前田慶次道中日記・枕草子・三河物語・むさしあぶみ・元吉原の記・守貞謾稿

前田慶次道中日記

『前田慶次道中日記』(全文)

文中の赤字は、『一無庵風流記』521p引用部分です。


謹書                   
             啓二郎

慶長六年孟冬、従城州伏見里到奥州米沢庄道之日記

 廿四日 伏見ヨリ大津ニ三里、大津舟上賢田マデ三里、以上六里
こわたの里に馬ハあれと、ふしミの竹田より打出の浜まてハ乗物にて行、関山をこゆるとて誰ひとりうき世の旅をのがるべき、のぼれバ下る大阪関、大津より湖水に舟をながせば、さゞなみや、三井の古寺、昔なからの志賀の花園、から崎のまつ、あなふの里、大ひえ、よ川、ひらの高ね、西は熱田の長橋、石山寺、此石山寺ハ式部か源氏物語に筆を立し所也、其いにしへまて思ひ出て、風の上にありか定ぬ、ちりの身ハ、行衛もしらずなりぬべらなりとよみし古事をひとりごち、行-難ノ-旅-客ノ思ヒ 浮雲ノ埃-蒙-悲に涙もさらに留らず、日も漸暮方に賢田に着、漁家のせバしきあしがきのうちにあがり、よひと夜ねられず、あるじの物語するを聞ば、我ははや賢虚なり、子に家をやりてかくせバしきとかたる、故何となれば賢田ならびに隠居したる物をは賢虚と云、老て賢虚する比子に家をゆつればにや是マデ近江也、

 廿五 賢田ヨリ前原ノ湊マデ海上十五里
追風にて檣をたて帆ひきて、飛ゴとくに弁才天嶋の世渡を過、さつまといふ在所にふねをよせ、餉のために休らふ、里の名をさつま也といへバ、舟はたゞのりにせよ、さほ山のあなたなる、前原の湊につく、是ヨリ美濃也、

 廿六 前原ヨリ関ヶ原ヘ五里、関ヶ原ヨリ赤坂ヘ三里以上八里
菩堤山のふもと関ヶ原まで付、予がめしつかふ高麗人、いたくわづらひて馬にても下るましきなれバ、菩堤の城主に文そへて預をく、楚慶 寉人とて子ふたりあり、これハ奥につれて下る、親子の別かなしむ、楽天が慈烏失其ノ母ヲ唖々吐哀音ヲといへり、此ひとこま人なれバ、不如禽ノ悲ニ、是さへ涙の中だちとなりぬ
けふまでハおなじ岐路をこまにしき立別けゝぞなごりをしかるほのほのと赤坂とこそやらに、日暮れて来る、

 廿七 赤坂ヨリ河手ニ 五里、河手ヨリ売間ヘ四里売間ヨリ大田渡ニ二里以上十一里
河手、みろく縄手、さけをうるまの町過て大田のわたりなり

 廿八 大田ヨリ神ノ大寺マデ五里 大寺ヨリヲクテヘ三里以上八里
都にありし、名も床く、ふしミの里をとほり神の大寺にまいりつゝ、をくての町に宿り定む、冬までもをく手ハからぬ稲葉哉

 廿九 オクテヨリ中津川ヘ六里
こゝも名におふ大井の宿、駒ばのはしをわたり、中津川に付ハ 椎のはおりしきていひかしきなどす、みつ野ゝ里に妹をゝきて、とよミしハ妹なり、東路の名こそハかわれ、芋の葉汁よし、是ヨリ信野也、

 卅日 中津川ヨリまご目ヘ二里 まご目ヨリ妻子ニ三里妻子ヨリ野尻ニ三里以上八里
木曾の山道、河水も落合の宿、妻子の里に休らへバ、狐狸の返化かとうたがふばかりけわひたる女あり、山家のめづらかなりし見物也、里はづれのそバ道をべに坂といへば、けはひたる妻戸の妻のかほの上にぬりかさぬらしべに坂の山、駒がへり、らてんなど云難山をこし、野尻にて
 さむさには下はらおこす野尻哉

 霜月朔日 野尻ヨリスハラヘ一里半 スハラヨリ荻原ニ二里荻原ヨリ福ジマニ二里福シマヨリ宮越ヘ一里半以上八里
すはら・荻原をすぐれば、道のかたはらに大きなる鳥井あり、いかなる宮ばしらぞととへバ、是ヨリ奥道廿里ありて、木曾の御獄と申山に権見たゝせたまふ、こゝよりその瑞籬のうちなりと云、木曾のかけはしはもと見し時ハまるきなと打わたしわたしして置ぬれバ年々大水に流うせなどして、行かひも五月などハとどまることあり、太閤馬宿あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間に川の面をすぢかひにわたし、車馬往来ノ運送、旅人相逢ノ行脚、或イは都に上り、或イは東に下る、貴賤よろこばずといふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋なにしおふ、とハこの事にやと、ね覚の床巴かふなと詠やる、此渕は義中のおもひのともゑといふ女房、此河伯のせひにて木曾義中に思ひをかけ、妻になりしゆへに、ともへか渕といへり、又或イハ義中あハづにてうせにし時、ともえハおん田の八郎といふ武士を、義中のまのあたりにてうち見参にいり、いとまかふて木曽に下り、此渕に身をなけしゆへに、巴がふちともいへり
或イは義中に別れ、あハづの国分寺にて、物具ぬぎ、忍ひて東国に下りしを、和田小太郎義盛たつね出し、妻になしぬ、やかて浅井奈か母なりと云、是も物に記せり、たゞいにしへより巴が渕とハ、いふなるへし、野談ハまちまちなり、ふくじまをも過、宮のこしに留

 二 宮ノコシヨリナラ井ヘ五里 ラナ井ヨリ本山ニ三里本山ヨリ下ノ諏訪ニ四里以上十一里
やこ原・よし田、とりゐ峠を下れはならゐの町行末の道をなら井の宿ならバ日高くとても枕ゆふべく、せバのこがね山、本山の町ききやう原を分けつゝ塩尻峠に上れば、冨士の山はそこ也
 すミの山のひがしなるらし富士の雪
北は黄に南は青くひかし白西紅井に染色の山とよミ侍れバ、此富士の山を染色の山にして、雪にいとしろきハ染色の山のひがしなるへしとおもひ侍るはかり也、暮るまで詠をれバ、ふじのけぶりのよこおれて雲となり、雨となり、たゞ白雲のみあとを埋めは、峠を下り、諏訪の湯本の町に更闌け人寐付ぬ

 三日は湯本に猶とどまる、明はなれた湖上をみれバ、たゞかゞみをかけたるやう也
 こほらぬは、神やわたりしすはの海
宮めぐりしつゝ、社壇を見るに、廻廊ハ傾キ高楼ハ破レ、千木ノ片殺朽残テ広前ノ橋板半ハ改リ、木すゑふりにし森の木の葉、霜を羽ぶきて鳴からす、八帳破レテハ灯シビ邃カスカナリ、玉ノ簾落テハ詹内顕タリ、まこと神さびて不覚涙シタ欄干たり
あなはふと涙ことハれ神の慮心の外ハことのはもなし、其日しも、古しへの朋友来リ昔語リニ傾数盃ヲ

 四 下ノスハヨリ和田ニ五里和田ヨリ長クボニ二里半長クボヨリ望月ニ二里半以上十里
和田峠ハこゆれども、みちハまだ長くぼ也
漸あしだに付バ、もちみしにかハりて、あれはてたるさまなり、広野人稀ニシテ尚禽獣不乱行烈ヲ、田村烟絶テハ更鶏犬ノ 無聞鳴声ヲ、こその里にとゞまるべからずとて、野経の露に袖をひたし、もち付の町ニ付、在鮭ケイノ羮風味満ツ歯頬ケウニ是ヨリ関東道也

 五 モチ月ヨリカルイザハニ五十里カルイザハヨリ坂本ニ十五里以上六十五里
もち月の駒にのり、八幡の町、塩なだを過岩村田にはかゝらず、北の野中をすぐにかるいざわまで奥道五十里の間、馬つぎ十一所かと覚えたり、臼井の峠に上れば、熊野の権見をうつし奉る社頭在、神鈴ノ声幽にして道もをくまる山かげに、きねが袖ふる里かぐら、折にふれて静也、坂本につき、しばしまどろめば、夢メミル 我ガ京落ノ友、拙唱作ル
向東ニ去北行路ノ難、□ニ隔古郷ヲ涙シタ不乾、
我夢朋友ヲ高枕上、破窓ソウノ一宿短衣寒
是ヨリ東関の上野道也

 六 サカモトヨリ安中ニ三十里安中ヨリクラガノニ廿五里以上五十五里
そのあたりの家ニ休らへバ、けわひそこなひたる女の、ほうべにぬりたるあり、行衛をとヘバ、涙にむせび都より人にかどわされてきぬ、人のかたちよく生れたるほど、物うきハなしといふ、その女のかほハ、よこに三寸も長クて、出はごに歯がすに付ところどころはの正躰の見ゆるあたりハ、くちばいろにて、はぐきになのはつき、いひつぶはさまり、物をいへば、もよぎいろなるいきをふく
書付ていらざれども、かゝる人かどはしぬるハ、人の心のさまざまなるをしらんためなり、安中、板はなの町、高さきをとほり、くらが野にとまる

 七 クラガ野ヨリ柴ノワタリニ十五里柴渡ヨリキザキニ十五里キ崎ヨリ引田ニ十五里 以上四十五里
柴のわたり、高崎新田町にとゞまる

 八日はその里におる、其日、新田の町の市の日にてかざしくる人おゝけれバおくの席につれつれとしてひとりこもる、けふしもあるじ祈祷の日にて、能化めきたる人来り、弟子三、四人座頭なども来る、予もひとつ席にゐたり
祈祷過て能化札をかきて、いただかするを見れバ、天玉九ゝ八十大菩薩と書珎かなる札のかきやう也、又漸有て、あるじ夫婦、子をふたりつれて来て、札をいたゞかせ予にかたる、此札をさへたまハれバ、一切家のうちの物やむといふ事なし、分てえきれいの神などおぢ、おのゝく御札なりとて、ぬしもいたゞき、あたりの物にもいたゞかせて、此子たちに、まじなひしたまへといへば、能化硯引よせ、目をふさぎておのゝ子らのひたひに犬と云字をかき、女子のひたひに■といふ字を書、又、夫婦をも御ふでるゐでにまじなひてたべといへば、いかにも、ふでぶとに、あるじの男のひたひに大般若と書、あるじの女のひたひに波羅密多と書つゝ、壽めうてうあんなどいひてよろこぶ、予そのゆへをとひ奉れバ、先おの子らの額に、犬と書申ハ、くらみをありくに、孤狸などにおそわれず、女子の額に猫と書たるハ、女子なれば、犬までハいらぬ事とおもひ、猫と書也、又あるじのおつとの額に大般若と書申ハ、男のおふきなれバ、かく書也
般の字の心ハ、よく日記に判をすへられ申ゆへに般とかく也、若字ハ女子の額に猫と書たれバ、猫の鳴声也、今時鼡のはやれバおぢ申様に書也、三字の心随分法也、女房のひたひに波羅密多と書申ハ、だれもしり申唯分也、子立ますます般昌の心也
いづれも、師匠のつたへもなし、われらの一作に、いつも書申とて、こうまんして帰り玉ふ
予昔、熊野の山下ニ、二、三月ありしに、人の祈祷するミ子あり、祈念のきゝ申事ハ、たゞ浄蔵貴僧清明がごとし、予巫子ニとひ侍る、いかなる貴文をとなへてきたうハするととへバ、巫女のいふ、王の袖ハ二尺五寸、王の袖ハ二尺五寸と一心不乱に唱え奉れバ、おそろしき物つきもさめ申也と語、予此文を思ふに、王の袖ニ尺五寸にてハあるまじ、遍無所住而生其心たるべしと、本文に教なをしぬ、其より三、四年を経て、又熊野に下り、巫子の行衛を問へバ、家やぶれたり、いづくへ行ときけバ、此とし月ハ祈祷きゝ侍らで、他国にうつりたりといふ、是ハ予本文にをしへなをしたる故にや、祈たうのきかざりつると思ひ合、巫子の不便いうばかりなし、この事を悔て、能化の物云度ニ尤々と申ていかにもうけおひ申なり

 九 新田ヨリ柴ヤギへ十里ヤギヨリ犬ブシニ二十里以上三十里
やぎの里をすぎて、天明といふからかねなべ鋳在所也、其日ハ犬ぶしの町に宿をかる
あづまちの、さのの舟バしとりハなし、とよミしハ、此さのにてハなし、それハ上野なり、このさのハ下野也是ヨリ下野ノ内也

 十 イヌブシヨリトチ木へ廿五里トチ木ヨリミ生ヘ十五里ミ生ヨリウツノ宮ニ 二十里 以上六十五里
とミ田、とち木、ミ生ををり、うつの宮に付、予が旧友庭林と云ものあり、彼宅にて酒くれて、ふろたかす是ヨリ那須ノ内也、国ハ下野也

 十一 ウツノ宮ヨリウ治江へ十五里ウ治江ヨリ狐川ヘ十里以上三十里
うつの宮いづるとき、予、いにしへの友、及乱よき鷹、犬の子酬、庭林うつの宮の鷹の鈴ハ上野の縄の鈴よりよしとて酬、きぬ川をわたり、うち江の里を過れバ、大やぶのあなたなる狐川に付、甲斐のはだよしという杉原すく者あり、試筆とて狐川とハいかに書ととへバ、喜連川と書也
むかし、此里に御所作り始し時、行衛を祝してよろこびをつらぬる川と書申也と語ル

 十二 キツネ川ヨリサク山マデ廿里
其日、はじめて雨ふり、昼過よりさく山まで行、みちなかばより雪になり、風さへそひて、さハがしけれバ、さく山にて雨つゝミ俄こしらへぬ、人皆いくさ見て矢作とわらひぬ、寒夜にてねられず、万さびし氷る夜やかたハらさびしかり枕山河の雪にのこしおく人つかねても重き真柴ハ負かへて百句と思ひ侍るが、ことことにねぶくて、そのまゝ枕に付

 十三 サク山ヨリ大タハラへ十里大タハラヨリナベカケニ廿里 ナベカケヨリアシノニ 廿里 以上五十五里
大たハらを過、なべかけにて大たハら米ハあれども其まゝに煮てやかまゝしなべかけのまちひだるさよさむきよめしの火をたきてあたりあたりもなべかけのまち、それより夜半にあしのの町にきて雪霜にめぐりハ流ゝあしの哉是ヨリ奥州の内也

 十四 アシノヨリ白川ニ三十里白川ヨリ大田川ヘ十里 大田川ヨリヤブ木ニ 十五里 ヤブ木ヨリスカ川ニ 廿里 以上七十五里
しらさわを過、白川の関路にかかる、思へバ遠くも来にけり、秋風ぞふく白川の関とよミしハ理にや白川の関路ハこしつ旅衣猶行末奥州白川郡也も人やすむらん、小田川、大田川と云所をこし、ふませの観音堂に付、こゝに岩かべあり、その面に広さ五尺、長さ三尺、ふかさ二尺ほど岩をきり入きり入して、五百らかんをほり付たり、ほりほりのたがひめに、寺などハあたらしけれども、らかん石のあたりハ星霜ふりつゝ、苔地につゞくさゞれ水、石シ間石シ間を流れきて、其落合、さながら御手洗となる
難ク有目出度地形也、実にや五百らかんハ、つくしにも侍る也、それも大師の御さく是も大師の御作なり、此石のほとりにては、うせにし親など見る事ありといひつたへたれバ、切紙ヲ招亡親ヲ酉斗酒祭霊鬼ヲ、やゝすらひつゝ、藪木の里までと思ひつるにとゞ□□べき宿もなくていはせに行とハゞ人にいわせのなミのぬれぬれてわたる宿つげよ夢のうきはし奥州田村郡ノ内也

