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京山高尾考
京山高尾考(きょうざんたかおこう)
京山人百樹著
(全文)
○高尾出生の地
家兄醒斎翁(京伝)享和三年晩夏より筆を起して、近世奇跡考(享和四年改元文化元年十二月上梓、発販)を編める比、遊女高尾が伝も、奇跡の一ツに備へんとて、其事跡を研究せられし比、一老人の話に、名高き万治高尾は、下野国塩原の生れなるよしきゝぬといふしを、真顔翁に語られければ、翁いふやう、塩原は温泉ある所にて、浴室のあるじ湯盛は、我が門人なり、長兄も我が家にて一面識し給へり、書を通じて、高尾が事跡を尋ね玉へ、げに、とて書を寄たる返書に、(文政元二月返書、前文略す)「さて高尾の事御尋被レ下候所、当所にて申伝へ候は、下塩原塩釜村百姓長助が娘なりし由、江戸にて身まかりしのち、故郷へ形見の品々贈り候所、長助代々貧しく、且又三十年此方、高尾の名高く相成、人の求に任せ、追々代なし、今は、源氏、つれ/\〃など、少々づつ称録いたし候一本のみ、長助方にのこり申候、一覧いたし候人の話に、手跡は見事なりと先年承り申候、猶よく/\問合せ、後音に可�申上�候」、かくありし後、再びおとづれなかりしゆゑ、件の文面に依りて、奇跡考にのせ玉へり、是今より(嘉永二已酉春)四十六年前の事なりき、然るに、我高尾の珍説を得たり、去年戊申十月廿二日、かの塩釜村より南へ二里余隔たる大田原の在、金沢村の人印南弁吾(六十歳ばかりの農翁)書通はありしが初て来り、同国那須郡の古跡を、此翁が書綴りたる二巻を出して校合を乞へり、地理に委しき人ゆゑ、かの湯盛が事を語り、高尾が事実を尋ければ、翁いへるは、いかにも高尾は塩釜村に産れ、長助が娘にて、名をみよといへり、五六歳の比、うちつづきて父母にわかれしゆゑ、同村の親類弥七が家に養ひし比、水戸の人とて、温泉に逗留し、みよを見て、弥七より養女に貰ひ、水戸へ連れかへりしのち、さらにおとづれなかりしに、七八年たちてのち、夫婦の順礼、弥七が家に尋ね来りてとゞけたるおみよが文にて、江戸吉原三浦屋にある事は文面にてしりしかど、みよとのみしるしたるゆゑ、遊女になりし名はしらざりしに、おみよ身まかりしとて、三浦屋より形見の物来りし時、高尾といふ名ががじめてしりけるよし、かの弥七が家にいひ伝へたる所なり、高尾が形見は、硯箱、櫛笥、鏡台、鏡、いづれも蒔絵の物、小袖一かさね、高尾が写したる草子類などありしかど、年ふるまゝに散失して、残りしは源氏の文を抄録したる一冊ありしを、一覧したる事ありしが、手跡は見事なり、今の代の弥七、故ありて所を去りしゆゑ、高尾が筆の一冊もいかゞなりしや、弥七が本家は、弥七が隣家次郎左衛門とて、頗る富農なり、今猶栄えたり、是は高尾が大本家ともいふべし、と印南弁吾翁語りぬ、湯盛が返書にくらぶれば、甚詳なり、○百樹按に、水戸の人とは、住所をも偽りたる屯(正しくは国がまえ)戸(ヒトカヒ)にて、おみよが高尾になりしほどの玉種なれば、卞石なるをしり、買ひ得て江戸へつれ来り、三浦屋へ売りたるならん、此高尾、万治二年已亥十二月五日、十九歳にて病死の事は慥なれば、(確証下にいふべし)寛永十八年辛巳の生れなり、売られし時を八九歳とすれば、慶安、承応の間にて、大門通りにありし、元よし原の時なるべし、故郷へ文通したるは、十五六の比とぞおもはるゝ、そも/\此おみよ、水戸の人に逢ずんば、昏庸頑夫の妻となり、巧妻拙夫に伴ひて眠り、終には草芥とともに朽はて、卞石を空しく塩釜村に埋むべきに、大都の花街に入しゆゑ、五車を照すの光をなし、遺墨、遺器をも愛せらるゝは、渠が幸といふべし、小町は出羽の生れ、郡司良美の娘、楊貴妃は蜀州の産、司戸元玉が子なり、今も深山の谷川に、時を得ざる夜光の玉あらんもしるべからず、
○高尾生ひ立
高尾うせし万治二年已亥より五十四年の後、正徳三年癸巳五月板とある吉原細見亦逢染(横本二冊)に、紋を一葉の紅葉とし、太夫高尾、禿かすみ、いおりとしるして、(百樹按、是、万治高尾より八代目の高尾なる考証あり)評したる文の末に、「三浦屋の元祖、御当地に遊女町を願ひ、取立る折から、(百樹按に、遊女町を取立るといふは、庄司甚左衛門(ママ)が事を云しならんが、不文なればさはきこへがたし)名高き遊君をも出し、家をも栄んとおもひ、価ひをいとはずもとめ、遊女を勤るわざを指南し、若年なれば、一しほいたはりぬ、ある時、三浦が女房神まふでしけるに、此娘をつれて行けるが、時しも秋の末にて、一村雨のしきりに降りて、雨やどりすねき所もみえず、いかゞせんとさまやう所に、老僧一人来りて、此傘の内へ入らせ玉へ、といふ、嬉しくおもひ、三人傘さしてゆきけるに、大きなる松の枝葉しげりたるあり、此木のもとに立より、雨やどりするに、かの僧つく/\〃と見て、此娘の容相常の女にあらず、ほまれありて世の人にしられん事、相にみゆる、といひけるが、傘にさしたる紅葉をとりて、娘にぞやりける、中略、宿に帰り、右のあらましを三浦に語りければ、それは常の僧にあるべからず、ひとへに神の御つげならん、紅葉は高尾山をさしていふなれば、此娘の名を高尾とつけさせよ、といひて、二代目の高尾より今に至るまで、一ツ葉の紅葉を付来りぬ、二代の高尾、替らぬいろの御全盛なりしが、ふりよに病の床にふして、世を早ふ過し、則印に紅葉の若木を植置けるが、大木となり、枝葉茂り、秋はもみぢす、高尾の紅葉とて、橋場正光寺に有り、と名木寄にもみえたり」とあり、○百樹按に、右の文、高尾病死の一証なり、又、高尾刃にかゝりしとうふ妄説も、正徳以後に起りたる証拠とすべし、本文に、高尾の紅葉橋場正光寺にありといふ説は、おそらくは江戸惣鹿子(貞享四年板)に依りたるならん、猶、高尾が紅葉といふ条にいふべし、さて又、右の本文に、幼年の娘、老僧に紅葉をもらひ、高尾と名付、紅葉を紋としたるを、二代目高尾とするに依れば、件の話は、万治高尾が生ひ立ちの一班ともいふべし、高尾没したる万治二年より五十六年たちたる正徳三年の板なれば、作者、万治高尾が幼年の一奇事を伝へきゝて、記したる物とせんも強弁にはあらじ、○寛永廿年板の元よし原細見記吾妻物語に、たかをといふ遊女四軒にありて、いづれもはし女郎の部に出して、太夫にあらず、此のち、明暦元年まで(万治高尾十五歳)十一年の間に、高尾といふ太夫三浦屋にありしにや、古き細見に、いづれも万治高尾を二代とす、
○元葭原類焼の珍説
