一詞于壁1云々あり、然らば、水滸伝にも、事実なきにはあらず、また、板橋雑記に、在昔、宋徽宗在2五国城1、猶為2李師々1立レ伝云々いへり、
○古へ、遊女の名さま/\〃なれど、仏の名、釈家の語など名付たるが殊に多し、是又流行によれる也、書写上人が生身の普賢菩薩を見たりといへる遊女が名は、何ともなけれども、これは普賢といひしなるべし、宗盛が愛せしゆやといふ女の名、南嶺子に、くまのとよむべし、長秋記に、遊女久万乃と載られたり、熊野権現をことめかしくいはむとて、ゆや権現と申方より、遊女ゆやとよみ来り、謡曲も其誤を受たりと見えたり、長秋記に、然ありやなしや、いぶかし、また謡曲拾葉にも、ゆやとは母が名也、宗盛の愛せられしは、ゆやが娘侍従なるべし、謡に作る処相違せり、といへるも、いかゞあるべき、ゆやは侍従が名にて、侍従は宗盛につかへし時の呼称ならむ、
○遊女、もとは河海のほとり、旅船のはつる処に家居して、小船に乗て出しものとみゆ、価の定めなどはいかゞありけん、しるべからねど、禄の厚薄大かたにはさだまりしなるべし、かくて此徒多くなり、いづこともいはず、人の往還繁き駅路などの処々に出きしにや、東鏡、建久四年、里見冠者義成を遊女の別当となすべし、と有、繁茂せし故としらる、(頼朝卿、景季と橋もとの君には何かわたすべきといふ連歌の事、東鑑に見え、加賀守師高の愛せし萱津宿の遊君、大江定基が語らひし赤坂の遊君力寿など、源平盛衰記に見えたり、大かた宿々には、遊君有し事とみゆ)
○源氏物語、みをつくしの巻、社参のかへさ、難波田簑の島のあたり、(中略)、あそびどものつどひ参れるも、上達部ときこゆれど、わかやかにことこのましげなるは、みなめとゞめ給ふべかめり、されどいでやをかしきことも、物のあはれも、人がらこそあンべけれ、なのめなることをだに、すこしあはきかたによりぬるは、心とゞむるたよりもなきものをとおぼすに、おのが心をやりて、よしめきあへるも、うとましうおぼしけり、といへり、こは双子の地ならねども、作者の心にて、其頃、公卿達まことにはさはおぼさぬなるべし、さればにや、あるじとかたらはれし事共聞ゆ、
白拍子も遊女なり、遊女は音曲はなせども、いまだ舞ことはなかりしを、鳥羽院の御時より始まれりとぞ、是を源平盛衰記には、島千載、若ノ前よりといひ、徒然草には、通憲入道、これを磯ノ禅師といひける女にをしへたり、といへり、白拍子をかぞへて、などいへり、(職人尽の歌にも、一声にてもかぞへばや、といへり)さうぞきたるさまは、盛衰記に、初は直衣に烏帽子、腰刀をさして舞ける故に、男舞と申けり、後には、事がらあらしとて、えぼし、腰刀を止て、水干ばかりにて舞けり、といへる、さもあるべし、そのかみ、女の舞曲を尽せしことなき故也、職人尽の内に見えたるは、曲舞まひのみなり、是も腰刀は佩ず、漢土のむかし、剣器舞は、女妓、雄装、空手にて舞といへるに等し、又おもふに、彼遊女ども、磯の、島のと呼たるは、もと住居し処によりて称へしなるべし、是も高貴に寵遇せられしは、祇王、仏が類ひのみならず、亀菊などは、承久の乱を起せしに至れり、(中つ代、高貴のあたり、風流に過て、かゝるものまで咫尺しやすかりし、近き世になりては聞も及ばず、たゞ、八宮、両本願寺、二条関白など遊興ありて、朱雀に通はれしかば、とり/\〃上の御沙汰に及べり、又その前後、江戸にては、仙台の大守を初め、大家高貴花やかなる遊賞ありける、いづれも其家に事なきはなし、才能、古人に及ばずといへども、猶其頃迄も、拙なからず、手などは書たるものなりしに、今さばかりの者もなく、やむごとなき御方にかたらふべきもの、絶にしのみならず、一統に微毒のおそれありて、中人已上はかりそめにも戯れ難き物となれるは、いとよし、但し、此毒は古も同じかるべし)
傀儡考 百太夫 夷子まはし (一部)
和名抄、雑芸具に、傀儡を載て、久々豆とある如く、偶人なり、然るに遊女と同類のものとすること、何故とも弁へたるものなく、あらぬひがごとのみいふめり、又偏に旅館の出女と心得るは、詞花集(別歌)、あづまへまかりける人の、やどりて侍りけるが、暁にたちけるによめる、(傀儡靡)、はかなくもけさの別のをしきかないつかは人をながらへて見む、などあればにや、是によりて、藻塩草などには、遊女を海辺のあそびとし、傀儡を陸地のあそびとするは笑ふべし、旅館の女をしかいふは、後に准らへていへる也、こは、もと人形を舞し、また放下などせしものゝ妻、むすめどもの色を售しものなれば、傀儡とは呼たるなり、朝野群載第三、傀儡子記曰、傀儡子無2定居1無2当家1、穹廬艶帳遂2水草1以移徒、類2夷狄之俗1、男則皆使2弓馬1以2狩猟1為レ事、或双剣弄2七丸1、或舞2木人1闘2桃梗1、能2生人之態1、殆近2魚竜曼延(正しくは虫扁)之戯1、変2砂石1為2金銭1、化2草木1為2鳥獣1、能驚2人目1、女則為2愁眉啼粧1折腰歩■■笑、施レ朱傅レ粉、唱歌淫楽以求2妖媚1、父母夫知不レ誡■*(シバシバ)雖レ逢2行人旅客1、不レ嫌2一宵之佳会1、徴嬖之余自献2千金1、繍服錦衣、金釵鈿匣具、莫レ不2異有1レ之、不レ耕2一畝1不レ採2一枝桑1、故不レ属2権官1、皆非2士民1、自限2浪上1、不レ知2王公傍1、不レ怕2牧事1、以レ無2課役1為2一生之楽1、夜則祭2百神1、鼓舞喧嘩以祈2福助1、東国美濃、参川、遠江等党為2豪貴1、山陽播州、山陰