 十五 イハセヨリサゝ川ニ十里サゝ川ヨリ郡山ニ二十里 郡山ヨリ高倉ニ十里 高倉ヨリ本宮ニ十里 以上四十里
すか川を出、さゝ川、郡やま、高倉のこなたの野の中に、まわり十丈あまりのぬまあり其中に小鳩あり、里の長に問侍れバ、これなん浅香のぬまなりとかたる、又そこに高さ七、八丈の山あり、是を浅香山といふ、山の井ハととへバ浅香山のかげさへ見ゆる山の井の、とよみ侍るハ白川の郡なり、山ハ此浅香山なり、かつ見る人にこひやわたらん、とよみしハ、此沼のかきつばたなり、されバ、此浅香山ハ、うたのミちに心あらん人、よみおかずという事なし心あらん人に見せばやミちのくの浅香の山ののこる□□みを、まことや、つくばねのかげを思ひ、あさか山のあさからぬ数奇の人、浜のまさごハよミつくすとも、このミちハつくべからず、過しむかしハいふにおよバず、すえの世々までものこるべきハ、いづくの里人かひとりとしてのこりとゞまるべき、よき人もあしきも有はつまじき身なれバ、浅香山のあさましきいにしに、ふりはつる、わが身のありさまの今のとこし方行衛おもひつゞけて、野行水ハとゞまらず
世の中にふり行物ハ津の国のながらのはしとわが身なりけり、と古事今さらのなミだなり漸そこを□□れて、しバらく来れば大きなるつ□□□よそおいつねならず、いかな塚ぞととへば、石□□部少とやらん云人を、ことしの秋のはじめより、都をくりきたり、をくらざるところにてハ、物つきなどになる人おゝくなやむ事侍るとて、国々に武具をたいして二、三千ばかりにて、地蔵をくりなどするやうにして、をくり付たる所にてハ、塚をつき侍るといふ、都出し時ハ、ひそかなりしが、事大義になりて、下野あたりにてハ、冶部少夢などに見し人をおそひ、われをば如此してをくれといひて、わらにて人形をつくり、具足かぶとをきせ、たちをはかせ、草にて馬をつくり、金の馬□□□を前後にかけ、冶部少とむな□□□□付をし、又女二人、あかきかたびらをきせ、□□□さげさせ、冶部が妻と書付、以[虫くい]の人形六人あおき草柳の葉にてこしらへ、ふねとをつくり、五色のへいを立、さきにたいまつ百てうともしつれ、てつほう二百てう、弓百丁、竹やり、さし物まで、あかきにすほうそめ、かミをしてふくろとしつゝ、上書に冶部少と書付、武具のかき物ハ、かミなど木の葉などにて、武具のていれをして、大きなるつえ、刀などさしつれ、馬のりハ馬のりかち立ハかち立と小路を分て、あよませ、こしのそばには唱名念念仏申上、かね、大鼓をたゝき、竹のつゝをふきつれ、所々の巫子、山伏など出会つゝ、夜番、日番を調、いけにえ、もり物、そなへ上てとゞまる、[虫くい]ハ湯立をすゝめ、巫子かぐらを上[虫くい]ふれハ、物つき口ばしりことし慶長六□、田畠のあれたるハわがわざにあらずやなどといふ、涙夫ノ芻狗之未キシハ陳チンノ也、盛モルニ以シ筮衍ヲ、巾キスルニ以テ文繍ヲ、尸祝斎戒シ、以テ将ヲクル之ヲ及ンデ其ノ己ニ陳チンシ、行者ハ践苔ノ首脊セキヲ、蘇クサキル者ハ取テ爨イヽカレリ之ニ而己ニ、将ハ復マタ取而盛ルニ以テシ筮衍ヲ、巾キスルニ以文繍ヲ、遊-居寐-臥スレバ其下ニ、彼レ不トモ得夢ル■ヲ、必ズ且ツ数シバシバ(?)オソワル而己といへり
とにもかくにもわらひのたね、又たゞ人にもなしやコレヨリシノブノ郡也

 十六 本宮ヨリ二本マツニ十五里二本マツヨリ八丁ノ目ニ十五里 八丁ノ目ヨリ大森ニ十五里 以上四十里
二本まつより、八丁のめに来てしバしやすみつゝ、大森つきて焼火にあたるとて酒なし上ハあたゝまりて、不調肺膽ヲ、酒ハ爲百薬ノ長

 十七 大森ヨリ□□□□□十五里
雪のふ□□□□やうやうおくミち廿里も来らず庭坂に□

 十八 庭坂ヨリイタヤヘ三十里 イタヤヨリ石ホトケニ廿里 以上五十里
忍ぶ文字ずりの石のある所、佐藤庄子が館の南殿のさくら、月のひかりほしのひかりとひのひかり、水のそこにて、としをふるかわづの聲も雪中にてみえず、跡もなし、板屋の坂を越ゆるとてあずさ弓いたやこしするかりは哉
石ほとけにてにんにくのにうわのすがた引かへて石ほとけこそちかひかたけれ、又雪深無酒と云心を
山風□□時、寒日寄我思、
無酒□□□、堪悲失客衣

 十九 石ホトケヨリ□□□ワニ 二十里
よねざわもそこなれバ、乃膽衡宇ヲ戴チ欣ヒ載奔ル


※注
解読文中の「□□□」や「[虫くい]」は道中日記本文で虫食い、破損等により読めなくなった部分を表す。また■は前田慶次道中日記資料編では印刷されているが、ここで表記できない文字を表す。

枕草子

枕草子(抄)

清少納言著
赤字は『吉原御免状』に引用されている部分。

(1)春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし。
 秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず。
 冬はつとめて、雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。

(2)頃は、正月・三月・四月・五月・七八九月・十一二月、すべてをりにつけつつ、一とせながらをかし。

(74)懸想人にて来たるはいふべきにもあらず、ただうち語らふも、また、さしもあらねど、おのづから来などもする人の、簾の内に人々あまたありて物などいふに、ゐ入りてとみも帰りげもなきを、供なるをのこゝ童など、とかくさしのぞき、けしき見るに、「斧の柄も朽ちぬべきなめり」と、いとむつかしかめれば、長やかにうちあくびて、みそかにと思ひていふらめど、「あなわびし、煩悩苦悩かな。夜は夜中になりぬらむかし」といひたる、いみじう心づきなし。かのいふ者は、ともかくもおぼえず、このゐたる人こそ、をかしと見え聞えつることも、失するやうにおぼゆれ。
 また、さいと色に出でてはえいはず、「あな」と高やかにうちいひ、うめきたるも、「下行く水の」といとはし。
 立蔀・透垣などのもとにて、「雨降りぬべし」など聞えごつもいとにくし。いとよき人の御供人などは、さもなし。君たちなどのほどはよろし。それより下れる隙は、みなさやうにぞある。あまたあらん中にも、心ばへ見てぞ率てゐりかまほしき。

(75)ありがたきもの、舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。毛のよく抜くるしろがねの毛抜。主そしらぬ従者。
 つゆの癖なき。かたち・心・ありさますぐれ、世に経る程、いささかのきずなき。おなじ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそ難けれ。
 物語・集など書き寫すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、いみじう心して書けど、かならずこそきたなげになるめれ。
 をとこ、女をばいはじ、契りふかくて語らふ人の、末までなかよき人かたし。

(76)内裏の局、細殿いみじうをかし。上の蔀あげたれば、風いみじう吹き入りて、夏もいみじうすずし。冬は、雪・霰などの、風にたぐひて降り入りたるもいとをかし。せばくて、わらはべなどののぼりぬるぞあしけれども、屏風のうちにかくしすゑたれば、こと所の局のやうに、声たかく笑わらひなどもせで、いとよし。晝なども、たゆまず心づかひせらる。夜はまいてうちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。

 沓の音、夜一夜聞ゆるが、とどまりて、ただおよびひとつしてたたくが、その人なりと、ふと聞ゆるこそをかしけれ。すこしうちみじろぐ、衣のけはひ、さなりと思ふらんかし。冬は、火桶にやをら立つる箸の音も、しのびたりと聞ゆるを、いとどたたきはらへば、声にてもいふに、かげながらすべりよりて聞く時もあり。
 また、あまたの声して詩誦し、歌などうたふには、たたかねどまづあけたれば、ここへとしも思はざりける人も立ちとまりぬ。ゐるべきやうもなくて立ちあかすも、なほをかしげなるに、几帳の帷子いとあざやかに、裾のつきうちかさなりて見えたるに、直衣のうしろにほころびたえず着たる君たち、六位の蔵人の青色など着て、うけばりて遣戸のもとなどに、そばよせはえ立たで、塀のかたにうしろおして、袖うちあはせて立ちたるこそをかしけれ。
 また、指貫いと濃う、直衣あざやかにて、色々の衣どもこぼし出でたる人の、簾をおし入れて、なからいりたるやうなるも、外より見るはいとをかしからんを、きよげなる硯引きよせて文書き、もしは、鏡乞ひて見なほしなどしたるは、すべておかし。
 三尺の几帳を立てたるに、帽額の下ただすこしぞある、外に立てる人と内にゐたる人と物いふが、顔のもとにいとよくあたりたるこそをかしけれ。たけのたかくみじかからん人などや、いかがあらん。なほ世のつねの人はさのみあらん。

(163)むかしおぼえて不用なるもの、うげん縁の畳のふし出で来たる。唐繪の屏風の黒み、おもてそこなはれたる。繪師の目暗き、七八尺の鬘のあかくなりたる。葡萄染の織物、灰かへたる。色好みの老いくづほれたる。
 おもしろき家の木立焼け失せるたる。池などはさながらあれど、浮き草・水草など茂りて。

(164)たのもしげなきもの 心みじかく、人忘れがちなる婿の、つねに夜離れする。そらごとする人の、さすがに人のことなし顔にて大事請けたる。
 風はやきに帆かけたる舟。七八十ばかりなる人の、心地あしうて、日頃になりたる。

(165)読経は不断経。

(166)近うて遠きもの 宮のまへの祭思はぬ。はらから・親族の中。鞍馬のつづらをりといふ道。十二月のつごもりの日、正月のついたちの日のほど。

(167)遠くて近きもの、極楽。舟の道。人の中。

(168)井は ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。山の井、などさしもあさきためしになりはじめけん。飛鳥井は「みもひみさむし」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将の井。桜井。后町の井。

(169)野は、嵯峨野さらなり。印南町。交野。駒野。飛火野。しめし野。春日野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などてさつけけむ。宮城野。粟津野。小野。紫野。

(170)上達部は 左大将。右大将。春宮の大夫。権大納言。権中納言。宰相の中将。三位の中将。

(171)君達は 頭の中将。頭の弁。権中将。四位の少将。蔵人の弁。四位の侍従。蔵人の少納言。蔵人の兵衛佐。

(172)受領は 伊予の守。紀伊の守。和泉の守。大和の守。

(173)権の守は 甲斐。越後。筑後。阿波。

(174)大夫は 式部の大夫。左衛門の大夫。右衛門の大夫。

(175)法師は 律師。内供。

(176)女は 内侍のすけ。内侍。

(177)六位の蔵人などは、思ひかくべきことにもあらず。かうぶり得て、何の権の守、大夫などいふ人の、板屋などの狭き家持たりて、また、小檜垣などいふもの新しくして、車宿に車ひき立て、前近く一尺ばかりなる木生して、牛つなぎて草など飼はするこそいとにくけれ。
 庭いときよげに掃き、紫革して伊予簾かけわたし、布障子はらせて住まひたる。夜は「門強くさせ」など、ことおこなひたる、いみじう生ひ先なう、心づきなし。
 親の家、舅はさらなり、をぢ・兄などの住まぬ家、そのさべき人なからんは、おのずから、むつまじくうち知りたらん受領の国へいきていたづらならむ、さらずは、院・宮ばらの屋あまたあるに、住みなどして、司待ち出でてのち、いつしかよき所たづねとりて住みたるこそよけれ。

(178)女のひとりすむ所は、いたくあばれて築土などもまたからず、池などある所も水草ゐ、庭なども蓬にしげりなどこそせねども、ところどころすなごの中より青き草うち見え、さびしげなるこそあはれなれ。ものかしこげに、なだらかに修理して、門いたく固め、きはぎはしきは、いとうたてこそおぼゆれ。 


(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫版を底本としました。)

三河物語

三河物語(一部)

大久保彦左衛門著

三河物語 第一(上)

康森山崩れ・竹千代人質・小豆坂合戦関連記述。

(前略)