明暦三年丁酉の春の大火の事を、委しく記したる板本、むさし鐙といふ物(大本ニ巻、さしゑあり)にも、元よし原も焼し、とのみにて、そのさまはしるさず、然るに、見るが如くしるしたるはいとめづらしければ、高尾に用なけれど、こゝに摘録す、○此大火より二年たちて、万治三年の春より筆を起して記したる、高屏風くだ物語といふ板本に(此書の事委しく下にいふべし)下の巻(四張の表)に、元よし原焼たるあくる日、客なじみの遊女の立のきたる所へ尋ねし文、「火のなんにあふて、ちり/\〃に花のあととへども、しか/\〃ならで、やう/\そこ/\のさる寺に御ざる、などきゝつけ、尋ねあふて、夢かうつゝかと計りに、しばし涙にくれぬ、(遊女のことは)してのふ、其折ふしは、いづちにやらん、火のあがりぬる、とさたしあへれど、風はげしく、うたてや、など耳のよそ([傍注]ドコニカ火事ガアル)なりしが、いつしか火もはや近づきぬ、出させ玉へ、といはれて、すこしこはく、きもけしぬるに、まのあたり、はや屋のむねこげもえくるにぞ、とりあへず、此まゝにて、たれ/\手に手をそへてのがれゆく、物うき事はからせ給へ、それさへあるに、どうぼう町となんいひけるあたりの川中に、夜をあかしつるありさま、是はいかなる事にやと、かなしさいはんかたなし、やう/\しのゝめになりて、西東の色目みゆるまゝに、かたにすがりて此寺に来りぬ、おの/\さまはなにとかなされしや、なげきの中のよろこびにこそ、とのたまふ、きくさへかなしく、みる目もうたてくおぼゆれ、ものゝふの身とて、折から物さはがしきまゝに、ぜひなく、さらば、とて帰るより、やがて、あらましの調度、おび、小袖、かゆなどとりとゝのへてやりぬ」(下略)右の文段にて、今より(嘉永二酉)百九十三年前の元よし原の焼亡、遊女らがのがれ出しさま、客の尋ねゆきたるやうす、みるが如くなるはいとめづらし、右の文に、遊女が立のきたる寺へ尋ねしは、此高屏風くだ物語を書たる作者なり、其証拠、件のつゞきの文にみゆ、
○新吉原開基の実景
新よし原になりし事は、諸書に書残しぬれど、移りはじめのさまを記したるは、珍らしければしるす、同書くだ物語下の巻(六張ウラ)「明暦三年の大なる火のなんに、一時の煙りと成りしより、其としの秋の頃、町を此所にうつされしにこそ、新よし原となんいひける、その頃は草ばうばうとして、虫の声寂々たり、田の面の雁のみ陣をつらね、刈り残したる稲葉の風ならで、音づるゝもなく、こはくすごき所なれば、いかで住はつべくもあらねど、露のうき身のおき所なきまゝに、まづたれかれとやしきをとり、むかしの如く五町にわかち、あげや町をあらためこしらへて、六町に定め、大門口一ツまふけり、是もとの例ながら、女はゐんにして北をつかさどるわけなり、おのがじゝ垣ゆひまはし、しをりなどして、その年はやう/\くれぬ、(百樹按、是大火ありし明暦三年の事也)あくる春より、雪の下草もえ出る色なん見ゆ、万治あらたまる(春の末改元)比にも、いまだ人の住居とも見えず、垣をまばらに、壁しどろに、床高びくにして、軒のつまあはず、見るさへあはれしごくなれば、花のやうなる女郎しゆの心の内、おもひやられていとしきに、やまねば恋の道、ゆきゝの袖のはんじやうをまし、又のとし([傍注]万治二年)の正月がい([傍注]買)に、『花やかなむかしに万治二年哉』とは、此所の一人よし野とかやの言の葉なり、(百樹按、此よし野を、山本芳順が家とする説あれど、ひがごと也、京町一丁目高島清左衛門かかへなり、万治二年身うけ、歳廿一二なりし事、考証あり)此所をむかしより千足といひて、(本字は千束なれど、此頃千足ともかきしにや)名のみなりしかど、たし([傍注]足)て千の人足ゆきゝするにぞ、おもひあたれる、かうべをめぐらしてあたりを見れば、東にすみだ川やう/\としてあさ草に流れ、橋場の煙りせん/\として風になびき、北にあさぢが原の行末遠く、千寿となんいひけるでんゑきにつゞけり、西にくわんおんのだうそびへ、うしろに三十三間堂(此事のみえしはいとめづらし)たちて、前には日本堤とて帯の如し、道をあらそふかいてしゆ、蟻の如くなり、内には女郎の数五百有余にして、太夫、かうし、はしなど、三品にわかち、夜昼となくぜんせいしあへり」下略○百樹按に、明暦の春大火ありて、秋新地を賜り、普請中山谷のほとりに仮宅、夜みせをも官許ありし事、諸書に散見すれども、件の書にかりたくの事をいはざるはいぶかし、但し、かりたくは随意にて、大娼家などは、新地にかりたくして客をむかへしにや、大火にて、材木にもとぼしかるべく、二年にして、やゝ軒をならべしなるべし、
○高尾が美容
同書くだ物語上の巻(十五張)元よし原の時、遊女ども道中するを、客が見物する所の文に、「さては、もみぢの紋をめしたるが高尾さまにや、と問へば、中々の事よ、あれ御らんぜよ、あのやうな生れ付もある事にや、ま事に天のなせるれいしつ([傍注]麗質)にこそ、すらりしやんとしたるなりふりのしほらしさ、みめくつきと玉のやうなる、なさけの程ひとしほにて、心いきよの常ならず、人のとりさた、所のちさう、此君にますはなし、(此末に)「みうらやの高尾さまとて、恋の玉子びじんさうのみうゑにこそと、よのもてなしもかくれなし」(按に、高尾十六の明暦二年比か)
○高尾刃死の妄説
風聞雉子声といふ書に、(写本、随筆物なり、抄録に年号を落しけるが、延享の頃の物と覚ゆ)彦根の藩士石井吉兵衛と云し人、高尾に深く契りけるに、高尾、貴客に贖れて、出廓の期に臨み、吉兵衛と同穴の約に背くを以て、自害したるゆゑ、吉兵衛遁世す、是を深草の元政といふよし、書のせつれど、是、元政の伝を知らざる人、高尾が事に附会したる無稽の妄説なり、石井吉兵衛入道元政は、元和九年癸亥の歳、彦根に生れ、寛永十九年壬子の年、廿歳にて出家せらる、高尾は、万治二年已亥十二月五日、十九歳にて病死したれば、寛永十八年辛巳の生れにて、元政出家の歳は高尾三歳なり、又、近世隠秘禄といふ書に、(写本)高尾、島田重三郎といふ侍に二世を誓ひしゆゑ、錦閏に眠るをよろこばず、自害せし、と記しぬ、此外、諸書に散見する所、寵幸を嫌ひて、自ら刃に伏たるよしにいへり、最甚しきは、船の事をかきつらねて一枚摺とし、街をうりあるきし物なりとて、紙をも古くこしらへたる一枚摺の物を、蜀山翁の会日に、ある人持来り、珍奇として誇りし事ありき、さて又、しやかにおもはるゝは、天明年中、みちのくの医師某のむすめ真葛女の随筆(写本)奥州話に、高尾を贖ひ玉ひしに、国主を嫌ひし故、船中にて害せられし、といふは、跡方もなきそらごとにて、深閨に寵せられ、老て侍女の長となり、国主逝去の後、陸奥国に下り、養子をなして一家を起し、享保元年丙申十一月廿五日、身まかりぬ、享年七十七、仙台荒町法竜山仏眼寺に葬る、と記せり、(本文を摘要す)今より廿年前、ある人、此墓の図を写し、戒名、年月を記したるを、余に贈られし事ありき、右の説は伝聞の誤りなり、下に出す高尾終焉の実証といふ条を見てしるべし、窃に謂く、万治の頃は、高尾といふ名いまだ世に高からざりしゆゑ、侍女の内に高尾といふ名の房老ありしも、しるべからず、それを遊女と、のちにおもひ誤りしにや、○事跡合考(三の巻)に、御茶の水掘割の事をいふ所に曰、「延宝の頃、江戸川は小石川御門外東方にて、小石川に流れ入たり、今の水戸橋より東は、がけ上りの陸地なり、(中略)世上の取沙汰には、吉原の遊女云々、太夫と称する高雄といふをおもひ入れて、契らんとせしに、其心にかつてしたがはざりしを怒りて、其遊女が惣身の量目程銀を出して、求め出し、十日に十の指を切たるなど噂ありしが、兎角よろしからざりしにや」(下略)とあり、さて、此事跡合考といふ書は、(写本、全四巻の物、蜀山翁の蔵本をみる)柏崎永以入道源具元といふ官士、落穂集を追補せられたる筆記なり、此人は宝永六年の時廿三歳なりし事、同書の宝永六年の事を云所にみえたり、然ば此人貞享四年の生れなり、高尾が病死したる万治二年を去る事、三十四年なり、さて、右の筆記は、此人六十余の、寛延、宝暦の初頃、筆を採りたる物なれば、高尾が指を十日に十本切しなどいひし浮説をも、記したる事とぞおもはるゝ、すべて、此書は、此事は誰に聞たるを記す、とありて、諸説灼然たれども、高尾が指の説は、「其比世上の取沙汰」とのみあるをや、とにかく、此高尾はかの貴顕の為にあしき死をなしたるといふ妄説の事のみ、諸書に残り、病死の事はさらなり、なきがらをかくしたるま事の墓をさへ、世の人のしらざるは、いかなる不幸ぞや、