馬州等党次レ之、西海党為レ下、其名傀、則、小三日、百三、千歳、万載、小君、孫君等也、動2韓娥之塵1、余音繞レ梁、聞者霑レ襟不2自休1、今様、古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満円、風俗、呪師、別法士之類、不レ可2勝計1、即是天下之一物也、誰不2哀憐1者哉、とあり、此文誤写多く、疑はしきことすくなからずといへども、概略は知らるゝなり、舟を家としてうかれありけば、居処の定めなく、男とある者はむねとするしわざなく、弓馬をならひ、木偶を舞し、人にみせて物をこひ、世をわたる也、猟は人気なき鳥山などにわけ入てすべけれども、弓馬とある馬は心得がたし、是を飼置ほどの大舶には、よもあらじ、誤字なるべし、木偶は人つどふ家居多きあたりに行てなす事とはしらる、その妻、むすめよそほひかざりて、色を売を、父母も夫もこれをしれども誡めず、と文には書たれども、さにはあらじ、もとよりしかさするが、此ともがらのなりはひ也、徴嬖の余千金の贈りものあり、といふ条、自他のけじめ弁へがたきやうなれど、是は女どものかたへうくる也、文意は、身を売て富る故に、珍異の服飾たらはぬ物なしと也、専ら歌曲をむねとす、と見えたり、弾吹の具、常に、身に随へありくなるべし、枕双紙に、とりもてるもの、くゞつのことゞり、といへり、そのかみのいひならはしにや、何にまれ、弾く物をばことゝいふ也、浪のうへに生涯を送りて、王公あることをしらず、課役なければ、いきほひ有人をも怕れず、などいへれば、是乞盗類にて、遊女よりも賤劣のもの也、嘉禄四年百首、寄2傀儡1恋、(為家)、大ゐ川岸の苫屋の竹柱うかりしふしやかぎりなりけむ、拾芥抄に云、霊所七瀬大井川傀儡居住上一町云々など見えたれば、家造りて住るもありしは、後の事なるべし、かゝりし後は、遊女にながれて、すべて遊君といへるにや、
○夜ごとに百神を祭りて、福助を祈れる事は、遊女もおなじ、遊女記に、南則住吉、西則広田、以レ之為下祈2徴嬖1之処上、殊事2百太夫1、道祖神之一名也、人別宛(正しくはリットウ)レ之数及2百千1、能湯2人心1亦土風而巳、とある是なり、これらが身は、旅路に在がごとくなれば、道祖神を祭りけむもことはり也、和名抄に、道祖、岐神、路神、と並べ挙たれど、大かたかよはしいへり、又、傀儡神といふことは、今昔物語廿八巻に、もとは傀儡子にて有けるもの、目代になりて、守の前にて下し文に印指す時、傀儡子多く来て、守の前にて歌ひ、笛ふきしに、目代うかれて、三度拍子に印さす、といふことありて、下文に、然レバ、一国ノ目代ニ成テ、オモヒ忘レタル事ナレドモ、尚其心不レ失シテ、シカ有ケム、ソレハ傀儡神トイフ物ノ、狂ハカシケルナメリトゾ、人イヒケル、又、卅一巻、豊前大君、知2世中作法1語の中に、除目ノ前ニ大君ノイフコトヲ聞人不レ成、トイフヲ聞タル人ハ大ニ嗔テ、此ハ何事云ヒ居ル、旧大君ゾ、道祖神ヲ祭テ狂フニコソ有ヌレ、ナドイツテ、腹立テナム返リケル、とあり、そのかみ、さへの神を祭り狂ふ、といふ諺有しとおぼし、傀儡神といひしは、道祖神の事と聞ゆ、百太夫は、おのれ、文化八年の春、津の国西宮にまうでしに、(此時開帳ありて賑はしかりき)御本社に向ひて、左のかた半町余り奥に、小き祠ありて、戸びら開きたり、その内に古き雛めける人形あり、冠衣にて坐する形して、顔は新たに紅白粉をきたなげに塗たり、是、百太夫の神像なり、其伝記など不稽の事なればにや、摂津志、また摂陽群談等の書にも是を載せず、地志などには、とまれかくまれ、記すべきことなるをや、名所図会には、百太夫の祠、神明社の旁にあり、此神は西宮傀儡師の始祖なり、とのみしるせり、社家に板行の影像あり、縮図にして爰に載、これを道君坊と称ふるよしを考ふるに、誤多かり、道君房伝記といふもの有、不稽の妄作なるは、論ずるにもたらぬものなれども、聊誤説の異同に挙るなり、
道君房といふ人は、西宮大神夷子三郎殿の宮司となりて、神慮にかなひしが、此人うせて後、神慮にかなふものなくて、風雨定まらず、つよくあらびしかば、百太夫藤原正清といふものに勅命ありて、道君房が形象を作り、是を舞して、神を慰めまいらしむ、それよりあるゝことやみし程に、百太夫は諸国を巡り、此術を以て諸神を祭るといふ、後に、百太夫、道君房が形象を淡路国にとゞめて、此術を伝ふ、百太夫は淡路国三原に居住す、死後、西宮の傍に祭る、今これを業とするものは、みな百太夫が後弟なり、これ諸国浮業の長たり、寛永十五年文月吉日、坂上入道、とあり、是は道君房を人形とし、百太夫を舞し人にしたり、影像の上に題したるは、道君坊百太夫大神、と二名を一体とす、其説異なるを見れば、此伝記は、淡路の傀儡子が伝ふるものならむ、さはれ、二説ともに誤なり、旧本今昔物語十二巻に、天王寺にすむ僧、名を道公といふ、年来、法華経を誦して、修行す、常に熊野に詣て、安居をつとむ、帰路、紀伊国美奈部郡の海辺にて日暮ければ、大なる樹の下に宿りしに、夜半に馬に乗りたる人ニ三人来て、樹下の翁は候か、といふに、樹下より答て、翁候、といへば、速かに御供すべし、と命ず、翁云、駒の足損ねて乗がたし、明夜はいかにもして参るべし、年老て行歩叶はず、馬乗ども是を聞て打過ぬ、道公これを怪み、夜明け尋みれば、道祖神の形作りたる有、多年を経て朽たり、男の形のみにて、女はなし、前に板に書ける絵馬あり、足の処破れたり、道公是を見て、弥あやしく思ひ、絵馬の破たるを、糸もて綴り置て、今夜よく見む、とて侍けるに、夜前の如く馬のり来ければ、道祖も馬に騎て供に行ぬ、暁に及て道祖帰り来て、道公に向て拝して云、聖人の駒の足、療治し給へるに依て、公事を勤めつ、我は此樹下の道祖也、多の人は行役神にて、国の内を廻るには、必翁を前役とす、若供奉せざれば、罵りて、苔をもて打るゝ、苦み堪がたし、願くは、下劣の形を棄て、上品功徳の身を得むとおもふ、聖人の御力に依べし、といふ、
