直江状他5編

直江状

直江状(全文)

中の赤字は、『一無庵風流記』465pおよび『花と火の帝』57p~58p引用部分です。

今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。
一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。
一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。
一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。
一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。
一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。
一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。
一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。
一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点参るべく候事。
一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され候処、増右・大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。
一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。
一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。
一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。
一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。

  慶長五年    四月十四日    

直江山城守兼続

  豊光寺    
    侍者御中

浪速人傑談

浪速人傑談(一部)

政田義彦著

新刀名家

津田越前守
津田越前守助広は、播州の人、小林河内守国助の門人となつて、鍛法を受け、浪華に住す、其子を甚之丞と称す、後亦、父の名を継て越前守助広と名乗る、鍛刀の法に心をこらし、遂に妙を得て其名世に高く、海内無双の名人と賞翫せり、凡慶長以来新刀家に於て、埋忠重吉(明寿道人と称す)を始め、粟田口忠綱、京師の国広、肥前の忠吉、備前の横山助定、江戸に、繁慶(しげよし)、虎徹(こてつ)の数輩ありし中に、助広殊にすぐれたりと云、銘は、万治、寛文の頃まで真字にて切りしが、延宝二寅の年より、近衛流の草書にて切しゆへ、晩年の作刀を殊に賞するゆへ、価別て高しと云、鎌田三郎が著はしたる新刀弁疑に、凡新刀の鍛冶数百家あれども、越前守助広の如き、鉄のしまり程よく、刃の上麗はしく、匂ひ深く、浮やかに白く小錵ありて、錵も匂ひをかゝへ、地鉄強からず弱からずして、火加減至極の所を得たるは、外に比すべきなく、実に絶世の名人なり、依て、偽物を作りて人を迷す姦人も又多し、よくよく吟味すべき事なりと書り、右弁疑中に、其作刀の図を出し、并に津田氏を賛美したる辞あり、則左に挙ぐ、
唹呼津田氏之子、其殆庶幾乎、発レ鞘凛々、如下臨2大洋1見中蛟竜上、起2洪波1而躍2珠玉1、至2弁疑再成1、未3嘗観2若レ斯刃文1也矣、遂賛美之号2旭瀾1、以為2濤瀾亀文之模範1云、
右六十五字、能津田氏を尽したりと云べし、津田氏の門人に、近江守助直(初代助広の門人なり)、二代助広の門人には、若狭守広政、摂州に、助宗、助高、いづれも劣らぬ名人なり、
慶長の頃、鍛刀の名人に埋忠重吉と云人あり、後明寿道人と号す、三条小鍛冶宗近廿五代の末孫にして、世に新刀の元祖と云、元和已来の鍛法家は、多く此人の門より出たりと云、然るに、江戸の人神田勝久、慶長已来より、近代享保の末に至迄の新刀家を普くあつめ、新刀銘尽をあらわしてより、新刀に名家ある事を世に知れり、次て鎌田三郎と云人、新刀弁疑を著述ありしより、新刀の真偽勝劣いよ/\委しくなりたり、近き頃、亦新刀名集録ありと云へり、刀剣を好む士は、是等の書は求めて見るべし、

井上国貞
井上和泉守国貞、父は日向、飫肥城主伊東家の藩士なりしが、中年より武を捨て、京師に来り、堀川の住人国広の門人となつて、鍛法を学ぶ、其子亦国貞と云、後真改と更む、鍛刀父にまさると云、浪華に住す、其作刀の妙なる事、相州の五郎兵衛に髣髴たり、依て、世に大坂の正宗と称すと云、天和二年壬戌十一月九日に卒す、谷町重願寺に墓あり、
近頃天保二年辛卯十一月、井上真改の百五十年の忌辰に当りし故、備後町四丁目刀屋新次郎と云人、真改の名誉を世に知しめんため、且其墓石の湮滅せん事を歎き、文章を八木巽所先生に乞て、墓石の側に、新に石碑を建つ、書は北条鹿山の行書なり、其碑文を左に掲ぐ、

井上和泉守国貞、姓藤原、後号2真改1、父国貞、日向伊東家士人也、入2明寿門1、学2鍛刀法1、真改住2浪華1、為レ人正直豪邁、鍛法勝レ父、世称2大坂正宗1、実慶長後一人名手、人争宝2重之1、子良忠、次国貞、亦能不レ墜2父祖家声1、門人亦尽出群之才也、没後百五十年、傷2古碑元夬1、就2好事家1謀、新勒2碑文1建レ側以附2追遠之義1、

巽所八木迪撰
井上真改の子を団右衛門と云、後亦和泉守国貞と名のる、尤上手なりし、真改の門人に、加賀守貞則、伊賀守貞次、其外国平、治国等の数人、いづれも名匠なりしとなん、
按ずるに、井上氏の筆跡、新刀弁疑に記する所と、此碑文の趣と、すこし異なる所あり、今は唯旧記の儘を挙るなり、


(中央公論社刊『続燕石十種』第2巻を底本としました)

浪華百事談

浪華百事談 

巻一 (一部)

○大坂の号の考
「摂津名所図会」巻四に云、大坂といふ号は上古きこえず、大江坂の略訓なり、と有り、又云く、大江は、仁徳帝第一の皇子、大江伊耶保和気命と申(後に履仲天皇と申せり)、此時大江の号初て聞ゆ、今時金城より南一堆の丘山にして、大江の岸の古詠も多く、谷町、坂町の名をよぶ、又、明応の蓮如上人の文章に、摂津東成郡生玉の庄内大坂云々とあれば、其頃封境広きにはあらざるべし云々、と記せり、

○愚云、余難波上古図くさ/\〃を閲るに、大江坂と記したる図なし、左に模写せる、堀河帝承徳二年戊寅正月中澣と書入、今より凡そ六百六拾余年前の旧図と記す、中には、大江の岸の東方に小坂村あり、又、既に刊行発兌せる「浪華古代図」と題せるものゝ中にも、(略)大江の岸の東に小坂村ありて、その南方に、生玉の庄内、生玉村あり、又、小坂村の跡に、後年大坂となるの書入あり、此図は、帝王百三代後花園院の御代、将軍十九(七カ)代足利義政公代と記し、又、康正元年より四十一年後ち、明応四年、石山に本願寺立ち、明応四年後九十年目、天正十二年、石山の本願寺津村江に引き、跡へ今の御城立なり、との書入あり、(略)此両図によれば、小坂村、年を経て広大の地となりしを、大坂と改称せしものと思へり、

(中略)

○大坂城概略の記
抑々、大坂城を金城と(或は錦城に作れり)称せることは、金は土中に埋みて朽ず、火に焼とも其原質を失はず、故に祝して名づくと云、又南面山不落城の称へあり、是はいと古く世俗の言つたへたるにて、昔時豊臣氏在居の時は、該城南方を以て正面とす、故に南面山の号あり、該城の地は、上古は難波大郡国府の地にて、辺りに石山といへる山あるを以て、一に石山とも云へり、こゝに明応四年本願寺堂宇を創立して、石山御堂と称す、其後天正四年、阿波の三好党、織田信長を討亡さんと摂津に来り、其兵の少きを以て、本願寺上人に援兵を請ふ、三好家本願寺門徒なる故、上人諾して、摂河及び近国の門徒を招き、三好を援く、これが為に、織田、三好と戦ふに利なし、後ち本願寺を信長攻るに、門徒石山に蟻集して上人を助く、其勢ひ猛く、信長の兵屡々敗北せり、後ち信長秀吉に命じ攻さしむに、石山の門徒敗し、上人紀伊に遁走す、之を世に石山合戦と云ひ、本願寺焼亡す、而して、天正十二年、豊臣秀吉石山の地に宏壮なる城郭を築く、筒井順慶、片桐且元、堀秀政等営繕奉行たり、五畿、東山、山陽、山陰、南海の工匠、人夫、夥敷来り、二年余の月日を経て落成す、最も要害堅固にして、日本第一等の名城なり、其外囲、東方は方今の疆域と格別差異あらずと雖も、城外悉く泓田なり、墻を構へて平野口門あり、(方今玉造村中に平野口の字あり)南方は現今の空堀町の辺にて、天王寺口門、生玉口門、豊志谷口門の三門あり、西方は今の東横堀を以て外湟となし、(東横堀は天正十三年にほりしものなり)高麗橋口、平野橋口、本町橋口、農人橋口、安堂寺橋口の五門ありて、各小橋を設く、北方は志貴野口の門有て、(鴫野村に対せり)又大川の南岸に、京橋口、天満橋口等の門を設く、羅郭中には、諸国の大小名の邸宅甍をならべたり、本城、石垣の高さ五丈七尺、湟の幅七拾五間、五層の角櫓七ケ所、三層の櫓九ケ所、二層のやぐら九拾壱ケ所、百間の長やぐら十三ケ所、天守は重層にして高く聳え、本丸、二の丸、西の丸、篠丸、千畳敷の大広間、銅の御殿、殿舎、倉庫に至る迄、巍々たる構造、全美を尽せり、而して秀吉此に移られたり、○天正十三年七月、秀吉官位昇進、関白職に任ず、これによつて、金城に於て大饗を催され、遠近の諸侯、郡主、村長、神官、僧徒、大坂、堺の地に住す農夫、工匠、商人まで、来りて祝辞を延べ、物貨を献ず、公これに酒饌を賜ふ、其結構、全美を尽し、美酒は沸泉の如く、山海の珍味堆く岡の如し、是を盛るの器物、海の内外の珍器を用ゐ、妙齢なる艶麗婦女数十名、花の如くに粧ひて酌をとり、酒をすゝむ云々、○慶長三年四月、豊臣太閤秀吉公薨ずる後ち、豊臣秀頼在城す、茲に、慶長、元和の間、豊臣、徳川両氏確執戦争におよび、元和元年五月、徳川家康、秀忠父子利を得て、豊臣三代にして滅ぶ、而して、平定の後、徳川氏の有となる、是より前き慶長十九年の十二月、一たび、豊臣、徳川和睦のとき、徳川氏望みて羅城を破毀し、湟を埋み、諸侯邸を除け、城郭の地を狭む、当今城地、其改たる所なりと云、○落城、翌年元和二年辰より、大坂郡山城主松平下総守に命じて、大坂城を守らしめ、(下総侯在城四年にして本領に帰る)○寛永元年(落城後十年歴)徳川秀忠台命、城郭内外を修繕す、○万治三年(寛永元年より三十五年の後ち)徳川四代家綱の治世の時、城郭雷火あり、又六年を経て、寛文五年正月二日、雷火の為に壮観なる天守灰燼となる、惜むべき事なり、其後、殿閣、門墻の修覆をなす事数度なり、然れども、天守再び建る事なし、○前に記せる豊臣氏が在城のときに、篠丸と称するもの有りて、本城の北方に設け突出せり、(慶元戦争の古図に見ゆ)こは該城を初て築く時に造りたる物歟、又は戦争の際に設立せし歟、未レ詳、篠丸の地位を考るに、今の谷町筋釣鐘町通りの東の地にあたれり、さゝ丸の名は、愚按に、小丸ならん歟と思へり、○又真田丸、或ひは出丸と称ふるは、該城の東南羅郭の外にありて、平野口門の西南に築き、其周囲百間四方とあり、是は、慶元の役の際、大元帥真田左衛門尉幸村、手勢を具して籠る所なり、故に真田丸の号あり、此地を今推考するに、上本町すぢ内安堂寺町通の東南、旧名清水谷とあざなせる地ならんか、其東に真田山あり、(本名姫やまといふ)此地と世人は云へ共、此山の字を一に宰相山といひ、加賀宰相の慶元の役に陣営の地なるより名づくるよし、侯は先鋒にして、真田の陣と対せしものかと思へり、