○高尾丸といふ船
延宝、天和の頃を盛りに、納涼を名として、浅草川に船遊びする事はやり、屋形船あまたありし中に、熊一丸(船中に九間あり)山一丸(八間あり)などいふ大船ありて、貴人もひそかに遊楽ありしに、小山田弥一郎といふ賊長の事より、屋形船、町駕籠国禁ありけるに、その後、屋形船は茶船、戸なし駕籠は官許ありしよし、事跡合考(延享三年写本)その外にも見えたり、右納涼船の遊び、正徳の比までも盛りなりしとみえて、正徳三年癸巳三月、白石先生の筆記に、「船遊びの事、署月より八月比までも、興ある事とし、古来より、然るべき人々も其遊び催され候、近来、歴々の衆中、傾城町へ誘行も、此船遊びより事始るのよし、風聞に候」とあり、是らの事を伝へきゝて、何者か虚に吼しを、万犬実を伝へて、今日にいたれり、婦女子は論なれど、具眼の人も妄説に惑はさるゝにいたるは、此高尾の事跡を、研究、訂正したる書なきゆゑなり、我れ是に慷概して、此書を企てり、○ある船宿に高尾丸といふ額を所蔵す、かの御筆なりとて、趙壁の如くす、さて天明の比、中洲とて、暑月は殊に賑ひしは、今七十余の人は見もしつらん、此頃、屋形船に川一丸といふ大船などありしに、川一にまさる高尾丸といふ屋形船、三又へのり出したるを見て、是は、と人々目をおどろかしぬ、額の書は見馴ぬ筆なりし、と蜀山先生いはれき、此中洲、寛政にいたりては、もとの川づらとなり、高尾丸など影も見えずなりぬ、其額はいかゞなりにけん、此額は、今神田川辺の某といふ船宿にあり、とある人いへり、
○高尾の碑
ある鴻儒先生、寛政十一年已未の秋、高尾が出生の地、下野国塩原の温泉に浴し、和泉屋太兵衛といふ浴室に逗留ありしに、亭主頗る風雅あるものにて、こゝは高尾が出世の地なれば、一碑を残さんとて、鴻儒に文を乞ひて、享和二年壬辰の秋建たる碑あり、ときゝ、此碑文には、必高尾が実伝あらんと渇望し、百計して、やう/\里人に写しもらひて読しに、おもひの外、俗説に従ひて書れしをおもへば、高尾が生れし地にても、実伝を尋討せし人なかりしとみえたり、碑を建て、なか/\に誤りを千古に伝ふ、その文を摘要して和解す、(上略)「富貴の人に贖れたれども、高尾視ること草芥の如く、節を情人に守りて汚されず、遂に三又の水に害せらるに遇ふ、其操絶、其色神を高として、これを三又の水畔に祀る、今現に高尾の祠有、是也、或謂、害に遇ふの事は、必実ならず、(中略)高尾性閑雅、窈窕、既妓籍を脱し、尼となりて仏に帰依し、小庵を結びて独居し、臨終の日、紫雲室に入り、仏来迎す、日本堤下道哲庵内、今高尾の墓あり」(下略)おもふに、三又の害を実ならずとすれば、高尾の祠も空事とするは、よくいはれたれど、高尾、年季あけて尼となりて、其墓道哲の庵内にありとは、俗書の勦([左注]ヌスミ)説なり、鴻儒先生千古に遺す碑文さへ斯の如くなるは、高尾が実伝の書なきゆゑなり、されば、いひたきまゝのそらごとを書ちらしたる俗書、多きぞかし、
○高尾の紅葉
享保四年(高尾が死より廿七年のち)増補江戸鹿子大全(江戸板)巻の二に、「高尾の紅葉、葉柴村正光院といふ浄土寺にあり、そのかみ、吉原三浦屋四郎左衛門が所の二代目高尾、その身太夫の位そなはり、かたちのうるはしき事はいふもさらなり、(中略)よろづにいみじき遊女なりしに、おもはずおもき病におかされ、去る万治の初つかた身まかりぬ、そのからを今の正光院の客殿の左りの方に埋て、伝誉妙心と戒名して、なきあとのしるしとて、紅葉を一もと植置ぬ、初はほふ計りの細木なりしに、いつとなく古木となり、枝葉おひしげり、今は牛をかくすべきほどの大木となりぬ、秋の頃は、余木にかはりて、色もことさらになつかしとて、好士のものもて興ずるなり」とあり、是は、万治高尾身まかりしより、僅に廿八年の後の書なれば、高尾が病死の一証とすべし、さていぶかしきは、江戸砂子の橋場の所に、正光院といふ寺なし、今戸の部に、常照山心光院といふは見えたり、正光、心光、字のあやまりともいふべけれど、心光院に高尾が墓なし、おそらくは、鹿子の作者、春慶院を耳にあやまりにや、
○春慶院につたふ高尾の話
蜀山翁、嘗て高尾八代の事をあら/\と記されし物あり、亡兄、これに因、高尾代々を、古き吉原細見に検して、奇跡考に記されたれども、万治高尾が伝、簡にして尽されざりしは、書肆出板をいそぎしゆゑ也、(文化元年晩春稿成り、同年十二月新刻、発販)さてその後、高尾が墓ある山谷月光山春慶院の檀家なる旧林斎は、(浅草田町のぬいはくや、かたばみや久兵衛、画をよくし、おもむきありし男)亡兄の友なりしゆゑ、亡兄此人を伴ひ、予も従ひて春慶院にいたり、高尾が古墳へ一花を備へ、住職に対面し、三浦屋の寺は榧寺なるに、高尾が墓のこゝに在る来由を尋られけるに、住職いふやう、むかし此寺に常念仏ありし比、高尾、病気保養の為、此近所にありし三浦が別荘にて病を養しに、此寺の常念仏の鉦の音、高尾が枕にひゞくをききて、同じく念仏しけるに、今はにのぞみたる時、わらはがなきがらは、常念仏の寺へかくし玉はれ、と遺言にまかせ、こゝに葬りし、と寺にいひつたふる所なり、高尾がのこしたる物とて、寺に品々ありしが、数代を歴てとしふるまゝに、いつしか散失して、今は一品も残りあらず、先年我が代に、墓場の地形をなほす時、高尾が墓も取のけたるに、石棺なるにて、葬りも厚かりしならん、と語りしを、予醒翁の(亡兄京伝)かたはらにありてきゝしは、四十年前のむかしなりき、今猶耳に残れり、
○高尾終焉の実証