(中略)
神に太夫の名あるは、八所ノ御霊の藤太夫、橘太夫等の類也、また、続世継、花のあるじの巻、花園ノ左大臣遊事し給ふ処、御せうとの君たち、わが殿上人どもたえず参りつゝ、あそびあはれたるはさることにて、百太夫と世にはつけてかげほしなどの、あさゆふなれつかふまつる、ふきもの、ひきものせぬはすくなくて、外より参らねど、うちの人にて御あそびたゆることなく、伊賀ノ太夫、六条ノ太夫などいふすぐれたる人ども有て云々いへり、これは何くれの太夫といふがおほくあるを、百太夫といへるなンめれど、世に、吹もの、弾ものする傀儡子が祭る傀儡神の名によそへて、しか呼たるも知べからず、また此神、西宮にあるよしは、遊女記に、西則広田云々、殊事2百太夫1云々ある広田は、西宮の神社なり、男山石清水末社記に、西鳥居外云々、夷(広田)第五、三郎殿第六、百太夫第七、とあり、(源平盛衰記、鬼界島の条に、夷三郎と申神を祝祭る岩殿といふ処あり)夷三郎とひとつに称ふるはひがごとにや、いまだ考えず、傀儡子ノ記に、道祖を祭るよしはいはざれども、百神を祭るとあれば、百太夫はかならず其内にこもるべき也、今昔物語にいへる傀儡神にても知るべし、此輩がつかへまつれる神なれば、是を傀儡子の始祖などいふめり、古へ、此徒ならでも多く祭れるよしは、上に引る今昔物語にておもふべし、また、外記日記、天慶元年九月二日云々、近日、東西両京大小路衢、刻レ木作レ神、相対安置、凡厥体像髣2髴太夫1、頭上如レ冠、鬢辺垂レ纓、以レ丹塗レ身、成2緋衫色1、起居不レ同、逓各異レ貌、或作2女形1、対2丈夫1而立レ之、臍下腰底刻2陰陽1、構2几案其前1、置2抔器於其上1、児輩猥雑拝礼慇懃、或棒2弊帛1、或供2香花1、号2四岐神1、又称2御霊1、未レ知2何祥1、時人奇レ之、と見えたり、四岐神を扶桑略記には、曰2岐神1、とあり、それに従ふべし、此文、百太夫の神像とよく合へり、かく多く祭りしより、今に諸国に道祖神多きなるべし、されど、百太夫と称ふるは、外には聞も及ばず、懐橘談(承応ニ年、出雲の紀行也)松井邑に、道祖の神社あり、当国風土記、意宇郡、狭井社と有、今能義郡なる、是なるべし、今童が道端の道陸神といへる、是なり、正月十五日に童部共より合て、竹葉、松の枝をとり集めて、社を作り、道祖神を辻々に祭り、陰相を作りて、女をたゝき、螽斯を祝するも、此遺風なるべし、といへるはわろし、これは粥杖の事により、また此日、道祖の祭りもすれば、此神の猥褻に陰形付ることよりおもひよせ、人うつ杖をやがて陽具に造り、(是を孕み棒、大のこんごうなど呼処あり、大のこんごうは、大のをの子の訛言なり)彼是とり雑へて、新婦を祝する事としたるは、滑稽なる事といふべし、(中略)
○尤ノ双紙に、まふもの、でくゞつ、でこのぼ云々、あり、傀儡をいふ也、今でくのぼう(又おでゝこといふ事も有)皆道公の音の転れる也、関秘録(五巻)、でくは土偶の通略、でく入る箱をどうこといふ、其箱に似たる故、竈をどうこといふ、銅にてしたるものをどうこといふも、竈に似たる故也、茶の湯のどうこといふも、それに似たるゆゑなり、といへり、此説も猶誤り也、先ヅ、でくは道公の音にて、土偶にあらず、又、竈はもとより名あり、異名を聞ず、銅にてはり造りて湯貯ふる物は、後に出来て、名もなきものなれば、なぞらへてどうこと呼、おもふに、其も猶、茶の湯に用る器物より、うつせるものなるべし、この器は、傀儡子が首にかけて人形舞す筥を、茶の湯師が好事に似せ作りて、どうこと呼で、その文字を道幸と書り、こは誤り也、道公と書べし、
(中略)
○こゝにも、漢土に、私果(正しくは穴冠)子、土娼などゝいへるたぐひ、むかしより種々有しなるべし、建武元年、二条河原落書に、たそがれ時になりぬれば、うかれてありく色好み、いくそばくぞや数しらず、内裏おかみと名付たる、人の妻どものうかれめは、よそのみるめも心地あし、とあり、是即くゞつにて、遊女とは異なり、後には、人の妻にもあらねども、遊女の品の降りたるを、和名抄に、夜発といへる類を、くゞつとおぼえたり、
○職人図彙に、夷子舞しは津の国西宮より出る、故に夷舞しと号す、西宮のさし向ひ、海を隔て、淡路島にも此流あり、昔は、えびすの鯛を釣給ひし所を仕形にして、春の初めに出けると也、今は能のまね、色々尽す、浮沈みある音声、一風あり、世に傀儡子といふは是なり、といへり、淡路島三条村に、上村源之丞、同三太夫等ありとぞ、