(後略)

○三韓館の地
三韓は、新羅、百済、高麗の三国にて、朝鮮の旧号なり、上古神功皇后親征し玉ふ後は来貢す、これ衆よく知るところなり、其来朝して宿る処、上古は三韓館と名づけられ、後に鴻臚館の名あり、今三韓館の跡を考るに、姫山の辺ならん歟、姫山、世俗さなだ山と云、玉造村の南方なり、又、其後平安城の都となりしよりは、鴻臚館は京都に有て、其処に居らしめ玉ひし歟、徳川氏治世となりし後は、朝鮮使大坂に来着すれば、本願寺の別院を鴻臚館の代として、滞留なさしめしと伝承せり、其時は西面の門(世人あかず門と云、西面中央の所に有)を開き、通路となし、其近傍の民家を下館となせしとぞ、然るに、寛延の頃、朝鮮使大坂在留中、今木伝蔵と云通弁者、私怨により、朝鮮使官吏を本願寺旅館に於て殺害す、(けんまわし廓大通と芸廻して、唐人殺と呼ぶ芝居狂言は此時の事なり、伝蔵逃走潜伏するを捕へ、死刑に処せらる)此後朝鮮使大坂に来り、江戸へ赴くことをせず、対馬に来りて、宗氏に於て礼聘の式を執行へり、

○蓮如祈の松
祈の松は鵠の森の社頭にあり、往昔、本願寺第八世蓮如上人、石山に本願寺を築かんと欲するとき、此松の下に座して、一宗海内に弘通せんことを当社の神に祈り、宗門と共に此松栄えよと云ひしとぞ、口碑に伝ふ、其松枝葉繁り、見上る計りの大樹とはなれり、しかるに惜むべし、近年枯木となりたり、

○四天王寺の旧跡
人皇三十三代崇峻天皇の御宇、二年秋七月、聖徳太子、難波の地に初て伽藍を創立し玉ひ、四天王寺と号し玉へり、其旧地は、「上古図」の中に載せし如く、玉作の里の傍なり、其地当今森の宮の東にあたり、其時の大門、堂塔の跡、田圃の字に遺れり、又、亀井の霊泉は、今も田圃の内に存して、一千三百余年の星霜を経ると雖も、水涸ることなし、四天王寺此地に創立ありし時、逆浪あふれ、鳥蛇集りて、堂宇を破壊す、よりて、二十五年の後ち、今の地に転移して、再び伽藍を建立し玉ひしなり、

○島之内の地沿革
島之内と字せる地は、船場の南に接し、疆域、東は東横ぼりの下流に沿ひ、南は道頓堀川の北岸、西は西横ぼりの東岸、北は長堀川の南岸を域りて、船場に次ぐの繁昌地、諸商百工こゝに卜居す、特に、心斎橋筋、長堀橋筋、道頓ぼり北岸の地は殷賑なり、島之内の地を難波の旧図によりて閲るに、上古は船場とひとしく海中にて、年を歴て浅斥となり、沙浜陸地となり、大友の三津の里、或は伏見の郷の号あり、既に孝謙天皇の御宇天平勝宝中には、潮あふれて三津の民家をやぶる云々、と古き書に見えたり、其後遥に星霜を経て、慶長、元和の兵乱後には、宏広たる郊野となりて、三津八幡宮(今御津に作る)の社もさゝやかなる小祠となり、三津寺も小庵となり潰れるのみ、爰に元和二年、台命を蒙りて、大坂城の守衛をなす松平下総侯、人民撫育を為すの際、此地四百五拾間四方に人家を建設する事を、南船場組惣年寄安井九兵衛に命ず、安井氏領承して、此地の町割を担任して、人家を直ちに設けたり、而して其後年を経るに従ひ、漸々民家も殖え、方今の如き家屋稠密の繁栄地とはなりぬ、○島之内の字未詳、

○阿波座の地沿革
阿波座と字せる地の疆域は、東は西横堀の西岸、南は立売堀の北岸、西は薩摩堀(一に願教寺堀とよぶ)北は阿波堀川(旧名阿波座ぼりといふ)を域りとす、この地の字いまだ考へ得ず、

巻二 (一部)

○摂津国の沿革
近来刊行の「日本地誌提要畿内沿革」に、摂津国の沿革を載たり、云く、
摂津国、古へ浪速の国と云、仁徳天皇、高津宮に都す、(今東成郡高津小橋)孝徳天皇、亦長柄豊碕宮に都す、(今西成郡長柄村)天武天皇六年、摂津職を設け、延暦年中、国司を改めて、府を西成郡に置く、(府地未レ詳、「続日本後記」承和十一年、鴻臚館を以て府とす、の語あり、館地東成郡玉造の南、真田山に有と云)治承年中、平清盛、安徳天皇を奉じて福原に都す、後兵庫に従る、未だ半歳ならず、旧都に復す、元暦元年、平氏再び天皇を奉じて此に居り、幾許も無くして讃岐に奔る、鎌倉達■、大内惟義を以て守護とす、建武中興、楠氏本州の守護を兼ぬ、足利尊氏、赤松則祐をして州疆を侵略せしめ、後に佐々木秀詮を守護とす、応安中、管領細川頼之之に代り、終に管国となり、其臣薬師寺をして守護代たらしめ、頼之より六伝して政元に至、其義子高国、澄元、互ひに相鬩ぎ、池田、伊丹、諸族競ひ起り、或ひは澄元に属し、或は高国に応じ、闔州分裂、永正五年、高国終に本州を取て尼崎城に居る、享禄四年、高国、澄元が子晴元と天王寺に戦て敗死し、地皆晴元に帰す、天文の末、三好長慶、高国が義子氏綱を奉じ、州境を侵し、晴元を逐ひ、終に本州を奪ひ、同族をして芥川に居て、之を守らしむ、永禄中、織田信長之を降し、地を分て、伊丹親興、池田勝政、和田惟政に与ふ、元亀の末、惟政を誅し、勝政を逐ひ、荒木村重を以て守護とす、天正七年、村重叛し、伊丹城を棄て出亡、信長、地を以て池田信輝に賜ふ、豊臣氏、信輝を転封して、其地を有し、大坂城を築きて之に居る、元和元年、豊臣氏亡び、徳川氏其故城を修し、松平忠明に賜ふ、同八年、始て内藤信政を以て城代とし、戌士及び騎兵卒を置き、摂、河、泉、播の政刑を統しむ、後ち奉行を兵庫に置き、又本州を得る者、尼崎(松平忠喬)高槻(永井直清)三田(九鬼尚隆)麻田(青木一重)凡て四藩、王政革新、大坂を以て府となし、更に兵庫県を置き之を治む、


(中央公論社刊『新燕石十種』第二巻を底本としました。)

にぎはひ草

にぎはひ草

灰屋紹益著

巻下 (一部)