高尾、三又の水に血しほの紅を流しゝといふ妄説は、千万人の口碑につたへ、病にうせたりとて、朝霧のはかなきをいたみしは、僅に二書のみなり、(貞享四年の惣鹿の子、正徳三年の細見えにし塗、前に引く)それさへしる人稀なり、此ゆゑに後の人種々の虚妄をつたふ、然れども、虚を虚と究むべき確証の古書なきゆゑ、識者も虚実の両端に迷ひて、巷説猶やまずして、今日にいたれり、然るに、高尾が身まかりしさま、見るが如くにしるしたる板本の珍書を得たり、そのよしは、弘化三年丙午の仲秋、隅田川の秋草盛りなりときゝて、独り杖をひき、鞠塢が花園に逍遥し、橋場へわたり、ひるげとゝのへ、ふと思ひ立て、久しく見ざりし、かの春慶院の高尾が古墳へいたりて念仏し、観世音にまうで、帰路御蔵前を通りければ、地席に古籍をならべたる中に、高屏風くだ物語といふ古本あり、めづらしき署名なれば、とりあげてひらきみれば、さし絵は菱川師宣が筆と見え、遊女のさまは天和前後の物と見えければ、すぐさま価をとらせて持帰り、其夜、燈下にひらきみれば、開巻第一のかきはじめに、「書初や硯の海のもしほ草、筆にまかせて、万治三年の春の初のあしたから、そろ/\とのべ出し」とあるにて、此書の時代明白なり、いまだきかざる説、いまだ見ざる図、奇々妙々いふべからず、亡兄此書を見玉はゞと、おもはず書上に一滴をぬらし、一部よみをはりし時、緑山の鐘八ツをきゝぬ、そも/\此書は、(中本、全部上下二巻、さしゑ七丁ヅ、惣紙五十二丁、序文なし、作者の名なし、但し落丁にあらず、うろこがたや板とありて、年月なし、一部すべてよし原の事のみにて、此書の作者、万治元年より前後一両年、よし原に遊し事をしるしたる物なり)北廓に係る群書中第一の珍書にて、高尾が病になやみて身まかりしさま、見るが如し、おのれ高尾が病死の確証を得て、貴顕不良の虚名、高尾刃死の妄説、久しく世に染みたるを洗ひ清めんと、多年おもひし一念、高尾が泉下に通じけるか、其古墳に一花を手向し帰るさに、是珍書を得たるは、奇遇といふべし、さて、高尾が身まかりしさま、左の如し、○高屏風くだ物語下の巻(十四丁の表より)「きのふのふちもけふは瀬となるあすか川のならひなれば、さすがにお名も高尾のもみぢ、くちはてぬとて、秋の鹿がなげくなん、(百樹按に、秋の鹿とは、作者此書の筆をとる時、かりにまうけたる名なるべし、秋の鹿は高尾がなじみなる事、中巻にみゆ)色こそかはれ、おなじうき身にこそとおもひやられて、かれがまふずるさんや([傍注]山谷)の高徳寺(考あり、下に記)といふじやうど寺にゆきてみれば、香をたき花をたて、どきやうしてとぶらひをなすなん、いとあはれにて、われも一しゆのことばをつくりて、かの仏前へ備へ、かうでんをなしける、そのことばに、△あさぢが原の露きゆる時なく、はしばの煙り立さらでのみすみはつるならひならば、いかで、物のあはれもなからん、(長文中略)霜葉は二月の花よりもくれなゐなり、といへる花にます名の高尾さま、となんいひて、月見、花見の題にもせられ、今やうの小歌にもきこえば、むさし野にはびこり、都路にもかくれのふて、かたゐなかのそこ/\までもさたして、なさけもふかきながれの道をたてたまへば、しる人なんかなたこなたにして、たれとなきうきねの手枕、つきぬわかれをかなしみ、まゝならぬ世に心をくだくならひにや、ことしの秋の末つかたより、もみぢの色も霜にいためるけしきの、れいならずして、ぶら/\とせしまに、いやまさりがほなれば、薬の事もてあつかへども、いさゝかしるしとてもあらず、日にましよはりもてゆく程に、ついに、しはすのはじめの五日、御歳十九とかやにしてなくなり給ふ、から([傍注]死骸)をばにしきの袋に入れて、あさぢが原のそこそこにおさめ、今あらためて、万治二年極月十一日、花遊敬白」とあり、按に、高尾十二月五日にうせたれば、こゝに十一日とあるは、初七日なり、件の文章は、十二月五日に高尾がうせたるあくるとしの、春より筆をとりたるくだ物語の作者の文章なり、しかも板本の物なれば、高尾病死の事明白也、さて又、本文に、「ことしの秋の末つかたより」とあれば、九月の末よりなやみつきて、およそ七十日あまりわずらひて、十二月五日に身まかりしゆゑ、三浦が別荘にて保養もしつらん、されば、前にしるしたる春慶院にある高尾が古墳にも、十二月五日とあるにて、右に引たるくだ物語の、実跡なるをしるべし、さて又、本文に、高尾がなきがらを山谷の高徳寺に葬りしよしにしるしたるに、春慶院に墓あるをいぶかるべけれど、高徳寺は春慶院の隣りにて、今現に、竹垣一重へだてたる同じ浄土宗なり、竊におもへらく、万治の頃は、高徳寺の塔中常念仏堂春慶院なりしにや、あるひは又、本文に、「さんやの高徳寺にゆきてみれば、香をたき云々」と記したるは、文の章にて、自らはゆかず、高尾を葬りしは高徳寺の隣りの寺なり、と人づてにきゝたるを、高徳寺とあやまりしるしたるにや、高徳寺はおのれが親族の菩提所なれば、他日たづぬべし、
○高尾真跡の墓
くだ物語下巻(廿二丁)「いざさせ玉へとて、又むかふのもみぢの茶屋がもとへよりて、茶などたべながらとかく語るに、あるじのかゝがいひけるは、とのさまがたの御見物とても、此春は(按に、万治三年)何の見所も御ざなし、皆さまも御存か、此所のそうだ、高尾さまは、こぞの冬とししなされ、よし野さま、常盤さまの出させ(身うけされしをいふ)玉ひてより、所もいかふさびぬ、此茶屋なども、もみぢさまの御世の時は、所せきまでお茶衆のござりて、にぎはひしに、ことしの春は、万事むかしに替り、きのどくとおもふにも、いとゞ高尾さまの事わすれず、なつかしやとて、袖をしぼりつゝ、あゝむかしも今もめづらしき御女郎、のちのちとてもござるまい、御太夫にこそ此道を御立、御心づくしのほど、いくらか御いとをしきに、あらきこえぬ御ちゐんしゆのしかたや、さてもきたないひきやうな事や、さすがにきこえしふかまたちの、れき/\でありながら、とくにもうけ玉はん(うけトハ身うけ也)事じやと、それさへあるに、御わづらひ([傍注]高尾ガ事)の内とても、ひきとりて御やうぜうとてもあらず、御きしよくよふなられたらば、うけ玉ひなん、あしさうならば、いやじや、とひよりを見られし事、たのもしげなき事ならずや、ことさら花わちがへのもん所までおくられしは、久しきちゐんしゆなり、又、のべさはの何とやらんいふ人も、世の常ならず、又、けんびしの紋をつけ、むろ町あたりの人、もとはよし野さまちゐんしゆなりしが、少し手のあしき事ありて、こぞのいつやらんより、高尾さまにあはれしが、此人はとかく高尾さまをうけねば、どぶでも口のきかれぬ事じやに、さりとては、所のさたもこしきをたゝいたやうにいひこなし、見かぎりはてしなり、此人々の心いれとて、高尾さまの御とぶらひなどとりおこなひ、僧をくやうし、はかを立などしあへれど、かたはらいたい事かな、しゝてののち、身のたからは車につむとも、なにかせん、とかたりけり」○百樹按に、高尾が笑を買ふ客はいづれも素封([左注]カネモチ)なるべし、それが力を戮て建たる墓なるは、本文にて明白なり、しかのみならず、今現存する春慶院の高尾が墓に、為�転誉妙身�施、とあるに符合す、素封らがうちよりて建たる墓なればこそ、はかなき妓女が石塔とは見えざる大石にて造り、石棺なりしといひし春慶院の説も、氷解せられぬ、○高尾が墓左の如し、