今の浄るりの操人形は、西宮の傀儡子より起れりとぞ、其は別にしるしたれば、こゝにいはず、塵塚噺といふものに、(此作者、元文の初め生れし人といへり)傀儡子を江戸の方言に、山ねこといふ、一人して、小袖櫃やうなる箱に人形を入れ、背負て、手に腰鼓を敲きながら歩行也、小童これを愛して、其音を聞て呼入、人形を歌舞せしむ、浄るりは義太夫節にて、三絃なく、蘆屋道満の葛の葉の段、時頼記の雪の段を語りながら、人形を舞し、段々好みも終り、是切りといふ処にいたりて、山猫といふ鼬の如きものを出して、チゝクワイ/\とわめきて、仕舞也、我等十四五歳迄は、一月に七八度づゝ来りしが、今は絶てなし、といへり、(南水漫遊に、傀儡子、むかしは、西宮并に淡路島よりも出し也、夷子の鯛を釣給ふ仕かたをして、春初に出ける故、えびす廻し、えびすかき共いへり、江戸の方言に、山猫と云、人形舞して、末に山猫と名付て、鼬の皮を出して小児をおどす、当時、首かけ芝居と云もの、その余風なりと云り)
(中央公論社刊『続燕石十種』第一巻を底本としました。)
春日局の焼餅競争
春日局の焼餅競争
三田村鳶魚著
亭主も子供も置き去り
三代将軍家光の話には、何としても乳母春日局(斎藤氏、福子)を取除けられません。その春日局は名高い女でありますから、かれの経歴もあまねく世間に知られて居るようですが、誰でもする春日局の話によって、伝えられた彼の人柄は、私どもの甚しく疑うところであります。
かれは明智日向守光秀の部下として勇名を馳せ、粟田口で磔にかかりました斎藤内蔵助利三の女で、佐渡守利光、後に朝鮮征伐に強勇の聞えを取った斎藤竜本を兄に持ち、浮田中納言秀秋の家来林八右衛門(稲葉佐渡守正成の前名)の後妻になり、男子二人を産みながら、離縁して家光の乳母に出たという女なのです。
春日局が家光の乳母になりましたのは、慶長九年七月十五日で、二十六歳の時ですが、二人の子供は慶長二年に産んだ丹後守正勝が八歳、慶長九年に生れた内記正利は当歳、この正利が生れた年に乳母になったのです。春日局は生れたばかりの正利を残して、何故稲葉家を去ったのでしょう。稲葉正成はまた何故女房を離縁したのでしょう。
「麟祥院清話」には春日が乳母に任用されて江戸ヘ下った後に、本夫たる故を以て、正成も徳川家へ任用されると聞いて、妻の脚布に裹(つつ)まれて出る士ではないというので、急に離別したのだとありますが、それほど立派な見識のある正成ならば、何故自分の妻を徳川氏の乳母にしたか。家康の嫡孫の乳母の本夫ならば、早かれ晩かれ俸禄の来る日があるのは知れきって居ります。女房の御蔭を蒙りたくないたらば、竹千代(家光の幼名)の乳母などに出さぬがいいので、春日だって亭主の承知しないのに、乳母になろうとする筈がないと思うのです。
ただ稲葉正成はその時既に浪人して居りました。春日が本夫が埋れ木の花咲くこともなさそうなのを心配して、世間へ出そうというので情を忍び、本夫と愛児とに哀別し、身を夫や子供の青雲の梯にするつもりで、乳母になって遠く関東ヘ下ったのでしょうか。それならば悲しい女房の親切に対して、正成もさすがに差留めかねる事情もありましょう。ここのところが頗る不明瞭でありますが、それを仮定すれば、妻の親切に対して関東行きを差留めかねたけれども、何と考えても嚊の御引立てを受けるのが辛抱しきれない。そこで煩悶懊悩の結果が絶縁となったのでしょうか。そうすると稲葉正成は煮えきらない、武士らしくない男になってしまうのみならず、春日もまた妙なものにならなければなりません。三百二十年前の離縁話ではありますが、今更のように首を傾けて、思案する余地はたしかにあります。
新井白石も「藩翰譜」を書きますのに、いろいろな雑説を採らず、「正成初め斎藤内蔵助利三が如何なるゆゑやありけん、此妻、家を出て後、将軍家の若君竹千代殿の御乳母となされ」といって、離縁の事さえ云わないで、一切を不明瞭のままにしてあります。白石ばかりではない、誰にしても正成が幕府の下に大名になった順序から眺めて往きますと、妻の脚布に裹まれて、立身出世する武士ではないなどと、男らしく立派な言を吐いたとは信ぜられません。正成が慶長十六年、越前参議忠直卿に付けられて、大坂落城の際に軍功を立てましたのも、御乳母春日の故に早く召出されたからです。その忠直が元和九年五月に、豊後萩原へ配流になりました後、正成は春日へ申立てて幕府へ召返して貰いました。正成は女房お福の脚布にくるくる裹まって立身したのです。けれども越前家では永見右衛門の娘を娶り、幕府へ戻っては松平土佐守の女を迎え、春日局のお福の後に二度も妻を迎えて居りますから、春日を離別したのは事実に相違ありません。
この離別に就きまして、「香宗我部記録」に「嫉妬にて佐渡守家を出、京都に行」とありますが、系譜で見ますと、正勝と正利との間に、異腹の女子があります。この女子は後に堀田勘左衛門の妻になり、加賀守正盛を産んで居りますが、申すまでもなく正成は妻でない、他の女にこの娘を産ませたのです。それで春日は嫉妬に堪えぬから、正利の分娩を待ちかねて、亭主も子供も置き去りにして、京都へ往ってしまったものらしい。稲葉の方では離縁するもせぬもあったものではありません。置き去りにされたのですから、三行半を与えるより外に方法はないのです。
嫉妬で名高い御台所