一、大虚庵光悦といへる者、能書たりし事は普世にしるしといへ共、生れ得たる心の趣、かつ覚たらんもうせてなく、伝聞かんも又々なし、又世に有べき人間とは覚侍らず、今の世の有さまを見るに、聖人、賢人の道を学とするも、世をわたるためをもとゝするに似たり、光悦は、よをわたるすべ一生さらにしらず、若かりし時より、物の数を合するものゝたぐひ、おもしかるしとしるもののたぐひ、一生我家の内になし、金銀手にのせたる事、昔、加州の大納言、直に判金を給ければ、手にとりていたゞきたると覚たり、其外一度も手に持たる事なし、我身をかろくもてなして、一類眷属のおごりをしりぞけん事を思ひ、住宅麁相にちいさきを好みて、一所に年経て住る事もなく、茶湯にふかくすきたりければ、二畳三畳敷、いづれの宅にもかこひて、みづから茶をたて、生涯のなぐさみとす、人ののぞみ好む道具なども、しばらくは持たる事有けれども、おとすな、うしなはぬやうになどいふ事、いとむつかしとて、みなそれ/\〃にとらせて、後人のほしゝと思ふべき物なかりし、されど、新しくいでくる物にても、なりふりすぐれ見事なるを見しりけるは、利休在世にちかかりければにや、なりを好み作りてやかせたる茶碗等、今代にかつ残りたるも、一ふりある物とぞいふめる、都のいぬゐにあたりて、たかゞみねと云山あり、其ふもとを光悦に給りてけり、我住所として一宇を立、茶立所などしつらい、都にはまだしらざる初雪の朝たは、心おもしろければ、寒さを忘れ、みづから水くみ、かましかけ、程なくにえ音づるゝもいとゞさびしく、みやこの方打ながめ、問くる人もがなと、松の梢の雪は、朝の風にふきはらひて、木の下がけにしばしのこるをおしむ、ひがしは賀茂の山、松が崎などはいとちかく、松と竹とのけぢめみゆるほどにて、ひえの山はこなたの山より上に、ふもとまでみえていち高く、一条寺の里、白川までもふもとゝ見ゆ、雪の比ならねど、有明の月はいたゞきの山のはにのこりて、明がた近きほどに、をちかたは霧ふかく、ふもとの山はみなかくれて、ひえの山は水海のあなたにやと打ながめらるゝ、よこ雲たな引いでゝ、たが別路のながめならんと、老の心をなぐさむ、京のかたは、たつみにあたりていとめでたく、朝夕のけぶりにぎはゝし、都のそら打こして、をとは山、いなり山、ふかくさ山、ふしみの里の空はる/\〃と、遠かたに高山あり、かすが山、みかさ山にやと、をしはかり、ながめやる山々、四方にかぎりなくぞ見えわたる、かゝるすまひの軒ばの松になれて、としひさしかりし世の中のわざとては、一こともしらず、心にもなし、我はさこそすべけれと、こしらへたるには更になくて、生れ得たる心のいさぎよきにてぞ有ける、その世には、同氏類は、人なみ/\に茶湯に心をよせざるはなかりけるが、いとあさましく、心ふつゝかにすたりて、茶たて所昔ありけるも、こぼちとりて跡もなし、さきに書付ける持徳斎は、八十二歳の春までいけるに、前の年の秋より煩ける内にも、座敷を改めなどしをきたり、また、光悦孫に法眼空中斎とてあり、茶湯にふかくすきて、年久かりし、我家の所作は累にすぐれて、世にももてはやすと見えし、茶の事の道には、物ごとに目あり心あるさま成けれども、さありとも人みしらざりけるにや有けん、近きほどには、此ふたりならではなし、またあるべきとも見えず、今のこれるひとりも、八十にあまれり、我も七十にあまりぬ、もと此氏の内に縁ふかきゆへに、此累ほどなく茶の事などの道、跡かたもなく成行なんこと、いと口おしくぞ覚侍る、我いとけなき時より、光悦そば近くなれて、老人の物語きくことおもしろく覚ければ、いくそたびまかりてけり、少物覚けるほどに成ぬれば、ちやのみの友にも成て、私宅にもあまたゝびたづね来られし、老人のくせにて、おなじ物語も度々きゝける、中に悦わかき時、きうじんといひし人ありし、世の中の人の心の、けだかく風流なる事はなし出る次而には、いくたび/\いひ出かたりきかせけれども、其ほどはまだこゝろもいはけなき程の時成ければ、同じ物語度々也などばかり打思ひて、きゝとゞむべき心はさらになかりし程に、きうじんといふ文字も覚侍らざりけれ共、宗祇の子孫なりし事は、たしかにしるきことゝも覚て侍る也、其比、八十にも及ぶ程の老人と聞えし、いと心けだかくやさしき人にて、世のならはし、人の心ざしをにくみて、人に出まじはる事もなく、住居けるとなん、ある時光悦にかたられけるは、宗祇、東の常縁より古今伝受の時、其日々々書写、聞書して置ける物数々、箱の緒内におさめ置て、封じ置たる物あり、是和国の第一秘伝の物也、我此年に及迄、あまた人の上を見聞て、伝へまいらすべき人もがなと、思ひめぐらせども、これへこそとおもひよする方もなくて過ぬ、わぬしの心ざしを、年月経て見るに、歌の道を学ばんとはせざれども、其心ふかく通じて、ゆるしあたふとも、神慮を背くにはあらじと思ふ器也、伝受を得たきとはおもはざるか、といはれしに、なみだせきあへず、かたじけなくて、かしらをさげて、物だにいひかねたるさまなりければ、又いへるは、其器にあらざるもの、これを拝見して、忽に癩人と成、或は頓死する事必定せり、よくよくわきまへられよと、其例どもを引出てかたられけり、先以て、身に過心に及ぶかぎり、口に出していはんばかりなく、忝有がたく覚侍る事にて候、され共、忽に二つの神罰蒙り候はん事、よく思ひわきまへて御返事は申べきにこそとて、罷立て帰り来て、つく/\〃思ひめぐらして、其夜を明しかねて早朝にまいりぬ、いかにして、かくつとめては来られけるぞ、と有ける程に、さても、きのふはいと口おしき御返事を申て、まかり帰りける事、夜一よ明しかねて、とく参りて侍る也、此国に生るゝ者数しらず侍る中に、和国の第一たる秘伝を受しかたじけなさの価に、いかなる罰をも蒙りたらん、何のくるしき事か侍るべき、と申ければ、ほゝゑみて、いとよし/\、かゝる心ざしをもきかばやと思ひてこそは申つれとて、さらば、其箱ひらき拝見すべき時、かくのごとく/\せよとて、其作法をしへしらせられて、身を清め、精進をなして書写せしむ、宗祇の自筆に書をかれしに、一字をたがへず、紙数紙の体迄も同じごとくして写しとゞめて、又箱の内封じおさめて、八十歳まで人にみすることもなくて有し、其時、からす丸光広卿は、光悦に物書事をならひ物し給ける故に、常に思ひ入ふかく、行来のこともしげかりければ、悦、光広卿にまいりて、きうじん事物語申て、宗祇自筆これあり、大老人なれば、いづかたへかまいらすべきと、明くれの思ひとなれる折節也、深く御望のよしを申聞せたらば、進じ申さるゝにて有らん、と申ければ、先光悦を拝し給て、夢現とも覚侍ず、扨も有がたき忝事を承事かな、我身に応ずるかぎりは、いかばかりの物成共参らせられて、其箱はやく我に得させてたべとて、光悦袖に取付給て、外に物申事聞入もし給ず、しきりに頼給ひ、さほどに思召入候こそとて、やがてきうじんに語りければ、何のこともなく、悦て参らせられてけり、此箱の内叡覧に入られしと也、宗祇より西三条殿へ伝りて、西三条鈍より天子も御伝受也と承し、常縁よりは宗祇伝受有て、玄旨などへも伝りし、其はじめの自筆は烏丸殿に有レ之、但、其時自筆をば天子へ上られけることにもや、是をしらず、我若かりし時、光広卿へ参りける事年を経ぬ、江府に年月を重ねておはしましましし比もまいりて、度々当座などもよみならはし給し、ある時御物語の次而に、光悦所に大事の書物入たる箱あるべし、今いかなるものゝ家にかある、もし/\むざとひらきいづる事もやと思ひ出ては、幾度心をくるしむる事也、との給ひける、その箱のことはうけたまはり及たる事に候へ共、光悦よく/\子孫に申ふくめ置けるにや、虫干などもいかゞ仕ける共承はらず、しめかざりて納め置けるとばかり聞伝へ候、と申ければ、それは何者にや、と御尋あり、我ために伯母にて候者が方にこれあるにて候らん、と申ければ、それこそ幸なれ、さらば、いかにもして其箱わぬしもらひて、こゝに持来れ、我封じをくべし、今そこらなどの年にて見る物には、かへすがへすなき事也、年の程時分はからひて、其封を切て参らすべし、其時が古今伝受にて有レ之、と仰きかされける、先有がたく忝き仰にて候へ共、しばらく借をくべしとも覚侍らず、しかれ共、仰を承候へば、猶心をかけのぞみをなし、時を得候事もや、と申て時過ぬ、其後程なく光広卿かくれさせ給、伯母もとくうせて後、おろそかにはせざりしとなれ共、聞をよばれて、一かた二かたも、みそかに拝見の事有しなどいつはりにや、はるかに後聞伝へけるが、皆忽のけがなど有し、さたなしの事よとてやみぬ、神をあがめ奉り置けるやうにて、土蔵の内にのみ有ける、光広卿封じ給はらんとの時より、年をかぞふるに三十年余にして、我年六十年にあまりたり、飛鳥井雅章卿へ申けるは、内々にもきこしめされけるごとく、光広卿、我年のほどをも御はからひ、封を切て給はらんとの仰ごとなりし、今六十年にあまりて、年の程待時にあらず覚候、拝見遂度候、と申ければ、申がごとく六十にあまりて、年の程を待べきにはあらず、拝見致度と申は至極ことはり也、しかれ共、我ゆるしを得て拝見しけるとは、世上のさたしばらくあるべからず、大事におぼしめさるゝ事なれば、太上法皇へうかゞひ奉らずしては、と仰ける程に、さらば先拝見の仕様を伝受あそばされ給り候へとて、其品々承りて、彼箱有ける方へなげき申ければ、かしつかはすに及ず、其方ならではつかはすべきかたなし、則我にくるゝなりとて、箱とり出て渡してけり、謹而拝し頂戴して家に帰り、をしへ給しにたがへず、内外清浄精進にて、常ならぬ庵にこもりて、遂�拝見�侍けるぞ忝、貫之の後いづかたにとゞまりて、いづかたへ/\と、近き代迄次第々々具に書付られたるも、同此箱の内に有ける、抑此国に生をうけぬるもの、あをひとぐさの末々にいたる迄、物いふこと皆和歌にあらずといふ事なし、花になく鶯、水にすむかはづの声をきけば、としるせる也、しかはあれど、三十一字に結て、和歌を詠ぜんともとむるは、万の内の一にもたらざるべし、たま/\これを求めんと、心ざしありとはすれど、足かろげに道引すべき師おほからず、昔の歌仙は更にもいはず、中比よりも此かたの世にほまれある人々のよめる歌の、心だにも得がたき事おほかるべし、ましてよみ得ん事、心の及ばぬ事のみなるべし、さればとて、此国に最為�第一�と伝をくべき道なれば、たえざらしめんとにや、おほくの中を撰出給て、三人四人御伝受の事一とし有し也、そも又今は大かたうせ給て侍り、今はそこ/\と聞えさせ給御方だに、老ぼれぬればしらず、耳なければきかずぞ侍る、此道に心入給御かた/\〃、これを得まほしく、深く望みおぼし入かたもなきにはあらざるべけれ共、大かたは得給ふ事かたく、むなしくやみ給ぬるを、我其家にもあらず、望みはふかくおもひ入にしかども、其器にあらざれば、其すべしらでやみぬ、何によりてか、かゝる物の我方には渡り給けるぞと、和歌の明神を拝し奉りて、有難こそと、雅章卿にも此事幾度申て侍しに、定而神慮にこそ侍らめ、冥加ある事也と、いとよろこばしくぞのたまひける、此事、上つかたにもきこしめす事侍りて、雅章卿へ御物語の次而にや、仰有ける事有しを、少きゝまがはせ給てにや、はなはだしく御とがめの事ありし、さればこそわざはひ出こん事にやと、いとくるしく思ひけるに、きこしめしわくる筋有て、事なくて止ぬ、いともかしこき事ながら、われらごときのもの是を拝し奉らば、さだめて神罰蒙り侍らん事疑ひなかるべしとおもひ侍しを、時代にしたがひぬる故や侍りけん、神もゆるし給けるにやと、猶有がたく忝ぞ覚侍ける、


(中央公論社刊『新燕石十種』第三巻を底本としました。)

日本書紀

日本書紀 巻第一

神代 上

赤字は『一夢庵風流記』本文引用部分。

第一段
 古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、混沌(まろか)れたること鶏子の如くして、溟幸(ほのか)にして牙(きざし)を含めり。其れ清陽(すみあきらか)なるものは、薄靡(たなび)きて天と為り、重濁(おもくにご)れるものは、淹滞(つつ)ゐて地と為るに及びて、精妙なるが合へるは摶(むらが)り易く、重濁れるが凝りたるは竭(かたまり)り難し、故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖(かみ)、其の中に生れます。故曰はく、開闢(あめつちひら)くる初に、洲壌(くにつち)の浮れ漂へること、譬へば游魚(あそぶいを)の水上に浮けるが猶し。時に、天地の中に一物生れり。状(かたち)葦牙(あしかび)の如し。便ち神と化為る。国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号す。(至りて貴きをば尊と曰ふ。自余をば命と曰ふ。並に美挙等と訓ふ。下皆此に効へ。)次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。次に豊斟渟尊(とよむぬのみこと)。凡て三の神ます。乾道(あめのみち)独化(ひとりな)す。所以に、此の純男(おとこのかぎり)を成せり。