百樹按に、高尾が墓土手の道哲に有り、と江戸鹿子、江戸砂子にも記し、又、吉原を開基したる庄司甚左衛門(ママ)が子孫庄司道恕斎が著しゝ洞房語園(全三冊、吉原にかゝる詩歌、連俳、文章、あるひは奇談を集し物、元文三年の板本なり)上の巻に、「墓間観�楓樹�といふ東里が七絶の詩に、道恕斎が註して云、右ハ、道哲寺中ニ遊女高尾ガ塚有リ、東里一絶ヲ賦スル、是也」(片かなまじり)とあり、つら/\おもふに、道恕斎が元文に(今より百十余年前)かくいへるをもて、道哲にある高尾が墓も、高尾がうせたる万治二年を去る事遠からざる古墳とみえたり、憑臆にいはゞ、右に図したる墓に、万治三年庚子十二月廿五日とあるは、高尾が一周の忌日なり、高尾が為に、西方寺に(俗にいふ道哲が寺)建る時、一周忌の年月になし、五日を廿五とあやまりしにや、猶確証を俟つ、さて又、かの道恕斎は、洞房語園といふ書をも残す程の文人のみならず、吉原にありながら、程近き山谷にある高尾が真趾の墓をばしらず、道哲寺中に高尾が塚あり、と記し、其外の物にも、道哲にありといへるをおもへば、高尾がなきがらをかくしたる墓は、久しく荊叢に埋れてしる人なく、一花一香の手向をもうけざる事の、かれが不幸を憐むべし、高尾うせしより、今年まで(嘉永二已酉)百九十一年也、高尾の名は吉原の花なり、心ある人北廓にあらば、同志を集め、高尾が古墳の青苔を払ひ、二百年忌を年越し、追善をなさば、かれはてたる草葉のかげにて、高尾いかばかりか喜びなん、其善行は仏もよそには見玉はじ、果福は作善の人にむくゆべし、又おもへらく、世に永く名をつたふ人は、かならず霊あるものなるよしは、仏経にも見えたれば、遊女ら高尾が墓に立願せば、豈感応なからんや、とおのれはおもふなり、因に云、土手の道哲は、新吉原にならざる以前より、西方寺(聖天町の方より日本堤へ上り口の左りにある寺、世俗土手の道哲といふ)のかたはらに庵をむすび、常念仏したる道心坊なり、吉原がよひの道なれば、おのづから名高く、かれが在世には、小歌にもうたひし程なり、是につれて、此寺にある高尾が墓のみ世にきこえしゆゑ、むかしの人々物にかきのこしたるならん、依て、春慶院のは、いよ/\世にうもれて、知る人稀なり、
○妄説を砕く金椎([傍注]カナヅチ)
高尾刃にかゝりし妄説は、前に引なる確証にて灼然たれども、猶然らずとして虚に吼る剛犬あらば、其頭を撃んとて、千斤の金椎を借りてこゝに挙る、或家の記録に、「万治元年九月三日御家督、同二年二月五日母公逝去、同年五月七日発駕、十四日入国」とあり、高尾が病死は御在国なり、世の人、妄説の迷ひを払ひ、酒悪の酔を醒すべし、
因に云、或人のうつしもたる高尾が文とて、「夕しは浪のうへの御帰らせ、いよ/\御やかたの御首尾つゝがなくおはしまし候や、御げんのまゝ、わすれねばこそおもひ出さず候、かしく 君は今こまがたあたりほととぎす 御やかたの君へ 高尾」、是を万治高尾かの御もとへのふみとするはいかにぞや、御やかたの首尾とは、平人のうへをこそいふべけれ、おもふに、遊女のふかみなれば、平人をも御やかたといひしなるべし、
○十一代目高尾
万治高尾を二代とし、そのゝち高尾九代あり、(古き細見に依て時代を定め、古書にみえたる伝を抄録せられたる亡兄の遺稿あれども、いづれも平々たるものにて、さしたる事なきゆゑ、こゝにもらしぬ)十一代目高尾、異名を榊■高尾といふ、(はじめは、三浦やの太夫あげまきがかむろしづやといひしよし、此頃の細見の評にみゆ)新吉原の茶屋小田原屋又兵衛、此高尾の身請証文を所持す、今より四十余年前一覧しける時、全文を写しおきぬ、年号は寛保元年辛酉六月四日、日本橋檜物町二丁目貰主久兵衛、吉原揚屋町請人和泉屋清六、とあり、実は或貴人贖ひ玉へり、高尾出廓の時、大門へ盛り砂をなし、行体美々しかりし事、委しく泡影記に(元禄元年より延享元年までの記録、写本)見えたり、此高尾が事につけて、巷説紛々なる騒ぎありしゆゑに、吉原に高尾といふ名をはゞかりしか、十一代にて高尾の名絶たり、
○三浦屋栄枯
三浦屋の先祖は、武家より出て、浪人ののち、娼家となり、万治以来盛んなりし事、世々の細見にも見えたり、今猶榧寺に魏然たる墓ありて、本堂には夫婦の(元禄中)木像も残れるをみても、家の栄へし事しられたり、然るに、十一代目高尾、寛保に廓を出しのちの細見をならべみるに、宝暦五年細見入相花には、三浦屋ありて、同七年の細見花橘には、三浦屋の在し所(代々京町二丁目の角)商家二軒の住居となりぬ、然れば、宝暦六年、三浦屋、武芸を好み、家に稽古場ありて、人にも指南する程なりしに、娼家の賤しきを恥、廓を去りて本姓を名のり、武家に帰りしとぞ、
○高尾大明神
今永代橋のほとりに在る高尾大明神は、かの船にて提切にあひし高尾が死骸の流れよりしを埋めし所といふは、普通の説なり、縁切の願をいのりて、しるしあれば櫛を納むとぞ、此外さま/\〃の説あれど、皆そらごとなり、寛明日記(寛永、明暦年中の日記、写本)に、山城国高尾明神を祀る所とあれば、高尾がうせざる以前よりこゝにある神社なり、然れども、五雑組にみえたる草鞋天王のためしもあれば、高尾とおもひて折らば、しるしあるべし、
○高尾が紋
初代は書見なし、二代目万治高尾は◎春慶院の墓にあるを証とす、三代目以下は□☆○数本の細見に見えたり、
○高尾を院曲に作りたる始
三世二河白道卯と題したる土佐節の院曲あり、(全五十二丁)是高尾を人形座にしたる始なり、其おもむきは、京の白河に住浮田左金吾時世といふ武士、斉藤兵衛尉定房の娘誰が袖にちぎりて、むことなりしに、是よりさき、絶間の番勝広、たが袖にいひよりしに、恋の叶ざりしをうらみ、左金吾むこ入りの夜、たが袖を奪はんとして得ず、其父を殺して逃去りけるゆゑ、左金吾、舅のかたきを討んとて、其坐より立さる、たが袖も夫のあとをしたひて家を出る、さて、左金吾はあづまに下り、深川に住て、浮世の介と名をかへ、かたきを尋る為に廓に入り、高尾になじむ、勝広も名を鬼貫とかへて廓に遊び、高尾に逢んとせしに、高尾、浮世の介あるゆゑ情をゆるさず、鬼つら是を恨みて、揚屋にて高尾を殺す、さて、たが袖もあづまに下り、夫をたづね橋場にいたり、紅葉のもとに新しき石塔あり、かたはらに鉦うちならして回向する僧あり、たが袖、墓のゆらいを尋ねければ、僧、是は高尾とて、浮世の介といふ人にふかくちぎり、しか/\〃の事にて鬼つらに害せられしを、こゝに葬りたるなり、我は道哲とて、浮世の介どのゝ事をしりぬ、とその本名をも語りければ、たが袖、さては我つまにかたらひし人かとて、回向しければ、高尾が幽霊あらはれ、遊女は罪ふかくしてうかびもやらず、と地ごくのくるしみを語る、道哲、三浦屋が家につたふる朝日のみだをいのりて、高尾得脱する所、四段目にあり、此狂言、すべてかの船の中の虚説をほのめかしたる文句一ツもなし、さて、此上るり本に作者も年号もなし、小伝馬町二丁目木下甚左衛門板、とあり、元禄十二年板江戸図鑑綱目の地本屋の部に、木下甚左衛門見えざれば、此上るりは元禄以後の物なる事明白なり、おそらくは、宝暦の中頃、高尾の名も三浦屋も絶しのちの狂言ならん、しかおもふよしは、三浦が高尾と名をあらはし、あげやにて切ころされ、幽霊のすがたをあらはし、地ごくにせめらるゝ事を狂言になし、諸人に見するは、三浦も高尾もたえたる時なるべし、在世にてあらば、はゞかるべき事なり、もしはゞからずば、代々つゞく高尾の名にきづ付る狂言なれば、三浦より、俗にいふしりをやりて、此狂言をやめさすべし、さあらば、此上るり本世に残るまじ、こゝをもて、宝暦中頃の狂言とぞおもはるゝ、然りとすれば、今より百余前は、いまだかの妄説はなかりしと見えたり、是高尾が病死を去る事の遠からざるゆゑなるべし、此のち三十年ばかりたちて、先代萩といふ上るり狂言あり、その本に、天明五年巳正月、作者高橋武兵衛、松貫四、吉田角丸、とあり、一部、京の事とす、今も歌舞妓狂言にてなす所の人名は、此上るりがもとなり、高尾が親里を豆腐屋とし、伽羅の下駄の事あり、高尾が妹、高尾が身がはりに立所の文句に、「おもひは二ツ三ツ又に、水ますばかりうきなみだ/\、なみだはみちのくの船もうかめん風情なり」、又「へだつる母をおよびごし、たぶさつかんでさげ切に、首をはつしと打おとす」、又「しかし難義は高尾どの、若輩のそれがしが、一所につれて立のかば、高尾がま事にかたらひしは重三郎と流布せんか、それとても忠義ゆゑ、さゝいな事はかへりみず、佞人ほろびそのゝちは、道哲と名を改め」、是らの文句あるをおもへば、前に引たる土佐の上るりありし宝暦より、此上るりありし天明まで、五六十年の間に、一犬虚に吼て、万犬実をつたへしならん、此上るりののち、歌舞妓にて、高尾丸の所を増補なして大あたりせしゆゑ、ます/\虚説を演装して世をまどはしゝは、憎むべし、されど、前に引たる良方の確証湯を飲ば、いかなる劉氏が酔も醒むべし、とこゝに筆を払ふ、
嘉永二年已酉二月廿五日 八十一翁京山人百樹
(中央公論社刊『続燕石十種』第三巻を底本としました。)
近世江都著聞集
近世江都著聞集(きんせいこうとちょもんじゅう)
巻五
三浦遊女薄雲が伝
晋其角句に、
京町の猫通ひけり揚屋町
此句は、春の句にて、猫通ふとは申也、(猫サカル、猫コガルゝ)おだ巻の初春の季に入て部す也、京町の猫とは、遊女を猫に見立たる姿也といふ、斯有と聞へけれども、今其角流の俳諧にては、人を畜類鳥類にくらぶるは正風にあらず、とて致さず、此句は、元禄の比、太夫、格子の京町三浦の傾城揚屋入の時は、禿に猫を抱させて、思ひ/\に首玉を付て、猫を寵愛しけり、すべての遊女猫をもて遊び、道中に持たせ、揚屋入をする事、其頃のすがたにて、京町の猫揚屋へ通ふ、と風雅に云かなへたりし心なるべし、其比、太夫、格子の、猫をいだかせ道中せし根元は、四郎左衛門抱に薄雲といふ遊女あり、此道の松の位と経上りて、能く人の知る所也、高尾、薄雲といふは代々有し名也、是は元禄七八の頃より、十二三年へ渡る三代薄雲と呼し女也、(近世板本に、北州伝女をかける、甚非也、但し板本故、誠をあらはさゞるか)此薄雲、平生に三毛の子猫のかはゆらしきに、緋縮緬の首玉を入、金の鈴を付け、是を寵愛しければ、其頃人々の口ずさみけると也、夫が中に、薄雲に能卯なつきし猫一疋有て、朝夕側を離れず、夜も寝間迄入て、片時も外へ動かず、春の夜の野ら猫の妻乞ふ声にもうかれいでず、手元をはなれぬは、神妙にもいとしほらしと、薄雲は悦び、猶々寵愛し、大小用のため、かわや雪隠へ行にも、此猫猶々側をはなれず、ひとつかわやの内へ不レ入してはなき、こがれてかしましければ、無�是非�其通りにして、かわや迄もつれ行、人々其頃云はやし、浮名を立ていひけるは、いにしへより猫は陰獣にして甚魔をなす物也、薄雲が容色うるはしきゆへ、猫の見入しならん、と一人いひ出すと、其まゝ大勢の口々へわたり、薄雲は猫に見入れられし、といひはやす、三浦の親方耳に入て、薄雲に異見して、古より噺し伝ふ訳もあり、余り猫を愛し給ふ事なかれ、と云、薄雲も人々の物語の恐ろしく思ひ、寵愛怠りけれども、猫はたゞ薄雲をしたひ放れず、人々是を追放しければ、只悲しげに泣さけび、打杖の下よりも、薄雲が膝もとはなるゝ事を悲みけり、殊にかわやへの用たし毎に、猶も付行ける故、人々度々追ちらしけれ共、したひ来るゆゑ、いよ/\此猫見込しならん、と家内の者寄合相談して、所詮此猫を打殺し仕廻んとて、手組居る処に、薄雲ある日用達しにかわやへゆきしに、何方よりか猫来りて、同じくかわやへ入らんとするを見付、家内の男女、追かけ追ちらさんとす、亭主脇差をぬき、切かけしに、猫の首水もたまらず打落す、其首とんで厠より下へくゞり、猫のどうは戸口に残り、首は見へず、方々と尋ねければ、厠の下の角の方に、大きなる蛇の住居して居たりし其所へ、件の猫の頭喰付て、蛇をくひ殺していたり、人々きもをつぶし、手を打て感じけるは、是は、此蛇の厠に住て薄雲を見込しを不レ知、とがなき猫に心を付、斯く心ある猫を殺しけるこそ卒忽なれ、日比寵愛せしゆゑ、猫は厚恩をおもひて如レ斯やさしき心ねなるを、しらず殺せし事の残念さよ、といづれも感を催しけり、薄雲は猶も不便のまして、泪を流し、終に其猫の骸を道哲へ納て、猫塚と云り、是よりして、揚屋痛ひの遊女、多くは猫を飼ひ、禿にもたせねばならぬやうに、風俗となりしとなり、
山本勝山が伝
京町二丁目山本助右衛門抱にかつ山といふ遊女あり、是はさん茶女郎なれども、心いとやさしく、敷島の道にかしこく、まことになさけふかしとかや、其頃の俳師嵐雪が句に、
石女の雛かしづくぞ哀れなり
此句は、元禄二年三月上巳の折から、山本の抱勝山が座舗を見れば、雛祭りの調度とり並べたる有、夫雛祭は、女に生れ出ては、人に嫁し子をもふけて、其子孫の永く伝はるをもつて要とす、故に、子なきを去ると云本文あり、女として子をもふけざるは、浮世の恥の第一とす、雛はひな鳥にて、たまごより初て小鳥と成しを云也、傾城は子なしといふなれば、此ものゝ雛かしづくをあはれみし嵐雪が風雅、尤むべなり、此勝山は、遊女ながらもこゝろざし実にして、物ごと浮気なる事なし、仏を信じ、見せ女郎なれば、昼夜にかぎらず、役所に居る時は、夏花をつみ、夏書をして、しとやかなりし女也とかや、されば、髪の結様を一流工夫して、世上多く時花りて、勝山むすびと名付け、其風至極寛にして、伊達ならず、後は、諸侯、太夫の室も是をまなび、今専ら士農工商の女房、娘、勝山と云髪を用る事也、其比、官庁の奉行に甲斐庄何某といふ人、此勝山に馴初て、多く金銀を費し、綾羅の山を築き、金銀の階をかざる、其みぎりは、朝鮮国の島ひよ鳥、甚だ払底なりし名鳥を一羽、金の横わたし、銀の細ひごにて結構にこしらへたる鳥籠の中へ入れて、是は珍ら敷鳥にて、大名、高家の手にも入る事難し、子細ありて奉行の勢ひにまかせ得たるが、其方へ遣すとて、甲斐庄某より給りけり、勝山これを悉くおもひ、悦びて家内の人々にちくと見せて、其後に我座敷へ持来り、鳥に向ひ申けるは、
いよ鳥ヨ/\、汝はかくのごとき金銀の籠に入て、人々の寵愛不レ浅、天晴仕合もの也、果報めでたしなどゝいふ人あれども、我ひとり汝が心をしり、此勝山が身をつみて、げにもあはれを知るぞかし、廓に年をおくる身は、籠中の鳥のごとく、身綾羅をまとひ、よろづにきらを尽すとも、憂川竹のとらはれ同前にして、かれも王昭君がごとくに胡国の質となり、七珍万宝くらからずとも、心に任かせぬ住居なれば、たとへ花の都も、其身には鬼界ケ島とも思ふべし、我身を籠の鳥にくらべて、此鳥も金銀の籠何とて嬉しかるべき、汝が心を察せり、さぞや大ぞらの恋しかるらん、我がふるさとのゆかしきに思くらべて、