焼餅黒々としたこの春日は、家光の乳母になって、千代田城の大奥へ入り込みました。家康の正妻築山御前(関口氏)は嫉妬で著名なものでありましたが、二代秀忠の夫人江子(こうこ)もまた嫉妬で名高い女であります。この人は浅井備前守長政の女で、淀君の妹に当るのですが、江子が伏見城へ入輿致しましたのは、二十三歳の文禄四年九月でありまして、その時秀忠は十七歳ですから、六つも違う姉女房なのです。第一の夫である尾州大野城主佐治与九郎とは生別し、第二の夫の丹波少将秀勝、第三の夫の九条左大臣道房とは死別して居りますので、丙午ではないかと思って繰って見ましたが、天正元年生れですから、まさしく癸酉である。秀忠は第四の夫に当るわけで、特に九条家では女子を二人も産んで居ります。新郎古婦とでも云って見たいような間柄でありますのに、焼餠の方は真黒々に焼き立てました。そうして結婚後十八箇月目の慶長二年四月十一日に千姫、四年六月十一日に子子姫(ねねひめ)、五年五月二十日に勝姫、六年十二月三日に長丸(おさまる)、七年七月九日に初姫、九年七月十七日に家光、十一年五月七日に忠長、十二年十月四日に和子(東福門院)を産んだのです。二十五歳から三十五歳までの十箇年問に、男女八人の母になったわけで、この分娩と妊娠とを、閑な御方は勘定して御覧なさい。その忙しいこと、殆ど失笑を禁じ得ません。秀忠の庶子はただ一人で、他は悉く嫡出の子女であります。その庶子肥後守正之は、慶長十六年五月七日の出生で、秀忠が三十三歳の時の子なのですが、奇妙なことに秀忠はその後に子がありません。正之の生母であるお静は、江戸近い板橋在の竹村というところの大工の娘で、部屋方へ奉公していたのに、秀忠が手を付けたのです。お静が懐胎したといっては、御台所浅井氏が納まりませんから、秀忠将軍も頗る閉口の体で、田安の閑栖にいる見性院(穴山梅雪の寡妻)を頼んで、ひそかにお静の始末をさせました。正之は足立郡大間木村の民家で生れ、やがて保科弾正大弼正光の養子にしてしまったのです。庶子であるにもせよ、正之は秀忠の末男でありますのに、御台所を憚って全く秘密にされ、その生前には父子の対面すらなかったのですから、二代将軍も随分な恐妻家であります。
例の駿府逗留中の秀忠のところへ、家康が十八歳の美女に菓子を持たせて遣したところ、秀忠は上座へ引いて菓子を頂戴し、その方の御用は相済んだ、早く立帰れといって戸口まで送り出したという話、家康がそれを聞いて、将軍は律儀な人だ、予は梯子をかけても及ばぬ、と感心したというのですが、或はそんな宣伝芝居も行われないとも云えず、また秀忠は甚しく親父を恐れた人でもありますから、何も彼もなしに、ただ恐縮してしまったのかも知れません。併し私どもはお静に正之を産ませた手並を心得て居りますので、一概に彼の謹厳慎重を信ずるわけにも往かぬのです。
手近い「視聴草(みききぐさ)」などを見ましても、後藤源左衛門忠正の女が、崇源院に仕えて大橋局といった、台徳院の御寵愛を蒙ったが、権現様の上意によって庄三郎光次に嫁した、というようなことが出て参ります。崇源院は江子の法名、台徳院は秀忠の諡号ですが、そうして見れば金座の後藤庄三郎の妻は、秀忠のお古なのです。それは家康も御存じであるに拘らず、お静の外には寵女がないことになっている。何故そうなっているかといえば、秀忠の恐妻のためなので、実は御台所江子の嫉妬の凄まじさを立証して居ります。我国に避妊の行われたことは、決して新しくありません。翻訳の新マルサス主義を珍しがったり、サンガー婆さんで騒いだりするのは、何も知らない連中のことでありまして、四百年乃至五百年前から、或階級には巧妙に実施されていたので見れば、二代将軍の奥向にも、嫉妬除けの厭勝(おまじない)として、或方法が行われていたかも知れません。
美人ではない
こう考えて参りますと、「落穂集事跡考」の「若君の御実母御台所無類の嫉妬にて、春日局の年頃といい容儀あるを、台徳公の御手付かんかとの御疑ひより、諸事若君へうとくあられ候」というのが、私どもの眼を射るように感ぜられます。春日局は秀忠将軍と同年で、御台所江子は六つも年上なのですから、嫉妬の眼玉が光るのも無理はありませんが、伝説によると、春日局は美女でなかったといいます。それはかれの木像を安置してある湯島の麟祥院に伝わった説なので、木像を製作する時分に、つとめて容貌に似せて持え、両三度も改作させましたが、何分にも気に入らない。そこで仏師が考え直しまして、極めて柔和な容貌に持え、ただ瞳だけを写実にして見せたところ、漸く満足したというのです。
現存する麟祥院の木像は、如何にも鋭い目つきをして居ります。しばらくこの伝説から逆に考えますと、春日局は凄まじい顔でありましたろう。無論悪女ではありませんが、好んで柔和な容貌に持えさせながら、また平凡になるのを避けて、目つきだけを鋭くさせた、そこに本人の人柄が露出して居ります。我執の強い、意地の悪い、小才の利く、御殿女中気質の標本に適当な女なのですから、春日局は決して嬉しい人物ではありますまい。秀忠との間柄は、果して御台所が睨める程度に達していたかどうですか、何とも判断することは出来ませんが、自分の腹を痛めた家光、忠長の二児に対して、際立てて愛憎し、全く家光を顧みないようになりましたのは、春日を睨む余り、諺にいう坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いわけなのでしょう。一体なら怜悧な春日だけに、家光を冷遇する御台所の心の底には、嫉妬のあるのを知らずにいる筈はありません。知っていたら御仕え申す幼君の御為を思って、速かに退身して御台所を安心させ、家光の安全を図らたければならぬのですが、意地の強い春日には、己れを撓めて無事を計ろうなどということは、夢にも考えられなかったのです。御台所は国千代(忠長の幼名)を殊に寵愛されましたので、幕府の吏僚は勿論、諸大名までが国千代の御機嫌を取難すように仕向けたのみならず、家光は長子でありますのに、衣服の給与さえ怠り、食饌も国千代より悪くしました。家光が呉服所後藤縫殿助に与えた墨付に「其の方の恩を忘るゝに於ては、黒本尊の御罰を蒙るべき也」と書くほどに感悦したのは何であるかといいますと、縫殿助は春日と昵近でありましたから、年中の御召物を無代で献進し、御不自由な物は何といわずに差上げたからであります。