一書に曰はく、天地初めて判るるときに、一物虚中に在り。状貌言ひ難し。其の中に自づからに化生づる神有す。国常立尊と号す。亦は国底立尊と曰す。次に国狭槌尊。亦は国狭立尊と曰す。次に豊国主尊(とよくにぬしのみこと)。亦は豊組野尊(とよくぬののみこと)と曰す。亦は豊香節野尊(とよかぶののみこと)と曰す。亦は浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと)と曰す。亦は豊国野尊と曰す。亦は豊齧野尊(とよかぶののみこと)と曰す。亦は葉木国野尊(はこくにののみこと)と曰す。亦は見野尊(みののみこと)と曰す。
一書に曰はく。古に国稚(くにい)しく地稚(つちい)しき時に、譬へば浮膏(うかべるあぶら)の猶くして漂蕩へり。時に、国の中に物生れり。状葦牙の抽け出でたるが如し。此に因りて化生づる神有す。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と号す。次に国常立尊。次に国狭槌尊。葉木国、此をば播挙矩爾(はこくに)と云ふ。可美、此をば于麻時と云ふ。
一書に曰はく、天地混れ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦舅尊と号す。次に国底立尊。彦舅、此をば比古尼と云ふ。
一書に曰はく、天地初めて判るるときに、始めて倶に生づる神有す。国常立尊と号す。次に国狭槌尊。又曰はく、高天原に所生れます神の名を、天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)と曰す。次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)。次に神皇産霊尊(かむみむすひのみこと)。皇産霊、此をば美武須毘(みむすひ)と云ふ。
一書に曰はく、天地初めて判るるときに、物有り。葦牙の若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、天常立尊と号す。次に可美葦牙彦舅尊。又物有り。浮膏の若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、国常立尊と号す。

第二段
 次に神有す。泥土煮尊(うひぢにのみこと)(泥土、此をば于毘尼と云ふ。)沙土煮尊(すひぢにのみこと)。(沙土、此をば須毘尼と云ふ。泥土根尊・沙土根尊と曰す。)次に神有す。大戸之道尊(おおとのぢのみこと)(一にはく、大戸之辺といふ。)大苫辺尊(おおとまべのみこと)。(亦は大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)・大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと)と曰す。亦は大富道尊(おほとまぢのみこと)・大富辺尊(おほとまべのみこと)と曰す。)次に神有す。面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)。(亦は吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)と曰す。亦は忌橿城尊(いむかしきのみこと)と曰す。亦は青橿城根尊(あおかしきねのみこと)と曰す。亦は吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)と曰す。)次に神有す。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)。

一書に曰はく、此の二の神は、青橿城根尊の子なり。
一書に曰はく、国常立尊、天鏡尊(あまのかがみのみこと)を生む。天鏡尊、天万尊(あめよろずのみこと)を生む。天万尊、沫蕩尊(あわなぎのみこと)を生む。沫蕩尊、伊奘諾尊を生む。沫蕩、此をば阿和那伎と云ふ。

第三段
 凡て八(やはしら)の神ます。乾坤(あめつち)の道、相参りて化る。所以に、此の男女を成す。国常立尊より、伊奘諾尊・伊奘冉尊に迄るまで、是を神世七代と謂ふ。

一書に曰はく、男女類ひ生る神、先づ泥土煮尊・沙土煮尊有す。次に角杭尊(つのくひのみこと)・活杭尊(いくくひのみこと)有す。次に面足尊・惶根尊有す。次に伊奘諾尊・伊奘冉尊有す。杭(くい)は蹶(けつ)なり。

第四段
 伊奘諾尊・伊奘冉尊、天浮橋の上に立たして、共に計ひて曰はく、「底下に豈国無けむや」とのたまひて、迺ち天之瓊(あまのぬ)(瓊は、玉なり。此をば努と云ふ。)矛を以て、指し下して探る。是に滄溟(あをうなはら)を獲き。其の矛の鋒より滴瀝(しただ)る潮、凝りて一の嶋に成れり。名けて殷馭盧嶋(おのごろしま)と曰ふ。二の神、是に、彼の嶋に降り居して、因りて共為夫婦(みとのまぐはひ)して、洲国(くにつち)を産出まむとす。便ち殷馭盧嶋を以て、国中の柱(柱、此をば美簸旨邏(みはしら)と云ふ。)として、陽神は左より旋る。国の柱を分巡りて、同じく一面に会ひき。時に、陰神先づ唱へて曰はく、「喜哉、可美少男に遇ひぬること」とのたまふ。(少男、此をば烏等孤(をとこ)と云ふ。)陽神悦びずして曰はく、「吾は是男子なり。理当に先づ唱ふべし。如何ぞ婦人にして、反りて言先つや。事既に不祥(さがな)し。以て改め旋るべし」とのたまふ。是に、二の神却りて更に相遇ひたまひぬ。是の行は、陽神先づ唱へて曰はく、「喜哉、可美少女に遇ひぬること」とのたまふ。(少女、此をば烏等ォァ(をとめ)と云ふ。)因りて陰神に問ひて曰はく、「汝が身に何の成れるところか有る」とのたまふ。対へて曰はく、「吾が身に一の雌の元といふ処有り」とのたまふ。陽神の曰はく、「吾が身に亦雄の元といふ処有り。吾が身の元の処を以て、汝が身の元の処に合せむと思欲ふ」とのたまふ。是に、陰陽始めて遘合して夫婦と為る。
 産む時に至るに及びて、先づ淡路洲を以て胞とす。意に快びざる所なり。故、名けて淡路洲と曰ふ。廼ち大日本(日本、此をば耶麻謄(やまと)と云ふ。下皆此に効へ。)豊秋津洲を生む。次に伊予二名洲(いよのふたなのしま)を生む。次に筑紫洲を生む。次に億岐洲と佐渡洲とを双生む。世人、或いは双生むこと有るは、此に象りてなり。次に越洲を生む。次に吉備子洲を生む。是に由りて、始めて大八洲国の号起きれり。即ち対馬嶋、壱岐嶋、及び処処の小嶋は、皆是潮の沫の凝りて成れるものなり。亦は、水の沫の凝りて成れるとも曰ふ。

一書に曰はく、天神、伊奘諾尊・伊奘冉尊に謂りて曰はく、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の地有り。汝往きて脩すべし」とのたまひて、廼ち天瓊戈を賜ふ。是に、二の神、天上浮橋に立たして、戈を投して地を求む。因りて、滄海を画して、引き挙ぐるときに、即ち戈の鋒より垂り落つる潮、結りて嶋と為る。名けて殷馭盧嶋と曰ふ。二の神、彼の嶋に降り居して、八尋之殿(やひろのとの)を化作(みた)つ。又天柱を化堅(みた)つ。陽神、陰神に問ひて曰はく、「汝が身に何の成れるところか有る」とのたまふ。対へて曰はく、「吾が身に具り成りて、陽の元と称ふ者一処有り」とのたまふ。陽神の曰はく、「吾が身に亦具り成りて、陽の元と称ふ者一処有り。吾が身の陽の元を以て、汝が身の陰の元に合はせむと思欲ふ」と、云爾。即ち天柱を巡らむとして約束りて曰はく、「妹は左より巡れ。吾は当に右より巡らむ」とのたまふ。既にして分れ巡りて相遇(あ)ひたまひぬ。陰神、乃ち先づ唱へて曰はく、「妍哉(あなにゑや)、可愛少男を」とのたまふ。陽神、後に和へて曰はく、「妍哉、可愛少女を」とのたまふ。遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して、先づ蛭児を生む。便ち葦船に載せて流りてき。次に淡洲を生む。此亦児の数に充れず。故、還復りて天に上り詣でて、具に其の状を奏したまふ。時に天神、太占(ふとまに)を以て卜合(うら)ふ。乃ち教でて曰はく、「婦人の辞、其れ已に先づ揚げたればか。更に還り去ぬ」とのたまふ。乃ち時日を卜定(うら)へて降す。故、二の神、改めて復柱を巡りたまふ。陽神は左よりし、陰神は右よりして、既に遇ひたまひぬる時に、陽神、先づ唱へて曰はく、「妍哉、可愛少女を」とのたまふ。陰神、後に和へて曰はく、「妍哉、可愛少男を」とのたまふ。然して後に、宮を同くして共に住ひて児を生む。大日本豊秋津洲と号く。次に淡路洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に越洲。次に吉備子洲。此に由りて、之を大八洲国と謂ふ。瑞、此をば弥図(みつ)と云ふ。妍哉、此をば阿那而恵夜(あなにゑや)と云ふ。可愛、此をば哀(え)と云ふ。太占、此をば布刀磨爾(ふとまに)と云ふ。
一書に曰はく、伊奘諾・伊奘冉、二の神、高天原に坐しまして曰はく、「当に国有らむや」とのたまひて、乃ち天瓊矛を以て、探りて一の嶋を成す。名けて殷馭盧嶋と曰ふ。
一書に曰はく、陰神先づ唱へて曰はく、「美哉、善少男を」とのたまふ。時に、陰神の言先つるを以ての故に、不祥(さがな)しとして、更に復改め巡る。則ち陽神先づ唱へて曰はく、「美哉、善少女を」とのたまふ。遂に合交せむとす。而も其の術を知らず。時に鶺鴒有りて、飛び来りて其の首尾を揺す。二の神、見して学ひて、即ち交の道を得つ。
一書に曰はく、二の神、合為夫婦して、先づ淡路洲・淡洲を以て胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生む。次に越洲。次に子洲。
一書に曰はく、先づ淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲。
一書に曰はく、殷馭盧嶋を以て胞として、淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生む。次に越洲。
一書に曰はく、淡路洲を以て胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。
一書に曰はく、陰神先づ唱へて曰はく、「妍哉、可愛少男を」とのたまふ。便ち陽神の手を握りて、遂に為夫婦して、淡路洲を生む。次に蛭児。

第七段
是の後に、素戔鳴尊の為行(しわざ)、甚だ無状(あつきな)し。何とならば、天照大神、天狭田(あまのさなだ)・長田を以て御田としたまふ。時に素戔鳴尊、春は重撒種子(しきまき)し、(重撒種子、此をば璽枳磨枳と云ふ。)且畔毀(あはなち)す。(毀、此をば波那豆と云ふ。)秋は天斑駒(あまのぶちこま)を放ちて、田の中に伏す。復天照大神の、方(みざかり)に神衣(かむみそ)を織りつつ、斎服殿(いみはたどの)に居しますを見て、則ち天斑駒を剥ぎて、殿の甍を穿ちて投げ納る。是の時に、天照大神、驚動きたまひて、梭(かび)を以て身を傷ましむ。此に由りて、発慍(いか)りまして、乃ち天岩窟(あまのいはや)に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、六合(くに)の内常闇(うちとこやみ)にして、昼夜の相代も知らず。時に、八十万神、天安河辺(あまのやすのかはら)に会ひて、其の祷るべき方を計ふ。故、思兼神(おもにかねのかみ)、深く謀り遠く慮りて、遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互に長鳴せしむ。亦手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、中臣連の遠祖天児屋命、忌部の遠祖太玉命、天香山の五百箇(いほつ)の真坂樹を掘(ねこじにこ)じて、上枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、中枝には八咫鏡(一に云はく、真経津鏡といふ)を懸け、下枝には青和弊(あおにきて)、(和弊、此をば尼枳底と云ふ。)白和弊を懸でて、相与に致其祈祷す。又猿女君の遠祖天鈿女命、則ち手に茅纏の矛を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優(わざおき)す。亦天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿(ひかげ)(蘿、此をば比舸礙と云ふ。)を以て手繦(手繦、此をば多須枳と云ふ。)にして、火処焼き、覆槽(うけ)置(ふ)せ、(覆槽、此をば于該と云ふ。)顕神明之憑談(かむがかり)す。(顕神明之憑談、此をば歌牟鵝可梨と云ふ。)是の時に、天照大神、聞しめして曰さく、「吾、比石窟に閉り居り。謂ふに、当に豊葦原中国は、必ず為長夜くらむ。云何ぞ天鈿女命如此虐楽(かくゑら)くや」とおもほして、乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて窺す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。是に、中臣神・忌部神、則ち端出之縄(縄、亦云はく、左縄の端出すという。此をば斯梨倶梅儺波(しりくめはな)と云ふ。)界(ひきわた)す。乃ち請して曰さく、「復な還幸(かえりい)りましそ」とまうす。然して後に、諸の神罪過を素戔鳴尊に帰せて、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てして、遂に促(せ)め徴(はた)る。髪を抜きて、其の罪を贖(あか)はしぬるに至る。亦曰はく、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已にして竟に逐降(かむやらひやら)ひき。