 去程ニ、内前ハ、敵味方に見知ラレンタメ、銀(かぶと)ヲヌイデ取ツテカラリト捨、清康ト内前ト、敵之中え懸入/\、下知ヲナシ給ヱバ、何れモ是に勢ヒテ、塘(つつみ)ヱ懸上、鑓ヲ互に投ゲ入ルより、其儘突キクヅシテ、河ヱ追イハメケリ。
 伝蔵兄弟四人、是ヲ見、突立ケレバ、何れモ負ジト立て、鑓ヲ投ゲ入ケレバ、清康方負にケリ。然共、清康之御旗本ガ勝て、吉田河ヱ追ヒハメ候故、清康ト内前、跡より懸ラせ給ヱバ、ナジカハタマルベキ哉。伝蔵・伝次・新次・新蔵兄弟四人ヲ打取ル。
 吉田之城には、女方(房)共出テ見て、「下地ヲ封ズルニ、出て見ヨ」トテ、金剛ヲ履キテ出デ、塀より見越て見ル。清康は、思ひ之儘に打勝て、吉田河之上之瀬ヱマハリテ河ヲ騎越、吉田之城ヱ即責入給ヱバ、女房共ハ、金剛ヲ履キテ、田原ヱ落行。
 清康は、吉田に一日之御逗留被レ成、明ケレバ、吉田ヲ打出サせ給ひて、段々に備ヲ押、田原ヱ押寄サせ給ひケレバ、戸田(宗光)モ降参ヲ乞イケレバ、寛(ゆるさせ)給ふ。
 田原に三日之御陣之取給ひて、明ケレバ又、吉田ヱ押モドサせ給ひて、吉田に十日御逗留之内に、山ケ(家)三方作手・長問(長篠)・段嶺、野田・牛久保・設楽・西郷・二連来(木)・伊名・西之郡、何れモ/\降参ヲ乞イケレバ、寛給ひて出仕スル。
明ケレバ、吉田ヲ御立有リテ、岡崎ヱ付(着)せ給ふ。其よりシテ、案(安)祥之三郎殿と申奉りて、諸国にて人之沙汰スルハ、清康之御事なり。
 然ル間、早、甲斐ノ国ノ信虎よりモ、仰合ラルヽト使者ヲ遣ハサルヽ。是ヲ聞キテ、近国より使者之有リケリ。美濃三人衆は、「早、御馬ヲ寄ラレ候ヱ。御手ヲ取申サン」ト申せシ処に、尾張之国森山、御手ヲ取申故、美濃ヱ御心懸有て、森山之御陣トテ、一万余にて岡崎ヲ立給ひ、御一門之衆、先手トシテ、段々に備ヱて押(おさせ)ラレ、其日は岩崎に御陣ヲ取。明ケレバ、森山ニ御付(着)有て、御陣ヲ張ラせ給ひケリ。其よりシテ、美濃三人衆ヱモ、是迄御出陣之由、仰遣ハサル。
 小(織)田之弾正之忠(信秀)ハ、清須に有ト云共、此方彼方打散シテ放火せシメ給ふ。美濃三人衆モ説て、「頓て数(洲)ノ俣ヲ打越テ、打ムカイ申、御対面可レ仕」ト申越。其支度有処に、松平内前殿ハ、宇理之熊谷(直利)ガ処ヱ御はたらき之時、松平右京(親盛)殿ヱ弐サせ給ハザルトテ、荒々トシタル御詞ヲタイラゲサせ給ひ、東三河之牧野伝蔵(信成)ヲ打取、一国ヲ固メ給ひシカバ、小(織)田之弾正之忠にせリトヾメサせテ、岡崎ヲ安々ト取物ナラバ、三河之国は我等ガ物ト思ひ定て、上野の城に居て、居(虚)病ヲ構ヱテ、今度之御供は無。上野の城に御入有て、其より信長之御父小(織)田之弾正之忠ト仰合ラレテ、別心ト申て森山ヱ告ゲ来ル。清康、聞召て、「内前(膳)別心ヲシテアレバトテ、何程の功ヲナスベキ」トテ、事共思召ズ。
 然ル時ンバ、「森山は内前殿婿ナレバ、弾正之忠ヲ引請て候ハヾ、退口如何ガ候ハン」ト申ケレバ、「森山ガ城ヲ出ルナラバ、付入にシテ城ヲ焼払イ可レ申、弾正之忠ムカウナラバ、願ノゴトク一合戦シテ果スベシ。弾正ノ忠ト合戦之スルナラバ、内前ヲフミツブスニ不レ及、独コロビにナラン。其故(上)、弾正忠モ、出テ我に太刀ヲ合ン事、思ひモ寄ラズ。出ル事ハ成間敷。我案(安)祥に有シ時、縷に五百三百持タリシ時サヱ、一度天下ヲ心懸て有にも、百々度之軍ヲせズンバ、天下ハ納ラレジ。野に向キ山に向キ、敵トダニモ見ナラバ、是非共に押寄て、百万寄(騎)有共、百々度之軍ヲせント思ひて有リ。何時も、軍ナラバハヅス間敷に。心安アレ」ト仰ケリ。
 然ば、「退カせラレ給ハヾ、大給ノ源次郎(松平親乗)殿は、内前殿婿にて有リ。イカヾ御座可レ有哉」ト申ケレバ、「中々之事ヲ申物(者)カナ。弾正之忠ヲサヱ何共思ハヌに、源次郎ヅレガ何トテ出テ我ヲ禦哉。若出ルナラバ、頸に石ヲ付て、我ト潭(ふち)ヱ飛入に社(こそ)アレ。其迄モ無。(池)鯉鮒ヱ出テ、スグニ上野ヱ押寄、二三之丸ヲ焼ハライテ退クベシ」ト仰ケレバ、各々被レ申ケルハ、「其儀如何ガ御座可レ有哉。小河ハ内前殿ノ婿ナレバ、定て小河よりも加勢モヤ可レ有」と申ケレバ、カラ/\打哈給ひて、「中々之事、面々は何ヲ安(案)ズルゾ。我通ルニ、小河ナドガ百万之人数ヲ勿(持)タレバトテ、出テ我に太刀ヲ合ン哉。出ル弄満足」ト仰ケル。
 然ル処に、阿部之大蔵(定吉)、惣領之弥七郎ヲ喚て申ケルハ、「何トヤラン、世見(間)之騒々敷に付て、我等ヲモ別心ヲ企(くわだつる)様に定(沙汰)ヲスルト聞。我、君之御恩深クカウムリ、今人ト成シ我等ゾカシ。此御恩ヲ何トシテカ報ぜン哉。然共、此御恩ハ、今生にて報ズル事中々成難ト、寝テモ覚メテモ、是ヲ社(こそ)思ひ暮申せンに、カ様に人に定(沙汰)ヲイタサルヽも、天道之尽ハテタル事なり。逆心之思ひ寄ズ。若我左様なる儀もアラバ、君之御罰トカウムリテ、人モ人トハ云ハズシテ、後にハ乞食ヲスベシ。日本ハ神国ナレバ、諸神諸仏モ、ナドカ我ヲ安穏にて置ラレ間敷候ベシ。何トテ、此君之御恩ヲ忘申サン哉。哀、縄綱ヲモ懸サせラレテモ、水火之責にてモ、御尋アラバ、申ヒラキテモ果テ度ハ存ズレ共、物ヲモ言ハせ給ハデ御成敗モ有ナラバ、黄泉ノ障共可レ成に、人声高ク、憂世騒々敷モ有ナラバ、我等ヲ御成敗有ト心得て、汝等は何方ヱモ取籠リ候ヱテ、「我等ガ親ハ、逆心之儀は夢々心に無2御座1候。此中モ、憂世にて其沙汰ヲ仕トハ内々承及申ツレ共、夢々左様なる儀共は不レ存候」ト、又は「仰出シモ無2御座1候ヱバ、此方より申上候ヱバ、帰(却)て誤有に似リト存知、又ハ其証跡少なり共似ル儀有間敷。仰出シモ御座候時、可2申上1ト存知候て罷有。御普代久敷召ツカハサレ申耳弄、勝君之御蔭ヲモツテ人ト罷成。此御恩ヲ忘て御謀叛申ナラバ、日本に諸神モマシマサバ、天命ヨカル間敷。此上にてモ、七逆罪ヲカウムリテ、無間ノ棲ヲイタサンに、何トテ君に弓ヲ引申、御謀叛ヲ申上候ハン哉。夢々、父子共に不レ存候」由ヲ申上、其故(上)、尋常に腹ヲ切申せ」ト申キカせ候ヱバ、親の仰ヲモ背キ、御主に御敵ヲ申上、七逆五逆之咎ヲ請申事、「日本一の阿呆弥七郎メ」トハ此事なり。
 然間、君之御運尽サせ給ふ哉。御馬ガハナレテ人声高候ヱバ、父之大蔵ヲ御成敗カト心得て、弥七郎、千子ノ刀ニテ、清康、何心モ無シテ御座有処ヲ、ヒン抜イテ切害申。上村新六郎(氏明)、是ヲ見、弥七郎ヲ其場にテ切伏せ踏害。各々是ヲ声、急ぎ参リテ君之御有様ヲ見、各々落涙スル事、釈尊ノ御入滅モカクヤト思ひ知ラレテ哀なり。各々余リ之腹立に、弥七郎ガ死骸ヲ、糞掘に踏コム。
 各々アキレハテ、途方にクレテイタル処に、上村新六郎申ケルハ、「御敵ハ打申なり。此故(上)は、思ひ置事無。腹ヲ切テ御供ヲ可レ申」由ヲ申。其時、各々被レ申ケル。「君ヲ切申タル弥七郎ヲ切申事、手柄申ニ不レ及、比類無。然共、か様に君之不慮之御仕合アラン共、神ナラネバ知ラズシテ、陣屋ヱクツロゲシ故に、居合ズシテ、各々迷惑。流水不レ帰、後悔不2先立1。か様之事アラント知リタラバ、誰カバ陣屋ヱクツロゲン哉。折節、御身有合て、天道にもカナイ候イテ、弥七郎ヲ打給ふ事、比類無、云にも不レ及。然共、有合タル事ナラバ、誰カハ御身に劣ラン哉。有合ヌ事社、天道に放サレタリ。本よりも、追腹ヲ切申事、御身にも誰カ劣ラン哉。併、御身は追腹ヲ切給ヱ。我等共は、是にて追腹ハ切間敷。追腹之切ツボにて可レ切。御身モ分別有て切給ヱ」ト各々申サレケレバ、新六郎聞て申。「追腹之切処は何クゾヤ」。各々被レ申ケル。「追腹ノ切処ト者、十日ト過ス間敷。小(織)田之弾正之忠(信秀)、岡崎ヱ押寄ベシ。各々是にて追腹ヲ切程ナラバ、岡崎には人モ無シテ、若君(仙千代)御一人御バ、弾正之忠押寄て、鵜鷹の餌ヲ伐様に、打せ申サンハ無念に存知可レ申。然バ、若君様之御先にて、追腹ヲバ切可レ申。追腹之切処、是なり。御身モ同ハ、爰にて之追腹思案アレ。何クにて切モ同事ナレバ、停はせズ」。新六郎被レ申ケル。「ゲに思ひ縒候。各々ト一見(味)シテ、若君之御前にて切死にゝ死可レ申」ト云ケレバ、各々「尤なり。トテモ切追腹ナラバ、各々ト一見(味)シテ、火花ヲ散ラシテ切死にシ給ヱ。御供申て可レ切」トテ、森山ヲ落て帰ル。森山も、絡勢ナレ共、心モ替シテ、手モ不レ付シテ帰シケル。
 内前(膳)(信定)殿モ、只今ハ何カト申て手出シ荒(有)バ、城ヲ持カタメデハ成間敷トヤ思召ケル哉、獲待之歌のゴ(ト)クに、「寝タルゾ寝ヌゾ」にして、宇ダルみシテ、二三ケ月之間は、兎角之御取相モ無シテ、万事指引ヲ、御(おわします)。其内ニ悉引付給ひて、我は同前にイタサレ申ス。
 清康三拾之御年迄モ、御命ナガラヱサせ給ふナラバ、天下ハタヤスク納サせ給ンに、廿五ヲ越せラレ給ハで御遠行有社、無念ナレ、三河にて森山崩レト申ハ、此事なり。
 お千(仙)千代(広忠)様、拾三にシテ清康にヲクレサせ給ヱバ、森山崩レテ十日モ過ざるに、小(織)田之弾正之中(忠)、三河ヱ打出、大拾(樹)寺に旗ヲ立ル。其時、森山にて追腹切ント申衆、「我人追腹は爰なり。若君様ハ城にて御腹ヲ被レ成て、城に火ヲ懸サせ給ヱ。然共、聊爾に御腹ヲ切せ給ふナ。各々打死ヲ仕物ナラバ、敵方、城ヱ押寄て、二三の丸ヱ責入ラバ、其時、御腹被レ成候ヱ。其より内ハ、御腹は切給ふベカラズ。我等共ハ、トテモ追腹ヲ切申上バ、御城ヲ罷出、広処ヱ罷出、浮世之思ひ出に花々ト戮死に可レ仕。取誉(籠)ラレテ、此方彼方にて死スル物ナラバ、人モ追腹トハ申間敷。然共、何に御普代ト申共、御慈悲・御情・御哀みヲ思ひ出シ奉レバ、妻子眷属ヲ敵に只今剰申、又ハ我等共に打死仕タル計にては足リ不レ申。御代々、又ハ清康御慈悲・御情・御哀見無は、何に御普代なり共、此時は妻子眷属ヲカコチテ、山野に隠忍て命ヲ継グベケレ共、清康之御情には、妻子眷属モ惜カラズ」。
 扨、各々若君ヲ見上て見マイラせ、涙ヲハラ/\ト泊、「各々妻子眷属共に、只今果テ申事ヲ、露塵程モ惜シカラジ。若君に御代ヲ持せ不レ申シテ、御年にも足ラせ給ハヌに、只今、来世之御供ヲ申事之カナシサヨ」ト申モアヱズ、一度にハツトサケブ。是ヤ此釈尊ノ御入滅之時、拾第(大)御弟子・拾六羅漢・五拾二類ニイタル迄、カナシミサケブモカクヤラン。

(中略)

扨又、広忠ハ、四方に五つ六つ之取出ヲ取ラレ給ひて、一国一城にナラせ給えバ、今河(今川義元)殿ヲ御頼被レ成、「御家(加)勢ヲ頼入」ト、駿河え仰ツカハシケレバ、今河殿御返事に、「家(加)勢之事ハ安キ儀なり。但ト申に、人質ヲ給候え、其故(上)、家(加)勢ヲ申サン」ト仰ケレバ、「更バ」ト仰有て、竹千代(家康)様御年六歳之御時、質物トシテ、駿河え御下向被レ成ケリ。
 然間、西之郡にて御航(おおふね)に召レテ、田原ヱアガラせ給ひて、田原より駿河え御下向可レ被レ成トノ儀なり。田原之戸田少弼(康光)殿ハ、広忠之御為にハ継祖父なり。然共、少弼殿、小(織)田之弾正之忠(信秀)え永楽銭千貫目に、竹千代様ヲ売サせラレ給ひて、御舟に召て、熱田之宮えアガラセ給ひ、大宮地(司)(加藤順盛)憑(預)給ひて、明之年迄御。
 広忠之仰にハ、「其方え出シタル事ナラネバ、何ト成共存分次第可レ有」トテ、終に御勿居(用)ナカリケリ。弾正之忠モ、理非モ無アタルベキニアラザレバ打過ヌ。
 然間、今河殿仰ケルハ、「広忠より質物ハ来タレ共、ソバより盗取て、敵方え売申事ハ無2是非1。其故(上)モ小(織)田ト一身(味)無、侍之儀(義)理ハ見えタリ。此上ハ、広忠ヲ見次(継)て家(加)勢可レ有」トテ、林西(臨済)寺之説(雪)斎長老に各々ヲ仰付て、駿河・遠江・東三河三ケ国之人数ヲモヨヲシて家(加)勢有。説(雪)斎、駿柎(府)ヲ立て藤枝に付(着)。明ケレバ、藤枝ヲ立出、大次(井)河・小夜ノ山ヲ打越、懸河に陣ヲ取。明ケレバ懸河ヲ打立て、福路居(袋井)・見付・天竜河ヲ打越、其日ハ引間に陣ヲ取。明ケレバ引間ヲ立出て、両手に分ケテ、今切ト本坂ヲ越て、吉田に陣ヲ取。吉田ヲ立出、下地之御立(位)・小坂井・御油・赤坂ヲ打過て、早、山中.藤河に陣ヲ取ケリ。
 岡崎にハ、各々此由聞よりモ喜て、「イザヤ、駿河衆之出ケルカ。見ン」トテ、弓取三十人計円入坊山えアガリテ眺メケル。折節、岡の城より九郎豆(蔵人:松平信孝)殿、五百計にて岡崎え打マハリト有て、マツ墨(黒)にカタマリテ坂ヲ押上サせ給ふ。三十人計之衆、是ヲ見て、「爰なるハ九郎豆殿ト見えタリ。イザヤ、此小ツカに来(木)の葉ヲ指、其カゲにカクレ居て、近ク寄ラせラレ給ふ時、一矢ヅゝ居(射)懸申、其より坂ヲ下リにハシリ折(下)て、明太(大)寺之町え懸入て、其より菅生河え出ベシ」トテ待懸テ居タリケル処え、近々ト寄来ラせ給えば、ハシリ出て一矢ヅゝ居(射)懸て、坂ヲ下にハシリ折(下)て明太寺之町え入て、スグニ菅生ノ河原ヱ出ケリ。九郎豆殿ハ御覧ジテ、ヲツ取/\追て町え追入て、町に火ヲ懸サせ給ひて、其気負ニ引退ケサせ給バ、御手ガラト申苦シカル間敷ヲ、御運ノ末ノ悲シサハ、町に火ヲ懸サせ給ハズシテ、一町計引退ケサせ給ひて、備ヲ立て御処え、又、三十人計之者共ガ立帰て、両に分ケテ、町之上下より指取引詰、我モ/\ト備ヱ居(射)懸ケレバ、誰之矢ガ中ル共無シテ、九郎豆(蔵人)殿ヒカヱサせ給ふ御馬ニ口取ヲ居(射)害。次ニ来ル矢にて、九郎豆殿ヲ御馬より居(射)落シ奉ケレバ、是ヲ見てハシリ出、指取引詰居(射)懸ケレバ、其儘敗軍シケレバ、九郎豆ハ、早打死被レ成ケリ。岡崎モ其間四五町有事ナレバ、本より押出シタル衆是ヲ見テ、ヲツ取/\追付て皆打取。
 然間、九郎豆殿御首級ヲ勿(持)て参ル。広忠え角(斯)ト申上ケレバ、聞召モアヱサせ給ズシテ、御涙ヲ滂サせ給ひ、「如何でカ、生取テモクレザル哉。日比、九郎豆殿、我に一つトシテ、負給ふ事無。此度敵ヲナシ給ふ事モ、チガイメ更にナケレバ、恨ト更に思ハズ。以来ヲ疑イテ、某方より立出シケルヲ、様々侘サせ給え共聞ザレバ、赤面シテ、存知之外に敵にナラせ給えバ、我方より無理に敵トハナスなり。内前(膳:松平信定)之敵に成給ふトハ、抜群チガイタリ」トテ、ハラ/\ト御涙ヲ滂サせ給えバ、各々モ御道理トテ、鎧之袖ヲヌラシケリ。
 然間、弾正之中(忠:織田信孝)ハ、駿河衆之出ルヲ聞て、清須之城ヲ立て、其日ハ笠寺、成見(鳴海)に陣取給ひて、明ケレバ笠寺ヲ打立給ひて、案(安)祥に付(着)せ給ひて、其より八萩(矢作)河之下之瀬ヲ越て、上和田之取出に移ラせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陣之取ントテ、上和田ヲ見(未)明に押出ス。藤河ト上和田之間、一理(里)有。
 然処に、山道の事ナレバ、互ニ見不レ出シテ押ケルガ、小豆坂え駿河衆アガリケレバ、小(織)田之三郎五郎(信広)殿ハ先手にて、小豆坂えアガラントスル処にて、鼻合ヲシテ互に洞天(動転)シケリ。然トハ申せ共、互に旗ヲ立て、即合戦社初て、且ハ戦ケルガ、三郎五郎殿打負サせ給ひて、盗人来にハ、弾正之忠之旗の立ケレバ、其よりモ、モリ帰(返)シテ、又小豆坂之下迄打、又、其より押帰(追返)サレテ打レケリ。其時之合戦は、対々トハ申せ共、弾正之忠之方ハ二度追帰(返)サレ申、人モ多打レタレバ、駿河衆之勝ト云。其より、駿河衆ハ、藤河え引入、弾正之中(忠)は、上和田え引て入。其より案(安)祥え引テ、案祥にハ舎弟之小(織)田之三郎五郎殿ヲ給ひて、弾正之忠は清須え引入給ふ。三河にて小豆坂之合戦ト申ツタヱシハ此事にて有。
 広忠ハ、其年二拾三にて御病死被レ成ケレバ、岡崎えモ駿河より入番ヲ入て持ケリ。「扨又、本城之御番ハ誰にて御」。「大久保新八郎(忠俊)」ト云。「扨、二之丸之御番ハ誰人にて御ヤ」ト云。「田中彦次郎(義綱)にて御座候」。「扨、新八郎聞召。御代々御忠節ト申、又ハ、カ様に辛労苦労シテ御奉公申上、君之御手モ広成申タラバ、御普代之衆ハ、手ト手ヲ取相(合)て、餓死に候ハンにヤ」ト云。新八郎申、「御心安アレ。此君御慈悲深ケレバ、御手広ナラせラレテモ、飢殺シハ被レ成間敷。御見(身)之如レ仰、末の御代にハカナ(ラ)ズサモアラン。御手モ広アラバ、新参ハシリ付之衆多来リて、独楽ヲ廻スガゴ(ト)ク御奉公申ナヲバ、其ヲ御見(身)近召ツカハルベシ。其耳弄、別儀別心之末ノ子孫共ガ、能御奉公申て御意に入、御膝本近御奉公可レ申。又、信光より此方、忠節忠高(功)ヲナシ、度々走リ廻りヲシテ、親・祖父・伯父共ヲ打死サせて、御代々御忠節申上タル子孫ナレ共、悪召ツカハサルゝト申て、御不奉公ヲカナラズ可2申上1。其時、普代モイラザルトテ、押払ハレ可レ申。御普代久敷者ハ、散々ニ罷成、忠節忠高(功)之筋ハ一人モ無シテ、普代モイラザルトテ、行方モ無者ヲ、普代ト可レ被レ仰御代モカナラズ可レ有。然共、其御代にハ御普代モ入不レ申共、又、入申御代モ可レ有。其ヲ如何にト申に、此跡之御代にも、御手之広ガル御代モ多シ。又、ハラリト崩レテ、御手狭ム御代モ多ク候ツルヲ、各々御存知なり。御手之広キ御代にハ御普代ハ入申間敷ケレ共、又、末之御代に御手狭に成タル御代に、前々の御代に御慈悲無追払ハせ給バ、後にハ御普代之筋ヲモ御存知有間敷。又ハ、普代之衆モ、御普代之御主ヲ知ルマジキケレバ、御見(身)にアテゝ引立申者有間敷ケレバ、其御代にアタラせ給ふ御主ヲイトヲシク存知候。只今之御主広忠ハ、御慈悲の深ク御バ、御心安アレ。此君之御代ニ飢殺ハ被レ成間敷候」ト云。