家光、忠長の両公子といううちにも、家光は嫡長子で三代将軍になるべき人です。乳母根性から兄の乳母、弟の乳母というだけでも、扁身の広狭が違いますのに、弟が兄よりも優遇される。衣服や食物にも逆に差が付けられては、如何に気楽な乳母でも堪えられますまい。まして意地強い春日が辛抱する筈はないのです。ただあいにくなことに惣領の順禄で、家光は賢くない。親父の秀忠が惣領の家光に相続させることをあやぶんだのは、国千代の方が怜悧だったからであります。家光に対して父母が暖くない理由は、同じではありませんが、熱の乏しいことに変りはありません。親の情、殊に女の親の心持から云えば、馬鹿な子ほど余計に可愛いのが世間並ですが、泥坊猫よりも腹の立つ春日が付いて養育している家光は可愛くない。嫉妬から愛子を忘れることになるので、春日も赤子を置き去りにして稲葉家を去りましたが、御台所江子も我子の家光を愛さないのです。衣服や食物にさえ不自由させたのも、春日を苦しめるためでありましたろう。もし春日が御暇を願って、家光の身辺から去り、秀忠の目にも触れないようになりましたならば、御台所江子が家光に加えた圧迫は、直ちに除かれたろうと思います。
妬婦兼騒動女
嫉妬されればされるほど、春日はなお動きません。嫉妬するのは弱味、嫉妬されるのは強味と思うので、秀忠将軍の情愛を幾分でも殺ぎはせぬか、と感ぜしめただけの強味を持つ。これは御殿女中の一般心理ともいえましょう。まして嫉妬女の春日です。春日の性格からは、到底辛抱されまいと見える家光の待遇でありまして、飲食衣服にも事を欠く上に、国千代は利口で家光は馬鹿だと吹聴される。幕府の吏僚から諸大名までがする冷淡な取扱いも、対抗するのだとなれば忍耐するのです。春日が苦い苦い顔で忍耐するその顔色が、御台所の嫉妬心からは快いので、我子に飲食衣服の困窮をさせるのも忘れて、過度な圧迫を加えて気が付かない。二人の焼餅競争に挾まれて、童年を泣いて過した家光の運命は、まことに悲しむべきものでありました。
賢女だとか烈婦だとか、春日局は頻りに褒められて居りますけれども、御台所江子は何故生みの子家光を虐げたかを考えないと同様に、春日の人物は一向に吟味されて居りません。彼がひどい嫉妬の女であったことすら殆ど知られなかったのです。ただ江村専斎はかれに就いて「慈照院殿の時、春日局と云ふ女あり、彼が所為にて応仁の乱起り天下騒動す、近来の春日局の号は、是を考へずして然る歟」と云って居ります。専斎は百歳の寿を保ち、寛文四年まで存生した医者ですが、親しく時勢を見ている人だけに、その言葉には寓意があるらしく思われる。妬婦春日局はまた実に騒動女でもありました。御台所江子の亡い後に、むごたらしく復讐を企てて、遂に忠長を自殺させるまで、何ほど世間を動揺させましたろう。忠長の謀叛を虚構するために、土井大炊頭利勝に偽廻文を作らせて、天下の諸侯を惑乱せしめるなどは、申分のない騒動女であります。私どもが春日局を想像する毎に、いつでも厭わしく思われるのは、かれの才走った往き方です。かれがまだ焼餅競争の最中に、家光が天然痘に罹ったことがありますが、その時春日は侍医の岡本玄冶に向って、酒湯にかかることは、唐の医書にないことであるから、御無用になされて御宜しかろう、と云った。すると玄冶が、唐になくて日本で致すことも沢山ある、それを酒湯に限って、古来の仕習わしもあるのに止めるにも及ぶまい、医者のすることを素人の止めらるるもその意を得ぬ、一体医書にないと云われるが、唐の書物を見もせずに文盲な申事である、これを御覧ぜよ、と云って懐中から唐本の医書を出して見せ、読んで聞かせて御酒湯を済ませました。玄冶は更に、素人の分、殊に女性の身として不念な事を申され、小癪でござる、と痛く春日を遣り付けたということです。
御台所に睨まれて、多方面からの圧迫に対抗している時にも、このくらいの遣り過しをする春日なのですから、独り天下になった三代将軍の大奥では、三千石の俸禄を受けて、三万石の暮しをしました。家光の夫人鷹司氏は嫉妬が強いというので舳舳(しりぞ)けられましたが、実は忠長に同情されて、救解を試みられたのが、科条になったらしいのです。それがために大奥女中は悉く春日の支配するところとなり、後来御台所がありましても、奥向は一切御年寄という高級女中の取はからいに帰し、長く大奥女中の勢力が幕閣を動かす基礎を据えることになりました。この事はかれの続き柄で七八人の大名が出来たのよりも、なお大きい影響を徳川氏の運命に与えて居ります。
(附)
男女の道(一部)
号令結婚は武家の規模