一書に曰はく、是の後に、稚日女尊(わかひるめのみこと)、斎服殿(いみはたどの)に坐しまして、神之御服(かむみそ)織りたまふ。素戔鳴尊見して、則ち斑駒を逆剥ぎて、殿の内に投げ入る。稚日女尊、乃ち驚きたまひて、機より堕ちて、持たる梭を以て体を傷らしめて、神退りましぬ。故、天照大神、素戔鳴尊に謂りて曰はく、「汝猶黒き心有り。汝と相見じ」とのたまひて、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉著しつ。是に、天下恒闇にして、復昼夜の殊も無し。故、八十万の神を天高市に会へて問はしむ。時に高皇産霊(たかみむすひ)の息思兼神(みこおもいかねのかみ)といふ者有り。思慮の智有り。乃ち思ひて白して曰さく、「彼の神の象を図し造りて、招祷き奉らむ」とまうす。故、即ち石凝姥を以て治工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり。(石凝姥、此をば伊之居梨度佯(正しくは口扁)と云ふ。全剥、此をば宇都播伎と云ふ。)
一書に曰はく、日神尊、天垣田を以て御田としたまふ。時に素戔鳴尊、春は渠填め、畔毀す。又、秋の穀已に成りぬるときに、則ち冒すに絡縄を以てす。且日神の織殿に居します時に、則ち斑駒を生剥にして、其の殿の内に納る。凡て此の諸の事、尽に是無状し。然れども、日神、恩親しき意にして、慍めたまはず、恨みたまはず。皆平なる心を以て容したまふ。日神の新嘗しめす時に及至びて、素戔鳴尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る。日神知しめさずして、徑(正しくは人扁)に席の上に坐たまふ。是に由りて、日神、体挙りて不平みたまふ。故、以て恙恨りまして、廼ち天石窟に居しまして、其の磐戸を閉しぬ。時に、諸の神、憂へて、乃ち鏡作部の遠祖天糠戸者をして、鏡を造らしむ。忌部の遠祖太玉には幣を造らしむ。玉作部の遠祖豊玉には玉を造らしむ。又山雷者をして、五百箇の真坂樹の八十玉籤を採らしむ。野槌者をして、五百箇の野薦の八十玉籤を採らしむ。凡て此の諸の物、皆来聚集ひぬ。時に中臣の遠祖天児屋命、則ち以て神祝き祝きき。是に、日神、方に磐戸を開けて出でます。是の時に、鏡を以て其の石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘(いつきまつ)る大神なり。已にして罪を素戔鳴尊に科(おほ)せて、其の祓具を責(はた)る。是を以て、手端(たなすゑ)の吉棄物(よしきらひもの)、足端(あなすゑ)の凶棄物(あしきらひもの)有り。亦唾を以て白和幣とし、洟を以て青和幣として、此を用て解除へ竟りて、遂に神逐の理を以て逐ふ。送糞、此をば倶蘇摩屡(くそまる)と云ふ。玉籤、此をば多那倶之(たまくし)と云ふ。祓具、此をば波羅閉都母能(はらへつもの)と云ふ。手端吉棄、此をば多那須衛能余之岐羅毘(たなすゑのよしきらひ)と云ふ。神祝祝之、此をば加武保佐枳保佐枳枳(かむほさきほさきき)と云ふ。逐之、此をば波羅賦(はらふ)と云ふ。
一書に曰はく、是の後に、日神の田、三処有り。号けて天安田・天平田・天邑并田(あまのむらあはせだ)と曰ふ。此皆良き田なり。霖旱(ながめひでり)に経ふと雖も、損傷はるること無し。其の素戔鳴尊の田、亦三処有り。号けて天杙田・天川依田・天口鋭田と曰ふ。此皆磽地(やせどころ)なり。雨れば流れぬ。旱れば焦けぬ。故、素戔鳴尊、妬みて姉の田を害る。春は廃渠槽(ひはがち)、及び埋溝、毀畔、又重播種子す。秋は捶籤し、馬伏す。凡て此の悪しき事、曾て息む時無し。然れども、日神、慍めたまはずして、恒に平恕(たひらかなるみこころ)を以て相容(ゆる)したまふこと、云云。
日神の、天石窟に閉り居すに至りて、諸の神、中臣連の遠祖(とおつおや)興台産霊(こごとむすひ)が児(みこ)天児屋命(あまのこやねのみこと)を遺して祈ましむ。是に、天児屋命、天香山の真坂木を掘して、上枝には、鏡作の遠祖天抜戸(あまのぬかと)が児(こ)石凝戸辺(いしこりとべ)が作れる八咫瓊(やたに)の曲玉を懸け、下枝には、粟国の忌部の遠祖天日鷲が作ける木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖太玉命をして執り取たしめて、広く厚く称辞をへて祈み啓さしむ。時に、日神聞しめして曰はく、「頃者、人多に請すと雖も、未だ若此言の麗美しきは有らず」とのたまふ。乃ち細に磐戸を開けて窺す。是の時に、天手力雄神、磐戸の側に侍ひて、則ち引き開けしかば、日神の光、六合に満みにき。故、諸の神大きに喜びて、即ち素戔鳴尊に千座置戸の解除を科せて、手の爪を以ては吉爪棄物(よしきらひもの)とし、足の爪を以ては凶爪棄物(あしきらひもの)とす。乃ち天児屋命をして、其の解除に太諄辞(ふとのりと)を掌りて宣らしむ。世人、慎みて己が爪を収むるは、此其の縁なり。既にして諸の神、素戔鳴尊を嘖めて曰はく、「汝が所行甚だ無頼し。故、天上に住むべからず。亦葦原中国にも居るべからず。急に底根の国に適ね」といひて、乃ち共に逐降ひ去りき。時に、霖ふる。素戔鳴尊、青草を結束ひて、笠簑として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰はく、「汝は是躬の行濁悪しくして、逐ひ謫めらるる者なり。如何ぞ宿を我に乞ふ」といひて、遂に同に距く。是を以て、風雨甚だふきふると雖も、留り休むこと得ずして、辛苦みつつ降りき。爾より以来、世、笠簑を着て、他人の屋の内に入ること諱む。又束草を負ひて、他人の家の内に入ること諱む。此を犯すこと有る者をば、必ず解除を債す。此、太古の遺法なり。
是の後に、素戔鳴尊の曰はく、「諸の神我を逐ふ。我、今当に永に去りなむ。如何ぞ我が姉と相見えまつらづして、擅に自ら徑に去らむや」とのたまひて、廼ち復天を扇し国を扇して、天に上り詣づ。時に天鈿女見て、日神に告言す。日神の曰はく、「吾が弟の上来す所以、復好き意に非じ。必ず我が国を奪はむとならむか。吾、婦女なりと雖も何ぞ避らむ」とのたまひて、乃ち躬に武き備を装ふこと、云云。是に、素戔鳴尊、誓ひて曰はく、「吾、若し不善を懐ひて、復上来らば、吾、今玉を齧ひて生めらむ児、必ず当に女ならむ。如此ば、女を葦原中国に降したまへ。如し清き心有らば、必ず当に男を生まむ。如此ば、男をして天上を御しめたまへ。且姉の所生したまはむ、亦此の誓に同じからむ」とのたまふ。是に、日神、先づ十握剣を齧みたまふこと、云云。
素戔鳴尊、乃ち輜轤然(をもくるる)に、其の左の髻に纏かせる五百箇の統の瓊の綸を解き、瓊響(ぬなと)も搶搶(もゆら:正しくは王扁)に、天渟名井(あまのぬなゐ)に濯ぎ浮く。其の瓊の端を噛みて、左の掌に置きて、生す児を、正哉吾勝勝速日天忍穂根尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと)。復右の瓊を噛みて、左の掌に置きて、生す児を、天穂日命。此出雲臣・武蔵国造・土師連等が遠祖なり。次に天津彦根命。此茨城国造・額田部連等が遠祖なり。次に活目津彦根命(いくめつひこねのみこと)。次に火速日命(ひのはやひのみこと)。次に熊野大角命。凡て六の男ます。是に、素戔鳴尊、日神に白して曰はく、「吾更に昇来る所以は、衆神、我を根国に処く。今当に就去りなむとす。若し姉と相見えまつらずは、終に忍びて離れまつるに能はじ。故、実に清き心を以て、復上り来つらくのみ。今は覲え奉ること已に訖りぬ。当に衆神の意の随に、此より永に根国に帰りなむ。請ふ、姉、天国に照臨みたまふこと、自づからに平安くましませ。且吾が清き心を以て生せる児等をば、亦姉に奉る」とのたまふ。已にして復還降りたまひき。廃渠槽、此をば秘波鵝都(ひはがつ)と云ふ。捶籤、此をば久斯社志(くしざし)と云ふ。興台産霊、此をば許語等武須比(こごとむすひ)と云ふ。太諄辞、此をば布斗能理斗と云ふ。輜轤然、此をば乎謀苦留留爾(をもくるるに)と云ふ。搶搶(もゆら:正しくは王扁)乎、此をば奴儺等母母由羅爾(ぬなとももゆらに)と云ふ。

(岩波文庫ワイド版『日本書紀』(一)を底本としました。)

巻三

日本書紀 巻第三

神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと) 神武天皇

 神日本磐余彦天皇、諱(ただのみな)は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武盧茲草茸不合尊(ひこなぎたけうがやふきあへずのみこと)の第四子(よはしらにあたりたまふみこ)なり。母をば玉依姫と曰す。海童(わたつみ)の少女(おとむすめ)なり。天皇、生れましながらにして明達(さか)し。意霍(みこころかたく)如(つよ)くます。年十五にして、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。長(ひととな)りたまひて日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶(ま)きて、妃としたまふ。手研耳命(たぎしみのみこと)を生みたまふ。年四十五歳に及(いた)りて、諸の兄(いろね)及び子等(みこたち)に謂(かた)りて曰はく、「昔我が天祖(あまつかみ)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)・大日霊尊(おほひるめのみこと)、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けたまへり。是に、火瓊瓊杵尊、天関(あまのいわくら)を闢(ひきひら)き雲路を披(おしわ)け、仙蹕(みさきはらい)駈(お)ひて戻止(いた)ります。
(私注:盧茲はどちらも鳥旁が付き、二字で「う」と読む。霍は石偏が正字)