とて、籠の内より彼鳥を取出し、はるかの空へ逃しやりし心の内、情有りて、いか計りか清し、兼好のつれ/\〃草に誉たりし許由といふ者のなりひさご捨しも、今勝山がいきかたにはしかじと、兼好現在ならば称美あるべきに、と称歎して書記す、
茗荷屋奥州が伝
晋子集に、
暁の反吐はとなりか郭公
此句は、其角の名高き句也、句のこゝろ子細有、表一通りにてすますべし、唯後朝の吉原の暁の、酒の名残り過たる体と見て可也、夫について内証あり、子細は、江戸町茗荷屋の奥州といへる傾城、其頃名高く、きゃく座配、心立等なをざりならずと、万客にしたしく勤むといひ、情け能くしりて、甚誠深く、その夜/\の客を、たとへ初会にても至極大切にして、馴染の客来りても、初めに上りし客を貰ふ事更になく、一夜の夫と客を我が仏と尊び、女房の貞実をつくして、他に心をかたむけず、客を介抱し、いかなる不男にても、是を疎略にする事おろそかならず、伝へ聞難波の夕ぎりは、此道の情しりと申けれども、おさ/\此奥州には及ぶまじとぞ申ける、或時、初会の客の酒を過して、大きに酔病しを、其介抱幾年を馴染し女房も及ぶべからず、其客暁に大きに吐却しけるを、禿其外の者にもしらせず、自分一人して取賄ひ、いたはりける、其客しかも不男にして、女の情を通ずる迄にも有るまじけれども、如レ斯事ども也、中々かゝる全盛の女郎、何とてかく致すべきや、うるさくきたなしとて罵りさみすべきを、却て外の人のしらざるやうにいたはりし事、遊里第一の希れもの、やさしき最上と、晋子是を称美して、郭公の珍らしきにも勝れし也と云心にていはれし所の名句也、扨此奥州が為レ持たる挑灯は、紋を付ずして、かなの文字にて、
てれんいつはりなし
と書て、中之町揚屋町へも出したり、それ、人の紋は其身の体を顕はし体を照すと云也、俗にも、生るゝ子の衣胞に親の定紋をあらはすと云、然れば、奥州が本心の体は、来る客ごとにてれんいつはりなしといふ本体を、挑灯にあらはし照すといふ心なり、誠にむべなる女郎なり、
蔓蔦屋玉琴(傍注:菊カ)が伝
ばせを翁の句に、
辛崎の松は花より朧にて
是は、孤松のみさを朧夜の花よりもと、かはらぬ松の位を称しての句也、其松の位にはあらねども、心は花より朧、辛崎の松におとらぬと云心なり、扨、つたやの玉琴といふ遊女は、心ばせ実有て情深く、愛こぼるゝ計りなり、詞づかひならぶかたなく綺麗にて、かり初にも片言をいはず、てにはりつぱに、ものいひ遊女めかず、と其頃世上に噂しけると也、鏡の柄の中へなぎの葉を入る事は、此玉琴が仕始しより、今のたしなみのことゝしけり、玉琴は、遊女の習ひ、勤の起請、誓紙の神かけて、馴染し客へ疎略なくいつはらぬ証拠に、鏡は誠を以て移すものなれば、女の魂同前たり、ちかづく客へそまつせまじき、と神に約する起請の梛の葉、此葉は豆州大権現の神木にて有レ之よし、伊豆箱根の権現は、起請、誓紙の守神にて、別てちかいを守ることの御神なりと聞て、如レ斯にしける也、此玉琴、さかんの年に病の事あり、親方も労りて、色々医師を付療するといへども、不レ叶して終に冥途の客となり、生年二十五歳也、竹婦人が水調子といふ浄るりを作りて、親方蘭州が音曲して、其跡を弔ひぬ、されば、文句に、二十五げんの玉琴、ともかけり、誠に其情深き女なりけるとなん、
(中央公論社刊『燕石十種』第五巻を底本としました。)
巻九
佐野次郎左衛門、万字屋八橋両伝
紫野の祇空と云俳諧師の発句に、
九年何苦界十年花の春
此句は、半面遊女達磨の画の賛なりしとかや、達磨の九年面壁といふより、見世女郎の苦界十年の浮勤の、能こらへしのびし心のねれたる所は、心の波の静に、阿波のなるとの風もなく、静謐の最上と成をこそ、俳諧のすがたと云なるべし、世の中の男女、此心を能く弁へば、物ごとにあらそふ事なく、ゆたかにしていかりを生ぜざるこそ、生としいけるものゝ修行すべき事ぞかし、元禄の比、下野佐野の産に次郎左衛門といふ人あり、佐野の里にて、大成る身上にて炭問屋をいたし、分限者大臣と呼れしが、いつしか江府へ出て、乱舞遊興をことゝして、不斗新吉原へ通ひ始て、角町中万字屋の八橋といふ遊女にあひかゝり、大金をついやし、深くはまり、沖こぐ舟の楫をたへ、うつゝなくまよひ、恋慕のやみ、誠に、此道の十寸穂は、艶道通鑑に書る、八橋といへる傾城に、杜若といへる者通ひくるひて、心に雲手の物を思ふとぞ口ずさみけり、又、八文字屋自笑が禁短気に、色は唯慰みのことゝ書しは、至極の格言也、町人、百姓の、一旦は女色にふけり、遊女傾城にはまりても、只なぐさみと計り心得る時は、深くはまらず、賢を賢として色に替へよ、と論語にもあれば、色をこのむ程に賢なる道を好めとかや、色には命をおとしたる人多し、賢には力をさへつくす人なきを、賢聖の人はなげかれしぞかし、扨、佐野次郎左衛門は表徳を杜若と云しと云も、八橋といふ傾城にあふといふ心なるべし、新玉の初買より、桃柳月雪花と登りつめしが、終に在所の身代みぢんにして、借金夥しく、田畑も皆売払ひ、こと/\〃く身貧になりて、今は中々遊里の道もたへ/\〃に成りにけり、傾城八橋も、今迄佐野の次郎左衛門がいろ/\こゝろを尽せしを、わりなくは思ひけん、なれども、勤の身のせん方なくや、又は外に移る心の花や誘ふらん、今は誠の心も薄く、身すぼらしきをうるさくおもふ程成しかど、次郎左衛門は猶々りんゑのきたなくも、折節毎に廓へ来り、中の町に彳、八橋が道中に行かゝりては物などをいひかけ、執着の心を通しけれ共、八橋是をうるさく思ひ、逃隠れする様にせしこそ情なけれ、次郎左衛門おもひけるは、我渠に心を尽し、身上はたし、今かく零落たり、然るに、今情なくすべき様や有、誓紙のことは、秋の夕べの起請の文、おもひ出して、いとゞ猶傾城の偽り多を知りながら、うか/\とはまりし事の無念さよ、伝へきく、大坂の夕ぎりは藤伊が紙子あみ笠の風の神とあやしまるゝ程の身にさへ心をつくし、或時、道中にて、藤伊夕霧に行合しに、伊左衛門立留り、夕霧が袂へすがることの葉に、むかしに替らぬ夕霧がやさしき挨拶、今まづしくしてくらしまします所は何国などゝ、大仏の馬町の隠れ家まで聞届け、其後はいろ/\と心をつくせしとかや、大勢の人中にて、伊左衛門は夕ぎりが心を引見んとやおもひけん、前巾着より銭一文を取出して夕霧へ遣し、是は先年我盛なる時送りし金何百両とも思ひたまはるべし、今の身にては此一文銭こそ大切なり、とて出しける、中々に等閑の女郎なれば、此時大きに赤面して当惑すべきに、さすがの夕霧なれば、少しもおくめんなく、件の銭を押頂き、忝し、藤伊様の御こゝろざし、と金入の紙入へいれて、大事そうにして揚屋入をせし段は、夕ぎり伝記の最上に誉る所ぞかし、其後、夕ぎり身請とて、又金を持せきたり、藤屋の手代共大勢来りて、夕霧を引抜き、くるわを出んとする時、夕ぎり其子細を尋ぬれば、藤屋の手代申けるは、夕霧殿の心底藤伊の能く知らるゝ所なれども、久しく落ぶれられし内に、心