(後略)

三河物語 第二(中)

大高城兵粮入れ、三河一向一揆、信長との同盟関連記述。

(前略)

 永禄元年戊午の年、御年十七歳にシテ、大高之兵粮入ヲ請取せラレ給ひて入サせ給ふ処に、敵モ出て見えケレバ、物見ヲ出サせ給ひシに、鳥井(居)四郎左衛門尉(忠広)・杉浦藤次郎(時勝)・内藤甚五左衛門尉(忠郷)・同四郎左衛門尉(正成)・石河十郎左衛門尉ナド見て参、「今日之兵粮入は如何、御座可レ有哉。敵、陣ヲ持て候」ト被2申上1候処え、杉浦八郎五郎(勝吉)参て申上候は、「早々、御入候ラヱ」ト申上ケレバ、各々被レ申ケルハ、「八郎五郎ハ何ヲ申上候哉。敵、気負イて陣ヲ持タル」ト云。八郎五郎申、「イヤ/\、敵は陣ハ不レ持。御旗先ヲ見て、山なる敵方が下えヲロサバ、陣ヲバ持タル敵ナレ共、御旗先ヲ見て、下なる敵ガ上え引上申せバ、兎角に敵は武者ヲバ持ヌ敵にて御座候間、早々入サせ給え」ト申ケレバ、「八郎五郎ガ申ゴトクなり。早々入ヨ」ト被レ仰て、押立て入サせ給えバ、相違ナク入給ひテ引退ケ給ふ。大高之兵粮入ト申て、御一大事なり。
 然間、信長モ清須え引給ふ。次郎三郎(元康)様之御覚初なり。其より岡崎え引入給ひて、寺辺(部)之城ヱ押寄給ひて、外曲輪ヲ押敗(破)、放火シテ岡崎え引入ラせ給ひて、次に梅ガ坪ノ城え押コミ給ひケレバ、城より出て禦タゝカウト云共、何カハ以コタヱベキ。付入にシテ外構ヱ追入、二三之丸迄焼排て、数多打取て、其より岡崎え引せ給ひて、次に広瀬之城・衣(挙母)之城え押寄給ひて、数多打取、構ヲ敗(破)、放火シテ引退サせ給ひ、其より岡崎え引入給ひて、程無、又、駿河え返(帰)ラせ給ふ。御普代衆之喜申事無レ限。「扨モ何トカ御育テ給ひて、弓矢之道モ如何々御ト、朝(明)暮無2心元1案ジマイラせ候えバ、扨モ/\清康之御居キヲイ(勢)に、能モ/\タガハせ給ザル事之目出タサ」ト申、各々眼涕(感涙)ヲ泊て喜ケリ。
 扨又、義元尾張之国え出馬之時、次郎三郎元康(家康)モ御供被レ成て御立有。義元は、駿河・遠江・三河三ケ国之人数を催シテ、駿付(府)ヲ打立て、其日藤枝に付(着)。先手之衆ハ、嶋田・金屋(谷)・仁(日)坂・懸河に付(着)。明ケレバ藤枝ヲ立て、懸河に付(着)。先手は、原河・綻居(袋井)・見付・池田に付(着)。明ケレバ懸河ヲ立て、引間に付(着)。所(諸)勢ハ、本坂ト今切ヱ両手に分ケテ押て出て、御油・赤坂にて出合ケリ。義元は引間ヲ立て吉田に付(着)。先手ハ下地之御位・小坂井・国(国府)・御油・赤坂に陣取。吉田ヲ立て岡崎に付(着)所(諸)勢は、屋萩(矢作)・鵜等(宇頭)・今村・半田・八橋・地(池)鯉鮒に陣之取。明ケレバ、義元地鯉鮒に付(着)給ふ。
 此以前より、沓懸・成見(鳴海)・大高ヲバ取て勿(持)タレバ、沓懸之城にハ、駿河衆入番有リ。成見之城ヲバ岡部之五郎兵衛(元信)ガ居タリ。大高にハ、鵜殿長勿(持:長照)番手に居タリ。信長より大高にハ取出ヲ取て、棒山の取手ヲ作(佐久)間大角(学:盛重)ト申者ガ勿(持)て、明ズシテ居タリシヲ、永禄三年庚申五月十九日に、義元ハ地鯉鮒より段々に押て大高え行、棒山之取出ヲツク/\〃ト巡見シテ、諸大名ヲ寄て、良久敷評定ヲシテ、「サラバ責取。其儀ナラバ、元康責給え」ト有ケレバ、元よりスゝム殿ナレバ、即押寄て責給ひケレバ、程無タマラズシテ、作(佐久)間ハ切て出ケルガ、雲(運)モ尽キズヤ、打モラサレて落て行。家の子郎従(党)共ヲバ悉打取。其時、松平善四郎(正親)殿・筧又蔵(正則)、其外之衆モ打死ヲシタリ。其より大高之城に兵粮米多誉(籠)。其上にて、又長評定之有ケリ。
 其内に、信長は清須より人数ヲクリ出シ給ふ。評定にハ、「鵜殿長勿(持)ヲ早長々の番ヲサせて有リ。誰ヲ替にカ置ン」トテ、「誰カ是カ」ト云内、良久敷、誰トテモ無。「サラバ元康ヲ置申せ」トテ、次郎三郎(元康)様ヲ置奉リテ、引退ク処に、信長は思ひ之儘に懸付給ふ。駿河衆是ヲ見て、石河六左衛門尉ト申者ヲ喚出シケル。彼六左衛門尉ト申者ハ、大高(剛)の者にて、伊田合戦之時モ、面ヲ十文字ニ切割ラレ、頸ヲ半分切レ、見(身)之内にツゞキタル処モ無疵ヲ勿(持)タル者なるヲ、喚て云ケルハ、「此敵ハ武者ヲ勿(持)タルカ、又モタザルカ」ト云。「各々の仰に不レ及。アレ程若ヤギて見ヱタル敵之、武者ヲ勿(持)ヌ事哉候ハン歟。敵ハ武者ヲ一倍勿(持)タリ」ト申。「然ば敵之人数ハ何程可レ有ゾ」ト云。其時、六左衛門尉打笑テ云、「雙立(方々達)ハ人数之積ハ御無2存知1ト見えタリ。嵩に有敵ヲ下より見上て見時ハ、少(小)勢ヲモ太(大)勢に見物なり。(下)に有敵ヲ嵩より見下シテ見レバ、太勢ヲモ少勢に見物にて候。奇立(方々達)之積にハ、何トシテ五千より内ト被レ仰候哉。惣別、カ様之処の長評定は、能事ハ出来せザル物にて候に、棒山ヲ責歟責間敷歟トノ評定久敷、又、城之替番之僉議久敷候間、フツツト能事有(間)敷」ト申ツルにタガハズ。「是え押寄給ふト、其儘取アヱズに棒山ヲ責落サせ給ひて、番手ヲ早ク入帰(替)給ひて、引カせ給でカナハザル処ヲ、余リにヲモクレて、手ネバク候間、フツツト能事有間敷。早々被レ帰せ給え」ト六左衛門尉申ケレバ、急早メテ行処に、徒者ハ早五人三人ヅゝ山えアガルヲ見て、我先にト退ク。
 義元ハ、其ヲバ知リ給ズシテ、弁当ヲツカハせ給ひて、ユク/\トシテ御給ひシ処に、車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に、永禄三年庚申五月十九日に、信長三千計にて切て懸ラせ給えば、我モ/\ト敗陣(軍)シケレバ、義元ヲバ毛利新助(良勝)方ガ、場モ去ラサせズシテ打取。松井(宗信)ヲ初トシテ拾人余、枕ヲ并打死ヲシケリ。其外敗陣(軍)シテ追打に成。其儘押ツメ給ハゞ駿河迄モ取給ハンズレ共、信長ハ強ミヲ押せラレ給ザル人ナレバ、其より清須え引入給ふ。
 然ルト申に、元康(家康)之尻除ヲ被レ成物ナラバ、カ程の事ハ有間敷に、大高の城之番手ヲ申被レ付シ事社、義元の雲(運)命なり。岡部之五郎兵衛(元信)ハ、義元打死被レ成、其故(上)、沓懸之入番衆モ落行共、成見(鳴海)之城ヲ渡シ、アマツサヱ信長え申、義元之首級ヲ申請て、駿河え御共申て下ケリ。御死界(骸)ヲ取置申て、御首級計之御供申て下事、類スク無(少し)共、申尽シガタシ。此五郎兵衛ヲ昔之事のゴトクニ作ナラバ、武辺ト云、侍之義理ト云、普代之主の奉公ト云、異国ハ知ラズ、本朝にハ有難シ。尾張之国より東にヲイテ、岡部之五郎兵衛ヲ知ラザル者ハ無。
 扨又、「義元ハ打死ヲ被レ成候由ヲ承候。其儀に置(於)てハ、爰元ヲ早々御引除せ給ひて御尤」之由各々申ケレバ、元康(家康)之仰にハ、「タトヱバ義元打死有トテモ、其儀、何方よりモシカトシタル事ヲモ申不レ被レ来に、城ヲ明ケ退キ、若又、其儀偽ニモ有ナラバ、二度義元に面ヲ向ケラレン哉。其故(上)、人之サゝメキ笑種に成ナラバ、命ナガラヱテ詮モ無。然ば、何方よりモシカトシタル事無内ハ、兎角に退カせラレ間敷」ト、仰除テ御座候処え、小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサせラレテ、「其元御油断ト見えタリ。義元社打死ナレバ、明日ハ信長、其元え押寄可レ被レ成。今夜之内に御支度有て、早々引退ケサせ給え。然ば我等参て案内者可レ申」由ヲ申被レ越候えバ、六之助、主之使に来リて申ケルハ、「我等に「御案内者申て、早々御供申せ。信長押寄給ハゞ、御六ケ敷候ハン」ト四郎右衛門申被レ越候間、我等に三百貫被レ下給え。御供申サン」トテ、知形(行)ヲネギリテ、御案内者ヲ申ケリ。
 水野四郎右衛門尉殿ハ、腹ヲ立、「憎奴バラメ。成敗ヲイタシ度」ト被レ申候え共、敵味方之事ナレバ成敗モ弄。大高之城ヲ引退カせラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆ガ持て居タレ共、早渡シて退キタハリ申せ共、氏真(今川)にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに太拾(樹)寺え御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、「捨城ナラバ広(拾)ハン」ト仰有て、城え移ラせ給ふ。其時、御普代衆説て、「扨モ/\目出度御事哉。普代之御主様ヲ遠クに置奉リて、一度岡崎え入奉て、トテモノ走リ廻リヲ御目之前にて申度ト願イて、余国モ無シシサル之様なる奴バラ共に、折屈み、敗ツク敗(這蹲踞)、屈み廻ル事モ、一度ハ君ヲ是え入申サンタメなり。御年六歳之御時、此城ヲ御出被レ成、永禄三年庚申五月廿三日、少(生)年十九歳之御年、岡崎之御城え入せ給ふ事之目出度サ」ト申て、説申事無レ限。然間、駿河ト御手切ヲ被レ成候えテ、元康ヲ帰(替)サせラレ給ふ。

(中略)