 是の時に、運(と)、鴻荒(あらき)に属ひ、時、草昧(くらき)に錘(あた)れり。故、蒙(くら)くして正を養ひて、此の西の偏を治す。皇祖皇考(みおや)、乃神乃聖(かみひじり)にして、慶を積み暉を重ねて、多に年所を歴たり。天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九万二千四百七十余歳。而るを、遼貌(とほくはるか)なる地、猶未だ王沢(みうつくしび)に霑(うるほ)はず。遂に邑に君有り、村(ふれ)に長(ひとごのかみ)有りて、各自疆を分ちて、用て相凌ぎ轢(きしろ)はしむ。抑又、塩土老翁(しほつつのをぢ)に聞きき。曰ひしく、『東に美き地有り。青山四周れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り』といひき。余謂ふに、彼の地は、必ず以て大業を恢弘(ひらきの)べて、天下に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心か。厥(そ)の飛び降るといふ者は、是繞速日(これにぎはやひ)と謂ふか。何ぞ就きて都つくらざらむ」とのたまふ。諸の皇子対へて曰さく、「理実灼然(ことわりいやちこ)なり。我も恒に以て念としつ。早に行ひたまへ」とまうす。是年、太歳甲寅。
(私注:轢は正しくは足偏。繞は正しくは食偏)

 其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親(みづか)ら諸の皇子・舟師(みふねいくさ)を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門(はやすひなと)に至ります。時に、一人の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣(やつかれ)は是国神なり。名をば珍彦(うづひこ)と曰す。曲浦(わだのうら)に釣魚す。天神の子来でますと聞(うけたまわ)りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対へて曰さく、「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎槁(しひさを)が末を授して、執へしめて、皇舟に牽き納れて、海導者(みちびきひと)とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。(椎、此をば辞?(しひ)と云ふ。)此即ち倭直部(やまとのあたひら)が始祖なり。行きて筑紫国の菟狭(うさ)に至ります。(菟狭は地の名なり。此をば宇佐と云ふ。)時に菟狭国造の祖有り。号けて菟狭津彦・菟狭津媛と曰ふ。乃ち菟狭の川上にして、一柱騰宮を造りて饗奉る。(一柱謄宮、此をば阿斯比苔徒鞅餓離能宮(あしひとつあがりのみや)と云ふ。)是の時に、勅をもて、菟狭津媛を以て、侍臣天種子命(おもとまへつきみあまのたねのみこと)に賜妻せたまふ。天種子命は、是中臣氏の遠祖なり。
(私注:椎槁の槁は高に竹冠が正しい)

 十有一月(しもつき)の丙戌(ひのえいぬ)の朔(ついたち)甲午(きのえうまのひ)に、天皇、筑紫国の岡水門(をかのみなと)に至りたまふ。

 十有二月(しはす)の丙辰(ひのえたつ)の朔壬午(みずのえうまのひ)に、安芸国に至りまして、埃宮(えのみや)に居します。
 乙卯年(きのとのうのとし)の春三月(はるやよい)の甲寅(きのえとら)の朔己未(つちのとひつじ)に、吉備国に徒(うつ)りて入りましき。行館(かりみや)を起(つく)りて居す。是を高嶋宮と曰ふ。三年積る間に、舟楫(ふね)を揃へ、兵食(かて)を蓄へて、将(まさ)に一たび挙げて天下を平けむと欲す。

 戊午(つちのえうま)年の春二月の丁酉(ひのととり)の朔丁未に、皇師(みいくさ)遂に東にゆく。舳艫(ともへ)相接げり。方(まさ)に難波碕に到るときに、奔き潮有りて太だ急きに会ひぬ。因りて、名けて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(なみはな)と曰ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。(訛、此をば与許奈磨慮(よこなまる)と云ふ。)

 三月(やよい)の丁卯(ひのとう)の朔(ついたち)丙子(ひのえねのひ)に、遡流而上(かわよりさかのぼ)りて、径(ただ)に河内国の草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩之津(しらかたのつ)に至ります。

 夏四月(うづき)の丙申の朔甲辰(きのえたつのひ)に、皇師兵を勒(ととの)へて、歩より竜田に趣く。而して其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず。乃ち還りて更に東(ひむがしのかた)胆駒山(いこまのやま)を踰(こ)えて、中洲(うちつくに)に入らむと欲す。時に長髄彦(ながすねびこ)聞きて曰はく、「夫れ、天神の子等の来ます所以は、必ず我が国を奪はむとならむ」といひて、則ち尽に属へる兵を起して、徼(さいぎ)りて、孔舎衛坂(くさえのさか)にして、与に会ひ戦ふ。流矢有りて、五瀬命(いつせのみこと)の肱脛(ひじはぎ)に中れり。皇師進み戦ふこと能はず。天皇憂へたまひて、乃ち神策(あやしきはかりこと)を冲衿(みこころのうち)に運(さだ)めたまひて曰はく、「今我は是日神の子孫にして、日に向ひて虜(あた)を征つは、此天道に逆れり。若(し)かじ、退き還りて弱きことを示して、神祇(あまつやしろくにつやしろ)を礼(ゐや)び祭(いは)ひて、背(そびら)に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて、影の随(まにま)に圧(おそ)ひ踏みなむには。此の如くせば、曾て刃に血らずして、虜必ず自づからに敗れなむ」とのたまふ。僉(みな)曰さく、「然なり」とまうす。是に、軍中(いくさ)に令(みことのり)して曰はく、「且(しまし)は停れ。復な進きそ」とのたまふ。乃ち軍を引きて還りたまふ。虜亦敢へて逼めまつらず。却りて草香津に至りて、盾を植てて雄誥したまふ。(雄誥、此をば烏多鶏糜(をたけび)と云ふ。)因りて改めて其の津を号けて盾津と曰ふ。今蓼津と云へるは訛れるなり。初め孔舎衛の戦に、人有りて大きなる樹に隠れて、難に免るること得たり。仍りて其の樹を指して曰はく、「恩、母の如し」といふ。時人、因りて其の地を号けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今飫悶迺奇(おものき)と云ふは訛れるなり。

 五月の丙寅の朔癸酉に、軍、茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)(亦の名は山井水門(やまのゐのみなと)。茅渟、此をば智怒(ちぬ)と云ふ。)に至る。時に五瀬命の瘡痛みますこと甚し。乃ち撫剣りて雄誥して曰はく、(撫剣、此をば都盧耆能多伽弥屠利辞魔屡(つるぎのたかみとりしばる)と云ふ。)「慨哉、大丈夫(ますらお)にして、(慨哉、此をば宇黎多棄伽夜(うれたきかや)と云ふ。)虜(いやしきやつこ)が手を被傷ひて、報いずしてや死(や)みなむとよ」とのたまふ。時人、因りて其の処を号けて、雄水門(をのみなと)と曰ふ。進みて紀国の竈山(かまやま)に到りて、五瀬命、軍に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山に葬りまつる。

 六月の乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。則ち名草戸畔といふ者を誅す。(戸畔、此をば妬?(とべ)と云ふ。)遂に狭野を越えて、熊野の神邑に到り、且ち天磐盾(あまのいわたて)に登る。仍りて軍を引きて漸に進む。海の中にして卒に暴風に遇ひぬ。皇舟漂蕩(みふねただよ)ふ。時に稲飯命(いなひのみこと)、乃ち歎きて曰はく、「嗟乎、吾が祖は天神、母は海神なり。如何ぞ我を陸に厄め、復我を海に厄むや」とのたまふ。言ひ訖りて、乃ち剣を抜きて海に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為る。三毛入野命(みけいりののみこと)、亦恨みて曰はく、「我が母及び姨は、並に是海神なり。何為ぞ波瀾(なみ)を起てて、灌溺(おぼほ)すや」とのたまひて、則ち浪の秀を蹈みて、常世郷に往でましぬ。天皇独、皇子手研耳命(みこたぎしみみのみこと)と、軍を帥ゐて進みて、熊野の荒坂津(亦の名は丹敷浦(にしきのうら)。)に至ります。因りて丹敷戸畔といふ者を誅す。時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず。時に、彼処に人有り。号を熊野の高倉下と曰ふ。忽に夜夢みらく、天照大神、武甕雷神(たけみかづちのかみ)に謂りて曰はく、「夫れ葦原中国(あしはらのなかつくに)は猶聞喧擾之響焉(さやげりなり)。(聞喧擾之響焉、此をば左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。)汝更往きて征て」とのたまふ。武甕雷神対へて曰さく、「予(やつこ)行(まか)らずと雖(いふと)も、予が国を平(む)けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「諾なり。(諾、此をば宇毎那利と云ふ)」とのたまふ。時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰はく、「予が剣、号をフツ霊と曰ふ。(フツ霊、此をば赴屠能彌多磨(ふつのみたま)と云ふ。)今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉、「唯唯」と曰すとみて寤(さ)めぬ。明旦(くるつあした)に、夢の中の教に依りて、庫(ほくら)を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒(さかしま)に庫の底板に立てり。即ち取りて進(たてまつ)る。時に、天皇、適く寐せり。忽然にして寤めて曰はく、「予何ぞ若此長眠しつるや」とのたまふ。尋ぎて毒に中りし士卒、悉に復醒めて起く。既にして皇師、中洲に趣かむとす。而るを山の中嶮しくして、復行くべき路無し。乃ち棲逞(しじま)ひて其の跋み渉かむ所を知らず。時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓(をし)へまつりて曰はく、「朕今(あれいま)頭八咫烏(やたのからす)を遣す。以て郷導(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の曰はく、「此の烏の来ること、自づからに祥き夢に叶へり。大きなるかな、赫(さかり)なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。是の時に、大伴氏の遠祖日臣命(ひのおみのみこと)、大来目(おほくめ)を師ゐて、元戎(おほつはもの)に督将(いくさのきみ)として、山を蹈み啓け行きて、乃ち烏の向ひの尋に、仰ぎ視て追ふ。遂に莵田下県(うだのしもつこほり)に達る。因て其の至りましし処を号けて、莵田の穿邑(うがちのむら)(穿邑、此をば于介知能務羅(うかちのむら)と云ふ。)と曰ふ。時に、勅して日臣命を誉めて曰はく、「汝忠ありて且勇あり。加能く導の功有り。是を以て、汝が名を改めて道臣(みちのおみ)とす」とのたまふ。