一体男女の欲ということ、それを万人が行って、一つも過(あやま)ちがないようにする。一人一人に過ちがないのみならず、世の中にも差支ないような仕方、そこに於て男女の欲は男女の道になるのです。自然から眺めて見ますと、どうしてもそれは生殖作用で、たしかに子孫繁昌ということになって行く。そこで例の生殖器崇拝などということも起るのですが、人が人を作る、これは実に霊妙な働きで、天地の大作用でありますから、それを崇拝するのは、男女の道を尊重することになる。一休和尚が一切衆生迷悟処。三世諸仏出世門」といって礼拝したという心持、それと同じ気持であるとすれば、人智が開けなかった為に、生殖器崇拝があるのではないようにも思われる。如何にも大切に行うべきものを冒濱し易い。それを娯楽と考え違いをするから、売買するようにもなって来るのです。
昔の農村は素樸で、枯淡な暮し向でありましたから、その潤いのために盆踊もあれば、御祭や日待もありました。そうして早婚というものは、人民の離散する足止めの効用にもなったので、早婚をさせるから子供が早い。そこからまた堕胎、避妊等を生じても来るのですが、そこのところに政治の働きがあるので、御代官の手際もあれば、村成敗なんていうこともあります。自分の村の女に他村の者が手を付ければ、大問題になるけれども、村内の者ならどうもならないという習慣、あれも食い逃げをさせぬ仕方なので、田吾作の娘は兵吾助の伜が貰わなければならぬ、というような働きまでつけさせて置いたのです。その農村もだんだん副業のあるところが盛になって、副業のないところは寂れる。盛になれば金廻りがよくなり、人の出入りが多くなる。それが自然都会風になって行きますと、男女の道であるべき筈のものが、やはり男女の欲になってしまう。欲であるから、それが娯楽になって行って、村落も都会もどうやら弊風を同じくするものになって来るのであります。
売る買うということの外に、売らぬ買わぬ方の者までが、娯楽として扱われるようになりまして、夫婦の間柄さえ、娯楽と見るようになる。だんだんに娯楽と見る方の幅が広くなって参ります。従って風俗はだんだん悪くなる。政治のよしあしは風俗で知れると云われて居りますが、風俗が悪くなって来れば、如何なるいい政治も行うことが出来なくなって来る。経済や法律はあるが政治でないのは勿論の話で、経済や法律で外形を取締ることが出来るにしても、それで人心を支配して行けるわけのものではありません。一体号令結婚を以て男女の道を捌いて行く。それは武家の規模でありまして、その規模を以て天下の規模とするように、何故したかということも、大いに考えて見なければならぬことであります。
よく子供の玩具絵にある猪隈入道、あれは少将教利といった御公家さんでありますが、強い公家悪と思われて、大江山の酒顛童子などと一緒に扱われて居ります。猪隈の名前は酒落本や中本の中にも出て参りますし、常磐津や清元の中にも出て来る。これは慶長十二年二月に勅勘を蒙りまして、京都を出奔して、十四年十月に豊後で取押えられ、京都へ引戻されて来て、兼康豊後(かねやすぶんご)と共に斬罪になった人です。自体御公家さんの風俗が悪くなりまして、禁裹に当番を勤めることを忘れる者が多い。禁裹へ出仕する者も正服を著ないで、略服で出る者が多くなった。そこで、慶長八年九月に戒飭(かいちよく)するところの法令も出て居るのですが、十四年の七月には烏丸光広、大炊御門頼国などという御公家さんが、宮中の女官等と種々不行儀な事がありましたので、後陽成天皇は大層御立腹遊ばされました。この逆鱗事件というものが大きな問題になりまして、それが武家の号令結婚を以て天下の規模とするように、だんだん導いて行ったのであります。
その時に所司代を勤めて居りましたのが、板倉勝重でありまして、この不行儀な御公家さん達のことに就いて、禁裏から所司代へ御相談があった。板倉は命を奉じて、駿府の家康に伝え、それから所司代が京都と駿府との間を往来しました結果、遂に家康は思召によって宮中を廓清することになりまして、御公家さん七人というものが流罪になり、関係のある宮女も悉く処分されました。この公家衆の不行儀問題の先頭をなすものが猪隈入道なので、後来も大悪人として取扱って居りますが、その大悪人の罪科というのも、男女の道を娯楽と心得て不行儀を働いたということになるのであります。
この時家康が思召を以て宮中の廓清に手を著けた。宮中は宮中だけでその始末が出来なかった為に、それまで幕府が日本中で手の著けられぬのは、京都の御所の御築地の中だけだったのですが、勅命がありましたので、関東の手がはじめて御築地の中へ延びるように相成りました。家康が勅許を得てございました孫女、即ち秀忠の女の和子が、入内することになって居りまして、遂に元和六年六月に入内致しましたが、その前に宮中の御模様がどうも綺麗でないから、已に家康が先帝から勅許を得ているのですけれども、自分の女を入内させることは、この際御辞退致したい、ということを秀忠が申出ました。朝廷では已に先帝の思召で決著していることを、関東から御辞退申上げる、それも宮中の御模様故にとありましては、さし措くことも出来ませんので、宮中で御評議があり、御側の公家衆数人を流罪にして、秀忠を宥められ、とにかく入内のことを済ませました。この時に宮中の廓清に就いては、関東へ御任せになる、ということでありまして、天野豊後守、大橋越後守の両人が与力十騎、同心五十人を従えて、女御様御用人というわけで、はじめて京都へ乗込んで参りました。これが後には御付の武家ということになるのです。寛永三年には中宮法度なども出来て参りまして、その後ずっと禁裹付になり、関東から宮中御取締のために、武士を差出すことになりました。また仙洞御所の方にも御付の武家があるようになりました。