 漸シタル処に、永禄五年壬戌に、野寺之寺内に徒者の有ケルヲ、坂(酒)井雅楽助押コみて検断シケレバ、永禄六年癸亥正月に、各々門徒衆寄合て、土呂・鍼崎・野寺・佐々き(崎)に取籠リて、一騎(揆)ヲヲコシて御敵ト成。其時之義諦ヲスゝメテ、御主トナサント云ケレバ、其に乗て頓て敵に成て、東祥(条)之城え飛上て手ヲ出サせ給ふ。荒河(義広)殿モ初に御味方被レ成候時、家康之御妹婿に被レ成申て、此度ハ逆心之被レ成、義諦(吉良義昭)ト一所に成給ふ。其耳弄、桜井之松平監物(家次)殿モ荒河(義広)殿ト仰被レ合て、別心ヲ被レ成けり。上野にてハ坂(酒)井将監(忠尚)殿別心なり。東三河は長沢・御油・赤坂ヲ切て、東ハ不レ被レ残駿河方なり。
 上様(家康)之御味方ハ、竹之谷之松平源番(玄蕃)殿、来(形)之原の松平紀伊守(家忠)殿モ御忠節なり。不高須(深溝)之松平主殿之助(伊忠)殿、是土呂・鍼崎・東三河衆に両三人ハ挟マレ給ひて御忠節有。西尾の城にハ坂(酒)井雅楽之助(正親)有て、野寺荒河殿ト取合て有。本田(多)豊後守(広孝)は土井之城に居て、土呂・鍼崎に向有て之御忠節なり。松平勘四郎(信一)殿モ松平右京(親俊)殿モ、野寺・桜井に向て御忠節なり。右之御一門之衆宇、同本田(多)豊後守ハ、遂一度モ逆心ハ無。岡崎之南ハ土呂・鍼崎、其内ハ一理(里)にヨハシ。西南にアタツテ、野寺・佐崎・桜井、其内一理(里)有。北西にアタツて上野の城有。其間一理(里)半有。東ハ長沢よりシテ不レ被レ残駿河迄御敵なり。中にモ土呂・鍼崎は一の御手先ナレバ、一騎(揆)之衆モ爰ヲ先途ト心得て、鎗ヲモ振廻ス程之衆ハ悉、我モ/\ト此両所えコモリ居タル。野寺よりモ一騎(揆)ハ起ル事ナレ共、彼地ハ岡崎よりハ遠候ヱバ、本人トハ申せ共、岡崎之間に佐崎ト桜井ヲヘダテゝ有事ナレバ、是両所ヲ押ムカハせテ、帰(却)て野寺ハ手置に成。土呂・鍼崎・佐崎三ケ寺ハ、知ラザル事ナレ共、尤一見(味)の寺ナレバ、同心ヲシタリ。此三ケ寺ハ岡崎近ク候えバ、帰(却)て手先ト成に仍、爰ハト云衆ハ、悉土呂・鍼崎・佐崎、是三ケ所え立コモル。
 然トハ云共、野寺えハ「何事モ在籠ラン」ト云て、紀等(吉良)アタリノ衆、又ハ寺内近キ衆に、大津半右衛門尉ヲ初、犬塚甚左衛門尉・犬塚八兵衛・犬塚善兵衛・小見三右衛門尉・中河田(太)左衛門尉・牧吉蔵、其外石河等(党)・賀(加)藤等(党)・本田(多)等(党)・手嶋等(党)、其外爰ハ之衆百余モ可レ有。小侍ハ数ヲ知ラズ、紀スニ不レ及。事之在可レ入トテ居タリ。
 佐崎之寺内に立籠ル衆ハ、倉地平左衛門尉・小谷甚左衛門尉・大(太)田弥太夫・案(安)藤金助(家次)・山田八蔵・案(安)藤太郎左衛門尉(定次)・鳥井(居)又右衛門尉・賀(加)藤無手之助・矢田作十郎(助吉)・戸田三郎右衛門尉(忠次)、其外是に劣爰ハ之衆、百騎余可レ有。其外小侍共ハ際限無。
 戸田三郎右衛門尉(忠次)、御前ヲソムキ、御面目タルによつて寺内え入タル事ナレ共、心かラノ御別心にアラザレバ、寺内ヲ可レ取ト調儀ヲシケル処に、アラハレケレバ、外曲輪ヲ焼て出て、其時御前ガスミテ罷出。佐崎に松平三蔵(忠就)殿の城ヲ勿(持)て居給えバ、御家(加)勢ヲクハヱ給ふ。岡崎え道一理(里)有。其間に筒針の取出、小栗等(党)に持給ふ。是ハ矢作河之東、六栗之郷中に、夏目次郎左衛門尉(吉信)屋敷城ヲ持て、深溝ノ松平主殿之助(伊忠)殿と取合て居タリケルヲ、主殿之助殿押寄て構ヲ押破リ給えバ、夏目次郎左衛門尉カナハズシテ蔵屋えトヂコモリて有処に、松平主殿之助殿え仰遣ハサレケルハ、「次郎左衛門尉構ヲ破ラせ給ふ事、比類無。殊更、夏目、我に敵ヲナシ弓ヲ引事、憎キ事限無トハ存ズレ共、左様にトヂコメ、籠の内之鳥にナシ給えバ、害給ふモ同前(然)に候えバ、弐置給え」ト仰遣ハサレケレバ、主殿之助殿大キに腹ヲ立給ひて、「御敵ヲ申て、錆矢ヲ居(射)懸申タル族ヲ、何に御慈悲フカケレバトて、「弐置給え」トハ、サリトハ承届ケザル御事ナレ共、御意ナラバ是非に不レ及。惣別申上申に及ザル者ヲ」ト、紅悔(後悔)被レ成ケル。御謙被レ成間敷夏目ヲ御覧ケルヲ、「御慈悲哉」ト各々感ジ入ケル。
 扨又、松平七郎(昌久)殿ハ大草の城ヲ持て、一騎(揆)ト一見(味)シテ御敵に成給えバ、是モ土呂同前(然)に御改易ヲ被レ成ケレバ、何クヱ行共無跡方モ無シテ、七郎殿跡は絶タリ。
 扨又、土呂に立コモル衆、大橋伝一郎・石河半三郎・佐馳(橋)甚兵衛(吉忠)・佐馳甚五郎(吉実)・大見藤六郎・石河源左衛門尉・佐馳覧(乱)之助(吉久)・大橋左馬之助・江原孫三郎(利全)・本田(多)甚七郎・石河十郎左衛門尉・石河新九郎(親綱)・石河太八郎・石河(右)衛門八郎・石河又十郎・佐野与八郎(正吉)・江原又助・内藤弥十郎・山本才蔵・松平半助・尾(小)野新平・村井源四郎・山本小次郎・月塊佐五郎・墨(黒)柳次郎兵衛・成瀬新蔵(正義)・岩堀忠七郎・本田(多)九三郎・三浦平三郎・山本四平・阿佐(浅)見主水・阿佐見金七郎・賀(加)藤小左衛門尉・平井甚五郎・墨(黒)柳彦助・野沢四郎次郎、其外是に劣ヌ兵共、七八十騎コモル。其外小侍共百余可レ有。
 坂(酒)井将監(忠尚)殿えこもる衆、足立右馬之助(遠定)・鳥井(居)四郎左衛門尉(忠広)・(以下略)

(中略)

 扨又、鍼崎より上和田えハ、十二丁計之間にて有処に、大久保一類之者共が集て、日夜油断無塞(防)タゝカいて、終に其より岡崎え敵ヲ上タル事無。
 鍼崎より上和田えハタラキケレバ、屋蔵(矢倉)に上て、竹之筒のカイヲ吹ケレバ、岡崎にハ、「上和田にカイガ立ト聞」ト被レ仰て、番ヲ付て置せラレケレバ、「スハヤ、上和田にカイコソ立申せ」ト申上ケレバ、日比仰被レ付候間、早御馬に蔵(鞍)ヲ置て引立レバ、早召て、何時も人先に懸付サせ給ふヲ、敵ハ遠見ヲ置て見ては、「殿(家康)の懸付させ給ふに。早退ケ」トテ、足々にシテ退ク。ゲにト、五町十町之事ナレバ、上様ヲ見懸申てハ、其儘寺内え引入、又重て之懸合にモ、何ものゴトク貝ヲ立ケレバ、御懸モ何ものゴトクに懸付給ふ。其時ハ御供申て懸付申タル衆にハ、上(植)村庄右衛門尉(正勝)・墨(黒)田半平。敵にハ八(蜂)屋半之丞(貞次)ト上村庄右衛門尉ガ鑓ヲ合ル。渡辺源蔵(真綱)ナドガ鑓ガ合。其時、墨(黒)田半平ヲ渡辺源蔵ガ突倒ス。
 然処に、懸付之衆重ケレバ、八(蜂)屋半之丞モ渡辺源蔵モ、引ヌイテ足々にシテ退ク。八屋半之丞ハ、細畷てえ折(下)て退キケル所え、水野藤十郎(忠重)殿懸付給ひて、「半之丞カ。八幡大菩薩、退ケ間敷に。返」ト仰ケレバ、八屋立トドマリて、につコト笑て、「藤十郎殿カ。我等にハトテモ成せラレ間敷」ト云て、鑓ヲマツ直に付(突)立て、手に唾ヲ付て、手グスネヲ引。藤十郎殿重て仰ケルハ、「トテモヤル間敷物ヲ」ト仰ケレバ、八屋云、「トテモ我にハ成間敷に。コタヱ給え」トテ、鑓押取て、錣ヲ傾ケて懸リケレバ、藤十郎殿、脇え闢給ふ。半之丞ノゝシリテ、「左様に社思ひタレ。我に何ガナラせ給ハン」ト云てノゝシル。
 半之丞ト申ハ、勢(背)カシ高にシテ、力の強ケレバ、白樫ノ三間柄ヲ中太にヨラせて、長吉之見(身)の四寸計なるヲ研ギ上にシテ、紙ヲ吹キ懸て、サツ/\ト通ルヲ、ヱリハメテ持。然間、長柄之持鑓モ、少なり共錆ノ浮キタル事ハ無。
 去間、「半之丞ガ鑓先にハ誰カ向ハン」ト、独ゴトヲ云ケル者なり。然間、半之丞ハ、其より野え上て退ク処え、上様(家康)懸付サせラレて、「八屋メ、返」ト被レ仰ケレバ、心得タリトて、返て見てアレバ、上様にて有ケレバ、取ツて戻シ、鑓ヲ引ズリて、頭ヲ傾て虚空三宝に逃行処え、松平金助殿懸付テ、「八幡、半之丞返」ト仰ケレバ、取て返て、「殿様ナレバ社逃タレカ、御身立(達)にカ」トテ帰(返)シて、金助殿モ八屋モ、互に鑓ヲ突キ合て、五度六度合給ふガ、力ノ強キ者ガ樫之三間柄ヲ石付ヲ取て突立レバ、カナハジト思召、鑓ヲ引抜て後ヱシサリ給ふ所え、踏コみて投突にシケレバ、金助殿後より前へ、鯨に銛ヲ立タルゴ(ト)クニ突立ケリ。走リ寄て鑓ヲ引抜ケル処え、又上様懸付サせラレ給ひて、「八屋メ」ト被レ仰候ヲ聞きて、又鑓ヲ引ズリて、跡モ見ズシテ逃ゲニケリ。上様モ御帰リ被レ成て、「八屋メガ、我にモ逃ゲン奴にハアラネ共、我ヲ見て逃ゲケル」ト御意被レ成、御機嫌能。
 然間、上和田より大久保一類共ガ、伊内之郷えサガリて、鍼崎之寺内際にて厳敷せリ合ケリ。其時、大久保七郎右衛門尉(忠世)ト本田(多)三弥(正重)、相ダメにシタルに、七郎右衛門尉早ク放シ候て、三弥ヲ打倒ス。然共其手にてハ死ズ。カゝリケル所に、一騎(揆)方之申ケルハ、「爰元ヲ厳敷アイシライて、柱之郷中ヲ通リ妙国寺え出テ取キル物ナラバ、上和田え入事成間敷。然時ンバ、向ヲ強クサせて、跡より切て懸ナラバ、土井ヲ指て退クベシ。サモアラバ、土井之間の水田え追入て可レ打」ト申ヲ、半之丞は大久保浄玄(常源:忠俊)婿ナレバ、有(或)ハ伯父姑、従子姑ナレバ、汗ヲニギル。
 然ト云てモ、各々ヲ打せて見ル所にモアラズト思ひて、「皆々出て取キラシ」ト云。柱之郷中之原え出て、馬ヲ乗歩キケレバ、案之ゴトク、敵打除て出ケレ共、跡にて候えバ、手ヲ失イタル風情ナリ。八屋ガ出て懸マハリて知ラせズは、大久保一名ハ不レ被レ残打レ可レ申間、愈一騎(揆)ハハゞカリ可レ申ケレ共、是モ上様之御雲(運)の強キ故なり。
 然ば、佐崎之寺内え取出ヲ被レ成ケル所に、水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。然処に、土呂ヱ誉(籠)タル一騎(揆)衆、佐崎之取出後詰トシテ、作岡・大平えハタラキてヤキ立ル。佐崎にて御覧ジテ下野殿え被レ仰ケルハ、「御貴殿ハ是より御帰被レ成候え。我等ハ上和田ヲスグに取切申て、不レ被レ残打取可レ申候」ト被レ仰ケレバ、下野殿ハ、只「御無用」ト仰ケレ共、「兎角に御返(帰)リ被レ成候え、我等ハ急申」トテ、早御馬に召ケレバ、是ヲ見捨て何トて返(帰)リ可レ申哉。「其儀ナラバ御供申サン」トテ、一度に懸給ふ。上様之御タメにハ能御仕合なり。敵之タメにハ、浮雲(不運)なる次第なり。渡里河地ヲ越サせ給ひて、大久保一類ヲバ鍼崎之押に置カせラレ給ひて、大久保弥三郎(忠政)計御案内者申て、盗人来ヲスグに小豆坂えアガラせ給ひて、馬等(頭)之フミハケえ出サせ給えバ、作岡・大平より帰ルトテ、鼻合ヲシテ洞天(動転)ス。石河新九郎(親綱)ハ、「道ヲ帰(替)て退キてハ、タトえバ生てヲモシロカラズ。又、道ヲ替テ山之中にて打レタラバ、「新九郎社、ヘリ道ヲシテ打レタル」ナドゝ人に定(沙汰)せラレン事ハ、骸之上の恥辱可レ成」トテ、本道ヲスグに退キケレバ、金ノ団扇ノ指物ヲ指ケル間、新九郎ト見懸て我モ/\ト追(懸タリ。水野藤十郎(忠重)殿懸付て、突落シテ打取給ふ。頓て佐馳(橋)甚五郎(吉実)・大見藤六郎、是兄弟モ一つ場にて打取。波切孫七郎ソコヲ行過て大谷坂ヱ上処ヲ、上様懸付サせラレて、二鑓迄突カせ給ふに、懸ノビて馬より落ズシテ逃行。「孫七郎ヲ二鑓突キタルに、逃て行タル」ト被レ仰けれバ、波切孫七郎ト申は、無レ隠武辺之者、又ハ気チガ(イ)者ナレバ、此御意ヲ聞きテ、「我ハ上(様)にハ突レズ。別之者に突レタル」ト申。「上様に突レ申」ト申ナラバ、覚ト申、又ハ其見(身)のタメニモ能可レ有に、眼前に上様に突レ申て、「上様にハ突レ申サヌ」ト申タルに仍、御ニクミ被レなて、其後終に子供之代迄、御前へ召不レ被レ出。
 然処に、八(蜂)屋半之丞(貞次)、大久保次(治)右衛門尉(忠佐)ヲ喚出シて、「御扶持(無事)可レ仕由申上候え」ト申ケルに付て、大久保新八郎(忠勝)ヲ同道シテ、次(治)右衛門尉ト両人御前に参、此由ヲ申上ケレバ、御喜被レ成て、「サラバ急」トノ御意ナレバ、八屋半之丞・石河源左衛門尉・石河半三郎・本田(多)甚七郎、此外五三人申ケルハ、「何ト成共、御存分次第可レ仕候。然共、何れモタガイ申儀、御捨面(赦免)被レ成可レ被レ下由、過分申ツクシガタク奉レ存候。其儀ナラバ、トテモノ儀に、寺内ヲ前々のゴトク立ヲカせラレて可レ被レ下。次にハ、此一騎(揆)の企之者の命ヲ御捨面(赦免)被レ成て被レ下候ハゞ、御過分に奉レ存候。然トハ申共、各々の存分ハ不レ存候。一人なり共、何カト申者モ候ハゞ、又其に付て、一見(味)スル者モ御座候ハゞ、此御無事罷成難シ。其時ハ、我々共之角(斯)計存知候てモ及間敷候えバ、御無沙汰ハ無シテ、御無沙汰に罷成候ベキ。其時ハ帰(却)て二罪之御詰(咎)人に可2思召1。然ば此事他言無シて、此者共計にて土呂え引入可レ申間、各々の命、右之クハ立(企)之者の命、寺内共に前々のゴトク、御捨面(赦免)之儀ヲ申上給え」ト申に付て申上ケレバ、「尤之儀。汝共申ゴトク、面々ガ命、并に寺内、前々のゴトク相違有間敷。一騎(揆)クハ立(企)之者にヲイテハ、兎角御勢(成)敗可レ被レ成」トノ御意ナレバ、右之者共、惶ナガラ又言上申。「寺内并に各々ガ命被レ下候儀、御過分申ツクシ難シ。同ハ、徒者の命ヲモ被レ下候様に」ト申て、御無事ノ儀ガ支ヱケレバ、大久保浄玄(常源:忠俊)申上ケルハ、「姪子供、御手洗え罷出申、日夜之戦無レ隙仕、アマツサヱ正月十一日にハ、土呂・鍼崎・野寺三ケ所之一騎(揆)方、一手に罷成、上和田えハタラキケル処に、一類之者共罷出、防ギ戦申に付て、其日、倅之新八郎(忠勝)ハ眼ヲ居(射)ラレ、姪之新十郎(忠世)モ眼ヲ居(射)ラレ、其外之姪子供、何れモ手ヲ負ハザル者一人モ無シテ、爰ヲ先途トシタル処え、上様御自身早ク懸付サせラレ候に付て、敵方御影ヲ見付申に付て、我先にト逃退キケルに仍、一類共モ理雲(運)仕候。其時、血池ヲ滂タルヲバ、上様御覧ジ被レ成ケリ。其時之姪子之心郎(辛労)分ト思召て、此一騎(揆)之クハ立(企)之者の命ヲ被レ下候え。此一騎(揆)ヲサヱ御無事に被レ成て候ハゞ、彼等ヲ先立給ふナラバ、上野に有坂(酒)井将監(忠尚)ヲ、頓て踏ツブサせラレ給ふベキ。何況哉、紀等(吉良:義昭)殿・松平監物(家次)殿モ荒河(義広)殿モ、其日に押ツブシ給ふベキ。何カ之御無心モ打被レ捨給ひて、何ト成共、面々ガ望次第に可レ被レ成候えて、先御無事にサせ給え。御手サヱ広クナラせラレ給はゞ、其時ハ何ト被レ成候ハンモ御儘に罷可レ成物ヲ。只今ハ、何カト被レ仰処にアラズ」ト申上ケレバ、「サラバ、浄玄(常源)次第に徐置、起請ヲ可レ書」トテ、上和田之浄衆(珠)院え御出被レ成て、御起請ヲアソバシて、右之者共に被レ下ケレバ、是ヲイタゞキて、サラバトて石河日向守(家成)ヲ土呂の寺内え、高須之口より八町(帖)え引入ケレバ、一騎(揆)方之各々ヲドロキ騒共、早乱入ケレバ、不レ叶シテ我モ/\ト手ヲ合ケレバ、御寛有て、方々え御先懸ヲス。
 然間、松平監物(家次)殿モ、早降参にて、御寛給えバ、其(に)付て荒河(義広)殿モ降参シ給え共、御無レ徐ケレバ、上方え牢人被レ成て、河内之国にて御病死なり。
坂(酒)井将監(忠尚)殿モ、上野ヲ明て、駿河え落行給ふ。一の乙名にて有ケレバ、「上様歟将監殿歟」ト云程之居(威)勢ナレ共、御主に勝事弄シテ、其より将監殿筋ハ絶て、跡方モ無。
 然間、義諦(吉良義昭)モ、ナラせラレ給ハで、侘事被レ成て、東祥(条)之城ヲ折(下)サせ給え共、御扶持方ヲモ出サせ給ネバ、御身モ弄シテ、上方え御牢人被レ成、浄体(承禎)ヲ頼マせ給ひて御座候ツルガ、悪田(芥)河にて打死ヲ被レ成ケリ。
 其後、土呂・鍼崎・佐崎・野寺之寺内ヲ敗(破)給ひて、一向宗に、「宗旨ヲカヱヨ」ト起請ヲ書せラレ給えバ、「前々之ゴトクに被レ成て可レ被レ下」ト御起請之有由ヲ申ケレバ、「前々ハ野原ナレバ、前々のゴトク野原ニせヨ」ト仰有て、打敗(破)給えバ、坊主立(達)ハ、此方彼方え逃散リテ行。御敵ヲ申上、御徐之衆モ有、又鳥井(居)四郎左衛門尉(忠広)・渡辺八郎三郎(秀綱)・波切孫七郎・渡辺源蔵(真綱)・本田(多)佐土(渡:正信)・同三弥(正重)、御国にハ非シテ東え行衆モ有、西国え行衆モ有、北国え行衆モ有。大草の松平七郎(昌久)殿ハ、何方え行共知ラズ。何れモ御敵申者共を扶置せラレ候御事、御慈悲成儀共トて、感ぜヌ人モ無。