 秋八月の甲午の朔乙未に、天皇、兄猾(えうかし)及び弟猾(おとうかし)を徴さしむ。(猾、此をば宇介志(うかし)と言ふ。)是の両の人は、莵田県の魁師(ひとごのかみ)なり。(魁師、此をば比鄧誤迺伽彌(ひとごのかみ)と云ふ。)時に兄猾来ず。弟猾即ち詣至(もうけ)り。因りて軍門(みかど)を拝みて、告して曰さく、「臣(やつかれ)が兄(このかみ)兄猾の逆をする状は、天孫到りまさしむとすと聞りて、即ち兵を起して襲はむとす。皇師の威を望見(おせ)るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、権(かり)に新宮を作りて、殿の内に機(おし)を施(お)きて、饗(みあへたてまつ)らむと謂すに因りて作難(まちと)らむとす。願はくは、此の詐(いつわり)を知しめして、善く備へたまへ」とまうす。天皇、即ち道臣命を遣して、其の逆ふる状を察(あきら)めたまふ。時に道臣命、審に、賊害之心(そこなはむといふこころ)有ることを知りて、大きに怒りてサ「(たけ)びケノ(ころ)ひて曰はく、「虜(いやしきやつこ)、爾(い)が造れる屋に、爾(おれ)自ら居よ」といふ。(爾、此をば飫例と云ふ。)因りて、剣案(つるぎのたかみとりしば)り弓穹(ゆみひきまかな)ひて、逼(せ)めて催(お)ひ入れしむ。兄猾、罪を天に獲たれば、事辞(こともうしさ)る所無し。乃ち自機(おのれおし)を踏みて圧はれ死ぬ。時に、其の屍を陳(ひきいた)して斬る。流るる血、踝(つぶなぎ)を没(い)る。故、其の地を号けて、莵田の血原(ちはら)と曰ふ。已にして、弟猾大きに牛酒(しし)を設けて、皇師に労へ饗す。
天皇、其の酒宍(しし)を以て、軍卒(いくさのひとども)に班(あか)ち賜ふ。乃ち御謡して曰はく、(謡、此をば宇多預彌(うたよみ)と云ふ。)

  •  莵田の 高城に 鴫羂(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鷹等(くじら)障り 前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば 立稜麦(たちそば)の 実の無けくを 幾多(こきし)ツソ(ひ)ゑね 後妻(うはなり)が 肴乞はさば 斎賢木(いちさかき) 実の多けくを 幾多(こきだ)茸(ひ)ゑね

是を来目歌と謂ふ。今、楽府(おほうたどころ)に此の歌を奏ふときには、猶手量の大きさ小ささ、及び音声の巨さ細さ有り。此古の遺式(のこれるのり)なり。是の後に、天皇、吉野の地を省たまむと欲して、乃ち莵田の穿邑より、親ら軽兵(いささけきいくさ)を率ゐて、巡り幸す。吉野に至る時に、人有りて井の中より出でたり。光りて尾有り。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名を井光(ゐひか)と為ふ」とまうす。此則ち吉野首部が始祖なり。更少し進めば、亦尾有りて磐石を披けて出れり。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是磐排別(いはおしわく)が子なり」とまうす。(排別、此をば飫時和句(おしわく)と云ふ。)此則ち吉野の国樔部(くずら)が始祖なり。水に縁ひて西に行きたまふに及びて、亦梁を作ちて取魚する者有り。(梁、此をば揶奈(やな)と云ふ。)天皇問ひたまふ。対へて曰さく、「臣は是苞且担(にへもつ)が子なり」とまうす。(苞且担、此をば珥倍毛莵(にへもつ)と云ふ。)此則ち阿太の養盧部(うかひら)が始祖なり。
(私注:且は草冠、盧は鳥旁)

 九月の甲子の朔戊辰に、天皇、彼の莵田の高倉山の巓に陟りて、域の中を瞻望(おせ)りたまふ。時に、国見丘の上に即ち八十梟師(やそたける)(梟師、此をば多稽屡(たける)と云ふ。)有り。又女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置く。墨坂に赫炭(おこしずみ)を置けり。其の女坂・男坂・墨坂の号は、此に由りて起れり。復(また)兄磯城(えしき)の軍有りて、磐余邑(いわれのむら)に布き満めり。(磯、此をば志と云ふ。)賊虜(あた)の拠る所は、皆是要害(ぬみ)の地なり。故、道路絶え塞りて、通らむに処無し。天皇悪みたまふ。是夜、自ら祈ひて寝ませり。夢に天神有して訓へまつりて曰はく、「天香山(あまのかぐやま)の社の中の土を取りて、(香山、此をば介遇夜摩と云ふ。)天平瓮(あまのひたか)八十枚(やそち)を造り、(平瓮、此をば比邏介と云ふ。)并せて巌瓮(いつへ)を造りて、天神地祇を敬ひ祭れ。(巌瓮、此をば怡途背と云ふ。)亦巌呪詛(いつのかしり)をせよ。如此せば、虜(あた)自づからに平き伏ひなむ」とのたまふ。(巌呪詛、此をば怡途能伽辞離と云ふ。)天皇、祇みて夢の訓を承りたまひて、依りて将に行ひたまはむとす。時に、弟猾(おとうかし)又奏して曰さく、「倭国の磯城邑(しきのむら)に、磯城の八十梟師有り。又高尾張邑(或本に云はく、葛城邑といふ。)に、赤銅の八十梟師有り。此の類皆天皇と距き戦はむとす。臣、窃に天皇の為に憂へたてまつる。今当に天香山の埴を取りて、天平瓮を造りて、天社国社の神を祭れ。然して後に、虜を撃ちたまはば、除ひ易けむ」とまうす。天皇、既に喜びたまふ。乃ち椎根津彦をして、弊しき衣服及び蓑笠を著せて、老父の貌に為る。又弟猾をして箕を被せて、老ケ痰フ貌に為りて、勅して曰はく、「汝二人、天香山に到りて、潛に其の巓の土を取りて、来旋(かへ)るべし。基業(あまつひつぎ)の成否(ならむならじ)は、当に汝を以て占はむ。努力(ゆめ)、慎歟(ゆめ)」とのたまふ。
是の時に、虜の兵、路に満みて、以て往還ふこと難し。時に椎根津彦、乃ち祈(うけ)ひハ
て曰はく、「我が皇、能く此の国を定めたまふべきものならば、行かむ路自づからに通ハれ。如し能はじとならば、賊必ず防禦がむ」といふ。言ひ訖(をは)りて径に去ぬ。時に、群虜(あたども)、二の人を見て、大きに咲ひて曰はく、「大醜(大醜、此をば鞅奈彌爾句(あなみにく)と云ふ。)の老父老嫗なる」といひて、則ち相与に道を闢りて行かしむ。二の人、其の山に至ること得て、土を取りて来帰る。是に、天皇、甚(にへさ)に悦びたまひて、乃ち此の埴を以て、八十平瓮・天手抉八十枚(手抉、此をば多懼餌離(たくじり)と云ふ。)厳瓮を造作りて、丹生の川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ。則ち彼の莵田川の朝原にして、譬へば水沫の如くして、呪(かし)り著くる所有り。天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当に八十平瓮を以て、水無しに飴(たがね)を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つはもの)の威を仮らずして、坐ながら天下を平けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ。又祈ひて曰はく、「吾今当に厳瓮を以て、丹生之川に沈めむ。如し魚大きなり小しと無く、悉に酔ひて流れむこと、譬へば皮(まき)の葉の浮き流るるが猶くあらば、(皮、此をば磨紀と云ふ。)吾必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ爾らずは、終して成る所無けむ」とのたまひて、乃ち瓮を川に沈む。其の口、下に向けり。頃ありて、魚皆浮き出でて、水の随に瞼隅(あぎと)ふ。時に椎根津彦、見て奏す。天皇大きに喜びたまひて、乃ち丹生の川上の五百筒 (いほつ)の真坂樹を抜取にして、諸神を祭ひたまふ。此より始めて厳瓮の置有り。時に道臣命(みちのおみのみこと)に勅すらく、「今高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を以て、朕親ら顕斎(顕斎、此をば于図詩怡破比(うつしいはひ)と云ふ。)を作さむ。汝を用て斎王(いはひのうし)として、授くるに厳媛(いつひめ)の号を以てせむ。其の置ける埴瓮を名けて、厳瓮とす。又火の名をば厳香来雷(いつのかぐつち)とす。水の名をば厳罔象女(いつのみつはのめ)(罔象女、此をば彌莵破迺迷(みつはのめ)と云ふ。)とす。粮の名をば厳稲魂女(いつのうかのめ)(稲魂女、此をば于伽能迷(うかのめ)と云ふ。)とす。薪の名をば厳山雷(いつのやまつち)とす。草の名をば厳野椎(いつののづち)とす」とのたまふ。
(私注:皮は木篇、瞼隅はどちらも口篇)

 冬十月の壬巳の朔に、天皇、其の厳瓮の粮を嘗(たてまつ)りたまひ、兵を勒(ととの)へて出でたまふ。先づ八十梟師を国見丘に撃ちて、破り斬りつ。是の役(えだち)に、天皇志、必ず克ちなむといふことを存(たも)ちたまへり。乃ち御謡して曰はく、

  • 神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻(もとほ)る 細螺(しただみ)の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ 

謡の意は、大きなる石を以て其の国見丘に喩ふ。既にして、余の党(ともがら)猶繁くして、其の情測り難し。乃ち顧に道臣命に勅すらく、「汝、大来目部を師ゐて、大室を忍坂邑に作りて、盛に宴饗(とよのあかり)を設けて、虜を誘(おこつ)りて取れ」とのたまふ。道臣命、是に、密(しのび)の旨を奉りて、室を忍坂に掘りて、我が猛き卒を選びて、虜と雑ぜ居(す)う。陰(ひそか)に期(ちぎ)りて曰はく、「酒カo(さけたけなは)の後に、吾は起ちて歌はむ。汝等、吾が歌の声を聞きて、則ち一時に虜を刺せ」といふ。己にして坐定(ゐしづま)りて酒行る。虜、我が陰(しのびの)謀有ることを知らずして、情の任に径(ほしきまま)に酔ひぬ。時に、道臣命、乃ち起ちて、歌して曰はく、

  • 忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子等が 頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)い持ち 撃ちてし止まむ

時に我が卒、歌を聞きて、倶に其の頭椎剣を抜きて、一時に虜を殺しつ。虜、復(また)礁類者(のこるもの)無し。皇軍大きに悦びて、天を仰ぎて咲ふ。因りて歌して曰はく、

  • 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ 

今来目部(くめら)が歌ひて後に大きに晒(わら)ふは、是其の縁(ことのもと)なり。又歌して曰はく、

  • 夷を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云へども 抵抗(たむかひ)もせず

此皆、密旨を承けて歌ふ。敢へて自ら専なるに非ず。時に天皇の曰はく、「戦勝ちて驕ること無きは、良将(いくさのきみ)の行(しわざ)なり。今魁(おおき)なる賊已に滅びて、同じく悪しくありし者、匈匈(いひおそ)りつつ十数群(とたむらばかり)あり。其の情知るべからず。如何ぞ久しく一処に居て、制変(はかりこと)すること無けむ」とのたまふ。乃ち徒(す)てて別処(ことところ)に営(いほり)す。
(私注:晒は口篇)