昔を振返る心持
それから以後は、いつの所司代でも、宮中及び公家衆の風儀に関する役目が一つ出て参りまして、いろいろな話もありますが、江戸の話ではありませんから、一つ二つの事にとどめて置きましょう。ぐっと後になりますが、享保度に松平伊賀守が所司代を勤めている時、この人は御公家さんと懇意な人で、禁裹で「伊勢物語」の御講釈に列しましたところ、大分昔男を羨んだような話が出た。その時に伊賀守が堂上方に対して、万一今時業平のような不行儀な公家衆があったならば、斯く申す伊賀守が幸い関東の目代として居る以上、どうして傍観して居ろうか、立どころに取って押えて、流罪なり死罪なりにして、公家衆の捉を正さなければたらぬ、と云った話があります。こういう風に公家衆を睨みつけたのみならず、公家衆の非行に就いてやかましく云った者もありますが、御公家さんの行儀の始末がつかないので、いつの所司代も持て余して居った。ただ時々随分ひどい処分をしたので、僅かに支えられていたのです。
神沢其蜩などは「翁草」の中で、東福門院様の御入内があってから、御所の御作法が改って、男女の別が出来、御風俗も正しくなって参った、それは最も宮中の御模様が御宜しくなかった頃より百余年も後の話で、やっと柳営の正しい捉を、天地と共に雲上へ差上げたからだ、と書いて居ります。東福門院というのは、前に申した和子の事ですが、その御入内以来、武家のきまりを禁中で執り行うようになり、一般の公家衆の風儀が悉く改らないまでも、猪隈や烏丸のように乱暴な、業平もどきの不行儀な御公家さんが、宮中にいないようになったのであります。
如何にも風儀が一遍によくなった。成程、武家の遣方というものはきまりがいい、というので、大層感賞されたわけでありますが、それまでは実に面白からぬ風儀で、何とも仕様がなくて、倦み果てている時ですから、不義は御法度となって、ぴたりと一遍にきまるような往き方が、大いに効果があったので、世間を挙げて倣うようになった。遂にそれが天下の規模になるというようなことになりましたが、それから後八十年たった元禄時代に及んで、民間の方からそれを窮屈に思う者が出て来れば、士達の方にも迷惑千万に感ずるやつが出て来まして、だんだん動き出して参りました。
元禄度の人々は、寛永度の振合を見て、昔風と申して居りますが、享保度になると、元禄時代を昔風というようになっている。安永、天明になりますと、享保を昔風と云うし、化政度には寛政を指して、昔風というようになった。この切れで見ると、先ず元禄が一切れで、そこが境で大きく替り、それから先はだんだん小さく区切がついているらしい、これは経済状態、生活状態から、切れ目切れ目を見ることが出来ますが、この生活の替りは何から来て居るか。無論経済法律からも来ているに相違ありませんが、武士の金看板である不義は御法度というやつ、その金着板に手がかかって外されかけたのは、享保以来の事と思われる。それが一つの切れになるわけです。
元禄と享保との二つの切れ目が、どういうところに在るかといいますと、前のは武士の金看板に不服を懐き、窮屈を感ずるところに在り、後のは武士の金看板を取外そうとすることに在るようです。享保度は法律の世の中で、その時には町人どもなどの間に、金という字を草書で書くと、人という字と主という字になるので、人主金(ひとぬしかね)といいました。人主金という僅称は、前に申しました「天網島」に出た五左衛門の如き者で、金がたければ幕府でも維持することが出来ない、金さえあればというのに係っているので、その時はまた世の中に曲りくねりを生じた時ですから、享保以来という言葉も、そこから来た世の中の相であります。
徂徠などは四代将軍の末、五代将軍の初めということを云い、それが革新の最もいい時機だ、と云って居ります。その時は町人達が一般に太り出した時でありまして、後には江戸の初めから元禄、寛永までは人情が厚く、御政道も盛に行われた、と申して居りますが、それはいずれも「不義は御家の御法度」という武士の金看板が、ちゃんとして居った時の事だったのです。化政度の人は元文、寛保の時代を「四貫相場に米八斗」といって、結構な世の中だとして居りますが、それなら果してその時がよかったかというと、この時が江戸で心中沙汰の多かった時であります。
それから宝暦、天明の間になりますと、男女の道が売買取引せられるようになりかけた時で、文化、文政度には、それが珍しげもないようになった。宝暦、天明には珍しかったことが、文化、文政には目立たなくなっている。然るに天保度になると、文化の世界をもう一度見たい、といって翹望するようになっていたのです。大御所様の時代といって、家斉将軍在世の時代を、何よりも結構な時代として、謳歌するような有様でしたが、如何にも幕府の末になって衰世の相を現して居ります。
(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)

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