(中略)

 扨又、信長より仰被レ越ケルハ、「御家(加)勢ヲ被レ成て給候え。北近江えハタラキヲ被レ成候ハン」ト仰被レ越候ヱバ、頓て助ケサせ給ハントテ、御出馬被レ成ケリ。
 元亀元年庚午二月日、信長、鐘(金)ガ崎えハタラカせ給ひケルに、越前衆強ケレバ、信長モ大事ト思召て、家康ヲ跡に捨置給ひて、沙汰無に、宵之口に引取せ給ひシヲ御存知無シテ、夜明て、来(木)之下藤吉、御案内者ヲ申て、退カせラレ給ふ。鐘(金)ガ崎之退口ト申て、信長之御タメに大事ノ退口なり。此時之藤吉ハ、後之世の太香(閤:秀吉)なり。
 然ば、信長、北之郡え御ハタラキ被レ成候ハント思召処に、越前衆ハ出、方々に取出ヲ取、都え之行通ヲ止メントテ、三万余にて出ケレバ、信長モ急横山迄御出馬有て、家康に「早々御家(加)勢ヲ被レ成て被レ下候え。越前衆罷出申間、合戦ヲ可レ被レ成」由仰被レ越候えバ、「用心得申」トテ、其儘御出馬被レ成ケリ。信長、殊外にヨロコバせ給ひて、早ク御出馬有。
 然ば、「明日之合戦に相定申。一番ハ芝(柴)田(勝家)・明智(光秀)・森右近(可成)ナド申付候間、家康ハ二番合戦ヲ頼入申」ト云て、毛利新助(良勝)ト両人ヲ以て仰被レ越候えバ、御返事に、「トテモ御家(加)勢申故(上)ハ、何ト被レ仰候共、是非共に一番合戦ヲ仰可レ被レ付」ト仰被レ越えバ、信長之御返事に、「家康之御存分、尤左様に思召可レ被レ成。然共、早備組ヲ仕タル事ナレバ、彼等ヲ一番之ヤメサスル事モ如何々に候えバ、同ハ二番之請取せラレて給候え。其故(上)、一番モ二番モ同意なり。二番と云てモ、時により一番に成事モ多キ物ナレバ、兎角に二番ヲ頼入申」ト御返事有ケレバ、又、押帰(返)て被レ仰ケルハ、「尤、備組ヲ御定(沙汰)之所ヲ、一番ヲ二番えト被レ仰候儀ヲ如何々ト思召処、尤承届ケ申タリ。一番モ二番モ同意ト被レ仰候儀、是ハ承届テ不レ申。尤明日之合戦にハ、二番ガ一番にも社成モヤ仕ラン。其儀ハ時之時之仕合。タトヱバ、二番ガ一番に成ト申てモ、後之世迄之書物にハ、一番ハ一番、二番ハ二番ト書シルシテ、末世迄モ可レ有候間、兎角一番ヲ申可レ有ケレ共、三十に足ル足ラザル者ガ、家(加)勢に参て、一番ヲ申請兼て二番に有ト、末世迄申伝に罷可レ成事、迷惑仕候。然ば、今日引払イて罷帰可レ申」ト御返事有ケレバ、信長聞召て、「家康之被レ仰候モ、尤承届ケタリ。左様に思召給ハゞ、愈忝存知候。其儀ナラバ、一番合戦ヲ頼入申」ト被レ仰て、明日之御合戦ハ、家康之一番陣なり。
 然処に、各々申上ケルハ、「此以前より一番陣ヲ仰被レ付。只今、家康え一番陣ヲ被レ成候えトノ御状(諚)之処、迷惑仕候」ト申上ケレバ、信長、御腹ヲ立給ひ、大キなる御声ヲ被レ成、「推参なり、倅共メガ。何ヲ知リテ云ぞ」ト仰ケレバ、重て音ヲ出事ナラザレバ、家康之一番陣に定ケル。
 家康之仰にハ、「明日廿八日之合戦に、今日廿七日に是え付(着)て、一番陣ヲ請取事、天道之与なり」ト被レ仰、御喜説カギリ無。
 元亀元年庚午六月廿八日の曙に押出給えバ、越前衆モ三万余にて押出ス。信長之一万余、家康之人数三千余にて、互に押出て、北風南風、責タゝカウ処に、家康之御手より切崩シテ、追打に打取給えバ、信長之御手ハ旗本近ク迄切被レ立、各々爰ハの衆ガ打レケレ共、家康御前ガ勝て奥ヱ切入給えバ、敵モ即敗軍シテ、不レ被レ打取給ひて、「今日之合戦ハ、家康之御手柄故、天下之誉ヲ取」ト、信長モ御感なり。
 信長、其より此方彼方押詰サせ給ふナラバ、近江之儀ハ申ニ不レ及、越前迄モ切取せ給ハンに、惣別、信長ハ「勝て兜之緒ヲ締メヨ」トテ、其儘、岐阜ヱ引入給ふ。
 桶狭間ノ合戦にモ、義元ヲバ打取給ふ故(上)、其より無レ催ツメイル物ナラバ、スミヤカに三河・遠江・駿河モ御手にハ入ラレ共、「勝て兜之緒ヲ締メヨ」トテ、其気負ヲ以、強ヲバ押せラレ給ヌ御方なり。
 然間、元亀元年庚午十二月日、越前衆、三万余にて比叡山に陣取て有。信長ハ志賀に御陣ヲ取給ひて、家康ヱ御家(加)勢之由仰被レ越ケレバ、石河白(日)向守(家成)ヲ指遣サル。「北国ハ早雪モ積リタル事ナレバ、兵郎(糧)米モ尽キ可レ申。然ば、敵ヲ干害ベシ」ト信長ハ思召処に、比叡山より兵郎(糧)米ヲツゞケ申のみナラズ、アマツサヱ帰(返)リ調儀ヲシテ信長ヲ打せントス。山より申越タルハ、「越前衆之陣屋え火ヲ懸可レ申候。然時ンバ、切てカゝラせ給バ敗軍可レ有。其儀ナラバ、夜中に山えアガラせ給え」ト申ケレ共、信長、サスガ之弓取ナレバ、聊爾に山えアガラせ給ハズシテ、坂本迄押寄て、火之手ガアガラバヨセカケベキトテ、控ヱサせ給ひシ処に、案之ゴトク、帰(返)リ調儀なり。
 然間、越前衆ハ三万余有。殊更に、近江之国ハ、大方越前之領分ナレバ、岐阜え之道モ塞ガレバ、信長、纔一万之内ナレバ、叶ハジトテアツカイヲカケサせ給ひ、「天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふ。
 扨又、引入給ひて、追付て切て上ラせ給ふ処に、又、家康より御家(加)勢ヲ被レ成ケリ。其時ハ、松平勘四郎(信一)殿に、所(諸)家中より人ヲ面々に出合て、付て立給ふ。
 然処に、信長ハ箕作之城ヲ責サせ給ふに、更に落ズ。然ば、「此小城にカゝリて、日ヲ尽クシて詮モ無。是ハ先指置て、都え切て上ラン」トテ、城ヲマキホグシテ、搦手ノ衆引退クヲ、松平勘四郎殿是ヲ見給ひて、大手之方より責入給えバ、即搦手え落行バ、城え乱入。松平勘四郎殿手柄覚、云に不レ及。
 然間、都え入せ給えバ、覧(乱)取に、小(織)田之上野守(信包)殿の者ト、三河之者ガ出合て、古烏帽子ヲ一奪イ合イて、上野守殿の者ヲ三河之者ガシタゝカに打ケレバ、ソレガ喧嘩に成て、美濃・尾張之衆ガ一つに成て、松平勘四郎殿へヨセカクル程に、何れモ三河衆ガ無2是非1トテ、悉町え出て、弓・鉄砲・鑓ヲカマヱて居タル処えヨセカクル程に、引請て打立ケレバ、中々アタリヱ寄付ン事ハ思ひ寄ズシテ、信長え此由申ケレバ、信長聞召、「言語道断、届カザル事ヲ申者共哉。家康より家(加)勢ヲ頼て、其家(加)勢ヲ打害法ヤ有物カ。聊爾ヲシタル奴原在、一々に勢(成)敗せン」ト仰ケレバ、ヨセカクル者共ハ、チリ/\〃に成て見えザリケリ。
 扨又、信長、勘四郎ヲ召て仰ケルハ、「勘四郎、今度箕作にヲイて手柄比類無処に、又此度之喧嘩、扨々比類無。勘四郎ハ、背ハ小ケレ共、肝之大キなる者なり。イヤ/\、勘四郎ハ熨斗付ヲサシテ有間、此度之陣ヲバツゞケラレバキゾヤ」ト仰ケリ。勘四郎タメにハ、面目なり。
 然処に、信長之仰に、「天下之公方モ、朝倉(義景)ハ引請申者モナラザルヲ、某ガ岐阜ヱ喚越申て、二度天下之公方トナシ奉リ申タル。其情ヲモ忘て、アマツサヱ朝倉ト一身(味)シテ、我に敵ヲナシ給ふ事、恩ヲ知リ給ハねバ、腹ヲ切せ申度ハ存ズレ共、公方にて御マせバ、徐置申」トて、都ヲ除給ふ。其時に「比叡山モ、長袖ノ見(身)トシテ、帰(返)リ調儀ヲシテ、我ヲ打ントシケル間、サラバ、山ヲ立間敷」ト仰有て、其よりモ久敷叡山ハクヅレて、久敷タゝザルヲ、又、家康之御取立被レ成て、今は山ガ立。
 扨又、信長記ヲ見ルに、イツハリ多シ。三ケ一は有事なり。三ケ一者、似タル事モ有。三ケ一ハ無2跡形モ1事なり。信長記作タル者、我々がヒイキノ者ヲ、我ガ智恵之有儘に、能作タルト見えタリ。其故ハ、処々にての勝負之事ヲ書付ケルに、先偽ト見えケルハ、其比十、十一、十二三に成、西モ東モ知ラザル者ガ、成人シテハルカ後に元眼(服)シテ男に成て有間、昔物語に聞キシ者ヲ、ソンヂヤウソコにて走(リ)廻リ、比類無高名ナドゝ書て、偽ヲ作タル事モ多シ。長間(篠)ナドノ陣にモ、せザル高名ヲ相打にシタルト云処モ有。武者遣ナドモ、一代遣イタル事モ無人ヲ、武者ヲ遣イタルト書れ有。此外、此場にて之事にモ、偽多シ。度々にヲイテ引ケヲ取、人に後指サゝレタル者ヲ、鬼神之様に書タルモ有。又ハ度々の高名ヲシテ、所(諸)国にて隠レ無覚之者ヲ書カザルモ有。力ノ無者ヲ大力ト書タルガ、皆偽なり。大力ト書タル内に、独力持タル衆ハ、一人モ無。結句、力ハ無シテガイスなる衆多キに、色々か様に書申事ハ、思えバ、我ガ目ヲ被レ懸タル衆之事ヲ、形モ無事ヲモ作タルト見えタリ。然時ンバ、書者に智恵有て、無2智恵1に似。然間、信長記にハ偽多シト沙(汰)シタリ。

(後略)

三河物語 第三下 

『影武者徳川家康』下巻 本文引用部分。
『捨て童子松平忠輝』下巻本文142p(単行本巻3本文129p)引用部分の有る段落。

(前略)
 然る所に、城も成間敷と心得て、あつかいに成けるハ、「此儘居成にゆるし給へ」と申けれバ、相国(家康)之被レ仰様にハ、「其儀ならバ、惣構を崩し給へ。其儀におひてハ、居成に指おかれ給ハん」と御意なれバ、「尤」と御請を申て、無事に成けれバ、遅し早しと乱入て、惣構之塀・矢倉を崩して、一日之内に、日本国之衆が寄合て、一日之内に堀を真平に埋めて、次之日ハ、二之丸へ入て、二之丸之塀・矢倉を崩し、石崖を掘り、底へ崩し入て、真平に埋めさせ給へバ、秀頼も諸牢人も諸共に、「惣構と申つるに、二之丸までか様に被レ成候う儀共ハ、迷惑仕」と申せバ、「もとより惣構と申つる。たゞし、本城をバ破る間敷と申つるニよりて、本城ハ破らず」。其段になれバ、物をも云わせずして埋めさせ給ひて、相国様ハ御先へ京都へ御帰馬被レ成けるに、大将軍様御跡に残せ給ひて、御仕置共被レ成、五三日御跡に御帰京被レ成けり。
 「此故ハ、秀頼重て手を被レ出候う共、御心安」と御意被レ成、御親子共に卯之正月、駿河・関東へ御帰国被レ成ける処に、二月ハ早、秀頼手替り之由告来る。
 然る処に、手出しに、堺之町を焼きて手を出ス。大野主馬(治房)・真田左馬頭(信繁)・明石掃部(全登)其外之者共が申けるハ、「京都を焼払い、大津を焼きて、瀬田の橋を焼落し、其より宇治橋をやき落して、奈良を焼くべし」と申処へ、早、相国様之御馬が京都へ付。押付て早、江戸より夜を日に継いで押詰めさせ給へバ、秀頼之思召事も叶わず。
(後略)

『捨て童子松平忠輝』下巻本文212p(単行本巻3本文194p)引用部分の有る段落。

(前略)
 秀頼の落胤の若君も、十計に成せ給ふを、伝が連れ参らせて、伏見まで落行かせ給ふを生捕まいらせて、獄門にて斬り奉りて、即獄門に懸けさせ給ふ。
 然間、大坂に籠りたる衆ハ、命ながらへたる衆ハ、悉く具足を脱捨て裸にて、女子も逃散る。悉く女子をバ、北国・四国・九国・中国・五畿内・関東・出羽・奥州迄、散々に捕られけり。
(後略)