 十有一月の癸亥の朔己巳に、皇師大きに挙(こぞ)りて、磯城彦(しきひこ)を攻めむとす。先づ使者を遣して、兄磯城を徴さしむ。兄磯城命を承けず。更に、頭八咫烏を遣して召す。時に、烏其の営に到りて鳴きて曰はく、「天神の子、汝を召す。率(いざ)わ、率わ」といふ。(過の音は、倭。)兄磯城忿りて曰はく、「天圧神(あめおすのかみ)至しつと聞きて、吾が概憤(ねた)みつつある時に、奈何(いかに)ぞ烏鳥の若此(かく)悪しく鳴く」といひて、(圧、此をば飫蒭(おす)と云ふ。)乃ち弓を彎(ひきまかな)ひて射る。烏即ち避去りぬ。次て弟磯城が宅に到りて、鳴きて曰はく、「天神の子、汝を召す。率わ、率わ」といふ。時に弟磯城ルD然(お)ぢて改容(かしこま)りて曰はく、「臣(やつこ)、天圧神至りますと聞きて、旦夕に畏ぢ懼る。善きかな、烏。汝が若此鳴く」といひて、即ち葉盤(ひらで)八枚を作して、食を盛りて饗(あ)ふ。(葉盤、此をば比羅耐(ひらで)と云ふ。)因りて烏の随に、詣到りて告して曰さく、「吾が兄磯城、天神の子来でますと聞りて、則ち八十梟帥を聚めて、兵甲を具へて、与に決戦はむとす。早に図りたまふべし」とまうす。天皇乃ち諸将を会へて、問ひて曰はく、「今兄磯城、果して逆賊(あたな)ふ意有り。召すにも来ず。為之奈何に」とのたまふ。諸将の曰はく、「今兄磯城は黠(さと)き賊なり。先づ弟磯城を遣して暁へ喩さしめ、并せて兄倉下(えくらじ)・弟倉下に説さしめたまへ。如し遂に帰順(まつろ)はずは、然して後に、兵を挙げて臨まむこと、亦晩からじ」とまうす。(倉下、此をば衢羅餌(くらじ)と云ふ。)乃ち弟磯城等、猶愚なる謀を守りて、承伏(したが)ひ肯(か)へにす。時に椎根津彦、計りて曰さく、「今は先づ我が女軍を遣して、忍坂の道より出でむ。虜見て必ず鋭(ときつはもの)を尽して赴かむ。吾は強き卒を駈馳(は)せて、直に墨坂を指して、莵田川の水を取りて、其の炭の火に濯きて、忽(にはか)の間に、其の不意に出でば、破れむこと必じ」とまうす。天皇其の策を善めて、乃ち女軍を出して臨しめたまふ。虜、大きなる兵已に至ると謂ひて、力を畢して相待つ。是より先に、皇軍攻めて必ず取り、戦ひて必ず勝てり。而るに介胄の士、疲弊(つひ)ゆること無きにあらず。故に、聊に御謡を為りて、将卒の心を慰めたまふ。謡して曰はく、

  • 楯並(ただな)めて 伊那瑳(いなさ)の山の 木の間ゆも い行き膽らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね

果して男軍を以て墨坂を越えて、後より夾み撃ちて破りつ。其の梟帥兄磯城等を斬りつ。

 十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰(ひし)けて氷雨ふる。乃ち黄金の霊(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び来りて皇弓の弭(はず)に止れり。其の鵄光り曄煌きて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒、皆迷ひ眩(まぎ)えて、復力め戦はず。長髄は是邑の本の号なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍の、鵄の瑞(みつ)を得るに及りて、時人仍りて鵄邑と号く。今鳥見と云ふは、是訛れるなり。昔孔舎衛(くさえ)の戦に、五瀬命、矢に中りて薨りませり。天皇銜ちたまひて、常に憤對(いくみうらむること)を抱きたまふ。此の役に至りて、意に窮誅(ころ)さむと欲す。乃ち御謡して曰はく、

  • みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ

又謡して曰はく、

  • みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒 口疼く 我は忘れず 撃ちてし止まむ

因りて復兵を縦ちて急に攻めたまふ。凡て諸の御謡をば、皆来目歌と謂ふ。此は歌へる者を的取(さ)して名くるなり。
 時に長髄彦、乃ち行人(つかひ)を遣して、天皇に言して曰さく、「嘗、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。号けて櫛玉堯速日命(堯速日、此を爾芸波椰卑(にぎはやひ)と言ふ。)と曰す。是吾が妹(いろも)三炊屋媛(みかしきやひめ)(亦の名は長髄媛、亦の名は鳥見屋媛。)を娶りて、遂に児息有り。名をば可美真手命(可美真手、此をば于魔詩奔耐(うましまで)と云ふ。)と曰す。故、吾、堯速日命を以て、君として奉へまつる。夫れ天神の子、豈両種(ふたはしら)有さむや。奈何ぞ更に天神の子と称りて、人の地を奪はむ。吾心に推るに、未必為信(いつわり)ならむ」とまうす。天皇の曰はく、「天神の子亦多にあり。汝が君とする所、是実に天神の子ならば、必ず表物(しるしもの)有らむ。相示せよ」とのたまふ。長髄彦、即ち堯速日命の天羽羽(あまのはは)矢一隻及び歩釵(かちゆき)を取りて、天皇に示せ奉る。天皇、覧して曰はく、「事不虚なりけり」とのたまひて、還りて所御の天羽羽矢一隻及び歩釵を以て、長髄彦に賜示ふ。長髄彦、其の天表を見て、益叔惜ることを懐く。然れども凶器已に構へて、其の勢、中(なかぞら)に休むこと得ず。而して猶迷へる図を守りて、復改へる意無し。堯速日命、本より天神慇懃したまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且夫の長髄彦の稟性(ひととなり)愎(いすかし)恨(まにもと)りて、教ふるに天人の際を以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆を師ゐて帰順ふ。天皇、素より堯速日命は、是天より降れりといふことを聞しめせり。而して今果して忠効を立つ。則ち褒めて寵みたまふ。此物部氏の遠祖なり。

 己未年の春二月の壬辰の朔辛亥に、諸将に命せて士卒を練ぶ。是の時に、層富県の波多丘岬に、新城戸畦といふ者有り。(丘岬、此をば塢介佐棄(おかさき)と云ふ。)又、和珥の坂下に、居勢祝(こせのほふり)といふ者有り。(坂下、此をば瑳伽梅苔(さかもと)と云ふ。)臍見の長柄丘岬に、猪祝(ゐのほふり)といふ者有り。此の三処の土蜘蛛、並に其の勇力を恃みて、来庭(まう)き肯(か)へにす。天皇乃ち偏師を分け遣して、皆誅(ころ)さしめたまふ。又高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の為人、身短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相類(に)たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ。夫れ磐余(いはれ)の地の旧の名は片居。(片居、此をば伽多韋(かたい)と云ふ。)亦は片立と曰ふ。(片立、此をば伽多多知と云ふ。)我が皇師の虜を破るに逮(いた)りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。或の曰はく、「天皇往厳瓦の粮を嘗りたまひて、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚(いは)み居たり。(屯聚居、此をば怡波彌萎(いはみゐ)と云ふ。果して天皇と大きに戦ふ。遂に皇師の為に滅さる。故、名けて磐余邑と曰ふ」といふ。又皇師の立告(たちたけ)びし処、是を猛田と謂ふ。城を作りし処を、号けて城田(きた)と曰ふ。又、賊衆戦ひ死せて僵せる屍、臂を枕きし処を呼びて頬枕田と為ふ。天皇、前年の秋九月を以て、潜に天香山の埴土を取りて、八十の平瓦を造りて、躬自ら斎戒(ものいみ)して諸神を祭りたまふ。遂に区宇(あめのした)を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴安と曰ふ。

 二月の辛酉の朔丁卯に、令を下して曰はく、「我東を征ちしより、茲に六年になりにたり。頼るに皇天の威を以てして、凶徒就戮されぬ。辺の土未だ清らず、余の妖尚梗(わざはひなほあ)れたりと雖も、中洲之地、復風塵無(またさわぎな)し。誠に皇都を恢き廓めて、大壮を規り募るべし。而るを今運(いまよ)屯蒙(わかくくらき)に属(あ)ひて、民の心朴素なり。巣に棲み穴に住みて、習俗(しわざ)惟(これ)常(つね)となりたり。夫れ大人制(ひじりのり)を立てて、義必ず時に随ふ。苟くも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ。且当に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むべし。上は乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。観れば、夫の畝傍山(畝傍山、此をば宇禰縻夜摩と云ふ。)の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。治るべし」とのたまふ。

 是の月に、即ち有司に命せて、帝宅を経り始む。

 庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、天皇、正妃を立てむとす。改めて広く華胄を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰さく、「事代主神、三嶋溝厥耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の女玉櫛媛に共して生める児を、号けて媛蹈糒五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。天皇悦びたまふ。

 九月の壬午の朔乙巳に、媛蹈糒五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。

 辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。皇子(みこ)神八井命(かむやゐのみこと)・神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)を生みたまふ。故に古語に称して曰さく、「畝傍の橿原に、宮柱(みやはしら)底磐(したついは)の根に太立て、高天原に搏風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」。初めて、天皇、天基を草創めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大来目部を帥ゐて、密の策を奉承けて、能く諷歌倒語(そへうたさかしまごと)を以て、妖気を掃ひ蕩(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲に起れり。

 二年の春二月の甲辰の朔乙巳に、天皇、功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて、寵異みたまふ。亦大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。来目邑と号くるは、此、其の縁なり。珍彦を以て倭国造とす。(珍彦、此をば于奴比故(うづひこ)と云ふ。)又、弟猾に猛田邑(たけだのむら)を給ふ。因りて猛田県主とす。是菟田主水部が遠祖なり。弟磯城、名は黒速を、磯城県主とす。復剣根(つるぎね)といふ者を以て、葛城国造とす。又、頭八咫烏、亦賞の例に入る。其の苗裔は、即ち葛野主殿県主部是なり。

 四年の春二月の壬戌の朔甲申に、詔して曰はく、「我が皇祖の霊、天より降り鑑て、朕が躬を光し助けたまへり。今諸の虜已に平けて、海内事(あめのしたこと)無し。以て天神を郊祀りて、用て大孝を申べたまふべし」とのたまふ。乃ち霊畤を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小野の榛原・下小野の榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ。

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿巡り幸す。因りて腋上の兼間丘(ほほまのおか)に登りまして、国の状を廻らし望みて曰はく、「妍哉乎(あなにや)、国を獲つること。(妍哉、此をば鞅奈珥夜(あなにや)と云ふ。)内木綿の真乍(まさ)き国と雖も、猶し蜻蛉の臀占(となめ)の如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲の号有り。昔、伊奘諾尊、此の国を目(なづ)けて曰はく、「日本は浦安の国、細戈(くはしほこ)の千足る国、磯輪上の秀真国(ほつまくに)(秀真国、此をば袍図莽句爾と云ふ。)とのたまひき。復大己貴大神(おほあなむちのおほかみ)、目けて曰はく、「玉牆の内つ国」とのたまひき。堯速日命、天磐船に乗りて、太虚を翔行きて、是の郷を睨りて降りたまふに及至りて、故、因りて目けて、「虚空見つ日本の国」と曰ふ。
(私注:文中の兼、乍はどちらも口篇が本字。堯は食篇)

 四十有二年の春正月の壬子の朔甲寅に、皇子神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)を立てて、皇太子としたまふ。

 七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。

 明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。

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