替りをしられしやとうたがひおもふ折節、此度、大屋の婦妻として、其心底を見定めずしてはいかゞなれば、藤伊の勘当ゆりたる事を、其元へ隠して、最初の通りにはからひし所、遖れのみさほ、驚き入、はじめにかはらぬ御心なれば、則今身請して引取也、と申給ふぞ、我身心替りもあらんかと御うたがひ有ての事とや、左も有るべし、それ傾城に誠なしといへども、それは知らぬ人の申事也、来る客の心に誠ある時は、傾城の始のうそ皆後は誠となり、傾城の誠も、来る客の方より中絶る時は、始の誠うそと成ぞかし、うそも誠も縁の有こそ誠ぞや、と京のわらんべのふし付て、万治、貞享の比、夕霧が言葉とて諷ひしを聞給はずや、然るに、左様御疑ひ候ては、女の誠は却て知れまじき也、女はあまりうたがはれては、不縁のもとひとなるべし、くらがりの行水、雪のあしたの足跡、と古より伝へ候、男の疑ひ多きは、不縁の始に候へば、身請なされ参り候ても、末調ふべきやうあらじ、とて頓て夕ぎりは断を立、藤伊が方へ行ずして身まかりけるとかや、然れば、此傾城のみさほと、今の八橋が心の違ひ、誠に雪とすみにてこそあれ、と佐野次郎左衛門は八橋を恨みけるこそ道理也、斯て或時、佐野の次郎左衛門は、又中の町にて八橋に出合けるが、又ひた/\とすり寄て、いかにそなたは、何と申て斯情なくもやさしき詞をかけ給はざるぞ、其方ゆへにこそ斯はなりたり、などゝ泪ぐみて語るを、八橋は次郎左衛門が体たらくの見ぐるしきにや恥たりけん、一言の返答もなく通り過るを、次郎左衛門は、男に飽まで物いはせ、いらへもなく過る事、言語同断の義理知らず、と立腹して、猶もしたひ行ければ、やりて、禿は、八橋を守護して、彼等にかまひ給ふな、とつぶやき、中の町の茶屋蔦屋佐次右衛門が方へ入、二階へあがらんとする所を、引続き次郎左衛門飛で入けるが、一刀抜きはなし、己れ男に恥辱をかゝせぬる事こそ遺恨なれ、今ははやのがし難し、恨の刃請取れ、とはつしと打、八橋は階子の中段迄上りしが、腰車に切放され、腰より上は階子に両手をしがみ付て切はなされ、腰より下は茶屋の庭へどふと落たり、次郎左衛門刀は備前国光の大わざものにて、名を籠釣瓶となづけたるとかや、其作水もたまらずとの縁なるべし、夫より次郎左衛門屋根伝ひに逃んとや思ひけん、二階へ上り、物干伝ひ、中の町大門より左側を上の方へつたひ行、五町の者ども大きに騒ぎ立、やれのがさじと、棒ちぎり木、もじり、さすまたを以てひしめけども、彼わざものにて切立てなぐり立しゆへ、もぢり、さすまたといへども、水もたまらず、はす切にきつて落し、跡へも先へも、なか/\以て寄付事不レ叶して、かくては終に取逃さんとぞ見へにけり、さすれば後日の災と、下より手々に、二階物干庇しへ、むせうに水を打かけたり、次郎左衛門物干伝ひに逃行所に、爰に何屋の物干か、真木の多く積上げて、是にさゝへられて夫より先へ行れず、又跡へ取てかへさんとせし所に、最前よりの働きに、鉄石ならぬ事なれば、庇の水に足すべりて横ざまにこけたりしが、終にふみ留らず、大地へどうと落る所を、大勢おり重りて、終に縄をかけたり、公儀へ相渡し、御法の通り死罪仰付られ、相済けり、是より、中の町の物干御法度被�仰付�けるとかや、此事遥に隔りて、近年五町の人々申合、中の町へ物干を建おかば可レ然とて、表向より相願ひけれども、斯る訳ゆへ免許なかりしと云、
此事に付、享保の始にも、江戸町二丁目兵庫屋の高崎といふ遊女も、客の為に殺害せられし事あり、これも取交語る人あれども、八橋が事とは違へり、本書にいふ通り、知足軒が艶道通鑑にも、少しは書たり、近年も又、二丁目太田屋にて殺害せられし遊女あり、かれも客へ悪言せしゆへなり、これをば眼前に予見たり、其時の愚詠、
鬼灯に舌三寸のやぶれかな
斯口ずさみしも、おもへば似たる噺しといふべし、
(中央公論社刊『燕石十種』第五巻を底本としました。)
九桂草堂随筆
九桂草堂随筆(きゅうけいそうどうずいひつ)
広瀬旭荘著
(一部)
巻之三 (一部)
一 水野勝成ハ、藩翰譜ニハ、腹悪シキ人ノ様ニカキタレドモ、楢埼景忠ナル者、備後府中ノ人ニテ、大坂城中ニ籠リ、善ク戦ヘリ。勝成福山ニ入部ノ時、首ニ景忠ガ事ヲ問フ。土人大城ノ事、吟味ニナランカト恐レテ、既ニ死セリト云フ。千石ヲ取ラセント思ヒシニ、死シタルカト云テ、惜マレケルヨシ。人材ニ汲々タルハ、サスガ名将ナリトゾ。
一 一向ノ徒、参河ニ叛セシトキ、不学ノ弊ニテ、本佐州等ノ如キモ、神祖ニ背キタリ。其時確乎トシテ、迷ハザリシ人ハ、本多作左衛門ナリ。夫子ノ所レ謂剛者ハ、重次ニアラズンバ、当ルコトヲ得ズ。唯剛ノミニ非ズ、智モ亦絶セリ。其子ヲ豊公ノ方ニ遣ハザズ。又、神祖ノ城ヲ豊公ニ渡シ玉ヒシコトヲ罵リシモ、皆智ナリ。
一 一書ニ載、福嶋正則、愛妾アリ。一旦此ヲ謫メテ、広嶋ノ田舎ニ禁錮セリ。然レドモ妾ノ父兄ノ京師ニアル者ニ、贈リ物スル事、初ノ如シ。後正則信州ニ配セラルゝ時、妾ヲ京師ニ送リ返サシム。定メテ父兄ニ遭フ事ヲ悦ブナラント思ヒシニ、妾殊ノ外歎息シテ、広嶋ノ城ヲ過グル時、忽チ自尽ス。側ニ一書アリ。其父ニ金ヲ送リシ恵ミヲ謝シ、又一首ノ歌アリ。曰、ナガラヘバウキ名ヤ立ンオクレテモ吾ト心ノタノマレヌ世ニ。福嶋此ヲ聞キ、其待ツコトノ疎ナルヲ悔イケリトゾ。福嶋ハ、罪ヲ大府ニ得シ故、一概ニ兇暴ノ人ノ様ニ唱フレドモ、スベテ情アル人ニテ、美童ノ食ヲ盗ミシヲ誅セザルコトト、改易ノ時ニ所作ナド、尋常ノ武夫トハ異ナレリ。又一書ニ、黒田長政ヨリ、福嶋ニ使ヲ立テラレシニ、タトヘバ、今日間暇ナルニ付、相見致シタキト云フ様ノ口上ナリ。然ルニ使者半バ口上ヲ述ベ、忽チ止メテ曰、某君命ヲ忘レタリ。暫ラク思案スベシト云。福嶋、ナルホド尤ノ事ナリトテ、茶ナド出サセ、緩々考ヘタマヘト云。使者沈思良久シテ、思出シタリトテ、又前ノ口上ヲ述ベシニ、唯一通リニテ、ムツカシキ辞ニ非ズ。使者去テ後、福嶋ノ臣、一統ニ其迂魯ヲ誹リ晒ヘリ。福嶋独リ感心シテ、彼タヾ者ニ非ズトテ、長政ニ薦メテ、ヨク此ヲ遇セシム。人其故ヲ問フ。福嶋答ヘテ、アノ位ノ口上ハ、タレモスラ/\ト述ブルコトナリ。然ルニ彼レ苟モセズ、喩ヘバ間暇アルニ付今日云々ト云様ノ処、今日ノ字ノ置所ヲ忘レタリト見ユ。何ト云テモ、辞ニチガヒハナシ。然ルヲ是非君ノ云ハレシ通リヲ述ベント欲スルハ<所謂暗室ヲ欺カザル気象ニテ、末頼モシキ者ナリト云。其後右ノ使者名臣タルヨシ。又一書ニ載、福嶋、阪崎出羽守ハ不情ニシテ、必敗ヲ取ル者ナリトテ絶交セリト。然レバ唯情アル而巳ニ非ズ、識モ亦アル人ナリ。
一 加藤忠広ハ、愚人ノ様ニ云ヘドモ、庄内ニ配セラレシ後、彼地ヨリ豆ヲ肥後ノ故人ニ送リテ、此豆西州ニハ産セザルヨシ、肥後ニハ、必土地ニ相応ズルナラント云ヒシニ、果シテ肥後ニテ繁滋シタルヨシ。然レバ農事ニモ心ヲ留メタル人ニテ、一概ニ伝ル様ニモアルマジク、其亡モ、福嶋ト同ク豊臣氏ヲ念フヨリシテノ事ナルベシ。
(『続日本随筆大成』第二巻所収を底本としました。)

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