『捨て童子松平忠輝』下巻本文194p(単行本巻3本文177p)引用部分の有る段落。

(前略)
 某ハ相国様迄、御代御七代召つかわされ申御普代之者なれバ、御旗に疵をバ付申まじき。たとへ逃げ申たる御旗なり共、「逃げ不レ申候」と申上て、其が御咎ならば、頸ハ打れ申共、「御旗之逃げたる」とハ、何として可2申上1哉。各々ハ当座の御意にいり申とて、以来之御主之為をバ不レ申。我等ハ当座に頸ハ打れ申共、以来之御為悪しくハ、何としてかハ可レ申。相国様度々之儀を被レ成申せ共、三方が原にて一度御旗の崩れ申より外、後先御陣にも御旗之崩れ申無レ事。況んや、七十にならせられて、納め之御宝憧(巾偏)の御旗が崩れてハ、何之世に恥をすゝぎ可レ被レ成哉。然時ンバ、我等が命にかへても、「御旗之崩れざる」と申たるが、御普代之者の役なり。又、いかに御取立なり共、当座の御気に背かざるやうにと思ひて、以来之御為に構ハざる事こそ、御普代にあらざる人の役なり。我等御言葉を返し申て、からかひ申たる故に、納め之御宝憧の御旗ハ崩れぬになる。其儀を考へずして、某を上様にからかひ申たる我儘者と申人ハ、とても末世御主の御用にハ立事有間敷。御言葉を返し申右に、世間にてハ、我等に腹を切せ可レ被レ成由を申と承候へバ、「其儀ならバ、我等、唐・高麗へ落行て、右之唐櫃に入たれバとても、逃るゝ事ハ有間敷。其儀ならバ、御前へ只今罷出て腹を切迄」とて、上下も着て出る処へ、小栗又一郎(政信)が来りて、「宿に有か」と云。「何として被レ出けるぞや」。「其儀なり。御前へ出給へ。出はぐれたらば、出る事成がたし。腹を御切らせ有ならバ、切給へ。年寄衆して御意を得被レ申候う事ハ御無用なり。其に付て何かと被レ仰候ハゞ、後六ケ敷可レ有。定業ハ定りたり。悪しき事をして、死したるにハましなり。御主之御為を申て、其が悪しき事に成ならバ、是非もなき事なり。只今可レ被レ出。同道可レ申とて来りたる」と申けれバ、「よくこそ御出有たれ。只今、我一人罷出て、腹を切せ被レ成候ハゞ、介錯にハ何時も御身より外に頼可レ入人なけれバ、幸之所へ被レ出候う者かな。腹を仰被レ付ば、御介錯を頼入事、目出度も御出かな。いざや御共せん」とて、二条之御城へ参りけれバ、「彦左衛門尉が来りたる」と申て、各々興醒顔にて有ける所へ、上様御出被レ成て、御覧ぜられて通らせ給へバ、又一郎も心安久とて、同道して帰りける。然間、「からかい申たるよりも、被レ出間敷所を出たり」と、人々も申なり。
(後略)

 

(岩波書店刊『日本思想大系』26を底本としました。)

 

むさしあぶみ

むさしあぶみ(一部)

浅井了意著

文中の赤字は、『吉原御免状』9p引用部分です。

 明れは十九日江戸中によろこひをなす者。歎きをいたすもの相まじハりていとさうざうしかりけり。焼残りし貴賎その一族どもの類火にあひしを日ごろのよしみ此時なり。いかでか見すつべきとて。焼跡にはせ集りとやかくやと懸まハる。あるいハかゆを煮てもち来り。あるいハ酒肴ををくりつかハしなんどする処に。巳のこくばかりに小石川の伝通院おもて門の下。新鷹匠町。大番衆与力の宿所より焼亡出来れり。此煙のありさまを遠き所よりミるものハ。しバしが間ハ。旋風にまきあぐる。土煙なりといふ者も有。又きのふの焼野のきえ残りたる煙なりと云ものもありて。火事とハしかと見さだめず。しかも北かぜ宵よりも猶はげしくふきしかバ時刻をうつさず吉祥寺の学寮院々坊々もえうつり。車輪ほどなる炎くろけふりの中に飛ちりて。十町二十町が外にもえわたる事。同時に廿余ケ所なり。しバしが内に水戸中納言殿さしもつくりならべ給ひし大きなる御やかたに火かかり。焔と煙とまきたてもえあがり。大堀をへだてゝ本鷹師町の森のした。飯田町。典寿院の御所。左右典厩公の両御殿中の丸様。御殿守二の丸三の丸を初めとして松平加賀守おなしく伊豆守土炊遠江守。水野出羽守。本田内記。酒井津の守。藤堂大学頭。小笠原右近太夫。安藤対馬守。土屋民部少輔。井上河内守。酒井雅楽正。松平和泉守。おなじく五郎。おなじく越前守これらの御やかた金銀珠玉をちりばめて。みかき立たる大廈高楼。むねとの大名十五ケ所。其外両町奉行の御番所。中川半左。伊奈半左衛門。天野五郎太夫。御細工小屋ともに五ケ所。ときハ橋のうち合せて廿ケ所。それよりうちつゞきて鍛冶橋の内むねとの大身には。細川越中守。松平新太郎。おなじくさがみの守御執事酒井讃岐守。山内土佐守。有馬中務。京極丹後守。戸田左門。蜂須賀阿波守。森内記。京極主膳のかみ。小笠原主膳正。吉良わかさのかみ。保科弾正。松平丹波守。溝口出雲守。新庄越前守。松平但馬守。織田いなばのかミ。松平遠江守。同出雲守。小出伊勢守。織田丹後守。杉原帯刀。松平能登守。伊丹蔵人。久世三四郎。酒部三十郎。おなじく長門守。毛利市三郎。水野下総守。山名主殿。米津内蔵介。前田右近。出野甚助。中根吉兵衛。近藤石見守。同縫殿介。日根野織部。神尾宮内。伝奏屋形。医師道三に至る迄大名の屋形廿六ケ所。小名の屋形十七ケ所。伊達遠江守。奥平大膳正。実田河内守大久保加賀守。伊井兵部。松平山城。青山大膳。九鬼大和守。堀美作各々数寄屋橋の内九ケ所。南北都合七十二ケ所。年月日比作り并たる屋形々善尽美尽。みがき立たる大厦高牆の構。数万間。前後十五町一同にもえあがり。黒煙天をこがし。炎ハ雲を焼。棟木瓦のくずれ落る音おびたゞしともいふハかりなし。乾坤これがためにかたふき。山河此故にくつがへすかと。諸人肝をけし魂を失ふ。世界さなから猛火となる。たゝこれ大の三災一時におこりて。国土ことごとく劫火のために焼うするかとおぼえし。
 申の刻より北風西になをりて。いよいよあらし吹きしかハ。これにて焔を吹きりて。紅葉山西の丸ハ堅固に残りけるこそあやうけれ。御馬場の近辺。土手をさかひてやようすかしへとびうつり。北みなミ廿余町一面になり町屋をさして焼出る。これによって中橋京橋の町人ども。きのふの火事のまださめざるにうちそへて。又けふの大火事これハそも何事ぞや。只今世界ハ滅却するぞやといふ程こそ有けれ。大きに周章さハぎて。昨日の焼跡へのかむとて。中橋を北へとこゝろざすものもあり。又風下を心かげ(ママ)。京ばしを南へとはしる人もありて。男女家も町もうへをしたにもてかへし。鍛冶町と長崎町のものども。前後ひとつになりて逃出つゝいやがうへにせきあひたり。
 去年霜月の比より今日にいたる。まて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこおちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急をのがれてうちすてたる車長持ハ。辻小路につミあひひしめく間に。猛火さきさきへもえ渡りしかバ目の前に京橋より中橋にいたるまで。四方の橋一度にどうど焼落る。爰におひて火の中にとりまかれたる諸人。一連にみなミに行北に帰り。ひがしにしをあがきめぐり声をそろへておめきさけぶ。すでにまぢかくせまりてもえきたりけるとき。あまりにたえかねわれ人をたがひに楯になして火をよけんとする中に。まくれかゝる煙にむせびてふしまろぶものども将棊だをしのごとく一同にたをれころぶ其うへゝ焔おちかゝり。煙うずまきおめきさけぶこゑ。これや此ぢごくの罪人どもの。せうねつ大せうねつの焔にこがされ。ごくそつのかしやくをうけ。けうくハん大けうくハんの声をあげてかなしみさけぶらんも。かくやとおぼえてあハれ也。爰にて焼死するものをよそ二万六千余人。南北三町東西二町半にかさなり臥、累々たるしがい更にあき地ハなかりけり。家財雑ぐ太刀かたな。金銀米銭いくらといふかずしらす。辻小路にうちすてふミ付焼うする。あハれといふもおろかなり。
 それよりみなミハ新橋木挽町。東は材木町。水谷町へ焼わたり。二町余りの川むかひ。紀州大納言尾張大納言の両御蔵屋敷より奥平みまさかの守にいたるまで。大名のくらやしき十六ケ所ことことくちりはいとなる。果にハ鉄砲津へ吹つけて其日の酉の刻ばかりに海辺にて焼とまる。浅草川深川よりこれまで惣じて六里あまりの湊々にて舟どもの焼る事いく万ぞうとも数しらず。かくてやうやう焼しづまるかとおもひしに。申の刻ばかりに江城の西。糀町五町目の在家より別に火もえ出て。松平出羽守おなじく越後守。同く但馬守。其外数十ケ所さしも綺麗厳浄なる山王権現勧請の地。天神の社にいたるまで。たちまちに咸陽一朝のけふりとなり。いよいよ西かぜはげしくして。東照権現の御やしろ。紅葉山へ猛火しきりに吹付しかバ。あやうかりける処に。権現おうごの御力をや添られけん。俄に北風となりて吹切ければ。西の丸つゝがなく残りけるこそめでたけれ。それより南のかた大名小路へ焼とをる。伊井掃部頭。上杉弾正少輔。毛利長門守伊達陸奥守。島津薩摩守。黒田右衛門の佐。鍋島しなのゝかみ。南部山城守。真田伊豆守。丹羽左京。相馬大膳。京極刑部少輔。松平伊賀守。同周防守。戸沢右京。水野美作守。水谷伊勢守。金森長門守板倉周防守。土方河内守相良左兵衛。浅野安芸守同内匠。同因幡守。仙石越前守。亀井能登守。伊藤大和守。松平左京太夫。同大和守。柳生主膳正。秋田淡路守。小出大和守。大田原備前守。大関土佐守。鍋島。紀伊守。究竟の屋形。廿六ケ所。小名にハ兼松又四郎。高木肥前を始として。都合廿余ケ所。その外御成橋の御門の中ハ一ケ所も残らず。たちまちに片時の煙となりにけり。又西の丸の下に至りて安部豊後守堀田上野守。水野監物。松平縫殿。同若狭。その外一文字に桜田の町屋に焼うつりて。すぐに愛宕の下大名小路へうちつゞく。まづ大名にハ。有馬蔵人大村丹後守。秋月長門守。稲葉能登守。脇坂淡路守。中川内膳。島津但馬守。一柳監物。木下伊賀守。山崎甲斐守。植村出羽守。桑山修理青木甲斐守。分部左京。北条美濃守。松平隠岐守。大島茂兵衛。小出大隈守。織田源十郎。堀三右衛門。佐久間不干内藤左京。能瀬小十郎。伊達政宗の中屋敷。毛利長門守。の下屋敷。同吉川美濃守の宿所をはじめとして。大名小名の屋かた八十五ケ所。同時に焼くづれたり。さて桜田の火すでに通り町にもえ出て。海辺にて保科肥後守の下屋敷。伊達陸奥守の倉やしき。脇坂淡路守の下やしき。又そのほかに芝の浜手には。松平さがみのかミ。亀井能登守下屋かたにいたるまで。以上都合十八ケ所。増上寺の中にては東照権現の社頭。怠徳院おなじく御台の御廟おなじく本堂経蔵鐘楼五重の塔婆。三門北のうら門などハ。つゝがなく相残れり。されども所化寮百十ケ寺。おもての東門神明の本社神楽堂護摩堂あやしのかずならぬ禿倉にいたるまで。その夜のうしの刻ばかりにみなことことく炎上せり。此時分にハかせおだやかにゆるく吹けれバ。うちけすならバたやすかるべきに。諸人たゞおどろきあハてゝ。方々ににげちりて命を大事とかまへたれば。人さらになし、かぜハふかねども火はこゝろのまゝに焼行ほどに。増上寺よりみなミへ十一町。芝口三町め。海手にいたりて火ハをのずから消にけり。
 本郷よりこれまでその道すでに六十余町。四方十余里まさにひろき野原となりて渺々としてほとりなし。惣じて町中五百余町大名小路五百余町。大ミやうの屋かた五百余宇。小ミやうの宿所六百余ケ所。その外汎々のともがらハあげてかぞふべからず。御城の殿守大手の御矢ぐらをはじめて。外郭浅草の見付神田のますがたにいたるまで。矢ぐらの数三十余ケ。又日本橋をはじめとして。江戸中にありとあらゆる橋々六十ケ所。此うち浅草橋と一石橋一つ。すなハち其橋もと後藤源左衛門といふものゝ家バかり。江戸中の名残に只ひとつ焼残る。土蔵のかす九千余庫その中に焼のこりたるハ十分が一もこれなし。代々の重宝家々の記録も此時にあたって失ぬらん。次に堂社にハ。神田明神。山王権現。天神の社。神明の本宮。誓願寺。知足院。日輪寺。西東両本願寺。本誓寺。典学院。吉祥寺。金剛院。弥勒院。大龍寺。船光寺。薬師寺。珠見寺。願教寺。唯然寺。地蔵院。霊岩寺。報恩寺。朗泉寺。長久寺。信教寺。常連寺。増上寺の所化寮。開善寺。海安寺。常徳寺。善徳寺。圓応院。其ほかの寺院三百五十余宇。みなことことく焼ほろびたり、昨日十八日の昼より焼おこり。十九日のあけぼの。廿日の辰の刻まで。昼夜四日の大火事に。おびたゝしき旋風ふきて。猛火さかりになり。十町廿町をへだてゝ飛こえ飛こえもえあがりもえあがりけるほどに。前後さらにわきまえなく。諸人にけまどひて焔にこがされ煙にむせび。又ハ大名小名の家々に日ごろとしごろひさうして立飼れける馬どもいくらといふかずしらず。家々に火かゝればすべきかたなく綱をきりて追はなし追はなしせられしかバ。此馬ども人と火とにおどろき。逸散にかけ出し。あまたむらがりたる人の中にかけこミ行つまりて。人と馬とおしあひもみあひけれは。これにふミころされうちたをされ。火にやかれ煙にむせび。あそこ爰の堀溝に百人弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしといふ所もなし。火しづまりてのちつぶさにしるし付たれば。をよそ十万二千百余人とぞかきたりける。一るいけんぞくの有ものハ。尋ねもとめて寺にをくりしもあり。大かたハいかなる人いづくのものともたしかならず。かハりはてたるありさまそれとさだかにしる事なし。六十間四方にほりうづミ。あたらしく塚をつき。増上寺より寺をたて。すなハち諸宗山無縁寺廻向院と号し。五七日より前に諸寺の僧衆あつまり。千部の経を読誦して跡をとふらひ。不断念仏の道場となされけるこそ有がたけれ。江戸中の老若男女袖をつらねて参詣し声うちあげてもろともに。念仏申てゑかうするこそたうとけれ。
 あるいハ老たる祖母おうぢハ生残りて。わかくさかんなる孫子をうしなひ。あるいハにようばう只一人残りて子どもや夫にはなれたるもあり。すべて一家のうちにハ五人三人。又ハ十人あまりもむなしくなりて。つれなく只一人二人生残りてなげきかなしむといへども。さすがに身をもすてられねバ。血のなミだをながして泣よりほかのことなし。家々ハのこらず焼て江戸中ひろき野原となりて。とりかこふべき竹のはしら。すがごもだになければ。焼つちのうへにうづくまり。昼ハせめてもの音にもまぎれよかし。夜にいれバ何となくものすさまじく。おもいめくらせバかなしきともつらきともことばにハのべがたし。親にをくれ夫にはなれ。子をうしなひ妻をころしてかなしさのあまりに。五輪卒都婆をかひもとめて。廻向院につかハし無縁塚のうへに立る。ある人一家に十人あまりうしなひて。其ためにそとハを十本もとめけるが。此うちへ今一本を添て給れといふ。売手聞ていふやうハ。五りんそとハなと申ものハ。余慶おほくハせぬ事なり。何のために一本を添よとハの給ふといへバ。此人こたへて申さるゝハ。親類のうちに焼毒をしていたむものあり。もし死たらバ。それにもたてゝとらせんためなりとこたへけり。いにしへ五輪を添よと申せしはなしの有て。世の笑種となれり、時にとつてハかやうのことも有けるものかな。あまたの死にかバねをひとつ穴にうづまれし事なれば。我親類ハそこもとに埋れたりとハ知ねどもせめてかなしさのあまりにハ。おもひおもひに五輪卒都婆を塚のうへに立ならべて。聖霊頓証仏果のためとゑかうして。花をさし水をくみて。跡をとふらひなくなく念仏申すありさま。見きくにつけてあハれなり。
 去年の十一月より当年正月にをよぶまて。日てりして青天さやかに。黄泉も乾きりて。今月の廿日まで雨ハ一滴もふらざりしに。廿一日に。大雪俄にふりつミて。あらしはげしく寒き事いふはかりなし。かゝるほどに江戸中には米と云もの一粒もなく。三日があひだ大飢饉して。其うへ竹木なければ仮屋をもはらず。大かたみな雪霜にひらうてにうたれて。寒さハさむし飢凍て老少男女おほく死けり。一業所感のゐんくハ人ども。死すべきときのさだまりけん。火をのかれては水におぼれ。飢て死に凍て死す。いつれ命ハたすからず。無慙というもおろかなり。しかる処に御城の西の方山の手すぢわつかに残りし大名小名よりして。おもひおもひにあるひは日本橋あるひハ京橋方々におひて仮屋をたて奉行をそへられ粥を煮てうえたるものに施行せらる。又御城中よりハ。内藤帯刀。松浦肥前。岩木伊与これらの人々を御奉行として。御成橋。新橋。日本橋。筋かひばし。増上寺前に仮屋をたて。かゆを煮させて飢人窮民に施行し給ふに。江戸中の老若男女あつまりて給ハる。もとよりうけて喰べきいれものもなければ焼われたる茶碗のかけ。瓦のわれにてうけて食す。それにも及ばすあまりに寒く飢たる悲しさに。直に手にてうくるもあり。諸人の有りさま。あるいハ頭のかみかたかほ半焼てうげたるも有。或ハ小袖の前後すそまでもえたるをもみけしてやうやう肩にかけ手足の焼損じたるも有。妻子孫子に別れてなくなく集る人も有。昔年ハさしも富貴栄花なる人。一跡皆失ひつゝ。手と身とになり命斗をたすかりて。寒さのまゝに恥を忘れたる若き女房なんどもおほく集りて。小鉢の破にかゆをうけて。泪とともにくふもあり。あハれなりけるありさま也。

 

『むさしあぶみ 校注と研究』pdf版を底本としました。

元吉原の記

元吉原の記(一部)

 
元吉原は、元和三年の春より始まりて、明暦三年の春、今の地にうつされにき、はじめの地にありけるは、四十年の程になん、よりて、吉原由緒書とか云ものを按ずるに、慶長七年の頃、相模の小田原浪人、庄司甚右衛門(一本、作2勘右衛門1)といふもの、当時江戸の町々に(麹町八丁目、鎌倉河岸、大橋の内柳町、京橋角町等なり)わかれをれる遊女屋どもを、ひとつ処につどふべき地所を給はらんよしを願ひまうして、ケ条の目安を奉りしかば、元和三年丁巳の春、傾城町を御免ありけり、(此時の町奉行は米津勘兵衛ぬし也、本多佐渡守着座にて、仰わたされしと云)則葺屋町の下のかたにて、二町四方之地所を給はり、やがて、甚右衛門をもて、惣名主になされしと云、
寛永の江戸図、并明暦三年開板の江戸図によりて考るに、元吉原の一廓は、今の曲突河岸のほとりにて、禰宜町(尾張町、この尾張町は間なるをわり町にあらず)京橋と新橋の艮にあり、ここに云禰宜町は、堺町の旧名也、寛文二年、江戸名所記刊行の頃までも、その書(巻四)に禰宜町としるしたるは、これ則、堺町、葺や町のこと也、しかれども、此禰宜町は、今の堺町より北の方に、相距ること凡一町ばかりにして、今の和泉町、高砂町のほとりなるべし、かくて明暦丁酉の大火後に、こゝらわたりの町わりを、すべて改められしかば、今はいづれを何れの町とも、定かに考がたかり、(江戸名所記に、中村、市村の両歌舞妓を、禰宜町と記るせしは、旧名によれる也、寛文中には、既に堺町出来り)
しかるに、当時その処あちこち沼にてありければ、俄に蒹葭を刈払ひて、平坦に築ならせし、この義によりて、里の名を葭原と呼び出せしを、後にめでたき文字にかへて、吉に作るといへり、
かくて、その一廓に、巷路をひらくも、すべて五町、その第一を江戸町一丁目と云ことは、開基の地なる故に、江戸繁昌の御余沢を蒙り奉らん為に、祝してしか/\〃と名づけたり、こゝには、柳町なる遊女やどものうち、つどひて家作りしける、且名主甚右衛門も此処にをりしと云、
吉原大全に、庄司甚右衛門が家名を西田屋と云、これが抱の遊女たそやが事より、たそや行燈をともすといへり、しからば、甚右衛門は名主にて、遊女屋をも兼たる者也、
第二を江戸町弐丁目といふ、こは鎌倉河岸にありし遊女屋等が、皆移従してこゝに住ひき、第三を京町壱丁目と云、こは糀町なる遊女や等が、この処にうつり住ぬ、故郷は京のものどもなれば、云々と名づけしと云、第四を京町弐丁目と云、吉原開基のよしを聞て、こたび京より来つるものさへ、かれこれ多くなりにければ、この処に集めをきつ、この故に町づくりの、一両年おくれしかば、新町ともいふといへり、第五を角町といふ、こは、京橋角町なる遊女やの、いたくおくれてうつり住ぬ、これによりて、此処は寛永三年冬十月十九日に、町づくり成就せしと云、
寛永の江戸図によりて考るに、当時吉原なる五丁町は、江戸町、京町、新町、角町、賢蔵寺町、則是也、このけんざう寺町を改めて、江戸町弐丁目と唱へしは、寛永之末なる歟、正保、慶安の頃にても有べし、
さりし程に、明暦二年丙申の冬十月、吉原の地所御用地になるに及びて、同じ月の九に云々、と仰出され、外にて代地をくださるべし、と仰渡されたりけるに、(このときの町奉行は、石谷将監ぬし、神尾備前守なりといふ)その明年丁酉の春正月十八日、本郷なる本妙寺より失火して、江戸中残りなく焼にければ、更に所替の義を急がせ給ふ程に、山谷、鳥越のほとりなる百姓家を借りて、しばらく渡世したりける、これ吉原仮宅の始也、この後いく程もなく、浅草寺のうしろなる、日本堤のほとりにて、二丁に三町のかえ地をくだされ、(大門口より水道尻まで、京間百三十五間、横幅百八拾間、内の坪二万七百六拾七坪、吉原大全に記せしもかくの如し、旧地よりは五はり増の替地なり)昼夜ともに渡世を致すべき旨を仰わたされ、(是までは昼ばかり也)引料として、御金壱万五千両下され、(但小間一間に、金十五両ヅゝの積也)同年八月上旬に、家作落成してければ、みな新吉原へ移従して、生業をせしといへり、(江戸中なる風炉屋の、髪結女と唱へる隠売女を厳禁にせられしも、このときのこと也、かくてそのものどものうちわびて、みな吉原へうつり住ひし程に、茶や、遊女持ともに、すべて七十余人ましたりと云)
元吉原由緒書の趣を略抄して、愚按を加へたり
元吉原の事を書たるもの、是より外にまさしく拠とすべきはなし、おもふに、当時坊間の絵草紙などもありつらんを、みな明暦の火にうせて、今は一トひらも伝はらぬなるべし、

(中略)

由之軒政房といふものゝ著せし誰が袖の海(全本五巻、是も予が見たりしは欠本也き)は、元禄十七年甲申の春正月の印本也、(この年宝永と改名)明暦三年より既に四十七年後の物なれば、元吉原を距ることいよ/\遠けれ共、猶をかしきもあり、此書(巻二)に吉原詞といふものを載たるを、今略抄すること如レ左、吉原言ばゝ、「呼でこいといふことを、よんできろ、「急げを、はやくうつぱしろ、「いでくるを、いつこよ、「ありくを、あよびゃれ、「こぼすを、ぶつこぼす、「わるいと云ことを、けちなこと、「そうせよを、こうしろ、「あそばるゝを、うなさるゝ、「腹の痛むを、むしがいたい、「しやんなを、よしやれ、(これはよしにしろの略言也)「こそばいを、こそつぱい、「女郎のよこぎるを、てれんつかふと云、(是は唐音也)盆の踊歌をきくに、ことしの盆はぼんとも思はないから、やがやけてもがりがぶつこけて、ぼん帷子を付け着た、ひとゝせ、吉原詞をうたに作りて見しに、
  おさらばへのしけをさゝりこはしやうしたふさかふさはおつかない哉
是は、明暦、寛文の比より、貞享、元禄に至れる吉原詞なるべし、その詞のゐなかびたること、あまりに甚しければ、わるくちにて作り設けたるにやと思へど、さすがに板せしものなれば、なきことを書あらはすべくもあらず、これらを見ても、元吉原に在し程の里詞は、いよいよひなびて、強倒することの多かりけんとおもふ也、又、大全などは、いと後にいで来たるものなれば、疑しきことなきにあらぬを、なか/\に証とはしがたし、叉は、菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原の考にはえうなし、ふるき絵巻の残欠などにも、元吉原の図の伝らざりしは、元和、寛永のころまで、江戸はなほしかるべき浮世画師のなかりし故也、予、一日小梅村なる南無仏庵を訪ひしに、坐辺にふりたる二枚折の屏風ありけり、そのおしたる画を見れば、元吉原の図に似たり、アカラサマにして、こは云々ならずやといふに、あるじの翁驚きて、われ未ださるよしをしらず、その説あらば聞まほし、いかにぞや、と問うるゝに、已ことを得ず答云、今この画中の人物を見るに、遊女と客の風俗と、彼寛文の江戸名所記、及天和中の印本なる吉原の草紙に図したる、妓院の風俗とよく相似て、それより少々ふるく思はるゝ、むかしの遊女は結髪せず、慶長の頃までも髪のうらを少しむすびて、うしろざまにこれをさげたり、寛永、明暦に至りても、只その髪を推丸(正しくは糸扁)ねて、頂におけるのみ、寛文、延宝の頃と云とも、猶今の遊女のごとくに、髪に飾を尽せしものなし、当時は市中に伽羅の油なければなり、吉原大全に、大橋柳町兵庫屋の家風をまなびて、今も兵庫屋風といふ髷をなすといへるは疑ふべし、抑、慶長、元和の頃のあそびどもが、何風といはるべき髷をすべきよしはなし、凡遊女の髪の風は、新町なる山本屋の勝山などよりや始りけん、今も女の髷に勝山といふは是也、(兵庫髷といへるも、これと同時代前後のことなるべし)又当時遊女の衣裳に、搨箔、縫繍をゆるされず、(その事吉原由緒がきに見へたり)多くは無地の絹紬、又は縞類をのみ着たり、昔々物語に、むかしは縞類はやる、遊女のまね也、昔は、常の女縫箔光る小袖を着る故、遊女共は、無地物、縞の類を着たり、常の女と風かはるべき為也、又、広き帯して、これもかはるべき為也といへるは是也、かの物語にむかしといひしは、寛永中のこと也、寛永中は、女の帯の幅、凡一寸五分より二寸までなりし由、春台物語にもいへり、この時も、遊女の帯は、その幅ひろかりしよしなれど、猶三四寸なるべく見ゆ、しかれどもこれらは未だ元吉原の考証とするに足らず、

(中略)

按に、庄司甚右衛門は、初の名を甚内といへり、慶長十一年の頃、横山町に向坂甚内といふ悪党ありて、甚右衛門に出入をしかけ、遂に公裁に及びしとき、相手同名にて紛しく、御裁許面倒のよしに付、甚右衛門と改名せしよし、吉原由緒書に見へたり、庄司甚右衛門が子も、亦甚右衛門と云、二代め甚右衛門が子を甚之丞といふ、三代め甚之丞が子を又左衛門といふ、是より、代々又左衛門と名のりたり、享保十年に、吉原起立の事を書つめて奉りし名主又左衛門は、元祖甚右衛門より六世の孫也、

(中略)

写本洞房語園(享保五年、庄司又左衛門草記)云、甚右衛門出処は、相州小田原のもの、父は、北条家の御内に、僅なる御扶持を蒙り、軽き奉公相勤候よし、父果て後、天正十一年、小田原絡去之節、甚右衛門年十五歳、家来の介抱になり、御当地へ罷越、柳町に所縁ありて、この所に住居しけるが、其正保元年甲申霜月十八日、甚右衛門年六十九歳にて終る、

(後略)

 

(中央公論社刊『新燕石十種』第二巻を底本としました。)

        

守貞謾稿

近世風俗志(守貞謾稿)

喜田川守貞著 

巻之二十二(娼家下)の一部

文中の赤字は、『吉原御免状』208p引用部分とその後につづく説明部分です。

御職

 おしょくと訓ず。吉原町妓院一家ごと遊女の上座なる者を称して御職と云ふ。仲の町呼び出し女郎ある家にては、呼び出し女郎、上座を称すは勿論のことにて、また見世女郎の中にて見世の上座なる者をも、殊に見世のおしょくと称すなり。
 岡場所にては御職をいたかしらと云ふ。板頭なり。
 京坂にては御職・板頭等の呼称これなし。

馴染金 

 なじみきんは多く二、三会目に与ふるなり。初会馴染と云ひて、初会にこれを与ふ客も罕にはあれども、これは客の随意にて、その遊女、客の心に叶ひ長く通ふ心なるものなり。多くは三会目なれども、二会目に与ふもあり。二会目をうらと云ふ故に、二会目にこれを与ふをうらなじみと云うなり。
 床花、二階花、惣花と三等あり。左に記す。
 三会目には是非を云はず、必ず馴染金を出すことなり。馴染を付くると云ふなり。初会にても馴染を付くれば客の名を称すなり。二、三会に至れどもこれを与へざる前は、女郎を始め新造・禿等も客の名を云はず、ただこれを呼ぶに客人客人と云ふなり。また馴染を付くれば、帰路に大門まで送るなり。なじまざれば格子限りなり。
 また呼び出し女郎は、茶屋より沙汰すれば客を迎ひに来るなり。馴染まざる前はこれを迎へざるなり。
 また(脱文)
 また馴染前は房中にも細帯を解くこと、はなはだ稀なり。馴染後は必ず細帯をも解くなり。すなはち寝巻帯を解くなり。
 また馴染を付けたる客には、客の定紋付箸筥等を製し、女郎部屋に蓄ふことなり。
 また京坂は官許の遊女といえども馴染金のことこれなく、初めより名をもよび、また帯をも解くことなり。けだししばしば通ふ客といえども、送迎のこと、またこれなし。
 呼び出しと云ひ、中三と云ひ、上品妓、馴染金おほむね二両二分なり。これをその妓に与ふ。妓よりその客を得意する茶屋に二分、茶屋下男に一分、自家の下男に一分と配分す。これを惣花と云ふ。右のごとく大半これを頒け与へて、妓の全く得る所は半金なり。
 見世女郎、馴染金一両三分ばかり。
 二朱女郎、一両ばかり。配分、前に准ず。
 床花と云ふは馴染の後のことなり。この金数定なし。五、七両あるひは十余両、客の随意なり。

手切れ

 義絶を云ふなり。京坂と同じく金のみを与ふあり。あるいは金を与へず、夜具を製し与ふもあり。夜具は専ら表天鵞絨、裏緋縮緬等の夜着一つ、蒲団三枚なり。また夜具と金を与ふもあり。時と人によるなり。かくのごとく夜具を与ふること、京坂にこれなし。
 また手切れにあらざるにも馴染客よりこれを与ふことあり。多くは臘月にこれあり。大晦日の昼より女郎は見世を張らず。もし新夜具を得たるあれば、見世にこれを飾り、下に小さき下げ札ありて、某さまと女郎の名を誌せり。これを正月敷初するなり。

 

【岩波文庫 黄267-3 近世風俗志(三)】より引用部分の前後を含めて掲載しました。

 

 

 

 

 
 

 

 
 

 



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